「涼しさの」の巻、解説

貞享二年六月二日東武小石川ニおゐて興行

初表

   賦花何俳諧之連歌

 涼しさの凝くだくるか水車     清風

   青鷺草を見越す朝月      芭蕉

 松風のはかた箱崎露けくて     嵐雪

   酒店の秋を障子あかるき    其角

 社日来にけり尋常の煤はくや    才丸

   舞ふ蝶仰ぐ我にしたしく    コ齋

 みちの記も今は其侭に霞こめ    素堂

   氈を花なれいやよひの雛    清風

 老てだに侍従は老をへりくだり   芭蕉

   氷きよしと打守りたり     嵐雪

 

初裏

 戸隠の山下小屋のしづかにて    其角

   阿闍梨もてなす父の三年    才丸

 笑顔よくむまれ自慢の一器量    コ齋

   船に夜々いのち商ふ      素堂

 雨そぼつ蚊やり火いたく煙てし   清風

   草庵あれも夏を十畳      芭蕉

 既にたつ碁に稀人をあざむきて   嵐雪

   鴻鳫高く白眼ども落ず     其角

 晩稲刈干みちのくの月よ日よ    才丸

   浄瑠璃聞んやど借らん秋    コ齋

 椎の実の價筭る半蔀に       素堂

   うしろ見せたる美婦妬しき   清風

 花ちらす五日の風はたがいのり   芭蕉

   北京遠き丸山の春       嵐雪

 

 

二表

 三尺の鯉に小鮎に料理の間     其角

   はや兼好をにくむ此とし    才丸

 幾廻の戦ひ夢と覚やらず      コ齋

   逝水やみを捨ぬものかは    素堂

 白鳥のはふり湯立の十五日     清風

   夫酔醒の愚に嚔して      芭蕉

 橇のすすみかねたる黄昏に     嵐雪

   おし恩愛の沢を二羽たつ    其角

 桟造り曲輪のつみを指おらん    才丸

   きぬぎぬの衣薄きにぞ泣く   コ齋

 いかなればつくしの人のさはがしや 素堂

   古梵のせがき花皿を花     清風

 ひぐらしの声絶るかたに月見窓   芭蕉

   引板を業とすおのこ嘯く    嵐雪

 

二裏

 武士のものすさまじき艤      其角

   七里法華の七里秋風      コ齋

 丑三の雷南の雲と化し       才丸

   槐の小鳥高くねぐらす     芭蕉

 陰陽神の留守其侭の仮家建     素堂

   狂女さまよふ跡したふなる   清風

 情しる身は黄金の朽てより     芭蕉

   軽く味ふ出羽の鰰       才丸

 寒月のともづなあからさまなりし  嵐雪

   枯てあらしのつのる荻萩    其角

 独楽の茶に起伏を舎るのみ     才丸

   三里も居ず不二いまだ見ず   コ齋

 鹿を追う弓咲花に分入て      素堂

   春を愁る小の晦日       清風

 

 

三表

 陽炎に坐す縁低く狭かりき     芭蕉

   砥水きよむる五郎入道     嵐雪

 倅もたば上戸も譲るかくごなり   其角

   雲ちりちりに風薫る薮     才丸

 伊予すだれ湯桁の數はいざしらず  コ齋

   入院見舞の長に酌とる     素堂

 一陽を襲正月はやり来て      清風

   汝さくらよかへり咲ずや    芭蕉

 染殿のあるじ旭を拝む哉      嵐雪

   しのぶのみだれ瘧ももたび   其角

 うき世とはうきかは竹をはづかしめ 才丸

   名をあふ坂をこしてあらはす  コ齋

 後の月家に入る尉出る児      素堂

   わけてさびしき御器の焼米   清風

 

三裏

 みの虫の狂詩つくれと啼ならん   芭蕉

   忠に死にたる塚に彳ム     嵐雪

 はつ雪の石凸凹に凸凹に      其角

   小女郎小まんが大根引ころ   才丸

 血をそそぐ起請もふけば翻り    コ齋

   見よもの好の門は西むき    素堂

 御明しの夜をささがにの影消て   清風

   汗深かりしいきどふる夢    芭蕉

 はらからの旅等閑に言葉なく    嵐雪

   ふるごとさとる小夜の中山   其角

 枝花をそむくる月の有明て     才丸

   ふらここつらん何某が軒    コ齋

 谺して修理する船の春となり    素堂

   立初る虹の岩をいろどる    清風

 

 

名残表

 きれだこに乳人が魂は空に飛    芭蕉

   麻布の寝覚ほととぎす啼け   嵐雪

 わくら葉やいなりの鳥居顕れて   其角

   文治二年のちから石もつ    才丸

 乱れ髪俣くぐりしと偽らん     コ齋

   礫に通ふこころくるはし    素堂

 三日の月影西須磨に落て鳧     清風

   秋はものかはあげ捨の棟    芭蕉

 燈しんを負ばかならずはつ嵐    嵐雪

   只一眼もみちはひとすじ    其角

 特にくろきも流石ゆふ間ぐれ    才丸

   定家かづらの撓む冬ざれ    コ齋

 低く咲花を八ッ手と見るばかり   素堂

   桶の輪入れの住居いやしし   清風

 

名残裏

 ひだるさを鐚にかへたるこころ太  芭蕉

   瀧をおしまぬ不動尊き     嵐雪

 声なくてさびしかりけるむら雀   其角

   出る日はれて四方しづかなり  才丸

 花降らば我を匠と人や言ん     コ齋

   さくらさくらの奥深き園    執筆

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

   賦花何俳諧之連歌

 涼しさの凝くだくるか水車    清風

 

 清風は翌年三月二十日にも「花咲て」の歌仙興行に参加している。この時も小石川で興行が行われたと思われる。ここに清風の江戸屋敷があったと言われている。

 小石川というと、今日関口芭蕉庵と呼ばれるものがある。ウィキペディアには、

 

 「松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後に請け負った神田上水の改修工事の際に1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの4年間、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが関口芭蕉庵の始まりである。後の1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られた。その後、1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」が建立された。また「竜隠庵」はいつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。」

 

とある。あるいはここで行われたのかもしれない。

 ここはすぐ前に神田川があり、背後は目白台の小高い台地になっている。そこに水車があったのであろう。

 川辺の涼しげな景色を前にして、涼しげな水がさらに水車によって細かく砕かれて辺りを涼しくしているようですと、会場の景色を褒め称えて興行の挨拶とする。

 なお、この百韻は通常と月花の定座の位置がずれている。何らかの理由で連歌の古式(本式)が用いられてと思われる。土芳の『三冊子』に「連歌の古式は、表十句、名残の裏六句、月七句去、花裏表に一本宛、表の内名所必一有。今も清水連哥此如しとなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.93)とある。

 連歌の式目は二条良基の頃から『応安新式』が採用され、その後の『新式今案』の部分的な改定に留まる。連歌本式は新式以前のルールで、明応元年(一四九二年)に兼載が十三項の連歌本式を制定し、翌年宗祇らによって『明応二年三月九日於清水寺本式何人』が興行されている。

 「花裏表に一本宛」を表裏両方に花が必要と判断したのと、「表の内名所必一有」を四つの懐紙すべてに名所としたが、これは聞きかじった知識で連歌本式を誤解したのではないかと思われる。連歌本式の採用はこれ一回で終わっている。

 賦物は「花何」で、ここでは「花車」と思われるが、紹巴の『連歌初学抄』の賦物の一覧に「車」はない。車は雅語でないところから俳諧の賦物として新たに作ったか。

 

季語は「涼しさ」で夏。「水車」は水辺。

 

 

   涼しさの凝くだくるか水車

 青鷺草を見越す朝月       芭蕉

 (涼しさの凝くだくるか水車青鷺草を見越す朝月)

 

 水車のある神田川周辺の風景に、鷺の中でも大きいアオサギが草の上に顔を出して朝の月を見ている。

 見たままの景色で、特に寓意はなさそうだ。百韻興行なので朝から一日かけて行われたのだろう。

 青鷺は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では夏の季語になっているが、この時代はよくわからない。貞徳の『俳諧御傘』の「鷺」のところには、「非水辺、雑也。」とある。後に青鷺だけが区別されて夏になったと思われる。

 

季語は「朝月」で秋、天象。「青鷺」は鳥類。「草」は植物、草類。

 

第三

 

   青鷺草を見越す朝月

 松風のはかた箱崎露けくて    嵐雪

 (松風のはかた箱崎露けくて青鷺草を見越す朝月)

 

 博多箱崎は大陸へ渡る船の出る港だったが、ここでは『源氏物語』常夏巻の、

 

 常陸なる駿河の海の須磨の浦に

     波立ち出でよ箱崎の松

 

であろう。茨城から福岡までの地名が散りばめられた戯れ歌だが、「立ち出でよ」「待つ」を導き出す序詞だと思えばいい。

 前句の鷺のたたずむ景色に海辺の松を付けるのだが、「表の内名所必一有」という古式のルールがあるためあえて「はかた箱崎」を出したのであろう。

 箱崎は、

 

 いく世にか語り伝へむ箱崎の

     松の千歳のひとつならねば

              源重之(拾遺集)

 そのかみの人は残らじ箱崎の

     松ばかりこそわれをしるらめ

              中将尼(後拾遺集)

 

などの歌に詠まれている。

 

季語は「露」で秋、降物。「箱崎」は名所、水辺。

 

四句目

 

   松風のはかた箱崎露けくて

 酒店の秋を障子あかるき     其角

 (松風のはかた箱崎露けくて酒店の秋を障子あかるき)

 

 秋の夜長で新酒もできたか、夜の港で酒屋の障子がひときわ明るく見える。

 

季語は「秋」で秋。

 

五句目

 

   酒店の秋を障子あかるき

 社日来にけり尋常の煤はくや   才丸

 (社日来にけり尋常の煤はくや酒店の秋を障子あかるき)

 

 「社日」はウィキペディアに、

 

 「社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する。

 春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる。ただし戊と戊のちょうど中間に春分日・秋分日が来る場合(つまり春分日・秋分日が癸(みずのと)の日となる場合)は、春分・秋分の瞬間が午前中ならば前の戊の日、午後ならば後の戊の日とする。またこのような場合は前の戊の日とする決め方もある。」

 

とある。秋にもあるが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では彼岸と同様春の季語になる。この時代で季語だったかどうかはよくわからない。

 特にそんな派手な儀式もなかったのだろう。神社ではいつものように掃除している。

 

無季。神祇。

 

六句目

 

   社日来にけり尋常の煤はくや

 舞ふ蝶仰ぐ我にしたしく     コ齋

 (社日来にけり尋常の煤はくや舞ふ蝶仰ぐ我にしたしく)

 

 前句の社日を春の社日として、神社の掃除をしていると蝶が親しげに寄ってくる。

 

季語は「蝶」で春、虫類。「我」は人倫。

 

七句目

 

   舞ふ蝶仰ぐ我にしたしく

 みちの記も今は其侭に霞こめ   素堂

 (みちの記も今は其侭に霞こめ舞ふ蝶仰ぐ我にしたしく)

 

 「みちの記」というと宗祇法師の『筑紫道記(つくしみちのき)』があり、紀行文を書くような文才のある旅人とする。今はひとところに留まり蝶を友としてのんびりと春を謳歌している。

 ちなみに芭蕉は四月末に『野ざらし紀行』の旅から江戸に戻り、貞享四年十月に『笈の小文』の旅に出るまで江戸の第二次芭蕉庵で過ごす。

 

季語は「霞」で春、聳物。

 

八句目

 

   みちの記も今は其侭に霞こめ

 氈を花なれいやよひの雛     清風

 (みちの記も今は其侭に霞こめ氈を花なれいやよひの雛)

 

 氈は毛で織った敷物で、行事の時に下に敷く。

 雛人形は当時は紙か布製の一対の立雛で、まだ段飾りはなかった。散った花が毛氈代りとなる。

 かつての旅人も今は所帯を持ち娘がいて雛人形を飾る。

 芭蕉が後に詠む、

 

 草の戸も住替る代ぞひなの家   芭蕉

 

と逆のパターンになる。

 初表で花が出るのは、「花裏表に一本宛」というルールが裏表両方に一本ずつという意味にしてのことか。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「やよいの雛」も春。

 

九句目

 

   氈を花なれいやよひの雛

 老てだに侍従は老をへりくだり  芭蕉

 (老てだに侍従は老をへりくだり氈を花なれいやよひの雛)

 

 前句の「氈を花なれ」を花のように美しい毛氈とし、舞台を宮廷とする。

 老いた侍従は老いていることを引け目に思い卑下するが、年をとっても立派な雛で花のような毛氈がよく似合うとする。

 

無季。「侍従」は人倫。

 

十句目

 

   老てだに侍従は老をへりくだり

 氷きよしと打守りたり      嵐雪

 (老てだに侍従は老をへりくだり氷きよしと打守りたり)

 

 氷室の氷は天皇だけでなく侍従にも配られたが、老いを理由に見るだけに留める。

 「氷きよし」は「氷室」あるいは「氷を献ずる」に準じるなら夏になるが、次の句で冬の氷に取り成せるので微妙なところではある。談林時代の形式季語を引き継ぐのであれば冬となる。

 

季語は「氷」で冬。

 

初裏

十一句目

 

   氷きよしと打守りたり

 戸隠の山下小屋のしづかにて   其角

 (戸隠の山下小屋のしづかにて氷きよしと打守りたり)

 

 前句の「打守りたり」を山下小屋を守るとする。

 

無季。「戸隠」は名所、山類。

 

十二句目

 

   戸隠の山下小屋のしづかにて

 阿闍梨もてなす父の三年     才丸

 (戸隠の山下小屋のしづかにて阿闍梨もてなす父の三年)

 

 戸隠はかつては戸隠山勧修院顕光寺で、神仏習合の修験の地だったので阿闍梨がいた。明治の神仏分離で戸隠神社になった。

 戸隠の山下小屋で父の三回忌に阿闍梨をもてなす。

 

無季。釈教。「父」は人倫。

 

十三句目

 

   阿闍梨もてなす父の三年

 笑顔よくむまれ自慢の一器量   コ齋

 (笑顔よくむまれ自慢の一器量阿闍梨もてなす父の三年)

 

 父の供養をする娘であろう。

 

無季。恋。

 

十四句目

 

   笑顔よくむまれ自慢の一器量

 船に夜々いのち商ふ       素堂

 (笑顔よくむまれ自慢の一器量船に夜々いのち商ふ)

 

 遊女を運ぶ人買い船とする。

 

無季。恋。「船」は水辺。「夜々」は夜分。

 

十五句目

 

   船に夜々いのち商ふ

 雨そぼつ蚊やり火いたく煙てし  清風

 (雨そぼつ蚊やり火いたく煙てし船に夜々いのち商ふ)

 

 雨の降る真っ暗な夜の船は蚊やり火も不完全燃焼で煙たくてしょうがない。

 

季語は「蚊やり火」で夏。「雨」は降物。「煙」は聳物。

 

十六句目

 

   雨そぼつ蚊やり火いたく煙てし

 草庵あれも夏を十畳       芭蕉

 (雨そぼつ蚊やり火いたく煙てし草庵あれも夏を十畳)

 

 「あれも」は「もあれ」の倒置だろうか。草庵とはいえ十畳の広さがある。「夏を」は放り込み。

 

季語は「夏」で夏。「草庵」は居所。

 

十七句目

 

   草庵あれも夏を十畳

 既にたつ碁に稀人をあざむきて  嵐雪

 (既にたつ碁に稀人をあざむきて草庵あれも夏を十畳)

 

 「既にたつ稀人を碁にあざむきて」の倒置。立派な草庵はやってくる旅人を賭け碁に誘い、いかさまをして巻き上げた金で立てた。

 

無季。「稀人」は人倫。

 

十八句目

 

   既にたつ碁に稀人をあざむきて

 鴻鳫高く白眼ども落ず      其角

 (既にたつ碁に稀人をあざむきて鴻鳫高く白眼ども落ず)

 

 「鴻雁哀鳴」は辞書オンライン四字熟語辞典に、

 

 「離散してさまよう民が、苦労や窮状を訴えることのたとえ。

  鴻(おおとり)と雁(”がん”または”かり”)を流浪の民をたとえたもの。

  出典:『詩経』「小雅・鴻鴈」

 

とある。

 「白眼ども」は「にらめども」と読む。この場合は碁の白の目に掛けているのか。旅人がいくら頑張ってもコウになった白の目を塞ぐことができない。

 

季語は「鳫」で秋、鳥類。「鴻」も鳥類。

 

十九句目

 

   鴻鳫高く白眼ども落ず

 晩稲刈干みちのくの月よ日よ   才丸

 (晩稲刈干みちのくの月よ日よ鴻鳫高く白眼ども落ず)

 

 前句を鴻や雁の高く飛ぶを秋の景色とするとともに、はるばる長い旅路を行く旅人に重ね合わして、晩秋のみちのくへと展開する。

 「月よ日よ」は月日のこととも天象としての月や日とも取れる。

 

 都をば霞とともに立ちしかど

     秋風ぞ吹く白河の関

              能因法師(後拾遺集)

 

の心になる。

 

季語は「晩稲刈(おくてかり)」で秋。旅体。

 

二十句目

 

   晩稲刈干みちのくの月よ日よ

 浄瑠璃聞んやど借らん秋     コ齋

 (晩稲刈干みちのくの月よ日よ浄瑠璃聞んやど借らん秋)

 

 みちのくには奥浄瑠璃という古式ゆかしい浄瑠璃が残っている。芭蕉ものちに『奥の細道』の旅で聞くことになる。

 

季語は「秋」で秋。旅体。

 

二十一句目

 

   浄瑠璃聞んやど借らん秋

 椎の実の價筭る半蔀に      素堂

 (椎の実の價筭る半蔀に浄瑠璃聞んやど借らん秋)

 

 「價筭る」は「あたいかぞふる」。反蔀は町家の蔀。椎の実を買って浄瑠璃を見ながら今の映画館のポップコーンのように食べるのだろうか。

 

無季。

 

二十二句目

 

   椎の実の價筭る半蔀に

 うしろ見せたる美婦妬しき    清風

 (椎の実の價筭る半蔀にうしろ見せたる美婦妬しき)

 

 椎の実を売っている商人よりも、背中を向けて奥に行ってしまった美婦に、何で行っちまうんだよと思う。

 

無季。恋。「美婦」は人倫。

 

二十三句目

 

   うしろ見せたる美婦妬しき

 花ちらす五日の風はたがいのり  芭蕉

 (花ちらす五日の風はたがいのりうしろ見せたる美婦妬しき)

 

 これは謡曲『熊野』ではないかと思う。謡曲では雨だが、本説を取る時には少し変えなくてはいけないので風に変える。

 花見の宴が中止になって母のもとに帰京する熊野の後姿を、平宗盛が妬ましく思う。

 古式だとここが定座になる。

 

季語は「花ちらす」で春、植物、木類。恋。

 

二十四句目

 

   花ちらす五日の風はたがいのり

 北京遠き丸山の春        嵐雪

 (花ちらす五日の風はたがいのり北京遠き丸山の春)

 

 丸山は長崎の丸山花街。三善英史のヒット曲でも知られている。北京はここでは「ほくけい」と読む。一六四四年(寛永二十一年)に清の三代皇帝世祖順治帝がここを都とした。

 一六六一年(寛文元年)に清は海禁を行い、清との貿易は途絶えていたが、一六八三年(天和三年)に解かれて清との貿易が復活した。この興行の二年前のことなので、当時としてはホットな話題と言えよう。

 遊女が唐人の帰って行くのを止めようと風の吹かないことを祈ったが、空しく風が吹き、桜の花も散ってしまった。

 

季語は「春」で春。恋。

二表

二十五句目

 

   北京遠き丸山の春

 三尺の鯉に小鮎に料理の間    其角

 (三尺の鯉に小鮎に料理の間北京遠き丸山の春)

 

 丸山花街は江戸の吉原、京の島原と並んで三大遊郭と言われ賑わった。料理もさぞかし豪華だったことだろう。一メートル近い鯉は、そのまま丸揚げにしたのだろうか。それに旬の小鮎を散らして、とにかく豪勢。

 

季語は「小鮎」で春。

 

二十六句目

 

   三尺の鯉に小鮎に料理の間

 はや兼好をにくむ此とし     才丸

 (三尺の鯉に小鮎に料理の間はや兼好をにくむ此とし)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「徒然草に『四十にて死なんこそ目安けれ』と言っている。既に四十歳を越しても、なお楽しみはつきぬのに、兼好の言葉が憎らしいの意。」

 

とある。まあ、今でも「二十歳過ぎまで生きていたくない」だとか「大人になったら死にたい」だとかいう人はいるし、誰だって年は取りたくないものだ。

 江戸時代の四十は初老で隠居する年だが、権力のある人ほど年とっても居座りたがるもので、三尺の鯉を食うような奴はどちらかというと早く隠居してほしい。兼好法師も言っている。

 

 「そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。」

 

と。

 

無季。

 

二十七句目

 

   はや兼好をにくむ此とし

 幾廻の戦ひ夢と覚やらず     コ齋

 (幾廻の戦ひ夢と覚やらずはや兼好をにくむ此とし)

 

 まあ、今で言うバトルクレイジーというやつだね。戦いのスリルと買ったときの高揚感が麻薬のように脳を支配していて、次のバトルを求めてやまない。最後は部下の謀反にあったりする。

 

無季。

 

二十八句目

 

   幾廻の戦ひ夢と覚やらず

 逝水やみを捨ぬものかは     素堂

 (幾廻の戦ひ夢と覚やらず逝水やみを捨ぬものかは)

 

 「やみを」は「身をや」の倒置。前句を望まぬ戦いに身を費やしてきたとすし、世を捨てて流れる川の水に身を任せることもできると諭す体で、咎めてにはの一種。『楚辞』の漁父問答を踏まえたものか。

 

無季。「逝水」は水辺。「み」は人倫。

 

二十九句目

 

   逝水やみを捨ぬものかは

 白鳥のはふり湯立の十五日    清風

 (白鳥のはふり湯立の十五日逝水やみを捨ぬものかは)

 

 「湯立(ゆだて)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 神前の大釜で湯をわかし、巫女(みこ)や神職がその熱湯に笹の葉をひたして、自分のからだや、参列者にふりかける儀式。古くは神意をうかがう方式であったと思われるが、後世には湯を浄め祓う力のあるものとみなし、舞と結合して芸能化した。ゆだち。

  ※康富記‐宝徳三年(1451)九月二九日「粟田口神明有二湯立一、参詣拝見了。少納言殿令レ語云、此湯立并湯起請事、為二日本奇特一之由」

 

とある。

 「はふり」はwewblio辞書の「デジタル大辞泉」に、

 

 「はふり【▽祝】

  《罪やけがれを放(はふ)り清める意》神社に属して神に仕える職の一。ふつう神主・禰宜(ねぎ)より下級の神職をいう。

  はぶり【▽葬り】

  《「はふり」とも》遺体をほうむること。葬送。ほうむり。

  「親いみじく騒ぎて取り上げて、泣きののしりて―す」〈大和・一四七〉

  は‐ふり【羽触り】

  ⇒羽触(はぶ)れ」

 

とある。

 白鳥(しらとり)の羽触りに神職の「はふり」を掛けて湯立神事を導き出す。前句は「逝水、闇を捨ぬものかは」になって、心の闇は去り、心は清められる。

 

無季。神祇。「白鳥」は鳥類、水辺。

 

三十句目

 

   白鳥のはふり湯立の十五日

 夫酔醒の愚に嚔して       芭蕉

 (白鳥のはふり湯立の十五日夫酔醒の愚に嚔して)

 

 「夫」は「かの」と読む。「嚔」は「くさめ」でくしゃみのこと。

 酔っぱらったまま神事でお湯を浴び、酔いが醒めたら風邪をひいてた。愚だね。

 

無季。

 

三十一句目

 

   夫酔醒の愚に嚔して

 橇のすすみかねたる黄昏に    嵐雪

 (橇のすすみかねたる黄昏に夫酔醒の愚に嚔して)

 

 「橇」は「かんじき」。かんじきを履いても歩くのが困難な大雪の黄昏は、結局外へ出ずに酒飲んで寝てしまい、酔い覚めにくしゃみする。

 

季語は「橇」で冬。

 

三十二句目

 

   橇のすすみかねたる黄昏に

 おし恩愛の沢を二羽たつ     其角

 (橇のすすみかねたる黄昏におし恩愛の沢を二羽たつ)

 

 「おし」はオシドリのこと。かんじきでも歩けない深い雪の日に、オシドリはつがいで沢を飛び立ってゆく。

 白楽天『長恨歌』の「在天願作比翼鳥 在地願為連理枝」ということか。

 

季語は「おし」で冬、鳥類、水辺。恋。「沢」は水辺。

 

三十三句目

 

   おし恩愛の沢を二羽たつ

 桟造り曲輪のつみを指おらん   才丸

 (桟造り曲輪のつみを指おらんおし恩愛の沢を二羽たつ)

 

 遊郭の入口の思案橋であろう。こんなものを作るから今日も愛し合った二人がここを飛び出していった。末は心中だろう。罪なことだ。

 

無季。恋。

 

三十四句目

 

   桟造り曲輪のつみを指おらん

 きぬぎぬの衣薄きにぞ泣く    コ齋

 (桟造り曲輪のつみを指おらんきぬぎぬの衣薄きにぞ泣く)

 

 一夜過ごした遊郭の朝はそっけなく、早く帰れと言わんばかりで、遊女の衣も薄いが情も薄いのが泣けてくる。まあ、金では本当の愛は買えないからね。

 

無季。恋。「衣」は衣裳。

 

三十五句目

 

   きぬぎぬの衣薄きにぞ泣く

 いかなればつくしの人のさはがしや 素堂

 (いかなればつくしの人のさはがしやきぬぎぬの衣薄きにぞ泣く)

 

 「博多ん者んなぁ横道もん」何て言葉が今でもあるが、筑紫の人は横着で荒っぽいというイメージはこの頃からあったのか。そういえば村田英雄の「無法松の一生」にも、「小倉生まれで玄海育ち口も荒いが気も荒い」なんてあった。

 筑紫は昔から内外の貿易の中心地で筑紫船もある。船乗りが多いからそういうイメージになったのかもしれない。せっかちなのは対岸の国の影響を受けているのかもしれない。

 表に名所を出す。筑紫は、

 

 筑紫なる思ひ染め川わたりなば

     水やまさらん淀む時なく

              藤原さねたた(後撰集)

 筑紫舟まだともづなもとかなくに

     さしいづるものは涙なりけり

              連敏法師(後拾遺集)

 

などの歌に詠まれている。

 

無季。「つくし」は名所。「人」は人倫。

 

三十六句目

 

   いかなればつくしの人のさはがしや

 古梵のせがき花皿を花      清風

 (いかなればつくしの人のさはがしや古梵のせがき花皿を花)

 

 古梵は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に古梵刹とある。梵刹はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 仏語。てら。寺院。ぼんさつ。

  ※正法眼蔵(1231‐53)仏経「近来の長老等、わづかに王臣の帖をたづさへて、梵刹の主人といふ」 〔書言故事‐釈教類〕」

 

とある。

 せがきは施餓鬼でウィキペディアに、

 

 「餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養することで、またそのような法会を指す。特定の先祖への供養ではなく、広く一切の諸精霊に対して修される。 施餓鬼は特定の月日に行う行事ではなく、僧院では毎日修されることもある。

 日本では先祖への追善として、盂蘭盆会に行われることが多い。盆には祖霊以外にもいわゆる無縁仏や供養されない精霊も訪れるため、戸外に精霊棚(施餓鬼棚)を儲けてそれらに施す習俗がある、これも御霊信仰に通じるものがある。 また中世以降は戦乱や災害、飢饉等で非業の死を遂げた死者供養として盛大に行われるようにもなった。」

 

とある。

 「花皿」は松永貞徳の『俳諧御傘』に、「春也、正花也、植物也、釈教也。」とある。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』でも春之部にあり、「仏家にて供養の花を盛る器なり。正花也。」とある。表裏に花というなら、ここで正花ということなのだろう。ただ春としては扱われてない。

 

無季。釈教。

 

三十七句目

 

   古梵のせがき花皿を花

 ひぐらしの声絶るかたに月見窓  芭蕉

 (ひぐらしの声絶るかたに月見窓古梵のせがき花皿を花)

 

 月見窓はお寺の窓であろう。蜩も鳴き止む頃には日もすっかり暮れて月夜になる。

 

季語は「月見」で秋、夜分、天象。「ひぐらし」も秋で虫類。

 

三十八句目

 

   ひぐらしの声絶るかたに月見窓

 引板を業とすおのこ嘯く     嵐雪

 (ひぐらしの声絶るかたに月見窓引板を業とすおのこ嘯く)

 

 引板(ひた)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《「ひきいた」の音変化》「鳴子(なるこ)」に同じ。《季 秋》

 「わが門のむろのはや早稲かり上げておくてにのこる―の音かな」〈宇治百首〉」

 

とある。

 「嘯(うそぶ)く」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「[一]自動詞カ行四段活用

  活用{か/き/く/く/け/け}

  ①口をすぼめて息をつく。息をきらす。

  出典万葉集 一七五三

  「暑けくに汗かきなげ木(こ)の根取りうそぶき登り」

  [訳] 暑い時に汗をかきながら木の根っこをつかんで息をきらせて登り。

  ②そらとぼける。

  出典更級日記 初瀬

  「とみに舟も寄せず、うそぶいて見まはし」

  [訳] (船頭たちは)急には舟を寄せないで、そらとぼけて辺りを見回し。

  ③口笛を吹く。

  出典宇津保物語 初秋

  「この蛍をさし寄せて、包みながらうそぶき給(たま)へば」

  [訳] この蛍を近寄せて、(袖(そで)に)包んだままで口笛をお吹きになると。

  [二]他動詞カ行四段活用

  活用{か/き/く/く/け/け}

  (詩歌を)口ずさむ。吟ずる。

  出典徒然草 六〇

  「心を澄ましてうそぶき歩(あり)き」

  [訳] 心を澄ませて詩歌を口ずさんで歩き回り。」

 

とある。

 月見窓の向こうでは鹿よけの鳴子を仕掛ける男がいて、この場合は月夜に風流にも歌を口ずさんでいるとしたほうがいいだろう。

 

季語は「引板」で秋。「おのこ」は人倫。

二裏

三十九句目

 

   引板を業とすおのこ嘯く

 武士のものすさまじき艤ひ    其角

 (武士のものすさまじき艤引板を業とすおのこ嘯く)

 

 「武士」は「もののふ」、「艤ひ」は「ふなよそほひ」と読む。「艤ひ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 出船の準備。ふなもよい。ふなごしらえ。ふなよそおい。ふねよそい。〔十巻本和名抄(934頃)〕

  ② 船を飾りたて、舟遊びの準備をすること。ふねよそい。

  〘名〙 =ふなよそい(船装)①〔色葉字類抄(1177‐81)〕

  ※信長記(1622)一上「山田の浦につかせ給ひ、御ふなよそほひを急れて」

 

とある。「すさまじき艤ひ」だから②ではないだろう。

 合戦に向かうための船の準備に殺気立っていて、引板のおのこは知らん顔して、なにも見なかったことにする。

 

季語は「すさまじ」で秋。「武士」は人倫。「艤ひ」は水辺。

 

四十句目

 

   武士のものすさまじき艤ひ

 七里法華の七里秋風       コ齋

 (武士のものすさまじき艤ひ七里法華の七里秋風)

 

 「七里法華(しちりぼっけ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (七里ごとに法華の寺があるの意) 千葉県の大網、東金あたりには、きわめて日蓮宗の信者が多いことをいう。七里。

  ※歌舞伎・八幡祭小望月賑(縮屋新助)(1860)二幕「塵芥(ごみ)船の船頭か七里法華(しちリボッケ)の講頭(かうがしら)間抜なものなら兎も角も」

 

とある。これは上総七里法華という政策によるもので、ウィキペディアに、

 

 「上総七里法華(かずさしちりほっけ)とは、戦国時代初期の上総国土気城主酒井定隆が行ったとされる宗教政策。

 京都出身の妙満寺派(現在の顕本法華宗)の僧日泰は、武蔵国品川(現在の東京都品川区)妙蓮寺と下総国浜村(現在の千葉県千葉市中央区浜野町)本行寺を建立し関東布教における本拠とした。あるとき、当時下総国中野城(現在の千葉県千葉市若葉区中野町)にいた酒井定隆が日泰の船に同船していたが、突如、海が荒れはじめた。日泰が読経により海を鎮めたことから定隆は日泰に帰依し、定隆は「もし将来自分が一国一城の主となったら領内の民をみな法華宗に帰依させよう」と日泰に約束した。その後、定隆は土気城主となるにおよび、領内に法華宗への改宗令を出したと伝えられる。」

 

とある。前句の武士を酒井定隆とする。

 

季語は「秋風」で秋。釈教。

 

四十一句目

 

   七里法華の七里秋風

 丑三の雷南の雲と化し      才丸

 (丑三の雷南の雲と化し七里法華の七里秋風)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「丑三つの刻(深夜)に雷鳴ありしかと見れば、南の方に雲が生じたの意。前句の七里法華の祈りによって、天候の急変した有様を付けた。」

 

とある。何かの兆しなのか、よくわからない。

 

無季。「丑三」は夜分。「雲」は聳物。

 

四十二句目

 

   丑三の雷南の雲と化し

 槐の小鳥高くねぐらす      芭蕉

 (丑三の雷南の雲と化し槐の小鳥高くねぐらす)

 

 鳥が塒に帰るのは漢詩などによく出てくる夕暮れの情景だが、ここでは夜中の雷が止んで南へ去り、鳥は安心して眠るとする。

 

無季。「槐」は植物、木類。「小鳥」は鳥類。

 

四十三句目

 

   槐の小鳥高くねぐらす

 陰陽神の留守其侭の仮家建    素堂

 (陰陽神の留守其侭の仮家建槐の小鳥高くねぐらす)

 

 「陰陽神」は「めをかみ」と読む。伊弉冉伊弉諾であろう。道祖神も地方によっては陰陽神とされている。

 その陰陽神の留守となる神無月にもその神を祭った仮屋はそのまま残されていて、鳥は高い木の上で休む、つまり世の中が平穏だということになる。

 

季語は「陰陽神の留守」で冬。神祇。

 

四十四句目

 

   陰陽神の留守其侭の仮家建

 狂女さまよふ跡したふなる    清風

 (陰陽神の留守其侭の仮家建狂女さまよふ跡したふなる)

 

 狂女は謡曲の狂乱物に出てくる狂女であろう。謡曲『班女』の吉田の少将は花子を追って加茂の明神へ行く。謡曲『加茂物狂』も同じく加茂の明神で再会を果たす物語だ。

 

無季。恋。「狂女」は人倫。

 

四十五句目

 

   狂女さまよふ跡したふなる

 情しる身は黄金の朽てより    芭蕉

 (情しる身は黄金の朽てより狂女さまよふ跡したふなる)

 

 これは浄瑠璃姫か。

 

無季。恋。「身」は人倫。

 

四十六句目

 

   情しる身は黄金の朽てより

 軽く味ふ出羽の鰰        才丸

 (情しる身は黄金の朽てより軽く味ふ出羽の鰰)

 

 鰰(はたはた)は秋田県の県魚でもある。出羽の名産。

 都を追われ、遥か出羽の地に流れ着いて、ハタハタの味に人の世の情けを知る。

 

無季。

 

四十七句目

 

   軽く味ふ出羽の鰰

 寒月のともづなあからさまなりし 嵐雪

 (寒月のともづなあからさまなりし軽く味ふ出羽の鰰)

 

 「あからさまなり」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①急だ。突然だ。たちまちだ。

  出典日本書紀 雄略

  「嗔猪(いかりゐ)、草中よりあからさまに出(い)でて人を逐(お)ふ」

  [訳] 怒り狂ったいのししが、草の中から急に出てきて人を追う。

  ②ほんのちょっとだ。かりそめだ。

  出典紫式部日記 寛弘五・一一・一

  「あからさまにまかでたるほど、二日ばかりありてしも雪は降るものか」

  [訳] ほんのちょっと(私が里に)退出している間、二日ほどたって(あいにくにも)雪が降ったではないか。

  ③〔下に打消の語を伴って〕ほんの少しも。かりそめにも。まったく。ちっとも。

  出典源氏物語 葵

  「大将(だいしやう)の君は、二条院にだに、あからさまにも渡り給(たま)はず」

  [訳] 大将の君(=源氏)は、(紫の上のいる)二条院にさえ、まったくお出かけにならない。

  ④あらわだ。明白だ。露骨だ。

  出典好色一代女 浮世・西鶴

  「女はうつくしき肌(はだへ)をあからさまになし」

  [訳] 女は美しい肌をあらわにして。」

 

とある。今日では④の意味しか残っていないが、露骨だというほどの意味ではなくここでは寒月の月明りに照らし出されている程度の意味だろう。

 つながれた漁船で獲れたばかりのハタハタを食う。

 

季語は「寒月」で冬、夜分、天象。「ともづな」は水辺。

 

四十八句目

 

   寒月のともづなあからさまなりし

 枯てあらしのつのる荻萩     其角

 (寒月のともづなあからさまなりし枯てあらしのつのる荻萩)

 

 「あらしのつのる」は今日の「風が吹きつのる」の「つのる」の用法。

 前句のともづながあからさまなのを、荻や萩が枯れて嵐に伏したからだとする。

 

季語は「枯れて」で冬。「荻萩」は植物、草類。

 

四十九句目

 

   枯てあらしのつのる荻萩

 独楽の茶に起伏を舎るのみ    才丸

 (独楽の茶に起伏を舎るのみ枯てあらしのつのる荻萩)

 

 嵐が続くので、一人宿に籠って茶を楽しむ。

 

無季。

 

五十句目

 

   独楽の茶に起伏を舎るのみ

 三里も居ず不二いまだ見ず    コ齋

 (独楽の茶に起伏を舎るのみ三里も居ず不二いまだ見ず)

 

 三里はお灸を据えるツボのことで、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「三里に据える灸。三里とは経穴 (つぼ) の一つで,膝 (脛骨外上顆) より指を横にして3本分下の位置にある。下肢の神経痛や関節痛の治療法であるほか,頭寒足熱の全身的調整を果す灸として有名で,古人が旅に出るときなど必ずこの灸を据えたといわれる。なお,胃酸の分泌を高めるので,胃酸過多症の人には禁忌とされている。」

 

とある。

 「古人が旅に出るときなど必ずこの灸を据えた」とあるが、その灸を居(すゑ)ずということは、結局茶を飲んでいるだけで旅に出ていない。もちろん富士山もまだ見ていない。

 

無季。「不二」は名所、山類。

 

五十一句目

 

   三里も居ず不二いまだ見ず

 鹿を追う弓咲花に分入て     素堂

 (鹿を追う弓咲花に分入て三里も居ず不二いまだ見ず)

 

 富士の巻狩りと曾我兄弟の仇討であろう。オリジナルは五月だが、ここでは三月にして桜の木の陰に潜んで仇討の機会を狙う。前句の三里を距離とする。

 花の定座。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「鹿」は獣類。

 

五十二句目

 

   鹿を追う弓咲花に分入て

 春を愁る小の晦日        清風

 (鹿を追う弓咲花に分入て春を愁る小の晦日)

 

 「晦日」は「つごもり」と読む。師走の三十日はおほつごもり、その前日はこつごもりだが、それ以外の三十日はつごもりになる。旧暦では三十日まである月と二十九日までの月があり、二十九日の月末が「小のつごもり」になる。ちなみに貞享二年の三月は小の月で三月二十九日の小のつごもりは新暦の五月二日になる。

 季節柄、前句は桜と限らなくてもいいだろう。花の茂みに鹿を追う猟人がいて、殺生の罪とともに春の行くのを憂う。

 

季語は「春」で春。

三表

五十三句目

 

   春を愁る小の晦日

 陽炎に坐す縁低く狭かりき    芭蕉

 (陽炎に坐す縁低く狭かりき春を愁る小の晦日)

 

 陽炎の立つ庭に面した縁側は低くて狭い。月も小なら家も小だ。

 

季語は「陽炎」で春。

 

五十四句目

 

   陽炎に坐す縁低く狭かりき

 砥水きよむる五郎入道      嵐雪

 (陽炎に坐す縁低く狭かりき砥水きよむる五郎入道)

 

 五郎入道正宗はウィキペディアに、

 

 「鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国鎌倉で活動した刀工。五郎入道正宗、岡崎正宗、岡崎五郎入道とも称され、日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人(おもちゃの刀に「名刀正宗」と刻印されるほどである)。「相州伝」と称される作風を確立し、多くの弟子を育成した。正宗の人物およびその作った刀についてはさまざまな逸話や伝説が残され、講談などでも取り上げられている。「正宗」の名は日本刀の代名詞ともなっており、その作風は後世の刀工に多大な影響を与えた。」

 

とある。

 こういう一流の職人はどこかの人里離れた小屋で細々と刀を打っているイメージがある。実際のところはわからない。

 

無季。

 

五十五句目

 

   砥水きよむる五郎入道

 倅もたば上戸も譲るかくごなり  其角

 (倅もたば上戸も譲るかくごなり砥水きよむる五郎入道)

 

 前句の五郎入道を名工ではなく、どこぞの普通の鏡砥か包丁砥として五郎入道とし、息子ができたら一緒に酒を飲みたいと思う。

 上戸は漏斗(じょうご)から来たという。漏斗に酒を注ぎ込むようにいくらでも入って行く。

 

無季。「倅」は人倫。

 

五十六句目

 

   倅もたば上戸も譲るかくごなり

 雲ちりちりに風薫る薮      才丸

 (倅もたば上戸も譲るかくごなり雲ちりちりに風薫る薮)

 

 「ちりちり」は散り散りになること。雲が細かく切れて消えて行く。気候を付けただけの遣り句か。

 

季語は「風薫る」で夏。「雲」は聳物。

 

五十七句目

 

   雲ちりちりに風薫る薮

 伊予すだれ湯桁の数はいざしらず コ齋

 (伊予すだれ湯桁の數はいざしらず雲ちりちりに風薫る薮)

 

 伊予簾はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「平安時代の伊予国(愛媛県)の代表的な物産。都の貴族の邸宅で日よけとして使われ、風情あるものとされたらしく、『枕草子(まくらのそうし)』に「庭いと清げにはき、伊予簾掛け渡し、布障子など張らせて住ひたる」とあり、『詞花集』に「逢事(あうこと)はまばらに編めるいよ簾いよいよ人を佗(わび)さする哉(かな)」とある。『愛媛面影(えひめのおもかげ)』に「伊予国むかしより簾を出す、名産なり、篠(しの)もて荒々と編たり」とある。愛媛県上浮穴(かみうけな)郡久万高原(くまこうげん)町露峰(つゆみね)のイヨス山66アールの地に自生している直径3ミリメートル、長さ2メートルぐらいのイヨダケという細長い竹を原料とする。江戸時代大洲(おおず)藩に属し、製品は大坂あたりへも出されたが、現在は民芸品として地元でわずかに生産されている。[伊藤義一]」

 

とある。

 初夏の日差しに日除けの伊予簾を付ける。

 伊予が出たところで、道後温泉の湯桁を出す。『源氏物語』夕顔巻で、伊予の介が任地から帰ってきて伊予国の土産話を始めた時、

 

 「国の物語など申すに、ゆげたはいくつと、とはまほしくおぼせど、あいなくまばゆくて、御(み)こころのうちにおぼし出づる事(こと)もさまざまなり。」

 (任地の伊予の国の土産話をしだすと、ついつい「湯桁はいくつ?」と聞いてみたくなるものの、そんな空気にさせないくらい堂々たる様子に、留守の間に起こした事件をあれこ思い出してしまい、とても正視できません。)

 

とあるように、当時から道後温泉の湯桁の数は都での話のネタになっていたようだ。

 

季語は「伊予すだれ」で夏。

 

五十八句目

 

   伊予すだれ湯桁の数はいざしらず

 入院見舞の長に酌とる      素堂

 (伊予すだれ湯桁の数はいざしらず入院見舞の長に酌とる)

 

 「入院見舞」は「じゅいんみまひ」で寺に入った僧への挨拶。前句をお寺の簾として、挨拶に来たどこぞの長に酒をふるまう。

 

無季。「長」は人倫。

 

五十九句目

 

   入院見舞の長に酌とる

 一陽を襲正月はやり来て     清風

 (一陽を襲正月はやり来て入院見舞の長に酌とる)

 

 伝染病の流行で正月をやり直す「かさね正月」を行った。

 貞享二年冬の『冬の日』にもある「炭売の」の巻の十七句目に、

 

   釣瓶に粟をあらふ日のくれ

 はやり来て撫子かざる正月に   杜國

 

の句がある。ネットで「防災情報新聞」の「日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集)を見ていたら、

 

 「謎の感染症、麻疹(はしか)か?長崎で7000人死亡。西国から東海、江戸へ侵入?

 1684年6月~(貞享元年4月~)」

 

というのがあった。時期がちょうど一致する。

 

無季。

 

六十句目

 

   一陽を襲正月はやり来て

 汝さくらよかへり咲ずや     芭蕉

 (一陽を襲正月はやり来て汝さくらよかへり咲ずや)

 

 もう一度春が来たなら桜ももう一度咲いてくれないか。

 三表の花の代わりに桜を出したか。

 

季語は「かへり咲」で冬、植物、木類。

 

六十一句目

 

   汝さくらよかへり咲ずや

 染殿のあるじ旭を拝む哉     嵐雪

 (染殿のあるじ旭を拝む哉汝さくらよかへり咲ずや)

 

 染殿は藤原良房の邸宅。あるじは藤原良房。

 

   染殿の后のおまへに花瓶に桜の

   花をささせたまへるを見てよめる

 年ふれば齢は老いぬしかはあれど

     花をし見れば物思ひもなし

             藤原良房(古今集)

 

の歌がある。

 出世頭の良房さんなので、登る朝日を拝み、何度でも桜を咲かせそうだ。

 

無季。「あるじ」は人倫。「旭」は天象。

 

六十二句目

 

   染殿のあるじ旭を拝む哉

 しのぶのみだれ瘧ももたび    其角

 (染殿のあるじ旭を拝む哉しのぶのみだれ瘧ももたび)

 

 「瘧(おこり)」はマラリアのこと。

 染殿には平安貴族の屋敷で染物をする場所をも言う。

 

 みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに

     乱れそめにしわれならなくに

             源融(古今集)

 

に掛けて、マラリアの高熱がたびたびぶり返し、信夫摺りの乱れ模様のように心乱れる染殿の主だった。

 

無季。恋。

 

六十三句目

 

   しのぶのみだれ瘧ももたび

 うき世とはうきかは竹をはづかしめ 才丸

 (うき世とはうきかは竹をはづかしめしのぶのみだれ瘧ももたび)

 

 「かは竹」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 川のほとりに生えている竹。

  2 メダケ、またはマダケの別名。

  3 《川竹の流れの身から》遊女。遊女の身の上。

 「いづれも―なれば、ただただ後世を願ひ」〈難波鉦・四〉」

 

とある。「浮世とは憂きか」と「川竹」を掛ける。遊女を辱めたりしたからばちがあたったか。

 

無季。恋。

 

六十四句目

 

   うき世とはうきかは竹をはづかしめ

 名をあふ坂をこしてあらはす   コ齋

 (うき世とはうきかは竹をはづかしめ名をあふ坂をこしてあらはす)

 

 恥ずかしい浮名は逢坂山を越えて都の外にまで広がる。

 三表の名所の句で、逢坂は、

 

 夜をこめて鳥のそら音ははかるとも

     世に逢坂の関はゆるさじ

              清少納言(後拾遺集)

 これやこの行くも帰るも別れては

     知るも知らぬも逢坂の関

              蝉丸(後撰集)

 

など、多くの歌に詠まれている。

 

無季。恋。「逢坂」は名所、山類。

 

六十五句目

 

   名をあふ坂をこしてあらはす

 後の月家に入る尉出る児     素堂

 (後の月家に入る尉出る児名をあふ坂をこしてあらはす)

 

 後の月は旧暦九月の十三夜のこと。

 尉(じょう)は翁のことで稚児とセットになると謡曲『翁』が連想される。だけど逢坂だったら蝉丸の賤が家だな。

 

季語は「後の月」で秋、夜分、天象。「家」は居所。「尉」「児」は人倫。

 

六十六句目

 

   後の月家に入る尉出る児

 わけてさびしき五器の焼米    清風

 (後の月家に入る尉出る児わけてさびしき御器の焼米)

 

 「焼米(やきごめ)」は「冬景や」の巻三十句目にも、

 

   月入て電残る蒲すごく

 ことしの労を荷ふやき米     芭蕉

 

の句がある。ウィキペディアに、

 

 「焼米とは、新米を籾(もみ)のまま煎(い)ってつき、殻を取り去ったもの。米の食べ方・保存法の一つ。 そのままスナック菓子として食べても良いし、汁物に浮かべて粥にして食べるという雑多な利用法があった。米粒状・粉状と形態も様々である。」

 

とある。収穫して精米せずにすぐに食べられるし、保存しておいて食べることもできる。

 

季語は「焼米」で秋。

三裏

六十七句目

 

   わけてさびしき五器の焼米

 みの虫の狂詩つくれと啼ならん  芭蕉

 (みの虫の狂詩つくれと啼ならんわけてさびしき五器の焼米)

 

 素堂の『蓑虫ノ説』はいつごろ書かれたかわからないが、多分この興行より後のことであろう。

 

 「みのむしみのむし。声のおぼつかなきをあはれぶ。ちちよちちよとなくは。孝に専なるものか。」

 

で始まる俳文の後に、「又以男文字述古風」という詩が添えられている。本当に狂詩を作ってしまったか。

 

   又以男文字述古風

 蓑虫蓑虫 落入牕中 一絲欲絶 寸心共空 似寄居状

 無蜘蛛工 白露甘口 青苔粧躬 従容侵雨 飄然乗風

 栖鴉莫啄 家童禁叢 天許作隠 我憐称翁 脱蓑衣去

 誰識其終

 

 粗末な草庵で一人焼米を食っていると、蓑虫が父よ父よと鳴き、詩を作れといっているかのようだ。もっとも、実際には蓑虫は鳴かない。カネタタキの声と間違えたのではないかと言われている。

 

季語は「蓑虫」で秋、虫類。

 

六十八句目

 

   みの虫の狂詩つくれと啼ならん

 忠に死にたる塚に彳ム      嵐雪

 (みの虫の狂詩つくれと啼ならん忠に死にたる塚に彳ム)

 

 蓑虫の「父よ父よ」から忠に殉じた父の塚に参る。

 

無季。無常。

 

六十九句目

 

   忠に死にたる塚に彳ム

 はつ雪の石凸凹に凸凹に     其角

 (はつ雪の石凸凹に凸凹に忠に死にたる塚に彳ム)

 

 墓石となる石塔の群れは初雪に埋もれて、ただ雪がでこぼこになっているようにしか見えない。

 

季語は「はつ雪」で冬、降物。

 

七十句目

 

   はつ雪の石凸凹に凸凹に

 小女郎小まんが大根引ころ    才丸

 (はつ雪の石凸凹に凸凹に小女郎小まんが大根引ころ)

 

 「小女郎(こじょろ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「[1] 〘名〙 小さい女の子。少女。

  ※俳諧・俳諧勧進牒(1691)上「小女郎にも走りまけたり夕時雨〈乙州〉」

  [2] 浄瑠璃「博多小女郎波枕」に登場する人物。博多奥田屋の遊女。京の商人小町屋惣七(そうしち)の愛人。→毛剃九右衛門(けぞりくえもん)

  〘名〙 (「こめろう(小女郎)」の変化した語)

  ① 年の若い下女。また、遊里で、女郎見習の少女をいう。

  ※浮世草子・好色二代男(1684)一「又は小めろ、古郷の垢も自然に落て」

  ② =こめろう(小女郎)

  ※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)四「子もりの小女(コメロ)ら、十五六より十七八才まで、五六人」

  〘名〙 少女。また、少女をののしっていう語。こむすめ。こめろうべ。

  ※雑談集(1305)九「庭に十歳ばかりなる小女童(コメラウ)が、歌をうたうを聞けば」

 

とある。

 「小まん」というと、『冬の日』の「狂句木枯し」の巻十三句目に、

 

   あるじはひんにたえし虚家

 田中なるこまんが柳落るころ   荷兮

 

の句がある。寛文の頃に流行した俗謡に丹波与作と関の小まんの恋物語を謡うものがあった。

 その小まんという少女が畠に大根を取りに来る頃は、この辺りは初雪に埋まる。

 

季語は「大根」で冬。「小女郎」は人倫。

 

七十一句目

 

   小女郎小まんが大根引ころ

 血をそそぐ起請もふけば翻り   コ齋

 (血をそそぐ起請もふけば翻り小女郎小まんが大根引ころ)

 

 「起請」は起請文のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「② 江戸時代、男女の愛情のかわらないことを誓った文書。もと遊郭での心中の一種から起こったもの。その用紙には熊野の牛王宝印を用いるのが正しいとされた。起請誓紙。起請。

  ※仮名草子・ぬれぼとけ(1671)上「いきるしぬるのきせうもん」

 

とある。変わらぬ愛を血判で誓ったにもかかわらず、やがて裏切られただの紙切れとなる。残された子供は大きくなり、大根を収穫に行く。

 遊女は商売で男の相手をしているのに、男の方から自分以外の誰も客を取るなと無理難題迫られることも多く、形だけの起請文を書くことも多かった。

 

無季。恋。

 

七十二句目

 

   血をそそぐ起請もふけば翻り

 見よもの好の門は西むき     素堂

 (血をそそぐ起請もふけば翻り見よもの好の門は西むき)

 

 大体起請文を求めるような男というのは嫉妬深く、熱を上げたら右も左もわからなくなるストーカータイプが多い。そういう男につかまっちゃうと遊女も大変だ。

 愛情のもつれの末路は刃傷沙汰、そして心中。門は西方浄土の方に開かれている。

 

無季。恋。

 

七十三句目

 

   見よもの好の門は西むき

 御明しの夜をささがにの影消て  清風

 (御明しの夜をささがにの影消て見よもの好の門は西むき)

 

 ささがに(蜘蛛)の往生をいう。

 謡曲『遊行柳』では、

 

   「超世の悲願に身を任せて、他力の船に法の道。 

 シテ「(サシ)則ち彼岸に到らんこと、一葉の船の力ならずや。

 地 かの黄帝の貨狄が心、聞くや秋吹く風の音に、散り来る柳の一葉の上に、蜘蛛の乗りてささがにの、糸引き   渡る姿より、工み出だせる船の道これも柳の徳ならずや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.35515-35525). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

と、黄帝の臣下の貨狄が柳の葉に乗る蜘蛛を見て船を発明した伝説と他力往生の船とを結びつけている。

 

無季。釈教。「御明し」「夜」は夜分。「ささがに」は虫類。

 

七十四句目

 

   御明しの夜をささがにの影消て

 汗深かりしいきどふる夢     芭蕉

 (御明しの夜をささがにの影消て汗深かりしいきどふる夢)

 

 これは蜘蛛が体の上を這ったのが夢でアレンジされて化け物に襲われた夢を見て目が覚めたということ。

 

 切られたる夢は誠か蚤の跡    其角

 

の句と同じ。元祿三年刊の『花摘』の句だとすると、芭蕉の方が先か。付け句で得た着想を発句に作ることはそう珍しくない。

 

無季。

 

七十五句目

 

   汗深かりしいきどふる夢

 はらからの旅等閑に言葉なく   嵐雪

 (はらからの旅等閑に言葉なく汗深かりしいきどふる夢)

 

 「等閑」は「なほざり」と読む。

 兄弟が旅に出ているのに手紙をよこすでもなく音沙汰がない。そんな不安からか不吉な夢を見た。

 

無季。旅体。「はらから」は人倫。

 

七十六句目

 

   はらからの旅等閑に言葉なく

 ふるごとさとる小夜の中山    其角

 (はらからの旅等閑に言葉なくふるごとさとる小夜の中山)

 

 前句を兄弟そろっての旅とし、特に会話もないまま小夜の中山を越えそれぞれに無言のまま西行の、

 

 年たけて又越ゆべしとおもひきや

     命なりけり佐夜の中山

              西行法師(新古今集)

 

の歌を思い起こす。

 

無季。「小夜の中山」は名所、山類。

 

七十七句目

 

   ふるごとさとる小夜の中山

 枝花をそむくる月の有明て    才丸

 (枝花をそむくる月の有明てふるごとさとる小夜の中山)

 

 小夜の中山と有明は、

 

 雲かかるさやの中山越えぬとは

     都に告げよ有明の月

             阿仏尼

 

の歌の縁がある。これが逃げ歌になる。そして前句の「ふるごと」は、

 

 山の端の月まつ空のにほふより

     花にそむくる春のともし火

              藤原定家(玉葉集)

 

で、小夜の中山で有明の月を見ると、藤原定家が月が出たので燈火を背けたことを思い出す。

 

季語は「枝花」で春、植物、木類。「月」は夜分、天象。

 

七十八句目

 

   枝花をそむくる月の有明て

 ふらここつらん何某が軒     コ齋

 (枝花をそむくる月の有明てふらここつらん何某が軒)

 

 「ふらここ」は鞦韆(しゅうせん)ともいう、今日のブランコのことだが、かつては冬至から百五日後の寒食の遊びだった。そのため春の季語となる。

 

   春夜      蘇軾

 春宵一刻直千金 花有清香月有陰

 歌管楼臺聲細細 鞦韆院落夜沈沈

 (春の宵の一刻は千金のあたい、花は清く香り月の影が差し

  楼閣の歌も笛も声を細て、ブランコも庭に落ちて夜が静かに)

 

の詩にも登場する。

 昔のブランコは固定された施設ではなく、そのつど枝に吊って使うものだった。朝が来たのでブランコを吊る。何某は蘇軾さんか。

 

季語は「ふらここ」で春。「何某」は人倫。

 

七十九句目

 

   ふらここつらん何某が軒

 谺して修理する船の春となり   素堂

 (谺して修理する船の春となりふらここつらん何某が軒)

 

 同じく蘇軾の『前赤壁賦』の「於是飲酒樂甚 扣舷而歌之」だろうか。船を扣(たた)くを船の修理に換骨奪胎して船を修理する船大工の春とする。

 

季語は「春」で春。「船」は水辺。

 

八十句目

 

   谺して修理する船の春となり

 立初る虹の岩をいろどる     清風

 (谺して修理する船の春となり立初る虹の岩をいろどる)

 

 嵐に難破したか、雨が止んで虹が出て岸の岩を彩る。

 「初虹」は『増補 俳諧歳時記栞草』の春二月の追加のところに、

 

 「初虹 [月令章句]夫陰陽和せず、婚姻序を失ふ。即此気を生ず。虹あらはるる青赤の色あり。常に陰雲に依て日衝に見はる。雲なければ見はれず。輒日と相互にす。日、西を以て東方に見はる。」

 

とある。

 

季語は「立初る虹」で春。

名残表

八十一句目

 

   立初る虹の岩をいろどる

 きれだこに乳人が魂は空に飛   芭蕉

 (きれだこに乳人が魂は空に飛立初る虹の岩をいろどる)

 

 「乳人(めのと)」は乳母のこと。

 糸の切れた凧というのは巣立っていった子供の象徴のようでもある。愛情を注いできた子供がいなくなって、放心状態というところだろう。前句の景色に正月の凧揚げを付ける。

 

季語は「きれだこ」で春。「乳人」は人倫。

 

八十二句目

 

   きれだこに乳人が魂は空に飛

 麻布の寝覚ほととぎす啼け    嵐雪

 (きれだこに乳人が魂は空に飛麻布の寝覚ほととぎす啼け)

 

 麻布は東京のあの麻布だろうか。ウィキペディアには「麻布という字が当てられるようになったのは江戸時代の元禄期からといわれる」とあるが、それよりやや古い例になるのかもしれない。

 同じくウィキペディアに、

 

 「江戸時代初期までは農村や寺社の門前町であった。武家屋敷が建ち並ぶようになり、江戸の人口増加・拡大につれ都市化し代官支配から町方支配にうつる。」

 

とあるが、この頃はまだそれほど開けてもいなかったのだろう。この近くを通る大山街道は矢倉沢往還と呼ばれていた古い街道なので、それなりに人の行き来はあっただろう。赤坂御門を出て最初の宿である三軒茶屋まで行く途中になるが、やや南の方に外れる。芝の増上寺からも近い。

 大きな武家屋敷が多かったから、武家の子どものために乳母が凧揚げしたりもしたのだろう。夏になるとホトトギスの声も聞こえたか。

 

季語は「ほととぎす」で夏、鳥類。

 

八十三句目

 

   麻布の寝覚ほととぎす啼け

 わくら葉やいなりの鳥居顕れて  其角

 (わくら葉やいなりの鳥居顕れて麻布の寝覚ほととぎす啼け)

 

 「わくら葉」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 木の若葉。〔易林本節用集(1597)〕

  ② 病気や虫におかされて枯れた葉。特に夏の頃、紅葉のように赤または黄白色に色づき枯れた葉。《季・夏》 〔匠材集(1597)〕

  ※俳諧・青蘿発句集(1797)羈旅「わくら葉の落る間宿る太山哉」

 

とある。この場合は①の方か。麻布にはウィキペディアに「712年には竹千代稲荷(現在の十番稲荷)が創建」とある。今の十番稲荷の位置ではなく麻布永坂町にあったという。

 

季語は「わくら葉」で夏。神祇。

 

八十四句目

 

   わくら葉やいなりの鳥居顕れて

 文治二年のちから石もつ     才丸

 (わくら葉やいなりの鳥居顕れて文治二年のちから石もつ)

 

 文治二年は西暦一一八六年。まだ義経や弁慶のいたころだ。四月には鶴ケ岡八幡宮で静御前が舞い、八月には西行法師が頼朝と対面して銀製の猫を貰った。

 今でも神社にはよく丸っこい力石が置いてあるが、あれって別に銘が入っているわけではないし、文治二年の力石って、何か嘘くさい。

 

無季。

 

八十五句目

 

   文治二年のちから石もつ

 乱れ髪俣くぐりしと偽らん    コ齋

 (乱れ髪俣くぐりしと偽らん文治二年のちから石もつ)

 

 「俣くぐり」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「韓信の故事」とあり、確かに股くぐりで検索すると「韓信の股くぐり」って有名なんだと分かる。コトバンクの「故事成語を知る辞典の解説」に、

 

 「大きな目的を実現するために、小さな恥辱を受けてもがまんして、争わないで受け流すことのたとえ。」

 

とあり、その由来として、

 

 「「史記―淮陰侯伝」に見える、漢王朝の創業に大きな功績を挙げた将軍、韓信のエピソードから。韓信は若いころ、働きもせずに食べ物を他人から恵んでもらって暮らしていたので、みんなに軽蔑されていました。あるとき、彼がいつも剣を身につけているのを見た無頼の若者が、「死ぬのが怖くないという勇気があるんだったら、その剣でおれを刺してみろ。できないんだったら、おれの股をくぐれ」とけんかをふっかけてきました。すると、韓信はじっと相手を見つめたあと、何も言わずに腹ばいになって股をくぐったので、町中の人に臆病者だと笑われてしまいました。後年、将軍として大成功を収めた韓信は、かつての若者を呼び寄せて取り立ててやり、「あのときは、この男を殺しても何の得にもならなかった。だからがまんしたのだ。その結果、現在の私があるのだ」と言ったということです。」

 

とある。

 股くぐりは恥辱なのだから、わざわざ偽るというのがよくわからない。喧嘩に負けて髪が乱れたのを、やられてなんかいない、股をくぐっただけだ、と強がって、俺は本当はすごいんだぞとばかりに力石を持ち上げてみせたということか。

 

無季。

 

八十六句目

 

   乱れ髪俣くぐりしと偽らん

 礫に通ふこころくるはし     素堂

 (乱れ髪俣くぐりしと偽らん礫に通ふこころくるはし)

 

 娘のもとに通うのに、厳しい親父に石つぶてを投げられたのだろう。それで乱れた髪を狭いところを潜り抜けてきたからと嘘をつく。

 

無季。恋。

 

八十七句目

 

   礫に通ふこころくるはし

 三日の月影西須磨に落て鳧    清風

 (三日の月影西須磨に落て鳧礫に通ふこころくるはし)

 

 「鳧」は「けり」と読む。

 

 「通ふ」に「須磨」は、

 

 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に

     幾夜ねざめぬ須磨の関守

              源兼昌(金葉集)

 

の縁になる。

 三日月が西に落ちると月のない真っ暗な夜になる。礫を投げつけられないように、真っ暗な夜を選ぶ。

 名残の表なので名所を出す。

 

季語は「三日の月」で秋、夜分、天象。「須磨」は名所、水辺。

 

八十八句目

 

   三日の月影西須磨に落て鳧

 秋はものかはあげ捨の棟     芭蕉

 (三日の月影西須磨に落て鳧秋はものかはあげ捨の棟)

 

 「もの」はこの場合幽霊とか幻とか、実態のない物をいう。

 

 ほととぎす聞きしは物か不二の雪 心敬

 

やあるいは、

 

 待つ宵のふけゆく鐘の声きけば

     あかぬ別れの鳥はものかは

              小侍従(新古今集)

 

の用法。

 棟上げをしたまま放置されている家は誰かの夢の跡か。須磨の秋の夕暮れと重なって物悲しい。

 

季語は「秋」で秋。

 

八十九句目

 

   秋はものかはあげ捨の棟

 燈しんを負ばかならずはつ嵐   嵐雪

 (燈しんを負ばかならずはつ嵐秋はものかはあげ捨の棟)

 

 燈心は藺草の茎の髄で作るため、藺草を刈る季節が終わった秋口の台風の来ることに出来上がる。その燈心を売りに出る頃の台風で、途中までできた家の棟が吹き飛ばされてしまった。すべては夢まぼろし。

 

季語は「はつ嵐」で秋。

 

九十句目

 

   燈しんを負ばかならずはつ嵐

 只一眼もみちはひとすじ     其角

 (燈しんを負ばかならずはつ嵐只一眼もみちはひとすじ)

 

 「一眼(いちがん)」はひと目ということ。webilio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、

 

 「②ひと目。

  出典奥の細道 象潟

  「風景いちがんのうちに尽きて」

  [訳] 風景はひと目ですっかり見渡せて。」

 

と『奥の細道』の用例を挙げている。この個所は、

 

 「此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。」

 

とある通り、パノラマを見るような感覚であろう。

 嵐が吹き荒れる荒涼たる中に一本道が遥か彼方に続くのが見渡せる。

 

無季。

 

九十一句目

 

   只一眼もみちはひとすじ

 特のくろきも流石ゆふ間ぐれ   才丸

 (特にくろきも流石ゆふ間ぐれ只一眼もみちはひとすじ)

 

 「特」は「こっとい」で「ことい牛」のこと。「ことい」とも「こってい」ともいう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (古く「こというじ」とも) 強健で大きな牡牛。頭の大きい牛。また、単に牡牛のこと。こって。こってい。こってうし。こっていうし。こっとい。ことい。こといのうし。

  ※俳諧・玉海集(1656)一「たかやすは象とや見まし特うし〈良利〉」

 

とある。

 大きな黒牛も夕間暮れになれば闇に紛れて見えなくなってゆき、ただ道だけが見える。

 

無季。「特」は獣類。

 

九十二句目

 

   特のくろきも流石ゆふ間ぐれ

 定家かづらの撓む冬ざれ     コ齋

 (特のくろきも流石ゆふ間ぐれ定家かづらの撓む冬ざれ)

 

 「定家かづら」はウィキペディアに、

 

 「テイカカズラ(定家葛、学名: Trachelospermum asiaticum)は、キョウチクトウ科テイカカズラ属のつる性常緑低木。有毒植物である。

 和名は、式子内親王を愛した藤原定家が、死後も彼女を忘れられず、ついに定家葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説(能『定家』)に基づく。」

 

とある。

 この謡曲『定家』では、ワキの旅僧が神無月十日余りの時雨に季節にやってきて、上京の「時雨の亭(ちん)」という家で雨宿りする。

 

 「あはれを知るも夢の世の、げに定めなや定家の、軒端の夕時雨、ふるきに帰る涙かな。庭も籬もそれとなく、 荒れのみまさる叢の、露の宿りもかれがれに物凄き夕なりけり物凄き夕なりけり。(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.27345-27351). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とそこで日は暮れて行く。これが前句の「ゆふ間ぐれ」に重なる。

 そしてこのあと式子内親王に定家葛の絡まるのを見る。

 この舞台になった所は京都市上京区の般舟院と言われている。式子内親王の墓所と伝わる式子内親王塚があったという。

 テイカカヅラは冬になると紅葉して冬を越す。

 

季語は「冬ざれ」で冬。「定家かづら」は植物、木類。

 

九十三句目

 

   定家かづらの撓む冬ざれ

 低く咲花を八ッ手と見るばかり  素堂

 (低く咲花を八ッ手と見るばかり定家かづらの撓む冬ざれ)

 

 定家葛は紅葉して力なく撓んでゆき、ただヤツデの花が咲くのを見るばかり。定家葛の花は夏に咲く。

 名残の表の花だが、ここではヤツデの花なので正花にはならない。

 

季語は「八ッ手」で冬、植物、木類。

 

九十四句目

 

   低く咲花を八ッ手と見るばかり

 桶の輪入れの住居いやしし    清風

 (低く咲花を八ッ手と見るばかり桶の輪入れの住居いやしし)

 

 輪入れは箍(たが)を入れること。桶屋はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「桶を生産する職人。古くは桶結(おけゆい)師とか桶大工ともいわれた。桶はスギ・サワラの細長い板を円形に並べて側(かわ)とし、板底をつけ、細長い割竹の箍(たが)で締めた作り物で、日常生活の水桶、みそ桶などの容器、または火桶、腰桶(腰掛の一種)といった調度として、10世紀には一般にも使われていた。独立した職人となったのは15世紀のことで、容器として庶民生活の必需品となってきたし、17世紀からは、製造と販売を兼ねる居職(いじょく)の桶屋が成立し、城下町などでは集住して桶屋町をつくっていた。樽(たる)もこの桶屋のつくるもので、桶や樽は箍が壊れることが多いので、修理のための出職(でしょく)の者もいた。工具には木槌(きづち)、鋸(のこぎり)、小刀、ならしなどがあった。出職のときは道具箱に入れて竹の箍とともに携帯していた。近年は、新しい材料の生活用具に需要が奪われて、仕事は少なくなってきている。[遠藤元男]」

 

とある。

 職人町でヤツデの花が咲いている。

 

無季。「住居」は居所。

名残裏

九十五句目

 

   桶の輪入れの住居いやしし

 ひだるさを鐚にかへたるこころ太 芭蕉

 (ひだるさを鐚にかへたるこころ太桶の輪入れの住居いやしし)

 

 「鐚(びた)」はびた銭のこと。びた一文なんて言葉もある。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「16世紀後期より江戸時代にかけて使用された悪質の銭貨。「びたぜに」とも読み、悪銭(あくぜに)ともいう。とくに寛永通宝(かんえいつうほう)が新鋳され、浸透するまでの半世紀間余、額面どおり通用しなかった価値の低い悪銭をいう。室町より戦国期にかけて、精銭(せいせん)とされた永楽(えいらく)銭に対して、中国での私鋳銭である南京(ナンキン)銭、国内の私鋳銭、精銭が磨滅した破銭(われせん)や欠銭(かけせん)などを悪銭と称したが、これを織田信長時代より畿内(きない)で「びた」とよぶようになり、のち全国に広まった。多種かつ磨滅度の異なる銭貨が混合流通したため、鐚銭の間でも撰銭(えりぜに)がなされて混乱した。しかし、江戸幕府が1604年(慶長9)永楽銭一貫文=鐚銭4貫文とし、さらに4年後に永楽銭通用を禁止したのちは、「びた」が銭貨の代称ともなった。[岩橋 勝]」

 

とある。芭蕉の時代は普通の寛永通宝を鐚(びた)と呼んでいた。今で言う小銭であろう。

 「鐚にかへたる」は

 

 ばせを野分その句に草履かへよかし 李下

 

の用法と同じで今だと「鐚でかへたるこころ太」になる。腹が減ったので小銭で心太を買う。

 

季語は「こころ太」で夏。

 

九十六句目

 

   ひだるさを鐚にかへたるこころ太

 瀧をおしまぬ不動尊き      嵐雪

 (ひだるさを鐚にかへたるこころ太瀧をおしまぬ不動尊き)

 

 心太を心太突きで突き出すさまは瀧を思わせる。小銭で惜しげもなくたくさんの心太を盛って出してくれるお不動さんは尊い。

 

無季。釈教。「瀧」は山類。

 

九十七句目

 

   瀧をおしまぬ不動尊き

 声なくてさびしかりけるむら雀  其角

 (声なくてさびしかりけるむら雀瀧をおしまぬ不動尊き)

 

 スズメは秋冬になると群れになるという。沢山の雀が集まっているのに静かだと、余計に寂れた感じがする。

 冬枯れで滝の水も減り群雀も鳴かず、静寂に包まれたお不動さんもまた尊いものだ。

 

無季。「むら雀」は鳥類。

 

九十八句目

 

   声なくてさびしかりけるむら雀

 出る日はれて四方しづかなり   才丸

 (声なくてさびしかりけるむら雀出る日はれて四方しづかなり)

 

 挙句も近いので穏やかな天候を付けて花呼び出しとする。

 

無季。「出る日」は天象。

 

九十九句目

 

   出る日はれて四方しづかなり

 花降らば我を匠と人や言ん    コ齋

 (花降らば我を匠と人や言ん出る日はれて四方しづかなり)

 

 これは、

 

 春の日のひかりにあたる我なれど

     かしらの雪となるぞわびしき

              文屋康秀(古今集)

 

であろう。『古今和歌集』仮名序に「ふんやのやすひでは、ことばはたくみにて、そのさま身におはず。」とある。春の日に花が雪のように降って来れば、我も文屋康秀のように「たくみ」と言われるかな。

 

季語は「花降」で春、植物、木類。「我」「人」は人倫。

 

挙句

 

   花降らば我を匠と人や言ん

 さくらさくらの奥深き園     執筆

 (花降らば我を匠と人や言んさくらさくらの奥深き園)

 

 前句を桜を育てる花守の匠として、見渡す限りの桜の園で目出度く一巻は終了する。

 

季語は「さくら」で春、植物、木類。