「猿蓑に」の巻、解説

元禄七年九月初め頃の伊賀での興行

初表

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

   日は寒けれど静なる岡    芭蕉

 水かるる池の中より道ありて   支考

   篠竹まじる柴をいただく   惟然

 鶏があがるとやがて暮の月    芭蕉

   通りのなさに見世たつる秋  支考

 

初裏

 盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚   惟然

   昼寝の癖をなをしかねけり  芭蕉

 聟が来てにつともせずに物語   支考

   中國よりの状の吉左右    惟然

 朔日の日はどこへやら振舞れ   芭蕉

   一重羽織が失てたづぬる   支考

 きさんじな青葉の比の椴楓    惟然

   山に門ある有明の月     芭蕉

 初あらし畑の人のかけまわり   支考

   水際光る濱の小鰯      惟然

 見て通る紀三井は花の咲かかり  芭蕉

   荷持ひとりにいとど永き日  支考

 

 

二表

 こち風の又西に成北になり    惟然

   わが手に脈を大事がらるる  芭蕉

 後呼の内儀は今度屋敷から    支考

   喧嘩のさたもむざとせられぬ 惟然

 大せつな日が二日有暮の鐘    芭蕉

   雪かき分し中のどろ道    支考

 来る程の乗掛はみな出家衆    惟然

   奥の世並は近年の作     芭蕉

 酒よりも肴のやすき月見して   支考

   赤鶏頭を庭の正面      惟然

 定まらぬ娘のこころ取しづめ   芭蕉

   寝汗のとまる今朝がたの夢  支考

 

二裏

 鳥籠をづらりとおこす松の風   惟然

   大工づかひの奥に聞ゆる   芭蕉

 米搗もけふはよしとて帰る也   支考

   から身で市の中を押あふ   芭蕉

 此あたり弥生は花のけもなくて  惟然

   鴨の油のまだぬけぬ春    支考

 

      参考;『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)

         『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)

初表

発句

 

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

 

 元禄七年九月三日に伊賀にいる芭蕉の元に、支考と斗従が伊勢からやってきた。

 

   伊勢の斗従に山家を訪はれて

 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな  芭蕉

 

の句を詠む。

 蕎麦には春蒔き用の品種と夏蒔き用の品種があり、夏蒔き用の品種の場合、旧暦七月頃に種を蒔き、旧暦九月にようやく花が咲く。食べるのはもっと後のこと。

 九月四日の夜には支考、斗従を交えて、

 

 松茸や知らぬ木の葉のへばりつき  芭蕉

 

の発句で九吟歌仙興行を行う。松茸に熱燗なら大阪談林だが、松茸にへばりつく木の葉というあるあるネタに走るのが蕉風だ。

 支考の『芭蕉翁追善日記』によると、この興行は九月四日だが、同じ日に、

 

   戌九月四日会猿雖亭

 松風に新酒をすます夜寒哉     支考

 

を発句とする五十韻興行が行われている。一日に二つの興行、それも一つは五十韻となるとかなりハードで、「松茸や」の方は別の日だったのではないかと思う。「松茸や」の興行が夜だったなら、「松風に」の五十韻興行は昼間行われたことになる。

 そして、この日に芭蕉は松茸の句と酒の句を別々に詠んだことになる。

 

 花にうき世我が酒白く飯黒し    芭蕉

 

は天和三年の句で、この頃は白い濁り酒を飲んで、玄米の飯を食っていたのだろう。その後、もろみを原酒と酒粕に分けることで透き通った酒を造る「清酒」が広まったのであろう。ただ、今日のような炭素濾過を行わないので、まったくの無色透明ではない。

 この九月四日よりは多分少し後だろう。

 

 猿蓑に漏れたる露の松露かな    沾圃

 

を発句を基にした、芭蕉、支考、惟然の三吟歌仙興行が行われている。こちらの方は『猿蓑』に収録されることになった。

 沾圃(せんぽ)は能役者で芭蕉に弟子入りしたのは遅く、元禄六年と言われている。

 五月晦日の、

 

 其富士や五月晦日二里の旅    素堂

 

を発句とする興行で、

 

   家より庭の広き住なし

 晨朝(ありあけ)は汀の楼の水にあり 沾圃

 

などの句がある。この句は五句目の月の定座ということもあって、庭の広い家から、汀の楼の有明を付けている。

 『炭俵』の「雪の松」の巻の興行にも参加し、

 

   二三畳寝所もらふ門の脇

 馬の荷物のさはる干もの     沾圃

 

   わざわざわせて薬代の礼

 雪舟でなくバと自慢こきちらし  沾圃

 

のニ句を詠んでいる。

 「猿蓑に」の発句もおそらくこの頃のものだろう、「霜」という冬の季語と「松露」という秋の季語が使われているが、芭蕉の脇から冬の句と扱われていたことがわかる。

 「松露」は近代では春の季語になっているようだが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では秋の八月の所に、

 

 「松露 [和漢三才図会]麦蕈(ばくしん)、俗云、松露。沙地、松樹ある陰処に生ず。松の津液と秋湿と相感じて菌となる。繖(かさ)、柄なく、状ち零余子(ぬかご)に似て円く大きし。外褐色、内白く、柔に淡く甘し。香あり。」

 

とある。

 芭蕉の「軽み」の風の確立される『炭俵』の頃の入門ということもあって、一躍「軽み」の推進者として『炭俵』の次の集、『続猿蓑』の撰者に抜擢される。

 その、『続猿蓑』のタイトルの由来となる句が、この「猿蓑に」の句だと思われる。

 松露は美味で香りも良く、それに霜の降りる様は単なる食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、という句だ。

 蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れだが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせる。

 沾圃としては、ぜひこの霜の松露を救うべく『続猿蓑』が編纂されたと、そういう物語を描きたかったのだろう。

 ただ、さすがにこの句を巻頭に据えるのはためらわれたか。この句は沾圃のいない伊賀の地で、芭蕉自身とこれからの蕉門を担う期待の星、支考と惟然との三人で句を付け、『続猿蓑』の飾りとすることで入集することとなった。

 

季語は「霜」で冬。降物。

 

 

 

   猿蓑にもれたる霜の松露哉

 日は寒けれど静なる岡      芭蕉

 (猿蓑にもれたる霜の松露哉日は寒けれど静なる岡)

 

 冬の句の脇ということで「寒けれど」と冬の季語を入れて、霜の松露の背景を添える。あまり自己主張せずに謙虚に発句を引き立てている。

 

季語は「寒し」で冬。「日」は天象。「岡」は山類。

 

 

第三

 

   日は寒けれど静なる岡

 水かるる池の中より道ありて   支考

 (水かるる池の中より道ありて日は寒けれど静なる岡)

 

 これも穏やかな、連歌のような趣向だ。『水無瀬三吟』の八句目、

 

   鳴く虫の心ともなく草枯れて

 垣根をとへばあらはなる道    肖柏

 

の句を髣髴させる。肖柏の句は草が枯れて道があらわになるという趣向だが、支考の句は水が枯れて池の中に道が現れるとする。かつては道だったところにいつしか水が溜まり池になっていたのだろうか。

 「道」はもちろん単なる道路ではなく、この世の「道」の含みも感じさせる。

 

無季。「池」は水辺。

 

 

四句目

 

   水かるる池の中より道ありて

 篠竹まじる柴をいただく     惟然

 (水かるる池の中より道ありて篠竹まじる柴をいただく)

 

 山に柴刈りに行くと、そこに笹も混じってくる。芭蕉の『奥の細道』の途中山中温泉で詠んだ、「馬かりて」の巻六句目、

 

    青淵に獺(うそ)の飛こむ水の音

 柴かりこかす峰のささ道     芭蕉

 

をより穏やかに流した感じか。

 

無季。「篠竹」「柴」は植物、草類。

 

 

五句目

 

   篠竹まじる柴をいただく

 鶏があがるとやがて暮の月    芭蕉

 (鶏があがるとやがて暮の月篠竹まじる柴をいただく)

 

 昔の養鶏は平飼い(放し飼い)で、昼は外を自由に歩き回り、夕暮れになると小屋に戻って止まり木の上で寝る。ちょうどその頃山に入っていた多分爺さんが、刈ってきた柴を頭の上に載せて帰ってくる。

 鶏というと、陶淵明の「帰園田居其一」の、

 

 狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓

 路地裏の奥では犬がほえて、鶏は桑の木の上で鳴く

 

を思わせる。柴を頂いた爺さんも実は隠士だったりして。

 

季語は「月」で秋。天象。「日」と二句隔てている。「鶏」は鳥類。

 

 

六句目

 

   鶏があがるとやがて暮の月

 通りのなさに見世たつる秋    支考

(鶏があがるとやがて暮の月通りのなさに見世たつる秋)

 

 舞台を市の立つようなちょっとした街にし、登場人物を柴刈りの爺さんから露天商に変える。末尾に「秋」と添えることで、人通りの途切れたところに秋の寂しさを感じさせる。

 

 此道や行人なしに秋の暮     芭蕉

 

の句はこの二十日余り後の九月二十六日に詠まれることになる。

 

季語は「秋」で秋。

初裏

七句目

 

   通りのなさに見世たつる秋

 盆じまひ一荷で直(ね)ぎる鮨の魚 惟然

 (盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚通りのなさに見世たつる秋)

 

 盆仕舞いはお盆の前の決算のことで、年末の決算に対する中間決算のようなものか。

 馴れ寿司を仕込むために魚屋に声かけて、天秤棒に背負っている魚を全部買うから負けてくれと交渉する。人通りのないところで他に売れそうもないので魚屋もしぶしぶ承諾し、今日は店じまいとなる。

 鮨は夏の季語だが、お盆(旧盆)の頃でもまだ暑いので十分醗酵させることが出来る。

 

季語は「盆」で秋。

 

 

八句目

 

   盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚

 昼寝の癖をなをしかねけり    芭蕉

 (盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚昼寝の癖をなをしかねけり)

 

 この時代よりやや後の正徳二年(一七一二年)に書かれた貝原益軒の『養生訓』巻一の二十八には、

 

「睡多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし。昼いぬるは尤も害あり。」

 

と昼寝を戒めている。寝すぎは健康に良くないという考え方は、益軒先生が書く前からおそらく一般的に言われていたことなのだろう。

 だが、そうはいってもまだ残暑の厳しい旧盆のころなら、なかなか昼寝の癖を直す気にはなれない。

 ましてお盆前の中間決算の時に魚を大量に安く買って鮨を作るような要領のいい人間なら、無駄に働くようなことはしない。昼寝の楽しみはやめられない。

 前句の人物から思い浮かぶ性格から展開した、「位付け」の句といっていいだろう。

 

無季。当時はまだ「昼寝」は夏の季語ではなかった。

 

 

九句目

 

   昼寝の癖をなをしかねけり

 聟(むこ)が来てにつともせずに物語 支考

 (聟が来てにつともせずに物語昼寝の癖をなをしかねけり)

 

 場面は変って、昼寝の癖が抜けないのは嫁に行った娘のことか。婿が家にやってきて、いかにも不満げにそのことを滔々と訴える。

 前句を物語の内容とした付け。

 

 聟が来てにつともせずに物語「昼寝の癖をなをしかねけり」

 

といったところか。

 

無季。「聟」は人倫。

 

 

十句目

 

   聟が来てにつともせずに物語

 中國よりの状の吉左右(きっそう)  惟然

 (聟が来てにつともせずに物語中國よりの状の吉左右)

 

 ここで言う中国は唐土(もろこし)のことではなく、今日の中国地方と思われる。ウィキペディアで「中国地方」を調べると、

 

 「文献上の早い例は、南朝 : 正平4年/北朝 : 貞和5年(1349年)に足利直冬が備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗する「中国探題」として見られる(「師守記」「太平記」)こと、翌1350年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、1354年に将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた(「永青文庫文書」)こと等。南北朝時代中頃には中央の支配者層に、現在の中国地方(時には四国を含めた範囲)がほぼ「中国」として認識されていた。また、中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった(岸田裕之執筆「中国」の項、『日本史大事典4』平凡社、1993年)。天正10年(1582年)には、豊臣秀吉による中国大返しと称された軍団大移動もあった。とはいえ、この当時の「中国」の呼称は俗称に過ぎず、日本の八地方制度の1つとして「中国地方」とされるのは大正時代以降である。」

 

とある。

 これでいくと、「中国」という言葉は南北朝期から戦国時代までの今で言う中国地方を指す言い方で、おそらく前句の「につともせずに物語」からこの婿を、みだりに笑ってはいけないと教育されている武家の位と定め、武士が使いそうな「中国」という言葉を用いたのであろう。

 あるいは戦国時代の設定で、中国戦線から吉報がもたらされたということか。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は大内家か毛利家へ士官の決まった牢人の句としているという。

 

無季。

 

 

十一句目

 

   中國よりの状の吉左右

 朔日の日はどこへやら振舞れ     芭蕉

 (朔日の日はどこへやら振舞れ中國よりの状の吉左右)

 

 朔日(ついたち)は吉日で、特に八月の朔日は「八朔」と呼ばれ、日ごろお世話になっている人に贈り物をしたりした。

 ここでは八月という指定はないので、八朔を匂わせてはいるが無季になる。いろいろご馳走になったりしたのだろう。

 中国からの吉報に加えて、めでたい朔日の接待とお目出度つながりで、これは響き付けになる。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)も「吉左右の状にひびき合せたる詞の栞也」としているという。

 

無季。

 

 

十二句目

 

   朔日の日はどこへやら振舞れ

 一重羽織が失てたづぬる       支考

 (朔日の日はどこへやら振舞れ一重羽織が失てたづぬる)

 

 「柳小折」の巻の七句目に、

 

   小鰯かれて砂に照り付

 上を着てそこらを誘ふ墓参      酒堂

 

とあり、夏場などには羽織だけ着て簡単な礼装としたようだ。

 朔日の振る舞いに招かれ一応一重の羽織だけは羽織って行き形を整えていったものの、いつしか無礼講になり酔っ払った挙句羽織をどこかになくしてしまったと、いかにもありそうな話だ。

 さんざん捜した挙句、実は畳んで懐に入れてあったなんてこともあったかも。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『こと葉の露』の「いさみたつ」の巻に、

 

   伏見の橋も京の名残ぞ

 ふところへ畳んで入る夏羽織    馬莧

 

という句がある。

 

季語は「一重羽織」で夏。衣装。

 

 

十三句目

 

   一重羽織が失てたづぬる

 きさんじな青葉の比の椴楓(もみかえで) 惟然

 (きさんじな青葉の比の椴楓一重羽織が失てたづぬる)

 

 これはなかなかわかりにくいが、おそらく前句の「一重羽織」を一重羽織を着た人に取り成し、それが急にふらっといなくなって青葉の頃の樅や楓を見に行った、ということだろう。まあ、なんともお気楽(きさんじ)なことか。

 きさんじな一重羽織が青葉の頃の樅楓を失せてたづぬる、の倒置になる。

 

季語は「青葉」で夏。植物。「椴」「楓」も植物。木類。

 

 

十四句目

 

   きさんじな青葉の比の椴楓

 山に門ある有明の月         芭蕉

 (きさんじな青葉の比の椴楓山に門ある有明の月)

 

 『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、「きさんじ」には「法師程世にきさんじなる物はなし」(西鶴『男色大鑑』貞享四年刊)という用例があるという。芭蕉もまた「きさんじ」から法師を連想したか。芭蕉さんのことだから『男色大鑑』を読んでいたかもしれないが、まあ、芭蕉さんのそれはあくまで噂ですから。

 山はおりしも青葉の頃で、有明の月に夜も白んでくると樅や楓の若葉が次第に姿を現し、その中からお寺の門とおぼしきものも見えてくる。こんな所に暮らすお坊さんはさぞかしきさんじなことだろう。上句は「きさんじな、青葉の頃の‥‥」と切って読んだ方がいいだろう。

 

季語は「月」で秋。夜分、天象。「山」は山類。

 

 

十五句目

 

   山に門ある有明の月

 初あらし畑の人のかけまわり     支考

 (初あらし畑の人のかけまわり山に門ある有明の月)

 

 「初あらし」は秋の初めに吹く秋風の強く吹く時で、ちょうど台風の季節でもあり、その前触れのような風なのだろう。

 

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども

     風の音にぞおどろかれぬる

              藤原敏行(古今集)

 

の風の音も、おそらくこういった風だったのだろう。

 前句の「山に門ある」から山村の風景とし、早朝からせわしく駆け回る農民の姿を付けている。特にひねりのない素直な展開だ。「畑の人の」は「畑を人の」ということ。

 

季語は「初あらし」で秋。「人」は人倫。

 

 

十六句目

 

   初あらし畑の人のかけまわり

 水際光る濱の小鰯          惟然

 (初あらし畑の人のかけまわり水際光る濱の小鰯)

 

 畑を海辺の風景とし、人がせわしく駆け回っていると思ったら浜にはイワシの大群が来て海が光って見える。こりゃ大騒ぎするはずだ。

 

季語は「鰯」で秋。水辺。「濱」も水辺。

 

 

十七句目

 

   水際光る濱の小鰯

 見て通る紀三井は花の咲かかり    芭蕉

 (見て通る紀三井は花の咲かかり水際光る濱の小鰯)

 

 紀三井寺(紀三井山金剛宝寺護国院)は和歌山県にあり、すぐ目の前に和歌の浦が広がる。

 和歌の浦と紀三井寺は貞享五年の春、芭蕉は『笈の小文』の旅のときに訪れている。

 

 行く春にわかの浦にて追付たり   芭蕉

 

の句がある。また、『笈の小文』には収められていないが、

 

 見あぐれば桜しまふて紀三井寺   芭蕉

   

の句もある。

 実際芭蕉が行ったときは春も終わりで桜も散った後だったが、連句では特に実体験とは関係なく「花の咲かかり」とする。前句を和歌の浦とし、三井寺の花を添える。

 

季語は「花」で春。植物、木類。「紀三井」は名所。

 

 

十八句目

 

   見て通る紀三井は花の咲かかり

 荷持ひとりにいとど永き日     支考

 (見て通る紀三井は花の咲かかり荷持ひとりにいとど永き日)

 

 紀三井寺に花が咲き、主人は花見に興じているのだろう。荷持ちの男はただ一人、主人の花見が終わるまで荷物の番をして、ただでさえ春の長い一日が余計長く感じられる。

 

季語は「永き日」で春。「荷持」は人倫。

二表

十九句目

 

   荷持ひとりにいとど永き日

 こち風の又西に成北になり     惟然

 (こち風の又西に成北になり荷持ひとりにいとど永き日)

 

 東風(こち)が吹いたかと思えば西風になったり北風になったり、春の天気は変りやすい。雨になったりすると困るし、荷持ちもそのつどいろいろ気を使うことがあるのだろう。

 

季語は「こち」で春。

 

 

二十句目

 

   こち風の又西に成北になり

 わが手に脈を大事がらるる     芭蕉

 (こち風の又西に成北になりわが手に脈を大事がらるる)

 

 昔ニッポン放送のラジオで人間寒暖計と呼ばれている人がいて、持病で天気予報をするコーナーがあったが、天候の定まらない時に持病持ちというのは結構ありがたがられたりするのかもしれない。

 

無季。「わが手」は人倫。

 

 

二十一句目

 

   わが手に脈を大事がらるる

 後呼(のちよび)の内儀は今度屋敷から 支考

 (後呼の内儀は今度屋敷からわが手に脈を大事がらるる)

 

 前句の「脈」を人脈のことと取り成す。「後呼(のちよび)の内儀」は後妻のこと。コネでもなければなかなか後妻を立派な武家屋敷からなんてことにはならない。大事がられるはずだ。

 

無季。「内儀」は人倫。

 

 

ニ十二句目

 

   後呼の内儀は今度屋敷から

 喧嘩のさたもむざとせられぬ    惟然

 (後呼の内儀は今度屋敷から喧嘩のさたもむざとせられぬ)

 

 立派な屋敷から来た妻だし、ばついちという負い目もあって、こいつあおちおち喧嘩もできん。超軽みの頃なら、そんな付け句になったかもしれない。

 

無季。

 

 

ニ十三句目

 

   喧嘩のさたもむざとせられぬ

 大せつな日が二日有暮の鐘     芭蕉

 (大せつな日が二日有暮の鐘喧嘩のさたもむざとせられぬ)

 

 これは一種の「咎めてには」ではないかと思う。この頃の俳諧では珍しい。

 ある程度の歳になれば誰だって大切な日が年に二日ある。父の命日、母の命日、その恩を思えば喧嘩なんかして殺傷沙汰になって命を落とすようなことがあれば、そんなことのために生んだんではないと草葉の陰で親がなげき悲しむぞと、それを諭すかのように夕暮れの鐘が鳴り響く。

 今日なら喧嘩は戦争に置き換えてもいいかもしれない。みんな親に大切に育てられた子供たちだ。無駄に殺しあうことなかれ。ただ、いろいろな家庭があって虐待された子供たちもいたりするから世の中難しい。ちなみに江戸時代は幼児虐待は死刑だった。

 

無季。

 

 

ニ十四句目

 

   大せつな日が二日有暮の鐘

 雪かき分し中のどろ道       支考

 (大せつな日が二日有暮の鐘雪かき分し中のどろ道)

 

 さて、しんみりした後の展開は難しいが、ここは気分を変えたいところだ。

 とりあえず前句の「大せつな日」を盆と正月のことにして、「暮れの鐘」は年末の大晦日の一年の最後の入相の鐘のことにする。

 正月を迎えるために雪かきをしたところ、多くの人が残った雪を踏みしめて通るため、かえって泥道になって歩きにくくなるという「あるある」で展開することになる。

 ちなみに、この時代は初詣ではなく、大晦日にお参りをした。

 また、今のような真夜中に撞く除夜の鐘はなかった。

 

 

季語は「雪」で冬。

 

 

二十五句目

 

   雪かき分し中のどろ道

 来る程の乗掛はみな出家衆     惟然

 (来る程の乗掛はみな出家衆雪かき分し中のどろ道)

 

 「乗掛」は乗り掛け馬で、ネットで調べた所、児玉幸多『宿場と街道』の引用で、

 

「(二)乗掛(乗懸)というのは、人が乗って荷物をつけたものをいう。馬の背の両側に明荷(つづら)を二個つけ、その上に蒲団をしいて乗る。明荷は今では相撲が場所入りの時にまわしや化粧まわしを入れて持ち運ぶために使われている。その荷を乗懸下とか乗尻という。乗掛荷人共というのは、人と荷物がある場合ということである。乗尻の荷物は、慶長七年の規定では十八貫目ということになっていたが、後には二十貫目までとなり、ほかに蒲団・中敷・跡付・小付などで、三、四貫目までは許された。それと人の目方を合わせれば四十貫ぐらいになるわけで、その賃銭は本馬と同じであった。」

 

とあった。

 北国の大きなお寺の法要だろうか。大荷物を抱えたお坊さんたちが馬で次々とやってくる。そのせいで雪かきした道は泥道になる。

 

無季。「出家衆」は釈教。

 

 

二十六句目

 

   来る程の乗掛はみな出家衆

 奥の世並は近年の作        芭蕉

 (来る程の乗掛はみな出家衆奥の世並は近年の作)

 

 陸奥の作柄は近年にない豊作だという。寺領の豊作でお寺関係はさぞかし潤ったことだろう。

 

季語は「作」で秋。

 

 

二十七句目

 

   奥の世並は近年の作

 酒よりも肴のやすき月見して    支考

 (酒よりも肴のやすき月見して奥の世並は近年の作)

 

 前句が秋に転じたところで、ここで遠慮せずにすかさず月を出すのがいい。

 前句を商人などの噂話とし、それとは関係なく月見の情景を付ける。

 何かと見栄を張りがちな武家の月見と違い、商人は質素な肴で酒を楽しむ。「やすき」は廉価と気軽の両方の意味を掛けている。

 

季語は「月見」で秋。夜分、天象。

 

 

二十八句目

 

   酒よりも肴のやすき月見して

 赤鶏頭を庭の正面         惟然

 (酒よりも肴のやすき月見して赤鶏頭を庭の正面)

 

 芭蕉が福井の洞哉の所を尋ねた時の『奥の細道』に、、

 

 「市中でひそかに引入て、あやしの小家に夕貌・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木々に戸ぼそをかくす。」

 

とある。路地裏の小さな家の庭など、どこにでもある花だったのだろう。「肴のやすき」の貧相なイメージから、貧相つながりで付けたのだろう。

 薄だったら農家の風情で、菊だったら武家の立派な庭、商人には鶏頭が似合うというところか。

 なお、鶏頭は食用にもされていたか、

 

 味噌で煮て喰ふとは知らじ鶏頭花  嵐雪

 

の句もある。嵐雪のような風流人が知らなかったのだから、この時代には既に廃れていたのだろう。

 元禄六年秋の「いざよひは」の巻の第三に、

 

   鵜船の垢をかゆる渋鮎

 近道に鶏頭畠をふみ付て      岱水

 

の句があり、食用なら畑で作るのもわかる。

 

季語は「鶏頭」で秋。植物、草類。「庭」は居所。

 

 

二十九句目

 

   赤鶏頭を庭の正面

 定まらぬ娘のこころ取しづめ    芭蕉

 (定まらぬ娘のこころ取しづめ赤鶏頭を庭の正面)

 

 この巻にはなかなか恋の句が出ず、このまま終わるのも寂しいというのか、やや強引に恋に持ってゆく。

 ままならぬ恋に情緒不安定になっていたのか。庭の赤鶏頭の花に心を鎮めるというのが表向きの意味だが、赤鶏頭から顔を真っ赤にしてヒステリックな声を上げる女を連想したか。

 

無季。「定まらぬ心」は恋。「娘」は人倫。

 

 

三十句目

 

   定まらぬ娘のこころ取しづめ

 寝汗のとまる今朝がたの夢     支考

 (定まらぬ娘のこころ取しづめ寝汗のとまる今朝がたの夢)

 

 前句の興奮を夢魔のせいとする。あるいは嫉妬に狂った生霊を飛ばす人でもいるのか。

 特に『源氏物語』葵巻の、六条御息所の生き霊の話を知らなくても、普通に悪夢にうなされた娘で意味が通るので、この場合は本説ではなく俤になる。

 

無季。

二裏

三十一句目

 

   寝汗のとまる今朝がたの夢

 鳥籠をづらりとおこす松の風    惟然

 (鳥籠をづらりとおこす松の風寝汗のとまる今朝がたの夢)

 

 松風のシューシュー言う悲しげな音は無常の音。それは悟りの音でもある。

 

  深くいりて神路のおくをたづぬれば

     また上もなき峯の松風

                 西行法師

 

の歌もある。無常を悟った時に無明の悪夢から目覚める。

 それだけだと説教臭くなるので、夢から醒めて悟りを得る心を裏に隠しながらも、鳥籠の鳥の鳴き声に目覚める普通の朝の情景に作っている。

 惟然は俳号としては「いぜん」と読むが僧侶としては「いねん」と読む。その僧侶としての「いねん」を覗かせる一句だ。

 

無季。「鳥」は鳥類。「松」は植物、木類。

 

 

三十二句目

 

   鳥籠をづらりとおこす松の風

 大工づかひの奥に聞ゆる      芭蕉

 (鳥籠をづらりとおこす松の風大工づかひの奥に聞ゆる)

 

 かごの鳥たちが鳴き出す頃、大工さんも朝早くから仕事を始める。まさに朝飯前の仕事だ。

 

無季。「大工」は人倫。

 

 

三十三句目

 

   大工づかひの奥に聞ゆる

 米搗もけふはよしとて帰る也    支考

 (米搗もけふはよしとて帰る也大工づかひの奥に聞ゆる)

 

 米搗(こめつき)は精米作業のことで、臼に玄米を入れて杵で叩く。ある程度の量を精米する必要のある時は唐臼というシーソー状の梃子の原理を応用した大型の道具を用いる。

 昔は玄米のまま保管し、その日使用する分だけを搗いていました。今日はこれくらいでいい、と米搗きを終えて帰っていった。

 大工さんもトントントン、米搗きもトントントンで、文字通りの響き付けだ。

 

無季。

 

 

三十四句目

 

   米搗もけふはよしとて帰る也

 から身で市の中を押あふ      芭蕉

 (米搗もけふはよしとて帰る也から身で市の中を押あふ)

 

 ここで順番が変って、惟然が付けるべき所に芭蕉さんが来ている。おそらく花の定座を惟然に譲るためだろう。これまで芭蕉は花一句月二句を詠み、支考が月を一句詠んでいるが、惟然はどちらも詠んでいない。

 句は米搗きを終えて帰るお米屋さんが手ぶらで市場の中を通り過ぎるというだけのやり句で、花呼び出しと言えよう。賑わう市はまさに人の花。さあ、惟然さん、どんな花を咲かしてくれるのか。

 

無季。「身」は人倫。

 

 

三十五句目

 

   から身で市の中を押あふ

 此あたり弥生は花のけもなくて   惟然

 (此あたり弥生は花のけもなくてから身で市の中を押あふ)

 

 ちょっ、待てよ、そりゃないだろうって、花を出さないの?

 まあ、この肩透かし感は斬新だったのかもしれない。

 陸奥の方の花の遅い地方をイメージしたのだろう。花は咲かなくても市場は人で賑わっている。人の花にやがて咲くべき桜の花の匂いだけを付けたこの意外な展開に、芭蕉さんも「これもありか」と驚いたかもしれない。利休の水盤の一枚の花びらのような句だ。

 

季語は「弥生」で春。「花」も春。植物、木類。

 

 

挙句

 

   此あたり弥生は花のけもなくて

 鴨の油のまだぬけぬ春       支考

 (此あたり弥生は花のけもなくて鴨の油のまだぬけぬ春)

 

 春の遅い地方ということで、鴨の油も抜けない春と結ぶ。

 鴨は冬にたっぷり脂肪をつけ、春になると減らしてゆく。

 この句に春の目出度さが欠けているという人がいるみたいだが、とんでもない。春になってもまだたっぷり油の乗った鴨が食べられるって、目出度いじゃないか。

 最後の二句は伝統的なパターンを思いっきりはずした実験的な終わり方で、芭蕉はこの二人に後の俳諧を託したのであろう。

 ただ、芭蕉亡き後、待っていたのは分裂だった。「大せつな日が二日有暮の鐘」の咎めてにはは結局芭蕉の弟子たちには効果なかったようだ。

 これから大阪へ酒堂と之道の喧嘩の仲裁に行くのだが、これも芭蕉さんのいる時だけは仲直りしたふりして、結局不調に終わる。幸いなのは、芭蕉さんが弟子たちの分裂の中で衰退してゆく俳諧の姿を見ずにすんだことくらいか。

 

季語は「春」で春。「鴨」は鳥類。