二、初時雨の夢

 ──たまたまこととふものとては、峯に木伝ふ猿の声、袖をうるほす村雨の、音にたぐへて琵琶の音を、弾きならし弾きならし──(謡曲『蝉丸』より)

1、時雨

 そもそも言葉というのは任意に選ばれた記号にすぎない。しかし、人々がくり返し一つの記号に深い意味を込め続けたなら、いつしかそれは深い含蓄を持つ言葉となる。こうして、人は一つの言葉に時には感激し、涙することもある。

  だが、一つの時代に盛んに用いられた言い回しも、やがて生活習慣が変わり、世界観も変って行くと、いつの間にか別の言い方の方が好まれ、確かに或る時代には深い意味を持っていた言葉も、いつの間にか紋切り型で古めかしい、無味乾燥なものになって行くこともある。

  かつて人々が断腸の思いで読んだ言葉も、後の時代の言語感覚からすると、それがなぜだったのかわからなくなったりもする。

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげなり  芭蕉

 

 この句はかつて古池の句と並ぶ芭蕉の最高傑作の一つだった。ただ、今となってはそれほど芭蕉の作品として重視されているわけではない。

  なるほど、確かに今日の意味空間からすれば、時雨は冬の初めに降るにわか雨で、猿は可愛らしい小動物で、蓑は昔の雨具だ。そこから、この句は時ならぬ冷たいにわか雨に打たれている猿の姿が可哀想で、雨具を欲しがっているかのように見えた、と解しておけば当らずとも遠からずだろうということになる。

  ただ、それだけだとせいぜい、猿だから蓑と言わず小蓑と言ったところが洒落ているだとか、動物への愛情が感じられるといった程度の評価になりがちだ。そこには、

 

 「猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。」

 

と言った其角の感激を裏付けるものは何もない。

 

   *

 

 言葉は時代とともに変わる。単語そのものが死語になることもあれば、「やさし」や「むつかし」や「あたらし」のように意味の大きく変わる言葉もある。

  「やさし」は元は痩せるから来た言葉で、身も瘦せ細るような辛さや恥ずかしさを表していた。

  ところでマイナスな言葉は逆に良い意味に転用されることがしばしばある。最近では「やばい」がそうだ。平安時代にも本来忌むべきという所からから来た「いみじ」が素晴らしいという意味で用いられていた。「すごし」もそうだし、こうした言葉は結構ある。「やさし」も『源氏物語』の時代には良い意味に転用されていた。

  「むつかし」も元は面倒な、かったるい、うざいという意味で用いられていた。「あたらし」は惜しいという意味だった。

  こうした変化は多分に偶発的なものだ。「あたらし」の場合は現代語の「新しい」を意味する「あらたし」との混同があったのではないかと言われている。「山茶花(さざんか)」も本来は漢音の通り「さんざか」だったのが、やはり誤用が定着したのではないかと言われている。

  もともと言葉に意味なはい。人が喋ればそこに意味ができる。

  これは魯迅の「元々地上に道はない、人が歩けばそこに道ができる」をもじった言葉だが、言葉は任意に選ばれた記号であり、音の振動であり、インクの染みであり、液晶の光りにすぎない。それに意味を与えているのは人間に他ならない。そのため、人の生活が変われば、人の言葉も変ってゆくことになる。

  また、言葉は単に時代によって変わるだけではない。地域によっても当然大きな差がある。

  それは遺伝子の突然変異で種が分岐していくイメージに近いかもしれない。

  遺伝子の場合、交配を繰り返す集団が地域的に隔絶された時、そこに独自の遺伝子の変異が蓄積され、元のグループと違ったものになる。

  同じ隔離された集団でも、大きな集団ではそれだけ新たな変異が起こる確率が高くなる。たとえば仮に1パーセントの確率で変異が起こるとすると、百人の集団では一つしか新たな変異はないが、百万人の集団では一万もの変異が起こることになる。

  言語も同じように話者の多い言語は早く変化する。山奥や離島の小さな隔絶された地域では古語がそのまま残ることが多い。

  今は全国的に多くの人が動き回っているが、時代を遡れば遡る程人の移動は少なくなる。そうなると、隣の村でも交流が少なければ独自の言語を発達させる可能性がある。ただ、集団が小さいからそれほど速いテンポで変わることはなく、長い時間をかけて少しづつ変わって行くことになる。

  江戸時代の北海道や樺太・千島のアイヌも地域によって異なる「アイヌ語」を話していた。アイヌ語に標準語などというものもない。標準語は近代国家が義務教育を通じて広めたものだからだ。近代以前にはいわゆる標準語はない。

  日本も近代以前の社会では、いわゆる自然言語として話されたのは、その土地の方言に他ならなかった。それでは日本全国に一様に通じる言葉がないので、公式文書は江戸時代までは漢文で書かれていた。漢文を「真名」と呼び、和文を「仮名」と呼ぶのは、漢文が公用語だったからだ。西洋でも近代化する前はラテン語が共通言語だった。

  万葉語も七世紀の終わり頃の天智天皇の時代に形成されたと言われている。

  大和朝廷が律令体制を整えていく過程で、全国に幅六メートルから十二メートルの直線的な駅路が整備され、そこを牛車で役人が移動し、それとともに沢山の商人や芸能の人たちも自在に移動できるようになった。そこで飛鳥地方のローカルな言語も全国に広まって行くことになった。ただ、それを話せるのは都の人との接触の多い人たちで、ほとんどの庶民は相変わらずその土地の方言を喋っていたと思われる。

  ただ、歌や芸能は、こうした人たちにも都の言葉に接する機会を作ることはできた。そのため漢文とは異なるもう一つの日本の共通語は「歌語」という性格を持つこととなった。

  万葉語もこうした歌語で、それがやがて古今集から新古今集の時代にかけて、洗練された「雅語」を作り出す元になっていった。

  『万葉集』も柿本人麻呂の時代の古い歌の多くは古体と呼ばれる助詞や助動詞をほとんど標記しない、漢文のようでいて語順が和文という独特な表記がなされていた。

  たとえば、

 

 東野炎立所見而反見為者月西渡

 

というふうに書かれていた。これが奈良時代の八世紀の後半になると、

 

 和我屋度能伊佐左村竹布久風能於等能可蘇氣伎許能由布敝可母

 

といういわゆる万葉仮名になった。この万葉仮名を草書体で書けば、ほぼ後の変体仮名を含んだ仮名表記に近いものになる。

  直接和歌の言葉でなくても、和歌の詞書や勅撰集の仮名序、『伊勢物語』『土佐日記』などの物語も都の宮廷の言葉で書かれた。和歌の言葉と物語の言葉は同時代の宮廷の言葉であるため大きな違いもなく、これが後の文語の元となっていった。『源氏物語』は女房語りという、女房が聴衆に向かって話して聞かせるスタイルを取っていたため、文語でもかなり当時の口語に近かったのではなかったかと思う。

  都の言葉は役人の行き来や商人、芸能の用いる言葉として、往来が盛んになればなるほど、日本全国津々浦々で共通語として通用するようになっていった。今でも地方の人は方言と東京言葉を両方喋れるように、もともと文法も語彙も似ている言葉なので、使い分けにそれほど苦労することもなかっただろう。こういう下地があったからこそ、琵琶法師は軍記物や古浄瑠璃を全国津々浦々に広めることもできた。

  中世の和歌・連歌が古今集から新古今集に至る八代集の雅語を基礎にしていたのに対し、江戸時代に俗語の連歌としての「俳諧」が流行するに至ったのも、こうした都の言葉がかなり広範囲で通用するようになっていたという基礎があったからだった。

  江戸時代の初期に京の松永貞徳を中心に広まった貞門俳諧は、まだ全面的にこうした商人は町人の俗語を採用するには至らなかった。基本的には雅語が用いられ、一句に一語俗語を交えてもいいというものだった。もっとも一句一語は特に厳密なルールというわけではない。

  やがて宗因の談林の俳諧が台頭してくるようになると、謡曲の言葉などを多く用いるようになった。謡曲も江戸時代には稽古事として習う人も多く、比較的誰もが知る共通の言葉になっていた。

  また、寛文の頃には仮名草子や浄瑠璃本などの出版文化も活況を呈していた。こうした物も、都言葉を基調とした文語を庶民に普及させるのに役に立った。

  雅語で表現できるのは和歌の題材になるような限られた物にすぎなかったが、俗語が解放されれば庶民の日常の様々な話題が文字になり、書き残すことが出来るようになる。芭蕉はまさにその過渡期を生きたと言って良い。雅語から俗語へ。雅語中心の貞門・談林の俳諧から、俗語を全面的に開放していったのが蕉門俳諧だった。

  俗語というと、今では何となく悪いイメージもある。それは標準語に対して用いられているからだ。この頃は標準語はなかった。俗語の開放はむしろ、庶民が自分たちの使っている言葉で表現する自由を勝ち取るものだった。

  もちろん、俳諧はただ無制限に俗語を開放したのではなく、和歌や連歌の風雅を俗語で行うという使命を持っていた。古典の風雅を雅語ではなく俗語で行うということが大事だった。

  もともと言葉に意味はない。ただその用例の記憶の蓄積が意味になる。

  たとえば元々差別語なるものは存在しない。ただ差別の意志をもってその言葉がくり返し用いられれば差別語になるにすぎない。逆に風雅の心をもってその言葉がくり返し用いられれば風雅の言葉になる。

  俗語も風雅の文脈でもって繰り返し用いられれば、雅語と同等のものになる。それを芭蕉は「俗語を正す」という。俗語を雅語に言い換えるのではない。俗語を雅語に高めるのである。

 

   *

 

 芭蕉の句は古典の風雅の発展的継承を俗語をもって行う。

  たとえば、

 

 田一枚植えて立ち去る柳かな   芭蕉

 

の句は、

 

 道の辺の清水流るる柳陰

     しばしとてこそ立ちどまりつれ

              西行法師(西行法師家集)

 

の歌が元になっていて、『奥の細道』の旅で芦野の西行ゆかりの遊行柳を見た時の吟になる。まあ、本当に西行がここで歌を詠んだかどうかは定かでない。

  柳の下で西行の歌のようにしばし立ち止まって涼んでいたら、その間に田一枚植え終わり、それを見届けて立ち去ったという句だ。西行法師の歌を踏まえている以上、それ以外の解釈はあくまで評論家の個人的な感想だ。

  「植えて」の主語は百姓で、「立ち去る」の主語は芭蕉自身となる。主語が明白だから省略可能になる。柳は普通田を植えたりしないし、旅人である芭蕉さんも田植はしない。田植は普通お百姓さんのするものだ。立ち去るのも旅体の句である以上、旅人の所作となる。

  この場合の俗語は「一枚」で日文研の和歌データベースで「いちまい」で検索しても一件もヒットしない。「たちさる」は一件だけヒットする。

 

 衣手にあさ露おつる松の陰

     立ちさる夏を送る山かぜ

              正徹(草根集)

 

の一首で、正徹は十五世紀と時代がかなり下り、時折八代集にない言葉も用いている。勅撰集にない俗歌などの言葉も取り入れながら新味を出そうとしていた時代でもある。

 連歌でも『享徳二年宗砌等何路百韻』は「本歌連歌」と称して、八代集やその時代の歌人の和歌ではない俗歌と思われるものを本歌に取ることで、当時の雅語の限界を突破しようと試みていた。これも俗語と言って良いかもしれない。

 

「田一枚」の句は「一枚」「立ち去る」という俗語を取り入れながら、西行の和歌同様の風雅を表現している。特に田植の情景を添えることで、より農民のリアルな姿を想像させる。

  当時の田植は一種のお祭りだった。田植に着る蓑笠は晴着の意味も持っていて、芭蕉も、

 

 降らずとも竹植うる日は蓑と笠  芭蕉

 

の句で簑笠の晴着としての性格を示している。

  芭蕉の時代よりは少し後になるが、さか百川ひゃくせんの『田植図』を見ると、そこには烏帽子をかぶった神主のような人が幣をもって踊り、横では鼓もあれば笛もある。そして、その田のかたわらには柳の古木があって、柳の下には杖をついた老人がそれを眺めている。彭城百川は芭蕉の弟子の支考に俳諧を学んでいるところからも、この絵はまさに芭蕉のこの句を描いたという可能性がある。

  芭蕉は白河を超えて須賀川の興行の発句に、

 

 風流の(はじめ)やおくの田植うた    芭蕉

 

の句を詠んでいる。風流は当時はしばしば俳諧と同義で用いられていたので、「この俳諧興行は陸奥の田植歌の興で始めましょう」という挨拶になる。

  鄙びた遠方の地で聞く聞きなれぬ田植歌のエスニックな響きもまた、古典の風雅に劣らぬものとして俳諧の題材に加えたのである。

  それまで俗とされていたものを風雅の域に高める。それが芭蕉だった。

  巷では「なあ、田植歌なんて下賤のものの下品な、あんなの歌でも何でもない」なんていう人もいたかもしれないが、それを風雅に取り込むのが俗語の文学としての俳諧だった。風雅の文脈で用いれば田植歌も風雅になる。それは西行の歌にはなかった視点だ。

  同じように、

 

 尋ねきてこととふ人のなき宿に

     木の間の月の影ぞ射しくる

              西行法師(山家集)

 

の歌も、芭蕉の手にかかれば、

 

 我が宿は四角な影を窓の月    芭蕉

 

の句になる。

  山奥の宿に棲む隠遁者であれば、窓の障子には月の光に木の枝の影が映る。(当時はガラス窓はなく、窓と言えば障子窓だった。)だが、江戸深川に棲む芭蕉にとっては窓は普通に四角いだけで、そこに月の光が当たってうっすらと白く光る。

  山奥の隠遁者ではないが、芭蕉は市隠の心でもって何の変哲もない窓を見る。そうすると、ただ四角いだけの窓も隠士の宿の窓になる。

  言葉に雅俗の違いはあるが、芭蕉の俳諧は基本的に古典のテーマを継承して、その中に新味を付け加えて行く。

 

   *

 

 芭蕉が、

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげなり  芭蕉

 

の句を詠んだ時も、「時雨」という古い和歌のテーマを継承しながら、そこに「猿も小蓑を」という新しい展開を試みたものだった。

  古典の時雨というテーマを掘り下げていったとき、たまたま伊賀の山中で時雨に降られ、そこで猿を目撃したのかもしれない。たとえそこで即興的にできたにしても、その背後にはそれまで時雨について思い廻らしてきたものがあった。

  芭蕉の時雨の発句で古いものには、まだ伊賀で宗房を名乗っていた頃の湖春選『続山井』に入集した、

 

 時雨をやもどかしがりて松の雪  宗房

 

の句がある。

  時雨に松の雪を詠んだ歌は、

 

 今朝よりの時雨は雪になりにけり

     さてだに松の色かはれとて

              藤原信実(続後拾遺集)

 積りあへず乱るる雪に吹きくもり

     時雨にかへる嶺の松風

              正徹(草根集)

 

など中世のものになる。

  時雨は紅葉を赤く染めるが松の色は変わらない。雪になれば松は白く色づいて花にも喩えられる。時雨だと雪になりそうでならないし、雪になったと思ったらすぐ雨に変わって元に戻る。

  その辺りの古歌の情を知らないと、なぜもどかしいのかよくわからない句だ。

 

 時雨に染まる紅葉は、

 

 龍田川紅葉は流る神なびの

     三室の山に時雨ふるらし

              文武天皇(古今集)

 しら露も時雨もいたくもる山は

     下葉残らず色づきにけり

              紀貫之(古今集)

 

などの歌があり、

 

 雪の松は、

 

 年ふれど色もかはらぬ松が枝に

     かかれる雪を花とこそ見れ

              よみ人しらず(後撰集)

 

などの歌に詠まれている。

  逆に談林時代のものはわかりやすい。

 

 行雲や犬の(かけ)尿(ばり)むらしぐれ    桃青

 一時雨礫や降て小石川      同

 

 時雨はあくまでさっと降ってさっと止むというだけの単純な意味になり、それをただ何か卑俗なものに喩えるだけになっている。

 

 一順の四句めぶり也一しぐれ   宗因

 

の句の影響だろうか。連歌の四句目は軽くさっと流すように付けるのを良しとする。

 

 いづくしぐれ傘を手にさげて帰る僧 芭蕉

 

の句は談林調から天和調への過渡期にある延宝九年刊言水編『東日記』の句で、それまでの卑俗なものに喩える単純さはなく、傘を手に下げた僧を見て、どこかで時雨でも降っていたのか、というものだが、時雨に打たれる僧の心境にまでは踏み込んでいない。

  蕉風確立へ向けて一変するのが天和三年刊其角編『虚栗』の、

 

   手づから雨のわび笠をはりて

 世にふるもさらに宗祇の宿りかな 芭蕉

 

の句になる。

  時雨の文字は入っていない。これは談林の頃からある抜け風の句で、たとえば延宝九年刊信徳編の『俳諧七百五十韻』「八人や」の巻の七句目は、

 

   青物使あけぼのの鴈

 久堅の中間男影出で       常之

 

で、月の定座だけど「月」の字が抜けている。これは武家に仕えていた雑務を行う中間(ちゅうげん)に「中元(七月十五日)の月」を掛けているからで、前句の「鴈」にも「月」が付け合いになる。久堅も月を導き出す枕詞になる。

 

 芭蕉の発句も、

 

 世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇

 

の当時としては誰もが知る発句を二字変えただけの句で、「宗祇の宿り」は宗祇の「時雨の宿り」だとすぐにわかるようになっている。

  変わったのは宗祇の句の心をそのまま自分の句としてるところだ。つまり単なるさっと降ってさっと止む雨ではなく、古典の時雨の情をそのまま思い起こさせるような句を詠むようになったということだ。

  天和三年は時期的にも古池の句の着想を得た一年後くらいだった。最初は、

 

 山吹や蛙飛び込む水の音

 

だった。古歌に詠まれた井手玉川の蛙の趣向を受け継ぎつつ、鳴き声ではなく水音にすることで新味を出してみたのだが、何かまだこれではないと思って句を案じ続けていた。

  古来、時雨の歌にはいくつかの系譜があり、最も古典的なのが、紅葉を染める秋の時雨で、それは先に示した。

 その他にも、

 

 時雨つる外山の雲は晴れにけり

     夕日に染むる峰のもみぢ葉

              藤原良経(風雅集)

 もみぢ葉を染むる時雨の濡れ色に

     光を添ふる夕付く日かな

              藤原範光(正治後度百首)

 

などの歌もある。雨に濡れた紅葉に夕陽が射す瞬間は、まさに金銀宝玉を散りばめたような美しさになる。

 

 「初時雨」もまた、この系譜の上で、かつては秋にも詠まれていた。

 

 はつ時雨ふるほどもなくしもとゆふ

     かつらぎ山は色づきにけり

              覚性法親王(千載集)

 小倉山秋の梢の初しぐれ

     今いくかありて色に出でなむ

              藤原為相(続後拾遺集)

 

など、こうした秋の時雨が詠まれているから、連歌でも時雨は秋にも冬にも詠むものとされ、便宜的には単独では冬だが、秋の季題と重なった時は秋の句になる。

 

 長月や山どりのおの初時雨    智蘊

 露にみよ青葉の山ぞ初時雨    宗祇

 

というような、秋に分類される初時雨の句がある。

  古今集でも時雨は冬にも詠まれている。

 

 竜田河綿おりかく神な月

     時雨の雨をたてぬきにして

              よみ人しらず(古今集)

 神な月時雨ふりおけるならの葉の

     なにおふ宮のふることそこれ

              文屋有季(古今集)

 

 後者は冬ではなく雑下の部にある。

  時雨の定めなさ、そして旅の僧に冷たく苦しく降りつける時雨の趣向は、

 

 世にふるは苦しきものを真木の屋に

     やすくも過ぐる初時雨かな

              二条院讃岐(新古今集)

 冬を浅みまだき時雨を思ひしを

     堪へざりけりな老いの涙も

              清原元輔(新古今集)

 

と言った歌に受け継がれてゆく。

  更に時雨の晴間の月を見出すことによって、より冷え寂びた趣向へと高められてゆく。

 

 月を待つ高嶺の雲は晴れにけり

     心あるべき初時雨かな

              西行法師(新古今集)

 たえだえに里わく月の光かな

     時雨を送る夜半のむら雲

              寂蓮法師(新古今集)

 

 連歌発句の、

 

 月は山風ぞしぐれににほの海   二条良基

 

の句もこの系列にある。

  その他にも、紅葉を散らす冬の時雨、

 

 初時雨信夫の山のもみぢ葉を

     嵐吹けとは染めずやあるらむ

              七条院大納言(新古今集)

 

 袖を染める涙の時雨、

 

 時雨つつ袖もほしあへずあしひきの

     山の木の葉に嵐吹くころ

                 信濃

 

など様々に詠まれてきた。

  こうした中で宗祇の、

 

 世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇

 

という連歌発句は、時雨という言葉に決定的な解釈を与えることとなった。

  降るを経る、古、老いるという意味に掛けて用いる詠み方はそれまでもなされていたが、「世にふる」という言葉には、年を取ることの苦しさと、定めなき時雨に打たれる苦しさと、両方の意味が含まれている。

  二条院讃岐が「真木の屋」での隠遁生活に安らぎを詠み込んだのに対し、宗祇は旅体にして見知らぬ軒での雨宿りに、人生そのものが旅であるその姿を見い出す。

  その軒は仮の宿であり、どこにも本当に安住の地というわけにはいかないが、そこには一期一会もある。その瞬間は、時雨の晴間の月にも喩えることが出来よう。

  限られた言葉の中で、単なる時雨の風情を超えて、時雨の美しさの本質へと切り込むこの句は、中世ならではのものといえよう。そこには応仁の乱で都を追われ、東国を彷徨うこととなった連歌師の、所詮この世は旅だという達観があったのかもしれない。定めない旅の定めない宿だからこそ、そこで出会った人情は時雨の紅葉の夕日に輝くようなきらめきがあり、あるいは時雨の雲の切れて顔出した凍月のような悟りがある。

  芭蕉もまた、このようにして宗祇によって見い出された時雨の答えを反復することによって、新たな旅立ちを決意したのだった。

 

   手づから雨のわび笠をはりて

 世にふるもさらに宗祇の宿りかな 芭蕉

 

の句は後に『渋笠の銘並序』と題した俳文にもなっている。

 

 「草の扉にひとりわびて、秋風さびしきおりおり、竹取のたくみにならひ、妙観がかたなをかりて、みづから竹をわり竹をけづりて、笠つくりの翁となのる。心しづかならざれば、日をふるに物うく、(たくみ)つたなければ、夜をつくしてならず。あしたに紙をかさね、ゆふべにほして、又かさねがさね渋といふ物をもて色をさはし、ますます堅からん事をおもふ。廿日すぐる程にこそややいできにけれ。(その)かたちうらの方にまき(いり)(そと)ざまに(ふき)かへりなど、荷葉の(なかば)ひらくるに似て、中々おかしき姿也。さらばすみがねのいみじからんより、ゆがみながらに愛しつべし。西行法師のふじ見笠か、東坡居士の雪見笠か。宮城野の露に供つれねば、呉天の雪に杖をやひかむ。霰にさそひ時雨にかたむけ、そぞろにめでて殊に興ず。興のうちにして(にはか)に感ずる事あり。ふたたび宗祇の時雨ならでも、かりのやどりに(たもと)をうるほして、みづから笠のうらに(かき)つけ侍る。

 世にふるはさらに宗祇のやどり哉。」

 

 この句には、自ら作った笠の裏にこの句を書くことによって、そこに宗祇の句の魂が我が身に宿らんことを祈るという、そういう気持ちが込められていた。「宿り」は宗祇の魂の宿りでもあった。

  天和二年(一六八二年)の春には、談林のリーダーともいうべき宗因が死去している。宗因は連歌師を本業とし、一生を旅に過ごした人だった。

  そして一方では、時代遅れとなった貞門の俳諧に対し、庶民の生きた生活感情を自由にリアルに描き出す新しい談林俳諧を提唱し、芭蕉も延宝三年五月、本所大徳院での百韻興行に信徳(のちの素堂)とともに宗因の俳席に同座した。

  芭蕉もすぐにその斬新な作風に魅せられ、『去来抄』には芭蕉の言葉として、「上に宗因なくば、未だに貞門のよだれをぬぐうべし」と記されているように。宗因との出会いがなければ蕉門の俳諧も生まれなかったと言って良い。それくらい、芭蕉は宗因から多大な影響を受けたのだから、一所不住の宗因の生き方も、芭蕉に影響しないということはなかったであろう。そこにはまた旅に生き、旅に死んだ西行や宗祇と重なる物もあった。

  その宗因の死とともに、先行き渾沌としてしまった俳諧にあって、芭蕉の胸中、少なからず宗因の後を継ぐのは自分だという思いがあったのではなかったか。宗祇の魂の宿りは同時に宗因の魂でもあったのではなかったか。

  既に芭蕉は、俳諧の母体となった連歌が、一所不住の旅僧によって完成の域へと高められ、その精神こそが風雅の基礎となっていたことに気付いていたのだろう。

  古典の本意の継承において貞徳を超えるには、自らをそういう境遇の中に置いて、本当の風雅を学ぶ必要を感じていた。

  笠を作るというのは旅支度を意味する。笠を作り、宗祇や宗因の魂を呼び寄せた時点で、芭蕉の心の中には既に『野ざらし紀行』の旅立ちが準備されていたのだろう。

  貞享元年(一六八四年)には「山吹や蛙飛び込む水の音」の句を、

 

 古池や蛙飛び込む水の音     芭蕉

 

の形に直し、古歌に詠まれた井手玉川の蛙ではなく、どこにでもある古池の蛙とすることで、卑近な蛙の水音に、荒れ果てた草の中に在原業平の「月やあらぬ」や、杜甫の『春望』など古典に繰り返し現れる悲し気な趣向を呼び興す句に作り上げ、治定した。

  この句には確かな手ごたえがあったのだろう。ただ、それをすぐに発表することはしなかった。この句を発表する前に、古典の風雅の継承者として、自分自身の物語を作る必要があった。それが旅だった。

 

   *

 

 この年の秋、芭蕉は、

 

 野ざらしを心に風のしむ身かな  芭蕉

 

の句を残して旅に出ることになる。

  野に倒れ伏し、野ざらしのしゃれこうべになるまで旅を続けるという強い決意のもとに、このあと『野ざらし紀行』の旅に出て、中京地区や上方にも蕉門の同志を見い出し、広範な人脈を作って帰ってきた後、貞享三年春に上方の『庵桜』、中京の『春の日』、江戸の『蛙合』でほぼ同時に古池の句を発表し、狙い通りにこの句は空前の大ヒットとなり、蕉門の名を広く世に知らしめることになった。

  この旅の途中でも芭蕉は時雨の句を詠んでいる。

 

 此海に草鞋(わらんじ)すてん笠しぐれ    芭蕉

 笠もなき我をしぐるるかこは何と 同

 草枕犬も時雨るかよるのこゑ   同

 

 いずれも談林時代にはなかった老いた旅人に苦しく降りつける時雨という古典の情を踏まえて詠まれている。

  芭蕉の時雨の句はこの他にもいくつかあり、貞享四年(一六八七年)の『笈の小文』の旅に出る時の、

 

 旅人と我名よばれん初しぐれ   芭蕉

 

の句もよく知られている。

  元禄二年(一六八九年)に「猿に小蓑」の句を詠んだ後の元禄四年にも、

 

 宿借りて名をなのらするしぐれかな 芭蕉

 

の句を詠んでいる。名を聞かれて「旅人」とでも名乗ったのだろうか。

 翌元禄五年にも、

 

 けふばかり人も年よれ初しぐれ  芭蕉

 

の句を詠んでいる。時雨と言えば旅の老人というこのテーマは安定していた。

  時雨と旅は切り離せないものであり、芭蕉はあくまで宗祇によって確立されたこのテーマのもとに工夫を重ねていたことが窺われる。

  このことからも「猿に小蓑」の句も同じ本意本情を受け継ぐもので、このことは伊賀山中で詠んだということと、蓑が旅装束であることで旅体の句に仕上がっていることにも表れている。

  それは時雨に象徴される老の苦しみ、死すべき運命、身分を捨てたことへの世間への冷たい視線といったものに対して、旅の途中の仮の宿に安らぎと救済を求める、そうした特殊な境遇の句でなくてはならなかった。

  それは単なる旅人ではなく遁世であり、漂泊を続ける法師たちの姿だった。

  おそらく、喜撰法師、僧正遍照、あるいは蝉丸以来、能因、良暹、寂蓮、西行、頓阿、心敬、宗祇、宗長、そして宗因といった一貫した伝統の中に生きる人々の姿だった。

  遁世というのは、目崎徳衛が指摘しているように、自分から世を捨てればそれでいいというものではない。単に世を離れるだけでは隠居と何ら変わりない。自分もまた世間から捨て去られ、縁を切られ、いわば身分を失うことによってはじめて遁世と呼ばれうるのだという。

  連歌師宗祇も能の大成者の世阿弥も、身分の上では「乞食」にすぎなかった。それて、確かにそこには、乞食に身を落とすことによってしか得られない自由な空間があった。

  時雨の中を旅する老人はただの老人ではなく、連歌であれ俳諧であれ数寄の道にのめり込む余り、乞食に身を落とした老人こそが時雨の情を詠むにふさわしかった。まさに、『笈の小文』でいうような、

 

 「かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごととなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすすむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これ為に破られ、つゐに無能無芸にして只此一筋に繋る」

 

 

といった老人に降る時雨だった。

2、苦界の猿

 芭蕉の談林時代からの弟子だった其角は、去来・凡兆編元禄四年刊『猿蓑』の序文でこう述べている。

 

 「只俳諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。」

 

 これはまさに、猿に小蓑の句を聞いた時の感動を、其角が門人一同を代表して述べていると言って良い。

  ここで注目したいのは、其角が「猿に小蓑を着せて」と言い切っていることだ。

  「欲しげなり」と言っている以上、猿は小蓑を着ていたわけではなく、蓑すら持たずに冷たい雨に打たれていたはずだというのは、あくまで近代人の合理的な発想だ。

  この句のテーマは蓑すら持たぬ猿への同情などではなく、むしろ蓑笠着た猿の姿を連想させるところにあった。

  「欲しげなり」という言葉から、芭蕉が猿に蓑笠着せてやったという想像導き出し、どこにも猿が蓑を着たと書いてないにもかかわらず、蓑笠着た猿の姿を現出させるところが、「あたに懼るべき幻術なり」だった。

  そして、こうした猿の幻影こそが「俳諧の(たましひ)」を表すもので、当時の人々はその姿に断腸の思いを感じたのだった。

  其角が同じ序で、「久しく世にとどまり、長く人にうつりて、不変の変をしらしむ」と言っているように、当時の人から見ればこうした意味空間は、その場の流行によるものではなく、十分不易なものと確信しうるものだった。

  この幻術という点については既に乾裕幸が『芭蕉歳時記』(一九九一、富士見書房)で、

 

 「人間の擬態としての猿が、蓑笠を身につけて時雨の中に出立つ。これは猿の変身─そう、詩人への変身なのだ。中国の詩人たちは、猿に託して断腸の思いを叫んだ。たとえば杜甫の<猿ヲ聴イテゲニ下ル三声ノ涙>(秋興一首)であり、江相公の<巴猿三叫、暁行人ノ裳ヲ霑ス>(和漢朗詠集)である。其角の《幻術》とは、この変身をいうのである。」

 

と書いている。それなら、この猿は何を叫んでいるのだろうか。

 

   *

 

 かつて蓑笠は単なる雨具ではなかった。歴史学者の網野善彦が既に指摘しているように、中世から近世にかけて、蓑笠から真っ先に連想されたのは「非人」だった。

  今日ではお百姓さんを想像するかもしれないが、決して蓑笠は農民の普段着などではなく、田植えの時に着る一種の晴れ着だった。

  農民が一揆を起こす時にも蓑笠を着たという。これは身分を失い非人に身を落とす覚悟を意味するもので、不退転の決意を示すものだったという。蓑笠のこうした用い方は、明治初期の自由民権運動のスローガンにも見られるという。

  蓑笠は、こうした本来人間社会から排除されるべき卑賤さを意味するとともに、同時に通常の人間にはない自然の魔力を身につけたという意味で、聖なるものをも意味した。

  こうした両義性は蓑笠に限らず、およそ差別の対象となるシンボルには共通していたという。わらわ髪、頭巾、柿帷子、乞食袋(大黒様の持っているような)、赤という色彩などもみな同様に両義性を持っていた。

  今日でも「お目出度い」という言葉は、本当にお目出度い時にも馬鹿にするときにも用いる。「タコ」も末広がりの縁起物で正月に食べたりするが、罵る時にも用いる。

  中世の技術は自然を観察してそこから法則を引き出すというよりは、自然が自ら現さない隠されたものを引き出す技術だった。たとえば鉱物の利用は岩石の中から純粋な金属物質を取り出す作業だし、陶芸は土の中の隠された性質を引き出す作業だった。経験的な知識の蓄積はあったが、認識するということがそうした見えないものを見えるようにする、隠された物自体を現象として引き出すことだった。

  学問は決して検証することのできない過去の様々な神仏の顕現の痕跡を、経典などの文献の整理を通じて掘り起こす故実の学であり、故実を明らかにしたらそれを分類して部立していった。それは書庫の整理のように、文献から学んだ事柄を便覧にして、即座に確認できるようにして行く作業だった。

  ただ、それは便宜的な道具にすぎず、本当の知識はそれを踏まえながらも現実の世界に的確に応用する機知をもって完結するものだった。学問の体系が終着点とは考えられていなかった。

  見えないものを見える化したら、あとはそれを的確に使いこなせるように、知識として保持するのではなく、それを体得し、肉体に刻み込んでゆく必要があった。

  それはある意味、知識が絶対的に貧困であるため、それを機知で補う必要があったと言ってもいいかもしれない。この広い神秘に満ちた世界で、人間の知りうることは僅かなものだった。あらゆる現象を網羅できるような豊かな知識は、近代科学を待たねばならなかった。むしろ少ない知識をいかに生かすかが問題だった。

  こうしたことは詩についても言える。中世の歌道は目の前の自然を描写するのではなく、自然の背後に隠された本意を言葉の技巧によって引き出す技術に他ならなかった。こうした考え方は、西行が明恵上人に語ったという歌論にも顕れている。

 

 「西行法師つねに来りて物語して云はく、わが歌を詠むは、遙かに尋常(よのつね)に異なり、華・郭公・月・雪すべて万物の興にむかひても、およそあらゆる相みなこれ虚妄なること眼に遮り耳に満てり。また詠み出すところの言句はみな真言にあらずや。華を詠むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず、ただかくのごとくして、縁に随ひ興に随ひ詠みおくところなり。紅虹なたなびけば虚空をいろどれるに似たり。白日かがやけば虚空明らかなるに似たり。然れども虚空はもと明らかなるものにもあらず、また、いろどれるにもあらず。我またこの虚空のごとくなる心の上において、種々の風情をいろどるといへどもさらに蹤跡なし。この歌すなはちこれ如来の新の形体なり。されば一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。」

 

 安田章生は『西行』(一九八三、彌生書房)の中で、この文章を次のように解説している。

 

 「この世の現象はすべて虚妄と観じている心がそこにはあり、その心の上にさまざまの影をおとして消えてゆく現象世界のことを歌に詠むとも、それは仏像を造る思い、秘密の真言を唱える思いで詠むのであるという。ここには現実を歌いながら現実を超え、歌を詠みながら歌を超えている世界がある。」

 

 『古今集』仮名序には、

 

 「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。」

 

とある。

  和歌は基本的には「心」から生じるもので、見るもの聞くものを通じて心に思うことを表現するものだった。そこからいわゆる景物は借り物であり、心を述べるために引き合いに出されるだけで、いわばそれは「興」であり、心を言い起すきっかけとなる道具だった。

  俳諧では「発句道具」「平句道具」という言葉があり、許六の『俳諧問答』に、

 

 「一、いつぞや、『こんやの窓のしぐれ』と云事をいひて、手染の窓と作例の論あり。略ス。其後二年斗ありて、正秀三ッ物の第三ニ『なの花ニこんやの窓』といふ事を仕たり。此男も、こんやの窓ハ見付たりとおもひて過ぬ。

 予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。正秀が眼、慥也。

 予こんやの窓ニ血脈ある事ハしれ共、発句の道具と見あやまりたる所あり。正秀、なの花を結びて第三とす。是、平句道具ニして、発句の器なし。こんやの窓に、なの花よし。又暮かかる時雨もよし、初雪もよし。かげろふに、とかげ・蛇もよし。五月雨に、なめくぢり・かたつぶりもよし。かやうに一風づつ味を持て動くものハ、是平句道具也。

 発句の道具ハ一切動かぬもの也。慥ニ決定し置ぬ。」

 

とある。歌は心を詠むもので、景物は道具にすぎないというのはやや乱暴な言い方かもしれないが、当たらずとも遠からずであろう。

  空は日が昇れば青くなり、日が傾けば赤く染まり、夜になれば黒くなる。空に固有の色はなく、そこに当る光に染まって色がある。

  それと同じように歌はあくまで心であり、四季折々の花鳥風月や山水海浜の絶景も心に応じて現れる陰にすぎない。その本質は虚空にある。歌はその虚空に色を与えて見えるようにする技術になる。

  これを虚実ということで言えば、心は実で景物は虚ということになる。

  歌は景物を借りて心を伝えるものならば、和歌の修行は景物の知識を増やすことではなく、あくまで人の心について深く突き詰めていかなくてはならない。

  言葉に元々意味がないのと同様、景物にも元々意味はない。花も月も須磨の浦も尾上の松も、それに意味を与えているのは人間に他ならない。白楽天が「槿花一日自爲榮」と詩にしたその儚い命に誇りを持つ槿の花も、馬からすればただの食料にすぎない。意味というのは人間がくり返し意味を与え続けることによって、その用例の蓄積によって今日にまで受け継がれる。

  景物に意味を持たせるのは、この反復に他ならない。花の心も月の心も、人がそれに意味を与え続け、反復し続けたことによって存在する。

  古典の本意を継承するというのは、まさにそれだった。単なる形だけの反復ではなく、古人に見たものを見て、古人の人生を追体験し、古人の心に共鳴した所でそれを言葉にする。言葉は昔の人の言葉とは違う。それは今の言葉で、江戸や上方の町人たちの用いる俗語を用いる。言葉は違ってもそこに与える意味は受け継がれる。

  その追体験の為には、古人の境遇を再現する必要があった。それが旅だった。

  旅はかつて多くの人にとって生活だった。商人は行商をし、芸能は全国津々浦々を渡り歩き、都の文化を伝えた。職人もまた原料の入手や仕事に最適な環境を求めて旅をした。都市形成の不十分だった中世までは、こうした一所不住の生き方は珍しいものではなかった。

  そして、こうした人々は網野善彦によれば、かつては天皇の供御人として税や労役の免除、諸国の往来自由という特権を与えられていたという。勅撰集で身分のはっきりしない法師や遊女の歌が御製の歌と肩を並べているのも、その現れともいえる。

  こうした伝統は『梁塵秘抄』の編纂や職人歌合にも生きている。連歌もまた元は{地下|じげ}の者の間で流行したものが二条良基の時代に宮廷をも席巻し、その成果は勅撰集に準じる『菟玖波集』へと結実し、朝廷の権威の元に『応安新式』という連歌の公式ルールを生むに至った。

  蓑笠はこうした旅に生きる人たちの自由を象徴するものでもあった。定住民の間からは乞食坊主の類として卑賤視されながらも、それは定住民と価値観の逆転した世界においては輝かしい聖なる衣裳でもあった。この逆転した世界が「公界」だった。

 

   *

 

 農村というのは決してユートピアではない。都会暮らしに疲れた時には一種のノスタルジーを感じさせてくれるが、それでも実際にそこに住むとなると、決して住みよい所ではない。

  それはこの大地の恵みが有限であり、そこに住むことのできる生物もまた有限だからだ。どの生物種も、限られた食糧を廻って、自ずと生きれる個体数は限られてしまう。そのために生物は厳しい生存競争にさらされる。

  生存競争といっても、血で血を洗うような生臭いものばかりではない。生存競争の多くは儀礼化した闘争によって無血の内に勝負を付ける。しかし負けたものに待っているのは生きて行けるだけの食料の確保ができずに衰弱してゆく道であり、餓死するか、動きの鈍った所を肉食獣に襲われるか、様々な体内に寄生する微生物によって食い荒らされてゆくかであろう。

  農耕を始めた人類も、生まれてきた子供のすべてが農地を受け継げるわけではない。すべての子供に分け与える程農地が無限に存在するわけではない。かといって限られた農地に誰もが平等の権利を主張すれば、奪い合いになる。そこで不条理ではあるが、農地の相続に優先順位をつけ、優先順位の低いものから追い出されてゆくことになる。

  追い出された者のある者は、商人、芸能、職人などになって生きながらえることが出来たかもしれない。しかし商人、芸能、職人が無限に必要とされる社会なんて存在しない。その職に付けたのは一部の才能のある幸運な人たちだけだった。

  宗教もまたこうしたあぶれた人たちの受け皿だった。洋の東西、信仰や教義は違っていても、宗教の役割は基本的にはこうしたあぶれた人たちを食わせてゆくための寄付集めだった。彼らはあぶれた人間が社会の治安を脅かす危険分子にならないように見張るという意味では、平和をもたらした。厳しい戒律による質素な生活や奉仕活動もそのためのものだった。それでもお寺で定住できる者はごく一部で、ほとんどはいわゆる「乞食坊主」だった。

  権力者もまたその権力のポストは無限ではない。彼らもまた厳しい出世競争や領土争いにさらされる。そのためにはしばしば親子兄弟でも殺し合った。特に兄弟は常に家督を廻る最大のライバルだった。

  こうした中で何らかの理由で排除された者は、定住する場所を持たず、公界の住人となる。権力争いに破れて何らかの咎を言い立てられて、左遷されたり流罪にされたり、自ら出家したりということで、こうした人たちも旅に生涯を終えることになる。在原業平も西行法師もまたこうした一人だった。

  江戸時代になると中世の顕密仏教の権威が衰退し、公界は宗教者ではなく町人の住む所に取って代わられていった。中世の顕密仏教は織田信長によって暴力的に破壊され、跡を継いだ豊臣秀吉も徳川家康もそれを再興することはなかった。公界の主体は宗教者から世俗の町人へと変わっていった。

  その町人の多くも何らかの理由で故郷にいられなくなり、生まれ育った故郷を捨てて都会に出てきた人たちだった。芭蕉もまた藤堂新七郎良勝(俳号は蝉吟)という主君を失ったそうした一人だった。

  江戸時代は中世と違い、定住政策が取られ、町人の移動を制限していた。芸能もまたかつてのような旅芸人の文化は衰退していった。芭蕉も江戸に出てからしばらく日本橋に住み、そのあと深川に隠棲した。

  そのなかで最後の旅の連歌師とでもいうような宗因の生涯に共鳴し、昔の西行や宗祇の生涯も思い起こして、自ら旅の俳諧師になることを決意した。定住を促進する江戸の幕藩体制にあって、一所不住の生き方は時代錯誤といっても良かった。その意味では既に公界の特権を象徴する蓑笠はその力を失っていた。

  芭蕉の句の中には、

 

 たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠  芭蕉

 降らずとも竹植うる日は蓑と笠  同

 年暮れぬ笠着て草鞋はきながら  同

 

のような蓑笠の賛美に並行して、蓑笠の喪失を訴える作品が特異な位置を占めている。

 

 笠もなき我をしぐるるかこは何と 芭蕉

 

 これも『野ざらし紀行』の旅の時の句だった。

  定めなき世を降る冷たい時雨に、しのぐ笠すら持たないとは、何てみじめな姿なのだろう。それは芭蕉自身の姿であるとともに、定住化政策の中で隅っこに追いやられてゆく様々な被差別民の姿ではなかったか。

  士農工商に身分からも排除され、人間以下の扱いしか受けられぬ人々、それはまさに「こは何?」だった。

 

 笠島はいづこ五月のぬかり道   芭蕉

 

 これは『奥の細道』の旅の時の句で、藤中将実方(藤原実方)が陸奥に左遷されたときにこの蓑輪笠島の地を通った時、道祖神の社に挨拶しなかったということで落馬して亡くなったという伝説による。

  後に西行がこの地を通り、

 

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて

     枯野のすすき形見にぞみる

              西行法師(新古今集)

 

の歌を残している。

  ところが五月雨で道がぬかるんでたこともあってか、この道祖神の社を探すこともできず、通り過ぎることとなった。

  芭蕉は旅発つときにも「道祖神の招きにあって」と言っている。その道祖神にあうこともできなかった無念のさることながら、蓑輪笠島の地名に掛けて、さながら五月雨が降っているのに蓑にも笠にも見放された、そんな心の叫びがあったのではないかと思われる。

  後に元禄九年、芭蕉の弟子で芭蕉の従弟か甥ではないかとも言われている桃隣がこの笠島の道祖神を訪れている。その桃隣の『舞都遲登理』にはこう記されている。

 

 「岩沼を一里行て一村有。左の方ヨリ一里半、山の根に入テ笠嶋、此所にあらたなる道祖神御坐テ、近郷の者、旅人参詣不絶、社のうしろに原有。實方中将の塚アリ。五輪折崩て名のみばかり也。傍に中将の召されたる馬の塚有。

  西行 朽もせぬをの名ばかりをとどめ置て

     かれののすすきかたみにぞ見る

    〇言の葉や茂りを分ケて塚二ッ」

 

 「言の葉や」の句は桃隣の句だ。

  今の常磐線で言うと岩沼の一駅先の舘腰の辺りから北西に行き、今の東北新幹線の線路を越えたあたりに佐倍乃神社(笠島道祖神社)がある。佐倍乃神社は明治以降の名称で、江戸時代は道祖神社だった。

  古代道路は白河から来る東山道が江戸時代の仙台道に近いルートを取っていたが、名取駅から西へ出羽路が分岐していたらしく、おそらく道祖神の社は出羽路の脇にあったのだろう。今の仙台高専名取キャンパスのある突き出した野田山丘陵を通っていたのではないかと思われる。

  この駅路も失われ、江戸時代には仙台道からだと舘腰からの一里半の細い道しかなく、五月雨の中、この一里半の道を行く余裕もないまま通り過ぎてしまったのだろう。

  この前に芭蕉は黒羽の「秣おふ人を枝折の夏野哉 芭蕉」の句を発句とする興行の二十九句目で、

 

   洞の地蔵にこもる有明

 蔦の葉は猿の泪や染つらん    芭蕉

 

の句を付けている。蔦の葉の紅葉を染めるのは古歌では時雨なので、「猿の泪」は時雨のことと言って良い。

  猿の声は中国の古典では、その悲痛な叫び声が涙を誘うものだった。これは昔は中国南部の長江流域にも広くテナガザルが生息していて、物悲しいロングコールを実際に聞くことが多かったからだ。

  猿の声は、古くは既に『楚辞』にも、

 

 雷填填兮雨冥冥  猿啾啾兮狖夜鳴

 (雷は重々しくデンデンと鳴り、雨はすべてを覆うかのようにメンメンと降る。

 猿はしょうしょうと、黒い猿は夜鳴く。)

 

とあり、六朝時代の無名詩にも、

 

 巴東山峡巫峡長  猿鳴三声涙沾裳

 (巴東の山峡の巫峡は長く、

 猿のたびたび鳴く声に涙は裳裾を濡らす。)

 

と歌われている。

 

 また、杜甫の「秋興八首」の「聴猿実下三声涙」の句も当時はよく知られていた。

 『野ざらし紀行』の旅で富士川で捨て子を目撃し、

 

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに  芭蕉

 

の句も詠んでいる。

  蓑笠の喪失のイメージはやがてこの猿の涙のイメージと融合してゆくことになった。それがこの年の冬の句、

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげなり  芭蕉

 

に凝縮された。

  蓑笠もなく、「こは何?」とばかりに、浮世の定めなき冷たい雨に打たれるがままになっている─たとえ実際は蓑笠を着ていたとしても心情的にはないも同様な芭蕉の旅に、たまたま同じ雨に打たれている猿の姿を見つける。

  「おや、可哀想に、おまえもか」とそう思ったのだろうか。猿もまた人間ではないという意味では「非人」だし、舞台となっている山中もまぎれもなく公界だ。

  芭蕉はここで猿を哀れに思い、心の中で猿に「小蓑」を着せてやることになる。

  蓑を着せてやる場面は、あるいは当時の人なら謡曲『蝉丸』の、目が見えないことを理由に逢坂山に捨て去られる蝉丸が、蓑笠杖のセットを貰う場面を思い浮かべたかもしれない。ワキは(きよ)(つら)、ツレは蝉丸になる。

 

 ワキ「この御有様にては、なかなか盗人の恐れもあるべければ、御衣を賜はつて、簑といふものを参らせ上げ候。

 ツレ「これは雨にきる田簑の島と詠み置きたる、簑といふものか。

 ワキ「また雨露の御為なれば、同じく笠を参らする。

 ツレ「これは御侍御笠と申せと詠み置きつる、笠といふものよのう。

 ワキ「又この杖は御道しるべ、御手に持たせ給ふべし。

 ツレ「げにげにこれもつくからに、千年の坂をも越えなんとかの遍昭が詠みし杖か。

 (野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.41324-41340). Yamatouta e books. Kindle .

 

 蝉丸は事実はともかくとして、琵琶法師の祖先とも言われている。芸能や職人の集団は、皇室を祖先に持つと考え、それを自らの集団が技術を独占する根拠としている場合が多い。いわば天皇の供御人であることの根拠を神話化していると言って良いだろう。

  この時の蓑笠杖のセットも、そういう意味を持っていたと思われる。

  「盗人の恐れもあるべければ」というのも、皇室から賜った蓑笠杖の威光に盗人も敬意を払うというもので、聖なる者の印でもあったのだろう。

  ただ、聖と賤の両面を持つこうしたアイテムは、卑しい者だから近づくなという意味にもなる。

  蓑は、

 

 あめにより田蓑の島をけふゆけと

     名にはかくれぬ物にぞ有りける

              紀貫之(古今集)

 

 笠は、

 

 みさふらひ御笠と申せ宮木野の

     木の下露は雨にまされり

              よみ人しらず(古今集)

 

 杖は、

 

   仁和のみかとのみこにおはしましける時に、

   御をはのやそちの賀にしろかねをつゑにつくれりけるを見て、

   かの御をはにかはりてよみける

 ちはやぶる神やきりけむつくからに

   ちとせの坂もこえぬべらなり

              僧正遍照(古今集)

 

の歌にも詠まれている。勅撰集の言葉は雅語であり、蓑笠杖はその意味でも特殊なものだった。

  ただ、聖と賤の両面性は当初から存在していて、聖であるがゆえに卑しく、差別の対象となるものだった。差別によって特集な職業を独占することが許され、一方では生活の保障になる。インドのカーストにも同じような性格があった。差別は同時に特権だった。

  多くの職業が世襲だった時代だからこそ有り得たことで、職業選択の自由の認められた近代では、差別はあらゆる職業からの一様の排除であり何の特権もない。この時代は職業で差別してたというよりは、職業を差別していたと言った方が良い。

  差別が同時に特権だった時代には、被差別民は上下逆転した世界に生きていた。特権者という点では自分たちが聖なる存在で、常民たちの上に立つと考えることもできた。後に刀狩りの執行を任され、あるいは江戸時代に岡っ引きとして町の治安を守った穢多非人も、差別=特権という意識が彼らの誇りともいえるアイデンティティを支えていた。

  この上下の逆転の世界、それを謡曲『蝉丸』では逆髪(さかがみ)という、髪の毛が下から上に向かって生える蝉丸の姉を登場させて語らせることになる。

 

 「いかにあれなる童どもは何を笑ふぞ。なにわが髪の逆さまなるがをかしいとや。げにげに逆さまなる事はをかしいよな。

 さてはわが髪よりも、汝等が身にてわれを笑ふこそさかさまなれ。

 面白し面白し。これらは皆人間目前の境界なり。それ花の種は地に埋もつて千林の梢にのぼり、月の影は天にかかつて万水の底に沈む。これらをば皆いづれが順と見逆なりといはん。

 われは皇子なれども、庶人に下り、髪は身上より生ひのぼつて星霜を戴く。これ皆順逆の二つなり面白やな。」

 (野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.41374-41390). Yamatouta e books. Kindle .

 

 この逆髪がこの能のシテで、このあと狂乱を表現するカケリの舞が入る。

  狂乱は謡曲『加茂物狂』に、

 

 「惟も狂もよく念へば聖といへり。その上神は知ろしめすらん。正直捨方便の御恵み、塵に交はる和光の影は、狂言綺語も隔てあらじ。あら愚かの仰せや候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.37457-37465). Yamatouta e books. Kindle .

 

とあるように、狂気であるがゆえに真実を語るという重要な意味を持っていた。

  このことは逆に言えば、真実に近づこうとすれば世間から狂人として排除されるということも含んでいる。つまり、われわれの社会秩序というのは結局のところ絶対的なものではなく任意なものであり、いわゆる我々の理性も含めて、常にそれ自体が狂気であるという可能性を孕んでいるということでもある。

  蓑笠を着た猿が叫んでいるのは、こうした運命に対してだった。それはまさに『笈の小文』にあるような、「造化にしたがひ、造化にかへれ」という風雅の道に忠実であろうとしたばかりに、

 

 「百骸九竅(ひゃくがいきゅうきゅう)の中に物有り。かりに名付て(ふう)羅坊(らぼう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。」

 

といった乞食姿に身を落とした芭蕉自身の叫びでもある。そしたまた、公界で苦しむすべての抑圧された被差別民の叫びでもあった。

  しかし、この声は声にならず、ただ時雨の音がかき消して行く。

 さて、この魂の叫び、そこに其角は「神」という字を当てた。

  神は日本においては全知全能の神ではない。『易経』の「陰陽不測、之を神という」というのは本来東アジア全般に言える多神教世界での神概念だった。つまり人知の及ばないものが神、人間の支配することのできないものが神、それはアイヌの「カムイ」の概念も同様だ。

  古代日本では神の「み」は乙類の「ゐ」で、甲類の「上(かみ)」と区別していた。このゐの文字は元は「うい」と発音され、その名残は後ろに別の語句が付いた時に「かむ」と読むところに残っている。古代日本人は神を「カムイ」と発音していたことになる。

  この神概念はしばしば卑俗化されて、凡人の及ばぬ力を持つ人間に対しても用いられる。芭蕉は俳聖と呼ばれて神格化されたが、同時期に本因坊道策が棋聖と呼ばれていた。

  この場合の「聖」は今日でペレやジーコがサッカーの神様と呼ばれたり、川上哲治が野球の神様と呼ばれたり、アニメや何かで「神回」と呼んだり、試合で大活躍した選手を「神ってる」と言ったりする感覚とそうかけ離れたものではない。説明できないものは皆神なのである。

  俳諧もまた、どんな俳論でも説明し尽くされないような句は「神」であり、こうした句を何句も読む芭蕉は「聖」と呼ばれる。

  当時の人にとっては何だかわからないがとにかく時雨の中で、蓑笠を着せられた猿が何かどうしようもない悲しみを叫んでいるように感じられる。それは即ち「神」だった。

  当時の人にとっての神とはそういうものだった。

  御霊信仰という、非業の死を遂げた人の魂が神になるという思想がある。神というのは本来人の言うに言えない、言い表しようもない叫びの声で、それは「恨み」といってもいい。特定の対象がある恨みではなく、運命そのものへの呪いと言ってもいい。

  生きとし生けるものすべて、この有限な地球上に生まれ、限られた大地の恵みを争って生きている。有限な地球というこの広大な宇宙空間に浮かぶ小さな船には、無限の生命を乗せることが出来ない。そのため生きてゆくために争わなくてはならない。

  こうした中でいつの世でも不条理な敗者というのはいる。それを歎き、叫び、恨み、そして死んでゆく。その魂は人々の記憶の中でいつか亡霊となって行く。

  奴だって我々と同じように生きて行く権利があったじゃないか、我々のように幸せにならなくてはいけなかったんじゃないか。そう後悔しても、地球というこの小さな船に生き物が溢れかえってる状況は何一つ変わらない。それでもその恨みの声は、いつか本当にみんなが平等に幸せに生きられる時代へと導く。韓国の「(ハン)」も本来はそういうものだったのではないかと思う。

  かつての日本人は「恨み」というものをそのようにポジティブに捉えていた。だから恨みを抱いて死んだ人は神として祀られた。その恨みが強ければ強いほど、人を動かす力がある。何とか同じことを繰り返さないようにしなくてはいけないと、我々に反省を強いるからだ。

  この頃は蓑笠を着た猿が神だったが、やがて芭蕉は元禄七年冬に、

 

 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 芭蕉

 

の句を残してこの世を去っていった。

  過去の句の改作ではない完全オリジナルの句は、これが最後になる。そこには辞世の句にありがちな成仏を願う思いがどこにもない。むしろ魂が永遠にこの地に留まることを望んでいるかのようだ。

  旅に死んだ神は「道祖神」とも呼ばれる。自分の果たせなかった旅を後世の人に託し、旅の安全を見守る神だ。

  実際芭蕉は死後あちこちで祠を立てて祭られ、晩年の弟子の一人の惟然は芭蕉の発句の五七五に「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」の七七を付けて、風羅念仏と称して行脚したともいう。芭蕉が神となったのは、神格化されたというよりは道祖神になったと考えた方が良い。旅に死んだ非業の魂の叫びがそのまま神となった。この叫びはあの猿の叫びを呼び興したことであろう。

  さて、そういうわけであの蓑笠着た猿に名前を与えることもできる。まず「道祖神」だ。旅に死んだ魂は道祖神になる。

  そして道祖神は巷の神、公界の神ということで猿田彦大神と結びつけることもできる。猿田彦もまた道の神で、高千穂に降臨した天津神の道案内を務めた。そこから朱子学系の神道では猿田彦は臣下の道の最高神とされ、「猿田彦大神」と呼ばれていた。

  妻となったウズメノミコトはすべての芸能の祖先となった。

  その猿田彦も最後は伊勢で釣りをしていたところで比良夫貝に手を挟まれて死んだ。

  あの蓑笠着た猿は猿田彦の霊だったのかもしれない。猿田彦は仏教の青面金剛と習合して、やはり道端の庚申塔となって今も至る所に残っているし、しばしば道祖神とも同一視されている。

 

 

参考文献

 『倭国』岡田英弘、一九七七、中公新書

 『日本論の視座』網野善彦、一九九〇、小学館

 『異形の王権』網野善彦、一九八六、平凡社

 『無縁・公界・楽』網野善彦、一九七八、平凡社

 『中世の愛と従属』保立道久、一九八六、平凡社

 『悪党的思考』中沢新一、一九八八、平凡社

 『中世民衆の世界』黒田俊雄編、一九八八、三省堂

 『宗祇』小西甚一、一九七一、筑摩書房

 『連歌論集、上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫

 『中世歌論集』久松潜一編、一九三四、岩波文庫

 『西行』安田章生、一九八三、彌生書房

 『俳諧の系譜』鈴木棠三、一九八九、中公新書

 『宗因独吟、俳諧百韻評釈』中村幸彦、一九八九、富士見書房

 『俳句を楽しむ』復本一郎、一九九〇、雄山閣出版

 『芭蕉古池伝説』復本一郎、一九八八、大修館書店

 『芭蕉歳時記』乾裕幸、一九九一、富士見書房

 『芭蕉のうちなる西行』目崎徳衛、一九九一、角川選書

 『芭蕉の狂』玉城徹、一九八九、角川選書

 『鬼貫の「独ごと」』復本一郎、一九八一、講談社学術文庫

 『芭蕉紀行文集』中村俊定校注、一九七一、岩波文庫

 『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫

 『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫

 

 『ヒトはなぜヒトを食べたか』マーヴィン・ハリス、一九九〇、早川書房