「海くれて」の巻、解説

貞享元年臘月十九日

初表

 

  尾張の国あつたにまかりける比、人々師走の

  海みんとて船さしけるに

 海くれて鴨の声ほのかに白し   芭蕉

   串に鯨をあぶる盃      桐葉

 二百年吾此やまに斧取て     東藤

   樫のたねまく秋はきにけり  工山

 入月に鶍の鳥のわたる空     桐葉

   駕篭なき国を露負れ行    芭蕉

 

初裏

 降雨は老たる母のなみだかと   工山

   一輪咲し芍薬の窓      東藤

 碁の工夫二日とぢたる目を明て  芭蕉

   周にかへると狐なくなり   桐葉

 霊芝掘る河原はるかに暮かかり  東藤

   花表はげたる松の入口    工山

 笠敷て衣のやぶれ綴リ居る    桐葉

   あきの烏の人喰にゆく    芭蕉

 一昨日の野分の浜は月澄て    工山

   霧の雫に龍を書続ぐ     東藤

 華曇る石の扉を押ひらき     桐葉

   美人のかたち拝むかげろふ  工山

 

二表

 蝦夷の聟声なき蝶と身を侘て   芭蕉

   生海鼠干すにも袖はぬれけり 東藤

 木の間より西に御堂の壁白く   工山

   藪に葛屋の十ばかり見ゆ   芭蕉

 ほつほつと焙烙作る祖父ひとり  東藤

   京に名高し瘤の呪詛     桐葉

 富士の根と笠きて馬に乗ながら  芭蕉

   寝に行鶴のひとつ飛らん   工山

 待暮に鏡をしのび薄粧ひ     桐葉

   衣かづく小性萩の戸を推ス  東藤

 月細く土圭の響八ッなりて    工山

   棺いそぐ消がたの露     芭蕉

 

二裏

 破れたる具足を国に造りけり   東藤

   高麗のあがたに畠作りて   桐葉

 紅粉染の唐紙に花の香をしぼり  芭蕉

   ちいさき宮の永き日の伽   工山

 春雨の新発意粽荷ひ来て     桐葉

   青草ちらす藤のつぼ折    東藤

      参考;『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

   尾張の国あつたにまかりける比、人々師走の

   海みんとて船さしけるに

 海くれて鴨の声ほのかに白し  芭蕉

 

 貞享元年臘月十九日の興行。臘月は師走の異名。芭蕉の『野ざらし紀行』の旅の途中、熱田での興行だが、船上での興行なのか、それとも舟遊びのあとでの興行なのかは定かでない。

 十九日だから、夕暮れに船を浮かべた時はまだ月はなく、かなり遅くなってから月が昇るまでは真っ暗になる。寝待月ともいう。

 発句はその海が暮れて紺色の空に星が瞬く頃、辺りはすっかり暗くなり、波の音に混じって鴨の声がかすかに、それでいてはっきりと聞こえてくる瞬間を捉えている。「白し」は「しるし」ではっきりとという意味がある。

 

季語は「鴨」で冬、鳥類。「海」は水辺。

 

 

   海くれて鴨の声ほのかに白し

 串に鯨をあぶる盃       桐葉

 (海くれて鴨の声ほのかに白し串に鯨をあぶる盃)

 

 桐葉は熱田の名家で屋敷の間口が七十五間あったという。おそらく今回の舟遊びと興行のスポンサーだったのだろう。芭蕉を迎えるホストということで脇を詠んでいる。

 海岸で火を焚いて串刺しにした鯨肉をあぶったものを肴に酒を飲むとは、何とも豪快だ。

 

季語は「鯨」で冬、水辺。

 

第三

 

   串に鯨をあぶる盃

 二百年吾此やまに斧取て    東藤

 (二百年吾此やまに斧取て串に鯨をあぶる盃)

 

 東藤もやはり熱田の人のようだ。『熱田皺筥(しわばこ)物語』を編纂し、この歌仙も収められている。

 前句の鯨をあぶって酒を飲む豪快な雰囲気から、二百年山で樵をやっている仙人のこととする。

 連歌でも「山がつ」という言葉は隠遁者の意味でも用いられる。水無瀬三吟の七十五句目には、

 

   わすられがたき世さへ恨めし

 山がつになど春秋のしらるらん 宗祇

 

の句があり、湯山三吟の十四句目には、

 

    何をかは苔のたもとにうらみまし

 すめば山がつ人もたづぬな   宗長

 

の句がある。

 こうした隠遁者はいつしか『荘子』にあるような、生まれてきたことを喜びもせず、死ぬことを悲しみもしない、生死を超越して身を自然に任せている仙人のようなイメージに変わってゆく。

 

無季。「吾」は人倫。「やま」は山類。

 

四句目

 

   二百年吾此やまに斧取て

 樫のたねまく秋はきにけり   工山

 (二百年吾此やまに斧取て樫のたねまく秋はきにけり)

 

 工山はよくわからないが、やはり熱田の人か。

 前句を山神様か何かにしたか、秋に樫の団栗を落とし、種を蒔く。

 

季語は「秋」で秋。「樫」は植物(木類)。

 

五句目

 

   樫のたねまく秋はきにけり

 入月に鶍の鳥のわたる空    桐葉

 (入月に鶍の鳥のわたる空樫のたねまく秋はきにけり)

 

 鶍(イスカ)はウィキペディアに、「スズメ目アトリ科に分類される鳥類の一種」で、「日本には主に冬鳥として渡来するが、年によって渡来数の変動がある。少数だが北海道や本州の山地で繁殖するものもある。」とある。また、「イスカのくちばしは左右互い違いになっており、このくちばしを使って、マツやモミなどの針葉樹の種子をついばんで食べる。」ともある。

 普通なら雁がわたるとでもしそうだが、あえてマイナーな鳥を出してきている。

 

季語は「入月」で秋、天象。「鶍の鳥」は鳥類。

 

六句目

 

   入月に鶍の鳥のわたる空

 駕篭なき国を露負れ行     芭蕉

 (入月に鶍の鳥のわたる空駕篭なき国を露負れ行)

 

 駕篭なき国はよほど辺鄙な所か。「露負れ行」は駕籠に負われるのと都を追われるのに掛けていて、露は涙の比喩でもある。涙ながらに辺鄙な土地へ左遷か流刑で行かされる。

 

季語は「露」で秋、降物。

初裏

七句目

 

   駕篭なき国を露負れ行

 降雨は老たる母のなみだかと  工山

 (降雨は老たる母のなみだかと駕篭なき国を露負れ行)

 

 駕篭に乗れずに雨に打たれるがまま背中に露を背負ってゆく。それは老いた母の涙であるかのようだ、と。母との間で何があったのか。

 

無季。「雨」は降物。「母」は人倫。

 

八句目

 

   降雨は老たる母のなみだかと

 一輪咲し芍薬の窓       東藤

 (降雨は老たる母のなみだかと一輪咲し芍薬の窓)

 

 江戸時代には今のようなガラス窓はなかった。ならばここでいう窓はどういう窓なのか。老いた母のイメージを重ねるとすれば、台所の換気用の窓だろうか。芍薬は背が高いので窓からでもよく見える。

 

季語は「芍薬」で夏、植物(草類)。「窓」は居所。

 

九句目

 

   一輪咲し芍薬の窓

 碁の工夫二日とぢたる目を明て 芭蕉

 (碁の工夫二日とぢたる目を明て一輪咲し芍薬の窓)

 

 芭蕉の生まれた一年のち、碁聖と呼ばれた本因坊道策が生まれている。芭蕉の時代は同時に本因坊道策の活躍によって囲碁ブームの起きていた時代だった。

 時間制限のなかった時代だから、一手打つのに長考二日なんてのもあったのだろう。「目を明けて」は目をつぶって考えていたのをようやく良い手を思いついて目を明けるというのと、碁は目を二つ作るともはやその石を取られないというのと掛けている。こうしてできた地は格子窓の芍薬の様でもある。

 

無季。

 

十句目

 

   碁の工夫二日とぢたる目を明て

 周にかへると狐なくなり    桐葉

 (碁の工夫二日とぢたる目を明て周にかへると狐なくなり)

 

 妖狐玉藻前は前歴として周の第十二代の王、幽王の后、褒姒だったという。

 碁は平安時代の女房、女官の間でも盛んに打たれていて、『源氏物語』にも空蝉と軒端荻が碁を打つ場面がある。ならば、玉藻前が碁を打っていたとしてもおかしくないだろう。

 碁に負けて正体を表わした妖狐が周へ帰るといって泣く場面もあったかもしれない。

 

無季。「狐」は獣類。

 

十一句目

 

   周にかへると狐なくなり

 霊芝掘る河原はるかに暮かかり 東藤

 (霊芝掘る河原はるかに暮かかり周にかへると狐なくなり)

 

 霊芝はサルノコシカケ科の茸でマンネンタケとも呼ばれる。今では栽培されているが、かつては非常に希少なもので、中国の皇帝がこぞって求めたともいわれる。ただ、霊芝は木の根っこに生えるもので掘るものではない。

 中国の皇帝が求めるくらいのものだから、玉藻前もこれを見つけたら皇帝に献上しなくてはと思ったのだろう。

 

無季。「河原」は水辺

 

十二句目

 

   霊芝掘る河原はるかに暮かかり

 花表はげたる松の入口     工山

 (霊芝掘る河原はるかに暮かかり花表はげたる松の入口)

 

 「花表」は「とりゐ」と読む。鳥居のこと。元々は中国で宮殿や墓所などの前や大路が交わる所に立てられる標柱のことを花表と言っていたようだが、それを日本の神社の鳥居に当てたものと思われる。

 「とりゐ」は村の門の上に鳥の木形を置いたところから来ているらしく、弥生時代の遺跡から発見されている。長江文明に由来するものと思われる。

 「はげたる」というのは今ではあまり見られないが、木の皮を剝がずに作った黒木鳥居の皮が古くなって剝げたのではないかと思われる。

 「松の入口」というのは、おそらく松林そのものが御神体で、いわゆる「もり」だったからだろう。今日のような拝殿・本殿を持たない古い神社の姿ではないかと思う。

 こういう霊域なら霊芝も生えていそうだ。

 鳥居は桜とは関係ないし、桜のように華やかなという比喩の意味もないので正花にはならない。花の句はこれとは別にこのあと詠まれることになる。

 

無季。「松」は植物(木類)。

 

十三句目

 

   花表はげたる松の入口

 笠敷て衣のやぶれ綴リ居る   桐葉

 (笠敷て衣のやぶれ綴リ居る花表はげたる松の入口)

 

 「敷く」は下に敷くという意味だけでなく、「砂利を敷く」のように地面に撒くという意味もある。「笠敷て」も笠を尻の下に敷いたのではなく、単に地面に置いたという意味。『奥の細道』の中尊寺の場面でも「笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。」とある。

 句の方も旅人だろう。杜(もり)の前で笠を置き、衣の破れを繕う。「やぶれを綴る」という言い回しは、『奥の細道』の冒頭に「もも引きの破れをつづり笠の緒付けかえて」という用例がある。

 

無季。旅体。「笠」「衣」は衣裳。

 

十四句目

 

   笠敷て衣のやぶれ綴リ居る

 あきの烏の人喰にゆく     芭蕉

 (笠敷て衣のやぶれ綴リ居るあきの烏の人喰にゆく)

 

 前句を河原者に取り成したか。昔の河原には死体が打ち捨てられ、カラスがそれを啄ばみに来る。いわゆる「野ざらし」だ。舟遊びをしていても野ざらしを心に旅していることを忘れてはいない。

 

季語は「あき」で秋。「烏」は鳥類。

 

十五句目

 

   あきの烏の人喰にゆく

 一昨日の野分の浜は月澄て   工山

 (一昨日の野分の浜は月澄てあきの烏の人喰にゆく)

 

 野分の後の浜辺には月が出ている。とはいえ、そこには土左衛門が流れ着いてたりもしたのだろう。

 ところでこの土左衛門だが、江戸中期の成瀬川土左衛門という相撲取が語源になっているので、芭蕉の時代には水死体を表わす「土左衛門」という言葉はまだなかった。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「野分」も秋。「浜」は水辺。

 

十六句目

 

   一昨日の野分の浜は月澄て

 霧の雫に龍を書続ぐ      東藤

 (一昨日の野分の浜は月澄て霧の雫に龍を書続ぐ)

 

 絵師は帳面を持って、旅先での景色をスケッチしたり、思いついた絵を描きとめたりする。

 ここでは一昨日の台風の荒れ狂う海のスケッチの上に龍を描き足したのであろう。

 

季語は「霧」で秋、聳物。

 

十七句目

 

   霧の雫に龍を書続ぐ

 華曇る石の扉を押ひらき    桐葉

 (華曇る石の扉を押ひらき霧の雫に龍を書続ぐ)

 

 ここで花の定座になる。ただ、「花表」から四句しか隔ててないので「華」の字を用いている。

 花曇の灰色の雲の切れ間から現れる龍は、さながら石の扉をこじ開けて出てきたかのようだ。

 

季語は「花曇る」で春。

 

十八句目

 

   華曇る石の扉を押ひらき

 美人のかたち拝むかげろふ   工山

 (美人のかたち拝むかげろふ華曇る石の扉を押ひらき)

 

 これは、

 

 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ

     をとめの姿しばしとどめむ

               僧正遍昭

 

が本歌か。石の扉は天の岩戸の連想も働く。

 現れた美人はこの世のものではないので、陽炎のようにゆらゆらと揺らめいている。

 

季語は「かげろふ」で春。恋。「美人」は人倫。

二表

十九句目

 

   美人のかたち拝むかげろふ

 蝦夷の聟声なき蝶と身を侘て  芭蕉

 (蝦夷の聟声なき蝶と身を侘て美人のかたち拝むかげろふ)

 

 蝦夷はここではアイヌなのか古代のエミシなのかはよくわからない。蝦夷の女に惚れてそこの婿になったとしても、やがて戦乱に巻き込まれ、女は死に婿は悲しみにくれる。いかにもありそうな物語だ。

 

季語は「蝶」で春、虫類。恋。「聟」「身」は人倫。

 

二十句目

 

   蝦夷の聟声なき蝶と身を侘て

 生海鼠干すにも袖はぬれけり  東藤

 (蝦夷の聟声なき蝶と身を侘て生海鼠干すにも袖はぬれけり)

 

 海鼠の内臓を取り除き、海水で煮た後乾燥させたものを煎海鼠(いりこ)という。今は中華料理に用いられるが、かつては日本でも薬として珍重されていたが、江戸時代には中国への輸出品となっていた。

 

季語は「生海鼠(なまこ)」で冬、水辺。恋。「袖」は衣裳。

 

二十一句目

 

   生海鼠干すにも袖はぬれけり

 木の間より西に御堂の壁白く  工山

 (木の間より西に御堂の壁白く生海鼠干すにも袖はぬれけり)

 

 干し海鼠に涙を流す人物を、殺生の罪を悲しむお坊さんとし、御堂(みどう)を付ける。

 

無季。釈教。「木の間」は植物(木類)。

 

二十二句目

 

   木の間より西に御堂の壁白く

 藪に葛屋の十ばかり見ゆ    芭蕉

 (木の間より西に御堂の壁白く藪に葛屋の十ばかり見ゆ)

 

 「葛屋(くずや)」は草葺屋根の家のこと。ありふれた農村風景と言えよう。

 

無季。「藪」は植物。「葛屋」は居所。

 

二十三句目

 

   藪に葛屋の十ばかり見ゆ

 ほつほつと焙烙作る祖父ひとり 東藤

 (ほつほつと焙烙作る祖父ひとり藪に葛屋の十ばかり見ゆ)

 

 焙烙は号に虍豆と書く字を用いているが、フォントが見つからなかった。「ほうろく」と読む。素焼きの土鍋。「祖父」は「ヂヂ」と読む。陶芸の集落の情景になる。土地柄からして瀬戸焼だろう。

 

無季。「祖父」は人倫。

 

二十四句目

 

   ほつほつと焙烙作る祖父ひとり

 京に名高し瘤の呪詛      桐葉

 (ほつほつと焙烙作る祖父ひとり京に名高し瘤の呪詛)

 

 これはこぶ取り爺さんのことか。十三世紀前半の『宇治拾遺物語』に登場する。「呪詛」は「まじなひ」と読む。

 

無季。

 

二十五句目

 

   京に名高し瘤の呪詛

 富士の根と笠きて馬に乗ながら 芭蕉

 (富士の根と笠きて馬に乗ながら京に名高し瘤の呪詛)

 

 『校本芭蕉全集』第三巻(小宮豐隆監修、1963、角川書店)の注は、

 伝藤原定家の、

 

 旅人の笠きて馬に乗ながら

     口を曳かれて西へこそ行け

              (『叛匂物語』)

 

を引用している。旅人は馬に連れられ、馬は馬子に口を曳かれながら、ということか。「西へこそ行け」は都へ登る道だが、「西」は西方浄土で死を暗示させる。「笠きて馬に乗ながら」はこの歌からそっくり拝借した感じだ。

 同じ頃に芭蕉は、

 

 年暮れぬ笠きて草鞋はきながら 芭蕉

 

の発句を詠んでいる。

 「富士の根」は「富士の峰(ね)」のこと。

 

 時知らぬ山は富士の嶺いつとてか

     鹿の子まだらに雪の降るらむ

              在原業平(新古今集)

の歌も「富士の嶺(ね)」と読む。

 なお、この業平の歌は仮名草子『竹斎』でも引用されていているところから、前句の「京に名高し瘤の呪詛」に竹斎の姿をイメージしたのかもしれない。竹斎は京に名高い「やぶくすし」(ただし似せ物)を名乗っている。

 

 狂句木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉

 

もこの頃の句。

 

無季。「富士」は名所、山類。「笠」は衣裳。「馬」は獣類。

 

二十六句目

 

   富士の根と笠きて馬に乗ながら

 寝に行鶴のひとつ飛らん    工山

 (富士の根と笠きて馬に乗ながら寝に行鶴のひとつ飛らん)

 

 「寝」は前句の「根(峰)」に掛けた掛けてにはになっている。富士のねに向って鶴は寝にゆく。

 

無季。「鶴」は鳥類。

 

二十七句目

 

   寝に行鶴のひとつ飛らん

 待暮に鏡をしのび薄粧ひ    桐葉

 (待暮に鏡をしのび薄粧ひ寝に行鶴のひとつ飛らん)

 

 「粧ひ」は「けはひ」と読む。鎌倉に化粧坂(けわいざか)という地名がある。

 前句の鶴を高貴な男の喩えとし、それが寝に来るということで、ひそかに鏡を見て薄化粧する。

 

無季。恋。

 

二十八句目

 

   待暮に鏡をしのび薄粧ひ

 衣かづく小性萩の戸を推ス   東藤

 (待暮に鏡をしのび薄粧ひ衣かづく小性萩の戸を推ス)

 

 「萩の戸」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① (前庭に萩が植えてあったところからとも、障子に萩が描いてあったところからともいう) 平安時代、清涼殿北庇の東に面した妻戸の称。のち、戸わきの弘徽殿(こきでん)の上の局あたりまでを称するようになった。萩殿(はぎどの)。

 ※讚岐典侍(1108頃)下「萩の戸におもかはりせぬ花見てもむかしを忍ぶ袖ぞ露けき」

  ② 近世に、清涼殿を復古した際に①を誤って清涼殿の一室とし、夜の御殿の北、弘徽殿(こきでん)の上の局と藤壺の上の局との間に設けた部屋。萩殿。《季・秋》

 ※俳諧・増山の井(1663)七月「萩殿 萩の戸」

 

とある。

 前句を小姓(男)とし、女御更衣ではなく男が夜の御殿(よるのおとど)にこっそりと通ってくる。

 「推ス」は推敲の語源となった「僧推月下門」を思い起こさせる。月呼び出しと言えよう。

 

季語は「萩」で秋、草類。「衣」は衣裳。「小姓」は人倫。「戸」は居所。

 

二十九句目

 

   衣かづく小性萩の戸を推ス

 月細く土圭の響八ッなりて   工山

 (月細く土圭の響八ッなりて衣かづく小性萩の戸を推ス)

 

 土圭(とけい)は機械式の時計、自鳴鐘のことで、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 「歯車仕掛けで自動的に鐘が鳴って時刻を知らせる時計。12世紀の末ごろ、日時計・砂時計に替わってヨーロッパで発明され、日本には室町時代に伝えられた。」

 

とある。

 この種の和時計は高価なもので、将軍大名クラスがお抱えの時計師に作らせたりした。

 「八ッ」はこの場合は夜八ッのことで、丑の刻ともいう。下弦を過ぎて細くなった月が東の空に上る。そんな時間に小姓がこっそりとやってくる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

三十句目

 

   月細く土圭の響八ッなりて

 棺いそぐ消がたの露      芭蕉

 (月細く土圭の響八ッなりて棺いそぐ消がたの露)

 

 「棺」は「はやおけ」と読む。死者のあったときに間に合わせに作る簡単な棺桶をいう。

 将軍家か大名家で夜中に誰か亡くなって慌てている様子が浮かぶ。

 「此梅に」の巻の五十二句目にも、

 

   富士の嶽いただく雪をそりこぼし

 人穴ふかきはや桶の底     桃青

 

とあった。これは昔の葬式では、死者は仏道に入るものとして髪を剃って納棺したので、富士山も死ねば雪を剃りこぼして、富士宮の人穴(溶岩洞穴)を仮桶とするというシュールな句。

 

季語は「露」で秋、降物。

二裏

三十一句目

 

   棺いそぐ消がたの露

 破れたる具足を国に造りけり  東藤

 (破れたる具足を国に造りけり棺いそぐ消がたの露)

 

 『校本芭蕉全集』第三巻の注には「『造』は『送』の草体よりの誤。」とある。それだと普通に合戦で死んだ人の句で、故郷に遺品を送る句になる。

 

無季。「具足」は衣裳。

 

三十二句目

 

   破れたる具足を国に造りけり

 高麗のあがたに畠作りて    桐葉

 (破れたる具足を国に造りけり高麗のあがたに畠作りて)

 

 ここに「作りて」とあるから「造りけり」だと同語反復になる。やはり「送りけり」で正解なのだろう。

 文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉倭乱)の時に現地に住み着いてしまった人もいたのだろうか。第二次大戦の時には東南アジアにそのまま住み着いて帰国しなかった兵士がたくさんいたが。

 

無季。

 

三十三句目

 

   高麗のあがたに畠作りて

 紅粉染の唐紙に花の香をしぼり 芭蕉

 (紅粉染の唐紙に花の香をしぼり高麗のあがたに畠作りて)

 

 「唐紙」はここでは「とうし」と読ませているが、「からかみ」は京都の名産品で襖に多く用いられたので、近年でも襖のことを「からかみ」と言っている。最近はあまり聞かなくなったが。

 ウィキペディアには、

 

 「京における高度な紙の加工技術が、平安王朝のみやびた文化を支えたともいえる。豊かな色彩感覚は、染め紙では高貴やかな紫や艶かしい紅がこのんで用いられるようになった。」

 

とある。

 前句の朝鮮出兵から一変して王朝の風雅に取り成す。

 高麗のあがたはここでは武蔵国高麗郡のことであろう。かつては高句麗の遺民が住んでいた。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。

 

三十四句目

 

   紅粉染の唐紙に花の香をしぼり

 ちいさき宮の永き日の伽    工山

 (紅粉染の唐紙に花の香をしぼりちいさき宮の永き日の伽)

 

 王朝の雰囲気を引き継いで、幼い宮様のお相手をして春の長い一日を過ごすとする。

 

季語は「永き日」で春。

 

三十五句目

 

   ちいさき宮の永き日の伽

 春雨の新発意粽荷ひ来て    桐葉

 (春雨の新発意粽荷ひ来てちいさき宮の永き日の伽)

 

 「新発意」は仏道に入ったばかりの者。「しんぼち」と読む。

 「粽(ちまき)」は最近ではいろいろな具材の入った中国料理を指すことが多いが、日本の粽は餅米を笹や竹の皮やチガヤの葉で包み、灰汁で煮込んだものだった。今でも南九州に「あくまき」と呼ばれるものが残っている。筆者も鹿児島にいた時に食べたことがある。

 粽というと端午の節句だが、かつては上巳の節句でも食べることがあったのか。

 前句の「ちいさき宮」を神社の意味の取り成す。神仏習合でお寺とお宮は一緒にあった。

 

季語は「春雨」で春、降物。釈教。「新発意」は人倫。

 

挙句

 

   春雨の新発意粽荷ひ来て

 青草ちらす藤のつぼ折     東藤

 (春雨の新発意粽荷ひ来て青草ちらす藤のつぼ折)

 

 「つぼ折」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 小袖、打掛などの着物の両褄を折りつぼめ、前の帯にはさみ合わせて、歩きやすいように着ること。

  ※浮世草子・紅白源氏物語(1709)序「吉野山の花を雲と見給ひ、立田川の紅葉を錦と見しは万葉の古風、市女笠着てつぼほり出立の世もありしとかや」

  ② 能の女装の衣装のつけ方の名称。唐織りや舞衣などの裾を腰まであげをしたようにくくり上げて、内側にたくしこんで着ること。

  ※波形本狂言・鬮罪人(室町末‐近世初)「ざひ人のやうにとりつくらふて下され〈略〉ツボ折作物コシラヱル内ニ」

  ③ 歌舞伎で、時代狂言の貴人や武将が上着の上に着る衣装。打掛のように丈長(たけなが)で、広袖の羽織状をなした華麗なもの。壺折衣装。」

 

とある。この場合は①か。

 藤の花の下、青草を散らしながら小袖を壺折にして粽を運んでくる新発意の姿を描き出し、この一巻も目出度く終わる。

 

季語は「藤」で春、植物(草類)。「青草」も植物(草類)。「つぼ折」は衣裳。