「其にほひ」の巻、解説

元禄辛未冬

初表

 其にほひ桃より白し水仙花     芭蕉

   土屋藁屋のならぶ薄雪     白雪

 朝から觜ならす鳥の来て      桃隣

   はやう野分の吹てとる也    芦鴈

 洗濯のいとまをもらふ宵の月    支考

   野郎にわたすぎりぎりす籠   以之

 

初裏

 寐所はもらひ集た絵を押て     扇車

   なにうたひやら鼻声でやる   淡水

 わかれ途の出ばつた石に腰かくる  桃先

   薮いたちめが仰山に出た    桃後

 水汲に目こすりながら戸を明て   桃鯉

   みやこの方もさだまらぬ秋   雪丸

 華すすきわかき坊主の物ぐるひ   白雪

   額やぶれたる白雲の月     芭蕉

 猪の追れてかへる哀なり      淡水

   茶ばかりのむでけふも旅立   支考

 散華にうすき化粧のところはげ   以之

   二月の雛のとつつけもなひ   桃先

 

 

二表

 おもしろき霞のなかのこけら屋ね  芦鴈

   小鯛も鰡もとれるいせうち   桃隣

 黒崎の浜はからすの鳴つれて    桃後

   雨にならふか西のつかへし   雪丸

 かご作るそばにあぶなく目をふさぎ 桃鯉

   松葉の埃のにゆる鍋蓋     芭蕉

 雉子笛を首に懸たる狩の供     芭蕉

   雪ふりこむでけふも鳴瀧    桃隣

 にこにこと生死涅槃の夢覚て    支考

   院もしらがを侘びたまひけり  桃後

 やはらかに鶴鳴ふかす夜の月    雪丸

   須磨のきぬたは下手でもつたぞ 芭蕉

 

二裏

 あの家ははやう新酒をしぼらるる  以之

   馬つなひだる門の竹垣     芦鴈

 干物の筵かかゆる一しぐれ     桃先

   貌のしかんで黒キ小世忰    白雪

 咲花に獅子のささらを摺ならし   扇車

   むらをはさむで肥る若松    淡水

 

       参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

 其にほひ桃より白し水仙花    芭蕉

 

 水仙には匂いがあるのはもちろんのこと、色もまた桃より白い。

 支考の『笈日記』に、

 

 「是は水仙の花を桃前梅後といへるよりかくはいへるなるべし」

 

とある。白い水仙が咲いてから桃の桃色の花が咲くということで、おそらくこの日の亭主は白雪で、その二人の息子に桃先と桃後という俳号を付けたことに絡めて、二人の息子さんより先に咲いた白雪さんは水仙のようです、と持ち上げる意図があったと思われる。

 

季語は「水仙花」で冬、植物、草類。「桃」は植物、木類。

 

 

   其にほひ桃より白し水仙花

 土屋藁屋のならぶ薄雪      白雪

 (其にほひ桃より白し水仙花土屋藁屋のならぶ薄雪)

 

 その白雪さんが脇を付ける。

 土屋藁屋は自分の家をへりくだってのものだろう。薄雪も俳号の白雪に掛けてのものか。

 

季語は「薄雪」で冬、降物。「土屋藁屋」は居所。

 

第三

 

   土屋藁屋のならぶ薄雪

 朝から觜ならす鳥の来て     桃隣

 (朝から觜ならす鳥の来て土屋藁屋のならぶ薄雪)

 

 嘴鳴らす鳥はカラスのことか。前句の農家のような庭に鳥が来る。

 

無季。「鳥」は鳥類。

 

四句目

 

   朝から觜ならす鳥の来て

 はやう野分の吹てとる也     芦鴈

 (朝から觜ならす鳥の来てはやう野分の吹てとる也)

 

 朝早くから台風の風がいろいろなものを吹き飛ばして行く。

 

季語は「野分」で秋。

 

五句目

 

   はやう野分の吹てとる也

 洗濯のいとまをもらふ宵の月   支考

 (洗濯のいとまをもらふ宵の月はやう野分の吹てとる也)

 

 台風が去れば台風一過で良い天気になるから、雲が切れて宵の月が出た時点で洗濯をする時間をもらう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

六句目

 

   洗濯のいとまをもらふ宵の月

 野郎にわたすぎりぎりす籠    以之

 (洗濯のいとまをもらふ宵の月野郎にわたすぎりぎりす籠)

 

 洗濯の間コオロギの籠を預かってもらう。

 

季語は「きりぎりす」で秋、虫類。「野郎」は人倫。

初裏

七句目

 

   野郎にわたすぎりぎりす籠

 寐所はもらひ集た絵を押て    扇車

 (寐所はもらひ集た絵を押て野郎にわたすぎりぎりす籠)

 

 この頃木版による浮世絵がどの程度普及していたのかはよくわからない。

 この場合も「もらひ集た」で買ってきた絵ではないという所で、浮世絵ではなく、当時は狩野派などの絵師に絵を習う人も多かったから、そういう人から絵をもらうことも多かったのではないか。

 趣味で描いている絵で、そんな上手いわけでもなく、溜まって行くばかりの絵なら寝床の辺りのぞんざいに積まれて、それを押しのけて寐るということもあったのではないか。

 前句のコオロギの籠を野郎に預けるような男ということで、貰った絵などの溜まっているとする。

 

無季。「寐所」は居所。

 

八句目

 

   寐所はもらひ集た絵を押て

 なにうたひやら鼻声でやる    淡水

 (寐所はもらひ集た絵を押てなにうたひやら鼻声でやる)

 

 絵師に絵を習うような人は謡曲も習ってたりする。六っつの芸に秀でると許六さんになれる。

 発声が悪いか鼻声になっている。

 

無季。

 

九句目

 

   なにうたひやら鼻声でやる

 わかれ途の出ばつた石に腰かくる 桃先

 (わかれ途の出ばつた石に腰かくるなにうたひやら鼻声でやる)

 

 分かれ道になっているところで腰掛けるのにちょうどいい石があると、そこで一休みして何やら謡の一節を謡っている。この場合は鼻歌か。

 

無季。旅体。

 

十句目

 

   わかれ途の出ばつた石に腰かくる

 薮いたちめが仰山に出た     桃後

 (わかれ途の出ばつた石に腰かくる薮いたちめが仰山に出た)

 

 薮からイタチが出てきて大袈裟に騒いでいるということか。

 

無季。「いたち」は獣類。

 

十一句目

 

   薮いたちめが仰山に出た

 水汲に目こすりながら戸を明て  桃鯉

 (水汲に目こすりながら戸を明て薮いたちめが仰山に出た)

 

 眠い目をこすりながら水汲みに行こうとするといきなりイタチが出てきてびっくりする。

 

無季。

 

十二句目

 

   水汲に目こすりながら戸を明て

 みやこの方もさだまらぬ秋    雪丸

 (水汲に目こすりながら戸を明てみやこの方もさだまらぬ秋)

 

 都を離れて慣れぬ水汲みをする人とする。

 

季語は「秋」で秋。

 

十三句目

 

   みやこの方もさだまらぬ秋

 華すすきわかき坊主の物ぐるひ  白雪

 (華すすきわかき坊主の物ぐるひみやこの方もさだまらぬ秋)

 

 秋に華すすきを付けて、都の定まらぬに、若き坊主の物狂いとする。

 都に来て京のいろいろ面倒な習慣に慣れなくてノイローゼ気味か。

 

季語は「華すすき」で秋、植物、草類。「坊主」は人倫。

 

十四句目

 

   華すすきわかき坊主の物ぐるひ

 額やぶれたる白雲の月      芭蕉

 (華すすきわかき坊主の物ぐるひ額やぶれたる白雲の月)

 

 坊主の物狂いで寺は荒れ果てて、山門の額も壊れたままになって、雲の合間の月だけが昔のままだ。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「白雲」は聳物。

 

十五句目

 

   額やぶれたる白雲の月

 猪の追れてかへる哀なり     淡水

 (猪の追れてかへる哀なり額やぶれたる白雲の月)

 

 夜興引であろう。

 

 猪のねに行かたや明の月     去來

 

の句もある。この句がいつ頃の句かはわからないが、『去来抄』に芭蕉に「俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄てがらなかるべし。」と言われたことが記されているから、芭蕉存命中なのは間違いない。

 付け句であればこれでいいが、発句とするには何かもう一つ欲しい所だった。

 

季語は「猪」で秋、獣類。

 

十六句目

 

   猪の追れてかへる哀なり

 茶ばかりのむでけふも旅立    支考

 (猪の追れてかへる哀なり茶ばかりのむでけふも旅立)

 

 夜興引の声を聞きながら、追われる猪に同情するこの旅人は、肉も食わなければ酒も飲まない。

 

無季。旅体。

 

十七句目

 

   茶ばかりのむでけふも旅立

 散華にうすき化粧のところはげ  以之

 (散華にうすき化粧のところはげ茶ばかりのむでけふも旅立)

 

 「ところはげ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「所剥・所禿」の解説」に、

 

 「① 色などがあちこちはげおちていること。また、そのさま。

  ※浮世草子・嵐無常物語(1688)上「所はげのむかふ歯を喰反し」

  ② 頭の一部が禿げていること。

  ※茶話(1915‐30)〈薄田泣菫〉旅銭代用「その男は所禿(トコロハゲ)のある頭を丁寧に下げた」

 

とある。

 歳を取ると化粧の乗りも悪くなり、所禿になる。それに散る花のイメージを重ね合わせる。旅の遊女だろうか。

 『奥の細道』の旅の途中の山中三吟八句目に、

 

   霰降るひだりの山は菅の寺

 遊女四五人田舎わたらひ     曾良

 

の句がある。

 

季語は「散華」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   散華にうすき化粧のところはげ

 二月の雛のとつつけもなひ    桃先

 (散華にうすき化粧のところはげ二月の雛のとつつけもなひ)

 

 「とつけもない」は「とんでもない」という意味で、今でも方言として残っている地方がある。強調しようとすれば「とっつけない」「とっっっっっつけない」ということになる。「とんでもない」が「とおおおおおんでもない」になるようなもの。

 二月になって去年の雛を出してみれば、虫に食われたか黴が生えたか、あちこち禿げてしまって、とんでもないことになっている。

 この頃の雛人形は紙や布などで作られた立雛が主流で、

 

 振舞や下座になおる去年の雛   去来

 

の句のように、去年の雛を捨てずに取っておいて一緒に飾ることもあったが、新しいものを奥にして、古い雛は手前に飾られたりする。

 

季語は「二月」で春。

二表

十九句目

 

   二月の雛のとつつけもなひ

 おもしろき霞のなかのこけら屋ね 芦鴈

 (おもしろき霞のなかのこけら屋ね二月の雛のとつつけもなひ)

 

 「こけら屋ね」は杮葺の屋根でウィキペディアに、

 

 「杮葺(こけらぶき)は、屋根葺手法の一つで、木の薄板を幾重にも重ねて施工する工法である。日本に古来伝わる伝統的手法で、多くの文化財の屋根で見ることができる。

 なお、「杮(こけら)」と「柿(かき)」とは非常に似ているが別字である。「杮(こけら)」は「こけらおとし」の「こけら」同様、木片・木屑の意味。」

 

とある。

 古くからある名刹であろう。二月の霞に風情もあって、ここでのひな祭りはとんでもないくらいにすばらしい、ということか。

 

季語は「霞」で春、聳物。

 

二十句目

 

   おもしろき霞のなかのこけら屋ね

 小鯛も鰡もとれるいせうち    桃隣

 (おもしろき霞のなかのこけら屋ね小鯛も鰡もとれるいせうち)

 

 「いせうち」は伊勢湾のことで、漁業が盛んな所だ。春の小鯛は桜鯛とも言われる。鰡(ぼら)は今の日本ではあまり食べられていないが、かつては高級魚だったという。

 前句のこけら屋ねを伊勢神宮としたか。現在の伊勢神宮は茅葺だが。

 

無季。「いせうち」は水辺。

 

二十一句目

 

   小鯛も鰡もとれるいせうち

 黒崎の浜はからすの鳴つれて   桃後

 (黒崎の浜はからすの鳴つれて小鯛も鰡もとれるいせうち)

 

 今は北九州市の黒崎は、かつては洞海湾が大きな内海で、海に面していた。

 前句の「いせ」を一般名詞の磯(いそ)としての付けであろう。

 

無季。「黒崎」は名所、水辺。「からす」は鳥類。

 

二十二句目

 

   黒崎の浜はからすの鳴つれて

 雨にならふか西のつかへし    雪丸

 (黒崎の浜はからすの鳴つれて雨にならふか西のつかへし)

 

 「つかふ」は塞がっていることをいう。西に黒い雲が立ち塞がっていると、じきに雨にもなろう。カラスも塒に帰って行く。

 

無季。「雨」は降物。

 

二十三句目

 

   雨にならふか西のつかへし

 かご作るそばにあぶなく目をふさぎ 桃鯉

 (かご作るそばにあぶなく目をふさぎ雨にならふか西のつかへし)

 

 雨雲であたりが暗くなってきたので、籠を編む人も目を刺さないように気をつけなくてはならない。

 

無季。

 

二十四句目

 

   かご作るそばにあぶなく目をふさぎ

 松葉の埃のにゆる鍋蓋      芭蕉

 (かご作るそばにあぶなく目をふさぎ松葉の埃のにゆる鍋蓋)

 

 前句の「目をふさぎ」から籠の竹とは違う尖ったものということで松葉を導き、松葉の埃(ごみ)で火を焚いて鍋を煮ていると展開する。

 松葉は油を含んでいるため、落ちた葉を拾い集めて焚き付けなどに用いた。

 

無季。

 

二十五句目

 

   松葉の埃のにゆる鍋蓋

 雉子笛を首に懸たる狩の供    芭蕉

 (雉子笛を首に懸たる狩の供松葉の埃のにゆる鍋蓋)

 

 雉子笛はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「雉笛」の解説」に、

 

 「〘名〙 雉を呼びよせるため、猟人の吹く、雉の声に似せた笛。《季・春》

  ※俳諧・桜川(1674)春「雉子笛や鳥のそらねのはかりごと〈八代都〉」

 

とある。松永貞徳の『俳諧御傘』には、

 

 「かりばの雉子は冬也。声・鳴・音をたつるなど云詞入ば春也。春はよひに雉子のなく所を聞置、未明にゆきてとるを、鳴鳥狩共、朝鷹かり共云也。かりばのとりと斗いへども雉子の事なり。」

 

とある。雉が春なのは宵に鳴くのを本意とするからで、鷹狩の対象としての雉は冬になる。

 鷹狩に同行する共はキジ笛を首にかけて、松葉を焚き付けにして鍋を煮ている。

 

季語は「雉子笛‥狩」で冬。「共」は人倫。

 

二十六句目

 

   雉子笛を首に懸たる狩の供

 雪ふりこむでけふも鳴瀧     桃隣

 (雉子笛を首に懸たる狩の供雪ふりこむでけふも鳴瀧)

 

 狩の情景として、雪の降る滝川を付ける。

 

季語は「雪」で冬、降物。「鳴瀧」は水辺。

 

二十七句目

 

   雪ふりこむでけふも鳴瀧

 にこにこと生死涅槃の夢覚て   支考

 (にこにこと生死涅槃の夢覚て雪ふりこむでけふも鳴瀧)

 

 前句を山の中の禅寺とし、瞑想による無の境地から我に返る瞬間とする。物事があるがままに存在し、花は紅柳は緑の状態で、雪も瀧の音もただそこにあるがままに存在する。

 生死涅槃は生死即涅槃で、ウィキペディアには、

 

 「大乗仏教における空の観念から派生した概念である。生死即涅槃の即とはイコールと捉えられやすいが微妙にやや異なる。この場合の「即」とは、和融・不離・不二を意味する。

 迷界(迷いの世界)にいる衆生から見ると、生死(生死=迷い)と涅槃には隔たりがある。しかしそれは煩悩に執着(しゅうじゃく)して迷っているからそのように思うだけで、悟界(覚りの世界)にいる仏の智慧の眼から見れば、この色(しき、物質世界)は不生不滅であり不増不減である。したがって、いまだ煩悩の海に泳いでいる衆生の生死そのものが別に厭うべきものではなく、また反対に涅槃を求める必要もない。

 言いかえれば、生死を離れて涅槃はなく、涅槃を離れて生死もない。つまり煩悩即菩提と同じく、生死も涅槃もどちらも差別の相がなく、どちらも相即(あいそく)して対として成り立っている。したがってこれを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。」

 

とある。

 涅槃は死後のものではなく、生きながら得られるというこうした発想は、涅槃をある種の真理の体験だと解釈することによる。つまり様々な日常の先入見から解放されて、対象をそれが存在するがままにあらしめる、いかなる解釈も可能でありながらそのどれもなされていない自由な状態、判断を中止した空っぽの状態として捉えるところにある。

 こうした発想はどこにでもあるもので、朱子学では既発に対しての未発の状態であり、風雅の誠も基本的にここに属する。西洋の現象学が判断中止(エポケー)によって対象の本質を直観するというのも、同じ発想だ。

 こうして得られる真理は一種の感覚というか状態であって、何らかの命題を得られるわけではない。むしろハイデッガーが「真理の本質は自由である」というように、答えがない空っぽの状態(フリーな状態)が真理だということになる。

 前に『無門関』の「南泉斬猫」で、何でもいいから答えを出すことが大事だと言ったが、その答えの仕方というのは、何らかの命題を引き出すのではなく、自由(空)であるということの証明、つまり意味のない答えをするというのが正解になる。趙州が靴を脱いで頭に載せて出て行ったというのも、その意味で一つの正解ということになる。

 支考が『葛の松原』で古池の句をこの生死涅槃の文脈で捉えた可能性は十分にあるが、支考の場合は子規と違って写生に価値を見出すのではなく、むしろその意味のなさこそが日常の先入観に満ちた見方からの超越であって、そのまま俳諧の笑いにも適用された。ナンセンスな笑いをもたらすこともまた一つの超越であり、それは俗から遊離したものでなく、俗の中に見出されることに意味があった。

 ただ、芭蕉は支考とは違い、結構風刺の利いた、いわば意味のある句も得意としていたし、支考が受け継げなかったのは芭蕉のその部分だったともいえる。この意味で支考と逆の、芭蕉のもう一つの方向へ行ったのは路通だったのかもしれない。

 

無季。釈教。

 

二十八句目

 

   にこにこと生死涅槃の夢覚て

 院もしらがを侘びたまひけり   桃後

 (にこにこと生死涅槃の夢覚て院もしらがを侘びたまひけり)

 

 上代のいわゆる上皇であろう。「院」と呼ばれ、白髪を剃れば法皇になる。

 

無季。「院」は人倫。

 

二十九句目

 

   院もしらがを侘びたまひけり

 やはらかに鶴鳴ふかす夜の月   雪丸

 (やはらかに鶴鳴ふかす夜の月院もしらがを侘びたまひけり)

 

 夜鳴く鶴の声は、

 

 難波潟汐干にあさる蘆鶴も

     月かたぶけば聲の恨むる

              俊恵法師(新古今集)

 和歌の浦に月の出汐のさすままに

     夜鳴く鶴の聲ぞ悲しき

              前大僧正慈圓(新古今集)

 

などの歌に詠まれている。こうした和歌に述懐の心を読み取っての付けであろう。

 

季語は「夜の月」で秋、夜分、天象。「鶴」は鳥類。

 

三十句目

 

   やはらかに鶴鳴ふかす夜の月

 須磨のきぬたは下手でもつたぞ  芭蕉

 (やはらかに鶴鳴ふかす夜の月須磨のきぬたは下手でもつたぞ)

 

 夜の月に須磨というと『源氏物語』の俤だが、「もつたぞ」はどういう意味なのだろうか。「もつ」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「持」の解説」に、

 

 「[1] 〘他タ五(四)〙

  ① 自分の手の中に入れて保っている。手に取る。所持する。

  ※万葉(8C後)一・一「籠(こ)もよ み籠母乳(モち) 掘串(ふくし)もよ み掘串持(もち) この岡に 菜摘ます児」

  ※平家(13C前)三「手にもてる物をなげ捨て」

  ② 身につける。身に帯びる。携帯する。携行する。

  ※古事記(712)下・歌謡「多遅比野に 寝むと知りせば 防壁(たつごも)も 母知(モチ)て来ましもの 寝むと知りせば」

  ③ 自分の物とする。所有する。

  ※古事記(712)下・歌謡「八田の 一本菅(ひともとすげ)は 子母多(モタ)ず 立ちか荒れなむ あたら菅原」

  ④ そこなったり、変質したりしないようにして保つ。はじめの状態、また、よい状態で保つ。維持する。

  ※愚管抄(1220)七「一切の法はただ道理と云二文字がもつなり」

  ※浮世草子・西鶴織留(1694)五「命を長ふ持(モツ)も」

  ⑤ 使う。用いる。

  ※古事記(712)下・歌謡「つぎねふ 山城女の 木鍬(こくは)母知(モチ) 打ちし大根」

  ⑥ ある考え、気持などを心にいだく。

  ※万葉(8C後)一五・三七二三「あしひきの山路越えむとする君を心に毛知(モチ)て安(やす)けくもなし」

  ⑦ 引き受ける。受け持つ。担当する。負担する。

  ※日葡辞書(1603‐04)「ヤク、または、ダイクヮンヲ motçu(モツ)」

  ※破戒(1906)〈島崎藤村〉二二「一切の費用は自分の方で持つ」

  ⑧ 謡曲で、拍子を合わせるために、引き気味に長くうたう。

  ※曲附次第(1423頃)「拍子をおきて待曲、やる曲、越してもつ曲、〈略〉早や曲、如レ此節曲共」

  ⑨ 物事が、ある性質や状態をその中に含む。

  ※青草(1914)〈近松秋江〉六「温味をもった淡い春靄(もや)を罩めて来た」

  ⑩ 会合、催しなどの場を設ける。設定する。

  ※セルロイドの塔(1959)〈三浦朱門〉八「食事が終ってから、シンポジウムを持とうではありませんか」

  [2] 〘自タ五(四)〙 長くその状態が継続される。維持される。保たれる。

  ※俳諧・花見車(1702)「魚は酢で持つ汝は我で持」

  [3] 〘他タ下二〙 ((一)を下二段に活用させて、使役性の動詞としたもの) 持たせる。

  ※万葉(8C後)一八・四〇八一「片思ひを馬にふつまに負ほせ母天(モテ)越辺に遣らば人かたはむかも」

  [4] 〘自タ下二〙 ⇒もてる(持)」

 

とある。[2]の意味は「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」の「もつ」だと言った方がわかりやすいか。

 この「保つ」に近い意味で、夜の鶴の声に砧は悲しすぎるが、砧が下手だったのでなんとか泣き崩れずに持ちこたえることができた、ということか。鶴の声に砧は連歌だが、鶴の声に下手な砧だと俳諧になる。

 普段砧を打たない人が、たどたどしい鈍い音を立てていたのだろう。

 

季語は「きぬた」で秋。「須磨」は名所、水辺。

二裏

三十一句目

 

   須磨のきぬたは下手でもつたぞ

 あの家ははやう新酒をしぼらるる 以之

 (あの家ははやう新酒をしぼらるる須磨のきぬたは下手でもつたぞ)

 

 新酒を絞るというのは布で濾過して酒粕を取り除く過程であろう。この過程を経ることでどぶろくが清酒になる。木綿や麻を柿渋で染めたものが用いられていた。

 この場合は酒屋ではなく自家醸造の酒だろう。砧を打ってくれるような女房のいない男ばかりの所帯で、砧は下手だが新酒は早い。

 

季語は「新酒」で秋。「家」は居所。

 

三十二句目

 

   あの家ははやう新酒をしぼらるる

 馬つなひだる門の竹垣      芦鴈

 (あの家ははやう新酒をしぼらるる馬つなひだる門の竹垣)

 

 新酒の早いのが有名な店だと、遠くから馬に乗って買いに来る人もいる。

 

無季。「馬」は獣類。「門の竹垣」は居所。

 

三十三句目

 

   馬つなひだる門の竹垣

 干物の筵かかゆる一しぐれ    桃先

 (干物の筵かかゆる一しぐれ馬つなひだる門の竹垣)

 

 馬で荷物を運ぶ職業の人だろう。時雨が来たので干してあった筵を慌てて一抱えにして仕舞う。

 

季語は「一しぐれ」で冬、降物。

 

三十四句目

 

   干物の筵かかゆる一しぐれ

 貌のしかんで黒キ小世忰     白雪

 (干物の筵かかゆる一しぐれ貌のしかんで黒キ小世忰)

 

 「小世忰」は「こせがれ」。「しかんで」は顔をしかめてということ。「黒キ」は黒面ということで、真面目な働き者ということか。時雨で筵を取り込む人の姿を付ける。

 

無季。「小世忰」は人倫。

 

三十五句目

 

   貌のしかんで黒キ小世忰

 咲花に獅子のささらを摺ならし  扇車

 (咲花に獅子のささらを摺ならし貌のしかんで黒キ小世忰)

 

 桜の花の咲く中、前句の小世忰がササラを鳴らし、親父は獅子神楽を舞う。

 

季語は「咲花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   咲花に獅子のささらを摺ならし

 むらをはさむで肥る若松     淡水

 (咲花に獅子のささらを摺ならしむらをはさむで肥る若松)

 

 若松はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「若松」の解説」に、

 

 「① 樹齢の若い松。また、生えて間もない松。⇔老松(おいまつ)。

  ※万葉(8C後)一四・三四九五「巖(いはほ)ろのそひの和可麻都(ワカマツ)限りとや君が来まさぬ心(うら)もとなくも」

  ② 新年の飾りの小松。また、門松。《季・新年》

  ※虎明本狂言・松楪(室町末‐近世初)「たみもとくわか松もろともに、千世かけて、千世かけて、さかふる御代こそめでたけれ」

  ③ 松の若葉。松の新芽。《季・春》

  ④ 白紙を刻んで作った松葉状の花。葬礼の時に用いるもの。

  ※雑俳・柳多留‐二一(1786)「若枩を紙でこさへる気のどくさ」

  ⑤ 襲(かさね)の色目の名。表は萌葱(もえぎ)で裏は紫のもの。若緑。→松襲(まつがさね)。」

 

とある。この場合は③の意味か。獅子神楽は村境のいわば公界で興行され、そこに植えられた松の若葉がすくすくと育って行く。

 

季語は「若松」で春、植物、木類。「むら」は居所。