恒久平和のために(仮)

 

地球という小さな船

 

 宇宙船地球号なんていう言葉も随分前から繰り返されてた言葉で、地球を船に喩えるなんてことは今更新しいことでもなければ珍しいものでもなく、何と月並みなと思う人もいるかもしれません。

 

 ただ、地球を船に喩えた時にいつも見過ごされているのは、船には定員があるという問題ではないでしょうか。

 

 地球の表面積は510,065,600km²。これは泣いても笑っても増えることはありません。陸地の面積は147,244,000km²。これは干拓や埋め立てによって若干増えることはあっても、大きく増えるということはありません。そのうち約20%25%は砂漠だと言われています。砂漠の面積は近年広がりつつあり、狭まる様子はありません。この有限な大地で我々は生活しているのです。

 

 これに対して地球上の人口は大分鈍化したとはいえ、増え続けています。筆者の子供の頃は2000年には八十億人になると言われてましたが、今の時点では八十億には達してません。それでも増えることはあっても減ることはありません。

 

 地球の定員は「固定」ではありません。農業改革がなされ、土地あたりの生産量を増やすことができれば、それだけ定員は増えます。1960年代に盛んに食糧危機ということが叫ばれてましたが、それが回避されたのはひとえにこのおかげです。人口増加のペースが鈍ったことも原因の一つですが。

 

 それでも、農業改革による生産性の向上は無限ではありません。地球にはその都度その時代の技術に応じた定員が存在しているのです。

 

 この広大な宇宙空間に浮かぶ地球という小さな船は、無限の生命の繁栄を約束してくれるものではありません。船には定員があります。それは救命ボートのようなものです。

 

 タイタニック号のように、全員が乗れるだけのボートが用意されているわけでないとしたら、一体何が起こるでしょうか。

 

 先ずは命の選別です。女子供が先だとか、命に優先順位を付けて、ルールに従って整然と乗り込んでゆく必要があります。我先に乗り込もうとして喧嘩になったら乗れる人も乗れなくなってしまいます。

 

 しかし我々はすべての人間の命の重さは同じだと教育されてます。その意味では優先順位というのは不条理なものです。

 

 コロナの流行の初期の頃、ウィルス自体の致死率も高く、ワクチンもなければ未知の病に対処療法にも不慣れで、医療体制も整わなかった頃にはトリアージということが行われました。もちろん、誰もがおとなしくこの決定に従ったわけではありません。当然ながら反対運動も起きました。政府を糾弾する声もありました。

 

 タイタニック号の時も、女装して船に乗った人がいたとも言います。命の選別が必要だとはわかってても、自分が選ばれない側に回るとなると、人は必死になるものです。これもまた自然の摂理と言えましょう。

 

 今も昔も、地球上で起こるすべての物語の根底には、この定員が限られているがために、命に優先順位を付けて船に乗れる人を制限しなくてはならないという圧力と、全員が笑って生き延びたいという欲求との激しいジレンマがあったのではないかと思います。

 

 戦争がなぜ起こるかというと、そんな難しい問題ではありません。有限な大地に無限の人間が生きることはできない。たったそれだけのために起きているのです。人間の戦争に限らず、すべての生存競争は基本的にそこから始まります。

 

 戦争は人間が欠陥生物だからだとか、本質的に残虐だから起こるのではありません。みんなが生きたくてもみんなが生きられないから起こるだけのことです。

 

 近代の資本主義が戦争を起こしているのでもありません。戦争は未開の時代から絶えず繰り返されてきましたし、社会主義国家も戦争をします。

 

 戦争は一時的な狂気ではありません。また、戦争は一部の心ない人が起こすのでもありません。ただ、有限なこの地球という小さな船の上で、生きるのに必死になるから起こるだけのことです。

 

 全員は生きられない。だけどみんな平等に生き残りたい。それがすべてです。この難問、あなたはどう解決しますか?

 

 

戦争を止めるには

 

 実際戦争が起こり、毎日のように多くの人が亡くなっているのを聞くと、いつかは誰かが解決するなんて悠長なことも言ってられません。思考停止が一番危険なことです。

 

 基本的には戦争をなくす方法はあります。それは地球上の人口をその生産力に応じた数に調整することです。口で言うのは簡単ですが、実際にそれをやるのはかなり困難です。

 

 生産力を高めれば養える人口は増えます。逆に生産力を失えば定員を減らさなくてはなりません。

 

 我々が一生懸命働いて生産性を向上させれば、それだけ多くの人が生きられるようになります。ただ、それは無限にではありません。その時の技術レベルに応じて、自ずと定員は決まります。

 

 逆に文明を捨てて昔ながらの生産様式に戻すというのであれば、それだけ養える人口も減少します。

 

 日本の江戸時代はほぼ人口三千万人で安定してたとも言われます。前近代的な生活に戻すなら、日本の人口をこのレベルまで減らす必要があります。誰が犠牲になるのでしょうかねえ。それが嫌なら、これまでの近代化による生産性の向上を肯定しなくてはなりません。

 

 オウム真理教が主張してたように、ハルマゲドンを起こして生き残った人だけで新しい世界を作るというのは、その意味では一定の合理性があります。自然に帰れだとか、文明の否定だとか言って、低い生産様式に戻すということは基本的にこう主張するのと同じです。

 

 百歩譲って文明のない世界を作らなくてはならないというのを認めるのなら、非常に長い時間をかけて産児制限などを行って、徐々に平和のうちに人口を減らす必要があります。まあ、今の日本の出生率を放置すれば2065年には8,808万人になるとは言います。これをさらに三分の一近くにまで減らすには、さらに時間がかかるということです。

 

 基本的に私は生産力のさらなる向上、最低でも維持を推奨します。日本の人口は減少に転じたとはいえ、地球の人口はまだ増え続けています。日本の人口が減ってくれば、必ず他所の国で増えた人口が日本に流入します。

 

 一つは人道的圧力です。つまり世界の難民をもっと人道的に受け入れろという圧力です。もう一つは労働力の不足という産業界からの圧力です。

 

 この二つがある限り、基本的に日本の人口は減りません。その人口を養えるだけの生産力の維持はmustです。あなたの子供や孫が飢えないためにも必要なことです。

 

 ひとたび生産力の維持や向上を選択するのであれば、その方法と地球環境との調和を図る必要があります。

 

 ただし、地球全体に少子化が広まり、地球の人口が減少し始めたなら、この限りではありません。どこの国も少子化に悩んでいるのなら、日本に回すような人口もないということになります。よっぽど良い条件を提示して頭を下げない限り、移民は来てくれなくなるでしょう。

 

 

持続可能な生産性の向上

 

 まず生産するには地球上の環境を少なからず変えなくてはなりません。

 

 かつて人間が農耕を始めた時には、それまで森だったところを焼き払って、そこに生えてた植物を根こそぎ灰にして、そこに生息していた動物たちを追払いました。それまで狩猟採集で生活してた人達から見れば、とんでもないような環境破壊でした。

 

 その時の破壊を目の当たりにした狩猟採集民は、この世が終わるかと思ったのではないかと思います。それまで生活に糧にしていた野草や動物たちがあっという間に消えてしまったのです。

 

 或者は農耕民に戦争を挑み、やめさせようとしたことでしょう。しかし生産力の高く人口の多い農耕民に対し、狩猟採集民は数の点で圧倒されてしまいます。低い生産性ではそれだけ少ない人しか生きられないのです。

 

 狩猟採集民が狩りで培った技術を駆使して勇敢に戦い、一時的には勝利を収めたかもしれません。しかし長い年月の末、狩猟採集民は森の奥へ追われて行って、やがて姿を消しました。近代化以前の世界でも、狩猟採集民は農耕に適さないごく一部の地域へと追いやられていました。

 

 生産性の向上は養える人口の定員を増やします。そのため生産性の劣る地域よりも多くの人間がいるわけです。昔のような人海戦術に依存した戦争では、生産性の高い国が勝つわけです。

 

 また、生産性の高い地域が生じ、そこの定員が増えたと知れば、余所からそこに棲みつこうとする人も増加します。定員の少ない地域であぶれた人たちが定員の多い地域に集まるのは、ごく自然な成り行きです。

 

 狩猟採集民も、みんなが駆逐されたわけではないでしょう。狩猟採集民の中でも農耕民の所に行きたがる人はいくらもいたはずです。また、自分たちも農耕をやろうという人たちもたくさんいたことでしょう。それを考えると、我が国の縄文人から弥生人への置き換わりも、それほど血なまぐさいものではなかったと思います。

 

 裕福な所にはみんなが憧れ、そこに自然と人が集まってきます。それは今でも一緒です。戦後の貧しい時代は米軍に支配されたにもかかわらず、多くの日本人はアメリカの豊かな生活に憧れ、日本もアメリカみたいに裕福にしようというその情熱が高度成長を支えたものでした。

 

 ただ、こうして日本が高度成長を遂げると、一方では文明批判をしては自然に帰れと主張したりする人たちが出て来ます。

 

 生産性を高める様々な発明は、それが地球全体にどういう影響を与えるのか、完全に予測することはできません。

 

 予測可能だったと主張する人もいますが、人間の頭脳は多様なもので、人それぞれいろいろな発想をする人がいます。その中の一つがたまたま当たることもあります。

 

 新しい技術の安全性については意見が割れるのが常です。意見が割れれば、あとで結果的に正しかった方が「予測可能だった」と主張するわけです。

 

 基本的に新しい技術の導入はチャレンジです。人間はすべてを知ることはできません。人間は全知全能の神ではありませんし、学問だって常に諸説ありの状態です。わからないから何もしないというのも一つの選択肢です。でもチャンスに賭けるというの一つの選択肢です。

 

 最初に農耕を思いついた人も、「そんな森に火を放ったりしたら森全部が焼けてしまって、明日からどうやって食っていけばいいんだ」と反対する人もたくさんいたことでしょう。実際にそうなった例もあったかもしれません。でも、それで成功した人がいればその技術を学んで、やがて農耕は世界に広まっていきました。

 

 例えば川で溺れている子供がいます。助けに飛び込むのは多くのリスクを伴います。子供だけでなく自分も溺れてしまうかもしれません。だからと言って何もせずに見ていられるでしょうか。実際無謀に飛びこんで溺れる人もいます。でもそれを笑うことはできません。

 

 狩猟採集の生産力に限界を感じ、隣の部族との争いが絶えず、自分の大切な人たちが殺されてゆくのを目にした時、農耕をすればひょっとしたらもっと多くの人が生きられるようになるのではないかと思ったなら、それに勇敢にチャレンジするのが人間というものです。やらないのは現状維持。やれば希望があるならやるべきでしょう。

 

 新しい技術は必ず何かしらの問題点があるものです。でもやらなければ現状維持です。悪くもならないかわりに良くもなりません。

 

 もちろん失敗と分かった技術を捨てる勇気も必要です。固形ウラン燃料による原子力発電は、少なくとも地震や火山の多い日本の環境では失敗でした。フランスや北欧では良いのかもしれませんが、日本でのリスクの大きさは既にわかっています。

 

 ただ、原発なら何でもかんでもだめだというつもりはありません。液体トリウム原発や核融合など、よりリスクの少ない原発が可能であれば、チャレンジする価値はあると思います。

 

 いま日本を悩ませているのは、かつての自動車大国を作り上げた日本の内燃機関の技術をどうするかではないでしょうか。世界の趨勢が電気自動車に流れているなら、捨てる勇気も必要だと思います。

 

 完全な予測というのが不可能な以上、新技術が見切り発車になることは避けられないし、それを避けようとするなら技術の進歩は止まります。

 

 結果で言うなら、農耕は持続可能でした。少なくとも何千年もの間農耕は持続可能でした。牧畜も同じです。やはり何千年もの間持続可能でした。それは農耕や牧畜がもたらした自然破壊が、地球の生態系全体を壊すには至らなかったからです。

 

 化石燃料の使用はそれに比べて僅か二百年かそこらで大きな問題に直面しています。

 

 化石燃料は使ったらそれきりです。それが一つ目の、子供でも分かる問題点です。これは当初の予想以上に地球上の化石燃料の埋蔵量が多いということで、延命されているのは確かです。それでもいつかはなくなります。

 

 もう一つは多くの人が既に指摘している地球温暖化の問題です。

 

 薪や柴を燃やしても地球上の炭酸ガスは増えません。薪や柴は植物が大気中の炭素を固定した物で、それを燃やしても大気中に帰って行くだけです。炭素は増えも減りもしません。バイオ燃料も基本的にそれと同じです。

 

 化石燃料はそれとは違います。地中に埋もれていた炭素を大気中にばら撒いているのです。だから炭素量が増えるのです。

 

 もちろん地球温暖化が本当に炭酸ガスによるものなのか、諸説あるのは確かです。ただ、どれが正しいがわからないなら多数意見で決めるしかありません。どんなものごとにもいろんな意見をいう人はいます。一人でも反対があったらやらないというのなら、何一つできることなんてありません。そのための多数決であり、そのための民主主義なんです。

 

 人間は不完全な生き物です。絶対的に正しい知識というのは存在しません。何が本当に正しいかわかるまで待っていたのでは、いつになるのかわかりません。永遠にその日が来ないかもしれません。意見が割れた時には多数決で決めるというのが人間の知恵です。

 

 刻一刻変わる国際情勢は、たとえ何もわからなくても決断はいつも待ったなしなのです。それをたった一つの脳で処理するよりは、できる限り大勢の脳で並列処理した方が間違いを減らせます。三人いれば文殊の知恵とも言います。

 

 この地球上のすべての問題を一人の人間が解決するなんてのはおよそ不可能です。七十億人で考えて、何とか成り立っている状態です。だから、独裁政治よりも民主主義の方が良いのです。

 

 難しい問題は一人より二人、二人より三人。一人でも多くの人が考えれば、誰かが解けるかもしれません。それができるから人類はここまで生きて来れたのだと思います。

 

 持続可能な範囲で常に技術革新を行い生産性を高める努力は必要だと思います。それができないのなら、我々は地球の定員を減らさなくてはなりません。どちらを選ぶかは、まあ多数決にゆだねるのが筋でしょう。私は生産性を高める方に一票。

 

 

多産多死から少産少死へ

 

 今の先進国は第二次大戦後七十五年に渡って平和を維持してきました。それがここへきて突然のロシアのウクライナ侵略によって破られてしまいました。この戦争の問題についても考えなくてはならないのですが、その前に平和だった時代がどうやって作られていった振り返ってみましょう。

 

 まず先進国全般に少子化という現象が起きました。日本はやや遅れましたが、ひとたび少子化が生じると、かなり急速に出生率が落ちて行きました。

 

 これは一部の人たちが主張するような政治の失敗なんかではありません。少子化は地球的規模で、経済の発展にともないほぼ例外なく起きている現象です。

 

 日本に続き韓国や香港、シンガポールなども少子化し、今や東南アジア全体にひろまってます。中南米やアフリカも出生率は減少し続けています。ヨーロッパやアメリカは回復したと言ってますが、あそこは移民が増えただけで、生粋の人たちは相変わらず減少し続けています。少子化はむしろ自然現象と言って良いでしょう。

 

 少子化は基本的には過密に対する生理的反応ではないかと思います。ネズミは過密になると共食いを始めます。人間は類稀な頭脳がありますから、たとえ意識しなくても自然に子供の数を減らして、共食いになるような過密を回避しているのです。

 

 少子化の一方で医療水準が上がり、子供の死亡率は大きく下がりました。昔は二人に一人が死んでた時代もありました。子供だけでなく、出産の際に母親までもが死ぬことも珍しいことではありませんでした。それでも人口は増え続けていたのです。今は子供の数が少なくても、ほぼ確実に大人になるまで育ち、ほぼ確実に老人になれる時代です。

 

 昔は乳幼児の死亡率が高いだけではありません。大人になっても長生きできるのは稀でした。老人が尊敬されたのは、ほとんどの人が老人になるまで生きられなかったからです。人生五十年という言葉があったように、せいぜい初老の内に死ぬのが普通でした。よぼよぼの爺さんになるまで生きられるというのは、それだけで大変なことだったのです。

 

 昔の縁起物の神様なんかも大体老人です。老人の絵を飾って眺めて、みんな老人に憧れてたのです。

 

 基本的には生存率の低さが出生率を押し上げていました。たくさん死ぬからそれ以上に子供を作らなくてはならなかったのです。

 

 『古事記』にも記されてます。イザナギの尊が黄泉の国へ行って死んだイザナミの尊の姿を見てしまったとき、イザナミは「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」といいました。それに対しイザナギは答えます、「吾一日に千五百の産屋立てむ」と。そして地の文は「ここをもちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり」と結んでいます。

 

 千人死んでも千五百人産めばいい。これが多産多死の理論でした。

 

 医療が進歩して人がほとんど死ななくなれば、出産や育児にともなうリスクやコストを減らそうとするのは自然なことです。

 

 実際、子供が死にやすいから多めに作ろうとすると、大体多すぎることになるものです。

 

 ところが昔は技術革新というのは滅多に起こるものではありませんでした。何十年何百年、同じような生活をしていました。そういう状態では「定員」は増えません。それでも子供は常に過剰でした。生まれてきた子供のみんなが生きようとすれば争いになります。

 

 近代化以前の社会のほとんどは、洋の東西を問わずこうした多産多死社会でした。船は大きくならないのに船に乗る人は増えて行く。それをどうやって調整するかがこの社会の一番の課題だったはずです。

 

 口減らしという方法がありますが、誰も可愛い我が子を殺したいなんて思いません。よっぽど自分も餓えたような状態でない限りそんなことはしません。我が子を殺せないなら他人の子供を殺せばいいと、それも自分の親族ではない、自分の村の子供ではない、余所の村の子供ならいいだろうということになります。そうなると、そこに原始的な戦争が発生するわけです。

 

 子供がある年齢になったら祭と称して他所の村に攻め込んで闘い、必要な人数だけ殺して帰ってきます。すると報復にその村の若者が攻めて来ます。それを繰り返すわけです。こうして若者同士で生き残るものを決めさせるというのは、未開の社会ではよくあることでした。一人殺して大人になるというイニシエーション儀式です。

 

 こうした祭が祭り事の原型といえましょう。いかに怨恨を最低限にして人口を調節するか、それが政治の一番の課題でした。実際は難しいものです。自分の子を殺されて恨まない親がいるでしょうか。

 

 社会が大きくなり複雑になると、戦争の規模も大きくなってゆきます。そこで誘惑にかられるのは「侵略」です。自分たちの国の子供がみんな生きていくには農地が足りない。ならば奪えばいいんだという発想になります。自分たちの子供を殺すよりは、隣の蛮族を殺した方が良いというわけですが、隣の国も同じことを考えるわけです。

 

 まあ、パワーオブバランスが保たれて行れば、周期的な戦争という形で双方死者を出すことで人口が調節されることになります。

 

 ただ、ひとたびパワーオブバランスが崩れると、一気に広大な地域を征服するような状態が生じます。

 

 征服した地域では、殲滅するよりも奴隷として働かせようという知恵が生まれてきます。自分たちの息子に田畑を与えて耕させるのではなく、奴隷に耕させて、閑になったその時間で武術を磨かせてさらに次の戦争を、ということにもなります。

 

 こうして未開の部族社会から古代帝国の出現へと歴史が動いて行きます。ただ、世界地図を多くの帝国が覆ってしまうようになると、それ以上の国土の拡大も困難になります。一方的な蹂躙のできる未開部族を征服し尽くしてしまうと、あとは帝国同士の戦争になってしまうからです。

 

 歴史は長いことこういう、世界で様々な帝国が勃興しては消えてゆく状態を繰り返してました。生産性は長いこと停滞し、生産力の上がらない状態で、人口だけが常に増えようとすれば、このように戦争が日常になるような状態に陥ってしまうのです。

 

 多産多死から少産少死への転換が起きるのは第二次大戦前のヨーロッパからです。そのため、これが最後の大戦になりました。その後冷戦はありましたが、どちらも直接対決を避け、多産多死の状態の続く第三世界で代理戦争を繰り返すだけでした。

 

 産業革命以降、次から次へと新しい技術が生まれ、生産性は飛躍的に向上しました。ただ、その恩恵が農業生産に及ぶにはタイムラグがありました。

 

 特にヨーロッパは多産多死社会が解消されないうちから、万人の人権の平等を宣言してしまいました。膨れ上がる余剰人口すべてに平等の権利を保障するには、それだけの富が必要です。そこで何をやったかというと地球規模での植民地争奪戦です。

 

 逆の場合もあります。生産性の低い状態で万人の人権の平等を宣言すると一体どうなるでしょうか。全員を平等に食わせるのに相応の食料もないし、余所から食料を買う金もありません。そうなればあとは飢餓と粛清の嵐です。侵略する力がなければ、身内を讒言で陥れて粛清してゆく、自分がやられるまえにやる、そういうゲームに陥ってしまいます。

 

 第二次大戦の当事国であった日本も、戦後急速に少子化が進み、人口の増加は次第に頭打ちになり、つい最近になって減少に転じました。それと同時に高度成長を成し遂げ、飢餓の心配もなくなりました。近代科学のもたらす技術は世界中に緑の革命をもたらし、危惧されていた食糧危機を免れました。

 

 少子化の波は次第にアジア全体に広がり、アフリカや中南米の出生率も低下し続けています。これによって食わがための領土拡大の必要性は大きく低下しました。二十一世紀に入ると、局地的な内戦を除けば、国境を越える戦争は驚くほど少なくなり、世界はこのまま平和になるのではないかと楽観的になってた矢先に起きたのが、ロシアのウクライナ侵略でした。

 

 一体何が起きたのでしょうか。

 

 

怨恨とイデオロギー

 

 ロシアも、また潜在的に侵略国に転じる恐れある中国に関しても、人口増加のペースは緩く、経済は成長を続けてました。その意味ではこの二つの国に戦争を起こす必然性はありません。

 

 ロシアの戦争はむしろ経済を犠牲にしてまで起こしたという所で、今までの常識と違うものです。困窮した経済を打開するためではありません。自ら困窮に陥れるためにやったような戦争です。

 

 戦争はこれまでは人が生きるために、余剰人口を養うために起きるものでした。日本が明治以来繰り返してきた侵略戦争も、江戸時代三千万人だった人口が一気に一億人に膨れ上がり、その余剰人口を外地に送り出すためのものでした。

 

 もちろん日本人が出て行ったのは戦争で獲得した土地だけではありません。アメリカやブラジルなどにも多くの移民が海を渡ってます。

 

 今のロシアや中国にはその必要がありません。

 

 ロシアにしても中国にしても基本的には独裁国家です。つまり民衆が戦争を望まなくても最高指導者は戦争を命じることができます。

 

 ただ、さすがに一人の独裁者だけの意向で戦争はできません。独裁者とはいえども多くの政敵がいます。下手なことをすればその連中に足を掬われます。だから、ロシアの侵略戦争もプーチン一人の所存で決まったことではありません。政権の上層部で十分な合意のあってのことです。

 

 ロシアと中国は旧共産圏という点で共通しています。しかも冷戦時代の東側勢力のいずれも巨頭です。このことが関係してると思われます。

 

 庶民の間では開放政策で自由で豊かになったと、資本主義を歓迎するムードがあっても、上層部はそうはいかなかったのでしょう。彼らは「アメリカに負けた」という意識を強く持っています。冷戦崩壊は自分たちの敗北だと思っています。リベンジを考えないはずがありません。

 

 ただ、いくら過去の恨みつらみがとは言っても、勝てない喧嘩をするバカもありません。やる以上は勝算があってのことです。

 

 一つには平和に慣れたアメリカ、ヨーロッパ、日本などが、ウクライナ一国くらい見逃してくれるのではないかという読みです。実際クリミアを併合した時には見逃してくれました。

 

 もう一つには、世界中に残存する共産勢力です。日本にも大体有権者の十五パーセントくらいのいわゆる「左翼」が存在します。ヨーロッパにもたくさんいます。アメリカでもリベラルの顔をした隠れ共産主義者はいくらもいるでしょう。彼らを焚きつけることができれば、西側の政権を揺さぶって結束を乱すこともできると踏んでいます。

 

 そしてもう一つが資源輸出国であるというメリットです。特に石油や天然ガスを止められて困るのはヨーロッパの方です。穀物の方も重要です。これによってアメリカ、ヨーロッパ、日本などにインフレが起こり、庶民の生活が圧迫されれば、彼らが経済制裁などの包囲網を自ら壊してくれるのではないかと思っています。遠くの戦争よりも今日のパンということになれば、という狙いです。

 

 ロシアにとって戦争の長期化は大きなメリットがあります。独裁政権が国民の不満を黙殺するのは容易ですが、民主主義国家はそうはいきません。じわじわと戦争疲れをねらっています。

 

 その間にロシアに強硬な姿勢を取ってた政権が倒れてくれれば願ったりです。と言ってる間にボリス・ジョンソン辞任のニュースが入ってきました。

 

 

戦争はゲームになったのか

 

 かつて戦争は増えすぎた人口を食わせていかなくてはいけないから起きてました。今は経済も発達し飢餓から解放され、各国が少子化に頭を痛めるくらいに人口増加の圧力は過去のものになりました。それでも戦争は起きてます。

 

 これは戦争が生きるための切実な生存競争ではなく、独裁者の名誉のためのゲームになったということではないでしょうか。

 

 昨今のウクライナのニュース報道にしても、あたかもスポーツの途中経過を報じるみたいに、どっちが優勢だの、どういう攻撃をしただの刺激的に言い立て、解説者とやらが出てきて試合の今後を占ってくれます。

 

 国際社会もこうしたロシアの暴挙を決して叩き潰そうとはしません。アメリカは武器を小出しに贈るだけですし、NATOもロシアと国境を接している国以外は積極的に動こうとしません。

 

 反戦運動も盛り上がりません。なぜなら彼らはロシアを非難することはできても、実効力のあることは何一つできませんし、むしろ反戦のメッセージはウクライナに早期の降伏をうながしかねません。

 

 実際に起きてしまった侵略戦争に対し、国際世論というのがいかにあてにならないか、暴露された形になりました。どこの国の国民もウクライナ人が何人死のうが、パンやガソリンの値段の方が大事なのです。

 

 私はロシア人に反戦デモをやれなんて言いませんし言えません。戦車に轢かれてミンチになれなんて言えるわけがないでしょう。

 

 国連はもとより機能してません。国連常任理事国が戦争を起こして、誰がそれを止めることができるのでしょうか。

 

 エマニュエル・カントの『永久平和のために』は何が間違ってたのでしょうか。それぞれの国には警察や裁判所があるのに、何で国際社会の警察や裁判所は機能しないのでしょうか。

 

 普通の警察であれば、悪いことをしている人間がいれば、捜査令状を取って家に侵入して徹底的に調べ上げることができます。

 

 国連がそれをやろうとしても「国家主権」が障壁になります。中国がウイグルでやっている虐殺についても、国連は施設に立ち入って捜査をすることすらできません。まして習近平を逮捕する権利なんかも持ってません。もちろんウイグル人の救出活動を行うこともできません。

 

 ナチスのアウシュビッツは、戦争になってドイツ国内に連合軍が入ることができたから、ユダヤ人を開放することができたのです。

 

 核兵器廃止条約もその理想は素晴らしいものですが、違反して核開発をしたり保有したりする国をどうやって止めさせるというのでしょうか。国連は査察はできても強制捜査はできません。どんな立派な条約を作っても、核兵器は持ったもの勝ちなのです。真面目に従った国がバカを見るような条約です。

 

 現状では国家主権は個人の人権よりもはるかに強固に守られてます。だから国連は何もできないのです。

 

 ならば、国連に強力な権力を与え、強力な捜査権限を持てばそれでいいのでしょうか。無理です。

 

 独裁国家群と民主主義国家群の対立がある限り、国連は二分されたままです。独裁国家を裁くことはできません。

 

 カントの『永久平和のために』は民主主義を基本として構想されたものです。民主主義を否定する国家が国連で多くの力を持っている限り、国連は機能しません。

 

 国連が民主主義国家によってのみ担われたなら、その理想はきちんと機能することでしょう。ですが国連が独裁国家に占領されたなら、国連の軍隊や警察は独裁国家の軍隊・警察です。ディストピア以外の何でもありません。

 

 この世界から独裁国家がなくなり、世界が民主化されたその日には、きっと国連も正しく機能することでしょう。そのときには核兵器廃止条約も輝かしいものとなるでしょう。でも今は違います。

 

 経済的な必然性を持たない、独裁者のゲームと化した戦争は、これまでの常識的な手段で止めることはますます困難になって来ます。

 

 経済制裁は戦争に経済的な必然があるなら抑止力にもなります。ですが、戦争そのものが目的で、経済なんてどうなっても構わないという独裁者には何の効果もありません。むしろ我々はロシア国民まで人質に取られている状態なのです。

 

 一億四千万人の人質を取って立て籠もって発砲を繰り返すテロリストが相手なのです。

 

 特に資源保有国に対しては経済制裁の効果は限定的です。資源のない国ならやがて弾薬も食料も尽きて白旗を上げることでしょう。ロシアには両方ともあります。日本のような釣鐘を溶かして鉄砲の玉にするような事態にはなりません。

 

 国際世論も何の力にもなりません。この戦争を止められるとしたら、結局一番原始的な手段、つまり武力で叩き潰すしかないのではないかと思います。

 

 

独裁国家を抑制するシステムは可能か

 

 現実には地球上に沢山の独裁国家があります。最近の傾向では一度民主化した国家の独裁帰りも目につきます。

 

 特に中東やアフリカに独裁国家が目立つのは歴史的な理由があります。

 

 この地域はかつての西洋列強によって植民地支配を受けた場所です。その時、西洋人は自らの都合で勝手に国境を引きました。そのため実際に棲んでいる民族と国境とが一致していません。かつての棲み分けによって生まれた自然の国境ではなく、あくまで人為的に引かれた国境です。

 

 そのためこれらの国では常に深刻な民族問題に見舞われてます。

 

 イラクなどがいい例ですね。イラクは三分の一がスンニ派アラブ人で三分の一がシーア派アラブ人で三分の一がスンニ派クルド人です。最初から三つの国に分かれていたなら、あの国に独裁者は必要なかったでしょう。拮抗する三つの勢力を束ねるには独裁による強力な権力が不可欠だったのです。

 

 これらの西洋によって任意に国境を引かれた国々は、民主化すると独立によって国土が分割され、弱体化するのではないかという不安があります。もちろん、だからと言って独裁に留まることも国の発展を阻害します。

 

 ミャンマーもかつてイギリスの支配を受け、かつてバングラディシュとの間の山岳地帯に跨って住んでいたロヒンギャの人たちを、イギリス人がミャンマー側に強制移住させました。

 

 それに加えて北の山岳地帯には複数の少数民族が独立運動をやっています。

 

 そうした中で一度は民主化を果たしましたが、事実上アウンサンスーチーが大きな力を持ってました。そのアウンサンスーチーがロヒンギャの虐殺に手を貸したわけです。これでは民主主義とはいえません。こうしてあの国は民主主義の大義を失い、軍政に逆戻りしました。

 

 トルコもクルド人問題を抱えています。クルド人は決して少数民族といえないほど人口も多く、やはりかつての大英帝国の都合でクルド人を弱体化させるためにその居住地の中に国境を引いて、トルコ、イラク、シリアに分割しました。トルコもこのクルド人独立の動きを抑えようと、強権をふるうエルドアン支持に傾き、独裁へと逆向しています。

 

 今回のウクライナ戦争でもトルコはロシアがウクライナ人から略奪した小麦を売りさばいて、その一方でフィンランドとスウェーデンのNATO入りを妨害しようとしました。

 

 中国が長く独裁を維持している理由も、チベットやウイグルだけでなく、公認している少数民族だけで五十五もあるからです。今はそれに加えて香港と台湾の独立の動きがあります。

 

 これらの独裁国家は、結局少数民族を弾圧し続けるために存続しているようなもので、肯定できるものではありません。ただ、こうした国々が世界に沢山あって、国連でも大きな力を持っているのは事実です。こうした国々からすれば、ロシアのウクライナ侵略や中国のウイグル人虐殺にも、ある程度の共感できるものがあるのです。

 

 こうした問題は直接ウクライナ侵略とは関係ないにしても、ロシア支持側の国際世論の一環として力を持っているのは確かです。

 

 ロシアもまた冷戦崩壊でソビエト連邦が解体され、いくつかの共和国が独立しました。そのなかにウクライナも含まれていました。ロシア人の間には少なからず、これはアメリカによるロシア弱体化政策だという思いがあると思います。それが独裁帰りを生んだとも言えます。

 

 繰り返し言いますが、こうした独裁国家は少数民族を弾圧し続けるために存続しているようなもので、肯定はできません。ただ、こうした国をどうやって変えてゆくか、そしてどうやって正しい国境を引きなおすか、難問山積なのは確かです。

 

 先進国であってもスペインのようにカタルーニャ独立に不当な圧力をかけている国もあります。少数民族独立を支援していく活動は、思わぬところから反発を生む可能性もあります。

 

 もう一つ気をつけなくてはいけないのは「入植者」の存在です。入植者は元からその土地にいた少数民族ではありません。これはたとえマイノリティーであっても別に考える必要があります。

 

 かつては南アフリカのアパルトヘイトのように、少数の入植者の子孫が支配し、元からそこに棲む人たちを弾圧している国もありました。

 

 イスラエルも本来与えられた国境を無視して、入植による領土拡大政策を続け、今もパレスチナの土地を侵略しています。

 

 入植そのものが既に他の民族の土地を侵しているのです。それゆえ、入植者の保護は侵略に手を貸すもので、入植者をあたかも少数民族であるかのように偽装して独立させたうえで本国に併合するというやり方は、本来認めてはならないものです。

 

 ただロシアのクリミア併合の時も欧米諸国はそれを放置していました。ならば同じ手で領土を獲得できるとロシアが調子づくのも当然のことです。

 

 ただ、今回のロシアのウクライナ侵略はこうした入植者地域の独立に留まるものではありません。あからさまにかつての旧ソ連の領土以外にも脅しをかけています。ロシアが東ウクライナの併合だけで満足するとは思えません。明らかに世界征服の野望を持っています。

 

 東ウクライナの併合だけが目的なら、キーウを脅かす必要はなかったはずで、最初から東ウクライナに絞って侵略戦争を起こす方が成功率が高かったと思います。

 

 最初の電撃作戦でキーウへ向かわずに、ドネツク・ルハンシク両州を制圧して、あとは防戦に徹すれば、かなりの確率で成功していたと思います。

 

 ロシアのウクライナ侵略は東ウクライナの解放のための戦いではありません。ただ、劣勢になってウクライナ全土の制圧が困難になったから、そう言い訳しているだけです。それにしても、入植者を名目にした侵略行為を認めてはいけません。

 

 今日の独裁国家の多くは、少数民族の独立を抑えるために存続しています。こうした国をなくしてゆくには、基本的には少数民族の独立を国際社会が具体的に経済的にも軍事的にも支援してゆく必要があります。ただ、国連軍は独裁国家の方が優位で機能しません。そこが問題なのです。

 

 今の時点で独裁国家を抑えるのは困難と言わねばなりません。

 

 独裁国家を抑制するには民主主義国家が有志で独自の組織を作る必要があります。そうでなければ国連から独裁国家を追放するかどちらかです。

 

 軍事的にいうと、今はアメリカの技術が群を抜いて他を圧倒しています。ロシアも中国もまだまだ古い兵器に頼っています。この技術差があるうちなら、まだ独裁国家の抑制は可能です。ただ、これらの国に追いつかれてしまったら、もはやどうしようもありません。世界は独裁者の手に落ちてゆくことになります。

 

 

恒久平和のために

 

 さて、世界が平和になるには何が必要でしょうか。

 

 基本的には戦後七十五年余り平和を維持していた一部の先進国の平和を世界に広めることだと思います。日本もその一つですが、これを世界に広めることです。

 

 そのために何が必要かというと、まず経済の発展させ、誰もが高度な医療を受け入れられるようにすることで、死亡率、特に乳幼児の死亡率を減らすことです。これによって過剰に子供を作る必要がなくなり、少産少死の世界が実現できます。

 

 多産多死の状態だと、常に過剰に子供が生まれてきて、彼らを食わせて行くために常に厳しい生存競争の状態にさらされ、それが国単位になると戦争が日常的に起きるようなかつての前近代の世界をいつまでも抜けられません。世界全体を少産少死に導く必要があります。これが大前提です。

 

 そして、その少産少死の世界を作るためには、高度な医療が誰でも受けられるような経済力を持たなくてはいけません。そのために特にフロンティア国の経済成長は欠かせません。我々は惜しむことなくそれを援助する必要があります。

 

 たとえば知的所有権なども後発国に不利に働きます。ある程度緩和する必要があると思います。コロナワクチンなどもジェネリックで広めることができてたなら、フロンティアでのワクチン不足は解消されたことでしょう。

 

 少産少死が実現されたなら、それだけで世界平和は見えたようなものです。そして、その次にすべきことは独裁国家の解体です。独裁国家はごく一部の国の指導者層の賛成で容易に侵略戦争が起こせます。

 

 独裁者が戦争を起こすのに多くの国民の同意は必要ありません。経済的利益と無関係に戦争を起こすことができます。それこそ単なる世界征服の野望だけで、ゲーム感覚で侵略戦争を起こすことも可能なのです。

 

 国民の反発があっても戦車の力でデモを鎮圧し、国民に飢餓を強いることも独裁国家なら可能です。だから独裁国家は経済的に不利益になる戦争でも起こすことができます。

 

 独裁国家をなくすには、少数民族の独立支援が不可欠です。このことは先進国にも跳ね返ってくるかもしれませんが、長い目で見て火種を消して行くには必要なことです。

 琉球も彼らに独立の意志があるなら認めるべきです。(ただ独立した琉球が人民解放軍を駐留させるようなことになれば、その時は仮想敵国になってしまうので、そこは沖縄の人も考えてほしいと思います。我々も戦争を望んでいるわけではありません。)

 

 これを弱体化政策だと言って反発するかもしれませんが、強権でもって少数民族を弾圧する国は間違った力の使い方をしているのです。その力を取り上げなくてはなりません。

 

 世界的に経済が十分に発展し、少産少死の世界が実現すれば、人々は厳しい生存競争から解放され、誰も餓えることのない、食わがために戦争を起こす必要もない、平和な世界が実現できます。

 

 そして、民族がそれぞれ独立し、その多様性を世界中の人々が認めるようになれば、差別もなくなっていくと思います。

 

 すべての国の人々が争うことなく、みんなが胸を張って生きられる世界、それはもうすぐそこにまで見えています。

 

 そのためには、まず経済成長を持続させるための、環境問題や差別問題などに配慮した、持続可能な資本主義を作り上げる必要があります。これは「新しい資本主義」といってもいいでしょう。

 

 次に後発国への技術の転移を促進する必要があります。先進国が技術を独占していたのでは後発国の発展が阻害され、独裁帰りの元になります。

 

 フロンティアや新興国に残る独裁政治に対しては、厳しい態度をとる必要があります。彼らに独裁的な強権に基づく少数民族支配をやめさせなくてはなりません。そのために経済的にも軍事的にも少数民族を支援してゆく必要があります。

 

 各民族がそれぞれの国を持ち、それぞれ自発的な経済発展を遂げた時、彼らは自ずと平和な世界の仲間入りを果たすことでしょう。

 

 世界は一つになる必要はないし、なってはいけないと思います。

 

 人は一人一人顔かたちがちがうように、脳の回路も生得的にも、その後の成長過程で偶発的に生じた回路形成のおいても、一つとして同じものはありません。同じ世界を見ていても、一人一人みんな違った世界に見えているのです。そしてその一人一人違って見える世界をそれぞれ独自の脳回路で解析して判断を下しているのです。だから考え方や価値観は違って当たり前なのです。

 

 絵だって、みんなが同じ色に見えているわけではありません。音楽だってみんなに同じ音に聞こえているのではありません。まして言葉の解釈は一人一人みんな違います。意見が食い違うのが当たり前なのです。

 

 同じ地域で似た環境に育てば、一人一人違うとはいっても、そこに共通認識が生じてきます。そうやってその地域の常識が、習慣が、文化が生じます。これも当然ながら地域によって異なる多種多様なものなのです。これも尊重しなくてはなりません。

 

 多様性というのは保険だとも言われます。たとえば道がいくつかに分かれていた時にみんなが同じ道を進んでしまえば、そこで何か事故があった時に全員が死んでしまうということも考えられます。

 

 みんながそれぞれ思った道をばらばらに行けば、ある人は運悪く死ぬかもしれませんが、それ以外の人は生き残れるわけです。

 

 東日本大震災のときでも、全員一致主義にこだわって上の指示を待っていたら、津波に全員さらわれてしまったなんてこともありました。一人でも勝手に逃げる人がいたら、その人は助かってたかもしれません。多様性というのは保険なのです。

 

 民族や文化でもそうです。西洋文明が行き詰まった時、それを打開できるのは他の民族のアイデアです。みんなが同じ発想をしていたら、必ずいつかは行き詰まります。それを打開できるのは違った発想を持つ人間なのです。

 

 私は日本人であることに誇りを持っています。西洋人ではないから思いつくこともあると思っています。多様性というのはそういうものです。

 

 誰もが多様な人間の一人である自分に誇りが持てるように、互いに争う必要のない平和な世界を作って行かなくてはならないと思います。

 

 

 恒久平和はまだ実現されてません。そういう意味で(仮)です。もちろんカントの著作と区別するためというのもあります。まあいつか、この(仮)の文字が取れる日が来ればと思います。