「梅若菜」の巻、解説

元禄四年春から夏

初表

  餞乙州東武行

 梅若菜まりこの宿のとろろ汁     芭蕉

   かさあたらしき春の曙      乙州

 雲雀なく小田に土持比なれや     珍碩

   しとぎ祝ふて下されにけり    素男

 片隅に虫齒かゝへて暮の月      乙州

   二階の客はたゝれたるあき    芭蕉

 

初裏

 放やるうづらの跡は見えもせず    素男

   稲の葉延の力なきかぜ      珍碩

 ほつしんの初にこゆる鈴鹿山     芭蕉

   内藏頭かと呼聲はたれ      乙州

 卯の刻の簔手に並ぶ小西方      珍碵

   すみきる松のしづかなりけり   素男

 萩の札すゝきの札によみなして    乙州

   雀かたよる百舌鳥の一聲     智月

 懐に手をあたゝむる秋の月      凡兆

   汐さだまらぬ外の海づら     乙州

 鑓の柄に立すがりたる花のくれ    去来

   灰まきちらすからしなの跡    凡兆

 

 

ニ表

 春の日に仕舞てかへる経机      正秀

   店屋物くふ供の手がはり     去来

 汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸     半残

   わかれせはしき鶏の下      土芳

 大胆におもひくづれぬ恋をして    半残

   身はぬれ紙の取所なき      土芳

 小刀の蛤刃なる細工ばこ       半残

   棚に火ともす大年の夜      園風

 こゝもとはおもふ便も須广の浦    猿雖

   むね打合せ着たるかたぎぬ    半残

 此夏もかなめをくゝる破扇      園風

   醤油ねさせてしばし月見る    猿雖

 

二裏

 咳聲の隣はちかき縁づたひ      土芳

   添へばそふほどこくめんな顔   園風

 形なき繪を習ひたる會津盆      嵐蘭

   うす雪かゝる竹の割下駄     史邦

 花に又ことしのつれも定らず     野水

   雛の袂を染るはるかぜ      羽紅

     参考;『芭蕉連句古注集 猿蓑編』雲英末雄編、1987、汲古書院

初表

発句

   餞乙州東武行

 梅若菜まりこの宿のとろろ汁   芭蕉

 

 今栄蔵の『芭蕉年譜大成』(1994、角川文庫)によると、この句は元禄四年(一六九一)一月上旬大津で、乙州(おとくに)が江戸へ行くのでそのはなむけに珍碩、素男、智月、凡兆、去来、正秀らが集って行われた興行の発句だった。

 この時の興行は二十句で終わり、芭蕉がこの巻を伊賀に持ち帰り半残、土芳、園風、猿雖で二十一句目から三十二句目まで継がせ、暮春に芭蕉が上京したときに嵐蘭、史邦、野水、羽紅に残り四句を継がせて満尾させたという。かなり変則的な形で成立している。

 元禄二年(一六八九)の秋に『奥の細道』の旅を終えた芭蕉は、伊賀へと向かう途中にあの、

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

 

の句を詠むことになるが、そのあと芭蕉は奈良、京都、大津を転々とする。そして元禄二年の十二月に乙州の姉である智月尼と出会う。芭蕉より十一歳年上の智月尼に、その後元禄四年暮春の江戸下向まで様々な形で世話になることになる。

 乙州は智月の弟だが、智月の死別した夫の家督を継がせるために養子にしたことで、弟でありながら息子でもある複雑な関係になった。

 その乙州の一足早い江戸下向の餞別に詠んだ句が「梅若菜」の句だった。

 句の意味は、これから江戸までの旅の間に至る所で梅を見るだろうし、芽生えたばかりの若菜も見ることだろう、そして宿では新鮮な若菜を食べることだろうし、そうそう丸子宿のとろろ汁も美味い頃だ、と江戸への旅路を羨んでみせて、乙州を喜ばそうというものだ。

 梅は古来多くの和歌に詠まれたもので、若菜も『百人一首』でも有名な『古今集』の、

 

 君がため春の野に出でて若菜摘む

    我が衣手に雪は降りつつ 

               光孝天皇

 

の歌が思い起こされ、どちらも雅語だ。ただ、「若菜」が食べ物でもあるところから「まりこの宿のとろろ汁」を連想し、こちらの方は古典の風雅ではなく今の流行のもので、俳諧らしく落ちをつけている。

 この不易と流行との微妙なミスマッチ感は、当時だと笑いどころだったのだろう。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「賦体にして道すがら梅もあり、若菜もあり、まりこの宿にはとろろ汁の名物あり、とたはぶれし句なり。」とある。『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「梅若菜のごとき景物は、勿論とろろ汁のごときも捨めやと、風雅の一棟也。」とある。「まりこのとろろ汁」が落ちだという認識が伺われる。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前途の春色を思ひうらやめる意ならん。懸合の華実は更に、句作の鍛錬をみるべし。但むかしは挨拶体なども、幽玄をもてもととなせれば、雅にして心高し。」とある。

 

季題は「梅」「若菜」でともに春。植物。「梅」は木類。「若菜」は草類。「とろろ汁」は秋の季語だが春にも食べるので問題はない。景物を三つ並べるような句の作りは、

 

 目には青葉山ほととぎす初鰹  素堂

 

の句に似ている。

 

   梅若菜まりこの宿のとろろ汁

 かさあたらしき春の曙      乙州

 (梅若菜まりこの宿のとろろ汁かさあたらしき春の曙)

 

 江戸へと旅立つにあたって旅に不可欠な笠を新調し、真新しい笠でこの春の曙に旅立って行きますと、芭蕉の餞別に対しての「行ってきます」の挨拶となる。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「打添ニテ前句ノ意味ニ構ズ、翁ノ餞別ヲ謝スル心ニテ、唯イサギヨク門出仕ルト言心ニテ心ヨキ句トナシタリ。」とある。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「梅に曙、宿に笠。」とこの句が物付けでそれも二重に物付けをする「四手付(よつでづ)け」の句であることを指摘している。

 

季題は「春」で春。「笠」は衣装。

 

第三

   かさあたらしき春の曙

 雲雀なく小田に土持比(つちもつころ)なれや 珍碩(ちんせき)

 (雲雀なく小田に土持比なれやかさあたらしき春の曙)

 

 珍碩(ちんせき)は近江膳所の人。後に洒堂と改名する。旧談林系の強固な大阪に行き蕉門を広めようとするものの、元から大阪に住んでいた之道(後の諷竹)との間に軋轢が生じてしまい、芭蕉の最後の旅ではこの二人を仲裁すべく大阪に行くも不調で、そのまま芭蕉は大阪で客死する。

 笠は旅人だけのものではなく、お百姓さんも農作業の時は笠を被る。冬の間の暇な時に新しい笠をこしらえたのだろう。新しい笠で気分も新たに、土を入れて田んぼの土も新しくし、田植えに備える。曙の空にはひばりも囀る。

 『はせを翁七部捜』(吏登口述・蓼太編、宝暦十一年序)には「葉五問 ひばり啼小田に土持比なれや、此第三比ならんの心歟。答、左にあらず。何比ならんといふ事をいぢわるう比なれやと、なすべきや。やはり比なれやなり。」とある。

 第三の末尾は「て」か「らん」で止めることが多い。これは規則ではなく単なる習慣で、必ずしも従う必要はない。第三あたりは句が滞ることを嫌い、早くささっと付けられるように、ある程度のパターンを決めておく方がいいというだけのことだ。

 だがここでは「や」で止めている。これは本来なら「土持つ頃ならん」とすべき所で、そのため『はせを翁七部捜』は問答形式で、これは「土持つ頃ならん」と同じに考えて良いのか?と問い、「さにあらず」と答える。「土持つ頃ならん」で良いなら、わざわざ意地悪く「頃なれや」と言い換える必要はない、というわけだ。だが「頃なれや」でなくてはいけない理由は記されていない。

 「らん」は疑問と反語の両方の意味があり、これを利用して前句との関係では疑問の意味だった「らん」を、次の句で反語に取り成せば、容易に大きな展開が出来る。「頃なるや」ならやはり疑問と反語の両方の意味があるから「頃ならん」とほぼ同じ働きになる。しかし「頃なれや」というふうに已然形に「や」が付いた場合は間投詞で詠嘆の意味に近くなる。

 

 春なれや名もなき山の朝霞   芭蕉

 

と同じ用法になる。意味としては「春が来たなあ!名もなき山も霞んでいる」という感じになる。これが、

 

 春なるや名もなき山の朝霞

 

だと、「名もなき山の朝霞に春なるや」の倒置となり、「春が来たのかなあ?」というニュアンスになる。

 そのためこの珍碩の句も、笠を新しくして小田に土を入れる季節になったなあ、という意味になる。「なったかなあ」という弱い言い方ではない。

 

季題は「雲雀」で春。鳥類。

 

四句目

   雲雀なく小田に土持比なれや

 しとぎ祝ふて下されにけり     素男

 (雲雀なく小田に土持比なれやしとぎ祝ふて下されにけり)

 

 しとぎは古代より神に捧げる餅とされ、本来は水に浸してふやかした生米を搗いて砕いて水で固めたもので、後に米粉を水で固めて団子状にし、豆や雑穀などを混ぜたものも作られるようになった。

 お祝い事などの時に一度神様にお供えして、後で神前から下げてみんなで食べた。この句ははっきり言ってそのまんまだ。古註もほとんどは「しとぎ」の説明に終始している。まあ、春だから色々祝い事はあるだろうし、その時にしとぎが配られることもある。四句目だから軽い遣り句と見ていい。

 

無季。

 

五句目

   しとぎ祝ふて下されにけり

 片隅に虫齒かかへて暮の月   乙州

 (片隅に虫齒かかへて暮の月しとぎ祝ふて下されにけり)

 

 正月の鏡餅は元は歯固めの儀式だったという。神の供えた後の鏡餅を鏡開きの時に食うのは、歯を丈夫にすることで長寿を祈る儀式だった。それを面影にすると、この句はまた別の味わいがある。

 しとぎは柔らかいから歯固めにはならないが、それすら虫歯が痛くて噛めないとなると、なんとも情けない。周りはお祝いで盛り上がっているのに、一人片隅で歯の痛みに堪えながら夕暮れの月を見る。

 ここは月の定座だが、お祝いに素直に月の美しさをつけても当たり前すぎるので、せっかくのお祝いに月が出ているのに、とちょっとひねってみたのだろう。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「祝ふてといへる其便を咎めて、歯などいためたる人の黄昏にうづくまり居る体。」とある。

 

季題は「暮の月」で秋。夜分、天象。

 

六句目

 

   片隅に虫齒かかへて暮の月

 二階の客はたたれたるあき    芭蕉

 (片隅に虫齒かかへて暮の月二階の客はたたれたるあき)

 

 虫歯の痛みを抱えて一人たそがれているのに加えて、二階にいたはるばる遠方より来たお客さんまで帰ってしまうとますますたそがれてしまう。「たそがれる」という言い回しはごく最近のものだが、何かそれがぴったり来る。「たそがれる」という言葉は当時はなかったにせよそういう雰囲気で付けている、響き付けの一種といえよう。

 虫歯と客の関係が特に指定されていないから、そこにはいろいろ想像が入り込む余地があり、古註は意見が割れている。

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)は「客戻れば、片隅へ入て虫歯やしなふと付たり。」とある。お客さんと楽しく談笑している時は忘れていた虫歯の痛みが、お客さんが帰ってしまうと思い出したように痛み出すという意味だろうか。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「前句の姿のみすぼらしげに、くよくよものを思へるふぜいあれば、内証づとめする舟問屋の女などみゆ。」とする。

 『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「立かはり入かはり客のおほき宿に、昼より客の事にうちかかりていそがしさに、持病の虫歯をいたみて片隅にかがみゐたるに、いつの間にかは二階の客は皆たちて跡しめやかなりとの句也。」とある。

 『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)には「二階の客はもとより旅の人なれば、やがて別るる事ははじめより合点の事なれども、別れのかなしさ、去れとて人にかたるべきたよりもなく、むし歯といつはりかなしみたるなり。」とある。

 まあ、この辺は自由に想像してねという所か。

 

季題は「秋」で秋。「二階」は居所。「客」は人倫。

初裏

七句目

   二階の客はたたれたるあき

 放やるうづらの跡は見えもせず   素男

 (放やるうづらの跡は見えもせず二階の客はたたれたるあき)

 

 これはおそらく『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)に「速に座を立たるをうづら立といふ」とあるように、二階の客を鶉に例えたものだろう。「うづらだち」という言葉は古語辞典にも載っている。急に帰る無作法をいう。こういう比喩の句だと、次の句は本当に鶉を放った情景として展開できる。

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)に「客の逗留中など飼置たるを放ちやる也。一句放生会なり。」とある。確かに話としては通じるが、果たしてそのようなことは当時よくあることだったのかどうかが問題だ。多くの人が共感するような「もっとも、しかり」、今でいえば「あるある」と言えるようなことだったのなら、この解釈で良いのだろう。

 

季題は「鶉」で秋。鳥類。前句の「秋」もいわゆる「放り込み」で必然性のない季題だったように、ここの「鶉」も比喩ではあるが式目の都合上秋ということでいいのだと思う。

 

八句目

   放やるうづらの跡は見えもせず

 稲の葉延(はのび)の力なきかぜ  珍碩

 (放やるうづらの跡は見えもせず稲の葉延の力なきかぜ)

 

 飛び去っていった鶉の跡に残っているのは、ただ稲の伸びた葉に力なく風が吹いているだけ。

 ここはお約束どおり、前句の鶉を実景として展開する。「力なきかぜ」は「秋風」が輪廻になるので、こういう言い回しになったのだろう。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)に「鶉飛行て見えず。其跡には、田面の稲葉のびの風にそよぎ侍るのみとなむ。」とあり、これで十分だろう。

 

季題は「稲」で秋。植物、草類。

 

九句目

   稲の葉延の力なきかぜ

 ほつしんの初(はじめ)にこゆる鈴鹿山 芭蕉

 (ほつしんの初にこゆる鈴鹿山稲の葉延の力なきかぜ)

 

 これは西行法師の面影。「力なき風」に無常の思いを読み取り、発心を付けている。

 

 鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて

    いかになりゆくわが身なるらむ

               西行法師

 

の歌は良く知られている。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「うしろがみにひかるる風情、力なきの語に出づ。刈萱西行などいふ面影ともみるべし。」とある。刈萱上人も妻子を捨てて出家するが、行き先は高野山だから鈴鹿山は越えていない。

 

無季。「発心」は釈教。打越の「放やるうづら」を放生会のこととすると輪廻になる。放生会とは無関係と見た方がいい。「鈴鹿山」は山類。名所。

 

十句目

   ほつしんの初にこゆる鈴鹿山

 内藏頭(くらのかみ)かと呼聲はたれ  乙州

 (ほつしんの初にこゆる鈴鹿山内藏頭かと呼聲はたれ)

 

 せっかく浮世を振り捨てたというのに、いきなり後ろから「内藏頭殿ではないか、またどうなされたのだ。」なんて俗世にいたときの名前で呼ばれてしまう。ありそうなことだ。「別人だ、人違いであろう」などと言っても「内藏頭殿であろう、間違いない」なんて言われたりして。

 内藏頭で出家した人というのを史書で捜せば誰かしら出てくるかもしれないが、別に特定の誰かの故事を本説にしたわけではない。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「懇友などの追来るならん。ふり向たる姿、眼下にあるがごとし。但京家の人とも見て此名を出せるや。」とある。

 

無季。「内藏頭」「誰」は人倫。

 

十一句目

   内藏頭かと呼聲はたれ

 卯の刻の箕手(みのて)に並ぶ小西方  珍碵

 (卯の刻の簔手に並ぶ小西方内藏頭かと呼聲はたれ)

 

 小西方は関が原の戦いで西軍(豊臣方)に付いた小西行長のことと思われる。実際には西軍は敵に対して左右に長く広げた鶴翼の陣を敷いたと言われている。箕手も二十七宿の一つ箕宿の星の形による陣形で、左右に長く広げて敵を取り囲むような陣形を言う。

 卯の刻は夜明けの時刻で、関が原の戦いは夜明けとともに始まったとされている。

 内藏頭は元は官職の名だったが、内蔵助などと同様、後に普通に人名として使われるようになった。『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)には小西行長の家臣に小堀内藏頭がいたというが、グーグルで検索したけどこの名前は見つからなかった。特定の誰かを指すのではなく、ただありそうな名前というだけのことだろう。

 

無季。ちなみに関が原の戦いは旧暦九月十五日で秋。

 

十二句目

   卯の刻の簔手に並ぶ小西方

 すみきる松のしづかなりけり  素男

 (卯の刻の簔手に並ぶ小西方すみきる松のしづかなりけり)

 

 これは遣り句と見ていいだろう。合戦の場面に朝の景色を付けている。強いて言えば、合戦で多くの人が命を散らせてゆくのに対し、松の木は長年にわたって静かにそれを見守っているという対比が読み取れる。

 

無季。「松」は植物、木類。「稲」から三句隔てている。

 

十三句目

   すみきる松のしづかなりけり

 萩の札すすきの札によみなして    乙州

 (萩の札すすきの札によみなしてすみきる松のしづかなりけり)

 

 これは『撰集抄』巻六第八の「信濃佐野渡禅僧入滅之事」の本説による付け。本説なので元ネタを知らないと何のことだかよくわからない。元ネタを知らなくても大体わかるようなら「面影」になる。

 ここではわからないので、その元ネタの文章を引用しておこう。

 

 「永暦の末八月の比(注:一一六一年八月か)、信濃の国さののわたりを過ぎ侍しに、花ことにおもしろく、蟲の音声々鳴わたりて、ゆきすぎがたく侍りて、野辺に徘徊し侍るに、玉鉾の行かふ道のほかに、すこし草かたぶくばかりに見ゆる道あり。いかなる道にかあらんとゆかしく覚えて、たづねいたりて見侍るに、すすき、かるかや、をみなへしを手折て、庵むすびてゐたる僧あり。齢四十あまり五十にもや成ぬらんと見えたり。前にけしかる硯筆ばかりぞ侍りける。まことに貴げなる人に侍り。庵の内を見入侍れば、手折て庵につくれる草々に、紙にて札をつけたり。

 すすきのやどりには、

 

 すすきしげる秋の野風のいかならん

    夜なく蟲の声のさむけき

 

 かるかやのしとみには、

 

 山陰の暮ぬと思へばかるかやの

    下置く露もまたき色かな

 

 ふぢばかまのふすまには、

 

 露のぬきあだにおるてふ藤ばかま

    秋風またで誰にかさまし

 

 荻の葉のもとには、

 

 夕さればまがきの荻に吹風の

    目にみぬ秋をしる涙かな

 

 をみなへしの咲けるには、

 

 をみなへし植しまがきの秋の色は

    猶しろたへの露ぞ変らぬ

 

 はぎ咲けるには、

 

 萩が花うつろふ庭の秋風に

    下葉もまたで露は散りつつ

 

と札をつけて、座禅し給へり。」

(『撰集抄』西尾光一校注、一九七〇、岩波文庫、p.183~185)

 

 まあ、文字通りの「草庵」といえよう。

 この西のほうの山に六十余りの老僧がいるのを見つけ、行ってみると眠るように息絶えていて、木の枝にやはり札がつけられていた。そこには、

 

 むらさきの雲まつ身にしあらざれば

    澄める月をばいつまでもみる

 

という歌が記されていた。

 前句の「すみきる松のしづかなりけり」から、この歌を連想したのだろう。何の木かは本文には書いてないが歌の「雲まつ身」が「松」との掛詞になっているとも読み取れる。先ほどの歌もこの老僧の書いたものと思われる。

 松の木の下で成仏した老僧のことを思い、

 

 萩の札すすきの札によみなして

    すみきる松のしづかなりけり

 

と二句一章に詠んだとみて間違いない。

 『去来文』(也足亭岸芷編、寛政三年序)に「是、撰集抄の故事をとり申候。」とあり、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)他多数の古註がこの『撰集抄』「信濃佐野渡禅僧入滅之事」を引用している。

 

季題は「萩」「すすき」で秋。植物、草類。

 

十四句目

   萩の札すすきの札によみなして

 雀かたよる百舌鳥(もず)の一聲   智月

 (萩の札すすきの札によみなして雀かたよる百舌鳥の一聲)

 

 ここで乙州の姉にして義母でもある智月尼が登場する。

 さて、本説の後の逃げ句は難しい。どうしても展開が重くなりがちな所から、後の蕉門の「軽み」の俳諧では好まれなくなっていったのだろう。

 ここでは「札」のことは単なるたまたまあった景色の一部とみなし、単なる萩や薄の原っぱとしてつけたのだろう。そうでもしないとなかなか難しい。

 『標註七部集稿本』(夏目成美著、文化十三年以前成立)に「夫木鈔 後京極 すそのには今こそすらし小鷹狩山のしげみに雀かたよる」とあり、この本歌で付けたものと思われる。鷹が来るので雀が怯えて茂みに偏るという本歌を少し変えて、百舌鳥の一声に変えている。「鷹の一声」だと本歌のまんまで、単なるパクリだが、少し変えることでオマージュになる。これは本歌を取る時の鉄則。

 勿論ここでは秋の句を三句続けなくてはならない事情があり、「鷹」は冬なので付けられない。百舌鳥は秋になる。

 この歌は藤原良経の家集『秋篠月清集』にもある。藤原良経は九条良経とも呼ばれ、小倉百人一首では後京極摂政前太政大臣と記されている。

 

季題は「百舌鳥」で秋。鳥類。「雀」も鳥類。

 

十五句目

   雀かたよる百舌鳥の一聲

 懐に手をあたたむる秋の月      凡兆

 (懐に手をあたたむる秋の月雀かたよる百舌鳥の一聲)

 

 ここで去来とともに猿蓑を編纂した凡兆が登場する。このあとには去来も登場するので、智月とともに後から遅れて到着したか。

 句の方はあり場のイメージか。中世連歌のかつて有名だった句に、

 

   罪もむくいもさもあらばあれ

 月残る狩場の雪の朝ぼらけ     救済(きゅうせい)

 

というのがある。秋なので雪ではないし、勿論そのまんまというのは駄目なので「懐に手をあたたむる」という誰もがするようなしぐさで朝の寒さを表現している。今ならポケットに手を入れて、というところか。

 思えば芭蕉の「ほつしんの初」の句以来、古典に傾いた重い付け合いの句が続いた。そろそろ単純なあるあるネタで軽い展開に戻そうというところか。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「雀を襲ふる百舌のあはただしさを見る。ふところ手は朝月也。」とある。

 

季題は「秋の月」で秋。夜分、天象。

 

十六句目

   懐に手をあたたむる秋の月

 汐さだまらぬ外の海づら     乙州

 (懐に手をあたたむる秋の月汐さだまらぬ外の海づら)

 

 懐で手を温める人を漁師か何かと見たか。位付けと言っていいだろう。次が花の定座ということもあってか、ただ場所だけを示す。「外の海」は内海に対しての言葉で、太平洋、日本海、東シナ海などを指すとみていいのか。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「海士や船人の天気を窺ふ様子ともみゆ」とある。

 『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)には「愚考、筑前玄界灘迄を内海と云、又瀬戸内といふ。是より九州地へかけて外海といふといへる説もあり。猶尋ぬべし。内海の汐の満干定りありと和漢三才図会に見ゆ。外海は汐の沙汰なし。」とある。

 

無季。「汐」「海づら」は水辺。

 

十七句目

   汐さだまらぬ外の海づら

 鑓の柄に立すがりたる花のくれ    去来

 (鑓の柄に立すがりたる花のくれ汐さだまらぬ外の海づら)

 

 さてもう一人の猿蓑の編者、去来の登場。そしていきなり花を持たされる。凡兆が月で去来が花と、これは芭蕉の粋な計らいと見ていいだろう。

 これは秀吉の時代に朝鮮行きを命じられた武将の姿だろうか。なかなか汐が定まらず海を渡れないまま、今日も駄目かといかにも疲れたように鑓の柄で体を支えて佇んでいる。戦意が盛り上がらず、今日も長閑に桜の花に日は暮れてゆく。武将の苛立ちと平和が一番という庶民感覚とのギャップを感じさせる。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)はこの句を「いせをはりの海づらを打詠たる鑓もち也。」と鑓持ちの句としている。「鑓持ち」は大名行列などで、槍をかざして盛り上げる役で、

 

 鑓持のなほ振たつるしぐれ哉     正秀

 

の句は『猿蓑』の見どころの一つとなっている。この正秀もこのあと登場する。ただ、伊勢尾張だと七里の渡しで外海とはいえない。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「渡海を思ふ勇士のもやうなど見るべきか。」とあり、この方が良いと思う。

 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)は「前の海辺を軍場と見て勇士の風情を付たり。魏の曹操梁を横たへ詩を賦などの俤なり。」とするが、深読みのしすぎだろう。曹操は中国人が驚くほど今の日本では人気だが、江戸時代からそうだったのか。日本では元禄二年に『通俗三国志』が出版されているが、去来がその影響を受けたかどうかはわからない。

 

季題は「花」で春。植物、木類。「萩の札」から三句隔てている。

 

十八句目

   鑓の柄に立すがりたる花のくれ

 灰まきちらすからしなの跡    凡兆

 (鑓の柄に立すがりたる花のくれ灰まきちらすからしなの跡)

 

 これは、『和漢朗詠集』にある菅原文時の漢詩、

 

 桃李不言春幾暮 煙霞無跡昔誰栖

 桃李もの言わず春いくばくか暮れぬる

 煙霞跡無し昔誰ぞ栖

 

の心か。鑓の柄に立ちすがるのは老いた武将で、「煙霞跡無し」を俳諧らしく芥子菜の菜の花の跡形もなく刈られて、土を作るための灰が撒かれている情景にする。こういう換骨奪胎は凡兆の得意とするところだろう。

 この詩句は平家物語の少将都帰の場面でも引用されている。謡曲「泰山府君」には、「煙霞跡を埋むでは花の暮を惜み。」とある。

 古註はいろいろ意見が割れていて、これといった有力な説はない。

 

季題は「からし菜」で春。植物、草類。

二表

十九句目

   灰まきちらすからしなの跡

 春の日に仕舞てかへる経机      正秀

 (春の日に仕舞てかへる経机灰まきちらすからしなの跡)

 

 正秀も近江国膳所の人で、十七句目のところで触れた「鑓持のなほ振たつるしぐれ哉」の句で知られている。

 芭蕉の元禄四年五月二十三日付の正秀宛書簡に「しぐれの鑓持句驚入、此集之かざりとよろこび申候。御手柄とかく申難候。」とあるところから、この句は元禄三年冬の句で、この「梅若菜」の興行のときは芭蕉はまだ知らなかったと思われる。当時の撰集向けの発句は時間をかけて推敲してから発表することも多かったので、まだ完成してなかったのかもしれない。

 「経机」はお経を読んだり、写経をしたりする際の主にお坊さんが使うもので、畑から飛んでくる灰に悩まされ、遂に断念して帰ることにしたのだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「灰をいとふの意にして体用の変あり。」とある。

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「爰に起情して、千部などの法会勤て寺に帰る僧の永き日に倦たる模様迄、一句のうへに見せて、前の畑際を通る人の見出し也。僧とはいはずして経机と作りて聞せる所手づま也。」とある。打越の「鑓の柄に立すがりたる」も武人といわずして武人を表す。この辺が「匂い」となる。

 

季題は「春の日」で春。「経机」は釈教。

 

二十句目

   春の日に仕舞てかへる経机

 店屋物(てんやもの)くふ供の手がはり 去来

 (春の日に仕舞てかへる経机店屋物くふ供の手がはり)

 

 「てんやもの」という言葉は最近聞かれなくなったが、ちょっと前までは出前を取ったりする時に「てんやものですまそう」なんて言ったりした。本来は出前やデリバリーやケータリングのことだけでなく、宿屋や飲食店で食べるものも含め、店の食事を「てんやもの」と言った。

 この句は経机をしまって帰る人を偉い坊さんにお仕えする小坊主のこととし、交替で非番になったのをいいことにお寺の精進料理ではなく、店で好きなものを食っている様を付けた。まあ、修行は大事だけど息抜きも欲しいというのは修行僧の本音だろう。今なら通学路で買い食いをする中高生のようなものか。

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「買喰する体也。」とある。

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「前の僧を院家と見て、供多く連たるさまの付也。」とある。

 

無季。「供」は人倫。

 

二十一句目

   店屋物くふ供の手がはり

 汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸     半残

 (汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸店屋物くふ供の手がはり)

 

 ここから先が伊賀での興行となる。何でこんな変則的な一巻になったのかはよくわからないが、『奥の細道』の山中温泉で病気で先に伊勢に向かう曾良への餞別の興行となった「馬かりて」の巻でも、曾良の参加は初の懐紙のみで、二の懐紙は芭蕉と北枝との両吟になっている。そこから考えると、ここでも乙州が明日の朝早く旅立つため、初の懐紙だけで早めに終わりにしたのだろう。

 蕉門の俳諧は貞門談林の俳諧に比べ、技法が高度になった分速度が遅くなったのではないかと思う。百韻が少なくなり歌仙が主流になったのもその辺の事情があったのだろう。また、出勝ちに比べて三吟四吟などの順番の決まった形式の方が速度が落ちるのではないかと思う。一人で次の句を考えるより、大勢で考えた方が早くなるし、またスピードを競うようにもなる。

 中世の連歌は千句興行などを行い、かなり速い速度で句が付けられていったと思われる。また近世の談林俳諧でも、井原西鶴の大矢数独吟興行は、ほとんど今のラップのように早口で切れ目なく句を詠んでいったのではないかと思われる。それに比べると蕉門の俳諧は熟考の俳諧で、量より質を重視したものと思われる。

 半残は伊賀上野の人で伊賀藤堂家の家臣。芭蕉の元禄四年五月十日付けの半残宛書簡には、「いがの手柄大分に御座候。ご発句、花うつぼ・木兎など、人々驚入申候。」と、

 

 鼠共春の夜あれそ花靫     半残

 みみづくは眠る処をさされけり 同

 

の句を高く評価している。

 さて二十一句目だが、前句の「手がはり」という言葉には体裁・形式などが普通と異なっているという意味もある。そこから店屋物を食う共のちょっと変わった体裁、と取り成して、汗ぬぐう布の端っこに紺の糸で印があると付ける。他の人、いわゆる傍輩の持ち物と区別するためだと思われる。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「店屋物くひに来りし供のもの、昼のあつさに汗ぬぐふ也。その手拭にしるしの付て有也。」とある。

 

季題は「汗ぬぐひ」で夏。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏之部に「汗巾(あせぬぐひ) 長さ一二尺の布の両端を縫ひ、これを用ふ。」とある。

 

二十二句目

   汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸

 わかれせはしき鶏の下      土芳

 (汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸わかれせはしき鶏の下)

 

 伊賀で次に登場するのが芭蕉の俳論をまとめた『三冊子』を書き残すことになる土芳さん。恋に転じる。

 鶏の声で急いで帰ってゆくというと王朝時代の通い婚の恋かと思わせて、前句に付くと「汗ぬぐい」という卑近なものがあったりして、これはいわゆる夜這いの句と見ていいだろう。

 鶏の声に驚いて退散する男。ただ残していった汗ぬぐいには紺の意図のしるしがあって誰が来たかばれてしまう。

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「賤の女などの恋と付たり。」とあり、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「忘れ物と見て、せはしきとは作れり。余情自知すべし。」とある。

 

無季。「わかれ」は恋。「鶏」は鳥類。

 

二十三句目

   わかれせはしき鶏の下

 大胆におもひくづれぬ恋をして    半残

 (大胆におもひくづれぬ恋をしてわかれせはしき鶏の下)

 

 鶏の声での別れから『伊勢物語』の陸奥の国の女の面影に転じる。

 陸奥の国をさまよい歩く都から来た男に恋心を持つ女がいて、最初は恋に死ぬくらいなら蚕になるという歌を送る。それを哀れに思って男はそこに「いきて寝にけり」となるのだが、夜更けに帰ろうとするとその女は、

 

 夜も明けばきつにはめなでくたかけの

    まだきに鳴きてせなをやりつる

 

と詠む。

 「きつにはめなで」は古い時代には「狐に食めなで」つまり「狐に食はさずに」というふうに解釈されていた。今で言う「恨みはらさでおくべきか」のような言い回しで、「夜が明けたなら狐に食わさでおくべきか」といったところか。

 江戸後期になって平田篤胤は「きつ」を水槽のことだとし「水槽に嵌めなで」と解釈したが、芭蕉の時代にはその解釈はない。

 「くだかけ」は「朽た家鶏」。「この糞ニワトリめ」といった感じか。

 現代語訳すれば、

 

 夜があけたら狐に食わすぞ糞ニワトリ

    まだなのに鳴いて彼氏帰らせ

 

といったところか。

 さすがの業平さんも、田舎の女の真っ直ぐな情熱には辟易するという話だ。芭蕉の時代の言葉だと「大胆におもひくづれぬ」ということなる。

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には「伊勢物語の俤にして、二句一意の付也。」とある。

 

無季。「恋」は恋。

 

二十四句目

   大胆におもひくづれぬ恋をして

 身はぬれ紙の取所なき      土芳

 (大胆におもひくづれぬ恋をして身はぬれ紙の取所なき)

 

 前句の心をものに例えた付け。一句に恋の言葉がないため恋を離れ別のテーマに転換しやすくなる。

 濡れて張り付いた紙ははがそうにもはがせない。そんな恋をしてしまった、と。

 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)には「比論付と言也。ものにたとへる也。」とある。

 

無季。「身」は人倫。

 

 

二十五句目

   身はぬれ紙の取所なき

 小刀の蛤刃なる細工ばこ       半残

 (小刀の蛤刃なる細工ばこ身はぬれ紙の取所なき)

 

 蛤刃(はまぐりば)というのは、刀などの断面が通常は直線的なのに対し丸くふくらみを持たせたもので、刃先の角度が鈍くなる分切れ味は落ちるが、強度が増すのと切ったものが刀身に張り付きにくくなる利点がある。硬いものを叩き切るときなどに良い。今日ではコンベックスグラインドとも言い、サバイバルナイフなどに多いという。

 武骨な蛤刃の小刀は細かい細工には向いてないから、これは職人ではなく素人が細工箱に似合わない小刀をしまっているということで、これじゃ濡れて張り付いた紙をはがすことも出来ない、とう意味なのだろう。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)の「取所もなき物ぐさきおとこの細工ばこならん。」というのが一番当たってるのではないかと思う。刃物の知識もなしに適当に道具箱につめているといったところだろう。

 『標註七部集稿本』(夏目成美著、文化十三年以前成立)に「職人尽哥合第三、硎、いつまでかはまぐりばなる小刀のあふべき事のかなはざるらん。」とあるが、いろいろ検索してみているけど、今の所はどの職人歌合せなのか不明。いくつかの古註はこの歌を引用しているが、本歌かどうかはよくわからない。

 

無季。

 

二十六句目

   小刀の蛤刃なる細工ばこ

 棚に火ともす大年の夜      園風

 (小刀の蛤刃なる細工ばこ棚に火ともす大年の夜)

 

 園風も伊賀藤堂藩士。

 今の神棚の元となる伊勢のお札を祭る大神宮棚が普及したのは江戸時代中期で、それ以前の神棚は基本的に仮設のものだった。大晦日に歳神様を祭る棚も、お盆の精霊棚のようなものだったのだろう。

 蝋燭が量産され、庶民でも手軽に買えるようになったのも、おそらく江戸中期からだろう。それ以前は行灯のように油を燃やすか、松脂などを利用したのだろう。小刀はそのとき、薪にする松や竹などを燃えやすいように小さく切るのに用いられたのかもしれない。

 古註は「古」といっても江戸時代中期以降なので、その辺の前提の違いが理解できずに、貧しい家の小さな神棚を想像し、切れない小刀でせわしく神棚をこさえている情景としている。

 

季題は「大年」で冬。盆が釈教でないのなら、正月の歳神様を祭るのも神祇とはいえないだろう。

 

二十七句目

   棚に火ともす大年の夜

 ここもとはおもふ便も須磨の浦    猿雖

 (ここもとはおもふ便も須磨の浦棚に火ともす大年の夜)

 

 猿雖は伊賀上野の商人で元禄二年に出家したという。

 「ここもと」は「此処許」でこのあたりのこと。「須磨」は「済まぬ」と掛詞になるが、これは和歌ではよくあること。いとしい人から便りは来てもここ須磨の裏ではすっきりしない。そうこうしているうちに棚に火をともす大晦日となる。『源氏物語』「須磨」の巻の良清の朝臣の心情を本説にしたものであろう。棚は住吉の神を祭ったものか。猿雖は貞享の頃からの門人のせいか、付け方が古い。

 ただ、『源氏物語』の本説は同じ『猿蓑』の「市中は」の巻にも、

 

   魚の骨しはぶる迄の老を見て

 待人入し小御門の鎰(かぎ)    去来

 

の句があり、前句の老人を『源氏物語』「末摘花」の巻に登場する門の鍵の番人の老人と取り成しての、本説付けになっている。一巻に一句くらいはあってもいいし、芭蕉も嫌ってなかった。

 単に流人の心情を詠んだとも取れるから「面影」と言えなくもないが、それにしても王朝時代の話で元禄の風情ではない。

 

無季。「おもふ便」は恋。二十三句目の「恋」から三句隔てている。

 

二十八句目

   ここもとはおもふ便も須磨の浦

 むね打合せ着たるかたぎぬ    半残

 (ここもとはおもふ便も須磨の浦むね打合せ着たるかたぎぬ)

 

 肩衣(かたぎぬ)は袖のない肩から背中を覆う衣装で、戦国時代の武士は織田信長の肖像画のように、胸よりも下のところで合わせてきていたが、江戸時代の武士が礼服として着る肩衣は袴の所まで合わせないで着る。胸を打ち合わせて着る肩衣は庶民のものと思われる。

 浄土真宗の門徒の着る略肩衣とする説もあるが、ここでは田舎の漁村の古風な風俗を付けたと見たほうがいい。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「打かはりて門徒の講中。」とし、『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)でも「又須磨の浦のもの淋しさを付出したり。又一向宗の人のさまなど也。」と略肩衣のこととしている。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)では「ただ其人の形状をいへれど、憂愁をふくめる句作の妙をみるべし。」とあり、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)では「おもふごとく便りもなきを案る、身すぼらしき姿なるらむ歟。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「其人ニシテ住馴タレバ都ノ姿モナクナリタル姿ヲ言、」とある。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)の源氏の従者という説は三句にまたがって輪廻になる。

 

無季。「肩衣」は衣装。

 

二十九句目

   むね打合せ着たるかたぎぬ

 此夏もかなめをくくる破扇      園風

 (此夏もかなめをくくる破扇むね打合せ着たるかたぎぬ)

 

 さて、月の定座だが、月は出ない。

 前句の胸打ち合わせの肩衣のみすぼらしさを受けて、壊れた扇子の柄の所を縛って補修して使っている様を付ける。

 江戸時代の庶民は団扇を使うことが多く、壊れた扇子を使うのは困窮した牢人であろう。「此の夏も」というから、今年も仕官を果たせずという所か。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「此付の余情を弁せば、青雲の志をもとげず、空く月日の流るるを歎く意あり。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「二君に仕ヱザル浪人トミナシ其用ヲ付タリ。」とある。

 

季題は「夏」で夏。「この夏も」は述懐。

 

三十句目

   此夏もかなめをくくる破扇

 醤油ねさせてしばし月見る    猿雖

 (此夏もかなめをくくる破扇醤油ねさせてしばし月見る)

 

 ここでやっと月が出る。

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には夏之部六月に「醤油造」の項目があり、「[和漢三才図会]醤油、和名比之保。本邦の俗、油の字を加ふ。醤油は本草に載る豆油(たまり)なり。」とある。それゆえ、この句は月はあっても夏の句として扱われる。

 醤油というと日本人の食卓に欠かせないものだが、今のような醤油が江戸の庶民の間に普及したのは文化・文政期だという。元禄の頃だと、関西を中心に溜まり醤油が用いられていた。

 醤油は微生物の活動の活発になる前の冬から春に仕込むことが多く、夏に仕込むことはあまりない。何で夏のそれも晩夏の六月の季題になっているのかは謎だ。

 一つの仮説だが、本来「醤油造」は魚醤の仕込みのことで、かつて瀬戸内海で広く造られていたイカナゴ醤油は夏の油の乗ったイカナゴを使っていたため、夏の季題になったのではないかと思う。特に、夏になると鮮度が保てないため食用に適さなくなり、その時期に魚醤が造られたのではないかと思う。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「前句の五文字より付起したり。此度も醤油の世話するよ、と月に対して術懐せる心こもれり。」とある。

 

季題は「醤油ねさせて」で夏。「月」は夜分、天象。

二裏

三十一句目

   醤油ねさせてしばし月見る

 咳聲(しはぶき)の隣はちかき縁づたひ  土芳

 (咳聲の隣はちかき縁づたひ醤油ねさせてしばし月見る)

 

 醤油の仕込みを終えた人が月を見に外に出たら、隣では咳をする声がする。二の裏ということもあってか、軽く流して場面を転換する。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「其場也。咳声月に対して。」とある。

 

無季。「咳聲」は近代では冬。

 

三十二句目

   咳聲の隣はちかき縁づたひ

 添へばそふほどこくめんな顔   園風

 (咳聲の隣はちかき縁づたひ添へばそふほどこくめんな顔)

 

 「こくめん」は黒面と書くが克明から来た言葉で、誠実だとか律儀だとかいう意味だという。何で克明が黒面になったのかはよくわからないが、あるいは定番が鉄板になったような言い間違いが定着したものか。

 句の意味は、隣の咳払いした人のことを、その奥さんの側にたって、添えば添うほど生真面目な人だということだろう。ただ逆に、咳をした人の奥さんが誠実だとも取れる。咳をした人が女性だった可能性を含めると四通りの解釈が可能になる。

 許六は『俳諧問答』のなかで、「此句、『添』字、前句の噂さ也。『見れバ見るほど』としたし。」と言っている。確かにこの混乱は隣人の咳を聞きながら、その聞いた人の感想ではなく隣人の配偶者の側に立った推測だというところからくるの。「見れば見るほど」だと咳の主が黒面ということになる。

 そういうわけで、古註の解釈も割れている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は妻の方を黒面とし、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)、『俳諧猿蓑付合注解』(桃支庵指直著、明治二十年刊)は夫のこととする。

 

無季。「顔」は人倫。

 

三十三句目

   添へばそふほどこくめんな顔

 形なき繪を習ひたる會津盆      嵐蘭

 (形なき繪を習ひたる會津盆添へばそふほどこくめんな顔)

 

 さて、ここからが京都での興行になる。嵐蘭は浅草の人で、其角、嵐雪、杉風などと並ぶ延宝の頃からの弟子。この頃伊賀を訪れたあと、上京した。

 形なき絵というのは会津漆器でも「乾漆」と呼ばれるものだろう。高度な技術と手間隙を要するもので、それこそ黒面でなければ作れない。会津漆器は戦国時代に始まり、江戸初期には既に江戸へ出荷するまでに盛んになっていた。

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「奥州会津の産物、模様さまざまに形さだかならぬ絵也。」とある。

 

無季。

 

三十四句目

   形なき繪を習ひたる會津盆

 うす雪かかる竹の割下駄     史邦

 (形なき繪を習ひたる會津盆うす雪かかる竹の割下駄)

 

 史邦(ふみくに)は尾張犬山の出身で京都在住。

 ここでまず問題なのは「竹の割下駄」というのがどういう下駄かだ。割下駄で検索すると八ツ割下駄というのが出てくる。八つ割にした歯の上に藺草や裂いた竹を編んだ表を乗せたもので、柔軟性があって歩きやすい。雪駄に近く、底の皮の代わりに八つ割にした板を張ったという感じだ。

 会津桐の博物館のサイトを見ると、そこにも桐の八つ割りというのがあって、「下が熱い所で仕事をする時などに履いていた。セッタの底に桐のコマのようなものをつなげてつける。下が熱いはがね作りの作業用下駄であった。」とある。ただ、これは竹ではない。雪とも関係なさそうだ。

 「古文書ネット」というサイトだと、「竹下駄」というのが紹介されている。文化七年刊の八隅芦庵著『旅行用心集』からの引用で、「此外下駄も草履下駄の如く辷(すべ)る也、是は辷るに曲ることなくまつすくにはしるなり、近年多くこれを用ゆるといふ、是等旅具にあらざれとも雪国のみの物故出也」とある。時代も元禄ではないが古註に近い年代で、雪国で用いられたという点も符合する。ただ、絵を見ると竹を半分に割ったものに鼻緒をつけただけのシンプルなもので、子供がすべって遊ぶためのスケート靴のようなもののようだ。

 結局これだけではよくわからない。古註を見てみよう。

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「竹にて拵たる下駄也。」とある。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には「塗物細工する者の小庭にはかかる下駄など有べし。」とある。庭下駄の一種か。

 『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)には「是は茶人の庭先きと見ゆ。」とある。茶人が履いたということは雪駄系、だとすると八つ割り下駄か。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「あたへのやすき竹の割下駄はくさま也。」とある。「あたへ」が「あたひ」のことだとすると、安価だったのか。

 『俳諧猿蓑付合注解』(桃支庵指直著、明治二十年刊)には「降雪に、庭下駄のぬるるも気づかざるさまを含みし逃句の付方也。」とある。やはり庭下駄だから、竹を編んだものに割り歯を付けた八つ割り下駄のことなのだろう。

 とりあえず、ここでは八つ割り下駄と見ていいだろう。会津漆器の乾漆の盆を作るような人なら、庭下駄に竹の八つ割り下駄を履く風流人で、会津だからその下駄の上にうっすらと雪が積もり、履こうにも履けないという所に俳諧らしい笑いがあった、というところか。

 

季題は「薄雪」で冬。降物。次は花の定座だが、あえて冬か。「下駄」は衣装。

 

三十五句目

   うす雪かかる竹の割下駄

 花に又ことしのつれも定らず     野水

 (花に又ことしのつれも定らずうす雪かかる竹の割下駄)

 

 野水は名古屋の人。『野ざらし紀行』の旅の途中で荷兮、杜国らと巻いた俳諧は『冬の日』にまとめられ、芭蕉七部集の最初のものとなった。

 前句が冬なので、「花」は出すけどこれから花の季節が来て、どこか花見の旅に出ようと思うにも

、同行者が定まらずとし、今は一人部屋に籠り、庭下駄の竹の割下駄も雪が積もっている。

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「竹の割下駄をはく人のうへにして、年々花の旅を心懸るに、今年も又連の定まらぬと心せかるるさまの付にして、乙州餞別の俳諧、名残の花に一巻の守備を調ふ付也としるべし。」とある。春に旅立つ乙州に、一緒に花を見に行けないのが残念ということか。

 

季題は「花」で春。植物、木類。「つれ」は人倫。

 

挙句

   花に又ことしのつれも定らず

 雛の袂を染るはるかぜ      羽紅

 (花に又ことしのつれも定らず雛の袂を染るはるかぜ)

 

 羽紅はウコウと読む。ハクではない。凡兆の妻。おとめさん。

 春といえば春の女神、佐保姫。春風が雛の袂を染めるというのは、佐保姫の霞の衣からのイメージで『詞花集』には、

 

 佐保姫の糸染め掛くる青柳を

    吹きな乱りそ春の山風

               平兼盛

 

の歌もある。柳の緑も佐保姫の染めたものとしている。

 花見の参加者も決まらぬままに桃の節句となり、雛の袂の鮮やかな色彩は山々を緑やくれないに染め上げるように、佐保姫の春風が染めていったのだろうか、と付く。さながら羽紅自身が佐保姫になったかのように、この一巻を目出度く締めくくる。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「花ノ噂ヲスル一間ノ風情ヲ言リ。但春染ル神ト言ハ佐保姫ノ事ニテ、染ル春風トナシタルハ一段ナリ。」とある。

 

季題は「雛」「春風」で春。

 

 この歌仙を仕上げたあと芭蕉は去来の落柿舎にしばらく滞在することになる。そのときのことを記したのが『嵯峨日記』だ。

 この滞在中に江戸より戻った乙州も来訪している。『嵯峨日記』の卯月廿二日のところに「乙州が武江より帰り侍るとて、旧友・門人の消息あまた届。」とある。廿五日には「乙州来りて」と来訪のことが記され、廿六日には、

 

 芽出しより二葉に茂る柿ノ実(さね) 史邦

   畠の塵にかかる卯の花      芭蕉

 蝸牛頼母しげなる角振て       去来

   人の汲間を釣瓶待也       丈草

 有明に三度飛脚の行哉らん      乙州

 

とある。