「口切に」の巻、解説

初表

   支梁亭口切

 口切に境の庭ぞなつかしき    芭蕉

   笋見たき薮のはつ霜     支梁

 山雀の笠に縫べき草もなし    嵐蘭

   秋の野馬の様々の形     利合

 旅人の咄しに月の明わたり    洒堂

   大戸をあげに出る裸身    岱水

 

初裏

 鶏のたま子の数を産そろへ    桐奚

   あらたに橋をふみそむる也  也竹

 緑さす六田の柳堀植て      支梁

   掛菜春めく打大豆の汁    芭蕉

 細かなる雨にもしぼる蝶のはね  利合

   鎧かなぐる空坊の縁     洒堂

 ばらばらと銭落したる石のうへ  岱水

   酒で乞食の成やすき月    嵐蘭

 行雲の長門の国を秋立て     洒堂

   露に朽けむ一腰の鈷     支梁

 西日入ル花は庵の間半床     也竹

   苣の二葉のもえてほのめく  桐奚

 

 

二表

 みや古をば去年の行脚に思れて  利合

   兒にまたるる釈迦堂のくれ  洒堂

 咲初て忍ぶたよりも猿すべり   芭蕉

   鳥のなみだか枇杷のうすいろ 嵐蘭

 凡卑して鎖すともなき旅の宿   桐奚

   清げに注連をはゆる社家町  也竹

 日盛に鰡売聲を夢ごころ     洒堂

   みよしの房の双ぶ川口    支梁

 水つきの稲のしづくに肩重し   利合

   はえ黄みたる門前の坂    嵐蘭

 皮剥の者煮て喰ふ宵の月     芭蕉

   上毛吹るるしろほろの鷲   桐奚

 

二裏

 谷づたひ流しかけたる竹筏    也竹

   太刀持ばかりふたごころなき 洒堂

 物音も簾静におろしこめ     嵐蘭

   盆に筭ゆる丸薬の数     支梁

 花盛御室の道の人通り      桐奚

   麦と菜種の野は錦也     利合

 

      参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

初表

発句

   支梁亭口切

 口切に境の庭ぞなつかしき    芭蕉

 

 口切(くちきり)はコトバンクの「世界大百科事典内の口切の茶事の言及」に、

 

 「…茶の湯では,11月になると宇治の茶園から届けられた,その年の初夏に摘んだ新茶を詰めた茶壺の口封を切って葉茶を取り出し,ただちに茶臼で碾(ひ)いて粉末にして,茶を喫する。この行事を〈口切(くちきり)の茶事〉と称してきわめて重要視されている。抹茶の場合,その年の新茶は,壺の中に入れ山頂の冷処において夏を越させるのがよいとされるが,これは茶壺にほどよい通気性があって葉茶の熟成を助けるものと考えられていたからである。…」

 

とある。抹茶は晩春から初夏にかけて収穫した葉を蒸して乾燥させて碾茶を作り、それを茶壺に詰めて熟成させる。今は新暦十一月に行うが、江戸時代は旧暦の十月に口切を行った。

 「境の庭」は千利休の出身地の堺の庭のことだとされている。堺で千利休ゆかりの庭園というと、南宗寺庭園だろうか。ウィキペディアには、

 

 「庭園(国指定名勝) - 枯山水庭園。方丈南側にある。元和5年(1619年)頃の築造と推定される。寺伝では古田織部の作と伝えられる。」

 

とある。

 また、ネット上の木村三郎さんの『茶之湯庭苑正流論考』に、

 

 「『石州百箇条』(1665)も「利休堺の路地は海見へ候てよき景なり。それを利休海のかたを植えか くして見へぬやうにて少しばかり手水鉢などつかひ候所より見え候やうにとり候也。是にて合点ある事也。宗祇(1502没)発句に(海すこし庭にいつみの木の間かな)という句を利休愛して常に吟じ路次を作りしと也。」

 

とある。この一文を踏まえて堺の庭と言った可能性もある。ただ、これが今日の千利休屋敷跡と結びつくのかどうかは定かでない。

 芭蕉は『笈の小文』の旅の途中、貞享五年四月十三日から十九日まで大阪に滞在しているが、南宗寺庭園や千利休屋敷跡を見たかどうかは不明。見たとしたら却って自慢話のように聞こえてしまうので、ここは支梁亭の庭を見て、利休も懐かしがるような庭ですね、と褒めておいたと見る方が良いだろう。

 

季語は「口切」で冬。

 

 

   口切に境の庭ぞなつかしき

 笋見たき薮のはつ霜       支梁

 (口切に境の庭ぞなつかしき笋見たき薮のはつ霜)

 

 冬のタケノコといえば二十四孝の孟宗の故事であろう。病気になった母がタケノコが食べたいというので、冬の雪の中で天に祈ったら、雪が解けてタケノコが出てきたという話だ。

 前句の利休も懐かしがるような庭だと褒められたところで、そういう芭蕉さんこそ、私は母を慕う孟宗のようにあなたを慕ってます、と応じる。

 

季語は「はつ霜」で冬、降物。

 

第三

 

   笋見たき薮のはつ霜

 山雀の笠に縫べき草もなし    嵐蘭

 (山雀の笠に縫べき草もなし笋見たき薮のはつ霜)

 

 山雀の笠は、元禄二年冬の「いざ子ども」の巻十七句目に、

 

   笛によりける藪の山雀

 へし折ば雫に濡る花の笠     土芳

 

の句があるが、どういう縁なのかはよくわからない。山雀が春に巣を作る時に苔を運んでいる姿を、山雀の笠と言ったのか。

 霜枯れで山雀の笠にするような草もない。

 

季語は「山雀」で秋、鳥類。

 

四句目

 

   山雀の笠に縫べき草もなし

 秋の野馬の様々の形       利合

 (山雀の笠に縫べき草もなし秋の野馬の様々の形)

 

 日本の馬は基本的に放牧場で放し飼いにされ、特に血統の管理もなく勝手に繁殖させていた。

 秋はこうした馬を捕獲して販売する季節だったか、様々な形(なり)というのは、その売られてゆく姿なのだろう。

 

季語は「秋」で秋。「野馬」は獣類。

 

五句目

 

   秋の野馬の様々の形

 旅人の咄しに月の明わたり    洒堂

 (旅人の咄しに月の明わたり秋の野馬の様々の形)

 

 前句を旅人の咄の内容とし、世を徹して語り明かした明方とする。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「旅人」は人倫。

 

六句目

 

   旅人の咄しに月の明わたり

 大戸をあげに出る裸身      岱水

 (旅人の咄しに月の明わたり大戸をあげに出る裸身)

 

 話に夢中になって夜が明けたので、慌てて裸で飛び出して戸を開ける。

 

無季。「大戸」は居所。

初裏

七句目

 

   大戸をあげに出る裸身

 鶏のたま子の数を産そろへ    桐奚

 (鶏のたま子の数を産そろへ大戸をあげに出る裸身)

 

 大戸を開けるついでに鶏の卵の様子を見る。

 

無季。「鶏」は鳥類。

 

八句目

 

   鶏のたま子の数を産そろへ

 あらたに橋をふみそむる也    也竹

 (鶏のたま子の数を産そろへあらたに橋をふみそむる也)

 

 『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)の引用があり、三代三夫婦渡り初めの子孫繁栄を卵の数になぞらえたものとしている。

 ただ、三代三夫婦渡り初めは『俳諧鳶羽集』や『甲子夜話』など江戸後期の書には描かれているが、元禄まで遡れるのかどうかはよくわからない。

 この巻の一年後、元禄六年に新大橋ができた時、芭蕉は、

 

   新両国の橋かかりければ

 皆出でて橋を戴く霜路哉     芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 

無季。「橋」は水辺。

 

九句目

 

   あらたに橋をふみそむる也

 緑さす六田の柳堀植て      支梁

 (緑さす六田の柳堀植てあらたに橋をふみそむる也)

 

 六田の柳は大淀町役場のホームページに、

 

 「柳の渡しは、大淀町北六田と、南岸の吉野町六田とを結んだ渡しです。平安時代に醍醐寺の開祖・聖宝(しょうぼう)(832~909)が開いたとされ、美吉野橋がかかるまで「桜の渡し(桜橋)」「椿の渡し(椿橋)」「桧の渡し(千石橋付近)」とともに、大いににぎわいました。

その北岸には柳が茂り、天明6年(1786年)建立の道標を兼ねた石灯籠や石造りの道標が残ります。これらは、現在地よりやや上流にあった元来の渡し場から、この前を通る道路の拡幅に伴って移設したものです。」

 

とある。

 吉野の北を流れる吉野川の渡しで、近鉄吉野線に六田駅がある。奈良県立図書情報館のホームページによれば、美吉野橋ができるのは大正八年(一九一九年)だが、それまでも渇水期間は仮設の橋が架けられていたという。

 

季語は「柳」で春、植物、木類。「六田」は名所、水辺。

 

十句目

 

   緑さす六田の柳堀植て

 掛菜春めく打大豆の汁      芭蕉

 (緑さす六田の柳堀植て掛菜春めく打大豆の汁)

 

 掛菜(かけな)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「掛菜」の解説」に、

 

 「〘名〙 大根やカブラの葉や茎を、冬に軒下などにかけて、陰干しにしたもの。干し菜。《季・冬》

  ※俳諧・俳林一字幽蘭集(1692)上「かけ菜して北もしぐれぬ家居かな〈湖堂〉」

 

とある。「打大豆(うちまめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「打豆」の解説」に、

 

 「① ふやかした大豆を槌(つち)で打ちつぶし練った物。汁などに入れて食べる。〔易林本節用集(1597)〕」

 

とある。今は北陸地方の郷土料理とされているが、昔は広く作られいたものが北陸地方だけに残ったか。

 

季語は「春めく」で春。

 

十一句目

 

   掛菜春めく打大豆の汁

 細かなる雨にもしぼる蝶のはね  利合

 (細かなる雨にもしぼる蝶のはね掛菜春めく打大豆の汁)

 

 春雨は今ではよく「春の霧雨」という言い方をするが、霧雨は秋の季語。春雨と春の雨は違うという土芳『三冊子』の説もあり、一月二月は春の雨、三月は春雨としている。この場合の春雨は今でいう菜種梅雨のことになる。

 前句の「春めく」に蝶の羽を濡らす春の細かな雨を付ける。

 

季語は「蝶」で春、虫類。「雨」は降物。

 

十二句目

 

   細かなる雨にもしぼる蝶のはね

 鎧かなぐる空坊の縁       洒堂

 (細かなる雨にもしぼる蝶のはね鎧かなぐる空坊の縁)

 

 空坊(からばう)は空き家になった坊のことだろう。落ち武者が雨宿りする。

 元禄二年春の「衣装して」の巻十句目に、

 

   あぢきなく落残リたる国の脇

 寺の物かる罪の深さよ      曾良

 

の句がある。

 

無季。「鎧」は衣裳。

 

十三句目

 

   鎧かなぐる空坊の縁

 ばらばらと銭落したる石のうへ  岱水

 (ばらばらと銭落したる石のうへ鎧かなぐる空坊の縁)

 

 衣服を脱ぐと袂に入れてた小銭が散らばるというのは、庶民のあるあるだと思う。それを鎧武者がやる。

 

無季。

 

十四句目

 

   ばらばらと銭落したる石のうへ

 酒で乞食の成やすき月      嵐蘭

 (ばらばらと銭落したる石のうへ酒で乞食の成やすき月)

 

 名月の夜は乞食も、月見の酒で気が大きくなった酔っ払いから小銭の恵みを受ける。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「乞食」は人倫。

 

十五句目

 

   酒で乞食の成やすき月

 行雲の長門の国を秋立て     洒堂

 (行雲の長門の国を秋立て酒で乞食の成やすき月)

 

 前句を風雲の乞食僧の旅とする。長門の立秋に特に出典はないのだろう。

 

季語は「秋立て」で秋。旅体。「行雲」は聳物。

 

十六句目

 

   行雲の長門の国を秋立て

 露に朽けむ一腰の鈷       支梁

 (行雲の長門の国を秋立て露に朽けむ一腰の鈷)

 

 「鈷」はここでは「さび」と読む。鈷という字は「こ」と読む場合は、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鈷」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「鈷」は「股」の借字) 金属製の密教法具。武器の鋒(ほこ)を象徴化したもので、煩悩(ぼんのう)をくだき、仏性を顕現する意味で用いる。鋒の数により独鈷(とっこ)、三鈷、五鈷などという。」

 

とある。

 ここでは旅僧の持つ護身用の武器の錆びたものという意味か。「腰に寸鉄を帯びず」が基本だが、実際の旅は危険が多いからそうもいくまい。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

十七句目

 

   露に朽けむ一腰の鈷

 西日入ル花は庵の間半床     也竹

 (西日入ル花は庵の間半床露に朽けむ一腰の鈷)

 

 「間半床」は一間床の半分ということか。幅約九十センチの小さな床の間ということになる。

 小さな草庵の床の間に飾った花を西日が照らす。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「西日」は天象。「庵」は居所。

 

十八句目

 

   西日入ル花は庵の間半床

 苣の二葉のもえてほのめく    桐奚

 (西日入ル花は庵の間半床苣の二葉のもえてほのめく)

 

 苣(ちさ)はレタスのことだが、昔の日本にあったのは韓国のサンチュに近いものだったという。大阪本場青果卸売協同組合のホームページの「協子さんの知っ得ノート」に、東に伝播したレタスはチシャと呼ばれ、中国の隋の時代に盛んに栽培され、そこから韓国や日本に広がったという。日本では近代になって西洋レタスに押されて取って代わられていった。

 『春の日』の「春めくや」の巻三十四句目に、

 

   世にあはぬ局涙に年とりて

 記念にもらふ嵯峨の苣畑     重五

 

の句がある。

 小さな庵の庭では苣の種を蒔き、それが今二葉になっている。

 

季語は「二葉のもえて」で春、植物、草類。

二表

十九句目

 

   苣の二葉のもえてほのめく

 みや古をば去年の行脚に思れて  利合

 (みや古をば去年の行脚に思れて苣の二葉のもえてほのめく)

 

 「みや古をば」というと「霞とともに立しかど」と続きそうで、当然、

 

 都をば霞とともに立ちしかど

     秋風ぞ吹く白河の関

              能因法師(後拾遺集)

 

の連想を狙ったものであろう。

 苣の二葉を見て都を立ったのは去年の春の霞の頃だと思ったが、実際はもう何年も前のことだという、長い放浪生活を思う。

 

無季。旅体。

 

二十句目

 

   みや古をば去年の行脚に思れて

 兒にまたるる釈迦堂のくれ    洒堂

 (みや古をば去年の行脚に思れて兒にまたるる釈迦堂のくれ)

 

 都の釈迦堂というと大報恩寺の千本釈迦堂であろう。北野天満宮に近い。都に愛しい稚児を残してきたが会えるのはいつの日か。

 

無季。恋。釈教。

 

二十一句目

 

   兒にまたるる釈迦堂のくれ

 咲初て忍ぶたよりも猿すべり   芭蕉

 (咲初て忍ぶたよりも猿すべり兒にまたるる釈迦堂のくれ)

 

 猿すべりは幹がつるつるなので猿が滑るのではないかということでその名がある。夏に長期にわたって綺麗な花を付けるので、百日紅(ひゃくじつこう)とも言い、今はこの字を当てて「さるすべり」と読ませている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「百日紅」の解説」に、

 

 「※俳諧・玉海集(1656)二「袖にをくや百日紅の花の露〈貞室〉」

 

という用例がある。

 「百日紅(ひゃくじつこう)」は漢語で貞門俳諧はこれを俳言とするが、「猿すべり」の方がいかにも俳諧らしい。

 けなげに待っていてくれている稚児への手紙に、百日美しいまま待っていてくれという意味を込めてサルスベリの花を添える。

 

季語は「猿すべり」で夏、植物、木類。恋。

 

二十二句目

 

   咲初て忍ぶたよりも猿すべり

 鳥のなみだか枇杷のうすいろ   嵐蘭

 (咲初て忍ぶたよりも猿すべり鳥のなみだか枇杷のうすいろ)

 

 涙鳥(なみだどり)は「精選版 日本国語大辞典「涙鳥」の解説」に、

 

 「〘名〙 「ほととぎす(杜鵑)」の異名。《季・夏》

  ※俳諧・誘心集(1673)夏「是はよき寝耳に水よなみた鳥〈時堅〉」

 

とある。ここでは「鳥のなみだ」なので、ホトトギスに限定する必要はないが、ホトトギスの声を連想してもいい。枇杷の実の薄色が鳥の泪のように見える。

 

季語は「枇杷」で夏、植物、木類。

 

二十三句目

 

   鳥のなみだか枇杷のうすいろ

 凡卑して鎖すともなき旅の宿   桐奚

 (凡卑して鎖すともなき旅の宿鳥のなみだか枇杷のうすいろ)

 

 凡卑(ぼんぴ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「凡卑」の解説」に、

 

 「〘名〙 (形動) 身分の低いこと。いやしいさま。また、その人。

  ※千五百番歌合(1202‐03頃)四七一番「詞露二凡卑一瞿麦色、思風佳麗水蛍輝〈藤原良経〉」

  ※源平盛衰記(14C前)一〇「凡卑(ボンビ)の愚僧、名聞の高位も所望なく」

 

とある。ここでは落ちぶれてということか。営業はしているが客の姿はなく、枇杷の実が鳥の泪のようだ。

 近代では貧乏を俗に「ぼんびー」というが、語源的には無関係。

 

無季。

 

二十四句目

 

   凡卑して鎖すともなき旅の宿

 清げに注連をはゆる社家町    也竹

 (凡卑して鎖すともなき旅の宿清げに注連をはゆる社家町)

 

 社家町は神社の神職の人達の住む町で、相当に大きな神社ではないと社家町にはならない。上賀茂の社家町がよく知られている。小川の流れる清らかな独特の雰囲気のある町だ。

 こういうところだと普通の旅宿は寂れてしまうのか。

 

無季。神祇。

 

二十五句目

 

   清げに注連をはゆる社家町

 日盛に鰡売聲を夢ごころ     洒堂

 (日盛に鰡売聲を夢ごころ清げに注連をはゆる社家町)

 

 鰡(ぼら)は今の日本ではあまり食べないが、かつては高級魚だったともいう。

 日の明るく照らす社家町に鰡を売り歩く声が聞こえる。大阪湾の鰡を京まで売りに来たのだろうか。

 

無季。日盛は天象。「鰡売」は人倫。

 

二十六句目

 

   日盛に鰡売聲を夢ごころ

 みよしの房の双ぶ川口      支梁

 (日盛に鰡売聲を夢ごころみよしの房の双ぶ川口)

 

 「みよし」はgoo辞書国語辞典に、

 

 「み‐よし【▽水▽押し/×舳/船=首】 の解説

  《「みおし」の音変化》

  1 船首にある部材で、波を切る木。

  2 へさき。船首。」

 

とある。「みよしの房」はネット上の三浦福助さんの「漁船の船首飾り」というpdfファイルに、「さがり」というのがあり、「室町時代以降の近世の和船では船首に繊維性の房状のものを付ける例が多くあります。」とある。 

 

 ボラが上がる川口の船着き場には「さがり」を付けた漁船が並ぶ。

 

無季。「みよしの房」「川口」は水辺。

 

二十七句目

 

   みよしの房の双ぶ川口

 水つきの稲のしづくに肩重し   利合

 (水つきの稲のしづくに肩重しみよしの房の双ぶ川口)

 

 川口の田んぼは高潮で稲が水に浸かってしまうことも度々ある。水を含んだ稲は重く、船で運び出すのも大変だ。

 

季語は「稲」で秋。

 

二十八句目

 

   水つきの稲のしづくに肩重し

 はえ黄みたる門前の坂      嵐蘭

 (水つきの稲のしづくに肩重しはえ黄みたる門前の坂)

 

 門前の坂の木は黄葉し、そこに水に浸かった稲が運び込まれている。

 お寺や神社のある所は高台が多く、洪水でも水が被らないから、その門前の水の被らなかった坂道に稲が運び込まれる。折からの黄葉と道に積まれた稲に、辺り全体が黄色く染まる。

 

季語は「はえ黄み」で秋、植物、木類。釈教。

 

二十九句目

 

   はえ黄みたる門前の坂

 皮剥の者煮て喰ふ宵の月     芭蕉

 (皮剥の者煮て喰ふ宵の月はえ黄みたる門前の坂)

 

 皮剥の者は皮革業者で被差別民に属する。門前の坂で煮物を食べているが、皮を剝いだ獣の煮物であろう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「皮剥の者」は人倫。

 

三十句目

 

   皮剥の者煮て喰ふ宵の月

 上毛吹るるしろほろの鷲     桐奚

 (皮剥の者煮て喰ふ宵の月上毛吹るるしろほろの鷲)

 

 「しろほろの鷲」はオオワシではないかと思う。羽を畳んだ時に肩から背中に掛けて白い部分が見えるので、それが白い母衣を背負っているように見えたのではないかと思う。

 穢多が獣の解体をしていると、オオワシが近くにやって来る。

 

季語は「鷲」で冬、鳥類。

二裏

三十一句目

 

   上毛吹るるしろほろの鷲

 谷づたひ流しかけたる竹筏    也竹

 (谷づたひ流しかけたる竹筏上毛吹るるしろほろの鷲)

 

 山奥の谷間で竹筏を流そうとすると、オオワシの姿が見える。

 元禄二年の「とりどりの」の巻三十七句目に、

 

   雲の窓かといづる三ヶ月

 紅葉ふく竹の筏に打乗て     卓袋

 

の句がある。

 

無季。「谷」は山類。「竹筏」は水辺。

 

三十二句目

 

   谷づたひ流しかけたる竹筏

 太刀持ばかりふたごころなき   洒堂

 (谷づたひ流しかけたる竹筏太刀持ばかりふたごころなき)

 

 太刀持(たちもち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「太刀持」の解説」に、

 

 「① 武家で主人の刀を持ってそば近く仕える役。また、その役の者。

  ※明徳記(1392‐93頃か)中「鑓長刀にて支つつ、太刀持うしろへ走寄て」

  ② 相撲で横綱の土俵入りの際、太刀を持って横綱の後ろに従う力士。普通、横綱と同門・同系統の関脇以下の幕内力士で、露払いよりも上位の力士がつとめる。

  ※東京風俗志(1899‐1902)〈平出鏗二郎〉下「露払を先きにし、太刀持(タチモチ)を従へ出で」

  ③ 物事をする場合に、主となってするのでなくそばで介添えをする役割の者。

  ※虞美人草(1907)〈夏目漱石〉二「床に懸けた容斎の、小松に交る稚子髷(ちごまげ)の、太刀持(タチモチ)こそ」

 

とある。ここでは元の①の意味。

 主君を失い、多くの家臣は他所に仕官したが、太刀持ちだけが二君に仕えることなく、山の中で隠棲している。

 

無季。「太刀持」は人倫。

 

三十三句目

 

   太刀持ばかりふたごころなき

 物音も簾静におろしこめ     嵐蘭

 (物音も簾静におろしこめ太刀持ばかりふたごころなき)

 

 簾を静かに降ろして物音を聞かないようにする。

 謀反など不穏な空気があるのだろう。簾の外で太刀持ちだけが側にいてくれる。

 

無季。「簾」は居所。

 

三十四句目

 

   物音も簾静におろしこめ

 盆に筭ゆる丸薬の数       支梁

 (物音も簾静におろしこめ盆に筭ゆる丸薬の数)

 

 「筭ゆる」は「かぞゆる」。

 年取るとだんだん常用する薬の数が増えて行くのだが、それをあまり人には見られたくなくて、簾を降ろしてこっそりと数える。

 

無季。

 

三十五句目

 

   盆に筭ゆる丸薬の数

 花盛御室の道の人通り      桐奚

 (花盛御室の道の人通り盆に筭ゆる丸薬の数)

 

 御室(おむろ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御室」の解説」に、

 

 「[1] 〘名〙 (「お」は接頭語)

  ① 「むろ(室)」をいう尊敬・丁寧語。

  ※今昔(1120頃か)四「聖人(しゃうにん)の御室の内に盗人の可取き物不見えず」

  ② 仁和寺の門跡(もんぜき)。御室門跡。

  ※たまきはる(1219)「御むろのまゐらせ給る」

  [2]

  [一] (宇多天皇が建て、退位後、寺内に閑室をもうけて隠棲し、「御室」と称されたところから) 京都市右京区御室にある仁和寺の異称。御室御所。

  ※大和(947‐957頃)御巫本附載「仁和の御内召してけり。『御むろに植ゑさせ給はんに、おもしろき菊たてまつれ』」

  [二] 仁和寺周辺の地。現在は、京都市右京区東部の地名。

  ※浮世草子・好色五人女(1686)三「御室北野の案内しるよししていそげば」

 

とあり、京都仁和寺の辺りのことをいう。

 仁和寺にはたくさんの桜の木があり、御室桜と呼ばれている。ウィキペディアに、

 

 「仁和寺の桜には特に「御室桜(おむろざくら)」の名が付いており、境内の一部にある桜林は国の名勝に指定されている。

 江戸時代から名高く、貞享元年(1684年)の『雍州府志』には「今御室清水為一双」、享保3年(1718年)の貝原益軒の『京城勝覧』には「春は此御境内の奥に八重ざくら多し。洛中洛外にて第一とす」と絶賛されていた。」

 

とある。

 仁和寺の阿弥陀如来を本尊としているが、北側にある霊明殿の本尊は薬師如来で、寺には『黄帝内経明堂 巻第一 2巻(永仁四年、永徳三年書写)』『黄帝内経太素 23巻(仁安二年、同三年書写)』『医心方』『新修本草』などの貴重な医書も伝えられている。そういう縁もあって、参道では薬を売る店も多かったのだろう。

 

季語は「花盛」で春、植物、木類。「人通り」は人倫。

 

挙句

 

   花盛御室の道の人通り

 麦と菜種の野は錦也       利合

 (花盛御室の道の人通り麦と菜種の野は錦也)

 

 仁和寺は賑わっているが、宇多野の辺りは麦畑や菜の花畑が広がっていたのか。麦は緑と菜の花は黄色で、麦と菜種をこきまぜて都のはずれも錦なりけり。

 

季語は「菜種」で春、植物、草類。