『俳諧問答』を読む

 『俳諧問答』は元禄十年(一六九七年)、去来が其角に向けて「贈晋氏其角書」を書いたのをきっかけに、許六と去来との間で交わされた手紙のやり取り、「贈落柿舎去来書」「答許子問難弁」「再呈落柿舎先生」「俳諧自讃之論」「自得発明弁」「同門評判」を一冊の本にしたもので、天明五年(一七八五年)に浩々舎芳麿により『俳諧問答青根が峰』として出版され、寛政十二年(一八〇〇年)に『俳諧問答』の題で再版されている。

 ここでは昭和二十九年(一九五四年)の岩波文庫版『俳諧問答』(横澤三郎校注)を読んでみることにする。


贈晋氏其角書

1、蕉門俳諧の一変

 

 「故翁奥羽の行脚より都へ越えたまひける、当門のはい諧すでに一変す。

 我ともがら笈を幻住庵にになひ、杖を落柿舎に受て、略そのおもむきを得たり。瓢・さるみの是也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31)

 

 今は亡き芭蕉翁は『奥の細道』の旅を終え、一度故郷の伊賀へ戻った後、芭蕉は京都に行く。

 『去来抄』「修行教」には、

 

 「魯町曰、先師も基より不出風侍るにや。去来曰、奥羽行脚の前はまま有り。此行脚の内に工夫し給ふと見へたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりすと云ふ句あり。後にあなの二字を捨すてられたり。是のみにあらず、異体の句どもはぶき捨給ふ多し。此年の冬はじめて、不易流行の教を説給ときたまへり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.64)

 

とあり、十二月に芭蕉が京都の去来の落柿舎を尋ねた時、不易流行を説いたと思われる。

 この場合の「基(もとゐ)」は五七五の連歌以来受け継がれてきた形式で、和歌の五七五七七からきた古典の伝統を引くものをいう。天和の頃の大きく字余りする句は基を離れたものとなる。

 『奥の細道』の旅の途中、小松で詠んだ句も最初は、

 

 あなむざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉

 

だった。「あなむざんやな」は謡曲『実盛』から取っている。「あな」を取っても意味は変わらないが、謡曲の言葉を使ったというインパクトは薄れる。謡曲の言葉の引用は流行で、五七五に無難に改められた体が「基」ということになる。

 ただ、これはあくまで使う言葉の変化にすぎない。

 『奥の細道』までの蕉風確立期の俳諧は、当時の現代のあるあるネタと古典ネタが混ざり合って、出典のある本説付けなどが続くと展開が重くなる傾向があった。

 蕉風確立期から『ひさご』『猿蓑』の風への変化は、本説付けを出典にべったりにせずに、何となく連想させるだけのような俤(おもかげ)付けへと変り、物付けも、それと言わずに匂わせる「匂い付け」を広めることで、展開を楽にしよういうものだった。

 

 「その後またひとつの新風を起さる。炭俵・続猿蓑なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31)

 

 これは猿蓑調の延長で、古典趣味を少なくしてより生活に密着したあるあるネタの比率を増やしていったもので、今日では「軽(かろ)み」の風と呼ばれている。

 江戸の『炭俵』に較べると上方の『続猿蓑』は、やや不徹底な猿蓑調を引きずった古典趣味が見られる。

 

 

2、其角は不易流行をどう思うか

 

 「去来問云、師の風雅見およぶ処、次韻にあらたまり、実なし栗にうつりてより以来、しばしば変じて、門人その流行に浴せん事をおもへり。吾これを聞けり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31)

 

 ここからが其角への質問状になる。

 去来は慶安四年(一六五一)の生まれ、其角は寛文元年(一六六一) の生まれで、意外にも去来のほうが十歳も年上になる。

 其角は自選の発句集『五元集』の序文に「延宝のはじめ桃青門に入しより」と書いているように、大体数えで十五前後の元服の頃に既に桃青(芭蕉)に入門していたと思われる。

 ただ、其角の作品が世に出るのは、『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信著、二〇〇〇、新典社)によれば、延宝七年刊の才丸編『坂東太郎』で、

 

 雁鹿虫とばかり思ふて暮けり暮   其角

 朝鮮の妹や摘むらん葉人参     同

 

の句がある。

 「雁鹿虫」の句は雁と鹿と虫とばかり思って暮れた(秋の)暮れで、暮秋の句だが「秋」が抜けている。

 葉人参はよくわからないが、人参は十六世紀に日本に伝来し、今の金時人参に近く、昔は葉も食べていたという。これに対しいわゆる朝鮮人参(オタネニンジン)が栽培されるようになったのは将軍吉宗の頃からだった。

 漢方薬としての朝鮮人参は古くから知られていたので、普通の人参の葉を見て、朝鮮でも食べるのだろうか、と詠んだのだろう。

 延宝八年には『桃青門弟独吟二十歌仙』が刊行され、ここで、

 

 月花ヲ医ス閑素幽栖の野巫の子有 螺舎

 

を発句とした独吟歌仙が発表されている。号は其角でなく螺舎の名義になっている。巻頭が杉風で其角(螺舎)は十四番目だった。

 その其角の名を一躍有名にしたのは、翌延宝九年刊の桃青編『俳諧次韻』だった。桃青(芭蕉)、其角、才丸、揚水の四人による、これまでの談林調を抜け出した、シュールで様々な文字表記上の実験が為された二百五十句は、桃青(芭蕉)の新風を広く世にアピールするものだった。

 そしてこの風は更に其角編の『虚栗(みなしぐり)』へと発展し、いわゆる天和調を確立した。

 去来が「師の風雅見およぶ処、次韻にあらたまり、実なし栗にうつりてより以来」という時、其角は間違いなくその最前線にいた。

 そして、「門人その流行に浴(あび)せん事をおもへり。」と、その流行の最前線に立って、当時の俳諧に水を浴びせていったのは他ならぬ其角だった。「吾これを聞けり。」と、去来は俳諧に関心は持っていたが、まだ武士を辞め、堂上家で陰陽道などを習っていた頃だった。やがて貞享の頃、其角を介して芭蕉に入門し、貞享三年の『蛙合』に参加している。そのときの句は、

 

 一畦はしばし鳴やむ蛙哉    去来

 

 芭蕉は貞享三年閏三月十日付去来宛書簡で、

 

 「御秀作度々相聞、千里隔といへども、心一に叶時は符節と合候而、毫髪可入處無之、近世只俳諧之悟心明に相きこへ候而、爰元連衆、別而は文鱗・李下よろこぶ事大に御坐候。此度蛙之御作意、爰元に而云盡したる様に存候處、又々珍敷御さがし、是又人々驚入申し候。当秋冬晩夏之内上京、さが野の御草庵に而親話盡し可申とたのもしく存罷有候。さがへ、キ丈御方へ参候事は其元に而もさたなきがよく候。」

 

と賛辞を送り、近々京都嵯峨野の落柿舎に合いに行くと言っている。

 貞享四年の冬、芭蕉は『笈の小文』の旅に出、翌貞享五年四月二十三日に京に入っている。このとき芭蕉は落柿舎をたずねたものと思われる。

 

 「句に千歳不易のすがたあり。一時流行のすがたあり。これを両端におしへたまへども、その本一なり。一なるはともに風雅のまことをとれば也。

 不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば風あらたまらず。よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云ふことなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31~32)

 

 不易流行説は芭蕉が元禄二年に『奥の細道』の旅を終え、その後京都落柿舎に立ち寄った時に説いたという。その教えは今日では『去来抄』「修行教」と土芳の『三冊子』「あかさうし」で知ることができるが、それ以降の門人には積極的に説いたようには思えない。そこがこの『俳諧問答』の許六との論点の違いになって現れるし、支考との確執にもつながっていく。もちろん、古くからの門人に浸透してないのも、芭蕉が再び江戸に戻る頃には、それほど不易流行説に固執してなかったからではないかと思われる。

 不易流行説は朱子学の影響が濃く、元々そんなに芭蕉的ではない。おそらく『奥の細道』の長旅を伴にした、朱子学系神道の大家である吉川惟足に学んだ岩波庄右衛門(曾良)の影響と思われる。

 芭蕉自身はこまごまとした理屈にはこだわらず、その時その時で教え方が変わっていったと思われる。

 不易流行に関して、『去来抄』「修行教」と土芳の『三冊子』「あかさうし」の記述はよく似ていて、同時期に説いたものと思われる。

 『去来抄』「修行教」の冒頭にはこうある。

 

 「去来曰、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云有。これを二ッに分つて教へ給へども、其基は一ッ也なり、不易を知らざれば基(もとゐ)立がたく、流行を辧(わきま)へざれば風あらたならず。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.61)

 

 そして『三冊子』「あかさうし」の冒頭にはこうある。

 

 「師の風雅に万代不易有。一時の変化あり。この二ツに究り、其本一也。その一といふは風雅の誠也。不易をしらざれば実に知れるにあらず。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.100)

 

 芭蕉自身はこれに類する言葉を書き残していないが、近いものとしては、『笈の小文』の次の文章であろう。

 

 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」

 

 この文章がいつごろ書かれたのかははっきりしない。おそらく『奥の細道』が書かれたとされる元禄五年の夏までには書かれていたのではないかと思われる。

 おそらくは実際の貞享四年から五年にかけての旅の途中から断片的に書き溜めていたものを、少しづつ改稿を繰り返しながらまとめていったものと思われる。

 芭蕉のこの『笈の小文』の文章からすると、不易と流行の本の一なるものは俳諧に限らず、すべての文化芸術の根底にある一であり、「風雅の誠」もまたそういう性質のものと思われる。風雅に限定されるものではなく、ごく一般的に朱子学でいう「誠」と同一と見てもいいのかもしれない。それは人間を人間たらしめているものと言ってもいいのだろう。

 簡単に言えば、それは生物界の一般的な生存競争に対する「目覚めた意識」なのかもしれない。

 それに較べると、『去来抄』「修行教」の「基(もとゐ)」の解釈は、和歌連歌の五七五の形式や雅語を基礎とした文章といったかなり狭い解釈ではないかと思われる。

 基(もとゐ)のこうした形式的な解釈は、去来の不易流行論を限界付けている。

 たとえば、『去来抄』「同門評」の、

 

 応々といへどたたくや雪のかど   去来

 

の句にしても、丈草は「此句不易にして流行のただ中を得たり」と不易流行の句として評価しているが、そのほかの門人の評価は一定しない。

 この句は、

 

 嘆きつつひとりぬる夜のあくる間は

    いかにひさしきものとかは知る

               右大将道綱母

 

の歌を踏まえているというが、元歌の恋の情と、単に雪の外で待たされている日常の光景とは情の深さが違いすぎる。去来にとって不易はいつの時代でもどこの国でも変わらないような、恋するときのあの切ない気持ちではなく、あくまで待たされているという外見的な一致にすぎなかった。

 同じ「同門評」の、

 

 時雨るるや紅粉(もみ)の小袖を吹かへし 去来

 

の句にしても、これが、

 

 

 ほのぼのと有明の月の月影に

    紅葉吹きおろす山おろしの風

               源信明

 

の歌によるとしても、風に紅葉と、風に「紅粉の小袖」ではまったく情が違う。去来が不易をあくまで形式的にしか理解していず、情として捉えてなかった所に決定的な間違いがあったのではないかと思う。

 おそらく単純な日常的なあるあるネタの句をどう不易に結びつけてよいのか、そこが理解できなかったのではないかと思う。

 あるあるネタは芭蕉が古くから得意としていた笑いのパターンだが、蕉風確立期から付け句の方で重視されてきたものの、発句に取り入れられるようになったのは芭蕉が不易流行を説き出した後の『猿蓑』の頃からで、特に凡兆がその方面で才能を発揮した。

 元禄三年の九月に堅田で詠んだ、

 

 病鴈のよさむに落て旅ね哉      はせを

 あまのやハ小海老にまじるいとど哉  同

 

の二句についての、『去来抄』「先師評」の、

 

 「さるミの撰の時、此内一句入集すべしト也。凡兆曰、病鴈ハさる事なれど、小海老に雑(まじ)るいとどハ、句のかけり事あたらしさ、誠に秀逸也と乞。去来ハ小海老の句ハ珍しいといへど、其その物を案じたる時ハ、予が口にもいでん。病鴈は格高く趣(おもむき)かすかにして、いかでか爰(ここ)を案じつけんと論じ、終に両句ともに乞て入集す。其後先師曰、病鴈を小海老などと同じごとくに論じけりと、笑ひ給ひけり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.17~18)

 

はそれをよく表している。

 芭蕉の古池の句もあるあるネタであることには変りないが、そこに在原業平の「月やあらぬ」の情を潜ませることで、流行と不易を両立させた。

 しかし、『猿蓑』の新風の時には、この不易の情の要件はかなり緩くなっていて、その分発句が身近で作りやすいものになった。

 実際に発句の数も増え、趣向も多様になった。夏といえばそれまでは主人のもてなしに感謝する意味で涼しさを詠むのが普通だったが、『猿蓑』からは暑さの苦しさもテーマとなった。確かに夏の暑さの苦しさは昔も今も変わるまい。

 そうなると一体何が不易なのか、門人達の間でも解釈が分かれ、かなり混乱が生じたのではないかと思う。

 なぜ、

 

 じだらくに寝れば涼しき夕哉   宗次

 

は良くて、

 

 夕涼み疝気おこしてかへりけり   去来

 

は駄目なのか、説明するとなると難しい。

 根底にあるのが「誠」であるのは間違いないにしても、これだけではやはり漠然としている。

 芭蕉よりも早い貞享二年に、伊丹の上島鬼貫も「まことのほかに俳諧なし」と言っている。

 芭蕉が次第に不易流行を言わなくなっていったのも、そうした混乱によるものなのかもしれない。許六に教える時は不易流行ではなく血脈の重要性を説き、支考には虚実の論で説明した。血脈は風雅の誠を言い換えたものだろうし、虚実の論は流行を虚、不易を実として説明したものだとすれば、結局は同じことを言っている。

 朱子学で言う「理」は西洋の理性とは異なり、メンタルな部分も含んでいる。そのメンタルな側面を「性」と呼び、朱子学を性理の学ともいう。「性理」と「理性」は単に字がひっくり返っただけのものではない。西洋の理性が肉体的な欲望をより効率よく実現するための科学であるのに対し、東アジアの性理は常に人間同士の感情の調整を伴う術策であり、そこには理論だけでは成り立たない機知が必要とされる。

 「誠」という言葉も明確に定義したり説明したりはできなくても、ほとんどの日本人は暗黙のうちにそれがどういうものかはわかっている。新撰組の衣装にも背中に誠の文字があるし、今日の会社のユニホームなどでも背中に大きく「誠」の文字を入れてる会社があったりする。

 西洋的な真理とは違い、メンタルな部分を含んだ普遍性を風雅の誠と呼んでいるため、その理解においても人によってかなり差があるのは避けられない。

 しかし、こうした普遍性は基本的には生物学的な解明は可能であろう。恋する心の普遍、失恋の悲しみの普遍、花に喜びを見出し、散ったり枯れたりするのを惜しむ感情など、少なからず生物学的な基礎を持っていると考えられる。たとえば、花が快楽なのは、かつて果実食だった頃の名残で、花のある所には必ず実りがあるという経験の積み重ねから、花を見ると脳内物質による快楽報酬が得られるような進化が起こった可能性はある。

 理屈で説明できないが人間として普遍的な感情があるとして、一体それはどうすれば証明できるかとなれば、結局それを作品として表現し、多くの人に末永く共感を得られたなら、それは不易だということになる。

 芸術の進歩も一種のダーウィニズムで、それぞれの作者が様々な実験を繰り返しながら、その中で多くの人の胸を打ち、記憶に残ることによってその普遍性が証明され、それを次ぎの作者が模倣してゆく。こうして面白いものは残り、複製を生み出し、つまらなかったものは忘却される。これを繰り返すことで芸術は進化する。

 流行とは人間のあくなき創造意欲と記憶の限界から来る自然現象で、たくさんの新しい作品が生み出されても、我々はそれをいちいち全部記憶することはできない。その結果新たに作られた作品の大半は作るそばから忘却され、記憶に残ったものだけが生き残る。それを繰り返すことで結果的に時代を超えた普遍的なものが残ってゆくことになる。

 ただ、生物の進化でもある時期に大量の絶滅が生じる時がある。恐竜の時代が終って哺乳類の時代が来たように。文化もまた戦争や社会構造の変化によって、それまで発展してきたものが途絶え、また一から別のものが作り直されるときもある。

 勅撰集を中心とした和歌の発展は王朝時代が終り文化の中心が武家や地下に移ったときに終わりを告げ、代わりに連歌が台頭することになる。それも戦国時代を経て江戸時代になるとそれまでの社会構造が一変し、急速に大衆文化が広がることで俳諧が盛んになった。

 流行とは未来へ向けての様々な新しい実験の繰り返しであり、不易とは同じような過程を経て生き残った過去の作品によって既に証明されているものをいう。

 ここで『俳諧問答』の去来の言葉に戻ってみよう。

 

 「不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば風あらたまらず。よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云ふことなし。」

 

 基本的に新しい作品は実験だから、必ずしも最初に不易を学ぶ必要はない。実験して大衆の支持を得、多くの人の記憶にと留まり、模倣を生めばこの実験は成功したことになる。失敗なら、ただ無視され忘れ去られるのみだ。

 だから流行の句を学ぶことには確かに意味がある。学ぶは「まねぶ」であり、成功した作品の模倣をすることで、それが不易である事をあらためて検証することができる。こうして成功した者を真似し失敗したものを捨てて行けば、その芸術は急速な進化を遂げることができる。

 不易は試行錯誤を繰り返して勝ち取ってゆくもので、必ずしも最初に学ぶ必要はない。芭蕉も貞門、談林、次韻、虚栗の試行錯誤を繰り返し、やがて古池の句の成功を得、なおかつ新しい実験を繰り返してきた。不易流行に行き着くのはそのあとのことだった。

 

 「たまたま一時の流行に秀たるものは、ただおのれが口質のときに逢ふのみにて、他日流行の場にいたりて一歩もあゆむことあたはずと。

 しりぞいておもふに、其角子は力のおこのふことあたはざるものにあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.32)

 

 「口質」は「くちぐせ」と読む。『三冊子』「あかさうし」に「是に押移らずと云は、一端の流行に口質時を得たる計にて、その誠をせめざる故也」とあり、『去来抄』「修行教」には「一句にしほりの有様に作すべしと也。是は作者の気性と口質とによりて也」とある。

 今日でいう口癖というよりは、むしろ「言語感覚」に近いかもしれない。その時その時のはやりの言語感覚というのは、コピーライティングでも作詞でもあったほうがいいに違いない。

 言葉は時代によって変わるとはいえ、たくさんの流行語が次々に作られても定着するものは少ない。「チョベリバ」は九十年代後半の若者の言語感覚にはアピールするものがあっただろうけど、あっという間に使われなくなった。

 俳諧でも、その時は受けた言葉遣いも、何年か経ってすっかり古くなってしまうことがあったのかもしれない。

 言語が時とともに変化してゆくように、ある時代にもてはやされた言語感覚も、若い世代が台頭してくると次第に親父臭くなる。だから言語感覚だけで売っていると、やがて古くなる。作詞家やコピーライターでも年取ってなお流行の最前線にいられる人はほとんどいない。

 芭蕉もまた元禄六年の歳旦で自嘲気味に、

 

 年々や猿に着せたる猿の面    芭蕉

 

の句を詠んでいる。芭蕉も必死に流行についていこうとしてたけど、自分でも無理していると思ってたようだ。

 去来も其角より十も年上だから、自分はまだ流行に乗ってるようなふりをしているけど、かなり無理をしてるのではないか。自分が無理をしているだけに、無理をしない其角がどうにも気になってしょうがないのだろう。

 流行には二つの側面があると思う。

 一つは進化の過程としての流行。もう一つは世の中の移り変わりに伴う外見上の流行。

 たとえばロックがロカビリーの流行から始まり、プレスリーが一世を風靡し、そしてビートルズが世界的な現象となり、ついで、プログレ、グラム、ハードロックなど次々と流行し、パンクは一度プリミティブな所に回帰し、ニューウェーブ、テクノ、アバンギャルド、オルタナ、グランジ、ポストロックといった流れを生んでいった。パンクと同時期にハードロックの延長線上に登場したヘビーメタルは、やがてブラックメタル、デスメタル、スラッシュメタル、ドゥームメタル、フォークメタルなどいろいろなものを生み出していった。

 ロックは一方で黒人文化にも影響を与え、ソウルからヒップホップへのもう一つの流れを作った。それはしばしば白人文化と融合して、クロスオーバー、フュージョン、ミクスチャーを生んだ。

 これは進化と適応放散であり、一つの芸術のジャンルが驚くべき多様性へと発展を遂げた例で、「ナウな」が「ナウい」になって「今い」だとか「トレンディ」だとか「トレンドな」だとか言葉だけ変わってくような流行とは異なる。

 芭蕉が流行の最前線にいたのは、俳諧の進化の過程での流行で、表面的な言葉の流行ではない。そういう意味でも去来が其角に対して言おうとしていることは、的外れとしかいいようがない。

 俳諧の進化も直線的なものではない。様々な方向に枝分かれし、適応放散してゆくのが進化の自然なあり方だ。

 

 「且つ才麿・一晶のともがらのごとく、おのれが管見に息づきて、道をかぎり、師を損ずるたぐひにあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.32)

 

 蕉門の側から見れば才麿・一晶は「師を損ずる」かもしれないが、俳諧の発展の方向は一つではない。一晶はともかく、才麿は大阪談林を牽引し、その自由でやや通俗的な作風は蕪村にも受け継がれたと思う。長い目で見るなら、今日の関西の笑いの基礎を作ったといってもいいかもしれない。

 適応放散という点では其角が切り開いた点取り俳諧もまた、川柳点へのもう一つの流れを作っているし、ある意味近代の「ホトトギス」以降の俳句誌の手法も点取り俳諧の流れを引いている。

 

 「みずからおよぶべからざることは、書に筆し、くちに言へり。

 しかれどもその詠草をかへり見れば、不易の句におゐては、すこぶる奇妙をふるへり。流行の句にいたりては、近来そのおもむきをうしなへり。

 ことに角子は世上の宗匠、蕉門の高弟なり。かへつて吟跡の師とひとしからざる、諸生のまよひ、同門のうらみすくなからず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.32)

 

 本来芭蕉の不易流行の不易はあらゆる芸術の根底にあるような人を人たらしめているような普遍性の高いものだったが、去来にとって不易はむしろ「伝統」と言った方がいいのだろう。

 これに対して流行は今まさに創造しようとしているものではなく、今の時代を詠んだものくらいの意味しかないように思える。

 『去来抄』「修行教」には、不易の句は、

 

 「魯町曰、不易の句はいかに。去来曰、不易の句は俳諧の体にして、いまだ一の物数寄なき句也。一時の物数寄なきゆへに古今に叶へり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.62)

 

とある。

 そして、流行の句に関しては、

 

 「魯町曰、流行の句はいかに。去来曰、流行の句は己に一ツの物数寄有て時行也(はやるなり)。形容衣裳器物に至る迄まで、時々のはやりあるがごとし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.62)

 

 「物数寄」という言葉は中世には連歌や茶道に入れ込むことを言っていたようだが、江戸時代になると趣味も多様化し、形容衣裳器物もその時その時の流行があり、それを追いかけるのを物数寄と呼んでいるようだ。

 その「物数寄」がないのが不易の句で、「物数寄」があるのが流行の句だという。

 まあ、要するに昔からあるものを昔ながらのスタイルで詠んだものを不易の句といい、最近はやる物を最近の流行の仕方で詠んだものが流行の句ということか。

 この基準だと、「不易の句におゐては、すこぶる奇妙をふるへり」というのは、

 

 饅頭で人を尋ねよ山ざくら   其角(「韻塞」)

 楠の鎧ぬがれしぼたんかな   同 (「韻塞」)

 なよ竹の末葉残して紙のぼり  同 (「韻塞」)

 月影やここ住よしの佃島    同 (「韻塞」)

 

といった句か。

 「流行の句にいたりては、近来そのおもむきをうしなへり」というのは、

 

 いつとろに袷になるや黒木売  其角(「韻塞」)

 越後屋に衣さく音や更衣    其角(「浮世の北」)

 竹と見て鶯来たり竹虎落    其角(「菊の香」)

 扇的花火たてたる扈従かな   其角(「皮籠摺」)

 

といったような句か。

 別にそんな悪い句とは思わないが、むしろ去来の側に芭蕉の古くからの高弟で去来自身も師と崇めてきた其角だけに、期待するものが大きすぎたのかもしれない。

 

 「翁のいはく、なんぢが言しかり。しかれどもおよそ天下に師たるものは、まづおのが形・くらゐをさだめざれば、人おもむく所なし。

 これ角が旧姿をあらためざるゆへにして、予が流行にすすまざるところなり。

 わが老吟にともなへる人々は、雲かすみのかぜに変ずるがごとく、朝々暮々かしこにあらはれ、ここに跡なからん事をたのしめる狂客なりとも、風雅のまことを知らば、しばらく流行のおなじからざるも、又相はげむのたよりなるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.32~33)

 

 去来さんはかなり自慢げに「予が流行」だとか「雲かすみのかぜに変ずるがごとく」だとか、いかにも流行に乗っているようなそぶりだが、実際にどんな句を詠んでいたか、元禄九年刊の『韻塞』から拾ってみよう。

 

 行かかり客に成けりゑびす講  去来

 行年に畳の跡や尻の形     同

 芳野山又ちる方に花めぐり   同

 見物の火にはぐれたる歩行鵜(かちう)哉 同

 

 「ゑびす講」自体は別に新しいものではないし「芳野山」の句も特に物数寄なこともない。「行年に」の句はあるあるネタだがそんな面白いものでもないし、古典の情に通うものでもない。「火にはぐれた歩行鵜」も鵜飼の光景だが、鵜飼自体は新しいテーマではない。

 むしろこうした句は古典的なテーマに古典の情とは無関係なあるあるネタを展開したような感じで、題材が不易、内容が流行みたいな捉え方をしているようだ。

 こういうのを流行だと言われても其角さんも困惑するだけだろう。まだ、

 

 越後屋に衣さく音や更衣    其角

 

の方が新しい。

 

 「去来のいはく、師の言かへすべからず。しかれども、かへつて風は詠にあらはれ、本歌といへども、代々の宗の様おなじからず。いはんや俳諧はあたらしみをもつて命とす。本歌は代をもつて変べくば、この道年をもつて易ふべし。水雪の清きも、とどまりてうごかざれば、かならず汚穢を生じたり。

 今日緒生の為に古格を改めずといふも、なをながくここにとどまりなば、我其角をもつて、剣の菜刀になりたりとせん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.33)

 

 水も淀めば濁るというのはわからないでもないが、どこか言葉が空回りしているのは、結局去来さん自身が俳諧を引っ張ってゆけるだけの力量もなく、年下だが先輩の其角に芭蕉亡き後のリーダーシップを発揮してくれることを懇願しているようにすら見える。だが、後輩でも年長ということで、ついつい言葉が高飛車になってしまっている。

 

 

3、其角への絶縁宣言?

 

 「翁のいはく、なんじが言慎むべし。角や今我今日の流行におくるるとも、行すへまたそこばくの風流をなしいだしきたらんも知るべからず。

 去来のいはく、さる事あり。これを待にとし月あるらんを嘆くのみと、つぶやきしりぞきぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.33~34)

 

 その翁は、

 

    座右之銘

   人の短をいふ事なかれ

   己が長をとく事なかれ

 物いへば唇寒し穐の風   芭蕉

 

と詠んだが、去来さんにはどこ吹く風のようだ。

 去来は努力の人だから、其角や支考のような天才肌の人とは反りが合わないのかもしれない。

 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺があるが、去来は梅のほうで、度々芭蕉の三十棒にあったようだ。サッカーで言うとファンタジスタではなくロジスタの方だから、不易流行のような理屈にのめりこむ傾向があったのだろう。

 まあ、「知るべからず」つまり「もう知らん、勝手にしろ」と一方的に絶縁状をたたきつける形で終る。

 

 「翁なくなり給ひて、むなしく四とせの春秋をつもり、いまだ我東西雲裏のうらみをいたせりといへども、なを松柏霜後のよはひをことぶけり。さいはいにこの書を書して、案下におくる。先生これをいかんとし給ふべきや。

  右      去来稿」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.34)

 

 こうしてこの手紙は終る。

 

 

4、其角の反応

 

 其角は元禄十年刊の『末若葉(うらわかば)』の跋にこの手紙を掲載する。

 

 「去来問、師の風雅、見及ぶところ、みなし栗よりこのかたしばしば変じて、門人、其流に浴せんことを願へり。我是を古翁に聞り。句に千歳不易、一時流行の両端あり。不易をしる人は、流行にうつらずといふ事なし。一時に秀でたるものは、口質の時にあへるのみにて、他日の流行にいたりては、一歩もあゆむ事あたはず。翁の吟跡にひとしからざること、諸生のまよひ、同門の恨み少からず。凡天下に師たるものは、先己が形位を定めざれば、人趣くに所なし。晋が句体の予と等からざる故にして、人をすすましめたり。又、我老吟を甘なふ人々は、雲煙の風に変じて跡なからん事を悦べる狂客なり。ともに風雅の神をしらば、晋が風興をとる事可也。」(『其角の不易流行観』牧藍子より)

 

 別に反論するわけでもなく、むしろそれを要約して自分の言葉にしてしまう所はさすがに大人だ。

 「ともに風雅の神をしらば、晋が風興をとる事可也。」という最後の言葉には、大事なのは形だけの不易ではなく「風雅の神」で、それを共有するならば我々は仲間だ、というメッセージを込めている。

 

 芭蕉が元禄二年から三年頃、どのような不易流行を説いたのかは定かでないが、去来が理解した範囲で不易は「基(もとゐ)」だけでなくもう一つあったと思われる。それは『去来抄』「同門評」の「夕ぐれハ」の句の所で登場する「本意本情」ではないかと思う。

 同じ『去来抄』「修行教」にも「去来曰、俳諧は新意を専(もっぱら)とするといへども、物の本情を違(たがふ)べからず。」とある。新意と対比して書かれている。

 『猿蓑』の風の時に、おそらく本意本情の要件がかなり緩和されたのではないかと思う。つまり明確に古典に典拠を示すことができなくても、いわゆる證歌を引いてこなくても、大体の感覚でOKになったのではないかと思う。それは本説が俤になったのと同じに考えればいい。

 芭蕉が不易流行を説き始めた頃と思われる元禄二年の暮れ、芭蕉は膳所の木曽塚から去来宛に手紙を書いている。

 そこで、

 

   手握蘭口含鶏舌

 ゆづり葉や口に含みて筆始    其角

 

の句をとりあげ、

 

 「江戸より五つ物到来珍重、ゆづり葉感心に存候。乍去当年は此もの方のみおそろしく存候處、しゐて肝はつぶし不申候へ共、其躰新敷候。前書之事不同心にて候。彼義(儀)は只今天地俳諧にして萬代不易に候。」

 

と評している。

 まず「其躰新敷(そのていあたらしく)」と新味を認め、前書きは不要とし、「萬代不易」と新味にして不易だとする。つまり不易流行の見本として去来に説いたと見ていいだろう。

 「ゆづり葉を口にふくむといふ萬歳の言葉、犬打童子も知りたる事なれば」と、この言葉は当時子供でも知ってるような有名なフレーズで、それをそのまま使ったことが「閑素にして面白覚候」と言う。

 誰もが「ああ、あの言葉ね」とわかるものをメインにした、今日でいうあるあるネタの句で、そこに新味があるとともに、万代不易だという。

 これに対し、「手握蘭口含鶏舌」という前書きは、岩波文庫の『芭蕉書簡集』の萩原恭男の注によれば、「漢の尚書郎が口に鶏舌香を含んで奏上し、蘭を握って朝廷に出仕した故事」だという。

 これは證歌を取るのと同じようなもので、ゆずり葉を口に含んで筆始めをするという趣向が古典の心にかなうものである事を証明しているのだと思う。芭蕉が不易流行を見出した時、こうした古典に密着した重さを嫌い、古典を匂わすだけで十分だと考えたからではないかと思う。

 ただ、それは古典から離れてもいいということではない。

 たとえば二〇一六年十一月十四日の日記で触れた『猿蓑』巻頭三句目以下の時雨あるあるにしても、

 

 時雨きや並びかねたる魦(いざさ)ぶね 千那

 幾人かしぐれかけぬく勢田の橋     丈草

 鑓持(やりもち)の猶振たつるしぐれ哉 正秀

 広沢やひとり時雨(しぐる)る沼太郎  史邦

 舟人にぬかれて乗し時雨かな      尚白

 

にしても、別に時雨といざさぶね、時雨に勢田の橋、時雨に槍持ち、時雨に沼太郎、時雨に船人といったところに何かしら證歌を取るわけではない。

 それでも、時雨に並びかねた舟は、

 

 龍田河紅葉はながる神なびの

    みむろの山に時雨ふるらし

              文武天皇

 

の川に流れる紅葉の葉の連想を誘う。これは単に形が似ているということではなく、時雨の「定めなし」という情を含んでいる。

 これがまったく違う情を喚起してしまうと、『去来抄』「同門評」で正秀に「句くず」と評された、

 

 時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし    去来

 

と、

 

 龍田川錦織おりかく神無月

    しぐれの雨をたてぬきにして

                  詠み人知らず

 

の関係になってしまうことになる。

 

 じだらくに寝れば涼しき夕哉    宗次

 夕涼み疝気おこしてかへりけり   去来

 

の差もそこにある。宗次の句はじだらくに寝ることを許してくれる主人への感謝とも取れなくはない。それに対し「疝気」の句は、もし夕涼みに誘ってくれた人がいたなら喧嘩を売ってるようなものだ。

 この明示されなくても古典に通じる本意本情を維持するというのが、猿蓑調の重要な部分だった。去来は次第に形式的な類似に終始してこれを忘れて行ったのではないかと思われる。

 これに対し、其角はあくまで古典に密着した句の作り方を続ける。

 

   閑見月 更る夜の人をしづめてみる月に

        おもふくまなる松風のこゑ

 名月や畳の上に松の影      其角

 

 この前書きの和歌は細川幽斎の『耳底記』にあるという。

 

   笠重呉天雪

 我雪とおもへばかろし笠の上   其角

 

 前書きは『詩人玉屑(ぎょくせつ)』の詩から取っているが、これも芭蕉なら不要だと言うだろう。

 

 声かれて猿の歯白し峯の月    其角

 

 この句も「猿の歯」を詠むところに新味はあるが、月に叫ぶ猿は漢詩や画題などでお馴染みのものだった。芭蕉はこれに対し、

 

 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店    芭蕉

 

と、同じような悲痛な叫びの情を卑近な魚屋の情景で表してみせる。

 

 不易はもちろん単なる基だとか本意本情だとかいう伝統に限定されるものではなく、人間の心の奥深くに潜む言い表しがたいもので、説明のつかないもの、「陰陽不測」を『易教』では「神」と呼んでいた。

 其角にとって不易は「俳諧の神」だった。

 一方、芭蕉は許六に教える時には、これを「血脈」と呼んでいたようだ。「血脈」だとやはりまだ「伝統」というニュアンスが濃い。

 その許六が其角に代わって「贈晋氏其角書」に反論し、「贈落柿舎去来書」をしたためることになる。

 

贈落柿舎去来書

1、其角の器

 

 「千歳不易・一時流行のふたつをもつて、晋子が本性を論ぜらるるは、かねて其角が器をくわしく知りたまはざる故なり。生得物にくるしめる志なく、人の辱しめをしらず。故に返答の詞なく、かへつてことば色どり、若葉集の序とす。是、はぢしめをしらぬゆへなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35)

 

 天才肌というのはえてしてこういう天真爛漫なものなのかもしれない。人のことを悪く言ったりもしない代わりに、自分がディスられているのにも気付かない。

 ひょっとしたら、去来の手紙を本当に『末若葉』のための序文を提供してくれたと思ってたのかもしれない。それで、ちょっと自分の考えに合わない部分を訂正しただけだったのかもしれない。

 

 「しかりといへども、予三神をかけて、相撲を晋子がかたに立ず。また諸案の中、目だつ句有れば、大かた晋子也。かれにおよぶ門弟も見へず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35)

 

 「三神」というのは和歌三神(住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂)のことか。とにかく其角と相撲を取るつもりはないという。それだけリスペクトしている。

 

 「なんぞや、亡師の句にたいして、ひとしからんと論ぜらるるは、かへつて高弟のあやまりといはん。予不審あり、師遷化の後、諸門弟の句に秀逸いでざることはいかん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35)

 

 何で亡き師芭蕉の句と違うからといってそれを高弟の誤りと言うのか。芭蕉が遷化してから他の門弟にだって秀逸の句はないではないか。

 

 

2、去来の不易流行説への固執

 

 「近年湖南・京師の門弟、不易流行の二ッにまよひ、さび・しほりにくらまされて、真のはいかいをとりうつしなひたるといはんか。たまたま同門にたいして句を論ずるに、ことばのつづき、さびを付けざればよしのといはず。一句のふり、しほりめかぬはかつて句とせず。これ船をきざみ、琴柱(ことぢ)に膠(にかは)するの類ならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35~36)

 

 許六のいる彦根は湖東だから、湖南・京師の門弟に許六は含まれない。曲水、乙州、智月、正秀など大津、膳所の門人を指しているのだろう。京都は言うまでもなく去来の一派になる。とはいえ、ここは明らかに去来一人を名指しいるのではないかと思われる。

 去来は感覚的に句を作るのではなく理詰めで作るところがある。『去来抄』「先師評」の丈草の「うづくまるやくわんの下のさむさ哉」の句のところで、去来は「かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじとハ、此時こそおもひしる侍りける。」と言っている。

 このとき去来が詠んだ句は、

 

 病中のあまりすするや冬ごもり   去来

 

で、「冬ごもり」という季題の興から、「あまりをすする」という景を導き出して無難に仕上げている。季題の本意本情を念頭において、何となくそれにあった景を引き出すのは、去来の得意とするパターンだった。

 元禄九年刊の『韻塞』の、先に引用した、

 

 行かかり客に成けりゑびす講  去来

 行年に畳の跡や尻の形     同

 芳野山又ちる方に花めぐり   同

 見物の火にはぐれたる歩行鵜(かちう)哉 同

 

の句にしても、「ゑびす講」から「行かかり客に成」という景を導き、「行年」に畳の景を、「芳野山」という歌枕から「花めぐり」を、「鵜船」から「はぐれた鵜」の景を付けている。

 去来のよく知られている、

 

 何事ぞ花みる人の長刀    去来

 花守や白きかしらをつき合せ  同

 

も基本的にはこのパターンで作られている。

 同時に人の句を評する時も、ほとんどマニュアルのように不易か流行か、さび、しおりはあるかという所を評価基準にしていたのだろう。

 これに対し、

 

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草

 

の句は「寒さ」の興から「やかん」の情景を導き出しているわけではない。「うづくまるやくわんの下」という自分の置かれている状況から、真っ直ぐにその情の籠る「寒さ」を導き出している。

 許六の言う「これ船をきざみ」は、「剣を落として舟を刻む」で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《乗っている舟から剣を落とした人が、慌てて舟べりに印をつけてその下の川底を捜したという、「呂氏春秋」察今の故事から》古い物事にこだわって、状況の変化に応じることができないことのたとえ。舟に刻みて剣を求む。」

 

とある。

 「琴柱に膠す」も同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《「史記」藺相如伝による。琴柱をにかわ付けにすると調子を変えることができないところから》物事にこだわって、融通がきかないことのたとえ。膠柱(こうちゅう)。」

 

とある。

 

 

3、理詰めではなく自然に言い出すことの重要

 

 「一句ふつつかなりと見やれども、さび・しほりおのづからそなはりて、あはれなる句もあり。また予が年やうやう四十二、血気いまだおとろへず。尤句のふり花やかに見ゆらん。しかれども老の来るにしたがひ、さびしほりたる句、おのづからもとめずして出べし。詞をかざり、さび・しほりを作りたらんは、真のはいかいにはあるまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.36)

 

 「一句ふつつかなり」は、

 

 十団子(とうだご)も小粒になりぬ秋の風 許六

 

の句のことか。『去来抄』「修行教」に、「先師曰、此句しほり有と評し給ひしと也。」とある。

 当時は四十で初老と呼ばれ、働いている人もそろそろ隠居を考える時期だ。芭蕉は数え三十七で持病が悪化し、深川に隠棲した。四十二で「血気いまだおとろへず」は自慢しているのか。

 まあ、年取れば自ずとさび・しほりは具わるものだから、元気なうちから無理してそれを真似る必要がないし、真似たらそれは嘘になるということを言いたいのだろう。

 連歌の時代だが『宗祇初心抄』には、

 

 「若人の連歌に、

 いにしへの猶しのばるる身はふりて

 夜半のね覚ぞむかし恋しき

 老ての後の身をいかにせん

 か様の句共似合候はず候、此心能々御心得あるべく候」

 

とある。

 

 「不易・流行のふたつにくらまさると云は、予きく、かつて趣向もうかまず、句づくりも出ざる以前に、ふるきの句をせん、流行の句をせんといへる作者、湖南のさたなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.36)

 

 この湖南の作者が誰なのかはよくわからない。

 「ふるき句をせん」というのは、『去来抄』「修行教」に「先師遷化の時、正秀曰、是より定て変風あらん。その風好みなし。只不易の句をたのしまん。」とあるから正秀のことか。

 ただ、正秀は後に惟然の『二葉集』(元禄十五年)に参加し、

 

 むぎまきや脇にかゐこむうつはもの 正秀

 初雪をどろにこねたる都かな    同

 

の句がある。

 『二葉集』にはそのほか尚白、智月、乙州など湖南の蕉門が惟然の超軽みの俳諧に合流している。

 この集には他にもいろいろな人が参加している。

 

 秋の実のおのが酢をしる膾かな   洒堂

 あたたかな泥もどろどろ(虫喰)なれよ 諷竹

 松風の四十過てもさはがしい    鬼貫

 

 

5、和歌十体の例

 

 「歌に十体あり、定家・西行はじめより詠んとし給ふことを聞かず。詠みおはつてのち、十体のすがたはあらはる。ときに判者の眼あつて、一々体をわかつ。何体の歌よまんといへる歌道は、かた腹いたく侍らん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.36~37)

 

 和歌十体(わかじってい)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「歌論用語。和歌の 十の風体 (ふうてい。歌風に基づく一首としての姿) の総称。また,十の風体を例歌によって示した歌学書をもさす。歌を 10体に分けることは早く奈良時代の『歌経標式』にみられるが,これは歌体,発想,表現技巧などさまざまな観点から分けたもので,分類の基準は一貫していない。風体のうえから分けたものとしては平安時代中期に壬生忠岑 (みぶのただみね) の『忠岑十体』 (『和歌体十種』) があり,これには中国詩学の影響が認められる。平安後期の『奥義抄』には『道済十体』 (佚書) がみえる。鎌倉時代の藤原定家の『定家十体』は最も知られ,これは「幽玄様」「長高様」「有心 (うしん) 様」「事可然 (ことしかるべき) 様」「麗様」「見様」「面白様」「濃様」「有一節 (ひとふしある) 様」「拉鬼様」の 十を設け,それぞれ例歌を掲げている。定家は『毎月抄』でも十体に言及し,「幽玄様」「事可然様」「麗様」「有心体」の四体が基本であり,なかでも「有心体」が最も中心であることを説いている。しかし『定家十体』は偽書とする説もある。『良経詩十体』というものもあったらしく,のちには連歌論,能楽論でも唱えられた。」

 

とある。西行・定家より前から『忠岑十体』があったようだ。歌合などが盛んに行われ、判定の際に参考とされることがあったなら、実際にはそれに合わせて歌を詠むこともあったと思われる。

 いろいろな体の歌を詠み分けられるというのは歌人にとっての一つの技術だったのであろう。ただ和歌は言葉が雅語に限られていたため、俗語を認める俳諧と違い、江戸時代の流行の風俗を詠むことができず、流行体というのは成立しなかった。

 俳諧の場合、不易体と流行体に分けるにせよ、俳諧自体が江戸時代の流行であり、厳密に不易を求めたなら連歌になってしまう。不易に行き着いて荷兮のように連歌に転じた例はある。

 もっとも。その連歌も鎌倉時代には流行だった。

 

6、芭蕉も流行・不易と分けて句を作ってはいなかった

 

 「翁在世のとき、予終に流行・不易をわけてあんじたる事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.37)

 

 許六が芭蕉に入門したのは元禄五年の八月九日とされている。十月三日には許六の滞在している彦根藩邸で「今日ばかり人も年寄れ初時雨 芭蕉」を発句とする興行が行われている。許六の脇は、

 

   今日ばかり人も年寄れ初時雨

 野は仕付けたる麦の新土     許六

 

だった。

 このころから『炭俵』の新風が試されてゆく。十月二十日には「ゑびす講」の巻の興行が行われる。芭蕉もこの頃には猿蓑調からの脱却を考えていて、不易流行説も過去のものになっていたのだろう。

 芭蕉は元禄七年閏五月に京に上るものの、この新風を広めるのは時間が不足していたのだろう。彦根は新風を受け入れたが、京都や湖南は猿蓑調との折衷になって続猿蓑の風になったのではないかと思う。

 その湖南の蕉門が元禄十五年ごろになると惟然の風に靡いていって、孤立した去来があの『去来抄』を書いたのかもしれない。

 

 「句いでて師に呈す。よしはよし、あしきはあしきときはむる。よしと申さるる句、かつて一つの品をこころにかけずといへるとも、不易・流行おのづからあらはるるなり。滅後の今日にいたつて猶しか也。かつて流行・不易を貴しとせず。よき句をするをもつて、上手とも名人とも申まずきや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.37)

 

 芭蕉の元禄五年十二月八日の許六宛書簡には、

 

 「且又四吟之俳諧もよほどおもしろく候。前夕、嵐蘭・珍夕吟じ見申候。」と、

 

 洗足に客と名の付寒さかな    洒堂

   綿舘双ぶ冬むきの里     許六

 鷦鷯階子の鎰を伝ひ来て     芭蕉

   春は其ままななくさも立つ  嵐蘭

 

の歌仙を見たことを記している。

 

 芭蕉の元禄五年十二月十五日の許六宛書簡には、

 

 「多賀の詔訴人は珍重に存候。」

 

と、

 

 行年や多賀造宮の訴詔人     許六

 

の句を評価している。句の意味は今となってはよくわからないが、湖東の多賀大社とすぐ近くにある胡宮神社との間でしばしば訴訟があり、今年も決着が付かずに年を越すというあたりに「しほり」があったということか。

 ネットで検索すると「胡宮神社文書398点-多賀町役場」というページがあり、そこには、

 

 「胡宮神社文書は、敏満寺が戦国時代に兵火に罹って廃絶したあと、その坊のひとつである福寿院、つまり胡宮神社の別当に、伝承していたものです。多賀大社と胡宮神社の位置づけをめぐる訴訟に関する文書がまとまって保管されています。ここには近世の胡宮神社別当福寿院が、敏満寺以来の由緒を守るため、懸命に多賀大社に抗い続けたようすが記されています。」

 

とある。

 同じ書簡に、「先日煤掃はぜゞ引付に入遣候」という文字もある。これは、

 

 煤掃や蜜柑の皮のやり所     許六

 

の句を評価し、膳所の歳旦帖の引付に掲載するとしている。

 年末恒例の煤払いの時に、せっかく家を綺麗にしたのに、掃除の時に集まった人たちが食べた蜜柑の皮が部屋に残ってたりするという、いわゆるあるあるネタだったか。

 一方で、芭蕉の元禄五年十月二十五日の許六宛書簡には、

 

 「一、池のかも、等類がましき事御座候間、御用捨可被成候。残念。」

 

とあり、「池のかも」の句に似たような句があることを指摘している。没になったせいか、この句は残ってないようだ。

 こういう芭蕉評には一々理屈はない。「よしはよし、あしきはあしきときはむる。」はこういうことだったのだろう。

 

 

7、芭蕉亡き後の俳諧

 

 「アア諸門弟の中に、秀逸の句なき事をかなしむのみ。

 翁滅後門弟のなかに挟る俳諧の賊あり。茶の湯・酒盛の一座に加はり、流浪漂白のとき、一夜の頭陀をやすむたまふはたご屋など(に)出て、門弟のかずにつらならんとするあぶれものども、みだりニ集作る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.37~38)

 

 この賊は路通のことか。許六選の『風俗文選』の作者列伝には、

 

 「路通者不知何許者。不詳其姓名。 一見蕉翁聽風雅。其性不實輕薄而長遠師命。飄泊之中著俳諧之書。」

 

とある。

 一度は芭蕉に破門されたものの最終的には許されたというし、いろいろ素行が悪いという噂はあっても、一体何をしでかしたのかというと、確実な資料はない。

 ウィキペディアには、

 

 「芭蕉死後、路通は俳諧勧進として加賀方面に旅に出、また『芭蕉翁行状記』を撰び師の一代記と17日以降77日までの追善句を収め元禄8年(1695年)に出版した。」

 

とある。これが「みだりニ集作る」ということなのか。

 

 「一流はんじゃうにはよろしといへども、却て一派の恥辱・他門の嘲り、かたがたかた腹いたく侍らんか。高弟眉をしかめ、唇を閉給ふと見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38)

 

 『芭蕉翁行状記』の前半は「行状記」で、後半に追善の俳諧などが収められている。

 

 木がらしや通して拾ふ塚の塵  路通

 

を発句とする世吉(四十四句)には、木節、土芳、智月、如行、乙州といった名前が見られる。発句の所には惟然、嵐雪、桃隣、北枝、牧童などの名もある。木節の「冬の月」の巻には去来も参加している。

 何が悪いかよくわからないが、許六が参加してない所を見ると、よほど許六は路通が嫌いだったと見える。

 

 「集作りて、善悪の沙汰におよぶは、当時撰集の手柄なり。頃日の集は、あて字・手爾於葉の相違・かなづかひのあやまり、かぞふるにいとまなし。しらぬ他門より論ぜば、高弟去来公のあやまりと沙汰し申侍らん、むべならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38)

 

 校正の不備ということか。一般的にこの時代は古い時代の「は」と「わ」、「い」と「ゐ」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」の区別などが曖昧になっていた。芭蕉も自筆稿には誤字脱字が見られる。人間だもの。

 

 「北狄・西戎のゑびす時を得て吹をうかがひ、次たいにみだりに集をつくらん事、尤悲しむに堪へたり。高弟、此そしりを防ぐ手だてありや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38)

 

 横澤三郎の注釈に、「『和漢朗詠集』の春の部に、吹を「かぜ」と読むべき処があるが、ここでは更に風の意に用ゐたのであろうか。審かでない。」とある。

 これは冒頭の「立春」で、

 

   内宴進花賦 紀淑望

 逐吹潛開不待芳菲之候。

 迎春乍変将希雨露之恩。

 吹(かぜ)を逐(お)ひて潛かに開く芳菲(はうひ)の候(とき)を待たず。

 春を迎へて乍(たちま)ち変ず将(まさ)に雨露の恩を希(こひねが)はんとす。

 

を指す。変風変雅だとか風流だとかいう時の「風(かぜ)」と区別するために、あえてこの文字を用いたか。

 風流を追い求めてという意味ではなく、単に世評(風向き)を気にしてという意味であろう。

 とはいえ、許六のこの書は去来が不易体と流行体の二つに惑わされていることを指摘するはずだったのだが、話は完全にずれてしまっている。路通のようなものと通じているだとか校正が甘いだとか、そんなので監督責任を追及されてしまっても、また別の問題だ。

 結局は「アア諸門弟の中に、秀逸の句なき事をかなしむのみ。」に尽きるのではないか。

 去来が芭蕉の古くからの高弟である其角に多くのものを求めすぎたように、許六も去来に多くのものを求めすぎているだけではないか。秀逸の句なき事をかなしむだけで、自ら秀逸の句をものにしようとするのでもなく、万事他人任せだ。

 結局芭蕉亡き後、誰も芭蕉のようにはなれないからとあきらめて、ただ芭蕉の生前の教えをそれぞれ守っているだけで、だれも新たな俳諧へ向けて冒険しようとしない。

 過去の焼き直しばかりで新味がなければ、大衆も次第に飽きて俳諧から離れてゆく。

 そんな中でただ一人新風を起そうとした人がいたとすれば、この問答の後のことであるが、惟然ではないかと思う。ひょっとしたら去来と許六がこうした不毛な論争に終始しているのを見て、一念発起したのかもしれない。

 その惟然のことをこう言う。

 

8、惟然

 

 「惟然坊といふもの、一派の俳諧を弘るには益ありといへども、却て衆盲を引の罪のがれがたからん。あだ口をのみ噺し出して、一生真の俳諧をいふもの一句もなし。蕉門の内に入て、世上の人を迷はす大賊なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38~39)

 

 惟然は元禄八年の秋に九州の旅に出る。芭蕉の見残しを見に行く旅であろう。(以下『風羅念仏にさすらう』澤木美子、一九九九、翰林書房による)

 

 彦山の鼻はひこひこ小春かな    惟然

 

の句が果たしてこの時の句なのかどうかは定かでない。

 元禄九年には奈良の吉野の花に遊ぶ。

 

   よしのにて

 けふといふけふこの花の暖さ    惟然

 

 元禄十年には奥の細道を逆回りする。別に逆回りしたから芭蕉翁が蘇るとかそういうことではない。

 

 七夕やまだ越後路のはいり初    惟然

   酒田夜泊

 出て見れば雲まで月のけはしさよ  同

   象潟にて

 名月や青み過たるうすみいろ    同

 松島や月あれ星も鳥も飛ぶ     同

 

 『俳諧問答』の「贈落柿舎去来書」が書かれたのは、まだこの頃であろう。

 「風羅念仏」を考案するのはこのあとの元禄十三年四月のことだという。あの独特な超軽みの俳諧が確立されるのは元禄十五年の春から夏、二度目の播磨を訪れた時だった。ここで千山とともに『二葉集』を編纂し、上巻を元禄十五年、下巻を元禄十六年に刊行する。

 

 「故に近年もつての外、集をちりばめ、世上に辱を晒すも、もつぱらこの惟然坊が罪也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39)

 

 惟然の集というと、元禄七年五月刊の『藤の実』がある。まだ芭蕉は存命で、惟然もまだ素牛を名乗っていた。そのほかに元禄八年から九年の九州の旅の紀行『もじの関』があったらしいが現存しない。

 『俳家奇人談』(竹内玄玄一編、文化十三年)には、

 

 「途中彦根を過(よ)ぎる。許六に紀行を与へて曰く、吾子題すべし。許六これを諾(しやうち)し、彦山の句を巻頭にして、天狗集と名づけたり。」

 

とある。『俳諧問答』で言っていることとずいぶん違うし、伝説の類であろう。

 

 「口すぎ・世わたりの便りとせば、それは是非なし。惟然にかぎらず、浄瑠璃の情より俳諧を作り、金山談合の席に名月の句をあんずるやからも、稀にありといへども、これは大かた同門・他門ともに本性を見とどけ、例の昼狐はやし侍れば、罪もすくなからん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39)

 

 「口すぎ」は生計のこと。「世わたり」も同じような意味。俳諧師だって生活がかかってるから、大法螺も吹けば集を編纂して名を上げるもの当然のこと。それは一応許六も認めている。

 許六の路通や惟然への不快感というのも、階級によるものが大きかったかもしれない。彦根藩の重臣で三百石取りの許六には理解できない世界もあるのだろう。

 浄瑠璃は「浄瑠璃姫十二段草紙」などを語る琵琶法師に端を発し、みちのくの奥浄瑠璃は芭蕉も『奥の細道』の旅の途中に耳にしている。

 貞享のころから竹本義太夫と近松門左衛門が手を組んで大きく発展させた。ただ、許六には庶民の低俗な芸能でしかなかったのかもしれない。

 「金山談合の席」はよくわからないが、「金山」は御伽草子「あきみち」の盗賊金山八郎左衛門のことか。貞享三年の「日の春を」の巻の五十句目に、

 

   人あまた年とる物をかつぎ行

 さかもりいさむ金山がほら  朱絃

 

の句がある。

 盗賊の集会で名月の句を案じて改心するなら、それはそれで風流の効用ではないかと思うが、「例の昼狐」というのはやはり路通を泥棒扱いしていて、それを同門も他門も許すなということか。路通がたとえ泥棒だったとしても、俳諧を奪ったらそれこそただの泥棒になってしまう。

 

 

9、戦いの火蓋

 

 「予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐては大敵をうけて一方の城をかため、大軍をまつ先かけ一番にうち死せんとするこころざし、鉄石のごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39)

 

 まあ、「猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」の心に程遠い。どちらかというと、

 

 何事ぞ花みる人の長刀      去来

 

という感じだ。そんなことよりも世俗をあっと言わせるような句を詠んでくれよ、と言いたい所だ。

 

 「故に同門のそねみあざけりをかへりみず、筆をつつまずしてこれをおこす。この雑談隠密の事、さたにおよばず、諸門の眼にさらし、向後をつつしむたより(と)ならば、大幸ならん。願はくは高弟、予とともにこころざしを合せて、蕉門をかため、大敵を防ぎ給へ。

   右       許六稿」

(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39~40)

 

 何か話がとんでもない方向に行ってしまった。まるで共産圏の論理で、飢饉が起こると、いつの間にか誰か裏切り者がいるせいだという話になり、粛清の嵐が吹き荒れるみたいな恐ろしさすら感じられる。そうじゃないでしょ。俳諧を盛り上げるには良い句を作る、それだけでしょ。

 これで許六の手紙は終る。去来もこれは止めなくてはいけない所だ。

 

 社会主義国家では理論に反して生産性が落ち込むと、アメリカの陰謀を疑ったり、誰か裏切り者がいて革命の妨害をしているだの疑心暗鬼になり、結局は密告・誣告が横行し、粛清の嵐が吹き荒れ自滅した所もあった。

 許六の対応もそれに近い。芭蕉の教えが正しいのだから俳諧が衰退するはずはない。衰退するのは路通のような泥棒が連衆に加わったり、惟然のような乞食坊主を野放しにしているからだなんて、とんでもない論理に走ってしまった。

 それに去来がどう答えたのか、これから見てゆくことにしよう。去来は「贈落柿舎去来書」に答える形で「答許子問難弁」を書くことになる。

答許子問難弁

1、其角に関しては「阿兄の言しかり」

 

 「湖東の許六雅兄、予其角に贈る文を読て、疑難を書、頃日予に与へらる。信(まこと)に風騒の人なり。其論高し。

 予が不才当ルべからず。然共微意を述て是を弁ず。是非のごときは阿兄正したまへ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.41)

 

 「許六雅兄」とあるが、去来は一六五一年生まれ、許六は一六五六年生まれで、去来の方が年上になる。

 「風騒」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 〔「風」は「詩経」の国風、「騒」は「楚辞」の離騒の意。ともに詩文の模範とされたことから〕詩歌をつくること。また、自然や詩歌に親しむ風流。 「此の関は三関の一にして、-の人、心をとどむ/奥の細道」

 

とある。

 似たようなものに「騒人」という言葉もある。『去来抄』「同門評」に、「凡秋風ハ洛陽の富家に生れ、市中を去り、山家に閑居して詩歌を楽しみ、騒人を愛するとききて、かれにむかへられ、実に主を風騒隠逸の人とおもひ給へる上の作有あり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.47~48)とある。

 「予が不才当ルべからず」と一応謙遜してはいるものの、言うべきことは言わなくてはならない。「微意」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 ささやかな志。寸志。自分の意志・気持ちを謙遜(けんそん)していう語。「微意を表す」

 

とある。

 

 「来書曰、千歳不易・一時流行の二ッをもつて、晋子が本性を論ぜらるる、兼て其角ガ器をくはしく知りたまはざる故也。生得物に苦める志なく、人の辱しめをしらず。故に返答の詞なく、返て辞を色どり、若葉集の序とす。是はづかしめをしらぬゆへ也。

 一、去来曰、此難、阿兄の言しかり。予亦おもふ処ありて是を贈る。此を弁じて俳道に益なし。暫筆をさしおくのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.41)

 

 其角の性格から反論しなかったという点では許六の説を「しかり」とする。知っててあえてあの手紙を送ったのだが、俳道に益がなかったのでこれについては語らない、とする。まあ、体よく逃げた形だ。

 

 「来書曰、然りといへ共、予三神を懸て相撲を晋子が方に立ず。又諸門弟の句をあなどらず。

 二、去来曰、阿兄の言信ずべし。予亦是に同じ。文中過分なる物、罪したまふ事なかれ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.41~42)

 

 手紙の文章が多少違うのは、今日残っている文章とオリジナルとの間に違いがあったか、よくわからない。許六の言うとおりだといいつつも、「罪したまふ事なかれ」と屈しない態度を取っている。

 

 「来書曰、慥ニ眼を破て見るに、近年諸集のうちめだつ句あれば、大方晋子也。

 三、去来曰、阿兄の言感信せず。いづれの書にか角が好句多しとするや。予近年俳書ニうとし。たまたま見る処の書、角が句十にして、賞すべき物一・二、笑べき物一・二、その余は世間平々の句也。浪化集に角が撰集たる句を並べ書す。そのうち、阿兄の句のほか、独角が句のみすぐれり。其余ハ我いまだ此を見ず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.42)

 

 この「たまたま見る処の書」が何なのかはわからない。あるいは許六・李由撰の『韻塞』(元禄九年刊)か。この撰集で「賞すべき物一・二、笑べき物一・二、その余は世間平々の句也」だとしたら、それは選者許六の責任だというあてつけになる。

 賞すべき物というと、やはり、

 

 饅頭で人を尋ねよ山ざくら   其角

 月影やここ住吉の佃島     同

 

あたりか。

 『浪化集』は『有磯海』と『となみ山』の二冊からなり、『有磯海』は発句中心で、『となみ山』は連句が中心となる。この集は芭蕉の存命中から企画されていたもので、元禄七年五月十四日の芭蕉宛去来書簡に、「此度浪化集に拝領仕度候」とある。『浪化集』はその翌年元禄八年に刊行された。

 浪化編ではあるが、去来も編纂に関わっているため、ここには其角のすぐれた句しかないと言いたいのだろう。

 その『浪化集』には、

 

   奈良の旅二句 木辻より返りて

 門立のたもとくはゆる小鹿かな  其角「有磯海」

   なが月の末大井川をわたりて

 いつしかに稲を干瀬や大井川   其角「有磯海」

 河豚洗ふ水のにごりや下川原   其角「有磯海」

   東叡山

 八ツ過の山のさくらや一しつみ  其角「有磯海」

 八雲立つ此嶮漠を雲の峰     其角「有磯海」

 千鳥なく鴨川こえて鉢たゝき   其角「となみ山」

 こがらしや沖よりさむき山のきれ 其角「となみ山」

 

といった句が収められている。「こがらしや」の句は『炭俵』に既に発表されているが、それを発句とした表六句が収められている。

 

 

2、「かれに及ぶ又門弟も見へず」は過言

 

 「来書曰、かれに及ぶ又門弟も見へず。

 四、去来曰、是おそらくハ阿兄の過論ならんか。角が才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上にいただかん。角が句のひききを以て論ぜバ、我かれを脚下に見ん。況や俊哲の人をや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.42~43)

 

 其角は才能はあるが句は卑近ということか。まあ、「卑近」というのは庶民の俳諧にとって悪いことではない。高い志、深い誠の情を卑近な言葉で語るのが本来の俳諧なのだから。「我かれを頭上にいただかん」は当然としても、「脚下に見ん」は過論だろう。軽んじるというか。

 文庫版は「反本」にはない次の文章を小さな文字で記している。

 

 「予、亢て此をいふにあらず。同門の句における、おそるべき者五六輩有。阿兄もその一人なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.43)

 

 自分の思い上がりを正当化するために許六をも巻き込もうという作戦か。さすがに版本には記せない。

 

 「来書曰、なんぞや、亡師の句に対して斉しからんと論ぜらるるハ却て高弟の誤といはんや。

 五、去来曰、此阿兄の論精密ならず。予が角に贈る文に、却て師の吟跡と斉からずと書せり。阿兄跡の字に力を加へ給へ。

 たとへバ、一日に二十里を東行する者有。又十里を東行する者有。及ばずといへども、共に跡を斉うす。角ハその東行する者に非ず。

 昔日去来曰、いにしへより名人多しといへども、はじめて俳諧の神に入たる人ハ我が翁也。角此を聞て曰、吾子が言しかり。はじめて俳諧を神に入る人ハ我翁なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.43)

 

 其角の句が亡き師芭蕉の句にも匹敵するものがあるのは確かだろう。ただ、方向性が違うと去来は指摘する。特に芭蕉の晩年、点取り俳諧に走った其角との確執は大きかったようだ。

 元禄七年二月二十五日の許六宛書簡に、

 

 「江戸た家之事は、評判無益と筆をとどめ候。其角・嵐雪が義は、年々古狸よろしく鼓打はやし候半。」

 

とある。

 許六宛書簡だけに、こうした反目があったことは許六も重々承知していたし、また、だからこそ江戸滞在の時に許六に眼を掛けてくれたわけだから、そんなに悪い気はしなかったのだろう。

 其角・嵐雪は俳諧の多様化の役割を果たしたのであって、別に句そのものが劣化したわけではない。去来の最初の書にあった才麿・一晶についても許六は何も触れていない。許六にとって我慢ならないのは路通・惟然のような乞食風情のほうだった。

 「俳諧の神」という言葉を最初に言ったのは去来だったにしても、「神」というのは人智を超えているが故に「神」なのであり、単なる基や本意本情の不易を超えている。それ故に俳諧の路線の違いを超えている。東へ行こうが西へ行こうが「俳諧の神」はあらゆる場所にある。自分の行く方向にしか「俳諧の神」はないと思ったなら、それは驕慢というべきであろう。

 

 「又ノ五、去来曰、吾子が言も亦、一理あり。二言意味やや異リといへども、共に先師を以て古人にまされりとす。予なんぞ角が師とひとしからざる事うれへんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)

 

 一理ありとしながらも、要するに先師芭蕉を敬う点では斉しいとうだけのこと。

 

 

3、秀逸出ざる事ハいかん

 

 「来書曰、予不審あり。師遷化の後、諸門弟の句に秀逸出ざる事ハいかん。

 六、去来曰、此論強て工夫をつくすべからず。師教月々に遠く、我意日々に生ず。ただ秀逸の出ざるのミに非ず。却てその血脈をうしなふ者あらん。ひとり此道のミにかぎらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)

 

 秀逸はもとより簡単に出る物ではない。だから秀逸が出ないからといって、誰か裏切り者がいるだとか言って犯人探しをするなどはもってのほかだ。それゆえ「工夫をつくすべからず」。

 ただ、去来も師の教えから離れて我意を通そうとし、血脈を失うものがいるとしている。ただそれは俳諧にかぎらず、世間では普通のことだとする。

 「血脈」は単なる血筋、血統を意味するのではなく、日本では特に擬制としての血筋、つまり師弟関係において継承されてゆくものを意味する。特に仏教の方でよく用いられる。

 ただ、芭蕉のように、弟子によって教え方が違っていたりすると、何が本当の血脈なのかはそれぞれ勝手に解釈することになり、結果的に「我意日々に生ず」になってしまったのだろう。本当の血脈は「風雅の誠」、あるいは「俳諧の神」の他にないと思う。

 この時代に「血脈」という言葉を重要な場面で用いてた人に、儒教の古学者、伊藤仁斎がいる。伊藤仁斎は儒教を学ぶ時に朱子学の理論の体系よりも、『論語』『孟子』に記された古人の言葉からその血脈を読み取ることを重視していた。いわば孔子・孟子の直弟子たれということか。

 これに対し荻生徂徠は、孔子・孟子も先王の道を求めていたのだから、学ぶべきなのは孔子・孟子ではなく、先王の道だとした。

 俳諧の血脈も芭蕉の言葉ではなく、あくまで芭蕉が求めたものにある。

 

 「又六、又曰、秀逸の事ハ、先師在世の内といふとも稀ならん。また、遷化の後もなしといひがらからんか。然レども今の世に当て、其秀逸をさだむべき人誰ぞや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)

 

 秀逸を定めるのは学者や評論家ではなく大衆であるのは言うまでもない。一人の人の価値観や判断はどうしたって偏るもので、たくさんの人が判断することで偏りは中和され、公正な判断となる。民主主義はそれゆえ哲人独裁に勝る。

 俳諧の秀逸も、たくさんの名もなき江戸庶民がこの句は後世に残さなくてはいけないと考え、語り伝えられてきたものに他ならない。

 古池の句はもとより、芭蕉の句は誰よりも多く人口に膾炙している。近代に入っても、庶民はもとよりたくさんの学者、文化人たちも芭蕉の句を無視できなかった。中には厳しく批判し糾弾する者もいたが、それでも幾多の批判に耐えて生き残ったことが秀逸の証しと言っていい。いまや芭蕉の句は世界の人々にも愛されている。

 芭蕉亡き後「秀逸出ざる」というのは、いわゆるヒット作が出ないということだ。

 ただ、これはヒットするとある程度予測できる人はいる。芭蕉は秀逸を定む人ではなかったが、秀逸を予測する人ではあった。

 

 「むかし先師凡兆に告て曰、一世の内秀逸の句三・五あらん人ハ、作者也。十句に及ん人ハ名人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)

 

 今、特に俳句に興味のない人に、どんな俳句を知っているかと尋ねれば、おそらくその多くは芭蕉の句であろう。教科書には蕪村や一茶もあれば近代俳句もあり、受験で覚えさせられたりするが、そうした影響を考慮に入れても、受験が終ってなお残っている句はたいてい芭蕉の句だ。

 学校教育の影響が少なかった時代は、かえって江戸時代の芭蕉以外の作者の句をたくさん知っていたかもしれない。ただ、作者の名前がうろ覚えのせいか他の作者の句を芭蕉の句と勘違いしている人も多かった。

 私も以前いた運送屋で、

 

 行水の捨てどころなし虫の声   鬼貫

 

の句を芭蕉の句だと教えられた。

 いろいろ批判はあっても、

 

 朝顔に釣瓶とられてもらい水   千代女

 

の句などは今でも生き残っている。

 

 目には青葉山ほととぎす初がつを 素堂

 

の句も、作者の名は忘れられていても、毎年夏になると引用される。

 このあたりの作者は一句思い出せればいいほうだが(千代女は「とんぼ釣り」の句もある)、三句、五句、十句思い出せるような作者は数えるほどで、それを思うと芭蕉がいかに神だったかがわかる。現代俳句のそうそうたる連中も、名前は知ってるけど代表作が浮かばない。

 

 

4、幻の集『笈の小文』

 

 「又先師、人々の句の奥意に叶ふものを集めて、集を撰んとし給ふ。此を笈の小文と号すとつたへたり。故有て予が名月の句を入集すと語り給へり。予曰、我句、撰に入べき句いくばく有や。先師ノ曰、汝過分の事をいへり。都(すべ)て我がこの度の集に選び入ん句、五つ持たる者ハまれならん。此を以ておもふに、実に秀逸といはんハ、世に稀なるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44~45)

 

 今日知られている『笈の小文』は、芭蕉の遺稿の中から、貞享四年から翌五年にかけての関西方面の旅の草稿をまとめたもので、乙州によって命名されたという。

 それとは別に『笈の小文』という撰集を芭蕉が企画してたようだが、定かではない。ただ、『去来抄』「先師評」に、

 

 「去来曰、笈の小文集は先師自撰の集也。名をききていまだ書を見ず。定て原稿半なかばにて遷化せんげましましけり。此時このとき予申まうしけるハ予がほ句幾句か御集に入侍るやと窺うかがふ。先師曰、我が門人、笈の小文に入句、三句持たるものはまれならん。汝なんぢ過分の事をいへりと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.18~19)

 

とある。

 これは、

 

 岩鼻やここにもひとり月の客  去来

 

という句に対し、洒堂が「猿」の方が良いというのだけど、自分は「客」の方がいいと芭蕉に尋ねたところ、「猿とハ何事ぞ」と洒堂の案を切り捨て、「ここにもひとり月の客ト、己と名乗出たらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。此句ハ我も珍重して、笈の小文に書入ける」と言ったというエピソードだった。

 洒堂が猿と言ったのはそれほど的外れでもない。後に長澤芦雪が『巌上白猿・水辺群猿図屏風』を描き、岩鼻に座る白猿を書いている。

 正岡子規の『飯待つ間』の「句合の月」というエッセイの中で、月の句を詠む際に、

 

 「判者が外の人であったら、初から、かぐや姫とつれだって月宮に昇るとか、あるいは人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居たというような、凄い趣向を考えたかもしれぬが、判者が碧梧桐というのだから、先ず空想を斥けて、なるべく写実にやろうと考えた。」

 

と書いているが、この「人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居た」というのは去来の「岩鼻や」の句のイメージだろう。

 

 

5、自亢(みずからたかぶ)る者

 

 「凡先師の門人の句を賞し給ふや、相当の賞美有、過分の賞美あり。門人是におゐて、或ハ迷ひをとり、自亢(みずからたかぶ)りて、終に己が位をしらざる人も多し。又半途より自かへり見て、つつしむ人も是有。予が不敏といへども、或ハ秀逸・名句、或ハ此句我も不及、或ハ我が風雅汝等一両士にとどむ、是等の賞詞感文すくなしとせず。然レ共、退て此を師の句に正すときハ、雲泥のたがひ有。此を同門の句に合するときハ、群を離れず。猶其賞の身ニ応ぜざる事をしれり。又秀逸のまれなる事をしれり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.45~46)

 

 まあ、弟子を育てる時には褒めることも必要だが、芭蕉の書簡とかを見る限りではそれほど過分に褒めてはいないと思う。ただ、芭蕉とて人間だから、芭蕉が良いと思った句がすべてヒットするわけではない。良いと思って褒めたけど後になって忘れ去られてしまった句があれば、結果的には過分な褒め言葉だったということになるにすぎない。

 この去来の詞は、おそらく暗に芭蕉が許六の「十団子」の句を褒めたことが過分で、許六が亢ってると言おうとしたのだろう。

 実際、芭蕉は許六が初心者でそれでいて身分が高くお金持ちだからといって、過分に褒めたというようなことはなかったと思う。

 猿蓑調を脱却して次なる新風を探していた時、芭蕉は古典にこだわらず、より卑近でリアルなネタを探していたと思う。連句でも芭蕉は『猿蓑』の頃から少しずつ経済ネタを試みている。

 

    灰うちたたくうるめ一枚

 此筋は銀も見しらず不自由さよ  芭蕉

 

    でつちが荷ふ水こぼしたり

 戸障子もむしろがこひの売屋敷  芭蕉

 

 そんな時に出会った、

 

 十団子も小粒になりぬ秋の風    許六

 

の句は、思わず「これだ!」と思ったのではなかったかと思う。連句で試みていた経済ネタを発句でもできる、という驚きがそこにあったのではないかと思う。

 それに続く、

 

 行年や多賀造宮の訴詔人      許六

 

も同様、当時の芭蕉としては、これが来るべき俳諧だいう確信があったのではないかと思う。

 そこから芭蕉は『炭俵』の風を江戸で試すことになる。そこでは、

 

   好物の餅を絶やさぬあきの風

 割木の安き国の露霜      芭蕉

 

   塩出す鴨の苞ほどくなり

 算用に浮世を立る京ずまひ   芭蕉

 

   家普請を春のてすきにとり付て

 上のたよりにあがる米の値   芭蕉

 

   千どり啼一夜一夜に寒うなり

 未進の高のはてぬ算用     芭蕉

 

   今のまに雪の厚さを指てみる

 年貢すんだとほめられにけり  芭蕉

 

という句が詠まれることになる。

 ただこの実験は、『猿蓑』の成功体験からなかなか脱却できない京都・湖南の門人に、十分浸透させることが出来なかったようだ。『続猿蓑』という撰集のタイトルがそれを象徴している。

 『虚栗』の余韻の覚めやらぬ其角は『続虚栗』を編み、『阿羅野』の栄光を捨てられなかった荷兮は『曠野後集』を編纂した。『続猿蓑』にもそれと同じ響きが感じられる。

 そうこうしているうちに芭蕉の寿命が尽きてしまった。

 

 

6、さび・しほり

 

 「来書曰、近年湖南京師の門弟、不易・流行の二ッに迷ひ、さび・しほりにくらまされて、真の俳諧ヲ取うしなひたるといはんか。

 七、去来曰、此語、阿兄の奥旨左ニ有。其処に於て是ヲ弁。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.46)

 

 これについては、次のところでまとめて論じる、と。

 

 「来書曰、予たまたま同門に対して句を論ずるに、詞の続き、さびを付ざれバ、よしといはず。一句のふり、しほりめかねば、会て句とせず。是船を刻ミ、琴柱(ことぢ)に膠(にかは)する類ならんか。

 八、去来曰、此論阿兄の言のごとくんバ、其対したまふ人の過論なり。凡さび・しほりハ風雅の大切にして、わするべからざるもの也。然ども、随分の作者も句々さび・しほりを得がたからん。ただ先師のミ此あり。

 今日の我等の作者、なんぞさび・しほりのなき句をいとひすてんや。此をつねにねがふといはんハ、むべなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.46)

 

 去来が言うには、それはたまたま論じたその人に行き過ぎがあっただけで、さびしほりは大事だけど先師でない我々にはそれを判定することが難しいから、さびしほりがなくてもいいことにしている、ということ。

 先送りしておいて、うまいこと不易流行の方はスルーし、さびしほりにだけ答えている。

 さびしほりについても、結局よくわからないから、あれは先師にしかできない技で、我々にはあくまで目標にすぎないというわけだ。

 

 「又有ハなきにましたりといはんハよし。此をいとひすてんハ、過たるならん。かくのごとく論ぜば、我等ただ口をつぐまんにハしかじ。又壮年の人の句ハ、さび・しほり見えざるも、却て又よしといはんか。又初心の作者ハ、さび・しほりを容易にとくべからず。却て其吟口閉て、新味にうつりがたし。此先師の教なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47)

 

 『去来抄』「修行教」には一応、「さび」について説明している箇所が有る。

 

 「野明曰、句のさびはいかなるものにや。去来曰、さびは句の色也。閑寂なるをいふにあらず。たとへば老人の甲冑を帯し、戦場にはたらき、錦繍をかざり御宴に侍りても老の姿有がごとし。賑かなる句にも、静なる句にもあるもの也。今一句をあぐ。

  花守や白き頭をつき合せ    去来

先師曰、寂色よく顕はれ、悦べると也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.77~78)

 

 さびは色だという。実際に「さびいろ」という色は存在する。漢字だと錆色で、その名のとおり赤錆の色、酸化鉄の色だ。「日本の伝統色 和色大辞典」というサイトによれば#6c3524になる。

 鉄が古くなるとさびてゆくように、人も古くなるとあちこちに老化の色が現れる。

 「たとへば老人の甲冑を帯し、戦場にはたらき、錦繍をかざり御宴に侍りても老の姿有がごとし」という例も、「花守や白き頭をつき合せ」の例も老いた様子をさび色としている。

 「さび」は「神さぶ」から来たという説がある。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」にも「神(かみ)さぶ」は、

 

 ①神々(こうごう)しくなる。荘厳に見える。

 ②古めかしくなる。古びる。

 ③年を取る。

 

とある。

 大体雰囲気としては「さび」は、長い時の経過によって変わってしまった姿で、何となく無常感を感じさせるようなものとみていいのだろう。ただ、それは心ではなく、あくまでも具体的な「もの」として現れることが大事なようだ。花守の句では「白き頭」がそれになる。

 芭蕉の代表作で言えば、

 

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

 

では「古池」がそれか。あとは、

 

 夏草や兵どもが夢の跡     芭蕉

 

の「夏草」がそれだろうか。

 「しほり」については、

 

 「野明曰、句のしほり、細みとは、とはいかなるものにや。去来曰、句のしほりは憐なる句にあらず。細みは便(たより)なき句に非ず。そのしほりは句の姿に有。細みは句意に有。是又證句をあげて弁ず。

  鳥どもも寐入て居るか余吾の海   路通

先師曰、此句細み有と評し給ひし也。

  十団子も小粒になりぬ秋の風   許六

先師曰、此句しほり有と評し給ひしと也。惣じて句の寂ビ・位・細み・しほりの事は、言語筆頭に応(しる)しがたし。只先師の評有句を上て語り侍るのみ。他はおしてしらるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.78~79)

 

とまあ、はやり去来も明確には説明できなかったようだ。

 おそらく路通の句は鳥が寝ている姿は詠まれていないが、見えない鳥のことを気遣うあたりが「細み」なのだろう。

 芭蕉でいえば、

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげなり  芭蕉

 

の句だろうか。蓑笠着た猿を見たわけではないが、蓑笠があったらいいだろうなと猿のことを気遣うのは、細みなのかもしれない。

 「しほり」は姿だという。「しおり」は花などの「しおれる」から来た言葉で、花がしぼみ、散ってゆく哀れを連想させるが、哀れさという心ではなく、その姿を描くことにある。

 

 十団子も小粒になりぬ秋の風   許六

 

でいえば、「小粒の十団子」が「しほり」であり、秋風の哀れな情と違い、具体的な形を持っている。

 

 行年や多賀造宮の訴詔人     許六

 

にしても、年を越す訴訟人の姿に、また一年空しく終ってゆくかといった哀れさが感じられる。

 失われてゆくことへの哀れさ、悲しさを、どういう姿で表現するかが問題で、情そのものは常だが、それが思いもかけぬもので現れるところに意味があったのではないかと思う。

 芭蕉の句で言えば、

 

 道のべの木槿は馬に食はれけり  芭蕉

 

だろうか。

 これらは芭蕉が発見した名句の法則だったのかもしれないが、もちろん断片的なもので、体系をなすものではない。それだけに、なかなか狙ってできるものでもない。

 なお、世間ではよく「わびさび」というが、芭蕉は「わび」については語っていない。

 

 「又八、又曰、しほり・さびハ、趣向・言葉・器の閑寂なるを云にあらず。さびとさびしき句ハ異也。しほりハ、趣向・詞・器の哀憐なるを云べからず。しほりと憐なる句ハ別也。ただ内に根ざして、外にあらハるるもの也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47)

 

 さび・しほりは情を情として述べるのではなく、一つの姿、形、外形にするところに生ずる。これは虚において実をおこなうということにも通じる。

 

 「言語・筆頭を以て、わかちがたからん。強て此をいはば、さびハ句のいろに有。しほりは句の余勢に有。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47)

 

 さびは時の経過、肉体の老化などの色に出すことで、しほりは花の萎れるような失われる悲しみを余勢とする事象をいう。

 

 

7、高士の心

 

 「しかれども、趣向も詞・器も又撰ずんバ有べからず。詞・器よしといふとも、趣向拙からバ、無塩の面に西施が鼻を添たるがごとならん。趣向よしといふとも、詞・器よろしからずんバ、又梅花上に糞をぬりたるに同じからん。豈此をかほよし、かうばしといはんに、人信ぜんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47~48)

 

 このあたりは晩年の芭蕉の「軽み」に対し、一定の歯止めをかけようという去来の思惑で、必ずしも芭蕉の意思ではなかっただろう。

 『去来抄』には「句の位(くらゐ)」について述べた文が「さび」と「しほり」の間にあるが、その原型といえる議論かもしれない。

 

 「野明曰、句の位(くらゐ)とはいかなる物にや。去来曰、一句をあぐ。

  卯の花のたえ間たたかん闇の門ド    去来

先師曰、句位(くゐ)よのつねならずと也。去来曰、此句只位尋常ならざるのみ也。高意の句とはいひがたし。必竟格の高き所有。扨(さて)、句中に理屈を言ひ或はあたり合たる発句は、大おほかた位くだれる物也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78)

 

 釈迦の生誕に結び付けられることの多い卯の花を中を行き、真っ暗な中で友の家の戸を叩くというのは、いかにも高士同士の交わりを連想させる。それゆえ芭蕉は「句位(くゐ)よのつねならず」と賞したのであろう。

 これを根拠に、句を詠むには高士の心が大事で、卑俗な題材に走るのを戒めようとする。

 言葉や使われている物がどれほど綺麗でも、下卑た心で詠んだのなら、確かに「無塩の面に西施が鼻を添たるがごと」であろう。「無塩」は、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「4 《中国、戦国時代斉の宣王の夫人鍾離春が、山東省無塩の出身でたいへん醜かったところから》醜い女。無塩君。

「押し売りに―の后斉(せい)へ来る」〈柳多留・二〉」

 

とある。

 ただ、それはあくまで心の醜さが問題なのであって、容貌の醜さとは関係ない。

 逆に趣向がよくても、言葉や登場する物が醜いなら、というが、心に風雅の誠があるなら、卑俗な言葉や卑俗な事象を嫌わないのが芭蕉の目指した俳諧ではなかったかと思う。

 梅の花に糞を塗ってはいないが、

 

 鶯や餅に糞する縁の先     芭蕉

 

は俳諧ではないか。

 時代は下るが、

 

 杜若べたりと鳶のたれてける  蕪村

 

の句もある。

 おそらく去来は「十団子」の句を芭蕉が「しほり」があると言ったことに、どうにも納得ができなかったのではないか。

 後の『去来抄』では「先師曰、此句しほり有と評し給ひしと也。惣じて句の寂ビ・位・細み・しほりの事は、言語筆頭に応(しる)しがたし。只先師の評有句を上て語り侍るのみ。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.78~79)と、まあ先師が言うのだからそうなのだろう、という所で収めている。

 

 「来書曰、一句ふつつかなりとミゆれども、さび・しほり自備て、あはれなる句もあり。

 九、去来曰、雅兄の言たがはず。凡俳諧ハ、ふつつかなる句もいとふべからず。ただ拙き句・古き句をいとへり。

 師の句をうかがふに、厳なるものあり、やさしき物あり、狂賢なる物有、実体なるもの有、深遠なる有、平為なる者、健なる有、あハれなるもの有、ふつつかなる物有、うるハしき物あり。猶千姿万体ありといへども、さび・しほり有ラざる句ハまれ也。

 阿兄、先師の句を以てかんがミたまへ。此趣向・詞・器のさびしきと憐によらざる証なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.48)

 

 「ふつつか」というのは本来「太束」から来た言葉で、太くて丈夫という意味があった。その意味では「細み」の反対なのかもしれない。

 今日では「ふつつか」は細かな配慮を欠いた、気が利かないというような意味だが、「ふつつかなる句」はむしろ朴訥な句という意味ではないかと思う。それだったら芭蕉の句にもあるかもしれない。ただ、芭蕉は高度な技術が意識せずとも自然に出てしまうため、本当に朴訥な句というのはないかもしれない。

 まあ、子供が詠んだような素朴な句は別に排除すべきものではない。下手な句や古い句はあるが、とは言っても、後に惟然が、

 

 梅の花あかいハあかいハあかいハな 惟然

 

といった句を詠むようになると、去来は『去来抄』「同門評」に、

 

 「去来曰、惟然坊が今の風大かた是類也。是等ハ句とハ見えず。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.46~47)

 

と書くことになる。

 この句は一見無造作なようで、梅の花に見る春の訪れの喜びを見事に表現していて、本意本情を踏み外すものではない。もっとも「基」からははずれるが。梅の花の喜びの裏に厳しい冬の寒さが隠されているとすれば、さび・しほりもないとは言えない。

 芭蕉の句に「狂賢なる物有」の「狂賢」は、『去来抄』「同門評」の、「玉祭うまれぬ先の父こひし 甘泉」の句のところにある「凡ほ句を吟ずるに、意(こころ)は無常狂狷(きゃうけん)境にも遊ぶべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.40)の「狂狷」のことか。

 これは『論語』「子路」の、「子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不爲也。」から来た言葉だという。ただ、これは狂と狷を対比した言葉で、いずれにせよ中庸ではない、極端な人のことをいう。無常狂狷は世間の道を逸脱した風狂の僧ということか。

 「実体」はこの場合「じってい」で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 [名・形動]まじめで正直なこと。また、そのさま。実直。

「見たところ―な感心な青年(わかもの)であった」〈独歩・正直者〉

 

とある。

 「猶千姿万体ありといへども、さび・しほり有ラざる句ハまれ也。」というのは、少なからず時間の経過による衰え、風化、死といったものを暗示させる言葉が多いことによるものであろう。

 芭蕉の句はどこか「死(タナトス)」が隠し味になっている。これは蕪村の「性(エロス)」と対比される。

 

 

8、老、あるいは死への存在

 

 「来書曰、又予が年漸(やうやう)四十二、血気いまだおとろへず。尤句のふり、花やかに見ゆらん。

 十、去来曰、阿兄の言愛すべし。然ども、阿兄漸く老の名を得たまへり。その句にさび・しほり有らんに、人応ぜずといふべからず。雅兄の作、已に蕉門に秀たり。句、さび・しほりをおもハんに、人すぎたりとせじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.49)

 

 この部分は、許六の謙遜に対し、そんなことはありませんという社交辞令の部分。

 

 さび、しほり、ほそみの根底には結局「死」の暗示があるのだと思う。

 さびは時間の経過によって変化した事物によって、この世は無常で。命あるものは必ず死に形あるものは必ず崩れることを思い起こさせる。そして最終的には自分自身の人生にも終わりがあることに行き着く。

 しほりは花の萎れる哀れさや悲しみの情を、それに似た情を想起させる具体的なもので提示するが、こうした喪失の悲しみはやはり死の悲しみに結びつく。

 他人の死を痛むのは、それを自分の死であるかのように共感できるからであり、他者の喪失を鏡として自分の死を想起する。

 ほそみは共感から来る細やかな気遣いで、共感の根底には同じように生きていて、やがて死んでいく、自分と同じものであるという共鳴がある。

 ハイデッガーの現存在分析に習うなら、さび・しほりは「死への存在」であり、ほそみは「die Sorge」に近い。

 自分自身の死は他の誰の死にも代えることができないという点では、完全なる「個」に行き着く。

 そして、死が誰にも避けられないものであるという点で、すべての「個」を平等にする。

 そして自らの死を受け入れることで、恐怖によって支配されない自由を垣間見る。

 そして死すべき者同士の共感に広く普遍的な博愛が生まれる。

 死を思うことは自由で平等な個と個の結びつきをもたらし、そこに近代的な人権思想の根底を見ることもできる。

 ただ、我々の文化はそれを理性として立法の支配下に置くのではなく、朱子学的な性理として、心の誠として表現してきた。それはメンタルなものを多く含み、人権ではなく人情の文化を創ってきた。

 人は様々な集団に帰属してはいても、それは生きてゆくための生存の取引であって(社会契約はそれを理性と法で明確化したものと考えていい)、人間のいわゆる広松渉の関係主義でいうような役割存在は本当の自分ではなく、あくまで生きるための仮の姿にすぎない。

 自分を抑え、自分を殺し、世間に合わせて自分の役回りを背負うのが、現実の人間の姿だ。だが、それによって捨ててきた自分は完全に消えたのではない。そこには静かに風が吹いている。

 生存の取引は別に一回限りでもなければ一生もんでもない。生きてゆくためにそのつど繰り返してゆくものだ。

 人は転職したり改宗したり国籍離脱したりするし、家族といえども縁を切ることもある。集団への帰属は絶えず更改される。それができるから、世界は日々刻々と変化する。

 その変化して止まぬ世界の中で不易なものがあるとすれば、それは死への存在とそこから派生する諸々の感情だ。

 もちろん、すべての人間がその帰属する集団に拘束されない自由な存在だとしても、個の多様性は遺伝子の多様性で、生存競争から開放されているわけではない。

 ただ、生物学的な意味での生存競争は子孫を残すための戦いであり、社会的ないかなる成功とも関係なく、子孫を残したものが勝者となる。つまりそれは恋の勝負に他ならない。故に恋も不易の情となる。

 すべての人間が個に立ち返ったとき、生存競争は集団間の戦争ではなく、恋の争いになる。

 この子孫を残すための争いは、必ずしも現実に子孫を作れるかどうかとは関係なく、そんな事情などかまわず遺伝子は恋を命ずるから、同性愛でも恋は同じだ。

 人が恋をするのは子孫を残すためではない。この「ため」という考え方はラマルキズムであってダーウィニズムではない。

 恋はおそらく偶発的に生じた行動にすぎず、それが結果的に恋をした者の方がしない者よりも多くの子孫を残したとしても、あくまで結果であって、それが目的だったわけではない。これがダーウィニズムの考え方だ。

 だから、LGBTやQIAやPZNのように様々な恋が存在したとしても、それは何ら自然の摂理に反するものではない。自然はただランダムに多様な恋のあり方を生み出すだけで、結果的にはその中の子孫を残した遺伝子が残るのだが、異性愛でも子孫を残さなかった人、残せなかった人はいるし、そうでなくても子孫を残すこともある。

 多様性は自然の摂理であり、淘汰(子孫を残さなかったこと)も自然の摂理だ。そこに何一つ目的はない。

 野に咲く花が何の目的もなく美しいように、自然には本来目的はない。ある種の花の形が生殖の効率を高めたとしても、それはランダムに起きた突然変異の結果であり、何らかの目的があってその形になったのではない。つまり花は生殖のためにあるのではない。ただ、たまたま生殖に有利に働いたからそうなっただけで、何一つ目的があったわけではない。

 人間の恋もまた、子孫を残すためにあるのではない。

 恋する者はただ己の衝動に従い、最善を尽くすのみ。

 そうこうしているうちに、意図せざる子孫ができてしまうのもまた世の常だ。

 子孫を残す戦いには前提としてその間生き続けなくてはならないから、そのため人は取引をして集団に帰属するが、しばしば手段と目的は一緒くたになる。それゆえ生活のための戦いが生存競争と同一視されることが多い。

 逆に純粋な個と個の恋は、生活からも集団への帰属からも自由になるため、却って生存を困難にする場合がある。心中物が感動を誘うのはそこに理由がある。

 芭蕉の俳諧は死への存在の暗示を隠し味として鳴り響かせながらも、あくまで乾いた笑いが中心にあった。むしろ大坂談林のほうが、それがもたらす自由(かまわぬ)や純粋な恋へと展開する湿った笑いの風土をもたらし、浄瑠璃の心中物もそこから発達したのではないかと思われる。

 ともあれ、人生は結局生まれてから死ぬまでの限られた時間であり、生まれる前と死んだ後の世界はただいかなる想像をも絶する。何も思い描けない世界は虚無と言っていい。

 人生は強大な虚無の海に浮かぶ小島にすぎない。

 せめてそれが絶海の孤島ではなく、他者と共有することができたなら、それが風雅の誠だと言ってもいいだろう。

 死を暗示する夜のしじまの中で、湖の方でかすかに眠っている鳥の命の気配を感じることができたなら。

 

 鳥共も寝入てゐるか余呉の海  路通

 

 路通の風流は本物だ。

 

 

9、さび、しほりの不可知論

 

 「来書曰、然ども、老の来るにしたがひ、さび・しほりたる句、おのづから求ずして出べし。

 十一、去来曰、阿兄の言感涙すべし。然ども求ずして至ルものハ生得の人也。阿兄の心ロ風騒ありて、しかも道をはげむ事切也。猶さる事あらん。

 其次ハおもはざればいたらず。其次ハおもへどもいたらず。

 蕉門の諸生千万人、老を以て論ずる時ハ、先師にこえたるものも多し。いまださび・しほりを得たるもの壹人をきかず。おほくは此おもハざる人也。

 阿兄、世を以て考へ給へ。生得の人此を願バ、猶名人にいたるべし。聖ハ願バ天にいたるべしと、古人の格言ならずや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.49~50)

 

 「感涙すべし」までは社交儀礼の続きで、「然ども」からが本題になる。

 去来はさび・いほりに関して、『去来抄』「修行教」で、

 

 「惣じて句の寂ビ・位・細み・しほりの事は、言語筆頭に応しがたし。只先師の評有句を上げて語り侍るのみ。他はおしてしらるべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78~79)

 

と述べているように、結局は自分では判断できるものではなく、先師がそういうならそうだと言う。

 去来は自分では結局理解できなかったさび・しほりを、凡人には理解できない高度なものとして、かなり高いハードルを設定している。

 そのため、「さび・しほりたる句、おのづから求ずして出べし」というのは生得のひとであり、生得の人に次ぐ人なら求めれば得られるが求めなくては得られないとし、凡人は求めても得られないとする。

 蕉門の門人たくさんいる中で、老境の句は先師を越える者もあるが、さび・しほりに関しては「得たるもの壹人をきかず」という。

 その前に先師に関しては「さび・しほり有ラざる句ハまれ也」と言っているから、生得の人は芭蕉一人で別格だということになる。

 つまりさび・しほりは老境になれば自然に具わるような簡単なものではない。もし許六がそうだというなら、そりゃ感涙物だ、という皮肉になる。

 これは洋の東西を問わず、偉大なる先人の言葉を議論する時、「あんたは天才の言葉を何かわかったように議論しているが、所詮我々凡人に天才の言葉など分かるわけ無いし、分かったと思うのは思い上がりで、天才の言葉は議論すべきものではなくただ従うべきものだ」という種のもので、有りがちなパターンだ。

 要するに、自分がわからないのをごまかすのに、わかるわけないんだからお前だけわかったようなこと言うなと言って、自分と同次元に引きずりおろすやり方だ。こうして先人の有り難い言葉も、敬遠すべき言葉に変えて、結局は先人の教えを骨抜きにしてしまうのである。

 

 「来書曰、詞をかざり、さび・しほりを作たらんハ、真の俳諧にハ有まじ。

 十二、去来曰、阿兄の言的中せり。詞をかざりて此を得バ、誰か此をかたしとせん。強て詞を以て此をなさば、路通がほ句のごとくならん。詞をかざり作ると、心を用ひ願と、又同日の論にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.50)

 

 さび・しほりが単なる技法上の問題なら、さび・しほりは誰でもできる。さび・しほりが説明できないのは、それが技術ではなく精神だからだとなれば、完全に精神論だ。

 去来はここで路通の発句を槍玉に挙げるが、路通の句は先師も評価しているから、『去来抄』「修行教」と矛盾する。

 

 鳥共も寝入てゐるか余呉の海  路通

 

の句は「ほそみ」だから「さびしほり」ではないという言い逃れはできるかもしれないが。

 

 

10、捨てるべきもの

 

 「来書曰、只一句の姿に俳諧あらバ、捨つるものハ有まじ。

 十三、去来曰、此論阿兄おもハざるの甚き也。

 宗鑑・貞徳よりこのかた数人の名客、其風いづれか俳諧の姿なしとせん。

 然ども宗因用ひられて貞徳すたり、先師の次韻起て信徳が七百いんおとろふ。

 先師の変風におけるも、ミなし栗生じて次韻かれ、冬の日出てミなし栗落、冬の日ハさるミのにおほはれ、さるミのは炭俵に破られたり。

 その用捨時に有。此を以て先師、一時流行の名をはじめ、用捨時にかかハらざる句有を取て、千歳不易の号を起せり。

 しかれども、共ニ俳諧の姿にもれず。なんぞ此を捨る人なしとせん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.50~51)

 

 一句の姿はあっても捨てるべき句があると去来は考える。

 それは宗鑑・貞徳以来、貞室、季吟など、いずれの句も俳諧の姿を具えていた。

 宗因によって談林の流行が巻き起こり、そのあと延宝九年に信徳、春澄らが『七百五十韻』を刊行し、それに芭蕉、其角、才丸、揚水の四人が千句になるようにと二百五十韻を追加したものを『俳諧次韻』として刊行し、それが談林を離れた蕉風の出発点になった。

 そのあと、『虚栗』『冬の日』『猿蓑』『炭俵』と蕉風も変化してきた。

 この蕉風の発展過程で、捨てられて句があったが、捨てられたとしても俳諧の姿がないわけではなかった。それゆえに姿はあっても捨てるべき句があると結論する。

 ここでようやく不易流行説が登場する。つまり、捨てるべきものは一時流行であり、残ったものは千歳不易だとする。

 どんなジャンルの芸術でも、それが進化発展してゆく過程では、たくさんの作品が生み出される中から、良いものは積極的に真似し、つまらないものは忘却されてい行く。だからここで捨て去られるものがあったとしても、それは俳諧の姿はあっても結局そんなに面白い句ではなかったということになる。

 ならば、面白い句であれば、捨て去られることなく残る。許六が言いたかったのはそのことであろう。

 ただ、その捨てる捨てないを誰が判断するかが問題で、選者の独断で決めたのでは俳諧の姿があって十分面白い句が誤って捨てられてしまうことがあるし、本来捨てられるべきつまらない句が拾われてしまうこともある。選者の独断でなく、広く大衆の判断にゆだねることが重要になる。

 だが、頭でっかちの去来さんが果たしてそう考えたかどうか、そこが問題だ。

 

 

11、流行を意識した句作り

 

 「来書曰、不易・流行の二ツにくらまさるると云ハ、予きく、会て趣向もうかまず、句づくりも出ざる以前に、不易の句をせん、流行の句をせんといへる作者、湖南のさた也。

 十四、去来曰、此事さだめて、湖南の人々故有ていふなるべし。

 今愚をかへり見て此をおもふに、その当時の風をねがふ事ハ、平生心にあれバ、趣向・句作と前後を論ずべからず。

 句にのぞむに至てハ、感偶するものハ、趣向おのづから、苦案するものハ、先趣向を案ず。趣向漸(やうやく)いたりて、句づくりをおもふ。

 句ならんとする時、或新古の風出来る。その古風なる物ハ、幾度も掃ひすてて、ただ新風にかなハんとす。新風漸いたりて、句さだまる。しかれば流行をおもふ事ハ、趣向の後、句の前といはんか。是平生の案姿也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.51~52)

 

 去来が自分自身の句を作る時を振り返るなら、最初に不易の句をしようとか、流行の句をしようとか考えているわけではない。

 先ず最初にあるのは趣向で、テーマが定まってから具体的な句作りに入る。

 具体的に句を作ってゆく過程で、新しそうなものができたり古臭いものができたりする。古臭いものはこの時点で捨てて、新しそうなものだけを残す。これが新風だと確信できたときに句が定まる。流行は趣向の後、句が出来上がる前ということになる。

 前に、去来の句の作り方について触れたが、

 

 病中のあまりすするや冬ごもり   去来

 

の場合、「冬ごもり」が趣向になり、この場合芭蕉の病床の前での吟だから病中の冬ごもりであり、そこでいろいろな景を案じた末、「あまりをすする」というのが新しいと判断し、句が完成する。この場合「病中の冬ごもり」の趣向の後に流行を意識し、句を仕上げることになる。

 元禄九年刊の『韻塞』の、

 

 行かかり客に成けりゑびす講  去来

 行年に畳の跡や尻の形     同

 芳野山又ちる方に花めぐり   同

 見物の火にはぐれたる歩行鵜(かちう)哉 同

 

の句にしても、「ゑびす講」から「行かかり客に成」という景を導き、「行年」に畳の景を、「芳野山」という歌枕から「花めぐり」を、「鵜船」から「はぐれた鵜」の景を付ける過程で流行が意識されていると思われる。

 

 応々といへどたたくや雪のかど   去来

 時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし  去来

 

の場合も同様、「雪のかど」という趣向から何か新しいものをということで「応々といへどたたくや」が導かれ、「時雨」の趣向から「紅粉の小袖を吹かへし」が新味として導き出されたと思われる。

 この作り方は大喜利に近いかもしれない。与えられた題で以下に面白く作るかが勝負になる。

 おそらく多くの人は逆なのではないかと思う。何か面白いネタを思いついて、それを句に仕上げる段階で、時にはかなり無理矢理季語を放り込んだりしていたのではないかと思う。つまり流行が先にあって、後付けで趣向を練ることがしばしばあったのではないかと思う。

 芭蕉はその両方ができたと思う。いずれにしても仕上げてゆく段階でさび・しほりを隠しこむ技術があったのが凡庸な作者との違いだったと思う。

 たとえば、

 

 閑さや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

 

の句の場合、推敲課程が辿れるのでそれがよくわかる。

 初案は曾良の『俳諧書留』にある、

 

 山寺や石にしみつく蝉の聲    芭蕉

 

で、これだと山寺で聞いた蝉の声というテーマが先ずあって、「石にしみつく」という表現で新味というか面白みを出そうとしたと思われる。この場合の「しみつく」はまだ静寂を意識したものではなく、岩全体が墓石でもある山寺の石には、長年にわたる夥しい数の人々の蝉の声のような儚い命がしみついている、というものだった。

 ここまでだと去来の句の作り方に近い。人の命に思いをはせているあたりに既に細みの句ではあるが、それが明確に句の表に出ていない。

 

 淋しさの岩にしみ込む蝉の声   芭蕉

 さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ 同

 

といった中間の形になったとき、「さびしさ」の「岩にしみ込む」という、人の命の儚さを暗示させる「しほり」を具えることになる。

 そして、

 

 閑さや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

 

の句に至った時、王籍の『入若耶渓』の、「蝉は騒がしく鳴いて林はいよいよ静けさを増し」の句を踏まえて、古典の情に結び付けられる。

 古典の不易の情を借りながらも、長年にわたる儚い蝉の声が岩に染みている、という原案の新味の情が裏に隠されることになる。

 この二重の意味が込められることで、「閑さや」は単なる静寂ではなく、同時に死の静寂をも意味し、この句の「さび」となる。

 表面的には静寂の句だが、裏に人の命の儚さを暗示させる。これが芭蕉の最高のテクニックだった。さすがに門人にここまでできる者はいなかった。

 

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

 

の場合は「蛙飛び込む水の音」の下五が成立した時点で、新味はあるが何を言おうとしているかよくわからない、ただ心に浮かんだ一つのネタにすぎなかった。

 これが、

 

 山吹や蛙飛び込む水の音    芭蕉

 

となった時には、井手の玉川の蛙の不易に結び付けられる。ネタから入って、趣向を後付けする作り方になっている。

 この上五を「古池や」に変えたとき、最初の蛙の水音のネタがより身近なあるあるネタとして生きてくると同時に、「古池」が時を経て荒れ果てた情景となり、句の「さび」となる。そこには自ずと在原業平の「月やあらぬ」の情が喚起され、不易の情を具えることになる。

 

 

12、不易は常に意識する

 

 「又不易ハ一度心に得て、変ずる事なし。故に流行のごと、切におもひ、切にすてず。平生に離れざるもの也。流行の句を案ずるうち、或ハ不易の姿うかみ来れバ、則取て以て句とす。此を旧染の風のごとく、去嫌ふ物にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.52)

 

 不易は古典や芭蕉の成功した句から学んだら、それはもう変わることがないのだから、趣向の段階から常に意識しているもので、それを流行の句に仕上げようとしているうちに、新味に乏しくても不易だと思うなら、それは句として仕上げる。これは単なる時代遅れの句ではない。

 『去来抄』「先師評」に、

 

 「猪のねに行かたや明の月   去来

 此句を窺ふ時、先師暫(しばらく)吟じて兎角(とかく)をのたまハず。予思ひ誤るハ、先師といへども帰り待よご引(ひき)ころの気色しり給はずやと、しかじかのよしを申す。先師曰、そのおもしろき処ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿の跡吹おくる荻の上風とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく迄かけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.20)

 

とある。これよりは多少の新味がなければ、「則取て以て句とす」というわけにはいかなかったようだ。

 これに対し、

 

 岩鼻やここにもひとり月の客  去来

 

の句は芭蕉も褒めていて、岩頭の騒客には新味を認めていた。

 

 「平生の句案ハ、只旧染と、新風と、秀句あらん事をおもふ。不易と流行を用捨するにいとまあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.52)

 

 まあ、実際の所不易の句と流行の句を詠み分けるほど器用ではないというところだろう。

 古歌・漢詩などの古典を念頭に置きながら句を作っても、結局ちょっと変えただけになって、本説による付け句ならそれでもいいが、発句にはふさわしくない。

 大体は句がほぼ定まる頃に、かつて談林時代に證歌を取ったように、そういえば古典にこういうフレーズがあったと気付いて、後付に不易の情を持たせることはできるだろう。

 芭蕉の「閑さや」の句も、最後の段階ではそうだったのではないかと思う。芭蕉だから隠しておくけど、其角なら「蝉噪林逾静」なんて前書きをわざわざ付けて、屋上屋を重ねたかもしれない。

 去来の場合も、「応々と」の句に「いかにひさしきものとかはしる」、「時雨るるや」の句に「紅葉吹きおろす山おろしの風」を引き合いに出したのは、談林時代の證歌を取るという発想に近かったのかもしれない。言葉は引き継いだが情を引き継いでいない。

 

 

13、作り分けも時には必要

 

 「又不易・流行を分て案ずる事、故ありていふなるべしトいふハ、或(あるひは)奉納・賀・追悼・賢人・義士の類の賛のときハ、必不易を以て句案ずるを要とす。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.52~53)

 

 去来さんはアドリブが利かない人だったようで、元禄三年の秋、正秀亭での失敗のことが『去来抄』「先師評」に記されている。

 芭蕉と去来が正秀亭を訪れるのだが、芭蕉は自分は何度も来ているが、去来君、君は初めてなので発句をと言われたが、頭が真っ白になって何も出てこない。

 

 「珍客なれバほ句ハ我なるべしと、兼而覚悟すべき事也。其上ほ句と乞ハバ、秀拙を撰ばず早ク出すべき事也。一夜のほど幾ばくかある。汝がほ句に時をうつさバ、今宵の会むなしからん。無風雅の至也。余り無興に侍る故、我ほ句をいたせり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.27)

 

と叱られて、結局芭蕉が発句を詠むことになる。残念ながらこのときの発句は記されてない。

 正秀の脇は、「二ツにわれし雲の秋風」で、これに去来は、

 

   二ツにわれし雲の秋風

 竹格子陰もまばらに月澄て   去来

 

と第三を付ける。ここで芭蕉が、

 

 「二ツにわるると、はげしき空の気色成を、かくのびやか成第三付ル事、前句の心をしらず、未練の事なり」

 

とふたたび三十棒。これが去来の「膳所の恥」だ。

 アドリブの苦手な去来さんだから、奉納・賀・追悼・賢人・義士の類の賛といった予期せぬ場面で急に発句を求められた時、古句の雛形を頼ったのだろうか。

 ただ、この種の句は実例に乏しくて、実際の所はよくわからない。

 『続猿蓑』に、

 

   洛東の真如堂にして、善光寺如来開帳の時

 涼しくも野山にみつる念仏哉   去来

 

という句があるが、『去来抄』「先師評」には、初案の上五は「ひいやりと」だったという。それを、

 

 「先師曰く、かゝる句は全体おとなしく仕立るもの也。又五文字しかるべからずとて、風薫ルと改め給ふ。後猿蓑の撰の時、ふたたび今の冠に直して入句ましましけり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.14)

 

と先師に直されて、「涼しくも」に落ち着いたという。

 普通の作り方なら「野山にみつる念仏哉」が先にできて季語を後付けで放り込むところで、芭蕉もそう考えて「風薫る」としたのだろう。

 だが、去来はおそらく「ひいやりと」から作り始めたのではなかったか。だから「ひいやりと」にこだわって「涼しくも」にしたのではないか。

 ただ、「ひいやりと」の言葉に不易を意識した様子はない。

 

 手をはなつ中(うち)におちけり朧月 去来

 

は弟の魯町との離別の句だが、「朧月」までは泪で月が霞むみたいな、やや月並な風を念頭に置いたのかも知れないが、「手をはなつ中におちけり」は一瞬何かと思わせて、「ああ、月が落ちるまで手が離せなかったのか」と後からわかるような考え落ちになってしまっている。

 『去来抄』「先師評」では、芭蕉は、

 

 「此句悪きといふにはあらず。巧者にてただ謂ひまぎらされたる也。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.21)

 

と評している。悲しみの情がストレートに伝わらず、ただ何か上手いことを言ったという印象の方が立ってしまう。

 

 「又着題・風吟、或ハ他門の人に対して、当流をほのめかし、或ハ新風にをしうつらんとけいこのごとき、皆流行の句を以て専に案ず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.53)

 

 まあ着題は大喜利のようなものだから、新味を競うのはわかる。

 他門に当流をほのめかしというのは、季吟門の浪化を引き抜く際に、

 

 鶯に朝日さす也竹閣子      浪化

 

を発句とする両吟で、

 

   ひろい處を丸口にかる

 旅人に銭をかはるる田舎道    去来

 

といった経済ネタや、

 

   小屋敷並ぶ城の裏町

 謂分のちょっちょっと起る衆道事 去来

 

といった衆道ネタをやってみせたことがそれなのか。

 

 「しかれども、湖東の正秀ハ、先師遷化の日、予に語て曰、此より後流行たのしみなし。行末は不易の句をたのしまんといへり。此等ハ皆故ありていふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.53)

 

 正秀も芭蕉の臨終に立ち会った一人だった。十月八日の住吉四所神社詣ででは、

 

 初雪にやがて手引ん佐太の宮   正秀

 

の句を詠み、十一日の夜には、

 

 おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ  正秀

 

の句を詠む。このとき丈草の「薬の下の寒さ哉」の句が生まれる。去来は、

 

 病中のあまりすするや冬ごもり  去来

 

の句を詠んでいる。「冬ごもり」は去来とかぶっている。

 そして翌十二日の申の刻、芭蕉は亡くなった。

 その夜には亡骸を長櫃に入れて、船に乗せ運び去る。その時の会話だろうか。「此より後流行たのしみなし。行末は不易の句をたのしまんといへり」というのは。

 『去来抄』「修行教」にも同様の記述がある。

 

 「先師遷化の時、正秀曰、是より定て変風あらん。その風好みなし。只ただ不易の句をたのしまん。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.65)

 

 おそらくこの時正秀が言った「不易」というのは猿蓑調のことであろう。蕉風の完成形としてこれを続けていくだけで、芭蕉亡き後、誰かが新風を起したとしても、これを越えられないだろうと確信していたのだろう。

 同じ『去来抄』「修行教」に、

 

 「先師遷化のとし、深川を出給ふ時、野坡問曰、俳諧やはり今の如く作し侍らんや。

 先師曰、しばらく今の風なるべし。五七年も過侍らば、又一変あらんと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.79)

 

とある。

 確かに八年後だが惟然が『二葉集』の新風を起す。ただ、湖南の門人と播磨の人たちが応じただけで、それほど大きなムーブメントにはならなかった。去来もこのときはそっぽ向いてた。『去来抄』「同門評」に、

 

 「梅の花あかいハあかいハあかいハな   惟然

 去来曰、惟然坊が今の風大かた是類也。是等ハ句とハ見えず。先師遷化の年の夏、惟然坊が俳諧導びき給ふに、其秀でたる口質の処よりすすめて、磯際にざぶりざぶりと浪うちて、或あるいは杉の木にすうすうと風の吹わたりなどといふを賞し給ふ。又俳諧ハ季先を以て無分別に作すべしとの給ひ、又この後いよいよ風体かろからんなど、の給ひける事を聞まどひ、我が得手にひきかけ、自らの集の歌仙に侍る、妻呼雉子、あくるがごとくの雪の句などに評し給ひける句ノ勢、句の姿などといふ事の物語しどもハ、皆忘却セると見えたり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.46~47)

 

 芭蕉は元禄七年江戸での、

 

 むめがかにのつと日の出る山路かな  芭蕉

 

をはじめとして、擬音を入れるのを新風として広めようとしていたようだ。

 その夏、京に上ったとき去来にも惟然にもそうした指導をしていたのだろう。

 芭蕉、去来、浪化の三人で巻いた「鶯に」の巻の後半でも、

 

   参宮といへば盗もゆるしけり

 にっと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉

 

という句を付けている。ただ、その次の句で去来が、

 

   にっと朝日に迎ふよこ雲

 すっぺりと花見の客をしまいけり

 

とやって、危うく三十棒だったことも『去来抄』「先師評」に記されている。最終的には、

 

   にっと朝日に迎ふよこ雲

 蒼みたる松より花の咲こぼれ   去来

 

で落ち着いた。擬音の面白さも時と場合を考えろ、ということだった。

 「俳諧ハ季先を以て無分別に作すべし」もこの頃しきりに芭蕉が教えていたことだったのだろう。去来はこれをずっと律儀に守っている。季題を本意本情に繋いでおいて、あとは新味あるネタで展開するというのが、去来の基本パターンだった。

 結局新風は広がらず、俳諧は保存の時代に入って行き、明治入ると近代俳句が登場した時には旧派と呼ばれるようになっていった。そして、明治を最後に旧派も幕を閉じていった。

 その近代俳句も、最近ではすっかり保存の時代に入っている。近代俳句も様々な実験を繰り返して発展してきたが、その幕もあといくばくか。

 

 

14、不易の句、流行の句の作り分けもある

 

 「又我が旗下のものにのぞまれ、二ッを分て案ずる事もあらん。又吟友の会、遊興に乗じ、流行の句をして見せん、不易の句をして聞せんといふ事あり。此ハただ時に取ての放言なり。

 句の秀拙ト成不成ハ賢愚ト時日ニよるといへども、此をおもふ事なしといはんハ、却て誤ならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.53)

 

 まあ、結局は不易の句と流行の句の作り分けはやっていたということか。

 

 「退ておもふに、阿兄の俳に遊び給ふ事久し。必旧染有らん。句案にいたりて、その穢或ハ出来らん。此を掃ヒ、此をのぞきて、新風をおもひ給はずといふ事有べからず。心におもふと、口にいふのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.53~54)

 

 許六が芭蕉に入門したのは元禄五年だったが、それ以前にも俳に遊んでいた。ウィキペディアには、

 

 「延宝の始め(1670年代前半)に和歌や俳諧は初め北村季吟・田中常矩などに学んだとし、談林派の俳諧に属していた。元禄2年(1689年)33歳の時、父が隠居したため跡を継ぐ。この頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた。」

 

とある。俳歴は去来より長いのかもしれない。

 貞門や談林の時代を知っていたなら、去来が言うように、芭蕉と出会い「軽み」の風を学んだときから、古い俳諧のスタイルを一掃しようと頑張ったのかもしれない。

 

 「若阿兄此をおもハずとのたまハバ、阿兄ハ本ト旧染なき人か。有といへども、一度捨て、再びそのけがれの来らざる人か。かくのごとき人も又なしとせず。然レ共、此ハただ賢慮壹人の上にて、衆人と一口にいひがたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.54)

 

 不易と流行に惑うのは、確かに猿蓑調の旧幣だが、そういう許六さんにもそれがないといえるのか、とやや開き直ってきている。

 結局みんな新風を起こしたくても、芭蕉のような才能がない。誰かやらないか、誰かやらないかと思っていても、結局誰もやらない、そんなイライラが去来の其角への手紙になり、許六の去来への手紙になっていたのだろう。

 そして惟然がそれをやろうとすると、こんどは出る杭を打つ。衰退期というのはそういうものか。

 どんなジャンルの芸術でも、ひとたび繁栄を極めると、その成功体験が足を引っ張り、結局保存の時代に入ってしまうのだろう。

 

 

15、体と風

 

 「来書曰、歌に十体あり。定家・西行、初より十体を読んとし給ふ事を聞ず。よみ終て後、十体の姿ハあらハる。時に判者の眼有て、一々体を分ツ。何体の歌読んといへる歌道、片腹いたく侍らんか。

 十五、去来曰、此語阿兄のさす処異也。体と風ハたがひ有。まづ流行ハ風なり。十体ハ体也。体ハ古今にをしわたりて、用捨なし。風ハ時に用捨有。万葉風・古今の風・新古今の風のごとし。又国風あり、一人の風あり。流行ハ時の風なり。故に一時流行といふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.54)

 

 和歌十体(わかじってい)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「和歌の様式分類。現存の歌論書では『和歌体十種』(『忠岑(ただみね)十体』ともいう。『道済十体』はその抄出)と藤原定家『毎月抄(まいげつしょう)』とに十体論があり、後者の例歌を示すものとして『定家十体』(偽作説がある)がある。『和歌体十種』(壬生忠岑撰(みぶのただみねせん)を疑う説が有力)は、「古歌体、神妙体、直体、余情体、写思体、高情体、器量体、比興体、華艶体、両方体」を「高情体」を中心としてあげ、各五首の例歌を示す。『毎月抄』は、「幽玄様、事可然様、麗様、有心(うしん)体、長高様、見様、面白様、有一節様、濃様、鬼拉体」を「有心体」を中心としてあげる。定家作と偽る『愚見抄』は八体、『愚秘抄』は十八体、『三五記』は二十体を『毎月抄』の十体以外に示している。[藤平春男]」

 

とある。

 同じ去来門の中で、「我が旗下のものにのぞまれ、二ッを分て案ずる事もあらん。又吟友の会、遊興に乗じ、流行の句をして見せん、不易の句をして聞せんといふ事あり」というのであれば、同じ時代の去来門の風の中で不易体と流行体に分けて詠んでいたことになり、これは言い訳できないだろう。

 貞門、談林、天和調、猿蓑調などは「風」と呼べるかもしれないが、流行調という風はない。同様に不易という風もない。

 「国風あり、一人の風あり」の国風は『詩経』にあるが、一人の風はいわゆるその作者の作風というものだ。

 流行が風だというのは、流行するものが風なのであって、流行そのものが不易に対して一つの風になるというものではない。不易と流行を分けた時点でそれは体というべきだろう。

 

 「又不易ハ、古今によろしくて用捨なし。此を体といはんも又ちかし。然ども、体ハ己一体ありて、風なし。風と時々の風による。不易ハよろづの体をそなへて、一己の風あり。故に風を時々によらず。時々の風によらざるが故に、又古今にかなへり。かるがゆへに千歳不易なり。風といはずんバ有べからず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.54~55)

 

 不易は流行によってそのつど変わってゆく風ではないから体に近い。ただ問題は「体ハ己一体ありて、風なし」だ。これは何を根拠にこう断定しているのか。

 忠岑十体と定家十体はそれぞれ体があるが、時代が変わればその内容も変わる。これは風ではないか。忠岑風の十体と定家風の十体があるのではないか。

 その後の論もいたずらに言葉をもてあそぶだけで明晰な論理は見られない。

 要するに、今の去来調(去来風)では不易体と流行体に分けて考えている。それを流行は風であって体にあらず、不易は体であって風にあらずという言葉自体の定義を持ち出して煙に巻いているだけだ。去来調は風であって体にあらず、不易体と流行体は体であって風にあらず、が正しい。

 

 「又ノ十五、又曰、和歌もいづれの風を読んとおもふ事あるべし。後鳥羽院の勅言も、いまの世に生れてうたをいにしへによむものハ西行也と、つたえ聞たり。

 又古今の序ニ、小町ハそとをり姫も流なりと。此等ハまつたく風をこひて読給ふなり。

 西行・小町といふとも、まなバずしてかくのごとくハあらじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55)

 

 「後鳥羽院の勅言」に関しては、岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎注によると、後鳥羽院ではなく順徳天皇の『八雲御抄』に、

 

 「定家の云『歌のみちはあとなきごとくなりしを、西行と申ものがとくよみなして、今にその風ある也。』と云り。西行は誠に此道の権者なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55)

 

とあるという。

 小野小町の「古今集仮名序」の評には、

 

 「をののこまちは、いにしへのそとほりひめの流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめる所あるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし。」

 

とある。

 ただ、この二つの例は、複数の体を分けて詠むということではない。

 むしろ過去の作風を継承しているというだけで、元の風を模倣しているということではない。

 もちろん、過去の作品を研究してその影響を受けた可能性もあるが、たいていは評者が単に似ているなと感じたことを、何某の歌に近いというような感覚のものだと思う。

 風としては、西行はやはり新古今調だし、小野小町も古今調だ。過去の風を受け継いではいても、その時代の風で詠んでいる。少なくとも江戸後期の国学者やアララギ派の歌人が復古万葉調で詠むのとは分けが違う。

 

 「もし天性の風流、学ばずして此に至り給ふや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55)

 

 多分、学ばずして此に至ったのであろう。後から評者の方がこれは何某の流だと勝手に呼んでいるだけだと思う。天才というのはそういうもので、努力の人の去来には理解できないかもしれないが。

 

 「体ハ、大形いづれの体よまんと、はじめよりおもふ物に非ず。歌合・賀・初会等のうたハ、おのおの正風体をよまんと、はじめよりこころざし給ふと伝え聞たり。

 六百番に顕昭ハ、ただ一ふしよまんとし給ふ故に、負多しといへり。又はれのうたよまんにハ、正風体をよむべしといへるも、うたいぜんにおもふなるべし。尤此ハ体の事にして、風にあづからず。阿兄の難ハ、二ッを分ざるの難也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.55~56)

 

 去来は風と体に勝手な解釈を加えているだけで、肝心な部分に答えてはいない。

 つまり不易体の句、流行体の句と分けて詠むことが正当かどうかという問題だ。

 芭蕉自身が、

 

 名月に麓の霧や田のくもり  芭蕉

 名月の花かと見えて棉畠   同

 

の二句を詠み、『続猿蓑』に、

 

 「ことしは伊賀の山中にして、名月の夜この二句をなし出して、いづれか是、いづれか非ならんと侍しに、此間わかつべからず。月をまつ高根の雲ははれにけりこゝろあるべき初時雨かなと、圓位ほうしのたどり申

されし麓は、霧横り水ながれて、平田(しょうしょう)と曇りたるは、老杜が唯雲水のみなり、といへるにもかなへるなるべし。

 その次の棉ばたけは、言葉麁にして心はなやかなり。いはヾ今のこのむ所の一筋に便あらん。月のかつらのみやはなるひかりを花とちらす斗に、とおもひやりたれば、花に清香あり月に陰ありて、是も詩哥の間を

もれず。しからば前は寂寞をむねとし、後は風興をもつぱらにす、吾こゝろ何ぞ是非をはかる事をなさむ。たヾ後の人なをあるべし。」

 

という支考評を添えることを望んだか、OKしたとすれば、芭蕉自身、不易と流行を分けて詠んだことになる。

 あるいは『猿蓑』の撰のときに、

 

 病鴈のよさむに落て旅ね哉かな    芭蕉

 あまのやハ小海老にまじるいとど哉  同

 

の二句を提示したときにも、不易と流行の二つの体を意識していた可能性はある。

 そうなると、不易と流行を分けて詠むことが元々そんなに悪いことだったのか、という許六の難そのものが当たってないのではないかということにもなる。

 去来は先師のこういう例を引いて、不易と流行を分けて詠むのの何が悪いという方向で反論した方が良かったのではないかと思う。

 去来の方が許六の難に押されて一歩引いてしまったから、苦しい言い訳になってしまったのではないかと思う。

 

 「又々ノ十五、去来又曰、不易は和歌の正風体と大概似たるべし。然ども和歌の事にうとし。強て此を謂がたし。正風体ハひとり風体の二字を用ゆる事、故あるべし。正風体の和歌ハ、古今にわたりて、又おのれ一風ある物か。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.56)

 

 「正風体」という言葉が唐突に登場しているが、当時の和歌ではこの言葉を用いていたのか、正風体は風であるとともに体であるのだから、「阿兄の難ハ、二ッを分ざるの難也。」とあるのだから矛盾してしまう。

 コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 正しい風体。特に歌学で、伝統的な作風による品格の高い歌体。しょうふうたい。

 2 近世の俳諧で、正しい俳風・風体。主として蕉風についていう。しょうふうたい。」

 

とあるが、むしろ「正風体」は芭蕉の不易流行説に基づいた不易であるが故に風を超越した体というような意味で定着していった可能性もある。「正風」は「蕉風」に掛けて用いられる。

 許六もこの後正徳二年に『正風彦根体』を編纂し公刊している。

 

 

16、理論と秀逸

 

 「来書曰、元来たくみ拵たる不易・流行なれバ、不易・流行いまださだまらざる世界ハ、俳諧秀逸あるまじくや侍らん。

 十六、去来曰、論高して、語意愚耳に落ず。

 推て以ておもふに、二ッの品いまだ分れざる以前にハ秀逸ハ有まじきやと、難じ給ふと見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.56~57)

 

 許六は皮肉で、不易流行が秀句を生むために不可欠な説だというなら、芭蕉が不易流行を説く前は秀逸がなかったのか、そんなことはない、というわけだが、去来はまともに受け取らずに、意図的にか曲解して返答する。

 芭蕉が不易流行を説いたのが『奥の細道』の旅の後なら、古池の句は不易流行説を立てる前の句で、もちろんこれが秀逸でないはずはない。秀逸な句はそれ以前にもあるし、不易流行は後から立てた理論で、理論先行しで理論通りに作れば秀逸になるなんてことはない。

 どんな理論でも理論が秀逸を生むことはない。もっともAIが高度に発展すればディープラーニングシステムが人間の思いもよらぬ理論を思いついて、秀逸をコンピュータが作る時代が来るかもしれない。ただ、今の時点では理論は秀逸を後から説明するだけで、理論は秀逸を生まない。

 だから許六の指摘は当たり前のことを言っているだけで、同じように血脈の論以前には秀逸はなかったのか、虚実の論以前には秀逸はなかったのかということになる。あるにきまっている。

 

 「先不易・流行さだまらず先といふ理なるべし。凡俳諧ハ和歌の一体たり。上下を分て此をいふもの、和泉式部の句有といへり。実・不実をしらず。平忠盛・源頼朝の句ハ書にのせたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)

 

 和泉式部の句というのは『金葉和歌集』巻十の、

 

   「和泉式部が賀茂に参りけるに、藁うづに足を食は

   れて紙を巻きたりけるを見て、神主忠頼

 ちはやぶるかみをば足に巻くものか

                 和泉式部

 これをぞ下の社とは言ふ」

 

のことと思われる。これを後の連歌の表記法に直すと、

 

   ちはやぶるかみをば足に巻くものか

 これをぞ下の社とは言ふ     和泉式部

 

となる。「実・不実をしらず。」というのは去来が『金葉和歌集』を読んでなくて、誰かから伝え聞いたものだったからであろう。

 平忠盛の句は『平家物語』の、

 

 いもが子ははふほどにこそなりにけれ

 

 という忠盛の句に、白川院が

 

 ただもりとりてやしなひにせよ

 

と返したものをいうと思われる。

 源頼朝の句は『吾妻鏡』にある。

 

 はしもとの君にはなにかわたすべき

 

という頼朝の句に、

 

 ただそまかはのくれてすぎばや

 

と梶原景時が付ける。忠盛・頼朝の句は書籍で裏を取っていたのであろう。何となく去来の読書の傾向が知れる。

 

 「式部・忠盛・頼朝、又おのおのその代の風たるべし。よし神代よりはじまるにせよ、已ニ句ある時ハ風有、句なきときハ風もあらハれず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)

 

 まあ、実際はこのような散発的な連歌に「風」と言えるほどのものがあったかどうかはよくわからない。個人の作風でも、ある程度まとまった作品があれば、大体の傾向をその人の作風と呼ぶことができるが、単体では風と言えるのかどうかわからない。

 このあたり、去来は「風」をあくまで観念的に考えていたように思える。

 

 「此におゐて、俳諧となづくべき物もなし。しかれバ不易・流行なき以前といへる俳諧なかるべし。豈秀逸なきのみならんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)

 

 「已ニ句ある時ハ風有」の場合はその時代の風か、もしくはその作者の風があるという意味で、「句なきときハ風もあらハれず」というのは作品がないのに作風があるわけないという自明のことをいっているにすぎない。

 ならば俳諧がなかった時代は、当然俳諧の風もなかったといくことになる。だが、「不易・流行なき以前といへる俳諧なかるべし」は論理が飛躍している。「風」という言葉の意味を、その時代の風・その作者の風ではなく、不易の風・流行の風に変えてしまっている。

 

 ×此におゐて、俳諧となづくべき物もなし。しかれバ不易・流行なき以前といへる俳諧なかるべし。

 ○此におゐて、俳諧となづくべき物もなし。しかれバ風を論ずべき俳諧なかるべし。

 

であろう。もちろん作品が存在しないのだから秀逸が存在するはずもない。

 問題になっているのは、芭蕉が不易流行を説く前に秀逸があったかどうかで、俳諧そのものが存在しなかった時代のことを言っているのではない。

 これが去来一流の詭弁なのか、それとも案外許六の皮肉がわかってなかったのか、とにかくこの議論は噛み合ってない。まあ、世の中に確かに皮肉の通じない人間というのはいるが、去来もその類だったか。

 

 「不易・流行ハ別の物にあらず。ただ風の名也。其変ずる所あるを一時と云、変ぜざるもの有を不易とわかつのみ。しかれども、古人此を云俳師なし。先師始て古来の俳諧をその二ッ有を見て、此を分て門人にしめし給ふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57)

 

 『去来抄』「修行教」には、「去来曰、不易の句は俳諧の体にして、いまだ一つの物数寄なき句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.62)

 

とある。

 また流行に関しても、「去来曰、流行の句は己に一ツの物数寄有て時行也。形容衣裳器物に至る迄まで、時々のはやりあるがごとし。 譬ば『むすやうに夏のこしきの暑哉』此句体久しく流行す。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.62~63)

 

とある。不易流行が風であるか体であるかは本来問題ではない。風にも不易流行があり、体にも不易流行がある。

 不易流行は凡そ万物に見られる現象で、それゆえ不易は俳諧に限られず、芭蕉の言うように「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。」(笈の小文)であり、風雅の誠は朱子学の性理の誠であり、人間の本性としての普遍的な概念だったはずだ。

 去来はその不易を「基」や「本意本情」として論じることで形式的なものに狭めてしまっていた。そこが、

 

 応々といへどたたくや雪のかど   去来

 時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし  去来

 

といった句の限界になっていたと思われる。

 許六の「血脈」、其角の「俳諧の神」には、そうした形式を超えた意味を持っていた。

 ただ許六の論もまた、去来の弱点が不易の体と流行の体に分けていることにあるのではなく、不易の理解の仕方が不十分だった所にあったことに気づいてなかった。そこからこの噛み合わない論争になったのではないかと思う。

 

 ×不易・流行ハ別の物にあらず。ただ風の名也。

 ○不易・流行ハ別の物にあらず。それは風にもなれば体にもなる。

 

で良かったのだと思う。『去来抄』の方が後に書かれているとすれば、去来もその点は修正できたのであろう。

 不易流行はもちろん芭蕉が『奥の細道』の旅の後に初めて言い始めたことで、『去来抄』「修行教」にも、

 

 「去来曰、不易流行は万事にわたる也。しかれども俳諧の先達是をいふ人なし。‥‥略‥‥先師はじめて俳諧の本体を見付、不易の句を立、又風は時々変ある事を知り、流行の句変ある事を分ち教へ給ふ。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.64~65)

 

とある。

 

 「名は先師にはじまるといへども、実ハ句と一時に生ずるもの也。先師なんぞ自作為して門人をあざむき給ハんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.57~58)

 

 だから別に先師が不易流行を説く前に秀逸がなかったなんで誰も思ってはいないって。ただ、不易流行を別に意識しなくても、自ずと不易の句や流行の句をみんな作っている、とそこが大事なんで、そんな向きになることではない。

 

 「然ども古人いへる言あり、詞に達せずして心にうるものハあらじ。阿兄此論の語意、いまだ詞に達せず。おそらくハ烏を以て鵜を弁ずるならん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.58)

 

 なまじ言葉にしてしまうと、今度は言葉が独り歩きして振り回される危険もある。不易と流行を分けて句を作ることは間違いではないが、不易の理解が不十分だと、ただ古臭い句を不易の句と呼ぶことになりかねない。許六の意図はそこにあったのだと思う。

 近代でも主観の句だとか客観の句だとか言うことがあるが、句を作るときに別にそんなものを意識する必要はない。意識すると言葉に振り回されて、却ってつまらない句になるものだ。

 理論は後から分析するのには役立つが、理論で名句が生まれるなら誰も苦労はしない。むしろ凝り固まった理論をブレイクスルーする時に、傑作というのは生まれるのではないかと思う。

 

 

17、ふたたび体と風

 

 「翁在世のとき、予終に流行・不易を分て案じたる事なし。句出て師に呈ス。よしハよし、あしきハあしきときはまる。よしと申さるる句、曾て二ッの品を心にかけずといへるとも、不易・流行おのづからあらハるるなり。滅後の今日に至て猶しか也。

 十七、去来曰、此弁湖南の人の二ッを分て句案する答にあり。重て此を弁ぜず。又その先師のよしと申さる句、不易・流行自備るハ勿論なり。もし二ッの内、一ッあらずんバ、先師よしとの給はじ。

 又二ッの風にもるると云共、阿兄古今未発の風を詠じ出し給ひて、しかもその風よろしくバ、作者の手柄なるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.58)

 

 これは十四と重複すると言う。

 不易も流行も、出来上がった句を評する時には便利だが、不易と流行を意識すれば好句ができるというものではない。その失敗は去来のいくつかの句を見ればいいだろう。ただ、それは不易の考え方が浅かったせいで、二つに分ける考え方そのものが悪いということではない。

 不易が備わらないというのは、その人だけの特殊な句ということか。いわば共感が得られない句ということだろう。近代俳句にはこういうのが多い。文学はあくまで個の表現だという考えから、却って多くの人の共感する句を通俗的な句として嫌う。個の特殊性が表現されているのを良しとする。

 流行のない句というのは、要するに古臭い句ということか。ただ、復古調が流行することもあるし、今でもレトロ・ファッションというのがあるから、古びた句が悪いということでもない。ただ、それは古いものに新しい解釈が加わった時で、単なる古い物の焼き直しなら見るべきものもない。

 不易も流行もどちらもない句となると、なかなか想像しがたい。

 『去来抄』では不易も流行も「体」として認識されているが、この頃の去来は「風」として認識していた。これは多分、過去の流行の風を不易、今の流行の風を流行というふうに、時系列で「風」として捉えていたのではないかと思う。

 この解釈なら、不易でも流行でもない句は過去にも現在にもない句ということになるから、それは「未発の風」つまり新風であるため、「作者の手柄」となる。

 ただ、これだと芭蕉が次々と生み出した新風は、不易でも流行でもなかったということになってしまう。要するに不易も流行も「風」だというところに無理がある。

 

 「古今未発の風にもあらず、今日の流行風又不易の風にもあらずバ、必して過去の風なり。過去の風ハ、先師の今日の風に非ず。先師の風にあらざるものハ、阿兄此をねがひ給ハじ。

 むべなる哉。先師のよしと申さるる句、自二ッのうち一風有事。其あしと申さるるハ、定て過去の風もあらん、拙き句もあらん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.58~59)

 

 こうなってくるとますます何を言っているのかわからなくなる。

 ここでいう「過去の風」はおそらく貞門や談林の風という意味で、蕉風には不易風と流行風があって、その中でも蕉風の古を模した風を不易風と呼び、蕉風の流行の風と区別しているのか。

 許六が言うのは、句を詠む時に一々不易の句にしようかとか流行の句にしようかとか意識する必要はなく、良い句には句にはおのずと不易の側面・流行の側面が備わる、ということで、不易も流行もない句なんてのは最初から問題にしていない。

 不易も流行も、別に先師の専売特許ではないし、貞門にも談林にも不易はあるし、流行もかつてあった。大阪談林はこの時期でもまだ流行していた。

 古臭い句だから不易も流行もないということではない。それは昔流行った句にすぎない。ここにも去来がいかに「不易」を狭く解釈しているかがわかる。

 去来は蕉風に不易風と流行風があると考えていて、蕉風にあらずんば不易も流行もないというふうに考えていたのではないか。

 そして、不易風でも流行風でもなくでも、貞門や談林にはそれぞれの風があり秀逸があり、許六さんがこれから未発の新風を起すなら、それは不易風でも流行風でもないが秀逸、ということか。

 不易が今だけで過去にも未来にもないなら、それを「不易」と呼ぶことはできないだろう。やはりこの論理も破綻している。

 

 おそらく想像するに、元禄二年の冬、『奥の細道』の旅を終えた芭蕉が京都を訪れたとき、不易流行の話が出た時、去来は不易風と流行風の二つの風を新風としてこれから始めると理解したのではなかったかと思う。それは次韻風、虚栗風、蕉風確立期の風があったようなもので、その延長と考えていたのではないかと思う。

 それはさらに あるいは翌元禄三年、『猿蓑』の撰のときに、

 

 病鴈のよさむに落て旅ね哉かな    芭蕉

 あまのやハ小海老にまじるいとど哉  同

 

の二句を示され、どちらか一句を選べと言われた時に、こういうふうに不易風と流行風を分けて詠むんだと確信したのではなかったかと思う。

 そこで「病鴈の」はいわゆる正風であり、「あまのやハ」は一時流行の風というふうに認識した。

 だから、許六に不易風と流行風を分けて詠むことを和歌十体に喩えて難じられたとき、不易と流行は体ではなく風だと反論することになった。

 もちろん不易と流行を分けて詠むこと自体は完全には否定し切れなかった。

 芭蕉が不易流行を説く前にも秀逸はあったという許六のアイロニーに対しても、去来は貞門には貞門の秀逸が、談林には談林の秀逸があった、というふうに理解していた。

 そして許六が不易流行を意識せずに句を作り、それが秀逸なら、それは許六さんの新風ではないか、と切り返すことになる。

 ただ、貞門風も談林風も風も、まだただ不易と流行の名前がなかっただけで後から見ればそれに類するものがあった。

 これを以ってして芭蕉が不易流行を説く以前にも不易と流行はあり、この二つの風は俳諧が始まった時からあったとするが、これだと不易と流行は芭蕉の新風とは言えなくなり、矛盾が生じてしまう。

 結局、後の『去来抄』の頃には不易と流行は「体」だということに修正することになる。芭蕉は普遍的に存在していた不易と流行の体に名前を与えた、ということになる。

 さて、そう考えると、次の文章はわかりやすくなる。

 

 「来書曰、曾(かつ)て流行・不易を貴しとせず。

 十八、去来曰、此論阿兄の見のごとくんバ勿論也。

 然ども阿兄静に此を考へたまへ。

 阿兄の今日先師に学び給ふ処者、古今の風を分ず此を学びたまふや。又先師の今日の風を学び給ふや。

 もし今日の風を学給ハバ、此流行を貴び給ふにあらずして何んぞや。

 昔日ハ先師の昔日の流行を学び貴ミ、今日ハ今日の流行を学び貴む。其流行に随ざるは先師の風におくる。おくるる者ハ其むねをゑず。故に流行を貴む。

 阿兄今此を貴まずといへども、心裏おぼえずして此を貴む人なるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.59~60)

 

 不易風と流行風という二つの風が今日の風であるなら、今日の風を貴んで句を詠む以上、二つの風を貴んでいることになる。理の当然というわけだ。

 

 「来書曰、よき句をするを以て、上手とも名人とも申まじきや。

 十九、去来曰、阿兄の言しかり。宗鑑・守武このかた宗因にいたるまで、皆一時のよき句有ゆへ、時の人呼て名人とす。その名人の称、今にうせず。

 先師も此人々を貴み給ふ。此レよき句する人を名人といふ処也。

 しかれども此人々の風、先師今日とり給ハず。その句ハ一時によしといへども、風変じて古風すたる時ハ、共にすたる。このゆへに一時の流行にをしうつらん事をねがふのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.60)

 

 不易風と流行風がともに一時流行の風ならば、不易風といえどもやがては廃れてゆくことになる。それでは不易じゃないじゃないか、ということになる。また不易風を起す前の秀逸は不易ではなかったということになる。

 「不易」を風と呼ぶ限り、この矛盾は付いて回る。「不易」は時代を超えた普遍的な価値であり、一時的な「風」を越えた根源的なものでなくてはならない。去来はその認識に至らなかった。基と本意本情の形式的な不易を越えられなかった。

 

 

18、秀逸有といふとも、きく人なからん

 

 「来書曰、アア諸門弟の中に秀逸の句なき事を悲しぶのミ。

 廿、去来曰、共に悲しむのミ。又秀逸有といふとも、きく人なからん事を悲しむのみ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.60)

 

 秀逸がないのを悲しむのはわかる。そのあとのは一体何が言いたいのだろうか。

 芭蕉亡き後、蕉門の俳諧に対する世間の関心が急速に薄れているということか。しかし、それは秀逸がなければ当然だろう。

 秀逸があるのに世間が見向きもしないとすれば、蕉門内部での評価と世間の評価の間にギャップがあるということで、これだと蕉門の俳諧が世間と隔絶された閉鎖的なカルト的なものになっているということだろう。

 しかし、芭蕉なき後の秀逸な句があるとすれば、一体どれのことをいうのだろうか。まさか「応々と」や「紅粉の小袖」ではないだろうね。

 近代の場合だと文学に限らず芸術一般において、西洋的な価値観で制作する人と日本の伝統的な社会に属する一般大衆の価値観との間に相変わらず大きな乖離がある。

 カンヌのパルムドールを取った是枝監督の『万引き家族』にしても、西洋で評価されるものが必ずしも日本では当たらないというのは、今に始まったことではない。スタジオジブリの『レッドタートル ある島の物語』もそうだった。

 

 

19、俳諧の賊

 

 「来書曰、翁滅後、門弟の中に挟る俳諧の賊あり。茶の湯・酒盛の一座に加ハリ、流浪漂白のとき、一夜の頭陀を休め給ふはたごやなど(に)いでて、門弟の数につらならんとするあぶれ者共、ミだりに集作る。

 一流の繁昌にハよろしといへども、却て一派の恥辱・他門のあざけり、旁(かたがた)かた腹いたく侍らんか。高弟眉をしかめ、唇を閉給ふと見えたり。

 廿一、去来曰、阿兄の言誠になげくべき物也。然ども蕉門の高客、今世にある者すくなからず。彼何ぞ我正道をさまたぐるに至ン。

 蕉門の流をくむといふとも、世に白眼の者あらば、正に其たがひ有事をしらん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.61)

 

 芭蕉亡き後、本当に世間の俳諧への興味が薄れているなら、門弟の数につらならんとするあぶれ者共もそんなたいした数ではなかろう。たくさんいるなら、俳諧がまだまだ繁昌しているしるしで、それは喜ぶべきことだ。

 ただ、裾野がいくら広くても頂点がないなら、先はおぼつかない。だから本当に嘆かなくてはいけないのは、蕉門の高弟の方であろう。

 去来も最初は一応、芭蕉の高弟の多くはまだ健在だし、間違ったことをやる奴は世間もわかっていて、白眼視するだろうとたしなめてはみるものの、離反する高弟も多く、話はそこで終らない。

 

 「近年書林に歳旦を持来りて、我ハ蕉翁の門人也、三物帖に蕉翁の門下と一ツに並書すべしといふ輩多し。

 湖南正秀一日告予曰、今歳旦之三ツもの、先師の門人の分、此を別禄す。

 其内、先師在世の間、いまだ名を聞ざる者おほし。以て憎べき事也。此後書林に正し、先師直示の門人のしらざる者ハ、此をはぶかん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.61~62)

 

 正月に発句・脇・第三からなる三つ物を作り、それを歳旦帳として出版するのは習いだった。

 コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 

 「俳諧の宗匠家では,正月の慣習として側近の連衆(れんじゆ)と歳旦の〈三つ物〉をよみ,これに知友・門下の歳旦,歳暮(年始,年末の意)の発句(ほつく)を〈引付(ひきつけ)〉として添え,刷物にして配った。その刷物の数丁に及ぶものをいう。また,各宗匠の刷物を版元で合綴した〈三つ物揃〉をもいう。人々はこれを〈三つ物所〉の店頭,または街頭の〈三つ物売〉から買い求め,各宗匠の勢力の消長と作句の傾向や技量を評判しあった。」

 

とある。

 歳旦帖はその門の顔であり、そこに名を連ねれば多くの人がその人を門人として認めるわけだから、何とかそこにもぐりこませようとあの手この手の人もいそうだ。

 そうやって結構去来の知らない名前が並んでたりしたのだろう。ただ、芭蕉も旅のあちこちでいろいろな人と関わっているから、一概に似せ物とも言えまい。

 

 「去来曰、吾子の言勿論なり。然ども其内、或ハ先師の門人に再伝のものあらん。

 又先師ハ慈悲あまねき心操にて、或ハ重て我翁の門人と名乗らんといふもの、其貴賎・親疎トをわかたず、此をゆるし給ふものおほし。却而世に名をしられたる他門の連衆などの此を乞にハ、ゆるし給ハざるもあり。

 如此の輩、我蕉翁の流なりといへるも、又さもあるべし。

 今此をあらためのぞかんハ、却て隠便の事にあらず。ただ其儘ならんにハしがじと、云々。

 今乱に集作りて、我翁をけがすに似たりといへども、尤此をいとふにたらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)

 

 芭蕉は貴賎・親疎を問わず弟子にしてきたし、そういう連中を排除すべきではないし、たとえみだりに集を作って芭蕉翁を汚すように見えても、厭うべきではない、とこれは当然と言えよう。蕉門の裾野の広さは蕉門の実力の証だからだ。

 

 「又頃日、尾陽の荷兮一書を作る。書中処々先師の句をあざけると聞けり。我いまだ此書を見ず。

 かの荷兮や、先師世にます内、ひたすら信迎す。一とせゆへありて、野水・凡兆と共に先師に遠ざかる。

 先師その恨をすてて、遷化のとし東武より都へこえ給道、名ごやに至てかれが柴扉をたたき、一二日親話し給ふ。彼亦此をあがめ貴む事、旧日のごとし。

 翁遷化の時、東武の其角・嵐雪・桃隣等、於東山て追悼の会をなす。かれ蕉翁の門人の数に加りて着坐す。今書を作りて翁をあざける。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)

 

 荷兮のこの書というのは元禄十年刊の『橋守』らしいが、先ず去来自身がこの本を読んでなくて、風聞で判断している所が問題だろう。

 実際この『橋守』で本当に芭蕉の句を嘲る表現があったかどうかは、筆者自身も読んでないので何とも言えない。ネット上では『橋守』のテキストは見つけられなかった。

 何でもこの『橋守』は長いこと完本が見つからず、戦後になってようやく発見されたという。(木村三四吾『俳書の変遷: 西鶴と芭蕉』グーグルブックによる。)

 岩波書店の日本古典文学大系66『連歌論集俳論集』の附録の月報46にある「去来の立場」(宮本三郎)に断片的に引用されているものによれば、『橋守』巻三に、「発句の哉とまりにあらざる体」として、

 

 狂句凩の身は竹斎に似たる哉    芭蕉

 蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮

 

が並べられていて、他にも「俳諧にあらざる体」として、

 

 雲雀より上に休らふ峠かな     芭蕉

 郭公またぬ心の折もあり      荷兮

 

を挙げているという。

 他にも、

 

 辛崎の松は花より朧にて      芭蕉

 凩に二日の月の吹き散るか     荷兮

 

に対し、「右の二句、或人の曰三所の難あるよりなり」とあり、「艶なるはたはれやすし」として、

 

 山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉

 

の句を挙げているという。

 また、「留りよろしからざる体」として、

 

 霜月や鶴のつくつく並びゐて    荷兮

 

の句を挙げているという。

 これを見る限りだと、芭蕉の句と自分の句を両方並べて、等しく難があることを指摘しているだけで、芭蕉の句をことさら貶めているようには見えない。

 

 狂句凩の身は竹斎に似たる哉    芭蕉

 蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮

 

 この二句の「かな」の用い方は、確かに「似たるなり」「そよぎけり」でも良いように思える。

 切れ字の「かな」は今日の関西弁の「がな」に近いもので、YAHOO!JAPAN知恵袋のベストアンサーによれば、関西弁の「がな」は

 

 「~ではないか」という意味ですが、発言の中に「~やろ、絶対にそうや、そうに決まってる。」という気持ちが入っているのです。

 

と説明されている。

 切れ字の「かな」も完全な断定ではなく、どこか違うかもしれないがやはりそうだというニュアンスが込められている。

 

 木のもとに汁も膾も桜かな   芭蕉

 

の句にしても、「汁や膾は桜だ」という断定ではなく、汁や膾も桜みたいだ、桜のようだ、という不完全な断定で留めている。

 

 狂句凩の身は竹斎に似たる哉    芭蕉

 

の句の場合、「似たる」という言葉が入り、既に「竹斎なり」という断定ではないことが示されているので、ここは「似たるなり」としてもよかった所だ。まあ、細かい所ではあるが、そこが気になるのが荷兮さんなのだろう。

 

 蔦の葉は残らず風の動(そよぎ)かな 荷兮

 

の句にしても、「残らず」という強い表現に対して「かな」と柔らかく受けているのが気にならなくもない。「風にそよぎけり」でも良かったかなというところだったのだろう。

 

 雲雀より上に休らふ峠かな     芭蕉

 

の句は「空に休らふ」の形で知られている。いずれにしても、

 

 郭公またぬ心の折もあり      荷兮

 

の句も同様だが、いわゆる「俳言」がないという点で、連歌発句だと言ってもいいのかもしれない。

 

 辛崎の松は花より朧にて      芭蕉

 凩に二日の月の吹き散るか     荷兮

 

 この二句については他人の難があるというだけで、特にどこが悪いということは記されていない。

 おそらくは「にて」留めが本来の発句の体ではないということと、「吹き散るか」は「吹き散るかな」の略だが、おそらく同じように発句としてはいかがなものかという声があったのだろう。

 

 山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉

 

の「艶なるはたはれやすし」は「ゆかし(惹きつけられる、魅力がある)」という言い回しのことを言っているのだろう。魅力のあるものにはついつい戯れてみたくなる、という一つの解釈を示したもので、難じたものではないと思う。

 

 霜月や鶴のつくつく並びゐて    荷兮

 

の句は「辛崎の」の句と同様、「て」留めが発句の体でないということだろう。句としては荷兮の句のほうが先に作られている。

 このように、荷兮の論は真面目な議論で、ことさら芭蕉をなじるようなものではなかったように思える。宮本三郎も、

 

 「荷兮が一派の指導のために種々の作風や表現を示したもので、この書が芭蕉に対して積極的に悪意を抱いて成されたものかどうかは必ずしも一概に言えない。」

 

と記している。

 多分、去来が荷兮に物を言いたかったのはこの書のことではなく、それ以前から荷兮が『冬の日』から『阿羅野』までのいわゆる蕉風確立期の風に固執して、『猿蓑』調以降の風に馴染まず、元禄六年に『曠野後集』を出版し、貞門・談林の時代を懐かしんだりしたその頃からの確執があったのであろう。

 今の様々な芸術のジャンルで活躍する人でも、生涯作風を変え続ける人は稀で、たいていはひとたび成功を収めると生涯その作風を引きずっている。

 昔からのファンは昔ながらの作品を求めているし、無理に新しいことに挑戦したりすれば、昔のファンは離れてゆくかもしれないし、だからといって新しいファンがつくという保証はない。だから、変わらずに同じスタイルを貫いて、ファンとともに年取ってゆく人のほうが多い。

 芭蕉の時代でも本当に芭蕉だけが例外で、多くの門人はひとたび成功を収めると、大体はその頃の風を生涯維持する傾向にある。

 去来や許六だって、芭蕉があと十年長生きして、惟然や播磨の連衆と新風を巻き起こしていたら、多分離反していただろう。

 

 「遷化のとし東武より都へこえ給道、名ごやに至てかれが柴扉をたたき、一二日親話し給ふ。」

 

というのは元禄七年五月二十二日から二十五日までの名古屋滞在のことで、二十四日には、

 

 世は旅に代かく小田の行戻り  芭蕉

 

を発句とした十吟歌仙興行が行われている。

 

   世は旅に代かく小田の行戻り

 水鶏の道にわたすこば板    荷兮

 

と脇を勤めている。

 こうして東海道を行き来していると、同じ所を行ったり来たりしている代かきみたいだ(自分の俳諧もそんなものかもしれない)と、やや自嘲気味の発句に対し、私なんぞは水鶏(芭蕉さん)の道のこば板のような者ですと付ける。

 

 「尤憎べきの甚敷もの也。かれが心操をかへり見るに、翁います時ハ、先師をうりて己が浮世の便とし、先師没し給ひてハ、又先師をうりて、初心の輩を、今ハ先師にまされとあざむき道びかんが為なるべし。

 其難ずる処、誠に笑べきのミ。我是がために、その辟耳を切て、邪口をさかんと欲す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62)

 

 まあ、風評で勝手な邪推をしては随分物騒なことも言っているが、後のフォローも忘れずということで、こう続く。

 

 「然れども翁います時、或翁の句をそしるもの有。我此に争ハんとす。

 先師曰、必あらそふ事なかれ。我自我が句を以て、いまだつくさずとおもふものおほし。却て五・三句を揚てそしらんハ、我名人に似たりと、大笑し給ふ。

 此事をおもへバ、又憤りののしらんに不及。かれも此も共に先師をうるもの也。阿兄此をいとひ給ふ事なかれ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.62~63)

 

 まあ、同門で批評を戦わしながら切磋琢磨しというのは必要なことなので、先師の句とて例外とすべきではない。

 芸術にたった一つの答なんてものはない。多様であってこそ芸術だ。皆己の信じる道を行くのみというところか。

 芸術が一体何の役に立つのかというと、結局は石頭にならないために必要なのだと思う。

 日々変化する様々な状況に柔軟に対処する能力を養うには、それだけ普段から頭の中にいろいろなイマジネーションをストックしておく必要がある。

 おそらくこうしたイマジネーションのストックを作ることに快楽報酬が得られるよう、人類は進化してきたのだろう。

 「俳諧は新味をもって命とす」というのは、人々は常に新しいイマジネーションに貪欲だからだ。既にストックしているイマジネーションは二つも三つも要らない。今まで誰も思いつかなかったものだからこそ価値がある。

 結局芸術は理屈ではなく、既存の理屈を打ち破るブレイクスルーでなければならないのである。「理屈は理屈にして文学に非ず」と正岡子規も言っている。

 

 

20、校正の問題

 

 「来書曰、集作りて善悪の沙汰に及ぶハ、当時撰集の手柄也。頃日の集ハ、あて字・てにをハの相違・かなづかひのあやまり、かぞふるにいとまなし。しらぬ他門より論ぜば、高弟去来公のあやまりと沙汰し侍らんもむべならんか。

 廿二、去来曰、此何といふことぞ。今諸方の撰集、その拙きもの、予が罪を得ん事、近年俳書のおこるや、我此をしらず。ただ浪化集のみ、故有て此を助成す。

 もし浪化集に誤処おほくバ、此予が罪のがれがたし。其他ハあづからず。又蕉門の高客、国々処々にまづしからず。世人なんぞ罪を予一人にせめんや。

 我京師に在といへども、惣て諸生の事にあづからず。ただ嵯峨の為有・野明、長崎の魯町・卯七・牡年のみ、故ありて予此を教訓ス。その余ハ予があづからざる所也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.64~65)

 

 江戸時代の初期に急速に出版産業が盛んになったことは世界でも稀有なことだろう。

 しかもそれが金属活字ではなく木版印刷で、出版の内容もまた多岐に及び、俳書もまた出版ラッシュだった。

 木版印刷は多種多様な書籍を少量印刷するのに適していて、そのことが出版文化を広めるのに役だったのではないかと思う。

 限られたアイテムを大量生産しても、それを必要とする人には安価な本が手に入るかもしれないが、必要としない多くの大衆は置いてきぼりになり、無消費者になってしまう。

 手工業の段階で最初から多様で細分化された市場が形成され、無消費者層が少なかったことが、日本の強みだったのではないかと思う。

 消費文化が未発達な所で工場だけ建てて大量生産しても、買う人がいないところでは経済は発展しない。日本は工業化以前に消費文化が出来上がっていた。だから明治以降の工業化もスムーズに進んだ。そして工業化されながらもそれまでの職人文化が共存したことが、工業製品の品質を高めるのにも役だったのではないかと思う。

 木版印刷の場合、まず能筆の人の書いた原稿を裏返して版木を彫っていくわけだから、誤字脱字は版木職人ではなく最初の原稿の方にあったと思われる。

 実際には芭蕉自筆の原稿でも誤字脱字は存在していて、まあ人間である以上、完全な清書原稿を書くことは能筆家であっても難しかったのではないかと思う。

 俳諧の裾野が広がれば広がるほど、誤字だけでなく文字表記の習慣の地域差のようなものもあったのではないかと思う。

 蕉門の俳書に誤字があったからといって、そんな誰も去来さん一人が悪いなんて思わなかっただろうし、許六の難も筆がすべっただけではないかと思う。

 

 「来書曰、北狄・西戎のゑびす、時を得て吹を窺ミ、次第ニミだりが集をつくらんこと、尤悲しぶに堪たり。高弟此誹りを防ぎ給へる手だてありや。

 廿三、去来曰、先にいふがごとく、予なんぞ世人のあざけりをうけん。

 又あざけりをうけずといふとも、道のため師のため、此をなげかざるにハあらず。然ども、此をとどめんに術なかるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.65)

 

 これも前の文と同様、他流のすることは自分の責任ではないし、止めることはできない。だから嘲りを受けるいわれはない。

 

 

21、惟然坊

 

 「来書曰、惟然坊といふ者、一派の俳諧を広むるにハ益ありといへども、返て衆盲を引の罪のがれがたからん。あだ口をのみ吐出して、一生真の俳諧をいふもの一句もなし。蕉門の内に入て、世上の人を迷はす大賊なり。

 廿四、去来曰、雅兄惟然坊が評、符節を合セたるがごとし。その内、一生真の俳諧一句なしといはんハ、過たりとせんか。又大賊といひがたからんか。賊の字たる、阿兄の憤りの甚しきならん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.65~66)

 

 この頃の惟然は確かにまだそれほど目だった存在ではなかったし、今日知られているのは皆元禄十五年以降の超軽みの句がほとんどだ。

 まだ迷いが多く、自分の作風を確立できていない並の作者だったとは思うが、なぜそれほどまで嫌われるかと思うと、多分路通と同様、乞食坊主だったからだろう。

 去来が言うように、確かに許六のそれは言いすぎだ。

 元禄七年の『藤の実』の惟然の発句は、確かに目立たないがそんなに悪い句とは思えない。

 

 水仙や朝寝をしたる乞食小屋    惟然

 蓴菜や一鎌入るる浪の隙      同

 張残す窓に鳴入るいとど哉     同

 枯葦や朝日に氷る鮠の顔      同

 

 今で言う写生に近い見たものをそのまま詠んだ感じだが、確かに何を言いたいのか何を伝えたいのかよくわからないところがある。

 芭蕉の、

 

 海士の屋は小海老にまじるいとど哉 芭蕉

 

句は、そのまま詠んだようでもあるあるネタになっている。だが、張り残す窓のいとどはそれほど「ある」と言えるネタだったか。

 俳諧らしい笑いの要素を欠いているという点では、「真の俳諧一句なし」だったのかもしれない。

 

 「又曰、凡惟然坊が俳諧たる、かれ迷ふ処おほし。

 もと惟然坊蕉門に入事久し。然ども先師に泥近する事まれ也。是ゆへに去ル戌の年のころ迄、坊が俳諧、世人此をとらず。

 然ども先師遷化の前、京師・湖南・伊賀難波等に随身して遊吟す。先師かれが性素にして深く風雅ニ心ざし、能貧賤にたえたる事をあハれミ、俳諧に道引給ふ事切也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.66)

 

 芭蕉と惟然の出会いは、『風羅念仏にさすらう』(沢木美子、一九九九、翰林書房)によれば、貞享五年(一六八八)六月だという。

 『笈の小文』の旅を終えて京に滞在し、去来の落柿舎を尋ねたりした後、芭蕉は岐阜に行き、「十八楼ノ記」などを記す。

 ふたたび大津に行き六月八日に岐阜に戻る。そして六月十九日の岐阜でも十五吟五十韻興行に、当時素牛を名乗っていた惟然が名を連ねることになる。

 『笈日記』にはこの頃詠まれたと思われる、

 

   茄子絵

 見せばやな茄子をちぎる軒の畑    惟然

   その葉をかさねおらむ夕顔    芭蕉

 是は惟然みのに有し時の事なるべし

 

の付け合いが記されている。

 これは『笈の小文』の、

 

 よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠    芭蕉

 よし野にてわれも見せうぞ檜の木笠  万菊丸

 

に較べると、なんとも地味なやりとりだ。

 その後、芭蕉と惟然との関係がどうなっていたかはよくわからない。

 「去ル戌の年のころ迄、坊が俳諧、世人此をとらず。」と去来が言うように、元禄七年甲戌の年までの惟然の俳諧はほとんど知られてないし、未だによくわからない。

 ただ、元禄二年、『奥の細道』の旅で芭蕉が大垣に来た時、芭蕉は、

 

   関の住、素牛何がし、大垣の旅店

   を訪はれ侍りしに、かの「藤代御

   坂」と言ひけん花は宗祇の昔に匂

   ひて

 藤の実は俳諧にせん花の跡      芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 そして元禄四年、京に登った惟然は再び芭蕉に接近することになる。

 七月中旬ごろに興行された、

 

 蠅ならぶはや初秋の日数かな     去来

 

を発句とする興行に、路通、丈草とともに参加している。「牛部屋に」の巻とほぼ同じ頃だ。この五吟も、去来ー芭蕉ー路通ー丈草ー惟然の順番で固定されている。

 ただ、ここでも惟然は継続的に芭蕉について回ることはしなかったようだ。

 次に芭蕉の俳諧興行に惟然が登場するのは、元禄七年、芭蕉が再び京にやってきた時の「柳小折」の巻だった。このあと、惟然は『藤の実』を編纂し、芭蕉の没する時まで長く行動を共にすることになる。

 この頃は去来と一緒にいることも多く、「先師かれが性素にして深く風雅ニ心ざし、能貧賤にたえたる事をあハれミ、俳諧に道引給ふ事切也。」と芭蕉の強いプッシュがあったことを記している。

 芭蕉は惟然の一見平凡でそっけない句に、何か新しいものを見出していたのかもしれない。支考とともにその将来に大きな期待を寄せていたと思われる。

 

 「故にかれが口質の得たる処につゐて、先此をすすむ。

 一ツの好句有時ハ、坊ハ作者也、二三子の評あたらず、何ぞ人々の尻まひして有らんやと、感賞尤甚し。

 坊も又、自心気すすんで俳諧日比に十倍す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.66~67)

 

 世に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺があるが、去来がさんざん三十棒で叩かれたのに対し、惟然は褒めて伸ばす作戦に出たようだ。これでは去来としては面白くなかろう。

 

 「又先師の俳談に、或ハ俳諧ハ吟呻の間のたのしみ也、此を紙に写時ハ反古に同じ。

 或ハ当時の俳諧ハ工夫を日比に積んで、句にのぞミてただ気先を以て吐出すべし。

 或ハ俳諧ハ無分別なるに高みあり。

 如此の語、皆故ありての雑談なり。坊迷ひを此にとるか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67)

 

 『去来抄』「修行教」に、「今の俳諧は、日比ひごろに工夫を附つきて、席に臨のぞみては気先きさきを以もつて吐はくべし。」とあり、これは俳席での心得で、即興が大事な興行の席では、日頃練習のときに悩むだけ悩んで工夫し、本番ではそれを忘れて無心になれ、ということで、今日のスポーツにも通じるものだと思う。

 「無分別なるに高みあり」というのは、高度な技術は『荘子』の「包丁解牛」のように、それを意識せずとも使いこなせるようにならなくてはいけないという意味だろう。

 「吟呻の間のたのしみ」も興行を盛り上げることが大事で、書物にするために俳諧をするのではないという基本だ。

 去来は興行の時に悩みすぎる傾向にあったのだろう。だからリラックスして本番に臨むことを説いたのだが、多分惟然は本番では最初からそんなに考えない、自然体で臨むタイプだったのだろう。

 自分とは違う惟然の才能を、去来は師の言葉を間違って受け止めた「迷い」と思っていたようだ。

 芭蕉が惟然の句に何を見出したのかはよくわからない。ただ、芭蕉は出典をはずしたりして古典の影響から抜け出そうとしていたから、惟然の自然体の句に何かそれを切り開く可能性を感じていたのかもしれない。

 ひょっとしたら芭蕉がもう少し長生きしていたら、芭蕉は子規の時代の写生を先取りしたかもしれない。ただそれだと、ただ実際にそうだったからというだけの理由ですべての趣向が等価になってしまう危険もあり、近代の写生句が陥ったような、人々の記憶に留まることもなく膨大な量の句が作られては消えて行く状態が生じてしまう。(近代にまでならなくても、幕末や明治初期には既にそのような凡句が量産されていた。)芭蕉ならその問題をどう解決するのか、残念ながらそれを見ることはできなかった。

 

 ここで貞享五年六月十九日興行の惟然の句を見てみよう。

 

   肝のつぶるる月の大きさ

 苅萱に道つけ人の通るほど    惟然

 

 月が大きく見えるのは登ったばかりの月で、地平近くある月から一面の薄が原に登る月を思い浮かべたのであろう。武蔵野の月として画題にもなっている。

 茅の原に茅を刈って道を作る人を思い描く。月に茅は月に薄と同様で物付けといえよう。

 

   秋の風橋杭つくる手斧屑

 はかまをかけて薄からする    惟然

 

 茅を刈る、薄を刈る、と趣向がかぶって、遠輪廻と言えなくもない。

 

   琴ならひ居る梅の静さ

 朝霞生捕れたるものおもひ    惟然

 

 梅に朝霞はわかるが、「生捕れたるものおもひ」が何のことなのかわかりにくい。さらわれてきた姫君か、売られてきた遊女か。

 

   牛のくびする松うごきけり

 覆なき仏に鳥のとまりたる    惟然

 

 牛を繋いだ松は動き、野の仏像には鳥がとまるとこれは向え付け。

 物付けに向え付けと、蕉風確立期の風の付け句を行っている。惟然も最初から惟然風だったわけではないようだ。

 

 「又先師の一体につきて感賞し給ふ事をしらず。蕉門の俳諧かくのごとしと、自悟自迷ひて、終に全体を見ず。

 却て同門高客の俳を以て、或ハねばし、或ハ重シとす。

 此、角を取て牛なりと云ン。牛なる事ハ牛なれども、牛の全体を見ず。他日牛尾・牛足を見て、此牛にあらずと争ハんも又むべならずや。

 如此の辟見を以て人に示さんに、豈害なからんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67)

 

 牛の角の喩えは「群盲象を評す」に似ている。違うのは一部しか見てないのは惟然だけで、他の人はあたかも全体を知っているかのように評していることだ。

 だが結局、去来も『奥の細道』の旅を終えた頃の不易流行で蕉門を論じているし、許六はそれより後の『炭俵』の頃の軽みでもって蕉門を論じている。多かれ少なかれ芭蕉の門人達は「群盲象を評す」だったのではなかったか。

 「同門高客の俳を以て、或ハねばし、或ハ重シとす」というあたりは、惟然は芭蕉から特に「軽み」について集中的に教えられていたのではないかと思う。それが後の超軽みに行き着く元となっていたのだろう。

 談林の時代は語句においても趣向においても證歌を引いてこなくてはいけなかった。

 ただ、一句一句一々證歌を引いて検証していたのでは、興行も時間がかかってしょうがない。だから、よく用いられる語句の組み合わせはその作業を省略するようになり、そこから付け合い(付き物)による物付けが多くなったのであろう。

 芭蕉はこうした證歌による検証よりも、実質的な古典の情を重視することで蕉風を確立した。

 ただ、古典に出典を持つ付け筋は、古典の情に縛られ、展開が重くなりがちだった。談林の頃は百韻興行が普通だったが、蕉風確立期には歌仙を巻くにも一日でなかなか終らなくなった。

 そこで、『奥の細道』の旅を終えた頃から、直接古典の情によらなくても、何となく雰囲気でそれっぽいもので良しとすることで風体を軽くした。不易流行説もその文脈で、不易の情を流行の言葉で表現するのが俳諧だという所で説かれることとなった。その不易の情は必ずしも古典によらなくても、朱子学で言うところの「誠」であれば良くなった。

 この不易の誠をはずさなければ、もはや出典関係なく、日常のあるあるネタで十分という所で「軽み」の風が展開されることになった。

 ところが惟然はこのあるあるネタを得意としているわけではなかった。いわゆる話を面白句作るというのが不得手だったのだろう。惟然の句はともすると笑いから離れてしまっている。特に発句はそうだった。

 あるあるとは別の形で笑いを発見するのは、結局元禄十五年の超軽みの風を待たなくてはならなかった。

 芭蕉もおそらく惟然の地味だが何か人と違う「軽み」の理解に、未知の可能性を感じていたのだろう。だから逆に、去来のような不易を基と本意本情に狭めて解釈する古いスタイル(いわゆる猿蓑調)を教えなかったのだろう。これは多分許六や支考にも教えてなかったのではないかと思う。それがこの『俳諧問答』でも対立点になっていたのではないかと思う。

 それがおそらく去来には我慢ならなかったのではないかと思う。

 

 「予推察を以て坊ヲ俳評す、極めて過当也。然ども坊が一言を以て證とす。

 坊語予曰、頃日師に泥近して、略俳旨を得たり。秀作あたハずといへども、句の善悪ミづから定て人評をまたず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.67~68)

 

 芭蕉としては先輩達の古い風を真似しないようにということだったか。先輩の評は無視していいと言っていたのだろう。

 

 「又会(たまたま)風国曰、句ハ出るままなるをよしとす。此を斧正するハ、却てひくみに落ト。

 皆先師の当詞と俳談に迷へり。坊ハ迷へりといひつべし。

 又自あざむき、人をたぶらかすものにあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.68)

 

 風国も京都の医者で芭蕉の晩年の弟子の一人。

 『去来抄』同門評には、

 

 「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋     風国

 此句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日山寺に晩鐘をきくに、曾(かつ)てさびしからず。仍(よつ)て作ス。去来曰、是殺風景也。山寺といひ、秋夕ト云、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端游興騒動の内に聞て、さびしからずと云ハ一己の私也。国曰、此時此情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、若(もし)情有らバ如何(かくのごとく)にも作セんト。今の句に直せり。勿論句勝(まさら)ずといへども、本意を失ふ事ハあらじ。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.37~38)

 

とある。

 風国が出るままに詠んだ句を去来が斧正しているが、勿論去来自身が認めているように「句勝(まさら)ず」。

 まあ、実際には秋の夕暮れのお寺の鐘もその時の気分によって聞こえ方が違うもので、寂しく聞こえるときもあればそうでないときもあるだろう。

 ただ、「晩鐘のさびしからぬも寺の秋」とした時、聞いた人は「何で?」と思うのは確かだろう。普通は寂しいものを寂しくないと言うなら、何か理由があるはずだと思うのは自然だ。その理由が記されていないし行間からも汲み取れないとなると、よくわからない句になり、首をひねってしまう。

 その理由が何らかの形で伝わり、共感を呼び、他人とその情を共有できるなら、たとえ「晩鐘のさびしからぬ」と詠もうとも、その句は成功といえよう。

 芭蕉はひょっとしたら古典の本意本情に囚われずに、今まで誰も詠まなかった新しいものでありながら風雅の誠を踏み外さないものを求めていたのかもしれない。

 ただ、それはあまりに高度なものであったため、惟然も風国もなかなか佳句を残すには至らなかった。

 だがそれを古典の本意本情に戻し、秋の夕暮れの寂しさも鐘も音に元気付けられたと展開したのでは、新味は生まれない。使い古されたパターンに戻ってゆくだけになる。

 去来ならそうする。芭蕉はそれとは違った道を新しい弟子達に進んでほしかったのだろう。

 この句のもう一つの解決法として、「寂し」を「憂し」に対比させ、

 

 晩鐘も憂きにとまらず寺の秋

 

という手もあったかもしれない。

 

 

22、惟然坊の集

 

 「来書曰、故に近年以ての外の集をちりばめ、世上に辱をさらすも、専ラ此惟然坊が罪也。

 廿五、去来曰、此罪又惟然にあらず。坊四方を行脚すといへども、其徒集を撰べるものすくなし。

 南都に一集あり、撰者をわする。

 はじめ坊助成す。然ども坊が心にかなハず。半にしてのがれぬとききぬ。

 又豊後の一集あり。此ハ惟然が手筋たり。然ども此集、坊が教示より先草稿し、後坊に聞て加入すと聞けり。

 そのほか坊が徒の集なし。

 或曰、豊後に集已板に出。世にあらハす事ハ惟然教示ノ後ノ集也。その前より有集ハ、終に板に不出。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.68~69)

 

 南都の集は玄梅撰の『鳥の道』(元禄十年刊)だと文庫の注にある。

 豊後の集は朱拙撰の『梅桜』(元禄十年刊)だと文庫の注にある。

 『俳家奇人談』(竹内玄玄一編、文化十三年)の天狗集が話題になってない所を見ると、やはりこれは後世の伝説であろう。元禄八年から九年の九州の旅の紀行『もじの関』も話題にはなっていない。

 

 「来書曰、口すぎ世わたりの便とせば、それは是非なし。

 廿六、去来曰、彼坊における、定て此事なけん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69)

 

 まあ、別に金のために集を作っているわけではなかろう。当時の俳書ってそんなに金になったのかな。むしろ俳書を出すことで一門の力量を世間にアピールし、弟子を集めてという所なのだろうけど、旅ばかりして一所に落ち着かない惟然は、そんな弟子をたくさん集めて金を巻き上げることには興味なかっただろう。

 

 

23、俳諧の大敵

 

 「来書曰、惟然にかぎらず、浄瑠璃の情より俳諧を作り、金山談合の席に名月の句を案ずるやからも、稀々にありといへ共、是は大かた同門他門ともに本性を見届、例の昼狐とはやし侍れば、罪も少からん。

 廿七、去来曰、阿兄の言感笑す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69)

 

 これは惟然というよりは其角嵐雪といった古い門人や大阪談林を指すのか。

 芭蕉の元禄七年二月二十五日の許六宛書簡に「其角・嵐雪が儀は、年々古狸よろしく鼓打ちはやし候はん」とあるが、それを「昼狐」に変えて、オリジナルのようにしたか。

 なお、この手紙には「彦根五つ物、勢ひにのつとり、世上の人を踏みつぶすべき勇体、あつぱれ風雅の武士の手わざなるべし。」という一文もある。これを冗談に取らずに真に受けたのが、許六の「予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐては大敵をうけて一方の城をかため、大軍をまつ先かけ一番にうち死せんとするこころざし、鉄石のごとし。」につながったか。

 

 「来書曰、予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐてハ、大敵を請て一方の城をかため、大軍を真先懸て一番に討死せんとする志、鉄石のごとし。

 廿八、去来曰、勇者ハ必しも義有にあらず。此角が謂か。

 義者は必勇あり。是阿兄の謂也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.69~70)

 

 「義を見てせざるは勇無きなり」は『論語』「為政」の有名な言葉だが、義は利に対する言葉でもある。

 利を見てリスクを背負うのはベンチャーだが、義はリスクに関わらずすべきことだ。

 其角が果して利益のために江戸座を開いて点取り俳諧をしてたのかは定かでない。ただ、従来の興行俳諧にこだわらずに新しい俳諧のスタイルを切り開いたという意味では、これもベンチャーだったといえよう。

 許六は随分物騒なことを言っているが、義からならいいが、というところだろう。

 

 「来書曰、故に同門のそねみ・あざけりをかへり見ず、筆をつつまずして此を起す。此雑談隠密の事にさたにおよ不及、諸門弟の眼にさらし、向後を慎む便とならば、大幸ならん。

 廿九、去来曰、阿兄道に志ざすの深き、此言にいたる。尤感涙す。

 是を他日湖南の丈草兄・正秀兄におくりて、猶二子の俳胸を聞ん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.70)

 

 このあたりは社交儀礼で締めに入っているだけで、それほど問題はないだろう。

 

 「来書曰、願くハ高弟、予と共に志を合して蕉門をかため、大敵を防ぎ給へ。

 卅、去来曰、阿兄の言勇つべし。然ども予が性もと柔弱にして、敵に当るの器にあらず。曾ツ十月のはじめより、心虚ト労役を兼病す。

 今日薬におこたらず。向来猶弓を引、矛を振ふの力なけん。

 幸強将下に弱兵なし。益兵をやしなひ、陣を練て、大敵をやぶり給へ。

 阿兄のごときハ実に蕉門の忠臣、一方の大将軍也。

   元禄丁丑十二月日      落柿舎嵯峨去来

  五老井許先生

       几右」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.70~71)

 

 惟然については大賊ではなく単に迷っているだけだと弁護し、そのほかの敵についても軽く受け流した去来は、もちろん許六と一緒に戦うなんて気はさらさらなかったのだろう。

 ただあからさまな言い方をせず、病弱にかこつけてここでは辞退することになる。

 この書簡には追伸がついている。

 

 「病後精力いまだ全からず。是故に此一書、風国をなのみ清書仕候畢。誤字・脱字・衍文等、御考御披見可被下候。猶語意きこへがたき物ハ、重而御不審を蒙たきもの也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.71

 

 これで去来の手紙は終る。

 このあと許六は「再呈落柿舎先生」を書く。前回の手紙への反省や何かは省略して、不易流行に係わる所を見てみよう。

再呈落柿舎先生

1、ふたたび風と体

 

 「一、十四章の問答に、不易・流行を前にすへて、後ニ句を案ずる事、全クなき事といふにハあらず。一座の興、又ハ導の為ニハ、前にすへて、不易をせむ、流行して見せむなど、我黨もなき事ニあらず。此論奥の自讃といふ条目の下ニ、委敷記ス。

 題の発句・讃物の類の引導、先生の言ト是レ信あり。予も亡師在世の時これを習ひ置事。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75)

 

 遊びだったり指導するためだったりで、不易の句はこう作る、流行の句はこう作るというのは、去来門だけでなく、我黨(わがなかま)にもあると許六が認めている。

 問題はその次だ。

 

 「一、十五章の問答ニ、風ト体の二ツ、問ひ答へいささか相違有事。

 予きく、師の雑談おりふしニ、不易流行の事出たり。千歳不易の体、一時流行の体とハのび給へり。不易の風・流行の風とハ、終ニきかず。但予が耳の癖歟。先生の慈恩ニよく明して、一生の迷ひを照し給へ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75)

 

 芭蕉は許六にも積極的にではないが雑談の合い間に、不易流行のことを話はしていたようだ。

 ただ、その時は「不易の体、流行の体」と言っていて、「不易の風、流行の風」とは言わなかったようだ。

 これは芭蕉が途中で考えを変えたのか、それとも去来が勘違いして覚えていたか、どちらかであろう。どちらかは定かでない。

 ただ、後に去来は『去来抄』で「不易の体」「流行の体」という言い方をしているので、去来の勘違いだった可能性が高い。おそらくこの問答の後、他の門人にも確かめて、過ちを認めたのだろう。

 

 「先生の書ニ云、風は万葉・古今の風、又ハ国風・一人の風といへり。体ハ古今を押渡りて用捨なしとあり。是レ先師の言ト貫之の論も相違なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.75~76)

 

 風や体が意味することに関しては、去来さんの書も先師や紀貫之の論とも相違ない。風は変わるが、体はその時代によって用いられたり捨て去られたりするものではない。

 

 「予察するに、万葉の風を古今にうつし、古今の風を新古今ニ変ず。

 定家の風をやめて西行の風にうつさば、捨る所の風ハいたづらに成ル味あり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)

 

 万葉、古今、新古今と風を変えるのは発展段階と考えることができるが、定家の風から西行の風と言った場合は、発展ではなく、そもそも作風の違う二人なのだから、西行の風を取れば定家の風は捨てることになる。

 

 「返書のごとく、宗因の風用ひられて貞徳の風ハいひ出す人もなく、信徳むづかしといひて亡師の風にうつる。

 亡師の風も又同じ。炭俵出て跡々の風を廃ス。

 先生、不易・流行を風といはば、取捨の風儀に落む歟。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)

 

 宗因の風を取れば貞徳の風は捨てられ、信徳が先師の次韻の新風に移るときには宗因の風は捨て去られる。

 そう言われてみれば、不易流行が一時の風ではないのは明白だ。

 先師の風を変える場合でも、蕉風確立期には天和調を捨て、猿蓑調になればそれまでの風を捨て、炭俵の風になれば猿蓑調も捨てる。

 ならば、不易・流行が風ならば、それらは次の風に変わったときに捨て去られるようなものなのか。

 

 「予が云ク、風ハうごきニして、枝葉也。体ハ根にして古今を貫く。

 宗因の風ハすたれ共、俳諧の体ハ世に昌むニ残り、信徳ハとらぬ共、其体ハ相続して、あらぬ島々まで俳諧せぬものなき世也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76)

 

 宗因の風は廃れても、宗因の開いた俳諧の体は残り、いまや日本中俳諧を知らないものはないような世の中となった。

 

 「今の不易・流行ハ俳諧の体也。きのふの流行ハすたれ共、又今日の流行あり。今日の流行捨たれ共、明日の流行に富めり。是レ枝葉ハ動くといへ共、全ク根の動ざる事しれり。しからバ不易・流行ハ体といはん歟。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76~77)

 

 風は変わっても、その時その時の流行はある。流行は普遍的な現象であり、一つの風は流行しても流行そのものはいつの世にもどこの国にもある。流行は一時の現象ではなく、それ自体は「体」だということになる。

 

 「又先生の風といへるも一理なきにハあるまじ。不易・流行ハ亡師の風といはば、風ともいふべきか。なれ共、芭蕉風の中ニ、不易・流行ハ体也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.76~77)

 

 確かに、芭蕉の俳諧を蕉風と言うことができる以上、芭蕉の俳諧も貞徳風、宗因風があるのと同様、一つの風と呼ぶことができる。だから不易流行も先師の風だと言えなくもない。

 ただ、蕉風の中には不易の体と流行の体がある。宗因亡き後も宗因が開いた俳諧の体があるように、芭蕉亡き後も不易の体と流行の体はある。

 これを近代で言えば、たとえば正岡子規の写生説は正岡子規が提唱し、はやらせた一つの風と言えなくもない。

 ただ、写生は様々な時代、様々な文化、様々な芸術の中に一つの要素として常に存在している。その意味では写生は「体」といえよう。

 万葉集にも蕉風にも蕪村風にも写生的な要素はある。近代でも写生の句を作ろう、理想の句を作ろうとあらかじめ決めて句を作ることもできる。

 写実主義や理想主義はその時代の風ではあるが、写生も理想も時代を超えて存在するので「体」と言っていいだろう。

 

 体というのは、基本的には後から振り返って分類しているだけで、実際の創作の際は一々意識しているわけではない。

 写生説にしても、客観写生を説いた高浜虚子の句がすべて客観写生なわけではない。

 

 過ぎて行く日を惜みつつ春を待つ  虚子

 山辺赤人が好き人丸忌       同

 藤袴吾亦紅など名にめでて     同

 小春ともいひ又春の如しとも    同

 顧みる七十年の夏木立       同

 過ちは過ちとして爽やかに     同

 ここに来てまみえし思ひ翁の忌   同

 初時雨しかと心にとめにけり    同

 

など、様々な体の句を詠んでいる。

 

 去年今年貫く棒の如きもの     虚子

 

などは虚子の代表作ともいえる。

 句を詠むときに大事なのは、何かを表現したいという初期衝動で、理論や技法はそれを助けるものにすぎない。理論や技法だけが一人歩きしてしまうと、力のない、何を言っているのかわからない句になる。

 芭蕉も、貞門談林の技法に習熟し、蕉風の独自の技法を開発して、不易流行や虚実の論も自ら生み出してきた。それでも晩年になって初期衝動の大切さは見失ってなかった。惟然や風国に教えたのもそういうことだろう。

 田氏捨女の自撰句集には、貞門の技法に習熟した円熟した作品に彩られているが、結局世間に知られているのは、捨女自身の作かどうかも定かでない、

 

 雪の朝二の字二の字の下駄の跡  捨女

 

だった。

 この句には貞門の高度な技法はどこにもないが、初期衝動なら確かにある。「俳諧は三尺の童にさせよ」というのもそういう意味だったのであろう。

 不易と流行は「体」であるというのは、同時にそれは体にすぎないという意味でもある。

 創作の時にはそれに囚われるべきではないし、むしろそうした既存の枠組みをブレイクスルーしたところに本当の新味が生まれる。

 許六が去来に不易と流行に迷っていると言ったのは、体というのはあくまでも便宜的な分類すぎず、後から説明するための理論だということを言いたかったのだろう。

 芭蕉が不易流行を説く前にもいくらでも秀逸があった。芭蕉にも古池の句があるし、さらには連歌や和歌にもたくさんの秀逸が残されている。

 

 

2、俳諧は和歌の一体

 

 「一、第十六章問答ノ返書ニ云ク、予が不易・流行なき以前の論を嘲て、俳諧和歌の一体たる事を示せり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.77)

 

 去来は俳諧が和歌の一体にすぎなかったことを示し、こうしたものが神代にあったとしても、句があれば風があり、句がないなら風もない。

 不易も流行も風である。

 故に句があれば不易も流行もあり、句がないなら不易も流行もない。不易流行以前の句なるものは存在しない、という奇妙な論理を展開した。

 

 「幷ニそと織姫の風をしたひて、小町ハ歌をよめり。西行ハ古ニよめりと、後鳥羽院ののたま侍りし事も、是明也。

 其そとおり姫ハ誰が風をよめるぞ。又師ハたれが風と押シて尋る時ハ、神代の風に成ぬ。

 歌の文字も定まらざる時、歌十体、又ハ不易・流行、又ほそミ・しほりなどいへる事なけれ共、忝も皆名歌となれり。

 歌幷俳諧少もかはる事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.77)

 

 たとえば子規が写生説を唱える以前に写生はなかったかというとそうではない。ただ写生があったということと写生説があったということはまったく別だ。

 実際近代の俳人や歌人も同じ過ちを犯して、芭蕉の句に写生的なものがあるから、芭蕉が写生説を説いたと考えている。万葉集に関しても同じで、万葉の時代に写生説があったかのように論じている。

 同じようなことは様々な場面で起こっている。マルクスが共産主義を説く前にも、共産主義的なものはあった。だが、共産主義的なものがあるのと共産主義があるのとは同じでない。しかし、この混同から文明以前に「原始共産制」が仮定されている。

 不易流行の考え方も朱子学の影響によるものだが、それ以前に遡れば『易経』の雷風恒にまで遡れる。しかしそれは芭蕉の不易流行説ではない。だがもちろん不易流行的な発想は古代からあった。

 去来が句があるなら不易も流行もあると考えるのは、こうした発想によるものだ。芭蕉は不易流行を説いたが、後から見るなら昔にも不易の歌はあるし流行の歌もあったとおもわれる。

 許六が言うのは、あくまで芭蕉が不易流行を説く前、不易流行が明確に意識される前にも秀逸があったということで、古代の文字も定まらぬ頃の歌に不易や流行が見出されるかではない。

 理論というのは後から振り返って説明するもので、それは確かに過去に遡って説明することも可能だ。だが創作は過去に遡ることはできない。創作は理論よりも先にあった。

 この誤りはひとえにあたかも今日の我々の理論は完璧であり、古今東西のすべてのものを説明できると信じる思い上りから来る。

 不易流行は一つの説にすぎず、これがあれば悉く名句が生まれるというようなものではない。理論は所詮理論にすぎず、自ずと限界があり、時には初期衝動によって簡単に打ち破られる。

 同様、写生説も一つの説にすぎない。共産主義も一つの説にすぎない。人権思想だってそうだ。科学だっていまだ統一理論が存在しない以上、この世のすべてのものを説明することはできない。

 人間の理論は限界があり、人間の創作は必ずそれを越える。故にそれを「神」と呼ぶ。

 

 人間の行動というのは、長い進化の過程で獲得した様々な欲望、感情、衝動によるもので、これらは皆その場その場で偶発的に起きた突然変異の集積で、別に統一されたものではない。ただ、どれも結局子孫を残すということに偶然役立ったために生き残っているにすぎない。

 誰だってそのときの気分で同じ物事でも感じ方が違ったり、昨日は大いに楽しんだことでも今日には飽きていたり、考え方もその時々でバラバラで平気で矛盾したようなことをするし、まあ結局それが人間というものだ。いくら理性で律するといっても、完全な人間なんてどこにもいない。

 だから理想の美だの理想の芸術だの言っても、どこにも答があるわけではない。ただ初期衝動に突き動かされ、言葉を発し、それをメロディーをつけて歌ってみたり、振り付けをして踊ってみたりして、多くの人が面白いと思えばそれは秀逸だ。絵や造形でも同じだ。

 過去のいろんな秀逸な作品を整理し、そこに理論を立てることはできる。理論が先にできて、そこから秀逸な作品が生まれることはまずない。

 それは結局政治においても同じなのだと思う。

 一人一人がその場その場で、どうすれば他人と無駄に争うことなく幸福な生活が確保できるかいろいろ工夫する。こうしたことの積み重ねが社会秩序を形作っている。

 自分の欲望と他人の欲望が真っ向からぶつかり合い喧嘩になれば、いつでも勝てるという保証はない。特に人間は頭がいいから、いくら腕っ節が強い者でも、飛び道具を用いたり騙まし討ちにしたり、大勢でかかったりすれば簡単に倒せることを知っている。体力のある物が勝つとは限らないし、頭のいいものが勝つとは限らない。誰でも勝つチャンスはある。その意味では人間は平等だ。

 だから人間はいつでも負ける可能性を頭に入れておかなくてはならない。ならば喧嘩は極力避けたほうが良いということになる。

 政治というのは結局はいろいろ妥協しながらも、みんなが安心して自分の欲望を満たせるよう工夫する、一人一人のその積み重ねからできている。これは政治の初期衝動とでも言えよう。

 こうした積み重ねによってできた様々な習慣、法、制度をあとから理論としてまとめることはできる。それが思想だ。理論が先にあって、そこから習慣や法や制度が作られるのではない。人々の実生活から来る政治の初期衝動を無視して理論だけが一人歩きすれば、かならずディストピアに陥る。

 理想の芸術を作るにも、理想の社会を作るにも、人間は答を知らない。だからあれこれ試行錯誤して良い物を残し悪い物を捨てて、自然選択と同じようなことを人為的に繰り返してゆくしかない。その繰り返しと蓄積が人類の唯一の進歩を生み出す。

 科学も無数の仮説を立てて検証されたものだけを残してゆくことで、限りなく真理の近似値を得る事ができる。芸術でも政治でも同じことをするしかない。

 

 「先生の論ハ、俳諧初りの証拠など書給ひ侍れ共、此論ハ歌の初の事を述ぶ。俳諧と分ていふにハあらず。不易・流行なき以前といふ論を察し給ふべし。

 赤人のふじの歌ハ、何体・たれ風をしたふといふ事もなし。只志をよめり。今の風しり・体しりの一字半言も及がたし。

 人丸のほのぼの、猿丸のおく山等又是ニ同じ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.77~78)

 

 先生は去来のこと。俳諧の始まりについて、和泉式部、平忠盛、源頼朝を引き合いに出したことを言う。

 俳諧は俗語の連歌であり、連歌は和歌の上句と下句を分ける所から生じたものだ。

 土芳の『三冊子』「しろさうし」の冒頭には、「俳諧は哥也。哥は天地開闢の時より有。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.83)とある。俳諧と連歌と和歌は起源を共にし、ひろく「哥(歌)」と呼ばれていた。「歌の文字も定まらざる時」というのは、『三冊子』「しろさうし」でいう「陰神陽神磤馭慮島に天下りて、まづめがみ、「喜哉遇可美少年との給ふ。陽神は喜哉遇可美少女ととなへ給へり。是は哥としもなけれど、心に思ふ事詞に出る所則哥也。故に是を哥の始とすると也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.83)のことを言う。イザナギイザナミ神話の「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)」を指す。 

 こうした記紀神話のまだ和歌の体を成してない歌から俳諧まで、歌は連続していると考えられていた。

 許六が不易流行なき以前というのは、俳諧のみに限らずこうした「歌」の伝統全体を指す。

 それゆえ、ここでは万葉集の歌を引用する。赤人の歌は今日では、

 

 田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ

     不尽の高嶺に雪は降りける

                山部赤人

 

だが、当時はむしろ『新古今集』や『小倉百人一首』の、

 

 田子の浦にうち出でてみれば白妙の

     富士の高嶺に雪は降りつつ 

                山部赤人

 

の形で知られていた。

 もちろんまだ和歌十体のなかった時代だ。ただ、十対の中のどれかに強引に当てはめようとすればできなくはないだろう。

 赤人だって、先人の影響は受けていたかもしれない、たとえば人麿とか。それにこうした歌は今では「万葉調」と呼ばれ、この時代の一つの風として扱われている。ただ、それらはすべて後付けにすぎない。今日では写生説の見本のようにも言われているが、それは近代の写生説を当てはめているだけで、当時そのような説があったのではない。

 「只志をよめり」というのは『詩経』大序の「詩者、志之所之也。在心為志、發言為詩。」から来ている。心にあることを志といい、それを言葉に表すことで詩になる。

 古代東海道では田子の浦は船で越えたから、そのときに全貌を現した富士山への感動をそのまま詠んだのであろう。

 「人丸のほのぼの、猿丸のおく山」は、

 

 ほのぼのとあかしの浦の朝霧に

     島隠れゆく舟をしぞ思ふ

              よみ人しらず

 

と、

 

 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の

     声聞く時ぞ秋はかなしき

              猿丸丈夫

 

の歌だが、古今集の「ほのぼのと」の歌は当時は柿本人麿(人丸)の歌とされていた。

 これらの歌は、詠まれた当時はもちろん不易流行説もないし、もちろん写生説もなかったが、後からそれを当てはめて説明することはできる。

 

 「不易・流行定まらざる世界ニ、名句なきにもあらず、予不易・流行のなき世界ニ生れたらんにハあらね共、今の人不易・流行に縛クせられたる事を嘲る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78)

 

 不易流行に限らずどんな美学や芸術学の理論でも、それ自身が秀作を産むわけではない。ただ説明するためのものだ。これはもう何度も述べてきた。説明である以上、過去に遡って説明することはできる。ただ、その理論がなければ秀作が生まれないなんてことはない。

 ただ、なまじ理論を勉強したばかりに、理論に縛られるというのはいつの時代にもあることで、いつの時代でもそういうのは嘲笑の的だ。それ以上の意味はない。

 子規も虚子も写生説は説いたが写生に縛られてはいない。縛られて、本来の初期衝動を見失ってしまうのは、結局凡庸な作者だ。元から表現すべきものがないのだろう。

 表現したいという衝動もなく、ただ人からの借り物の理論でそれっぽいものをこしらえても所詮は似せ物で、そこには何の感動も生まれない。AIに芸術を作らせる場合でも、初期衝動をどうプログラミングするかがポイントだろう。

 去来もいくつもの秀逸を残しているし、別に不易流行に縛られてたわけではあるまい。ただ、余りそればかり強調すると、弟子にいい影響は与えない。芭蕉にはたくさんの優秀な弟子がいたが、去来の弟子って‥‥。

 

 「新古今の時、作者おぼえず

 もろこしの芳野の山にこもるとも

  おくれむとおもふ我ならなくに

といへる歌よむ人あり。撰者達の論云ク、此歌名歌なりといへ共、是俳諧体なりとて、終ニ新古今集の俳諧体ニ入たりといへり。芳野をあまり遠くよみなさむとて、唐土のよし野といへる事、実ハなき事也。是俳諧体也といへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78)

 

 新古今というのは版本を作る際の誤植か。古今集が正しい。

 この説によるなら、この「もろこし」は比喩で遠い所の喩えということになる。たとえ唐土のように遠い芳野の山にこもるとも、という意味。

 昔は「夢のハワイ」というような言い方をよくしたが、もちろんハワイは現実に存在する島で夢ではない。ただ夢のように遠いハワイという意味でこう言う。

 この歌の作者が突飛な比喩で笑いを取ろうという意図があったのかどうかは定かでない。ある程度意識されていたなら、たとえ「俳諧体」という詞がまだなかったにせよ、何かこういう笑える和歌もあってもいいんでないかいと、一つの体を意識していた可能性はある。

 真面目に歌を詠んだのだけど、比喩がちょっと突飛すぎて結局笑われてしまった、というなら創作が先で体は後ということになる。

 ただ、歌を詠む場面もいろいろあるし、その場その場で何となく詠み方をかえるというのは誰しもやっていることだろう。くだけた席で詠むのとあらたまった席で詠むのとはまた違うだろうし、独り言のように詠む場合と相手をヨイショするために詠む場合とでも作り方は違ってくる。聞く人を泣かせてやろうとして詠む場合もあれば、笑わせてやろうと思って詠む場合だってあるだろう。

 詠み分けというのはごく自然に誰もがやっていることで、ただそれを分類して何々体と名付けるのは後からだ。

 曲を作るのでも、盛り上げてやろうと思って作る曲や、ちょっと息抜きするための曲、ここはじっくり聞かせようと思って作る曲など、作り分けるのは普通のことだ。ただ、分類は音楽評論家の仕事だ。

 

 「作者ハ何体をよみ侍るともなく、名歌よみ出さむと斗案じたらん。っ撰者有て体を分ツなれバ、体ハ跡にして趣向先なるべし。くハしき事ハ奥ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.78~79)

 

 「名歌よみ出さむと斗案じたらん」というのもまた「過ぎたり」であろう。昔の歌人が別にひたすら名声のために歌を詠んでいたわけではないだろうし、むしろ歌の贈答などのコミュニケーションのツールとして用いてたり、まずはその場を和ませたりとか、そういうことも重要だっただろう。名歌を詠むというよりは、まずその場で受けるかどうかの方が大事だったかもしれない。そのためには場をわきまえた上で詠み分けるというのも、普通に行われていたのではないかと思う。

 「名歌よみ出さむ」というのは少なからず競争を意識してのことではないかと思う。歌合せで勝つためだとか高得点を取るためとか、あるいは勅撰集への入集を狙うだとか、そういうところで初めて意識されるのではないかと思う。

 俳諧でも発句は基本的に興行の開始の挨拶であり、本来はそんな名句を残そうとして詠むものでもなかった。談林の頃までは、俳諧の中で発句はそれほど重視はされてなかった。発句で名句が意識されたのは、かえって古池の句の大ヒットによるものだったのかもしれない。それ以降、発句で名句をよみ出さむみたいな空気が出来上がっていったのかもしれない。

 俳諧も基本は興行をどう盛り上げるかだった。そのために気の利いた挨拶と場を和ます面白いネタが必要だった。ただ、名句を意識しだすと、もはや興行から離れ、撰集の中で目を引くとことばかりを考えるようになる。そうしたことも俳諧を窒息させる原因だったのかもしれない。

 体というのは明確に意識されなくても少なからず作者の創作の際にはあるものだと思う。名句を詠むことだけを意識するというのは、和歌でも俳諧でも本来の姿ではなかったのではないかと思う。名歌名句はむしろ後の人々の決めることで、作者はただ、今表現したいものを表現するだけなのだと思う。

 よく、ホームランは狙って打てるものではないというし、下手にホームランを狙おうとすると大体は大振りになって結局空振りする。名歌も名句も他のジャンルの芸術の名作でも、それは言えるのではないかと思う。許六さんも「十団子」以来なかなかヒットに恵まれなかったのは、その辺に原因があったのかもしれない。

 「くハしき事ハ奥ニ記ス」というのはこの手紙の後に『俳諧問答』に収録されている「俳諧自讃之論」のことだろうか。

 次の十七章についてもこうある。

 

 

3、不易流行と言わず

 

 「一、第十七章ニ云、師在世の時、予不易・流行といはず、又前にすへずして句を作りたる事、再編の問ハ、奥の自讃といふ条目ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.79)

 

 第十八章の所は前半省略するが、

 

 「不易・流行は口より出て後ニあらはるる物なれバ、あながちニ不易・流行を貴しとする物にハあらず。此論奥ニ委シ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.79)

 

とあるように、不易流行について更に詳しく見るには「俳諧自讃之論」を読んだ方がいいのだろう。

 また少し飛んで、第二十四章のところに

 

 世の中を這入り兼てや蛇の穴   惟然

 

の句が引用され、「少あはれなる所もあり」とコメントしている。

 この頃の以前の発句は、見たものをそのまま詠んだだけなのか、それとも思いつく言葉を並べてみただけなのかといったような、句意も俳意も定かでない句が多い中で、この句は確かにわかりやすいし寓意がある。

 今で言えば引き籠りだが、昔だったら立派な隠者だ。それを自嘲気味に「蛇の穴」と呼んだのだろう。惟然にしては珍しい。

 ありのままを詠むという発想は、

 

 庭前に白く咲きたる椿かな    鬼貫

 

の句にもあるし、もう少し後に伊勢派の乙由が、

 

 百姓の鍬かたげ行さむさ哉    乙由

 

の句を詠んでいる。

 余談だが、くしゃみをした後に「畜生」と言う人はよく聞くが、地方によっては「鍬かつぐ」と言うところがあると以前どこかで聞いたことがある。あるいはこの句が元になっているのかもしれない。

 畜生は「はくしょん」「ちくしょう」で韻を踏んでいるところから来たと思われる。「鍬かつぐ」は「はくしょん」と「ひゃくしょう」が似ているところから「鍬かつぐ」になったと思われる。

 こうした平俗軽妙の句は誰でも気軽に作れるというところから、幕末明治の大量の凡句の山を生むことになったし、近代の夥しい数の写生句もその延長にある。今泉恂之介は『子規は何を葬ったのか』(新潮選書、2012)の中で、逆にこうした句を皆悉く名句だとしている。多分名句の概念が違うのだろう。

 芭蕉も『奥の細道』の旅の中で、殺生石の所で、

 

   殺生石

 石の香や夏草赤く露あつし   芭蕉

 

の句を詠んでいるが、これもそのまんまを詠んでいる。この句は曾良の『俳諧書留』ではなく『旅日記』の方にあり、後に『陸奥鵆』にも収録されている。

 芭蕉が晩年、理論や技法に囚われずに初期衝動をもっと開放した方が良いと思い立った時、惟然や風国にかつて自分が没にしたようなこういう句の読み方を逆に勧めることになったのか。

 ある意味で、今の俳句を先取りしたとも言える。ただ、去来や許六からは理解されず、「蛇の穴」の句の方を良しとしたようだ。

俳諧自讃之論

1、貞門・談林時代の許六

 

 「一、おこがましき申事といへ共、此論先生の腹を抱えて御披覧を蒙度候。

 先生ト予ハ、亡師在世の中かたく契約をなして、江東に上らば洛陽の去来子ト心安申通べしと翁の一言より、推参慮外をかへりミず、度々の通書を送る。終ニ外の同門ニ対して、俳諧の儀論する事なし。

 是レ師教の恩をわすれざると、察し給ふべ事。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.83)

 

 「先生」はこれまでの手紙のやり取りの相手だった去来のことであろう。まあ、笑って読んでくださいと謙遜してこの論を書き始める。

 これまでの論争も芭蕉が「去来子ト心安申通べし」と言ったことによるもので、ここでまた俳諧の議論をすることも、芭蕉翁の恩に報いるためだ、と前置きしてこの論は始まる。

 

 「一、予俳諧をこのむ事千人に過たり。廿余年昼夜俳諧に眼をさらす。初学の時ハ季吟老人の流に手引せられて、中ごろ談林の風起て急ニ風を移し、京師田中氏常矩法師が門人ト成て、俳諧する事七・八年、昼夜をわすれて、一日ニ三百韻・五百韻を吐キ出す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.83)

 

 「千人に過たり」は多くの人よりもまさるということ。

 許六は明暦二年(一六五六)の生まれで、寛永二十一年(一六四四)生まれのの芭蕉とは十二歳下で一回り違う。それでも季吟門から入り、後に談林に感化された点では芭蕉と同じような道を辿っている。

 芭蕉が伊賀で蝉吟の発句、季吟の脇で行われた「野は雪に」の興行が寛文五年(一六六五)で、このとき芭蕉は二十一、許六は九歳ということになる。

 許六が季吟に師事したのはこれよりはもう少し成長してからであろう。寛文の終わり頃だろうか。その頃既に「季吟老人」だったようだがまだ四十代で、季吟は長生きで八十まで生きたから、この『俳諧問答』の頃もまだ御存命だった。

 一方、寛文の終わり頃から宗因の俳諧は上方を中心に流行し、延宝になるや一気にブレイクする。芭蕉は延宝三年に江戸にやって来た宗因の俳諧興行に一座することになる。その頃許六は京都談林の田中常矩に師事していた。常矩は当時京都にたくさんの門人を抱えていたという。

 「一日ニ三百韻・五百韻を吐キ出す」というのは西鶴の矢数俳諧に代表されるような当時の流行で、二十四時間の間に即興で何句付け続けることができるかを競った。

 芭蕉が談林風を吸収しながら『俳諧次韻』で独自の風を作り上げていった頃、許六は矢数俳諧にはまっていたようだ。ただ、一日三百句、五百句は、三千風の三千句や西鶴の二万三千五百句には遠く及ばない。

 

 「其頃出る諸集に渡て、一天下の俳諧おそらくハ掌の中ニ握りたる様ニおぼゆ。

 常矩門人の五・三人ニさされて、田舎遠境の門弟の第一と称ス。

 如泉などいへる者ハ、予より遥におとりたる門人也。かれが高弟ニ宗雅・利次などいへるものと、五句付点取等ニくびきするもの、予が俳友三・四人ならでハなし。

 仕官懸命ニつながれたれバ、度々の上洛もなし。只筆談・撰集等ニて風儀を識得ス。田舎に居すといへ共、京師・東武の宗匠ニ習ハずして風儀を改る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.83~84)

 

 常矩のもとで昼夜も忘れて俳諧に熱中し、すっかり俳諧で天下を取った気分になっていたと言うが、それはそれでやや大袈裟に盛っている感じがする。

 常矩門人の五本の指に入るだとか京から離れたところでは一番だとか、それはあくまで常矩門の中だけの話であろう。

 同門の如泉とその高弟の宗雅・利次が当時の許六の俳友だったようだ。ただ許六は延宝四年までは近江彦根藩第三代藩主の井伊直澄に仕えていた。その後も天和二年に大津に行くまで彦根に留まっていた。手紙や撰集を通じて俳諧を学んでいた。

 

 「遥に後ニ世間の風儀のかハる事毎度也。習ハずして流行するハ、昨日の我ニ飽キたる故也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.84)

 

 季吟門から常矩門に移ったのも、貞門に飽きたからなら、常矩門の談林にも飽きる時が来る。

 

 

2、桃青との出会い

 

 「其比常矩が何がし集の付句ニ、

 

 物の時宜も所によりてかハりけり

   難波のあしを伊勢風呂でえた

 

といふ句有。秀逸とて入集ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.84)

 

 まず問題なのは「伊勢風呂」だが、これは天正十九年(一五九一)に伊勢与一が開業した銭湯のことだろうか。ウィキペディアにはこうある。

 

 「江戸における最初の銭湯は、徳川家康が江戸城に入って間もない1591年(天正19年)、江戸城内の銭瓶橋(現在の大手町付近に存在した橋)の近くに伊勢与一が開業した。当時の銭湯は蒸気浴(蒸し風呂)の形式であった。

 その後江戸では、浴室のなかにある小さめの湯船に膝より下を浸し、上半身は蒸気を浴びるために戸で閉め切るという、湯浴と蒸気浴の中間のような入浴法で入る戸棚風呂が登場した(江戸時代初期)。」

 

 「難波のあし」もここでは単なる植物の葦ではあるまい。風呂屋に葦が生えているわけではないから。

 一つ穿った見方だが、これは、

 

 難波江の芦のかりねのひとよゆゑ

    みをつくしてや恋ひわたるべき

          皇嘉門院別当(『千載集』)

 

だろうか。江戸の湯屋とちがい、上方の風呂屋では湯女という垢かき女がいて、売春も行われていたという。

 物の時宜も所によって変り、今日では難波江の葦の仮寝の一夜を風呂屋で得られる、だったら意味が通じる。

 余談だが戦後しばらく「トルコ風呂」と呼ばれる脱法的な売春施設があったが、この「風呂」は上方で長いこと売春の場であった「風呂屋」を引き継いでいたのだろうか。トルコ人の抗議により、今は「ソープランド」と名前を変えている。

 この句は、『菟玖波集』巻十四の

 

    草の名も所によりてかはるなり

 なにはのあしはいせのはまをぎ

                救済(きゅうせい)

 

をふまえたもので、「所によりてかはるなり」と「所によりてかハりけり」が酷似している所から、歌てにはのように「難波のあし」を引き出している。ただ、内容はまったく別で、こうした換骨奪胎は談林のお家芸といえよう。

 さて、これに対する許六の評だが、

 

 「我黨これをとらず。『所によりてかハりけり』といふ句ニ、難波のあしハつけらるまじ。前句拵たるやうにして、うまく面白キ事なしとて、かやうの事より常矩を見破る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.84~85)

 

 「黨」は「党」の旧字だが「わがともがら」と読むのだろうか。よくわからない。

 どうやら前句を後から拵えたか手直ししてズルしたと見たようだ。まあ、興行の中で前句を見て、ここをちょっと変えると面白い句が付くから変えてくれないか、みたいな事はあったかもしれない。

 許六はこれを芭蕉の句を比較する。

 

 「又其頃桃青の付句ニ、

 

 きき耳やよそにあやしき荻の声

   難波のあしハ伊勢の四方一

 

と云句あり。是上手の作なりとて感じて、桃青を上手と称ス、」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)

 

 この句は延宝六年刊の『江戸三吟』に収録された、

 

 あら何共なやきのふは過て河豚汁  桃青

 

を発句とする延宝五年冬の興行の一巻の十句目になる。「よもいち」は『校本芭蕉全集第三巻』の注には、

 

 「伊勢の人で盲人の卜占師。耳がさとく五音によって卜ったことで有名。」

 

とある。有名だというからネットで探してみたが見つからなかった。

 まあ、視覚障害者が聴覚に優れているというのはよくあることで、他所で怪しげな荻の声がするので聞き耳を立てるが、それは「難波の葦」ならぬ伊勢の四方一だった、と付く。

 「あやしき荻」から普通の荻ではなく「浜荻」のことだろうとして、「難波の葦」の声を聞く伊勢の四方一には、それが「荻の声」だった、という落ちなのだが、展開の仕方は確かに上手だが、句としてそれほど面白いかという感じはする。

 何か今でもよくあることだが、マイナーな地味な作品を取り上げて、この良さを俺はわかるんだとばかりに自慢げに語る人がいるが、そんな感じがしなくもない。

 まあ、許六さんもこの句を見てすぐに桃青にコンタクトを取って遠距離ながら弟子にしてもらおうとかしなかったところを見ると、常矩よりはマシくらいの感覚だったか。

 

 「其後転変して、自暴自棄の眼出来、我句もおかしからず。他句猶以とりがたし。所詮他人の涎をねぶらんより、やめて乱舞に遊ぶ事、又四・五年也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)

 

 延宝四年に主君である井伊直澄を失い、そのあと許六に何があったのかはよくわからない。まあ、代が変われば家臣の上下関係も変わってくるものだから、それまでのような羽振りの良さはなくなったのだろう。

 ウィキペディアには、

 

 「天和2年(1681年)27歳の時、父親が大津御蔵役を勤めたことから、許六も7年間大津に住み父を手伝う。」

 

とあるから、つまりは左遷されたか。

 

 「しかりといへ共、元来ふかくこのめる道なれバ、終にわすれがたくて、おりふしハ他の句を尋ネ、頃日の風儀などを論ズ。其比一天下、桃青を翁と称して、彌(いよいよ)名人の号を四海にしくと沙汰ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)

 

 これも天和の頃の話だろう。

 延宝九年に芭蕉は三十八歳で深川に隠棲し、庭には李下から贈られた芭蕉一株が植えられ、この頃から芭蕉は翁と呼ばれるようになっていった。

 当時四十前後での隠居は珍しいものではなく、四十という年齢は「初老」と呼ばれるにふさわしかった。許六も四十代の季吟を老人と呼んでいる。

 また、この頃から芭蕉は書簡にも「はせを」の署名をするようになるが、俳書に「芭蕉」の号が登場するのはもう少し後になる。

 延宝九年の『俳諧次韻』で談林風を脱却した芭蕉の名声はますます高まり、天和の破調は伊丹の長発句とともに一世を風靡した。

 

 「予此人の器を見るに、我レ肩をならべたる時、中々及ばざる上手也。日々名人となり侍らん。ねがハくハ一度対面して、俳諧の新風をききたしと、便宜を求る事一・二年、其内翁の句幷門人の句等をききて、其風を探る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85~86)

 

 まあ、こういう許六のような人がたくさんいたから、芭蕉は名人として不動の評価を得るに至ったのだろう。

 天和から蕉風確立期へうつり、やがて芭蕉は古池の句で大ブレイクする。天下津々浦々、もはや知らぬ人はないくらいの有名人になった。この頃になってようやく会って新風を聞きたいと思っても、同じような人は日本中にたくさんいた。

 こういうワンテンポ遅れて流行を後追いしてしまうのが許六の限界だったのかもしれない。

 

 

3、『阿羅野』『猿蓑』

 

 「于時(ときに)あら野集出来たり。よろこむで求め、昼夜枕とす。其後つづきが原・いつを昔等の集も、略(ほぼ)世に出たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.86)

 

 『阿羅野』は元禄二年の三月。芭蕉が『奥の細道』に旅立つ頃だった。

 不卜編の『続の原』は貞享五年。其角編の『いつを昔』は元禄三年。、この頃許六は蕉門の俳諧に熱中することになる。

 ウィキペディアには、

 

 「元禄2年(1689年)33歳の時、父が隠居したため跡を継ぐ。この頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた。」

 

とある。父の隠居と時期が一致する。私生活の変化が許六を本格的に俳諧の道へ邁進させたのだろう。

 

 「又俳諧する事、都合四・五年、数千言・数万言、相手を嫌ハず。其内ニ大津尚白ニ両度対して大意を求む。猶微細の所ハ、集を以て毎日探る。予がふかく翁をまねく事、師の耳ニ入る間も二・三年、終ニ江東に遊び給ハずして、師弟の縁のうすき事、今日になげく。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.86)

 

 元禄二年に『奥の細道』の旅を終えた後、芭蕉は元禄四年の九月の終わり頃までは江戸には戻らず、大津、京都、伊賀などそう遠くない所にいたはずなのに、許六はついに会うことが出来なかった。

 元禄四年の十月の終わり、芭蕉は江戸に戻る。

 

 「其後予東武に官遊して、其角に両席会ス。俳諧稽古の為ニ益なし。

 其比猿ミの出板して、翁ハ吾妻の方へ赴き給ふ時、李由が明照寺に漂白し給ふといへ共、予又東武に逗留の間にして、かた違ひする事、是又師の縁のうすきなげき也。

 其冬予故山に帰時、師ハ平田より出てミの・尾張を過ギ、東武ニ趣き、又かた違する事かくのごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.86~87)

 

 芭蕉がまだ上方にいるときに許六は江戸に行って其角に会っている。

 『猿蓑』は元禄四年七月に出版され、その年の九月二十八日の千那宛書簡に、「平田明照寺へも一宿立ち寄り申すべく候」とある。

 平田明照寺は彦根にあり、李由が住職を務めていた。この時許六はまだ江戸にいた。

 そして芭蕉が江戸に着く頃には許六も彦根に戻っていた。東海道のどこかですれちがったか。

 

 

4、芭蕉との対面

 

 「予明年七月又東武に趣く。此時翁に対面せむ事をよろこぶ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.87)

 

 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)だと、許六と芭蕉との初対面は八月九日になっている。

 

 「橘町より深川芭蕉庵再興して入給ふ年也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.87)

 

 深川芭蕉庵は三期に分けられている。第一次芭蕉庵は延宝九年に隠棲した時から天和二年十二月二十八日に八百屋お七の大火で焼失するまで、第二次はその後再建され元禄二年の『奥の細道』への旅立ちの際に引き払うまで、そして第三次は元禄五年に再興されたこの芭蕉庵を言う。

 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)には、

 

 「五月中旬 第三次芭蕉庵が竣工し、橘町の仮居より移る。」

 

とある。

 芭蕉の俳文『芭蕉を移す詞』には、

 

 「既に柱は杉風・枳風が情を削り、住居は曾良・岱水が物ずきをわぶ。」(『芭蕉文集』、日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店p.203)

 

と、杉風と枳風の支援によって土地と建設資金が用意され、曾良と岱水によって造営が進められたと思われる。

 枳風は貞享三年の正月の「日の春を」の巻(『初懐紙評注』所収)で、

 

   砌に高き去年の桐の実

 雪村が柳見にゆく棹さして    枳風

 

の第三と他六句を詠んでいる。

 同じく『芭蕉を移す詞』には、新しい芭蕉庵の様子がこう記されている。

 

 「北に背(そむき)て冬をふせぎ、南にむかひて納涼ををたすく、竹蘭池に臨(のぞめ)るは、月を愛(すべき)料にやと、初月の夕より夜毎に雨をいとひ雲をくるしむほど、器(うつはもの)こころごころに送りつどひて、米は瓢(ひさご)にこぼれ、酒は徳りに満ツ。

 竹を植、樹をかこみて、やや隠家ふかく、猶明月のよそほひにとて、芭蕉五本(いつもと)を植て、其葉七尺余、凡琴をかくしぬべく、琵琶の袋にも縫つべし。」(『芭蕉文集』、日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店p.203)

 

 そして一句。

 

 芭蕉葉を柱にかけん庵の月    芭蕉

 

 この句は『奥の細道』の旅立ちの時に「草の戸も」の句を詠み、「面八句を庵の柱に懸置。」としたことに応じるものか。

 

 「江戸着の日数を経ず、桃隣手引きして、八月九日深川の庵をたたき、師弟契約の初也。一座嵐蘭・桃隣・浄求法師也。

 桃隣いひけるハ、翁へ発句持参あるべしといふにまかせ、桃隣執筆して四・五句初て呈ス。

 

   七月十四夜嶋田金やの送り火を

   見て感をます

 聖霊とならで越えけり大井川

 十団子も小粒ニ成ぬ秋の風

 かけ橋のあぶな気もなし蝉の声

 我跡へ猪口立寄清水哉

  此外もありし、おぼえず。

 

 師見終て云ク、就中うつの山の句、大きニ出来たり。其外清水・かけ橋の句もよしと、数遍感ぜられたり。

 大井川の句ハ、其時少加筆あり。略す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.87~88)

 

 浄求法師についてはよくわからないが、weblio辞書の「芭蕉関係人名集」には、

 

 「深川芭蕉庵近くに住む乞食坊主。名前から、時宗の僧侶か?

 『別座舗』に、

 

 「深川の辺に浄求といへる道心有、愚智文盲にして正直一扁の者也。常に翁につかへてちいさき草の戸を得たり。朝夕芭蕉庵の茶を煮ル事妙也」

 

とある。」

 

とある。「乞食坊主」がどういう意味で用いられているのかはよくわからない。第三次芭蕉庵で住み込みで芭蕉の世話をしていた僧のようだが、ホモ説の詮索はしないことにしよう。

 「茶を煮ル」は素堂との漢詩交じりの両吟「破風口に」の巻の脇に、

 

   破風口に日影やよはる夕涼

 煮茶蠅避烟           素堂

 

とある。当時広まりつつあった煎茶の原型ともいえる唐茶(隠元禅師の淹茶法)のことであろう。「乞食」といっても、ちゃんとしたお寺で修行したお坊さんであることが十分に想像できる。

 許六の発句の評で、「うつの山の句、大きニ出来たり」というのは、

 

 十団子も小粒ニ成ぬ秋の風    許六

 

の句で、結局これが許六生涯の代表作になってしまった感がある。

 芭蕉はこの頃、蕉風確立期から猿蓑調にかけての古典復古からの脱却を図っていて、古典の情に囚われずにもっと生活の中から来る真実の情に迫ろうとしていた。

 あからさまに値上げすると文句言われそうだから、こっそりと量を減らして実質値上げにするパターンは今日でもよくあることで、そんな世知辛い世の中への不満を発句にするというのが、当時の芭蕉としては斬新というか、待ってましたという句だったのではないかと思う。

 しかもこの句は猿蓑調のときに説いてきた「基(もとゐ)」や「本意本情」に決して反してはいない。それでも何か猿蓑調とは違った新しさがある。

 

 かけ橋のあぶな気もなし蝉の声  許六

 我跡へ猪口立寄清水哉      同

 

 この句も直す所なしと高く評価された。

 桟(かけはし)といえば危ないもので、芭蕉も『更科紀行』の旅のときに、

 

 桟や命をからむ蔦かづら     芭蕉

 

の句を詠んでいる。このあぶない桟を「あぶな気もなし」と言って、何でだと思わせておいて「蝉の声」で、確かに蝉なら飛べるから危なくもなんともなく、桟に留まって平然と鳴いていると落とす。

 桟に留まって鳴いている蝉の姿は誰もが見たことあるもので、同時にあるあるネタでもある。これはなかなか上手い。

 「我跡へ」の句の「猪口」は「ちょこ」ではなく「いぐち」と読むようだ。岩波文庫版には括弧して(兎脣)とある。口唇口蓋裂、俗に言う「みつくち」のことだ。

 清水に立ち寄り旅の喉の渇きを潤し涼んで立ち去ろうとすると、口唇口蓋裂の人がやってきたというネタだが、おそらく『戦国策』の「唇亡歯寒(唇亡びて歯寒し)」の言葉を思い起こしたのだろう。口唇口蓋裂の人なら、清水はより冷たく、より涼しいのではないか、ということか。

 今ならポリコレ棒で叩かれそうだが、ただ、俳諧にはどんな人間でも登場させることができる。登場させることをタブーとする方がむしろ差別なのではないかと思う。アメリカ映画でも必ず黒人を登場させなくてはいけないように、「いなかったことにする」というのがもっとも厳しい差別なのではないかと思う。

 ヘイトスピーチへの規制も、あまり厳しい法律を作ってしまうと、却ってそうした人たちのことには触れないのが一番良いということになり、結局はいなかったことにされてしまう。

 穢多・非人に関しても、いなかったことにするのではなく、時代劇などでは必ず登場させるようにした方が良いと思う。

 

 聖霊とならで越えけり大井川    許六

 

の句は「其時少加筆あり」というように、若干の添削を受けたようだ。元の形は不明。

 「聖霊」は「精霊」と同じ。お盆のときに帰ってくる死者の霊。

 精霊流しは今では長崎が有名だが、かつては全国で行われていた。句は、大井川で溺れて精霊流しになってしまうことなく無事に渡れたという意味になる。

 前年の冬の芭蕉の句に、

 

 ともかくもならでや雪の枯尾花   芭蕉

 

の句があり、似てなくもない。この句は「ともかくも雪の枯尾花にならでや」の倒置で、雪に埋もれた枯れ尾花のような行き倒れにならなくてよかった、という意味。

 

 「予つくづく不審を生ズ。再編きき返し、うつの山の句よく侍るやといへば、成程よしといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.88)

 

 このあたり、許六自身「十団子」の句を意味を理解してなかった証拠ではないかと思う。彦根藩の家老クラスの重臣だけに、本当は庶民の感情なんてそんなに理解してなかったのではなかったかと思う。

 多分秋風の頃となると心なしか十団子までが小さく心細く見えてくる、という程度の意味で詠んだのかもしれない。

 芭蕉に言われて却って、「えっ、この句のどこがそんなに良いの?」と戸惑った感じが伝わってくるし、結局最後まで理解できてなかったのかもしれない。

 

 「予がきき返したる事を、不審におもひ給ふや、翁ノ云、許子ハ愚老ニ対面し給ハざる以前、愚老が門弟に対面し給ふやと問ひ給ふ。

 予が云、しからず。尚白に二度対面しける後ハ、ひたすらあら野・さるミの二集に眼をさらし、昼夜句を探る事隙なし。

 少さぐりあてたりとおもへば、跡より師の吟じ出し給ふ句、大きに相違せり。其風を探り見れバ、又跡の句似たる形もなし。昼夜吟腸を断て、漸此うつの山の句を得たり。

 此句二十句斗仕直し、二日案じ煩ふて後、小粒に成ぬといふ事を取出したりと答ふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.88~89)

 

 あれ、其角にも会ったんじゃないって思うが、おそらく其角は独立した其角門で、もはや芭蕉の門人ではない、むしろ破門されたと思ってたのかもしれない。下手に其角の名を出すと芭蕉が気を悪くするのではないか、なんて気遣ったのだろう。

 この『俳諧問答』も去来が其角をディスったのに対し、許六が其角を擁護するところから始まっている。許六は「俳諧稽古の為ニ益なし」とは言うものの、其角に対して悪い感情は持ってなかったはずだ。

 ただ、やはり価値観が違いすぎたか、点取り俳諧の其角に点を乞うても、何でこれが長点で、何でこの句は無印なのか、さっぱりわからなかったのではないかと思う。もっとも芭蕉の評にも首をひねっているあたりの許六の価値観って、て感じはする。

 許六は、どうすれば芭蕉のような句を詠めるのかと、『阿羅野』や『猿蓑』を本がぼろぼろになるまで読み返したのだろう。

 十団子の句の初案がどうだったかはわからないが、宇津の山の名物十団子で何か句を作れないかとあれこれ悩み、工夫し、どうすれば芭蕉のような句になるのかとさんざん考えた挙句、「うん、これなら芭蕉っぽい」とばかりに「小粒に成ぬ」というフレーズをひねり出したようだ。

 実はここに初期衝動など何もなかった。少なくとも、小粒になった十団子を見て「ひでえな」と思って詠んだ句ではないようだ。

 

 「師の云ク、先建て尚白問答一々ききたり。

 今日許子が句を見る事、専ラ撰集ニて眼をさらしたる事明也。愚老が魂を探り当られたり。愚老が魂を集にて探当る人は、門弟幷他門共ニ許子一人也。昼夜此魂を門弟子ニ説といへ共、通じがたし。

 愚老が本望今日達せりとて、大きによろこび給へり。撰集を見る事、許子ニ及ぶ人あるまじと、返す返す称し給へり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.89)

 

 まあ、結局芭蕉の勘違いというか、残念ながら誤解だったようだ。撰集を読んで表面だけ真似るのが上手かったので騙されてしまったか。

 

 「予彌(いよいよ)不審出来ス。つくづくおもふに、俳諧ハいひ勝と平呑にのミ切て居侍る時、師云、許子が俳諧と晋氏が俳諧ハ会て符合せず。愚老が俳諧と許子が俳諧とハ符合すといへり。此一言ニ力を得て懺悔ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.89)

 

 「いひ勝」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 負けじと盛んに言うこと。われがちにしゃべりまくること。

※史記抄(1477)一五「小罪なれども、云かけて大罪の様になして、云いかちを高名にするぞ」

 ② とかく口にすること。ともすると言い出すこと。「とかく老人は文句を言い勝ちである」

 

とある。この場合は①の意味だろう。今日の「言ったもん勝ち」に近いかもしれない。

 「平呑にのミ切て」は「平呑みに飲みきって」ということか。とにかく褒められたんだからその通りだと思っていれば良い、ぐらいの感じか。

 「懺悔」というのは、「私が嘘をつきました。其角とは会ってます。」というところか。

 

 「予云、されバ今日対面の初より、予が心中大きに迷ヨへり。此御一言に寄て少力を得たり。

 予高翁ニ対面せざる以前、晋氏が方へ此点を乞句、百四五十あり。予がよしとおもふ句ニハ点稀にして、いひ捨の句ニ褒美の点あり。

 今日師の感じ給ふ句。大方一点の句也。然所に師殊の外ニ感給ふ。

 予が不審ここにあり。師の高弟は晋子也。師弟の胸旨ヶ様ニかはりて頼母しからず。畢竟俳諧ハいひ勝と決定し侍るなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.89~90)

 

 芭蕉の評も意外に思ってるのだから、其角の評が意外でも何の不思議もない。要するに許六の句は良く出来た似せ物だ。でも、聞く人がそれで感動するなら結果オーライで、まさに「いひ勝」だ。

 

 「又問テ云、予が俳諧と晋子が俳諧と符合せざる事、幷師の風雅と予が風雅と符合せし事をのべて、不審を明し給へといへば、師ノ云ク、許子俳諧をすき出る時、閑寂にして山林にこもる心地するをよろこび、元来俳諧数奇出ずやといへり。

 答云ク、しかり。師もすく所かくのごとし。

 晋子がすく所ハ、会て此趣にあらず。俳諧ハ伊達風流にして、作意のはたらき、面白物とすき出たる相違也。故ニ晋子と許子と符合せざるといへり。

 初て眼ひらき、一言に寄て筋骨に石針するがごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.90)

 

 芭蕉と其角は長い付き合いではあるが、この頃は路線の違いから疎遠になっていた。その辺のことは許六も知っていたであろう。ならば、その対立を利用して、自分は其角に点を乞うたこともあったがしっくり来ず、むしろ芭蕉の風に近いことをアピールすることになる。これも「いひ勝」だ。

 そこで気を良くした芭蕉は、自分が閑寂を好み許六も閑寂を好む所が一致していて、其角は都会的な伊達を好む所が違うと言う。

 

 

5、師が風閑寂を好てほそし

 

 「又問テ云、師ト晋子ト、師弟ハ、いづれの所を教へ習ひ得たりといはむ。答テ云、師が風閑寂を好てほそし。晋子が風伊達を好てほそし。この細き所師が流也。爰に符合スといへり。又大きに感ズ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.90~91)

 

 これは芭蕉の「ほそみ」を問題する時に必ず引用される有名なフレーズだ。

 前に「ほそみは共感から来る細やかな気遣いで、共感の根底には同じように生きていて、やがて死んでいく、自分と同じものであるという共鳴がある。」が、こうした共感は田舎での閑寂な暮らしで自然界の命に共鳴する共感もあるが、都会暮らしの中で様々な人間の様々な立場への共感もある。

 ただ、芭蕉にも人事に優れた句はあるし、其角にも自然を詠んだ優れた句はあるから、これはどちらかというと程度のことで、実際芭蕉と其角の違いは、芭蕉が興行中心で興行のためなら田舎の辺鄙な地をも厭わないのに対し、其角は芭蕉に負けず頻繁に旅をするとはいえ、それは興行のためではなく、街で点者として生活する方がメインになる。

 どちらも「ほそみ」を具えてはいるが、田舎廻りを好んでの「ほそみ」と都会生活を好んでの「ほそみ」とが違うと見た方が良いのかもしれない。

 

 

6、血脈

 

 「又問テ云、予探り当たる所、真ンの俳諧の血脈ニ侍るやといへば、此所毛頭うたがひあるべからず。心を正敷して、俗を離るる外ハなしといへり。其日ハ退去ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.91)

 

 これで見ると、「血脈」は芭蕉の言い出したことではなく、許六が言った言葉を芭蕉が追認したにすぎない。

 よく芭蕉の帰俗と蕪村の離俗が対比されるが、ここで芭蕉が「俗を離るる外ハなし」というのは、許六の資質に対して、それを伸ばすには「俗を離るる外ハなし」と言ったのであろう。まあ、「帰俗」は俗を去りながらも、「和光同塵」よろしく俗を見捨てずに俗に交わりながら俗を離れるという高度な生き方をさすものだから、俗物で良いという意味ではない。

 「市隠」という言葉もあるが、山中に居て俗に染まらないのはたやすいが、街に居て俗に染まらないのは難しいという意味では、許六にも田舎での閑寂を好み俗を離れながらも、またその心を市中においても保てることを求めていたのではないかと思う。それが「十団子」の句への期待だったと思う。

 これで許六と芭蕉との最初の対面は終る。

 

 

7、その後の対面

 

 「其後予が旅亭にまねきたる時、師の雑談ニ云ク、いづれの道カ叶ひ侍るといへば、師ノ云、我国々の人に対して俳諧の器を求む。求め得て、直指の法を伝べきとおもふ事日々ニあり。

 今撰集を見て予が腸を探り得たる人ハ許子也。千載の後も許子の如き人、世にあるまじき共おもはず。されば、しいて器を求むる事をやめたり。

 今日の望ハ、性痴にして、多年大きに執心をかけるといへ共、会て動ざる人あるべし。是ハ愚老がたすけにあハざれば、道ニ入がたし。

 器のすぐれたるものハ、独り教へずしていたるといへり。

 許子ガ本性を見るに、愚老が求むる所に大方叶ふ人也といへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.91~92)

 

 芭蕉の許六評は繰り返しという感じがする。とにかく許六は誤解されたまま、でもあの芭蕉さんが言うんだからというところで舞い上がってゆく様子がよくわかる。

 

 「師ノ云、器のすぐれたるもの、是第一也、これ一ツ。

 大きに此道に執心の人、許子ハ寝食をわすれ、財宝・色欲に代へる人也、これ二ツ。

 年始終を越る人ならず、年漸三十七、これ三ツ。

 いとまある身ニあらざれバ、道を行ジがたし、是四ツ。

 貧賤にして朝夕に苦める人ならず。許子富貴ニあらずといへ共、商買農士に穢れず、これ五ツ。

 許子博識ニあらずといへ共、和漢の文字ニ乏しからず。珍碩がごとき人にあらず、是六ツ也。

 此六ツの物揃へる人稀也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.92)

 

 まあ、とにかく褒め言葉がよく並ぶ。こんなにこと細かく覚えているのは、よっぽど嬉しかったのだろう。まあ、二つ目の俳諧に寝食を忘れというのは、事実だったのだろう。三十七でようやく仕事の隙も増えて、強度芭蕉が深川に隠棲する年齢というのも気に入られた理由だっただろう。

 ただ、「富貴ニあらず」だったかどうかはよくわからない。まあ、大津に左遷されたりして、ひところほど羽振りがよくもなかったのかもしれないが。

 「博識ニあらず」となると、やや褒め殺している感じもする。

 珍碩は洒堂のことだが、「ひさご」を編集し、芭蕉には気に入られたはずだが、その後何かいさかいでもあったか。洒堂はこの翌年『俳諧深川集』を出す。そしてその洒堂がいきなり大阪に移住し、之道とトラブルを起していること聞きつけ、芭蕉の大阪への最後の旅の理由の一つにもなる。

 まあ、許六が「博識ニあらず」なのに対し、洒堂は博識をひけらかすとことも多かったのだろう。そのわりには結構怪しげな知識が多かったりして、要ははったりが強かっただけなのだろう。芭蕉もこの頃にはすっかり失望していたか。

 

 

8、俳諧の底を抜く

 

 「師ノ云、第一手筋よし、器よしといへ共、手筋のあしきハならず。すみやかに此度、俳諧の底をぬかセんといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.92~93)

 

 六つのことを言いながら、その第一の「器」よりも大事なものとして、ここで「手筋」を挙げる。

 「手」というのは本来書の腕をいう言葉で、それが様々な芸事に拡大されている。茶道では「お手前」という。

 また、「筋」もまた様々な芸事で「筋が良い」という用い方がされている。

 ここでの手筋は天性の才能というような意味だろう。器はいろいろな物事を学び取り、取り入れ受け入れる、その入れ物の大きさで、広さをあらわす概念なのに対し、手筋は深さをあらわすようだ。それが「底をぬかセん」という言葉に繋がる。

 今日では「底を抜く」という言葉は廃れているが、「底知れない」という言い方はする。その逆は「底が浅い」ということになる。

 いろんな物事を受け入れる度量はあっても、底が浅くてはいけないというのは、おそらく洒堂のことを念頭に置いて言っているのであろう。要するに博識なだけでは駄目ということだ。それに対し、許六の「十団子」の句は、芭蕉からすれば底を抜かれる思いだったのだろう。許六がそれを理解できたかどうかは別として。

 

 「門弟の中に底をぬくものなし。あら野の時を得たりといへ共、ひさごに底を入レられ、ひさごハさるミのに底有て、古今をへだてらる。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.93)

 

 門弟に底を抜くものがいないということは、これまで底を抜いてきたのは芭蕉自身だということになるか。

 荷兮編の『あら野』は蕉風確立期の蕉門の集大成のようなもので、一世を風靡した。許六も「于時(ときに)あら野集出来たり。よろこむで求め、昼夜枕とす。」と言っていた。

 『ひさご』は珍碩(洒堂)編で、『阿羅野』の底を更に掘り下げたと言っても洒堂の功績ではなかったようだ。

 『猿蓑』は去来と凡兆の編だが、これも芭蕉が底を更に掘り下げたものだった。

 

 「底のぬけたる者、新古の差別なし。昨日・今日・又明日と流行して、一日も葦をとめずといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.93)

 

 これも芭蕉自身のことであろう。許六に同じ才能を期待し、次の集の編纂のことも考えたのかもしれない。

 実際に実現した次の集は『続猿蓑』だが、これは沾圃編にはなっているものの、沾圃の発案で実際には芭蕉と支考が編纂し、芭蕉の死去の跡は支考が引き継いだ。

 芭蕉は許六にも期待していたのかもしれないが、許六の六つの長所を挙げたときには「手筋」のことに触れてなかったように、あくまで可能性として考えていただけであろう。

 許六はひょっとしたら底を抜くかもしれないが、今の時点ではまだ無理だということで、「俳諧の底をぬかセん」とこれから指導してそれを引き出せるかどうかと考えたのではなかったかと思う。ただ芭蕉の存命中にそれは実現しなかったし、その後も芭蕉亡き後の俳諧を牽引する力はなかった。

 この頃芭蕉が思い描いてた次なる新風のより深い底は、許六のみならず、支考、惟然をもってしても結局掘り下げることは出来なかった。俳諧は芭蕉を頂点として終った。

 蕪村を中興の祖とすることはできるが、芭蕉を越えるまでには至らなかった。

 子規は芭蕉の延長線上にはいなかった。西洋文学の理念へシフトすることで、俳諧とは別の「俳句」という新ジャンルを作ったと言った方がいい。

 

 「其冬の頃、愚句

 寒菊の隣もありやいけ大根

といふ句せし時、洒堂が句に

 鶏やほだ焼く夜るの火のあかり

と時を同し侍る。

 此両句、翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.93)

 

 「いけ大根」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 ① 畑から引き抜いたままの大根を地中に深くうずめて、翌年の春まで貯蔵し、食用とするもの。いけだいこ。《季・冬》

※俳諧・笈日記(1695)中「寒菊の隣もありやいけ大根〈許六〉」

 

とある。

 冬咲きの菊は寂しげだが、その隣に大根が埋まっていると思えば、その寂しさも紛れるだろうかと、許六の句は「寒菊の隣にいけ大根もありや」の倒置。「や」は疑いの「や」で詠嘆ではない。「も」も力もで並列の「も」ではない。

 冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。こういう手法は何とか今までの風よりも深めようという意欲は感じられるが、全体に印象が薄く決定打にはなっていない。これが元禄六年冬の一つの到達点だったのだろう。

 洒堂の句の「ほだ焼く」は「ほた(榾)」を焼くということか。「ほた」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 ①  囲炉裏や竈かまどでたく薪たきぎ。掘り起こした木の根や樹木の切れはし。ほたぐい。ほたぎ。 [季] 冬。 《 -煙顔をそむけて手で払ふ /池内友次郎 》

 

とある。

 冬の夜明けを告げる鶏のなく頃は、一番冷え込む時間でもある。そこにあるのはわずかな「ほた」を焼く火のみ。寒々とした中にも夜明けがあり、やがてくる春を匂わせる。

 これも当時の一つの到達点だったのだろう。でもやはり何かが足りない。ここに足りないものが何かというところを許六に考えさせたかったのではないかと思う。

 

 「予云、我久敷色々の風を学ぶゆへに、ふるき場。新敷場ハ慥ニおぼゆる也。此場所より外ニ案じ出す所ハなし。然共能句稀なるをなげくといへば、師ノ云、好悪ハ時のよろしきにつくとしめし給へり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.93~94)

 

 許六も今までの色々な風の流行からして、こうした句が新しいのはわかる。ただここよりも更に深くとなると何も思いつかない。ただ、なかなか本当に良い句が生まれてこないのは残念だというと、良し悪しはその時代が決めるものだと答える。結局必要なのは古池の句や猿に小蓑の句のような大衆から知識人までうならせるヒット作だ。

 

 

9、五哥仙ニいたらざる人

 

 「又云ク、愚老が俳諧ハ五哥仙ニいたらざる人、一生涯成就せず、大事也。覚悟せよといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.94)

 

 「五哥仙」は岩波文庫の注に、「『尾張五歌仙』即ち『冬の日』のこと。」とある。

 ただ、このあとの許六の返事からすると、最低でも歌仙を五つは巻かなくてはならない、という意味か。

 

 「予、俳諧、師とする事、全篇慥ニ成就する巻二哥仙、半分ニミてざる巻二ツ、以上四巻也。

 師の云、愚老相手と成て俳諧する事、三・四度也。いつとてもだれだれと俳諧するハ、かやうの物と容易におもふ事なかれ。真ンの俳諧をつたふる時ハ、我骨髄より油を出す。かならずあだにおもふ事なかれと、大きに恩をしめされたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.94)

 

 元禄五年の冬には十月三日許六亭興行の、

 

 けふばかり人も年よれ初時雨  芭蕉

 

の句を発句とする歌仙と、

 

 十二月許六亭興行の、

 

 洗足に客と名の付寒さかな   洒堂

 

を発句とする歌仙と、二つの歌仙に許六は参加している。この二つの歌仙には洒堂も参加している。この他にも満尾しなかった巻が二つあったのか、『校本芭蕉全集』には載ってない。

 この二つの歌仙興行の時、芭蕉は真の俳諧を伝えようと骨髄から油を搾り出すような思いで臨んだということで、許六はこれを大変な恩を受けたと受け止める。

 「骨髄より油を出す」という言い回しだが、骨髄の油を出すのではなく、「骨髄」は比喩で自分の持てるものの真髄を、胡麻や菜種やアブラギリを圧搾して油を搾り出すように、一句一句全力で句を付けている、という意味だろう。

 

 「其正月、予が亡母の七季追悼に到ル。心安き相手求めて、歌仙一巻終ル。成て師ニ呈ス。師これを読て、且ツよろこび且ツ称ス。

 予が云ク、師の流、此歌仙の外ニあらバ、予が俳諧終ニ本意を遂る事あたハじといへば、師の云ク、全ク是也。うたがひ侍る事なかれと、大きに感ゼり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.94~95)

 

 この正月の歌仙は残念ながら『韻塞』には載ってない。ただ、この歌仙を入れれば、ぎりぎり五歌仙になる。

 

 

10、俳諧の底を抜く(二)

 

 「其後三月尽の日より卯月の三・四日まで、予が宅に入て逗留し給ふ。昼夜俳談を聞く。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.95)

 

 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)によれば、二月二十九日からだという。この頃芭蕉は甥の桃印を失い、かなりがっくり来ている頃だった。ただ、それでも俳諧への情熱は失せることはなかった。

 

 「其時翁ノ云、明日衣更也。句あるべし、きかむといへり。

 かしこまつて、三・四句吐出スといへ共、師の本意に叶ハず。

 師の云ク、当時諸門弟並ニ他門、共に俳諧慥ニして畳の上に座し、釘かすがいを以てかたくしめたがるがごとし。これ名人の遊ぶ所にあらず。許子が案ずる所もこれ也。風雅の外に子が得たる芸能を察せよ。

 名人ハあやふき所ニ遊ぶ。俳諧かくのごとし。仕損まじき心あくまであり。是レ下手の心ニして、上手の腸にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.95)

 

 芭蕉は許六にちょうど明日から衣更えだから衣更えの句を詠んでみろという。許六が三・四句詠んだが芭蕉の気に入るものではなかった。

 芭蕉が言うには、蕉門でも他門でも、畳の上に座って釘やかすがいで固定したような句を作るものが多いと。要するにその場で言葉をこねくり回したこしらえものだというわけだ。

 許六が今詠んだ句もその類で、「風雅の外に」、つまり俳諧以外で許六は絵も描けば、漢詩も作る。六芸に通じているから許六の名があると言われているから、そのほかにも音楽や武芸にも通じていたのだろう。

 特に得意だったのが絵だから、ただ筆先で拵えるだけでは良い絵は描けないだろう、もっと筆遣いの勢いとか、大事なものがあるのではないか、というわけだ。

 それは結局、これを表現したいという根本的な初期衝動の不足で、ただ言われたから作っているだけになっている、ということではないかと思う。

 「月並」という言葉も、元は俳書が月刊の定期刊行物になってから、作者は毎月ノルマで句を作らされ、とりあえず作りましたというおざなりな句が多くなったことから来ている。こうした句は、何となく形にはなっているけど、何が言いたいのかよくわからない句が多い。

 「名人ハあやふき所ニ遊ぶ」というのは、今なら「冒険せよ」ということだろう。可もなく不可もない句なんて読んでも面白くない。失敗を恐れずに思い切った表現を試みてみろ、というところだ。

 失敗したらいけないと思うのは「下手の心ニして、上手の腸にあらず」とこのあたりの言葉は迷いがなく心地いい。

 そこで芭蕉も失敗談を持ち出す。

 

 「師が当歳旦ニ

 としどしや猿にきせたる猿の面

といふ句、全ク仕損の句也。ふと歳旦ニ猿の面よかるべしとおもふ心一ツにして、取合たれバ、仕損の句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.95~96)

 

 歳を重ねるというのは、結局猿の顔の上に猿の面を被せるようなもので、変わった様でいて何も変わってない、という自戒の句だが、季語を取りこぼしたという点では仕損じだろう。「としどし」と強引に正月のことだとすればできなくはないが。

 ただ、句としては言いたいことがはっきりとしているし、猿の面のたとえも面白い。決して悪い句ではない。

 これは「洗足に」の巻の、

 

   今はやる単羽織を着つれ立チ

 奉行の鑓に誰もかくるる       芭蕉

 

にしてもそうだと思う。

 今流行の衣装に身を包み、颯爽と若い衆が粋がって歩いていても、いざ粋を極めたお奉行様が来ると、とたんに恥ずかしそうに身を隠そうとする。

 ただ、「誰」の文字は前句の内容そのままだし、これだと登場人物が複数いなくてはいけないから展開が制限される。

 本来の芭蕉なら、ここで案じて直すところだったが、それをしなかったのは多分この句が当座であまりにも受けたからではなかったかと思う。つまり、許六も洒堂も嵐蘭も思わず吹いたのではなかったか。

 細かく見れば失敗だけど、句が面白ければそれも忘れる。それが言いたかったのではないかと思う。

 

 「予が云、名人師の上ニ仕損ジありや。

 答テ云、毎句あり。

 予此一言を聞て、言下に大悟ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.96)

 

 許六のこの言葉は、まあ別に仕損じてもいいではないかという開き直りとして理解したのか、それとも、こまかなミスしないよりももっと大事なことが何なのか理解して「大悟ス」と言ったのか、やや不安が残る。

 

 「おそらくハ向後予が句、仕損の場所ならでハ一句もあるまじ、きき給へと高言を放ツ。

 予あやふきつり合ハさぐりあてたりといへ共、心中仕損まじき心あくまであり。此一言に寄て、仕損ずる所を決定せり。

 于時

 人先に医者の袷や衣がへ

といふ句、即時ニいひ出す。師掌を打て云ク、奇なる哉奇なる哉、是也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.96)

 

 これから仕損ないを恐れない句なんて一句もないぞ、と強がってはみても、やはり仕損じたらどうしようという気持ちは消えない。とりあえず仕損じてもいいという感じで詠んだ句が、

 

 人先に医者の袷や衣がへ

 

だった。一見仕損じた様子はないが。

 人より先に医者の袷(あはせ)が衣更えする。

 「袷」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「裏をつけて仕立てたきもののこと。表と裏との布地の間に空気層をつくって保温効果を高めた。着用時期は単 (ひとえ) と綿入れの中間期。昭和初頭以来一般に綿入れを着用しなくなったが,江戸時代はきものには着る時節の定めがあり,袷は4月1日のころもがえから5月5日の端午の節供前日まで,それ以後は単となり,9月1日から9日の重陽の節供前日まで再び袷を着た。」

 

とある。

 そういうわけで四月一日になると昔は一斉に綿入れから袷に変えたわけだが、医者が「人先に」というのはどういうことだったのか。

 当時の人なら多分すぐ分かる「あるある」だったのだろう。

 仮に医者が三月にフライングして袷を着ていたというなら、衣更の句なのに春の句になり仕損じということになる。それで、芭蕉も仕損じだけど面白いと思って手を打ったということは考えられる。

 

 「俳諧の底、此句にてぬけたり。一言下に大悟するものハあれ共、一言下に句をするものハなしと、感じられたり。

 此句、秀たる句ニあらずといへ共、血脈の正敷所より出て、第一衣更に気をよく付て、人の及ばざる所を感ぜられたり。

 其角ニ語れバ、晋子もよくききつけて、気のよく付たる所を感じ、則句兄弟ニ可入とて書付たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.96~97)

 

 「底をぬく」というのは、いわばタブーに挑戦するという意味だったのかもしれない。たとえば、

 

 霜月や鸛の彳々ならびゐて    荷兮

 辛崎の松は花より朧にて     芭蕉

 

は後に荷兮自身が言うように発句の体ではない。ただ、その常識を破る所が、「底をぬく」だったのかもしれない。それなら、惟然の、

 

 梅の花あかいハあかいハあかいハな 惟然

 

も底をぬいたということか。

 其角も「人先に医者」の句は気に入ったのか、元禄七年刊の『句兄弟』に載ったという。

 

 「人先に医者」の句は、あえて想像するなら、医者は自由業だから、世俗のしきたりに無頓着な所があって、四月一日にならなくても暖かくなったら勝手に袷を引っ張り出して着てたりしたのではなかったかと思う。

 蕉門でも医者は多い。洒堂がそうだし、凡兆、尚白、木節、荷兮、不玉、史邦も医者だ。園女も医者の家に嫁ぎ、自身も目医者だったという。其角の父も医者で、其角自身も医者の修行をしている。去来は医者ではないが父と兄は医者だった。芭蕉の周辺で医者には事欠かない。

 今は大病院などで、ほとんどサラリーマンのような医者もいるが、当時は資格も要らず、占い師のように簡単に開業できる。ただ、成功するにはそれなりの実績と信用が必要だが、話芸やはったりも必要だ。この自由気ままさが俳諧師との親和性を生んでいたのだろう。

 ただ、許六のこの句が本当に瞬時に作ったかどうかはわからない。自分の才能をアピールするための多少の脚色はあったのではないかとおもう。

 たとえば普段からあれこれ俳諧のネタを集めている中で、仕損じになるために没にしていたネタを覚えていて、芭蕉が仕損じでも良いと言ったことで、それを思い出して句にした可能性はある。

 

 

11、血脈(二)

 

 「予此時の意趣を曾てわすれず。間に髪を不入して、今日ニ案じつめたり。

 予が大悟発明するといふ所ハ、去先生の論じ給ふ不易・流行の二ツニハ非ズ。翁の父母より相続し給ふ血脈の所也。

 我あら野・猿ミのの二集を眼にさらし、工夫をつよくめぐらして、昼夜わするる隙なくて、自然に此血脈の端をうかがひ置侍るゆへ、言下に血脈の所を大悟し、俳諧の底を打破て眼のさやをはづす。

 師の血脈を大悟したるものハ、全ク不易・流行の所を不論、一向に血脈を失なハざる所を本意とす。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.96~97)

 

 これまで許六が芭蕉とのことをいろいろ語ってきたのは、結局このことが言いたかったわけだ。

 ただ、血脈については、芭蕉が「人先に医者」の句に対し、「此句、秀たる句ニあらずといへ共、血脈の正敷所より出て」と言ったことが根拠になっているが、芭蕉のどういう意図で「血脈」と言ったかはこれだけではよくわからない。ましてそれを「相続」するというのは、許六の勝手な解釈なのではないかと疑いたくなる。

 ただ、芭蕉がこの頃不易流行を説かなくなっていたのは確かだろう。芭蕉は元来理論家ではない。不易流行にしても『奥の細道』の旅をともにした曾良の影響だろうし、血脈についても体系的な理論はない。ただ、芭蕉が追及したのは人間の本性であり、様々な人情の根底にあるその核のようなものだったのだろう。これは朱子学の言葉を借りれば「性」であり「誠」ということになる。そしてそれが不易だというのも確かだろう。

 去来に不易流行を説いた頃には、蕉風確立期の古典回帰がまだ残っていて、現代の情も古典の情も、その根底にある物が一つなら、それは古典から学べるということだったのだと思う。このことが基と本意本情の重視として去来に伝わったのだと思う。

 許六に教える頃には、芭蕉はこの根源的なものをもはや現代と古典を区別せずに、今日の概念でいえば表現の初期衝動のようなものに至っていたのではなかったかと思う。

 どちらが正しいということではない。ただ目指す所は人間の情の根源ではなかったかと思う。そこに近づくための道筋を変更しただけではないかと思う。

 これは西洋のような肉体に対する精神だとか理性だとかいうものではない。肉体と精神が混然となったような朱子学でいうなら「性理」であり、惜しむのは、芭蕉がここに治世の根底となるような理論を求めなかったことであろう。

 西洋が理性を中心に人権思想を打ち立てたように、東洋では人情の根底にある性理に至ることで、そこから別の思想や政治理念が可能だったかもしれない。今からでもその可能性を考える価値はあると思う。

 

 「血脈備ハつて出生すれバ、目鼻ハ自然ニ出来たり。是不易・流行とわかれて、男と成、女と成るがごとし。

 故ニ先書ニ論じたる、不易・流行を前にをきて句を案ずる事あるまじとハ、如此也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.97)

 

 「血脈」をあくまで人間として本来自然に備わっている「性理」あるいは「誠」だとするなら、この主張は分かる。

 ただ、問題はそこに「継承」という概念を持ち込んで、限られた選ばれた人間だけがそれをできるということになると、それは違うだろう。

 今日の科学から見るなら、血脈は最初の生命の誕生から人類までの進化の過程で獲得したさまざまな欲望、衝動、感情、理性の総体であり、そこに明確な統一性はない。それは進化の過程でそのつど継ぎ足されたものであり、神によってあらかじめ設計されてたわけではないからだ。

 それは混沌としていながらそれでいて緩やかなまとまりを持っている。それは「道」の概念にも通じる。

 一人の人間の個体の中でも緩やかなまとまりしかないものは、大きな社会集団となっても同様、混沌の中に道がある。世界は多様なものの緩やかなまとまりであり、それ以上でも以下でもない。完全なカオスというのもなければ、整然たる統一もない。

 それは誰でも持っているが、誰も完全ではない。

 血脈をこのようなものと考えるなら、それは誰もが生まれながらに継承していて、特定の血筋の者だけが特権を持つわけではない。

 日本の様々な古典芸能に世襲や擬制の世襲が見られ、いわゆる家元が存在し、代々その家のものが権威を持ったりするが、俳諧はそのような家元制が形成されなかった。

 貞門でも貞徳亡きあと、誰かが二代目貞徳を襲名することはなかった。談林でも同じだし蕉門でも同じだ。そこが能や歌舞伎とは違う所だ。

 芭蕉以降となると嵐雪の血脈を継承する三世雪中庵蓼太や、巴人、蕪村、几董の夜半亭三代のようなものが存在する。もちろんそこには実際の血のつながりはなく弟子が擬制として継承している。

 こうした習慣は近代に入ると「俳統」と呼ばれるようになり、誰の弟子であるか、どこの結社に所属しているかが重要になる。ちなみに鈴呂屋こやんは誰の弟子になったこともなく、結社に所属したこともないので俳統は「なし」ということになる。

 俳諧は高度な芸や技術を要するものではなく、幼い頃から教育する必要もない。また、そういう教育を施したからといって面白い句が生まれるわけでもない。そういう意味では俳諧の誠は古代ギリシャでプラトンが論じた「徳」と同様、子孫に継承させることはできない。

 もちろん素質というか筋の良し悪しというのはある程度あるだろう。ただ、それはその人個人のもので、他人に継承させることは出来ない。

 風雅の誠をもって句を作るなら、その句は様々な姿をとっても元は一つであり、不易体、流行体というのがあるのであれば、そういう句もできる。それは別に間違ってはいないだろう。

 

 「是血脈相続の人にてなきしるしに、枝葉の不易・流行にからまされて、元来出生の血脈を失ひたる也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.97~98)

 

 枝葉の不易と流行に惑わされる人は血脈がないのではない。ただ見失っているにすぎない。だから、厳密に言えば「相続の人にてなきしるし」ではない。先祖代々人間として生を授かっている以上、血脈は相続しているのだが、一時的にそれを忘れているだけだ。

 ただし、これは不易体、流行体とわざわざ分けて句を読む方法をいうだけで、どんな句にも不易の面もあれば流行の面もある。それをあとから分類してこれは不易の句、これは流行の句というにすぎない。以前に述べたとおりだ。

 

 「人間生じて後目鼻なくば、人間の用ニハたたず。目鼻拵置て、人間を又作るべしや。

 五臓・五体兼備に寄て、人間成就し出生する也。

 句において、少もかはる事あるましじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.98)

 

 「人間生じて後目鼻なくば」というのは、別に目鼻を病気や事故で失う可能性のことを言っているのではない。それは本来あるべきものが偶然失われているというだけのことで、目鼻のない新種の人類が誕生しているのではない。

 たとえ五体不満足であっても、その遺伝子は五体不満足の子を生むことはない。それは乙武さんが証明している。

 LGBTにしてもべつに男でも女でもない別の性があるのではない。男として生まれ、あるいは女として生まれながら、脳の発達過程で偶発的にさまざまな性的志向が生まれるにすぎない。ゲイのカップルだからといってそこからゲイが生まれてくるわけではない。

 あらかじめ遺伝子の構造が全く異なっているなら、「人間の用ニハたたず」ということになる。サルに人間の目鼻を移植しても人間にはならない。

 ここで許六は不易流行もそのようなもので、元となる血脈が備わらないなら、不易も流行もなく、そこにあとから不易と流行を移植しても意味がないと考える。

 ただ、この喩え自身、不易流行説を説明するのに妥当ではない。

 芭蕉に血脈論があったとしても、血脈から不易・流行の二つの体に分かれるのではない。むしろ不易を深めていった結果として血脈に至るだけで、古典の不易に対して新作の流行を対比するやり方から、古典の底に血脈を見ることができる一方、古典といえども過去の流行にすぎないという所で、古典であろうが新作であろうが、時代を超えた不易を発見することが重要というところに至ったと思われる。

 古典の中にも流行を見、流行の中にも不易を見ることから、古典流行の底に真の不易を見出し、すべてを流行と見定めたのではなかったかと思う。

 同じ人間の遺伝子を持っていても、様々な人種、民族が生まれ、その中でも様々な個性を持つ人間がいて、結局一人として同じ人間はいない。

 それと同じで、古代から現代に至る様々な文学芸術があり、世界を見ればまたそこにさまざまな文学芸術がある。それぞれの文学芸術は流行にすぎないとしても、その根底は結局一つ、同じ人間の遺伝子から発している。

 それなら去来が不易の体、流行の体の句を作ったとしても、去来が人間である以上生まれながらに血脈を供えているのだから、何ら問題はないはずだ。一体何が問題なのだろうか。

 許六は結局血脈を二重の意味で用いてダブルスタンダードにしている。

 一方で血脈は人類普遍のものでありながら、一方では師匠から弟子へと継承される一種の家元の継承と見ている。

 句作一般を論じる時は前者で血脈を用い、自分と去来との違いを言うときには後者の意味で用いている。

 

 「先書ニ云ク、不易・流行を貴トせず共いへり。又何ゾいやしとせざらんや。

 不易・流行とわかれざる以前に、妙句あるまじき事ニあらずといひたるハ、血脈の正シキ所をさしていふ也。以前といふハ血脈の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.98)

 

 芭蕉が不易流行を言わなくなったからといっても、それは不易流行を賤しいと思ったからではないのは言うまでもない。

 「不易・流行とわかれざる以前」というのは、不易流行説が立てられ、不易体と流行体が意識して区別されるようになる以前という意味なら正しい。しかし明確に意識されてなくても、似たような発想は昔もあったかもしれない。

 それは正岡子規が写生説を説く以前に写生はなかったかというと、意識されてなかったというだけで写生的な句は存在する。それと同じだ。

 ただ、ひとたび写生説が立てられると、以前には存在しなかった写生説の価値観によって古典の句の良し悪しが判断されるばかりか、写生でなかった句までが強引に写生と解釈されてしまうことになる。これは法の遡及のようなものだ。

 万葉集や蕉門の俳諧を写生説で読解し価値判断をするのは、写生説が事後法であり遡及法であるという点で問題がある。

 不易流行説をそのような遡及法として過去の作品に用いるなら、確かにそれは正しくない。ただ、去来は決してそのようなことを行ってない。許六の作った藁人形だ。

 「血脈の正シキ所」は不易と言ってもいい。

 

 

12、不易としての血脈

 

 「万葉の風、後ニ用ひずといへ共、血脈ハ万葉より継たる故に、古今集といふ物ハ出生したり。

 風ハ枝葉也。是古今の変有てかハる事慥也。

 段々血脈の動ぜざる所を相続したるに寄て、今日の翁の血脈を継で、各や我々にハ教へ給へり。

 風ハ此已後いくばくの変もあらん。予が論ハ全ク血脈の所を申也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.98)

 

 万葉の風は、この半世紀ぐらい後になると国学が起こり、復古万葉調が生じてくる。この流れは近代にも受け継がれてゆく。ただ、古今集の時代から芭蕉の時代に至るまで用いられなかった。

 古今集は万葉集と風は異なるが、風は「枝葉」であり、血脈は継承されている。万葉調、古今調は「風」であるが故に、不易流行説からすれば、血脈を不易、それぞれの風を流行と見る事もできよう。

 そこから芭蕉に至るまで、王朝の和歌から連歌へ、連歌から俳諧への流れもまた、風や形式は変わっても血脈は継承されている。それは伝統であるとともに、人間の普遍的な根本から生じる歌であれば、血脈は自ずと継承される。

 それは今日のジャパンクールに至るまで、血脈は途絶えていない。ただ、西洋的な理性から発せられる近代俳句は、果してこの血脈の上にあるのかどうかという問題はある。人間の根源的な欲望、感情、衝動などの混沌としたところから発せられるのではなく、むしろそれらをコントロールする所の理性から発せられる文学は、むしろそれを抑制ところに成り立っている側面がある。それが今日の世界的に広まる大衆文化と純粋芸術の境目になっている。

 西洋流の批評家は大衆文学を純粋芸術に高めたいようだが、そこで批評がが評価したものは必ずしも大衆的に浸透せず、大衆に大人気なものに批評家がそっぽを向くという現象が起こる。西洋流の芸術は血脈によるのではなく、血脈をコントロールする理性に発する。

 

 「近年血脈相続の句見えず。故ニ秀逸なしといへる也。

 先生の論ハ、一代の秀逸の事をいへり。和歌など猶以、一代の秀逸多クハなしときき侍る。

 しかれ共一代の秀逸といふにも其人によるべし。

 たとへバ予が為に秀逸ニあらずとて捨たる句、又予より遥におとりたる人の句にゆづれバ、其人の為にハ一代の秀逸ニ成るに似たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 

 人間が作る句であれば、基本的には血脈を備えているわけだが、それでも血脈相続がないというのはどういうことか。それは西洋の芸術が血脈より出るのではなく、それをコントロールする理性の伝統に立脚するように、芸術はその時代、その民族の文化によって様々な社会的制約を受ける。

 いわば、純粋に人々の感動に訴えるものではなく、理論や道徳や権力によってある種のものは禁止されたり、不当に価値を貶められたりする。

 この価値体系によって、同じ血脈から生まれているにもかかわらず、国や時代によって独特な「風」が生じているのではないかと思う。芸術に対して権力側の価値観が強く反映されればされるほど、血脈は失われる。自由な創作が続けられる時は作品は本来の血脈に戻る。

 「近年血脈相続の句見えず」というのであれば、俳諧が庶民の自由な判断でその価値が評価されず、選者の権威がものをいう状態になっているということが考えられる。ある意味蕉門があまりに巨大になりすぎたため、選者が権威になってしまい、庶民の嗜好が反映されにくくなったのかもしれない。

 「先生の論ハ、一代の秀逸の事をいへり」というのは、基本的に芭蕉が説いたのは自分の生きている時代の俳諧のことで、季吟のような古典の研究者ではなかったということだ。

 「和歌など猶以、一代の秀逸多クハなしときき侍る」というのは、一つには古今の時代といい新古今の時代といい、現存する作品が絶対的に少ないということもある。

 「秀逸といふにも其人によるべし」というのは、同じ血脈とはいえ人間の遺伝子は多様であり、さらには生まれや育ち、職業立場の違いなど社会的な多様性も加わり、脳の回路の形成や眼や耳の見え方聞こえ方の違いなど様々な要因で、同じ芸術作品でも人それぞれみんな感じ方が違う。誰でも自分にとっての秀逸があり、他人の秀逸も必ずしも自分にとって価値を持つとは限らない。趣味の多様性は江戸時代の大衆の間にすでに形成されていた。

 芭蕉が当時の俳諧の頂点に立ったとはいえ、貞門ファンも大阪談林のファンも根強く存在していた。また俳諧より歌舞伎や浄瑠璃だという人たちもいた。

 

 

13、幻の集『笈の小文』(二)

 

 「翁ノ笈の小文に書れらるる句、それハ一生一代の秀逸の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 

 芭蕉が目に留めた秀句を書き付けたという「笈の小文」は未だその存在が確認されていない。今日『笈の小文』と呼ばれている紀行文のことではない。

 ただ、『去来抄』「先師評」の「岩鼻や」の句のところに、

 

 「去来曰、笈の小文集は先師自撰の集也。名をききていまだ書を見ず。定て原稿半にて遷化ましましけり。此時予申しけるハ予がほ句幾句か御集に入侍るやと窺ふ。先師曰、我が門人、笈の小文に入句、三句持たるものはまれならん。汝過分の事をいへりと也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,18~19)

 

とあり、少なくとも去来・許六と複数の人がその存在を証言している。

 

 「只人の口ニ申觸るる程の句さへ、此ごろハなし。

 これハしるもしらぬも、不易不易といへる故に、あやうき場所をわすれたりと察ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 

 俳諧の衰退はもちろんそんな単純なものではない。

 一つには江戸庶民の娯楽の多様化ということもあっただろう。

 それとともに、かつて寺社などで盛大に興行された百韻の時代から、もっぱら個人宅に引き籠っての歌仙興行に変わっていったことも、俳諧を多くの不特定多数の人の参加の出来ない閉鎖的なものにし、世間の価値観と遊離する原因になったのではないかと思われる。

 そういう中で「不易」という言葉は世間から遊離した独特な価値観を表すのに便利な言葉になっていったのかもしれない。近代俳句も俳句をやってる人にしかわからない独自な価値観に凝り固まって既に久しい。

 ある意味で江戸中期になって俳諧を世間の価値観に引き戻したのは、柄井川柳の川柳点だったのかもしれない。

 許六も確かに談林の影響を受けた時代が長かっただけに、世俗的なネタをたくさん持っていて、それが「十団子」の句や、

 

 行年や多賀造宮の訴詔人     許六

 人先に医者の袷や衣がへ     同

 

といった句を生んだといえよう。芭蕉が求めたのはそこでもあった。

 

 

14、血脈の相続

 

 「一年の秀逸、一月の秀逸あるべき事也。是ハ血脈の慥ニ相続の上の事を、予ハ秀逸と云也。

 俳諧の眼共、又ハほそミ共、影共いふ也。少づつハいひかハりもあるべけれ共、畢竟ハ血脈第一の上也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 

 「眼」は眼目のことか。眼目は今日の俳句でもよく使われる。「影」はよくわからない。「眼」にしても「影」にしても用例を探す必要がある。

 「ほそみ」は『去来抄』にあり、「さび」「しほり」とともによく知られている。

 血脈はこれらの根底にあるという。ただ、それは風雅の誠のような普遍的なものでありながら、同時に相続されるという両面を持つ。

 

 「言葉のかざりニて、ほそミ・しほりなどいふて、益なき事を付がる事を、先書にハしるし侍る也。元来血脈のなき句の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99~100)

 

 「先書」は、

 

 「近年湖南・京師の門弟、不易流行の二ッにまよひ、さび・しほりにくらまされて、真のはいかいをとりうつしなひたるといはんか。たまたま同門にたいして句を論ずるに、ことばのつづき、さびを付けざればよしのといはず。一句のふり、しほりめかぬはかつて句とせず。これ船をきざみ、琴柱(ことぢ)に膠(にかは)するの類ならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35~36)

 

のことであろう。

 

 さて、許六の血脈論の限界は大体見えてきたと思う。

 それは一方で血脈が人間として自然に備わっているものであるとともに、一方では師匠から継承されるものという二重の意味を持っているところにある。

 後者には自分が師匠である芭蕉に選ばれた限られた血脈の継承者であるというエリート意識以外に何もない。

 自分には血脈が備わっているが、他の人はなぜ血脈を失っているか、その答えとして「不易流行に迷い」ということが繰り返し提起されている。

 不易流行がすべての悪の権化であり、不易流行から遁れれば魔法のように名句が次々と生まれるかというと、もちろんそんなことはない。ならば許六自身はどうなのかということになる。

 仮に血脈が奪われることがあるとすれば、それは人間の持つ本来の性をゆがめるような暴力装置が存在する時に限られるだろう。

 いつの時代でもどこの国でも、すべて自由に表現することが許されているわけではない。そこには常に権力によって禁止されている表現が存在し、それを正当化するための様々な理論というかイデオロギーが存在している。そしてこうした理論はしばしば権威と見なされ、表現全体に圧力を掛けている。

 不易流行説にはそんな権威は存在しないし、もちろんそれに従わなかったからといって暴力装置が作動することもない。それは一つの仮説にすぎず、芭蕉が終生行ってきた試行錯誤の一つの過程にすぎない。

 人間の真実は未だ言葉にならず、すべての理論はその近似値を目指して試行錯誤を繰り返しているにすぎない。

 理論はあくまで理論であり、それにあまりに杓子定規に拘泥すれば、確かに創作を不自由な折に閉じ込めることになる。ただ、当時の不易流行説がそれほどの大きな力を持っていたかどうかは疑問だ。

 

 「横にこけ、竪ニひづミたり共、血脈さへあらバ、是上手の句也。

 近年の句ハ、よし共あしし共、一向にかたづき侍らぬゆへに、秀逸見度とハいふ事也。

 前ニいふ所のあやうき場所をしらず、あくまでいひ損ぜぬ心より出来る句共なれバ、よし共又あしし共かたつかず。

 此論ハ雑俳の事にあらず、芭門骨切の弟子共の上也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100)

 

 理屈に囚われていては良い句を作れないというのはもっともな話で、それに異論はない。

 失敗を恐れ、冒険をしないなら、当然ながら進歩もない。

 ただ、ならば後に惟然が超軽みの冒険に打って出た時、許六は何をしていたかということにもなる。

 

 「一向に初心のともがらにハ、おもひ切ていひ出す所あれバ、天然まぐれあたりにいひ出す事も千に一ツもあり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100)

 

 血脈が誰にでも自然に備わっていて、それを自然に言い出すなら、それは「まぐれ」ではあるまい。「まぐれ」というのは血脈を継承しなくてはいけないものだと思っているからだ。

 実際、素人の句がそんなに面白くないのは、素人ほど常識に囚われて、こうでなくてはいけない、こうでなくてはプロに笑われると思うからだ。それは素人であることの自信のなさだ。

 

 「血脈正しからざる人達チ人々、不易を心懸ヶ侍るゆへに、あやうき場所の句、闇に夜の明たるごときの句、曽てなし。俳諧根本の滑稽少し。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100)

 

 この場合の「不易」も、常識に縛られて無難な句を詠もうとし、冒険を恐れるという意味であろう。

 近代俳句も昭和の頃までは様々な冒険が試みられたが、今はその焼き直しすら見当たらない。五七五で季語が入っていればという所でとりあえず納得しているような句が多い。昔のような無季題や自由率すらも影を潜めている。

 サラリーマン川柳なんかを見ても、日本にあれだけのお笑い芸人がいて、日々様々な刺激的な笑いを供給しているというのに、その影響を何ら受けることなく何であんな退屈な親父ギャクばかりを繰り返しているのかは永遠の謎だ。どこか川柳はこういうものという常識があるのだろう。

 

 

15、路通・洒堂

 

 「路通ごときのもの成共、急度俳諧を正敷あらため、血脈ノ句いひ出さば、三神をかけて予一番に門弟と成ル志也。

 路通一生涯の行跡の事ハ、予少も心にかけず。予が仁義の師となさば、似せる嘲りもあるべし。

 俳諧ニおいてハ、門前にたたずむ乞食成共、一芸のすぐれたる所を見出さば、何ぞ憚る所あらんや。千里を遠しせず、行て師とし尊トバむ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100~101)

 

 路通の句に血脈がないというのは何をもって言っているのか。根拠は示されてないし、示すことはできないだろう。自分を基準にすれば、自分と異なる才能は自分の血脈ではない。それだけのことだ。

 許六が路通を嫌っているのは嫉妬ではないかと思う。藩の家老まで務めた我が身が芭蕉になかなか会うことすら出来なかったのに、乞食坊主の分際で古くから芭蕉にぺったりくっついている。それだけでも憎むのに十分だ。

 それに加えて、いわゆる乞食坊主に対する差別の感情も否定できないだろう。乞食坊主が乞食坊主らしく生きていればまだ怒りも込み上げないが、それが芭蕉の高弟のような顔しているから余計憎いに違いない。

 ただ、その本音はあくまで隠し、「血脈ノ句いひ出さば、三神をかけて予一番に門弟と成ル」何ていっているが、血脈の匂いを出しても全力でそれを否定する理屈をこしらえるに違いない。

 「行跡の事ハ、予少も心にかけず」と言うが、本当だろうか。

 

 「路通・洒堂ごときの者、一生の行跡嘸々乱随ならん。是少も予が障に成事ニ非ズ。

 此路通といふ者を見るに、俳諧も乱随也。一ツとしてとる所なし。

 しかれ共、先生ハ急度路通・洒堂のごときの者をにらミ、法を正敷し給ふ事、尤至極也。

 先生法をミだり給ふ時ハ、末々の門人猶ミだりに成て法を失ひ侍るべし。

 湖南の門人、洒堂を本のごとくに用ひ給ふ事、翁存命ニおいてハ、湖南の衆かくハちなみ給ふ事成まじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.101)

 

 「随」は従うことをいう。「乱随」となると、乱れたままにしておくこと、勝手気ままにふるまうことをいう。自由は誰もが求めるものだが、家老職の窮屈な生活を強いられてきた許六には、嫉妬の対象以外ではなかったのだろう。

 路通・洒堂に限らず、其角・惟然など、許六はこういう自由に生きている人間が癪に触ってしょうがなかったのだろう。

 洒堂は之道との確執があり、芭蕉の最後の大阪行きの時、二人を仲直りさせようとしたが不調に終った。洒堂も相当に一癖も二癖もある人物だったのだろう。ただ、芭蕉はその才能を認めていた。

 「医者の袷」の句は許六にとっては単なるネタ以上に揶揄する気持ちがあったのかもしれない。

 路通の場合、許六だけでなく他の門人とも確執があったが、これは単に素行の問題だけでなく出自の問題があった可能性がある。つまり被差別民だったのではなかったか。以前筆者も冗談で路通サンカ説があれば面白いとか言ったが、路通の嫌われ方や信用のなさは差別と関係があると考えた方が説明しやすい。

 「斎部」という失われた「姓」で呼ばれていたあたりも、その関係なのかもしれない。古代から続く斎部氏の末裔というところに、特殊な家柄という意識を持っていたのだろう。

 何で『奥の細道』の同行者が急遽曾良に変わったかについても、芭蕉や其角は気にしてなくても、やはり気にする門人が多かったのだろう。

 もちろん、曾良は学者として広範な人脈を持っていて、旅にそれが役に立つというのも大事だったが。後に桃隣が「舞都遲登理」の旅をしたときに同じようなところへ行きながら会う人や待遇の違いがあり、そのあたりでは曾良の力が大きかったのではないかと思う。

 

 

16、血脈は案じ所か

 

 「一、惣じて句の案じ所と申ハ、翁の案じ給ふ所も、予が今日案ずる所も、全ク場所少もかはる事なし。師の句ハ徳に寄て合点せぬながら感ズ。眼ゆがみ、心俗に落たる故に、門人の句ハ名句あれ共とらず。返て嘲る人など、まれまれ多し。

 予云、師ハ五十年来の労をへて、名人とハ成給ひぬ。予ハ今日初ての眼なれば、功をへ、月日を重る時、少もかはる子細なし。返て師より遙に増り名人とハ成べし。

 子細ハ、師といふ人、伊賀山中より出て、師一代の名人也。予ハ師の名人の門弟と成て、師一代の工夫を労せずして胸中にたたミ、又予が一代の名人と都合する時ハ、一重秀たる名人とハ成べし。中々おとるものにハあらず。

 我六年以前に血脈を継ぎ、三神をかけて師の眼前において大悟発明ス。俳諧の底を破て自由を得たり。自賛の言葉也とにくむ人もあるべし。和歌三神を入て自賛といふ心なし。翁の流の俳諧においてハ血脈相続の門弟也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.101~102)

 

 ここで血脈を「案じ所」と結びつけるところから、許六の言う血脈は芭蕉との発想の類似によっているように思える。

 芭蕉が不易を学んだのは、貞門時代からの古典の学習と無関係ではなく、古典の中に本意本情を探ることで、何が時代を越えて不変なのかを学んできたのだと思う。そしてそれが身についているから、流行の題材を用いても古典の不易の情が具わる。

 それを『奥の細道』の旅の途中、曾良との対話の中でまとめ上げたのが、去来にも語った不易流行説だったと思われる。

 ただ、芭蕉はそれに飽き足らず、それを越えて行こうとしたときに、古典にとらわれない人間の持つ普遍的な初期衝動の発露を求めたのではないかと思う。

 許六にはその可能性があった。ただ、許六だけでなく支考や惟然にもその可能性を感じていたに違いない。路通はそれに比べるとまだ古典の素養の影響が強く、蕉風確立期の風をなかなか抜け出せなかった。

 ただ、芭蕉はその初期衝動を表す言葉を知らず、許六の使った「血脈」という言葉を使って、これからの俳諧の元になるものを解こうとしたのではなかったかと思う。

 そう考えると、五十年来の芭蕉の到達点を、許六はその五十年の芭蕉の紆余曲折を経ずして教わったわけだ。ただ、それは「血脈」という曖昧な言葉にすぎず、どうにでも解釈できた。そこの行き違いが、許六にやや誇大妄想をもたらしてしまったのではないか。

 芭蕉が長年かけて古典から学んできた不易は、許六からは完全に抜け落ちてしまった。ただ、何となく感覚的にこういう発想が不易なんだろうと捉えるだけだった。それが不易は血脈であり、直感的に身についているもので、議論不要ということになってしまった。

 

 

17、不易は自明

 

 「一、不易流行をいはば、不易ハかくれたる所なき故ニ不易也。流行の姿ハ、月々年々にかはる。発句においてハ、少紛るる味あり。故ニ付句ニして爰ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103)

 

 まず「不易」についての議論は「かくれたる所なき」、つまり自明ということにして、基本的には流行についての議論に入る。

 

 「一、前句有て、さざゐの壺いりといふ事よきところならバ、むかし作り出し侍る時ハ、やうやうと、

 つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼

など作れり。中ごろ句を尋ねこしらへたつ時、

 にがやきのさざゐにふたのひつ付て

 にが焼のさざゐを横に喰付て

な作れり。当時江戸表五句付点取の俳諧ハ、今に此場所にすハれり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103)

 

 「さざゐの壺いり」は今で言う「さざえの壺焼き」だが、当時は「壺炒り」と言っていたようだ。

 『去来抄』「同門評」にある、

 

 行ずして見五湖いりがきの音をきく   素堂

 

の句の「いりがき」も牡蠣を鍋の上で焼いたもので、がらがらと大きな音を立てる。

 コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 「[動ラ五(四)]火にかけて、水気がなくなるまで煮つめる。また、鍋などに入れて火であぶる。「豆を―・る」

 [補説]「煎」は火で熱し焦がす、「炒」は鍋などで熱し焦がす、油でいためる、「熬」は焦がす、煮つめる意とするが、明確には使い分けにくい。

 [可能]いれる」

 

とある。

 さざえの壺焼きを「壺炒り」と言っていたのは、この頃は鍋で焼いていたからかもしれない。今でも家庭ではフライパンで焼くことはあるが、アウトドアや店では網の上に乗せて焼くことが多い。

 網の上だとさざえの殻の突起がちょうどよくさざえ本体を安定させてくれるが、鍋やフライパンだとなかなか安定しない。それが、

 

 つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼

 

だと思う。さざえの壺炒りあるあるだ。

 もう一句の、

 

 にがやきのさざゐにふたのひつ付て

 

 だが、「壺炒り」は「にがやき」とも言ったのか、これはよくわからない。おそらく苦味の強い内臓部分を取らずに丸ごと焼くからだろう。先に殻から中身を取り出し、内臓を取ってから焼けば苦くはないが、酒飲みとしてはその苦味が良いというところもある。

 殻ごとそのまま焼くと、蓋がくっついてなかなか取れない。バーベキューでさざえを焼いたりすると、けっこう中身を取り出すのに苦労する。これもさざえの壺炒りあるあるだ。

 

 にが焼のさざゐを横に喰付て

 

 これもさざえの壺炒りあるあるで、さざえの身を殻から引っ張り出した時に先が殻にくっついてなかなか完全に抜けない時に、口の方からお迎えに行ってしまう、その仕草のことであろう。

 「江戸表五句付点取」というのは、許六が其角のもとを尋ねた時の点取り俳諧のことだろう。おそらく、一巻全部だとなかなか大変だからというので、入門向けに表六句だけ、つまり発句をお題として与え、それに脇、第三、四句目、五句目、六句目を付けて表六句を仕上げる俳諧ではないかと思う。

 

 「此拵へたる事をにくミ給ひて、炭俵・別座敷ニ場をふミ破て、

 さざゐを振てひたと吸ハるる

とおどり出られたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103~104)

 

 さざえがうまく座らないだとか、蓋が引っ付いて取れないだとか、口の方からお迎えに行くだとか、確かにあるあるネタとして面白いが、これくらいは誰でも最初に思いつきそうなことで、同じネタを何度も繰り返すわけにも行かない。

 そこで『炭俵』『別座敷』あたりの風になると、特に珍しくもない単に身を取り出して口に運ぶ仕草を「さざゐを振てひたと吸ハるる」と巧に描写して見るようになる。

 これは許六の理解していた炭俵調の特徴のようだが、たとえば「梅が香に」の巻の、

 

   娘を堅う人にあはせぬ

 奈良がよひおなじつらなる細基手 野坡

 

のように、単純に行くと「そろいもそろい細基手」とかなりそうなところに、「おなじつらなる」でふっと絵が浮かぶようにする工夫のことをいうのかもしれない。

 

   終宵尼の持病を押へける

 こんにゃくばかりのこる名月  芭蕉

 

の句も。看病している間にご馳走がなくなるというネタを「こんにゃくばかりのこる」というマイナー・イメージを使って一工夫している。

 同じあるあるネタでも、蕉風は点取り俳諧の一歩上を行くというのは、こういうところだろう。今のサラリーマン川柳に欠けているのもこういうところかもしれない。

 

 「是予が生たる国也。其後師上洛し、伊賀にこもりて後猿とかや撰し給ふときく。さざゐのうまミをぬきて、遺経の俳諧を残せりときけ共、板に出ざれバしらず。予ハ独り流行して、

 火鉢の焼火に並ぶ壺煎

といふ処に遊ぶ。雉子かまぼこを焼たる跡ハ、かならず一献を待。

 にがやきのさざゐに、青ぐしをさして並べたるを、直に見るがごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.104)

 

 元禄五年から六年に許六が江戸で芭蕉に会い、指導を受けた後、許六は彦根に戻る。

 翌元禄七年、芭蕉も五月に江戸を離れ伊賀に戻る。そのあと滋賀、京を廻り、大阪で最期を迎える。この頃『続猿蓑』の編纂が始まるが完成を見ず、支考が跡を継ぎ、元禄十一年に刊行されるが、この『俳諧問答』が書かれた頃はまだ刊行されてなかった。

 この新風を許六は「さざゐのうまミをぬきて」と、さざえの美味しさを直接食べる仕草であらわすのではなく、と解釈したのだろう。

 

 火鉢の焼火に並ぶ壺煎

 

 「焼火」は「をさ」と読むらしい。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」の「をさ(筬)」だと、

 

 「機織(はたお)りの道具の一つ。細く薄い竹片を櫛(くし)の歯のように長方形の枠に並べ入れたもの。縦糸をその目に通し、横糸を織り込むごとに動かして織り目を密に整える。」

 

だが、火鉢の上に置く網もそう呼ばれていたのか。

 近代の火鉢は陶器の丸いものが多いが、かつては外側の木で出来た角火鉢や長火鉢があった。その上に五徳を乗せて薬缶や鍋をかけたりしたが、物を焼くときの鉄灸で四角くて横棒がなければ筬に似てなくもない。

 雉子やかまぼこを焼いたあとには、さざえの壺焼きも焼いたというが、それは許六さんのような裕福な家のことかも知れない。

 

 「かるきといふハ、発句も付句も求めずして直に見るごときをいふ也。

 言葉の容易なる、趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚き所より出て、一句の上に自然ある事をいふ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.104)

 

 芭蕉が軽みに至る過程では、出典に頼った趣向からの脱却が重要だったが、それによってより直接的な表現が可能になったのも確かだ。

 それはたとえば延宝四年の、

 

   森の下風木の葉六ぱう

 真葛原ふまれてはふて逃にけり    信章

 

と、元禄五年の、

 

   今はやる単羽織を着つれ立チ

 奉行の鑓に誰もかくるる       芭蕉

 

の違いと言ってもいいだろう。

 「六法者」というチンピラ集団があわてて逃げてゆく様子を、延宝の頃は「森の下風木の葉」「真葛原ふまれて」と古典のパロディーの言葉で表わしたが、元禄五年の流行の単羽織で粋がってる連中が逃げてゆくのに、もはやこういう古典の引用は必要としない。ごく自然に「奉行の鑓に誰もかくるる」と、それでいて絵が浮かぶような表現が可能になっている。

 これは江戸上方などの大都市での共通語の形成と関わるもので、延宝の頃は確かに古典や謡曲の言葉を引いてくる必要があったのだろう。古典から独立して庶民の言葉が独自の意味空間を作り出したという所で、芭蕉の軽みも可能になったのではないかと思う。それは俳書が多くの人に読まれて行くうちに、俳諧の言葉が共通語になって行ったということではないかと思う。

 出典なしにもっと日常的な言葉で、的確の多くの人に絵が浮かぶような表現が可能になったということが「軽み」であり、単に簡単な言葉を使っているだとか、趣向が軽いということをいうのではない。

 

 病雁の夜寒に落ちて旅寝哉      芭蕉

 

の句の「病雁」も古典からの借用ではなく、飛来する雁から独自なイメージを作り出した点で、趣向としては重いけど「軽み」の句となる。

 

 

18、軽み

 

 「仏壇の障子につきのさしかかり

  行水の背中をてらす夏の月

  鷹場の上を雁渡るなり

 などいへる事の類、是レかるきといふ物也。

 玄梅が集に、四畳半の巻といふ俳諧あり。是後猿の趣と見えて、あまみをぬきたる俳諧也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.105)

 

 「仏壇の」の句は元禄七年六月二十一日大津木節庵での興行、

 

 秋ちかき心の寄や四畳半       芭蕉

 

を発句とする歌仙の十一句目で、前句を加えると、

 

   うぢうぢ蚤のせせるひとりね

 仏壇の障子に月のさしかかり     惟然

 

となる。玄梅編の『鳥の道』(元禄十年)に収録されている。芭蕉、木節、惟然、支考の四吟で、確かに続猿蓑の頃の風だ。

 この巻は以前にこの俳話の中で読んだので、そのとき書いたことを繰り返しておこう。

 

 「仏壇は元禄の頃から今のような豪華なものが作られるようになったという。ただ、こうした仏殿に障子はないので、仏壇の置かれている仏間の障子ではないかと思う。

 大きな屋敷であれば仏間は家の奥にあるが、蚤に刺されながら一人寝するような小さな家では、仏間の障子にまで月の光が差し込んでくる。

 当時の仏壇や位牌の庶民への普及を詠んだ釈教の句といえよう。それ以前は持仏を厨子に入れて安置していた。」

 

 「行水の」の句は不明。これまでの研究者が見つけられなかったのだから、今筆者がつけ刃で探しても見つかるものではなかろう。現存してない巻のものか。月明かりの裸の背中は艶な感じのする句だ。

 「鷹場の上を」の句は、李由・許六撰の『韻塞(ゐんふたぎ)』の中の、

 

 雌を見かへる鶏のさむさ哉      木導

 

を発句とする木導、朱㣙、許六の三吟の六句目にある。前句を付けて表記すると、

 

   暮切て灯とぼすまでの薄月よ

 鷹場の上を雁わたる也        許六

 

となる。「薄月」は薄雲にぼんやりと見える月のことで、春は朧月、秋は薄月となる。

 日が暮れて灯りを灯す頃のぼんやりした薄月夜には、鷹狩りをする場所でも鷹狩りは終り、空には悠然と雁が飛ぶ。

 この句は月に雁という古い付け合いによる物付けで、景色の描写では新味はあるものの、果して「軽み」の代表とするにふさわしいかどうかは微妙だ。

 月に雁は『古今集』に、

 

   題しらず

 白雲にはねうちかはし飛ぶかりの

     かずさへ見ゆる秋の夜の月

               よみ人しらず

 

の歌がある。

 

 もともと言語(ラング)というのは存在しない。無数の発話(パロール)の積み重ねが共通の記憶を形作ったとき、それがあたかも個々の発話を超えた言語(ラング)が存在するかのような幻想を与える。

 だからどこの国でも言葉はその発話の範囲で独自に発展し、方言やスラングが形成されるし、むしろその方言やスラングや業界言葉の複雑に共存する状態こそが言語の本来の姿だった。

 近代化以前の社会では世界中がそのような状態だったと思う。

 その中で地域や職業や階級を越えた共通語はというと、芸能の言葉だった。

 芸能は旅芸人によって地域を越えて広がり、その言葉をいろいろな地域の人が覚え真似する。そこから共通の言語が生まれる。

 中世の共通語とされた雅語は八代集の和歌の言葉だし、中世の末期から江戸時代にかけては謡曲の言葉も共通語となった。明治の初めでも田舎から出てきた人が会話する時に謡曲の言葉を使ったと言われる。

 貞門の俳諧は雅語を基調としていたし、談林の俳諧は謡曲の言葉が多用された。そこでひとたび俳諧が全国規模で流行すると、今度は俳諧の言葉が共通語として通用するようになってくる。「軽み」は本来そうした共通言語の革命だったのではないかと思う。

 近代に入ると国家が国語を定め、学校教育を通じてそれを普及させるようになる。ただ、実際にはその標準語はほとんど文語化している。

 実際に庶民が話す言葉は、明治の頃には落語や講談の言葉だっただろうし、戦後になってもテレビやラジオで芸人の語る日本語が共通語となっている。さらにはJ-popの詞や映画や漫画やアニメの言葉も共通語の一部となり、最近ではネットの言葉も影響を与えるようになっている。

 それに対し、文科省の定める標準語は教科書に書いてある文語にすぎない。実際に標準語で会話をする人は皆無だ。

 芭蕉はこうした言語の性質をある程度自覚していたのではないかと思う。ただ、門人はなかなかそれについていけなかったか、許六の「軽み」の理解も表面を撫でた感じがする。

 

 

19、許六の限界

 

 「又精進などいふ事を句作りニせば、むかしハ、

 月に二日は親の精進日

 只精進日ハかたつまりけり

などせし。これあたらしく俳諧といふ事なし。

 ふるひから次第に上る精進日

といふこそ、あたらしけれ。又あたらしミといふハ、

 祖父祖母の精進ハ間にまびかれて

トいふこそ、あたらしミと申侍れ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.105~106)

 

 「精進日」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「祖先の忌日など、精進をすべき一定の日。斎日。」

 

とある。

 「月に二日は親の精進日」はいわゆる月命日で、weblio辞書の「実用日本語表現辞典」に、

 

 「ある人が亡くなった日付の毎月の呼び名。「命日」とはある人が亡くなったその日の事であり、年に1回であるが、「月命日」は命日を除き1年に11回ある。」

 

とある。

 「只精進日ハかたつまりけり」の「かたつまり」は肩が凝るということか。

 いずれもそのまんまを述べただけで、

 

 つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼

 にがやきのさざゐにふたのひつ付て

 

と共通している。

 これに対し、

 

 ふるひから次第に上る精進日

 

 「ふるひ」は「経る日」で「ふるとし」が去年を意味するように「昨日」のことか。前日になってようやく、普段は忘れていて、前日になって明日は命日だと意識する。あるあるだ。

 こうしたあるあるは炭俵の体といってもいいもかもしれない。

 

 祖父祖母の精進ハ間にまびかれて

 

親が亡くなると祖父や祖母の精進日は忘れ去られがちになる。これもあるあるネタといっていいだろう。

 残念なのは許六が、

 

   喧嘩のさたもむざとせられぬ

 大せつな日が二日有暮の鐘     芭蕉

 

の句を知らなかったことだ。元禄七年九月の『猿蓑に』の巻のニ十三句目だが、この一巻は『続猿蓑』所収であるため、許六がこれを知るのは一年後のことだ。

 「精進」や「精進日」という言葉を直接出さずに「大切な日」で匂わせる匂い付けの句だ。

 

 「『精進ハあいに落ちられて』など云句ならバ、是むかしの句にかはる事なし。あたらしミといふハ是なり。

 明日・明後日流行尽る事なく、沢山にとめり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.106)

 

 祖父祖母の精進ハ間にまびかれて

 祖父祖母の精進ハ間に落ちられて

 

 許六はこの違いが昔の句と新味の句を分けると言うが、あくまで言葉の新しさにすぎないように思う。それも今となってはどちらも大昔の句なのでその差はよくわからない。

 それに較べると、芭蕉の「大せつな日が」の句は情がこもっている。ラッドウィンプス(Radwimps)の歌にも「胸に優しき母の声、背中に強き父の教え」とあるが、そんなものを思い起こし喧嘩はやめなければと改心するのは、単なる精進日あるあるで笑いを取ろうというのとは違う。

 許六の不易流行論は、繰り返しになるが、不易は一方で人間誰しも自然に備わるもので、それは「かくれたる所なき」つまり自明なものとして議論はされていない。

 その一方でそれは血脈として師匠から継承するものとされている。

 この血脈の考え方は近代でも俳統だとか俳暦だとかいう形で残っていて、誰に俳句を学んだか、どの結社に所属しているかがこの世界では決定的な意味を持っている。形を変えた家元制といっていい。

 去来の「基」と「本意本情」はまだわかりやすい。「基」は形式だし、「本意本情」はかつて多くの人を感動させ、多くの人が守り残してきたものには、それなりの理由があるからだ。

 人間誰しも持つ自然な情としての不易は、それ自体はどんな理論でも捉えることのできない、いわゆる「俳諧の神」であり、それは作品となり多くの人を感動させたことで証明される。古典はその意味で実証済みだから、古典から不易の情を学ぶのは間違っていない。

 許六の血脈論はこうした実証性を欠いている。ただ血脈を相続したと称する人の主観でしかない。

 

 

20、正秀と不易流行

 

 「前論ニ云ク、正秀が詞ニ、師遷化の後、流行頼ミなし。不易の句ならでハ作るまじといひけると書セり。此事いぶかし。

 翁滅後成共、流行頼なきと申ハ何ぞや。

 不易・流行ハ俳諧の姿也。俳諧をやめて余事に遊ババ格別の沙汰也。

 俳諧つぶやく中に、不易・流行二ツながらなくて叶ハざるもの也。叶ハざるとて、常に不易・流行を荷ひはこぶ物ニハ非ズ。

 血脈相続の人の句ハ、口より出るとひとしく不易・流行の姿出来て、千里をはしる物也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.106)

 

 正秀が今後は流行は追わずに不易の句に専念するというのは、今までどおりの句を作ってゆくということで、別に時代遅れでもいいというだけのことのように思える。別に荷兮のように連歌師になるというのではないだろう。

 芭蕉の没後、新風を牽引できる人がいなくなったのは確かで、それは只ネタ的に目新しければいいというのではなく、それをただ目新しいだけに終らせない、人間の真情を表現し続けられなくてはならないからだ。

 精進日あるあるで目新しい言葉を使ったとしても、精進日の親を思う気持ちを説教臭くならずに素直に表現できる才能がなければ、ただその場限りの目新しさで終る。 

 「翁滅後成共、流行頼なきと申ハ何ぞや」と許六はいうが、それは去来や其角や正秀らが共通して持っていた問題意識ではなかったかと思う。

 許六がこれを否定する理由は、「血脈相続の人の句ハ、口より出るとひとしく不易・流行の姿出来て、千里をはしる物也。」

 つまり自分は「流行頼なき」の埒外だと自負したいのだろう。ただ、その許六の句が当時どれほど流行してたというのだろうか。

 

 「惣別俳諧と云物、不易・流行の二ツならでハ、外ニ何といふ事もなし。此二ツに極る。

 不易にあらざれバ流行也。流行の姿なけれバ不易也。此二ツの姿を離れて、句と云物ハ曾てなし。不易・流行二ツに極ると云ハ、各や我々の上の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.106~107)

 

 不易は一つの現象であり、実体を伴う。流行も一つの現象であり、実体を伴う。それぞれの実体は独立しているから、不易でもなければ流行もしていない句というのも存在する。近代俳句のほとんどはこういう句だ。

 その一方で不易も流行も共に兼ね備えた句もある。今日に残る名句といわれるのはそれだ。

 「不易にあらざれバ流行也。流行の姿なけれバ不易也。」だとか、不易・流行はそういう相対的なものではない。現実を無視したいわゆる観念論の域を出ない。

 不易流行の両方から見放された句というのはいくらでもある。不易流行二つに極るのはそれこそ俳聖の領域であろう。神と言ってもいい。

 おしなべて概念というのは個体発生的なもので、多くの人が何か共通のことを同じ言葉で言い表すことで、その平均的なイメージが生じる。それは個々に生じるもので、最初から体系をなすわけではない。

 ただ、多くの人が二つの概念を対比して言い表すならば、そこに対義語が生じる。そうした対概念をあとから論理的に体系化したものが、いわゆる哲学だとか形而上学だとかいうもので、論理は後、個々の概念が先にある。不易でなければ流行で、流行でなければ不易だ何て主張はそういう後から形而上学で、実態に反している。

 

 「世上雑俳の上を論ずるにあらず。雑俳の事ハ究たる事なけれバ、評にかかハらず。

 惣別予が論ずる所ハ、門人骨折の上の噂也。此正秀血脈を継がぬ故ニ、かやうの珍敷一言をいふと見えたり。

 かれが俳諧を見るに、専ラひさご・さるミのの場所にすハり、翁と三年の春秋をへだてて、師説をきかず、血脈を継がず、底をぬかぬ故に、炭俵・別座敷に底を入られたり。全ク動かぬしるし也。

 しかりといへ共、かれが俳諧を見るに、底ハぬかずといへ共、逸物也。又々門人の一人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107)

 

 正秀が『ひさご』『猿蓑』から抜け出せなかったのは確かだろう。いとど自分の作風が確立されると、なかなかそれを変えることは難しい。それは今日の様々なジャンルの芸術を見ても同じだ。

 どんな天才と言えどもある程度の年になると新しいものを受け入れることができなくなる例として有名なのは、アインシュタインが量子力学を受け入れなかったことと、ピカソが抽象絵画を受け入れなかったことだ。

 其角や嵐雪も、荷兮や越人も、自分の過去の芭蕉とともに一時代を作ったその輝かしい成功体験から抜けることができなかった。去来・正秀もそうだったろうし、許六もたまたま芭蕉の最晩年の弟子だから変わる必要はなかっただけで、仮に芭蕉が長生きして惟然や千山とともに新風を作ったなら、許六も脱落していただろう。正秀は後に惟然の『二葉集』(元禄十五年)に参加しているが、許六の名はない。

 許六は結局の所、若い頃に影響を受けた談林が基本になっている。談林のリアルな生活感のある俳諧が元になっていて、蕉風確立期の古典回帰の影響をあまり受けなかった。

 芭蕉が猿蓑調から軽みへと再び古典の趣向からリアルな生活感へと戻ってきた頃に、ちょうど許六のいくつかの句が芭蕉にとってわが意を得たりだった。

 そこで芭蕉が血脈だの底を抜くだの言って褒めたのが結局許六の到達点になり、許六もまたそこから動いてなかったのではないかと思う。だから、結局十団子の句が許六の代表作になってしまった。

 正秀は芭蕉の晩年の風にはついていかなかったけど、『猿蓑』に入集した代表作があった。

 

 鑓持の猶振たつるしぐれ哉     正秀

 猪に吹かへさるるともしかな    同

 

 許六もこれらの句を評価しないわけにはいかない。そこで持ち出したのが「逸物」という言葉だった。

 

 「定家卿の論ニ云ク、家隆ハ歌よみ、我ハ歌作り、寂蓮ハ逸物也といへり。

 此人逸物と云もの也。師の眼前において句をいひ出す時ハ、師の眼有て撰出し、これハよし、是ハ五文字すハらず、此句ハ用にたたずなどいひて撰出して後、世間に出るゆへに、人々正秀ハよき俳諧と眼を付るといへ共、師遷化の後ハ、猿の木に離れたるごとくニして、自己の眼を以て善悪の差別を撰出す事をしらず。

 ただ我口より出るハ皆よき句と心得ていひ出すゆへに、当歳旦三ツ物の如き句出る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107~108)

 

 岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎の註に、

 

 「兼載雑談」に「慈鎮西行などは歌よみ、其の外の人はうた作りなりと定家の被書たる物にあり。」とあるが内容が違ってをり、特に寂蓮に就いての所見がない。

 

とある。

 和歌についての様々な伝承のなかには、伝わってゆくうちにも変わっていったものもあっただろう。許六の記憶違いなのか、それともそのように伝えていた本があったのかは定かでない。

 ネットで見た伊達立晶の『藤原定家の「歌つくり」と「歌詠み」について : 創造と表現との相違』によれば、頓阿の『井蛙抄』第六には、定家が慈円に、

 

 「御詠又は亡父などこをはうるはしき歌よみの歌にては候へ。定家名とは知恵の力をもてつくる歌作なり。」

 

と言ったという。「亡父」は俊成卿で西行ではない。

 「歌詠み」は心に思うことが自然と歌になる人であり、「歌作り」はあくまで計算で歌を作り上げる人という意味だろう。ならば「逸物」は何かというと、ウィキペディアに、

 

 後鳥羽院は、後鳥羽院御口伝において、「寂連は、なをざりならず歌詠みし物なり」、「折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき」と様々な才能を絶賛している。

 

とあるように、その中間の、自然に口をついて歌になるわけでもなく、かといって計算でこしらえるのでもなく、自然の情を繊細にして注意深く歌へとまとめ上げてゆくタイプといっていいのか。

 許六から見れば、正秀も自然に句を詠むのでもなく、かといって時々其角が見せるような、このネタでよくここまで作るというような句(たとえば、切られたる夢はまことか蚤の跡 其角)でもなく、師の評価を気にしていわば忖度した句を作っているというように見えたのだろう。実際の所はよくわからない。

 「当歳旦三ツ物の如き句出る也」というのは、『元禄七年二月二十五日付森川許六宛書簡』の、

 

 「膳所正秀が三つ物三組こそ、跡先見ずに乗放たれ。世の評詞にかかはらぬ志あらはれておかしく候。」

 

のことか。ちなみに許六の歳旦五つ物については、

 

 「彦根五つ物、いきほひにのつとり、世上の人をふみつぶすべき勇体、あつぱれ風雅の武士の手業なるべし。」

 

と言っている。

 

 

21、木導

 

 「我友木導といふもの、かたのごとくの作者也。終に師に対面せずして、急度師の血脈の所を見届、師の状通ごとニ、木導ハ作者なりといふ褒美を得たるもの也。

 しかれ共逸物也。十句ニ七八ハ雑句也。一ニハ天地を動かす句也。是逸物のしるし也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.108)

 

 木導は『風俗文選』の作者列伝に、

 

 「木導者。江州亀城之武士也。直江氏。自号阿山人蕉門之英才也。師翁称奇異逸物。」

 

とある。「江州亀城」は近江国彦根城のことで、許六の身内のようなものだ。

 元禄六年五月四日付許六宛書簡に、

 

 「木道麦脇付申候。第三可然事無御座候間、貴様静に御案候而御書付可被成候。」

 

とある。これは、

 

 春風や麦の中行水の音      木導

 

の発句に芭蕉が、

 

   春風や麦の中行水の音

 かげろふいさむ花の糸口     芭蕉

 

と付けたので、第三を許六が付けてくれというものだ。

 『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)の補注に木導編『水の音』の木導自身による序が引用されている。そこには、

 

 「此一すじを兼て求をかばやと風流を種となして、はせを庵の松の扉をたたき、翁の流を五老井と共に汲つくす事三十年、かれこれの便をつたひ、蕉門の俳友ところどころに数をつくせり。其あらましを五老井雨夜物かたりにおよびぬれば、翁しばらく目をふさぎ、奥歯をかみしめ、皺の手をはたと打、謀略のたくましきを深かんじ玉ふと也。かの折から、予が麦の中行水の音をも聞たまひて翁曰、いにしへ伊勢の守武が、小松生ひなでしこ咲るいわほ哉、我が古池やかはず飛込水の音、今木導が麦の中行水の音、此三句はいづれも甲乙なき万代不易、第一景曲玄妙の三句也。誠に脇をなしあたへんと許子にながれに麦をかかせて、かげろふいさむ花の糸口と筆をとり給ひしを初となして、いひ捨し句どもとりあつめ阿山の鎮守に奉納せり」

 

とある。

 許六の第三がどうなったかはわからない。

 

 小松生ひなでしこ咲るいわほ哉  守武

 古池やかはず飛込水の音     芭蕉

 春風や麦の中行水の音      木導

 

 この三句を「万代不易、第一景曲玄妙」と芭蕉が言ったというが、真ん中の古池の句は、同じ「水の音」が入るというのと芭蕉自身の謙遜から引き合いに出しただけで、芭蕉としては守武の句にも匹敵すると言いたかったのだろう。

 「翁の流を五老井と共に汲つくす事三十年」は明らかに誇張だろう。元禄六年(一六九三年)の三十年前といったら寛文三年(一六六三年)で、その頃からというと芭蕉の句が『佐夜中山集』に初入集した頃からになってしまう。しかも許六『俳諧問答』の「終に師に対面せずして」と矛盾する。この序文のエピソード自体が怪しい。

 許六が芭蕉に近づこうと苦労してた頃から木導も同じに思ってたのかもしれない。しかしついに芭蕉に会うことかなわず、五老井(許六)が代わりに芭蕉に会った時に木導の句の話もし、後に芭蕉がそれに脇を付けて手紙で許六に伝えたあと、許六は結局第三が出来ぬまま、あたかも芭蕉がその場で脇を付けたかのように木導に話したというのが一番考えられることだ。

 そのとき芭蕉が木導の発句を守武の句にも匹敵する「万代不易、第一景曲玄妙」の句と言ったぐらいはありそうだ。

 この時芭蕉は「作者也」と言ったのかもしれない。ただ許六は作者でなく「逸物」だという。その理由を、「十句ニ七八ハ雑句也。一ニハ天地を動かす句也。」とする。血脈を受け継いだなら十中十句天地を動かすはずだというわけだ。その天地を動かす句が、

 

 春風や麦の中行水の音      木導

 

だったのか。許六は木道を正秀と同列に扱う。

 

 「正秀逸物たるゆへに、猪のともし・鑓持のしぐれなど、血脈の句いひ出せり。

 時々其姿あらハれるといへ共、血脈を慥ニ継ざるしるしに、毎句翁の手筋なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.108)

 

 鑓持の猶振たつるしぐれ哉     正秀

 猪に吹かへさるるともしかな    同

 

の二句は師の血脈だが、それ以外は血脈を継いでないという。

 

 「故ニ眼ひがミ、心俗に落て、古き事、又ハ面白からぬ物も、ふとおかしとていひ出す。

 去ル比、予が撰集の時、猿の喧嘩といふ句、面白しとて自慢し越したり。猿の喧嘩曾て新ミなし。此方とらざるゆへに、加賀の集に入たり。五三年もへだて、俳諧上洛の後、立かへり見侍らバ、此事明にしるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.108~109)

 

 岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎の註には、北枝編『喪の名残』(元禄十年刊)の、

 

   春日に詣で

 秋風や猿も梢の小いさかひ    正秀

 

の句だという。

 許六の撰集というのは『韻塞』だと思われるが、これも元禄十年刊だから、この頃の句であろう。

 句は「秋風に猿も梢の小いさかひや」の倒置で、「も」は並列ではなく「力も」であろう。「秋風に猿の梢の小いさかひもや」の倒置と見てもいい。

 「や」と疑っているので、猿の梢の小いさかいは必ずしも見たわけではない。猿の声が聞こえてきて「小いさかいもあるのかな」と推測する体だ。人の世も世知辛いが猿の世もと気遣う辺りには「細み」が感じられる。

 ただ、秋風に猿の叫ぶ情は古来漢詩に歌われてるもので、その意味で新味なしと言えるかもしれないが、それを猿の声ではなく「小いさかひ」にしたところに新味があるかどうかは人によって意見が分かれたかもしれない。

 筆者は悪くないと思うが、ただ芭蕉の「猿に小蓑を」の句があるから、それと比較されてしまうと苦しい。

 「五三年もへだて、俳諧上洛の後、立かへり見侍らバ、此事明にしるべし。」つまり五年もすれば忘れ去られているだろうというのは、おそらく正しかったのだろう。岩波文庫の『蕉門名家句選』にも取られていない。

 

 「生れつき千兵ヲ破る勇あり共、士を使ふ器なけれバ、宗匠の器なし。

 勇ハ樊噲にもあたるといへ共、善悪のわかれざる人ハ、将の器ハなし。

 此頃の集の俳諧を見るに、炭俵・別座敷の風一句もなし。

 今世間の人、後猿の俳諧ハかるミありて面白し、これ也とて、筋なき不用の句を出せり。別座敷・炭俵の風熟吟せざる人、いかで後猿の風に飛入事を得むや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.109)

 

 樊噲(はんかい)はウィキペディアに、

 

 「泗水郡沛県の人で、剛勇の人だったという。もとは犬の屠殺業をしていた。劉邦(高祖)の反秦蜂起に加わり、生涯仕えて武勲を挙げ、咸陽に入って、豪華な財宝に目を眩んだ劉邦に対して、張良とともに諫めた。鴻門の会でも項羽から身を救うなど活躍する。秦打倒の功績で賢成君に封じられた。また決起以前より劉邦の妻呂雉の妹呂嬃を娶っていたため、将軍の間でも王室の信頼は厚かった。」

 

とある。もちろん勇だけでなく、多くの士を使う器だったし、善悪もわきまえた名将だった。

 「別座敷・炭俵の風熟吟せざる人、いかで後猿の風に飛入事を得むや。」とあるのは、許六自身の阿羅野・猿蓑を熟読した経験によるものだというのはわかる。ただ、芭蕉はあえてそういう旧習に染まってないものを用いることが多い。もっとも、凡兆、野坡のように使い捨てみたいな所はあるが。

 新しい風を試すには古い風に染まっていない無垢な才能を見つけ出し、その初期衝動を開放させる方がいい。ただ、そこには芭蕉と違い、長年にわたって蓄積された技術がないため、ひとたび初期衝動が衰えれば凡庸な作者に転落する。

 

 「しかし一向ニ成まじ共いひがたし。発明の人あらバ、直入の俳諧もあるべし。大方ハ成まじき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.109)

 

 古い技術を熟知してなくても、新しい風に直に入ってゆくことは出来る。

 

 「冬の日・あら野の時、段々門人其時の風を得たりといへ共、次第に流行なき故に底を入られたり。

 予察し見るに、荷兮・越人、あら野の時、真ンのあら野の風を得ざると見えたり。今日あら野を見るに、炭俵・別座敷のかるミ、其時より慥ニあらハれ、時代の費のミニして、炭俵の趣き急度すハれり。其時識得せば、何ぞ翁と同じく流行せずといふ事あらんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.109~110)

 

 一つのスタイルは繰り返されると次第にマンネリになるのは言うまでもない。それを「底を入られたり」という。今日でも「底が浅い」という言い方はする。底を抜いて、更なる深みに進まなくてはならない。

 ただ、あとから見てあの頃はまだ底が浅かったと思うのは簡単だが、底を抜いて深みに到達した時、更なる深みが見えている人は稀だ。まあ、芭蕉はそれが見えていたのだろう。

 荷兮・越人は自ら『冬の日』『春の日』『阿羅野』で底を抜いてきたところに満足してしまったのだろう。人は一年一年確実に歳を取って行き、更なる底が見えなければそこで守りに入ろうとする。

 荷兮や越人にいえることは許六にもいえただろう。芭蕉亡き後、許六もまたその先の更なる深みが見えていたとは思えない。それが見えてたら、許六は芭蕉を超えて新風を興していたであろう。

 

 「実ハ師の恩に寄てあら野の時を得たるやうなれ共、今日見る時ハ、時の風を得ざると見えたり。ひさご・猿ミのノ時代、猶以右ニ同じ。慥ニ是底のぬけぬ証拠也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110)

 

 「実」は「虚」あるいは「花」に対する言葉で、実は不易、虚は流行と考えてもいい。

 荷兮・越人は蕉風確立期の古典回帰の時代の門人で、古典の本意はよく学んでいる。ただ、その後のより今のリアルな俳諧へと変わっていったとき、取り残されてしまう。

 

 

22、支考

 

 「今世上に遺経の俳諧の風ハ、天下ニ三四人ならでハあるまじ。

 伊勢の支考ハ、後猿の時底をぬきて流行すれ共、難じていはば実少すくなし。

 しかりといへ共、世間門人と目を同して語る人ニてなし。此人慥ニ血脈相続して、当時諸門弟の中肩をならぶる人なし。

 されどかれが質不実に謟へる心あれバ、行末覚束なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110)

 

 「謟へる」は「うたがへる」と読む。

 支考は美濃の人だが、この頃は伊勢山田にいたようだ。翌元禄十一年には『伊勢新百韻』が刊行される。後に美濃に戻り、後に美濃派と呼ばれるようになる。

 『風俗文選』の「作者列伝」にも、「中遇居于勢州山田後帰故国作俳書数篇」とある。

 支考は元禄七年五月の「牛流す」の巻の六句目で、

 

    月影に苞(つと)の海鼠の下る也

 堤おりては田の中のみち    支考

 

と、「苞(つと)」に「堤(つつみ)」、「下る」に「おりて」と類義語で付けている。

 また十八句目では、

 

    道もなき畠の岨の花ざかり

 半夏を雉子のむしる明ぼの   支考

 

と、マムシグサに似ている半夏が蛇に似ているところから雉が間違って啄ばむという突飛な空想を見せている。

 この年の秋の「この道や」の巻の第三でも、

 

   岨の畠の木にかかる蔦

 月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て  支考

 

 

と、「岨(そば)の畠」に「蕎麦のこぼれ」と「ソバ」つながりでありながら、駄洒落にもならず、掛詞でもなく、取り成しにもなってない。何となく繋がっているだけで、蕎麦の花を照らす月の美しい情景にしている。

 また、「白菊の」の巻の三十三句目では、

 

    老の力に娘ほしがる

 餅ちぎる鍋のあかりの賑さ     支考

 

と、前句の「力」を餅に取り成して、爺さんの餅を娘がほしがる句にしてしまう。

 支考の付け句は変幻自在でまさに「底を抜く」ものだった。これこそ芭蕉の血脈と言っていい。

 ただ、発句の方はそれほどでもなく、「実少(すこし)すくなし」というのはそういうことだろう。

 才能はあるけど、疑い深くて誠実さに掛けていたのか、その後伸び悩んだ。

 

 

23、千川・野坡

 

 「ミのの大垣千川といふ者此風也。次ニ彦根門人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110)

 

 美濃の千川も「遺経の俳諧の風ハ、天下ニ三四人」の一人だという。

 「彦根門人」は自分のことか。

 

 「野坡といふものハ、炭俵のかるミ少ハ得たりといへ共、生得越後屋の手代なれバ、俳諧も人情程ありて、少かるみを得たる迄也。

 胸中せまくして、我得ざる方すきとみえず。高弟先生を憚からず、過言自讃に似たりといへ共、時々を得たる事ハ高弟とても是非なし。

 達磨の法、六祖の米つきに血脈をゆづり給ふハ、是六祖血脈をしり給ふ人なれバ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.110~111)

 

 野坡は『風俗文選』の「作者列伝」に、

 

 「野坡者。越之前州人。生商家居于武江戸。蕉門之学者也。一遊西海不定其所居。随師得炭俵之撰号。」

 

とある。越前の生まれで、ウィキペディアによると

 

 「元々は両替商の三井越後屋に奉公し、番頭にまで登りつめた。宝井其角に俳諧を学んだがのちに松尾芭蕉に入門し直接指導を受ける。」

 

という。

 「一遊西海不定其所居」というのもウィキペディアには、

 

 「元禄11年から14年まで商用で長崎に滞在する。一時江戸に帰るが、翌15年から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始。 長崎・田代・久留米・日田・博多などに旅寝を重ね多くの弟子を獲得した。 人柄は温厚で社交的、蕉風を上方や九州に普及させた業績は大きい。」

 

とある。

 『続虚栗』(其角編、貞享四年刊)のまだ野馬を名乗ってた頃の句は、

 

 総角が手に手に手籠や薺つみ     野馬

 さまざまの人にもあかぬ桜かな    同

 

   啼々も風に流るゝひばり哉

 烏帽子を直す桜一むら        同

 

といった当時の古典回帰の風に従っている。

 「生得越後屋の手代なれバ」と許六はどうも階級に偏見があるようだが、芭蕉が再び庶民のリアルな世界に切り込んでいこうとしたとき、野坡は欠かせぬ人材だった。

 談林の頃は庶民のリアルを描くのにも雅語や謡曲の古い言葉を用い、付け合いに頼って句を付けていったが、それをより口語に近い言葉で、猿蓑の頃から試されていた匂い付けで付けてゆく所が新しかった。

 特に『炭俵』の「梅が香に」の巻の両吟は、芭蕉との息の合った展開を見せている。

 

   藪越はなすあきのさびしき

 御頭へ菊もらはるるめいわくさ    野坡

 

と、御頭が「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」とばかりに大事に育てた菊を持ってってしまう迷惑さに、

 

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ

 娘を堅う人にあはせぬ        芭蕉

 

と「菊」を娘の名に取り成して、御頭に合わせないようにする親心に展開する。

 それをまた、

 

   娘を堅う人にあはせぬ 

 奈良がよひおなじつらなる細基手   野坡

 

と結婚を言い寄る零細業者を嫌う体に読み替える。

 また、

 

   桐の木高く月さゆる也

 門しめてだまつてねたる面白さ    芭蕉

 

と、名月を遊興のうちに過ごすのを嫌って門を閉ざす高士の風情に、

 

   門しめてだまつてねたる面白さ

 ひらふた金で表がへする       野坡

 

と拾った金を他人にたかられるのを恐れて黙っているせこい男の句に読み替える。

 こうした句はまさに「人情程ありて」で、そのあとはむしろ「軽みをおおいに得たり」と言った方がいいのではないかと思う。

 まあ、炭俵の風を牽引した中心人物だっただけに、許六としてはライバルとしての嫉妬もあったのではないかと思う。

 「六祖の米つきに血脈」の「六祖」は慧能(えのう)のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」にこうある。

 

 「中国、唐代の僧。中国禅宗の第六祖。俗姓は盧(ろ)氏。諡号(しごう)は大鑑真空普覚円明(だいかんしんくうふかくえんみょう)禅師。六祖(ろくそ)大師ともいわれる。新州(広東(カントン)省)に生まれ、3歳で父を失い、市に薪(まき)を売って母を養っていたが、ある日、客の『金剛経』を誦(じゅ)するのを聞いて出家の志を抱き、州(きしゅう)(湖北省)黄梅(おうばい)の東山に禅宗第五祖、弘忍(こうにん)を尋ね、仏性(ぶっしょう)問答によって入門を許された。8か月の碓房(たいぼう)(米ひき小屋)生活ののち、弘忍より大法を相伝し、南方に帰って猟家に隠れていたが、676年(儀鳳1)南海法性寺(ほうしょうじ)にて印宗(いんしゅう)(627―713)法師の『涅槃経(ねはんぎょう)』を講ずる席にあい、風幡(ふうばん)問答によって認められ、印宗によって剃髪(ていはつ)、受具した。」

 

 この米搗きのエピソードは画題にもなり、狩野常信の「六祖踏碓図」がある。

 野坡のことを貧しくても血脈を得て六祖となった慧能に喩えるあたりは、許六も野坡を高く評価していた印と言えよう。

 支考、千川、許六、野坡、いずれも風雅の誠を得、芭蕉に見出されたが、芭蕉の血脈は他の門人にも受け継がれていたはずで、なぜこの四人なのかはよくわからない。許六のみが知る所であろう。

 

 

24、切れ字

 

 「通書の中ニ、切字。古事。古詩・古歌の用る法など、かれこれのせられたり。

 師説同じ趣をとき給ふといへ共、千変万化して天地に独歩の人なれバ、今日の論、明日ハ同じ事いはず。

 先生のきき給ふ所、予がきく所、少々違ひハあるらん。なれ共、小耳ニはさみ置所、予が発明自得の下ニ記ス。

 あハれ閑暇を得て、先生の伝授し給ふ処、幷先生の発明を合してききたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.111)

 

 ここからしばらく、まず切れ字について論じてゆくことになる。

 ただ、芭蕉の説も変わってきているので、先生(去来)が聞いたのと予(許六)が聞いたのでは違いがあるので、ここでは予(去来)が小耳にはさんだことと自得したことを記すことになる。

 ここで少々飛ばして、実例のある所から入ることにする。

 

 「一、初蝉上巻ニ、

 鶯の噂さや舌も引入れず  大ツ 箕香

 此句、噂さやと切て、又舌もといふ珍敷つづき也。鶯の噂の舌も引入れず、といふ事也。心ハかくれたる事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.113)

 

 句は「鶯の噂(うわさ)の舌も引入れずや」の倒置で、「や」を「の」の位置に持ってきたものだ。

 誰かが鶯を聞いたという噂話は黙っていることが出来ない、という意味か。「心ハかくれたる事なし」というから、当時の人ならすぐ分かる句だったのだろう。

 

 「其分ニ見やりて捨ツ。切字さへ入るれバ、発句と心得ぬる作者幷撰者同前と見えたり。是にてもきこえるといへば、是非なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.113~114)

 

 『初蝉』は風国の撰で、元禄九年刊。

 末尾の「や」を係助詞的に前に持ってきて倒置にする事自体は間違った用法ではない。ただ、持ってくる位置が問題で、「噂さや舌も」は変だということだ。「鶯や噂の舌も引入れず」だと鶯が聞こえたが噂の舌もになってしまうし、「噂の舌や」でも変だし、確かにどこに持ってきても納まりが悪い。

 これは「鶯の噂の舌も引入れずや」に、倒置にして強調すべき語句がないせいなのかもしれない。「鶯の噂」は意味的に一塊だからここに「や」を入れて分断すると意味側からなくなる。「舌も引入れず」も一塊だから、強いて言えば確かに「噂の」と「舌も」の間ということになる。

 難しい所で、ここは「ず」の終止形を切れ字として「の」のままでよかったのかもしれない。

 

 

25、治定の「かな」

 

 「一、上巻ニ、

 何風も吹ぬ日落る椿哉   大ツ 梅主

 てにはよろしからず。やとして、哉ととめぬハ新古同じおきてなれバ、何とうたがひて、哉とハとまるまじ。

 椿哉とハ治定の哉なれ共、此句全体うたがひの句也。「しづ心なく花のちるらん」といへる歌にて、一句のうたがひしれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114)

 

 句は何一つ風も吹いてないのに椿は落ちるんだなあ、という意味で、

 

 ひさかたの光のどけき春の日に

     しづ心なく花の散るらむ

               紀友則

 

の歌と似ている。

 「何風も」の「何」はここでは疑いではなく反語で、末尾の「哉」も治定で疑ってはいない。

 紀友則の歌はこんな長閑な日に何で散ってしまうのだろうか、と散ってしまう花の心を疑っているだけで、花が散ったこと自体を疑っているのではない。

 これに対し、「何風も」の句は風も吹いてないのに椿が落ちるという事実を言っているにすぎない。「風もないのに何で散ってしまうのかな」という疑いの心は表に見えていない。

 許六が「此句全体うたがひの句也」というのはあくまで句の裏なので、表向き治定の句で問題はないように思える。

 

 「切字二ツ入てきこえぬ故に、二ツ入ぬものと古来定めたるも、かやうの事也。何といふ字をぬきても、又哉と云字ぬきても、一段心きこえて、しかも発句の姿を得たり。

 切字ハ発句の姿を付べき為也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114)

 

 たとえば、

 

 いづく時雨傘を手に提げて帰る僧  芭蕉

 

の句であれば、「傘を手に提げて帰る僧」という事実に対して「いずく時雨」と現前しない時雨を疑うのだから、「いづく」と疑ったあと、帰る僧を疑うことは出来ない。

 この場合は「傘を手に提げて帰る僧はいづくで時雨にあひしや」であるため、「いづく時雨」の「いづく」が切れ字となり、句は体言止めになる。

 これを

 

 いづく時雨傘を手に提げて僧は帰るや

 

だと、時雨も疑えば僧の帰るのも疑うで、事実が何もなくなる。

 

 いづく時雨傘を手に提げて僧は帰るなり

 

だと、意味的には問題ないが、倒置を元に戻したときに「手に提げて僧は帰るなり。いづくで時雨にあひしや。」と二つの文章に分かれてしまう。

 切れ字を二つ使うというのは、一句を一つの文章ではなく二つの文章に分断してしまうので嫌われたのだろう。

 これを

 

 時雨けり傘を手に提げて帰る僧

 

とするなら問題はない。

 

 時雨けり傘を手に提げて僧は帰るや

 

と疑われてしまえば、「帰るべし」と答えるしかない。

 

 時雨けり傘を手に提げて僧は帰るなり

 

だと二つの文章になる。

 

 何風も吹ぬ日落る椿哉      梅主

 

の句に戻るなら、この「何」は哉を強調するだけで二重の治定のくどさはあるものの、文章を二つに切ることはないので、問題はないように思える。

 表にない「うたがい」を読み取ってしまったところが問題ではないかと思う。

 

 風もない日に何落ちる椿哉

 

だと「何」は何故の意味で疑いになり、「哉」の治定との食い違いが生じてしまう。この場合は許六の論の通りだ。

 

 治定(じじょう)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」を見るとこうある。

 

 1 決定すること。落ち着くこと。〈和英語林集成〉

「連歌はなほ上手になりてのちも善悪をひしと―する事はかたし」〈連理秘抄〉

 2 きまりきっていること。また、そのさま。必定(ひつじょう)。

「それがしは、君を御代に出だし申すぞ。―なり」〈狂言記・七騎落〉

 3 連歌・俳諧で、推敲の結果、句形が決定すること。また、切れ字により1句の表現を完結すること。

「『や』と言ふ文字は―の切れ字」〈伎・名歌徳〉

 

 治定は断定ではない。いろいろ疑いがありながらも最終的に決定することを言う。

 付け句では、出勝で誰かが句を言い出ると、それを吟味して、あるいは他の案を考慮したり、若干語句を変えたりして最終的にこの句で行こうというのが治定だ。

 「哉」が治定だというのは、哉で言い切る言葉がたいてい主観的な内容で、比喩の場合が多い。

 

 木のもとに汁も膾も桜かな     芭蕉

 

の句は、汁や膾が物理的に桜になることはないが、心情的には桜も同然だということで、あえて断定を避ける感じで「なり」ではなく「哉」になる。

 

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉

 

の場合も、柳を雨に喩えたもので、その柳の大きさもきっちり計って八九間ということではない。やや大袈裟に木より遥かに大きな範囲で雨が降っているようだという意味。事実でないのでここも「なり」ではなく「哉」になる。

 では、

 

 鶯の笠落したる椿哉        芭蕉

 

はというと、やはり鶯が本当に笠を被っていたわけではなく、あくまで比喩で「笠を落としたような椿だ」という意味だから、ここも「なり」ではなく「哉」となる。

 これに対し、

 

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり    芭蕉

 

の場合は、本当に猿が小蓑を欲しがっているわけではないから「欲しげ哉」になってもよさそうだが、「欲しげ」の「げ」のなかに既に本当に欲しがってるのではないことが記されているため、重複しないよう「なり」になる。「猿も小蓑を欲す」だったら「哉」になる。

 

 「うぐひすの笠落したる椿哉

といへるハ、全体治定の哉也。「何風も吹ぬ日落る椿哉」ハ全体うたがひ也。上の何と云字きこえず。

 何風も吹ぬ日落る赤椿

と成共、白椿と成共いへば、成程きこえ侍る。又

 雨風のせぬ日も落る椿哉

といへ共、又きこえ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114~115)

 

 「うぐひすの」の句が全体治定なのはわかる。ただ「何風も吹ぬ日落る椿哉」は果して疑いかどうかは疑問だ。むしろ何の風も吹いてない日なのに椿が落ちたという事実を述べたという感じがする。たとすると治定の「哉」でも断定の「なり」でもなく、叙述の「けり」が良いように思える。

 

 何風の吹ぬも椿落ちにけり

 

が筆者的には正解だと思う。

 許六の、

 

 何風も吹ぬ日落る赤椿

 

は「何風も吹ぬ日赤椿落る」の倒置で、「落る」は治定でも断定でもない。「落ちにけり」に近い言い回しといえる。

 

 雨風のせぬ日も落る椿哉

 

だと「何」と「哉」の重複は避けられるが、「雨風のせぬ日も落る」が比喩でも何でもなく主観としては弱いので、治定の「哉」がそれほど生きているとは思えない。

 

 

26、惣名の「何」

 

 「何風といへるハ、風の惣名をすべていはむ為の五文字と見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.115)

 

 「惣名」は総称のこと。春風、そよ風、強風、春嵐、など風にもいろいろあるが、そのすべてということ。否定の言葉と組み合わされると、嵐どころかほんの微風すらないのに、という意味になる。

 

 「是世俗の平話にいひあやまりたる事を、歌・俳諧につらねたる詞也。

 此句にかぎらず、何といふ字多クいひあやまりたる句、世間にいくらも有。此論にてよくしれたり。

 何と云字の間に句を切て見侍れバ、落着よくきこえ侍る。

 惣別平話を文字に書違侍る事在リ。分別なしに書侍れバ、あやまり多し。たとへバ「何と久敷あハぬ」といへる詞など、何の字曽てきこえね共、下畧の詞也。其下に「無事なるや」といふ事を、何と云字にもたせたる言葉也。よくききしりて互ニ合点し来れり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.115~116)

 

 「何と云字の間に句を切て見侍れバ、落着よくきこえ侍る。」というのは、たとえば、

 

 何ぞ、風も吹ぬ日落る椿

 

ということか。これだと確かに「疑い」の句になる。この場合の何は惣名ではない。

 「何と久敷あハぬ」の「何と」は単なる強調の言葉として用いられている。今日でも「何と」は用いられる。この場合は「何て久しぶり」だが。

 「いろいろな事情が考えられるが、それらすべてひっくるめて何がともあれ」が「何と」になったとすれば、この何も「惣名」をいうためのものと言える。

 

 「文章に、「何久敷不能対面」と書てハ、何と云字きこえず。歌・俳諧ハ文章也。俳諧平話よろしといへ共、吟味とげての上ニ用ざる事ハ、つたなき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116)

 

 「何久敷不能対面」は漢文っぽいが「久敷」って漢語なのか?ネットで見ると日本の漢文では習慣的に使われてるようだ。

 「何」が世俗の平話で俳諧にふさわしくないなら、「久敷」も日本語の「ひさしく」の当て字で本来の漢文ではないのではないか。

 

 「何の木の花ともしれぬ匂ひ哉

といへるハ、何の字、「匂ひ哉」と切字重畳せざるとおもへり。「花ともしれぬ」とまハり、「何の花の」とまハるゆへに、きこえ侍る也。「何風も吹ぬ日落る椿哉」とハまハらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116)

 

 これは芭蕉の句で、

 

 何の木の花とはしらず匂哉     芭蕉

 

が正しい。許六の記憶違いか。

 この句は省略されていて、「何の木の花とはしらず(に嗅いでいる)匂哉」になる。匂いは事実だが、「何の木の花とはしらず」は主観的な言葉で、哉で治定するにふさわしい。

 許六の言いたいのもそこで、「匂ひ哉」に「花とも知れぬ」が掛かり、それにさらに「何の花」と掛かるため、「何の木の花ともしれぬ匂ひ」が一まとまりの言葉になり、その全体を「哉」で治定しているから意味は明瞭だということだ。

 

 「芭蕉葉ハ何になれとや秋の風

 是「何」といひ、又「や」といひ候(候は文庫版では合略仮名で表記されている、フォントなし)へ共、「何になれとや」ハ、何といふ字のてにハの中ニて、外の言葉なし。かやうの発句いくらもあるべし。論ずるにたらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116~117)

 

 「何」と「や」は二つの切れ字ではなく、「何になれとや」で一つの言葉だということに異論はあるまい。

 

 「此次、さるミの何事も無言の中ハしづかなりの論、書入べし」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.117)

 

 文庫版の注には「この小書「板本」、「随本」にはなく、「五本」「去本」等には本文並みに書入れてあり、「露本」は小書にしてある。」とある。

 『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻の、

 

   はきごころよきめりやすの足袋

 何事も無言の内はしづかなり    去来

 

の句について何事か書こうとして、そのことをメモしていたように思われる。

 「何事も」は疑問の「何」ではないので、切れ字にはならない。それに付け句だから本来切れ字はなくてもいい。

 「何事」といえば、

 

 何事ぞ花みる人の長刀       去来

 

という発句もある。

 

 

27、疑いの「や」

 

 「一、上巻ニ

 春風や焼野の灰の跡もなし  長サキ 笑計

 是又同じ事也。

 「跡もなし」といひ切て、「春風や」とうたがひのやいかが。

 是も二ツ切字入たり。古来ハ五文字ニやとしてハ、中ノ七字にてとおかせず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116~117)

 

 「や」の用法は時代によって変化し、特にこの頃からちらほらと詠嘆の「や」のような用例が出てくる。蕪村の時代になると、

 

 菜の花や月は東に日は西に     蕪村

 

のように詠嘆の「や」が定着し、近代に至っている。

 蕪村のこの句は、

 

 菜の花に月は東に日は西に

 菜の花の月は東に日は西に

 菜の花は月は東に日は西に

 菜の花を月は東に日は西に

 菜の花と月は東に日は西に

 

など他の助詞に置き換えても意味が通じない。これに対し芭蕉の時代は他の助詞に変えて意味の通るものがほとんどだ。

 鈴呂屋書庫の『奥の細道─道祖神の旅─』の「七夕の二句」のところで、芭蕉の句で「や」と別の助詞と入れ替わっているものがたくさんある事に触れた。ここでも示しておく。

 1、「は」と「や」の入れ替わっているもの

 

 俤や姨ひとり泣月の友   『更級紀行』

 俤は姥ひとりなく月の友『芭蕉庵小文庫』

 

 曙はまだむらさきにほととぎす (真蹟)

 あけぼのやまだ朔日にほととぎす『芭蕉句選拾遺』

 

 大津絵の筆のはじめは何仏  『勧進牒』

 大津絵の筆のはじめや何仏  『蓮実』

 

 名月はふたつ有ても瀬田の月 『泊船集』

 名月やふたつ有ても瀬田の月『蕉翁句選』

 

 降ずとも竹植る日は蓑と笠  『笈日記』

 降ずとも竹植る日や蓑と笠 『こがらし』

 

 2、「の」と「や」の入れ替わっているもの

 

 さびしさの岩にしみ込む蝉のこゑ 『こがらし』

 淋しさや岩にしみ込むせみの声 『初蝉』

 

 中山の越路も月は又いのち 『芭蕉翁句解参考』

 中山や越路も月は又いのち 『荊口句帳』

 

 文月の六日も常の夜には似ず 『泊船集』

 文月や六日も常の夜には似ず『奥の細道』

 

 国々の八景更に気比の月  『荊口句帳』

 国々や八景更に気比の月 『芭蕉翁句解参考』

 

 さみだれの雲吹おとせ大井川 『笈日記』

 五月雨や雲吹落す大井川『芭蕉翁行状記』

 

 名月の花かと見へて棉畠   『続猿蓑』

 名月や花かと見へて綿ばたけ 『有磯海』

 

 松風の軒をめぐって秋くれぬ 『泊船集』

 松風や軒をめぐって秋暮ぬ  『笈日記』

 

 白菊の目にたてて見る塵もなし『笈日記』

 しら菊や目にたてて見る塵もなし 『矢矧堤』

 

 3、「に」と「や」の入れ替わっているもの

 

 須磨寺に吹ぬ笛きく木下やみ『続有磯海』

 須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ 『笈の小文』

 

 柚花にむかし忍ばん料理の間『蕉翁句集』

 柚花や昔しのばん料理の間 『嵯峨日記』

 

 草の戸に日暮れてくれし菊の酒 『きさらぎ』

 草の戸や日暮れてくれし菊の酒『笈日記』

 

 夕顔に酔て顔出す窓の穴  (芭蕉書簡)

 夕顔や酔てかほ出す窓の穴  『続猿蓑』

 

 4、「を」と「や」の入れ替わっているもの

 

 その玉を羽黒にかへせ法の月 『泊船集』

 其玉や羽黒にかへす法の月 (真蹟懐紙)

 

 あさむつを月見の旅の明離 『荊口句帳』

 あさむつや月見の旅の明ばなれ 『其袋』

 

 行春を近江の人とをしみける  『猿蓑』

 行春やあふみの人とをしみける (真蹟懐紙)

 

 この道を行人なしに秋の暮 (芭蕉書簡)

 此道や行人なしに秋の暮    『其便』

 

 5、「と」と「や」の入れ替わっているもの

 

 川上とこの川下と月の友   『泊船集』

 川上とこの川しもや月の友  『続猿蓑』

 

 許六がここに示した、

 

 春風や焼野の灰の跡もなし     笑計

 

の句は、

 

 春風に焼野の灰の跡もなし

 

で意味が通じる。だからこの「や」は詠嘆とは言えない。疑いの「や」で正しい。「春風に焼野の灰の跡もなきや」の倒置になる。だから、

 

 春風や焼野の灰の跡もなき

 

ならまだわかる。ただ意味的にここは疑う場面かどうかというと、春風が吹いて草が一斉に萌え出でて、野焼きした痕跡が瞬く間に消えてゆくという意味で、疑う理由はない。だからこの場合は、

 

 春風に焼野の灰の跡もなし

 

の方がいい。

 

 

28、「鹿のむしり喰ひ」

 

 「一、上巻ニ、

 夏草に肥たり鹿のむしり喰ひ    惟然

 「肥たり」と切て、又「鹿のむしり喰ひ」、かやうのてにハるづきあるべしともおもえず。

 句の心かくれたる所なければ、其分にききなして、人々をくと見えたり。眼あるもの一度にらむ時ハ、一字もゆるさず。

 六百番の歌合等の詞を見るに、つづき・いひくだし、大事ニ論じ給ふ事、翁の俳諧専ラ俊成卿の論にかハる事なし。

 又定家の卿ののたまひける、歌ハつづけがらにてよくもあしくもなる、柿の本のつつミといへるとのたまひけるたぐひ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.117~118)

 

 句意は明瞭で、鹿が夏草をむしり喰いするので太ったということだ。それをおそらく、「夏草に肥えたり」で始めることで、聞く人が「何で?」と思ったところで「鹿のむしり喰ひ」で落ちにしている。「鹿のむしり喰いて夏草に肥えたり」の倒置。

 まあ、意味が通るからと、人々のこれでいいと思いがちだが、許六さんは眼のある人だから、「一度にらむ時ハ、一字もゆるさず。」となる。別にいいじゃないかと思うが、こういううるさい人がいるからこそ、当時の文法についての手懸りを今日に残してくれているといってもいい。

 何が悪いのかというと、倒置にする時に「むしり喰いて」の「て」が抜け落ちて「鹿のむしり喰い夏草に肥えたり」の倒置になってしまったということだろう。「て」があれば原因結果の関係が明瞭になる。「て」が抜ければ、「鹿のむしり喰い、夏草に肥えたり」と二つの文章に割れてしまう。それが続きの悪さの原因ではないかと思う。

 たいたい鹿というのは一年中むしり喰いするもので、夏は草が豊富だから肥えるというだけのことだ。

 多分「むしり喰い」という言葉が俳言として面白いので、使ってみたかったのだろう。だがここでは、倒置にして落ちをつけるという続き方の方に目が行き、「むしり喰い」という言葉自体が生かされてないように思える。

 

 むしり喰い鹿は肥えたり夏の草

 

の方がまだ良かったのではないかと思う。

 

 

29、編集の際の間違い

 

 「一、いせ萩や鵜の涼む夜の風の音  彦根 馬仏が句

 是荻を萩とよみあやまり、進むを涼むとよみ違ひたると見えたり。

 すすむの字ニハ、進の字をはたに付て遣したる也。かやうの見あやまりハさもあるべし。

 しかし伊勢萩にてハ、一句きこえがたし。何とききなして、撰集へハ入給ふぞ、いぶかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.118)

 

 この句は正しくは、

 

 いせ荻や鵜の進む夜の風の音

 

だという。彦根の作者だから、作者自身が本当はこうだったと許六に語ったのか。

 いせ荻は『菟玖波集』の、

 

   草の名も所によりてかはるなり

 難波の葦は伊勢の浜荻       救済

 

から来たもので、芦の別名。ただ、芦だけだと季語にならない。この句の場合は「荻」の字があるから秋になるのであろう。そうなると「涼む」という夏の季語が邪魔になる。

 句意としても「萩の下露荻の上風」と言われるように、荻吹く風の悲しげな中に鵜の泳ぐ様を詠んだのであろう。「鵜の進む夜のいせ萩の風の音や」を「いせ萩の鵜の進む夜の風の音や」と倒置にして、さらに「や」を倒置して前に持ってきてできた句だ。

 これを、

 

 いせ萩や鵜の涼む夜の風の音

 

にしてしまうと、確かに意味がよくわからない。撰者があえてこの句を採ったのか、それとも出版する段階で清書した人が聞き違えたか、多分後者であろう。

 

 「『いせの浜荻』といふ事を五文字ニいはば、『いせ荻』とハいはれべきものと、作者の発明也。證歌あるニ非ズ。本歌あらバおかしからず。

 『いせ荻』と、てにはをぬきていふもあるべし。『いせ浜の荻』とハいひがたからんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.118~119)

 

 「伊勢の浜荻」という言葉は古くからあるし、歌にも詠まれた雅語で、

 

 あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて

     妹恋しらに見つる月かな

              藤原基俊(千載集)

 

の例がある。ただ、「伊勢荻」という雅語があったことを証明する證歌はない。作者である馬仏の造語だという。この種の俳言は俳諧の常で厭うものではない。ただ「伊勢浜の荻」だと単に伊勢の浜に生えている荻になってしまうので微妙な所だ。「伊勢荻」だとそういう特別な種類の荻(通常の荻とは別物)があるという連想が働く。

 

 「一、上巻に、

 笠持て鵜篭をのぞく宵月夜  ヒコ子 朱廸

 『笠持て』にてなし。『箸持て』也。やがて立出むと、したためなどしながら、鵜篭をのぞくさま也。

 下輩の情をよくいひなし、よき俳諧なりと作者も自慢せしに、『笠持て』にて、作者も力おとし侍る。これらハ見あやまりにして、しいてあやまりにあらず。次でに爰に記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.119)

 

 朱廸(しゅてき)も彦根の作者で、許六に語ったのであろう。

 

 箸持て鵜篭をのぞく宵月夜     朱廸

 

 当時の鵜匠の暮らしがどうにも思い浮かばないので、すんなりと伝わる句ではないが、当時はすぐにわかる句だったのだろう。

 「鵜篭」は鵜飼に使う鵜を入れておく篭で、取れた魚を入れておく吐き篭とはちがう。箸を持って鵜篭を覗くというのがどういう場面なのかはよくわからないが、当時のあるあるだったのだろう。鵜匠は常に鵜と寄り添って生活しているから、鵜籠の傍で飯を食うのが普通で、特に漁に出る前だと出番を待つ鵜が気がかりで、箸持ったまま何度も籠をのぞき込むということか。

 「やがて立出むと、したためなどしながら、鵜篭をのぞくさま也」と許六が言うのだから、これから漁に出ようとする時に、準備のために鵜篭を覗く場面には違いない。箸を何に使うのかがよくわからない。

 「宵月夜」は鵜飼が月が沈んで真っ暗になってからはじめるものなので、準備の頃はまだ月が出ているという意味。

 「見あやまり」というのは、草書で書いたとき「笠」と「箸」は棒一本多いくらいで似ているから、そう判断したのだろう。

 

 「一、上ニ、

 おもしろうやがてかなしき鵜舟哉   翁

 此句、五文字にて文字あり。則校考に見えたり。

 其上、晋子が方より申こし侍るなどまで書侍るならバ、委敷あら野集を見せたし。

 此句あら野に出て、一天下三歳の童子までおぼえたる句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.119~120)

 

 「五文字にて文字あり」は、「五文字に『て』文字あり」で、「おもしろう」のあとに「て」の字があったというもの。即ち句は今に伝わる通り、

 

 おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉  芭蕉

 

になる。『阿羅野』に収められている。当時は三歳の子供でも知っている句だったという。

 

 

30、疑いの「や」(二)

 

 「一、下巻に、

 七夕やいはむ事なし夜半過   イガ 猿雖

 此『七夕や』の『や』もじ、うたがひのや也。『事なし』と切字二ツ入たり。

 『七夕や』の『や』字、曾ていらぬ字也。入て慥ニならず。

 何事ニ『七夕や』とハうたがひ侍りけるぞ。下にてハ、『いはん事なし』と決定して、上にうたがひ、益なし。『七夕の』歟、ハとかあるべき句也。かやうの文字加筆する事、撰者の役也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.120)

 

 今日のように詠嘆の「や」に慣れていると、許六のこの指摘は「はあ?」って感じで、昔の人の文法知識はこの程度だったかということになりかねないが、許六は芭蕉などが用いていた古い係助詞的な「や」の用法を知った上で言っている。間違いはない。

 系助詞的な倒置により、疑問の「や」を前に持ってきた用法で、それゆえ他の助詞に変わることができる。

 

 七夕のいはむ事なし夜半過

 七夕ハいはむ事なし夜半過

 

 こちらの方が収まりが良い。これが芭蕉の時代の感覚だ。

 蕪村の頃になると詠嘆の「や」が広まり、今日の言語感覚に近くなる。

 

 「愚が集の時、カガ北枝が句ニ、

 かべ土の道せばめけり花盛

ときこえたり。『かべ土の』といふ『の』の字きこえず。『かべ土に道せばめけり』と加筆せし事あり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.120)

 

 文庫版の注にもあるが、『韻塞』(許六・李由撰)には、

 

 壁土に道せばめけり花ざかり    句空

 

とある。手直しされたことに北枝が不服で、弟子の名にして載せたのかもしれない。

 壁土は土壁のことで、土を塗った壁は分厚く、その分道が狭くなるし圧迫感もある。

 蔵や立派な屋敷の壁に用いられるので、道を狭くしているのはもっぱら金持ちだ。せっかくの花盛りだというのに無風流な、といったところか。

 「壁土の」でも「壁土が」の「が」に変わる「の」で、意味が通らなくはない。ただ、「壁土の道」まで一続きに読んでしまうと、壁土の道が何で狭くなったのかと取られやすくなる。「壁土に」の方がわかりやすい。

 ただ、北枝の意図としては、壁土に区切られた道を人がたくさん通るから花盛りの時には道が狭く感じるという意味だったのかもしれない。これだと「壁土の」の方がいい。

 

 「一、下巻ニ、

 名月や座にうつくしき㒵もなし      翁

 此句、『名月の座にうつくし』とあり。此発句にて一歌仙あり。予うつし置ぬ。

 名月の『名』の字に、明の字如何。名月ハ八月十五日一日也。明月ハ四季に通ズ。明の字、書事あるや。かかぬ法とハきき侍りぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.121)

 

 この句の元の形は、

 

 月見する座にうつくしき顔もなし    芭蕉

 

で、元禄三年八月十八日付の加生(凡兆)宛書簡に見られる。「名月散々草臥、発句もしかじか案じ不申候」とあり、八月十五日の句ではないようだ。

 歌仙もこの形で、享保七年刊の『夕がほの歌』に収録されている。尚白との両吟で、表六句は以下のとおり。

 

 月見する座にうつくしき顔もなし    芭蕉

   庭の柿の葉みの虫になれ      尚白

 火桶ぬる窓の手際を身にしめて     仝

   別当殿の古き扶持米        芭蕉

 尾頭のめでたかりける塩小鯛      仝

   百家しめたる川の水上       尚白

 

 書簡は興行について触れてないが、八月十八日より後の可能性もある。

 許六の写し持っていた歌仙の発句の上五が「月見する」だったのか「名月の座にうつくし」と直されていたようだ。芭蕉自身が直したのか、定かではない。

 公刊されたのは風国編の『初蝉』が最初で、

 

「名月や兒たち並ふ堂の橡       芭蕉

 

とありけれと此句意にみたすとて

 

 名月や海にむかへは七小町      仝

 

と吟しても尚あらためんとて

 

 明月や座にうつくしき皃もなし    仝

 

といふに其夜はさたまりぬ

   これにて翁の風雅にやせられし事を

   しりて風雅をはけまん人の教なるへ

   しと今茲に出しぬ」

 

とある。

 三句とも『初蝉』が初出なので、この記述を信じるしかないだろう。芭蕉が興行の前に発句をいくつか作ってその中の一つを選ぶことは、「此道や」の句と「人声や」の二句を支考に選ばせた例でも知られる。尚白との両吟興行の前に、三句候補を作ったことは十分考えられる。

 ただ、このとき成立した句の上五は「月見する」で、「明月や」は後に芭蕉が作り直したものであろう。

 『三冊子』「あかさうし」にも、

 

 「明月や座にうつくしき貌もなし

 此句、湖水の名月也。名月や兒達並ぶ堂の縁、としていまだならず。名月や海にむかへば七小町、にもあらで、座にうつくしき、といふに定まる。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.117)

 

とある。

 名月か明月かについての議論は、『去来抄』にも見られる。

 

 「去来曰、許六と明月の明の字を論ず。

 予は第一、八月十五夜婁宿也。清明を用ゆる。

 第二、和歌にも今宵清明を詠メり。

 第三、詩にも清明の字有あり。

 第四本朝の習ならひ字儀叶ふをかり用る事有。

 富士を不二、吉野を芳野と書るがごとし。先達も明の字書れたる多し。明の字書て苦しからじといふ。

 許六曰いはく、明月と八月十五夜とは和歌題格別也。名月は良夜の事也ことなり。名月に明の字は未練といふ。此論至極せり。若し明月の題を得て、中秋の月を作せば放題なるべし。名月に明の字を書間敷事必せり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.57)

 

 明月は清明の頃の月で秋の月に用いられたことはあったのだろう。これに対し「名月」は八月十五日の中秋の名月に限定される。許六の論はそこに極まる。

 ただ、芭蕉の「明月に」の句が八月十五日の興行ではなかったとしたら、「名月」ではない。書簡からそのことは確認できる。ゆえに「明月」でOKとしたい。

 問題は「明月や」の「や」の切れ字のほうだが、確かに「皃(かほ)もなし」を結んで「や」は変な感じがする。許六の言うとおり、

 

 明月の座にうつくしき皃もなし

 

の方が収まりが良い。この形のほうが芭蕉らしい感じがする。

 ただ、許六が書き写したという情報だけで、証明するとなると難しい。今は「明月や」の形で通っているが、後に真蹟が発見されれば定説が覆る可能性はある。

 「うつくしき皃もなし」は両吟の発句と見れば、「二人っきりだね」という意味になる。稚児たちがいなくても、七小町がいなくても、君がいればいいんだよって、芭蕉さんそれは‥‥。

 尚白はこのとき四十。当時としては初老で、まあ「うつくしき顔」ではないだろうけど。

 

 「一、下巻ニ

 明月や泣顔見たしかくや姫  撰者 風国

 『見たし』の『し』の字、切れざるとおもへると見えたり。これ未来のしにて、切るる也。

 『明月や』と切、『見たし』と切て、二ツ切字入たり。

 『明月や』とうたがひ、『見たし』とねがハれける事、五文字うたがひ曾て益なし。『明月に泣顔見たし』といひくだせバ、よくきこえ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.121~122)

 

 これも「座にうつくしき」の句と同様、古い助詞的な「疑いのや」の用法なら、

 

 明月に泣顔見たしかくや姫

 

の方がいい。「明月にかくや姫の泣顔見たし」の倒置になる。「明月や」とすると、「明月にかくや姫の泣顔見たしや」の倒置となるが、「見たしや」と疑う理由がない。ただ、この頃は詠嘆の「や」の影響が出てきていたのだろう。

 

 「其上此句作例あり。

 猶ミたし花に明行神の顔    翁の句也

 かづらきの麓にて吟じ給ふ。『花に明行』のかるミと、又明月にかくや姫の顔と云おもみ、吟味なきと見えたり。口おしき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.122)

 

 芭蕉の句は「花に明行神の顔を猶ミたし」の倒置でわかりやすい。

 明月に月へ帰らなくてはと泣くかぐや姫も、今で言えば「べた」ということか。

 

 

31、仮定は断定で受ける

 

 「一、下巻ニ

 とられずバ名もなかるらん紅葉鮒  ナラ 玄梅

 此句、扨々かた腹いたき句也。かやうのてにはを見て、歌よみ、又ハ連歌師など嘲る事也。

 『名もなかるらん』と云事、大き成相違也。『名もなかるべし』といふ事をいひあやまりて、『なかるらん』とはねたる也。つたなき作者・撰者の胸中符合せし事、不便の至り也。

 我黨ハかやうのてにはを説教てにはといふ也。

 『上下万民おしなべてかんぜんもの社なかりけれ』といへるに、少もかハらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.122~123)

 

 日本語は今日でも仮定に対しては断定で受ける。「なせばなる」を「なせばなるでしょう」と言ったら何か間延びして変だ。人を脅迫する時にも、「金を持ってこなきゃ人質を殺す。」ならまぎれもなく日本人だが、「金を持ってこなかったならば、人質を殺すでしょう」と言ったら犯人は外国人だ。英語ならwillを使うところなのかもしれないが。

 その意味では、この句は確かに、

 

 とられずバ名もなかるべし紅葉鮒

 

の方が自然だ。「雉も鳴かずばうたれまい」という諺もある。「まい」は「まじ」で、『岩波古語辞典』には「この語は『べし』の否定の『べからず』の意味を持ち」とある。

 現代語でも「獲られなかったなら紅葉鮒なんて名前はなかったな」と言うところだろう。ただ、「なかっただろうに」という言い回しは確かにある。

 この句に関しては、『去来抄』「同門評」にその反論がある。

 

 「取れずバ名もなかるらん紅葉鮒   玄梅

 許六曰、是を説教はねと云。かんぜん者ハなかりけりト也なり。又曰、或人路上にて人に逢て、上へや行ゆくべし、下へや行べしと路ヲ問るが如し。てにをはあハず。

 去来曰、上へや行べしと謂ハ、上ハ疑ひ下は決し語路不通。疑ひて決するといふてにはにもあらず。

 此句このくハ上に疑ひ有りて下をはねたり。

 又らんはらしにかよふ。はねたる事くるしからじ。六曰、穴勝にはねたるをいハず。惣体てにをはあしきトなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.36)

 

 「上へや行ゆくべし、下へや行べし」は普通なら「上へや行かん、下へや行かん」なのだろう。「や‥らん」という係り結びは中世の連歌でも多用されている。もとは「や‥らむ」だったのが、習慣的にはねる(撥音にする)ようになったのだろう。

 これに対し、「上下万民おしなべてかんぜんもの社(こそ)なかりけれ」の場合は「感ぜぬ」の「ぬ」が音便化したものだ。「む」も「ぬ」も撥音便になれば「ん」なので、どっちか紛らわしい時がある。

 論理的に言えば、事実に反するか未来の事に仮定があった場合、その帰結はまだ実現してないのだから、断定よりも推量の方がいいのだろう。他所の国の言語ではそうなる方が普通なのかもしれない。

 これは日本語の癖でもあり、今でも翻訳口調の文章は仮定を推量で受けたりして違和感を覚えることがある。そういうことは昔もあったのだろう。

 

 

32、制の詞

 

 「一、下巻ニ

 蛸壺を駒が林の火桶哉      沼足

 これ眼ある人のすべき事ニもあらず。又撰者の入べき句ニもあらず。

 忝もさるミのニ、『蛸壺やはかなき夢を夏の月』と師の名句いひをき給へる事、一天下しらぬ人なし。是おのづから制の詞也。

 下ハ如何やうにいひかえても、「蛸壺」、此句の眼也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.123)

 

 「制の詞」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「歌学で、聞きづらいとか、耳馴れないとか、特定の個人が創始した表現であるなどの理由から、和歌を詠むに当たって用いてはならないと禁止したことば。藤原為家の「詠歌一体」で説いているが、同様の考えはそれ以前の歌合判詞や歌論書に見出され、俳諧にもある。禁制の歌詞。禁のことば。制詞。

 ※正徹物語(1448‐50頃)上「制のこと葉といひて『うつるもくもる』『我のみ知りて』などいひ出したる一句名哥を」」

 

とある。

 ただ、「蛸壺」が制の言葉だというのが果して芭蕉の意図するところだったのかどうかはわからない。許六自身の思い入れによるものではないかと思う。

 要は「蛸壺」を用いても芭蕉の句とは違う新味が出せればいいのであって、そうでなければ別に「制の詞」を持ち出さなくても単純に「等類」ということになる。

 

 蛸壺を駒が林の火桶哉      沼足

 

 この句の「駒が林」は今の神戸市長田区にある地名で、蛸壺漁の盛んなこの地では蛸壺を火桶(火鉢)にも使っているという句だから、芭蕉の句とはまったく違う。等類とは言えない。

 

 「玄梅が集ニ、惟然が句、

 閑なる秋とや蛸も壺の中

とあり。是猶師の句の下手成物也。

 予が撰集の時も、此句書ておくれり。大きにいやしミ、我黨ハ小便壺へかい捨て侍る也。

 此外いくらも侍れ共、論ずるにいとまなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.123)

 

 岩波文庫の注には玄梅の集は『鳥のみち』とある。

 惟然の句は、確かによくわからない。蛸が蛸壺に入ったら捕らえられて食われてしまうわけで、だからこそ芭蕉も「はかなき夢を」と詠んでいるが、ここではそういう悲劇性が感じられない。

 おそらく自分を蛸に喩えて、壺(自らの草庵)の中に籠って静かな秋を過ごそうという意味の句だったのだろう。まあ、引き籠ってばかりいると、後が大変ということはあるが。

 ただ、これが「小便壺へかい捨て」る程の句かどうか。芭蕉への思い入れが強すぎてこういう発言をするのだろう。

 

 

33、切字を二つ入れてもいい場合

 

 「切字二ツ入ても、習ひに叶へる句もあり。師の句ニも、二ツ入給ふ事稀にてすくなし。今の代の俳諧師、扨々つたなき事也。

 埋木といふ物、版木に出てあり。てには・切字の事、くハしく記ス。見せたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.123~124)

 

 芭蕉の句に切れ字の二つ入った句はほとんどないといっていい。

 

 明月や座にうつくしき貌もなし   芭蕉

 

の句は、死後に発表されているため、元は「明月の」だった可能性もある。

 

 松風や軒をめぐって秋暮ぬ     芭蕉(笈日記)

 

の句も、死後発表されたもので、

 

 松の風軒をめぐって秋暮ぬ     同(翁草)

 松風の軒をめつって秋暮ぬ     同(泊船集)

 

の切れ字一つバージョンもあるので何ともいえない。

 『野ざらし紀行』の、

 

 梅白し昨日や鶴を盗まれし     芭蕉

 

は「し」が二つと「や」が入っている。これは数少ない例か。同じ頃、

 

 辛崎の松は花より朧にて      芭蕉

 

という切れ字のない句を詠んでいる。

 

 蘭の香やてふの翅にたき物す    芭蕉

 

も「や」とあって、「薫物す」と終止言で終っている。

 また、許六がてにはや切れ字を論じる際に参考にいていたのが季吟の『俳諧埋木』だということも明かされている。

 芭蕉もまた伊賀にいた頃は季吟の門だったから、その辺の根底は同じなのだろう。

 

 

34、『初蝉』

 

 「一、第一初蝉といふ題号ハ、『淋しさや岩にしみ込む蝉の声』の句より出たると、惟然坊が書たる事、うたがひあるまじ。

 然る所ニ此句、蝉といふ題号のしかも奥に入たり。是如何成賞翫ぞや。

 題号とする程の妙句を雑句と同じやうに書入る事、題号ニせし賞翫曾てなし。

 うき世の北などいへる集ニ、口へ出す珍しからずと、新ミニ奥ニ書入たりや。是以の外の不賞翫たるべし。

 此集へ出さぬハ、一重賞翫もあるべし。序ニ書たる上ハくるしかるまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.124)

 

 淋しさや岩にしみ込む蝉の声    芭蕉

 

の句は、芭蕉が元禄二年の『奥の細道』の旅の途中、立石寺で詠んだ、

 

    立石寺

 山寺や石にしみつく蝉の声     芭蕉

 

の句を直したもので、最終的には『奥の細道』の、

 

 閑さや岩にしみ入蝉の声      芭蕉

 

に落ち着くのだが、これが発表されるのは元禄十五年でこの『俳諧問答』の五年後になる。この時点では元禄九年刊の風国編の『初蝉』で「淋しさや」の句を知ることになる。

 なお、この前年、壺中・芦角編の『芭蕉翁追悼こがらし』には、

 

 淋しさの岩にしみ込せみの声    芭蕉

 

の形で既に発表されている。

 ただ、ならばなぜ「淋しさや」の句を巻頭に掲げなかったのかと許六は言うわけだが、別にいいじゃないかといいたいところだが、そういうのが気になるのが許六さんなのだろう。

 『猿蓑』のイメージが強すぎるのだろうけど、一句がきっかけになって、それを巻頭に集を作ろうとなるのは極めて稀なことで、『初蝉』の場合は、句も初出ではないし、ただ、題を決める時に参考にした程度だから、わざわざ巻頭に持ってくる必要もないだろう。

 実際の所、「淋しさや」の句が巻頭に掲げられてしまっていたら、元禄十五年に『奥の細道』が刊行されたとき、この句は何だったんだということになりかねなかった。

 当時「閑かさや」の最終形を知っていたのはまだ限られていた。野坡本を持つ野坡、曾良本を持つ曾良、清書をした素龍、素龍本を保有していた芭蕉の兄半左衛門、それを受け継いだ去来くらいだったか。風国は去来と交流があったから、ひょっとしたら何らかの形で最終形が存在することを知ってたのかもしれない。

 『奥の細道』の公刊に向けて周到な準備がなされていた時期なら、あえて目立たない形で『こがらし』既出の句を載せたのかもしれない。『初蝉』のタイトルも、蝉の字が入っているだけで、「初」は芭蕉の句にはない。「淋蝉」だったなら巻頭に置いても良かったかもしれない。

 

 

35、「秋来ぬと」

 

 「一、菊の香ニ云ク、

 秋来ぬと桔梗刈かや売にけり     風国

 此ク、『秋来ぬと』五文字をかば、下のとまりにてハあしく、とまらず。

 歌仙ノ内

 秋来ぬとめにハさやかに見えね共

   風の音にぞおどろかれぬる   作者おぼえず

 六百番歌合

 秋来ぬと風のけしきハみゆれ共

   猶涼しさハをとせざりけり   経家卿

 此二首の歌にてしれたり。

 『秋来ぬと』いふハ、下ニてにはをまハらする為における五文字なり。此句、下ニ『けり』と治定せり。五文字不用の句也。

 心かくれたる所なけれバ、人々よろしからぬ句と斗見なして、気をとどぬる人なし。

 『売にけり』といふとまりハ、下へつづかず。五文字へもどる心なくてハ、『秋来ぬと』ハをくべからず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.124~125)

 

 「秋来ぬと」は許六によれば、下に「秋来ぬ」の内容を受ける言葉で、その内容によって秋来ぬとしなけらばならない。

 例とした挙げた和歌でいえば、「めにハさやかに見えね共風の音にぞおどろかれぬる」ので秋が来たなあとなり、「風のけしきハみゆれ共猶涼しさハをとせざりけり」なので、まだ秋が来てまもないなあとなる。

 これでいうと、

 

 秋来ぬと桔梗刈かや売にけり     風国

 

の句は、桔梗刈かやを売りに来たからあきがきたんだなあ、ということになる。

 これは「と」という助詞に、自分がそう思うというよりも人はそう思うという無人称を読み取るからではないかと思う。

 秋来ぬと人はいうけれど、眼にはさやかに見えない。秋来ぬと人がいうとおり、風のけしきはみえる。こういう続き方からすれば、秋来ぬと人はいうが、桔梗刈かや売りにけり、では確かにおかしい。

 

 「此句、

 秋来ぬと桔梗刈かやをぞ売にける

とあらバ、一句もとまり、五文字の『秋来ぬ』相続すべし。

 撰者かやうのてにハしり給はずして、撰集扨々おぼつかなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.125~126)

 

 「桔梗刈かやをぞ売にける」は「桔梗刈かやを売にけるぞ」の倒置。秋が来たと人は言うが、そういえば桔梗刈かやを売りに来ているなとなれば、句は丸く収まる。

 思うに風国は「秋来たり、桔梗刈かや売りにけり」と言いたかったのではないかと思う。ただ、これだと切れ字が二つ入ってしまうので、上五に「と」を入れて回避しようとしたのではないかと思う。

 

 

36、疑いの「や」(三)

 

 「一、同

 秋風や誰にかミつく栗のいが  豊後 幽泉

 此五文字のや、うたがひ也。又『誰にかミつく』と二ツうたがひあり。

 『秋風や』とかける程に、秋風の事あるべしとおもふ時、曾て秋風の事なし。下ハ栗のいがの事にて果たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.126)

 

 この「や」は詠嘆の「や」と言っていいだろう。「秋風に」でも「秋風は」でも「秋風を」でも「秋風の」でも意味が通らない。噛み付く栗のイガに対して秋風は直接的な関係がなく、近代俳句でいう二物衝突といってもいい。ある意味近代的な句だ。

 

 「秋の風誰にかミつく栗のいが

 とあらバ、秋風にゑめるいがハ、『誰にかみつく』ときこえべし。

 『秋風や』の字ニて、跡に風の詮なし。曾てきこえず。二ツに成也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.126)

 

 「ゑめる」は「笑める」か。秋風ににっと口を開く栗のイガが、一体誰に噛み付くというのか、という反語になる。ただ、これは作者の意図とは逆だろう。多分、口をあけて中の栗が見えている状態を歯を剝き出しにしているとしたのではないかと思う。それだと秋風と栗のイガは特に必然性もなく並列されているだけで、「二ツに成也」つまり二物衝突の句となる。

 

 行あきや手をひろげたる栗のいが  芭蕉

 

の句があるが、これに影響されたか。

 芭蕉のこの句は「行あきに栗のいがの手をひろげたるや」の倒置で、秋も終わり頃になると実を握っていた栗のイガが力尽きて実をこぼす様を詠んでいる。「行く秋」と「手を広げたる」の間には十分な必然性がある。

 

 「晋子が句ニ

 初雪や内に居さうな人は誰

といふ句、『初雪や』とうたがひて、跡の詞全体雪の噂さ也。此句、『秋風や』といひて、跡ハ栗の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.126~127)

 

 晋子(其角)の句は「初雪や」のあとにその雪の話題が続くが、幽泉の句は「秋風や」のあと秋風と関係なく栗の話になる。

 

 「切字二ツ入て一句きこえる発句ハいくつもあれ共、成程一句連続してきこえ侍る句ならでハ、二ツ三ツハ入がたし。二字切・三句切ハ此格也。此句、

 初雪に内に居さうな人ハたれ

といはむけれ共、にの字重畳せる故に、『初雪や』とをきて、やの字ハ畢竟捨やの心也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.127)

 

 其角の句は「初雪に内に居そうな人は誰」の「に」の重複を嫌うもので、「誰」の内に含まれている疑いに意味を、倒置にするという、隠れた「や」を前に持ってきたわけだ。

 今の言葉だと「誰(だれ)や」というが、この場合の「や」は「誰?や?」と二重に疑ってはいない。この「や」は詠嘆の「や」(あるいは関西弁の「や」)だ。芭蕉の時代だと「誰ぞ」とするのが普通だ。「誰(た)ぞや」とは言う。

 

 

 「かやうの句の真似をして、俗俳共、てには自由にをくといへ共、てにハといふ物、一字も動かしがたし。

 おそろしや誰にかみつく栗のいが

とあらバ、如何にも「や」として、誰共いはれむか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.127)

 

 幽泉は其角の真似をしたのではなく、おそらく口語としては既に用いられていた詠嘆の「や」(関西弁の「や」)を取り入れたのだろう。てにハという物、時代によって動くものだ。

 

 「おそろしや」の案は「おそろしや」の内容をその後に続けるから意味が通る。

 

 

37、闇夜

 

 「一、同じ集ニ

 稲妻のかきまぜて行くやミ夜哉  先生の句也

 やミ夜の事、耳にたち侍る。月夜・月の夜等ハ、いひふるしたる詞也。やミ夜とハ、都鄙きかぬ通俗也。

 ケ様の事、本歌ありてハ作者の手柄なし。新ミにいひ出すを手柄なれバ、定て證歌ハあるまじ。

 やミと斗ハ、歌にもよみ、通俗の言葉にもいひならハせ共、夜の字入時ハ、てにハなくてハいはず。おぼつかなし。承度事。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.127~128)

 

 要するに、「闇夜(やみよ)」という言葉は聞いたことがないというわけだ。

 今日では「闇夜の烏」だとか、「闇夜に咲く花」だとかいうが、許六の時代でそれほど用いられない言葉だったか。

 ただ、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 やみの夜。月の出ていないまっくらな夜。暗夜(あんや)。闇の夜(よ)。

 ※万葉(8C後)九・一八〇四「闇夜(やみよ)なす 思ひ迷(まと)はひ 射ゆ鹿(しし)の 心を痛み 葦垣の 思ひ乱れて」

 

とあるから、万葉の時代からあった言葉だったのか。もっとも、万葉は漢字で書かれていて訓のつけ方も時代によって変わる。「ひむがしののにかぎろひのたつみへて」は賀茂真淵以降で、それ以前は「あづまのにけぶりのたてるところみて」だった例もある。

 『去来抄』には、

 

 「電(いなづま)のかきまぜて行闇よかな   去来

 丈草・支考共曰、下の五文字過すぎたり。田づらとか何とぞ有たし。去来曰、物を置をくべからず。ただ闇夜也。両子曰、尤(もっともの)句にして拙しと論ズ。其後草に語りて曰、退ておもふに両士は電の句と見らるる也。ただ電後闇夜(でんごあんや)の句也。故に行とハ申侍る。草曰、さバかりハ心つかず。いかが侍らん。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.35~36)

 

とあり、別に「闇夜」が聞いたことがないなんてことは言っていない。京都と彦根では差があったのか。

 ここでの議論は、稲妻は闇夜に光るもので、当たり前のことを言ってるだけではないかというもので、「田づら」とか何か景物が欲しいということだった。

 

 

38、「簀戸」と「簀の戸」

 

 「一、同じ集に、

 かたはらもいたむ簀の戸や冬の月   風国

 簀の戸、ききなれず。簀戸とハいふ也。詞たらぬゆへに、てにはを入て連続させたると見えたり。是こまり也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.128)

 

 「簀戸(すど)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 竹を粗く編んで作った枝折戸(しおりど)。

  2 ヨシの茎で編んだすだれを障子の枠にはめこんだ戸。葭戸(よしど)。《季 夏》

  3 土蔵の網戸。

  4 「簀戸門(すどもん)」の略。」

 

とある。ちなみに「簀の戸」という項目はない。許六の言うとおり、字数合せで「の」の字を入れたものと思われる。

 蕪村も牡丹を「ぼうたん」と読ませて字数を調整したが、近代俳句ではそれに習って多用されたため、俳句の世界では「ぼうたん」は有りになっている。

 「簀の戸」も結局真似て使う人が多くなれば、それはそれで有りということになっていたのだろう。

 人が歩けばそこに道ができるように、みんなが使えばそこに言葉ができる。

 

 「一、同じ集に、

 命二ツ中に活たる桜哉      翁

 是、『命二ツの』と文字あまり也。

 予芭蕉庵にて借用の草枕ニ、慥にのの字を入たり。のの字入て見れば、夜の明るがごとし。しらざる時ハ是非なし。しかし風国が文章に、のざらしの集などいへる事あれバ、見ざるともいひがたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.128~129)

 

 この句は『野ざらし紀行』の水口で詠んだ句で、

 

 命二つの中に生たる桜哉     芭蕉

 

の形で今日では知られている。

 許六も「の」が入ることを芭蕉庵で確認している。

 風国はこの翌年の元禄十一年に『泊船集』を編纂し、そこに「芭蕉翁道乃紀」というタイトルで、今で言う『野ざらし紀行』を紹介している。芭蕉のこの文章には本来タイトルはなく、『甲子吟行』だとか『野ざらし紀行』だとかは後から付けられたタイトルだった。

 この『泊船集』の方はネットで早稲田大学図書館のものを見ることができるが、「二ツ」となっている。ツの右側の斜めの線が長く引き伸ばされているが、別に「ノ」と連綿しているわけではなさそうだ。

 あるいは風国が見た写本は「ツ」と「ノ」が連綿していてわかりにくかったのかもしれない。

 芭蕉自筆の天理本は確認してないが、岩波文庫の『芭蕉紀行文集』の中村俊定校注の天理本には「いのちふたつの」となっている。同じく芭蕉自筆の『甲子吟行画巻』には「二」の文字の下に「能」に由来する変体仮名の「の」の字が書かれている。

 ネット上にある濱森太郎「孤屋本『野ざらし紀行』再論(下)」には、

 

 「許六は恐らく、芭蕉の指導を受けた江戸在勤中(元禄五・六年)、『紀行』を借覧する機会を得ていたものと思われる。その時、画才の豊かな許六が借覧するにふさわしい本分は『濁子清書画巻』(または同系の一本)ではあるまいか。」

 

とある。

 許六はこの『俳諧問答』の後、『泊船集』の「芭蕉翁道乃紀」を読み、自分の知っているのと違うと思ってそれを手直ししたのが孤屋本の『野ざらし紀行』(元禄十一年六月の奥書)たっだのではないかと、濱森太郎氏は推定している。

 いずれにせよ、芭蕉の真蹟が二つとも「の」が入っているのだから、「の」が入っている形が芭蕉の本来意図した形と見て間違いはないだろう。

 

 「一、同じ集ニ、

 爰もはや馴て幾日ぞのミしらミ    惟然

 扨々大切成ル切字を大分入て、手間を入られたれ共、弥きこえ兼侍る也。『はや』の『や』も、七ツのやの中にて、切る也。『いく日ぞ』の字、三ツ入たり。ぞの字曾てきこえず。のの字たるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.129)

 

 これはどうだろうか。「はや」は「早い」の「や」で切れ字とは思えない。「も+は+や」という三つの助詞の重なったものだと思ったのだろうか。

 ただ、「いくつ」だとか「いずこ」だとか「いかに」だとかいう疑問の言葉には、本来雅語では「ぞ」で結ぶことはなかったのかもしれない。芭蕉の句にも思い浮かぶものがないから、疑問を強調するために「ぞ」を添えるのは口語の用法だったのかもしれない。「誰(た)ぞ」とは言うからそれが拡張されたのか。

 

 「一、此外合点そがたきてにはあれ共、ながく成るゆへ、其分にさし置く。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.129)

 

 ここで一応の区切りになると思ったら、その後も北枝の句でまたてにはの論になる。まあ、このあたりは少し省略する。

 

 

39、疑いの「や」(四)

 

 「一、加賀北枝集に云ク、序ニ翁三年忌に木曽塚へ上りて、追善の句書入たり。

 笠提て塚を廻るや村しぐれ

と云句也。此一句にて、大方奥まで決定せり。

 句にかくれたる事なし。湖南の衆もとりたるか、集の序文ニハ書入たり。

 中の七字のやの切字、うたがひ也。遥々加州より師の追善ニ上りて、何のうたがひあるいや。

 惣別自句・他句といふ事をしらぬ程の作者也。此句ハ北枝が句ニハあらず。『塚をめぐるや』といへば他句也。自句ニハ非ズ。加賀の友などの句にて、北枝の事をおもひやりたる句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.130~131)

 

 句は「村しぐれに笠提て塚を廻るや」の倒置。折からの時雨も止み笠を手に持って芭蕉を祀った木曽塚を訪れたのだろう。

 他人から見れば「訪れたのだろう」でいいが、本人が行ったのなら「尋ねた」というところで、「廻るや」と疑ってしまうと他人の推測になってしまう。

 後に去来は『去来抄』でこう反論している。

 

 「笠提て墓をめぐるや初しぐれ    北枝

 先師の墓に詣ての句也。許六曰、是ハ脇よりいふ句なり。自ラ何の疑有てやとハいはん。去来曰、やハ治定嘆息のや也。常に人を訪にハ、笠を提さげて門戸に社入レ。是ハおもひのほかに墓をめぐる事哉やといへる也。凡ほ句ハ一句を以て聞べし。笠提て門に這入やといはば疑なき外人の句也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.31)

 

 ここでは「塚」が「墓」になっている。内容的には大きな違いはない。

 去来はこの句の「や」を「治定嘆息のや」と言っている。

 ただ、後世でいう「詠嘆」と違うのは、「治定」というところに、不確定な所を決定するという含みを持っている。つまり「かな」と同じような用法になる。

 前回「疑いのや」に二種類あって、主観的で空想的な内容を「かのようだ」というニュアンスで受ける「や」と、もう一つ古池の句のような「だろうか」というちょっとぼやかした治定で用いる「や」があった。去来は後者を「治定嘆息のや」と言ったのかもしれない。

 「治定嘆息のや」であれば、「かな」との交替も可能だ。

 たとえば、

 

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

 

は、

 

 木のもとや汁も膾も散る桜

 

としてもそれほど意味は変わらない。

 

 古池や蛙飛び込む水の音     芭蕉

 

も、

 

 古池に蛙飛び込む水音哉

 

ともできなくはない。

 去来も「是ハおもひのほかに墓をめぐる事哉や」と「哉」に「や」を加えている。

 ただ、北枝が芭蕉の追悼に木曽塚を訪れたのなら「おもひのほか」ではなかったはずだ。

 むしろここは「折から初しぐれ日に塚を廻ることができるとは」と取った方がいいかもしれない。

 「初しぐれ」といえば、「猿に小蓑を」の句がすぐに思い起こされる。その初しぐれの日に塚を廻ることのできためぐり合わせに、単に事実として「塚をめぐれり」ではない感動があったとしたら、「や」で治定する理由もあったといえよう。

 

 「やと切字を入るれバ、発句に成と斗おもふ程の作者、撰者する事あハれ也。とりて追善ニしたる湖南の作者達、同じめくらのあつまり也。

 其追善に手向る人ハ、俳諧名人の師匠也。北枝ごときの者ニ手向侍らバ、霊魂の□□事もあるべし。師ハ此追善、とり申さるる事にハあるまじ。又自句をやるとて、丈草の庵と云句もききあき侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.131)

 

 まあ、今ならネットで「桟や」の句を持ち出されてブーメランになりそうだ。

 丈草の「庵と云句」は、『初蝉』の、

 

 死ンだとも留守ともしれず庵の花  丈草

 

の句だろうか。同じ『初蝉』に、

 

   芭蕉翁塚にまうでて

 陽炎や塚より外に住ばかり     丈草

 

の句もある。

 死んだとも留守とも知れずひっそりと庵に暮らす自分、まだ塚には入っていないが陽炎のような自分、これがまあ丈草らしい自句だが。

 

 

40、暮秋

 

 「一、暮秋と云題号して、予が句ニ

 大き成る家ほど秋の夕べ哉

と云句、暮秋の巻頭に入たり。

 此句暮秋の句ニあらず。古来秋の暮、暮秋にあらずと定まれり。只、秋の夕間ぐれと云事のよし。

 則あら野集にも中秋の部に入たり。春の暮といふに対して、秋のくれを暮秋と心得たる人、稀々あり。秋のくれのあハれよりハ、猶あハれ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.131~132)

 

 「秋の暮れ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 秋の季節の終わり。暮れの秋。暮秋。晩秋。《季・秋》

 ※千載(1187)秋下・三三三『さりともとおもふ心も虫のねもよわりはてぬる秋のくれかな〈藤原俊成〉」

 ※俳諧・野ざらし紀行(1685‐86頃)『しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮』

  ② 秋の日の夕暮れ。秋の夕べ。《季・秋》

 ※源氏(1001‐14頃)夕顔『すぎにしもけふわかるるも二みちにゆくかたしらぬ秋のくれかな』

 ※俳諧・曠野(1689)四『かれ朶に烏のとまりけり秋の暮〈芭蕉〉』」

 

とある。

 和歌では「秋の夕暮れ」というと『新古今集』の三夕の歌が有名だが、ネット上の『万葉集と八代集における「夕暮の歌」』(金中)によれば、「秋の夕暮れ」が和歌に詠まれるのは『後拾遺集』以降になる。

 それに対し、「秋の暮れ」ではないが「秋は暮るらむ」なら『古今集』に、

 

 夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿の

     声のうちにや秋は暮るらむ

               紀貫之

 

の歌がある。暮秋の意味で用いられている。

 『後拾遺集』には、

 

 寂しさに宿を立ち出でて眺むれば

     いづこも同じ秋の夕暮れ

               良暹法師

 

の歌とは別に、暮秋の秋の夕暮れを詠んだ歌が見られる。

 

   九月尽日よみ侍ける

 秋はただけふはかりそとなかむれは

     夕暮にさへなりにける哉

               法眼源賢

   九月尽の日いせ大輔かもとにつかはしける

 としつもる人こそいとどおしまるれ

     けふはかりなる秋のゆふくれ

               大弐資通

 

暮れの秋のさらに秋の暮れということで紛らわしい。

 『千載集』には、

 

   山寺秋暮といへるこころをよみ侍りける

 さらぬたに心ほそきを山さとの

     かねさへ秋のくれをつくなり

               前大僧正覚忠

 

の歌がある。

 「精選版 日本国語大辞典の解説」で引用されていた、

 

   保延のころほひ、身をうらむる百首歌よみ侍りけるに、むしのうたとてよみ侍りける

 さりともとおもふこころもむしのねも

     よわりはてぬる秋のくれかな

               皇太后宮大夫俊成

 

の歌は、九月尽ではなく暮秋の虫の音の所に配置されている。

 

   百首歌たてまつりける時、よみ侍りける

 夜をかさねこゑよわりゆくむしのねに

     秋のくれぬるほとをしるかな

               大炊御門右大臣

   きりきりすのちかくなきけるをよませ給うける

 秋ふかくなりにけらしなきりきりす

     ゆかのあたりにこゑきこゆなり

               花山院御製

 

の次に並べられているから、この「秋のくれ」は暮秋のことで、秋の夕暮れのことではない。

 このことからすると、「秋の暮れ」を暮秋のこととするのも間違いとはいえない。むしろ「秋の暮れ」は暮秋と夕暮れの両義を持つといっていい。

 たとえば、

 

 枯枝に烏のとまりけり秋の暮   芭蕉

 

は「枯枝」という所に晩秋を感じさせるし、この秋の暮れは暮秋の秋の夕暮れという両方の意味を含んでるといった方がいい。

 

 此の道や行く人なしに秋の暮れ  芭蕉

 

 この句も九月二十六日の興行の発句で九月尽に近く、やはり暮秋の秋の夕暮れという両方の意味を持つ。

 『阿羅野』では確かに仲秋の巻頭から、

 

 かれ枝に烏のとまりけり秋の暮  芭蕉

 つくづくと絵を見る秋の扇哉   小春

 谷川や茶袋そそぐ秋のくれ    益音

 石切の音も聞けり秋の暮     傘下

 斧のねや蝙蝠出るあきのくれ   卜枝

 鹿の音に人の貌みる夕部哉    一葉

 

と並び、秋の暮れと「夕べ」の句が並ぶ。ただ夕べといっても「鹿の音」の句で、秋の夕暮れそのものを詠んだ句ではない。

 ただ、その一方で『猿蓑』の秋の一番最後の句が、

 

 塩魚の葉にはさかふや秋の暮   荷兮

 

の句になっている。

 『炭俵』の、

 

 秋のくれいよいよかるくなる身かな 荷兮

 

の句は砧と茸狩の句に挟まれているが、秋の後ろから六番目に位置している。

 『続猿蓑』はこの頃まだ許六は読んでないが、

 

   暮秋

 廣沢や背負ふて帰る秋の暮    野水

 行秋を鼓弓の糸の恨かな     乙州

 行あきや手をひろげたる栗のいが 芭蕉

 

の三句が並べらている。

 「秋の暮」については当時確かに混乱していたが、おおむね「暮秋」の意味で用いられていたといっていいのではないかと思う。

 

 「秋のくれと云句二ツ、余は行秋と云句也。秋のくれと云共、暮秋の心を兼たる句もあり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.132)

 

 この三句が何を指すのか明示されていないが、許六・李由撰『韻塞』の九月の所の末尾三句か。

 

 のびのびて衰ふ菊や秋の暮    許六

   謝芭蕉被訪草庵悦而旧交

 十年もこと葉一つよ暮の秋    蝉桃

 行秋や身に引きまとふ三布蒲団  翁

 

 二句目は「暮の秋」になっている。許六の記憶違いか。

 三句目の「三布蒲団(みのぶとん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (『の』は布の幅) 三幅の布で作った蒲団。敷蒲団に用いる。みの。

 ※俳諧・韻塞(1697)九月『行秌や身に引まとふ三布蒲団〈芭蕉〉』」

 

とある。

 「暮秋の心を兼たる句」が次の文章に繋がる。

 

 「予が撰集、予が句に、

 のびのびておとろふ菊や秋の暮

と云ハ、暮秋を兼て、九月の中に入れたり。秋の暮ハ、皆八月ニ入るなり。

 此集も、てにはあやまり論ゼバいとまなし。序文の自句にて大方しれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.132)

 

 「皆八月」とは言っても八月の所には、

 

 大きなる家ほど秋のゆふべかな  許六

 

の句しかない。

 それに、「のびのびて」の句は特に夕暮れという感じがしない。普通に「暮の秋」の意味でよかったのではないかと思う。

 「序文の自句」は『韻塞』が乾と坤に分かれている、坤の方の序文の、

 

 水すじを尋ねて見れば柳かな

 

の句のことか。

 今の表記法だと違和感はないが、当時の書き方だと「水すじを尋て見ば柳かな」と書くところで、ある意味で近代的だ。

 自分の撰集についてこのように言うということは、結局てにはの間違いは版本にする段階の校正の問題だったのか。まあ、当時は校正を専門にやる人はいなかったのだろう。

 

 

41、高弟への注意

 

 「一、予が難問に云ク、近年ミだりかハしき集共出ると云ハ、如此の事也。見極て申侍る。過言ニハあらず。高弟よくきき分ケ給ヘ。一句無理にきこえ侍るといへば、是非なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.132)

 

 高弟へ注意しているのは、どこの撰集を見ても結局間違いが多いということで。それを真似するなということだったのではないかと思う。

 間違っているものを無理矢理こじつけたり、想像力をたくましくして意味を補ったりして、強引に理解するようなことをする必要はないが、ただ気を利かせて直してしまうと、実は間違いではなく深い意味があるのかもしれない。難しいところだ。

 『野ざらし紀行』の、

 

   二月堂に籠りて

 水とりや氷の僧の沓の音     芭蕉

 

の句も、蝶夢(ちょうむ)編の『芭蕉翁発句集』(安永三年刊)では「水とりやこもりの僧の沓の音」とあり、また、『芭蕉句選』(元文四年刊)では「水鳥や氷の僧の沓の音」と書かれていたという。

 芭蕉真筆の原稿であってもこれは間違っていると思って、あえてこのように直したのだろう。本人はもはや故人となっているから、確かめることも出来ない。

 実のところ今日の我々も本当にこの句が真筆通りだったのかどうか証明することはできない。ただ真筆であるがゆえに尊重すべきと考えているだけだ。ただ、芭蕉真筆にも誤字はある。どんな物事でも絶対はない。

 

 「一、ありそ・となみの二集、かなの書違ひの事、上巻序文三枚めニ、えもいわれぬ趣の浮びける、又同じ三枚ノ終ニ、杖のあとをしたわれけん筆のあと、二ツながら、はのかな也。わにハあらず。此外上下巻共に、少々『は』の字書違ひ、「を』の字の相違見え侍れ共、執筆のあやまり、しいて論ずるに及ばず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.133)

 

 浪化編の『有磯海』『となみ山』(元禄八年刊)の二集には「は」とかくところが「わ」になってたり、「を」になってたりするという。

 『有磯海』は早稲田大学の古典籍総合データベースというサイトで見ることができる。確かに「王」という字を崩した変体仮名の「わ」が記されている。この字は「者」という字を崩した変体仮名の「は」と似ているため、版を起す過程で間違えたのだろう。この字は「遠」の字を崩した「を」とも似ている。

 

 

42、行灯ゆりけす

 

 「一、猿ミの下巻俳諧ニ云、

 草村に蛙こハがる夕まぐれ

 蕗の芽とりに行灯ゆりけす

 此句、ゆりの字、前にもたれてむづかし。『行灯さげ行』としたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.133)

 

 これは「市中や」の巻の八句目で、

 

   草村に蛙こはがる夕まぐれ

 蕗の芽とりに行燈ゆりけす     芭蕉

 

の句だ。

 これについては随分前に書いて「鈴呂屋書庫」にアップしている「『市中は」の巻、解説」を引いておこう。

 

 「前句の「蛙こわがる」を乙女の位(くらい)に取り成す「位付(くらいづ)け」。大の男が蛙を恐がれば滑稽だが、かわいらしい女の子が蛙を見て「きゃっ!」と言うのは今も昔も定番か。

 蕗の芽は「ふきのとう」のことで、夕方のお使いか。持っていた行灯をゆり消してしまうと、あたりは真っ暗でもっと恐い。

 ‥‥略‥‥

 確かに、蛙を恐がって刀を抜く、蛙を恐がって行灯をゆり消す、趣向が似ていて輪廻ではないかと言われれば、そう言えなくもない。その重複をうざいと言われればそうなのかもしれない。

 おそらく、それは芭蕉も考えたことであろう。似たような場面がこれより前まえの『奥の細道』の旅の途中で巻かれた「馬かりて」の巻に見られる。この時の様子は北枝が『山中三吟評語』に記している。その中六句目だ。

 

    青淵に獺の飛こむ水の音

 柴かりこかす峰のささ道     芭蕉

 

 打越は、

 

 鞘ばしりしをやがてとめけり   北枝

 

で、曾良の前句は『鞘ばしりし』を刀を抜く動作としてとらえ、『くせもの!』とばかりに刀を抜き放ったものの、何だ川獺かという落ちにする。どこか凡兆の句くと発想が似ている。

 芭蕉はこの川獺の句に付けるとき、『柴かりたどる』『柴かりかよふ』とも案じたあと『柴かりこかす』にしたという。

 『柴かりこかす』だと、川獺の音おとにびっくりして芝を刈っている人がこける、という意味になり、同じくびっくりして刀を抜くという打越とかぶってしまう。

 許六の『蕗の芽とりに行灯さげ行ゆく』の改案は、『柴かりたどる』『柴かりかよふ』に似てないか。おそらく芭蕉も許六が考えるような案は考えていたと思う。やや輪廻気味という嫌いはあっても、あえて芭蕉は句そのものの面白さを選んだのではなかったか。」

 

 今の自分にこれに付け加えることはない。

 

 

43、こくめんな顔

 

 「咳聲の隣ハ近き縁づたひ

 添へバそふほどこくめんな顔   園風

 此句、『添』字、前句の噂さ也。『見れバ見るほど』としたし。

 『ゆり』の字、前句にしたるし。『添』の字ハ、一向に前句の噂さ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.133~134)

 

 この句は「梅若菜」の巻の三十二句目。

 

   咳聲の隣はちかき縁づたひ

 添へばそふほどこくめんな顔

 

 これも「鈴呂屋書庫」から。

 

 「『こくめん』は黒面と書くが克明から来た言葉で、誠実だとか律儀だとかいう意味だという。何で克明が黒面になったのかはよくわからないが、あるいは定番が鉄板になったような言い間違いが定着したものか。

 句の意味は、隣の咳払いした人のことを、その奥さんの側にたって、添えば添うほど生真面目な人だということだろう。ただ逆に、咳をした人の奥さんが誠実だとも取れる。咳をした人が女性だった可能性を含めると四通りの解釈が可能になる。

 許六は『俳諧問答』のなかで、「此句、『添』字、前句の噂さ也。『見れバ見るほど』としたし。」と言っている。確かにこの混乱は隣人の咳を聞きながら、その聞いた人の感想ではなく隣人の配偶者の側に立った推測だというところからくる。『見れば見るほど』だと咳の主が黒面ということになる。

 そういうわけで、古註の解釈も割れている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は妻の方を黒面とし、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)、『俳諧猿蓑付合注解』(桃支庵指直著、明治二十年刊)は夫のこととする。」

 

 克明が黒面になった理由はわからないが、今日の「鉄板」という言葉と似ているのではないかと思う。

 「鉄板」は本来は「定番」と言うべきところだったのだが、多分誰かが言い間違えて「てっぱん」と言ってしまったところ、鉄板のように硬い定番ということで定着してしまったのだと思う。

 真面目に働いている人は日焼けして顔が黒いところから、「黒面」になるほど克明ということになった可能性はある。

 ただ、今気付いたが、許六は肝心なことを忘れている。それは打越が、

 

 醤油ねさせてしばし月見る    猿雖

 

なので、「見る」はここでは使えない。

 

 

44、奉行の鑓に誰もかくるる

 

 「深川集に出る予が宅のはいかいニ云、

 今はやるひとへ羽織を着つれたち

 奉行の鑓に誰もかくるる     翁

 此巻出来終て師の云ク、此誰の字、全ク前句の事也。是仕損じ也といへり。

 今此句に寄て見る時、右両句前句ニむづかし。予閑に察して云ク、第一時代の費あり。又ハ師名人たりといへ共、執着の病あり。師さへ如此し。門人猶以たるべし。前句ニ着シ、題ニ着する事、人情の病也。毎度此俳諧をよむ時、したしきやうにおぼゆ。

 退て吟味すれば、此二字前句にむづかし。師在世の時、此事沙汰侍らずや。先生よくしり給ハむ。次でながらしるす。外へハ弥沙汰なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.134~135)

 

 これは元禄五年十二月上旬、許六亭での興行された、

 

 洗足に客と名の付寒さかな    洒堂

 

を発句とする歌仙で、三十二句目に、

 

   今はやる単羽織を着つれ立チ

 奉行の鑓に誰もかくるる     芭蕉

 

とある。

 前にも述べたが、「誰も」の誰は「今はやる単羽織を着つれ立チ」たむろしていた衆そのもので、重複になるというわけだ。「さっとかくるる」くらいでも良かったということだろう。

 「誰も」だと登場人物が複数いなくてはいけないが、なければ一人でもいいことになり次の句の展開の幅が広がる。

 『山中三吟評語』に、「馬かりて」の巻の四句目、

 

   月よしと角力に袴踏ぬぎて

 鞘ばしりしをやがてとめけり   北枝

 

の句の時、

 

  鞘ばしりしを友のとめけり   北枝

 「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る

 

と言ったのと同じで、この場合も相撲を取る場面では人が何人か集まっているさまが想像できるから、「友」と言わなくても意味は伝わる。

 友の字がなければ次の句の登場人物は単体でもよくなり、

 

   鞘ばしりしをやがてとめけり

 青淵に獺の飛こむ水の音     曾良

 

という展開が可能になる。曲者!とばかりに刀を抜き放つと、何だ川獺か、という落ちになる。

 許六もそのときは気付かなかったのだろう。言われて見るとなるほど重複してうざいかな、ぐらいのところか。

 こうした細かいことを後になってから気にするのは、一に執着の病、二に人情の病で、それほど問題にすることでもない。

 

 

45、そもそも言葉とは

 

 「一、夫レてにはと云物を人々心安くおもひなして、いたづらにをく事、元来つたなき故也。てにはハ我朝やまと詞の根本也。

 芭蕉をはせをと訓じ、蘭をらにと訓ずるハ、是やまと詞となすべき為に、かくハ訓じ侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.135)

 

 さて、今までいろいろと、てにはがまずいだの変だの指摘してきた許六さんだが、ここでそもそも「てには」とはというそもそも論に入る。

 「心安くおもひなして」は安易に考えてということ。「いたづらにをく」は無自覚に用いるくらいの意味か。大体文法というのはどこの国どこの言語でもそういうもので、ほとんどの人が無自覚に用いているのが普通だ。

 外国語を習う時と違い、母国語は赤ちゃんの時に自然に習得する。だから一々文法を学んだりしない。ただ習慣として身につけ使いこなしている。それは「つたなき故」どころか、むしろこうした自然言語こそが「詞の根本」だというのが今の言語学の考え方だ。

 ただ、「雅語」のような学習を必要とする共通言語ともなると、それはむしろ規範言語であり、「てにはハ我朝やまと詞の根本也」というのはそういう規範言語に当てはまる。

 自然言語としての日本語は昔から様々な方言やスラングや業界詞などによって細分化され、「てには」の使い方も必ずしも一定ではない。ただ、俳諧の詞は雅語に俗語を交えたものが基本になり、芭蕉やのちに惟然がより自然言語に近づけようとしてはきたものの、基本的には規範言語を脱するものではない。

 それは明治の言文一致運動にしても同じで、言文一致は同時に規範言語としての標準語制定運動と並行して起きたものにほかならない。書き言葉を話し言葉にあわせるだけではなく、話し言葉そのものを人工的に作られた標準語にあわせてゆこうというものだった。

 もちろん、この鈴呂屋俳話の文章も書き言葉であって、実際に私はこのように喋ることはない。

 余談だが、子供の頃筆者は作文が大の苦手だった。感想文とか書かされても断片的ないくつかの文章を綴るのがやっとだった。ところが高校生の頃だったか、急にいくらでも文章が書けるようになった。書き言葉で思考できるようになったからではないかと思っている。

 雅語の習得も、結局は雅語で思考できるかどうかの問題ではないかと思う。こうした規範言語の立場からすると、自然言語は粗雑で乱暴で拙いということになる。

 許六のいう「やまと詞」は雅語であり、本来古代中国語だった詞が雅語の中に取り込まれた例として、芭蕉(はせを)、蘭(らに)を例に挙げている。「やまと詞となすべき為に」というのやまと詞に取り込むためと言っていい。

 

 「されバ、やまとの地において、草木・土石・風水のひびきまでも、皆歌也。まして人間の言葉においてをや。

 花になく鶯、水にすむ蛙も歌をよむとハ、古今集の序文也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.135)

 

 ここでいうやまと詞が雅語である以上、それは和歌の詞だ。「草木・土石・風水のひびき」が雅語によって表わされる限りでは、それは歌の詞だ。

 「草木」はただの生物学的な植物でなく、歌に詠まれ、そこに古来様々な感情が託された時、それはやがて様々な古歌の記憶を喚起する詞となる。

 「虫の音」も日本人にとってただの雑音ではなく、左脳で一種の「詞」として処理されるのは、それが古人から引き継がれた「虫の音」の情を喚起するからに他ならない。

 雅語に親しみ、雅語で思考できるようになった時、草木・土石・風水のひびきはみな古歌の情を引き起こすものとなる。

 ただ、「花になく鶯、水にすむ蛙も歌をよむ」という『古今集』仮名序の詞は、鶯や蛙が和歌の情を引き起こすというよりは、鶯の囀りも蛙の声も原始的な歌だという意味ではないかと思う。動物が声を出すように、人も声を出す。

 『詩経』の大序に、

 

 「言之不足、故嗟嘆之。嗟嘆之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈之也。(言うだけでは足りなくて叫ぶ。叫んでも足りなくて歌う。歌っても足りなくて手は舞い、足はステップを踏む。)

 情發於聲、聲成文。(感情は声によって発せられ、声は文章となる。)」

 

というように、ただ言葉で何らかの概念を伝達するだけでなく、そこに様々な感情が込められ、叫んだり歌ったり踊ったりする、その感情の発露は、根源を辿るなら鶯の囀りや蛙の声から進化したものだと考えられる。

 ただ、人間の言葉は単なる感情の発露としての叫びではなく、様々な概念に分解された記憶に目次(インデックス)と付け、いつでもそれを引きだせるだけでなく、伝達をも可能にする。いわば記憶をその場でのフラッシュバックに頼らず、意図的にいつでも引きだせるようにした所に、人間ならではの文明が生まれたと言っていいだろう。

 チンパンジーは高い所にあるバナナと踏み台と長い棹を見て、その場で何かを思いつくことはできるが、人間ならそれを夜の寝床で考えることもできる。

 ただ、こうした言語を獲得してもなお、その言語は古い動物の鳴き声の上に接木されている。この脳の古い層と新しい層が不可分に結びつく所に、歌の言葉としての「雅語」を発達させたのが、日本の文化だと言ってもいいかもしれない。

 言葉に概念を乗せることで、人は知識を共有化することができるようになった。同じように、言葉に感情を乗せれば、人は感情を共有できるようになる。これが雅語の力だった。

 

 

46、やまと歌

 

 「神代の歌ハ、文字の数もさだまらずとハいへり。今の代ハ、三十一文字の数を合せねば、歌とハいはず。

 一昼夜の雑話幷呼吸の数、皆是歌也。

 歌をたてる国風なれば、和字ハいふに及ばず、漢字に訓と云ものを付てよめるも、皆是大和の歌詞なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.135)

 

 「神代の歌」は記紀神話などに登場する歌。たとえば日本武尊の、

 

 大和は国のまほろば

 たたなづく青垣山ごもれる

 大和しうるはし

 

などは後の短歌や長歌や旋頭歌の形態を取っていない。三十一文字の歌の起源は、長いこと、

 

 八雲立つ出雲八重垣妻ごみに

     八重垣作るその八重垣を

 

とされてきた。

 連歌の起源は、

 

 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる

 日々並べて夜には九夜日には十日を

 

だとされてきた。

 やがて長歌や旋頭歌も廃れ、歌というと三十一文字の和歌を表わすようになった。

 ただ、こうした狭義の歌に限らなくても、雅語の伝統の身に染み付いた日本人であるなら、「一昼夜の雑話幷呼吸の数、皆是歌也。」ということになる。

 漢字に訓を付けて大和言葉に取り込んできたように、俗語も俳諧の上句下句にすることで、雅語の領域をひろげてきた。そしてやがて、雅語を用いずとも俗語で人々は感情を共有するようになった。

 西洋の言語でも、今日のポップスや映画やコミックスの言葉は俳諧の詞と同様、広く大衆の間での感情の共有に役立っていると思う。

 古代中国語を雅語に取り込んだ例としては、他にも「梅(むめ)」「馬(むま)」「木槿(むくげ)」「山茶花(さんざか→さざんか)」などがある。

 

 「されバ、箸・橋・端の三ツをよくわかち侍る也。これハアイウヱヲの五ツのひびきより出て、一歳此ひびきにもるる事ハなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.135~136)

 

 箸(はし)、橋(はし)、端(はし)は同音異義語で、この三つの違いは結局の所文脈から判断するもので、アクセントの異なるものもあるが、今でも地方によっても違いがあり、まして江戸時代のアクセントはさっぱりわからない。

 雅語はいろは四十七文字と「ん」の文字で表記される。母音は基本的に「あいうえお」の五母音で、この時代には「い」と「ゐ」、「え」と「ヱ」、「お」と「を」はしばしば混乱していて、実際の発音に差がなくなっていたと思われる。ここでも許六は「アイウエオ」ではなく「アイウヱヲ」としている。

 梵灯庵主の著で康応二年(一三九〇年)の奥書を持つ中世の連歌書『長短抄』には巻末に今日でいう五十音図に近いものが掲載されている。ここにはヰ・ゑ・おの文字がなく、イ・エ・ヲで統一されている。アイウエオの順番はこの頃に既に確立されていたと思われる。

 ア=喉、イ=舌、ウ=唇となっていて、イは舌の本、エは舌の末で二四相通、ウは唇の内、ヲは唇の外で、三五相通とされ、アイウの三母音が基本にあって、エはイから、ヲはウから派生したとされている。

 子音に関してはア・カ・ヤが喉、サ・タ・ラ・ナが舌、ハ・マ・ワが唇というふうに分類され、今日の五十音図のアカサタナハマヤラワの順番とは若干異なっている。

 万葉集の時代では「い」と「ゐ(うぃ)」、「え」と「ゑ(うぇ)」、「お」と「を(うぉ)」が区別され、イ段、エ段、オ段は甲乙に別れ、八母音の言語だったとされている。

 ただ、これらは雅語の音韻であって、口語では様々な方言があり、使われる音韻にも差があったと思われる。

 今日でも東北弁では「い」と「え」の区別が分かりにくく、沖縄地方では三母音や四母音のところもある。奄美・徳之島方面ではイやエの甲乙の区別が残る所もあるという。

 子韻でも江戸っ子はヒをシと言ったり、サ行をthに近い音で発音したりする。

 明治の標準語はほぼ雅語の音韻を踏襲している。ただ、仮名ではその違いが表記されない鼻濁音が存在する。

 

 「唐土聖人の代に、礼と楽を以て国を治め給うふ。

 礼はいふに及ばず。楽といへる物、政の為にハ益なきに似たりといへ共、つくづくとおもふに、楽は五音相続の調子を以て打ならし侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136)

 

 音楽における五音は三分損益法によって作られる五つの音、宮・微・商・羽・角で、いわゆる四七抜きの五音階を形作る。

 

 「唱歌は詩也。詩ハ風雅也。春ハうらうらと霞める中に、うぐひすの初音を催し、東風立初るより梅の匂ひを送る事をのべて、民の心をやハらげる也。

 我朝の楽も又同じ。其唱歌ハ歌也。

 詩は上声・去声・入声のおもきかるき事を分けたり。日本の詩ハ唐土の楽に諷ハれぬといへるも、慥ニ上声・去声のおもきかるき事をしらぬ故也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136)

 

 「唱歌」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①笛・琴・琵琶(びわ)などの旋律を、譜によって口で歌うこと。

  ②楽に合わせて歌を歌うこと。」

 

とある。吟のように言葉に節を付けるのではなく、メロディーを口ずさむことのようだ。

 漢詩は平声・上声・去声・入声の声調があり、そこに自ずとメロディーが生じるが、日本人が作る漢詩はそれがなかなか感覚的に理解できてないため、中国人からすると歌えないということになる。

 

 「やまと歌ハてには也。てにはハ五音のひびき也。

 芭蕉をはせをと訓じたるハ、是ウトヲト通やうするひびき也。

 てにはのよき句ハ、おのづから五音の調子よくひびき、又てにはのあしき句ハ、五音のひびきととのひ侍らぬ故に、民の心に感応する事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136~137)

 

 音楽の五音は音階だったが、やまと歌の五音はアイウヱヲの五母音ということになる。ここで許六は「てには」を格助詞の文法的な働きとしてではなく、母音の音韻のこととしている。

 「芭蕉」は今日ではバショーと発音することが多く、丁寧に言うとバショウになる。オなのかウなのか曖昧な所は、芭蕉の時代でも同じだったのかもしれない。確かに「是ウトヲト通やうするひびき」だ。『長短抄』にも三五相通とある。

 蕉という字は中古音(隋唐の時代の音)ではツィエウに近かったようだ(『学研漢和大字典』による)。古代のサ行もチャに近かったと言うから、ツィエウをセヲと訓じたのであろう。ただ、後に音便化して今の発音に至る。ちなみに今の北京語のピンインはjiāoで、オーという音便化は日本独自のものだ。

 「てにはのよき句ハ、おのづから五音の調子よくひびき」というのは明らかに文法の議論ではない。まあ、文法的に変な句は変な耳障りな感じに響くことを考えれば、違和感のなくすらすらと言い下せて聞き流せることを「五音のひびきととのふ」と言っているのだろう。

 

 「されバ絲竹・管弦の吹鼓(ふきならし)なくても、此てにはのひびきを以て打はやし侍るゆへに、めに見えぬ鬼を泣しめ、もののふの心をやハらげる事うたがひなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136~137)

 

 「絲竹(いとたけ)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①楽器。

  ②管弦の音楽。

  出典新花摘 俳文

 『和歌の道いとたけの技』

 [訳] 和歌の道や音楽の技術。

 参考漢語『糸竹(しちく)』の訓読。『糸』は琴・箏(そう)・三味線など弦楽器、「竹」は笛・笙(しよう)など管楽器。」

 

とあり、これでゆくと「絲竹・管弦」は同語反復になる。

 やまと歌(和歌)は雅語でメロディーを口ずさむもので、てにはの響きは、文法的にも整い違和感なく響くため、口ずさんだ時にもきれいに聞こえる。

 「打はやし」というから鼓(つづみ)を伴奏にすることもあったのだろう。『野ざらし紀行』の素堂の序にも「狂句木枯の竹斎、よく鼓うつて人の心を舞しむ」とある。俳諧でも鼓を打ってメロディーを付けて歌い、それに合わせて舞うような楽しみ方があったのだろう。正岡子規以降の近代では俳句でも短歌でも素読を基本とし、歌うことはほとんどなくなった。

 こうして「あそび」として楽しむのが和歌・連歌・俳諧といった言の葉の道の基本で、だからこそ目に見えぬ鬼神も楽しませ、上機嫌にさせて災厄をもたらさないようにし、怒り狂う軍人の心もまあまあと和ませ、非暴力にして世界を動かすと考えられていた。額に皺を寄せてうんうん悩ませる近代文学とはそこが違う。

 近代文学は特定の思想を大衆に吹き込み闘争を煽るもので、やまとの言の葉の道とは相容れない。日本の近代詩の原点である『新体詩抄』の大半は人を戦いへと煽る、ほとんど軍歌のような内容だった。

 

 「かかる大事のてにはを、あだに心得て容易にをく事、大和歌の本意をうしなひ侍れバ、民の心やハらく事、盡未来にいたると云共、あるべからず。

 たとへバてにはのあしきと云ハ、餓たる時飯をこのむ心あり、我已に餓たり、飯を喰まじきと云がごとし。今の代のてにハ遣ひハ皆是也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136~137)

 

 てにはが変で一々耳につっかえるような言い回しでは、人々も感情を共有することが難しい。

 そのような言い回しは人とは違う自分だけの言い回しを作ろうとして生じるもので、他人との感情の共有を拒否してると言っていい。近代俳句、近代短歌、現代詩、純文学、ことごとくそのように出来ている。まあ、平和な世の中に対立や分断を引き起こし、戦いを煽り、革命を起すための文学であれば致し方ない。まさに「メシ喰うな」だ。

 先日他界された遠藤ミチロウは「ワルシャワの幻想」という曲の中で「メシ喰わせろ」と歌ってたが、芥川賞作家の町田康は「メシ喰うな」というアンサーソングを歌ってた。

 

 先日の「メシ喰うな」だが、遠藤ミチロウの「メシ喰わせろ」は、いかに社会主義の理念が素晴らしく、共に貧しさを分かち合おうと言っても、やはり空腹には耐え切れない。人間の自然の情がこの言葉によって発露される。これは風流の心にかなう。

 だが、町田康の「メシ喰うな」は一般大衆を「中産階級のガキ共」と罵り、町を行く花を抱えた人たちに嫉妬の怒りを撒き散らした挙句、そいつらに「メシ喰うな」と言う。嫉妬は人の常ではあるが、風流に欠ける。

 「俺の存在も肯定して、俺にも花を持たせてくれよ、一緒にメシ喰おう」ならまだ分かる。多分本心はそうなのだけど、あえてすねて見せているだけなのだと思う。まだ若い頃の作品ではあるし。

 この歌詞でミュージシャンを続けるのはどのみち無理だったし、早いとこ見切りをつけて小説家になったのは正解だった。

 

 「今の代のてにハ違ひハ皆是也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.137)

 

 つまり腹が減っているのにメシ食うなと言い、本当はあの色とりどりの花を持った人の群れに混じりたいのに、ぶちのめすと言ったり、本当は自己肯定感を求めて止まないのに否定してくれと言ったり、こういうすねた感じは一部の人には受けるかもしれないが、民の心を和らげるものではない。

 ただ、そういうのを新しがったり、人と違う奇抜な言葉を吐いたりして人目を引こうというのは、昔からよくあることだったのだろう。

 『去来抄』にある、「晩鐘のさびしからぬ」の句のように、強がって言っているのか、単に鈍感なのか、聞いても「え?何で?」と思ってしまうような句が何か新しいと思ってしまうかもしれないが、昔からそういうのはたくさんあったと思う。

 ただ淘汰されて残ってないだけのことだ。残ってないから新しいと思う、それだけだ。

 

 

47、てにはを以て打ならす

 

 「てにはを以て打ならすといふハ、たとへバ師の句ニ、

 うき我を淋しがらせよかんこ鳥

 此句、『淋しがらする錬鼓鳥』とせば、何を以てか民の心のやハらぐ事あらん。これ常也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.137)

 

 凡庸な作者なら、

 

 うき我を淋しがらするかんこ鳥

 

とやって満足しそうだが、かんこ鳥の声を聞いただけで簡単に今までの憂鬱も忘れて、むしろ世俗が懐かしくなり寂しさを感じるというなら、結局その程度の憂鬱かよ、と言いたくなる。

 「淋しがらせよ」とすれば、閑古鳥くらいでは容易に晴れない深い憂鬱の表現になる。

 「うき我を淋しがらする」は、もともとたいした憂鬱でもないのに、閑古鳥の声で憂さも晴れたぞ、閑古鳥の風流の分かる俺ってかっけー、にしかならない。淋しがらせてくれと訴えかける所に人は心を動かす。

 

 「『淋しがらせよ』とてにはを以て打ならし吹ならす故に、五音相続してもののふの心やハらぎ、めに見えぬ神鬼を泣しめ侍る也。

 楽器の吹鼓をやとひ侍るにハ及ばずして、一句一句に楽ハおのづから調ひ侍る也。

 此ごろ、てにはに五音のひびき有て、唐土の楽にかハらず、民を治る事を発明せる也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.137~138)

 

 まあ、いわばこれは魂の叫びというやつで、それだけに音楽のように人の心にすんなりと入ってくる。

 「めに見えぬ神鬼」は「鬼神」と言った方が分かりやすいが、これはいわゆる御霊も含まれる。「みたま」ではなく「ごりょう」の方で、非業の死を遂げた魂がまだこの世に恨みを残しとなると、何か災いが起こるたびに、ひょっとして祟りではないかとなり、気が気でない。

 その恨みを誰かが歌で代弁し、それに多くの人が共感し、みんなでその恨みを分かち合えば、怨霊の悪さするのではないかという不安も消える。怨霊が悪さをするのは、自分の気持ちをわかって欲しいからで、みんながme tooと言えばこの声は非暴力にして社会の変革につながってゆき、問題が解決されれば怨霊も浄化され守護神になる。

 クイーンの楽曲も「We Will Rock You」でみんなが手を打ち鳴らし足を踏み鳴らし、「We Are the Champions」をみんなで大合唱する、その一体感こそが本当に素晴らしいことで、たまたまそのボーカルがパキだったとかゲイだったとかいうのはそんなに重要でないし、それを忘れさせることが彼の偉大さだったと思う。

 俳諧も同じで、みんながあるある、そのとおりだ、と思うことが大事で、そこに大衆の間での一体感を生み出す。それはまさに民を治めるということだ。

 今の時代、それをやっているのは残念ながら近代俳句ではなく芸人たちの方だ。

 

 

48、等類

 

 「一、文通ニ云ク、風国当歳旦脇の事、是愚集ノ句に似侍るよし、よく気をつけらるる事也。此句全ク等類の罪にあるまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.138)

 

 この等類の句については風国の歳旦の脇も許六の集の句も残ってないようだ。岩波文庫の注には「風国の歳旦の脇句、及び許六の集の名未詳。」とある。

 

 「藪も動かぬ嵯峨のありあけ

 此句もとハ、

 嵯峨の在家のあり明の月

とせしニ、打こし居所あるに寄て、此風情をいひかへたり。

 只さびしく閑なる景曲一遍なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.138)

 

 これは李由・許六編『韻塞』の、

 

 雌を見かえる鶏のさむさ哉    木導

 

を発句とする木導・朱㣙・許六の三吟の十四句目で、

 

   皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ

 藪も動かぬ嵯峨の有明      朱㣙

 

の句で、前句は、

 

   座敷へ舁(かき)て上る駕物

 皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ 木導

 

だから、打越の「座敷」が居所になる。

 「駕物」は駕籠者(かごもの)、つまり駕籠かきのことか。駕籠のまま座敷に上がるというのは普通ではないが、乗っていたのが皺々の手の老僧で、足腰もおぼつかないならやむをえないか。

 朱㣙(㣙は宙の異体なので「しゅちゅう」か)の句は、この数珠の老人を出家僧ではなく在家として、嵯峨のあたりに住んでいるとし、最初は、

 

   皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ

 嵯峨の在家のあり明の月     朱㣙

 

とする。長年連れ添った妻が亡くなり、その供養をしているのだろうか。嵯峨のあだし野はかつて鳥辺野と同様風葬の地だった。

 在家は仏教徒の一つのあり方で居所とは思えないが、「家」の字を嫌ったのであろう。在家と言わずして在家を匂わす、

 

   皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ

 藪も動かぬ嵯峨の有明      朱㣙

 

で治定された。

 

 「在家の二字をぬきてハ、一句の魂もなくなるといへ共、是非なく『藪も動かぬ』とハ仕かへ侍りぬ。

 此在家とこゑにてよませたるハ、さるミのの『晴天に有明月』の事ヲちから也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.138~139)

 

 「さるミのの『晴天に有明月』」は、猿蓑の「鳶の羽も」の巻の二十九句目、

 

   おもひ切たる死ぐるひ見よ

 青天に有明月の朝ぼらけ     去来

 

の句をいう。

 死の覚悟を決めた武士の句の「おもひ切たる」を恋の未練を断ち切ることに取り成し、後朝の月の風景を付けている。猫の恋のようにうらやましくもなく、人は死のような苦しみを味わう。そこに明け方の月が何事も無いかのように静かにあたりを照らしている。「青天」は「青雲」と同じで明方のまだ暗い濃い青みがかかった空をいう。

 「藪も動かぬ」の静寂と厳粛な空気は、この去来の句からインスピレーションされたものだったようだ。

 どこか中世連歌の、

 

   罪の報いもさもあらばあれ

 月残る狩り場の雪の朝ぼらけ   救済(きゅうせい)

 

に通じるものがある。

 

 「此句『藪も動かぬ』とハ直し侍れ共、まださし合侍らバ、

 月夜の風の嵯峨に吹也

 など直しても、一句景曲のあたらしミハつくなり。いくらも直り侍るべし。

 藪のなりやむ嵯峨の初春

 此『藪も鳴やむ』といふハ、初春をよく見つけたる藪にて、上七字の中ニ十分俳諧あり。『藪も鳴やむ』と云詞ならでハ、此代をする言葉・趣向あるまじ。さすれバ『なりやむ』と云七字より出生の句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.139)

 

 「まださし合侍らバ」というのは、たとえば打越かその前に植物があった場合、「藪」は使えなくなる。そのときは、

 

   皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ

 月夜の風の嵯峨に吹也

 

と変えればいい。

 連歌や俳諧で句を付ける人は、その場での使える言葉使えない言葉から、常にどう言い換えればいいのかを考えている。そこから言わずしてほのめかす技術が発達した。式目をどうかいくぐるかが俳諧師の腕の見せ所と言ってもいいだろう。

 ただ、この言い換えだと「有明」が消えている。明け方の静寂を月の清々しさで代用したということか。

 

   皺の手に琥珀の数珠のたふとさよ

 藪のなりやむ嵯峨の初春

 

は秋に展開できず、しかも月が既に出てしまっている場合であろう。

 木枯らしに悲しげな音を立てていた藪も、春になって穏やかな日和になるのを、「数珠のたふとさ」とする。

 初春へ転ずることが必然なら、「藪も動かぬ」は「藪のなりやむ」になる。

 俳諧の練習というのはこういうことだったのだろう。これはいいと思った句が思い浮かんでも、式目上無理な場合が多々ある。こういう時にうまく言い換えられるのは日頃の鍛錬といえよう。こういう訓練は日常的にも、タブーとされる言葉を言い換えるだとか、角の立つ言葉を和らげるだとか、いろいろ応用が利く。

 

 「只形のよく似たるまでにて、魂各別の句也。似たるなど論ずる人あり共、耳にかけべからず。

 但、去年尾張か伊勢かの歳暮三ッ物の中に、『藪のがさつくとしのくれ』とやら、『寒さ哉』とやらいへる句ありとおぼえ侍る。是、季ハかハり、詞もいひかへたりといへ共、元来の趣向、俳諧の気のつけ所おなじ所なれバ、作例といはむか。其上、大綴に出たる三ッ物帳の中なれバ、よく見覚えたる人もあるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.139~140)

 

 「藪も動かぬ嵯峨の有明」と「藪のなりやむ嵯峨の初春」は、月をだせないだとか、秋ではなく春にしなくてはいけないだとかいう事情の違いから、まったく違う趣向の句になっている。元の句を直したのだから形は似ているが、別の所でこの句を詠んだとしても等類ではない。

 方や静まり返った明け方の静寂で、方や木枯らしの止んで春の訪れを喜ぶ句になる。

 前句との関係でも、有明は死者を弔う数珠に付き、初春は尊さに付く。まったく別の句といえる。

 ただ、初春の方は「藪のがさつくとしのくれ」というフレーズが去年の歳暮三つ物のなかにあり、年の暮れは藪ががさついてたが初春には鳴り止むと、同じことを歳暮の側から詠むか初春の側から詠むかの違いだけになる。

 これでいくと、たとえば「いと涼しき」の巻の十三句目の、

 

   座頭もまよふ恋路なるらし

 そびへたりおもひ積て加茂の山  桃青

 

と七十二句目の、

 

   来て見れば有し昔にかはら町

 小石をひろひ塔となしけり    信章

 

は石を積んで塔を立てるというのは一緒だが、芭蕉(桃青)の句は恋の思いの募る句なのに対し、素堂(信章)の句は追悼の思いの募る句となっている。

 

 「されば愚集ニ、

 外郎買に荷ハ先へやる

と云句せし、退て見るに、不玉が継尾集のはいかいに、

 荷ハ先へやる堂の近道

と云句あり。是等類也。

 随分吟味を逐るといへ共、眼届かずして後悔也。

 『荷ハ先へやる』と云七字にて、下ハ如何やうニも産出さるる也。もと此一句の魂ハ、『荷ハ先へやる』と云事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.140)

 

 「外郎(ういろう)買に」の句は李由・許六編『韻塞』の、

 

   亡師三回忌 報恩

 月雪に淋しがられし紙子哉    許六

 

を発句とする巻の十二句目で、

 

   人宿の後はやがて城の塀

 外郎買に荷は先へやる      許六

 

の句だ。

 前句の「人宿(ひとやど)」はここでは単に旅籠(はたご)のことであろう。

 外郎は「いと凉しき」の巻の六十五句目に、

 

   伽羅の油に露ぞこぼるる

 恋草の色は外郎気付にて    似春

 

の句がある。仁丹に似た薬で口臭消しや気付け薬に用いる。

 外郎は小田原の名物で、前句を小田原宿としたのだろう。荷物は馬に乗せて先に箱根を越させて、自分は後から行くというのだが、参勤交代の武士の「あるある」だったか。

 「荷ハ先へやる堂の近道」の句は不玉編の『継尾集(つぎおしゅう)』(元禄五年刊)の句で、この集には「あつみ山や」の巻や「忘なよ」の巻も収録されている。乙州の句。明け方の風景に付けている。

 この二句は「荷ハ先へやる」が重要で、後はどうとでも作れるとして等類だという。

 

 「舟のたよりに荷ハ先へやる

ともいひ、又

 でつちをのせて荷ハ先へやる

などとも、いくばくかいひかへあらんなれバ、是等類の罪のがれがたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.141)

 

 この二句も同様で、「荷ハ先へやる」の方を多少言い換えなければ等類だという。

 現代の著作権の考え方でも、アイデアには著作権はない。音楽ならメロディーの一致、文章なら語句の一致が著作権侵害になる。だから少し変えるというのは誰でもやっている。

 アイデアの場合は、たとえば一つの事件の解決を野球の試合にたとえ、未解決の状態から一気に解決された結末にもって行き、その間何があったかを後で「七回の裏」と称して種明かしする。宮藤官九郎脚本・演出のドラマ『木更津キャッツアイ』がそれだが、これをサッカーに変えて何とかイレブンにしてもアイデアを盗む分には盗作にはならない。

 前半にノーカットのドラマをもってきて、後半にそのメイキングシーンを面白く描いても、設定や内容が違えば構成のアイデア自体を真似ても盗作にはならない。

 アニメの進化も大体こういうもので、たとえば隔絶された田舎で起こる大災厄を食い止めるために時間を遡るだとか、主人公が都会の少年でキーポイントとなるヒロインが地元の巫女だというところが一致していても、あくまでもアイデアを真似ただけなので「君の名は。」は「ひぐらしのなく頃に」の盗作にはならない。

 同様にネットでたまたま表示された難問を解いたらゲームに巻き込まれ、最後は超飛躍(ウルトラ・ジャンプ)で危機を乗り切るというところが似ていても、「サマーウォーズ」は「消閑の挑戦者」の盗作ではない。

 むしろ過去の面白いパターンを上手く取り入れ、それに別の要素も加えながら、より面白い作品を作り上げてゆく所に、アニメは進化してゆく。アイデアの利用は抑制すべきではない。

 ヒットした作品ほど、過去の作品の王道を行くアイデアを踏襲している。あまり独自性を出そうとするとかえってこける場合が多い。

 

 思うに作品というのは作者一人が作るものではない。作者は読者の反応を見ながら読者と共有する言語を探し出し、読者と共有する認識を作り上げ、それが読者と共有される一つの物語へと仕上げられてゆく。ヒット作というのはそれ自身が作者と読者のコラボではないかと思う。

 読者と共有する言葉、共有する認識は、作者が作るのではない。作者も同時に読者として他の作品に触れているし、その作品も読者は知っている。となれば、過去の作品そのが読者の一人としての作者と、たくさんの読者とを結ぶことになる。

 「あの作品面白かったね」「そうだあれは面白かった」「ならばあんな作品を作りたいね」「そうだそういう作品が読みたいんだ」こうして新しい作品が創作されてゆく。これによって過去の面白さが次の作品に引き継がれてゆく。もちろんそこに作者は更に面白くしようとあれこれ新しい要素を付加する。これが芸術の発展に繋がってゆく。

 元となった作品を少し変えて新しい要素を付け加え、つまらなかったものを削ってゆくのが新しい作品の創造なら、創作といっても少なからず二次創作の要素があり、創作と二次創作の違いは元の作品の登場人物や基本設定を残すかどうかの違いにすぎないのではないかと思う。

 二次創作が表現の自由として保障されなくてはならないのは、創作も二次創作も基本的には連続した創作活動であり、その境界線が極めて曖昧だからだ。

 たとえば歴史物を書くとき、歴史的人物を主人公にするわけだが、この歴史的人物のキャラクターは果してどこから生み出されたのだろうか。

 元は古い文献にある記述かもしれない。しかし戦国時代でも幕末でも既にたくさんの歴史物が存在する。そこである程度信長はこういうキャラ、秀吉はこういうキャラというのが出来上がっている。

 次に書く歴史物がこういう既に出来上がっているキャラを元に書かれるなら、それは二次創作と何が変わるのだろうか。

 あの『源氏物語』もひょっとしたら元は二次創作だったかもしれない。というのは、「夕顔」巻の冒頭の部分に、

 

 「六条わたりの御忍びありきの頃、うちよりまかで給ふなかやどりに、大弐(だいに)のめのとのいたくわづらひてあまに成りにける、とぶらはむとて、五でうなるいへたづねておはしたり。

 (源氏の君が六条御息所の所にこっそりと通ってた頃、内裏を出て六条へ向う途中の宿にと、大弐の乳母がひどく思い悩み尼になったのを見舞いに、五条へとやってきました。)」

 

とあるように、それまでの巻に登場しなかった六条御息所が唐突に登場するばかりでなく、源氏の君がそこにこっそりと通ってたことがあたかも周知のことであるかのように語られているからだ。

 ここでは源氏と六条がどのようにして出会い、どのようにして恋仲になったのか、その辺の物語が欠落している。

 作者自身によるか、他の作者によるものかはわからないが、源氏と六条の何らかの先行する恋物語があったのではないかと疑われる。

 平安時代に書かれた物語はすべてが現存しているわけではない。『枕草子』には現存しない物語のタイトルが記されている。

 実際に短期間に急速に女房のための物語文学が発展したのなら、そこには様々な試行錯誤があったはずで、たくさんの作られるそばから忘れ去られていった駄作が存在していただろうし、傑作といわれるものでもその後の社会変化や応仁の乱などの戦乱で失われたものもあったであろう。そんな中の一つとして源氏と六条の恋物語があったとしてもおかしくはない。

 創作と二次創作の違いは、元ネタを大きく改変して新しく創作された物語の中に消化してしまうか、元ネタを誰もがそれとわかるような形で残すかの違いにすぎない。

 もちろん元ネタを残すのにはメリットがある。それは元ネタのファンに元ネタの持つ価値を利用して読ませることができるからで、その意味では元ネタの人気に便乗する形になる。それゆえ商用では制限するか原作者に使用料を払うかといった仕組みは必要だが、せいぜい小遣い稼ぎくらいにしかならない同人誌では広く認めてもいいのではないかと思う。

 俳諧でいうと本歌取りか俤かという違いではないかと思う。本歌取りは句の手柄を元歌に依存する。ただ、蕉門の本歌付けは少し変えることで作者の手柄の余地を残し、俤になれば新たな創作の中に古典を連想させる要素を取り入れるだけのものになる。

 俳諧が古典を基とするなら、古典をあくまで俤に留めることで、古典から独立した文学へと進化したともいえる。蕉門において俳諧が連歌の入門変ではなく独自の文学として確立できたのは、出典や證歌から離れ、それを俤だけに留める手法を確立したからでもある。

 この俤付けの手法は、過去のヒット作の設定やアイデアを新しい作品に取り込むときの手法として今日に受け継がれているのではないかと思う。

 

 

49、元日や

 

 「一、先生当歳旦五文字、『元日や』の事、予會てうれしからず。時代四五年もふるかるべし。

 もはや『元日や』といふ五文字ハ、よくよくあたらしミをはしらせ侍らずバ、をきがたからんか。ことの外いひふるしたる五文字也。此事三四年已前より、つぶやき置侍る事也。

 蓬莱と成共、大ぶくと成共、かるく侍らバ、一入うれしかるべし。先生如何おもひ給ふぞ、ききたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.141)

 

 この歳旦は元禄十一年の、

 

   落柿舎歳旦

 元日や土つかうだる顔もせず  去来

 

の句だろうか。「つかうだる」は「つかんだる」で、普段は土にまみれているお百姓さんも正月はそんなそぶりも見せずということか。

 去来にはもう一句、

 

 元日や家にゆづりの太刀帯ン  去来

 

の句もあるが、これは上五を「初春や」としたものが『貞享三年其角歳旦帳』にあるというので、かなり前の句だ。

 許六にも、

 

 元日や関東衆の国ことば    許六

 

の句があるが、これも古い句のようだ。

 『去来抄』ではこの句は切れ字「や」の用法の問題として提起されているが、ここでは流行の問題として提起されている。

 撰集では「元旦や」と言った句はほとんど見られないから、歳旦帖で「元日や」の上五が流行った時期があったのだろう。

 四五年といえば『炭俵』の頃で、『猿蓑』の頃の季語をまず主題として置いて、そこからあるあるネタを探る手法が一通り出尽くしてしまった頃ではないかと思う。

 『猿蓑』では時雨というと、

 

 時雨きや並びかねたる魦ぶね     千那

 幾人かしぐれかけぬく勢田の橋    丈艸

 鑓持の猶振たつるしぐれ哉      正秀

 廣沢やひとり時雨るゝ沼太良     史邦

 舟人にぬかれて乗し時雨かな     尚白

 

のように時雨あるあるで押していった時期だった。

 梅の句にしても、

 

 梅が香や山路獵入ル犬のまね      去来

 むめが香や分入里は牛の角      句空

 痩藪や作りたふれの梅の花      千那

 灰捨て白梅うるむ垣ねかな      凡兆

 

といった句が好まれた。歳旦帖でも「元旦や」と五文字を置いて元旦あるあるを続けるパターンがあったのかもしれない。

 『続猿蓑』の頃になると、

 

 この比の垣の結目やはつ時雨     野坡

 しくれねば又松風の只をかず     北枝

 けふばかり人も年よれ初時雨     芭蕉

 一時雨またくづをるゝ日影哉     露沾

 初しぐれ小鍋の芋の煮加減      馬見

 

と単純な時雨あるあるは影を潜めている。

 何事にも流行というのはある。純文学だって流行はあるし、近代俳句も時代によって変化している。ただ、それは当時の人なら敏感に意識していたけど、何百年も経過してしまうと大雑把に元禄の頃の風になってしまい、細かな変化を辿るのは難しくなる。

 

 

50、牛の尾ほどの

 

 「一、歳暮『牛の尾』の事、是以予ハうれしからず。『牛尾』、殊の外面白、千人ずきの句たるべし。

 されバ貴句にハ不足とはいはんか。其すく所にしたるき所侍る故に、俗のよろこぶ事うたがひなし。

 退て案ずるに、季吟門弟ニ可仙とやらいへるもの有。大方かやうの味までハ、其時代参たる作者也。しかとハおぼえね共、新古の沙汰いぶかし。両句共ニ、貴句ニハ不足といはんか。中々塵俗の及ぶ所ニあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.141~142)

 

 歳暮の句は『俳諧問答』の横澤三郎注には、

 

 としもはや牛の尾ほどのたより哉   去来

 

だという。元禄十年は丑年だった。芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で

 

 誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年    芭蕉

 

の句を詠んでからちょうど十二年、干支が一回りしたわけだ。

 牛は巨体でも尻尾は小さい。今年も残りわずかで、牛の尻尾のような頼りないわずかな日数を残すのみになったと、イメージとしては分かりやすい。

 また、「牛の尾」は「鶏口牛後」という言葉を連想させる。大きな組織にくっ付いてゆくよりも、小さな組織のリーダーになれという意味。スポーツで言えば名門クラブの補欠よりは弱小クラブのレギュラーになったほうが良いということか。とはいえ寄らば大樹の陰で、飛び出してゆく勇気もないまま牛の尻尾にぶら下がり、今年一年も過ぎてしまったかと、そんな寓意も読み取れる。

 許六が「殊の外面白、千人ずきの句」と言うのは、そういう寓意も含めてのことだろう。

 ただ、「其すく所にしたるき所侍る故に、俗のよろこぶ事うたがひなし。」とも言う。「したるき」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 

 「したる・し( 形ク )

 ①  衣などがべたついている。 「しづのめも大路井筒に夕すずみ-・きあさのころもすすぎて/夫木 36」

 ②  ものの言い方が甘ったるい。舌たるい。 「すこし-・き野郎をまねき/浮世草子・置土産 5」

 ③  にぶい。のろのろしている。 〔日葡〕」

 

とある。

 「まあ、そうだな、今年も終っちゃったな」という緩さだけの句で、多くの人は共感するけど、だから何?って感じの句ではある。蕉門的な鋭さはない。

 可仙についてはよくわからなかた。

 

 

51、第三の「て」と「で」

 

 「一、第三、『あたたかで』の字、難じて云ク、古来より『で』と『て』ハとまりにも嫌ハず。折合にもかまはぬおきてなれば、第三『てどまり』にハ成まじとおもふ。

 此句、『にどまり』の句也。但、何の詞にても、第三とまる事あれバ、畢竟ハそれか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.142)

 

 この「あたたかで」の第三のある巻については不明。

 脇は体言、第三は「て」か「らん」で留めるのが普通だが、もちろんそんなことは式目にはない。ただ古くから習慣として行われているだけで、稀に例外はあった。

 たとえば延宝四年の「此梅に」の巻は、

 

 此梅に牛も初音と鳴つべし      桃青

   ましてや蛙人間の作       信章

 春雨のかるうしやれたる世中に    信章

 

 貞享元年の「霜月や」の巻は、

 

 霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮

   冬の朝日のあはれなりけり   芭蕉

 樫檜山家の体を木の葉降      重五

 

 元禄三年の「灰汁桶の」の巻は、

 

 灰汁桶の雫やみけりきりぎりす     凡兆

    あぶらかすりて宵寝する秋    芭蕉

 新畳敷ならしたる月かげに       野水

 

 元禄四年の「梅若菜」の巻は、

 

 梅若菜まりこの宿のとろろ汁     芭蕉

   かさあたらしき春の曙      乙州

 雲雀なく小田に土持比なれや     珍碩

 

というように、「て」「らん」以外の第三が用いられている。その意味では「で」で留めても基本的には問題はない。

 中世の連歌でも稀にそういう例はある。「顕証院会千句」の第八百韻に、

 

 みだれおふ蓬や萩の朝ねかみ     忍誓

   露置ゐたる常夏の秋       原秀

 月くらき草の枕の更る夜に      竜忠

 

とあるし、「湯山三吟」は、第三は「て」留めだが、

 

 うす雪に木葉色こき山路哉      肖柏

   岩もとすすき冬や猶みん     宗長

 松虫にさそはれそめし宿出でて    宗祇

 

のように脇が体言止めになっていない。

 また、「至徳二年石山百韻」では、

 

 月は山風ぞしくれににほの海     良基

   さざ波さむき夜こそふけぬれ   石山座主坊

 松一木あらぬ落葉に色かへで     周阿

 

と「で」留めも用いられている。

 ただ、ここで許六が言いたいのは、この場合は「あたたかに」で良かったのではないか、清濁を表示しないのいいことに、「で」を「て」と書いて、いかにも「て」留めを守りましたみたいなのがせこいということなのだろう。

 

 

52、「し」という切れ字

 

 「しかし発句にも過去のしにて切たる発句あり。予おもふニ、達人ハセまじき事とおもふ。しらぬ人此『し』にても切るるとおもふべし。又ハてにはしりたるもの、過去の『し』切字とおもひて置たるなど、嘲り侍るも無念也。人々いひわけも成まじければ、所詮せぬ事たるべしと、予ハ終ニせず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.142~143)

 

 発句の切れ字に用いられる「し」は、

 

 五月雨を集めて早し最上川   芭蕉

 

のように、普通は形容詞の終止形をいう。

 『野ざらし紀行』の三井秋風亭での句、

 

 梅白し昨日や鶴を盗まれし   芭蕉

 

にしても、「白し」の方が切れ字で、「盗まれし」は切れ字ではないので切れ字は「や」と二つということになる。

 

 「但、過去の『し』にて、切字なしの発句にする事也。よき句ならバ、少も憚る事あらず。翁の句に、

 ちち母のしきりに恋し雉子の声

かやうの名句ならバ憚るまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.143)

 

 芭蕉は「きれ字に用ふる字は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなしと也。」と言ったと『去来抄』「故実」にあるが、この許六の難に答えたものか。

 中世の連歌でも梵灯の『長短抄』に、切れ字のない発句として「大廻し」と「三体発句」を挙げている。 

 

 山はただ岩木のしづく春の雨

 

は大廻しで、

 

 あなたうと春日の磨く玉津島

 

は三体発句になる。

 ただ、

 

 ちち母のしきりに恋し雉子の声 芭蕉

 

の句の場合は、恋したという過去形ではなく、恋しいという形容詞ではないかと思う。

 「しきりに」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「しきり-に 【頻りに】

 副詞

 ①繰り返し。たびたび。

 出典源氏物語 薄雲

 「天変しきりにさとし、世の中静かならぬは」

 [訳] 天空に起こる異変が繰り返し(起こって)お告げをもって知らせ、世の中が落ち着かないのは。

 ②たいそう。むやみに。

 出典平家物語 二・大納言死去

 「身にはしきりに毛おひつつ」

 [訳] (鬼界が島の住人は)身体にはむやみに毛が生えていて。」

 

とあり、この場合は②の方の意味だから、「恋し」は形容詞になる。①の意味だと度々恋したということになるが、それだと意味が通じない。

 

 「貴句当歳旦ノ第三『で』の事、過去の『し』文字同様、せまじき事と思ふ。先生いかがおもひ給ふぞ。『で』の字にて、『てどまり』に成るとおもひて仕たるなど、嘲るるも無念歟。

 其上、此一句述懐の第三とききなし侍る。いかが。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.143)

 

 これに対する去来の答えは、先に掲げた『去来抄』「故実」の「先師曰、きれ字に用ふる字は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなしと也。」だと思う。

 第三に述懐のような重いテーマはいけないというのもあくまで慣習であり、式目にはない。

 

 

53、歳旦帳

 

 「一、予が当歳旦・歳暮の事、二ツながらいひ捨也。中々三ツ物帳に出す覚悟にあらず。歳暮、猶いひ捨也。歳旦も姿ふるめかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.143)

 

 歳旦帳は誰もが出すわけではなかった。許六は出してなかったようだ。

 

 「蛤に弓初取合たる所、俗のしらぬかるき所とおもひて、姿のふるめかしき事もかまはず仕侍るなれ共、是仕損たるべし。達人などハせぬ事にてあるべし。此句ならでハ発句といふ物なきならバ、さもあるべし。沢山にいひ出さるる事なれバ、早速捨べき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.144)

 

 蛤に弓初めの句は不明。許六というと、

 

 やつこ茶屋春の勢や弓初    許六

 梅が香や通り過れば弓の音   同

 

といった句があるが、どちらも元禄五年の『旅館日記』のもの。

 蛤も夫婦和合のお目出度いもので御節料理に用いるから、蛤と弓初めの取り合わせもありかもしれないが、いまひとつ狙いがはっきりしなかったのだろう。弓だけに。

 まあ、おざなりな句で毎年歳旦帳を出すのは俗流の師匠のすることで、達人ならこれはという句ができないならわざわざ発表することもないということか。

 

 「師遷化の後ハ、究め申宗匠なけれバ、自己ニ決定せぬ句など、出す物にハあるまじとおもひ侍る。向後よくたしなみ可申事也。

 たとひ仕損じたり共、自己に決定してよきとおもひ侍らバ、一段たるべし。

 中にふらりの句、人々ある事也。急度見究て、口外へ出さぬ事たるべし。心ひきひき、少の所に執心をかけて、一句ニなぐり置事、たしかに人々の上にあり。

 翁のいひ給ふあやうき所の仕損じといふ類にハあらず。是等ハとかく下品の類の句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.144)

 

 先師芭蕉がいた頃はお伺いを立ててお墨付きを貰って発表することもあったが、先師亡き後はそうもいかない。発表するかどうかの決断は自分でしなくてはならない。

 発表すべきかどうか迷う句というのも、誰にでもあるものだが、しっかりと見究め、迷うような句なら発表しない方がいい。それでも捨てがたくてついつい発表してしまうことはありそうなことだが。

 芭蕉の言っていたような、ルールすれすれがやや逸脱したようでも見所のあるような「あやうき所の仕損じ」でないなら、だいたいは駄作といえる。

 

 「一、去々年、愚歳旦ニ

 干鮭にかえてやゑぞがきぞ始

ト云句せしに、大津尚白が句に、

 干鮭に衣かえけりゑぞの人

と云句せし、翁も笑ハれたるよし、等類不吟味沙汰のかぎりと申侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.144~145)

 

 「着衣始(きそはじめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 江戸時代、正月三が日のうち吉日を選んで、新しい着物を着始めること。また、その儀式。《季・春》

 ※俳諧・犬子集(1633)一「きそ初してやいははん信濃柿」

 

とある。

 「干鮭(からざけ)」は鮭をそのまま干したもので、江戸後期に新巻鮭が広まる前はこちらの方が一般的だった。棒鱈と並んで冬の保存食だった。

 

 乾鮭も空也の痩も寒の中   芭蕉

 

は元禄三年の句。空也念仏の僧(「鉢叩き」ともいう)の痩せているのを見ると、寒風の中でさながら干物になったかのようだ。

 当時本土では実際にアイヌを見ることはなかっただろう。「ゑぞ」のイメージは古代に東北にいた人たちで、坂上田村麻呂が戦ったのも蝦夷なら、奥州三代も蝦夷に含まれるし、江戸時代に松前藩を作った蠣崎氏も東北の蝦夷の末裔であろう。

 

 干鮭にかえてやゑぞがきぞ始

 

の句は、松前の人たちは干鮭を売って新しい着物を買い、正月に着衣始をするという意味か。しかし、この句は、

 

 干鮭に衣かえけりゑぞの人  尚白

 

の句と見事にかぶってしまった。しかも尚白の句のほうがすっきりしていてわかりやすい。

 多分この頃京都の街に出回る干鮭の量も増え、さぞかし蝦夷はもうかっているな、という空気があったのだろう。

 「翁も笑ハれたるよし」とあるから元禄七年の歳旦か。「去々年」とあるが「一昨年」のことではないだろう。去来の元禄十年の歳暮と十一年の歳旦を話題にしているから、四年前になる。

 

 「此事以の外相違也。第一此句撰集に見えず。撰集に出ぬ句ハ等類の難なかるべしと、俊成ものたまひ侍る。

 其上愚句ハ、ゑぞが衣ニかえる事面白とて、趣向ニおもひよりたるにハあらず。予が趣向ハ、からざけ面白侍るゆへに、此歳旦ニおもひつけたる也。

 尚白、第一衣にかえる所に眼をつけ、よろこびたる事明也。其時代も大きにふるし。此尚白句の外ニも、いくばくかあるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.145)

 

 まあ、発表してないから等類にはならないのは確かだろう。人の絵をそのまま写し取っても、発表しなければただの模写で終る。自分の作品だといって発表して初めて盗作となる。

 許六の句は干鮭が流行っているので、これを歳旦の趣向にしようというところから着想したようだ。当時は江戸後期の新巻鮭のような正月料理として干鮭を食べるという習慣はなかったのだろう。だから干鮭だけでは際旦にならず、何か正月の題材はないかと探っているうちに、蝦夷の人は干鮭の収入で着衣始をやっているのでは、という所に行き着いたようだ。あるあるネタだはなく、推測ネタであろう。推測だから「や」と疑うことになる。

 尚白の句はそれでいえば歳旦にはなっていない。衣更えだから夏の句となる。

 

 「皆衣にかえる事をよろこぶ句なるべし。予が趣向、會て此事よろこび侍らず。只干鮭面白侍る故に、歳旦ニ取合たる也。きぞ始ハ、仮令歳旦ゆへにむすび合たる也。

 元朝ぬくぬくときたる顔を見れバ、冬中、日本国中賤山がつまでくらひあましたるからざけ、此五文字にて冬中の事よくきこえ侍るを、うれしくて取合たる也。是全ク等類幷ふるしとハ、ふつふつ申がたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.145~146)

 

 干鮭は冬の安くて手ごろな保存食だったのか、「日本国中賤(しず)山がつまでくらひあましたる」ほど大量に消費されていたようだ。ただ、この大量消費の方に比重を置くなら、もっと違う趣向があっただろう。「かえてやゑぞがきぞ始」では、やはり干鮭で着物を変えるというネタの方が立ってしまう。

 

 「此句難じていはば、『きぞ始』うまくてあししといひたし。外の詞ニて、歳譚の季をもたせ侍らバ、よく侍るべし。

 から鮭のゑぞハ古手で御慶かな

などむすびたらバ、よく侍らんか。『衣にかえてきぞ始』と、俗のよろこぶ所に、大きにしたるき所あり。等類ノ難ハ會てなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.145~146)

 

 「古手」は使い古した衣類で、着衣始で新しい着物を着るのとはあえて逆にしたわけだが、どっちにしても蝦夷のことは推測だし、どのような正月を迎えていたかはよくわからない。だから古手で御慶でもいいわけだ。これだと確かに等類にはならない。

 

 「右申如ク、句ハ産所をきくを宗匠とハ申也。尚白が産所と愚が産所ハ大きに相違なる所より出侍れバ、等類ニてハなし。

 能因・頼政の白川の歌にてよくしれたり。鎌倉のかつほハ兼好より申ふるし、月下に門をたたく事ハ、賈島よりいひあまし侍れ共、師新敷いひ出し侍れバ、用ひやうにて、いかやうにもいはれ侍るもの也。

 おもき・かるきと云事をしらぬ作者なれバ、衣にかえるといふ面白ミにくらひつきて、からざけのかるきのあゆみをしらぬゆへに、等類の沙汰を申也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.146~147)

 

 能因・頼政の白川の歌は、

 

 都をば霞とともに立ちしかど

     秋風ぞ吹く白河の関

             能因法師

 都にはまだ青葉にて見しかども

     紅葉散り敷く白河の関

             源頼政

 

のことで、昔からよく似ていることで有名だ。頼政の歌は歌合せの歌として青葉、紅葉、白河の色彩の華やかさを取り柄として、オリジナルと認められた。能因法師の歌も「みちのくにゝまかり下りけるに白川の關にてよみ侍りける」という前書が付いていることから、本当に旅で詠んだとされているが、十訓抄や古今著聞集には旅をしたように装って発表したとされている。

 まあ、京から白河まで弥生の終わりに旅立ったとしても、三ヶ月以上もかかったというのは、いくら昔の旅のペースでもゆっくり過ぎる感じはする。芭蕉は霞とともに江戸を発ったが田植えの頃には白河にたどり着いている。

 この二つは似ているけど、能因の歌は真相はともかくとしても羇旅として詠まれたもので、頼政の歌は歌合せの余興で詠まれている。産所は確かに違う。

 「鎌倉のかつほハ兼好より申ふるし」は『徒然草』だい百十九段の、

 

 「鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、かの境にはさうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄りの申し侍りしは、この魚、おのれら若かりし世までは、はかばしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は下部も食はず、切りて捨て侍りしもなり。と申しき。かやうな物も、世も末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。」

 

を指すと思われる。

 鮮魚に乏しい京の人からすれば、鎌倉の鰹は珍しかったのだろう。ただここでは鰹を武家の比喩として用いて、鎌倉幕府の時代になって武士が威張ってるのを、昔は捨ててた鰹がもてはやされているのと重ね合わせて、世も末だと嘆いている。

 芭蕉はこの比喩を踏まえてか、

 

 鎌倉を生きて出でけん初鰹    芭蕉

 

と詠んでいる。命からがら北へ遁れた義経のイメージもあるのだろう。

 「月下に門をたたく事ハ、賈島より」は「推敲」の詞の語源となった有名な故事だが、芭蕉は、

 

 三井寺の門たたかばやけふの月  芭蕉

 

と詠んでいる。この句は謡曲『三井寺』も踏まえた二重の出典を持つが、出典の元の意味に拘泥せず、出典を知らなくても意味が通るように詠まれている。これを「軽み」という。

 ただ、許六のいう「からざけのかるきのあゆみ」はそれとは意味が違うように思える。

 別に尚白の「衣にかえるといふ面白ミ」が何らかの出典を持っているわけではないし、どちらも軽みの句だと思う。

 

 

54、おもき・かるき

 

 「惣別おもき・かるきといふ事、趣向又ハ詞つづき容易なるを、かるきとおぼえ侍りて、上をぬぐひたるやうなる句、此ごろいくばくか侍る。それハうつけたるといふものにて、かるきといふ物ニハなし。

 面白俗のよろこぶ所のしミつきたるごとき事を、おもきとハいふ也。かるきと云ハ、言葉ニも筆にものべがたき所ニ、ゑもいはれぬ面白所あるを、かるしとハいふ也。

 かるきとて、おもしろミのなき事ハ、うつけたるといふ物也。

 此事翁にたづねて、よく究置き侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.147)

 

 元々は出典に寄りすぎた句を重しと言い、そこから抜け出そうとするところに軽みの風が生まれた。

 たとえば延宝四年の「此梅に」の巻、十五句目の、

 

   森の下風木の葉六ぱう

 真葛原ふまれてはふて逃にけり    信章

 

の「木の葉」に「真葛原」は重く、元禄五年の「洗足に」の巻の、

 

   今はやる単羽織を着つれ立チ

 奉行の鑓に誰もかくるる       芭蕉

 

は出典や古典の趣向に頼らずに自由に付けているから軽みになる。

 一見すると日常の言葉と発想で付ければ軽く、古典の言葉が入っていれば重いというふうに受け止められやすい。

 軽みというのは古典の言葉が入っていても問題はない、ただオリジナルに寄りすぎずにイメージを展開できるかどうかの問題になる。そこが本説付けと俤付けの境界にもなる。

 たとえば「此梅に」の巻の六十一句目、

 

   能因法師若衆のとき

 照つけて色の黒さや侘つらん     信章

 

は先の「都をば霞とともに立ちしかど」の歌の十訓抄や古今著聞集のエピソードをほとんどそのままなぞっている。

 これに対し元禄三年の「市中や」の巻の、

 

   草庵に暫く居ては打やぶり

 いのち嬉しき撰集のさた       去来

 

の句は、前句を西行法師の俤として、晩年自分の歌が『千載集』に入集したのを知った時は、さぞかし小夜の中山ではないが「命なりけり(生きててよかった)」と思ったに違いないという句で、出典となるような伝承は特にない。想像で作ったという所に「軽み」がある。

 ちなみにこの句は最初「和歌の奥義をしらず」というような句だったらしい。これは『吾妻鏡』の西行と頼朝が会ったときの話で、「詠歌は、花月に対し動感の折節、僅かに三十一字ばかりを作るなり。全く奥旨を知らず。」を出典としている。出典にべったりとくっ付いた重い句だった。

 重いというのは出典にもたれて新味がない、新たな動きがない、ということで、それをあえてはずして初期衝動のままに自由な想像をめぐらしてゆくところに軽みが生じる。

 これを理解せずに、ただ言葉が軽ければいいということになると、中身のない句が軽く、シリアスなテーマの句は重いと誤解することになる。今の俳人でも結構そう思っている人が多いのではないか。

 「上をぬぐひたるやうなる句」見える所だけさっと雑巾でぬぐったような、表面的には綺麗だが中身のない句ということで、「うつけたる(中身がない)」ということになる。

 「面白俗のよろこぶ所のしミつきたるごとき事を、おもきとハいふ也。」と許六が言うのは、要するに流行に対する感性の鈍い人は、新しいネタをやってもきょとんとしていて、昔からある古いネタをやると、ああそれは知ってるとばかりに笑ったりする。俳諧でも古典にべったりと付いた句は、世間の話題についていけなくなったお年寄りには喜ばれたのではないかと思う。

 「かるきと云ハ、言葉ニも筆にものべがたき所ニ、ゑもいはれぬ面白所あるを、かるしとハいふ也。」というように、最先端の笑いは頭で理解するよりもまず感性に訴えかけてくる。ただ、それで中身がなければただの「うつけたる」句になる。

 

 「又予が句、木曾山中にて、

 山吹も巴も出る田植かな

 是談林時代の句によく似たれ共、大きに相違也。

 談林の時代ハ、山吹・巴ニ直ニ田を植さセ侍るヲ、はたらきとハ申也。

 此句、山吹・巴はかり物にて、只田植の上をよくいはむ為斗ニ、かり用ひ侍るなり。嫂も、娘も、里にハ残りたるもの一人もなく出たると、見るやうにいはむ噂さ也。

 時代をよくしらぬ作者ともの論ずる事は、申までハなく侍れ共、かならずかならず耳にきき入給ふ事なかれ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.147~148)

 

 この場合の「山吹」は植物(うゑもの)に非ず。源義仲の便女の山吹御前のことをいう。そうなると「巴」も巴御前ということになる。

 

 山吹も巴も出る田植かな    許六

 

というのは、木曾義仲の俤を借りて、山吹御前も巴御前もいつしか戦列を離れて行き、独り落ち延びての田植とするが、この俤はあくまで比喩であって、「嫂も、娘も、里にハ残りたるもの一人もなく出たる」という一人淋しく田を植える姿が本来意図したところだった。

 山吹御前や巴御前など『平家物語』や『源平盛衰記』に登場する二人の美女を並べるあたりは、談林の流行期に好まれた趣向だったのだろう。

 山吹御前と巴御前に田植をさせるというのはやや無理な感じもするが、

 

 山吹も巴も舞えや田植歌

 

くらいだったらありそうか。談林の頃だと、比喩だとか俤だとかではなく、あくまで古典の人物と卑俗な田植とのギャップあたりに笑いをもっていきそうだ。

 

 

55、南蛮

 

 「一、次でながら難ズ。

 亡師五七日追善、木曾塚ニて、嵐雪・桃隣など集たるれきれきの百韻の巻に、

 青き中よりちぎる南蛮     乙州

 松の葉のちらちら落る月の影  朴吹

 たしかに鹿の鳴声を聞     丹野

 のびかがミ我身を楽にとり廻し 路通

 付ちらかして買ぬ小道具    臥高

 傘をさげてもどりし雲の峯   土龍

 乙州が『青き南蛮』といへるハ何ぞや。南蛮といへる物しらず。黍の事か、唐がらしの事か。平話にハいふといへ共、文章ニつらねる時、一句南蛮と斗いへるものなし。

 惣体ニて、唐がらしと成共、又ハ玉黍と成共、きこえ侍る句作ならバ、南蛮共下畧尤たるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.148~149)

 

 この巻は路通の『芭蕉翁行状記』に収められている。

 

   翁二七日十月廿五日會

   追善各集粟津義仲寺譜直愚上人設斎

 木がらしや通ふして拾ふ塚の塵 路通

 

を発句とする四十四句俳諧があり、初月忌には乙州・木節の両吟歌仙があり、そのあとの五七日木曽塚會連衆、京、江戸、大津、膳所の四十八句の四句目から九句目がここに記されている。

 

 青き中よりちぎる南蛮     乙州

 

 この句の「南蛮」が問題になる。

 ちなみに今日のウィキペディアの「唐辛子」の所には、

 

 「『唐辛子』の漢字は、『唐から伝わった辛子』の意味であるが、歴史的に、この『唐』は漠然と『外国』を指す語とされる(実際の伝来経路については伝来史で)。同様に南蛮辛子(なんばんがらし)、それを略した南蛮という呼び方もある。」

 

とある。

 特に南蛮味噌の南蛮は青唐辛子のことで、乙州の句を証明するかのようだ。

 また、ウィキペディアの「南蛮」の所には、

 

 「『南蛮』の語は、今日の日本語においても長ネギや唐辛子を使った料理にその名をとどめている。『南蛮料理』という表現は、16世紀にポルトガル人が鉄砲とともに種子島にやってきた頃から、様々な料理関係の書物や料亭のメニューに現れていた。それらに描かれる料理の意味は、キリスト教宣教師らにより南蛮の国ポルトガルから伝わった料理としての南蛮料理と、後世にオランダの影響を受けた紅毛料理や、中華料理の影響、さらにはヨーロッパ人が船でたどったマカオやマラッカやインドの料理の影響までを含む、幅広い西洋料理の意味で使われてきた場合の両方がある。

 南蛮料理が現れる最も古い記録には、17世紀後期のものとみられる『南蛮料理書』がある。また主に長崎に伝わるしっぽくと呼ばれる卓上で食べる家庭での接客料理にも南蛮料理は取り込まれていった。

 唐辛子は別名を「南蛮辛子」という。南蛮煮は肉や魚をネギや唐辛子と煮た料理である。南蛮漬けはマリネやエスカベッシュが原型と考えられている。カレー南蛮には唐辛子の入ったカレー粉とネギが使用されている。文政13年(1830年)に出版された古今の文献を引用して江戸の風俗習慣を考証した『嬉遊笑覧』には鴨南蛮が取り上げられており、「又葱(ねぎ)を入るゝを南蛮と云ひ、鴨を加へてかもなんばんと呼ぶ。昔より異風なるものを南蛮と云ふによれり」と記されている。」

 

とある。

 唐辛子を南蛮と呼び、唐辛子を使った料理も南蛮と呼ばれていたことからすれば、たまたま許六が唐辛子を南蛮というのを知らなかっただけかもしれない。

 許六が唐辛子か黍かわからないと言っているのは、確かにトウモロコシのことを南蛮黍と言っていたからだ。ただこっちの方は南蛮と略されてはいなかったのだろう。

 

 「青き中よりからき南蛮

 などあらバ、唐がらしの句ともいふべし。此句、秋なるや、夏なるや、慥ならず。青唐がらしならバ、夏たるべし。黍にても、青きとせば夏ニ成べし。青麦、春に成上ハ、是慥成夏也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.149)

 

 青唐辛子(青蕃椒)は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』でも夏のところにある。

 

 青くても有るべきものを唐辛子 芭蕉

 

の句は元禄五年九月の句。赤くなった唐辛子を見て、青くてもよかったのにという句だから秋の句になる。

 

 

56、松の葉の散る

 

 「常盤木の落葉、夏也。『松の葉のちりちり落る月の影』右二句共ニ作者一座共ニ、秋とおぼえたると見えたり。二句共夏也。三句目に鹿の句あり。是只一句也。唐がらしの句秋にしても、中の月の句夏に成也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.149~150)

 

 松永貞徳の『俳諧御傘』には確かに「ときは木の落葉は夏也。」とある。ただその後に続けて「又、落葉に常盤木のちる・松の葉の散、連には折を嫌とあれば‥‥」とあり、常盤木の落葉と松の落葉は区別しているようにも思える。

 『応安新式』の一座三句物の所には「落葉(只一、松の落葉一、柳ちるなど云て一)」とあるが、「連歌新式紹巴注」には「松・竹の落葉は雑也」とある。

 『猿蓑』には、

 

 禅寺の松の落葉や神無月    凡兆

 

の句があるが、ここでは「松の落葉」は雑として扱われているように思える。

 

 清滝や波にちり込む青松葉   芭蕉

 

の句も単なる松の散るではなく「青松葉」とある。これを見ると芭蕉も「松の散る」だけでは雑という意識があったのではなかったか。

 

 青き中よりちぎる南蛮     乙州

 

の句にしても、青唐辛子がこの時代に夏の季語として確立されていたかどうかは怪しいし、

 

   青き中よりからき南蛮

 松の葉のちらちら落る月の影  朴吹

 

の句も「松の葉」を無季とすれば普通に月の句で秋の句となる。そこで、

 

   松の葉のちらちら落る月の影

 たしかに鹿の鳴声を聞     丹野

 

と展開するのは自然だ。

 

 「又三句置て雲の峯あり。かやうの事、師遷化し給ふと、はや五七三十五日の中ニ、人口にかかる事を仕出し、其分ニても捨侍るか、あまつさへ梓にちりばめ、一天下の人の眼にさらしたる事、れきれきの宗匠達の寄合、歯がねをならす膳所衆など、さてさて頼母しからず。先生ハ其巻半ノ時、出座し給ふときく。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.149~150)

 

 この巻の十八句目と三十五句目には確かに去来の句がある。

 ただ「青唐辛子」や「落ち松葉」がこの頃夏の季語として確立されていたかどうかは微妙なので、あながち間違いとは言えない。

 

 「『内へ這入ればぞつとする』との御一句、田舎までかくれなし。かやうの事、集毎にいくらと云数もなし。見落し・差合などハ少もくるしからず。

 不玉の継尾集の俳諧、穂の上の巻ニも、春の雪二ツ出たり。

 又市菴、落柿舎乱吟も、「ほつとして来る」と云付句ニ、指出してと云「して」の字又あり。ケ様の事ハ、他門の人ニても、よき人ハ見ゆるして論ぜず。右追善の巻の差合ハ、つたなきといふもの也。大き成恥辱也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.150~151)

 

 「内へ這入れば」の句は十八句目の句で、これはまあ、この句が問題というのではなく、去来さんあんたこの場に居合わせたんなら何か言ったらどうか、という意味。

 元禄五年刊の不玉編『継尾集』巻三の正秀の「穂の上を」の巻の十九句目に「雪消へて」とあり、三十四句目にも「雪解(イテ)」とある。去来も同座している。これは『応安新式』に、「雪(三様之、此外春雪一、似物の雪、別段の事也)」とあり、春の雪は一句ということになっている。

 そのあとの落柿舎乱吟は元禄七年の序のある洒堂編『俳諧市の庵』の「柳小折」の巻だが、この巻は芭蕉の同座している。

 発句も、

 

 柳小折片荷は涼し初真瓜    芭蕉

 

で、その二十一句目の、

 

   新茶のかざのほつとして来る

 片口の溜をそっと指し出して  酒堂

 

のことだが、前句は芭蕉の句だ。これは違反ではないし、芭蕉も容認していたと思われる。

 

 「一、予俳諧を見る事、かたのごとく得もの也。あら野・さるミのをにらミ、師の魂を見届ケ侍るといへるも、是得物成ゆへ也。当時末々の集においてをや。句の善悪の事ハ、師の眼前ニおいて論ぜざれバ証拠なし。多ク数寄・不数寄ニ落る事、口おしき次第也。

 我が数寄侍らぬ句をほむる人ならでハ、眞ンの俳諧とハいひがたからん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.151)

 

 ここで一応予防線ということだろう。ここまで書いたことは『阿羅野』『猿蓑』を精読して自得したものであって、芭蕉さんと直接議論して得たことではないので芭蕉さんの考えであることを証明するものではない。

 まあ、去来さんのように直接不易流行説を聞けなかったことは残念だということだろう。いくら血脈がとは言っても好き嫌いの問題と言われればそれまでになってしまう。

 だからあえて「数寄侍らぬ句をほむる人」が真の俳諧だと謙虚にこの章を締めくくる。

自得発明弁

1、句の案じ方

 

 「一、師ノ云、発句案ずる事、諸門弟題号の中より案じ出す、是なきもの也。余所より尋来れば、扨々沢山成事也といへり。

 予が云、我あら野・さるミのにて、此事見出したり。予が案じ様ハ、たとへバ台を箱に入、其箱の上ニ上て、箱をふまへ立あがつて、乾坤を尋るといへり。師の云、これ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.152)

 

 これは題詠を否定しているのではなく、題という箱の中を探すか、題という箱の上に登って広くこの世界を眺めるかの違いになる。

 箱の中を探すというのは、たとえば蛙が題なら、蛙から連想される、山吹、井出の玉水、歌を詠む、蛙いくさ、そいうものが「蛙」という箱に入っている。そこから引っ張り出すのではなく、「蛙」という箱の上に立ってこの世界を眺めれば、いろいろな「蛙あるある」が見えてくるということだ。荒れ果てた池に行くと急に蛙の飛び込む音がしてビクッとすることってあるよね、ということになる。

 海士の屋という題なら、藻塩焼く煙や行平さんではなく、小エビの中に竈馬が混ざっていることってあるよね、となる。

 松茸という題なら、松茸は美味で酒の肴にもいいとかではなく、松茸をよく見ると知らぬ木の葉がへばりついてたりするよね、となる。

 これは古典的な連想の範囲を越えて、実際見たもの聞いたもの世俗の雑談としても面白い物を見つけ出すということが蕉門の面白さだったということだ。

 

 「されバ社(コソ)、

 寒菊の隣もありやいけ大根

 といふ句ハ出る也といへり。予が発明ニ云、題号の中より尋て、新敷事なきハしれたり。

 万一残りたるもの、たまたま一ッあり共、隣家の人同日ニ同じ題を案ずる時、同じ曲輪を案じ侍れバ、ひしと其残りたる物ニさがしあてべし。道筋同じ所なれバ、尋来ル事うたがひなし。まして遠国遠里の人、我がしらぬ中ニいくばくか仕出し侍らん。

 曲輪を飛出案じたらんニハ、子ハ親の案じ所と違い、親ハ子の作意と各別成物也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.152~153)

 

 これは許六の自賛で、前にも、「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.93)と書いていた。

 この時の説明と重複するが、「いけ大根」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 ① 畑から引き抜いたままの大根を地中に深くうずめて、翌年の春まで貯蔵し、食用とするもの。いけだいこ。《季・冬》

  ※俳諧・笈日記(1695)中「寒菊の隣もありやいけ大根〈許六〉」

 

とある。

 冬咲きの菊は寂しげだが、その隣に大根が埋まっていると思えば、その寂しさも紛れるだろうかと、許六の句は「寒菊の隣にいけ大根もありや」の倒置。「や」は疑いの「や」で詠嘆ではない。「も」も力もで並列の「も」ではない。

 冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。

 この冬の花の寓意を飛び越えない範囲では、題という箱の上に立っていて、箱から離れてはいない。寒菊から通常連想する範囲を越えているという点では箱の中ではない。箱の上から見渡せば、隣のいけ大根も見えてくる。

 寒菊から通常連想する範囲内のものだと、確かにそれは誰でも思いつくものだし、似たような句が至る所でできているということになる。

 許六のライバルの句、

 

 寒菊や坪に日のさす南請    洒堂

 

は寒菊に小春日のイメージで作っているが、「575筆まかせ」というサイトの寒菊のところを見ると、

 

 寒菊や日の照る村の片ほとり  蕪村

 よろ~と寒菊咲いて日の薄さ  墨水

 寒菊にかりそめの日のかげり果つ 汀女

 寒菊に日ざし来てほぼ午となる 占魚

 寒菊のところに庵の日向あり  年尾

 寒菊の日向日陰を掃きにけり  水巴

 寒菊の日和を愛でて庭に在り  鶏二

 弱りつゝ当りゐる日や冬の菊  草城

 

などと同じ曲輪の句が並んでいるのが分かる。

 なお、芭蕉はこの許六の句の翌年の元禄六年に、

 

 寒菊や醴(あまざけ)造る窓の前 芭蕉

 寒菊や粉糠のかかる臼の端    同

 

の句を詠んでいる。いずれも農家の庭先の景で、むしろ許六の影響を受けた感がある。甘酒は寒い冬の中の暖かさで寒菊の心に通じるものがあり、粉糠のかかる臼は収穫の喜びに結び付けられている。甘酒も収穫祝いに飲んでいたのであれば同じ心を持つことになる。

 「子ハ親の案じ所と違い、親ハ子の作意と各別成物也。」は要するに、親の言う通り受け継いでいる子はそのままだが、子が独立して自分の道を行けば親を越えてゆく、ということだ。

 

 

2、発句は取り合わせ物

 

 「師の云ク、発句ハ畢竟取合物とおもひ侍るべし。二ッ取合て、よくとりはやすを上手と云也といへり。ありがたきおしへ也。これ程よきおしへあるに、とり合する人希也。

 師ハ上手ニて、其ままとりはやし給ふ。予ハとりはやす詞ハよくしりたり。案じ侍る時ハ、如何にもよくとりはやし侍る也。是とりはやす詞をしりたる故也。平句猶しか也。

 炭俵・別座敷の俳諧専ラ新ミといふハ、此とりはやす詞の事也。此詞をしらぬ人ハ、遺経の俳諧ニハ通じがたからん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.153)

 

 取り合わすというのは近代で言う二物衝突のことではない。二物衝突はシュールレアリズムの自動筆記に近い、たまたま二つの関連のないものを取り合わせることで、そこに読者が意味を与え、今までなかったような世界が生み出されるというものだ。こうもり傘とミシンのようなものだ。

 ここでいう「取合(とりあはせ)」は「とりはやす」とも言い換えている。「とりはやす」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「座を取りもつ。にぎやかにする。

  出典枕草子 五月の御精進のほど

  「『むげにかくては、その人ならず』などいひて、とりはやし」

  [訳] 「まったくこのようではあなたらしくもない」などと言って座を取りもち。」

 

とある。あくまで句に今日を添えて盛り上げるためのものだ。

 そのの取り囃す言葉を選ぶ際、芭蕉は天性のものがあったが、許六は「よくしりたり」とあるようにいろいろと勉強したようだ。

 『炭俵』『別座敷』の「軽み」と呼ばれる新味も、この取り囃す言葉によるものだという。

 

 「予此ごろ、梅が香の取合に、浅黄椀能とり合もの也と案じ出して、中ノ七文字色々ニをけ共すハらず。

 梅が香や精進なますに浅黄椀    是にてもなし

 梅が香やすへ並べたつあさぎ椀   是にてもなし

 梅が香やどこともなしに浅黄椀   是にてもなし

など色々において見れ共、道具・取合物よくて、発句にならざるハ、是中へ入べき言葉、慥ニ天地の間にある故也。かれ是尋ぬる中に、

 梅が香や客の鼻には浅黄椀

とすへて、此春の梅の句となせり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.153~154)

 

 「浅黄椀」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 黒い漆塗りの上に、あさぎ色または紅白の漆で花鳥などの模様を描いた椀。

  ※今井宗久茶湯日記抜書‐天正一一年(1583)七月七日「本膳 木具、折しき あさきわん」

 

とある。芭蕉にも、

 

 海苔汁の手際見せけり浅黄椀   芭蕉

 

という貞享元年の句がある。

 浅黄は浅い黄色だが「浅葱」も「あさぎ」と読むので混同されやすい。今日では途絶えてしまったか、この色の漆を見ることはない。陶器の浅黄交趾のことなのかもしれない。グーグルでそれっぽい画像が見つからなかったので、とりあえず幻の椀としておく。

 海苔汁は真っ黒なので、普通の黒塗りや濃い朱塗りの漆椀では映えない。浅黄椀を使うというところに手際があったのだろう。

 

 梅が香や精進なますに浅黄椀

 

の精進膾はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 魚類を用いないで、大根、人参など野菜類で作ったなます。

  ※浮世草子・懐硯(1687)一「不断は精進膾(シャウジンナマス)、あるにまかせて魚鳥もあまさず」

 

とある。梅の目出度さにきらびやかな浅黄の椀、それに精進膾は、う~ん、となってしまう。喪中の正月でもあるまいに。

 

 梅が香やすへ並べたつあさぎ椀

 

 これは梅の香にただ並べた浅黄椀があるだけで、まあ殺風景というところか。

 

 梅が香やどこともなしに浅黄椀

 

 この「どこともなしに」は梅が香のことで、「梅が香のどこともなしにや、浅黄椀」であろう。

 

 梅が香や客の鼻には浅黄椀

 

 これだと正月にお客さんをもてなすために浅黄椀を準備したと、いちおうお目出度い句になる。「鼻」を出すことで、料理の香に混じって梅の香も漂うとなる。あるいは汁に梅の花を添えたか。雰囲気はわかるし梅が香を囃し立てるという意味では間違いない。

 

 

3、「取り合わせ」と「取り囃し」

 

 「一、発句ハとり合ものといひけるハ、たとへバ日月の光に水晶を以て影をうつす時ハ、天火・天水をうるごとし。

 発句セんとおもふ共、案じずしてハ出べからず。日月斗を案じたる共、天火・天水を得る事あるべからず。外より水晶を求めて、よくとりはやすゆへに、水火を得たるがごとし。水晶あり共、よくとりはやす事をしらずバ、発句に成就しがたし。

 木がくれて茶つミもきくやほととぎす

 是、時鳥に茶つミ、季と季のとり合といへ共、木がくれてトとりはやし給ふゆへに、名句になれり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.154~155)

 

 天火(てんか)は落雷による火、天水は雨水のこと。日月は陽と陰で、陰陽から五行が生成するとき、陽は天となって天から雷が落ちることで火を生じ、陰は地となって地から水が湧き出ることで水が生じる。

 発句を詠むというのは日月を水晶に映した時にそれがただの光ではなく、そこに火や水が生じ陰陽五行の備わった乾坤の姿を描き、この現実の現象界を生き生きと描き出さなくてはならない。日月の光は眼前の神羅万象を描き出すことになって初めて発句になる。

 ここでいう「水晶」は陰陽を五行に変換する装置といってもいいだろう。

 月を詠むといっても、ただ月があるというだけでは発句にはならない。『天正十年愛宕百韻』の十七句目、

 

   ただよふ雲はいづちなるらん

 つきは秋秋はもなかの夜はの月  明智光秀

 

では発句にはならない。「秋の夜半の月」に「漂う雲」という水晶があって、それを一句の内に込めれば一つの景色として出来上がる。もっとも、付け句は必ずしもそれをする必要はなく、二句合わせて一つの景になれば良しとする。

 月に梢でもいいし、月に雁でもいい。何かそういう取り合わせがあれば、月は一つの景色の中に溶け込むことになる。

 

 名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉

 

の句は単純だけど、月に池という水晶を置くことで景として成立させている。もちろん単に月に池では景としては成立しても盛り上がりに欠ける。いわば、そこに心や情がこもらない。「夜もすがらめぐりて」と囃すことで、池の月の景はより際立つことになる。

 「水晶あり共、よくとりはやす事をしらずバ、発句に成就しがたし。」というのは、月に雲、月に池だけでは駄目で、そこにどうゆう状況でどういう心情でというのが伝わらなければ、まあとにかく退屈な句にしかならない。

 

 木隠れて茶摘みも聞くやほととぎす 芭蕉

 

の句は元禄七年の句で『別座敷』に収録されている。

 この場合もホトトギスだけでは景色にならない。ホトトギスに茶摘みを取り合わせることで一つの景色が出来上がる。ただこれだけでは退屈で、もう一つ何かが欲しい。この場合「木隠れて」がその囃しになる。正岡子規が「山」と呼んだものにも似ている。

 ホトトギスの声が聞こえてきて、旅する自分だけではなく、あそこで茶摘みをしている地元の人たちも木の陰に隠れているが、同じようにホトトギスの声を聞いただろうか、と茶を摘む人のことを気遣っちゃうあたりで、いわば「細み」が生じる。

 先の、

 

 梅が香や客の鼻には浅黄椀    許六

 

の句で言えば、梅が香が日月で、浅黄椀が水晶、そして「客の鼻には」が囃しになる。

 

 

4、噂、共通認識

 

 「一、又云、俳諧ハ題の噂とおぼえたるがよし。たとへバ花の発句せんとおもひしに、花と斗ハ十七文字にのべがたし。故に一句に花と云噂をいへる事也。

 花は風の吹てちると成共いはねバ、一句にならず。

 一度ハ面白けれ共、二度、風ニて花のちるとハおかしからず。されバ入相のかねに花のちるともいひ、風の吹ぬにちるなど、いろいろ噂をいひかへて、今の不易・流行の所へ案じ付たる也。是、噂成事明也。

 よき噂取出したるハ上句也。噂のわろきハ下也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.155~156)

 

 噂(うはさ)は多くの人ががやがや言うという意味。今日では風評やゴシップに限定されるが、元は世間でとかく言われていることくらいの意味だった。

 だから、「俳諧ハ題の噂」というのは、その題について世間一般の人が言っていること、あるいは抱いているイメージくらいに思えばいい。

 花と言えばここでは桜のことだが、「桜は風が吹いてすぐに散っちゃって儚いね」というのは桜の噂になる。桜だけでは発句にはならず、桜についてみんなが思ってることを言って、桜の意味を共有した時それは発句になる。

 ただ、当たり前なことを言っても面白くない。よく「最初に恋人を花にたとえた人は天才だ」などと言うが、最初は驚く事でも何度も繰り返されれば月並みな表現になる。それに飽き足らず常に新しい言い回しを求めることで、そこに不易流行が生じる。

 

 五月まつ花たちばなの香をかげば

     昔の人の袖の香ぞする

              よみ人しらず(古今集)

 

は不易だが、平安時代でもその後色々なお香の流行があり、中世近世近代と人々の生活も大きく変わり、みんながよくわかる噂の香についても、次々に新しいのがあらわられては流行遅れになってゆく。それでも今の新しい香りで置き換えて行けば、それは再び流行のものとなる。ドルチェ&ガッバーナの香水のように。

 近代俳句と違うのは、近代俳句は個の表現であり、世間の噂を嫌う。俳諧は常に新しい噂を広めるのを役目とする。近代俳句は個々の主義主張で分断を生むが、俳諧は世間を一つにする。

 

 「一、又云、噂と云ハ、予が句ニ、いつぞや洛の和及が弟子何某といへるもの来て、予と俳諧セん事をのぞむ。其時、

 都人の扇にかける網代かな

と云句せし也。都人のあいさつに、扇ハよき噂とおもひて、冬のころなれ共とり合侍る也。此句、翁にかたり侍りしに、よきあいさつの仕やる也とて、感じ給ふ也。此外いくらもあるべけれ共、さし當りておもひ出したる故に、しるし侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.156)

 

 噂というのはいわば世間の共通認識のようなものだとしたら、それは地方によっても身分によっても多少なりとも違ってたりする。

 京都の露吹庵和及は元禄三年に『雀の森』、元禄四年に『誹諧ひこはゑ』を編纂している。性は三上とも高村とも言われている。まあ、この頃の俗姓は途中で変わることも珍しくない。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「1649-1692 江戸時代前期の俳人。

  慶安2年生まれ。京都の人。姓は一説に高村。隼士常辰(はやし-じょうしん)の門人。元禄(げんろく)5年1月18日死去。44歳。号は露吹庵。編著に「雀の森」「誹諧ひこはゑ」など。」

 

とある。隼士常辰は野々口立圃(りゅうほ)の門人。貞門の系譜にある。

 元禄二年刊の俳諧作法書『当流増補番匠童』は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(大内初夫、櫻井武次郎、雲英末雄校注、一九九四、岩波書店)に収録されている。

 句の方は、浪化編『続有磯海』に、

 

   京なる人に対して

 都人の扇にかける網代哉     許六

 

という形で収録されている。

 扇を使った挨拶というと、扇をたたんだまま自分の前に置いてお辞儀をすることをいうのか。これによって一時的に上座と下座を仕切るのだという。ただ、これだと「かける網代」の意味が分からない。

 当時の京の人の間では共通認識(噂)ではあっても、時代が変わると分からなくなることはある。

 

 

5、未来を案じる

 

 「一、又、未来の句を案ずるといふハ、五年も七年も先を案ずる事也。未練の者ハ、斗方もなきやうニおもひ侍れ共、眼前ニしれたる事也。

 たとへバ、花と云題にて発句所望せし時、案じて一句出る。又一句のぞむ時、最前案じたる所ハもはやのべがたけれバ、されよりおくを尋て、一句とり出して句とす。又所望する時、ひたものおくを尋る。是、未来の句、眼前にしれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.156~157)

 

 未来の俳諧について考えておく必要というのは、長く俳諧に携わってゆこうとするなら、考えないわけにはいかないだろう。まあ、これは今の芸人にも当てはまるし、ミュージシャンだって五年十年後の音楽がどうなるかは考えざるを得ないだろう。

 世間は常に新しいものを求めている。同じネタはいつまでも使えない。ネタだけでなく同じ手法というのもやがては飽きられる。常に先のことを考えていかなくてはいけないというのは、例えば商品開発などでもそうだろう。トレンドで飯を食っている人間は、常に未来を見ていなくてはならない。

 ただ、それが常にできる人はごくわずかだ。どの業界でも一発屋というのはたくさんいるし、その一発さえ出せなかった人がさらに無数にいる。

 許六さんも次の俳諧には当然関心があったし、去来だって其角だって関心ないわけではなかったはずだ。ただ、惟然のような自分が予期しなかったようなものが出てしまうと、それに乗るというよりはディスる側に回ってしまうものだ。

 

 

6、俳諧は物数寄

 

 「一、又云、俳諧ハ物ずきともいふべし。上手の句ハ物ずきよく、下手の句ハ物ずきあしし。てには・おさへ字等ハ、上手の句も下手の句も、一字もゆるされざれば、物ずきのよきを上手といはむか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157)

 

 「物ずき」というのは、今では変わったものをわざわざ好む人のことを言うが、数奇(数寄)はもともとは和歌を好むことだった。ウィキペディアの「数寄者」のところには、

 

 「古くは「すきもの」とは和歌を作ることに執心な人物を指した様であるが、室町時代には連歌が流行し、特に「数寄」が連歌を指すようになったとされる。

 さらに桃山時代には富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も連歌から茶の湯へと意味を変えている。このため江戸時代には、数寄のための家「数寄屋」も茶室の別称として定着する。」

 

とある。和歌や連歌が数寄なら、当然ながら俳諧も数寄の道ということになる。

 一般的には「流行するものを好む」ことが「数寄」だと言っていいのではないかと思う。今の言葉だとファッションが一番近いかもしれない。

 俳諧は一つのファッションであり、上手の句はファッショナブルで下手の句はファッショナブルではない。文法的な面で上手い下手はあっても、それは上手かろうが下手だろうがどのみち守らなければならない規則なのだから、ファッションセンスのある作者が上手といっていい。

 音楽でもプロで何年もやっていれば歌や楽器など嫌でも上手くなる。でも作詞や作曲のセンスはいくら練習してもどうなるものでもない。若いへたくそなバンドでもヒット曲を連発することはあるし、いくら楽器がうまくてもスタジオミュージシャンにしかなれない人もいる。

 文学の方だと、どう頑張っても面白い文章は書けないが、文法や漢字知識や仮名遣いなどが完璧なら、校正に回った方がいい。

 それと同じで、俳諧の上手下手も結局はセンスの問題で、文法に詳しいからって面白い句が作れるわけではない。

 

 

7、俳諧は出来ないと思ったら出来ない

 

 「一、又云、俳諧ハなきとおもへバなき物也。あれ共、案じあてぬとおもひて案じ侍れバ、成程ある物也。

 たとへバ、歳旦ハ事せまくてなき物とおもふ故に、上句希也。歳暮ハひろき物なれバあるべしとおもふ故に、おりふしよき句出るがごとし。是明なる事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157)

 

 これは「俳諧は出来ないと思ったら出来ないもの也」ということだろう。「あれ共」は前の文章を受けて、「しかれども」ということで、考えれば必ずできると思って考えれば、成程出来るもの也、と続く。

 歳旦はお目出度いものでなくてはならないし、正月特有のものは限られているなど、いろいろ制約が多くて難しいと思うから、歳旦で名句はなかなか生まれない。この頃の俳諧師は毎年歳旦帳を出していたけど、そのほとんどは左義長で燃やされて消えてしまったのだろう。

 歳暮の場合、年末は人情色々あるし、題材も豊富だから有名な句も多い。

 

 年暮ぬ笠きて草鞋はきながら   芭蕉

 人に家をかはせて我は年忘    同

 詩あきんど年を貪ル酒債かな   其角

 いねいねと人にいはれつ年の暮  路通

 大晦日定めなき世の定めかな   西鶴

 

 

8、五文字の座らない句

 

 「一、五文字のすハらざる句、人持来て五文字を頼むと云事。

 李由が句ニ『比良より北ハ雪げしき』といふ句、久しく五文字なし。予翁に尋侍る時、早速『鱈舟や』と云五文字ハすへ給へり。此句門人たる人しらぬハなし。

 此時師の云、凡兆が句ニ、『雪つむ上の夜の雨』と云に、五文字頼む。情を費して案じ出して、『下京や』と云五字をすへたりと語り給ふ。

 同じ五文字をすへ給ふに、容易に出ると出ざるとハ、いかなる子細成とおもふに、愚退て発明するに、『鱈舟』と云五文字ハ、取合もの也。『下京』といふ五字ニハ、例の翁の血脈を入られたり。二ッの五文字同じ事とおもふ人ハ、五文字置事ハ成まじき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157~158)

 

 比良山は琵琶湖の西岸にある山で、貞享五年秋の芭蕉越人両吟「雁がねも」の巻の十七句目にも、

 

   物いそくさき舟路なりけり

 月と花比良の高ねを北にして   芭蕉

 

の句があった。この場合は前句を、琵琶湖を渡るのに急いでいて瀬田の唐橋まで行かず、近道になる矢橋(やばせ)の渡しを船で渡る人のこととして、そこから北に見える比良山を付けている。

 この場合、比良の北は雪景色で山が真っ白に見えるという下七五ができたものの、上句が決まらないというものだった。

 比良山といえば多くの人が連想するのが琵琶湖だったと思われる。東海道でも中山道でも、江戸と京都を行きかう人は、琵琶湖の向こうにある比良山が嫌でも目に入ってきたのではないかと思う。そうなると「比良より北ハ雪げしき」という下句には琵琶湖の景物を付けないという手はない。ただ「鳰の海比良より北は雪げしき」ではいかにも平凡で、許六なら「是にてもなし」と言うだろう。取り合わせにはなるが、取り囃してはいない。

 芭蕉が「早速」というから、本当に即答したのだろう。

 

 鱈船や比良より北は雪げしき   李由

 

 ちなみにこの句は李由・許六・汶邨・徐寅の「四吟」の発句として李由・許六編『韻塞』(元禄九年刊)に収録されている。脇は、

 

   鱈船や比良より北は雪げしき

 蘆浦納豆寐せ初る比       許六

 

になっている。

 鱈船は鱈漁をする船ではなく、この場合は蝦夷や東北で獲れた鱈を極寒の中で乾燥させた「棒鱈」を京阪に運ぶ船で、北前船で若狭湾に運び、陸路で琵琶湖の北岸に運び、そこから船で琵琶湖を縦断する、この船を鱈船と呼んでいた。

 棒鱈は許六の同席した元禄五年冬の「けふばかり」の巻の二十一句目に、

 

    當摩(たへま)の丞を酒に酔はする

 さつぱりと鱈一本に年暮て    嵐蘭

 

とあるように、年末に何日もかけて戻し、正月に食うものだった。韓国にもファンテというオリンピックのあった平昌の名物があり、それに似ている。

 鱈船を出すことで、比良より北の雪景色は単なる琵琶湖の景色というだけでなく、その遥か向こうの見えない所にある棒鱈の産地である北の極寒の地にも思いを馳せることになる。

 許六はそれに琵琶湖南部の蘆原で冬に向けて納豆を仕込む頃と応じる。『炭俵』の「早苗舟」の巻三十句目、

 

   切蜣の喰倒したる植たばこ

 くばり納豆を仕込広庭      孤屋

 

の所でも触れたが、「くばり納豆」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 年末または年始に、寺から檀家へ配る自製の納豆。

  ※俳諧・炭俵(1694)上「切蜣(うじ)の喰倒したる植たばこ〈野坡〉 くばり納豆を仕込広庭〈孤屋〉」

 

とある。

 この「棒鱈や」の上五を付けた時、芭蕉は凡兆の「雪つむ上の夜の雨」の下七五に「下京や」の上五を付けた時の話をしたという。この話は『去来抄』「先師評」にもある。

 

 「下京や雪つむ上のよるの雨   凡兆

  此句 初冠なし。先師をはじめいろいろと 置侍りて、 此冠に 極め給ふ。凡兆あトこたへて、いまだ落つかず。先師曰、兆 汝手柄に此冠を置べし。 若まさる物あらバ 我二度俳諧をいふべからずト也。去来曰、 此五文字のよき事ハたれたれもしり侍れど、 是外にあるまじとハいかでかしり侍らん。 此事他門の人 聞侍らバ、腹いたくいくつも冠 置るべし。 其よしとおかるる物は、またこなたにハおかしかりなんと、おもひ侍る也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.19)

 

 「棒鱈や」はすんなり出てきたけど「下京や」は門人とあれこれ論じた果てにやっと定まったもので、この違いは何だったのかと許六は考える。

 結論としては、「棒鱈や」は比良の雪との取合せ・取囃しで容易に思いつくものだったが、「下京や」には「例の翁の血脈を入られたり」と言う。

 血脈は前にも論じたように二重の意味があった。一つはほぼ「風雅の誠」と同じもので、其角が「俳諧の神」と呼んでたものだ。しかし、一方では師から相続されたもの意味でも用いられる。

 「下京や」が取り合わせで出てきたものではないのは確かだろう。ただ、雪が積もってはすぐに雨で融かされてしまうというのは「下京あるある」だったには違いない。強いて言えば「雪つむ上のよるの雨」が何らかの多くの人の共通認識(噂)になるような場面は何か、ということから逆算していったのだろう。

 風雅の誠、俳諧の神は、基本的には多くの人の心の底にある共通のものに至りつくことであろう。共通のものに至ることで、その言葉は人と人とを繋ぎ、心を一つにすることができる。それは李退渓の四端九情説で言えば、九情を通じてその根底にある四端に行き着くことだ。

 この「下京や」の句にそこまで深いものを読み取れるかどうかは微妙だが、強いて言えば目まぐるしく変わる世界を肯定的に捉えるという時点で、不易流行に通じるものを読み取ることは可能だ。

 流れる水が濁らないように、雪が降ったかと思ったら雨ですぎに消えてゆく下京の気候に下京の町の繁栄を重ね合わせて、よく流行するゆえに栄えるという「理」を見出したなら、確かに芭蕉が自信をもって「若まさる物あらバ 我二度俳諧をいふべからず」と言ったのもうなずける。「雪つむ上のよるの雨」の下七五に芭蕉は最初からそれを読み取っていた可能性は十分ある。

 

 「又李由ある時、『鍋ぶた一ッ冬籠』と云句に、五字を頼まれたり。是容易に出る五字ニあらず。これ魂魄を入る五文字なれバ、案じ煩て、

 大儀して鍋ぶた一ッ冬ごもり

と云事をすへたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.158)

 

 「鍋ぶた一ッ」はいかにも質素な感じがして、先の、

 

 さつぱりと鱈一本に年暮て    嵐蘭

 

の句にも通じるものがありそうだ。さすがに鍋本体はなくて木の蓋だけということではないだろう。鍋と蓋のセット一つでということだと思う。幾皿も膳に並べるのではなく、鍋をつつくだけで何日も過ごす生活は、いかにも隠遁者にふさわしい。鍋は火さえ入れておけばいつまででも食えるし、具材を追加してゆくこともでき、汁はだんだん濃くなって味を深めてゆく。

 それに対して許六の付けた上五は、「大儀して」だった。「大儀」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 重大な儀式。国家の儀式で、官人すべてが参列するもの。元日朝拝・即位礼および外国使節接見など。⇔小儀。

  ※延喜式(927)四五「大儀 謂三元日即位及受二蕃国使一」

  ※太平記(14C後)二七「当年三月七日に行ふべしと沙汰有しか共、大儀事行はれず」

  ② 表立った儀礼的な催し事。大がかりな法要や演能。

  ※花鏡(1424)序破急之事「序破急の心得、大義の申楽より初めて、酒盛、又はかりそめの音曲の座敷までも、次第次第を心得べし」

  ③ (形動) 重大な事柄。大きな政治的事件や騒乱。大事なこと。また、そのさま。

  ※太平記(14C後)九「御上洛候て後、大儀の御計略を回(めぐ)らさるべし」

  ④ (形動) 経費のかかる事柄。経費を多くかけること。ふんぱつすること。また、そのさま。

  ※虎明本狂言・三本柱(室町末‐近世初)「大儀な御ふしんも大かたすむ」

  ⑤ (形動) やっかいなこと。困惑すること。めんどくさいこと。また、体調が悪くてつらいこと。また、そのさま。

  ※吾妻鏡‐仁治二年(1241)一一月三〇日「武衛斟酌、頗似二大儀一」

  ※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)一五「今朝は化粧をするのも太義(タイギ)だ」

  ⑥ (形動) 他人の骨折りをねぎらい慰労することば。ごくろうさん。御苦労。

  ※大観本謡曲・葵上(1435頃)「唯今の御出で御大儀にて候」

 

とあり、なかなか多義だ。おそらく④⑤あたりの意味で、いろいろあって鍋蓋一つで冬籠りすることとなった、と原因を付けたのだろう。このあたりはお金持ちの許六さんだから清貧ということが思い浮かばず、「大変なことがあったのだろうな、大儀だったな」という気持ちで乗せてしまったか。

 

 「又ある時、朱廸が句に、『足軽町の桃の花』と云句ニ五字を頼む。此桃曾て珍敷事なし。人々おもひ寄る所なれバ、たやすき五もじニてハ、新ミなし。発句ニ成がたき故、しバらく案じて、

 実をねらふ足軽町の桃の花

と五文字付て、則韻ふたぎに入たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.158~159)

 

 朱廸(しゅてき)は許六門で、『風俗文選』には「酒徳ノ頌」が収められている。

 「足軽町(あしがるまち)」はコトバンクの「世界大百科事典内の足軽町の言及」に、

 

 「領主の館に近いところに重臣層の屋敷が置かれ,いちばん遠くに足軽などの長屋が置かれていた。武家町だからといって必ずしも郭内に入っているわけではなく,足軽町などは郭外に置かれることが多かった。また足軽などの居住する町には町名もついたが,重臣層の屋敷地などは町名をつけず,道路に小路名がついているだけの場合がある。」

 

とある。彦根では城下町を取り囲むように足軽組屋敷が建てられ、足軽長屋ではなく庭付き一戸建てだったという。今では旧彦根藩足軽組屋敷は観光名所にもなっている。

 「足軽町の桃の花」は庭付き一戸建てならそう珍しいものではなかったのだろうけど、それは彦根だけの話で、余所の人からすると珍しかったかもしれない。

 「実をねらふ」というのは子供の桃泥棒のことだろうか。60年代くらいの漫画には必ず柿泥棒が出てきたが、高度成長とともに子供が庭木の果実を狙うようなことはなくなっていった。

 

 「又奚魚と云者来て、『田の草におハれおハれて』といふ事出たり。下の五字なし、頼むと云。予とりあへず、

 田の草におハれおハれてふじ詣

ト云事を付たり。

 又汶村が句に、『株干すわらの日のよハり』と云句、五もじとのぞむ。是もとりあへず、

 蝉の音や株干ス藁の日のよハり

と付てやりぬ。

 愚案ずるに、奚魚・汶村が句ニハ、おのづから句中に少血脈の筋あり。李由・朱廸が句ニハ、血脈の筋なき故に、容易におかれずして、発句ニ成がたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.159~160)

 

 奚魚(けいぎょ)は『俳諧問答』の横澤三郎注に、「『篇突』等にその句が見えてゐる」とある。許六門と思われる。「篇突(へんつき)」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「俳諧論書。李由・許六(きよりく)共編著。1698年(元禄11)刊。序によれば,当時の俳諧宗匠の暗愚を憂えて成した書という。問題のある季語を取りあげ,例句を掲げて見解を述べ,また,〈賀〉〈挨拶〉などの格式,〈発句評錬の弁〉のような作法などを28項目にまとめ,追加に編著者の俳文を1編ずつ載せる。書名は,漢字の旁(つくり)に偏をつぎ競う中古の文字遊戯による。去来は《旅寝論》を書いて本書を批判したが,未刊に終わった。」

 

とある。

 「田の草に」は田んぼの脇に茂る草のことで、田の草の茂る道をということだろう。「おハれおハれて」はそのまま読むと何かに追いかけられるか追い立てられるかで、この情景が一体何なのか落ちをつけろということなのだろう。

 田んぼの道を追い立てられたり追っかけられたり、許六の答えは「富士詣で」だった。江戸時代には富士講が盛んにおこなわれ、富士山に登ったり、その周辺の富士五湖や白糸の滝や忍野八海や洞穴などを廻ったともいう。

 富士登山は水無月のものだし、「575筆まか勢」というサイトには、

 

 数珠玉や里の下草富士詣     才麿

 

の句があった。言水編『江戸弁慶』の句らしい。この句を見ても、富士詣は夏草の中を行くイメージがあったのだろう。

 汶村(ぶんそん)も彦根藩士で許六門。

 句の方は「株干すわら」がよくわからない。稲の藁を干すのは収穫後の晩秋だし、蕪は冬のものだし、「日の弱り」に「蝉の声」を付けるのだから、晩夏なのは確かだろう。

 李由・朱廸の句に血脈がなく、奚魚・汶村の句には血脈があるというが、李由・朱廸の句は姿がある程度でき上っていて、それに付け加えるものがないからで、奚魚・汶村の句は姿ができてないから五文字追加してようやく意味を成すためではないかと思う。

 

 

9、古事・古実をむすぶ事

 

 「一、古事・古実をむすぶ事。猿ミのニ、諏訪の祭りの穂やつくる事にて翁の物語あり。

 予が集の時、李由が云、御玄猪(ゲンヂヨ)の御いわゐに、公卿百官へ給ふ餅の上包ニ、銀杏の葉に名字を書て、水引にはさみて出る事、古実也。此事句にせんといひし。

 予が云、是よき古実也。遠境の人々ニしらしめたるがよし。しかれ共、句作り悪敷バ古手に落む。専ラ銀杏の句にして入られべし。

 御玄猪の句ならバ、大きにふるかるべしといへり。古実・古事等ハ、予穂やの時、句作りを発明して置ぬ。

 雪ちるや穂やの薄の刈残し    翁

 御命講や油のやうな酒五升    同

 御玄豕も過て銀杏の落葉哉    李由

 春たつや歯朶にとどまる神矢根  許六

 山科や五荷三束に菊の花     同

 皆穂やの格式より作り出る句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.160~161)

 

 「穂や」の句は『猿蓑』の、

 

   信濃路を過ぐるに

 雪散るや穂屋の薄の刈残し    芭蕉

 

の句のことをいう。穂屋は諏訪の御射山社祭のことで、諏訪大社のホームページには、「青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行うので穂屋祭りの名称があります。」とある。旧暦七月二十七日に行われていたが、今では新暦月遅れの八月二十八日に行われている。

 ところで、芭蕉は貞享五年秋の『更科紀行』の旅の時には木曾から更科へ向い、善光寺を経て江戸に帰ったため、諏訪は通っていない。諏訪を通ったとすれば貞享二年夏、『野ざらし紀行』の旅の帰りであろう。いずれにせよ芭蕉は冬の信濃路を通ったとは思えないので、この句は人から聞いた御射山社祭のことを元にした想像によるものと思われる。

 

 御命講や油のやうな酒五升    芭蕉

 

の句は元禄五年江戸での句で、御命講は日蓮上人の命日十月十三日に行われる。日蓮消息文「新麦一斗、筍三本、油のやうな酒五升、南無妙法蓮華経と回向いたし候」が出典だという。許六が江戸で芭蕉と対面した頃の句だ。「油のような酒」はどういう酒かよくわからない。日蓮の時代なら「南都諸白(なんともろはく)」だったかもしれない。ウィキペディアには、

 

 「南都諸白(なんともろはく)とは、平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質で高級な日本酒として名声を揺るぎなく保った、奈良(南都)の寺院で諸白でつくられた僧坊酒の総称。

 具体的には菩提山正暦寺が産した「菩提泉(ぼだいせん)」を筆頭として、「山樽(やまだる)」「大和多武峯酒(やまとたふのみねざけ)」などが有名である。

 まだ大規模な酒造器具も開発されておらず、台所用品に毛の生えた程度の器具しかなかったと思われるこの時代に、菩提酛、煮酛など高度な知識の集積にもとづいて、かなりの手間を掛け、精緻に洗練された技術で製造していたと思われる。」

 

とある。どぶろくが主流の時代に黄色味のかかった透き通った酒を造っていたので、「油のような」と表現したのかもしれない。

 

 御玄豕も過て銀杏の落葉哉    李由

 

 「御玄猪(おげんちょ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「お」は接頭語)

  ① 陰暦一〇月の亥(い)の日。この日の亥の刻に新穀でついた餠を食べて、その年の収穫を祝った。亥の子。おげんじゅう。

  ※俳諧・類柑子(1707)中「偖、仰せ下さるるやうは、此の餠はきのふ御玄猪なりし、宸宴、供物のあまり也」

  ② 陰暦一〇月の最初の亥の日に食べる亥の子餠。おなり切り。玄猪。つくつく。おげんちょう。

  ※年中定例記(1525頃)「禁裏様御源猪のつつみ紙を一番に伝奏御持参にて、ひろげて被レ参候へば、御頂戴候」

  〘名〙 (「ご」は接頭語) 陰暦一〇月の亥の日の亥の刻に、新穀でついた餠を食べて祝うこと。また、その餠。亥子(いのこ)。亥子餠。ごげんじゅう。ごげんちょう。おげんじゅう。おげんちょ。〔俳諧・年浪草(1783)〕」

 

とある。

 「亥の子餠」は『源氏物語』葵巻にも登場する。おそらく若紫が女になった時であろう。不機嫌に何日もふさぎ込んでたののご機嫌取りと婚姻のお披露目を兼ねて、惟光に亥の子餠ならぬ「ねの子餅」を作るように指示している。(源氏の君の寝た女で処女喪失と思われる記述のあるのは若紫だけではないかと思う。)

 「公卿百官へ給ふ餅の上包ニ、銀杏の葉に名字を書て、水引にはさみて出る事、古実也。」というのは言われてみないと、今となってはわからない。この句を見ただけでは、単に御玄猪が銀杏の散る頃のものだというぐらいで通り過ぎてしまうところだ。

 

 春たつや歯朶にとどまる神矢根  許六

 

 矢の根は矢尻のこと。神矢の根は岩波文庫『俳諧問答』の横澤三郎注に、

 

 「『閑窓随筆』に『出羽国吹浦 一作福浦村の辺に甚雨疾雷ののち、神矢の根といふものを降らす。土人のいはく、是れハ神軍ありて、空中よりふらするものなりと。云々』とある。」

 

 出羽国吹浦は芭蕉も通っている。酒田で、

 

 あつみ山や吹浦かけて夕すずみ  芭蕉

 

と詠んだあの吹浦で、曾良の『旅日記』の酒田から象潟へ向かうときの記述に、

 

 「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是 より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。」

 

とある。

 「オンライン辞書・事典検索サイト・ジャパンナレッジ」の「日本歴史地名大系ジャーナル」によると、

 

 「遊佐町近郊では古くから石鏃を神矢石(あるいは神矢根石)=神軍の矢に用いた矢の根石の意=とよび、同遺跡の西南、藤崎ふじさき地区神矢道かみやみちでも、一八世紀後半、庄内砂丘に砂防林を育成中であった佐藤藤蔵が、一升舛で計るほどの石鏃を採集(佐藤家文書など)、一部は現在も鶴岡市の致道博物館などに保管されている。

 近代考古学が確立されるまで、石鏃は天より降りそそぐものと考えられ、矢ノ根石、天狗ノ矢やノ子ね石、また神矢石とよんでいた。」

 

 つまり、「神矢の根」は縄文・弥生時代などに作られた石鏃(せきぞく)で、雨で土が流されて露呈した物を見た古代人が、神様が戦争をやって、その矢が空から降ってきたと思ったのだという。

 許六の句は立春で、正月飾りに用いる歯朶を取りに行くと神矢の根が見つかって、破魔矢のようでお目出度いということか。

 

 山科や五荷三束に菊の花     許六

 

 山科は東海道の京と三条大橋と大津宿の間にあり、交通の要衝だった。「五荷三束に菊の花」は何か出典があったのだろう。よくわからない。

 

 「一、とり合のあやうきと云ハ、猿ミのに

 から鮭も空也の痩も寒ンの内   翁

 角大師井出の蛙の干乾かな    許六

 是、空也の痩のとり合にて作る句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.161)

 

 「あやふし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典に、

 

 「①あぶない。危険だ。

  出典徒然草 一〇九

  「いとあやふく見えしほどは言ふ事もなくて」

  [訳] (高くて)大変危険に思われた間は何も言わないで。

  ②不安だ。気がかりだ。

  出典徒然草 一八六

  「轡(くつわ)・鞍(くら)の具に、あやふきことやあるとみて」

  [訳] 馬の轡や鞍などの馬具に、気がかりなところがありはしないかと見て。

  ③不確実だ。

  出典平家物語 五・富士川

  「平らかに帰り上らむこともまことにあやふき有り様どもにて」

  [訳] 無事に帰京することも本当に不確実なようすであって。

 

 どれも古い時代の用例で、多分許六の時代には「いみじ」「やばい」という同様、良い意味に転じて用いられることもあったのではないかと思う。

 「角大師(つのだいし)」は慈恵大師・良源を象った護符で、ウィキペディアには、

 

 「角大師と呼ばれる図像には、2本の角を持ち骨と皮とに痩せさらばえた夜叉の像を表したものと、眉毛が角のように伸びたものの2つのタイプがある。『元三大師縁起』などの伝説によると、良源が夜叉の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。角大師の像は魔除けの護符として毎年正月に売り出され、比叡山の麓の坂本や京都の民家で貼られた。」

 

とある。空也念仏が冬の句なのに対し、角大師は春の句になる。蹲踞の姿勢で右手を差し出した護符は今でも用いられている。コロナ下でで疫病除けとして一部では盛り上がっているようだが、アマビエほどの人気がないのは可愛くないからだろう。

 なお、芭蕉の句はから鮭と空也を併置しているだけで、空也がから鮭みたいだとは言っていない。許六は「かな」と言い切ってしまっている。その意味では許六の句の方が「危ない」。失敬だと言われれば弁解できないのでは。

 

 

10、前書き

 

 「一、昔も近年も、前書する事、皆其発句の講尺して、前書と云物にあらず。

 前書して、講尺の上にてきこえる句などハ、よき句にハあらず。前書と云ハ、其句の光を添る事也。

 一年江戸にて、晋子が句兄弟あめる時、予に語りて云ク、越人がけしの句ハ、少いひたらず。慥ニけしニしてハ取がたし。其けしの句を返して、

 ちる時ハ風もたのまずけしの花

とせしと語侍る。

 予云、されバ予ハ此越人がけしの句にて、翁の名人を発明すといへバ、晋子が云、如何。答テ云、此句けしにてハいひたらず。故ニ『僧にわかるる』と云前書して、餞別の句ニなし、さるミのニハ入給ふといへば、晋子うれしがりて、此事書入べしとて、前書の事をかけり。越人がけしハ、慥ニ師の前書にて、一句の光をバましたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.161~162)

 

 越人の句は『猿蓑』に、

 

   別僧

 ちるときの心やすさよ米嚢花   越人

 

の形で収録されている。「別僧」は「僧に別るる」と訓じる。

 

 ちる時ハ風もたのまずけしの花  越人

 

はその原案と思われる。これだと芥子の花の散る様だけを詠んだ句になってしまう。風もなく散るというと、

 

 ひさかたの光のどけき春の日に

     しづ心なく花の散るらむ

              紀友則(古今集)

 

の歌が思い浮かぶ。それを芥子に変えただけになってしまう。

 そこで芭蕉は「別僧」の前書きを入れ、句も情景より心情を重視した「心やすさよ」に変えている。

 

 「路通が月の山の句合にハ、只けしの句ニして前書なし。予此時、路通が未練なる事をしれり。

 師在世の時、此事きかず。先生ハ此集の撰者なれバ、しり給ハむ。実ニ餞別の句にてありや、いぶかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.162)

 

 「路通が月の山の句合」は路通撰『俳諧勧進牒 附月山発句合』(元禄三年刊)で、上巻の末尾に「月山発句合」が収録されている。ここには、

 

 「二番 いばらがき

 鄙びたる香ばし悪むな茨垣    宵花

     けしのはな

 散ときのこころやすさよ芥子の花 越人

 折々は野渡の船曳、あしまの径を過、孤村のしほり酒をも侘得たる風情、寄の作意といふべきか。続に見ゆるけしの花は、紅白の色をもて興とせず、かろくうり散たるをうらやみたり。見いれ有所猶殊勝。」

 

とある。

 前書きは芭蕉が『猿蓑』だけに与えたもので、このことを路通が悔しがってたようだ。去来先生は『猿蓑』の撰者だったから何か事情を知らないか、というわけだ。

 許六は本来芥子の花の詠んだだけだった越人の句を、芭蕉が餞別の句に作り直したのではないかと疑っているようだ。

 

 「予が集の時、李由が云、残暑の句なし、入たしといひて、『下帯に残る暑さや』と云事をいへり。下五字なし。予に談合して色々置共、喰合ものなし。予云、此句下五字あり共、一句おもく成てむづかしからむ。只此ままにて入られよといひて、

 下帯のあたりに残る暑さかな

と一句ニのべたり。此句斗にてハいひたらず。是越人がけしの場所ニて、前書入る句也。則、『贈清貧僧』といふ題を付たり。是此格也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.162~163)

 

 「下帯に残る暑さや」も「鍋ぶた一ッ冬籠」や「足軽町の桃の花」の同様で、これだけで趣向が完結してしまっているため、付け加えるのが難しい。取り合わせは出来ていて、それを囃す適当な言葉もなく、結局「あたりに」を加えてこれで一句にしたが、間延びした感じが残ってしまった。

 「贈清貧僧」という前書きで許六としては機転を利かせたのだろう。まあ、一つの物語を作ったわけだ。芭蕉の先の前書も「作り」だと見てのことだろう。「信濃路を過ぐるに」の例もあるし。

 

 

11、発句道具・平句道具・第三道具

 

 「一、いつぞや、『こんやの窓のしぐれ』と云事をいひて、手染の窓と作例の論あり。略ス。其後二年斗ありて、正秀三ッ物の第三ニ『なの花ニこんやの窓』といふ事を仕たり。此男も、こんやの窓ハ見付たりとおもひて過ぬ。

 予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。正秀が眼、慥也。

 予こんやの窓ニ血脈ある事ハしれ共、発句の道具と見あやまりたる所あり。正秀、なの花を結びて第三とす。是、平句道具ニして、発句の器なし。こんやの窓に、なの花よし。又暮かかる時雨もよし、初雪もよし。かげろふに、とかげ・蛇もよし。五月雨に、なめくぢり・かたつぶりもよし。かやうに一風づつ味を持て動くものハ、是平句道具也。

 発句の道具ハ一切動かぬもの也。慥ニ決定し置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.163~164)

 

 これはよくわからない。「こんや」は紺屋のことだろう。「手染の窓と作例の論あり」とあるから、染物屋の紺屋だろう。

 その紺屋の窓が何か特殊なものだったのか、許六の言う「血脈」だから、不易だとか流行だとか理屈を言う以前の、初期衝動的な面白さということなのだろう。

 「鍋ぶた一ッ冬籠」「足軽町の桃の花」にはなくて、「田の草におハれおハれて」「株干すわらの日のよハり」には多少ある物が「血脈」だという。あるいは今の言葉で言う「エモ」に近いのかもしれない。

 まあ、多分「紺屋の窓のしぐれ」や「菜の花に紺屋の窓」は血脈なのだろう。紺屋の窓だから紺色の布がカーテンのようにかかってたりしたのか。取り合わせはそんな重要ではなく「紺屋の窓」が血脈のようだ。関西では紺屋が穢多と結びついていたことは以前どこかで触れた。

 発句道具は発句のネタとして面白い取り合わせで、平句道具はどちらかというと放り込みのような字足らずの時に付け加えるようなものだろう。「紺屋の窓」に「時雨」「菜の花」はその中間のような第三道具ということか。

 

 「一、ひととせ俳諧せし時、瓜の泥によごれたるハおかしとて、六句めニ

 泥によごるる瓜の網の目

と云句せし。其次のとし、翁の句ニ、

 朝露によごれて涼し瓜の泥

と云句出たり。初て発句の道具たる事を知れり。あたら瓜の泥を平句にして、師ニ先ンをこされたること無念也。是、眼の明ならざる故也。此泥にて、慥ニ場所をしりぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.164~165)

 

 芭蕉が人の付け句から発句の発想を得た例は、多分幾つもあるのではないかと思う。一番わかりやすいのは『野ざらし紀行』の、

 

   月見てやときはの里へかかるらん

 よしとも殿ににたる秋風     守武

 

の句から、

 

 義朝の心に似たり秋の風     芭蕉

 

の発句を作った例であろう。

 取られた方は「やられた」と思うのだろう。

 この場合泥に汚れた瓜だけでは発句にはならない。「朝露」に「凉し」があって初めて発句になるのではないかと思う。義朝の句も「心に似たり」があって発句になる。

 

 

12、歳旦三つ物

 

 「一、歳旦三ツ物の事。予此三ツ物ニおいてハ、よく工夫して、年々引付ニ出し侍れ共、誰一人秀たると云人もなし。

 師の手伝し給ひたる三ツ物を見て、慥ニ決定し、年々花やかに仕出したれ共、見るものなけれバ、其分にて反古とハ成ぬ。口おしし。

 此三ツ物俳諧を、常式の俳諧とおもひ給ハバ、大きニあやまり也。三句にて百韻・千句の代をするなれバ、容易なる句を出して、見らるるものにあらず。故ニ第三、名所など結びたる事も、此格式と見えたり。

 予三ツ物をする事、天晴天下ニ肩を双べきものあるべしともおもハず。誰々がするも同じ事とおもひ給ふ人ハ、三ツ物の仕やう見えぬとしれたり。

 されバ大綴を見るに、三ツ物仕様しりたる人、一人もなし。一人もなしとハいはれまじなど云人もあらん。しかれ共、一句か二句ハたまたまあれ共、全篇血脈をする人ハ希也。

 脇・第三猶大事也。皆初春の季を入たる迠ニて、常の俳諧に少もかハらず。あまつさへ、初春の発句に、初春の第三するやからも、まれまれ見えたり。脇・第三又一風あり。常式の句見らるる物にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.165~166)

 

 歳旦三ツ物というと、

 

 左義長や代々の三物焼てみん   尚白

 

の句があるように、ほとんどは左義長(どんど焼き)で焼かれてしまったのだろう。毎年たくさんの俳諧師が歳旦三ツ物を大量に刷って配った割には、ほとんど現存しない。

 「師の手伝し給ひたる三ツ物」は李由・許六編『宇陀法師』(元禄十五年刊)にある、次のものであろう。『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)に収録されている。

 

 梅が香や通り過れば弓の音

   土とる鍬に雲雀囀る

 陽炎に野飼の牛の杭ぬけて    翁

 

 この中村注によれば『一葉集』『袖珍抄』には発句を毛紈、脇を許六としているという。ネット上の『許六画芭蕉書三つ物』(麻生磯次)によると、発句は許六、脇は洒堂だという。

 発句は梅が香に弓始(ゆみはじめ)で正月の目出度い景色としている。弓始はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 年の始め(正月七日)や、弓場を新設した時などに、初めて弓射を試みる武家の儀式。弓場始(ゆばはじ)め。《季・新年》」

 

とある。

 脇は正月の風景をそのまま受け継いて初春の季語を入れるのではなく、あえて晩春とも取れるような「雲雀囀る」と展開する。

 「脇・第三猶大事也。皆初春の季を入たる迠ニて、常の俳諧に少もかハらず。あまつさへ、初春の発句に、初春の第三するやからも、まれまれ見えたり。脇・第三又一風あり。常式の句見らるる物にあらず。」

とあるように、初春の句を三句連ねるのではなく、初春から晩春への季移りが大事なようだ。そのために、脇は第三で晩春に展開しやすいように配慮することが大事なのだろう。

 第三は雲雀囀る農村風景に陽炎と野飼いの牛を付けるが、この取り合わせだけでなく「杭ぬけて」と放牧場の杭が抜けて牛が逃げ出すところに一ネタ入れている。

 三つ物は普通の俳諧の発句・脇・第三とはちがい、第三が同時に挙句になると思った方がいいのだろう。芭蕉は見事に最後に落ちをつけている。

 歳旦発句は目出度く、脇は第三の落ちを引き出すために、晩春への転換の伏線を敷きながら穏やかに流し、第三はここで終わらせるという意思を以て落ちをつける。これが三つ物の仕様と言っていいのだろう。第三を名所で締める場合もあるという。

 

 「一、当時歳旦の発句、歳旦にてなき句大分あり。師云、歳旦と云ハ、元日明けたる時の事也。多ク歳旦の句にてなしといへり。『正月三日口を閉、題四日』と前書して、

 大津絵の筆のはじめや何仏

と云句出たり。此前書にて、後代歳旦の格式ニセよと云心ありて書ると、慥ニ決定し侍ぬ。

 引付帳の内ニ、七種・子の日、あるいハ元日・二日・三日など云題を出して句あり。是大キ成あやまり也。師説なき故也。子細ハ元日明たる時の事と云にてしれたり。遠国の歳旦など入るるも、はばかるべき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.166~167)

 

 歳旦は本来は元日明けた時のこと、つまり一月一日の朝のことだが、実際にはかなり幅広く正月の句のことを歳旦と呼んでいる。先の「梅が香や通り過れば弓の音」の句も弓初めの句ならば正月七日の句になる。実際に一月一日の朝だけを歳旦にしたのでは、歳旦帳の発句は初日の出しか詠めなくなってしまう。

 そこで芭蕉さんも元旦の吟でなくても題をつけることで歳旦の各式にせよ、と言ったのだろう。

 

   正月三日口を閉、題四日

 大津絵の筆のはじめは何仏    芭蕉

 

の句は元禄四年の句で、仏画を主に書いていた大津絵の絵師は、四日の筆始めに何を書くのだろうか、という句で、前書きを付けることで歳旦と同格にした。

 「引付帳」の引付(ひきつけ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「④ 俳諧師などが自分の歳旦帳の末に友人・門人などの句を付録として掲載したこと。また、その句。

  ※俳諧・延宝六年三物揃(1678)「俳諧惣本寺引付 歳旦」

 

とある。筆始めや弓初めは良いとしても、七種・子の日はさすがに歳旦とはし難く、逆に三が日にわざわざ元日・二日・三日などという題をつける必要もない。これは暗黙の裡に歳旦が元旦に限定されずとも三が日のものと定まっていたからだろう。四日以降のものは題をつけた方がいいということと、七種・子の日は正月三が日とはまた別の行事として認識されていたということだろう。

 今でも「元旦」という言葉に関しては、年賀状で正月の午前中に届かないものについては使用しない方がいいということが言われている。「旦」は朝日を意味するから、歳旦と同様元旦も一月一日の朝を意味する。ただ、年末の早い時期に書いているのに「元旦」と書くのもなんか変な気もするが。

 

 

13、歳旦の脇

 

 「一、脇の仕やうの事。

 座頭の袖にかかる門松

 俵かさねて中戻りする

 女子六尺長閑成けり

 二日の朝ハ年玉の酒

などいへる脇は、師再生すといふ共、かハる事ハあるまじとおもひ侍れ共、一人分て褒美する人さへなし。

 俵重ぬると云季ハ、はなひ草ニも見えず。是正月元日・二日ならでハいはぬ言葉也。三日ハはやおかしからず。

 『きぞ始』といふ発句の脇に、『俵重て中戻りする』と云事、天下三べんさがねたり共、此脇より外ニハあるまじとおもふ也。俵重ぬる事、おかしき季とて、発句道具にてハなし。脇・第三の道具也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.167~168)

 

 「俵かさねて」を脇とする「『きぞ始』といふ発句」は、岩波文庫『俳諧問答』の横澤三郎注に、

 

 「『篇突』に出てゐる歳旦三ツ物の発句で、句形は『きぞ始裏を探らす大夫殿』。作者は程己。」

 

とある。つまりこの脇は

 

   きぞ始裏を探らす大夫殿

 俵重て中戻りする

 

となる。

 きぞ始(はじめ)は前にも、

 

  「一、去々年、愚歳旦ニ

 干鮭にかえてやゑぞがきぞ始

ト云句せしに、大津尚白が句に、

 干鮭に衣かえけりゑぞの人

と云句せし、翁も笑ハれたるよし、等類不吟味沙汰のかぎりと申侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.144~145)

 

の時に出てきたが、「着衣始(きそはじめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 江戸時代、正月三が日のうち吉日を選んで、新しい着物を着始めること。また、その儀式。《季・春》

 ※俳諧・犬子集(1633)一「きそ初してやいははん信濃柿」

 

とある。

 「大夫(太夫)」はいろいろな人に用いられるが、「大夫殿」だとコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 御師(おし)の通称。また、御師のいとなむ宿のこともいう。

  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)四「供二三人召つれ。太夫殿(タユフトノ)の案内者に任せ山田を出し時」

  ② 三河万歳の大夫。転じて、主役。

  ※狂歌・徳和歌後万載集(1785)一二「まんざいはわれらが家の太夫殿はらづつみうつとく和歌の集」

 

を意味するようだ。

 この場合は歳旦なので②の方か。

 

 犢鼻褌(ふんどし)を腮(あご)にはさむや着そ始 汶村

 つまさきを引出す糸やきそ始   孟遠

 

といった句が『彦根正風体』にあるように、この句も着慣れないものを着る上、三河万歳の大夫殿が来たので急いで、どっちが表でどっちが裏かわからなくなるということなのだろう。

 これに対して脇は、転んで途中で引き返した、というものだ。ドタバタした感じがまた正月の目出度さでもある。

 「俵重(たわらがさね)」は正月に「転ぶ」「臥す」という言葉を縁起が悪いとして嫌いことから生じた言い換えの言葉で、許六によれば「正月元日・二日ならでハいはぬ言葉也。三日ハはやおかしからず。」という言葉になる。

 立圃の『増補はなひ草』では季語として扱われていないが、正月しか言わない言葉なので歳旦の言葉としている。発句には用いにくいが、脇や第三に使うにはちょうど良い。

 

 座頭の袖にかかる門松

 

の句は、眼が見えないから袖が門松に引っかかったということか。

 

 女子六尺長閑成けり

 

の「女子六尺」は女六尺・女陸尺(おんなろくしゃく)のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 昔、貴人に仕えて、その女乗物を奥から玄関までの間かついだ女中。⇔男六尺。

  ※浮世草子・浮世栄花一代男(1693)一「物静に長郎下まで御駕籠を女六尺かき込て」

 

とある。

 

 二日の朝ハ年玉の酒

 

 お年玉が子供に現金を渡す行事になったのは戦後のことだともいう。「駒沢女子大学/駒沢女子短期大学」のサイトの「お年玉の謎」(下川雅弘)によると、「室町時代に書かれた日記などの史料には、新年に贈り物の刀や銭などを持参してお世話になった人を訪問し、お返しとして扇や酒などが振る舞われるといった記事が、数多く残されています。」という。

 芭蕉の時代でもお年玉は基本的には年賀の挨拶の時の贈り物のことだったと思われる。元日にもらった酒を二日の朝に飲むのは「あるある」だったのだろう。「年玉」の発句をあまり見ないのは、脇道具ということか。

 

 

14、歳旦の第三

 

 「一、第三の事。

 三月は関の足軽置かえて  此句、出替と五文字あらバ、くさるべし

 あたたかに成る日ハ鋤のさし合て

 ゆり若のきびすの跡も雪きえて

 芋種の角ぐむ比の朧月

など、専新ミをはしらせたり。ことしの第三ニ、

 柳の風に梅にほふなり

 かずの子の水あたたかにぬるミ来て

と云第三ハ、三ツ物の第三故に出したり。脇に初春の詞なし。かずのこ、初春の物なれ共、かずのこの水のぬるむハ三月也。わるくさく成て、やや春ふかく意味を弥生にかよはせたり。

 其上句作り、『かずのこを漬たる水のぬるミ来て』などするハ、世間十人が十人也。漬と云字をぬきて、『かずの子の水あたたかにぬるミ来て』といへるにて、幽玄にハ成侍れ共、世間此味をしらず。同じ事とおもひ侍る社、口おしけれ。しかし見る人あれバ、其人ハのがす事ニあらず。自由をする也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.168~169)

 

 歳旦三つ物の第三は、発句の心と違えるため晩春に転換することが多い。

 

 三月は関の足軽置かえて

 

 出替(でがわ)りの句だが、三月という季語があるので、重複を避けて「置かえて」としている。

 出替りはコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「半季奉公および年切奉公の雇人が交替あるいは契約を更改する日をいう。この切替えの期日は地方によって異なるが,半季奉公の場合2月2日と8月2日を当てるところが多い。ただし京坂の商家では元禄(1688‐1704)以前からすでに3月と9月の両5日であった。2月,8月の江戸でも1668年(寛文8)幕府の命により3月,9月に改められたが,以後も出稼人の農事のつごうを考慮したためか2月,8月も長く並存して行われた。」

 

とある。許六の時代は全国的に三月と九月だった。

 

 あたたかに成る日ハ鋤のさし合て

 

 「差合(さしあう)」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「[1] 〘自ハ四〙

  ① 出会う。行きあう。でくわす。

  ※落窪(10C後)一「あまた火ともさせて、小路ぎりに辻にさしあひぬ」

  ② 映り合う。光などを受けて、それに応じて輝く。

  ※源氏(1001‐14頃)若菜上「山際よりさし出づる日の、花やかなるにさしあひ、目も輝く心ちする御さまの」

  ③ さしさわりがある。不都合がある。さしつかえる。

  ※源氏(1001‐14頃)葵「大宮の御かたざまに、もてはなるまじきなど、かたがたに、さしあひたれば」

  ④ 「さしあい(差合)④」の状況である。

  ※浮世草子・傾城禁短気(1711)五「さしあふをしらぬ顔であげ屋に来り」

  ⑤ 破損する。こわれる。

  ※醍醐寺新要録(1620)「所二打折一之桁の端も指合ては子木を作入云々」

  ⑥ 隣り合う。境を接する。近接する。また、向きあう。対峙する。

  ※今昔(1120頃か)三一「陸奥の国の奥に有夷の地に差合たるにや有らむ」

  ⑦ 重なり合う。集中する。

  ※源氏(1001‐14頃)真木柱「かたがたのおとどたち、この大将の御いきほひさへさしあひ」

  [2] 〘他ハ四〙

  ① (酒などを)互いにつぎあう。さしつさされつする。

  ※今昔(1120頃か)一九「世に不似ず美き酒にて有ければ、三人指合て」

  ② 互いに言いあう。また、非難しあう。

  ※太平記(14C後)二七「喩へば山賊と海賊と寄合て、互に犯科の得失を指合が如し」

  ③ 相撲で、互いに手を、相手の脇腹と腕の間に入れる。

  ※相撲講話(1919)〈日本青年教育会〉四十八手の裏表「四つとは互に腕を差合(サシア)って、敵の褌(まはし)を引いて組んだ形を言ひ」

 

とある。脇が分からないので意味は決定できない。四句目を付ける時にもいろいろな取成しが可能で便利な言葉だ。

 

 ゆり若のきびすの跡も雪きえて

 

 「ゆり若」は百合若大臣でウィキペディアには、

 

 「百合若大臣(ゆりわかだいじん)は、百合若という名の武者にまつわる復讐譚。これを題材にした幸若舞、それを読み物として流布させた版本(「舞の本」)、人形を使った説経操り、浄瑠璃(室町後期〜江戸時代)などがあり、日本各地、特に大分県や壱岐に伝説として伝わる。

 百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である。」

 

とある。確か筒井康隆の『乱調文学大辞典』にはユリシーズの盗作だがどうやって原典を知ったかが不明とかあって、ユリシーズの項目には百合若大臣の盗作だがどうやって原典を知ったかが不明とかあったような。坪内逍遥の頃から『オデュッセイア』との類似が話題になっていたようだ。(ユリシーズはオデュッセイアのラテン語名ウリュッセウスの英語読み。)

 戦に勝った将が冷遇されるのはよくあることで、昔から似たような物語はどこにでもあったのだろう。ただ「ユリ」の一致でネタにしやすかったのだろう。現代だとアネコユサギの『盾の勇者の成り上がり』もオデュッセイアのバリエーションではないか。

 句の方は苦難の旅をした百合若の足跡も雪解けともに消えてゆくというものだ。正月の宇佐八幡宮の弓始で本懐を遂げるので、脇は弓始の句だったか。

 

 芋種の角ぐむ比の朧月

 

 「角ぐむ」は角が生えるように芽が出るという意味。仲秋の名月は里芋の収穫の頃で芋名月と呼ばれるが、晩春の朧月の頃はその芋の芽が出る頃になる。発句にしてもよさそうなネタだが、種芋の芽は第三道具という判断か。

 

   柳の風に梅にほふなり

 かずの子の水あたたかにぬるミ来て

 

 これは普通に晩春に転換するのではなく、あえて「かずのこ」を出すことで正月からの時間の経過を出したかったのだろう。今はかずのこは正月くらいしか食べないが、昔は塩水に漬けて保存して三月くらいまで食べたのだろう。弥生の梅もそろそろ終わりという頃に柳も芽吹き始め、数の子を漬けていた水もぬるくなり、早く食べないといけなくなる。「かずのこを漬たる水のぬるミ来て」だと「水ぬるむ」が漬け汁だけに限定されてしまう。漬け汁だけでなく、井戸の水も小川の水も苗代の水もおしなべてぬるむ頃という広がりを持たせるには、「かずの子の水あたたかにぬるミ来て」の方がいい。

 

 

15、追善・移徒・餞別など

 

 「一、追善・移徒(ワタマシ)・餞別など仕やう、かれこれ七ッ八ッも此類あるべし。是亡師の詞、あらましきき置侍る也。幽玄第一・たけ高き句すべしと。されバ不易と云ハ此所の事也。

 先追善の事、色々あるべし。親・兄弟・したしき者、あるひハ師友・芸の名人・僧・知識・隠士等、かぞへがたし。

 翁卒シ給ふ時、一天下しるもしらぬも追善したり。天下無双の俳諧名人の追善に、常式下手成事斗いひて、霊魂の手向と成るべしや。草葉の陰にて、にがにが敷顔をして居られ侍らん。

 かやうの所まで気を付る作者もなし。気が付ても動かず。是非もなき次第也。

 予、師遷化の時の追悼にハ、只かるみを詮にして、

 一度の医者よろこびやかへり花

とせし処に、晋子が『医者物とハむ』とハ加筆せし也。晋子ハ『宇治の橋守物とハむ』の力と見えたり。

 予が句、『医者よろこび』と云ハ、通俗の言葉也。よう成顔を見する共いへり。師の追善に、よろこびなどいへる事ハ、不審あるべき事也。述懐の歌に、『むせぶもうれしわすれがたミに』といへるを後鳥羽の院御感有しと云力あり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.169~170)

 

 移徒(ワタマシ)は転居のこと。

 「幽玄」は今日では中世などの芸術の特有の美学のように用いられることも多いが、もともとの意味は裏に隠されているということ。

 確かに能などは動きを抑制することで、表現しようとして表現できない中に、見る人があれを表現しようとしているとあれこれ想像し、それが直接表現するよりも効果を上げる。

 

 塚も動け我泣声は秋の風     芭蕉

 

の「塚も動け」は暗に死者が蘇ってくれ、墓の中から出てきてくれということなのだが、それをあからさまに言うと、何やらゾンビが出てきそうでグロテスクになる。また「我泣声は秋の風」も秋風のように悲しく、「風の音にぞおどろかれぬる」の歌もあるように、死者が驚くような声を上げているという含みもある。つまり、

 

 塚から出でよ我が泣く声に驚いて

 

ということなのだが、それをあからさまに言ったらそれこそギャグにしかならない。

 あふれる感情を押し隠しながら、それでも隠し切れないというのがこの場合の「幽玄」になる。

 

 手をはなつ中(うち)におちけり朧月 去来

 

の離別の句は『去来抄』「先師評」で、芭蕉に「此句悪しきといふにはあらず。巧者にてただ謂まぎらされたる也。」と評されたとあるが、手を放つまでの間に朧月が落ちてしまったというところから、如何に長く別れを惜しんでいたかを言いたいのだろうが、そのように読者の句の意味を頭で考えさせてしまうところで、情がダイレクトに伝わらなくなってしまう。

 直接的に言うなら

 

 朧月落ちても未だ手を握り

 

ということなのだが、

 『炭俵』には、

 

    洛よりの文のはしに

 朧月一足づつもわかれかな   去来

 

の句があり、先の句の改案とされている。「一足づつも」の方が「未だ手を握り」よりもより遠回しで、幽玄の句に仕上がっている。

 「たけ高き」というのは文字通りだと背が高いということで、要するに立派な、見栄えがする、強い調子で表現されている、というニュアンスを持つ。

 『去来抄』「先師評」に、

 

 赤人の名ハつかれたりはつ霞  史邦

 

の句を芭蕉が「中の七字能おかれたり。ほ句長高く意味すくなからず」と評したとある。

 中七の「名ハつかれたり」は「よくぞ名付けてもんだ」という意味で、正月の初日が霞に山辺が赤く染まるのを見て、山部赤人とはよく言ったもんだ、お目出度い名前だというわけだ。

 これが、

 

 赤人の名にも似たるか初霞

 

では何か弱々しい。「名ハつかれたり」と言い切ってこそ「たけ高き」となる。「塚も動け」の句も、力強く命ずるところで「たけ高」になる。

 芭蕉が亡くなった時も、多くの人が追善の句を詠んでいる。

 其角撰の『枯尾花』には、門人たちの追善の句が並べられている。

 

 忘れ得ぬ空も十夜の泪かな   去来

 啼うちの狂気をさませ濱衛   李由

 無跡や鼠も寒きともぢから   木節

 つゐに行宗祇も寸白夜の霜   乙州

 いふ事も涙に成や塚の霜    昌房

 暁の墓もゆるぐや千鳥数奇   丈草

 一たびの医師ものとはん帰花  許六

 

 その他にもたくさんある。

 さて、この中の許六の句だが、元は、

 

 一度の医者よろこびやかへり花 許六

 

だったのを、其角が「医者ものとはん」と修正したという。まあ普通に考えて、みんな悲しんでいるときに「よろこびや」はないだろうと思う。喪失の悲しみよりも帰り花の情を優先させたという感じがする。

 許六は、

 

 思ひ出づる折りたく柴の夕煙

     むせぶもうれし忘れ形見に

              後鳥羽院(新古今集)

 

に寄ったようだ。

 この場合は哀傷歌とはいっても、死からある程度の時間が経過しているのではないかと思われる。いわば折りたく柴の煙に故人のことを懐かしむ余裕が生まれた時だから「むせぶもうれし」と言えたのではないか。

 許六の句の「ひとたび」は「いまひとたび」のことで「もう一度」という意味。「一度の医者」は生き返るかもしれないからもう一度とあらためて亡骸に接する医者のことだろう。つまり臨終からそれほど時間が経過していない。その状況で帰り花を見て「よろこびや」は無理があると思う。帰り花が咲いたのでもしかしたら生き返るかもしれないと思い、医者が今ひとたび塚を尋ねるという意味での「ものとはん」なら納得がいく。

 

 年経たる宇治の橋守こと問はん

     幾代になりぬ水の水上 

              藤原清輔(新古今集)

 

の歌とはあまり関係ないように思える。

 許六にとって医者が一人称ではないというところも問題だと思う。追悼は自分の気持ちを述べるもので、第三者の「医者」を登場させたあたりで何か違う感じがする。そのあたりから其角は首をひねって、何だこれはと思ったのではないか。

 

 「一、第二年の追善ニ、深川芭蕉庵にてのべたり。予自画の像をかかせたる故に、其前書して、

 鬢の霜無言の時の姿かな    許六

とせし也。無言の時といへるハ西行の事也。うば・かか、又ハ名もなき者の追善のごとく、『焼香すれバ袖がぬるる』の、『涙が氷る』の、『霜に香を継かゆる』の『生前旅をすかれたる檜笠・はり笠等が破れたる』の『芭蕉が枯たる』の、などといへる事のミにて、一天下果てたり。誰一人秀たる句も見えず。扨々はかなき志にて、あハれ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.170)

 

 「無言の時」の句は『韻塞』の「乾(李由選)」に、

 

   亡師一周忌に手づから画像を写し

   て、野坡に贈て、深川の什物に寄附

   す。

 鬢の霜無言の時のすがたかな    許六

 

とある。

 「什物」は秘宝のことで、元禄三年の芭蕉・尚白両吟の「月見する座にうつくしき顔もなし 芭蕉」を発句とする俳諧の三十一句目に、

 

   さても鳴たるほととぎすかな

 西行の無言の時の夕間暮      芭蕉

 

の句がある。

 とはいえこの句は、ホトトギスは夜通し待ってようやく明け方に聞くのを本意とするので、夕方から鳴いてても歌にならないというだけのもの。それを亡くなって無言になった姿に取り成すのも何か違う気がする。 許六さんは新味を出さねばということにとらわれすぎて、追悼句の基本が追悼する心であるのを忘れているのではないか。「焼香すれバ袖がぬるる」、「涙が氷る」、「霜に香を継かゆる」、「生前旅をすかれたる檜笠・はり笠等が破れたる」、「芭蕉が枯たる」という言葉は確かに月並みではあるが心はある。

 

 「なき人の裾をつかめば納豆哉   嵐雪

 師の追善に、かやうのたはけを尽す嵐雪が俳諧も、世におこなハれて口すぎとする世上、面白からぬ事也。晋子ハかやうの所をはづさぬやつめ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.170)

 

 この嵐雪の句は桃隣の『舞都遲登理』を読んだ時にも触れたが、嵐雪の『玄峰集』に

 

   元禄乙亥十月十二日一周忌

 夢人の裾を掴めば納豆かな    嵐雪

 

とある。

 夢に芭蕉さんが現れて、去ってゆく裾をつかもうとしたら目が覚めて、気づくと早朝にやってきた納豆売りの着物の裾をつかんでいた。いとあぢきなし(むなしい)、というものだ。元禄八年の句で、一年もたつとまあそれなりにみんな余裕も出てきたのだろう。亡き師芭蕉の夢枕も笑いに転じようとする。

 「口すぎ」は生計のことで、俳諧師も食っていかなくてはならないのは確かだ。ただ、亡き師をネタにして笑いを取るのは、別に金のためということでもなかろう。いつまでも悲しい句ばかり詠んでもいられないし、一年の喪が明けたなら、悲しみを乗り越えて明日に向かって生きてゆかなくてはならない。そんな喪明けの宣言ともいえる句であろう。

 

 「一、第三年忌、在所にていとなむ。我友共とつぶやく。ことし師の三年忌の追善、世間の俳諧大方見えたり。塚に苔むし、松ハ長し、そとばの文字がきえたる、などいふ事にて果べし。

 追善の発句、仕様あるべし。専追善をやめて、懐旧の句ノ上にて仕て取るべし。三年つづきて同じ追善にてもあるまじ。是下手の心也。師の心に叶ひよろこび給ふまじ。かならずあやまるまじといひて、

 月雪に淋しがられし紙子哉

ト云句して、予が集三年忌の俳諧の巻頭にハ仕たり。

 加賀の北枝が『喪の名残』を見るに、木曽塚へ集る句共出たり。果して、松が長し・塚が苔むし・そとばの文字が見えぬ、など云句にて終れり。我党ハひそかにいひあてたりとて笑ひたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.171)

 

 北枝編『喪の名残』(元禄十年刊)は「私の旅日記~お気に入り写真館~」というサイト(写楽の志賀大七のアバターのあるページは、芭蕉関係で検索していると必ず目にする)に抜粋があるが、少なくともそこには「塚に苔むし、松ハ長し、そとばの文字がきえたる」の文字はなかった。

 

 赤はるやむなしき苔を初時雨   文鳥

 朝霜や茶湯をこほす苔の上    秋之坊

 

の句はあるが、「塚」とは言っていない。

 芭蕉の追悼だと、時雨と木枯らしは定番だが、こういう言葉がないと誰の追悼なのかがわかりにくくなる。

 

 月雪に淋しがられし紙子哉    許六

 

の句は『韻塞』の「坤(許六選)」に「亡師三回忌 報恩」と前書きした歌仙の発句で、脇は、

 

   月雪に淋しがられし紙子哉

 小春の壁の草青みたり      李由

 

 「苔むし」はアウトだが、「草青みたり」はセーフなのだろう。

 

 

16、五月雨の句

 

 「一、予当流入門の比、五月雨の句すべしとて、

 湖の水も増るや五月雨

と云句したり。つくづくとおもふニ、此句あまりすぐにして味すくなしとて、案じかえてよからぬ句に仕たり。

 其後あら野出たり。先生の句に、

 湖の水まさりけり五月雨

と云句見侍りて、予が心、夜の明たる心地して、初て俳諧の心ンを得たり。是先生の恩なりとおぼえて、今に此事わすれず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.172~173)

 

 許六はウィキペディアに、

 

 「元禄2年(1689年)33歳の時、父が隠居したため跡を継ぐ。この頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた。」

 

とあり、芭蕉に初めて対面したのは元禄五年だった。

 『阿羅野』が出たのが元禄二年三月、芭蕉が『奥の細道』に旅立つ頃だったから、貞享五年夏に既に尚白との交流があったということか。

 だとすると、尚白経由で去来に漏れた可能性も無きにしも非ずで、「是先生の恩なり」が本心なのか鎌掛けた皮肉なのかはよくわからない。

 まあ、許六が「水も増るや」と疑っているのに対し、去来の「水まさりけり」の方が力強く丈高いので、その差は重要だが。この時芭蕉の直接会うことができていたら、その辺は直してくれたかもしれない。

 

 

17、不易流行の句

 

 「一、不易流行の事。翁ノ句に、

 青柳の泥にしだるる汐干哉

と云句したり。予つくづくと見て、此句景曲第一也。

 しかれ共新古の事いぶかしくて、数篇吟じ返し、大きに驚き、初て此風の血脈を得たり。是正風体たるべし。

 津の国の難波の春はゆめなれや

   あしの枯葉にかぜわたるなり 西行

 風そよぐ奈良の小川の夕ぐれは

   御祓ぞ夏のしるし也けり   家隆

 青柳の泥にしだるる汐干哉

と此次ニ書ても、少もおとらず。句作り幷細ミ・魂魄の入やう・趣向の取廻し、毛頭かはる事なし。

 此句の後、愚句、

 峯入の笠とられたる野分かな

 かげろふの中から上る雲雀哉

専青柳の汐干より発明せし也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.173~174)

 

 青柳の泥にしだるる汐干哉    芭蕉

 

の句は元禄七年三月の句で、『炭俵』には「柳」ではなく「上巳」の所に収録されている。

 上巳は三月三日の桃の節句のことで、ウィキペディアには、「『上巳』は上旬の巳の日の意味であり、元々は3月上旬の巳の日であったが、古来中国の三国時代の魏より3月3日に行われるようになったと言われている。」とある。ひな祭りの日である一方で、潮干狩りの日でもあった。

 柳の枝が干潟の泥の方に垂れている様と、貝を掘ろうとして腰を曲げている人の姿との類似に着目した句であろう。

 ただ、その類似の笑いの要素を取り除いても、一つの海辺の景として成立している。ここに許六は流行と不易との一致を見たのであろう。西行や家隆の和歌と並べたのはそのためではないかと思う。

 

 峯入の笠とられたる野分かな   許六

 

の句は支考撰『笈日記』(元禄八年刊)では「笠もとらるる」になっている。芭蕉の「鶯の笠落したる椿かな」とのかぶりが気になったか。

 「峯入(みねいり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 修験者が、大和国(奈良県)吉野郡の大峰山にはいって修行すること。陰暦四月本山派の修験者が、熊野から大峰山を経て吉野にぬける「順の峰入り」と、陰暦七月当山派の修験者が、吉野から大峰山を経て熊野にぬける「逆の峰入り」とがある。大峰入り。《季・夏》

  ※光悦本謡曲・葛城(1465頃)「此山の度々峯入して、通ひなれたる山路」

 

とある。この場合は「逆の峰入り」になる。台風の季節で、熊野の山の中で笠を吹き飛ばされることもあるだろう。

 芭蕉が『笈の小文』の旅に出る時の「旅人と我名よばれん」を発句とする興行の二十三句目には、

 

   別るる雁をかへす琴の手

 順の峯しばしうき世の外に入   観水

 

とあるが、順の峯入りは春の句となる。

 

 かげろふの中から上る雲雀哉   許六

 

 岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎注には「『校本』かげろうをたよりに上る」とある。「中から上る」だと単なる景色の句だが、「たよりに上る」だと、陽炎の上昇気流と雲雀の上昇との共鳴が見られる。

 この二句は景色の良さを不易として、そこに何かしらの新味を加えるという点では、「青柳の泥にしだるる」に倣ったといえよう。

 

 

18、鼠は舟をきしる暁

 

 「一、一とせ江戸にて、何某が歳旦開とて、翁をまねきたる事あり。

 予が宅ニ四五日逗留の後にて侍る。其日雪ふりて、暮方参られたり。其俳諧に、

 人声の沖には何を呼やらん    桃隣

 鼠は舟をきしる暁        翁

 予其後芭蕉庵へ参とぶらひける時、此句かたり出給へり。

 予が云、扨々此暁の字、ありがたき一字なるべし。あだにきかんハ無念の次第也。動かざる事大山のごとしといへば、師起あがりて云、此暁の一字聞屆侍りて、愚老がまんぞくかぎりなし。此句初ハ、

 須磨の鼠の舟きしる音

と案じける時、前句ニ声の字有て、音の字ならず、つくりかへたり。すまの鼠とまでハ気を廻らし侍れ共、一句連続せざるといへり。

 予が云、これ須磨の鼠より遙に勝れり。勿論須磨の鼠も新敷おぼえ侍れ共、『舟きしる音』といふ下の七字おくれたり。上の七字に首尾調はず。暁の一字のつよき事、たとへ侍るものなしといへば、師もうれしがりて、これ程にききてくれる人なし。只予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる顔のミにて、善悪の差別もなく、鮒の泥に酔たるがごとし。

 其夜此句したる時、一座の者共ニ、遅参の罪ありといへ共、此句にて腹をゐせよと、自慢せしとのたまひ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.174~176)

 

 この歳旦開の俳諧は今のところまだ発見されてないようだ。許六の記したこの二句だけが分かっている。

 

   人声の沖には何を呼やらん

 鼠は舟をきしる暁

 

 『源氏物語』須磨巻で源氏の君が七弦琴を弾いて歌う場面で、「おきより舟どものうたひののしりてこぎ行くなどもきこゆ(沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます)」、という下りがある。

 芭蕉はこの場面を思いついて、最初は、

 

   人声の沖には何を呼やらん

 須磨の鼠の舟きしる音

 

としたのだろう。源氏須磨巻を俤としつつも、人声を船に鼠が出たせいだとする。

 このとき「音」と前句の「声」と被っているのに気付き、須磨を出すのをやめて「鼠は舟をきしる暁」とする。源氏物語は消えて、船に鼠が出て騒ぐ様子に暁の景を添える句になる。

 芭蕉さんも苦肉の策で出した「暁」を褒められて、満更でもなかっただろう。

 

 

19、等類

 

 「一、等類のがれの事。師説、

 都をば霞と共にたちしかど

   秋風ぞふくしら川の関    能因

 都をば青葉とともに出しかど

   紅葉ちりしく白河の関    頼政

 此二首、心・詞少もかハらね共、定家の卿の判に云、頼政が歌ハ、能因が歌を本歌として、心・詞少モかハらね共、是等類にあらず也。頼政が歌ハ、色をよみたる哥也。これ産所の各別なる事を、先達よくきき分ケ給ふ故也。ありがたき判也。かやうの先達ありて社(コソ)、俳諧も面白し。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.176~177)

 

 この二首の類似は有名で、『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.146~147の所でも述べたが、頼政の歌は歌合せの歌として青葉、紅葉、白河の色彩の華やかさを取り柄として、オリジナルと認められている。

 こういう時間の経過による展開は俳諧でも、「かくれ家や」の巻十七句目の、

 

   笠の端をする芦のうら枯

 梅に出て初瀬や芳野は花の時   芭蕉

 

「めづらしや」の巻三十一句目の、

 

   温泉かぞふる陸奥の秋風

 初雁の比よりおもふ氷様     露丸

 

といった句に見られる。秋風に陸奥を発てば氷様(ひのためし)の奏の頃には都に戻れるだろうか、となる。

 

 「ある時予が句、

 朝顔のうらを見せけり風の秋

と云せしニ、おりふし丈草へかたりけれバ、此句、翁の『おもて見せけり』の葛の句、作例たるべしといはれけり。

 予つくづくとおもふに、此句少もくるしからじ。翁の句ハ、葛のうらと云古歌の詞を返し、初て『葛のおもて』とハいはれたり。是おのづから制也。葛のうらと云事、終ニ哥・俳諧制ハなし。

 予が句ハ、葛のうらに対して、新ミをいひたる句也。古人、葛より外ハうらを見ぬといひけれ共、葛よりハ鼻の先に朝顔のありける事をしらぬと、嘲りたる句也。曾て翁の句ニ類する事なし。能因・頼政の哥ハ、意・詞もかハらね共、等類に落ずといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.177~178)

 

 朝顔のうらを見せけり風の秋    許六

 くずの葉の面見せけり今朝の露  芭蕉

 

 この二句についての類似は『去来抄』同門評にも記されている。

 

 「蕣の裏を見せけり秋の風

 一説曰、此句先師の葛葉の面みせけりと等類也。許六曰く、等類にあらず。みせけりとは詞のむすび迄なり。趣向かはれり。去来曰、等類とは謂がたし。同竈の句なるべし。たとへば和歌には花さかぬ常盤の山の鶯は己なきてや春をしるらんと云に、紅葉せぬトキハ山のサホ鹿は己なきてや秋を知るらんトよみても等類にはならざるよし、俳諧には遠慮する事ト見えたり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.45)

 

 言葉の続き具合は似ているが、これは最初の発想が全く違うため、同竈(同巣ともいう)とは言い難い。

 許六の句は古歌に「葛の裏葉」は詠まれているが、朝顔の葉の裏返るのは詠まれてないから、そこに新味があるというものだ。許六の時代の朝顔は今と同じ朝顔だが、古代の朝顔は桔梗か槿で、今の朝顔ではなかったと言われているから、実際には古人の鼻の先には朝顔はなかった。

 芭蕉の句は服部嵐雪が一度芭蕉に反旗を翻し、しばらくして戻ってきた時に詠んだ句だと言われている。「面(おもて)見せけり」には、背を向けていた葉が世間の厳しさに耐えられず、しおらしく自分の方を向いて帰ってきた、という含みがある。裏を見せるはずの葛の葉が表を見せたというところに新味があるという許六の評は間違ってはいない。

 

 「清瀧や波に塵なき夏の月

 白菊のめに立てて見る塵もなし

 右両句、塵なきと云事、後にむづかしとて、『波にちり込青松葉』とハ案じかえられたりときこゆ。

 退て案じ見るに、此塵、志の趣ける所同じさま也。故ニ案じかえられたるとハ見えたり。西行上人も、『清瀧川の水のしら波』とハつよくよみ給ふ也。『波にちり込む青松葉』とすずしく師のいひ給ふつよみ、西行の哥におとれりとハ見えず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.178)

 

 「清瀧や」の句の改案は支考の『前後日記』に見られるもので、そこにはこうある。

 

 「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて

 

 大井川浪に塵なし夏の月

 

と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて

 

 清滝や浪にちり込青松葉     翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)

 

 芭蕉のあの「夢は枯野を」の句よりも後であるため、結果的にはこれが芭蕉の最後の句となった。

 「清瀧や波に塵なき夏の月」の塵は清瀧の水の美しさを詠んだものなのに対し、「白菊のめに立てて見る塵もなし」の白菊はこの興行の主人である園女の比喩だという違いはあるが、どちらも褒めて言う言葉には違いない。

 結局芭蕉は月に照らされて塵なき波、という褒め方をやめて、あえて「波にちり込青松葉」という塵を出しながらも青松葉も美しいというふうに改作した。夜から昼の景に転じているし、発想を完全に変えている。

 西行の「清瀧川の水のしら波」は、

 

 降りつみし高嶺のみ雪とけにけり

     清滝川の水のしら波

             西行法師(新古今集)

 

の歌で、この下句に青松葉を取り合わせて夏の発句にしたといってもいいかもしれない。

 

 「あら海や佐渡に横たふ天の川  翁

 時鳥声横たふや水の上      同

 両句、『横たふ』も、『塵なき』に似たりといへ共、愚案ずるに、『あら海』の『横たふ』ハ、佐渡・越後さしむかひたる事をいはむ噂也。橋をかけべしなどの俗語も、おもひ出られ侍る。

 『ほととぎす』の『声横たふ』ハ、専『水光接天、白露横江』のちから也。是似たる詞にして、出所大きに相違せり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.178~179)

 

 芭蕉の「荒海や」の句は、本当に天の川が空に横たわっているのではなく(実際七夕の頃の天の川は佐渡の方にはかからない)、佐渡・越後差し向かいにあり、その間に横たわっている荒海が織姫・彦星の仲を冷酷に引き裂いている天の川のようだという比喩の句だ。「佐渡・越後さしむかひたる事をいはむ噂也」と許六が言っているように、佐渡が流刑の地で荒海がその前に横たわっていることは当時の多くの人の共通認識で、いわゆる「噂」だった。

 許六編の『風俗文選』所収の芭蕉の俳文『銀河ノ序』にも、

 

 「彼佐渡がしまは。海の面十八里。滄波を隔て。東西三十五里に。よこおりふしたり。みねの嶮難谷の隈々まで。さすがに手にとるばかり。あざやかに見わたさる。むべ此島は。こがねおほく出て。あまねく世の宝となれば。限りなき目出度島にて侍るを。大罪朝敵のたぐひ。遠流せらるるによりて。ただおそろしき名の聞えあるも。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、岩波文庫、一九二八、p.103)

 

とある。

 「橋をかけべし」の俗語はよくわからないが、佐渡に橋を架けるのは天の川にカササギの橋を渡すようなものか。

 「時鳥」の句の「水光接天、白露横江」は蘇東坡の『赤壁賦』で、「白露横江、水光接天」が正しい。水辺の景色の美しさに、ホトトギスの声も横たうや、というもので、まったく発想が違う。

 

 

20、沾徳が判

 

 「此時鳥の句出ける時、予も吾妻の方ニ居合て、其おりの文通に、

 ほととぎす声横たふや水の上

 一声の江に横たふや時鳥

 右両句、沾徳が判に寄て、水の上に究侍ると云色紙送られたり。今にあり。

 予其返事に、徳ト云者一生真ンの俳諧なし。かれが判、おぼつかなし。予ハ只、『江に横たふ』の方、勝れりと返事せし也。

 案ずるに、『水の上』の句、幽玄にハきこえ侍れ共、『水の上』入ぬ詞なり。『声横たふや水の上』と、一言も残さずいひつめて、しかも『水の上』といろへたる事を、沾徳ハよろこべり。これ俗のよろこぶ所也。

 『江に横たふや』といふ處ニ、いろいろの心をふくめた事をしらず。

 中々俗の耳にハ落がたし。師名人たるに寄て、一人の意に決し給ハず、人にいはせて論をきハめ給ふ人也。予などにもいはせて極め給ふ事、度々有。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.179~180)

 

 芭蕉もよく二句を弟子に見せて選ばせたりしたようだ。

 

 人聲や此道かへる秋のくれ

 此道や行人なしに龝の暮

 

この二句を支考に選ばせた話は各務支考の『笈日記』に記されている。

 この時もそれと同様に、

 

 ほととぎす声横たふや水の上

 一声の江に横たふや時鳥

 

の二句を沾徳に選ばせたのだろうか。

 沾徳は「声横たふや水の上」の方を選んだが、許六としては不満なようだ。

 この二句の一番の違いは「一声」のあるなしだが、沾徳はこれを不要としたのかもしれない。ホトトギスは一声を聞くのを本意としていたからだ。それに「一声」の方の句は和歌の上句のようで、何か下句が欲しくなる。切れ字があるにもかかわらず、十分に切れてない。

 倒置を解消すれば、この両句は、

 

 水の上にほととぎす声横たふや

 時鳥の一声の江に横たふや

 

となる。前者は「水の上に」が強調されていて、後者は「時鳥の一声」が強調されている。この句の見所が「水の上」にあるのか、それとも「一声」にあるのか、となると「水の上」ではないかと思う。

 

 「外々の門人、さもあるべし。しかれ共外の句ハ、判者の沙汰なし。此句にかぎりて、沾徳が判を乞ふと、旁々へひろめ給ふ。是子細のなき事ハあるまじ。

 沾徳が判に究めたると云事を、後代迠いはむ為と、かくハしるし給ふと見えたり。

 両句の甲乙、いづれ共わきがたかるけれ共、すき・不数奇を論ずる時ハ、予ハ『江に横たふ』の方すぐれたりとおぼえ侍る。いひつめずして、心のあらハれ侍る事をこのめる故也。此事奥ニくハしく記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.180~181)

 

 この句の見所が「水の上」であれ「江に」であれ、水辺のホトトギスである以上、あとはそれを中心に据えるか、脇に置いて匂わすかの違いにすぎない。「いひつめずして、心のあらハれ侍る」は水辺のホトトギスの興に関しては許六の言う通りであろう。

 ただ、「時鳥の一声」の「一声」は言わなくてもいい言葉で、そこでは言い詰めているとも取れる。かといって「一声」を省くと字足らずになって発句にならない。難しいところだ。

 

 「哥にも、

 日も暮ぬ人もかへりぬ山里は

   峯のあらしの音斗して   基俊朝臣

 日くるれば逢人もなし正木ちる

   峯のあらしの音ばかりして 俊頼朝臣

 此両首、いくばくの相違もなく、まして下句ハおなじ言葉也。

 人々俊頼の哥を勝れりといへ共、定家の卿の判ニ云ク、俊頼の哥ハ、『正木ちる』といふ處いろへにし、俗のよろこぶ所也。是いらぬ詞也。新古今時代の費とのたまひ、基俊の哥勝れたりとハ極るといへり。

 両句の上を見るに、『水の上』といへる詞、『正木ちる』といふにかよひ侍るとおもへバ、『江に横たふ』の方をすき侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.181)

 

 基俊の歌は岩波文庫の『俳諧問答』横澤三郎注に、「『後拾遺集』にある歌であるが、作者は源頼実になっている」とある。俊頼の歌は『新古今集』だという。

 確かに似ているというかほとんど同じだが、源頼実の歌は人のいなくなった山里の景なのに対し、源俊頼の歌の方は正木の散る峰の風景に主眼が置かれ、人がいないということは背景に退くことになる。

 正木(まさき)はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」の「柾木」の所に「『まさきのかづら』に同じ。」とあり、「まさきのかづら」は同じくweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「常緑のつる性植物の名。「ていかかづら」とも「つるまさき」ともいわれる。ほかの木にからみついて長々とのびるので、「長し」の序詞(じよことば)となる。古くは、つるをさいて鬘(かずら)とし、神事に用いられた。まさき。[季語] 秋。」

 

とある。

 

 深山には霰降るらしとやまなる

     まさきの葛色づきにけり

            よみ人知らず(古今集)

 移りゆく雲にあらしのこゑすなり

     散るか正木の葛城の山

            飛鳥井雅経(新古今集)

 

などの歌に詠まれている。

 確かに定家の卿の言う通り、日も暮れて人もいない峰で「正木ちる」は何の脈絡もなく唐突に登場する感じがする。その一方ではこの夕暮れの峯に色づいた正木葛の色を添えることにもなる。

 許六は「水の上」がこれに類するというが、「江に」「水の上に」は同じことで別の景物が登場しているわけではない。

 

 葦茂き江に横たふや時鳥

 

なら「正木ちる」に近いとも言えよう。

 

 「一、右両句時鳥の事。予察し見るに、『江に横たふ』の方、先へ出たるべし。

 『江に横たふや時鳥』と吟じ見るに、『ほととぎす』と云下の五もじニて、つかへてはねかへりたるやうにおぼゆ。是にて案じかえられたる成べし。

 時に、『ほととぎす江に横たふや』と、さだめて参るべし。是にてハ、五文字七文字の間に、声といふ事なき故に、「声横たふや」とハ直りたると見えたり。『水の上』ハ、後のいろへむすび也。

 両句の甲乙、自己ニも分がたき故に、人々ニ判を乞ハれたるなるべし。句のよきハ、『江に横たふ』の方、慥にすぐれたれ共、下五文字の所にてよろしからぬ故に、『水の上』の方へ極め給ふと見えたり。

 惣別にてはなしに、ほととぎすの、かきつばたのト云詞を下五もじにをく時、上五もじ・中七もじの間にて、てにはのまハらざる時ハ、当てはねかへりたる様成もの也。

 『一声の江に横たふやほととぎす』と吟じ見るに、一句幽玄になびらかならず。是、『一声の江に横たふや』と云所までに、てにはまハらぬ故に、下のほととぎす、ぎよつとしたるやう也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.182~183)

 

 前にも述べたように、「一声」の方の句は和歌の上句のようで、何か下句が欲しくなる。切れ字があるにもかかわらず、十分に切れてない。

 「はねかへりたる」の「はねる」は飛ぶという意味とともに、中途で終わるという意味がある。撥音を「はねる」と言うのは、「らむ」の最後の「う」の母音が欠落して最後まで発音せずに「らん」で終わってしまうからであろう。「首をはねる」というときの「はねる」も、近代の麻雀用語の「頭はね」も、この途中で切るというところから来ている。許六の言う「つかへてはねかへりたる」も途中で途切れてしまったような中途半端な感じを言う。この感覚は正しい。

 そこで「ほととぎす江に横たふや」と直すと、今度は「声」が入らなくなるため、「ほととぎす声横たふや」とすると「江」が抜けてしまうので、最後に「水の上」と色を添えることになる。

 芭蕉が沾徳に判を求めたのは、自分でもどちらが良いか甲乙つけ難かったからで、最初から「江に横たふや」の方が良いと思ってたなら判など求めなかっただろう。趣向としては「江」の方が良く、言葉の続き具合は「水の上」の方が良い。そこでジレンマに陥ってしまった。許六がこれを書いたのは、後の読者に良い解決策を求めてのことだろう。

 

 「又、

 野を横に馬引むけよほととぎす

 木がくれて茶つミもきくや時鳥

と云句ハ、上五もじ・中七もじにて、おもふままにまハる故に、下の『ほととぎす』連続したる也。此論、予が発明也。よくよく御吟味給ハるべし。微細成所よくきき侍る事、御褒美にあづかりたし。

 随分おぼしめしのままに、御句なさるべし。予かたのごとくきき侍るべきなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.183)

 

 同じように下五が「ほととぎす」で終わっていても、芭蕉のこの二句はきちんと切れていて、撥ねた感じがしない。

 この二句の倒置を解消すると、

 

 野を横にほととぎす(の方)に馬引むけよ

 茶摘みも木がくれて時鳥をきくや

 

で、文章としても趣向としても完結している。

 

 時鳥の一声の江に横たふや

 

はホトトギスの声が江に横たわって、それで何なんだ、という感覚が残る。

 ここで足りないのは許六の言う「取り囃し」ではなかったかと思う。

 芭蕉の句は「野」と「時鳥」の取り合わせに、「馬を横に引き剝けよ」という強力な「取り囃し」がある。「茶摘み」に「時鳥」の取り合わせにも、「木がくれて聞くや」という強力な「取り囃し」がある。許六の句は「ほととぎす」と「江」だけで終わっている。その差ではないかと思う。

 取り合わせだけだと、その二つの取り合わせの必然性が分からない。そこに取り囃しが必要とされる。

 ロートレアモンの「解剖台のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」もミシンと蝙蝠傘の取り合わせに「解剖台の出会い」という取り囃しがあるから成り立つ。

 野に時鳥、だから何なんだ?決まってるじゃないか馬を引き向けろということだ。

 茶摘みに時鳥、だから何なんだ?それは時鳥の声が木隠れに茶摘みの人たちにも届いているということだ。

 ならば江に時鳥、だから何なんだ?その答えをみんな知りたいんだ。

 ある意味でこれは「謎かけ」に近いのかもしれない。

 

 野と掛けて時鳥と解く、その心は?馬を引き向けます。

 茶摘みと掛けて時鳥と解く、その心は?木隠れにに伝わります。

 江と掛けて時鳥と解く、その心は?

 

 ならば、もう一つの、

 

 ほととぎす声横たふや水の上

 

は何で完結して聞こえるのか。時鳥の声が横たう、というのが謎かけになって、どこに横たわるのだろうかと思わせて、「水の上」で落ちになるからだ。つまり、

 

 時鳥と掛けて声横たうと解く、その心は?水の上だったからです。

 

となる。

 

 

21、新味と今めかし

 

 「一、世上に新敷物と、今めかしき物と、取つがへ侍る。

 新敷ものハ、成程昔より有来て、人々の見残し取残したる物也。晋子が衣がへに、

 

 越後やにきぬさく音や衣がへ

 

と云句あり。勿論句作り等ハよくとりはやしたりといへ共、此句晋氏などせぬ句也。

 かやうの今めかしき物を取出して発句にする事、以の外の至り也。興に乗じていひ捨の巻などニハさもあるべし。

 晋氏ハ江戸の宗匠、芭門の高弟也。末々の弟子、此句を見て、あたらしきと云ハかやうの事とあやまり、證句ニセん事うたがひあるべからず。当歳旦ニも、二朱判・五まわりましなど云事見えたろ。此まどひ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.183~184)

 

 ゲーム業界にも「流行に乗るな、流行を作れ」という言葉があるらしい。開発に時間のかかるゲーム業界では、下手に流行に乗っかると、発売の頃には既に流行遅れになっていることが往々にしてあるからだという。

 とは言っても新しいものを作り出すのは難しい。それに比べれば誰かが作った新しいものに便乗する方が楽だ。『鬼滅の刃』という新しい作品を生み出すのは大変なことだが、それに乗っかって何でも鬼滅が入っていればいいとばかりに安易なグッツを売り出したり、「全集中」なんて言葉を口にするのはたやすい。

 流行の句といっても、流行を作る句と流行に乗っかる句は違う。許六の言う「新敷ものハ、成程昔より有来て、人々の見残し取残したる物也。」というのは流行を作る句であり、

 

 越後やにきぬさく音や衣がへ   其角

 

の句は新味とは言っても流行に乗っかっただけの句だというわけだ。

 「店前(たなさき)売り」と「現銀(金)掛値なし」のシステムで開いた江戸の「三井越後屋呉服店」は大人気となり、このやり方は今の日本のほとんどの商店に受け継がれている。日本では商品を値切らずに正札通りに買うのが普通だが、世界的には珍しいのかもしれない。ただ、現金にこだわった日本のシステムは、ネット決済では世界に後れを取ってしまった。

 もっとも、江戸本町の越後屋呉服店は延宝元年の創業だから、其角がこの句を詠んだ元禄九年ではそれほど新しものでもなく、すでに定着しているものだったのではないかと思う。越後屋はその後明治に三越百貨店になり今でも残っているから、むしろ越後屋がそろそろ不易となる、そのタイミングで其角はこの句を詠んだのかもしれない。

 ただ、大衆芸術の発展というのは、無から新味を生み出すだけではなく、誰かが作り出した流行にさらに新味を加えることで発展してゆく。一人の人間の生み出せる新味は、どんなに才能があっても限られている。また他人の生み出した新味も受け継ぐ人がいなければ廃れる。だから、一流のクリエーターであっても流行に乗ることを恥じる必要はない。大事なのは流行に乗っても必ずそこに何か新味を付け加えて発展させることだからだ

 吾峠呼世晴さんの『鬼滅の刃』にしても先行する様々な作品からモチーフを借りているだろうし、特に主要なテーマとなっている永遠の命を廻るコノハナサクヤヒメ神話的なテーマは、冨樫義博さんの『幽☆遊☆白書』の戸愚呂弟と幻海師範の物語を引き継いでいるのではないかと思う。この種のことは「俳諧自賛之論」の「48、等類」の所で書いているので、ご参照を。

 許六は逆にその潔癖さゆえに人の見つけた新味に乗っかることを良しとしなかったために、芭蕉の作り出した新味を発展させることができなかったのではないかと思う。

 

 「平句ハ興に乗じて予もある時せし、

 海手より夜ハほんのりと明かかり

   越後や見する松阪の馬子

と云句也。江戸の越後や。京の越後や、おかしからず。松阪の越後やこそ、俳諧とハ申物也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.184~185)

 

 越後屋は発句道具ではなく平句道具だということか。ただ、同じ越後屋でも江戸、京、松阪では随分違いがある。

 三井広報委員会のホームページによると、京都の越後屋は、

 

 「江戸時代、京を根城に江戸に出店して商いをする「江戸えど店持たなもち京きょう商人あきんど」は、商人の理想であった。松阪で力を蓄え、江戸への出店を準備していた三井高利は、52歳にしてそれを実行に移す。以来、京都は商品仕入れや江戸に指令を発する三井の本拠地となっていった。高利は、延宝元年(1673)、江戸本町に越後屋呉服店を開くと同時に、京都に呉服物の仕入れ店を開業した。当時、高級な絹織物はほとんどが西陣の製品であり、京都はその西陣織や小間物の仕入れに便利なばかりか、長崎経由で輸入されてくる唐の生地、反物などもいったんすべて京都に運ばれ、売買が盛んだったからである。仕入れがうまくいくかどうかは経営を左右し、呉服店として飛躍していくためにはどうしても京都に拠点をおく必要があった。」

 

と販売の中心が江戸だったのに対し、仕入れの中心として京都にも店を構えていた。

 これに対し、松阪は越後屋の発祥の地であり、三井広報委員会のホームページには、

 

 「高久は琵琶湖の東にある鯰江に居城を構えたが、高久から5代目・三井越後守高安の時代に天下統一を目指す織田信長が、上洛のため近江に攻め入り、六角氏の諸城を次々攻め落とし、六角氏は滅ぼされた。

 主家を失った三井一族は近江から伊勢の地に逃れ、その後、三井一族は津、松阪などを流浪し、最後に松阪の近くの松ケ島を安住の地とし、高安はその地で没したとされている。

  …中略…

 その後、高安の子・三井則兵衛高俊は武士を捨て町人となり、松阪で質屋や酒・味噌の商いを始める。この店は高俊の父・高安の官位が越後守だったことから「越後殿の酒屋」と呼ばれる。これが後に高利の「越後屋」の屋号の起源であり、「三井越後屋」から「三越」の名称が誕生する。」

 

とある。

 許六が詠んだのはこの元の越後屋の方で江戸で流行する越後屋ではない。それでもこの松阪越後屋の句で、自分は流行遅れではない、越後屋を詠めないのではなく詠まなかったんだというアピールがしたかったか。

 

 「初雪やいつ大仏の柱たて    翁

 これ大仏建立ハ、今めかしきやうなれ共、此ふるき事万里の相違あり。初雪に扨々よき取合物、初の字のつよミ、名人の骨髄也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.185)

 

 この句は芭蕉が『奥の細道』の旅の後、いったん伊賀に帰省し、そのあと路通とともに奈良へ行ったときの句で、元禄三年正月十七日付の万菊丸宛書簡に、

 

   南都

 雪悲しいつ大仏の瓦ふき

 

の句があり、こちらが初案と思われる。

 奈良女子大学大学院人間文化研究科のホームページによると、永禄十年(一五六七年)の三好・松永の兵火で多くの建造物が焼失し、大仏も原型を留めないほどに溶け崩けてしまったが、その後少しづつ復旧作業が進められていったという。江戸時代に入ると、

 

 「貞享元年(1684)公慶が大仏の修理のために勧進を始めたことから、東大寺の復興事業が本格的にスタートしました。これは江戸や上方などの都市部で大仏縁起の講談と宝物の拝観を行う、「出開帳」(でがいちょう)の方式を用いたキャンペーンでした。この方法は、大仏の現世利益・霊験を期待する民衆の信仰心をつかみ、多額の喜捨を集めて大仏修理の費用をまかなうことができました。その翌年には大仏修復事始の儀式が営まれ、東大寺勧進所として龍松院が建てられています。

 大仏修理の計画が具体化していくにつれ、奈良の町では大仏講という組織が編成され、勧進帳が作成されるなど、大仏復興への気運が地元でも盛り上がりました。そして貞享3年(1686)には大仏の修理が始まり、そのわずか5年後の元禄4年(1691)には大仏の修理は完了し、その翌年には大仏開眼供養が盛大に営まれました。このとき、奈良は空前の賑わいをみせたといわれています。」(奈良女子大学大学院人間文化研究科のホームページ「東大寺の歴史」3、江戸時代の東大寺)

 

とあり、芭蕉が訪れた元禄二年冬には大仏本体は修理の真っ最中で、大仏殿はまだ手付かずだったようだ。

 大仏修復の真っ最中の句で、その意味では流行の題材の句だが、大仏の有難さそのものは古くからある題材で、大仏殿の荒れたるを悲しむ心情を雪に託している。

 大仏というと、貞享五年春、『笈の小文』の旅の途中の伊勢護峰山新大仏寺で、

 

 丈六にかげろふ高し石の上    芭蕉

 

の句を詠んでいる。荒れ果てたといえば、貞享元年『野ざらし紀行』の旅で熱田神宮を訪れた時、

 

 しのぶさへ枯て餅かふやどり哉  芭蕉

 

の句を詠み、その惨状を訴え、やがて修復が行われ、貞享四年冬、『笈の小文』の旅で再び訪れた時には、

 

 磨なをす鏡も清し雪の花     芭蕉

 

と蘇った熱田神宮を喜んでいる。

 こうした句は決して「滅びの美学」だとかいうものではなく、あくまで滅んでいくことを嘆き悲しみ、滅ばぬことを願い、保存や再興を訴えるものだった。

 

 初雪やいつ大仏の柱立て     芭蕉

 

の句も、大仏だけでなく大仏殿も早く再建されることを願っての句だった。

 熱田神宮の再興も、大仏殿の再建も、その時代、その時点での社会全体への問題提起であり、流行の句にはその時代その時代の問題提起の意味もある。問題が解決してしまえばもはや時代遅れかもしれないが、その魂は不易だ。

 『野ざらし紀行』の、

 

 猿を聞人捨子に秋の風いかに   芭蕉

 

も捨て子という当時の深刻な社会問題に、何らかの解決を訴える句だったと思う。大分遅くはなったが百年近く後の明和四年(一七六七年)にようやく「間引き禁止令」が出され、日本に孤児院が誕生するには明治になるのを待たねばならなかった。

 東大寺大仏殿の完成はそこまで遅くはなかったが、宝永五年(一七〇八年)のことだった。

 俳諧風流の心は和歌の心と同じ、力を入れずして天地を動かす(非暴力で社会を変革する)ことだった。

 

 

22、古歌の詞

 

 「一、古歌のことばかりて句にしたる事あり。しかれ共嘗て其うたを下心にふまえて、仕たるにハあらず。自然ニ此詞ある故に、切入たる斗也。下心ありて取合たるなどきかれむハ、迷惑成事也べし。

 予が句ニ、

 初雪や拂ひもあへずかいつぶり

 此句、『拂ひもあへず霜や置らん』の心、少もなし。只『拂ひもあへず』也。

 初雪に鳰鳥、よきとり合物也。中の七字明て置がたし。一句成就の為、仮に入たる詞つづき也。此詞ならで用るものなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.185~186)

 

 「拂ひもあへず霜や置らん」の古歌は、岩波文庫『俳諧問答』の横澤三郎注に、

 

 夜を寒みね覚めてきけば鴛ぞ鳴く

     はらひもあへず霜やおくらむ

             よみ人知らず(後撰集)

 

だという。

 カイツブリは鳰(にお)とも言う。琵琶湖は鳰の海といわれていて、冬にもなると彦根の辺りも雪が降り、初雪を羽ばたいて払おうとする鳰鳥に一興を得て詠んだのだろう。

 ただ、「払いもあへず」はオシドリと霜との取り合わせて古歌に詠まれているから、当然ながらこの歌のオシドリと霜をカイツブリと雪に変えただけではないか、という声もあったようだ。いわゆる同竈の句というわけだが、許六はあくまで影響はなかったと否定している。

 

 「又、

 鮮烏賊や世ハ白妙に衣がへ

と云句、ゑどにてセし也。

 衣がへといへば、着たり・ぬひだりの上にて果しを、衣の上ならであるべしと案じたる也。此ごろ、京も田舎も、鮮烏賊にて世ハふきたるがごとし。只衣がへにとり合て、『世ハ白妙』ハかりに入たる詞也。此句も此詞の外になし。天のかぐ山とききなさむハ、迷惑也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.186)

 

 「鮮烏賊」は「なまいか」で、千葉の鮮魚街道を「なまかいどう」と読むのと同じ。世間が衣更えで白い服を着ているの生イカに喩えたもの。これはわかる。

 

 春過ぎて夏来にけらし白妙の

     衣干すてふ天の香具山

             持統天皇(新古今集)

 

とは何の関係もない。

 

 「何人の句やらに、

 立雲の南に白し衣がへ

と云ハ、全体『天のかぐ山』也。眼の屆ざる人、とり違へきき違へて、似する事是非なし。晋子が流ハ、いつとても下心なき事ハセず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.186)

 

 句は風国編『初蝉』の素覧の句。尾張蕉門で晋子(其角)流ではない。

 句の意味も南の空に夏らしい積雲が現れ、空も白く衣更えしている、という句で天の香具山の歌の趣向とは異なる。強いていえば、白い雲の峯を白妙の香具山に見立てたとも言えなくもないが。

 

 「高取の城の寒さやよしの山

といふも、『ふる里寒し』の下心也。ふる里よりハ、めの前の高取寒しといへる事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.187)

 

 これは其角の句。高取城は奈良の壺阪寺の東の方にある。この辺りも吉野の一部になるのか。元禄三年秋の「月見する座にうつくしき顔もなし 芭蕉」を発句とする芭蕉・尚白の両吟の巻の二十九句目に、

 

   随分ほそき小の三日月

 たかとりの城にのぼれば一里半   芭蕉

 

という句もある。奈良の高取藩の藩庁である高取城は日本三大山城の一つで、ウィキペディアによれば、

 

 「城は、高取町市街から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と歌われた。なお、土佐とは高取の旧名である。

 曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。」

 

 あまりに広大な城なので天守閣にたどり着く頃には日も暮れてしまうというわけだ。この城のことはそれこそ当時の噂になっていて、誰もが知っていたのだろう。

 吉野に寒さというと、

 

 みよし野の山の秋風さ夜ふけて

     ふるさと寒く衣うつなり

            参議雅経(新古今集)

 

の歌が確かにある。まあ、それを踏まえて高取城という今のもので取り囃したとも言える。

 芭蕉も『野ざらし紀行』の旅の時に吉野で詠んだ、

 

 砧打ちて我にきかせよ坊が妻    芭蕉

 

の句も同じ歌を踏まえているし、こういう下心が悪いということはないと思う。ただ、古典の出典に密着しすぎるのを「軽み」の頃から嫌う傾向にあり、許六はその世代だから気になるのだろう。

 

 「晋子が此ごろの秀逸ハ、

 鶯の身をさかさまに初音哉

 此句、近年のうぐひすの秀逸也。外にあるべきともおもはず。師の句、『餅に糞する』とこなし給ふ後に、終ニこれほどにあたらしミをはしらせたる句ハなし。此句より能句ハ、如何程もあるべし、此後も出ヅべし。これほど新しき句ハなし。一筋にさかれむハ、作者も本意なかるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.187)

 

 其角のこの句は元禄九年刊風国編『初蝉』に収録されている。許六が最近見た中で目に留まったのだろう。

 

 同じくが『去来抄』だと、

 

 「角が句ハ春煖の乱鶯也。幼鶯に身を逆にする曲なし。初の字心得がたし。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.33~34)

 

となり、実際にはありえないとする。

 思うに昔はウグイスとメジロが混同されていて、メジロの緑色を鶯色と言い、この色をした餅を鶯餅なんて言ってたりしたから、メジロが頻繁に身をさかさまにするのを見て、許六さんも「あるある」と思ったのかもしれない。

同門評判

 岩波文庫の『俳諧問答』には「同門評判」が専宗寺本と天明板本の二つがあって上下に分けてあって、こういう組み方をしているとカントのアンチノミーを思い出す。とりあえずここでは専宗寺本の方を読んでいくことにする。

 

 「一、予同門人の中に、対面する人もあり、せざるもあり。一句俳諧の上にて、其人の作意ヲ論じて、奥ニ記ス。猶隠蜜の沙汰也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.188)

 

 蕉門の人たちもたくさんいてあちこちに散らばっているから、許六さんも会ったことのある人もいればない人もいる。会ったことのない人でも作品からその作意を論じている。

 「隠蜜(密)の沙汰」といっても忍者ではなく、内緒話のこと。本来同門のことなど公にすべきことではないということで、去来に内緒話として送ったものだった。まあ、元禄コソコソ噂話というところか。公刊されたのは天明五年(一七八五年)のことだった。

 

 

1、去来

 

 

 「一、第一、先生の風雅を論ぜば、其器すぐれてよし。花実をいはば、花ハ三つにして、実ハ七つ也。

 天性正しく生れつき給ふに寄て、難じていはば、とりはやし少欠たり。故ニ不易の句ハ多けれ共、流行の句ハ少し。

 たとへバ衣冠装束のただ敷人、遊女町にたてるがごとし。殿上のまじハりにおいてハ、一の人とも称すべし。遊女町のとりはやし、少欠たり。

 師説の月雪を経給ふゆえ、天晴中華門人の第一とハ称す。

 水海の水まさりけり五月雨

 凩の地にも落さぬ時雨哉

 ほととぎす鳴や雲雀の十文字

などいへる一代の秀逸、いくらもあり。師の句たりといふ共上に立がたし。一人もうらやむものハなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.188~190)

 

 まあ、要するに真面目で堅物という印象が強いのだろう。芭蕉からはアドリブが利かないことでだいぶ三十棒もらったようだ。

 句の作り方も「興を催し景をさぐる」というのが基本にあったようで、題を決めたらその本意本情にあった景を探すというのが去来さんの必勝パターンで、許六がここに挙げた三句も、「五月雨」という題に「湖の水まさりけり」という景、「時雨」という題に「凩の地にも落とさぬ」という景、「ほととぎす」という題に「雲雀の十文字」という景を添えている。

 

 岩鼻やここにもひとり月の客    去来

 

の句も「月」という題から、岩鼻に一人誰かが月を見ているという景を想像して詠んだようだ。芭蕉は自分が岩鼻に上って月を見ている句にしなさいと言ったという話が『去来抄』に記されている。そこは嘘でもいいというのが芭蕉さんの考え方だ。

 

 何事ぞ花みる人の長刀       去来

 

 これも花見というテーマからのひねり出した句であろう。当時の「花見あるある」としては見事にはまったし、反権力の庶民感情もあいまって名句となっている。

 

 猪のねに行かたや明の月      去来

 

 この句も夜興引(よごひき:冬の夜の山中での猟)に有明の景を付けて、自分では新味のつもりでいたが、芭蕉さんに「ただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし」と、要するに月並みだと評されてしまった。

 また、許六が「とりはやし少欠たり」と言うように、景を探る所で終わって、それを面白く盛り上げる言葉に欠けている。いわば落ちがない。

 

 湖の水まさりけり五月雨      去来

 

にしても、許六からすれば五月雨で水かさが増しているだけでは物足りず、そこで何か面白いネタはないかというところだったのだろう。

 

 

2、丈草

 

 「一、丈草 器よし。花実共ニ大方相応せり。いとまある身なれバ、発句も多し。少利の過たる方也。

 春たけハ持のこさぬや面白ミ

といへる句などむづかし。

 釈氏の風雅たるに寄て、一筋に身をなげうちたる処見えず。たとへバ乗興ニして来、興尽して帰るといへるがごとし。

 此僧の句、慥ニ善悪共ニ一筋見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.190~191)

 

 「器よし」は才能があるということか。去来の「器すぐれてよし」に比べるとやや落ちるというところだろう。

 去来は花が少なかったのに対し、丈草は花も実もそこそこある。

 「いとまある」というのは遁世してためで、じっくり句を作る暇があるため発句も多い。今の俳句は即興で一度に十句連作とか普通だが、昔は一句一句時間をかけて作っていた。「少利」は「少(すこし)理」であろう。

 たとえば『嵯峨日記』の、

 

   途中吟

 杜宇啼や榎も梅櫻         丈草

 

の句はホトトギスに榎を取り合わせているが、「榎も梅桜」という囃しはホトトギスの声が風情があるから、榎も梅桜のように華やぐというもので、こういうのは確かに理屈だ。ただ、この時代に「理」があるのは決して句の疵ではなく、句の面白みの一つとされていた。

 

 水底を見て来た貌の小鴨哉     丈草

 

は『猿蓑』の句だが、鴨は水中に首を突っ込んで餌をとるため、水底を見てきたか、となる。

 

 我事と泥鰌のにげし根芹哉     丈草

 

も同じく『猿蓑』の句で、芹と採っているとドジョウが自分を獲りに来たと思って逃げ出すというもの。芹は根が旨いということで、葉だけ摘むのではなく根ごと引っこ抜くから、ドジョウがびっくりする。それを「我事とにげし」というところに面白さがある。

 ただ、こういう句ばかりではなく、

 

 うづくまる薬缶の下のさむさ哉   丈草

 

の句は芭蕉が病床にあって詠んだ句で、芭蕉も「丈草出来きたり」と言ったという。

 ひょっとしたら丈草の作意は火鉢に載せた薬を煎じるための薬缶の湯気が上へ登ってゆくため、その脇でうずくまっている自分にとっては寒いという「理」だったのかもしれない。ただ「さむさ」に病状を心配そうに見守る不安な情がうまく乗っかったため、芭蕉の感銘する所となった。

 

 あら猫のかけ出す軒や冬の月    丈草

 

 「あら猫」は荒々しい猫という意味だろう。腹をすかして餌を探しに出たか、冬の月の照らす中、軒端から荒々しく走り出す。理に走った感じはない。近代の、

 

 猫も野の獣ぞ枯野ひた走る     誓子

 

の句とちょっと似ている。

 丈草は仏道の傍らの余興でやっているような感じで、俳諧一筋に専念していないから、良い句もあれば悪い句もあるというのが、許六の印象だったのだろう。

 『芭蕉と近江の人々』(梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版)によると、

 

 「丈草は犬山藩士、内藤林右衛門と称し幼名は林之助、三歳にして母を失う。二十七歳のとき、蒲柳の故をもって異母弟に家督を譲って離藩。出家してかねて親交の医師中村春庵(史邦)をたよって京に出る。詩文をよくし、在藩のころ玉堂和尚について参禅。」

 

とのことで、詩文については『嵯峨日記』に、

 

   題落柿舎      丈艸

 深對峨峯伴鳥魚 就荒喜似野人居

 枝頭今欠赤虬卵 靑葉分題堪學書

 

 よく見れば峨峯には鳥や魚がいて

 荒れてくれば田舎物の家に似てくるのを喜ぶ

 枝の先には今は赤い龍の卵はなく

 青葉が題を分かち我慢して書を学ぶ

 

   尋小督墳      丈艸

 強撹怨情出深宮 一輪秋月野村風

 昔年僅得求琴韻 何処孤墳竹樹中

 

 強く怨情をかき乱し御所の奥の部屋を出て、

 一輪の秋の月に田舎の村の風

 昔僅かに得た琴の音を探す

 一つ残った墳墓は竹薮の中のどこに

 

の詩がある。

 

 

3、正秀

 

 「一、正秀 風雅前に記ス。是逸物也。故ニ雑句のミ多して、血脈の沙汰少し。事故の善悪わかれず。他句も猶しるまじ。別して當歳旦三ッ物、吐龍などくミたる俳諧、三歳の童子も笑草とすることうるさし。其上歳旦ノ句三ッ出たり。一ッの外ハせぬ事と、師説にきき置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.191~192)

 

 「前に記す」とあるのは、「俳諧自賛の論」の中で、

 

 「世上雑俳の上を論ずるにあらず。雑俳の事ハ究たる事なけれバ、評にかかハらず。

 惣別予が論ずる所ハ、門人骨折の上の噂也。此正秀血脈を継がぬ故ニ、かやうの珍敷一言をいふと見えたり。

 かれが俳諧を見るに、専ラひさご・さるミのの場所にすハり、翁と三年の春秋をへだてて、師説をきかず、血脈を継がず、底をぬかぬ故に、炭俵・別座敷に底を入られたり。全ク動かぬしるし也。

 しかりといへ共、かれが俳諧を見るに、底ハぬかずといへ共、逸物也。又々門人の一人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107)

 「定家卿の論ニ云ク、家隆ハ歌よみ、我ハ歌作り、寂蓮ハ逸物也といへり。

 此人逸物と云もの也。師の眼前において句をいひ出す時ハ、師の眼有て撰出し、これハよし、是ハ五文字すハらず、此句ハ用にたたずなどいひて撰出して後、世間に出るゆへに、人々正秀ハよき俳諧と眼を付るといへ共、師遷化の後ハ、猿の木に離れたるごとくニして、自己の眼を以て善悪の差別を撰出す事をしらず。

 ただ我口より出るハ皆よき句と心得ていひ出すゆへに、当歳旦三ツ物の如き句出る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107~108)

 

と書いていることを指しているのだろう。

 『ひさご』『猿蓑』の風を出なかったことで、それ以降の世代となった許六にとっては面白くなかったのだろう。それは去来に対しても同じでこの書のきっかけもそこにあったと思われる。

 許六のいう血脈が二面性を持っていたのは前に書いたが、文字通りの意味での師匠から弟子へと継承される血脈ではなく、もう一つの方の意味は、基本的には芭蕉の「軽み」の風で確立された革新性で、それゆえ古典回帰的な趣向には厳しく、かといってただ目新しい題材を詠めばいいというものでもなく、むしろ「底をぬかぬ」という言葉に代表される手法上の革新を重視したと思われる。取り合わせと取り囃しの論が許六の一つの到達点だったのだろう。

 「逸物」の「逸」は「それる」「はぐれる」という意味があり、人と違う並外れた者を意味するが、その一方で道を外れる、放逸という意味もある。

 許六からすると、師の血脈を継がずに勝手気ままに句を作っていて、師に正しく句を選んでもらわなければどこへいくかわからない、という印象を持ってたのだろう。

 吐龍は土龍という俳諧師がいて正秀と同座していたのだが、どういうひとなのかよくわからない。一般名詞だと土龍はモグラのことだが。

 『芭蕉と近江の人々』(梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版)には、

 

 「初め和歌を竹内惟庸卿に学び、貞享年間、大津の医尚白について俳諧をはじめ、元禄初年から芭蕉に直参し、同三年、翁の湖南来遊を迎えて熱心の師事する。」

 

とある。

 『猿蓑』の、

 

 鑓持の猶振たつるしぐれ哉     正秀

 

は正秀の最大のヒット作であろう。

 浪化編『有磯海』には、

 

 ねこ鳥の山田にうつるあられかな  正秀

 

の句があるが、この場合の「ねこ鳥」は梟のことだろうか。

 正秀は後に惟然が編纂する『二葉集』(元禄十五年刊)にも参加し、

 

 むぎまきや脇にかゐこむうつはもの 正秀

    おもふことふたつのけたるそのあとは

       花のみやこもいなかなりけり

 初雪をどろにこねたる都かな    同

 

の句がある。

 

 

4、昌房、探志、臥高

 

 「一、昌房、探志、臥高、其外膳所衆、風雅いまだたしかならず。たとへバ片雲の東西の風に随がごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.192)

 

 昌房は『猿蓑』にもわずかに入集があり、浪化編『有磯海』にも、

 

 あさがほや宵のかやりの焼ほこり  昌房

 新田に水風呂ふるるあられ哉    同

 

の句がある。

 後に惟然編『二葉集』(元禄十五年刊)の、

 

 そんならば花に蛙の笑ひ顔     智月

 

を発句とする興行の七句目には、

 

   くわつと薄もみゆるしんなり

 参詣もなければ秋の水もまた    昌房

 

の句も見られる。

 探志は探子ともいう。

 

 さび鮎や川を寝て来て海の汐    探志

 

の句が『猿蓑』にある。「さび鮎」は落ち鮎のことで、産卵前になると腹部が赤くなる。産卵期になると鮎は河口域へ下るので、川に寝て海の汐にもさらされることになる。

 『有磯海』にも、

 

 番の火を便にねるや鹿のなり    探志

 

の句がある。

 臥高も『有磯海』に、

 

   正秀が方へまかりけるに、物一ッ

   謂ほどもなく、枕引よせて共にね

   にけり。ややふくるまま、おどろ

   き立かへるとて

 宵の間をぐつとねてとるよ寒哉   臥高

   かへし

 あんどんをけしてひつ込よ寒哉   正秀

 

の句がある。何しに行ったんだろう。

 他にも、

 

 蔦の葉や貝がらひらふ岩の間    臥高

 ふるふると昼になりたる時雨かな  同

 川こえて身ぶるひすごし雪の鹿   同

 日の縁にあがる大根や一むしろ   同

 

などの句が『有磯海』に見られる。

 許六の評は、句風が定まらないということか。

 

 

5、伊賀の人たち

 

 「一、伊賀連衆ハ、師の故郷ゆへに手筋ハよし。しかれ共一人切て出テ、上洛するほどの大将の器なし。たとへバ天鼓の鼓のごとし。

 近年諸集に出る伊賀の俳諧を見るに、打ツ人に応じて鳴る。支考が打時ハ、大方王伯がうてるがごとし。南都の者のうつ時ハ、道場太鼓にハおとれり。翁在世の時ハ、天鼓出て直に打がごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.192~193)

 

 伊賀というと『三冊子』を書いた土芳はよく知られているが、それ以外はというとそんなに目立った人はいない。

 元禄七年七月二十八日に

 

 あれあれて末は海行野分哉     猿雖

 

を発句とする興行を行った猿雖(えんすい)も伊賀の人で、この巻では配力(はいりき)、望翠(ぼうすい)、雪芝(せっし)、卓袋(たくたい)、木白(ぼくはく)などの伊賀の連衆が参加している。

 元禄八年刊の支考編『笈日記』は伊賀郡から始まるが、ここに、

 

 山桜世はむづかしき接穂かな    猿雖

 戸を明るあたりやくはつとむめの花 望翠

 鶯に底のぬけたるこころ哉     土芳

 顔見せよ鶯くぐる垣の隙      卓袋

 山吹に頭あけたり柿頭巾      配力

 手間いれて落る木の葉や森の中   雪芝

 

といった句が見られ、猿雖・支考・土芳・万乎・卓袋による五吟歌仙が収められている。許六は天鼓に喩えるが、このあたりが「支考が打時ハ、大方王伯がうてるがごとし。」になるのか。

 謡曲の『天鼓』は中国を舞台としたもので、いわば打つ人を選ぶ鼓で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「少年楽人の天鼓は天から授かった鼓を帝に献上するのを拒み、呂水に沈められ殺される。その後、鼓は鳴らなくなるが、天鼓の父が打つと妙音を発する。帝が哀れを感じて追善の管弦講を催すと、天鼓の亡霊が現れ、鼓を打ち楽を奏する。」

 

とある。王伯は天鼓の父で、妙音を発しはするが天鼓には及ばない。支考は王伯、芭蕉は天鼓というわけで、膳所の三人と同様句風が定まらず、指導者次第ということなのだろう。

 

 

6、乙州

 

 「一、乙州 器も大方也。第一ハ師の恩に寄て、乙州といふ名ハ出たり。おりふし血脈の筋をいへるといへ共、かれ是を弁じて出すにあらず。有事も無事も、かれ慥ニハしるまじ。

 たとへバ舟にのれる人、舟中ニ前後もしらず寝たり。于時順風出て着船するがごとし。

 翁追善に木節両吟の俳諧、自慢の俳諧あり。路通が行状記に出たり。其巻ニ云、発句・脇、師の噂也。又奥に、師の噂の句二ツあり。かやうニ一巻の中に幾所に出してモ、くるしからぬ格式ありや、しらず。たまたま一句などハ、其恩をわすれぬ便ともいふべし。度々の事にてうるさく侍る也。

 発句にめだちたる事あるハ、一番奥までも、遠輪廻とてせぬ事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.193~195)

 

 去来は「器すぐれてよし」、丈草は「器よし」だったから、乙州の「器も大方也」はそれよりは落ちるということか。

 智月尼の弟だが、嫡子にしたことで乙州からすれば智月は姉であり母でもあるということになる。

 許六から見ると師の血脈を受け継いだような句を詠むこともあったのだろう。ただ血脈を説くことはなかったし、血脈のことをはっきりわかっているわけではなかったとしている。

 船に喩えれば、ただ船の上で寝ているだけで、于時(ときに)順風が吹くことがあれば、うまく岸に着くことができるといった程度だという。

 

 

7、智月

 

 「一、智月 一筋見えたり。乙州より遙にすぐれり。しかれ共、仕習の朝より終焉の暁までの俳諧に、五色の内只一色を染出せり。これハ女の風雅なればなり。

 かれが風雅の美をいはば、生涯の句、ひたすら智月といへる尼の句にして女の形をよくあらハせり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.195~196)

 

 「一筋見えたり」というのは、多分他の男性作者とは異なる筋を持っているということだろう。「乙州より遙にすぐれり」は器のことだろうか。丈草クラスと見ていいのだろう。

 「仕習の朝より終焉の暁までの俳諧に、五色の内只一色を染出せり」は出家前は家庭に出家後は寺に縛られ身動きが取れなかったからで、奉公や興業や旅などとも無縁だったからであろう。これは当時の女性としてはかなり宿命的なものだった。

 家に縛り付けられた女性の風雅として、一つの体を確立したという点では画期的だったということで、許六としてはこれが最大限の評価だったのだろう。

 なお、この「同門評判」で智月は唯一の女性で、羽紅や園女には言及していない。

 

 見やるさえ旅人さむし石部山    智月

 

は自分が旅人になることがなく、あくまで見送る立場からの句。

 

 やまつゝじ海に見よとや夕日影   智月

 

 これも山躑躅に見ることのない海を想像する体になっている。

 

 待春や氷にまじるちりあくた    智月

 鶯に手もと休めむながしもと    同

 

は家事をする者の視点。

 

 やまざくらちるや小川の水車    智月

 

も花見に遠く流れ来る花を見る。

 

 しら雪の若菜こやして消にけり   智月

 

 これも自らを子を産み育て次世代につなぐ肥しとみなす。これらは女として生まれた苦悩で、現世の苦しみを逃れ去ろうとする男の風雅に同調してはいない。「ひたすら智月といへる尼の句」は漂泊も遁世も成仏もない閉塞された世界の句を貫いたという意味だろう。

 

 

8、之道

 

 「一、槐之道諷竹 天性柔弱也。久しく草薬をなめて、薬毒になやまされ侍る。然共其薬毒の力に寄て、相応にとりはやせり。

 細かに脈を窺に、的中すべき良法なし。本病治しがたからん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.196~197)

 

 病弱で薬に依存していたようだ。どのような薬かはよくわからない。一説には薬種商を営んでいたともいう。

 誠実だがおとなしい性格が洒堂と合わなかったのだろう。もともと之道のいる大阪に近江から洒堂が乗り込んできて喧嘩になった所を仲裁するために、芭蕉は死の間際にありながらもわざわざ大阪までやってきたという。そしてそこで芭蕉は息を引き取った。

 句の取り囃しも血脈もそこそこというところか。

 

 

9、風国

 

 「一、風国 発句、血脈の筋慥ニ見届がたし。雨中の花の泥を上たるがごとし。風雅ハ容易なるがよしとおもへるにや。かたのごとく麁抹也。

 然共俳諧巻にハ、花実共ニ有て、しかもとりはやしも見えたり。元来俳諧血脈に気がつきたり。発句なけれバ詮なし。たとへバ時代物の硯のふたのなきに、今様新町もののふたをとり合せたるがごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.197)

 

 付け句はいいが発句が駄目で、年代物の硯に新しい蓋をかぶせたようなものだという。

 風国というと『去来抄』同門評に「晩鐘のさびしからぬ」という句を詠んで去来に「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋」と直されたことでも知られている。

 芭蕉の晩年の初期衝動を重視した時期に入門したため、去来が叩き込まれた古典の本意本情を無視することが多かったのだろう。その結果「なんで?」という句になってしまったわけだ。本人はわかっていても、多くの人は古典の素養をベースに、あるいはその習慣化した意味空間を元に読解するわけだが、そこがよくわかってなかったか。

 浪化編の『有磯海』に採られた句は、そこのところはかなり修正しているのだろうけど、たとえば、

 

 猫の恋風のおこらぬ斗なり     風国

 

の句は、やはり「なんで」という感じだ。猫があわただしく騒いで喧嘩したり駆け回ったり賑やかなのに、何で「風のおこらぬ?」となるのではないか。まあ、一時期過ぎたら何事もなかったかのように元に戻るから、結果的に「風のおこらぬ」なのか。

 

 籠かきの仏見事や玉まつり     風国

 

 これは庶民であってもご先祖様は見事に祀られている、というので悪くはない。

 

 秋もはやくるるとしらず飛いなご  風国

 

 これも秋が終わり死が訪れるとも知らずに飛び回るイナゴの哀れが表れていて悪くはない。

 

 芋ほりに男はやりぬむら時雨    風国

 

 この場合の「はやりぬ」はいらつく、ということか。芋を掘っていた時に時雨に降られ、掘り続けるべきか雨宿りすべきか迷うということで、ありそうなことだ。自然薯掘りなら確かに途中でやめたくはないだろう。このあたりは「はやしも見えたり」ではないか。

 付け句の方も支考編『笈日記』の去来・支考・風国の三吟を見る限り、あとの二人に負けてはいない。

 

   笠着せて先へたてたる乙むすこ

 みえた通は伯母むこの山      風国

 

 「乙むすこ」は末っ子のこと。兄たちに見て来いと言われて先に行くと伯母婿の山だったというわけだ。何となくこの兄弟が苦手としている人で、末っ子が貧乏くじというのが伝わってくる。まあ、子供なら多少のことは許してくれるか、というところか。

 

   壁うちはなす二枚戸の間

 あほうめを使にやりて案じゐる   風国

 

 「壁うち」は特に返事を求めるでもない会話で大体愚痴やぼやきが多い。二枚戸の間というから奥の部屋に人がいるということか。「あほうめを使にやりて」でなるほど、となる。

 

   土用の風のきのふけふ吹

 木曽川のゐせきにかかる十五村   風国

 

 土用の風が吹くとそろそろ野分の季節。木曽川の井堰ではどこに増水した水を流すかは死活問題だ。十五の村の運命はいかにというわけだ。

 まあ、なかなか庶民の情の細かいことに気づく人のようで、古典には弱いけど俳諧の取り囃しは上手いというのが許六の評価といっていいだろう。

 

 

10、支考

 

 「一、支考 器すぐれてよし。花実大方兼備せり。しかもとりはやし得もの也。難じていはば、実うすきがごとし。一句ふミ込たる事も、雨中にミの笠かりて薄習ひに行人のごとし。

 文章かかせてもきき事なり。かたハし文章にいやをかけるといふ人もあれ共、門人の内此人に類する人なし。

 慥に血脈の俳諧なり。とやかく噂する人あり共、それハ血脈の筋をしらぬ人なれバ、日々にふるく成て、後にハ俳諧やめるより外ハなき物也。しらず共、此風を学で俳諧せば、おのづから此僧に随て流行すべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.198~199)

 

 「器すぐれてよし」は去来と並ぶ。去来が花三実七だったのに対し支考は「大方兼備」「実うすき」だから花六実四くらいか。

 「雨中にミの笠かりて薄習ひに行人」というのはあざといということか。藤中将実方が花見で雨に降られたときに一人平然と雨に打たれながら、

 

 さくらがり雨はふり来ぬおなじくは

    濡るとも花の影にくらさん

 

と詠んだエピソードを思わせる。

 文章が「きき事」だというのは「みもの、ききもの」と同様、聞くだけの価値があるという意味だ。実際許六撰の『風俗文選』に支考の文が多数採られている。

 「慥に血脈の俳諧なり」というのは、許六の場合自分の体験から「底を抜く」というところを大きく評価しているが、支考には確かにそういう才能があった。「血脈を知らず」と評する場合は「ありきたり」「月並み」と言ってもいいのかもしれない。流行に乗った俳諧ではなく流行を作る才能があるということだ。

 

 

11、杉風

 

 「一、杉風 廿余年の高弟、器も鈍ならず、執心もかたのごとく深し。花実ハ実過たり。

 常ニ病がちにして、しかも聾也。

 師ハ不易・流行を説てきかせたりとおもへ共、杉風が耳にハ前後半分ならでハ入がたし。故に半分ハ流行して、半分ハ廿余年動かず。しかれ共、久しく名人に随ふ故に、別座敷に少血脈あらハれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.199~200)

 

 芭蕉の延宝の頃からの高弟で、芭蕉が「去来は西三十三国の俳諧奉行、杉風は東三十三国の俳諧奉行」といったというくらいの忠実な弟子だったようだ。まあ、「奉行」という言葉には「堅い」という意味も込められてるかもしれないが。

 「器も鈍ならず」の言い回しも微妙で、去来・支考の「器すぐれてよし」からすると落ちるような評価だが、乙州の「器も大方也」よりは上だろう。丈草の「器よし」と並ぶくらいの所か。

 許六が江戸で芭蕉と対面した頃には杉風の参加はなく、その一年後の『炭俵』の頃に復帰している。だから面識があったかどうかはよくわからない。となると「常ニ病がちにして、しかも聾也。」はあくまで噂の可能性もあるし、不易流行説を聞いたかどうかも推測だろう。

 『別座敷』の「紫陽花や」の巻二十三句目の、

 

   五つがなれば帰ル女房

 此際(このきは)を利上ゲ計に云延し 杉風

 

の句は経済ネタで、景の句が多い中でもこういう句にも果敢にチャレンジしている。

 

 

12、其角

 

 「一、晋氏其角 器極めてよし。とりはやす事も、表に上手をあらハせしゆへに、諸人に奥をミすかされたり。己が一筋ハかたのごとく得たりといへ共、外の道筋をしらざるゆへ、かたのごとくせまし。

 たとへバ堀ぬきの井を見るがごとし。水脈まで堀付たりといへ共、五湖の広さをしらざるに似たり。

 風雅をよくつかひて遊ぶ故に、一生の発句多し。是余事になやまされざるしるし。

 題ハかはり斗にて、一句のとりはやし、いつも同じ釜より出て、己が財宝をひたものぬすめるに似たり。発句と俳諧と論ずる時ハ、遥かに発句得物也。俳諧ハふるし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.200~201)

 

 「器極めてよし」は去来・支考より上ということか。才能はずば抜けているが、技術や素養を前面に押し出して世間にアピールするようなところがあり、逆に底が見えてしまう。それとなく仄めかすようにやれば、読者が勝手に想像して底知れぬ人に思わせることができたのにというところか。

 其角というとたとえば、

 

   手握蘭口含鶏舌

 ゆづり葉や口に含みて筆始     其角

 

の句を詠んだ時に、芭蕉が萬代不易の句だがこの前書きは不要と評されたように、手の内を見せてしまう傾向があった。

 「手握蘭口含鶏舌」という前書きは、岩波文庫の『芭蕉書簡集』の萩原恭男の注によれば、「漢の尚書郎が口に鶏舌香を含んで奏上し、蘭を握って朝廷に出仕した故事」だという。貞門・談林の時代だと證歌を必要とするように、新しい趣向であっても古典の何かに由来が必要で、その由来を共有することで句が理解可能になると考えられていた。それは江戸上方の町人の間での共通語が未発達であるため、古典の言葉で語る必要があったからだ。

 芭蕉が「軽み」を打ち出すころには、こうした出典や證歌をはずしても既に都市での共通言語がある程度形成され、理解可能になっていたという事情があったのだと思う。いわば俳諧の言葉が雅語や漢詩や謡曲の言葉に代わる新しい共通語になっていたからだ。

 ただ、其角は出典のある難解な言葉を自在に使いこなす才能があったばかりに、日常語に近い言葉と趣向で作るということに長いこと抵抗があったのだろう。ただ、終生芭蕉を慕い、偶然にも芭蕉の終焉にも立ち会うことができた。

 

   笠重呉天雪

 我雪とおもへばかろし笠の上   其角

 

も多分芭蕉ならこの前書きは不要と言いそうだ。ただ、出典のある言葉へのこだわりが其角だったし、それは古い時代の習慣でもあった。

 

 声かれて猿の歯白し峯の月    其角

 

は峯の猿の鳴き声というと古典的なテーマを「猿の歯白し」と取り囃したところには新味があるが、

 

 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店    芭蕉

 

の句のように、同じテーマを日常の風景に移し替えるような操作は苦手だった。

 出典を隠さず元ネタがわかってしまうところで其角は底が見えてしまうのに対し、芭蕉はそれを句の裏に完全に隠してしまう才能があった。

 李由・許六編『韻塞』の

 

 饅頭で人を尋ねよ山ざくら    其角

 楠の鎧ぬがれしぼたんかな    同

 なよ竹の末葉残して紙のぼり   同

 月影やここ住よしの佃島     同

 

は、山桜に酒となるところを「饅頭で人を尋ねよ」と取り囃したり、巨木の楠に大輪の牡丹を取り合わせて「鎧ぬがれし」と取り囃したり、と句は謎めいてはいるが、特に深い意味はない。なよ竹の句は神社に奉納される紙幟の竹に葉っぱが残ってたりするというあるあるネタと思われる。佃島の句は住吉神社があるのに掛けて、月の澄むと住吉を掛詞にするという古典的なものだ。

 付け句の方はというと、この時代に近い元禄十年刊桃隣編『陸奥衛』の句を見てみると、

 

   山吹あるはみな戻り駕籠

 鯉喰て鬢を撫でたる春の風    其角

 

の句は、「鯉喰て」と囃してはいるものの山吹に春風という古典的な物付け。

 

   駕を緣まで上る武士めかし

 一里前から音大井川       其角

 

も駕(のりもの)に旅体で大井川の発想は特別なものではないし、それが一里前から聞こえるという取り囃しも大げさな上に月並み。

 

   藪の中にてつかふ洗足

 繋がれて間なく動かす馬の舌   其角

 

 これも藪の中の洗足に馬を止めてという心付けに「馬の舌」で取り囃しているが、新しさは感じられない。何とか「軽み」についていこうとした先の杉風の句と比べると、後退しているように感じられる。

 

 

13、嵐雪

 

 「一、嵐雪 器随分わろし。本性懦弱ニして、花あるに似たれ共、実猶なし。相応にとりはやすやうなれ共、全体とりしめたる血脈なし。

 たとへばよく料理する人に献だてをかかせて、其献だてを前にすへて、客をもてなすに似たり。

 唐の蚊や終にかれたるもしほ草

 相撲とり並ぶや秋のから錦

 柔弱ニしてよハく、よハきに寄てうつくしきやう也。上に丹青をぬりていろどりたれバ、世俗の眼には真ンの錦のごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.202~203)

 

 「器随分わろし」はこれまででの最低の言い回しだ。花も偽物で実はそれ以下。

 

 布団着て寝たる姿や東山     嵐雪

 

の句は後世までよく知られた句で、元禄九年刊芳山撰『俳諧枕屏風』に掲載された句だから、この頃は既に詠まれていたが、東山を「布団着て寝たる姿」と取り囃すのはそれなりに面白いが、確かに底を抜くような血脈はない。 ただ、蕉門の俳諧そのものが惟然の超軽みに以降、全体に新味を失っていったため、それ以降の人間にとっては古い新しいの時間軸ではなく蕉門全体が古典として扱われるようになってしまったため、この句は結局近代に入っても人口に膾炙する句として生き残った。かえって許六さんの句の方が忘れ去られてしまっている。

 

   寒梅

 梅一輪いちりんほどの暖かさ   嵐雪

 

 この句も近代に入っても人口に膾炙する句として生き残った一つだ。宝永五年刊百里撰『遠のく』所収なので、死後の発表になる。当時として新しさはなかったとは思うが、春を待つ情の不易によって不朽の名句となった。

 献立の例えは、物腰が柔らかいから料理人ではなく給仕のようだということか。まあ、そのおもてなしの心が、人を楽しませようという心がうまく句に乗っかれば、給仕も一流ということになる。

 「唐の蚊や」の句は風国編『初蝉』の句で、

 

   題しらず

 唐の蚊や終にかれたるもしほ草  嵐雪

    此句ハ唐紙に蚊のすきこみて

    ありしを見ての吟なる

    よしきこえける

 

とある。

 唐紙をすき込むときに蚊が誤って入ってしまったまではわかるが、そのあとの枯れたる藻塩草がよくわからない。藻塩草はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」の解説に、

 

 「1 アマモの別名。

  2 藻塩1をとるために使う海藻。掻(か)き集めて潮水を注ぐことから、和歌では多く「書く」「書き集(つ)む」にかけて用いる。

  「あまたかきつむ―」〈栄花・岩蔭〉

  3 《書き集めるものの意から》随筆や筆記などのこと。

  「―とのみ筆を染め参らせ候」〈仮・恨の介・下〉」

 

とあり、この場合は書き集めたものが枯れたみたいだということか。

 唐紙に蚊が入ることはたまにあることなのだろうか。

 

 相撲とり並ぶや秋のから錦    嵐雪

 

 これは『炭俵』の句。この頃から相撲のまわしはだんだん派手になっていったのだろう。

 柔弱は逆に言えば繊細ということだし、それでいて華麗なものを好むところが、許六からすれば牢人風情が錦など、だったのかもしれない。

 

 

14、桃隣

 

 「一、桃隣 花実いまだしかとセず。しかれ共、桃隣人間に生れたれバ、花実あるとハ見えたり。

 白桃や雫も落ず水の色

といへる句侍りけれバ、強て修行の功をつまば、あらハるべし。

 此人常に貧賤にして労セらる。朝夕自己のとりはやしニ寄て、かまどをにぎハせり。

 風雅もかくのごとしとおもへるに寄て、算用十露盤の上にて損益を考へ、長崎の行脚よりハ、松島の方に徳ありとおもへるに似たり。

 此人にハいろいろおかしき咄多し。ミちのくの旅せんといひしハ春の比也。其春晋子が句に、

 饅頭で人を尋ねよ山ざくら

と云句せしに、此坊ミちのくの餞別と意得て、松島の方へ趣たるもおかし。戻りて後の今日ハ、餞別にてなきとしりたるや、かれにききたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.203~205)

 

 許六さんは貧乏人に対してかなり偏見があるのではないかと思う。路通にしても惟然にしてもそういうところがある。貧乏だから金に汚いとか、そんなことはない。そんな偏見を真に受けている松尾真知子さんもちょっとだが。

 元禄五年の冬、十二月上旬の「洗足に」で芭蕉と許六が二回目の同座をした後、十二月二十日に桃隣は其角とともに芭蕉と同座し、「打よりて」の歌仙を興行している。許六が江戸にいたころ桃隣もいたわけだが直接対面することがあったかどうかはわからない。

 

 白桃や雫も落ず水の色      桃隣

 

の句は『続猿蓑』の春の部にあり、桃の花を詠んだ句だ。『俳諧問答』の奥書に「元禄十一戊寅春三月」とあり、『続猿蓑』の刊行が元禄十一年の五月だから、この句は何らかの別のルートで知ったのだろう。

 「算用十露盤の上にて損益を考へ、長崎の行脚よりハ、松島の方に徳あり」にしても、確かに江戸から長崎は遠すぎる。芭蕉だって行かなかった所だ。それに『奥の細道』の足跡を巡る旅は支考もやっている。もっとも支考は長崎にも行っているが。

 其角の「饅頭で」の句は元禄九年刊の李由・許六編『韻塞』にも収録されているが、元禄十年の桃隣編『陸奥衛』の巻二「むつちどり」には、

 

 「遙に旅立と聞て、武陵の宗匠残りなく餞別の句を贈り侍られければ、

  道祖神も感通ありけむ。道路難なく家に帰り、再会の席に及び、此道

  の本意を悦の餘り、をのをの堅固なる像を一列に書て、一集を彩ものなり。

    子の彌生 日」

 

と前書きし、調和、立志以下二十人、一人一ページ座像入りで一句ずつ掲載している。ただ、ここには故人である芭蕉も含まれているため、全部がこの時の餞別の句ではない。

 確かにそこには、

 

   餞別

 饅頭て

 人を尋よ

  やまさ

   くら  其角

 

と記されている。

 そして巻五の「舞都遲登理」の桃隣の紀行文の序文の最後に、

 

   首途

 何國まで華に呼出す昼狐     桃隣

 

の句がある。これはおそらく、「饅頭へ」の句への返しのようにも見える。饅頭を持って行って人を尋ねてこい。それにたいして「どこまで行かせる気だよ」と返すやり取りは面白い。

 そうだとしたら「昼狐」は其角のことになる。蕉門の大先輩を「昼狐」呼ばわりしたとなれば、普通なら失礼な話だが、考えられるのは最初から話題作りのために桃隣と其角が示し合わせてそういう噂を流したということだ。

 饅頭の句の最初に作られた時の意図は別に、集を盛り上げるために転用した可能性はある。

 というわけで、真面目な許六さんは見事に二人の戦略に乗ってしまったのではないか。

 

 

15、野坡・利牛・孤屋

 

 「一、野坡・利牛・孤屋 其中野坡すぐれたり。旧染の汚れを炭俵にあらため、流行のかるき一筋を得たり。

 しかれ共、元来三人共越後屋の手代なれバ、胸中せまきものにて、たとへバ浅草川に舟逍遥する人のごとし。陸地より見る人、起臥自由に楽めるとおもへ共、舟中より外ニ動事かたし。

 されバ、上野・浅草の遊興をしらざるに似たり。師の恩に寄て、炭俵の撰者の号を蒙り、名をあらハセり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.205~206)

 

 野坡はウィキペディアに、

 

 「寛文2年(1662年)、越前福井で斎藤庄三郎の子どもとして出生。父に伴われて江戸に行き、越後屋の両替店の手代を勤める。其角の教えを受けて俳諧をはじめたとされるが、野坡の作品は貞享4年(1687年)刊『続虚栗』に初出である。その後、しばらく空白期間をおいて、元禄6年(1693年)に松尾芭蕉の指導を受け、元禄7年(1694年)6月、孤屋・利牛らと『すみだはら』を編集刊行。松尾芭蕉の没後、元禄11年(1698年)から元禄14年(1701年)まで商用で長崎に滞在、やがて越後屋を退き、元禄15年から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始。」

 

とあるので、元禄十一年の時点ではまだ越後屋にいたことに間違いない。

 利牛もコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「?-? 江戸時代前期の俳人。

  江戸の越後屋両替店の手代(番頭とも)。元禄(げんろく)7年(1694)志太野坡(しだ-やば),小泉孤屋(こおく)とともに松尾芭蕉(ばしょう)の監修で江戸蕉門の撰集「炭俵」を編集,刊行した。通称は利兵衛,十右衛門。」

 

とある。ただ、ソースの出所が『俳諧問答』の可能性もある。

 孤屋も、同じくコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「?-? 江戸時代前期の俳人。

  江戸の人。越後屋の手代。松尾芭蕉(ばしょう)にまなび,元禄(げんろく)7年(1694)芭蕉の監修で志太野坡(しだ-やば),池田利牛(りぎゅう)らと「炭俵」を編集した。通称は小兵衛。」

 

とある。

 越後屋の手代ということで、今で言えばサラリーマンだから、不自由な中で俳諧をやっているというので「胸中せまきもの」なのだろう。ただ、だからといって近江藩士だから視野が広いというわけでもなかろう。藩士は藩士の仕事に拘束されている。芭蕉のように自由に生きられる人の方が希だ。

 ただ、奉公人の心情は奉公人が一番よく知っていて、日本全国奉公人がかなりの数いるなら、それだけの支持を集めることができる。上級藩士の方が少数派だ。

 芭蕉もこれからは奉公人の時代だと思ってこの三人を集め、『炭俵』を編纂させたのかもしれない。

 なお李由・許六撰『韻塞』にも野坡・許六・利牛の三吟が収められている。江戸にいた頃のものか。

 

 

16、如行

 

 「一、如行 元来虚弱也。かれ常に師ニ随ハざるゆへに、自己の善悪を弁ずる事をしらず。勿論血脈も正しからざるゆへに、斗方もなき事をいへり。

 黄檗やひだるう成て春の風 

など云へる類多し。

 しかれ共志ある故に、一筋に踏込むとハいへ共、終に血脈の所へ届かず。故に皆仕損のミ也。

 元来不調法にして、嵐雪がごときまぎらかす所も見えず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.206~207)

 

 如行は大垣藩士で、元禄二年九月四日、美濃大垣の左柳こと浅井源兵衛宅で行われた芭蕉と曾良が再会したときの歌仙興行「はやう咲」の巻で同座している。

 ただ、参加したのはこの歌仙と「野あらしに」の巻の半歌仙、「こもり居て」の表六句のみで、「常に師ニ随ハざる」は同座した経験が少ないという意味だろう。芭蕉は、

 

 「又云ク、愚老が俳諧ハ五哥仙ニいたらざる人、一生涯成就せず、大事也。覚悟せよといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.94)

 

と言ったというが、許六も「全篇慥ニ成就する巻二哥仙、半分ニミてざる巻二ツ、以上四巻也」と自分で言っている。

 句は風国撰『初蝉』で、

 

 黄檗やひだるう成て春の風    如風

   此句は洛よりまかりての吟也

 

とある。

 黄檗(おうばく)はここではキハダ(植物)ではなく、京都の黄檗山万福寺のことであろう。黄檗宗はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「日本の三禅宗の一。承応3年(1654)来日した明僧(みんそう)隠元が開祖で、京都府宇治市の黄檗山万福寺を本山とし、明治9年(1876)臨済宗から独立して一宗となる。教禅一如を提唱、念仏禅に特色がある。→禅宗」

 

とある。

 ただ、万福寺なのに空腹(ひだるし)という駄洒落ネタはまあ、『去来抄』にある、

 

 名月に皆月代を剃そりにけり   風国

 

のレベルか。「廓(くるわ)の内」、つまり誰でもすぐに思いつきそうなおやじギャグレベルの句だ。

 

 

17、荊口

 

 「一、荊口老人 老巧の門人也。故に旧染の穢ニ寄て薬毒ふかし。然共よき子共持て、腰を押され手を引れて、やうやうに流行をするに似たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.207)

 

 荊口も「はやう咲」の巻に参加している。大垣藩士で、子の此筋(しきん)、千川(せんせん)、文鳥のうち此筋と文鳥も参加していた。

 まあ、老人だから古いのは仕方ないが、三人の息子たちに支えられて、ということで李由・許六撰『韻塞』にも入集している。

 

   旅行

 夜の中に木の葉を聞や駕籠の屋ね 荊口

 凩にうめる間寒きいり湯哉    同

 物よはき草の座とりや春の雨   同

 行春や麓にをとす馬糞鷹     同

 

 「馬糞鷹」はノスリのこともチョウゲンボウのことともいう。どちらも急降下して餌をとる。

 

 

18、此筋、千川、文鳥

 

 「一、此筋、千川、文鳥 三人共に器すぐれたり。中にも千川勝れり。

 発句の方にハ此筋に秀逸見ゆれ共、是ハ先へ生れたる一徳か。千川がとりはやし、遺経の法をよく聞込たる故に、殊の外あたらし。

 文鳥ハ三男たるに寄て、風雅も又かくのごとし。上手の兄に随ひて、行末執心次第、名人にも上手にもいたるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.207~208)

 

 「器すぐれたり」は去来・支考の「器すぐれてよし」よりは下だろう。「野坡・利牛・孤屋 其中野坡すぐれたり」の「すぐれたり」が器のことだとしたら、野坡と並ぶということか。まあ、前に述べたが野坡、支考、千川で去来包囲網なのだろう。

 「遺経」は遺教経のことか。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「大乗経典。梵本やチベット訳は現存しない。鳩摩羅什(くまらじゅう)訳。1巻。釈迦が涅槃に入る前に最後の教えを垂れたことを内容とし、戒を守って五欲をつつしみ、定(じょう)を修して悟りの智慧を得ることを説く。中国・日本で普及し、特に禅門で重視される。仏垂般涅槃略説教誡経。仏遺教経。」

 

とある。ここでは芭蕉の最後の頃の教えの意味で用いているのだろう。百十ページにも「今世上に遺経の俳諧の風ハ、天下ニ三四人ならでハあるまじ。」とある。許六自身は「さざゐのうまミをぬきて、遺経の俳諧を残せりときけ共、板に出ざれバしらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.104)と言っている。

 

 「発句の方にハ此筋に秀逸見ゆれ共」とはあるものの、李由・許六撰『韻塞』を見ても此筋の句はそう多くない。

 

 蔦の葉の落た処を時雨けり    此筋

 俎板に寒し薺の青雫       同

 川上へ流るるやうな柳哉     同

 投られてもろき命や簗の鮎    同

 白雨に一足はやし旅籠町     同

 

といったところか。

 千川は、

 

 初霜に覆ひかかるや闇の星    千川

 うぐひすにうかれて脱や下ひとつ 同

 菊の香やふるき難波の呑手共   同

 

 文鳥の句は元禄八年刊の支考撰『笈日記』の大垣のところに、

 

 名月にあからみそめよ櫨楓    文鳥

 炭の火の針ほど残る寒さ哉    文鳥

 

の句がある。

 

 

19、北枝

 

 「一、北枝 器大方也。花実もありて、実少シ。師説ニうときゆへ、ちからなし。自己の眼を以て、世上の人の流行を見習ひ、跡より随ふに似たり。

 とりはやし斗眼に入、血脈の所を探あてぜるゆへによハし。嵐雪がまぎらよりハ、遥に勝れたり。

 世俗の耳にハしほらしくきこえ侍れ共、根本の所より出ざる故ニ、浅間にして見ざめせり。

 ながれたる雲やしぐるる長良山

 雁のつら崩れかかるや瀬田の橋

 一句の根なければ、とりはやしまでにて果たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.208~210)

 

 「器大方也」は乙州の「器も大方也」と並ぶ。嵐雪以上杉風以下というところか。「花実もありて、実少シ。」は嵐雪の「花あるに似たれ共、実猶なし。」よりは上になり、杉風の「花実ハ実過たり。」の逆になる。

 北枝は「残暑暫」の歌仙、「しほらしき」の世吉、「ぬれて行や」の五十句、「馬かりて」の歌仙の四巻に同座しているから、許六よりは多くの教えを受けたのではないかと思うが、不易流行説の固まる前で、まして「底を抜く」の血脈の教えは受けてなかっただろう。「自己の眼を以て、世上の人の流行を見習ひ、跡より随ふに似たり。」というが、許六の多くも自らの「発明」ではある。

 句を面白く盛り上げようという気持ちは強いが、「しほり」は根っからのものではなく底が浅いということなのだろう。

 引用されている句はどちらも李由・許六撰『韻塞』に収録されている。

 

   無名庵にて当座

 流れたる雲や時雨るる長等山   北枝

 

 長等山(ながらやま)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「滋賀県大津市の三井寺の後ろの山。[歌枕]

 「世の中をいとひがてらに来しかども憂き身ながらの山にぞありける」〈後撰・雑三〉」

 

とある。時雨に長良山を取り合わせ、「ながれたる雲」と時雨を囃す。「ながら」に「ながれ」と掛けているのだろう。義仲寺の無名庵は芭蕉の滞在した庵で、芭蕉の墓もここにある。時雨の流れる雲に師を偲んでも吟であろう。

 

 雁の行くづれかかるや瀬田の橋  北枝

 

の「行」は「つら」と読むのがわかる。瀬田の橋は近江八景の「瀬田夕照」で瀟湘八景の「漁村夕照」に相当する。「平沙落雁」は「堅田落雁」で満月寺浮御堂になる。元禄四年に、

 

 錠明て月さし入よ浮御堂     芭蕉

 安々と出でていさよふ月の雲   同

 

の句が詠まれている。

 この句も雁に瀬田の橋を取り合わせ、「くづれかかるや」と囃している。ただなぜ瀬田の橋でくずれかかるのか、よくわからない。

 取り囃しはそれなりに上手いが、今一つ情が乗っかってないということなのだろう。

 

 

20、越人

 

 「一、越人 是も逸物也。器勝れて、花実共見えたり。

 しかれ共、久しく師説をきかず。風雅におこたりたる中に、流行をしらず。おりふし昔をおもひ出て、東風のかるミを窺ふといへ共、間に堀切の有事をしらず。

 一旦俳諧に得たる所あるゆへに、不易ハするといへ共、流行においてハあぶなあぶなさぐり足也。たとへバ川をへだてて、向の岸をのぞむに似たり。立かへりむかしわたり付たる瀬より尋上らば、此男器のすぐれたる者なれバ、師に追つき侍らん事かたかるまじ。

 惣別おこたれる人、堀切の有事をしらず。一日のおこたりハ一日の流行をへだて、一月の懈怠ハ一月の堀切出来る事をしらざる也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.210~212)

 

 「逸物」はこれまで正秀と木導に用いられている。「器勝れて」は此筋、千川、文鳥の「器すぐれたり」に並ぶ。去来・支考の「器すぐれてよし」よりはやや落ちる。「花実共見えたり」は桃隣の「花実あるとハ見えたり。」より上になる。

 芭蕉の貞享の頃の門人であるだけに、蕉風確立期の風を引きずっていたのは確かだろう。「軽み」の風との間には堀切(大きな溝)がある。

 不易の軸がしっかりしているので、今からでも追いつくことはできるとは言っている。つまり追いつこうとしないのは怠惰のせいというわけだ。

 まあ、人間ある程度の年になると新しいものに興味を失う人が多い。多分今日俳句をやっている人、俳句を研究している人など、ほとんど流行には興味がないだろう。なぜなら俳句が流行ってないからだ。

 ただ、当時の俳諧師は流行で飯を食っている今で言う業界人のようなものなので、それでいうと致命的かもしれない。

 

 

21、荷兮

 

 「一、荷兮 分別しれず。愚にかへりたりといふべきか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.212)

 

 まあ身も蓋もない評価だ。

 蕉風確立期の風にこだわり、その後の流行に完全に取り残された荷兮は、ウィキペディアには、

 

 「当初は芭蕉と親しかったが、俳風の違いから徐々に反感を抱き、元禄6年(1693年)『曠野後集』、翌年『ひるねの種』を出版して蕉風を批判した。その後も芭蕉批判は止まず、芭蕉没後の元禄10年(1697年)『橋守』で芭蕉の句を批判している。だが、荷兮自身の句作も低調で、元禄12年(1699年)『青葛葉』を刊行して以降は、連歌師に転向した。」

 

とある。芭蕉の俳風の変化に裏切られたという思いが強かったのだろう。まあ、今の芭蕉研究者の間でも「軽み」以降の評価が低いことを考えれば、いつの時代にもこういう人はいるのだろう。

 学者、文化人などで流行に疎いことを逆にステータスとする人は、要するに自分は既に不易を極めたという自惚れの強い人ではないかと思う。普遍的真理を身につけているから時代の変化に無関心でもいいという自負は、特に社会主義者にはありがちだ。

 

 

22、鼠弾

 

 「一、鼠弾 あら野にハ多ク出られて、後沙汰すくなし。此僧血脈・花実ハしらね共、おりふしの発句に、

 行灯に食くふ比や雉子の声

と云旅行の句あり。花実なき人にもあらず。しかれ共風雅ハ三ツ、世用ハ七つありて、三つの風雅をとり失はぬまでを本意とする人也。

 たとへバ親よりゆづりたる居やしきばかり有て、たくハへたる宝なけれバ、宿賃をむさぼり、己ハ裏屋に引込、世を渡る人に似たり。

 ミの笠かりて薄習ひに行給ふ程におもひ給て、三ツの風雅を以て、七ツの世用をつかふ事うたがひなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.212~213)

 

 「花実なき人にもあらず」は越人の「花実共見えたり」よりは下、桃隣の「花実あるとハ見えたり」よりは上というところか。

 

 行灯に食くふ比や雉子の声    鼠弾

 

 「食」は「めし」と読む。どの集の句かはわからない。「白川の里から」というサイトによると、雉は「朝は夜明けからせいぜい8時頃までと夕方に良く活動する。」とある。夕食の頃に雉の声が聞こえるのはそのせいであろう。

 古典の風雅が三割ほどあるのは、蕉風確立期の芭蕉や『冬の日』に参加した尾張の門人の影響があるからだろう。ただ、荷兮のようにかたくなにそれを守るのではなく、越人のように取り残されているのでもなく、それなりに流行についていこうとしているようだ。

 鼠弾は『阿羅野』に多く入集しているが、その後も地味に活動を続けている。

 

 元禄八年刊支考編『笈日記』には、

 

 梅が香を澤山に吹みなみかな   鼠弾

 火はもえて内に人なし桃の花   同

 つんふりと一日曇るやなぎかな  同

 

 「火はもえて」の句は李由・許六撰『韻塞』にも掲載されている。

 元禄十一年刊浪化編『続有磯海』にも、

 

 宇治へ来てのぼる蛍のはなか哉  鼠弾

 

 宝永元年刊去来・卯七編『渡鳥集』にも、

 

 松ばらの水に顔出す野馬哉    鼠弾

 

の句がある。

 

 

23、左次

 

 「一、左次 師に対面せぬ門人也。此僧器清ク眼つよし。志も厚き故、翁の句共一々明し、濟がたき心かくれたる句にハ、情を一月も費す。しかれ共惜むべきハ、師説にあハざるゆへに、車を半分八分ニ押上るといへ共、血脈を正しくせぬ故に、横になぎれてもとの所へ戻る。是師ニ随ハざるの費也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.213~214)

 

 左次は尾張の僧。李由・許六撰『韻塞』に、

 

 さむき夜は裾に鞍置旅ねかな  左次

 涅槃像後は釋迦の立仏     同

 

の句がある。

 他には元禄八年刊支考編『笈日記』に、

 

 鶯や啼ずにあそぶ隙もなし   左次

 むら雨や苞に花もつ茄子苗   同

 月涼し影すいすいとはし柱   同

 秋まちてはづむ桔梗のつぼみ哉 同

 草むらの花は黄に咲小春哉   同

 

 元禄十一年刊沾圃編『続猿蓑』に、

 

 秋たつや中に吹るゝ雲の峯   左次

 

の句がある。

 「器清ク眼つよし」は乙州、北枝の「器も大方也」よりは明らかに上だろう。

 才能があるが師の教えを受けられなかったために開花できずにいる、というところは芭蕉に対面するまでの許六自身に重ねているのかもしれない。

 

 

24、露川

 

 「一、露川 師の国よ出たる人にて、風雅の手筋もよし。しかれ共、なし置たる功徳少し。花実の姿たしかならず。たとへば広野を夜る行がごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.214~215)

 

 露川はコトバンクの「美術人名辞典の解説」に、

 

 「江戸前・中期の俳人。伊賀生。通称藤屋市郎右衛門、別号に月空居士・霧山軒・鱠山窟。はじめ北村季吟・吉田横船に、のち松尾芭蕉に学ぶ。46才で落飾、月空庵を結んだ記念に『庵の記』を編む。諸国を遊歴し門人も多い。各務支考との間に確執があった。寛保3年(1743)歿、83才。」

 

とある。

 「花実の姿たしかならず」は鼠弾の「花実なき人にもあらず」や桃隣の「花実いまだしかとセず。」に近いか。

 風雅の手筋は良いが「広野を夜る行がごとし」というのは左次同様、師の教えを十分に受けられなかったからか。

 露川は芭蕉が元禄四年の十月、近江の木曽塚無名庵を出て江戸に向かう途中、熱田で対面している。支考の『笈日記』にそのことが記されている。

 

   元禄三年の冬神な月廿日ばかりならん、あつた

   梅人亭に宿して、塵裏の閑を思ひよせられけむ。

   九衢齋といへる名を残して、

 水仙や白き障子のとも移リ   芭蕉

   おなじ冬の行脚なるべし。はじめて此叟に逢へ

   るとて

 奥底もなくて冬木の小梢かな  露川

   小春に首の動くみのむし  芭蕉

 

とあるが、元禄四年の間違い。

 元禄七年五月二十五日に、露川は尾張の木曽川に近い佐屋の隠士山田庄右衛門亭の興行に参加している。

 

   戌の五月、隠士山田氏の亭にとどめられて

 水鶏啼と人のいへばや佐屋泊  芭蕉

 

の発句に、

 

   水鶏啼と人のいへばや佐屋泊

 苗の雫を舟になげ込      露川

 

の脇を付けている。十八句目までの一の懐紙は素覧を交えた三吟で、後半は支考・左次・巴丈・露川・素覧の五吟になっている。芭蕉退席の後、五人で続きを巻いたか。

 元禄七年八月十四日に芭蕉は伊賀から「露川宛書簡」を書いて送っている。そこには、

 

 「先いつぞや佐夜の泊り、殊之外之草臥故、染々共不得御意、御思召残念之至りに令存候。」

 

と途中で退席したことを詫びている。そして、

 

 「正月は必貴様御在所へ御出可被レ成候。其節緩々可得御意候。」

 

とも書いているが、結局実現しなかった。露川としても無念のことだっただろう。

 露川は手紙で芭蕉の所に発句を送ったようだ。

 

 「尚々先日御状、御発句共逐一覧候。重而ながら便りに委可申進之候。」

 

とあるが、この発句の評の手紙は残っていない。『続猿蓑』入集の、

 

 粟ぬかや庭に片よる今朝の秋  露川

 柿包む日和もなしやむら時雨  同

 

がそれだったのかもしれない。

 『笈日記』にはそれ以外に、

 

 花にねていかなる㕝を鳥の夢  露川

 郭公啼やしづかに苣の塔    同

 どか雨に算をみだすや山すすき 同

 銭買がさしきらしたる雪の道  同

 

の句がある。

 「㕝」は「こと」、「苣」は「ちさ」と読む。

 

 

25、千那

 

 「一、千那 上方の高弟ニして、器もすぐれてよし。論ぜば、尚白が器ハ鈍にして重し。千那の器ハ勝れていき過たり。花実は花過たり。とりはやしも得られたる故に、弥実をかくす味あり。

 風雅二ツ、世用八ツ有。たまたま残りたる二ツの風雅、八ツの世用の盛なるに寄て、次第に押領せらる。

 たとへバ脾腎の虚を煩ふ人、火気のさかむに上て、わづか残たる脾土を焼がごとし。次第に肺の気もよハりぬる故に、水を増す事かたし。

 久しく師説にはなれて、流行の堀切ハ出来、八ツの世用の火気はハ上るに寄て、元気次第によハれり。病の癒る期ハあるまじ。

 此人の俳諧のいき過たると云ハ、われ斗面白おもふといへ共、人會てうれしがらず。たとへバ卯月朔日衣がへの日、紙帳を売来る人あり。師ノ云々、これいき過也。しかも其年寒して火燵を離れず。人の売ざる内ニうるべしとおもひて、紙帳紙帳といへ共、人の気移らず。ありがたきたとへなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.215~217)

 

 千那は『野ざらし紀行』の頃からの芭蕉の古い門人で、近江の堅田本福寺の住職だという。「器もすぐれてよし」は去来・支考と並ぶ。尚白の「鈍にして重し」は杉風の「器も鈍ならず」よりかなり落ちる。乙州・北枝の「器大方也」よりも下か。

 器のすぐれて良しとはいうものの、器ハ勝れていき過たりとあるのは、才能はあるのだけど一般受けしないということか。そのあとの「俳諧のいき過たる」のことをいうのであろう。

 紙帳の例えはわかりにくいが、先を行き過ぎて売れないということか。今でも発売するタイミングが早すぎて売れなかった商品というのはある。

 紙帳(しちょう)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「和紙製の蚊帳(かや)。紙布を糊(のり)付けして張り合わせてつくる。『守貞漫稿(もりさだまんこう)』(1853序)には図入りで掲げられ、上部が狭く下部が広くなっているものが江戸で売り物とされたこと、あちこちを地紙(じがみ)形(扇形)、団扇(うちわ)形などに切り除き紗(しゃ)を張ってふさぎ使ったことなどが述べられている。『理斎(りさい)随筆』(1823序)には、安価で寝姿が見えないなどと、紙帳の十徳が説かれている。石見(いわみ)(島根県)の山村では明治末まで蚊帳として使用されたし、会津(福島県)では柿渋(かきしぶ)で補強した紙布を敷き、作業用としてカヤとよばれる紙帳を吊(つ)り、その中で紙製の帽子をかぶって、製蝋(ろう)用のキノミ(漆の実)搗(つ)きをしたという。[天野 武]」

 

とある。

 「花実は花過たり。」というのは杉風の「花実ハ実過たり。」の真逆になる。「風雅二ツ、世用八ツ有」はそのまま実二花八ということか。世俗に通じ花はあるが流行の先を行き過ぎて失敗しているということなのだろう。

 李由・許六編の『韻塞』にも千那の句は多く見られる。

 

 水鼻にまこと見せけりおとりこし 千那

 

 「おとりこし」は親鸞の命日の報恩講を本山と重ならないように繰り上げて行うことで、各自の家で行われて、お坊さんが来てくれるという。そのお坊さんが寒さに水鼻を垂らしているが、それでもわざわざ来てくれたというところに誠を感じるということか。「水鼻にまこと見せけり」で何だろうと思わせる所が上手い。

 『韻塞』のこの句の一つ前は、

 

 時雨来る空や八百屋の御取越  汶村

 

の句で、これも時雨の季節に八百屋までやってきてくれるという意味だろう。

 

 寒き日は猶りきむ也たばこ切  千那

 

 「たばこ切」は畳んだ煙草の葉を小さく切り刻む作業のことか。夏に採れた煙草の葉は乾燥させ、冬に刻み煙草になる。

 

 氷魚といふ名こそおしけれとしの暮 千那

 

 氷魚(ひお)はアユの稚魚で冬の琵琶湖で獲れる。元禄二年、芭蕉は膳所で、

 

 霰せば網代の氷魚を煮て出さん 芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 

 

26、尚白

 

 「一、尚白 是も上方の高弟也。師説を久しくへだてたれバ、弥旧染の病再発したり。

 かれが器の鈍して重き所ニ、一風面白き胴切たる所あり。師此胴切たる事を、たすけて用ひ給へり。今ハ其筋もわすれたり。たとへバ五人持の石瓶の底のぬけたるがごとし。

 一年わすれ梅と云集を作らんとせし時、師次第に流行し給ふに寄て、かるみを説り。此かるミ力落て、今に其集ならずして年経ぬ。

 たとへバ深き井のもとに落ておぼるる人在。師のたすけに寄て、水ぎハまで引上ゲ給へり。もとのくるしミをわすれて、爰ぞ世界とおもへる時、師ハ井輪・石垣をはね上て、かるみハ爰也、此所へ来れりとおしへり。

 落たる人、師のまねをしてはね上らんとする時、例の鈍き重き器なれバ、もとの水底へ沈ミ、ひた物迷て、あらぬごみをたてるがごとし。

 今とでも、一度師のたすけに寄て水ぎハ迠ハ引上られたれバ、其道を尋て、それより次第次第に石を這ひ、輪を攀て上り侍らバ、おもく鈍共、流行せざる事ハあるまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.217~220)

 

 「又俳諧する事、都合四・五年、数千言・数万言、相手を嫌ハず。其内ニ大津尚白ニ両度対して大意を求む。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.86)とあるように、許六はかつて尚白に教えを乞うたこともあった。尚白の方は貞享二年芭蕉の『野ざらし紀行』の旅で弟子になり、蕉風確立期の風を学んでいる。

 「器が重い」というのは保守的ということか。「胴切(どうぎる)」というのは、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 胴切りにする。筒ぎりにする。

  ※太平記(14C後)八「五尺三寸の太刀を以て、敵三人懸けず筒切(ドウギッ)て」

  ② 大胆自由に事を行なう。きままに処置する。

  ※日葡辞書(1603‐04)「ドウギリモノ。または、Dôguitta(ドウギッタ) ヒト」

  ※歌舞伎・桑名屋徳蔵入船物語(1770)二「御出家の托鉢余り胴切って承知仕った」

 

とある。この場合は②の意味で、新風を起こすだけの大胆さがなかったのだろう。芭蕉の助けで大胆な句も詠めたが、師亡きあとはその筋も忘れ元に戻っているというのだろう。

 「わすれ梅」は、ウィキペディアに、

 

 「句集 忘梅

 この書の出版を巡り芭蕉との師弟関係が崩壊した。芭蕉からの千那宛書簡(元禄4年9月28日)は関係崩壊の過程を示す貴重な書簡である。「忘梅」に千那が書いた序文について芭蕉が朱を入れたことで確執が生じたことに端を発した。これ以後、芭蕉と、千那や尚白との文通は残っていない。大津蕉門には、森川許六・河合乙州・菅沼曲水・高橋怒誰等の次世代門弟と、初代門弟との間には何時しかそよそよした隙間風が吹くようになっていった。芭蕉の尚白に対する憎悪は許六宛書簡(元禄6年5月4日)「尚白ごとき」と記され垣間見える。」

 

とある。その元禄四年九月二十八日付千那宛書簡には、

 

 「尚白集御序文下書先日被遣候を考候處、集之序に難仕候故、下書なる程あら方したため候。」

 

とある。そして、

 

 「芭蕉門に入りと云處、尚白心入も候はば御除可被成候」

 

とあるように、「芭蕉門に入り」というところを抹消するということは事実上の破門となる。

 そして元禄六年五月四日付許六宛書簡には、

 

 「御帰国被成候はば、去来へ御通し可被成候。拙者方よりも可申遣、是も一人一ふりあるおのこにて、尚白ごときのにやくやものに而は無御座候。」

 

とある。許六が江戸から彦根に帰る直前、芭蕉が其角の所に行っている留守に許六が芭蕉庵を尋ね行き違いになった後の書簡で、彦根に帰った後は去来を頼るようにと書き残す傍ら、尚白に頼ってもしょうがないようなことを言っている。「にやくや」はgoo国語辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、

 

 「にや‐くや の解説

 [副]あいまいでにえきらないさま。

 「懐中が乏しきゆゑ、―の挨拶をしてゐるに」〈滑・続膝栗毛・七〉」

 

とある。

 師匠のこの言葉を元に、許六は去来に手紙を書き、この『俳諧問答』のきっかけにもなっている。許六の尚白の評価も「にやくやもの」つまり腰の重い保守的な、ということになっている。

 芭蕉の死後、

 

 しけ絹に紙子取あふ御影哉   尚白

 

の追悼句が其角撰『枯尾花』に、記されている他、元禄七年十月十八日於義仲寺追善之俳諧百韻にも参加し、

 

   ふとんを巻て出す乗物

 弟子にとて狩人の子をまいらする 尚白

 

   里迄はやとひ人遠き峯の寺

 聞やみやこに爪刻む音     同

 

   木像かとて椅子をゆるがす

 三重がさねむかつく斗匂はせて 同

 

   三河なまりは天下一番

 飯しゐに内義も出るけふの月  同

 

という句を付けている。

 そしてしばらくの沈黙の後元禄十五年刊惟然撰『二葉集』に、

 

   閑居のこころを

 竹といへば痩藪梅は老木かな  尚白

 

の句を寄せている。

 

 

27、李由、許六

 

 「一、李由幷予が風雅ハ、よくしり給ふ上なれバ、論ずるにたらず。たとへバ作のしれぬ打物、しかも疵がちなり。しかれ共、わざのさハりにならぬ疵なれば、骨の切るをとり得とするのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.220)

 

 「よくしり給ふ」というのは自分と最も近い弟子だから論じるべき相手ではないということだろう。

 「打物」はこの場合は刀剣のことだろう。無名作者の疵物と謙遜してはいるが、問題にならないような疵でばっさりと骨を断つ。上級武士だけあってなかなか勇ましい例えだ。

 

 

28、芭蕉

 

 「一、師 諸門弟の得たる所、一ツも欠たる事なし。師の得たる所ハ一所も虚なき故に、鉄壁をたてるがごとし。故に位高くして徳甚だ篤し。何人が後代に到ても、此翁を押者あらむや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.220~221)

 

 師匠は完全無欠で鉄壁。まあ、確かに三百年以上もたった今でも芭蕉を越える者はいない。芭蕉の句は誰もが何句か思い出せるが、他の作者の句はなかなか思い出せないものだ。観念的な美学を振り回して越えたと論じることはできるかもしれない。だが、芭蕉程国民的に、否国外でも親しまれている俳人はいない。

 「押す」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①動かす。押す。

  出典枕草子 日のいとうららかなるに

  「櫓(ろ)といふものおして、歌をいみじううたひたるは」

  [訳] 櫓という物を押して、歌をさかんに歌っているのは。

  ②前に進める。

  出典源氏物語 玉鬘

  「唐泊(からとまり)より川尻(かはじり)おすほどは」

  [訳] 唐泊から川尻へ舟を進める間は。

  ③押し当てる。

  出典源氏物語 常夏

  「みな、いと涼しき勾欄(こうらん)に背中おしつつ、さぶらひ給(たま)ふ」

  [訳] 皆とても涼しい欄干に背中を押し当てながら控えていらっしゃる。

  ④圧倒する。

  出典源氏物語 桐壺

  「右の大臣(おとど)の御勢ひは、ものにもあらずおされ給へり」

  [訳] 右大臣のご威勢は問題にもならず(左大臣に)圧倒されてしまわれた。

  ⑤張り付ける。印をおす。

  出典平家物語 一・殿上闇討

  「中は木刀(きがたな)に銀箔(ぎんぱく)をぞおしたりける」

  [訳] 中身は木刀に銀箔を張り付けてあった。

  ⑥すみずみまで行き渡らせる。

  出典万葉集 一〇七四

  「春日山おして照らせるこの月は」

  [訳] 春日山をすみずみまで行き渡らせて照らしているこの月は。」

 

とある。この場合は④の意味であろう。今日のような「推薦する」の意味はない。

 

 

結び

 

 「此外の門人、野辺のかづら、林の木葉に等し。論ずる詞もなし。

 右七拾余枚の長編、先生の意見もかへりミず、しかも能しり給ふ所といへ共、予が腸を引出して書之。同門のよしミ、就中先生と予ハ骨肉のおもひをなす故也。必他見他言可蒙御用捨者也。

 于時元禄十一戊寅春三月 於風狂堂述

         五井老主人

            森許六草稿

  呈落柿舎主人

    去来先生梧右下」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.221~222)

 

 他の門人のことはよくわからない。まあ、とにかく公表を前提とした論ではなく、くれぐれも内緒にしておいてくれ、ということでこの「同門評判」は終わる。

 

 

 器ランキング

 

 「器極めてよし」 12、其角

 「其器すぐれてよし」 1、去来 「器すぐれてよし」10、支考  「器もすぐれてよし」25、千那

 「器すぐれたり」 18、此筋、千川、文鳥 20、越人「器勝れて」

 「器よし」 2、丈草

 「器も鈍ならず」 11、杉風

 「器清ク眼つよし」 23、左次

 「器も大方也」 6、乙州 19、北枝「器大方也」

 「鈍にして重し」 26、尚白

 「器随分わろし」 13、嵐雪

 「上洛するほどの大将の器なし」 5、伊賀の人たち

 

 「逸物」 3、正秀 木導

 

 なし 4、昌房、探志、臥高 7、智月「乙州より遙にすぐれり」 8、之道 9、風国 14、桃隣 15、野坡・利牛・孤屋「其中野坡すぐれたり」 16、如行 17、荊口 21、荷兮 22、鼠弾 24、露川

 

 花実

 

 1、去来 「花実をいはば、花ハ三つにして、実ハ七つ也。」

 2、丈草 「花実共ニ大方相応せり。」

 9、風国 「花実共ニ有て、しかもとりはやしも見えたり。」

 10、支考 「花実大方兼備せり。」

 11.杉風 「花実ハ実過たり。」

 13、嵐雪 「花あるに似たれ共、実猶なし。」

 19、北枝 「花実もありて、実少シ。」

 20、越人 「花実共見えたり」

 14、桃隣 「花実いまだしかとセず。しかれ共、桃隣人間に生れたれバ、花実あるとハ見えたり。」

 22、鼠弾 「花実なき人にもあらず」

 24、露川 「花実の姿たしかならず」

 25、千那 「花実は花過たり。」