街道を行く

東海道編

2012年7月22日

 「奥の細道」の旅はすっかり遠くなってしまい、連休の時以外はなかなかいけないし、基点や終点となる駅が限られているため歩く距離も長くなる一方で、なかなかのんびり寄り道もできないような状態になってきていて、最初の頃のような、もっと気軽に歩きたくて、「奥の細道」と並行して新たな旅を始めようと思った。
 とりあえず東海道でも歩いてみようかと、もちろん気軽に日帰りできるのは小田原くらいまでだろうけど、しばらくは暇つぶしになるだろう。東海道は芭蕉も「野ざらし紀行」「笈の小文」で歩いている、というか実際は馬で旅していたみたいだが。(最後の大阪行きの旅では、体調不良から籠にも乗っている。)
 「東海道の一筋も知らぬ人、風雅に覚束なし」と芭蕉も言っているように、故郷の村社会から解放されたところに都市の文化というのは成立っている。中世から日本は平和で治安がよく、武装をしない庶民でも容易に旅ができる環境が作られていたことが、今の世界に通用するジャパンクールの基礎となっている。


 そういうわけで、今日は清澄白河で降りて、一年三ヶ月ぶりに深川芭蕉庵にやってきた。「奥の細道」の旅立ちが採荼庵スタートだったから、「鹿島詣」以来だ。
 芭蕉稲荷の前に来ると、何か様子が変っている。隣の家がなくなっていている。草の戸の隣も変る世や駐車場。
 芭蕉庵跡の芭蕉像のあたりは特に変わったことはなかったが、入口の所に「川上とこの川下や月の友 芭蕉」の句碑があった。こんな所に句碑があったかと思ったが、これって四つ目通りの方にあった句碑ではないか。
 正木稲荷神社にはムクゲの花が咲いていた。夏だというのに三日前から肌寒い日が続き、梅雨の前に戻ったのか秋が早く来たのかわからないような景色で、これもエルニーニョのせいか。

 寒い夏、この世の景色まだ飽きず



 芭蕉庵を出て東海道の基点、日本橋へ向うのだが、芭蕉の時代にはまだ永代橋も新大橋もなかったから、両国橋まで行かなくてはならない。
 とりあえず北へ向って歩いていると、江島杉山神社の鳥居が見えてきた。
 狛犬は昭和三十年銘。境内には池があり橋が架かっていて、奥には岩屋がある。

 岩屋の手前には其角の「ほとゝぎす一二乃橋の夜明けかな」の句碑があり、その裏に先代の狛犬の片方があった。

 蔵前橋を渡り、浅草橋を左に曲がると、日本橋の方へ行く。
 小伝馬町に来た時に、ちょっと寄り道を思い立って、ここを左折し、人形町を越えて、箱崎に行こうと思った。国芳の浮世絵で見たスカイツリーの絵の場所を確かめたかったからだ。
 途中、右側に鳥居が見えたので行ってみると、椙森神社だった。
 烏森、柳森、椙森の三つで江戸の三森というらしい。鳩森八幡宮はちがうようだ。
 新橋烏森神社は去年の二月に行ったが、小さな神社だった。秋葉原の柳森神社は今年狛龍を見に行った。これで一応三森そろったことになる。
 狛犬は昭和八年銘。子取りの方は、子獅子の尾がぴんと立っていて、玉取りの方も大きな玉を抱えていた。
 かつてここで富籤の興行が盛んだったため、富塚がある。


 水天宮の脇を抜け、箱崎のターミナルを越えると隅田川に出る。
 問題の「東都三ッ股の図」だが、だいぶデフォルメされているものの、やはり右側の大きな橋が永代橋で、左側の小さな橋が萬年橋ではないかと思う。佃島の方は埋め立てで拡大し、高層マンション郡が立っていて、今では東京湾は見えない。萬年橋は清洲橋で邪魔されている。二つの橋はかなり距離があり、反対側に見えるが、それが一つの画面にデフォルメされて押し込められて描かれているのではないか。
 小伝馬町に戻り新日本橋で左に曲がり、日本橋に向う。
 日本橋、京橋、銀座と、子供の頃にもよく通った道だ。昔は買い物というと銀座だった。丸善で「ムシウタ」の12巻を見つけたので買った。
 銀座四丁目で何やら人だかりがしていて、みんなシャメで何かを撮っていた。
 見ると、銀座四丁目の看板の上に、何やら名状しがたい生き物が。
 その生き物の名前は本当はすぐわかるものなのだが、真似する人がいるといけないので伏せておくが、まあ、自分の可愛いペットを人に見せたいという気持ちはわかるが、だったら胸に抱いて歩いていればいいので、こんな所に乗せて晒し者にするのはちょっと違うんじゃないかと思う。確かに可愛いから、その生き物には罪はないけど、飼い主は放火魔が燃え上がる家を見るみたいに、どこか近くでこの人だかりを見てほくそえんでいるのだろう。
 その冒涜的にも晒し者になった生き物は、大勢の人に取り囲まれて降りることもできないで不安そうだった。
 帰ってからネットで調べたが、池袋や桜の咲いた上野公園にも出没するらしい。
 まあ、東京というところはいろいろな人がいると思いつつ、新橋へとそのまま歩き続け、今日の散歩はそこで終りにした。

8月5日

 今日は先々週とは打って変わって暑い一日になりそうで、早めにスタートして早めに終わることにした。
 地下鉄銀座線で新橋まで行くと、15号線を目指したのが、地下道を行くうちに出口がわからなくなって、いつの間にか日テレを通り過ぎて、浜離宮のすぐそばに出てしまった。
 浜離宮は築地の配送をやってた頃、毎日その横を通っていたのだが、考えてみれば一度の中に入ったことはない。こういう機会だから、さっそく寄り道して行くことにした。
 さすがにこの暑い中で人はまばらだった。写真を撮っても人の姿が映らなくていい。ちょっとしたTokyo Nobody感覚だ。日本庭園の裏には汐留のビル群が迫る。

 園内にはかつて将軍の鷹狩の場だったカモ飼育用の池があり、そこに大覗(おおのぞき)という小さな円い覗き穴が付いた東屋や、小覗(このぞき)という土手のように土を持ってカムフラージュされた覗き窓があった。
 海側に出ると対岸は勝鬨で、遠くにはレインボーブリッジが見えた。
 水上バス乗り場のあたりは、築地市場の裏になる。
 園内に旧稲生神社の鳥居と拝殿があったが、狛犬はなかった。近くに女郎花が咲いていた。秋の花だと思っていたが、こんな夏の盛りから咲いているんだと思った。考えてみれば、もう立秋も近いんだが。

 まだ夏をあきらめないと女郎花

 一面赤い花が咲いている花壇があった。近づくとコスモスのようだった。キバナコスモスというらしい。花の少ない炎天下の数少ない装い(コスメ)といったところか。


  浜離宮を出て東海道(15号線)に戻った。
 その途中、汐留のビルの谷間に旧汐留駅を再現した建物があった。
 汐留のビル群は、かつては仕事の帰りに建設が始まった頃からいつも見ていたが、夕暮れの明かりが灯った景色を見ると、子供の頃親に手を引かれて夕暮れの銀座通りを歩いた時のことを思い出す。子供心にもそのきらびやかさに圧倒されたし、それが心の中の原風景になっているのか。

 人間というのは見かけはちっぽけでもこんなすごいものを作るんだと、何かこれを見るために生まれてきたような気分になるし、この時代に生まれてきた奇跡に感謝したくなる。
 新宿での配送の仕事も三年やったが、ヒルトンホテルとワシントンホテルを結ぶ副都心の道を、夜、車から降りて歩くのが好きだった。その食品卸しの会社も今年四月末で卸売り業務から撤退したという。何のこともない、あのまま会社に残っていても、結局三年後には仕事がなくなっていたわけだ。
 15号線に出ると、JRのガードをくぐり、その先には日比谷神社がある。ここは去年の一月九日に来ているので、そのまま通りすぎる。
 少し行くと右側に芝大神宮があった。
 狛犬は昭和六年の銘があり、頭の上にはそれぞれ立派な宝珠と角がのっかっている。なかなかひょうきんな顔をしていて、股のところには陶器製の白い小さなレプリカのような狛犬がおいてあった。阿形の宝珠の方はなぜか二体あった。
 拝殿は近代的で、鳥居の横には貯金塚という石碑があり、「根氣根氣、何事も根氣」という武者小路実篤先生の有難いお言葉が刻まれていた。


 札の辻を過ぎると、今度は御田八幡神社があった。こちらは提灯が並び、お祭モードに入っていた。
 狛犬は二対あり、石段したの狛犬は檻に入っていて、銘はわからなかったが、かなり古そうだ。阿形の方はよく見ると子獅子がおっぱいを飲んでいる。石段上の狛犬はもっと古そうで、これも銘はよくわからなかった。ネットで見たら、一六九六年(元禄九年)という数字があった。

 このあと都営地下鉄泉岳寺の駅まで歩き、ここでセーブということにした。
 帰る途中、中延の駅前のでびっとで醤油豚骨ラーメンを食べた。たまたま入ったんで知らなかったが、デビット伊藤の店だとのこと。


8月12日

 お盆休みは、当初は「奥の細道」の旅の続きを予定していたが、前回で那須高原とはいえそんなに涼しくはなく、長距離を歩くのは困難と見て、軟弱にも今日は東海道の続き、泉岳寺スタートとなった。
 まあ、芭蕉だって夏場の暑い時期は体調を崩したりしているし、別に芭蕉と体力で張り合う気もないし。
 都営地下鉄線泉岳寺駅を降りると、ポツリポツリと雨が降りだした。
 歩き始めてまず目に入ったのが、泉岳寺交差点の角にあるビルの二階の神社だった。
 一階の入口の所に「稲荷神社」とだけ書かれていた。
 階段を登ると拝殿の前に黒くて彫りの深い形の整った狛犬があった。弘化4年の銘があり、江戸時代のものとしては状態がいい。
 奥にはお狐さんがぽつんと置いてあったが、これが背中合わせに二匹がつながった形のもので、珍しい。


 稲荷神社を出ることには雨が本降りになってきていて傘をさす必要があった。
 すぐ先に高輪神社があった。このあたりの神社の法則だが、必ず街道の右側にある。左は昔海だったせいだろう。
 拝殿の前の狛犬はすっきりしたデザインで顔はやや潰れている。銘は宝永六年でかなり古い。
 拝殿のとなりには太子宮があり、ここにも狛犬があった。大正十五年銘で、これも彫りの深いいい狛犬だ。太子宮入口の石塀の裏側のレリーフも見事だった。

 やがて高輪プリンスと品川プリンスのビル群の前に出る。その向い側はJRの品川駅だ。駅前には品川駅創業記念碑が立っていた。
 道路の反対側にはプリンスホテルに囲まれた、高山稲荷神社の古風な社殿が見える。
 狛犬は慶應元年の銘で、今日はこれで江戸時代が三対目、豊作といえよう。大きくて堂々としたもので、この辺の狛犬の特徴なのか、石は黒い。
 手水場はセンサー式で、その横には「港区文化財 石燈籠(おしゃもじ様)」という札のある小さな社があった。一説にはキリシタン灯篭だという。その脇には小さなお狐さんが一体あった。
 拝殿の縁側では大きな薄い茶色の虎猫が寝そべっていた。この神社の猫神主か?
 なかなか雨は止みそうになく、猫も起き上がって顔を洗い始めていたから、先に品川で昼食を済ませることにした。ちょうど品達の前だし。

 「麺達七人衆 品達」というくらいで、七件の名店が並んでて迷う所だが、とりあえず旭川ラーメンSaijyoの塩ラーメンにした。初代「けいすけ」の前には行列ができていた。ラーメンではないが、隣のどんぶり五人衆エリアの方の花畑牧場ホエーどん亭も人気のようだった。
 食べ終わると雨は止んでいた。
 旧八つ山橋を渡ると、東海道品川熟のマップがあり、ここから踏み切りを渡ると東海道の旧道になる。
 ここから先は街道の町として整備されていて、延々と商店街が続くが電柱や電線がない。
 江戸時代風の塀のあるコインパが珍しいなと思ったが、ここは旅籠「朝日楼」の跡地で、この土地のオーナーの洒落なのだろう。


 品川橋を渡ると、となりに赤い橋が架かっていて、その向こうに荏原神社が見える。昔は目黒川が北側に蛇行していて、荏原神社の後ろ側に川があったという。
 鳥居の左脇には恵比寿さんがいる。拝殿前の狛犬は明治二十九年銘で、彫りが深く状態がいい。阿形の方は子獅子が二匹、吽形の方は牡丹の花を持ち、背中に子獅子が乗っている。

 品川橋から先は電線や電柱がある。少し行くと諏訪神社がある。
 ここにも狛犬があった。古そうだが銘はわからなかった。頭が小さめで、阿形の方の子獅子はおっぱいを吸っている。龍の巻きついたデザインの石灯籠があった。

 青物横丁から先は電柱も電線も復活する。
 品川寺の大きな仏像があり、黄色い提灯がたくさん並んでいる。
 その先の、少し右側に入ったところには幸稲荷神社があった。



 鮫洲に入ると道が祭のために通行止めになっていた。鮫洲八幡神社の祭で、祭囃子が流れ、子供みこしと浦島太郎の乗った山車が通っていった。ただ、祭にしては人は少なく、盛り上がりに欠いていた。
 鮫洲八幡神社には、二、三、的屋の屋台も出ていたが、静かだった。
 ここには狛犬が三対あり、手前のは昭和十六年銘の小ぶりなもので、真直ぐ伸びた前足と正面向きの顔が招魂社っぽいが、招魂社系らしい厳つさはない。江戸狛犬との折衷型という感じだ。
 真ん中のは嘉永二年銘で大きくて立派だ。
 奥のは大正十一年銘で、これも大きい。
 拝殿右の出世稲荷大明神には昭和十五年銘のお狐さんがあり、屋根の上にも狐の飾りがある。
 左側には浅間神社の小さな富士塚があり、そのさらに横には池に囲まれた厳島神社があった。


 鮫洲八幡を出て、先へ進むと、乙姫様の山車と、やはり子供御輿が待機していた。通りすぎたあと、太鼓の音がなり、子供達が御輿の方へ向っていった。
 立会川の駅の近くには仲町稲荷があり、その横の公園に坂本龍馬の銅像があった。何で坂本龍馬かと思ったが、ペリーが来航した時に土佐藩がここで警備をし、そのときにまだ無名だった坂本龍馬が来ていたとのことだった。三谷幸喜脚本の大河ドラマ「新選組!」で香取慎吾がふんどし姿になった、あの場面がここだったのだろう。

 立会川を渡るとすぐに南大井天祖神社がある。これでもかとここにも慶應3年銘の狛犬がある。玉も子獅子もない、シンプルなものだった。右側には丸い池がある、厳島神社があった。

 その先には浜川神社のビルがあったが、中に入れなかった。
 やがて国道15号線に合流する地点に、鈴ヶ森刑場遺跡があった。こんな街道の人通りの多いところに刑場を作ったのは、やはり見せしめのためか。

 15号線に出たところで、京浜急行の大森海岸駅が見えてきたので、今日はひとまずここで終わりにした。盛りだくさんな狛犬豊作の一日だった。


9月9日

 さて、今日は東海道の旅の続きで大森海岸から。
 十時ちょっと前に京急大森海岸駅を出発。いきなり国道15号(第一京浜)の大通りで太陽が照りつける。
 やがて国道15号が右にカーブし、直進すると三原通りに入る。ここが旧東海道になる。  ここも街道の町として商店街が力を入れているようだ。すぐに右側に美原不動院がある。境内には稲荷神社もあった。
 その先の十字路の右側を見ると並行する国道15号線の向こうに鳥居が見える。大森神社だ。赤い柱のきらびやかな拝殿で、狛犬はなかった。
 三原通りの商店街を抜けると、ふたたび国道15号線に合流する。
 谷戸交番の横に神社があった。貴菅神社という名前で、貴舩(きふね)神社と菅原神社が合併というか合祀されてこの名前になったようだ。大正四年銘の狛犬はどっしりしていた。境内には福満子稲荷大明神があった。「ふみこいなり」と読むのでまちがえないように。


 梅屋敷には「明治天皇行幸所蒲田梅屋敷」と書いた大きな碑があった。
 そこからすぐに蒲田だが、ここは俺が小学校一年の時まで住んでいたところだったが、もう40年以上も前のことで記憶は定かでない。ここで寄り道で蒲田駅の方へ行ってみた。
 蒲田八幡神社があったが、どうも記憶にない。昭和三十六年という俺の生まれた年の銘の狛犬があった。ずんぐりと丸みを帯びたデザインで足が太い。
 もう一つ、境内社の天祖神社の前に明治十一年銘の狛犬があった。こちらは色黒で彫りが深い。左右とも子取りだ。

 境内社の稲荷神社には金網の檻に入ったお狐さんがあった。


 蒲田東口中央通りはおぼろげに覚えている「のんべ横丁」のあったところか。小さな釣堀があったのを覚えているが、さすがに今はないようだ。
 ふたたび国道15号線に戻る。雑色の北海道らーめん楓で味噌ラーメンを食べた。スープはかなりこってりして今風なのか。太いちぢれ面がなかなか腰がある。
 らーめん楓の向い側にはOKストアがあり、その前にも稲荷神社があった。ブロンズ製のお狐さんがあった。

 六郷に入りしばらく行くと左に鳥居があった。六郷神社というと古い狛犬があると聞いていたが、拝殿の前にあったのは昭和十二年の狛犬だった。
 例の狛犬はというと、小さな植え込みがあって中には入れないようになっている所の井戸の前にあった。近づけない上に木の影になって写真が取りにくい。
 なるほど、足が短くて顔は豚ッ鼻で目はくぼんでてインパクトがある。初期のまだ江戸狛犬のスタイルの確立される前の「江戸はじめ」というや


つだ。貞享2年というから、芭蕉の「野ざらし紀行」の頃はまだなかったが、「笈の小文」の旅の時には見たかもしれない。
 てっきり最古の石造り狛犬だと思ってたら、目黒不動、赤坂氷川神社に続く都内三番目らしい。

 境内に右奥の立ち入り禁止の所にも狛犬があった。後にあるのは小さいが富士塚だろうか。


 六郷神社のすぐ先は、もう多摩川だ。河川敷にはブルーシートをかけた小屋が転々としている。今も昔も河原者というのはいるもんだ。川を渡ると明治天皇六郷渡御碑がある。碑自体は新しい。
 橋の側道に「旧東海道」と書いて矢印のしてある看板がある。親切なことだ。橋をくぐると旧街道に出る。

 旧街道はやはり商店街になっていて、やがて川崎駅の前に出る。今日はここまで。


9月17日

 あれはデモではないし暴動というレベルのものでもない。あれは戦争だ。国家ではなく民間の戦争が始まった。
 国家は経済的に豊かになればなるほど戦争のコストが上昇し、ついにはマクドナルドのある国同士は戦争をしないと言われるまでになった。だが、国が戦争を望まなくても民衆は勝手に戦争を起こす。
 もっとも、彼らにどれくらい死ぬ覚悟があるのかどうかはわからない。民主化闘争をするよりは安全な憂さ晴らしをしているだけなのか。
 特に尖閣に来ている船団には、実際に海上保安庁でも自衛隊でも出て行って、一発ぶっ放してみればいいのだが。
 もしこれで尖閣が民間船団に占領されるようなことがあれば、次は沖縄にやってくるかもしれない。沖縄本島の占領は無理としても、人口の少ない島なら簡単に制圧されてしまうだろう。

 そんな不穏な空気の中、いつものように休日の「街道を行く」、今日は川崎駅からスタートした。日本は至って平和だ。

 「旧東海道いさご通り」を行くと、やがて商店街は途切れ、八丁畷の駅が見えてくる。ここに芭蕉の句碑があった。

 麦の穂をたよりにつかむ別れかな    芭蕉

真蹟懐紙では「麦の穂を力につかむ別れかな」となっている。
 しかし、路通編の『芭蕉翁行状記』には「弟子ども追々にかけつけて、品川の驛にしたひなく」とあり、桃隣編の『陸奥鵆(むつちどり)』にも「各品川まで送り出、二時斗の余波、別るる時は互いにうなづきて声をあげぬばかりなりけり、駕籠の内より離別とて扇を見れば」とあり、品川で詠まれた句になっている。
 句碑の説明板にある「門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べ」というのは『蕉翁句集草稿』(土芳編)の「五月十一日武府を出て古郷に趣。川崎迄人々送けるに」によるものか。『蕉翁句集草稿』には「浪化集には、人々川崎迄送りて餞別の句を云返し」とあるから、出所は『浪化集』のようだ。どっちが本当なのか。
 芭蕉が大腸癌の悪化で駕籠に乗って、やっとの思いで旅をしているところで、溺れる者は藁をも掴むの喩えのように、頼りない麦を杖に旅立つ別れかな、という方がリアリティーがあるように思える。川崎で団子を食べながらというのはどうも怪しい。

 八丁畷駅前の踏切を越え、市場上町に来ると熊野神社がある。慶応二年銘の狛犬がある。
 その先左側に鳥居が見える。市場一里塚だった。塚は今はなく、社になっている。

 鶴見川橋を渡る。橋から森永の工場が見える。
 鶴見駅の近くに鶴見神社があった。立派な獅子山狛犬がある。
 右奥の境内社が並ぶ先に、柵があって入ることができなくなっているが、富士塚(浅間神社)があり、そこにも狛犬があった。狛犬だけでなく、石碑の影に四つの長い足をピンと伸ばした、奇妙なお狐さんのようなものがあった。



 鶴見駅前を通り、京急鶴見の駅をくぐると、やがて国道15号を越えて生麦魚河岸通りに入る。子育て地蔵、樫森稲荷神社を過ぎると、やがて生麦事件発生現場という看板があった。生麦事件というと豊田有恒の『ブロンドとブルネット』という小説を思い出す。あれは殺された白人の視点で書かれていた。
 その先、左側に鳥居が見えたので行ってみたが、狛犬はなかった。蛇も蚊も祭というのがここであるらしい。藁で作った二匹の巨大な蛇を絡ませる祭で、本来は海に流していたという。
 隣の公園に蛇の遊具があった。
 左にキリンのビール工場が見えてきて、15号線にふたたび合流する手前に生麦事件の碑があった。「横浜環状北線建設工事のため、この場所に仮移設しています」と書いてあったが、元あった場所も別に事件の現場というわけではない。現場はさっき通り過ぎた。本来の場所はリチャードソンが落命した場所と書いてあるから、深手を負いながらこのあたりまで馬に乗ってここで息絶えたのだろう。碑は明治十六年のもの。


 15号線に出ると、ちょうどそこがキリンビール生麦工場、キリン横浜ビアビレッジの入口で家族連れとかが見学に来ていた。一人で飲むのも淋しいんで素通りしたが、生麦に麦酒工場はできすぎている。大正六年にできたという。
 ここから先は日が容赦なく照りつける国道15号線。途中、狐の嫁入りでしばらく雨宿りする。
 京急の線路の向こうに笠のぎ稲荷神社が見えた。「のぎ」は禾偏に皇だが、フォントが見つからない。目が中央に寄ったお狐さんがいた。
 その先に神明宮があった。境内のわりには小さな拝殿で、柵に囲まれていて、柵の向こうに狛犬が一対直置きされていた。

 JR東神奈川駅で今日は終了。


9月30日

 今日は「街道を行く」の続きで、東神奈川から。
 電車の中のお供はこの前買ったkobo touchで、自炊した『源氏物語と東アジア世界』(河添房江、二〇〇七、NHKブックス)を読みながら行った。
 京浜急行の仲木戸駅を越えて国道15号線に出る。
 小さな川を渡り少し行くと右側に宮前商店街のゲートがある。ここから旧道になる。
 宮前というだけあって、すぐに洲崎大神の白い大きな神明鳥居があった。
 境内に左側に赤い鳥居があり、額に「井戸守元町稲荷社」と書いてあった。その隣には溶岩を積み上げた獅子山なのか富士塚なのか、白い親獅子二頭と子獅子一頭が配置されていた。
 正面奥に石段があり、その手前に昭和四十五年銘の狛犬があった。石段の上に神明造の拝殿があった。

 神社を出ようとすると、全身茶虎の猫が現われた。神社の猫なのか近所の猫なのかは分からない。
 宮前商店街のすぐ先の甚行寺の門の前にはフランス公使館跡の石碑があった。
 宮前商店街はすぐに終り、青木橋でJRの線路を渡る。その先からまた旧道に入る。
 少し行くと右側に赤い神明鳥居があり大綱金比羅神社がある。
 石段の下の右側の空き地に尻尾の長いうし猫がいた。今日は立て続けに猫に出会う。暑さもやや和らいで猫近き秋になった感がある。
 石段を登ると両脇に獅子山があり、丸みを帯びた穏やかな顔の狛犬がいた。
 境内正面は礎石だけが残り何もなかった。本来はここに大綱神社があったのか。
 左側に金刀比羅神社の拝殿があり、その右側には大きな天狗の頭があり、その奥に小さな祠があった。
 その右には弁天池があり、小さな瀧があって池には鯉が泳いでいた。その奥に弁天様を祀った洞穴があった。
 さらに右には稲荷神社があった。

 大綱金比羅神社の先は緩やかにカーブした上り坂になっていて、安東広重の神奈川宿の浮世絵はこのあたりを描いたもののようだ。昔は左側が海だったようだ。今は横浜の市街地になっている。
 旧道は横浜の市街地を迂回するかのように緩やかにカーブしている。これがかつての海岸線だったのだろう。首都高三ツ沢線をくぐり、静かな通りを行くとやがて三ツ沢へ登って行く一般道に突き当たる。

 右側の小さなトンネルをくぐって道路の反対側に出ると、南側に小高い山があって神社の屋根が見える。あれが浅間神社なのだろう。宮田に小学校入口の交差点で、さっきまで歩いてきた旧道の続きだと思って広い道に入ったが、これが失敗だった。
 浅間神社の入口は一向に見えないし、そのうち道が細くなって、どうやら道を間違えたようだ。
 正しい道はローソンの先の小さな路地で、こっちの方にちゃんと旧東海道と書いてある。それにすぐ浅間神社の入り口がある。ただ、これはどうも裏参道のようで、その先の表参道から登って行く。
 赤い大きな鳥居をくぐると右手に招魂社があって、そこに平成九年銘のま新しい狛犬がある。顔は今時の物だが、真直ぐ参道の内側の方を向いているから一応招魂社系なのか。左側には真赤な稲荷社があり、大正十四年銘のお狐さんがいる。その脇に背


中を丸めた獅子の先代さんの片方が置かれていた。獅子山があったのか。
 正面の拝殿前には慶應二年銘の狛犬がある。左右とも子取りだ。
 左奥の柵の向こうにも赤い鳥居と赤い社があり、その前には背中に翼をつけた烏天狗の立像一対が狛犬代わりに立っていた。


 静かな旧道をしばらく行くと、大山へ行く道との分岐点(追分)があり、その向こうは何やら人がたくさんいてお祭りのようだった。
 行ってみるとお祭ではなく松原商店街で、入口の駐車場には車が列を成していた。
 商店街は築地の場外市場のような賑わいで、焼き鳥のにおいがして八百屋の威勢のいい声が響き、昭和に戻ったかのような賑わいだった。寂れた商店街が多い中で、どうやってこんなに盛り上げたのか、ちょっと知りたい気がした。
 八王子街道を渡ると急にまた静かになる。左に橘樹神社があった。境内は静かだった。嘉永五年銘の狛犬は力強い足の指といい、優美な毛の流れといい、バランスのよさといい名品といっていい。状態もいい。
 橘樹神社というと、子母口の橘樹神社は子犬のようなオオカミ狛犬だったが、ここは正統派の狛犬だ。
 境内奥には神田不動尊と庚申塔三基があった。

 川を渡ると相鉄線天王町駅に出る。その先で環状一号線の広い通りに出る。
 JR保土ヶ谷駅を過ぎるとまた道が細くなり、JRの踏み切りに出る。その先で国道1号線に突き当たる。
 右へ曲がるとしばらくは国道1号線を行くことになる。左側の川の向こうに外川神社が見える。羽黒山麓の外川仙人権現の分霊を祀ったという。
 仙人橋という新しい奇麗な橋を渡って神社に入ると、真新しい狛犬とその下に先代の狛犬がある。
 左側が外川神社の拝殿で、その隣中央に道祖神の社があり、草鞋がぶら下がっている。右側は稲荷神社だ。

 岩崎ガードの歩道橋を渡ると、その先右側に旧道がある。元町ガードを左に曲がり、ふたたび1号線に出る少し前を右に行くと、急な上り坂になる。権太坂だ。
 保土ヶ谷バイパスの上を越えると、ランドマークタワーが見える。昔はここで海が見えたらしい。東海道を登ってきて、権太坂で江戸の海が見えた瞬間は、さぞかし感動的だっただろう。権太坂の上は尾根道で、今日は見えなかったが雲がなければ富士山も見えるという。


 やがて広い道に出て境木地蔵尊の前を過ぎ、その先をまた左に入ると焼き餅坂という、昔餅を焼いていた茶店があったという坂を下る。道が細くなり、信濃一里塚がある。鬱蒼と茂った山は塚なのかどうかよくわからなかったが、県内に残っている唯一の一里塚だという。

 やがて右側に東戸塚の高層マンション群が見えてくる。福寿観音の所を曲がると環状2号線を渡る橋があり、東戸塚駅の方に行くのだが、今日は戸塚まで頑張ろうと思って、先へ進む。
 すぐに環状2号線を見下ろす場所に出る。階段を下りて歩道橋を渡るとその反対側に道がある。信濃坂になる。
 坂を下りて川沿いの道を行くとふたたび国道1号線に出る。
 大きなパチンコ屋があったから、こういうところには食う所もあるのではないかと思っていたら、「品の一」というラーメン屋が目に入った。というか看板の字がよく読めなくて「花の」だと思っていた。「花」ではなく「品」の字で、「品の」の下の赤い横線がアンダーラインではなく「一」だったようだ。

 とんこつベースの北海道風中太麺のラーメンで、醤油、塩、味噌の三種類がそろっている。塩ラーメンを食べた。この「街道を行く」、「芭蕉と狛犬とラーメンと」というサブタイトルでもつけようか。何か、ラーメンばかり食べている。
 ここから先はしばらく一号線を歩く。正午過ぎの陽射しは強く、夏に戻ったみたいだ。時折黒い雲が日を遮って、台風が近づいているのを知らせる。
 赤関橋の先の秋葉立体をくぐると、合流する道があり、そこに旧東海道と書いてある。どうやらまたコースアウトしたようだ。赤関橋のところに左に入る道があり、そっちが旧道で、ここで合流していた。
 不動坂のところから右に旧道に入る。坂といっても坂道は緩やかで短い。やがて交差点があり、その向こうに川がある。てっきりここを真直ぐ行くものだと思い、しばらく行くと道はどんどん狭くなり、やがて田んぼや家庭菜園のあるところに出る。今日三度目のコースアウトで引き返す。

 

 川の手前に戻り、右に行って国道1号線に戻る。すぐにもうひとつ川を渡り、戸塚駅に出る。ここから地下鉄に乗って帰った。あざみ野に着くと雨が降り出していた。


2013年5月6日

 今日は久しぶりに「街道を行く」の続き。去年の九月三十日以来だ。
 戸塚駅をスタートしたのは十時半頃で、今日は道がわかりやすい。まずは国道一号線をしばらく行くことになる。
 まず羽黒神社が右側にあった。狛犬に銘はなく、目がくりっとしていて可愛らしい。子獅子も笑っているみたいだ。
 次に八坂神社。これも右側にある。狛犬は昭和十三年の銘で耳が大きい。目が黒く塗ってあり、やはり可愛らしい印象を受ける。ただ、阿形の左目は黒いペンキが下に垂れていてちょっと恐い。
 この神社では「お札さま」という女装して踊る祭があるらしい。

 冨塚八幡宮。これも右側。狛犬は天保十二年銘で、これも目が大きくて黒く塗られている。戸塚の可愛い系狛犬は、この狛犬を原型としたものなのか。
 入口の所に芭蕉の「鎌倉を生きて出けむ初松魚(はつがつお)」の句碑がある。難攻不落の自然の要塞、鎌倉を命からがら脱出できても、結局は食べられてしまう。初鰹と義経のイメージを重ねた句か。


 境内裏に元禄元年、寛文十二年など何気に古い庚申塔が並んでいる。しかもどれも状態がいい。境内社に玉守稲荷、御岳大権現、冨塚天満宮がある。

 その先、やはり右側に第六天神社がある。狛犬はない。鳥居も銅製で、拝殿の扉も銅でできている。賽銭の投入口が自販機みたいに縦の細い穴になっている。


 第六天神社を出ると、道は緩やかに曲がり、上り坂になる。ここにも坂木稲荷神社がある。稲荷なのに赤ではなく銅の鳥居が珍しい。
 坂を登り始めた所にも元禄の庚申塔が並ぶ。この坂は「大坂」というようだ。
 大坂を登り吹上を過ぎると下り坂になる。遠くにうっすらと霞む大山や丹沢の山が見えるが、残念ながら富士山は見えない。横浜薬科大学の図書館棟が、かつてのドリームランドの夢の跡のように聳え立っている。

 左側に「お軽勘平の碑」がある。歌舞伎に関係があるらしいがよく分からない。
 道を下り始めると、原宿の一里塚の跡がある。その先には渋滞の名所、原宿の交差点が見えてくる。立体交差になっていくらか良くはなったというが。
 右側のセブンイレブンの手前に浅間神社の鳥居が見える。ここには狛犬はないが、入口の所にやはり元禄の庚申塔があった。このあたりは古い庚申塔がコンビニ並みにたくさんあるようだ。
 原宿交差点の先をしばらく行くと、右側に道祖神塔がある。道祖神と刻まれた石塔には注連縄が巻かれ、石塔の前にミニチュアの鳥居がある。
 そのすぐ先、歩道橋を渡って反対側に諏訪神社がある。昭和五十四年銘の狛犬は戦後の量産型だが、顔が長く、耳もやや長いあたりが戸塚系か。
 やがて道が二手に分かれ、左側の道が右側の道の下をくぐって交差する形になっていて。くぐった方の道は1号線バイパスになり、上のほうの道が東海道の旧道となり、遊行寺の方へと下って行く。遊行寺坂は正月の箱根駅伝でもおなじみのところだ。
 その下り始めの所にも宝暦九年の双体道祖神塔がある。こちらは屋根があり、花が供えられている。
 坂を下って行く途中に一里塚の跡がある。もう原宿から一里来たということか。
 遊行寺の手前、左側にも諏訪神社がある。入口の石段の途中に明治三十九年銘の黒い狛犬がある。

 遊行寺はさすがに時宗総本山というだけあって大きな寺だ。宗祖の一遍上人は全国を遊行して念仏踊りを広めた人で、この念仏踊りが今の盆踊りの原型になっているという。また、時宗の僧は名前に「阿」や「阿弥」がついていて、能の世阿弥・観阿弥はもとより、連歌師の周阿・善阿・良阿、水墨画の能阿・芸阿など中世の文化を支えていた。
 遊行寺の先、藤沢橋まで行かずにガソリンスタンドの手前を右に曲がる。ネットで調べたら、ここで曲がるように書いてあったからだ。
 遊行寺の山門の前の広い道に出ると、すぐ右に日本三大広小路の看板があり、その古い絵図を見ると、確かに遊行寺を下ってきた東海道は川の手前で右に曲がって大鋸(だいぎり)広小路に入り、そこから大鋸橋を渡って藤沢宿に入るように書かれている。藤沢橋は昔はなかったようだ。
 遊行寺山門の反対側に赤い欄干の橋がある。これがかつての大鋸橋、今は遊行寺橋で、これを渡って右に曲がると藤沢宿になる。

 藤沢宿は今の藤沢の市街地からやや外れているため、それほど賑やかな所ではない。
 白幡の交差点を右に行くと白幡神社がある。入り口のところに顔が長くて白い招魂社系の狛犬がある。銘はなかった。
 石段を登って行くと、途中に義経の慰霊碑があり、ここに義経の首が流れ着いたという伝説が記されていた。石段を登り終えたところにもう一対狛犬があり昭和2年の銘がある。丸みのある優しそうな顔の狛犬だ。
 拝殿の右下手前の方へ降りて行くと、義経の藤、弁慶の藤があった。義経の藤は白く、弁慶の藤は藤色で、そこに芭蕉の「草臥て宿かる比や藤の花」の句碑があるが、この句は関西旅行を綴った「笈の小文」の中の句で、別にここで詠まれたわけではない。

 白幡神社は小田急江ノ島線藤沢本町駅のそばなので、今日はとりあえずここでセーブして終了することにする。
 さあ、二時も過ぎているし何か食べて帰ろうと、


確かこの「街道を行く」には「芭蕉と狛犬とラーメンと」というサブタイトルがあるのだっけ、ということでラーメン屋を探した。
 中華料理「玉佳」という所にとりあえず入った。ラーメン専門店ではなく中華料理屋ということで、とろみ系もありということで天津麺にした。

8月4日

 今回は古代東海道ではなく、本来の「街道を行く・東海道編」にもどって、近世東海道を八時半頃、藤沢本町駅からスタートした。
 44号線に出ると、前回天津麺を食べた玉佳がある。店の親爺が準備を始めている。
 引地川を渡るとメルシャンの大きな工場がある。このあたりの左側に口の周りを赤く塗った道祖神像がある。藤沢市教育委員会の説明板によると「おしゃれ地蔵」とある。顔から白粉が絶えることがないのでそういう名前になったという。確かに顔は何となく白い。そういう石なのか。だが何で地蔵?
 藤沢市教育委員会曰く、
 「形態的には『地蔵』ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。」
 県道44号線から国道一号線に出る四ツ谷の交差点の少し手前のところで、木の茂る小山を避けるように道が南にカーブを描いている箇所がある。この小山に小さな稲荷神社があった。
 四ツ谷交差点の少し先に鳥居が見え、その手前にお不動さんの乗っかった道標がある。大山道への入口だ。鳥居の社額の部分が顔になっている。烏天狗だろうか。

 その先に一里塚の跡があるが一里塚と書いてある棒が一本立っているだけ。
 その先に二ツ屋稲荷神社がある。正面にあるのは平成八年銘の新しいお狐さんだが、その裏に先代のお狐さんが二対あった。右側のお狐さんは子狐がおっぱいを飲んでいる。狛犬では時々見るが、これはそのお狐さんバージョン。
 このほかにも境内に寛文の庚申塔や、年代はわからないが古そうな道祖神塔もあった。

 ここから先の道路は所々松並木が残っている。この辺の道は、旧街道の海側を掘り下げて今の道路を作ったのだろう。両側に松並木が残っている所は少なく、山側だけの所が多い。その場合、歩道は一段高く、昔の地形どおりにアップダウンしている。
 やがて砂混じりの茅ヶ崎の市街地に入る。「砂混じりの」というのは茅ヶ崎に掛かる枕詞にしてもいいのではないかと思う。和歌だと「砂混じり」か「砂混じる」と5文字にしたいところだが。まあ、別に砂嵐が吹いているわけではなく、特に意味がないから枕詞ということで‥‥。
 一里塚という交差点があって、さっきの四ツ谷の一里塚から一里ということになる。左側は小さな公園となっていて「平成の一里塚」と書いた説明版がある。木は一本生えているが、塚はどこにもない。反対側には本物の茅ヶ崎一里塚がある。江戸から十四里。
 茅ヶ崎一里塚からさらに先へ行くと左側にまた鳥居が見えてくる。第六天神社だ。歩道橋を渡って道の神社側へ行く。狛犬は昭和六年銘で角ばった顔をしている。
 第六天は仏教の欲界天の第六、他外自在天に由来するもので、日本でもやはり昔から自由へのあこがれがあったのだろう。明治政府によって天神七代の第六代の神に変えられてしまったようだ。
 境内に首を落とされた六地蔵があり、代わりに別の石を載せ、ペンキでスマイルマークが書いてある。廃仏毀釈の時に破壊されたのだろうか。
 俺もどっちかというと仏教よりは神道よりだが、どんな宗教でも原理主義というのは困ったものだ。バーミヤンの石仏の破壊は大きなニュースになったが、日本でも明治の初め頃に似たようなことが行なわれていたの。今ではほとんど忘れ去られている。ネットで見ると日本のあちこちに首なし地蔵があって、一部では都市伝説で恐い話になっているものもあるようだ。

 鳥井戸橋を渡った所右側に、また大きな鳥居があった。鶴峰八幡宮の鳥居だが、見ると参道が延々と続いていて八幡様の姿が見えない。暑さもあってパスすることにした。
 新湘南バイパスをくぐるところは歩道橋になっていた。とにかく今日は暑さがこたえる。どこかで一休みしたい。産業道路入口の所にマックの看板があり、早めの昼食にした。ということで、今日はラーメンの方はなし。
 ここから馬入橋までの間に、道祖神塔が二つあった。今日も道祖神に導かれている。 馬入橋手前の相模川の河川敷には、ボートや何かがたくさん置かれている。相模川でもボートが走り回っていて、水上スキーをしている人もいた。気持ち良さそうだ。

 川上の方には湘南銀河大橋も見える。川下は海も近いのだが、トラスコ湘南大橋にさえぎられて水平線のあたりが見えない。
 側の向こうには古ぼけた教会のような建物が見えるが、よく見ると十字架がない。結婚式場だ。
 馬入交差点で国道1号線は右に行く。旧東海道はここを直進する。ここに馬入一里塚跡の石碑がある。これで日本橋から十五里。
 平塚駅前に着いたのがちょうど正午だ。やはり暑さのせいでどうも調子が悪い。今日は平塚八幡宮だけ見て帰ることにする。
 正面の鳥居の前に大正十一年銘の大きな石の狛犬がある。口がでかい。
 平塚八幡宮の境内は閑散としていて、参道にアヒルがのんびりくつろいでいる。近づいても逃げない。
 銅製の二の鳥居の前にはいかにも昭和初期という感じの昭和六年銘のブロンズ狛犬があった。

 拝殿の前には茅の輪があり、一応茅の輪くぐりをした。


9月1日

 今日は東海道の旅の続きで、八時四十分に平塚駅をスタートした。今日も暑い一日になりそうだ。
 平塚の商店街には既に七夕飾りはなかったが、頭が星の形をしたゆるキャラが描かれた「七夕の街ひらつか」の大きな看板があった。

 旧街道は既におなじみとなった高麗山に向って進んで行く。途中から左斜めへ、やや細い道に入り、古花水橋交差点のちょっと北側に出る。ここから先は古代東海道編で歩いた所だ。
 古代東海道はどうやら新旧二つのルートがあったようだ。分倍河原から座間を経て浜田駅に出るルートは古いルートで、平安中期以降の「延喜式」に記されたルートだと、今の大山街道に近い、望地遺跡から町田市町谷(店屋駅)を経て橘樹、丸子、大井の方へ行く。「更級日記」もこの「延喜式」ルートを通っている。
 平塚から大磯、二宮を通る海沿いのルートもこの「延喜式」のルートで、もう一つ、金目川を遡り東海大学の方へ行き秦野を通る古いルートがあったようだ。これまで古いルートを歩いてきたから、そのうちこちらのルートもチャレンジしてみることにしよう。
 古花水橋を過ぎてロイヤルホームセンターの前に来ると、高麗山は目の前だ。暑いけど風はすっかり秋の風で、空も澄みわたっている。

 高麗山をぼかしもしない秋の風



 今の花水橋の手前に小さな歌碑がある。「大磯八景の花水橋の夕照」という題で、

 高麗山に入るかと見えし夕日影
     花水橋にはえて残れり

の歌が刻まれている。

 中国の瀟湘八景になぞらえて大磯八景というのが作られていたようだ。瀟湘八景は中世から山水画の画題として盛んに描かれていた。八枚の絵でシリーズにすることもあれば、一枚の絵に描きこむこともあ

った。「湘南」という言葉も、この中国洞庭湖周辺の瀟湘に習ったものであろう。
 高来神社は前回行ったので今回はスルーして、化粧坂で旧道に入る。ここから待つ並木の道に入る。前回は高来神社の前から細い道を通って、途中からこの旧道に入ったが、そっちの方は鎌倉道らしい。化粧坂(けわいざか)というのは鎌倉にもあったな。化粧坂一里塚の跡を示す看板がある。その先にまた大磯八景碑があり、そこには説明の看板が立っていた。それによると、明治四十年ごろ、大磯町第五代町長宮代謙吉が大井その名所八景を選んで絵葉書にしたのが始まりとなっている。要するに町興しか。
 歌は大正十二年に大磯小学校第2代校長朝倉敬之のもので、まあ、こういう取り組みがあって「湘南」は次第に有名になり今に至っているのだろう。
 旧道は東海道の線路にさえぎられ、小さな地下道で反対側に出る。ふたたび旧道になり、大きく傾いた松が昔を偲んでいる。
 やがて今の国道に合流する。大磯駅入口の手前に神明神社がある。この前は疲れていて見落としたか。昭和六年銘の狛犬がある。その先には小さな秋葉神社がある。


 照ヶ崎海岸入口交差点で国道一号線は緩やかに右に曲がって行くが、旧東海道はここを直進して角度をつけて右に曲がる。ここに海水浴発祥の地の看板がある。
 せっかく大磯に来たのだから海を見ずに帰るのも何なので、海岸の方へ行ってみた。
 今はもう秋といっても海岸には釣りの人もいるし、砂浜にはなぜか三脚を立てた老人がたくさんいた。海を撮っているのか。今日は富士山は雲がかかっていて見えないが。

 照ヶ崎海岸入口に戻り、旧道を行くと曲がった所に教会があった。すぐに一号線に合流し、少し行くと鴫立庵があった。西行法師の、

 心なき身にもあはれは知られけり
     鴫立つ沢の秋の夕暮れ

という歌は、伝説ではここで詠まれたことになって

いる。一六六四年に崇雪(そうせつ)がここに草庵を結び、標石に「著盡湘南清絶地」と刻んだことから「湘南」の発祥地とされている。その後大淀三千風がここに俳諧道場を作り、代々鴫立庵として受け継がれてきた。それにしても大淀三千風はいろいろな所に出没している。芭蕉の「奥の細道」に先行して、芭蕉以上にいろいろな所に行っている。
 小さな川が深く岩の間を流れ、確かに涼しげな所ではある。庭には所狭しと句碑の類が並んでいる。芭蕉句碑もあるし、西行銀猫碑もある。西行が頼朝から賜った銀製の猫を、こんなものは要らんと子供にやったエピソードが記されている。第五世庵主に加舎白雄の名もあるし、第二十世庵主は村山故郷の、

 花の下は花の風吹き西行忌

の句碑もあった。
 村山故郷の『明治俳壇史』(一九七八、角川書店)は近代俳句の立場に偏った他の明治俳句史と違い、旧派のことを詳しく伝える貴重な本だ。


 鴫立庵を出て、そういえば大磯にはオダジョー‥‥じゃなかった、新島襄の終焉の地があったはずだと思い、探しに戻った。
 照ヶ崎海岸入口交差点の国道側から見ないとわかりにくいが、そこに終焉の地の碑が立っていた。
 ここからしばらくは国道1号線を行く。
 このあたりの海岸は小淘綾(こゆるぎ)の浜と呼ばれていて、『源氏物語』帚木巻にこの地名が出てきたなと思った。「あるじもさかなもとむと、こゆるぎのいそぎありくほど」という一節で「主人紀伊の守も肴を求めて、こゆるぎの大いそぎで歩き回り」と訳した箇所だった。
 松並木の残っている箇所があり、下り車線が松並木の道となり、登り車線はその横に別に作られている。
 右側に宇賀神社があった。赤い羽織を来たお狐さんがいて、稲荷神社のようだった。その先の左側には八坂神社があった。地面は砂地で砂丘の上に建っているみたいだった。

 しばらく単調な道が続き、やがて目の前に切通しが見えてきた。切通しの手前に道祖神塔があった。
 この切通しの途中で道が分かれていて、左が旧道になる。切通しある山は大磯城山公園になっている。
 標高四十メートルを超えるこの山塊は、ここに道を通す時にさぞかし邪魔だったに違いない。切通しが近代に入ってから作られたとすれば、昔はここを急な坂道で越えていたのか。

 それまでほぼ直進してきた東海道は、ここでやや北へ迂回する。この迂回した所に大磯ロングビーチがある。昔は干潟か何かだったのか。
 迂回した旧道はすぐに新道に合流せず、しばらく新道と旧道が並行して走る。この二つの道の間に二つの道祖神塔があった。
 このあたりから今日も暑さがこたえてくる。右側に六所神社の大きな鳥居があった。線路をくぐった向こうに神社があった。その前に一休みして自販機で買った水を飲む。すると、自販機の脇にも道祖神塔があった。
 狛犬の銘は読めなかったがなかなか穏やかな顔をしている。細かな毛並みがきちんと彫られているあたりは、倉見神社境内社の大正五年の狛犬にも似ている。拝殿には太い注連縄があった。

 相模六社めぐりのパンフレットが置いてあった。このうち寒川神社、前鳥神社、平塚神社はこれまで通ってきた。あとは二之宮川勾神社と三之宮比々多神社へ行けばいいのか。
 六所神社を出たあたりで十二時。川を渡ると二宮の交差点があり、守宮神社があった。そのすぐ先の二宮駅入口で右に曲がるとすぐに二宮駅だ。今日はここまで。


9月22日

 今日は東海道の続きで、八時四十分頃二宮駅をスタートした。
 国道一号線は江戸時代の名残の松の木が所々に見える。ひところの暑さはないにせよ、やはり歩いていると汗ばんでくる。
 吾妻神社入口のところに「旧東海道の名残」と書いたポールが立っていて、右側が旧道となる。入ってすぐのところ右側に吾妻神社の鳥居があるので行ってみる。
 すぐに東海道線の線路にぶち当り、古い赤く錆びた歩道橋で線路を越える。線路の横はすぐに道路でその向こうに鳥居が見える。小さな神明社の社があった。その横には文字型道祖神塔や地神塔が並ぶ。右側にさらに登っていく道があったが、吾妻神社は遠そうなのでやめた。
 あたりには彼岸花が咲いていた。去年は彼岸花の咲くのが遅かったが、今年は彼岸前から咲いている。もうあの猛暑は戻ってこないということか。
 旧道は海から遠ざかるようにカーブを描き下ってゆく。右側はヤマニ醤油、左には恐竜の頭が見える。何かの工房だろうか。下りきったところに梅沢橋がある。この川を渡るために道が曲がっていたの


だろう。すぐ川下に1号線の橋が見え、その下から海が覗く。
 旧道は程なくまた新道(1号線)に合流する。合流点にまた文字型道祖神塔があった。

 次に川匂(かわわ)神社入口がある。相模六社の一つだが、地図で見るとかなり遠いので今日はパスした。このあたりから今度は右側に旧道がある。「旧東海道の名残」のポールが立っている。分岐してすぐのところに真新しい一里塚の碑が立っている。江戸より十八里だそうだ。

 しばらく平らな道が続いたあと、急に下り坂になる。新道の方は掘り下げて分岐点のあたりからなだらかな下りになっていたようだ。合流点に双体道祖神塔があった。
 坂を下ると押切橋で下を覗くと川には鯉がうじゃうじゃいた。誰が餌をやる人がいるのか。
 しばらく行くと右側に浅間神社があった。狛犬には皇紀二六〇〇年の銘があった。紀元二六〇〇年(昭和十五年)というと、東京オリンピックが行なわれるはずの年だったが、一九三七年に旧日本軍は上海を攻撃し、そのまま兵士に休息を与えることもなく、補給も何もないなかで略奪を繰り返しながら南京に侵攻し、あの忌まわしい事件が起きたことは記憶しておかなくてはいけない。皇国が武威を見せつけたからといって中国があっさり降伏することもなく戦闘は泥沼化し、結局オリンピックどころではなくなった。
 二六〇〇年というと、ゼロ年ということで、あのゼロ戦が導入されたのもこの年だった。「ゼロ」は敵性語だがゼロ戦だけは別のようだった。「れいせん」ではいくらなんでもかっこ悪い。まあ、カウントダウンするにも「さん、に、いち、ゼロ」と言うように、「ゼロ」が外来語だという意識はあまりなかったのだろう。
 まあ、とにかく二〇二〇年の東京オリンピックは無事に行なわれますように。

 一号線の海岸の見える通りをふたたび緩やかに下ってゆくと、車坂の碑がある。ここにも彼岸花がたくさん咲いている。大田道灌、源実朝、阿仏尼の歌を記した説明書きがあった。
 その先に四角い顔したお不動さん乗っかっている大山道の道標があった。
 この先双体道祖神塔がいくつかある。公民館の前にあったのはすっかり磨り減ってかろうじて二つのふくらみを残すだけのものだった。
 こうした道祖神が芭蕉の時代にあったかどうかはわからないが、ただ道祖神の導きというのは何となくわかる気がした。街道にそれだけ道祖神はたくさんあったのだろう。そろそろ道祖神塔を見つけても、いちいち写真を撮る気も起きなくなってくる。

 国府津が近づいてくるとすぐそばまで海が近づいてくる。今日も一応砂浜に下りて海を見ていこう。今日も空は霞んでいて富士山は見えない。
 国府津はなかなか昭和の風情を残す町並みで、電線がないのも開放感がある。  名前に「国府」とつくから、実はずーっと相模の国府は国府津にあるものと思っていた。相模国の国府は未だにはっきりしないが、平塚から大磯に移ったという説が有力なようだ。大磯の国府は大磯城山公園の麓あたりが有力で、ここは国府津は国府に近い港ということらしい。
 親木橋を渡ってしばらく行くと、右側に八幡神社の参道がある。狛犬は大正十四年の銘で、さっきみたゼロ年の狛犬と似ている。全体に角ばった感じで目が釣りあがっている。境内には庚申塔群や道祖神塔群などがあり、境内社に稲荷神社がある。一説には延喜式時代の古代東海道の小総駅はこのあたりだという。

 この先またしばらく行くと、左側になぜか黄色い招き猫が手招きしている不動尊があった。

 その先に小さな川があり交差点には「連歌橋」と書いてある。何で連歌なのだろうと思って帰ってから調べたら、『源平盛衰記』に梶原景時の馬が流されそうになったとき、「まりこ川ければぞ波はあがりける」と上句を詠み、それに頼朝が「かかりあしくも人や見るらむ」と下句を付けた所から来ているらしい。「鞠を蹴れば上がる」に「波がかかれば、かかり(蹴鞠場)だけにまずいことになったな」と応じたわけだ。
 そのあとすぐに酒匂川の橋に来る。川は浅く水鳥がたくさんいた。河原には葛がびっしりと生い茂り、葛の花が咲いていた。
 江戸時代は橋がなかったという。ただ、おそらく今よりもたくさんの流れに分かれていて水が分散し、そんなに渡りにくい川ではなかったのだろう。越すに越されぬ大井川ではなかったようだ。
 酒匂川を渡るとビジネス高校前で左に折れて旧道に入る。橋の跡のようなものが道の両端にある。川を渡るために道が曲がっていたのだろう。すぐに旧道は右に曲がり、元の国道に戻るが、そこを真直ぐ行くと新田義貞の首塚がある。

 そのあと地名が山王になるから、山王比叡神社があるのかと思ったらなかなかない。山王橋を渡ると右側に確かに山王神社がある。狛犬は平成八年の最近のもの。ここでちょっと一休みした。ちょうど十二時頃。


 この辺りはもう小田原市街だ。広い二車線道路に歩道橋がかかっていて、そのあたりに一里塚があった。江戸から二十里。戸塚まで十里、小田原で二十里と一日四十キロ歩いて二日でここまで来るのが標準コースだった。歩道橋の上からだと箱根の山がもうすぐそこに見える。
 旧道は新宿の交差点を左に曲がり、すぐに右に曲がる。国道1号線に並行した旧市街になる。蒲鉾や干物を売る店がちらほらあるが人の気配は少ない。どこにでもある旧市街だ。
 その昔の宿場町があった中央付近に松原神社があった。狛犬は二対、手前のは大正十五年銘で、奥のは昭和三十四年銘だった。手前の方の狛犬の前にはなでれば幸運を呼ぶという亀の像が置いてあった。社務所の脇に先代の阿形だけが置いてあった。なかなか奇麗で味のある狛犬なのだが、片割れの方が壊れちゃったのか。


 このあと近くにラーメン屋があったので昼食にした。今日もこれまで程ではないにせよ暑い一日だったので、小田原駅で終ることにした。
 ところでここで醤油ラーメンを注文したら、なぜか桶のようなものに入れて出てきた。麺は中太、スープは一見するととんこつ醤油だが鯵節をたくさん使っているのだろうか、鯵の開きのようなにおいがする。紅生姜ではなく黄色い生姜を刻んだものが乗っていて、これが魚のスープによく合う。チャーシューも焦げた

芳ばしいにおいがする。それにイカの絵の書いた蒲鉾が乗っかってたり、なかなかビジョアル的にも凝っている。水も蓋付きの青いガラス瓶に入れたのをコップに注ぐ。鰺壱北條という店だが、ひょっとして有名店なのだろうか。
 このあと、山角天神社から小田原城の方へ抜けた。山角天神には狛犬はなく、芭蕉の句碑と紀軽人(きのかるんど)という人の狂歌碑があった。どっちも新しいもので、芭蕉の句は「梅が香に」の句で、単に天神様だから梅の句を選んだみたいだった。境内社は夜叉神社。それに水神と書いた土管のようなものがあった。中からマリオでも飛び出してきそうだ。
 山角天神の裏の山を越えると小田原城で、その敷地内に報徳二宮神社がある。二宮尊徳さんの神社で今市にもあった。境内には二宮金治郎の像だけでなく、大人の二宮尊徳の像もあった。薪は背負ってないけど、やはり本を読んで、手には筆を持っている。狛犬は銘が大正三年なのか五年なのかよくわからなかった。

 このあと鉄筋コンクリートの小田原城の脇を通り、サルの檻の前を通り、駅の方へ向った。


 ただ、なにやらその前に大音量で音楽が鳴り響いている。誰かライブでもやっているのか。そう思って城を降りると、何やらイベントをやっていて、屋台がたくさん並び人もたくさんいる。そしてひらひらとした極彩色の衣装を着た一団があちらこちらにいる。

 ステージがあって音楽に合わせてダンスをしていた。「ODAWARAえっさホイおどり」というらしい。伝統的な踊りではなく新しく創作された踊りのようだ。
 ステージだけでなくお城の脇の道でも踊っている。まるでカーニバルだ。小田原ってこんなファンキーな町だったのか。踊りはグループ単位で、それぞれ工夫を凝らした衣装で、音楽も「お猿の駕籠屋」をアレンジして入るもののロックと伝統音楽が融合したような、昔はやった一世風靡セピアにも通じるが、それよりもはるかに複雑な構成を持っている。中にはノイジーなギターを用いた和製フォークメタルではないかいうようなものもある。これなど音源があったら欲しいくらいだ。

 あとで調べてわかったのだが、これは「よさこい系」と呼ばれる、高地を発祥として最近至る所の祭りで取り入れられてコンテストが行なわれ、ダンス


スクールなどが参加してかなりレベルの高いものになっている。その地域で曲の中に課題曲を取り入れ(ここでは「お猿の駕籠屋」)、あと、鳴子を使うのがルールらしい。衣装も音楽もダンスも基本的には和の要素が取り入れられている。振り付けは昔の田楽系のものが中心なのか、どこか鳥獣戯画で踊っている蛙を連想させる。
 パラパラだけでなくこういう日本独自のダンス文化が増えてくると、日本もまた楽しくなる。二〇二〇年のオリンピックの開会式でも、こういうものを取り入れるといいのではないかと思う。これならリオデジャネイロのサンバに対抗できる。
 今日見たのは弥雷、疾風乱舞、あと名前はよくわからなかったが、youtubeで見ることができる。
 このあとお土産に箱根ビールと焼き蒲鉾を買って帰った。今日も盛りだくさんの楽しい一日だった。 

10月14日

 今日は東海道の続きということで、小田原をスタートした。
 朝八時半ごろ小田原駅に着き、小田原城址公園を通って箱根口交差点で東海道に出た。途中お城の裏に猫がたくさんいた。
 前回行った山角天神社の前を通り、東海道線のガードをくぐるとすぐに居神(いがみ)神社があった。三浦荒次郎義意の御霊を祀った神社らしく、北條早雲に負けてさらし首になってもなお通行人をにらみ続けたと言う。狛犬は昭和三年の銘でどっしりと落ち着いた感じのするものだ。

 居神神社を出ると、すぐに今度は新幹線のガードがあり、その手前を右に曲がると旧道に入る。途中小さな牛頭天王の社がある。
 旧道はすぐに新道に戻るが、小田厚道路下をくぐるところからまた右に旧道が始まる。少し行くと風祭の一里塚跡があり、そこには風祭の道祖神があった。
 正面に仏像があって、後の石祠はただの四角い石なので、どれが道祖神なのかと思ったら、仏像だと思ってたのが伊豆型道祖神だった。
 風祭からしばらく旧道らしいゆるやかに曲がりくねった道が続く。やがて入生田の踏切を越え、ふたたび新道と合流する。交通安全の達磨の像がある。
 階段を登り箱根登山鉄道の線路脇を少し行って降りると、その先でふたたび旧道に入るが、すぐに工事現場に突き当たり、ふたたび新道に戻る。ここで道が交差していて、どっちに行くべきか迷う。真直ぐ行くと川を渡るが右が正解のようだ。この先の三枚橋で旧東海道は川を渡る。川をわたったっ所に双体道祖神像がある。

 ここから先は急な坂道の箱根湯本の温泉街で、どこか那須湯本を思い出す。やがて右側に早雲寺が見え、左に白山神社が見えてくる。白山神社の狛犬は大正五年銘で阿吽とも子取りで、吽形の方は足元に一匹と背中に一匹子獅子を従えている。
 境内社に稲荷神社があって昭和十五年銘のお狐さんがいる。

 温泉旅館の並ぶ道をさらに行くと、左の駐車場の奥に小さな鳥居が見える。厄除け石垣神社で、細い階段を登って行くと新道に出て、そこを歩道橋でまたぐと小さな神社があった。
 やがて右側に降りていく細い道があり、ここが旧道の旧道になる。江戸時代の石畳の道がそのまま残っている区間で、入口に近くで毛足の長い茶虎猫が食事中だった。
 石畳の道はかなり歩きづらい。昔の旅人はさぞかし大変だっただろう。急坂だし、平でない丸いままのごつごつした石はかなり足に負担が来る。お金があれば馬に乗りたい所だったのだろう。「箱根八里は馬でも越すが」というのはそういうことか。芭蕉もここは馬に乗っただろう。
 狭い石畳の道はすぐに終わり旧道に出る。狭い片側一車線の道で車が結構通る。旅館街は終わり、所々大きなホテルや旅館に入る道が分かれている。
 実のところ、今日は箱根湯本までが予定だった。ここから先はセーブポイントとなる駅が三島までない。歩くには急坂で、しかもこれからも石畳の道があるとすれば、かなりペースを落とさなくてはならない。とりあえず行けるところまで行って戻るつもりだ。
 次回は箱根湯本スタートで三島を目指さなくてはならないが、それまでにハイキングの装備を買い揃えたいものだ。


 右に箱根大天狗神社の第三駐車場があったが、それらしき神社の姿は見えない。かなり大きな駐車場だが、車は一台も止まっていない。その先には極彩色のお寺のようなものがあった。よく見ると金色の五重塔のようなものが見える。宗教法人箱根大天狗神社別院、浄土金剛宗天聖院と書いてあった。新興宗教の団体だろう。信者以外は入らないようにということだ。
 塀の上には金色の小さな狛犬がいくつも並んでいるが、その上に有刺鉄線が張ってあって物々しい。
 その先の左側には普通の神社らしい銅製の神明鳥居があり、参道に入ると何やら臭い。道一面に銀杏が落ちていて、踏まずには歩けない。社額には駒形神社と書いてあった。
 左側にお寺があり曽我兄弟ゆかりの地のようだった。その反対側には箱根大天狗神社の第二駐車場があり、その隅に小さな社には、お狐さんと蛙と観音様に加えて二宮金次郎の像まであった。何だかアナーキー。

 左側に須雲川自然探勝歩道の看板があり、遊歩道の地図もあった。元箱根へ行く遊歩道だがハイキングコースで旧東海道ではない。
 その先道が大きくカーブしたところに真っ赤な大きな鳥居が見えた。鳥居の横には真新しい大きな狛犬があって神社なのだが、鳥居の所になぜか天使が‥‥。それも顔がアジア的であまり可愛くない。ここが箱根大天狗神社だ。
 門には日本で唯一の幼神神社と書いてある。怖いもの見たさで入ってみると、中は恐ろしく混沌とした極彩色の世界だった。観音さんやら如来仏やらお狐さんやらお不動さんやら、いろいろなものが混在しているし、天使もいたるところにいる。狛犬も平成の真新しいものがあちこちにあり、玉に乗ったライオンの像もある。
 聖石と書かれた社というよりはショーウインドウのような建物があり、御神体の石の周りにはブリリアントカットの大きな宝石みたいな物が散らばっている。セイクリットセブンか。
 天狗茶屋という食堂もあるが、従業員らしき人がいるだけで、入る気はしない。入ったらきっと勧誘されるんだろうな。


 書いてある説明によると、この神社は水子の霊を幼神と呼んで、日本唯一の幼神神社と言っているようだ。幼神は幼い穢れのない心を持ったもので、神々と観音様に守られ神界へ帰っていくのだそうだが、なぜか幼神達はすぐに帰れるのではなく我々人間が救わなくては帰れないらしい。
 神様というのは人間を救ってくれるものだと思っていたが、幼神は人間に救われなくてはならないようだ。ようするにアレが要るということなのか。地獄の沙汰も何とやらの。

 さて、何やら凄いものを見てしまったところで、今日はここいらで引き返すことにした。箱根湯本と言うと宗祇法師の終焉の地があるはずなのだが、街道沿いではなかったのか、まだ見ていないし。

 あの石畳の所まで戻ると、さっきお食事中だった猫の1匹がのんびり道の脇で寝そべっていた。温泉街まで戻ると、さっきは見落としていた一里塚跡の碑を見つけた。
 川の方を降りて行く道を行くと、箱根湯本駅に近い賑やかな通りに出る。その奥に熊野神社の幟の立っているところがあり、右には「箱根温泉発祥之地」の石碑、神湯源泉と書かれたコンクリートの建物があった。その裏側に「連歌師宗祇焉の地」の碑があった。
 説明には「このあたりかと思われる湯本の旅宿で亡くなりました」と書いてある。何か歯切れが悪い。ようするにはっきりしないが、初期の温泉宿だから温泉発祥の地のところからそう遠くなかっただろう、ということか。
 「宗祇は俳聖松尾芭蕉が敬慕したことでも、よく知られ」とも書いてある。確かに「野ざらし紀行」で箱根を越える時に、芭蕉が秋なのに「霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き」という句を詠んだのは、「世にふるもさらに時雨の宿りかな」の句を呼んだ宗祇法師を意識していたのだろう。


 宗祇終焉の地から石段を登って行くと熊野神社があり、金網のかごに入った一対の小ぶりな狛犬があった。古いのかと思ったら昭和三十四年の銘で、それにしては状態が悪くて、金網で囲っている。境内には「梁塵秘抄」の「遊びをせんとや生まれけむ」の歌を刻んだ新しい双体道祖神像があった。