ピンカー『思考する言語』解説といういより雑感


 西洋の文化は、プラトンの霊魂不滅の哲学とキリスト教の影響から、言語は神と同等の超越的な存在で、人間の精神そのものだという考え方が根強い。

 また、日本も明治以降の西洋崇拝から、知識人の間には日常生活の原理とは別に、建前としてそういう哲学を取り入れなければ恥ずかしいだとか、世界の孤児になるだとかいう意識も少なからずあったと思われる。

 そんな中で、スティーブン・ピンカーの著作は、外人臭さを感じないというのか、進化論も当たり前のように受入れ、人間と動物との間の絶対的な断絶を主張するわけでもなく、時代に伴う言語の変化も容認し、むしろ私などには唯一常識的な言語学者という印象を受ける。

 この文章は、そんなピンカーの著作を、ただ解説するのではなく、自分自身の感じたことを色々付け加えて書いている。大事なのは教義を学ぶことではなく、読者がそれぞれ自分の頭で考える習慣を身につけるところにある。

 なぜなら、ピンカーの「言葉」は決してわれわれの思考を決定するものではないからだ。

 タイトルの原文はThe stuff of thoughtで、直訳すれば「思考の素質」となるだろうか。人間には遺伝的に様々な思考の素となる資質が具わっている。それを言語を通じて探求していこうというのが、この本のテーマといっていいだろう。
 ところで、このタイトルを「思考する言語」と訳したとき、若干の混乱が起こる。
 思考する言語──この日本語は「思考するときの言語」とも取れれば、「思考する主体としての言語」という意味にも取れる。後者の意味に取ってしまうと、この本の趣旨とは矛盾してしまうことになる。つまり、言語が思考を決定するというサピア・ウォーフの仮説を、この本は否定しているからだ。言語は思考したりしない。人間は思考したことを言語を使って表現しているのである。
 というわけで、「思考する言語」はあまり良い訳とはいえない。これには、『「ことばの意味」から人間性に迫る』というサブタイトルが付いていて、これを生かすにしても、『思考の資質─「ことばの意味」から人間性に迫る─』くらいの訳の方が良かったのではないかと思われる。

第一章 言葉は世界をどう捉えるか

9・11同時多発テロ事件はいくつの事件か?

 

 「だが私が取り上げたいのは、9・11が誘発した議論の中でも、あまり知られていないものだ。あの九月の朝、ニューヨークで起きた事件イベントは正確にいくつあったのか、というものである。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.16)

 

 周知のように、ニューヨークで起きた事件というのは世界貿易センタービルに二機の旅客機が突っ込んだ事件を指す。
 この二機の旅客機が、同じ一つの意図の下に突っ込んだという意味では一つの事件だといえる。
 これに対し、一機目はツインタワーの北棟に、二機目は南棟に、それぞれ別の場所に衝突しているし、その間に17分の間がある以上、二つの事件は別々の事件だともいえる。
 どっちでもいいことではないかと思うかもしれないが、人によってはこれは35億ドルもの大金の掛かった大問題だった。

 

 「これは、世界貿易センタービルのリース権を保有していたラリー・シルヴァースタイン氏が起こした裁判で争われた金額である。シルヴァースタイン氏のかけていた保険では、『一件』の損壊について支払われる額が定められており、もし9・11が一つの事件だとみなされれば彼の受け取る保険金は35億ドル、もし二つの事件だとみなされればその倍の70億ドルとなるはずだった。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.17)

 

 事実は一つでも、人はそれを様々な意味で受けとめる。そして、その受け止めた意味の違いから、さまざまに違ったふうに言い表す。
 どちらも嘘をついているわけではない。なのに同じ事件を、ある人は一回だったと言い、ある人は二回だったと言う。

 そして、その結果如何によっては、何百億もの金が動くこともあれば、多くの人命にかかわる場合もある。

 「その一つの例が、この9・11同時多発テロ事件にかかわる、ブッシュ大統領の発言だ。

 The British government has learned that Sadam Hussein recently sought significant quantities of uranium from Africa.(イギリス政府はサダム・フセインが最近、アフリカから大量のウランを入手しようとしたことをつきとめた)

 この文は2003年1月、ジョージ・W・ブッシュ大統領が一般教書演説のなかで述べたもので、サダム・フセインが『イエローケーキ(ウラン精鉱)』500トンを西アフリカのニジェールから購入しようとした可能性があることを示唆する情報報告を指している。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.24~25)

 周知のように、実際このような事実はなかったことが、後になって明らかにされた。これによって様々な方面から、「ブッシュは嘘をついた」と言われるようになった。
 だが、実際にイギリス情報当局は、フセインがイエロー・ケーキを入手しようとしていたと考えていた。そこに嘘はない。
 問題はそれを伝える際に「learn」という言葉を使ったからだという。
 learnは日本では中学校で習う単語で、「勉強する」という意味で習うが、これには「つきとめる」という意味がある。

 

 「learnは、言語学で「叙実的動詞」と呼ばれる動詞であり、補文の内容が真実であることを前提としている。その点ではknow(知る)という動詞と同類であり、think(思う)とは異なる。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.26)

 

 たとえば、「イギリス情報当局は、フセインがイエロー・ケーキを入手しようとしていたと考えていた」という文章だったら、「考えていたけど実はそうではなかった」と付け加えてもかまわない。
 しかし、「イギリス情報当局は、フセインがイエロー・ケーキを入手しようとしていたことをつきとめた」だったら、「つきとめたけど違っていた」と付け加えてしまうと間抜けな文になる。それなら「つきとめてないじゃないか」ということになる。
 同様に、「イギリス情報当局は、フセインがイエロー・ケーキを入手しようとしていたことを知ったけど、実は違っていた」ではおかしい。知ってなかったということになってしまう。
 「イギリス情報当局は、フセインがイエロー・ケーキを入手しようとしていたと考えていたけど実はそうではなかった」ならば、「考えていた」という事実が否定されることはない。

 以上のように、learnが英語のネイティブの間では「つきとめる」という意味に受け取られる以上は、ブッシュは嘘をついたということになる。
 ただし、日本人の多くがlearnという単語からイメージする意味、つまり、「勉強する」「学ぶ」「教わる」という意味だとしたら、いわゆる叙実的動詞ではない。

 The British government has learned that Sadam Hussein recently sought significant quantities of uranium from Africa.

 これを、「イギリス政府はサダム・フセインが最近、アフリカから大量のウランを入手しようとしたことを教わっていた」と訳していいなら、ブッシュは嘘をついてなかったことになる。
 しかし、一般的にlearnが完了形で使われる場合は、「真実の情報を得る」という意味の叙実的動詞となる。

 実際に、人間が完璧な真実を知りうるのかどうかは、かなり難しい哲学的な問題になってしまう。つまり、絶対的真理は可能かどうか。
 それが不可能だとしても、人は信念をもって断言することをやめない。
 ブッシュがlearnという単語にそうした信念を込めて宣言した以上、そしてそれによって多くの死者を出す戦争に人々を導いた以上、その責任は取らねばならないだろう。

 

 「マーク・トウェインの次の文章は、叙実的動詞の意味論を巧みに利用している。『この世界の問題は、人びとがあまりにも知らなさすぎることではなく、真実ではないことをあまりにも多く知っていることだ』」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.27)

 

 結局恐ろしいのは、ソクラテスの言うように、「無知」を知らないということか。

「シェークスピア」は何を意味するのか

 叙実的動詞と同様かそれ以上に事実と結びついている言葉がある。例えば固有名詞だ。
 人名は生まれた時に一人の人に名づけられ、たとえその人間が死んだとしても、その人間以外のものを意味することはない。
 つまりそれは一般的な概念のような人間の頭の中にある何かを指示しているのではない。
 「シェークスピア」は何を意味するのか?と問う時、それはシェークスピア一般を問うのではない。実在したある一人の人物を意味する。
 しかし、そこにも絶対ということはない。

 「シェークスピア」は何を意味するのか?
 これはたとえば、日本でいえば「東洲斎写楽」は何を意味するのか?という問題に近いのかもしれない。
 シェイクスピアはイギリスを代表する劇作家であり詩人である。代表作には『ハムレット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』、『ロミオとジュリエット』、『ヴェニスの商人』、などがある。ここまでのことを疑う人はいないだろう。
 しかし、シェイクスピアに関する同時代の史料は乏しく、その情報の多くが後に書かれたものであるため、実は別の作者がいるという説が後を絶たない。
 フランシスコ・ベーコン説、エドワード・ドヴィア説、クリストファー・マーロウ説、エリザベス女王説の存在をピンカーは挙げているが、日本版ウィキペディアによれば、このほかにもヘンリー・ネヴィル説、さらには一座の劇作家たちが使い回していた筆名という複数説まである。

 仮にこれらの別人説の中のどれかが正しいことが判明したとしよう。
 すると、「シェイクスピア」は何か別の意味の言葉になるのだろうか。
 シェイクスピアが何をした人かというところでは意味が変わるが、その言葉が指し示す人物は変わらない。

 

 「実は名前は、他の語や概念や像を使って定義されるようなものではない。名前とは、ある存在物を指し示すものなのだ。世界の歴史のある時点でその存在物に名前がつけられ、以後その名前がそこにくっついているというわけである。したがって『ウィリアム・シェークスピア』という語は、その人物が生れた頃にシェークスピア夫妻によって名づけられた個人を指している。名前はその人物がやがて何をしたかには関係なく、また私たちがその人物について多くを知っていようと知らなかろうと、その人間に結びついている。ちょうど私が今、目の前にある石を指で指すのと同じように、名前はこの世界に存在する一人の人間を指しているのだ。名前は、今私たちが使う言葉と『命名』という最初の行為とを、途切れることのない『口コミ(あるいは「ペンコミ」)の連鎖』でつないでくれるという点で重要な意味を持つ。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.33)

 

 それは固有名詞に限らず、言葉というのは最初は必ず誰かが命名したのであり、誰も人間がいないところに言葉だけが最初にあったということではない。
 言葉は命名に始まり、それが口コミで広まり、受け継がれてきたことで、今の言語につながっている。  命名が今日でも脈々と行なわれていることは、毎年毎年おびただしい数の新語や流行語が登場しては消えてゆくことでも明らかであろう。

子どもの名前の流行りすたり

 日本だと、昔は何とか左衛門だとか、太郎兵衛だとか、何とかの助だとかいう時代があり、それが漢字二文字で太郎、一郎、次郎、正一、正雄という明治風の名前に変わり、大正時代になると清、茂、博、実、勇などの一文字名前が増えてくる。
 そして、昭和に入ると一文字名前が上位を独占するようになり、第二次大戦に入ると勝、勇、進、勲といった勇ましい名前が多くなる。
 戦後の高度成長期も基本的に一文字名前が多かったが、勇ましい名前は廃れ、誠、浩、豊、修、徹などが流行るようになる。そして、オリンピックを過ぎるあたりから、じわじわと二文字名前が増えてきて、○一、○也、○樹、○彦などが流行する。
 80年代になるとそのなかで○輔(介)、○太、○太郎、○平というちょっと古風なのが好まれるようになり、平成になると翔太、大樹、拓也という名前が流行する。そして、今の流行はというと、大翔、陽向、蓮など。
 女子の場合も、明治の頃ははる、きよ、よしなどの仮名二文字で、カタカナで表記することも多かった。それが大正から昭和にかけて「子」のつく名前の時代が続いた。
 高度成長期に入ると、そろそろ○子ばかりの状況に飽きてきたか、ちらほらと○美、○恵といった名前が増えてくる。そして、80年代に入ると急速に○子という名前が廃れて行き、愛、麻衣、彩といった名前が増えてくる。今は○菜、○衣、○優といったところか。
 中国では、オリンピック選手を見ればわかるが、二文字名前がほとんど姿を消しているし、韓国にも名前の流行はあるという。
 アメリカ人の名前は日本に比べれば伝統に従った名前の範囲内でつけることが多く、ジョンだとかジョージだとかウィリアムだとか、昔も今も変わらないように見えるが、やはり流行というのはあるらしい。

 

 「名前にもネクタイの幅やスカートの長さのように流行があり、そのため名前を見ればその人がどの世代に属しているかがわかることが多い。1930年代には「マレー」のほかに「アーヴィング」「シドニー」「マックスウェル」「シェルドン」「ハーバート」といった名前が流行したが、当時これらの名前にはアングロサクソン的な上品な響きがあった。その一つ前の世代に流行った。「モイシュ」「メンデル」「ルーベン」といったイディッシュ語の名前はいかにも古臭い響きがあり、それらとは一線を画していたのだ。だが、マレーやシドとその妻たちがどんどん子どもをつくってベビーブームが到来すると、彼らは自分の息子に「デイヴィット」「ブライアン」「マイケル」というもっと平凡な名前をつけ、そのブーマー世代が親になると、今度は「アダム」だの「ジョシュア」だの「ジェイコブ」だのといった聖書に由来する名前をつけた。そしてこの旧約聖書に出てくる名前をつけられた息子たちは、「マックス」「ルーベン」「ソール」などの名前を好んで子どもにつけており、流行のサイクルはまさに一巡しようとしている。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.38)

 

 名前は親の自由で作り出されているようでも、やはり一定の社会的な制約を受ける。つまり、あまり変な名前をつけると子どもがかわいそうということにもなるし、かといってあまり平凡でも面白くないし、回りがみんな同じ名前というのも困るから、ちょっと人と変えようという思惑が働く。
 しかし、このちょっと変わった、ちょっと新しい名前というのが、結局は同世代の人がみんな考え付きそうなものであるため、大体似通った名前が多くなる。
 みんなが明子、和子ではつまらないからというので、明美だとか真由美だとかつけてみても、結局明子、和子はちょっと前の世代に多かったというだけで、みんながちょっと違う名前と思うもんだから、いざ学校に通わせるようになると、明美や真由美が何人もいたりする。
 新語や流行語というのも、これに似たところがある。
 物事を強調する時に、江戸時代の人は「いとど」と言ったが、明治に入ると「すこぶる」と言うようになり、昭和に入ると「とても」が使われるようになる。それがやがて昭和の終わりごろから「ちょー」が使われるようになり、この言葉もそろそろ寿命が尽きようとしている。
 言葉は太古の昔から、こうしてちょっと新しい言い回しを誰もが工夫しているうち、少しづつ変わって行き、その中で消えてゆく言葉もあれば息長く残った言葉もある。こうして今に至っている。

スパムの語源

 昔は封書を用いたダイレクトメールというのがあったが、これは経費がかかりすぎる成果、最近はあまり見ない。
 パソコンと電子メールの普及とともに、それに代わって現われたのが迷惑メールで、出会い系かそれを装ったものが多い。
 ところで、こうした迷惑メールのことを何でスパムと呼ぶのか、あの沖縄料理でよく使われるランチョンミートの缶詰SPAMと関係があるのか、この本にはこう書かれている。

 「イギリスのコメディ番組『空飛ぶモンティパイソン』第25話にこんなスケッチがある。老夫婦が大衆食堂に入ってウェイトレス(モンティ・パイソンの一人が扮する)にメニューを尋ねると、ウェイトレスはこう答える。

 えーっと、あるのはベーコンエッグ、ベーコン・ソーセージエッグ、スパムエッグ、ベーコンエッグとスパム、ベーコン・ソーセージエッグとスパム、スパム・ベーコン・ソーセージとスパム、スパムエッグ・スパム・スパム・ベーコンスパム、スパムソーセージ・スパム・スパム・スパム・ベーコンスパム・トマトとスパム、スパム・スパム・スパムエッグとスパム、スパム・スパム・スパム・スパム・スパム・ベークトビーンズ・スパム・スパム・スパム、それからロブスター・テルミドール。これはプロヴァンス風のエビのモルネ・ソースのエシャロットとナス添えのことで、付け合せはトリュフ・パテとブランデー、目玉焼き、そしてスパムです。

 『バカバカしすぎる。やめてくれ!』と思われる読者も多いだろう。だがまさにこのコントが英語を変えたのだ。『スパム』という言葉がやみくもにくり返される児のコントが、80年代後半のハッカーたちにインスピレーションを与え、同一の内容のEメールを大量送信するという意味の動詞として使われるようになった。そして、10年後、『スパム』は彼らのサブカルチャーから一般社会へと広がり、市民権を得たのである。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.43~44)

 

 日本版ウィキペディアによれば、このあと他の客(バイキング)がスパム・スパムと歌いだし、スパムが果てしなく増殖していったという。(空飛ぶモンティパイソン第25話のシナリオは以下を参照:http://python-airways.cside.com/sketch/25-spamspam.htm)  『空飛ぶモンティパイソン』は日本でも放映されたが、残念ながら私は見てなかった。だが、こういうハイセンスな笑いは、後の日本のお笑い芸にも影響を与えた可能性はある。ウンナンのファミレスネタにも通じるものがある。

ののしり言葉

 同じものを指し示すにも、それに対して込められた感情によって、言葉は変化する。

 

 「つまり、言葉には明示的意味だけではなく、暗示的意味があるということだ。暗示的意味とは何かを説明する際には、1950年代に哲学者のバートランド・ラッセルがラジオインタビューのなかで発案した活用の公式がよく使われる。これはたとえば、『私の考えは揺るがない、あなたは頑固だ、彼は石頭だ』という具合に基本的には同じことを三種類に言いかえるもので、当時ラジオ番組や新聞の特集でゲームとして取り上げられ、何百種類もの組み合わせが生れた。『私はスマートだ、あなたはやせている、彼はガリガリだ』『私は完璧主義者だ、あなたは潔癖症だ、彼は執着魔だ』『私は自分の性欲の可能性を追求している、あなたはプレイボーイ/ガールだ、彼女は尻軽女だ』などなど、どの組み合わせも、字義通りの意味は同じだが、感情的なトーンは好意的、中立的、侮蔑的とそれぞれ異なっている。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.46)

 

 つまり、同じ現実を見ていても、愛があるかどうかで見方は変わってくる。

 「愛があるかどうか、さ。‥‥相手に愛を感じてるかどうかで、ものの見方はまったく違うってことなんだ。好きな人が貧しい人に施しをすれば、尊敬できるだろ?でも嫌いなヤツが施しなんて始めたら、売名行為だとかバラ撒き行政だとか、非難轟々さ。
 何をしてもしなくても、愛があれば感謝し、愛がなければ非難する。それが世の中ってもんなんだ。」(竜騎士07のサウンドノベル・ゲーム「うみねこのなく頃にEpisode 4」より)

 特に、突然口から、性や排泄や宗教にかかわる言葉が飛び出し、感情を爆発させる「ののしり言葉」は、叫び声や鳴き声を司る脳の古い皮質と人間の新しい皮質の言語とを結んでいる。

 

 「こうした感情をはらんだ言葉の爆発は、脳の進化的に非常に古い部分から出てきているらしい。言ってみれば犬が尻尾を踏まれてキャンキャン鳴いたり、見知らぬ犬を威嚇しようとしてうなり声を上げるようなものだ。トゥレット症候群の患者が、特有の症状であるチックの一種としてこうした言葉を発したり、神経障害のために言葉が不自由な人に、わずかにこうした言葉が残ることもある。だが一見原始的なルーツを持つようにみえるののしり言葉も、音声自体は英語の単語で構成されているし、発音も英語の音声パターンに完全に合致している。まるで進化の過程で人の脳に、、叫び声や鳴き声を司る古い皮質からのアウトプットと、明確な話し言葉を司る新しい皮質へのインプットをつなぐ配線がなされたような具合なのだ。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.47)

 

 言語の根底には、動物の鳴き声から受け継がれた感情の爆発があり、その上に、物を名指したり思考を伝えたりする言語が乗っかっているのだろう。
 それが、一見客観的で冷静な叙述の背後に、様々な感情を引喩させることになるのかもしれない。

ほのめかし

 これは、言葉が感情の波の上に乗っかっていて、ある言葉を発することで、常にその背後にある感情を相手は想像することになる。
 たとえば、「どんな単語も必ず最初は誰かが命名した。スパムという言葉がある時期突然モンティパイソンのインスピレーションから生れたように。」と言ったとする。
 この言葉は、言葉が神であるだとか、言葉には魂があると信じ、言葉は誰が作ったものでもなく、むしろ言葉が人間を造ったのだと信じる人たちからすれば、きわめて悪意のある、侮蔑的な言動に響くかもしれない。
 こやんはわれわれが生きるよりどころとしているものを根底から否定し、われわれから生きる意味を奪い去り、死に至らしめようとしている、ゆえに、どんなことがあってもこの言葉を受入れることはできない、そう思うかもしれない。
 そして頭から湯気を噴出し、頭ごなしに私のことをののしり始めたとしても、何ら不思議なことではない。
 言葉は単に事実やある種の思考を表現しているのではない。そこから人は常に、隠された感情を推測する。
 そのため、日常生活のなかで、物事をはっきり主張することはタブーとされている。
 たとえば、「どんな単語も必ず最初は誰かが命名したんじゃないかなぁ。スパムという言葉がある時期突然モンティパイソンのインスピレーションから生れたみたくさぁ。何かそんな説をどこかで聞いたことがあるんだけど」くらいに留めておくと、相手もその言葉に対しいくらでも否定する余地が残されているし、相手が真っ向から自分の意見を否定しようとしているのではないと判断できる。
 自分の主張を疑問視する、他人の説であるかのように言う、そのことで自分が心底あなたの意見を否定していないという、少なくとも形の上ではそう取れる余地が残る。
 「俺はこう思う」というと、自分の主張する思考内容から、相手は自分に対して抱いている感情を推測せずにはいられない。つまり、自分の信念が真っ向から否定されているのは、相手が自分に対し悪意というか殺意すら抱いているのではないかと勘ぐる。
 そこを「俺的にはこうなんだけど」といえば、自分の主張があくまで個人的な思いつきにすぎず、客観的な真実ではないため、あなたの意見を拘束するものではない、しかも、その内容も自分では疑問視していて、考えをひるがえす可能性もあることを示唆できる。
 こういう言い回しは、事を荒立てないようにする生活の知恵と言ってもいい。
 ピンカーは「ワカモレ取ってもらえたら、すごくうれしいんだけど」という文章を例に取っているが、メキシコ料理のアボガドソースであるワカモレは日本ではそれほどメジャーでないので、これを「ちょっとそこの醤油とってもらえたらうれしいんだけど」に置き換えてみよう。
 これは要するに「醤油取ってくれ」と言っているわけだし、相手が目下であればこの言い回しでいい。あるいは仕事上醤油のケースをこっちへ持ってきてくれという場合など、いわゆる業務命令であればこの言い回しでもいい。

 

 「ヒントになるのは、ディナーのテーブルの丁重な頼み言葉──言語学者はこれをwhimperative[whimper(弱々しい声で訴える)とimperative(命令法)の合成語]と呼ぶ──だ。そうした頼みごとをするとき、あなたは当然、相手がそれに従うことを前提にしているが、相手が使用人か家族でもない限り、顎で使うようなわけにはいかない。でも、ワカモレはどうしてもほしい。このジレンマから抜け出すために、あなたはそれを間抜けな疑問形にしたり(「‥‥できますか?」)、無意味に思いをめぐらせたり(「‥‥してくれないかと思って」)、甚だしい誇張をしたり(「‥‥してもらえたらすばらしいんだけど」)、あまりにもちぐはぐで聞き手が額面どおりにはとても受け取れないようなたわごとを並べ立てたりする。すると相手はすばやく直観を働かせて、あなたの真意を汲み取り、同時に自分を雑用係のように扱わないようあなたが気を使ったことを察知する。こうしてあなたは、自分の頼みごとを相手に伝え、相手との人間関係をわきまえていることも知らせるという、二つのことを同時にやってのけるのだ。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.56)

 

 もっとも、ここで無事に意図したものを取ってもらえて目出度しとは限らない。
 遠まわしな言い方をしているけど、ようするに「取れ」と命令している。それを相手が知らないわけでもない。そして、何のかんの言ってもこいつは俺様に命令しようとしているのだ、と感情を害す。
 だから、えてして「君には手がないのかね?」なんてことにもなる。あるいは、わざとわからないフリをして、「何をごちゃごちゃ言っているのかね。要領得ないから何言っているか聞こえねぇよ。それともそういうふうに言えば俺が察して、取ってくれるとでも思ってるのかね?」なんてことにもなる。
 言葉の背後にある感情を推測できたとしても、これに答えるかどうかもまた一つの感情なのである。
 会話というのは感情と感情の衝突であり、感情同士の相互交渉のようなものだ。

 

 「私たちが通常交わす会話は、さながら差し向かいの交渉ディプロマーシーのようなものだ。当事者同士がメンツを保ち、逃げ道を用意し、「もっともらしい否認」の可能性を保てる方法を探りつつ、自分たちの関係を構成するもの──力、セックス、親密さ、公正さなど──の折り合いをつけようとする。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.56)

 

 言葉がわれわれの思考そのものであるなら、わざわざ自分が本当に伝えたいことを覆い隠すようなこうした言い回しはしないであろう。
 言葉はあくまで思考を伝えるための手段であり、だから相手の気分を害さぬようにわざと自分の意見を疑問視したり、他人の発言にしたり、あの手この手を使おうともするし、あるときには意図的に感情を傷つけるようなことも言う。脅しもすかしも外交術の常であり、結局言葉というのは人間関係を表すものなのである。

 

 「語や構文は、物理的実在と人間の社会生活をめぐるさまざまな概念──あらゆる文化に類似した形で存在しているが、科学や学問の産物とは異なる──を明るみに出す。それは個々の人間の発達過程だけでなく、言語社会や人という種の進化の歴史にも根ざしている。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.58)

 

 言語は決して物事を科学的に正確に認識するために進化してきたのではない。だからこそ、

 

 「語や構文は物事の本質と衝突することもあり、その場合にはパラドクスや愚行、さらには悲劇にさえつながりかねない。」(『思考する言語(上)』スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・桜内篤子訳、2009、NHKブックス、p.58)

 

 かくして、まさにRADWIMPSの歌うようになる。

 「このなんとでも言える世界がいやだ
 何の気なしに見てたい ただ ただそれだけなのに
 このどうとでもとれる世界がいやだ
 どうでもいい もう黙っててパパ 黙っててパパ」
    (RADWIMPS『37458』より)