「遠浅や」の巻、解説

初表

 遠浅や浪にしめさす蜊とり    亀洞

   はるの舟間に酒のなき里   荷兮

 のどけしや早き泊に荷を解て   昌碧

   百足の懼る薬たきけり    野水

 夕月の雲の白さをうち詠     舟泉

   夜寒の蓑を裾に引きせ    釣雪

 

初裏

 荻の声どこともしらぬ所ぞや   筆

   一駄過して是も古綿     亀洞

 道の辺に立暮したる宜禰が麻   荷兮

   楽する比とおもふ年栄    昌碧

 いくつともなくてめつたに蔵造  釣雪

   湯殿まいりのもめむたつ也  舟泉

 涼しやと筵もてくる川の端    野水

   たらかされしや彳る月    荷兮

 秋風に女車の髭おとこ      亀洞

   袖ぞ露けき嵯峨の法輪    釣雪

 時々にものさへくはぬ花の春   昌碧

   八重山吹ははたちなるべし  野水

 

 

二表

 日のいでやけふは何せん暖かに  舟泉

   心やすげに土もらふなり   亀洞

 向まで突やるほどの小ぶねにて  荷兮

   垢離かく人の着ものの番   昌碧

 配所にて干魚の加減覚えつつ   釣雪

   歌うたふたる声のほそぼそ  舟泉

 むく起に物いひつけて亦睡り   野水

   門を過行茄子よびこむ    荷兮

 いりこみて足軽町の薮深し    亀洞

   おもひ逢たりどれも高田派  釣雪

 盃もわするばかりの下戸の月   昌碧

   ややはつ秋のやみあがりなる 野水

 

二裏

 ややはつ秋のやみあがりなる   野水

   水しほはゆき安房の小湊   亀洞

 夏の日や見る間に泥の照付て   荷兮

   桶のかつらを入しまひけり  昌碧

 人なみに脇差さして花に行    釣雪

   ついたつくりに落る精進   野水

 

       参考:『芭蕉七部集』(中村俊定注、岩波文庫、1966)

初表

発句

 

 遠浅や浪にしめさす蜊とり    亀洞

 

 「蜊」は「あさり」と読む。「しめさす」は標を付けるという意味で、遠浅の浜だと沖の方まで人がアサリを取っていて、そこまでが浅瀬だという標識みたいだという意味。

 

季語は「蜊とり」で春、水辺。「遠浅」「浪」も水辺。

 

 

   遠浅や浪にしめさす蜊とり

 はるの舟間に酒のなき里     荷兮

 (遠浅や浪にしめさす蜊とりはるの舟間に酒のなき里)

 

 舟間はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「船間」の解説」に、

 

 「① 船の入港のとだえている間。

  ※俳諧・難波草(1671)秋「秋風のなぐは一葉の舟間哉〈忠利〉」

  ② 船の入港がなくて荷がとぎれること。転じて、物が不足・欠乏すること。

  ※俳諧・西鶴大矢数(1681)第一一「算用詰十露盤枕ねる計 雨にあらしに舟間也けり」

  ③ (船澗) 船を碇泊または繋留するのに適した場所。船掛りする所。北海道、東北、北陸地方でいう。船掛り澗。」

 

とある。

 発句の「しめ」に舟を付ける。一般的に標識は船の出入りのためのものだからだ。

 発句がアサリを取る人を眺める視点なので、船を待つ人足の人達が、アサリはあるのにに酒がないとぼやく様を付ける。

 

季語は「はる」で春。「舟間」は水辺。「里」は居所。

 

第三

 

   はるの舟間に酒のなき里

 のどけしや早き泊に荷を解て   昌碧

 (のどけしや早き泊に荷を解てはるの舟間に酒のなき里)

 

 泊(とまり)は港のことだとすると、水辺が三句続く。「泊」を単に宿泊することだとして、非水辺扱いとしたか。

 舟着場のある宿場に早く着きすぎてしまい、手持無沙汰だが酒がない。

 七里の渡しのある宮宿や桑名宿は大きな宿場なので「酒のなき里」ということはなかっただろう。よほど田舎の方の渡し場か。

 

季語は「のどけし」で春。旅体。

 

四句目

 

   のどけしや早き泊に荷を解て

 百足の懼る薬たきけり      野水

 (のどけしや早き泊に荷を解て百足の懼る薬たきけり)

 

 屋外での休息で、百足などの虫除けの薬を焚く。百足は当時は無季。

 

無季。「百足」は虫類。

 

五句目

 

   百足の懼る薬たきけり

 夕月の雲の白さをうち詠     舟泉

 (夕月の雲の白さをうち詠百足の懼る薬たきけり)

 

 夕月が出るもまだ明るい空に白い雲が残っていて、そこに薬焚く煙が立ち昇る。一日の終わりのほっとするひと時だ。

 

季語は「夕月」で秋、夜分、天象。「雲」は聳物。

 

六句目

 

   夕月の雲の白さをうち詠

 夜寒の蓑を裾に引きせ      釣雪

 (夕月の雲の白さをうち詠夜寒の蓑を裾に引きせ)

 

 寒いので蓑を引き寄せて足もとを覆う。

 

季語は「夜寒」で秋、夜分。「蓑」は衣裳。

初裏

七句目

 

   夜寒の蓑を裾に引きせ

 荻の声どこともしらぬ所ぞや   筆

 (荻の声どこともしらぬ所ぞや夜寒の蓑を裾に引きせ)

 

 荻の上風萩の下露というように、荻は風の音を詠むのが普通だ。夜寒に荻吹く風の音がどこからともなく聞こえてくる。

 執筆の句で、無難に付けている。

 

季語は「荻」で秋、植物、草類。

 

八句目

 

   荻の露どこともしらぬ所ぞや

 一駄過して是も古綿       亀洞

 (荻の露どこともしらぬ所ぞや一駄過して是も古綿)

 

 一駄はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「一駄」の解説」に、

 

 「〘名〙 馬一頭に背負わせた荷の分量。また、荷を背負った馬一頭。→一駄荷(いちだに)。

  ※今昔(1120頃か)五「大王用し給はば此の菓子(くだもの)を一駄奉らむ」

  ※俳諧・曠野(1689)員外「荻の声どこともしらぬ所ぞや〈筆〉 一駄過して是も古綿〈亀洞〉」 〔宋史‐食貨志七・礬〕」

 

とある。駄賃というのもそこから来ている。

 秋は綿の季節で新綿の出回る頃だが、綿替えした古綿が貧しい所には回ってくる。打ち直して再利用する。

 馬を使いたいのだけど、綿の季節で空いている馬がなかなか捕まらない。

 

無季。

 

九句目

 

   一駄過して是も古綿

 道の辺に立暮したる宜禰が麻   荷兮

 (道の辺に立暮したる宜禰が麻一駄過して是も古綿)

 

 宜禰は祢宜(ねぎ)で神主の下で働く神職。綿が主流になる時代に未だに麻衣を着ている。

 

無季。神祇。「宜禰」は人倫。

 

十句目

 

   道の辺に立暮したる宜禰が麻

 楽する比とおもふ年栄      昌碧

 (道の辺に立暮したる宜禰が麻楽する比とおもふ年栄)

 

 年栄(としばへ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「年延」の解説」に、

 

 「① 年のほど。としごろ。としかっこう。としばい。

  ※咄本・鹿の巻筆(1686)五「としばへは四十にあまれども」

  ※付焼刃(1905)〈幸田露伴〉四「婆やと云はれさうな年齢(トシバヘ)の婢が」

  ② (形動) 年をとっていること。年をかさねて思慮分別のあること。また、そのさま。年輩。としばい。

  ※俳諧・へらず口(不角撰)(1694)「年ばへの女糸屋の重手代」

 

とある。

 初老の祢宜で、そろそろ隠居を考える頃か。

 

無季。

 

十一句目

 

   楽する比とおもふ年栄

 いくつともなくてめつたに蔵造  釣雪

 (いくつともなくてめつたに蔵造楽する比とおもふ年栄)

 

 若い頃から商売にいそしみ、蔵が建ったのでそろそろ楽をしようか。

 

無季。

 

十二句目

 

   いくつともなくてめつたに蔵造

 湯殿まいりのもめむたつ也    舟泉

 (いくつともなくてめつたに蔵造湯殿まいりのもめむたつ也)

 

 「もめむたつ」は『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の中村注に、「行者の着る木綿の浄衣をつくることか」とある。八句目の「古綿」から三句去りになる。

 湯殿参りといえば温泉旅行。参拝にかこつけた贅沢だったのだろう。

 

無季。旅体。

 

十三句目

 

   湯殿まいりのもめむたつ也

 涼しやと筵もてくる川の端    野水

 (涼しやと筵もてくる川の端湯殿まいりのもめむたつ也)

 

 湯殿山への旅なら最上川だろうか。

 

 五月雨をあつめて凉し最上川   芭蕉

 

の句は、この時はまだ詠まれていない。

 

季語は「涼し」で夏。「川」は水辺。

 

十四句目

 

   涼しやと筵もてくる川の端

 たらかされしや彳る月      荷兮

 (涼しやと筵もてくる川の端たらかされしや彳る月)

 

 「たらかす」は「たぶらかす」の略。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「誑かす」の解説」に、

 

 「〘他サ五(四)〙 (「かす」は接尾語) 誘惑して本心を失わせる。甘言でだます。また、色じかけでだます。たぶらかす。だます。すかす。たらす。

  ※俳諧・曠野(1689)員外「涼しやと莚もてくる川の端〈野水〉 たらかされしや彳る月〈荷兮〉」

 

とある。「彳る」は「たたずめる」。

 川で筏を浮かべて夕涼みをしていると、遅れてきたかのように月が昇る。「よう、遅かったじゃないか、違う場所を教えらのか」という感じで、友たちが遅れてきたかのような言い回しだ。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

十五句目

 

   たらかされしや彳る月

 秋風に女車の髭おとこ      亀洞

 (秋風に女車の髭おとこたらかされしや彳る月)

 

 女車はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「女車」の解説」に、

 

 「〘名〙 女房が外出の際乗る牛車(ぎっしゃ)。簾(すだれ)の下から下簾の裾を垂らす。⇔男車。

  ※伊勢物語(10C前)三九「その宮の隣なりけるをとこ、御葬(はぶり)見むとて、女ぐるまにあひ乗りて」

 

とある。

 女車というと王朝時代で、髭男というと『源氏物語』の髭黒大将であろう。ただ、髭黒大将がどうやって玉鬘と関係を持ったかは、詳しいことは書かれていない。想像で、女車に乗って忍んできたとしたか。

 

季語は「秋風」で秋。「髭おとこ」は人倫。

 

十六句目

 

   秋風に女車の髭おとこ

 袖ぞ露けき嵯峨の法輪      釣雪

 (秋風に女車の髭おとこ袖ぞ露けき嵯峨の法輪)

 

 小督の局を探しに来た仲国としたか。謡曲では馬に乗っているが。

 「月にやあくがれ出で給ふと、法輪に参れば、琴こそ聞こえ来にけれ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.65852-65855). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。

 宝輪寺は嵯峨の渡月橋を渡ったところにある。芭蕉の『嵯峨日記』には、

 

 「大井川前に流て、嵐山右ニ高く、松の尾里につづけり。虚空蔵に詣ル人往かひ多し。松尾の竹の中に小督屋敷と云有。」

 

とある「虚空蔵」が虚空蔵宝輪寺を表す。小督屋敷もこの近くとされていた。

 

季語は「露けき」で秋、降物。「袖」は衣裳。「嵯峨の法輪」は名所。

 

十七句目

 

   袖ぞ露けき嵯峨の法輪

 時々にものさへくはぬ花の春   昌碧

 (時々にものさへくはぬ花の春袖ぞ露けき嵯峨の法輪)

 

 「ものさへくはぬ」も恋を仄めかす。恋に破れて尼になった身を歎いて袖を濡らす。

 

季語は「花の春」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   時々にものさへくはぬ花の春

 八重山吹ははたちなるべし    野水

 (時々にものさへくはぬ花の春八重山吹ははたちなるべし)

 

 山吹は桜より後に咲くということで、遅咲きの女の喩えとして「八重山吹」を出す。十五で嫁に行くのが普通の時代に二十歳は行き後れ。

 

 七重八重花は咲けども山吹の

     みのひとつだになきぞあやしき

              兼明親王(後拾遺集)

 

のように、実りのない恋ということか。

 この歌は太田道灌の話としてよく知られているが。

 

季語は「八重山吹」で春、植物、草類。

二表

十九句目

 

   八重山吹ははたちなるべし

 日のいでやけふは何せん暖かに  舟泉

 (日のいでやけふは何せん暖かに八重山吹ははたちなるべし)

 

 山吹の咲く晩春は暖かく、日の出も早い。前句の「はたち」を畑地に取り成し、田舎のスローライフとしたか。

 

季語は「暖かに」で春。「日」は天象。

 

二十句目

 

   日のいでやけふは何せん暖かに

 心やすげに土もらふなり     亀洞

 (日のいでやけふは何せん暖かに心やすげに土もらふなり)

 

 土を盛るということか。家か庭の造成だろう。

 

無季。

 

二十一句目

 

 

   心やすげに土もらふなり

 向まで突やるほどの小ぶねにて  荷兮

 (向まで突やるほどの小ぶねにて心やすげに土もらふなり)

 

 小船で運んできた土を貰う。堤防を作るのか。

 ちょっと押してやればすぐ向こう岸に着く程の小さな川であろう。

 

無季。「小ぶね」は水辺。

 

二十二句目

 

   向まで突やるほどの小ぶねにて

 垢離かく人の着ものの番     昌碧

 (向まで突やるほどの小ぶねにて垢離かく人の着ものの番)

 

 「垢離かく」は垢離の行をして、身を清めること。垢離はウィキペディアに、

 

 「神や仏に祈願したり神社仏閣に参詣する際に、冷水を被り、自身が犯した大小様々な罪や穢れを洗い落とし、心身を清浄にすることである。

 神道でいう禊と同じであるが、仏教では主に修験道を中心に、禊ではなく水垢離などと呼ばれ、行われることがある。」

 

とある。

 川で水垢離をしている間、船の上で脱いだ着物の番をする人がいる。

 

無季。釈教。「人」は人倫。

 

二十三句目

 

   垢離かく人の着ものの番

 配所にて干魚の加減覚えつつ   釣雪

 (配所にて干魚の加減覚えつつ垢離かく人の着ものの番)

 

 偉い人の流刑で、お付の者が干魚の作り方を覚えたり、垢離の間の着物の番をしたりする。

 頼朝、後鳥羽院、日蓮など流刑になった有名人は多いが。

 

無季。旅体。

 

二十四句目

 

   配所にて干魚の加減覚えつつ

 歌うたふたる声のほそぼそ    舟泉

 (配所にて干魚の加減覚えつつ歌うたふたる声のほそぼそ)

 

 歌で流刑と言うと、やはり後鳥羽院か。

 

無季。

 

二十五句目

 

   歌うたふたる声のほそぼそ

 むく起に物いひつけて亦睡り   野水

 (むく起に物いひつけて亦睡り歌うたふたる声のほそぼそ)

 

 歌を歌っていたら眠ってた奴が急にむくっと起きて「うるさい」と言うとまた眠る。しょうがないから小声でまた歌う。

 

無季。

 

二十六句目

 

   むく起に物いひつけて亦睡り

 門を過行茄子よびこむ      荷兮

 (むく起に物いひつけて亦睡り門を過行茄子よびこむ)

 

 門の前を茄子売りが通ったので飛び起きて、呼び止めて、茄子を買ってからまた眠る。

 

季語は「茄子」で夏。

 

二十七句目

 

   門を過行茄子よびこむ

 いりこみて足軽町の薮深し    亀洞

 (いりこみて足軽町の薮深し門を過行茄子よびこむ)

 

 足軽はウィキペディアに、

 

 「戦乱の収束により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ武家奉公人や浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うことになった。

 江戸幕府は、直属の足軽を幕府の末端行政・警備警察要員等として「徒士(かち)」や「同心」に採用した。諸藩においては、大名家直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用それに「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。そのほか、大身の武士の家来にも足軽はいた。足軽は士分と厳しく峻別され、袴や足袋を穿けないなど服装で分かるように義務付けられた。

 一代限りの身分ではあるが、実際には引退に際し子弟や縁者を後継者とすることで世襲は可能であり、また薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなった。加えて、有能な人材を民間から登用する際、一時的に足軽として藩に在籍させ、その後昇進させる等の、ステップとしての一面もあり、中世の無頼の輩は、近世では下級公務員的性格へと変化していった。」

 

とある。

 足軽町は大体城下の辺縁にあり、貧しくて庭の手入れなども行き届かず、薮になっていることが多かったのだろう。茄子は安くて人気の食材だったか。

 

無季。「足軽町」は居所。

 

二十八句目

 

   いりこみて足軽町の薮深し

 おもひ逢たりどれも高田派    釣雪

 (いりこみて足軽町の薮深しおもひ逢たりどれも高田派)

 

 真宗高田派はウィキペディアに、

 

 「真宗高田派(しんしゅうたかだは)は、三重県津市の専修寺を本山とする浄土真宗の一派。親鸞の門弟真仏、顕智が率いる下野国高田(現在の栃木県真岡市高田)の専修寺を中心とする高田門徒の流れを汲む。末寺数、約640寺。」

 

とある。また、江戸時代には、

 

 「高田派は江戸時代に入ると西の本願寺派と東の大谷派に分裂した本願寺に次いで、浄土真宗内で末寺数・門徒数が多い宗派としてその法燈を守った。親鸞の高弟である真仏以来の高田派であるため、「真宗の法灯集団」、「法脈の教団」ともいわれている。」

 

とあるように、別に少数派というのではなく、ありがちなことだったのだろう。

 信者の結束が強かったのか、足軽町はみんなそろって高田派。

 

無季。釈教。

 

二十九句目

 

   おもひ逢たりどれも高田派

 盃もわするばかりの下戸の月   昌碧

 (盃もわするばかりの下戸の月おもひ逢たりどれも高田派)

 

 高田派の人達はみんな戒律を守って酒を飲まないから、月見でも盃を忘れる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

三十句目

 

   盃もわするばかりの下戸の月

 ややはつ秋のやみあがりなる   野水

 (盃もわするばかりの下戸の月ややはつ秋のやみあがりなる)

 

 病気で酒を断っていたとする。すっかり酒のことを忘れて下戸になっている。

 

季語は「秋」で秋。

二裏

三十一句目

 

   ややはつ秋のやみあがりなる

 つばくらもおほかた帰る寮の窓  舟泉

 (つばくらもおほかた帰る寮の窓ややはつ秋のやみあがりなる)

 

 寮は古代だと役所だが、江戸時代は僧の住む所。秋になって燕も帰って行く。

 

季語は「つばくらも‥帰る」で秋。「寮」は居所。

 

三十二句目

 

   つばくらもおほかた帰る寮の窓

 水しほはゆき安房の小湊     亀洞

 (つばくらもおほかた帰る寮の窓水しほはゆき安房の小湊)

 

 「しほはゆき」はしょっぱいということ。安房小湊は外房で勝浦と鴨川の間にある。今は鴨川ホテル三日月がある。

 日蓮の生誕地で誕生寺がある。ウィキペディアに、

 

 「江戸時代の不受不施派(悲田宗)禁政のため幕命により天台宗に改宗するところだったが身延山が日蓮誕生地の由緒で貰いうけ一本山に格下げ(悲田宗張本寺の谷中感応寺、碑文谷法華寺は天台宗に改宗された。現谷中天王寺、碑文谷円融寺)。昭和21年大本山に復帰。」

 

とある。塩対応を受けていたようだ。

 不受不施派に関しては、延宝六年冬の「青葉より」の巻九句目に、

 

   やよ時鳥天帝のさた

 鶯の不受不施だにも置ぬ世に   桃青

 

の句がある。ウィキペディアの「不受不施」のところには、

 

 「寛文9年(1669年)、幕府は不受不施派に対しては寺請を禁じ、完全に禁制宗派とした。なお、一部のグループは、幕府が寺領を宗教的布施である「敬田」と言っても、実際は道徳的布施である「悲田」に過ぎず、これを受けても問題ない、と解釈して幕府と妥協した。これが「悲田派」や「恩田派」と呼ばれる「軟派」である。この「軟派」の立場に立ったのが、小湊の誕生寺などであった。」

 

とある。

 

無季。「安房の小湊」は水辺。

 

三十三句目

 

   水しほはゆき安房の小湊

 夏の日や見る間に泥の照付て   荷兮

 (夏の日や見る間に泥の照付て水しほはゆき安房の小湊)

 

 海の塩辛い水も夏の日の照り付けに乾くと、塩が採れる。

 

季語は「夏」で夏。「日」は天象。

 

三十四句目

 

   夏の日や見る間に泥の照付て

 桶のかつらを入しまひけり    昌碧

 (夏の日や見る間に泥の照付て桶のかつらを入しまひけり)

 

 「桶のかつら」はかつら桶のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鬘桶」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「かづらおけ」とも) 能楽、狂言、歌舞伎などの舞台で用いる腰掛け。高さ一尺五寸(約四五センチメートル)、直径一尺(約三〇センチメートル)の黒塗り蒔絵の丸桶で、ふたは酒杯として代用されることもある。もとは鬘を入れたものといわれる。つづみおけ。

  ※わらんべ草(1660)一「つづみおけの中に、つづみを入、則おけにこしかけし、今のかつらおけの事なり」

 

とある。

 暑さで芝居も中止ということか。

 

無季。

 

三十五句目

 

   桶のかつらを入しまひけり

 人なみに脇差さして花に行    釣雪

 (人なみに脇差さして花に行桶のかつらを入しまひけり)

 

 脇差は町人でも許されていた。長刀だと、

 

 何事ぞ花みる人の長刀      去来

 

になってしまうが、花見に行くのに脇差は普通だったのだろう。

 役者も興行が終われば、普通に脇差を差して花見をする。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   人なみに脇差さして花に行

 ついたつくりに落る精進     野水

 (人なみに脇差さして花に行ついたつくりに落る精進)

 

 「つい、田作り」で、今まで精進していて肉や魚を口にしなかったのに、花見でついつい田作りを食って精進落ちになる。

 「鰯で精進落ち」という諺があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鰯で精進落ち」の解説」に、

 

 「(鰯のような下等な魚で、せっかくの精進明けを祝うのは残念であるというところから) 耐えてきた気持の報いられないことのたとえ。また、鰯のような魚で、精進を破る意から、つまらないことで努力がむだになることのたとえ。」

 

とある。

 

季語は「たつくり」で春。釈教。