「春めくや」の巻、解説

貞享三年二月十八日、重五亭

初表

   曙見んと、人々の戸扣きあひて、熱田の

   かたにゆきぬ。渡し舟さはがしくなりゆく

   比、幷松のかたも見えわたりて、いとのど

   かなり、重五が枝折をける竹墻ほどちかさ

   にたちより、けさのけしきをおもひ出侍る

   二月十八日

 春めくや人さまざまの伊勢まいり 荷兮

   櫻ちる中馬ながく連     重五

 山かすむ月一時に館立て     雨桐

   鎧ながらの火にあたる也   李風

 しほ風によくよく聞ば鷗なく   昌圭

   くもりに沖の岩黒く見え   執筆

 

初裏

 須磨寺に汗の帷子脱かへむ    重五

   をのをのなみだ笛を戴く   荷兮

 文王のはやしにけふも土つりて  李風

   雨の雫の角のなき草     雨桐

 肌寒み一度は骨をほどく世に   荷兮

   傾城乳をかくす晨明     昌圭

 霧はらふ鏡に人の影移り     雨桐

   わやわやとのみ神輿かく里  重五

 鳥居より半道奥の砂行て     昌圭

   花に長男の帋鳶あぐる比   李風

 柳よき陰ぞここらに鞠なきや   重五

   入かかる日に蝶いそぐなり  荷兮

 

 

二表

 うつかりと麦なぐる家に連待て  李風

   かほ懐に梓ききゐる     李風

 黒髪をたばぬるほどに切残し   荷兮

   いともかしこき五位の針立  昌圭

 松の木に宮司が門はうつぶきて  雨桐

   はだしの跡も見えぬ時雨ぞ  重五

 朝朗豆腐を鳶にとられける    昌圭

   念仏さぶげに秋あはれ也   李風

 穂蓼生ふ蔵を住ゐに侘なして   重五

   我名を橋の名によばる月   荷兮

 傘の内近付になる雨の昏に    李風

   朝熊おるる出家ぼくぼく   雨桐

 

二裏

 ほととぎす西行ならば哥よまん  荷兮

   釣瓶ひとつを二人してわけ  昌圭

 世にあはぬ局涙に年とりて    雨桐

   記念にもらふ嵯峨の苣畑   重五

 いく春を花と竹とにいそがしく  昌圭

   弟も兄も鳥とりにゆく    李風

 

      参考;『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)

初表

発句

 

   曙見んと、人々の戸扣きあひて、熱田の

   かたにゆきぬ。渡し舟さはがしくなりゆく

   比、幷松のかたも見えわたりて、いとのど

   かなり、重五が枝折をける竹墻ほどちかさ

   にたちより、けさのけしきをおもひ出侍る

   二月十八日

 春めくや人さまざまの伊勢まいり 荷兮

 

 熱田の宮宿は七里の渡しの乗り場でもあり、朝早く京や伊勢へと旅立つ人が渡し場に押し寄せる。「曙見んと」はそんな夜明けをわざわざ見に行ったか。

 春ともなると、伊勢参りの人も多く、身分も様々でそれをそのまま発句にして、重五の家に集まり、今回の興行となったのだろう。

 

季語は「春めく」で春。神祇。「人」は人倫。「伊勢」は名所。

 

 

   春めくや人さまざまの伊勢まいり

 櫻ちる中馬ながく連       重五

 (春めくや人さまざまの伊勢まいり櫻ちる中馬ながく連)

 

 「連」は「つれ」と読む。

 二月十八日で桜は早い気もする。この年の二月十八日は新暦の三月十二日になる。伊勢参りに賑わいで街道を延々と馬が連なり、そこに花が散れば、まさにこの世の春爛漫という感じがする。

 

季語は「櫻」で春、植物、木類。旅体。「馬」は獣類。

 

第三

 

   櫻ちる中馬ながく連

 山かすむ月一時に館立て     雨桐

 (山かすむ月一時に館立て櫻ちる中馬ながく連)

 

 「一時」は「いちどき」か。「館」はここでは「イエ」と読ませている。かなり大きな武家屋敷であろう。馬を連ねて明け方に花見に出発する。

 

季語は「かすむ」で春、聳物。旅体。「山」は山類。「月」は夜分、天象。

 

四句目

 

   山かすむ月一時に館立て

 鎧ながらの火にあたる也     李風

 (山かすむ月一時に館立て鎧ながらの火にあたる也)

 

 前句の「館」を砦の館として、出陣風景とした。朝はまだ寒いので焚き火をして暖を取っている。

 

無季。「鎧」は衣裳。

 

五句目

 

   鎧ながらの火にあたる也

 しほ風によくよく聞ば鷗なく   昌圭

 (しほ風によくよく聞ば鷗なく鎧ながらの火にあたる也)

 

 海辺での野営とする。

 

 海暮れて鴨の声ほのかに白し   芭蕉

 

という貞享元年の熱田での句を思い起こさせる。

 

無季。「しほ風」は水辺。「鷗」は水辺、鳥類。

 

六句目

 

   しほ風によくよく聞ば鷗なく

 くもりに沖の岩黒く見え     執筆

 (しほ風によくよく聞ば鷗なくくもりに沖の岩黒く見え)

 

 鷗の声に海辺の景を軽く付ける。連衆の一巡したところで執筆が一句詠む。

 

無季。「沖」は水辺。

初裏

七句目

 

   くもりに沖の岩黒く見え

 須磨寺に汗の帷子脱かへむ    重五

 (須磨寺に汗の帷子脱かへむくもりに沖の岩黒く見え)

 

 海辺の景色なので、名所を出す。帷子は一重の着物で、夏に転じる。

 須磨寺はウィキペディアに、

 

 「「須磨寺略歴縁起」によると平安時代の初め、漁師が和田岬の沖で聖観音像を引き上げた。その聖観音像を安置するために淳和天皇の勅命によって恵偈山北峰寺が建立された。そして仁和2年(886年)に光孝天皇の勅命によって聞鏡上人が上野山福祥寺を建立し、北峰寺よりその本尊である聖観世音菩薩像を遷して福祥寺の本尊としたのが始まりとされている[1]。しかし、「当山歴代」(県指定文化財)によれば、本尊聖観世音は嘉応元年(1169年)に源頼政が安置したとする。」

 

とある。

 

季語は「帷子」で夏、衣裳。「須磨寺」は名所。

 

八句目

 

   須磨寺に汗の帷子脱かへむ

 をのをのなみだ笛を戴く     荷兮

 (須磨寺に汗の帷子脱かへむをのをのなみだ笛を戴く)

 

 須磨寺は一ノ谷の戦いの時の義経の陣があった所と言われている。敦盛遺愛の笛が残されている。平家物語に描かれた敦盛の悲劇は謡曲や幸若舞となってよく知られていた。

 

無季。

 

九句目

 

   をのをのなみだ笛を戴く

 文王のはやしにけふも土つりて  李風

 (文王のはやしにけふも土つりてをのをのなみだ笛を戴く)

 

 『芭蕉七部集』の中村注に、

 

 「文王─中国周の天子。かつて王が霊囿台を造ろうとすると、民は王の徳に感じて喜んで協力したので忽ち成就したという故事による。」

 

とある。「霊囿(れいゆう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「(「霊」は神聖の意、「囿」は園内に一定の区域を定めて禽獣を養うところ) 周の文王が禽獣を放し飼いにした園。

  ※太平記(14C後)一二「周の文王の霊囿に准へ」 〔詩経‐大雅・霊台〕

 

とある。

 出典は『詩経』「大雅」の文王之什の「靈臺」という詩で、

 

 経始靈臺 經之營之

 庶民攻之 不日成之

 

 經始勿亟 庶民子來

 王在霊囿 麀鹿攸伏

 

 麀鹿濯濯 白鳥翯翯

 王在靈沼 於牣魚躍

 

 虡業維樅 賁鼓維鏞

 於論鼓鍾 於樂辟廱

 

 於論鼓鍾 於樂辟廱

 鼉鼓逢逢 矇瞍奏公

 

(物見台を作りはじめ、作りそして営む

 庶民の働きで、あっという間に出来上がる

 急がなくてもいいと言っても、庶民は親を慕う子の如く

 文王が動物園にいれば、雌鹿が安らう

 雌鹿はふくふくとして、白鳥はきらめく

 文王が沼で魚を飼えば、たくさんの魚が躍る

 編鐘を吊れば橦木があり、太鼓があれば撥がある

 鐘と太鼓を並べれば、何て楽しい礼楽堂

 鐘と太鼓を並べれば、何て楽しい礼楽堂

 火炎太鼓がごうごうと、盲目の楽士の名演奏)

 

 ほぼこの出典の通り、周の文王が囃し立てれば、庶民は次々と土を運び、やがてうれし涙に笛を吹く。

 

無季。

 

十句目

 

   文王のはやしにけふも土つりて

 雨の雫の角のなき草       雨桐

 (文王のはやしにけふも土つりて雨の雫の角のなき草)

 

 前句の「はやし」を林として、そに土を運び込み、雨が降って柔らかな草が生えてくる。

 

無季。「雨」は降物。「草」は植物、草類。

 

十一句目

 

   雨の雫の角のなき草

 肌寒み一度は骨をほどく世に   荷兮

 (肌寒み一度は骨をほどく世に雨の雫の角のなき草)

 

 前句を墳墓として、肌寒い中、故人を偲ぶ。

 

季語は「肌寒み」で秋。

 

十二句目

 

   肌寒み一度は骨をほどく世に

 傾城乳をかくす晨明       昌圭

 (肌寒み一度は骨をほどく世に傾城乳をかくす晨明)

 

 「晨明」は「ありあけ」と読む。

 前句の「骨をほどく」を骨を休めるの意味として、緊張感なく乳を露出させていた遊女も、後朝の時にはきちんと身なりを整える。

 

季語は「晨明」で秋、夜分、天象。恋。「傾城」は人倫。

 

十三句目

 

   傾城乳をかくす晨明

 霧はらふ鏡に人の影移り     雨桐

 (霧はらふ鏡に人の影移り傾城乳をかくす晨明)

 

 曇ってた鏡を拭いたら人の影が映って、あわてて乳を隠す。

 

季語は「霧」で秋、聳物。「人」は人倫。

 

十四句目

 

   霧はらふ鏡に人の影移り

 わやわやとのみ神輿かく里    重五

 (霧はらふ鏡に人の影移りわやわやとのみ神輿かく里)

 

 「わやわやと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)

  ① 多くの人が騒がしく声をたてるさま、騒々しく言いたてるさまを表わす語。わいわい。〔日葡辞書(1603‐04)〕

  ※浮世草子・好色五人女(1686)四「わやわやと火宅の門は車長持ひく音」

  ② 怒りなどが胸の奥底からこみあげてくるさまを表わす語。むらむら。

  ※浄瑠璃・信田小太郎(1702頃)二「わやわやと腹を立」

 

とある。

 御神体の鏡を綺麗に磨き上げ、今日は祭りで大勢の氏子がわいわいがやがやと神輿を担ぐ。

 

無季。神祇。「里」は居所。

 

十五句目

 

   わやわやとのみ神輿かく里

 鳥居より半道奥の砂行て     昌圭

 (鳥居より半道奥の砂行てわやわやとのみ神輿かく里)

 

 「半道」はこの場合「はんみち」か。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 一里の半分。半里。

  ※サントスの御作業(1591)一「Charamandel トユウ クニ ヨリ fanmichi(ハンミチ) ホド アル ハマ ニ アリ」

  ② 全行程の半分。半途。〔改正増補和英語林集成(1886)〕」

 

とある。この場合は②の意味。

 鳥居と御神体との中間あたりの砂を敷き詰めたところで大勢で神輿を担いで盛り上がる。

 

無季。神祇。

 

十六句目

 

   鳥居より半道奥の砂行て

 花に長男の帋鳶あぐる比     李風

 (鳥居より半道奥の砂行て花に長男の帋鳶あぐる比)

 

 「長男」は「ヲトナ」、「帋鳶」は「タコ」と仮名が振ってある。

 花の咲く神社の境内で大人が凧揚げをする。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「長男」は人倫。

 

十七句目

 

   花に長男の帋鳶あぐる比

 柳よき陰ぞここらに鞠なきや   重五

 (柳よき陰ぞここらに鞠なきや花に長男の帋鳶あぐる比)

 

 蹴鞠というと王朝貴族のイメージがあるが、ウィキペディアには、

 

 「江戸時代前半に、中世に盛んだった技芸のいくつかが町人の間で復活したが、蹴鞠もその中に含まれる。公家文化に触れることの多い上方で盛んであり、井原西鶴は『西鶴織留』で町民の蹴鞠熱を揶揄している。」

 

とある。元禄三年刊之道編の『江鮭子(あめこ)』にも、

 

 椑柿(きざはし)や鞠のかかりの見ゆる家 珍碩

 

の句がある。

 柳の下なら鞠が当たって花を散らすこともなく、蹴鞠をするにはいい場所だが、誰か鞠を持ってないか。横では花の下で凧揚げをしている人がいる。

 

季語は「柳」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   柳よき陰ぞここらに鞠なきや

 入かかる日に蝶いそぐなり    荷兮

 (柳よき陰ぞここらに鞠なきや入かかる日に蝶いそぐなり)

 

 どこかへ飛んでいった鞠を探していると日も暮れかかる。

 

季語は「蝶」で春、虫類。「日」は天象。

二表

十九句目

 

   入かかる日に蝶いそぐなり

 うつかりと麦なぐる家に連待て  李風

 (うつかりと麦なぐる家に連待て入かかる日に蝶いそぐなり)

 

 「うつかり」は「うつけ」からきた言葉で、ぼんやりとしていること。「なぐる」はん「なぐ(和ぐ、凪ぐ)か。風もなく畠の麦が微動だにしない穏やかな日をぼんやりと連れを待っていて、いつの間にか日が暮れてしまった。

 

無季。「麦」は植物、草類。「家」は居所。

 

二十句目

 

   うつかりと麦なぐる家に連待て

 かほ懐に梓ききゐる       李風

 (うつかりと麦なぐる家に連待てかほ懐に梓ききゐる)

 

 「梓」は『芭蕉七部集』の中村注に梓巫女のこととある。ウィキペディアに、

 

 「梓巫女(あずさみこ)とは、特定の神社に属せずに各地を渡り歩いて託宣や呪術を行っていた巫女のことで、他にも「市子」等様々な呼称があった。主に東国を中心に活躍していた。

 梓巫女は梓弓を鳴らしながら神降ろしの呪文を唱えて、神懸かりを行って生霊や死霊を呼び出して(口寄)、その霊に仮託して託宣や呪術を行う(神語り)。津軽地方のいたこには弓の弦を棒で叩いて口寄せを行う者がおり、梓巫女と同系列であるとされている。三陸地方のオカミンの場合には「インキン」と呼ばれる鉦を鳴らして口寄せを行う者がいる。

 中世以後における八幡信仰や神明信仰の普及、語り物の発生、オシラ祭文などの伝承に梓巫女が深く関わっていたと考えられている。」

 

とある。

 「かほ懐に」は袖で顔を隠して、ということで、扇子の骨の間から垣間見るしぐさと同様、怪しげなものを見る時の顔を覆う仕草だろう。梓巫女の物語を聞き入る。

 

無季。

 

二十一句目

 

   かほ懐に梓ききゐる

 黒髪をたばぬるほどに切残し   荷兮

 (黒髪をたばぬるほどに切残しかほ懐に梓ききゐる)

 

 前句を亡き夫の霊を口寄せで呼び出した貰ったとし、喪に服して髪をやや長めの尼削ぎにしている女性を登場させる。

 

無季。

 

二十二句目

 

   黒髪をたばぬるほどに切残し

 いともかしこき五位の針立    昌圭

 (黒髪をたばぬるほどに切残しいともかしこき五位の針立)

 

 宮廷で天皇に拝謁するには五位以上の官位が必要とされる。前句を天皇の体を診る尼形の鍼灸師とした。

 

無季。「針立」は人倫。

 

二十三句目

 

   いともかしこき五位の針立

 松の木に宮司が門はうつぶきて  雨桐

 (松の木に宮司が門はうつぶきていともかしこき五位の針立)

 

 「宮司」はウィキペディアによると、

 

 「古くは、宮は皇族の住まいを指し、宮司は春宮・中宮などの宮につかえる官のことを指した。後に神社の造営や徴税を行う者のことになり、さらに祭祀を行う神職者のことを指すようになった。

 地方における特筆すべき宮司としては、中世期・熊本県の中部一帯を支配し、九州一円や朝廷まで影響力があった阿蘇氏の存在がある。

 阿蘇氏は「大宮司」の職位を得て、代々、朝廷から従二位や正三位などの位階を与えられていた。」

 

とある。明治以降の制度での宮司とはだいぶイメージが違ってなのではないかと思う。

 この句の場合は官位争いに敗れた宮司と見てもいいのではないかと思う。宮司の御祓いが鍼灸治療に負けたということで。

 

無季。神祇。「松の木」は植物、木類。「宮司」は人倫。

 

二十四句目

 

   松の木に宮司が門はうつぶきて

 はだしの跡も見えぬ時雨ぞ    重五

 (松の木に宮司が門はうつぶきてはだしの跡も見えぬ時雨ぞ)

 

 うつむいてたのは泥棒に入られたからだった。手がかりになりそうな足跡も時雨が消して行く。

 

季語は「時雨」で冬、降物。

 

二十五句目

 

   はだしの跡も見えぬ時雨ぞ

 朝朗豆腐を鳶にとられける    昌圭

 (朝朗豆腐を鳶にとられけるはだしの跡も見えぬ時雨ぞ)

 

 これは「トンビに油揚げをさらわれる」ということか。 あいてがトンビでは足跡は残らない。

 豆腐は精進料理には欠かせないもので、貴重なたんぱく源だった。特に油揚げはカロリーも補える。

 元禄四年七月の「牛部屋に」の巻の三十四句目に、

 

   手に持し物見うしなふいそがしさ

 油あげせぬ庵はやせたり     野童

 

とある。今は高カロリーは嫌われるが、昔のお寺は常にカロリー不足だった。

 

無季。「鳶」は鳥類。

 

二十六句目

 

   朝朗豆腐を鳶にとられける

 念仏さぶげに秋あはれ也     李風

 (朝朗豆腐を鳶にとられける念仏さぶげに秋あはれ也)

 

 豆腐から精進、お寺という連想は自然で、油揚げ盗られてカロリー不足で念仏の声も寒そうだ。

 

季語は「秋」で秋。釈教。

 

二十七句目

 

   念仏さぶげに秋あはれ也

 穂蓼生ふ蔵を住ゐに侘なして   重五

 (穂蓼生ふ蔵を住ゐに侘なして念仏さぶげに秋あはれ也)

 

 「穂蓼(ほたで)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 タデの花穂。穂は赤く、頂きに白い花をつける。《季・秋》

  ※新撰六帖(1244頃)六「鷺のとぶ川辺のほたてくれなゐに夕日さびしき秋の水かな〈藤原家良〉」

 

とある。

 蓼にもいろいろ種類があって、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「広義にはタデ科タデ属Polygonumのなかでもっともタデらしい形のペルシカリア節Persicariaの総称であるが、狭義には香辛料に用いるヤナギタデP. hydropiper L.をさす。この節に属するものはすべて草本で、北半球に約100種、日本に20余種ある。葉は互生し単葉で全縁、葉鞘(ようしょう)は筒状。花は両性または単性で、穂状または総状の花序をなし、花被片は5または4枚で、果実期にも宿存して果実を包む。雄しべは4~8本、花柱は2か3で、普通は一部が合着する。柱頭は頭状、痩果(そうか)はレンズ状または三稜(さんりょう)形で熟したのちは花被(かひ)とともに脱落する。

 この節のものは陸地生と水辺生に大きく分けられる。陸地生はすべて一年生で、茎や葉に毛の多いオオケタデ、ニオイタデ、ネバリタデ、オオネバリタデと、茎や葉に毛がないか少ないアイ(タデアイ)、イヌタデ(アカマンマ)、ハナタデ、ハルタデ、サナエタデ、オオイヌタデなどがある。水辺生には多年生で地下茎を引くエゾノミズタデ、サクラタデ、シロバナサクラタデと、一年生で地下茎を引かないヌカボタデ、ヤナギヌカボ、ヤナギタデ、ボントクタデ、ホソバイヌタデ、ヒメタデ、シマヒメタデなどがある。これらのうち、アイは本州中部以西で栽培されて藍(あい)染めの原料とし、オオケタデは観賞用に庭に植えられる。[小林純子]

 ヤナギタデは一年草であるが暖地では多年草となる。日本原産で、ホンタデ(本蓼)、マタデ(真蓼)ともいう。水辺の湿地に生え、高さ50センチメートルほど。葉は互生し先のとがった広披針(こうひしん)形で長さ5~10センチメートル。秋口に白に紅が入った小花をまばらな穂状につける。果実は三角形で黒褐色。葉に辛味があり、香辛野菜とされ、以下に示すいくつかの変種が栽培されている。ベニタデは葉と茎に濃紅紫色の色素がある品種で、植物全体が赤色である。収穫した種子を貯蔵しておき、随時、浅い容器に砂を敷いた床で発芽させ、双葉の開いたとき根元からていねいに切り取って収穫する。ホソバタデは葉が細かく柔らかい品種で、茎葉は紫色を帯びる。アオタデは葉が緑色の品種である。アザブタデも葉が緑色の品種で、江戸時代から江戸の麻布あたりで栽培され、エドタデともよばれ、全体に小形で、葉もやや細く、枝葉が密につく。アザブタデのうち、とくに葉の細い系統はイトタデとよばれる。[星川清親]」

 

とある。和歌に詠まれていたのはヤナギタデであろう。

 本来川辺の水運のための倉庫だったのを、使わなくなっていたのでそこの住みついたのだろう。『冬の日』の「狂句こがらし」の巻七句目の

 

    ひのちりちりに野に米を刈かる

 わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水

 

もそういう人だったのか。

 一頃のニューヨークでも海岸の倉庫に住むというのがアーチストの間ではやったことがあったが、ただ、倉庫はやはり寒いのではないかと思う。

 

季語は「穂蓼」で秋、植物、草類。「住ゐ」は居所。

 

二十八句目

 

   穂蓼生ふ蔵を住ゐに侘なして

 我名を橋の名によばる月     荷兮

 (穂蓼生ふ蔵を住ゐに侘なして我名を橋の名によばる月)

 

 橋の近くに住んでいると、いつの間にか橋下さんになってしまったりして。

 『徒然草』にも榎の僧正の話もあるし、人をあだ名で呼ぶというのはなかなか止められるものではない。むしろあだ名がつかない方が寂しい気もする。

 「串に鯨をあぶる盃 桐葉」が現代語だと「串で鯨を」になると同様、この句の「に」には今の「で」になる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「我」は人倫。「橋」は水辺。

 

二十九句目

 

   我名を橋の名によばる月

 傘の内近付になる雨の昏に    李風

 (傘の内近付になる雨の昏に我名を橋の名によばる月)

 

 夕暮れに雨が降ってきたので、雨宿りしてるひとを傘に入れてあげて、それがきっかけでお近づきになる。「名乗るほどでもありません」と言ったら橋の名で呼ばれた。

 

無季。「雨」は降物。

 

三十句目

 

   傘の内近付になる雨の昏に

 朝熊おるる出家ぼくぼく     雨桐

 (傘の内近付になる雨の昏に朝熊おるる出家ぼくぼく)

 

 朝熊は伊勢神宮の東側にある朝熊山。今は朝熊ヶ岳になっている。南西にある谷が西行谷になる。

 「ぼくぼく」は歩くときに用いられる。

 

 一僕とぼくぼくありく花見哉   季吟

 馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな 芭蕉

 

のように用いられる。

 

無季。釈教。「朝熊」は名所。「出家」は人倫。

二裏

三十一句目

 

   朝熊おるる出家ぼくぼく

 ほととぎす西行ならば哥よまん  荷兮

 (ほととぎす西行ならば哥よまん朝熊おるる出家ぼくぼく)

 

 この句は貞享元年に芭蕉が西行谷で詠んだ、

 

   西行谷の麓に流れあり

   をんなどもの芋あらふを見るに

 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ   芭蕉

 

を思い起こした句だ。当時はまだこの句は俳書に発表されてなかったが、この『野ざらし紀行』の旅でこのあと名古屋で荷兮らと『冬の日』の興行が行われていたので、知っていてもおかしくはあるまい。

 

季語は「ほととぎす」で夏、鳥類。

 

三十二句目

 

   ほととぎす西行ならば哥よまん

 釣瓶ひとつを二人してわけ    昌圭

 (ほととぎす西行ならば哥よまん釣瓶ひとつを二人してわけ)

 

 これは、

 

 さびしさに堪へたる人の又もあれな

     いほりならべん冬の山ざと

             西行法師(山家集)

 

であろう。庵を並べれば井戸の水も分け合って使う。

 

無季。「二人」は人倫。

 

三十三句目

 

   釣瓶ひとつを二人してわけ

 世にあはぬ局涙に年とりて    雨桐

 (世にあはぬ局涙に年とりて釣瓶ひとつを二人してわけ)

 

 局(つぼね)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「宮殿内の屏風や几帳 (きちょう) などで区画されて設けられた部屋,転じてそこに居住を許された女房などをいう。局の称は,『令義解 (りょうのぎげ) 』に「太政官内総有三局 (少納言局,左弁官局,右弁官局) 」を初見とし,以来,江戸時代まで,宮廷に奉仕する女官や幕府の大奥の女中などの称として用いられた。」

 

とある。

 世に入れられなくて隠棲する女性として、水を分けてもらっている。

 

無季。「局」は人倫。

 

三十四句目

 

   世にあはぬ局涙に年とりて

 記念にもらふ嵯峨の苣畑     重五

 (世にあはぬ局涙に年とりて記念にもらふ嵯峨の苣畑)

 

 局(つぼね)で嵯峨というと小督局(こごうのつぼね)であろう。ウィキペディアに、

 

 「小督(こごう、保元2年(1157年) - 没年不詳)は、平安時代末期の女性。本名は不明(角田文衞説では成子とされる)。藤原通憲(信西)の孫。桜町中納言・藤原成範の娘。高倉天皇の後宮。」

 

とある。平清盛に疎まれ、嵯峨に身を隠す。この物語は謡曲『小督』にもなっている。

 この時代の嵯峨の辺りは京の市街地に供給するための野菜畑がたくさんあったのだろう。

 苣(ちさ)はレタスのことだが、昔の日本にあったのは韓国のサンチュに近いものだったという。大阪本場青果卸売協同組合のホームページの「協子さんの知っ得ノート」に、東に伝播したレタスはチシャと呼ばれ、中国の隋の時代に盛んに栽培され、そこから韓国や日本に広がったという。日本では近代になって西洋レタスに押されて取って代わられていった。

 これとは別に唐苣(とうちさ)というのもあって、『冬の日』の「狂句こがらし」の巻の二十四句目に、

 

   笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨

 冬がれわけてひとり唐苣     野水

 

の句があるが、これはスイスチャードのことだという。

 

無季。「嵯峨」は名所。

 

三十五句目

 

   記念にもらふ嵯峨の苣畑

 いく春を花と竹とにいそがしく  昌圭

 (いく春を花と竹とにいそがしく記念にもらふ嵯峨の苣畑)

 

 嵐山は花の名所で、嵯峨には竹林も多い。

 春が終わる頃は花見で人も賑わうし、それが終われば筍も生えてきて、その上に畑の苣も収穫期になる。

 

季語は「いく春」で春。「花」も春で植物、木類。「竹」は植物、草でも木でもない。

 

挙句

 

   いく春を花と竹とにいそがしく

 弟も兄も鳥とりにゆく      李風

 (いく春を花と竹とにいそがしく弟も兄も鳥とりにゆく)

 

 花見の御馳走のために鳥を獲りに行くということか。季語がないが挙句だからいいのか。

 鳴鳥狩(ないとがり)の意味なら春になる。

 

無季。「弟」「兄」は人倫。「鳥」は鳥類。