「松茸や(都)」の巻、解説

初表

 松茸や都に近き山の形リ     素牛

   雨の繩手のしるき秋風    土芳

 面白咄聞間に月暮て       猿雖

   まだいり手なき次の居風呂  芭蕉

 はこばする道具そろそろ置直し  土芳

   日のさし込にすずめ来て鳴  素牛

 

初裏

 冬はじめ熟柿をつつむすぐりわら 芭蕉

   置て廻しいせのおはらひ   猿雖

 〇ひさしさへならで古風の家作リ 素牛

   内儀出て来る酒のとれ際   土芳

 敷付けて又も痛る頭はげ     猿雖

   今宵は冷る浅茅生の番    芭蕉

 有明に唱来る音の一返し     土芳

   みするほどなきはぜ籠の内  素牛

 弓はててばらばら帰る丸の外   芭蕉

   縄を引ぱる壁の上ぬり    猿雖

 

      参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

 松茸や都に近き山の形リ     素牛

 

 素牛は惟然の別号。

 誰かに松茸を貰って芭蕉以下連衆そろって召し上がったか。その松茸の興で興行を始める。

 松茸を見ていると都の近くにある山の形を思い出しますという句で、如意ヶ嶽(大文字山)のことか。

 

季語は「松茸」で秋。「山」は山類。

 

 

   松茸や都に近き山の形リ

 雨の繩手のしるき秋風      土芳

 (松茸や都に近き山の形リ雨の繩手のしるき秋風)

 

 繩手は田畑の中の一本道で、京だと久我繩手か。都へ向かって歩いてゆく。

 元禄五年春の「両の手に」の巻二十九句目に、

 

   江湖披露の田舎六尺

 とつぷりと夜に入月の鳥羽繩手  芭蕉

 

の句がある。

 

季語は「秋風」で秋。「雨」は降物。

 

第三

 

   雨の繩手のしるき秋風

 面白咄聞間に月暮て       猿雖

 (面白咄聞間に月暮て雨の繩手のしるき秋風)

 

 「面白」は「おもしろし」と読む。

 月も暮れて雨になると繩手は真っ暗で、秋風の音が淋しい。こういう時でも何か面白い話をしていれば、あっという間に着いてしまう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

四句目

 

   面白咄聞間に月暮て

 まだいり手なき次の居風呂    芭蕉

 (面白咄聞間に月暮てまだいり手なき次の居風呂)

 

 話があまりに面白いもんだから、風呂が沸いているのに誰も入ろうとしない。昔の風呂は誰かが薪をくべ続けないと火が消えてしまい、簡単に追い焚きなんてできない。

 

無季。

 

五句目

 

   まだいり手なき次の居風呂

 はこばする道具そろそろ置直し  土芳

 (はこばする道具そろそろ置直しまだいり手なき次の居風呂)

 

 風呂に入りたくないのか、運んできた道具を時間稼ぎをするかのようにゆっくり置きなおす。

 

無季。

 

六句目

 

   はこばする道具そろそろ置直し

 日のさし込にすずめ来て鳴    素牛

 (はこばする道具そろそろ置直し日のさし込にすずめ来て鳴)

 

 朝起きて、面倒くさそうにこれから運び出す道具を整理していると、日も高くなりスズメが鳴きだす。

 

無季。「日」は天象。「すずめ」は鳥類。

初裏

七句目

 

   日のさし込にすずめ来て鳴

 冬はじめ熟柿をつつむすぐりわら 芭蕉

 (冬はじめ熟柿をつつむすぐりわら日のさし込にすずめ来て鳴)

 

 「すぐりわら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「選藁」の解説」に、

 

 「〘名〙 よくえらび整えたわら。すぐれわら。

  ※大乗院寺社雑事記‐文明一二年(1480)七月晦日「今日早旦手水屋色々送物〈略〉すくりわら三把、杉原一帖」

 

とある。

 稲刈の後の田んぼには落ちた稲を求めて雀が集まってくる。そのころ人は熟した柿をきれいな藁で包む。

 「俺たちの百姓どっとこむ」というサイトには、

 

 「大きくて重い美濃柿は吊しても自重が重くて蔕と実が離れて落下してしまいます。そこで年配のおじいちゃんおばあちゃんに智恵を拝借したところ、この地域では昔、この美濃柿を藁にお(藁を集めて重ねて保管すること)の中に入れて保存して渋を抜いていたとのことでした。また、つとといって藁に挟んでおいたとのことでした。」

 

とある。

 

季語は「冬はじめ」で冬。

 

八句目

 

   冬はじめ熟柿をつつむすぐりわら

 置て廻しいせのおはらひ     猿雖

 (冬はじめ熟柿をつつむすぐりわら置て廻しいせのおはらひ)

 

 「いせのおはらひ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「伊勢の御祓い」の解説」に、

 

 「伊勢神宮発行のお守りやお札。神札。

  ※御湯殿上日記‐明応七年(1498)四月一三日「いよとのいせの御はらゑのはこ」

 

とある。

 御祓いは箱に入れて配布される。コトバンクの「デジタル大辞泉「御祓箱」の解説」に、

 

 「1 (御祓箱)中世から近世にかけて、御師(おし)が、毎年諸国の信者に配って歩いた、伊勢神宮の厄よけの大麻を納めた小箱。はらえばこ。」

 

とある。

 

無季。神祇。

 

九句目

 

   置て廻しいせのおはらひ

 〇ひさしさへならで古風の家作リ 素牛

 (〇ひさしさへならで古風の家作リ置て廻しいせのおはらひ)

 

 最初の〇は良い句に与えられる点か。字数はあっているので、伏字ではないだろう。

 古い時代の民家は壁が多くて窓や障子の個所が少なく、藁ぶきの軒が大きく張り出しているため、庇を必要としなかったのだろう。

 前句の伊勢から古い時代の匂いで庇のない古民家を付ける。

 

無季。「家」は居所。

 

十句目

 

   ひさしさへならで古風の家作リ

 内儀出て来る酒のとれ際     土芳

 (ひさしさへならで古風の家作リ内儀出て来る酒のとれ際)

 

 古民家では昔ながらの酒造りが行われていて、そこの内儀が酒の出来たのを知らせてくれる。

 前句の「ならで」に「奈良で」の掛詞を読み取るなら、この酒は南都諸白のことになる。

 

無季。「内儀」は人倫。

 

十一句目

 

   内儀出て来る酒のとれ際

 敷付けて又も痛る頭はげ     猿雖

 (敷付けて又も痛る頭はげ内儀出て来る酒のとれ際)

 

 「敷付けて」がよくわからない。板のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「敷・鋪」の解説」に、

 

 「③ 木材を薄く平らにしたもの。板。

  ※咄本・私可多咄(1671)二「昔さる所へ、史記をかし給へといひ付てつかはしければ、物の見事なる板を大男あまたにもたせて来りけるほどに、是は何事ぞといへば、しきと仰られたるほどに、しきは板の事なれば是をかりて参りたといふた」

 

とある。敷板のことか。はげ頭を痛めるなら、下に敷く板ではなく梁か何かのように思えるが。床が高くなって頭を打つということか。

 

無季。

 

十二句目

 

   敷付けて又も痛る頭はげ

 今宵は冷る浅茅生の番      芭蕉

 (敷付けて又も痛る頭はげ今宵は冷る浅茅生の番)

 

 この場合は何か敷物を敷いて、浅茅生の上で寝転がる、ということだろう。

 

季語は「冷る」で秋。

 

十三句目

 

   今宵は冷る浅茅生の番

 有明に唱来る音の一返し     土芳

 (有明に唱来る音の一返し今宵は冷る浅茅生の番)

 

 「唱来る」はルビがないが、「しゃうくる」だろうか。「唱(しゃう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「唱」の解説」に、

 

 「しょう シャウ【唱】

  〘名〙

  ① 詩歌。歌曲。〔謝霊運‐苦寒行〕

  ② うたうこと。よみあげること。となえること。

 

とある。

 「一返(ひとかへ)し」は「一返り」のことか。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①一度。一わたり。

  出典源氏物語 竹河

  「今ひとかへり折り返しうたふを」

  [訳] 今一度折り返し歌うのを。

  ②いっそう。ひとしお。

  出典狭衣物語 四

  「今ひとかへり悲しさの数そふ心地(ここち)し給(たま)ひて」

  [訳] 今いっそう悲しさのふえる気持ちにおなりになって。」

 

とある。

 何やら謡いながら来る人がいたと思ったら、浅茅生の番人だった。

 

季語は「有明」で秋、夜分、天象。

 

十四句目

 

   有明に唱来る音の一返し

 みするほどなきはぜ籠の内    素牛

 (有明に唱来る音の一返しみするほどなきはぜ籠の内)

 

 見せるほどでもない、というのは大漁でもなければ坊主でもない微妙なところだ。前句をハゼ釣りの人とした。

 

季語は「はぜ」で秋。

 

十五句目

 

   みするほどなきはぜ籠の内

 弓はててばらばら帰る丸の外   芭蕉

 (弓はててばらばら帰る丸の外みするほどなきはぜ籠の内)

 

 矢場から帰る人を城攻めに失敗した人に見立てて、城外を意味する「丸の外」としたか。さながらたいした釣果もなく帰るハゼ釣りの人のようだ。

 矢場はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「(1)古くは弓術の練習場をさし、この意味では弓場(ゆば)、的場(まとば)ともいう。武家では長さ弓杖(きゅうじょう)33丈(約76メートル)、幅は同じく1丈(約2.3メートル)と決められ、射場には(あずち)を築き、これに的をかける。矢場は城内や屋敷内、または人家の少ない郊外に設けられた。

 (2)江戸時代には、矢場は料金をとって楊弓(ようきゅう)(遊戯用小弓)を射させた遊戯場をさす。これは江戸での呼び名で、京坂では一般に楊弓場といった。楊弓は古くから行われ、主として公家(くげ)の遊戯であったが、江戸時代に民間に広がり、日常の娯楽として流行をみた。寛政(かんせい)(1789~1801)のころには寺社の境内や盛り場に矢場が出現、矢場女(矢取女)という矢を拾う女を置いて人気をよんだ。間口(まぐち)1、2間のとっつきの畳の間(ま)から7間(けん)半(約13.5メートル)先の的を射る。的のほか品物を糸でつり下げ、景品を出したが、矢取女のほうを目当ての客が多かった。的場の裏にある小部屋が接客場所となり、矢場とは単なる表看板で、私娼(ししょう)の性格が濃厚になった。1842年(天保13)幕府はこれを禁止したが、ひそかに営業は続けられ、明治20年代まで存続した。のちに、矢場の遊戯場の面は鉄砲射的に、私娼的性格は銘酒屋に移行したものもある。」

 

とある。元禄の頃には既に広まりつつあり、しばしば俳諧のネタになっている。

 

無季。

 

十六句目

 

   弓はててばらばら帰る丸の外

 縄を引ぱる壁の上ぬり      猿雖

 (弓はててばらばら帰る丸の外縄を引ぱる壁の上ぬり)

 

 矢場のほうは儲かって、壁を塗りなおして立派になって行く。

 ここで中断されたのか、それとも懐紙が残ってないだけなのかはわからないが、とりあえずこの巻はここで終わる。

 

無季。