「芹焼や」の巻、解説

初表

 芹焼やすそ輪の田井の初氷    芭蕉

   挙リて寒し卵産む鶏     濁子

 織下す𥿻をむしろに尋取りて   凉葉

   折々すずむうらの柿の木   芭蕉

 うす月夜干鰯俵のなまぐさき   濁子

   汐くむ牛も見えぬあさ霧   凉葉

 

初裏

 露霜の小村に鉦をたたき入    芭蕉

   榎のすへにのこる注連縄   濁子

 求食飛ぶ塊鳩の賑はしく     凉葉

   掘ばひらぢにならぬ石原   芭蕉

 日ざかりは孫に吸筒提させて   濁子

   和田秩父とも独若党     凉葉

 懸乞の来ては言葉を荒シける   芭蕉

   余所よりくらき月の枝折戸  濁子

 虫とりと知らで聾の雇はれて   凉葉

   松もすすきも念仏の種    芭蕉

 富ばなほ命也けり花の陰     濁子

   破籠はさめぬ鶯のこえ    凉葉

 

 

二表

 雪国は春まで馬の繋がれて    芭蕉

   日記つまりし一帖の紙    凉葉

 旅瘡やながき五月の船どまり   濁子

   名残りをかせぐ安芸の広島  芭蕉

 音信は見しらぬ伯母もなつかしく 凉葉

   元米斗る酒の奥殿      濁子

 焼たてて庭に鱧するくれの月   芭蕉

   まき藁まくも肌寒きかぜ   凉葉

 寄り婿は假リ諸太夫に粧ふて   濁子

   うき名は辰の市で恋する   芭蕉

 よひ縞ともやうを褒て詠やり   凉葉

   葉茶壺直す床の片隅     濁子

 

二裏

 ほととぎすすはやと蚊帳釣かけて 芭蕉

   湖水もしらむ瀬田の朝駕   凉葉

 うす雪のうへに霰のころころと  濁子

   俵の塵をたたく着る物    芭蕉

 折る花に子共のすがる袋町    凉葉

   若松うゆる天神の宮     濁子

 

      参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

 芹焼やすそ輪の田井の初氷    芭蕉

 

 元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

 芹燒や緣輪の田井の初氷

   此句は、初芹といふ叓をいひのべたるに侍らん

   と、たづねければ、たゞ思ひやりたるほつ句な

   りと、あざむかれにける。かゝるあやまりも、

   殊におほかるべし。

 

とある。

 「たゞ思ひやりたるほつ句」とあるが、「おもひやる」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①気を晴らす。心を慰める。

  出典万葉集 四〇〇八

  「わが背子を見つつしをればおもひやることもありしを」

  [訳] あなたにお会いしているので気を晴らすこともあったが。

  ②はるかに思う。

  出典伊勢物語 九

  「その河のほとりに群れゐておもひやれば」

 [訳] その川のほとりに群がり集まってすわって都のことをはるかに思うと。

  ③想像する。推察する。

  出典枕草子 雪のいと高うはあらで

  「今日の雪をいかにとおもひやり聞こえながら」

  [訳] 今日の雪を(あなたは)どうご覧になっているかと推察申し上げながら。

  ④気にかける。気を配る。

  出典源氏物語 桐壺

  「いはけなき人もいかにとおもひやりつつ」

  [訳] 幼い宮もどうなさっているかといつも気にかけて。」

 

とある。「ただ」というから想像の句であろう。

 「芹焼」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 焼き石の上で芹を蒸し焼きにした料理。転じて芹を油でいため、鳥肉などといっしょに煮た料理もいう。《季・冬》

  ※北野天満宮目代日記‐目代昭世引付・天正一二年(1584)正月一四日「むすびこんにゃく、せりやき三色を折敷にくみ候て出候」

 

とある。

 「縁輪(すそわ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「山の麓のあたり。すそわ。

  「高円(たかまと)の宮の―の野づかさに今咲けるらむをみなへしはも」〈万・四三一六〉

  「すそみ」に同じ。

  「かりそめと思ひし程に筑波嶺(つくばね)の―の田居も住み馴れにけり」〈新拾遺・雑中〉

  [補説]万葉集の「裾廻(すそみ)」を「すそわ」と誤読してできた語。」

 

とある。芭蕉の時代はこの新拾遺集の、

 

 かりそめと思ひし程に筑波嶺の

     縁輪の田居も住み馴れにけり

 

の歌として知られていて、芭蕉の句も筑波山の麓を想像して詠んだと思われる。

 想像の句なので当座の興とは関係なく、既に作ってあった句を立句として採用したとおもわれるが、その後の一巻の展開からして、あえて江戸の町中にあって田舎俳諧をしようという意図があったのかもしれない。

 

季語は「初氷」で冬。「すそ輪」は山類。

 

 

   芹焼やすそ輪の田井の初氷

 挙リて寒し卵産む鶏       濁子

 (芹焼やすそ輪の田井の初氷挙リて寒し卵産む鶏)

 

 「挙りて」は「こぞりて」で、「諸人こぞりて」というクリスマスソングもあるように、みんな一緒にということ。

 筑波山の麓の田舎という設定の発句なので、鶏がたくさんいて寒がっている、と付ける。

 

季語は「寒し」で冬。「鶏」は鳥類。

 

第三

 

   挙リて寒し卵産む鶏

 織下す𥿻をむしろに尋取りて   凉葉

 (織下す𥿻をむしろに尋取りて挙リて寒し卵産む鶏)

 

 𥿻は「きぬ」と読む。「尋取りて」は「ひろとりて」。「尋(ひろ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉「尋」の解説」に、

 

 「ひろ【▽尋】

  日本の慣習的な長さの単位。両手を左右に伸ばしたときの、指先から指先までの長さを基準にし、1尋は5尺すなわち約1.515メートル、ないし6尺すなわち約1.816メートル。縄・釣り糸の長さや水深に用い、水深の場合は6尺とされる。」

 

とある。「世界大百科事典 第2版「尋」の解説」には、「1872年(明治5)の太政官布告により,1ひろは曲尺(かねじやく)の6尺と定められた。」とある。芭蕉の時代の一尋は今の明治以降の一尋とは違っていたようだ。

 織り上がった絹を筵の上で寸法を測る。

 

無季。

 

四句目

 

   織下す𥿻をむしろに尋取りて

 折々すずむうらの柿の木     芭蕉

 (織下す𥿻をむしろに尋取りて折々すずむうらの柿の木)

 

 季節を夏に転じる。

 

季語は「すずむ」で夏。「柿の木」は植物、木類。

 

五句目

 

   折々すずむうらの柿の木

 うす月夜干鰯俵のなまぐさき   濁子

 (うす月夜干鰯俵のなまぐさき折々すずむうらの柿の木)

 

 「薄月夜」は秋の朧月夜。薄雲が月に掛かった状態をいう。

 「干鰯(ほしか)」はコトバンクの「百科事典マイペディア「干鰯」の解説」に、

 

 「鰯・鰊などを干して固めた肥料。近世,綿作などの商品作物栽培の拡大により,速効性の魚肥の需要が急増。特に大坂近郊農村で早くから普及。17世紀後半には大坂・浦賀(うらが)・江戸をはじめとした干鰯問屋を通じて全国に普及。干鰯は初期には西国物が多かったが,関西漁民の進出によって鰯漁法が発達した房総を主とした東国物が多くなり,幕末には松前(まつまえ)物が多かった。」

 

とある。鰯を原料とした肥料だから、当然ながら臭い。

 

季語は「うす月夜」で秋、夜分、天象。

 

六句目

 

   うす月夜干鰯俵のなまぐさき

 汐くむ牛も見えぬあさ霧     凉葉

 (うす月夜干鰯俵のなまぐさき汐くむ牛も見えぬあさ霧)

 

 肥料の産地として海辺の景色に転じ、塩田の汐汲む牛を付けるが、それも霧で見えないとする。江戸時代は入浜式塩田の広まった時代でもあった。ウィキペディアに、

 

 「江戸時代前期頃、海水を塩田に取り込む方法として、潮の干満を利用する方法が開発された(装置やプロセスは揚浜式と共通している)。これにより海水を塩砂に散布する作業が省略され、大幅な労力の軽減が実現した。」

 

とある。

 ただ、ここでは「汐くむ牛」とあるから、この最新の塩田ではなく古い時代の「揚浜式塩田」になる。ウィキペディアに、

 

 「「藻塩焼」の時代を経て、塩の需要が増大するに従い、海水中の塩分が付着した海浜の砂を採鹹作業に利用する製塩法が発達した。

 盛土の上に、海水が地中に染み込まないように厚さ10cmほどの粘土など[4]で防水層を形成し、その上に粒子の細かい砂(塩砂)を敷き詰める。塩砂の上に海水を丁寧にまき、頻繁にかき混ぜながら、天日と風により充分に水分を蒸発させたあと、塩砂をかき集めて海水で洗うことで鹹水を作り、それを製塩釜で煮詰めて結晶を得る。

 1塩戸分の塩田面積は平均して1反歩(約990平方メートル)前後が通例であった。」

 

とある。

 ここまで六句、農村風景の句が続くところをみると、やはり発句に田舎俳諧の意図があったのではないかと思う。

 

季語は「あさ霧」で秋、聳物。「汐くむ牛」は水辺、獣類。

初裏

七句目

 

   汐くむ牛も見えぬあさ霧

 露霜の小村に鉦をたたき入    芭蕉

 (露霜の小村に鉦をたたき入汐くむ牛も見えぬあさ霧)

 

 鉦叩(かねたたき)は大道芸でウィキペディアに、

 

 「鉦叩(かねたたき)は、中世・近世(12世紀 - 19世紀)の日本に存在した民俗芸能、大道芸の一種であり、およびそれを行う者である。鉦叩き、鉦たたき、金タタキとも表記する。「七道者」に分類され、やがて江戸時代(17世紀 - 19世紀)には歌念仏(うたねんぶつ)に発展するものあり、八丁鉦(はっちょうがね)あるいは八柄鉦(やからがね)とも呼ばれるようになり、門付芸となった。かねたたき坊主(かねたたきぼうず)とも。」

 

とある。晩秋の村にやってきた。

 

季語は「露霜」で秋、降物。「小村」は居所。

 

八句目

 

   露霜の小村に鉦をたたき入

 榎のすへにのこる注連縄     濁子

 (露霜の小村に鉦をたたき入榎のすへにのこる注連縄)

 

 そんな村の神社の榎には、祭の時の注連縄がまだ残っている。

 

無季。神祇。「榎」は植物、木類。

 

九句目

 

   榎のすへにのこる注連縄

 求食飛ぶ塊鳩の賑はしく     凉葉

 (求食飛ぶ塊鳩の賑はしく榎のすへにのこる注連縄)

 

 「求食飛ぶ」は「あさりとぶ」と読む。餌を探して飛ぶ。塊鳩は「つちくればと」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「土塊鳩・壌鳩」の解説」に、

 

 「〘名〙 鳥「きじばと(雉鳩)」の異名。〔羅葡日辞書(1595)〕」

 

とある。榎の木でデデッポウ、デデッポウと賑やかに鳴いている。

 

無季。「塊鳩」は鳥類。

 

十句目

 

   求食飛ぶ塊鳩の賑はしく

 掘ばひらぢにならぬ石原     芭蕉

 (求食飛ぶ塊鳩の賑はしく掘ばひらぢにならぬ石原)

 

 まっ平らな更地にしたいのだけど、石が多くて、石を掘ると穴があいてしまいなかなか平らにならない。

 

無季。

 

十一句目

 

   掘ばひらぢにならぬ石原

 日ざかりは孫に吸筒提させて   濁子

 (日ざかりは孫に吸筒提させて掘ばひらぢにならぬ石原)

 

 吸筒(すひづつ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「吸筒」の解説」に、

 

 「〘名〙 酒や水などを入れて持ち歩いた、竹筒または筒型の容器。水筒。

  ※俳諧・鷹筑波(1638)二「さとりて見ればからき世の中 すひ筒に酒入てをくぜん坊主〈時之〉」

 

とある。夏の暑い時には孫に水筒を提げさせて石原を平らにならす。

 

季語は「日ざかり」で夏、天象。「孫」は人倫。

 

十二句目

 

   日ざかりは孫に吸筒提させて

 和田秩父とも独若党       凉葉

 (日ざかりは孫に吸筒提させて和田秩父とも独若党)

 

 秩父党は秩父平氏でウィキペディアに、

 

 「秩父平氏(ちちぶへいし)は、桓武平氏の坂東平氏系一門で、鎮守府将軍・平良文の孫である平将恒を祖として、秩父氏を直系とする諸氏族[1]。平将門の女系の子孫(平将門の次女・春姫の子孫)でもある。武蔵国秩父郡に基盤を持ち、多くの氏族を輩出した。秩父党とも呼ばれ、通字は主に「重」を用いた。」

 

とある。和田党も桓武平氏の流れをくむ三浦氏で、ウィキペディアに、

 

 「三浦氏の一族である杉本義宗の子・義盛が、所領(相模国三浦郡和田、和泉国和田、安房国和田などの説がある)の地名を姓として称した。義盛は源頼朝の挙兵に従い、また源範頼の戦目付として多くの戦功を挙げ、鎌倉幕府の初代侍所別当に任ぜられた。これにより和田氏は幕府の有力御家人の一家としての地位を築いた。

 しかし、義盛は後に幕府の権力を一手に掌握しようとする北条得宗家の挑発に乗って挙兵。この戦に敗れ、和田氏一族は滅ぼされた(和田合戦)。ただし、義盛の末子の杉浦義国は命からがらに近江国まで逃れて、杉浦氏の祖となったという。また義盛の孫の朝盛も生き延びて、同族の佐久間家村の養子となり、佐久間氏の名跡を継いだ。

 和田氏のうち、義盛の甥である高井重茂は北条方につき、重茂は和田合戦において戦死したものの、その子の時茂には、義盛の末弟の宗実の所領であった越後国奥山荘(現在の新潟県胎内市)が安堵されている。この系統は後に揚北衆の一角を形成する和田党となり、三浦和田氏・越後和田氏と呼ばれる。」

 

とある。

 かつて和田党、秩父党と言われた両氏も江戸時代には、和田氏は常陸国の佐竹氏の家老に和田氏に残り、秩父氏の末裔はウィキペディアに、

 

 「江戸氏は南北朝の争乱において、初めは新田義貞に従って南朝側につき、後に北朝、足利尊氏に帰順して鎌倉公方に仕えた。北朝に帰順した後は畠山国清の命により矢口渡で新田義興謀殺に加わった。その後江戸氏も武蔵平一揆で衰退したが、戦国時代において庶流が世田谷城主吉良氏の家臣として古河公方、後に後北条氏に仕えて命脈を保った。後北条氏滅亡後は徳川家康の家臣となり、姓を喜多見氏に改めた。喜多見重政は徳川綱吉の寵臣として譜代大名となり、喜多見藩を立藩、藩主家となる。しかし、元禄2年(1689年)2月2日に突然改易され、大名である喜多見氏は滅びた。」

 

とある通りになった。今は一人の若党(若い従者)にすぎない。

 前句の水筒持ちを和田秩父のなれの果てとする。

 

無季。「若党」は人倫。

 

十三句目

 

   和田秩父とも独若党

 懸乞の来ては言葉を荒シける   芭蕉

 (懸乞の来ては言葉を荒シける和田秩父とも独若党)

 

 懸乞はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「掛乞」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「かけごい」とも) 掛売りの代金を請求すること。また、その人。掛取り。《季・冬》

  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「きんかあたまに盆前の露 懸乞も分別盛の秋更て〈西鶴〉」

  ※風俗画報‐二五五号(1902)人事門「同十三日は〈略〉、町内掛乞(カケゴヒ)の往来頻繁雑沓を極む」

 

とあり、元禄五年十二月の「木枯しに」の巻の第三に、

 

   毛を引く鴨をのする俎板

 懸乞の中脇ざしに袴着て     芭蕉

 

の句がある。

 結構取り立ては脅迫めいた荒々しいものだったようだ。かつての和田秩父の末裔でもたじたじといったところか。

 

無季。「懸乞」は人倫。

 

十四句目

 

   懸乞の来ては言葉を荒シける

 余所よりくらき月の枝折戸    濁子

 (懸乞の来ては言葉を荒シける余所よりくらき月の枝折戸)

 

 借金に追われている者は、家も暗くして留守を装っている。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「枝折戸」は居所。

 

十五句目

 

   余所よりくらき月の枝折戸

 虫とりと知らで聾の雇はれて   凉葉

 (虫とりと知らで聾の雇はれて余所よりくらき月の枝折戸)

 

 聾は「つんぼ」と読む。今は放送禁止用語。昔は耳の不自由な人を表す一般的な言葉だった。土芳の『三冊子』には「五躰不具の噂、一座に差合事思ひめぐらすべし。ほ句のみに不限、其心得あるべし。」とある。注して用いよということで禁じてはいない。具体的なことは述べてない。あからさまにあざ笑うような句は、もちろんあってはならない。

 「虫とり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「虫取」の解説」に、

 

 「① 虫をとること。また、その道具。《季・秋》

  ※俳諧・袖草紙所引鄙懐紙(1811)元祿六年歌仙「余所よりくらき月の枝折戸〈濁子〉 虫とりと知らで聾の雇はれて〈涼葉〉」

  ② =デバッグ」

 

とあり、この句が用例として示されているが、どういう虫をどういう理由で取るのかが定かでない。販売用の鈴虫、クツワムシなどを捕らえるのか。

 この場合は虫取の家で聾が雇われたが、せっかくの虫の音が聞こえない、というネタであろう。

 

 盲より唖のかハゆき月見哉    去来

 

と同系統のネタで、健常者から見て気の毒に見えるというだけで、馬鹿にしているわけではないので、一応セーフと言えよう。

 元禄七年夏の「夏の夜や」の巻三十一句目に、

 

   そろそろありく盆の上臈衆

 虫籠つる四条の角の河原町    維然

 

の句があり、四条河原町で虫が売られていた。虫売りはコトバンクの「世界大百科事典 第2版「虫売」の解説」に、

 

 「江戸時代には6月ころから,市松模様の屋台にさまざまな虫籠をつけた虫売が街にあらわれ,江戸の風物詩の一つであった。《守貞漫稿》には,〈蛍を第一とし,蟋蟀(こおろぎ),松虫,鈴虫,轡虫(くつわむし),玉虫,蜩(ひぐらし)等声を賞する者を売る。虫籠の製京坂麁也。江戸精製,扇形,船形等種々の籠を用ふ。蓋(けだし)虫うりは専ら此屋体を路傍に居て売る也。巡り売ることを稀とす〉とある。虫売は6月上旬から7月の盆までの商売で,江戸では盆には飼っていた虫を放す習慣だったので盆以後は売れなくなったという。」

 

とある。

 

季語は「虫とり」で秋、虫類、「聾」は人倫。

 

十六句目

 

   虫とりと知らで聾の雇はれて

 松もすすきも念仏の種      芭蕉

 (虫とりと知らで聾の雇はれて松もすすきも念仏の種)

 

 松やすすきに棲む虫を捕えるのは殺生だということで、念仏を唱えて虫を供養する。

 もちろん本気で虫取を非難するわけではない。厳密に言えば殺生をしない人間なんていないし、大なり小なりみんな罪深いのは同じだ。そこを間違えるといわゆる同和などの差別につながる。

 殺生は罪だが、自分は無罪だという傲慢はそれ以上に大きな罪だということを俳諧は忘れない。

 

季語は「すすき」で秋、植物、草類。釈教。「松」は植物、木類。

 

十七句目

 

   松もすすきも念仏の種

 富ばなほ命也けり花の陰     濁子

 (富ばなほ命也けり花の陰松もすすきも念仏の種)

 

 いわゆる「死んで花実が咲くものか」というやつだ。Life is Beautiful.

 ただ、貧しければ生き延びることも難しい。やはりお金は大事だ。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   富ばなほ命也けり花の陰

 破籠はさめぬ鶯のこえ      凉葉

 (富ばなほ命也けり花の陰破籠はさめぬ鶯のこえ)

 

 破籠(わりご)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「破子・破籠・樏」の解説」に、

 

 「① 檜(ひのき)の白木で折箱のように作り、内部に仕切りを設け、かぶせ蓋(ぶた)にした容器。弁当箱として用いる。〔十巻本和名抄(934頃)〕

  ※とはずがたり(14C前)三「彩絵描きたるわりこ十合に、供御・御肴を入れて」

  ② ①に入れた携帯用の食物。また、その食事。弁当。

  ※宇津保(970‐999頃)吹上上「御供の人、道のほどのわりごなどせさす」

 

とある。

 花見で鶯の声を聴きながら弁当が食べられるのも生きていればこそ。そして弁当を食える程度に裕福であればこそ。

 

季語は「鶯」で春、鳥類。

二表

十九句目

 

   破籠はさめぬ鶯のこえ

 雪国は春まで馬の繋がれて    芭蕉

 (雪国は春まで馬の繋がれて破籠はさめぬ鶯のこえ)

 

 鶯の声がするから既に春なのだろうけど、ここでいう「春まで」は雪解けまでということだろう。

 雪が解けるまではまだ仕事もなく、鶯の声を聴きながら破籠の飯を食う。

 

季語は「春」で春。「馬」は獣類。

 

二十句目

 

   雪国は春まで馬の繋がれて

 日記つまりし一帖の紙      凉葉

 (雪国は春まで馬の繋がれて日記つまりし一帖の紙)

 

 雪解けまでやることがなく、日記に書くような内容も思い浮かばない。

 

無季。

 

二十一句目

 

   日記つまりし一帖の紙

 旅瘡やながき五月の船どまり   濁子

 (旅瘡やながき五月の船どまり日記つまりし一帖の紙)

 

 瘡(かさ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「瘡」の解説」に、

 

 「① 天然痘、できもの、はれものなど、皮膚病の総称。また、傷の治りぎわにできるかさぶたをもいう。

  ※書紀(720)敏達一四年三月(前田本訓)「天皇と大連と卒(にはか)に瘡(カサ)患(や)みたまふ」

  ※米沢本沙石集(1283)二「むねに疵ありて、かさと成り」

  ② 特に、梅毒をいう。

  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)四「傾城おほくあつまりて、市立(いちだち)の人に契る。〈略〉瘡(カサ)をうつりて、一期やまひになるもあり」

 

とある。ここでは旅で感染したということで②の梅毒であろう。五月の五月雨の悪天候が続き、長く港に滞在すると、その間に安い遊女と遊んだりする。まあ、日記に書けることでもない。

 

季語は「五月」で夏。旅体。「船どまり」は水辺。

 

二十二句目

 

   旅瘡やながき五月の船どまり

 名残りをかせぐ安芸の広島    芭蕉

 (旅瘡やながき五月の船どまり名残りをかせぐ安芸の広島)

 

 名残はなかなか多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「名残・余波」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「波残(なみのこり)」の変化したものといわれる)

  [一] (ふつう「余波」と書く)

  ① 浜、磯などに打ち寄せた波が引いたあと、まだ、あちこちに残っている海水。また、あとに残された小魚や海藻類もいう。

  ※万葉(8C後)四・五三三「難波潟潮干の名凝(なごり)飽くまでに人の見む児を吾(われ)し羨(とも)しも」

  ② 風が吹き海が荒れたあと、風がおさまっても、その後しばらく波が立っていること。また、その波。なごりなみ。なごろ。

  ※催馬楽(7C後‐8C)紀の国「風しも吹けば 名己利(なコリ)しも立てれば 水底霧(みなぞこき)りて はれ その珠見えず」

  [二] ((一)の転じたもの)

  ① ある事柄が起こり、その事がすでに過ぎ去ってしまったあと、なおその気配・影響が残っていること。余韻。余情。

  ※万葉(8C後)一一・二五八八「夕されば君来まさむと待ちし夜の名凝(なごり)そ今も寝(い)ねかてにする」

  ※浮雲(1887‐89)〈二葉亭四迷〉一「此時日は既に万家の棟に没しても、尚ほ、余残(ナゴリ)の影を留めて」

  ② 特に、病気・出産などのあと、身体に残る影響。

  ※源氏(1001‐14頃)夕顔「いと重くわづらひ給つれど、ことなるなごり残らず、おこたるさまに見え給」

  ③ 物事の残り。もれ残ること。もれ。残余。

  ※大和(947‐957頃)一二二「いかなればかつがつ物を思ふらむなごりもなくぞ我は悲しき」

  ④ 死んだ人の代わりとして、あとに残るもの。

  (イ) 子孫。末裔(まつえい)。

  ※源氏(1001‐14頃)澪標「かたじけなくとも、昔の御名残におぼしなずらへて、気遠からずもてなさせ給はばなむ、本意なる心地すべき」

  ※即興詩人(1901)〈森鴎外訳〉猶太をとめ「少女が寿をなししとき、その頬には、サロモ王の余波(ナゴリ)の血こそ上りたれ」

  (ロ) あとに残していった物や資産。形見。遺産。

  ※浜松中納言(11C中)二「守(かみ)も、なくなりにしかば、やもめなれども、女(むすめ)どもあまた、ひろき家にすみみちて、うちうちは、なほそのなごりゆるるかにてある人なれば」

  ⑤ 人と別れるのを惜しむこと。また、その気持。惜別の情。また、人と別れたあと、心に、そのおもかげなどが残って、忘れられないこと。

  ※源氏(1001‐14頃)総角「よべ入りし戸口より出でて、ふし給へれど、まどろまれず。なごり恋しくて〈略〉帰らむことも、物憂くおぼえ給」

  ※弁内侍(1278頃)寛元五年九月一四日「暁がたにもなりにしかば、御直廬へいらせ給ひしに、兵衛督殿、御なごり申さばやとあらまして」

  ⑥ これで最後だという別れの時。最後。最終。

  ※新古今(1205)雑上・一四五六「なれなれてみしはなごりの春ぞともなどしら河の花の下かげ〈藤原雅経〉」

  ※花鏡(1424)序破急之事「急と申(まうす)は、揚句(あげく)の義なり。その日の名残なれば、限りの風なり」

  ※浄瑠璃・曾根崎心中(1703)道行「此(この)よのなごり、夜もなごり、しににゆく身をたとふれば」

  ⑦ 「なごり(名残)の折」の略。

  ※俳諧・去来抄(1702‐04)修行「一巻、表(おもて)より名残まで一体ならんは見苦しかるべし」

  ⑧ 「なごり(名残)の茶事」の略。

  ※茶道筌蹄(1816)一「名残、古茶の名残といふ事也。〈略〉八月末より九月へかけて催す」

 

とある。梅毒も商売になるということか。

 

無季。「安芸の広島」は名所、水辺。

 

二十三句目

 

   名残りをかせぐ安芸の広島

 音信は見しらぬ伯母もなつかしく 凉葉

 (音信は見しらぬ伯母もなつかしく名残りをかせぐ安芸の広島)

 

 音信は「おとづれ」と読む。

 この場合は遺産を貰いに行くということか。親族が集まれば、その中には見知らぬ伯母の姿もある。

 

無季。「伯母」は人倫。

 

二十四句目

 

   音信は見しらぬ伯母もなつかしく

 元米斗る酒の奥殿        濁子

 (音信は見しらぬ伯母もなつかしく元米斗る酒の奥殿)

 

 造り酒屋の奥さんが原料の米を計っている。前句の伯母は酒屋の奥方だった。

 

季語は「元米斗る」で秋。「奥殿」は人倫。

 

二十五句目

 

   元米斗る酒の奥殿

 焼たてて庭に鱧するくれの月   芭蕉

 (焼たてて庭に鱧するくれの月元米斗る酒の奥殿)

 

 奥方は酒の仕込みの米を計り、旦那さんは庭で鱧を擂り潰して、肴にする練り物を作っている。相対付けだが、人倫の制になるので夫をあらわす言葉を隠している。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「庭」は居所。

 

二十六句目

 

   焼たてて庭に鱧するくれの月

 まき藁まくも肌寒きかぜ     凉葉

 (焼たてて庭に鱧するくれの月まき藁まくも肌寒きかぜ)

 

 「まき藁」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「巻藁」の解説」に、

 

 「① 藁を巻きたばねて、弓の練習などの的に用いるもの。〔日葡辞書(1603‐04)〕

  ② 串物などを刺すために作った藁束。

  ※滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)二「巻藁に鯱立(しゃちほこだち)なせる焼肴には」

  ③ 盛物の台またはしんにするために作った藁束。

  ※談義本・風流志道軒伝(1763)二「名聞の盛物も、人の見る方は餝れども、仏には巻藁(マキワラ)ばかりをかざませ」

 

とある。この場合は②であろう。

 

季語は「肌寒き」で秋。

 

二十七句目

 

   まき藁まくも肌寒きかぜ

 寄り婿は假リ諸太夫に粧ふて   濁子

 (寄り婿は假リ諸太夫に粧ふてまき藁まくも肌寒きかぜ)

 

 前句のまき藁を③の意味にする。盛物は神仏へのお供え物で、諸太夫は神職の太夫になったふりしてやってくる。

 寄り婿はよくわからないが、『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に、「途中立寄った娘婿の意か」とある。本来は娘と一緒に暮らすはずだが、何か家に入れない事情があるのだろう。

 

無季。恋。「婿」「諸太夫」は人倫。

 

二十八句目

 

   寄り婿は假リ諸太夫に粧ふて

 うき名は辰の市で恋する     芭蕉

 (寄り婿は假リ諸太夫に粧ふてうき名は辰の市で恋する)

 

 「辰の市」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「辰の市」の解説」に、

 

 「昔、辰の日ごとに大和国添上郡(奈良県北部)に定期的に立った市。

  ※枕(10C終)一四「市は、たつのいち、さとの市、つば市」

 

とある。「浮名は立つ」と掛詞になる。

 『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は、

 

 なき名のみ辰の市とは騒げども

     いさまた人を得るよしもなし

              柿本人麻呂(拾遺集)

 

の歌を引いている。

 

無季。恋。「辰の市」は名所。

 

二十九句目

 

   うき名は辰の市で恋する

 よひ縞ともやうを褒て詠やり   凉葉

 (よひ縞ともやうを褒て詠やりうき名は辰の市で恋する)

 

 よくわからないが、着物の縞模様を褒めるというのはナンパの時によく使う手なのか。

 

無季。

 

三十句目

 

   よひ縞ともやうを褒て詠やり

 葉茶壺直す床の片隅       濁子

 (よひ縞ともやうを褒て詠やり葉茶壺直す床の片隅)

 

 葉茶壺はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「葉茶壺」の解説」に、

 

 「茶葉を保存するための大型の壺。抹茶(まっちゃ)を入れる茶入を小壺と称したのに対して大壺ともいう。また、単に茶壺といえば葉茶壺をさす。新茶を貯蔵、密封しておき、11月ごろ口切(くちきり)の茶事にあたって封を切り茶葉を出し粉末にする。その場合、濃茶(こいちゃ)用は袋に入れ、薄(うす)茶用は詰茶とされる。小型の壺は三、四斤(きん)(一斤は約600グラム)、大型は七、八斤の茶葉が入る。室町中期の書院式茶道のころから中国産が珍重されてきたが、南方貿易の興隆とともに、呂宋(ルソン)壺が多数輸入され、真壺(まつぼ)、清香(せいごう)壺、蓮華王(れんげおう)壺などの区別がなされている。ほかに瀬戸(せと)、信楽(しがらき)、丹波(たんば)、備前(びぜん)焼や、近世では仁清(にんせい)の壺が喜ばれている。」

 

とある。

 唐茶の流行で、煎茶の前身となる煮出して飲む茶の葉も葉茶壺を用いたか。

 この場合の衣の縞模様を褒めるというのは、何か裏の意味がありそうだ。今でも京都の人が言うような遠回しな言い方で、帰ってくれ、てな感じで葉茶壺を片付ける。

 

無季。「床」は居所。

二裏

三十一句目

 

   葉茶壺直す床の片隅

 ほととぎすすはやと蚊帳釣かけて 芭蕉

 (ほととぎすすはやと蚊帳釣かけて葉茶壺直す床の片隅)

 

 「すはや」は最近あまり使わないが、昭和の頃は「すわっ、火事だ」のように用いていた。危機を察知した時の驚きの言葉で、急いで対処しなければならない時に用いる。

 この場合はホトトギスの声がしたので、そろそろ蚊帳を吊らなくてはというところだが、ちょっと大げさに驚いてみせる。

 

季語は「ほととぎす」で夏、鳥類。「蚊帳」は居所。

 

三十二句目

 

   ほととぎすすはやと蚊帳釣かけて

 湖水もしらむ瀬田の朝駕     凉葉

 (ほととぎすすはやと蚊帳釣かけて湖水もしらむ瀬田の朝駕)

 

 瀬田は琵琶湖の南端に架かる瀬田の唐橋で、蚊帳を吊るために駕籠で駆けつける。

 

無季。旅体。「湖水」は水辺。「勢田」は名所、水辺。

 

三十三句目

 

   湖水もしらむ瀬田の朝駕

 うす雪のうへに霰のころころと  濁子

 (うす雪のうへに霰のころころと湖水もしらむ瀬田の朝駕)

 

 冬の景色に転じる。

 

季語は「うす雪」「霰」で冬、降物。

 

三十四句目

 

   うす雪のうへに霰のころころと

 俵の塵をたたく着る物      芭蕉

 (うす雪のうへに霰のころころと俵の塵をたたく着る物)

 

 前句の雪というところから、

 

 駒とめて袖打ち払ふ影もなし

     佐野の渡りの雪の夕暮れ

              藤原定家(新古今集)

 

の歌を連想したのであろう。

 ここは俳諧なので雪を払うと見せて、担いでいた俵の藁屑を掃う。

 

無季。

 

三十五句目

 

   俵の塵をたたく着る物

 折る花に子共のすがる袋町    凉葉

 (折る花に子共のすがる袋町俵の塵をたたく着る物)

 

 袋町は牛込にある。ウィキペディアに、

 

 「江戸時代には地蔵坂に牛込肴町に属する町屋があり、藁を売る店が多かったことから「藁店」(わらだな)と呼ばれた。また坂上は牛込北御徒町(現・北町)に入るところで御徒組の門に突き当たり、袋小路となっていたため袋町と呼ばれた。

 1645年(正保2年)当地に光照寺が移転し、門前町が形成された。」

 

とある。藁店は前句の「俵」の縁になる。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「子共」は人倫。

 

挙句

 

   折る花に子共のすがる袋町

 若松うゆる天神の宮       濁子

 (折る花に子共のすがる袋町若松うゆる天神の宮)

 

 同じ牛込には牛込天神町があり、かつて天神様があった。ウィキペディアに、

 

 「町名はかつて大橋龍慶の屋敷内に天神社があったことに由来する。」

 

とある。

 天神様の境内に若松を植えて、一巻は目出度く終わる。

 

 季語は「若松」で春、植物、木類。神祇。