現代語訳『源氏物語』

07 花宴

 二月の二十日過ぎに、南殿の桜の宴が催されました。

 

 皇后藤壺の宮様、春宮様、それぞれ南殿の東西の席に着きます。

 

 弘徽殿の女御は春宮の母だというのに、自分ではなく藤壺の宮がこうやって席に着くのを、常日頃から不満に思っていたものの、こうした行事をパスするわけにもいかずに参加しました。

 

 よく晴れたいい天気で、空の色鳥の声も心地良く、皇族、上達部をはじめとして漢詩の心得のある人はみな課題となる韻字を与えられ、その韻字を用いて詩を作りました。

 

 源氏の宰相中将、

 

 「春という字を賜りました。」

 

という声までが、例によって同じ人間とは思えない美声でした。

 

 次に頭の中将ですが、常に源氏の君と比較されがちで注目の的となるのですが、いかにも落ち着いていて安定感があり、声の調子も重々しくて立派です。

 

 その他の人たちは皆緊張のあまり、青ざめた顔をしている人がほとんどでした。

 

 本来昇殿を許されない地下(ぢげ)の文人はましてその緊張感は並々でなく、御門や春宮の才能がすぐれていることもあり、漢詩の方面では殿上人のほとんどは熟達しているため、すっかり気後れして、広々とした白日の下にさらされた庭に立ち入るのすら無作法なことなので、普段なら何てこともない詩作でも、随分苦労しているようでした。

 

 年取った博士達の着ているものはみすぼらしくていかにも胡散臭く、いかにも慣れた感じで詩を作ってみせるのも哀愁が漂い、それを皇族たちが眺めているのが笑いを誘います。

 

 雅楽や舞なども、いうまでもなく準備されてました。

 

 ようよう日も暮れかかる頃、春鶯囀(しゅんのうでん)という舞楽がとても面白く、源氏が紅葉の賀のときのことを思い出した春宮様が、簪を与えて源氏にしつこく舞うように勧めたので、源氏の君も逃れがたくて、ステージに立ってゆったりと袖を翻して、さわりだけ形式的に舞っただけなのでしたが、他のどの舞もこれには及びません。

 

 左大臣も娘婿としての日頃の不満も忘れて涙を流しました。

 

 「頭の中将はどうした!

 

 遅いぞ。」

 

とあって、ようやく(りゅう)()(えん)という舞曲を舞いました。

 

 源氏の後ということで少し間をおいてからという心遣いがあったのでしょう、大変面白かったので御衣(おんぞ)下賜(かし)されて、これは異例なことだと人々は思いました。

 

 その他の上達部もみんな次から次へと出てきては舞ったものの、夜になってしまうと上手いのか下手なのかもよくわかりません。

 

 漢詩文の審査をするときにも、源氏の作品に感銘するあまり審査員は涙で読み上げることもできず、一句一句取り上げては口々に賞賛しました。

 

 博士達から見ても並々ならぬものでした。

 

 こういう儀式の折々にも、御門はまず源氏の君を頼みの光としたので、とてもおろそかに扱うわけにはいきません。

 

 藤壺の中宮は源氏の視線を感じるたびに、春宮の女御が憎しみの感情を抑えきれなくなるのではないかと思うと、そんな想像する自分が嫌で、何とか気持ちを切り替えようとします。

 

 「何も知らず花の姿を見ていれば

     不安だなんてつゆも思わず」

 

 心のなかで思っただけなのに、どうしてこうして物語として伝わっているのか定かでありません。

 

 すっかり夜もふける頃、宴は終りました。

 

 上達部は皆それぞれ退出し、后や春宮も帰っていったので宮中も静かになり、月の光が煌々と差し込んで明るいものですから、源氏の君は酔い心地でこのまま帰るのももったいなく思ってか、御門やその側近も眠りに着き、これはひょっとしたら思いがけずに逢うチャンスがあるかと、藤壺のあたりをうろうろとこっそり窺い歩いたものの、侵入しようにも戸口は閉ざされていて意気消沈し、それでも何となく歩いているうちに弘徽殿の東の渡り廊下に来てしまったところ、弘徽殿南側の三の口が開いてました。

 

 弘徽殿の女御は宴が終るとすぐに御門の所に行ったので、人もあまりいない様子です。

 

 奥の(くるる)()も開いていて、物音もしません。

 

 こんなことだから男と女は過ちを犯すんだと思って、そっと登って中を覗きました。

 

 人はみんな寝ているようです。

 

 そこに、普通の人とは思えないくらいとても若くて奇麗な声で、

 

 「♪朧月夜はまたとないもの」

 

と口ずさみながら、近づいてくる者があろうとは。

 

 うれしくなって、さっと袖を掴まえます。

 

 女はびっくりした様子で、

 

 「やだ、きもい!

 

 だれなの!」

 

と言うものの、

 

 「何を嫌がってるんですか。」

 

とばかりに、

 

 「この深い夜の哀れをともに知る

     前世の縁はおぼろではない」

 

と言って静かに抱きかかえては部屋に下ろし、扉を閉めました。

 

 突然の恐怖に呆然としている様子がかえって痴情をそそり、可愛く思えます。

 

 震えわななきながら、

 

 「ここには‥‥

 

 人がいます‥‥」

 

とは言ってみるものの、

 

 「麿(まろ)は万人に許されたものなれば、誰をお召しになろうともなんちゅうこともない。

 

 ただ、黙っておいた方がそなたのためでは。」

 

と言う声に、例のあの君だとわかり、ほんのちょっと気持ちが落ち着きました。

 

 逆らう気力も失せたせいか、冷淡に身を固くしているようには見えません。

 

 源氏の君もいつになく酔っていたせいか、このまま許してやるのも癪だし、女も若くて折れやすく、抵抗し続けるだけの強さもありません。

 

 そして‥‥‥‥。

 

   *

 

 可愛いなと思っているうちに、ほどなく夜も明ければ気持ちもせかされます。

 

 まして女の方はどうしていいかわからない様子です。

 

 「せめて名を聞かせてくれ。

 

 どうやって連絡を取ればいいんだ。

 

 まさかこれっきりなんて言わないでしょうね。

 

 不幸にもこのまま死んでしまっても

     草葉の陰を尋ねてくれますか」

 

という様子が、言うに言われぬ思いを押し殺したようで、あでやかです。

 

 「なるほど。

 

 誤解を招く言い方だったな。

 

 どこなのか露の棲家を探す間に

     小笹が原に風が吹いたら

 

 煩わしいと思っているのでないなら、隠すことはないだろう。

 

 それとも気のあるふりをしただけか?」

 

と言い終わらないうちにお付の人たちが起き出す物音がして、弘徽殿の女御が御門のところから戻るようなので、そのお迎えやらで行き来する人が入り混じって、しょうがなくまた逢うという意味で(おうぎ)を交換して出て行きました。

 

   *

 

 源氏の宿所である桐壺には、お付の者がたくさん控えていて、源氏の朝帰りに驚いて目を覚ます者もいるものの、「またいつもの夜遊びでしょ」と互いに小突きながら寝たふりをしてます。

 

 源氏は部屋に入り横になっても、眠れません。

 

 「なかなか面白そうな女だったな‥‥、弘徽殿女御の年下の兄弟だったりして。

 

 まだ結婚してないのは五の君と六の君か‥‥、大宰の(そち)をしている親王の奥さんや頭の中将の嫌っているその妹の四の君なんかがいいとは聞いていたが、それほどの人だったらもう少し楽しい一夜だっただろうな。

 

 六の君は春宮の妻にしようと右大臣が狙っているから、ちょっと気の毒だったか。

 

 厄介なことになるな‥‥、確かめようにも五の君と六の君は似ているし、これど終りにするという風でもなかったけど、どうして手紙を交わす方法を教えてくれなかったのだろう。」

 

などとあれこれ考えるのも、興味を引かれたからでしょう。

 

 こういうことになっても、まずあのときの女の様子を思い出しては、あれくらい慎ましかったらなと、誰かさんと比べているのでした。

 

   *

 

 その日は打ち上げがあるので、気を紛らわして過ごしました。

 

 筝の演奏を命じられてました。

 

 昨日の形式ばった催しよりは地味だけど面白いと思いました。

 

 藤壺は夜明け前の暗いうちに御門の下へ行きました。

 

 あの有明の月が出てくるかもしれないと気もそぞろで、何ごとにもぬかりのない(よし)(きよ)惟光(これみつ)に探りに行かせ、御前を退出した時に、

 

 「ただいま北の玄輝門の方から密かに出て行く車があります。

 

 女御更衣の実家の人が来ている中に、四位の少将、右中弁などが急いで出てきて送って行ったのが弘徽殿女御の退出と思われます。

 

 いかにもただならぬ感じで三台の車が出て行きました。」

 

と聞いて、胸が潰れる思いでした。

 

 「どうすれば誰だかわかるのか。

 

 父の右大臣がしゃしゃり出てきて、よいしょされちゃってもそれもどうだか。

 

 まだあの人の本性がよくわからない以上、面倒なことになりそうだ。

 

 だからといってわからないままに終るのもまた残念だし、どうすればいいのか。」

 

といろいろ悩んでも結論の出ぬまま、ぼんやりと横になりました。

 

 「本妻の姫君はさぞかし退屈していることだろうな。

 

 もう何日も経つから塞ぎこんでいないだろうか。」

 

とちょっと気がかりなようです。

 

 例の誓いの徴の扇は白と紅と青の三重の桜襲ねで、青の方に霞んだ月が描いてあって水に映る月を表す趣向はありきたりではあるけど、昨日のこともあって大事そうに抱きしめてました。

 

 「草葉の陰を」と歌に詠んでいたのをふと思い出して、

 

 世のものと思えないよな有明の

     月の行方は空にかき消え

 

と書き付けて、下に置きました。

 

 「本妻とは随分ご無沙汰しているな。」

 

と思ってはみても、若い姫君を残してきたことにも胸が苦しくなるので、何とかご機嫌を取らねばと思い二条院へ行きました。

 

 見るからに超美人へと成長し、気品も具わり優雅な身のこなしなど、やはり普通ではありません。

 

 これといった欠点もなく、自分の思い通りにいろいろなことを教えていこうと思うのに不足はありません。

 

 男が教えるため、少々男っぽくなったりしても困るなという心配もあります。

 

 この数日にあったことを話したり、琴を教えたりして夕方にまた外出するとなると、いつものようにがっかりはするものの、今はちゃんと学習したのか、無闇にくっついてきて離れないなんてことはありません。

 

 正妻とは、いつものことですが、すぐに顔をあわすようなことありません。

 

 やることもないままいろいろ考えた末、筝を爪弾いて、

 

 「♪(ぬき)(かわ)の瀬々の(やわ)手枕(たまくら)

 柔らかに寝る夜はなくて‥‥」

 

と唄いました。

 

 左大臣がやってきて、あの日の出し物が面白さについてあれこれ語りました。

 

 「この歳まで四代に渡る明王の時代を見てきたけど、今回のように立派な詩文に舞楽や演奏などもしっかりしいて、寿命も延びる思いをしたのは初めてだった。

 

 どの分野でも傑出した人間のそろっている今日この頃だけに、本当によく勉強し、練習なさった。

 

 この老体もよっぽど何か舞ってみようかとおもった。」

 

と言うので、

 

 「特別な練習はしてません。

 

 ただ公の行事なので、ちょっといかがわしい先生の所をあちこち訪ね歩いただけです。

 

 そんなことより、柳花苑は本当にこれから舞う人の見本になるのではないかと思いましたし、その上左大臣殿に舞われてしまい、この世の春の栄華の頂点に立たされてしまったら、一生自慢しちゃいますよ。」

 

と答えました。

 

 弁の中将などもやってきて、高欄に背中を押し付けながら、いろいろな楽器を一緒に演奏したりしました。

 

 それはそれは楽しいことです。

 

 当の有明の姫君はというと、儚い夢を思い出してはとても悲しげに物思いにふける日々でした。

 

 四月には春宮のもとに入内(じゅだい)すると決まっていたので、どうすることもできずに思い悩んでいて、源氏の方も手がかりがないわけではないものの、どっちの君かわからないままで、特に弘徽殿女御の周辺は近づくことも許されず、聞いて回るのも格好悪く、どうにもこうにも進展のないまま三月の二十日過ぎに、右大臣が弓比べを催す際に上達部や皇族がたくさん集って、終ったあとは藤の宴となりました。

 

 桜の季節は過ぎたけど、他が散るのを待ってから咲く方が賢明だと教えられたのか、遅れて咲く二本の桜がみごとです。

 

 新築した寝殿は、弘徽殿女御の娘皇子たちの()()の日に奇麗に磨き上げ整えられていました。

 

 派手好きの右大臣の人柄を表すかのように、どれもこれも今風のもてなしでした。

 

 源氏の君にも先日内裏で顔を合わせたついでに誘いをかけたものの、来なかったのにがっかりし、引き立て役がいないのも残念と思って、四位少将に手紙を託しました。

 

 我が庭の花がそこらの色ならば

     君を待ってるわけもあるまい

 

 源氏が宮中にいるときだったので、御門に報告しました。

 

 「どや顔だな。」

 

と御門は笑い、

 

 「わざわざこんな歌まで送ってくるんだから、早いとこ行ってやれ。

 

 娘皇子たちも大きくなっているし、軽々しく扱ってはいけない。」

 

と言いました。

 

 源氏の君は衣装をそれなりのものに着替えて、すっかり日も暮れるのを待ってから出発しました。

 

 桜襲(さくらがさね)の中国製の()の直衣を着て、蒲葡(えびぞめ)下襲(したがさね)の裾を長く引きずって、他の人たちが皆、礼服である(ほう)を着ているのに対し、皇族が御幸の際などにするような着くずした姿が何ともさりげなく、うやうやしく出迎えられている姿は、まさに別格です。

 

 楽器の演奏などしながら楽しく過ごし、夜もややふけてゆく頃、源氏の君はひどく酔ったふりして、こっそりと席を立ちました。

 

 寝殿には女一の宮と女三の宮がいました。

 

 東の戸口の所にやってきて、寄りかかって座りました。

 

 藤はこっちの端っこにあるので、格子を片っ端から開け放って女房達が格子際まで出てきてました。

 

 袖口など踏歌(とうか)の時みたいに、わざとらしく外に垂らして襲の色目を見せびらかしているのが場違いな感じで、藤壺のあたりのことを思い出しました。

 

 「調子悪いのに酒を強いられて、困ってます。

 

 恐縮ですが、こういう宴席ですので藤の影にも隠れさせてください。」

 

と言って、妻戸の御簾をつまみ上げれば、

 

 「そりゃ困ったわね。

 

 身分の低い人が高貴な家に来たのをいいことに、藤の栄華にあやかろうと言うならわかりますが。」

 

と答える様子を見ると、そんな歳な感じではないけど、そこいらの若いねーちゃんとは違ってました。

 

 上品な感じがにじみ出てます。

 

 室内用に焚かれた薫物(たきもの)がやけに煙たく漂って、衣の立てる音がいかにも華やかな大サービスで、心憎いまでの奥ゆかしさなどは望むべくもなく、今風のものを好む人たちなので、高貴な人たちが見物に来るというのでこちら側の戸口は閉ざしてたのでしょう。

 

 本当はこんな所を覗いてはいけないんだけど、さすがに例のことが気にかかって、

 

 「どこにいるのか。」

 

と胸がキュンとなり、

 

 「♪石川加茂の高麗人(こまうど)

 扇取られてひどい目にあった。」

 

と催馬楽の『石川』の「帯」のところを「扇」に変えて、とぼけたような声で口ずさみ、姫君たちのところに近づいていきました。

 

 「なーに?

 

 歌詞が違っているじゃないの。」

 

という反応は、事情がわかってない証拠。

 

 返事もせずにただ時々溜息ついているような人を見つけると、そこに這いより、几帳ごしに手を握り、

 

 「弓を射る(いる)()の山に迷っちゃった

     ちら見した月を見ようとしたら

 

 

 何でかなーー。」

 

と、これだと思ってそう話しかけると、ごまかすこともできません。

 

 「心中に月があるなら弓張りの

    月すらなくても迷わないはず」

 

という声は、まさにその人です。

 

 

 嬉しくてしょうがない所でしょうが‥‥。