野ざらし紀行─異界への旅─

前書き

 『野ざらし紀行』は、貞享元(一六八四)年に芭蕉が伊勢を経由して故郷の伊賀上野に帰り、その後、秋の吉野山に登り、さらに名古屋周辺の連衆と俳諧興行を行っては蕉風確立の基礎を築き、さらには奈良・京都にも足をのばし、翌貞享二(一六八五)年の夏に江戸に戻るまでを描いた最初の紀行文でした。本来タイトルはなく、『甲子吟行』とも呼ばれています。

 本書はこの芭蕉の記念すべき最初の紀行文を、多少の雑談を交えながら分かりやすく解説しようというもので、俳諧という江戸時代に花開いた庶民の風雅な笑いや言葉遊びの世界を、少しでも読み取っていただければ幸です。

 近代俳句の、写生か象徴かの二者択一的な世界に馴染んでいる読者には、若干の違和感があるかも知れませんが、江戸時代の人たちの言語観はむしろそうした対立を超えていく力があると思い、できるかぎり当時に近い読み方を再現しようとした結果なので、ご理解を願いたいと思います。

前編、野ざらしの旅

一、野ざらしを心に

 西暦一六八四年は甲子(きのえね)の年で、十干十二支の最初の年だ。

 この年、天和(てんな)四年から貞享元年に改元されている。明治以前は天皇の崩御がなくてもしばしば改元がなされ、特に甲子の年の改元は多く、九六四年に康保元年へ改元されて以来、幕末の一八六四年の元治元年への改元まで、甲子で改元のなかった年は一五六四年の一回しかない。

 この年は、今でいえば天文学者でもあり数学者でもある安井算哲(渋川春海)の上表によって、貞享の改暦が決まった年でもあり、翌年からは生類哀れみの令も始まる。また、芭蕉が工事に関わった小石川に植物園ができたのもこの年だ。

 そして、この年は芭蕉にとっても変革の年だった。延宝五(一六七七)年に俳諧の宗匠として(りっ)()した芭蕉は、延宝九(一六八一)年の七月に『俳諧(はいかい)()(いん)』を発表し、従来の(だん)林調(りんちょう)を脱した独自な俳諧を確立したが、その後持病の悪化や、天和の大火(八百屋お七の大火)といった不運もあり、思うような興行活動ができない状態だった。

 しかし、暦が甲子に戻り、元号が改まったことで、芭蕉ならずとも俳諧変革の気運が高まったことであろう。『野ざらし紀行』は『甲子吟行』とも呼ばれ、まさに芭蕉の新しい俳諧を求めての旅だった。

 正岡子規が明治二六(一八九三)年の『芭蕉雑談』のなかで「貞門の洒落(地口)談林の滑稽(諧謔)」と一括して以来、貞門や談林の俳諧はただ駄洒落や単純な笑いを楽しむだけのものであるかのような偏見の目で見られることが多かった。しかし「蕉風」の確立とは、決して単なる笑いの俳諧を真面目な芸術に高めたといった意識で行われたのではない。そうした意識は正岡子規以降の近代俳人の意識なのである。

 ユーモアというのはどこの国でも文学の欠くべからざる要素として認められているし、笑いだけを卑下したり、芸術から排除したりするのはむしろ不自然だ。そのあたりには明治の富国強兵政策のなかで、笑いが闘争心の妨げになるという意識が強かったせいであろう。

 松永貞徳によって開かれた貞門の俳諧というのも、決してただ面白ければいいという理由で駄洒落に興じていたのではない。むしろ、貞門の俳諧の本質は「俗語の連歌」というところにあった。基本はむしろ中世の連歌なのである。俗語を交えながらもあくまで品性を落とさない、むしろ貴族趣味に理想を置く俳諧なのである。

 掛言葉や縁語などの伝統的な和歌の技法の習得や、連歌の言葉を変幻自在にあやつる機知を競う要素が重要なのであり、単なる駄洒落とは次元をことにする。

 しかし、それは上品ではあるものの、実際の江戸の庶民の生活感覚からすれば、浮世離れした絵空事の世界に陥ってゆく傾向を持っていた。

 たとえば、芭蕉の貞門時代の発句、

 

 花にあかぬ嘆きやこちの歌袋

 春風にふき出し笑ふ花もがな

 

の句などをとってみても、「あかぬ」を「開かぬ」と「飽かぬ」に掛けたり、「こち」を「こっち」と「東風」に掛けたりするあたりは見事だが、桜の下で大宮人が歌を詠んで遊ぶといった趣向は、当時としてもほとんどリアリティーがなかったであろう。「春風に」の句も、「笑」という字が漢文では花が咲くという意味で用いられるところからの発想で、それに芽が吹くと「吹き出す」とを掛けたものだが、単に花が咲く=花が笑うという以外にこれといった意味はない。

 連歌師西山宗因の指導のもとに延宝四(一六七六)年頃から一世を風靡した談林の俳諧は、むしろ庶民の日常的な世界を解放してゆくなかから生まれたムーブメントだ。「抜け風」と呼ばれる連歌の式目の制約を巧妙にかいくぐる、いわば抜け道を作る技法は、連歌の時代にも行なわれた古い方法ではあったが、それを駆使することで俳諧の表現の範囲を大きく広げて行ったのだ。

 談林時代の芭蕉の句、

 

 花に酔えり袴来て刀さす女

 盛じゃ花にソゾロ浮法師ぬめり妻

 

を先の句と比べてみれば、違いは歴然としている。

 歌を詠む大宮人のような過去の空想ではない、手近にある風俗の中から題材を拾っている。誰もが見たことのあるようなものを言葉にすることで読者の共鳴を得る、今で言う「あるあるネタ」に近いものだったかもしれない。こうしたリアリティーこそが談林の本質であり、滑稽はその外見にすぎない。

 しかし、こうした改革も、一歩間違うと和歌や連歌の風雅の伝統から乖離して、単なる卑俗化につながる危険をはらんでいたことは確かだ。実際、談林は江戸座の点取り俳諧を経て、川柳へと流れてゆくもう一つの道を開いた。

 その一方で、むしろ談林俳諧と古典の風雅との接点を探っていたのが、天和期以降の芭蕉の俳諧だった。

 この道は単純ではなく、紆余曲折に豊んでいた。『野ざらし紀行』の旅もそうした一つの新しい俳諧の、古典の風雅と談林のリアリティーとの融合の模索だった。それこそ西山宗因が提起し、果たせなかった課題だったのだ。

 その宗因は天和二(一六八二)年にこの世を去り、芭蕉はまさに宗因なき後の俳諧のリーダーとなろうとしていた。

 また、各務支考(かがみしこう)の『俳諧十論』によれば、芭蕉はこの時既に古池の句を完成させていて、既に次に来る俳諧の新風のイメージがある程度出来上がっていた可能性もある。むしろ天和調自体が、刺激に飛んだ談林調の俳諧から古風に回帰する次の俳諧への中継ぎの意味を持っていたのかもしれない。

 そういった新しい俳諧へ、新しい風雅への旅立ちの決意を汲みつつ、『野ざらし紀行』の冒頭を読んで行くことにしよう。

 

 「千里に旅立て、路粮(みちかて)をつつまず、(さん)(かう)月下(げっか)無何(むか)(いる)(いひ)けむ、むかしの人の杖にすがりて、(ぢゃう)(きゃう)甲子(きのえね)秋八月江上(かうじゃう)()(おく)をいづるほど、風の声そぞろ寒気(さむげ)なり。


 野ざらしを心に風のしむ身かな

 秋十年(かへっ)て江戸を(さす)故郷」

 

 「千里」といっても、文字どおり四千キロという意味ではない。漢文の常套句で、「千里の行」とか「千里の外」とかいうふうに、はるかに遠い道のりを意味する。『奥の細道』に「前途三千里のおもひ胸ふさがりて」とあるのと同じだ。

 路粮(みちかて)の「粮」は「糧」と同じで、旅や行軍のさいの食糧をいう。「三更」というのは時間を表わす言葉で、真夜中を意味する。このあたりの言葉は『江湖風月集』(憩松坡(けいずんば)撰)の偃渓広聞(えんけいこうもん)和尚(おしょう)の次の詩句をふまえたものといわれている。

 

   褙語録        三山偃溪廣聞禪師

 路不賚粮笑復歌 三更月下入無可

 太平誰整閑戈甲 王庫初無如是刀

 

   語録の表装に

 食糧を持たずに笑って歌い道を行けば、

 真夜中の月の下で無何有の郷に入る。

 平和な世の中に誰がしまわれた武器防具を整えたりするだろうか。

 君子の倉庫には初めから刀のようなものはなかった。

 

 無何(むか)というのは本来文字どおり「何もない」という意味で、「無何(むか)()の郷」もそのまま読めば「何もない郷」という意味になる。天を突くような岩峰、遥々と流れる大河、中国の山水画に描かれるような景色は、人間を寄せつけないような広大な大地だ。荒涼としているがゆえに、人間の手の入ることのなかった、そんな自然のままの場所だ。

 焼畑をすれば森林が失われ、森林が失われれば洪水が起こる。洪水を抑えるために人間は国家を作り、治水を行う。国家は圧政と重税を生み、飢饉や戦争の元となる。

 それは、前近代的な社会の一つの宿命だった。農耕の開始、潅漑農法の発明など、新しい技術は一時的には人間に豊かさをもたらした。しかし、こうした技術革新による生産性の向上は、きわめて緩慢なテンポでしか起らず、その間に人口が増えることで、結局生産の余剰分は食い尽くされてしまう。こうしたマルサス的状況の繰り返しが、文明の無力や人知の限界とされ、常に自然への回帰への憧れを生んできた。

 今日はどうかというと、それも難しい問題である。確かに戦後の世界はモータリゼーションやエレクトリゼーションなどの加速する技術革新と少子化が同時に起ったことで、先進諸国は未曽有の豊かさを実現し、新興工業国がそれに続いている。しかし、それは膨大な資源を浪費するもので、人類がもし資源の循環(リサイクル)という問題を解決できないなら、今すぐということはないにせよ、長期的には終息してゆくことになるだろう。最終的に、あるときリサイクル革命が起り、低人口高度消費社会で安定するのか。それとも資源を使い果たして近代以前に逆行するのか。それはまだわからない。

 そんななかにあって、人間の容易に近づくことのできないような厳しい自然の景色のなかに、老荘の徒は救いを求めた。何も持たず、深夜の月の下で広漠たる世界を夢見る。そんな思いで芭蕉は旅に出たのだった。

 「むかしの人の杖にすがりて」とあるように、この旅で芭蕉は古典の風雅への回帰を意図している。

 リアリティーは確かに重要だ。誰だって過去の世界に生きることはできない。今生きているこの現実から逃れることなんてできやしないのだ。しかし、人はどう生きるべきか、人生とは何なのか、ただ今だけよければそれでいいというわけでなく、何かしら時代を越えた価値というものを人は求めずにはいられない。

 古典の風雅も単なる過去の遺物ではなく、そこには時代を越えた何かがあるはずだ。その時代を越えた何かを会得しながら、今の現実の世界を詠んでゆけば、句はその場限りのものではなく、時代を越えることができるのではないか。西行法師、宗祇法師、それに、近いところでは宗因法師、いずれも旅に生き、旅に死んでいった。そうした古人の心を学ぶところに、芭蕉のこの旅の意義があった。

 もちろん現実には、江戸のローカルな俳諧師から全国制覇への野心がなかったとはいえないだろう。いずれにせよ、宗因なきあと、リーダーを失った俳諧を自ら再建しようという野望に燃えていたにちがいない。

 「江上の破屋」というのは深川の芭蕉庵のことで、この言葉は『奥の細道』にも出てくる。延宝八(一六八〇)年に深川に庵を構えた、当時「(とう)(せい)」を名乗っていた芭蕉は、門人の李下から芭蕉を贈られ、庭に植えたことから、芭蕉庵桃青を名乗り、やがて「芭蕉」という呼び名が定着してゆくこととなった。

 芭蕉とはバナナのことで、日本の本土の気候では実はならず、大きな葉も秋風に破れやすいところから、もろいもの、繊細なものの象徴だった。その芭蕉庵を有名にしたのが次の発句だった。

 

   茅舎(ぼうしゃ)の感
 芭蕉(ばしょう)野分(のわき)して盥に雨を(きく)夜かな

 

 「茅舎の感」とは杜甫の『茅屋(ぼうおく)秋風の破る所と為る歌』のイメージから来たものだ。安禄山の乱で「国破れて山河在り、城春にして草木深し」となった長安の都城を離れ、成都の(かん)花渓(かけい)に茅葺き屋根の草堂を作り、隠棲していたところ、折からの秋の嵐に屋根が吹っ飛び、寝床が雨漏りでびしょ濡れになった、そのときの杜甫の詩を思い起こし、芭蕉もまた、庭の芭蕉を吹きつける台風の風の音や(たらい)に落ちる雨漏りの水音に杜甫の心を偲んだのだった。

 この芭蕉庵は天和の大火で隅田川の対岸から渡ってきた火の粉に燃えてしまい、この時、芭蕉は隅田川に飛び込み、難を逃れたという。芭蕉庵は、この後すぐに再建され、それがここでいう「江上の破屋」だ。

 かって芭蕉庵の名の由来になった芭蕉の株を贈った李下は、『野ざらし紀行』の旅立ちのさい、次のような発句を贈っている。

 

 ばせを野分その句に草履(わらじ)かへよかし

 

 芭蕉野分のあの「茅舎」も旅の草履に替えるといいでしょう。それに対して芭蕉はこう和す。

 

   ばせを野分その句に草履かへよかし
 月ともみぢを酒の乞食

 

 なぜならば、月や紅葉で酒を飲むのが似合いの乞食だからだ。

 

 野ざらしを心に風のしむ身かな

 秋十年却って江戸を指す故郷

 

 この『野ざらし紀行』の旅立ちの二句は、これから行く旅への力強い決意を表わすというよりは、むしろ旅の不安と悲しみに重点を置いている。

 「野ざらしを心に」までは力強い。たとえ道端で朽ち果てようとも、それは覚悟の上だ。しかしそう決意はしても、心には秋の風がしみとおる。朱子学で「春に万物を生じ秋に止む」というように、 秋の風は万物を死へと向かわせる。目にはさやかに見えなくても、死は確実にやってくる。そんな身も氷るような感覚だ。

 鯉屋(こいや)杉風(さんぷう)は、この旅立ちのときに、

 

 何となう柴吹く風も哀れなり

 

という句を詠んでいる。あえて季語を入れずに詠んだのは、この句が送別の句で、「送別」というテーマ自体が四季とは別に独立して部立てされうるからであろう。

 もう一つの「秋十年」の句のほうも、意味は明瞭だ。生まれ育った故郷を離れるには、たいてい皆それなりの事情があり、故郷を懐かしく思っても、なかなか帰るに帰れない事情があるし、帰ったところで自分の居場所があるわけでもない。室生犀星が、

 

 故郷は遠くにありて思ふもの

 そして悲しく歌ふもの

 よしや

 うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても

 帰るところにあるまじや

 

と歌ったとおりである。

 本来、和歌においても連歌においても、旅は都を離れた大宮人が故郷である都を恋慕うように詠むべきものとされていた。その意味で、芭蕉の旅は本当は故郷へ帰る旅なのだが、「却って江戸を指す故郷」の一言で、故郷を離れ、都落ちする古人の旅と同様のものになる。

二、富士を見ぬ日

 冬になると、東京からでも毎日のように富士の真っ白な姿を見ることができる。ところが、秋の長雨の頃となると、そうはいかない。芭蕉が貞享元(一六八四)年の秋、『野ざらし紀行』の旅で箱根の関を越えたのも、そんな雨の日だった。

 山の中で雨雲に巻かれてしまうと、ほとんど白一色の世界になってしまう。だが、そうした真っ白な世界も、詩人にとっては無限の夢を描き出す恰好のキャンパスとなる。

 

 「関こゆる日は雨降りて、山皆雲にかくれたり。

 

 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」

 

 富士といえば、芭蕉は『士峯の賛』という俳文の中で、

 

 「崑崙(こんろん)は遠く聞き、蓬莱・方丈は仙の地なり。まのあたりに()(ほう)地を抜て蒼天をささえ、日月の為に雲門をひらくかと、むかふところ皆表にして美景千変す。詩人も句をつくさず、才士、文人も言をたち、画工も筆捨てわしる。」

 

と言っている。

 富士の姿は筆舌に尽くし難い。ただ見たままを表現したとしても、それはたまたまその時見えた富士の姿の一つにすぎず、富士の魅力のすべてを短い十七文字で表現するには、描写というのはまったく無力なのだ。

 「富士をみぬ日ぞ面白き」というのは、そのことを逆説的に表現している。富士は霧の彼方で見ることができない。その見えない中に、芭蕉はありとあらゆる富士の姿を思い描いたのだ。そして、読者もまた、自らの心の中にある様々な美しい富士の姿を思い描けばいい。

 荘周は『荘子』斉物論の中で、昭文のような後世にまで名を残すような琴の名人の演奏でも、ひとたび音を出してしまえば、演奏されなかった無数の音がそこなわれる、と言っている。陶淵明が弦のない琴をいつも傍らに置いて撫でていたという伝説が生まれるのも、こうした考え方によるもので、ジョン=ケージの「四分三十三秒」にも通じそうな逆説だ。

 「富士」の名は不死にも通じる。それだけに、この山は崑崙山(こんろんさん)蓬莱山(ほうらいさん)方丈山(ほうじょうさん)のような神仙郷を彷彿させる。そんな富士の神々しさを描き出そうとした時、下手な描写よりも白一色の世界にあれこれ想像をめぐらす方が賢明なのかもしれない。芭蕉は吉野や松島(白河の関でも)のような名所では、景色に圧倒され句が詠めなかったというポーズを取りたがる傾向がある。(実際は吉野の句も松島の句も詠んでいる。)

 一年遅れて、貞享二(一六八五)年、伊丹の俳諧師、上島(うえしま)(おに)(つら)は同じく秋の富士をこのように詠んでいる。

 

 にょっぽりと秋の空なる富士の峯

 

 こうした「にょっぽりと」という俗語を交えた描写の面白さは、芭蕉が数年後に詠む、

 

 梅が香にのっと日の出る山路かな

 

にも匹敵しそうだが、富士に関して、あえて描写を嫌ったところに芭蕉らしさが表われている。

 なお、箱根というと中世連歌の大成者で、芭蕉も敬愛する宗祇法師の終焉の地でもあった。本来冬の季語である「時雨」を「霧時雨」という独特の造語でもって強引に秋の句とした背景には、宗祇法師の代表作、

 

 世にふるもさらに時雨の宿りかな

 

を思い起こしての、鎮魂の意も込められていたのかもしれない。

 ところで、芭蕉自身「画工も筆捨てわしる」と言っているにもかかわらず、芭蕉は自筆の『甲子(かっし)吟行画巻(ぎんこうがかん)』のこの場面で富士の絵を描いている。

 この絵は「富士を見ぬ日」より後の、ちりの「深川や芭蕉を富士に預行く」の句の後、「富士川の捨て子」の場面に至る過程に挿入されている。箱根の関を越えた後、天気も回復し、富士の姿を見ることができたのだろう。そこに描かれた富士は雲の切れ目にうっすらとその優美な姿を現した様で描かれている。手前には低い山並が続き、そこに道が描かれている。雨上がりの箱根路のようだ。

 この芭蕉の描いた富士山は、よく見ると三つのピークが描かれている。真ん中に釣鐘型の頂があり、左右に一つずつ別の頂がある。こうした富士山の描き方は、雪舟(伝)の描く富士山にも見られるもので、芭蕉より後に蝶夢が描いた『芭蕉(ばしょう)(おう)絵詞伝(えことばでん)』の『野ざらし紀行』の富士川の捨て子の場面の絵にも見られる。当時の人にとっての一般的な富士山のイメージだったようだ。

 こうした富士山は、ともすると近代至上主義の美術評論家からは、伝統的な筆法への盲目的従属ということで片付けられそうだ。しかし、当時の人が今日ほど「描写」ということに価値を置いていなかったのは、発句の場合と同様だ。

 おそらく、こうした描き方は、富士山を正面からだけでなく、左右両サイドから見た富士山を書き足したからではないかと(おも)われる。何といっても、富士山の最大の特徴は、四方八方どこから見ても、同じような優美な姿をしている点にある。

 中国の伝統絵画では、西洋絵画のような視点を一箇所に固定する透視画法が発達しなかった。その分、自由な視点の移動で対象を捉えることができる。そこから、このようなキュービズム的な富士山を描いたのではなかったか。

 

 この伝統的な筆法に、一大革命を起こしたのは、葛飾北斎だった。北斎はどの角度から見ても美しいという富士山の本質を、一枚の画面で三つのピークで表現するのではなく、三十六枚の富士山を書くことで解消したのだ。

三、芭蕉を富士に

 富士山は実在の山ながら神仙郷の面影を持つ。霧に見えない富士となればなおさら、想像上の異界であり、芭蕉は「却って故郷」となった江戸から別の世界へと旅だってゆく。

 

 「何某(なにがし)ちりと(いひ)けるは、このたびみちのたすけとなりて、(よろづ)いたはり心を(つく)し侍る。常に莫逆(ばくげき)(まじはり)ふかく、朋友(ほういう)(しん)(ある)(かな)此人(このひと)

 

 深川や芭蕉を富士に預ゆく    ちり」

 

 

 この旅に同行した千里(ちり)は、柏屋甚四郎(かしわやじんしろう)といい、これから芭蕉も行く大和葛下郡竹内村(今日の奈良県葛城市竹内)の人だった。この旅は千里にとっても帰省の旅だった。句の意味は深川から富士)に芭蕉翁を預けに行くというそのまんまの意味だが、本来旅立ちのさい深川で詠まれるべき句を「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」の句の後に置くことによって二人の姿が白い霧の中に消えてゆくかのように思える。

四、富士川の捨て子

 「富士川のほとりを(ゆく)に、()(ばかり)なる捨子(すてご)の、(あはれ)()(なく)(あり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露(ばかり)の命(まつ)まと、捨置(すておき)けむ、小萩(こはぎ)がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、(たもと)より喰物(くひもの)なげてとをるに、

 

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに

 

 いかにぞや、汝ちちに(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を(にくむ)にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。(ただ)これ天にして、汝の(さが)のつたなきをなけ。」

 

 富士川の捨て子の場面は『野ざらし紀行』の序盤の一つの山場で、人の命の重さというずっしりと重い問題を含んでいる。

 この場面には、虚構ではないかという説もあるが、捨て子は当時の社会問題でもあった。もちろん、当時はまだ捨て子を収容し、育てる、孤児院のようなシステムはなかった。

 江戸時代の子供は、一般的には無理なしつけや離乳をさせず、のびのびと愛情をもって育てられていたものの、経済的に貧窮した家庭に満足な援助があったわけでもなく、それに双子を忌み嫌うなどの迷信からも捨て子は決して少なくなかった。藩や幕府もこれに見かねて、捨て子を育てる人に報奨金を出したりもしたが、逆にそれを悪用して、捨て子を拾ってきては虐待やネグレクトを繰り返し、お金だけもらおうという人もいた。もっとも、当時、幼児虐待はばれれば死罪だったが。

 そういう時代にあって、この富士川の捨て子を虚構と断定できる根拠はどこにもない。仮に虚構だとしても、せいぜいどこか他の所で見た捨て子を、富士川という歌枕に掛けて、ここに持ってきたという程度のものだろう。いずれにせよ、芭蕉はこれを書かずにはいられなかったのだし、しばしば言われるような、

 

 猿を聞く人、

左勝ち、

 捨て子の秋風

 

といったような句合わせ的な趣向の遊戯とみなすには、「捨て子」の命はそんなふうに弄ぶほど軽くはない。(山本健吉ともあろう人がこのような発言をしているのは、信じ難いことだ。)

 それにしても、問題が重いだけに、文章のほうも難しく、発句のほうも禅問答めいていて、なかなかすんなりと意味が頭に入ってこない。特に、このころの芭蕉は、出典のある言葉を多用する傾向にあった。

 だからまずは一つ一つの語句の出典を丁寧にたどっていったほうがいい。下手に今の感覚で考えると、誤解の元になる。

 「小萩がもとの秋の風」は『源氏物語』桐壺巻の、

 

 宮城野の露吹きむすぶ風の音に

     小萩がもとを思ひこそやれ

 

からきている。三つになる後の光源氏を小萩にたとえ、母である桐壺が死んだ今、野分の風の中でこの幼い子供がどうなってしまうのか考えてもみろ、という御門(桐壺帝)の歌だ。

 娘の桐壺更衣の退出が許されず見殺しにされた恨みもあってか、死穢を口実に参内を頑なに拒み、片身の息子を手放そうとしなかった桐壺更衣の母君も、やがてはこの歌に諭されてか、光源氏は内裏で引き取られることになる。

 しかし、富士川の捨て子は光源氏でもないし、芭蕉もまた桐壺帝ではない。せいぜい食物を恵んでやる程度のことしかできない。それは、一時的な飢えを凌ぐだけの応急措置ではあっても、捨て子問題の解決にはならない。

 『源氏物語』の作者紫式部よりほんの少し下の世代に(あか)(ぞめ)衛門(えもん)という、一説には『(えい)花物語(がものがたり)』の前半部分の著者ともいわれている人がいる。『新古今集』には彼女のこういう歌が収められている。

 

   野分したるあしたにおさなき人をだにとはさりける人に

 荒く吹く風はいかにと宮城野の

     小萩が上を人の問へかし

 

 芭蕉は『源氏物語』だけでなく、この歌も念頭に置いていたのではなかったか。そう考えれば、芭蕉の句の下五の「秋の風いかに」の意味が自ずとわかってくる。芭蕉は「猿を聞く人」に、捨て子がこれからどうなってしまうのかを問いかけたのだ。

 「猿を聞く人」が誰か、ということについては、復本一郎の説にならい、先の「三更月下入無何」の詩を詠んだ広聞和尚ということにしておこう。その広聞和尚の詩に、


   越上人住菴     三山偃溪廣聞禪師

 越山入夢幾重重 歇處應難忘鷲峯

 後夜聽猿啼落月 又添新寺一樓鐘

 

   (えつ)上人(しょうにん)の住む庵

 越の国の山は果てしない夢のように幾重にも重なりあい、

 休むところはまさに釈迦の説法した霊鷲山をいやでも思い起こさせる。

 夜明けに猿が、沈んでゆく月に向かって次々に鳴き出すのが聞こえる。

 それに寄り添うかのように新しい寺の鐘が鳴り響く。

 

 とあり、『江湖集鈔(こうこしゅうしょう)』には、

 

「霊隠でさびしき猿声を聞きぬ鐘声を聞たことは忘れまじきそ。猿声や鐘声は無心の説法に譬るそ。無心の説法を聞て省悟したことは忘れまじきそとなり。」

 

という註がある。月に鳴く猿の声の悲しさに悟りを開いた広聞和尚なら、きっと捨て子の気持ちも理解できるだろう、と思い、芭蕉はあえて広聞和尚に問うたのだった。

 猿の声というと「ウキッキー」と言いたくなるが、ここでいう猿はテナガザルのことであって日本の猿(ニホンザル)ではない。漢文ではかって「(えん)」と「(こう)」は区別されていて、「猿」というのは本来テナガザルをさす言葉だった。(これはmonkeyapeの区別に近い)。

 テナガザルは夜明け前後の二時間くらいの間に大声で「ウォー,ウォッウォッウォッウォー」と長く尾を引いて歌うように鳴き、テリトリーを知らせ合う。それは、冥界から響いてくるような切ない声で、世を捨て、人里離れた山奥に隠棲しているときにでも聞けば、まさに断腸の思いだ。

 テナガザルは今でこそ海南島などの中国最南部が北限だが、かっては長江流域に広く生息していたらしい。京都大徳寺蔵の牧谿(もっけい)の『観音(かんのん)(えん)鶴図(かくず)』の猿も、龍泉庵蔵の長谷川等伯の『枯木猿猴図(こぼくえんこうず)』の猿もテナガザルだ。芭蕉が影響を受けた狩野派にあっても、テナガザルの絵は定番だったし、江戸後期に円山派がニホンザルの絵を描くようになるまでは、猿の絵というとテナガザルの絵だった。

 猿の声は、古くは既に『楚辞』にも、

 

 雷填填兮雨冥冥  猿啾啾兮狖夜鳴

 

 雷は重々しくデンデンと鳴り、雨はすべてを覆うかのようにメンメンと降る。

 猿はしょうしょうと、狖(黒い猿)は夜鳴く。

 

とあり、六朝時代の無名詩にも

 

 巴東山峡巫峡長  猿鳴三声涙沾裳

 

 巴東の山峡の巫峡は長く、

 猿のたびたび鳴く声に涙は裳裾を濡らす。

 

と歌われている。

 猿の声に悟りを開いた広聞和尚もまた、遁世人であり、いわば世から捨てられた「捨て子」だ。秋風に死を待っているだけの捨て子が運命をどう受け止めるべきかも知っておられるでしょう、ということだ。

 この「猿を聞く人」の句を、ただ山の中でのんびり猿の声を聞いている趣味人に何ができるのか?捨て子の命のほうがずっと重いではないか!と解する人もいるが、それは過去の詩の伝統と決別した近代的な見方であって、芭蕉的ではない。それでは、「猿の声」に感銘し、断腸の思いになった古人たちは一体何だったのか、ということになってしまう。古人の心を敬い、継承しつつ、リアルな現実に接していくというのが、芭蕉のやり方だ。この句はあくまで、猿を聞く人にどうすればいいのか問いかけているのだ。

 生への執着を捨てるのが仏教の教えなら、捨て子はそのまま捨て置くべきなのか?いや、そうではなく、殺生を禁じるように、すべて命あるものを慈しむのが真の仏教なのか?

 しかし、もはやこの世にいない広聞和尚に問いかけても、答えはない。芭蕉は自分なりに一つの答を出す。

 

 「いかにぞや、汝ちちに(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を(にくむ)にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。(ただ)これ天にして、汝の(さが)のつたなきをなけ。」

 

 この答も意外に思うかもしれない。今日の常識では確かに「捨て子」は子を捨てた親の犯罪以外の何ものでもない。しかし、それはわれわれが避妊の方法を知っているし、わが国では堕胎も事実上許されている。そのため、子供の数は自由に決めることができる。意図せざる子供が生まれたとしても、少なくとも憲法の生存権に基づいた最低限の公的援助は受けられる。子供はどんな場合でも育てられないはずはない、という前提があってこそ、「捨て子」は許すべからざる殺人行為として認識されるようになったのだ。

 また、この文章を虚構とする根拠として、正常な感覚の人間だったら、食べ物を投げて通り過ぎるなんてことをせずに、しかるべきところに届けたはずだ、という人もいるが、それも孤児を収容する施設の整った上、行政がそれに責任を持つことを義務づけられた今の時代の感覚に他ならない。

 この意識を芭蕉の時代に求めるのはやめたほうがいい。時代があまりにも違うのだ。捨て子は運命であり、「天」だったのだ。そこからむしろ、「捨て子」がすべての人間の運命でもあることに思いを馳せることが重要だったのだ。

 すべての生き物はこの地球という限られた空間に暮らすしかない。それゆえ、生きるということは、有限な土地、有限な資源、有限な生態系、その中で終わることのない椅子取りゲームを繰り返すようなものだ。豊かになる者がいれば、そのぶん必ず滅びてゆくものがいる。そんな生存競争の繰り返しは、今日のわれわれも例外ではない。

 今日のわれわれは、膨大な地下資源を消費することによって、生産性を飛躍的に向上させ、未曽有の豊かさを勝ち取った。しかし、その資源も有限であることには変わりない。

 近代化初期の段階ではこの豊かさは人口の爆発を生んだが、一定以上生産技術が高度化すると、むしろ高度な生産技術を維持するためには、高度な教育を受けた質の高い労働力が不可欠とされるため、子供一人当たりの教育投資額が急速に膨れ上がり、少子化に向った。これによって、われわれは十九世紀のマルサスの予言に反し、生産性の向上と少子化が同時に起きるという状況が生じ、もはや飢餓と隣り合わせの生活は過去のものとなり、捨て子はもはや社会問題ではなく、単なる犯罪となった。

 われわれは確かに自分の子供を泣く泣く河原に捨て去るほど貧しくはない。しかし、そのかわりに多くの難民と野性生物を捨てている、ということも忘れてはならない。芭蕉は捨て子にわずかな施し物をして通りすぎるしかなかった。それは、今日のわれわれが、テレビで見る飢餓難民の姿に古着を送ってやるくらいしかできないし、日に日に失われゆく自然の姿になす術もない、そんなにがにがしさに近いのではないか。

 すべては生存競争だから仕方がないといって放置すべきなのか。そんなことはない。捨て子は悲しいし、誰もそれを放ってはおけない。だからといって自分が引き取って育てればいいかというと、この世にいる膨大な数の捨て子を一人で抱え込むなんてできやしない。そのやり場のない叫びが、猿の叫びと重なり、「猿を聞く人」の句となった。

 談林時代から芭蕉とともに俳諧を作ってきた山口素堂(「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句が有名)は、『野ざらし紀行』の波静本への序の中でこう言っている。

 

 「富士川の捨子ハ惻隠(そくいん)の心を見えける。かかるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすがに流よとハ思ハざらまし。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらむかたなくかなしけれどもと、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれならずや。」

 

 あるいは濁子(じょくし)本の後書きでこう言う。

 

 「富士の捨子ハ(その)親にあらずして天をなくや。なく子ハ独りなる往来いくばく人の仁の端をかみる。猿を聞人に一等の悲しミをくはへて今猶三声のなみだたりぬ。」

 

 

 いつ終わるともしれぬ生存競争の厳しい自然の掟は、ただ泣くよりほかにどうしようもない。しかしそれを悲しみ、哀れむところに、人間らしさが、「仁」の発端がある。

五、大井川

 徳川幕府は、敵の侵略を防ぐために、大きな川にあえて橋を架けなかったといわれ、大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言われるくらい、東海道の難所の一つだった。芭蕉もここで川止めをくらったようだ。

 

 「大井川(こゆ)る日は、終日(ひねもす)雨降(あめふり)ければ、

 

 秋の日の雨江戸に(ゆび)おらん大井川      ちり」

 

 ここでふたたび千里(ちり)が登場する。芭蕉の弟子で旅に同行したのだが、この名前も結局ここが最後となる。

 この句は、七、八、五で三文字ほど字余りである。当時字余りは一種の流行で、これより少し前の天和の頃には芭蕉も、

 

  櫓の声波をうって(はらわた)氷る夜や涙

 

というような十、七、五の五字も字余りの句を詠んだりしていた。

 もっとも、この程度のものはまだ可愛いもので、同じ頃、伊丹の上島(うえしま)(おに)(つら)を中心とするグループは「伊丹流長発句(ながほっく)」と称し、十文字くらい字余りになるような句を詠んでは,一世を風靡していた。それは、

 

 踊子に穴あらば数珠につないで後生願わんものを   百丸(ひゃくまる)

 あたご火や江戸鬼灯(ほおずき)めせところてんものまいれ    青人(あおんど)

 田の中に棒の一本立ちたるは(もず)をおどすか千の字か  ()(おう)

 

といったものだ。ただ字余りというだけでなく、発想そのものも奇抜で、シュールともいえる。

 踊り子に穴というと、ちょっときわどいが、それを数珠にして釈教に逃げるあたりはさすがだし、百丸という俳号は人丸(=人麻呂)のパロディーだろう。

 「あたご火」は、西山宗因の句に、

 

 天も酔へりけにや伊丹の大燈籠

 

とあるように、伊丹の愛宕神社の祭で赤々と灯す大燈籠のこと。それに江戸のホオズキを連想したもの。青人ももちろん赤人(あかひと)のパロディー。

 「田の中に」の句は判じ物のようなもので、「田」の中は「十」。それに一本棒を引くと「千」の字になる。田の中に棒が一本立っているのは、それは千の字か、鵙をおどすための案山子(かかし)なのか、という意味。

 馬桜は馬肉が桜肉と呼ばれているところから取ったのだろう。仏教色の強い風雅の世界で、あえて肉食など殺生を匂わせる俳号をつけるのは、反骨精神か。

 いずれにせよこれらの句は、本来の俳諧というものは、今日の俳句の常識では計れないほどの幅の広さがあったことを物語る。

 『野ざらし紀行』の時代より十年くらい前、延宝(えんぽう)四(一六七六)年頃から大流行した「談林」の俳諧は、連歌の式目を杓子定規に守るのではなく、式目の裏をかいた、いわば法に抜け道を作るような作風をはやらせた。

 たとえば、延宝九年刊信徳編の『俳諧七百五十韻』の最後の五十韻の七句目に、

 

   青物使あけぼのの鴈

 久堅の中間男(ちゅうげんおとこ)(いで)       常之

 

の句がある。ここは月の定座だが月の文字はない。本来なら「ひさかたの中元(七月十五日)の月影出て」とすべきところを中間男(雑務の小者)を登場させて代用させている。これなどは「抜け」の典型といえよう。

 しかし、こうした談林風が庶民に引き継がれてゆく過程で、ややこしい證歌のルールはすたれてゆくことになった。芭蕉はその中で、発句のみ古典の本意本情を実質的に踏まえて作ることで、古典との連続性と品位を維持しようとしたといってもいいだろう。

 芭蕉がこの後『野ざらし紀行』の旅で名古屋に行ったとき、名古屋の俳諧師たちと詠むことになった『冬の日』の中の、

 

    たぞやとばしる笠の山茶花

 有明の(もん)()に酒屋作らせて

 

の句も、有明を人の呼び名に用いて秋の句にしてしまっている。これも、人名が人倫に当るかどうか曖昧な上、本名ではなく、そう呼ばれている程度の通称であるところで、二重にかいくぐっている。

 こうした中で字余りも流行したのだろう。というのも、室町時代に作られた連歌の式目(應安五(一三七二)年の『應安(おうあん)新式(しんしき)』と享徳元(一四五二)年に追加された『新式(しんしき)(いま)(あん)』が正式な式目とされている)には「字余り」についての規定がないからだ。式目に字余りについて何も書かれてない以上、何十字余らせようが違反にはならないというわけだ。サッカーでいう「マリーシア(悪知恵)」に近いかもしれない。

 とはいえ、芭蕉の句は二字、三字の字余りでもかなり長く感じる。

 

 芭蕉野分(のわき)して盥に雨を(きく)夜かな

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに

 

そしてこのあと『野ざらし紀行』に出てくる、

 

 三十日(みそか)月なし千歳の杉を抱く嵐

 手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜

 狂句木枯(きょうくこがらし)の身は竹斎に似たるかな

 

といった句は、字余りにしてもなお心余って言葉足らずの感がある。字余りでいながら字足らずという不思議な句だ。これに対し、ちりの句は芭蕉のような切羽詰まった緊迫感もなく、ただ流行に乗って長くしただけという感が残り、芭蕉との力量の差は歴然としている。

六、道のべの木槿

 『野ざらし紀行』の中、大井川と小夜の中山という二つの名所にはさまれた所に、二行ほどぽっかりと場所の指定もなく、こう書かれている。

 

   「馬上吟

 道のべの(むく)槿()は馬にくはれけり」

 

 木槿といえば朝に咲いてはその日のうちに萎むはかない命を象徴する花でもあるが、白楽天が「木槿は一日にして自ら栄となす」と歌っているように、命の短さは決して哀れむべきことではない。むしろ、「(あした)に道を聞きては夕に死すとも可なり」という『論語』の言葉にもあるように、短い命を天寿とこころえて生きている花だ。

 長い短いは相対的なもので、人生五十年だろうが百年だろうが、あっという間といえばあっという間で、悠久の時の流れからすれば、あまりに短い。それは木槿の花の命とさして変わらない。

 しかし、この木槿は自然に萎んだのではない。短い花の命の、その短い天寿を待たずして、突然馬に食われてしまったのだ。

 木槿を食ったのは、ここでは芭蕉自身の乗っている馬だ。それだけに、木槿の死は他人事ではなく、自分自身の罪の意識となって、心の中にじわじわと染み込んでくる。はかない命の木槿もまた芭蕉自身の姿かもしれない。

 誰だっていつ死ぬかわからない身だ。馬も自分かもしれないし、木槿も自分かもしれない。人間は常にその両面をもっている。そんな心の一瞬の揺れ動きが、この句の生命だ。ただ木槿を哀れむだけで終わるものではない。

 馬が木槿を食ったのは、ほんの一瞬の出来事だった。しかし、その一瞬の驚きは一瞬で終らず、悲しさと罪の意識が交錯したまま、どこまでもつきまとってくる。それが、この句の不気味な余韻となっている。

 

 馬に悪気があったわけではない。芭蕉に悪気があったわけでもない。生きてゆくというのはそういうことだ。誰だって生きてゆくためには他人を押し退けていかなくてはならないし、誰だって毎日のようにたくさんの生き物を殺して食っている。そんなことをいちいち考えては生きてゆけないから、何ごともなかったかのように通りすぎてゆく。しかし、眼前の事は消えることはない。道のべの木槿は馬に食われたのだ。

七、小夜の中山

 富士川の捨て子や馬に食われた木槿を残し、芭蕉の旅は続く。

 馬上の吟でもって、芭蕉の旅が馬に乗っての旅だったということもわかった。芭蕉の旅がいくらハイペースだとしても、それは芭蕉が忍者で特別歩くのが早かったということではない。小夜の中山を越える日も早朝から馬に乗っての旅だった。小夜の中山といえば、西行法師の、

 

  年たけて又こゆべきと思いきや

     命なりけり小夜のなかやま

 

 の歌で名高い。

 

  「二十日余(はつかあまり)の月かすかに見えて、山の()(ぎは)いとくらきに、馬上に(むち)をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。()(ぼく)(さう)(かう)残夢(ざんむ)、小夜の中山に至りて(たちまち)(おどろ)く。

 

 馬に寝て残夢(ざんむ)月遠し茶のけぶり」

 

  杜牧の『早行』という詩は、今日ではあまり聞かないし、漢詩の名詩撰のようなものにもほとんど取り上げられていないが、当時は有名だったのだろうか。それは、こういう詩だ。

 

    早行

  垂鞭信馬行  数里未鶏鳴

  林下帯残夢  葉飛時忽驚

  霜凝孤鶴迥  月暁遠山横

  僮僕休辞険  時平路復平

 

  鞭を下にたらし、ただ馬が行こうとするがままにまかせ、

  数里ほどやって来たのだが、未だ鶏鳴の刻には程遠い。

  林の下に明け方の夢の続きをぼんやりと漂わせていたのだが、

  落ち葉の飛び散る音にはっと驚き目がさめた。

  降りた霜がかちんかちんに固まり、ひとりぼっちの鶴がはるか彼方に見え、
 
 暁の月は遠い山の端に横たわる。

  召使の男はけわしい顔をして休もうと言う。

  それもいいだろう。時は平和そのもので、道もまた同じように平和そのものだ。

 

  これを読めば、「月かすかに見えて、山の根いとくらきに」は「月暁遠山横」、「馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず」は「垂鞭信馬行、数里未鶏鳴」、「早行の残夢」は「林下帯残夢」、「忽驚く」は「葉飛時忽驚」という具合に、この文章のほとんどが杜牧の詩からの引用だということがわかる。

  鶏鳴というのは鶏鳴の刻のことで、夜明けの前後を指す。この時刻は気流の関係で音が遠くに届きやすくなるため、鶏をはじめ無数の鳥が遠くの仲間に向けて声を発する。かって人はそうした鳥の声で自然に目が醒めていたのであろう。その鶏鳴を待たずして旅立つというのは、文字通り「早行」だ。長い距離を急がねばならない時は、そうしたのであろう。

  何やら切羽つまったあわただしい旅の中で昨日までの悪夢を思い起こしながら、ふと気がつくと静寂につつまれた自然の景色の中で、今までのことがみな迷いであり夢にすぎなかったことに気付く。 天地は人事にかかわりなく悠久の時を刻み、何も変わったことはない。天地自然の「道」はあくまで平かだ。

 

  馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

 

 目覚めてみると、煩悩の残夢の月は遠く煙に霞み、静かに消えて行く。

  さて、この句は杜牧の「早行」の興を借りているとともに、当然芭蕉の敬愛してやまぬ西行法師の歌もふまえていたであろう。しかし、この句から直接西行の歌には結びつかない。むしろ、それよりも遥かに古い壬生(みぶの)(ただ)(みね)の歌の方が、この句に近そうだ。

 

  東路(あずまじ)やさやの中山さやかにも

     見えぬ雲居に世をや尽くさむ

               壬生忠峯

 

   峠というのは国と国の境であるとともに、生と死の境も暗示する。死出の山を越えてゆく際の、この世とあの世との境目だ。小夜の中山もまた、都を離れ、東国へ落ちてゆく異界の入り口だ。これからどうなるのかわからない異界で、一体どうやって暮らしていゆくのか、そんな不安の歌だ。

  西行法師もまた、若い頃に出家し、鈴鹿の山にうき世をふり捨て、小夜の中山を越え、関東から東北にかけて旅をして歩くこととなった。そんな若い頃のことを思い出しつつ、ふたたび年老いて小夜の中山を越える。その間に世の中はすっかり変わり、院政時代から平家の栄華と滅亡といっためまぐるしい時の流れを見てきた。数々の語り尽くせぬ悲劇を目のあたりにしながら、ふたたびこうして小夜の中山を東に下ってゆく。異界の入り口をかつて下ったはずなのに、またそこにやって来る。つまり生きていたのだ。

  「命なりけり」それはここまで生きて来れてよかったという感激であると同時に、人は何度こうして生死の境界を越えて行くのか、という気持ちも込められているように思える。小夜の中山は一回限りの出来事ではなく、人はそれを永遠に反復するのだ。それは、永劫回帰といってもいいかもしれない。

 

  芭蕉もまた、そんな西行のことを思い浮かべながら、小夜の中山を越えて行く。(あき)十年(ととせ)で既に故郷となった江戸を離れ、これから行く道は雲居ならぬ茶の煙にさやかに見えない異界だ。具体的にどこかは、この後を読めばすぐにわかる。

八、神風(かむかぜ)の伊勢

 旧暦の八月二十日頃に小夜の中山を越えた芭蕉は、その後一週間の道中を省略し、伊勢神宮の段に入る。小夜の中山が異界への入り口を暗示していたとすれば、これは当然だろう。芭蕉はここで現世と別れ、神々の国に入ったのだ。さて、その伊勢の下りを読んでみよう。

 

  「松葉屋風瀑(まつばやふうばく)が伊勢に(あり)けるを(たづね)音信(おとづれ)て、十日(ばかり)足をとどむ。腰間(ようかん)寸鐵(すんてつ)をおびず。(えり)(いち)(なう)をかけて、手に十八の(たま)(たづさ)ふ。僧に似て(ちり)(あり)。俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)(ぞく)にたぐへて、神前に入事(いること)をゆるさず。

  (くれ)外宮(げくう)(まうで)侍りけるに、一ノ華表(とりゐ)の陰ほのくらく、御燈(みあかし)処々(ところどころ)に見えて、また上もなき(みね)の松風、身にしむ(ばかり)、ふかき心を(おこ)して

 

 みそか月なし()とせの杉を(だく)あらし」

 

  伊勢といえば古くから「神風の伊勢」と呼ばれ、風だとか嵐だとかに縁がある。その伊勢の地で松葉屋風瀑(まつばやふうばく)を尋ねるというのも、随分できすぎた話だ。この風瀑が三か月前、江戸から伊勢へ帰る時、芭蕉はかって詠んだ自分の、

 

  命なりわずかの笠の下涼み

 

 という句に掛けて、

 

  忘れずば小夜の中山にて涼め

 

 という句を送っている。そして、そのすぐあと、芭蕉自身も小夜の中山を越えて、伊勢の地に行くこととなった。

  伊勢で「松風」といえば、西行法師の、

 

  深くいりて(かむ)()の奥をたづねれば

     また上もなき峯の松風

 

という歌を思い起しておこう。(かむ)()、つまり神道の奥義を尋ねれば、松を吹くシューシューという心細い無常感のただよう風の音で、仏教の真理にも通じるという、いわゆる「本地(ほんち)(すい)(じゃく)」を詠んだ歌だ。

  芭蕉もまた、腰の刀をささず、頭陀袋を襟の所に掛け、手には数珠を持ち、乞食僧のようないでたちをしてこの伊勢の地に現れる。

  「我僧にあらず」というのは、どこかの寺に所属している正式な僧ではない、という意味もあるだろうが、「僧に似て塵有」と言っているように、旅をするために俄仕立ての僧となったというのが真相だろう。ちょうど『奥の細道』の旅立ちの時、()()こと岩波庄右衛門が俄に髪を剃ったように、一般の人がなかなか自由に旅のできなかった時代に諸国を遊び歩くには、僧になるのがもっともてっとり早い手段だった。

  貞享四(一六八七)年に鹿島根本寺(こんぽんじ)に月見に行った旅を描いた、『鹿島詣』でも、芭蕉は自分のことを、

 

 「いまひとりは、僧にもあらず、俗にもあらず、(てう)()(かん)に名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく」

 

と書いている。

  本当に修行をし、ちゃんとお経も読め、お勤めを果たせるようなきちんとした僧とは程遠い自分を多分に自嘲しているのであろう。僧になったおかげで旅をするのは楽だが、伊勢の内宮に入れてもらえないという欠点もあった。

  さて、この伊勢での発句を見てみよう。

 

  みそか月なし()とせの杉を(だく)あらし

 

 この句は一般に「嵐」が千歳の杉を抱くという解釈と、芭蕉が千歳の杉を抱くという解釈がある。

  しかし、前者のような嵐の擬人化した言い回しはやや近代的なように思える。

  芭蕉の時代には山口素堂による『野ざらし紀行』の波静本の序に、「ゆきゆきて、山田が原の(かむ)(すぎ)をいだき」とあるように、芭蕉が千歳の杉を抱くというふうに読まれていたようだ。

  今日の自然な文法的解釈でも、三百年前となれば当時も自然だったとは限らない。特に俳諧のような短く、ともするとどうとでも取れるような文芸には、特殊な省略の仕方がなされる。特に、主語がはっきりとしている場合にしばしば主語が省略されるのは、日本語の大きな特徴でもある。

  近代の人間は翻訳調の言い回しに慣れて、本来の日本語になかったような不自然な言い回しにすっかり慣れてしまっている。たとえば無生物主語構文というのは、本来日本語にない言い回しの代表格だったのだが、八十年代以降は「コンプレックスが私を強くした」だとか「季節が君を変えた」だとか、ちょっと気取った感じで盛んに使われるようになった。まして、比喩として無生物が人間のする動作をするいい回し、たとえば「夕陽が泣いている」「風が呼んでいる」のような言い回しは、近代の文学では普通に行われてきた。特に、昭和期のシュールレアリズムをくぐってきた後となっては、相当に奇抜な言い回しに関しても寛大になっている。しかし、本来、「嵐」は吹くものであり、「抱く」が人間の動作であることは自明だったのではなかったか。

  私は、この句は本来、三十日の月のない中で千歳の杉にすがり抱きしめた、そんな嵐の夜だった、というふうに読むべきものだったと考えている。今日では街の灯りのせいで夜の空といえどもかなり明るいが、三百年前ともなれば月のない晩は漆黒の闇だ。神社の境内も夜ともなれば人影もなく、嵐が木々をゆさぶり悲しげな音を立てていれば生きた心地もしない。秋の深まり行く頃の嵐といえば、

 

  吹くからに秋の草木のしをるれば
     むべ山風を嵐といふらむ
              文屋(ぶんやの)(やす)(ひで)

 

というくらいのもので、草木の枯れる様に暗示される死のイメージを呼び起こす。

  ここで芭蕉があえて「僧ににて塵有」と言ったもう一つの理由が見えてくる。この句は、死の恐怖を克服した仏法を悟りきった高僧の境地で詠んだ句ではない。死の影に悟りきれずに迷い戸惑う「無明(むみょう)」の心で詠んだ句だ。月のない闇夜はまさに「無明の闇」。そんな不安と心細さのなかで、芭蕉は「深き心」を起し、仏にすがるような(おも)いで千歳の杉にすがりついたのだ。

  中世の連歌書である宗祇法師の『宗祇初心抄』に、「述懐(しゅっかい)連歌本意(ほい)をそむく事」という項目がある。そこには、

 

「身は捨てつうき世に誰か残るらん

 人はまだ捨ぬ此世を我出て

 老たる人のさぞうかるらむ

 

 (よう)の句にてあるべく候、述懐の本意と申すは、

 

 とどむべき人もなき世を捨かねて

 のがれぬる人もある世にわれ住て

 よそに見るにも老ぞかなしき

 

かやうにあるべく()、我はやすく捨て、憂世に誰か残るらんと云いたる心、驕慢(きゃうまん)の心にて候、さらに述懐にあらず、たとへば我が身老ずとも老たる人を見て、憐む心あるべきを、さはなくて色々驕慢の事、本意にそむく述懐に候なり、」

 

とある。芭蕉の句は述懐の句ではないが、およそ風雅の心というのはそういうものだ。

  大体、俺はもう悟りきったのだ、俗世の情を少しも持たないのだ、なんて高飛車な句は鼻もちならない傲慢な句にすぎない。人間である以上、誰でも心の弱さを持っていて当然であり、それがまったくないなんて自分で言っている人間は信用できるものではない。大嘘つきか、単なる鈍感な人間かどちらかだ。自分の罪深さを直視し、自分のなかの「無明」を率直に認めることができる、そうした人間のみ、本当に大きな理想に向かって救いを求めることができる。

  死は誰でも恐ろしい。無常は身の毛がよだつような経験だ、まして、月のない闇夜に聞く松風は身も凍りつかんばかりに切ない。芭蕉はそんな心細さのなかで、思わずこの千歳御神木にすがりついたのだ。それはまさに、西行法師の、

 

  何事のおはしますをば知らねども

     かたじけなさの涙こぼれて

 

 

 の心境で、おそらく芭蕉もまた千歳の杉を抱きしめながら、とめどもなく涙が込み上げてきたに違いない。

九、西行ならば

 『新古今集』の仮名序にも、大和歌(やまとうた)は「色にふけり、心をのぶるなかだちとし」とあり、色好みの道だった。連歌や俳諧でも「一巻に恋なくばはしたもの」と言われるくらい、恋は連歌・俳諧の花とも言うべきものだ。それは単に読者へのサービスといったものではない。恋は人間が生きていく上で最も重要なテーマの一つだ。

  ところで、西行、宗祇を慕い、古典の風雅を継承しようとした芭蕉ではあるが、一つだけ十分受け継ぐことのできなかったのがこの「恋」だ。

  風雅が本来、煩悩を告白し公にすることによって発散させ、解脱を助けるためのものであるなら、その煩悩の中心ともいうべき恋、それも報われぬ恋の苦しみや人間のつきせぬ欲望こそ、真っ先に問題にされなくてはならない。ところが、芭蕉はどうもこのテーマが苦手だったようだ。

  もっとも、芭蕉は付け句の中では、数多くの恋句を詠んではいるし、『奥の細道』でも市振で、隣の部屋に泊った遊女を題材にして、

 

 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

 

という思わせぶりな発句を詠んでいる。萩はその姿から、伏す、寝るに通じる。

  しかし、宗祇法師の『宗祇初心抄』の「恋連歌本意そむく事」に、

 

  「かならずといひつる人のけふは来で

 われをや人のおもひ出らん

 思ふかと別にしばしやすらひて

 

(これ)(みな)恋の心に(たが)ひ候、恋の本意(ほい)と申すは、問はれぬを恨み、別るるをしたひ、待つ暮をうきと悲み、名の(たつ)をいとひ、(しのび)はつるなどと、色々に心を盡すを恋の本意と申すべく候哉、我を人の思ふ顔なること葉、恋の本意にたがひ、候」

 

とあるように、「必ずと言ひつる人の今日は来で」のような、情のこもらない単なる客観描写は、本来恋の句とはいわなかった。もちろん、「我をや人の思ひ出らん」のような、自分は恋をせずに、女にもてて困っちゃうみたいなものは、今日でもラブソングとはいえない。

 恋の句というのは、今日のいわゆるラブソングもそうだが、たとえ想像上のものでも、自分自身が恋をしているかのように、その思いを述べ、切々とその心を伝えようとするのが、本来のものだった。

  しかし、これは芭蕉だけの責任ではないだろう。江戸時代の俳諧は、概してこうした中世的なラブソングとはかけ離れている。おそらく、江戸時代の儒教文化が、自らの恋の気持ちをあからさまに打ち明けることを恥とし、恋を遊郭などの風俗の一つとしてしまったのだろう。江戸時代の俳諧で恋の句というのは、大体は古典を題材にしても遊郭のことを詠むにしても恋を醒めた目で眺めて笑うような、いわば噂のネタにすぎず、今日的な意味でのラブソングは皆無と言っていい。

 その意味では、『野ざらし紀行』でも一応恋の句が折り込まれている。それが西行谷の場面だ。

 

 「西行(さいぎゃう)(だに)(ふもと)(ながれ)あり。をんなどもの(いも)あらふを見るに

 

 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」

 

  藤原(ふじわらの)定家(ていか)は、恋の歌を詠むときは在原業平になったようなつもりで詠めと言っているが、芭蕉も西行法師になったつもりでこの句を詠んだのであろうか。西行なら女を月にたとえて恋の歌を詠むところを、私は俳諧師にふさわしく、月に供える芋を洗っている君にこうして発句を詠み、一夜の宿を乞うてみようか、というわけだ。

  名月というと今では団子を供えるが、かっては里芋を供えるのが普通で、「芋名月」という言葉もある。それゆえ「芋」は秋の季題になる。

  とはいうものの、本気で女を口説こうというのであれば、「西行ならば」なんて言わず。自分の思いを歌うべきだろう。つまり、この句は本気で詠んだ恋句とはほど遠く、俳諧師としての冗談、つまりネタでしかない。

 山口素堂が波静本の序で、

 

  「西行谷のほとりにて、いも洗ふ女にことよせにけるに、江口の君ならねバ、答もあらぬぞ口をしき。」

 

と言っているように、この歌は単なる片歌に終わっている。

  男が歌で口説き、女がそれに歌でもって答える習慣は、古くから祭のときの歌垣の中で行われていたもので、日本だけでなく、中国南部の少数民族の中にもしばしば見られる。江南系の農耕民族特有の習慣だったのだろう。和歌が色好みの道なのも、そうした歌の起源に根差したものなのだろう。

  西行法師が江口の君に詠んだ、

 

  世の中をいとふまでこそかたからめ

     仮のやどりをしむ君かな

 

 に対して江口の遊女が、

 

  家をいづる人とし見れば仮のやどに

     心とむなと思ふばかりぞ

 

 と答えたエピソードも、そうした伝統によるものだ。

  なお、『野ざらし紀行』の天理本の末尾には、次のような付合(つけあい)が記されている。

 

    「伊勢山田にて、芋洗ふと云ふ句を()す。

    宿まいらせむさいぎゃうならば秋の暮   (らい)()

  ばせをとこたふ風の破がさ          芭蕉」

 

  雷枝が女性なら面白いのだが、そうではなさそうだ。西行なら宿を貸しましょう。それに対し芭蕉は答える。いや、こんなみすぼらしい私は西行ではなく、芭蕉です。何とも他愛のないやり取りだ。

  それでも「西行ならば」の一言は当時の人々の間では、結構受けたのではなかったか。西行を慕っていながら、恋に関しては西行に似ても似つかぬ堅物な芭蕉のキャラクターからして、この一言は俳諧そのものだ。二年後の貞享三(一六八六)年の春に出た撰集『春の日』に、

 

    朝熊おるる出家ぼくぼく

 ほととぎす西行ならば歌詠まん  荷兮(かけい)(かけい)

 

という句がある。「ぼくぼく」から芭蕉の、

 

  馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉

 

の句を連想し、伊勢の朝熊山から降りてきた出家僧を芭蕉に取りなしたのであろう。それでも「西行ならば」と言いながら恋を詠まず郭公を詠むほうがいかにも芭蕉らしい。ここでの「ほととぎす」は西行の、

 

 きかずともここを背にせんほととぎす

     山田の原の杉のむら立ち

 

 という歌から来ている。芭蕉の恋句も結局は聞けなかった郭公の声のようなもの、と解するのはやや穿ちすぎか。

 

  連歌の式目には、特に恋の句を二句続けなくてはならないという決まりはないが、連歌でも俳諧でも、恋を一句で終わらせるのを野暮と考え、二句以上続けるのが習慣となっていた。この古くからの美風を破って、恋は一句で切り捨てても構わないとしたのも芭蕉だったが、『野ざらし紀行』ではまだ律儀に守ってくれている。

十、蘭の香

 「(その)の日のかへさ、ある茶店に立寄(たちより)けるに、てふと(いひ)けるをんな、あが名に発句せよと(いひ)て、白ききぬ出しけるに書付(かきつけ)侍る。

 

  (らん)の香やてふの(つばさ)にたき物す」

 

  この本文だけだと蝶という女に蘭の香がするというだけの句だが、これには隠れたエピソードがあったらしい。芭蕉の弟子の一人の()(ほう)の手による『(さん)冊子(ぞうし)』の中にこのように書かれている。

 

  「(この)句ハ、ある茶店の片はらに道やすらひしてたたずみありしを、老翁を見知り侍るにや、内に(しゃう)じ、家女(かじょ)料紙(れうし)持ち(いで)て句を願ふ。其の女のいはく、我は(この)家の遊女なりしを、今はあるじの妻となし侍るなり。先のあるじも、鶴といふ遊女を妻とし、そのころ、難波(なには)の宗因、此処(このところ)にわたり給ふを見かけて、句をねがひ()ひたるとなり。

 (れい)おかしき事までいひ出て、しきりにのぞみ侍れば、いなみがたくて、かの難波の老人の句に、(くづ)の葉のおつるの(うらみ)夜の霜、とかいふ句を前書にしてこの句(つかは)し侍るとの物がたりなり。その名を(てふ)といへば、かく云ひ侍ると也。老人の例にまかせて書き捨てたり。さのことも侍らざればなしがたき(こと)なりと云へり。」

 

 いくら有名人とはいえ、会う人ごとに句をねだられたのではたまったものではない。しかし、先代の妻が談林の祖、西山宗因に発句をもらったという縁であれば、芭蕉の心も動いたのであろう。いわば、日頃尊敬してやまぬ宗因との句合わせだ。

  芭蕉がまだ江戸に出てきて間もないころ、江戸にやってきた宗因に会い、それまでの貞徳門の風を一新し、談林調に傾倒していった。

  延宝三(一六七五)年、宗因の江戸本所大徳院での興行の百韻に、すでに芭蕉の本来の俳号である「(とう)(せい)」の名が見られる。芭蕉はこのとき四句目を詠んでいる。

 

 いと涼しき大徳也(だいとこなり)けり(のり)の水     宗因

   (のきば)(むね)(ちな)む蓮池       

 反橋(そりはし)のけしきに扇ひらき来て     幽山

   石壇(いしだん)よりも夕日こぼるる     桃青

 

  発句は大徳寺という興行場所に掛けて、それに「涼し」という季語を添えたもので、当時の発句はこうした景物や趣向によらずに言葉の縁で作ることが多かった。それに、大徳寺の住職の畫が、ゲストの宗因の名を詠み込み、発句の「涼しき水」を「蓮池」で受ける。こうした物付けも、当時の一般的なけ方だった。

  第三も「蓮池」に「反橋」という付き物)による物付けで、芭蕉の四句目も、「反橋」に「石壇」を付ける、当時の付け方に従っている。ちなみに、

 

     石壇よりも夕日こぼるる
 領境(りゃうさかひ)松に残して(ひと)時雨(しぐれ)      (のぶ)(あき)

 

という五句目を詠んだ信章は、後の山口素堂だった。

  芭蕉にとって、宗因はかけがえのない師だった。とはいえ、宗因は『西翁十百韻』恋俳諧「花で候」の巻のような、恋の句だけで百韻を作るほどの、恋句の達人であり(ただし江戸時代的な恋句で、中世的なラブソングではない)、この勝負は無謀ともいえる。

 

  (くづ)の葉のおつるの(うらみ)夜の霜   宗因

  (らん)の香やてふの(つばさ)にたき物す  芭蕉

 

  宗因の句は、「結婚こそ女の幸せ」と信じるものにとっては理解し難かったのか、なぜここで「恨み」を言わなければならなかったかわからないとする解説書が多い。しかし、発想を逆にしてほしい。つまり、遊女という仕事に誇りを持つ女性の立場に立つといい。江戸時代の遊女は、戦前の赤線の遊女や今日のソープ嬢ではなく、しっかりとした芸を身に着けていたし、客を選ぶこともできた。せっかく才気あふれる女性でありながら、よる年なみに勝てず、結局一人の男のもとに「落ちて」、枯れ果ててしまった、そんな遊女の生涯への共感がこの句の本意だったのである。

  これに対して、芭蕉の句は蘭の香によって「てふ」という女の翼が高貴な香になった、というものだ。蘭といえば山中にひっそりと暮らす君子の心で、遊女をやめて、ひっそりと操を守って暮らすことによって、花から花への浮気な蝶の羽も香ばしい香を(ただよ)わすというものだ。芭蕉の句は残念ながら遊女の境遇への共感というよりも、貞操を賛美する儒教道徳そのものだ。やはり芭蕉はただの堅物としか言いようがない。私ならこの句合わせを、このように判定(はんてい)する。

  蘭の香は尊くたぐひまれなれども、霜枯れの葛はまた哀れひとしほにて、幽玄の心を表はす。よりて左勝ち。(句合せを縦書きで書く場合は先に記す方が左となる。)

  芭蕉が「恋」を苦手としていたことに関して、巷にはホモ説なるものがある。これは江戸時代からある古い説で、芭蕉の寛文十二(一六七二)年刊の発句合『貝おほひ』のなかに「われもむかしは衆道ずきの」とあるのが根拠となり、伊賀時代の蝉吟や一緒に旅をした()(こく)や曾良との関係を疑うものだ。

  確かに芭蕉は、幼少期から武家奉公をし、そこで武家の間に広がる衆道の影響を受けた可能性はある。今日でLGBTと呼ばれる様々な性癖は実際に多様であり、また通常の異性愛者との境界も明瞭ではない。異性愛者でもニューハーフはOKというのは珍しくないし、男子校や軍隊などで一時的に同性愛者のようになることもある。その意味では一応グレーゾーンとしておくのが良いだろう。

 一方では寿貞と夫婦だったという説もあるし、母親の面影なのか、やつれた感じの年上の女性へに惹かれることもあったようだ。芋洗う女も『甲子吟行画巻』では長い髪を結わない古風な女性を描いている。

 芭蕉の時代は、江戸の遊郭を発信地として、一般人女性の間に島田(しまだ)(まげ)が広がっていった時代で、男の月代(さかやき)と同様、江戸時代らしい風俗が確立されていった時代だった。長い髪を結わずにたらしているのは、それ以前の古風な女性のイメージではなかったかと思う。

  芭蕉に関しては、ロリコン説というのもあるが、これは『奥の細道』の「かさね」という少女が登場する場面で、同行した曾良が、

 

  かさねとは八重なでしこの名なるべし

 

 の句を詠んだのを、芭蕉の代作だと断定し、芭蕉自身のことだとする乱暴な説にすぎない。

 

  連歌というのは、前の句の情をいつまでも引きずってはならない。煩悩は言い捨てて次に進んでゆくことで、そのつど解脱していかなくてはならない。紀行文でも同じだ。芭蕉の恋もまた二句で去り、また別のテーマへと進んでゆくことになる。

十一、隠士の心

 芭蕉の時代といえば元禄文化が次第に花開いてゆく頃で、商才に長け、一代で巨万の富をなしたような新興商人が、金にまかせて贅沢の限りを尽くした時代だった。

  こうした文化の中心となったのが遊郭で、そこでもまた王朝時代の風雅が一つの贅沢の典型をなしていた。遊郭はまずお目当ての遊女を垣間見るところから始まり、一夜の契りにいたるまでの様々なプロセスは、王朝時代の恋をモデルにしたものだった。

 あるいは、五兵衛とかいう男は、遊女出羽の「萩の上で妻恋う鹿を見てみたい」の一言で一夜にして奥座敷を解体して萩を植え、雌雄つがいの鹿をつかまえに行かせ、庭に放したという。失われた王朝時代の貴族の趣味を金の力で再現してみせた、というわけだ。

  商人たちが金にものを言わせて作りものの風雅にばか騒ぎしている一方で、武士の生活は必ずしも良くはなかった。まして、この時代は大名のとりつぶしや改易(領地没収)が相次ぎ、二十万とも四十万ともいわれる浪人が街にあふれていたという。武士としての誇りを守り、清貧に耐えているものにとって、心の支えとなったのは中国の隠士たちの美学だった。芭蕉をスターにした原動力も、多分そこにあったのだろう。

  『野ざらし紀行』の濁子本の末尾で山口素堂はこう言う。

 

  「こがねは人の求めなれど、求むれば心静ならず。色は人のこのむ物から、このめば身をあやまつ。ただ心の友とかたりなぐさむよりたのしきはなし。ここに隠士あり、その名を芭蕉とよぶ。」

 

  一口に隠士といっても様々あって、国の要職にあっても職務はそこそこにやって、あとは趣味の世界に遊ぶような者から、左遷されて地方官に甘んじる者、官を辞して故郷に籠る者、寺に入る者、山に籠る者など様々だ。結局、君子のような志を持ちながら、それを国政に生かすことができずにいる者は、皆隠士といってもよいのだろう。

  隠士というと、何となく世間に背を向けた消極的な生き方のように聞こえるが、そうではない。それが消極的だというなら、今日政治に文句ばかり言いながらも決して政治家になろうとはしない無数の文化人は何だということにもなろう。それに比べて、かつての隠士というのはむしろ人一倍社会に関心を持ち、国を憂え、理想の実現に情熱を燃やす者のことなのだが、独裁的な政治形態のもとでは、その能力を発揮できなかったという場合が多い。そして何よりも、彼等は直接権力に関わらないことによって、文化を国家権力から独立させることに成功し、そして今日の政治家と文化人との分離の基礎を作っていたのだ。

  芭蕉が訪れた「閑人の茅舎」の主もまた、そうした隠士の心を持つ一人なのだろう。

 

    「閑人(かんじん)茅舎(ばうしゃ)をとひて

 蔦植(つたうゑ)て竹四五本のあらし哉」

 

  竹を吹く風の音だけでも物悲しいというのに、それに加えて晩秋の風に色を変えてゆく蔦を植えるという茅舎の主人が、いかに閑寂を好む者か、推して知るべしといったところであろう。「植ゑずは聞かじ荻の上風(うはかぜ)」(文和千句第一百韻、賦何人連歌、長綱の句)といったところか。

  竹はまっすぐでありながら柔軟で、割っても腹に何もない所から、君子の徳を表わす。中国の隠士に好まれてきた植物だ。竹林の中で天地の道を語り、国の現状を嘆きあった(げん)(せき)(けい)(こう)山濤(さんとう)(しょう)(しゅう)(りゅう)(れい)阮咸(げんかん)(おう)(じゅう)といった「竹林の七賢」のことが思い浮かぶ。

  中国の歴史は地球規模での寒暖の変化に左右される。寒冷化の時代には北方や西方の民族が移動してきて、異民族による征服や国内の分断、戦乱、飢饉などの多発する冬の時代を迎える。漢と隋唐の間に挟まれた、三国・晋・南北朝の時代も、そんな冬の時代だった。隠士の文化が花開いたのもこの時代だった。

  竹はまた笛の材料にもなるように、風が吹くと音をたてる「(らい)」にも通じる。

  『荘子』逍遥遊編によると、木のうろに風が吹くと音が生じるように、万物はそれぞれ固有の穴をもっていて、目に見えぬ風のようなものの作用によって様々な現象を形作っているという。目に見える様々な自然現象は根源的な風によって生じた音にすぎないというわけだ。天地がそうであるように、人間もまた目に見えぬ風の動きによって、喜んだり悲しんだりする。自然の事物も人間の心情も、現われ方は違うけれど、ともに同じ風によって生じた音にすぎず、根底においては等しい。それが『荘子』の言う天籟・地籟・人籟だ。

 西洋では人を主体、自然を客体と分けて考え、主体の超越とロゴス〔言葉〕の優位を説くが、東洋ではむしろ人は自然の一部と考えられ、ともに同じ道に従うものと考えられてきた。そこに、自然を科学の対象として捉えるのではなく、直接的な共感の対象として捉える、独自の伝統が作られてきた。秋の景色が物悲しいのは、景色自体が悲しいからではないし、景色と無関係に自分が悲しいのでもない。様々な生命の衰えてゆく姿に共鳴することができるからであり、その根底にはすべての生命が等しいという認識が含まれている。

  書道のほうで有名な王羲之(おうぎし)は『蘭亭集詩』でこのように歌っている。

 

  仰視碧天際  俯瞰淥水濱

  寥闃無涯観  寓目理自陳

  大矣造化工  萬殊莫不均

  群籟雖参差  適我無非新

 

  青く澄んだ山際の空を見上げ、はるかな淥水の水際を見下ろす。

  見渡す限りの寂しげな景色の中に、天地の理は自ずと現われてくる。

  造化の工は偉大でどんな事物でも等しくないものはない。

  笙の笛の竹に長短があるようなもので、そのどれもがわたしにとって新鮮な音色を奏でる。

 

  寂しさは自分一人のものではない。天を突く岩峰も、果てしなく広がる湖も、その荒涼とした姿こそ自然の本当の姿なのだ。人間も山河も大小の違いはあるが、そこには同じ風が流れていて、一体を成している。

  大伴家持もまた、同じ風の音を聞いていたのだろうか。

 

  わが宿のいささ群竹吹く風の

     音のかそけきこの夕べかも

 

 わずかな竹のかそけき音にも、すべての生あるものの運命の寂しさを感じたのであろう。生あるものは皆生きるために争う。人もまた生きるために争う。それを寂しくも空しくも思えるのは、こうした現世の様々な現象の背後に、静かな風の音を聞くことができるからだ。どんなに異なる音をたて、互いに争っていても、その根源において本当は皆平等で、同じ風に吹かれて歌っているにすぎない。

 

  蔦植ゑて竹四五本のあらし哉

 

 芭蕉がこの句を送った「()牧亭(ぼくてい)」の主人も、きっと四五本の竹に風の音を聞いていたのであろう。

  なお、この少し後で芭蕉は、同行した千里の故郷を訪れることになる。

 

  「大和(やまと)の国に行脚(あんぎゃ)して、葛下(かつげ)(こほり)竹の内と(いふ)処に、かのちりが旧里(ふるさと)なれば、日ごろとどまりて足を休む。

 

  わた弓や琵琶(びは)になぐさむ竹のおく」

 

  ここでもまた、竹林の隠士のイメージが用いられている。

  この句は、ともすると「綿弓と琵琶になぐさむ」と読んでしまいそうだが、そうではない。素堂の波静本の序に「わたゆみを琵琶になぐさみ」とあるように、この句は「綿弓を琵琶に聞いてなぐさむ竹の奥」という意味であり、綿弓を琵琶に見立てているのだ。

  芭蕉の時代は綿製品が次第に普及してゆく時代であり、それにともない、綿花もあちこちで栽培され始めていたのであろう。

  芭蕉の死後になる元禄十一(一六九八)年に出版された『続猿蓑』に、

 

  名月に麓の霧や田のくもり    芭蕉

  名月の花かと見えて綿畠     〃

 

という二句が並べられてあり、前者が不易体、後者が流行体の句と説明されている。綿畑はそれだけ当時としては新味を代表するような題材だった。

  おそらく、綿弓にしても、綿をほぐす時のぶんぶんいう音を琵琶に見立てるというのは、相当に斬新な趣向だったにちがいない。綿は秋に収穫するから秋の季題ではあるが、それにあたかも砧を打つ音のような寂しげな情を込めることによって、綿弓は単に流行の題材というだけでなく、古典に通じる不易の情を得ることになる。

  なお、この句に関しては、芭蕉が直接宿の主人に贈ったオリジナルが残ってい、その前書きにはこうある。

 

  「大和国竹内(たけのうち)(いふ)(ところ)日比(ひごろ)とどまり侍るに、(その)里の(をさ)なりける人、朝夕(とひ)(きたり)て、旅の(うれひ)(なぐさみ)けらし。誠その人ハ尋常(よのつね)にあらず。心は高きに遊んで、身ハ芻蕘(すうぜう)()()(まじはり)をなし、自鍬(みづからすき)(になひ)て、(ゑん)(めい)がそのに分入(わけいり)、牛を引てハ箕山(きざん)の隠士を伴ふ。(かつ)(その)職を勤て職に(うま)ず。家は(まど)しきを悦てまどしきに似たり。(ただ)(これ)市中に閑を(ぬすみ)て、閑を得たらん人は(この)(をさ)ならん。

 綿弓や琵琶に慰む竹のおく」

 

  ここでは陶淵明が引き合いに出されている。「芻蕘(すうじょう)」は樵のことで「()()」は猟師のことだ。そうした都の風雅とは程遠い人達と交わり、俗世に暮らしながらも、君子のような心を失わずにいる、そんな姿が陶淵明を彷彿させたのであろう。

 綿弓の俗な音も、そういう人にとっては琵琶の高雅な音色になる。そんな隠士の住まいを竹内(たけのうち)という地名に掛けて、竹林の七賢のイメージで詠んだのが「わた弓や‥‥」の一句だった。

 

 「わた弓を琵琶になぐさみ、竹四五本の嵐かなと隠家によせける。(この)両句をとりわけ世人もてはやしけるとなり」と素堂が言っているように、こうした隠士の句は当時の人々に盛んにもてはやされていたようだ。

十二、帰郷

 「()牧亭(ぼくてい)」の句と千里(ちり)の故郷の句のような、陶淵明を彷彿させる隠士の句二句に挟まれると、芭蕉の帰郷の場面も、どこか官を辞して故郷へ帰ってきたかのような『帰去来辞(ききょらいじ)』のおもかげが加わる。のどかな田舎に古びた旧家があり、あたりでは犬が遊び、鶏の声が聞こえてくる。しかし、その故郷もすっかり姿を変えていた。

 

 「長月(ながつき)(はじめ)古郷(こきゃう)に帰りて、北堂の萱草(くわんさう)霜枯(しもがれ)(はて)て、今は跡だになし。何事も昔に(かは)りて、はらからの(びん)白く、(まゆ)皺寄(しはより)て、ただ命(あり)てとのみ(いひ)て言葉はなきに、このかみの守袋(まもりぶくろ)をほどきて、母の白髪(しらが)おがめよ、浦島(うらしま)の子が玉手箱、汝がまゆもやや(おい)たりと、しばらくなきて、

 

  手にとらば(きえ)んなみだぞあつき秋の霜」

 

  北堂は母の住むところで、「萱草(くわんさう)」とは忘れ草のことだ。ユリ科の多年草で、『詩経』「衛風」の「伯兮(はっけい)」という詩に、

 

 焉得諼草 言樹之背

 愿言思伯 使我心痗

 

 どうにかして忘れ草(諼草)を手に入れて

 こうして家の裏に植えたい

 そう願いつつあなたを思えば

 私の心はとても暗い

 

 とある。日本でも『万葉集』に、

 

 わすれ草わが紐に付く香具山の

     ふりにし里を忘れぬがため

               大伴旅人(おおとものたびと) 巻三、三三四

 わが宿の軒のしだ草生ひたれど

     恋忘れ草見るにいまだ生ひず

               柿本人麻呂歌集歌、巻十一、二四七五

 

といった歌が見られる。

 しかし、母の死からすでに一年が経過した今となって、もはやそれも必要ないくらい忘れさられてしまったのだろうか。「去るものは日々に疎し」という言葉の出典となった中国の『文選(もんぜん)』の古詩にも、

 

 去者日以疎 来者日以親

 出郭門直視 但見丘與墳

 古墓犂為田 松柏催為薪

 白楊多悲風 蕭蕭愁殺人

 思還故里閭 欲還道無因

 

 去って行った者は日毎に疎くなり、来る者だけが日毎に親しくなって行く。

 町はずれの城門を出て見渡してみても、ただ土をもった墓があるばかり。

 古い墓は耕されて田んぼになり、墓に植えてあった真木も伐採されて薪となる。

 境界の柳には悲しげな風ばかりが吹いて、ショウショウと葉を揺らす音が死にたいくらい物悲しい。

 故郷の入り口をくぐって帰ろうと思っても、そこで落ち着く手だてなどありはしない。

 

とある。

 思えば「秋十年(かへっ)て江戸を(さす)故郷」といって江戸を離れた芭蕉だった。その句のとおり、ここはもはや帰るべき場所ではなかった。芭蕉の母も、また芭蕉自身も、もはやそこでは去っていった過去の人だった。そんな中での芭蕉は浦島太郎の心境そのものだった。

 

 手にとらば(きえ)んなみだぞあつき秋の霜

 

 手に取ったなら消えてしまうだろう。涙だけが熱い秋の霜。

 秋の霜といえば、有名な李白の『秋浦の歌』が思い浮かぶ。

 

 白髪三千丈 縁愁似個長

 不知明鏡裏 何処得秋霜

 

 白髪は限りなく長く伸びている。

 尽きぬ悩みにこのように長くなってしまった。

 鏡の中の自分がもはや誰かもわからない。

 一体どこでこんな秋の霜をもらってしまったのか。

 

 秋の霜というのは白髪のことだ。浦島太郎が玉手箱をあけるような気持ちで母の形見の白髪を手に取った。あらためて母の死が現実のものとなる。形見の白髪は手の中にある。しかし、記憶の中の母の姿は「死」という現実の中で煙となって消え去ってゆく。それは本当につめたい、凍りつくような現実だ。その秋霜の冷たさは涙の暖かさと対比させることによって、より冷えさびたものになる。

 

 日本人は多分昭和初期の、感情や性が厳しく抑圧された日本のビクトリア時代を経ることによって、感情の表現が苦手になってしまったようだ。悲しくても能面のように表情を消し、うれしくても曖昧な微笑みを浮かべ、感情を抑え、他人を刺激しないように縮こまって生活しているところがある。しかし、芭蕉の時代の人は、悲しいときは大声で泣いた。塚も動くばかりに。秋霜の涙もまた何度も号泣しては、止めどもなく流れ落ちたにちがいない。

十三、伊賀での芭蕉

 芭蕉は正保元(一六四四)年、伊賀上野の赤坂で生まれた。父は与左衛門、母のほうは詳しいことがわかっていない。父の与左衛門は伊賀国柘植(つげ)の松尾氏で、一族の祖は平宗清だと称していた。父与左衛門と松尾家とのつながりははっきりしない。松尾家は無足人という、村落に居住しながら名字・帯刀を許された特殊な農民の家柄だが、与左衛門はとっくにこの身分を失っており、小作人として生計を立てていた、いわゆる「水呑み百姓」だった。

 芭蕉は童名を金作といい、元服して藤七郎と改名、さらに忠右衛門宗房(むねふさ)と改名した。父の与左衛門は芭蕉が十三歳の時に亡くなり、芭蕉は藤堂新七郎家の料理人として奉公に出た。料理人という職業は食物のことに詳しい百姓出身者にはうってつけの仕事だっただろう。田中善信は『芭蕉二つの顔』(一九八八、講談社)のなかで、「大名家などの料理人は素人に毛のはえた程度」と書いているが、大名家といえば、京風の洗練された食文化にも接していただろうし、参勤交代によって江戸の食文化も入ってきていただろう。芭蕉の食への関心は、その後の作品の至る所で見ることができる。

 おそらく、最初は掃除や皿洗いに始まり、やがて調理場全体の指揮から仕入れ、帳簿つけ、お金の管理なども、一通りこなしたのだろう。また、芭蕉は藤堂家の跡取り息子藤堂(とうどう)(かず)計良(えよし)(ただ)の世話や遊び相手も勤めたという。それと料理人との時期が重なるのか、料理人になる前なのかは定かではない。いずれにせよ、良忠との出会いは芭蕉の将来を決定づけた。良忠は体が弱く、武道よりも文に秀で、京都の北村季吟(きたむらきぎん)に俳諧を学び、俳号を蝉吟(せんぎん)とした。芭蕉は良忠に俳諧を習い、しばしば俳諧の席に呼ばれるようになった。

 おそらく、当時少年忠右衛門だった芭蕉は、傍若無人に振る舞う武士達にぺこぺこ頭を下げながら、わずかな給料を母のもとに送り、辛い少年時代を過ごしたのだろう。そんな中で、唯一の救いが、蝉吟の誘いで俳諧の席に呼ばれたときではなかったか。俳諧の席では身分はない。五千石の旗本の倅も百姓の奉公人も、正好(まさよし)一笑(いっしょう)一以(いちい)といった商人も、対等の関係になれる。それが、芭蕉が俳諧の魔力に取り憑かれるきっかけではなかったか。晩年に芭蕉は、

 

 木の下に汁も(なます)も桜哉

 影清も花見の座には(しち)兵衛(びょうえ)

 

といった発句を詠んでいる。芭蕉が俳諧に見た夢というのは、身分のない世界、尊き者も賤しき者も、同じ花の下で和気あいあいと談笑に耽る、そういう場ではなかったか。

 この頃の俳諧はまだ貞門の堅苦しい俳諧で、格式ばった権威主義が横行していたかもしれない。しかし、本来俳諧はもとより、その元となった連歌も地下の連歌師たちが庶民の間に流行らせ、それがやがて武家や宮廷にまで波及していったもので、こうした中世に、寺社などを中心に公界に花咲いた芸能文化は、身分を超越する、という理想をもっていた。

 戦国大名たちが、茶道に惹かれていったのも、そうした身分から解放され、一人の人間に戻れる時間を大事にしたからではなかったか。身分社会は、下のものにとっても、絶対服従を強いられ、過酷なものであったが、上に立つ人とて、弱みを見せられず、いつも虚勢を張っていなくてはならないし、下のものは遠慮して意見を言ってくれないから、悩んだとき相談できる人もいない。そんな時、茶道や連歌は、欠くことのできない息抜きの場だった。豊臣秀吉が千利休に限りなく惹かれながらも、最後には殺さざるをえなかったのは、身分のない世界が安らぎであり、とてつもない快楽であることがわかっていたからこそ、それが社会全体の風潮として広がってゆくことを恐れたからではなかったか。

 芭蕉に俳諧の目を開かせてくれた蝉吟も、芭蕉が二十三の時、二十五歳の若さで世を去った。芭蕉にとって大きなショックだっただろう。それでも、芭蕉はすでに、貞門の選集『続山の井』(寛文七年、一六六七)に三十一句入集を果たし、伊賀だけでなく上方、江戸でも新進気鋭の作家として注目されるようになっていた。この頃の芭蕉の句に、晩年のさびしおりの境地など見るべくもないが、それでも、人の思い付かぬようなひらめきと豊かな想像力は人々の目を引いた。

 

 年は人にとらせていつも若恵比寿

 春風にふき出し笑う花も哉

 

   秋の吉野の山の遁世

 在明の影法師のみ友として

 

   憂さ積もる雪の(はだへ)を忘れかね

 氷る涙の冷たさよさて

 

 さらに、こうした想像力は、芭蕉自身の貧しい生活の中で培われた現実の鋭い描写にも結び付いた。

 

  賤が寝ざまの寒さつらしな

 おだ巻のへそくりがねで酒かはん

 

   ひさしぶりにて訪ふ妹が(もと)

 奉公の隙も余所目の隙とみつ

 

 豊かな想像力と確かな現実感覚との共存、それは、晩年に至るまで様々に作風を変化させても、芭蕉の作風の終始一貫した特徴だった。晩年の芭蕉の、さびしおりの世界とはまた一つ違うあの傑作、

 

 物言へば唇寒し秋の風

 

の句も、その一例と言えよう。

 

 芭蕉はやがて、寛文十二(一六七二)年二十九歳のとき、藤堂家の奉公をやめ、江戸に出ることとなった。理由の一つには俳諧の世界で自分の実力を試してみたい、ということもあっただろう。それに加えて、あまり知られていないが、芭蕉は実務面でも有能だったという。しかし、いくら能力があっても、狭い藤堂家にあっては身分の問題もあり、もうこれ以上の出世はないだろうという、「先が見えた」という感があったのではないかと思われる。

十四、僧朝顔

 二上山は飛鳥からちょうど真西に位置し、その名のとおり二つのピークを持つ山だ。二つの山の間はさながら西方浄土の門のようだ。古くは大津の皇子の処刑の地でもある。西は五行説によると金を表す方角で、金はまた刑罰をも意味する。そんな中に、斧で切り倒されることなく一本の松の大木が生きながらえていた。

 

 「二上山(ふたかみやま)当麻寺(たいまでら)(まう)でて、庭上(ていじゃう)の松をみるに、(およそ)千とせもへたるならむ、大イサ牛をかくす共云(ともいふ)べけむ。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤(ふきん)の罪をまぬがれたるぞ、幸にしてたっとし。

 

 僧朝顔幾死(いくしに)かへる(のり)の松」

 

 「大イサ牛を隠す」とは『荘子』人間世(じんかんせい)篇に見える「其の大いさ数千の牛を蔽う」という言葉からきている。(しょう)(せき)という大工が斉の国の神木の巨大な(くぬぎ)の木の所を通りがかったとき、弟子がこれなら舟も作れるし斧のふるいがいがあると言うと、匠石はこの木は舟にすれば沈み、棺桶にすればすぐに腐り、器にすればすぐ割れ、まったく役に立たない、だから誰も切り倒すことなく巨大に育ったのだ、と答えた故事による。いわゆる「無用の用」というやつだ。役に立たないが故に、天寿を全うすることができる。

 似たような話は『荘子』の逍遥遊(しょうようゆう)篇にもある。ここでは恵子が荘子を批判して、「おまえの説は(ごんずい)の木の様なもので、大きいだけで幹は節だらけで線も引けないし、枝は曲がっていて物差しを当てることもできない」と言ったのに対し、荘子は「せせこましい知恵では結局権力争いに巻き込まれて命を落とす、何の役にも立たない大木だからこそ斧斤(ふきん)によって切り倒されることもなく、無可(むか)()の郷で悠々としていられる」と答えたという話として登場する。「斧斤の罪をまぬがれたる」という言葉もここからきている。

 ただし、ここで芭蕉は、単に役に立たないから、というのではなく、「仏縁にひかれて」といっている。「無用の用」も「無可有の郷」も単に役に立たないというより、それが仏の教えにかなうからこそ生き(ながら)えてきた、と解釈するのだ。二上山当麻寺の松は長年にわたって僧侶たちに守られてきて今日に至っているのである。

 

 僧朝顔幾死にかへる法の松

 

  (そう)朝顔(あさがお)は芭蕉の造語で、「僧は朝顔」を縮めたものだろう。連歌の発句だと「僧や朝顔」といった切れ字の使い方もする。いずれにせよ、僧は朝顔のように儚く、その幾死にかへる法の松、という意味になる。

 朝顔は朝に咲いて昼には萎む、(むく)槿()と同様、短いはかない花だ。しかし、一つの花は萎んでも、また次の花が咲く。次から次へと花は咲き、命は絶えることがない。それは『荘子』養生主(ようじょうしゅ)篇の「指は薪たるを窮むれども、火の伝わるやその尽くるを知らざるなり」の言葉を思い浮かべたのかもしれない。

 二上山当麻寺の松は中将姫伝説と結びついたもので、中将姫が植えたとされている。家庭内の血なまぐさい争いから十五歳で出家した姫は中将法如の名を貰い、夢に現れた老尼のお告げで蓮の繊維を用いて曼荼羅を織り上げたという。その老尼は阿弥陀如来で、やがて十三年後の如月の望月に来迎され、極楽浄土へ旅立ったという。こうした謂れのある松だから、代々ここの僧侶たちが大切に守って来たのだろう。

 芭蕉の風雅は、自分の家や帰るべき故郷を持ち、生活の源となる田畑を所有するものの風雅ではない。むしろ、そこから追放されたものの風雅だ。

 有限な大地に常に生じてくる人口の増加の圧力、それによって不可避的に生じてくる捨て去られるべき人々、排除されるべき人々。その問題を解決)せずして「(ちょっ)(こう)」の理想を振り回し、俳諧師などの遊芸の徒を「不耕(ふこう)貪食(どんしょく)」と罵っても何になるものでもない。(安藤昌益の自然世、万民直耕の理想、その夢は美しいが、もし現実の社会でそれを行なおうとすれば、都市の膨大な人間を強制移住させたり、虐殺したりということになる。ポルポトは本当にそれをやってしまった。)

 古くから中国には儒教と老荘思想との二つの流れがあるが、それはこうした立場の違いに関係がある。ともに易や陰陽五行の論理を取り入れたり、儒教自身も隠士を一つの制度として取り入れているが、儒教の血縁・序列の重視は老荘思想と相容れないし、老徒の極度の文明否定を儒者が受け入れることはない。これは、儒教が基本的に農耕社会を円滑に運営するための論理だったのに対し、老荘はそこから疎外されたものの論理だったからだ。

 それは「包丁(ほうてい)(かい)(ぎゅう)」の職人や、身体障害者であるが故に戦争に行かずに長らえたものなどの寓話にも現れているし、老荘思想が道教へと受け継がれていったときに生じた「穀断ち」の思想もまた、農耕を否定し、木の実などの採集によって人間本来の自然な状態に戻し、不老長寿を得るといったものだった。

 あるいはその起源からして儒教が黄河文明から発してたのに対し、老荘思想は長江文明の知恵だったのかもしれない。長江文明は歌垣を行い、歌で結婚相手を決めるという、血統をあまり重視しない自由恋愛の文化だった。秦漢帝国によって黄河文明の担い手が漢民族を形成して行く中で、劣勢になった楚人、呉人、越人などが農地を追われて職人化したり、その一部が海を越えて日本に流れ着いたりというそうした事情もあったのかもしれない。日本では大和朝廷の時代から職人の地位は高かった。

 こうした老荘思想が仏教の「出家」の思想と結びつくのは容易だった。むしろ、中国仏教はインド仏教を老荘の言葉で翻訳するところから始まったといっていい。そこには「木石往生」のような、本来のインド仏教にはないような観念も生じている。本来、インドでは成仏できるのは人間の特権だったのだが、中国で仏教が翻訳されていったとき、荘子の「万物(ばんぶつ)(せい)(どう)」の立場から、成仏は動物、昆虫はもとより、植物や岩石にまでも拡大された。こうした中国仏教の伝統は、人間の文明を積極的に発展させるというより、むしろその境界を、いわば限界を確定するという機能を持っていた。それは文明と自然、生と死、現世と来世の境界を支配するものであり、日本でいう「公界」という空間に結びついていた。

 中国や韓国では、詩の担い手がもっぱら科挙によって登用された高級官僚であったため、詩の根幹はあくまで儒教にあり、ただ満たされぬ政治への思いがあきらめに変わったとき、仏教や老荘思想への傾倒という形を取るにすぎなかった。これに対し、科挙が取り入れられなかった日本にあって、特に中世以後、文化は地下(ぢげ)の連歌師や猿楽師、絵師などの職人・芸能の人々に担われ、公界を中心に発達していった。隠士という形で士大夫としての身分を保ちつつ国家権力から独立した文化を作り上げたのではなく、身分を捨てることでもって自立した文化を作り上げていったのだ。

 このことによって、日本の文化は中国や韓国以上に老荘的であり、仏教的であり、公界に密着したものとなった。志の高い風刺詩は少なく、むしろ政治に背を向け、満たされない思いやこの世のはかなさを花鳥風月になぞらえて述べるスタイルが主流となっていった。西行・宗祇・芭蕉といった日本の風雅の巨匠たちも、決して命がけで社会の悪と戦うという姿勢は取らなかった。彼等は権力の内部で権力に立ち向かうのではなく、むしろ権力の及ぶか及ばぬかの境界すれすれの所をさまようことにより、権力を限界づけようとしたのだ。

 日本の文化をよく「農耕的」と言う人がいるが、私は本当の所「職人的」と言った方がいいのではないかと思う。芸能は人の腹を膨らますわけではない。それは役に立たないが故に「斧斤の罪をまぬがれた」木のようなものとして、代々受け継がれてきたのである。

 ところで、この松にはもう一つ、芭蕉も知らなかった一つの縁がある。(以下、『万葉集と漢文学』和漢比較文学叢書九、一九九三、汲古書院、所収の「大津皇子『臨終』詩群の解釈」濱政博司による)それは二上山で処刑された大津皇子が六八六年に詠んだとして『懐風藻』にも載っているこの詩だ。

 

 金烏臨西舎 鼓声催短命

 泉路無賓主 此夕誰家向

 

 黄金烏が棲むという太陽も西にある住まいへ沈もうとし、

 日没を告げる太鼓の声が短い命をせきたてる。

 黄泉の国への旅路は主人もいなければお客さんもいない。

 この夕暮れは一体誰が家に向かっているのだろう。

 

  この詩は実は大津皇子のオリジナルではない。とはいえ、別に大津皇子がぱくったということではなく、作者がよくわからないまま語り伝えられていた詩が、あまりいい詩なので、大津皇子の作に仮託されていたのだろう。どのようにして日本に伝わったのかわからないが、これに似た詩は五八九年の中国の『浄名玄論略述』に見られる。それは、叔宝が囚人として長安に引き立てられるときに詠んだ詩で、

 

 鼓声推命役 日光向西斜

 黄泉無客主 今夜向誰家

 

 太鼓の声は賦役へとせきたて、

 日の光は西へと傾いて行く。

 黄泉の国には主人もいなければお客さんもいない。

  今夜は誰の家に向かうのというのだ。

 

というものだ。この詩はその後も度々刑死した人の作として人々の噂にのぼったようで、何度となく中国の書に登場する。この詩は韓国にも伝わっていて、韓国では成三(そんさむ)(ぉん)(一四五六年没)の詩として親しまれている。それは、

 

 撃鼓催人命 回看日欲斜

 黄泉無一店 今夜宿誰家

 

 太鼓を打つ音は人の命運をせきたて、

 振り返って見れば日は傾こうとしている。

 黄泉の国には宿屋があるわけでもない。

 今夜は一体誰の家に泊ろう。

 

といったものだ。成三問は十五世紀、李朝の最も繁栄したといわれる世宗(せじょん)の時代に活躍した人で、ハングル文字を作った人でもある。しかし、その世宗(せじょん)の時代が終わったとき、跡継ぎをめぐって権力争いが起こり、太宗(てじょん)の強引な政権奪取に反対し、本来の王位継承者である端宗(たんじょん)を擁立しようとしたが、密告によって計画がばれてしまい、成三問を含む六人が、拷問の末に処刑された。韓国ではこの六人の忠誠を称え、『死六(しゆく)(そん)』として語り継がれた。しかし、この詩も、成三問自身が詠んだという証拠は何もなく、後の伝説にすぎない。大津皇子の場合と同様の事情のようだ。

 この成三問にはこれとは別に、刑に臨むときに詠んだ時調(しじょ)(韓国の伝統的な三行詩)が残っている。

 

 이몸이 수거가서 무어시 뒬고하니

 蓬莢山 第一峰 落落長松 되였다가

 白雪 만건곤할제 独也青青 하리라

 

 この命が絶えたなら一体何になろうか

 蓬莢山の第一峰のひときわ高い松となり

 白い雪が乾坤を覆う時も独り青々としていよう

 

 

 二上山にも牛を隠すほどの大きな松の木があり、そこに芭蕉は、俗世を離れることで刑罰を免れた者の姿を思い浮かべた。そして、下から次々と花をつけてゆく朝顔の姿もまた、韓国の国花、木槿の心にも通じる。しかし、芭蕉が成三問のことを知る由もない。すべては偶然の縁なのである。

十五、吉野の秋

 吉野といえば春の千本桜。見渡す限り続く桜の林は、遠くから見ると雲のようにおぼろげに霞み、この雲が山を登り山頂へ消えて行くと、春は終り、郭公の鳴く夏がやってくる。そんな大宮人の季節感をよそに、またしても芭蕉は時期はずれの吉野にやってくる。とはいえ、桜の黄葉もまた、春にはない閑寂な中の華やかさがあり、無何(むか)()の郷を求める芭蕉にはむしろそのほうがふさわしい。そこは『野ざらし紀行』の中でも随一の名所で、『奥の細道』でいえば松島・象潟に匹敵する。それだけに、ここでは三句も詠まれている。

  まず最初の句を見てみよう。

 

 「(ひとり)よし野のおくにたどりけるに、まこと山ふかく、白雲(はくうん)峯に(かさな)り、(えん)()谷を(うづ)ンで、山賤(やまがつ)の家處々(ところどころ)にちいさく、西に木を(きる)音東にひびき、院々の鐘の声は心の底にこたふ。むかしよりこの山に(いり)て世を(わすれ)たる人の、おほくは詩にのがれ、歌にかくる。いでや唐土(もろこし)()(ざん)といはむもまたむべならずや。

 

    ある坊に一夜(ひとよ)をかりて

 (きぬた)(うち)て我にきかせよ坊が妻」

 

 まずは水墨画を思わせるような山の景色の描写で始まる。このくだりは『野ざらし紀行』の中でも名文の一つといえよう。木を伐る音や鐘の声は山にこだまし、深い静寂を生みだす。中国に名山の数ある中で、廬山をもってくるあたりが渋い。

 慧遠(えおん)が白蓮社を興し、浄土宗を広めた廬山は、山水信仰と極楽浄土とが結びついた土地だ。そこには周続之(しゅうぞくし)劉遺(りゅうい)(みん)陶淵明(とうえんめい)といった(じん)(よう)の三隠が隠遁生活を送った地でもあった。さらには白楽天が草堂を結び,「廬山便是逃名地(廬山はすなわちこれ名を逃るる地)」という詩句も詠んでいる。

 さらに廬山は絵の題材としても定番となっていた。日本の画家たちもみんな、見たことのない中国の景色を想像し、廬山を描いていた。

 さて、この吉野での最初の発句だ。

 

 (きぬた)(うち)て我にきかせよ坊が妻    芭蕉

 

 昔の人はよくこれだけで何のことかわかったものだ。度々登場する素堂の波静本の序にはこうある。

 「同じくふもとの坊にやどりて坊が妻に(きぬた)をこのミけん。むかし、尋陽の(かう)のほとりにて楽天をなかしむるハ、あき人の妻のしらべならずや。坊が妻の砧は、いかに(うち)て翁をなぐさめしぞや。」

 廬山(ろざん)(じん)(よう)と来れば陶淵明か白楽天。そこに妻に砧を聞かせよという場面が加わると、白楽天の『長恨歌』と並ぶ傑作『琵琶行』と来なくてはいけなかった。

 

 今夜聞君琵琶語  如聴仙楽耳暫明

 莫辞更坐弾一曲  為君翻作琵琶行

 感我此言良久立  却坐促絃絃転急

 凄凄不似向前声  満座重聞皆掩泣

 座中泣下誰最多  江州司馬青衫濕

 

 今夜は君が琵琶を弾きながらする物語を聞くとしよう。

 仙楽を聴いているようで、耳は少しづつさえてくる。

 遠慮しないで坐ってもう一曲弾いてくれ。

 君のために「琵琶行」という詩に作り直してあげよう。

 私がそういうとしばらく立っていたが、

 再び坐り直すと絃を促し、激しくかき鳴らす。

 凄凄として今まで聞いたのと違う声となり、

 満座は重ねて聞いて、皆涙をおおう。

 座中で最もたくさんの涙を滴らせたのは、

 江州の司馬であった白楽天自身で、その青衫(せいさん)を濡らした。

 

 茶売の妻は昔都で華やかな暮らしをして、それが今はこの田舎でひっそりと暮らすことになった、その悲しい物語を切々と語って聞かせたのであろう。それが、左遷され、廬山・尋陽という昔から多くの人が隠棲した地に配転された白楽天自身の姿に重なったのであろう。芭蕉が泊まった坊の妻はどういう境遇だったのかわからないが、故郷を捨てた芭蕉にどこか共鳴するものがあったのであろう。

 秋深い吉野の山奥に日も暮るとなれば、そこはどこまでも寂しく、あたかも既に冥界にいるかのようだ。それは一種の感覚遮断だ。かってあれほど疎ましく苦しく思った都会の喧騒も、懐かしく思い出されてくる。憎しみ合ったこともあれば、愛し合うこともあった。そんないろいろな人との日々が、記憶の中で美化され、輝いて見えてくる。遠ざかれば遠ざかるほど思い出は追いかけてきて、俗世への執着を捨てたつもりなのにかえって俗世が恋しくなる。その寂しさに耐えたのが、かっての詩や歌に逃れた古人たちだった。

 ところで、なぜ琵琶ではなく砧なのだろうか。砧打つ音も古くから和歌・漢詩に詠まれている。都落ちし、遠い山里で聞く砧の音は悲しげで、旅人の涙をさそう。特に、吉野に砧といえば、藤原(ふじわらの)(まさ)(つね)の、

 

 み吉野の山の秋風さ夜ふけて

     ふるさと寒く衣打つなり

 

 

 という歌もあり、土地柄からいって琵琶よりも砧のほうがふさわしかったのであろう。

十六、露とくとく

 さて、吉野で隠棲といえば、この人を忘れてはいけない。西行法師だ。

 西行は、平将門の乱を平定した俵藤(たわらのとう)()藤原(ふじわらの)秀郷(ひでさと))の末裔で、元永元(一一一八)年に生れた。俗名は佐藤(さとう)(のり)(きよ)。しかし、武士の家に生まれながら武士にはならず、出家し、放浪生活をしながら歌を詠み、風雅の道に生きたその生き方が中世以来多くの人の共感を呼び、様々な伝説が生れた。源平合戦の時代に戦に行かず、愛を歌い続けた西行は、平和のヒーローだったのかもしれない。

 

 「西上人(さいしゃうにん)の草の(いほり)の跡は、奥の院より右のほう二町(ばかり)わけ(いる)ほど、柴人(しばびと)のかよふ道のみわずかに(あり)て、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。(かの)とくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落(しづくおち)ける。

 

 露とくとく(こころ)みに浮世すすがばや」

 

 白洲正子の『西行』(一九八八、新潮社)によれば、出家後、西行は毎年のように吉野を訪れたらしく、西行が住んだという庵も一つではなかったらしいが、芭蕉がここを訪れ、句を詠んだことで、この「とくとくの清水」のある庵室が有名になり、今日西行庵と呼ばれるようになったという。

 

 露とくとく(こころ)みに浮世すすがばや  芭蕉

 

 この句は西行の、

 

 とくとくと落つる岩間の苔清水

     くみほすほどもなきすまひかな

 

の歌によるものだが、この歌は勅撰集にも『山家集』にもない。伝承されてきた歌だ。だから、これが本当に西行が詠んだ歌かどうかはわからない。

 「とくとく」というと、何となくウィスキーをグラスにそそぐときの音を連想してしまうが、多分かつてはもっと細い音だったのだろう。「とくとくと雫落ける」というように、トットットットッと間断なく雫が滴る程度で、もう少し細くなると、ピチャン、ピチャン、という音になりそうな、そんな状態ではなかったか。それは勢い良くほとばしるまでいかない、かすかな湧き水で、それすら汲み尽くすことのない、それで十分すぎるような山奥の庵住まいだというのが、この歌の意味なのだろう。岩間の水は立春の、

 

 岩間閉じし氷りも今朝は解け()めて

     苔の下水(したみづ)道求むらん

               西行法師

 

の歌を思い起こさせる。それは新年に一番に汲む不老長寿の若水(わかみず)で、万物の命の源となる水だ。

 吉野といえば、古代にあっては道教思想と結び付いた神仙郷だった。それ柿本人麿も「とこ世」と呼び、『懐風藻』にも吉野を神仙郷として詠んだ詩がある。天武・持統帝は何度も吉野山に通い、吉野の山水の祭を行った。人麿の吉野行幸歌もまた、祭のさい山川の神に捧げられたものだった。そのへんの詳しいところは福永光司他による『日本の道教遺跡』に記されている。

 やがて古代の道教が廃れ、仏教にとって変わられていった時、神仙郷は生きながらにして永遠の命を得るというよりは、死後の極楽浄土を思わせる場所となった。元来、神仙郷にしても極楽浄土にしても、少なからずいろいろな人の臨死体験がもとになって描かれたものだろう。

 美しい山河に咲き乱れる花、なぜ死の前にそのようなものが見られるのかは謎だが、おそらくそれは脳内モルヒネによって引き出される至福感が映像化したもので、いつでも人の心にある永遠の生のイメージなのだろう。

 道教は生きながらそこへ行くと考え、仏教は死んでから行くと考えるが、行ったっきり二度と帰れないという点では、結局どちらも同じことだ。吉野の山の清水は、そんな永遠の生の不思議な力を感じさせるのだろう。それは、かすかな清水ではあるが、それを汲み干すこともなく生活するというのは何て豊かなことだろうか。

 

 芭蕉もまた「とくとくの清水」に神仙郷の水の魔力を感じていたようだ。それは西行法師の身の穢れを洗い流し、命を清めてなお余りある水だ。この水で私の人生の憂鬱も煩悩も洗い流してくれ-そんな祈りがこの句には込められている。素堂は「洗うにちりもなからましを」と言うが、塵の自覚こそ人間として大事なことなのである。

十七、御廟への思い

 「山を(のぼ)り坂を(くだ)るに、秋の日(すでに)(ななめ)になれば、名ある所々み残して、(まづ)()醍醐(だいご)(てい)御廟(ごべう)を拝む

 

 御廟(ごべう)()(しのぶ)は何をしのぶ草」

 

 戦後はもとより、戦前の皇国史観の時代ですら、芭蕉の皇室崇拝と失われた王朝時代への思いについては、ほとんど注意を払われてこなかったように思われる。しかし、日が暮れかかり、時間のないときに、何を差し置いても後醍醐天皇の御廟を拝みに行くところなど、それ相応の情熱が感じられる。

 過去の記憶はしばしば美化される。過去がつらいものであればあるほど、その記憶がトラウマとなって心を痛め、行動に悪影響を及ぼすのを抑えるため、その防衛反応として、悪いことは次第に記憶から消され、美しい思い出だけが残ってゆくのはよくあることだ。

 過去の記憶の美化は、それが多くの人の共有するところのものになると、しばしば理想郷を形作る。古代のギリシャ人の夢見た「黄金時代」、儒教でいう「先王の治世」。日本でも失われた王朝時代は、天皇、すなわち天帝の支配のもと、あたかも平和そのもので、人々は自然と一体化し、自然のままに生きていたかのような追憶を形作る。そんな天道へのあこがれは、当時の知識人にはしばしば見られるもので、いわゆる「国学」なるものを支える原動力だったし、やがて明治の王政復古にもつながった。

 皇室崇拝は日本の特殊な問題として議論されがちだが、人間の考えることは世界中どこでもそんなに変わるものではない。天皇制を支えているのは、人間として常にありがちな感情、つまり「過去の美化」だ。現実の生活というのは決して楽しいことばかりではない。辛い労働、人間同士の絶えず生じる摩擦、衝突、人類が有史以来繰り返してきた戦争、自然破壊、搾取、略奪、そうしたものから逃れたいという気持ちは誰しもあるはずだ。

 現実には人は争いを繰り返しているが、やはり平和なほうがいい。現実には不自由で窮屈な生活を強いられているが、やはり自由なほうがいい。現状に甘んじるよりは、何とか今よりもよいものを求める気持ちは、人間として大切な美しい心だ。だが、我々凡人はもとより、世間で天才といわれる人達でも、現実の困難な問題を直視し、解決してゆくだけの強さをいつも持っているわけではない。悲惨な現実から逃れたい、理想を実現したいという超越への願望は、しばしば偽りのユートピアをでっち上げ、解決したふりをしてごまかしてしまう。

 過去だって、今と同じくらい悲惨な暮らしをしていたはずだ。しかし、その中の美しい思い出だけを切り離し、過去を美化する。原始時代、人間は自然そのもので、何一つ不自由のない生活をしていたのかもしれない‥‥。古代、聖人君主の下に人々は今よりも純朴で正直で、争いなどなかったかもしれない‥‥。昔は良かった、それに較べて今は‥‥。でも、それは本当なのだろうか。

 もちろん、何か大きな改革を行う時は、全く新しいことだと人は不安になり躊躇しがちになるが、「復古」という名目があればやりやすいのは事実だ。そのため、ノスタルジーを戦略的に使うという可能性はある。

 大人が「もう一度子供に戻りたい」というときには、きまって子供の頃いじめられたり、恐い兄さんに殴られたり、親や先生に自分をわかってもらえず傷ついたり、子供だからといって差別され、馬鹿にされ、自由が与えられず、屈辱的な目に合い、あの頃「早く大人になりたい」と思っていたことなど忘れているものだ。

 故郷は遠くにあれば美しい思い出だが、実際に帰ってみると、そこでの難しい人間関係、古くさい因習、価値観、そんなことで苦労することは目に見えている。それでも、思い出の中の過去は輝いていて、そこに帰りたいと願う。

 天皇制を支えてきたのは、そうした心の弱さが描き出す甘いノスタルジーだ。ノスタルジーは酒に似ている。適度に飲めば人生は楽しくなるが、依存症になってはいけない。

 近代の天皇制は、こうした理想上の過去と、現実の歴史とをごっちゃにして、おかしなものにしてしまった。あの頃、西洋列強の植民地主義の恐怖のなかで、西洋的な軍隊を作らなくては日本は消滅するという恐怖が常に支配していた。そこから日本の伝統文化を弱々しい軟弱なものとして卑下し、日本を西洋化させなくてはいけないという強迫観念に常に支配されてきた。

 そこから、日本の遅れた醜い封建的なものを、中国の文化のせいにし、日本は古代から、西洋近代文明を先取りしていたかのような幻想に酔いしれた。『万葉集』は近代写実主義の先駆であり、芭蕉の俳句もそういうものとして解釈されなければならなかった。

 もちろん天皇制そのものは過去の幻想とは別に優れた点はある。それは王朝を一つの家系に固定することで、権力をめぐる様々な対立を抑制する効果があった。

 つまり日本人は天皇制がある限り、絶対に日本の王にはなれないし、絶対の権力者になることはできない。絶対の権力を握れる可能性があるなら、人々はその座をめぐって争い、殺し合うことになる。天皇制がある限り、たとえ征夷大将軍になったとしてもその力は限定的であり、天皇から与えられたものにすぎなかった。

 この考え方は王政復古の時も、

 

 「諸事神武創業の始めに(もと)づき、縉紳、武弁、堂上、地下の別なく、至当の公議を(つく)し」

 

と、独裁ではなく合議制が明記され、それが後の民主化へのスムーズな移行を助けることとなった。一君万民思想に基づき、万民が共に臣下の地位にあることに於いての平等という考えに繋がっていった。戦前の軍部による独裁の時代はあったが、ついにヒットラーのような独裁者は現れなかった。明治憲法に定められた天皇の軍の統帥権が悪用されたのが一番の問題だった。

 確かに明治の頃の日本は必死だった。ロシアの南下政策の恐怖のなかで、朝鮮半島を日本の防波堤にする必要があった。一九三七年の南京進行の際には、補給のない過酷な行軍命令のなかで旧日本軍はモラル崩壊を起こした。特に中国軍の民間人を装った便衣兵の卑劣な攻撃には手を焼き、便衣兵と疑われる民間人を大量に処刑するのもやむを得ぬことだった。その後も軍のモラルの建て直しは難しく、戦地での強姦事件があとを絶たないため従軍慰安婦が必要とされた。

 こうした事件に天皇自らが積極的に関わることはなかったにしても、天皇に軍の統帥権を与え、シビリアンコントロールを無効にした明治憲法の欠陥は反省されなくてはならない。

 夢は夢であって、現実ではない。だからこそ、そこに時代を超えた永遠の輝きがある。それを安易に実際の過去の歴史と混同する。それは、天皇を崇拝しているようで、結局は天皇の「天」の超越性を卑俗化させ、堕落させているのではないか。

 天皇は世俗の権力を超越した存在であることで、その汚れなさを維持することができる。天皇が現実の権力に染まった瞬間に、天皇はただの傀儡に堕落する。

 逆に言えば中世から近世にかけては天皇についてリアルな観念がほとんど存在しなかった。だからこそ普遍的な理想を象徴することができた。その理想とは、軍隊(武家)が国を支配することない平和な時代であり、北畠(きたばたけ)親房(ちかふさ)の『神皇(じんのう)正統記(しょうとうき)』に言うような、軍隊などなくても神によって守られた「神国」の理想だったといってもいいだろう。

 慈円の『愚管抄(ぐかんしょう)』巻第三に、

 

 「保元以後のことは、みな乱世にて侍れば、わろき事にてのみあらんずるをはばかりて、人も申すをかぬにやと、おろかにおぼえて、ひとすじに世のうつりかはり、おとろえたることはりひとすぢを申さばやと思ひておもひつづくれば、まことにいはれてのみおぼゆるを、かくは人のをもはで、この道理にそむく心のみありて、いとど世もみだれ、をだしからぬ事にてのみ侍れば。これをおもひつづくるこころをも、やすめむとおもひてかきつけ侍る也。」

 

とあるように、当時は武家政権の誕生とともに乱世が始まったと認識されていた。

 芭蕉にとって、王朝時代崩壊以来の歴史は長い五月雨のようなものだった。そして、芭蕉の旅は、五月雨の降る前の、あの輝いていた時代を探す旅でもあった。

 

  五月雨の降り残してや光堂
 
 五月雨や色紙へぎたる壁の跡

 

  それは性急な王政復古というよりは、あくまでも遠い過去の痕跡にすぎず、ただどこまでも心の中で美化されたイメージだった。そして、その失われた夢は無常感すら誘うものだった。

 「忍は何をしのぶ草」の句はあの順徳院の、

 

  ももしきや古き軒ばのしのぶにも
     なほあまりある昔なりけり

 

 

の歌を思わせる。忍ぶのは遥かな理想の痕跡なのである。風雅の道とは、かつての理想郷であった王朝時代の痕跡を伝える媒体(メディア)だったともいえよう。

十八、秋風

 芭蕉の時代の人々は、今日の我々のようなリアルな歴史意識をもっていたわけではない。今日であれば科学の力で、太古の人間の骨や石器も探れるし、人間が四十億年の生命の進化の上で生まれたことも、宇宙が百五十億年前のビッグバンによって生まれたこともたどることができる。しかし、こうした現実の時間をどこまでも遡ることは、我々の心理的な時間と時計で計測される客観的な時間との分離によって可能になったにすぎない。ごく素朴な意識の中では、過去とは追憶であり、記憶の中で果てしなく美化されて理想化されてゆくものなのである。

 人は人間として天地自然の心をもって生まれてくるが、大きくなり現実に接するにつれ、悪に染まり人生の矛盾に打ちひしがれて、理想と現実がどんどん乖離していってしまう。歴史もまた同様に、かって理想の時代があったはずであり、それは人間の罪やどうしようもない運命によって引き裂かれ、今日に至っている。人は天の心を持って生まれながら、天を追放された流刑人であり、旅人である。

 こうした時間の観念が、「四時(しいじ)」の循環のイメージに重なる。春に生じた生命は、夏には生命の過剰から互いに争い、荒れ果てた夏草の茂る蓬生(よもぎう)となる。そして、秋風の声を聞き、やがて冬の死の世界へと帰ってゆく。人生も歴史も、こうした循環として捉えられる。それが芭蕉の時代の世界観だ。

 王朝時代は現実の世界ではない。それは理想化された世界であり、かって存在したはずである真理の痕跡に他ならない。それらは今日では引き裂かれている。『平家物語』もまたそうした真理の分断をめぐる人間の原罪の物語だ。天地が引き裂かれ、天道の支配が終わったとき、そこの残っているのは「ただ秋の風」。-藤原(ふじわらの)(よし)(つね)が、

 

 人すまぬふはの関屋のいたびさし
     あれにし後はただ秋の風

             藤原(ふじわらの)(よし)(つね)

 

と詠んだように。

 古代三関の一つであった不破(ふわ)の関は、そうした王朝時代のかすかな痕跡であり、荒れ果てた関屋の姿は王朝時代崩壊の現実と、かっての理想との隙間に吹く風であった。

 

 「やまとより山城(やましろ)を経て、近江(あふみ)()(いり)美濃(みの)(いた)る。います・山中を過て、いにしへ常盤(ときは)の塚有り。伊勢の(もり)(たけ)(いひ)ける、よし(とも)殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。(われ)も又、

 

 義朝の心に似たり秋の風

    不破(ふは)

 秋風や(やぶ)(はたけ)も不破の関」

 

 常盤の塚は源義朝の愛妾、常盤御前の塚で、牛若丸(源義経)の母でもある。平治の乱で平清盛の軍に敗れて義朝は戦死し、常盤御前は清盛に今若丸、乙若丸、牛若丸の三人の子供の命乞いをし、その後清盛の妻となったといわれている。息子の命と引き換えに、仇敵に身を売った常盤御前を、義朝があの世でどう思ったかは知らない。その後、当時知られていた古浄瑠璃『山中(やまなか)常盤(ときわ)(やまなかときわ)』の物語によれば、常盤御前は義経が奥州藤原氏のもとに逃れたと聞くと、後を追って奥州に向い、途中賊に襲われてこの山中の地で死ぬ。そして、そのことを知った義経が仇を討ったという。

 室町時代の末期に、俳諧の祖、荒木田(あらきだ)(もり)(たけ)が、

 

   月見てやときはの里へかかるらん

 よしとも殿ににたる秋風

 

と詠んでいる。

 連句は、上句と下句をつなげて、一首の和歌のように読み下す。つまり、この()は、

 

 月見てやときはの里へかかるらん

     よしとも殿ににたる秋風

 

となる。これ自体が複雑な倒置文となっているため、これを解消して平常文にすると、

 

 よしとも殿ににたる秋風は月見てはときはの里へかかるらむや

 

となる。

 源義朝によく似た秋風が、月を見たせいか、常盤の里に帰ってゆくよ、というのがこの句の意味になる。

 秋風がどうして源義朝に似ているのかその答えが今わかったような気がする。そう芭蕉は思ったのだろう。義朝の心が秋風に似ていたのだ。その秋風とは、藤原(ふじわらの)(よし)(つね)の言う不破の関に吹いていた、あの風だったのだ。

 

    不破(ふは)

 秋風や(やぶ)(はたけ)も不破の関     芭蕉

 

 

  破れずと書くはずの不破の関も、今は破れてしまっている。「やぶ」れても「はだけ」ても不破の関。歴史とは皮肉なものである。

十九、旅寝の果て

 美濃国大垣で船問屋を営む木因(ぼくいん)は、芭蕉のまだ(てい)徳門(とくもん)にあった頃からの友人で、山口素堂とともに初期の芭蕉の活動を支えてきた。天和二(一六八二)年には、

 

 柳されて嵐に猫ヲ釣ル夜哉    木因

 

の句が榎本其角選の『(みなし)(ぐり)』に載り、芭蕉もこの句を「その景色眼前(がんぜん)に覚え候。」と絶賛した。

 こうした古くからの友人のもとに来ただけに、芭蕉はしばし我が家に戻ったような気がしたのだろう。この五年後にも大垣の地は『奥の細道』の旅の終着点となる。

 

 「大垣に泊りける夜は、木因(ぼくいん)が家をあるじとす。武蔵野(むさしの)(いづ)る時、野ざらしを心に思ひて(たび)(だち)ければ、

 

 しにもせぬ(たび)()の果よ秋の暮」

 

  最後の句は、明らかに旅立ちの句、

 

  野ざらしを心に風のしむ身哉

 

に呼応している。

 あの時は「いつ死んで路傍の野ざらしの骸骨になろうとも」という悲壮な決意の旅立ちだったが、二ヶ月余の旅ですっかり旅に慣れてしまったのだろう。旅をせぬものにとって旅は非日常の世界であり、日常の「生」の空間に対し、旅の道筋は異界であり、「死」の空間である。芭蕉の江戸からの旅立ちは少なからずそのようなイメージで始まっていた。しかし、旅を日常の営みとする者にとって、こうした空間的な意味づけはもはや意味がない。その意味で芭蕉の旅は既に「死にもせぬ旅」となったのだ。

 これにおいて本来の『野ざらし紀行』の異界への旅立ち、死の空間への旅立ちというテーマは終了する。つまり、『野ざらし紀行』はここで終わってもよかったのである。ここから先は全体的に見て、前書きの文章も短く、文と文との間の統一性もあまりない。単なる旅の一断面として、断片的な記述の連続の様相を呈してゆく。もちろんそこでは、

 

 明ぼのやしら魚しろきこと一寸(いっすん)   芭蕉

 海くれて鴨のこゑほのかに白し    同

 春なれや名もなき山の薄霞      同

 山路(やまぢ)来て何やらゆかしすみれ草    同

 

 

など数々の名吟を残し、翌年の夏、江戸に帰りつくまでの旅程が描かれてゆく。しかし、とりあえず貞享元年の秋の終わりをもって、「野ざらし」の旅は終わったのである。

後編、木枯しの旅

一、冬牡丹

 今日のような温室のない時代にあって、冬は花に乏しい季節で、山茶花(さざんか)くらいが冬を代表する花だった。そんな中で冬に咲く牡丹は珍しい。今日でこそ、園芸用に改良された様々な華やかな花が花屋に並び、牡丹は片隅に押しやられてしまった観があるが、かっては花の中でも最も大きくど派手な花だった。

 

   「桑名本統寺にて

 (ふゆ)牡丹(ぼたん)千鳥(ちどり)よ雪のほととぎす」

 

 冬の牡丹というのは季節の情に合わせにくい難題ではあるが、千鳥を雪を抱いた郭公(ほととぎす)に例えることで切り抜けている。冬に似合わぬ牡丹の華やかさに、千鳥までが郭公に見えてくる。昔の人はこういう機知を楽しむ余裕があった。

 今の俳句だと、冬牡丹、千鳥、雪、郭公と四つも季語を使うなど考えられぬことだろう。芭蕉の時代では、門によっては季重なりを禁じているところもあったようだが、一般的には、季重なりについてはあまりうるさくはなかった。中世の連歌では季重なりのほうが普通だったし、季語に対する考え方が根本的に違っていた。季語という言葉があって、それさえ入っていれば自動的にその季節の句になるというものではなく、あくまで句全体の情がどの季節のものかが問題だった。

 「冬牡丹‥‥」の句を夏の句だと思う人は誰もいない。意味を考えれば冬の句であることは明白である。そのような場合は、夏の季語を混ぜようが春の季語を混ぜようが一向に差し支えない。季重なりがいけないというのであれば、あの山口素堂の、

 

 目には青葉山ほととぎす初鰹(はつがつを)   素堂

 

の句も生まれなかっただろう。今日の俳句は季語を杓子定規に考えすぎる。季節の情が明白な場合は、季語は本来いくつでも使ってよかったのである。規則のために句を詠むのではない。

 

 まあ、昔も今も才能のない作者ほど、どうでもいい規則の違反などを大げさに指摘して威厳を保とうとするだけのことで、無視すればいいことなのだが。季重なりを見つけてはすぐマウントを取ろうとする人には困ったもんだ。

二、白魚一寸

 同じ桑名でもう一句。

 

 「草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちの浜のかたに(いで)て、

 

  明ぼのやしら魚しろきこと一寸(いっすん)

 

 白魚は、当時江戸では春先の風物だったが、桑名ではむしろ厳冬の風物だった。このことは『東海道名所図会』(寛政九年刊)にも見られる。

 春の季題である「白魚」がここで旧暦の十一月頃に詠まれていることは、これまでもしばしば指摘されてきた。春の白魚は二寸で、ここではまだ一寸の白魚だから冬に詠んだという説。あるいは、死にもせぬ‥‥の句の後、芭蕉の死と再生の儀式として、あえてここに春の句を詠んだという説、などがある。

 しかし、そのように難しく考えなくても、実際芭蕉が桑名を訪れ、そこで(しゅん)の白魚漁に立ち合ったという事実があるのだから、この句は白魚だけど冬の句ということでいいのではないかと思う。

 この句は『桜下(おうか)文集(ぶんしゅう)』では、 

 

 「海上に遊ぶ日にはてづから蛤を拾うて、白魚をすくふ。逍遥船にあまりて地蔵堂に書す

 

 雪薄ししら魚しろきこと一寸」

 

とあり。これが初案だったと思われる。

 

    霜月初め、白魚

 明けぼのや白魚しろきこと一寸

 

という真蹟も残されている。

 おそらく、芭蕉自身も季語の問題で迷ったのだろう。一方では「雪薄し」と冬の季語を補い、一方では前書きで「霜月」と記した。しかし、こうした細かい所で規則にこだわってしまうと、どうにも身動きがとれなくなってしまう。土芳の『(さん)冊子(ぞうし)』に「この句、はじめ、雪薄し、と五文字あるよし、無念の事也(ことなり)といへり」とあるのも、規則に縛られて無意味な苦労をしたことの無念と見るべきであろう。

 「明けぼのや」も「雪薄し」もともに同じ連想から来ている。それは、今日では忘れ去られているものの、かって中世連歌を代表する付合だった

 

   罪の報いもさもあらばあれ
 月残る狩り場の雪の朝ぼらけ   救済(きゅうせい)

 

の句のイメージだ。

 狩りも白魚漁とともに仏教的に言えば殺生(せっしょう)には変りない。それは実際、結構楽しいのだが、ある時ふと対象となる動物の存在が気にかかる。長年狩りをしてきた老いた猟師が、ある時とても素晴しい獲物に巡り会って、さんざん追いかけ回した挙句確実にしとめられるというところで撃ちそんじる。そんなとき、はっと相手の動物に畏敬を感じる。そんなふうに、猟をしていてもまた、ふと雪の明けぼのの静寂の中で、我に帰ったように殺生の罪が気にかかる。「明けぼのや」にしろ「雪薄し」にしろ、そんな瞬間を暗示させようとしている。

 素堂は杜甫の「(はく)小群分(しょうぐんぶん)(めい)。天然二寸魚(にすんのうお)細微(さいび)なるも水族(すいぞく)(うるお)す。」を引いて「天然二寸の魚といひけんもこの魚にやあらむ」といっている。楽しい白魚漁も曙にはふとその小さな命に哀れを覚える。一寸というといかにも「ちょっと」という感じで、「一寸先は闇」だとか「一寸の虫にも五分の魂」とかいう諺が思い浮かぶ。

 カルロス=カスタネダの『イクストランへの旅』の中にこのような一節がある。少々長いが引用しておこう。

 

 「わたしの祖父が若いレグホンを数えていて、激恕したことからすべては始まった。それが確実に、しかもびっくりするような仕方でずっと減っていたのだ。彼は自分で計画して寝ずの番をしていた。数日後、彼はついに大きな白い鳥が若いレグホンを一羽ツメにひっかけて飛び去るのを目撃した。その鳥は早く、明らかにどう逃げたらよいかを知っていた。それは木のかげから急降下し、ひな鳥をひっかけると二本の枝のあいだを通って飛び去るのだ。それがあまりにもあっという間のできごとなので祖父は見とどけることはできなかったが、わたしにはわかったし、それがタカであるということもわかった。祖父は、それがタカだとすれば白変種にちがいないと言っていた。

 わたしたちは白タカ退治をはじめ、落とした、と思ったことが二度あった。しかし、獲物を放しただけで逃げられてしまった。あまりにも早かったのだ。それはまた頭もよかった。二度と祖父の養鶏場へは現われなかったのだ。

 もし祖父がその鳥を落とすことをそそのかさなかったら、わたしはその鳥のことなど忘れていただろう。二カ月のあいだ、わたしはその白タカを追って谷じゅうを歩きまわった。その習性を学び、それの飛ぶコースが直観的にわかるほどにまでなっていたが、それでもその早さと、現われるときの唐突さにはいつもだしぬかれていた。わたしは、出会うたびにそれが獲物を持ち去るのを阻止できたということは自慢できたが、ついに捕えることはできなかった。

 二カ月にわたる白タカとの奇妙な戦いのあいだに、一度だけそれにまぢかに近づいたことがあった。わたしは一日じゅうそれを追いかけまわして、くたくただったので、ユーカリの木の下にすわりこんて眠ってしまった。突然のタカのなき声で目がさめた。からだを動かさずに目だけあけると、そのユーカリのてっぺんの枝に白い鳥がとまっているのが見えた。それが白タカだったのだ。追跡は終わった。しかし銃を撃つのはむずかしかった。というのも、わたしはあおむけになっており、その鳥もわたしに背を向けていたからだ。そのとき、急に風が吹き、わたしはその音にまぎれて二十二口径のライフルを取り、ねらいを定めた。撃ち損じないように、それが向きを変えるか枝を離れるかするまで待っていようと思った。しかしその白タカは身動きひとつしなかった。確実に撃つには姿勢を変える必要があったが、そんなことをすればあっという間に逃げられてしまう。待つことが最上だと思った。わたしは待った。長く果てしのない時間だった。わたしは動揺した。それは待つ時間の長さのせいか、あるいはその場の寂しさのせいだったかもしれない。急に背すじがゾクッとし、それまでにはしたこともなかったようにからだを動かして立ちあがり、その場を去った。そしてその鳥が飛び去ったかどうかふりかえって見ることさえしなかった。

 わたしは白タカに対してとった態度を深く考えたことはなかった。しかしそのときに撃たなかったというのは、おそろしく不思議なことだった。それ以前には何十というタカを撃っているのだ。わたしの育てられた農場では鳥や動物を撃つのは当然のことだったのだ。(『イクストランへの旅』カルロス=カスタネダ、一九七四、二見書房、p.5859

 

 このエピソードを、この本では「死が警告を与えた」と解釈する。白い鷹にカスタネダが忍び寄ったように、カスタネダにもいつも死が忍び寄っている。人は生きるために常に生き物を殺して食ったり、害獣を駆除したりする。しかし、その生存競争の連鎖は、結局人間自身にも帰ってくる。人もまた、戦争を繰り返し、生きるために殺しあってきた。食ったり食われたり、それが生きるということだ。しかし、それがふと悲しくなり、そこから解脱したいという気持ちが生じる。そこに、人間の良心の芽生えがある。

 似たような話は日本の『吾妻鏡』にもある。

 

 「去る三月七日熊野の那智浦より補陀落山に渡った者がおります。法号は()定房(じょうぼう)、実はこの者こそ下河辺六郎行秀法師でした。亡き頼朝殿が下野国の那須野で狩をなさったさい、大鹿一頭が勢子(せこ)の囲い込む中に臥したので、幕下より殊勝なる射手として行秀が召し出され、あれを射よ、と命じられたので厳命にしたがったが、彼の矢は当たりそこね、鹿は勢子の囲いの外へと逃げ去り、小山四郎左衛門尉(とも)(まさ)がこれを射取りました。行秀は当の狩場で出家を遂げ、逐電し、それきり行方知れず。近年ようやく彼が熊野山で日夜「()()(きょう)」を読誦しているとの噂を耳にしていたのですが、とうとうかように補陀落(ふだらく)渡りを決行するに至り、憐れに思います。只今お見せしています書状は、彼が同門の僧に(あつら)えて、泰時に送り届けてくれよと言い置いていましたもの。今日、紀伊国の(いと)我庄(がのしょう)というところから到着いたしました。書面には、出家遁世してのちのことどもを、くわしく記しております」(『的と()』横井清、一九九八、平凡社、p.25

 

 それまでたくさんの鹿を殺してきた行秀も、突如現われた大きな鹿の神々しい姿に一瞬躊躇が生じ、射損ねてしまったのだろう。行秀はこの時、一瞬にして悟りを開いたようだ。まさに「死が警告を与えた」と言にふさわしい。

 同じようなテーマの句に、

 

 おもしろうてやがて悲しき()(ぶね)(かな) 芭蕉

 

という句がある。この句はこれより四年後の句であるが、その発想の原形は既にこの「明ぼのや‥‥」の句にあったといえよう。

 なお、素堂も引用した杜甫の「白小」という詩を最後に掲げておこう。

 

    白小         杜甫

 白小羣分命 天然二寸魚

 細微霑水族 風俗當園蔬

 入肆銀花亂 傾筺雪片虚

 生成猶捨卵 盡取義何如

 

 白小という種に分かち与えられた命は、もとより二寸の魚として生きること。

 微細な水棲動物に甘んじ、土地の習わしでは菜っ葉同様。

 店に入荷すれば銀の花と咲き乱れ、籠を傾ければ雪の欠片と消えてゆくとも、

 

 捨てた卵からまた生まれ育ち、取り尽くそうだなんてなんて無駄なこと。

三、熱田詣で

 中世の神社仏閣は勧進(かんじん)(いわば寄付金集め)の名のもとに、様々な芸能でにぎわう場だった。平曲、曲舞、猿楽、田楽など、にわか仕立ての桟敷に大勢の人が押しかけ、お祭り騒ぎだった。また、こうした場所では連歌会(れんがえ)(れんがえ)も盛んに行なわれ、熱田神宮でも『応永三十年熱田法楽百韻』などが残されている。(出版文化の未発達な時代には、こうした興行は寺社で行われ、境内に掲示されることで世俗に伝わっていったものと思われる。)

 しかし、時代は変り、江戸時代に入ると、芸能は寺社の管轄から幕府じきじきの監視下に移され、神仏とは縁もゆかりもない場所に新たに芝居町を作り、そこへ移した。それは、神社仏閣を渡り歩く旅人だった芸人に常設舞台をあてがい、定住を促進する政策だった。もっとも、そういうとまだ聞こえがいいが、要するに芸能者を非人の身分に貶め、一種のゲットーに閉じ込めて、隔離しようとしたのだった。

 徳川家の支配の下、芸能は片隅に追いやられ、隔離され、かつての自由に旅をする権利を奪われていった。それをふたたび取り戻すということが、芭蕉にとっての生涯のテーマであり、「旅」の意味だといってもいい。

 熱田神宮も、そうした中で、時代から取り残され、荒れ果てていた。

 

 「社頭(しゃとう)大イニ破れ、築地(ついぢ)はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、(ここ)に石をすえて(その)神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに(おひ)たるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。

 

 しのぶさへ(かれ)て餅かふやどり哉」

 

  後醍醐天皇の御廟はまだしのぶ草に忍ぶことができた。しかし、かって道祖神のもとに繁栄を極めた中世の公界の芸能は、今やしのぶさえ枯れ果てている。ただ、夏に生い茂っていた蓬が蓬餅になって残っているだけ。芭蕉もまた中世の西行や宗祇の旅にあこがれて自ら旅に出たものの、茶店で餅をほおばりながら、時代の違いをしみじみと思ったのであろうか。(とう)(よう)はこの句に、

 

   しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉

 (しは)び伏したる根深(ねぶか)大根      桐葉

 

と付けている。「(しは)び」は「()び」に掛かっている。

 芭蕉がしばしば荒れ果てた寺社や野ざらしの仏像などを題材にするのは、決して単なる「風情」からではない。よく「滅びの美学」なんて言葉も耳にするが、芭蕉自身は決してそれが亡ぶことなんか望んでなかった。

 熱田神宮はこの二年後の貞享三(一六八六)年に修復が行なわれ、その翌年貞享四(一六八七)年の冬に『笈の小文』の旅でふたたび訪れた時には、新しくなった熱田神宮を喜び、

 

    熱田御修覆
 
 (とぎ)なをす鏡も清し雪の花     芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 芭蕉の祈りが天に通じたといってもいいだろう。つまり、芭蕉の句が多くの人の心を打ち、それが熱田神宮の修復への契機となった可能性は十分ある。古今集「仮名序」の「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし」とはこのことだ。

四、狂句木枯

 名古屋は芭蕉にとって、この旅の中でも最も大きな収穫のあった場所だ。それは荷兮(かけい)()(こく)重五(じゅうご)野水(やすい)など、名古屋周辺で活躍していた俳諧師たちとの出会いだった。

 『野ざらし紀行』の中では、

 

   「名護屋に(いる)道のほど風吟(ふうぎん)ス。

 狂句木枯(こがらし)の身は(ちく)(さい)に似たる哉

 草枕(くさまくら)犬も時雨(しぐる)るかよるのこゑ」

 

とこれだけの記述しかないが、「狂句木枯‥‥」の句は、その出会いの記念すべき発句だった。このメンバーは、後に『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』といった撰集を編纂し、蕉風確立期の一時代を築いた。古池の句に代表される、芭蕉の一つの時代は、荷兮らとともにあった。

 『冬の日』には、この「狂句木枯‥‥」の句で始まる歌仙(三十六句からなる俳諧連歌)が収められている。

 

 「笠は長途(ちゃうと)の雨にほころび、(かみ)()はとまりとまりのあらしにもめたり。侘びつくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。昔狂哥(きゃうか)の才子、(この)国にたどりし事を、不図(ふと)おもひ(いで)(まうし)侍る。

 

  狂句木枯(こがらし)の身は(ちく)(さい)に似たる哉  芭蕉

   たそやとばしるかさの山茶花(さんざか)  野水

 有明の(もん)()に酒屋つくらせて    荷兮

   かしらの露をふるふあかむま  重五

 朝鮮のほそりすすきのにほひなき  杜国

   ‥‥以下略‥‥」

 

こんな調子で、三十六句続く。

 連歌は基本的に上句五七五と下句七七を合わせて一首の和歌を完成させる遊びで、俳諧も同様、

 

  狂句木枯の身は竹斎に似たる哉

     たそやとばしるかさの山茶花

 

 有明の主水に酒屋つくらせて

     たそやとばしるかさの山茶花

 

 有明の主水に酒屋つくらせて

     かしらの露をふるふあかむま

 

といったような狂歌を作っていくものと考えていい。

 最初の発句は、いわば俳諧興行開始の季候の挨拶であり、そのため季題を入れる習慣になっている。今日の俳句に季語を入れるのは、その名残だ。

 「狂句木枯(きょうくこがらし)」というのは、いわば芭蕉自身のキャッチフレーズのようなものだ。当時はまだ今でいう川柳などと同様に用いられる「狂句」(たとえば「薩摩狂句」のような)というジャンルはなく、ここでは自分の詠む句をへりくだってそう呼んでいる。「狂句を詠む木枯し」という意味の造語と見ていい。

 「狂句」を独立させて「狂句。木枯の‥‥」と読ませ、「この句は狂句ですよ」という前置きだとする解説が多いが、無理がある。素堂も「狂句木枯の竹斎、よく(つづみ)をうつて人の心を舞しむ」と記している。

 木枯はかっての仮名草子の主人公「木枯の竹斎」によるものだ。竹斎などという三百年前のキャラクターは、今日では完全に忘れ去られ、芭蕉がこの句を詠まなかったらおそらく岩波文庫に加えられることもなかっただろうが、かっては誰でも知る人気者だったようだ。

 竹斎は「やぶくすし」で、にらみの介という従者を従えて、京都から江戸にむけて、東海道を旅する、いわば珍道中記の体裁をとっている。竹斎は薮医者で、薮だから竹の名前がある。従者の「にらみの介」も同様、薮だから「にらみ」という安直さでつけられている。医者の腕の方は怪しげだが、面白い頓智のきいた狂歌を詠んでみんなを楽しませていたようだ。いわば、道化師として、まさに素堂の言うような「よく鼓をうつて人の心を舞しむ」ような存在だった。「木枯の竹斎」というのは、これに吹かれればみんな散ってしまうという意味か。

 当然、使う薬も怪しげなもので、フスマ(小麦の殻を砕いたもの、ブランとも呼ばれる。今日でも健康食とされている)ならぬ畳の黒焼などを持ち出して病人を治療する。中でも変なのが、「吸い膏薬」で、磁石山の石で作られたというこの強力な吸い取り薬は、一度は目に鉄屑の入った患者を見事に救うが、青梅が咽につかえた女に用い、梅は見事に吸い出したものの、ついでに目鼻も吸い寄せ、目玉が飛びだしてしまい、これが変な顔になってしまった。女は怒りだし、竹斎は慌てて逃げ帰り、そのとき、

 

 目の玉の抜け上がるほど叱られて

     この梅ほうしすごすごと行く

 

 という狂歌を詠む。「梅干し」と「法師」を掛けている。

 また、たまたま井戸に子供が落ちたところに通りかかり、助けようにもロープも梯子もないので、板戸に例の「吸い膏薬」を張り付け、井戸の口に蓋し、子供を吸い寄せようとしたが、いくら待っても子供は上がってこずに死んでしまい、ここでも袋叩きにあう。そこで一首、

 

 筒井つの井筒に落ちし人の子の

     とがをば我が負いにけらしな

 

この歌は、『伊勢物語』の、

 

 筒井つの井筒にかけし麿がたけ

     過ぎにけらしな妹見ざるまに

 

 のパロディーになっている。

 芭蕉が読んだのは、多分天和三年版の『竹斎』で、この本は挿絵が豊富で、今で言えば漫画のようなものだった。

 それにしても、竹斎は何で自ら「天下一・やぶくすし・竹斎」と看板を掲げるのだろうか。許六(きょりく)編の『風俗(ふうぞく)文選(もんぜん)』によると、かって「やぶ」という名医がいたとのこと。ところが、その名声が世間に知られるにつれ、「やぶ」を名乗る偽医者がたくさん現われ、そのうち「やぶ」というのが偽医者の代名詞になったという。竹斎も、そういういかがわしい偽医者だったようだ。

 竹斎は狂歌を詠むが、芭蕉が詠むのは歌ではなく句だ。それゆえ「狂句木枯」になる。この句は、「狂句木枯」のこの私の身は竹斎のようなものです、という自己紹介の句だと思えばいい。それに対して、野水は「道理で笠に山茶花の花が飛び散ってるはずだ、誰かと思ったら竹斎のような狂句木枯ですか」と答える。(「とばしる」と一般に読まれているが、この時代は清濁の表記がなかったので、「飛ばしる」は「とは知る」と読むこともできる。誰だかは自ずと知れる、というニュアンスが込められている。)

 この野水の脇句に、荷兮は、

 

 有明の(もん)()に酒屋つくらせて

 

と続ける。これで、

 

 有明の主水に酒屋つくらせて

     たそやとばしるかさの山茶花

 

という歌ができる。(もん)()というのは本来水を管理する役人のことで、人の名前によく使われた。主水(水の主)というくらいだから、さぞかしうまい酒ができるだろう。そんな粋な計らいをするのは誰だろうか、笠に山茶花の花が飛び散っている洒落者だ、という意味になる。

 今日、芭蕉というと発句ばかりが有名だが、本来俳諧というのは、大勢の(れん)(じゅ)を集めてこうした俳諧の連歌を作るのを仕事としていた。大勢で談笑し、楽しい一時を演出し、社交の場を作り、御祝儀をもらうのが俳諧師の興行であり、それを本にしたりするのは、どちらかというと副産物だった。

 江戸初期の貞門から談林にかけての俳諧の中心は、あくまで興行にあった。

 しかし、興行は基本的には大勢のお客様を招待し、さらには遠くから高名な俳諧師を呼んだりしておもてなしをする関係上、決して庶民が気軽にというものではなかった。むしろ、裕福な武家や豪商の特権とでもいうべきものだった。もちろん、庶民もそうした席に呼ばれることはあっただろう。しかし、それはあくまで才能を見込まれてのことだった。芭蕉も藤堂家のの跡取り息子藤堂(とうどう)(かず)計良(えよし)(ただ)蝉吟(せんぎん))の俳諧の席に呼ばれることで、俳諧と出会うことができた。

 そのため、貨幣経済が発達し、本格的な町人文化の花開く元禄の世となると、文化の主体がこうした金持ちから一般庶民へと移ってゆく。そうなった時、金のかかる興行俳諧は次第に敬遠されるようになっていった。

 元禄より前の談林俳諧の大流行した延宝の頃、出版メディアが急成長し、俳諧はこの頃から盛んに本になって、庶民に読まれるようになった。談林俳諧はこうした時代の変わり目で、興行場所を初期の花の下連歌のように、あえて不特定多数の集まる寺社で行い、その場で即興で巻かれた百韻を集めて出版するというスタイルを取った。興行の余韻をそのまま本にして伝える戦略だったが、やがて出版を重視する方向に変わっていった。

 これに対し、その場での興行を重視する西鶴は、本で読んで面白い俳諧よりはむしろ、公衆見守る中でいかに素早く早く句を付けていくかを競う矢数(やかず)俳諧(はいかい)の方向に向かっていった。

 談林は閉鎖的な連衆の笑いではなく、不特定多数の人々を意識した新らしい笑いの世界を展開した。これによって、人情ネタ、今日でいう「あるあるネタ」、突飛な発想によるシュールな笑い、古典のパロディーなど、今日の「お笑い」の基本がこの時期に確立されたといっても過言ではない。むしろ日本のお笑いの基礎を作ったという点でも、延宝期の芭蕉の果たした役割は再評価されなくてはならないだろう。

 しかし、貞享期に入ると、芭蕉は古典へと回帰する中で、ふたたび興行俳諧へと戻ってゆく。やはり芭蕉にとって終生忘れることができなかったのは、蝉吟の招きで俳諧興行に参加し、そこで身分の分け隔てなく談笑するあの空間だったのだろう。

 しかし、時代は後戻りすることはなかった。江戸での俳諧の主流は、庶民が自分たちで巻いた俳諧一巻を師匠のもとへ持っていって、加点をしてもらい、高得点の作品を本にするという、いわゆる「点取り俳諧」へと流れていった。

 点を付けるといっても、六十点とか七十点とかいうのではない。送られてきた句の上に、点者が良い句だと思ったものの上に点を打ち、点の付いた句の数を競うものだ。この点を付けることを、加点(かてん)とも合点(がってん)ともいう。承知を意味する「がってん」の語源は俳諧用語だった。加点は中世の連歌でも行なわれていたが、庶民の作品を俳諧師匠が点賃を取って審査するという商売は、点取り俳諧に始まる。

 やがて時代が下ると、一巻を審査するのではなく、前句を出題し、それに対する付け句だけを募集するようになる。そのほうが誰でも気軽に参加できるし、句もたくさん集められる。つまりそれだけ点賃が取れるということになる。こうして、やがて芭蕉の時代より百年後になると、(から)()川柳(せんりゅう)によって、前句が「にぎやかなことにぎやかなこと」のようなものへと簡略化され、やがて前句もなくなり、ただ面白い五七五を募集するようになる。これがいわゆる「川柳」となった。

 投句者がそのまま読者となり、投句者の数がそのまま本の販売部数につながるこの方法は、近代俳句が誕生する際、「ホトトギス」がそのまま五七五の「俳句」を募集し、それを選者が選んで本に載せるという形式で、新たな命が吹き込まれた。

 今日の俳句結社の同人誌は基本的にこの「ホトトギス」のスタイルを継承している。今日の俳句誌や新聞の投句欄は、点は打たないものの、基本的には入選順位や入選句数を競う「点取り俳諧」なのである。

 ただ、今日ではメディアの中心が出版からネットへ移行しつつある。点取り俳諧の手法をそのままネットで行おうとしても、点料の徴収が難しいという問題があるのと、ホームページでもブログでもツイッターでも誰でも別に撰者を通さなくても作品が発表できるため、選者の権威が維持しにくいという問題がある。基本的に「俳句」は団塊世代以上の文化として高齢化する一方で、それに変る新しい流れは生まれていない。

 これに対し、芭蕉はあくまで興行俳諧の伝統を守ろうとした。

 発句の心は挨拶である。しかめっ面して相手を睨みつけて挨拶をする人はいない。挨拶はあくまでも人間関係の緊張をほぐすためのもので、だからこそ気の利いたジョークの一つも求められる。しかし、俳諧を談笑だとする古い連衆の空間は、都会の生活の中ではすでに過去のものとなろうとしていた。おそらくその原因は、基本的に人間関係のわずらわしさにあったのだろう。人を招待するとなればお金も掛かるし、見栄も張らなくてはならない。そこではえてしてうわべだけの社交辞令に終始しがちになり、また閉鎖的な人間関係は排他的な価値観を生み出し、そこに参加するものの特権意識と大衆への侮蔑意識を生み出す。今日連句を復活させようとする試みがないではない。だが、そのとき一番障壁になるのは、やはりこの文学者を自認する人達の大衆を見下した特権意識ではないか。

 江戸や大阪が談林俳諧の大流行に加え、出版メディアの確立によって、俳諧の大衆化が急速に進んだのに対し、名古屋はまだのんびりと連衆を集めて古典を肴に談笑する余裕が残っていたのだろう。荷兮らの作風は談林的なリアリズムを取り入れながらも、貞門の高雅な部分を残していた。そのへんもまた芭蕉の意図と一致したのだろう。

 しかし、結果的には蕉門は都会の俳諧師としては失敗した。元禄三年頃から芭蕉は「軽み」を唱え、点取り俳諧華やかなる都市部に食い込もうとするが、既に其角、嵐雪などの古い門人は芭蕉と距離をおくようになり、苦しい戦いを強いられた。芭蕉の死後、蕉門の中心は、むしろ近江、美濃、伊勢といった地域に移り、田舎俳諧の色彩が強くなっていった。

 もう一つの名古屋での発句、

 

 草枕(くさまくら)犬も時雨(しぐる)るかよるのこゑ

 

の句は、興行の句ではなかったようだ。宗祇法師の、

 

 世にふるもさらに時雨の宿り哉

 

のイメージによるものだろうか。旅の見知らぬ宿に雨露をしのいでいると、どこからか犬の遠吠えの声が聞こえてきたのだろう。犬というのは俳諧に縁が深い。室町時代に作られた『菟玖波集(つくばしゅう)』、『新撰菟玖波集』は連歌の撰集だが、それに(なら)って作られた俳諧の最初の撰集は『犬菟玖波集』だった。

 

 宗祇の「世にふるも‥‥」の句は連歌の発句だった。芭蕉は自らの俳諧師という立場を考えて、あえて「犬も時雨るか」と言ったのであろう。

五、市人よ!

   「雪見にありきて

 市人(いちびと)(この)笠うらふ雪の傘」

 

 雪の笠といえば呉天(ごてん)の雪。玉屑の「閩僧(びんそう)可士(かし)(そうを)(おくる)詩」の「笠重呉天雪 鞋香楚地花(笠は重し呉天の雪、(くつ)は香ばし楚地の花)」は当時よく知られた有名な禅語で、芭蕉は天和二年にも、

 

 夜着は重し呉天に雪を見るあらん    芭蕉

 

の句を詠んでいた。

 雪の中を旅してくると、笠に雪が積もり、呉天の雪の笠が出来上がる。これを売ろうというのだけど、別に笠自体を本当に売ってしまうわけでもなく、ただ冗談で呉天の雪の笠だと銘を打つと高く売れるかなと言っているだけのことだ。

 いってみれば、言葉の上でだけで作り出された「ないもの」を売る。それが詩人という職業だ。名古屋で、自分を仮名草子の竹斎になぞらえた芭蕉は、ここでも自分を「ないものを売り歩く」いかがわしい商人に例える。RCサクセションの『不思議』という歌に、

 

 俺は資本主義の豚で
 ないものを売り歩く

 

 とあるが、それと似たような心だろう。天和三年の『(みなし)(ぐり)』での榎本其角の発句にも、

 

  詩あきんど年を(むさぼ)酒債(さかて)(かな)   其角

 

とある。

 「雪見にありきて」という前書きは、雪を見ている間に、笠にこんなに雪が積もってしまった、ということだろうか。

 芭蕉は単に卑下する気持ちだけでこのように自身の姿を描いているのではない。むしろ、芭蕉は市場にいるさまざまな卑賎視されてきた芸能の人々になみなみならぬ関心を持っていたようだ。

 

 ()季候(きぞろ)の来れば風雅も師走哉    芭蕉

 節季候を雀のわらふ出立(でた)ち哉    同

 から鮭も空也(くうや)の痩せも寒の内    同

 納豆きる音しばしまて鉢叩(はちたたき)     同

 年々(としどし)や猿に着せたる猿の面     同

 

()季候(きぞろ)鉢叩(はちたたき)空也念仏(くうやねんぶつ)猿引(さるひき)、これらは身分としては士農工商の外にいる人々で、いわば非人と同等に扱われている人達だった。これはおそらく、芭蕉の句を一貫して流れる、卑俗なものと古典風雅との一致の理想の中に、身分制社会への反発ということが底流にあったからではなかったか。卑賎ないかがわしい商人で何が悪い、という反骨精神が、笠の雪を売り歩く自身の姿となったのではなかったか。

 実際、こうした卑賎な芸能者は、腹を膨らましてくれるわけではない。しかし彼らは過酷な生存競争の世の中にあって、笑いや涙をもたらし、ぎすぎすした緊張した関係を解きほぐし、人を和ませ平和な世界を作る。芸能の役割はまさに「軍縮」だ。争いをやめさせ、みんなで一緒に笑ったり泣いたりできる平和な世界を作るのがその最大の仕事だ。だから、徳川の武家政治はもとより、今も世界のいたるところにある独裁国家は大体において芸能を弾圧する。中国の文化大革命の時など、そのいい例だ。

 芭蕉も俳諧師として、「風雅」のもつ「たけきもののふをなぐさめ、力を入れずして天地を動かす」の理想を共有するものとして、こうした芸能者の姿を眺めていたのであろう。 年末の市場は忙しく、活気がみなぎっている。俳諧師としては特に用はないのだが、それでもその人々の息吹を感じたくて、市場に足を踏み入れる。

 

 何に此の師走の市にゆくからす   芭蕉

 

という元禄二年冬の句もあるように、芭蕉は師走の市場の雰囲気が好きだったのだろう。用もないのに市場に出かけて行く自分を自嘲している。黒ずくめの僧形の芭蕉は、市場ではやや場違いな存在だ。

 近代には、西田幾多郎も黄昏時の金沢の町の雑踏に、これが世界の真実の姿だと悟り、後の「純粋経験」の着想を得ている。雑然としていて、人々が笑い合ったり罵り合ったりしながら、それでいて何となく秩序が保たれている。そこはまさに「道」そのものの姿だ。陰と陽、相反する気が互いに交錯しながら、天地万物はつつがなく運行を続ける。「混沌は万物の母」とは老子の言葉だが、混沌とした市場の道の雑踏こそ、すべての人間の活力が生まれてくる。芭蕉は決して世俗と縁を切った人ではない。「帰俗」ということを唱える芭蕉は、自らも詩あきんどとなって市場に出て「俳諧」という雪の笠を売り続ける。

 果たしてこの笠は売れたのだろうか。「芭蕉」のブランドがあれば、結構法外な値で売れそうな気もするが、肝心な「もの」がないならやはりダメか。芭蕉は再び「雪の笠」をかぶりながら、とぼとぼと旅を続ける。

  なお、この句は名古屋抱月亭での興行のさいの発句、

 

 市人にいで是売らん笠の雪     芭蕉

 

の改作で、興行の時は市人に呼びかけるのではなく、これから市場に行って笠の雪でも売りにいきましょうか、という意味になっている。抱月亭の主人、抱月はこの句にこう答える。

 

   市人にいで是売らん笠の雪

 酒の戸たたく鞭の枯れ梅

 

 「笠の雪」などという要らないものを売りに行こうと誘いに来た人は一体誰だろう。そう思って外に出て見ると、酒屋の戸を叩いていたのは梅の枯れ枝だった。「笠の雪」を売る商人は幻だったか。

 なお、自分を被差別民に見立てた句といえば、元禄三年の(さい)(たん)に、

 

 こもをきてたれ人ゐます花のはる 芭蕉

 

 

 これは膳所(ぜぜ)の木曾(よし)(なか)の塚の隣に住んだことから、自分を墓守(はかもり)と呼ばれる賤民に見立てたもので、物議をかもした句でもあった。

六、馬をさへ

   「旅人をみる

 馬をさへながむる雪の(あした)哉」

 

 十二月、芭蕉はふたたび熱田の(とう)(よう)のもとを訪れ、そこで興行する。寒い雪の朝、しばし旅を忘れ、火燵で外をゆく馬の姿でも見ようか、といったところか。桐葉の友人の(かん)(すい)はこう和す。

 

   馬をさへながむる雪の朝哉

 木の葉に墨を吹きおこす鉢    閑水

 

それなら火鉢に火を起こしましょう、という意味だ。

 こうした状況からすると、この句は宿から旅人を眺める句なのだが、それではあまり面白くない。芭蕉があえて「旅人を見る」という前書きを付けたのは、むしろ外を行く旅人に自分の姿を重ねたからではないか。つまりこれは自分もまた旅をしていて、すれちがう旅人に鏡に映る自分の姿を見たと解すべきではないか。

 旅人も辛そうだが、朝もまだ薄暗いうちから凍り付くような雪の朝を重たい人を乗せて歩く馬はもっと辛そうだ。旅人もそうだが、つい馬の姿も眺めてしまう。

 馬に乗った自画像は天和二(一六八二)年にも、

 

 馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉  芭蕉

 

 

の句がある。夏の照りつける炎天下にわずかな笠で涼むだけの旅人と、凍てつくような冬の朝に雪の笠をかぶる旅人。辛さという点では甲乙つけ難い。

七、鴨の声ほのかに白し

   「海辺に日暮(ひくら)して

 海くれて鴨の声ほのかに白し」

 

  鴨の声に色があるというのは共感覚っぽい感じだが、「白し」は「いちじるしい」というときの「しるし」からきた言葉で、はっきりと、という意味がある。宗祇の『水無瀬三吟』の句に、

 

   川風にひともと柳春みえて

 船さす音もしるき明け方     宗祇

 

とあるが、この「しるき」と同じに考えればいい。海も日が暮れて薄暗くなれば、あたりもうすぼんやりとしてくる。そんな中で、鴨の声だけがかすかだがはっきりとあたりに響きわたる。

 「海辺に日暮して」は海辺での野営を思わせる。広大な海を前にしてのキャンプはいかにも豪快な感じで、赤々と灯るたき火にしばし寒さを忘れ、なごませられる。その雰囲気を読み取ってか、この句には、

 

    海くれて鴨の声ほのかに白し
 串に鯨をあぶる(さかづき)       桐葉

 

という脇が付けられている。

 ところで余談だが、「みそか月なし千とせの杉を抱あらし」の句を嵐が杉を抱くと解すくらいならいいが、『奥の細道』の「田一枚植えて立ち去る柳哉」の句を柳の精が田を植えて立ち去るというトンデモ解釈を振り回す人がいたりする。こうした人の説によると、動詞連用形のあとに来る名詞は、その動詞の主語でないと日本語として不自然だそうだ。確かに「走る馬」といえば「馬が走る」のだし、「飛ぶ鳥」というのは「鳥が飛ぶ」のを言う。しかし、それなら、「明日見にいく柳は‥‥」といった場合はどうだろうか。柳が見にいくのではない。「一人寝る夜は‥‥」といった場合はどうだろうか。夜が一人で寝るのではない。こういう言い回しは日本語としてはありふれたもので、それからすれば、「抱く嵐」を「嵐が抱く」と取る必然性は何もない。

 

 もし、「みそか月なし千とせの杉を抱あらし」の句を嵐が杉を抱くと解さなければ日本語として不自然だ、「田一枚植えて立ち去る柳哉」の句を柳が田を植え立ち去ると解さなければ日本語として不自然だ、というのであれば、この「串に鯨をあぶる杯」という桐葉の句も「杯が鯨をあぶる」と解すべきなのだろうか。

八、歳暮

 「(ここ)草鞋(わらぢ)をとき、かしこに杖を(すて)て、旅寝ながらに年の(くれ)ければ、

 

 年(くれ)ぬ笠きて草鞋はきながら」

 

 山口素堂が波静本の序で「いづれの浦にてか笠着てぞうりはきながらの歳暮のことぐさ、これなん皆うきよの旅なることをしりがほにてしらざるを諷したるや」と言っているように、この句は「海くれて‥‥」の続きで、海辺での野宿の句だ。

 この後に「といひいひも、山家(やまが)に年を越て」と続くところから、この句を故郷伊賀での句とし、芭蕉にとっては故郷も旅寝だとする説もある。しかし、私は素堂のように単純に海辺で草鞋(わらじ)をといて杖を捨てて年の暮れを過ごしたという解釈でいいように思える。

 「といひいひ‥‥」以下は正月の句が故郷での吟であることから急転を計ったもので、たとえ大晦日は故郷で過ごしたにせよ、年暮れぬの句は芭蕉の心の中ではどこかの浜辺たった。

 この句の面白いのは,「草鞋をとき」と前置きしながら「草鞋をはきながら」としている点だ。物質としての草鞋はといたが、心の中の草鞋をとくことはできない。人生は旅だ。たとえ旅から帰ったとしても人生という旅は終わってはいない。そんな意味が「笠きて草鞋はきながら」の言葉に込められていて、素堂が「うきよの旅なることをしりがほにてしらざるを諷したるや」と言うのもそういう意味なのだろう。

 

 この句をもって、芭蕉にとって大きな転換の年だった貞享元年が終わる。

九、丑の年の歳旦

 結局、実際芭蕉は故郷の伊賀で新年を迎えることになった。

 

 「といひいひも、山家に年を越して

 

 ()(むこ)歯朶(しだ)に餅おふうしの年」

 

 「歯朶(しだ)に餅おふ」は、新年に(むこ)(しゅうと)の家へ鏡餅にシダを添えて送る風習によるものらしいが、詳しいことはよくわからない。シダは今日でいう裏白のことか。裏白は今でも鏡餅の下に敷くが、かつては正月のわらべ歌に、

 

 「お正月さん、どこまでござった。羊歯(しだ)を蓑に着て、つるの葉を笠に着て、(かど)(くい)を杖について、お寺の下の柿の木に止まった。」

 

というふうに歌われていたという。歯朶は正月の神様、正月さんの蓑にも見立てられた。餅を背負って歩く牛の姿は、まさに正月さんの旅姿といえよう。

 歳旦の句にその年の干支(えと)を折り込むのは、この頃より半世紀くらい前の貞門(松永貞徳門)の俳諧では、しばしば行なわれていた。寛永十(一六三三) 年刊松江重頼編の『犬子集』には、

 

霞さへまだらにたつや寅の年    貞徳

福の神今日のせ来るや午の年    良徳

日の顔や今朝茜さす申の年     政昌

春の来る時を(つぐ)るや酉の年     休音

 

といった句が見られる。

 土芳の『三冊子』に「(この)句は、丑のとしの歳旦や。此古体に人のしらぬ(よろこび)ありと(なり)。」とあるのは、そのことを指すのであろう。

 

 インドの聖なる牛ではないが、普段農耕で酷使される牛も今日ばかりは晴れ姿。牛のようにゆっくりと確実に、今年も旅を始めよう。

十、江戸での芭蕉

 寛文十二(一六七二)年、芭蕉は二十八歳の若さで藤堂藩をやめ、江戸に出ることとなった。おそらく、貧農の出である芭蕉に身分社会の壁は厚く、もうこれ以上の出世もないと見切りをつけたのだろう。

 しかし、元来文才があり、書に長け、帳簿にも通じていた芭蕉は、俳諧で得た人脈を手がかりに、江戸でもたちどころに成功を収めた。江戸に出てきた芭蕉は、まず季吟門のつてで、日本橋(ほん)(ふな)町の名主(なぬし)、小沢太郎兵衛得入(とくにゅう)の家の帳簿付けをやった。田中善信の『芭蕉二つの顔』によれば、町名主は相当の激務で、業務を代行する町代(まちだい)を雇う名主が多かったという。芭蕉が江戸に出た頃は、まだ「町代」という名はなかったが、似たような業務を担当していたと思われる。今でいえば町長の秘書といったところか。かなりの要職であった。

 さらに、延宝期に入ると、小石川の神田上水の浚渫作業がそれまで町人に割り当てられて、重労働を強いられていたのに目を付け、人足を集めて作業を代行する新商売を思いついた。こうして、延宝期の芭蕉は延宝五(一六七七)年の俳諧師匠としての(りっ)()とも相成って、まさにこの世の春を迎えていた。

 この頃一世を風靡していたのが談林の俳諧だった。連歌師西山宗因(梅翁ともいう)の老いのすさびで始めたこの俳諧は、とにかく型破りで、古典の趣向に囚われず、庶民の日常生活をリアルに描き出していった。それが、上方・江戸の都会っ子にバカ受けで、芭蕉も延宝三(一六七五)年、宗因が江戸に来た際、それまでの貞門(季吟門)をやめ、談林の俳諧師となった。

 元来実務派のリアリストだった芭蕉にとって、このムーブメントは渡りに舟だった。しかも、芭蕉の場合は、さらにそれに奇抜な空想を加え、人々を驚かせていった。

 しかし、芭蕉の俳諧は次第にシュールとも言える大胆な言葉の取りなしや表記の実験などを加えてゆき、マニアックなものになっていった。

 

   双六の菩薩もここに伊達姿

 衆生の銭をすくいとらるる     桃青

 

   雲助のたなびく空に来にけらし

 幽霊となって娑婆の小盗み

 

   よしなき    千万

 夢なれや    夢なれや     桃青

 

 宗因や井原西鶴などの本来の談林誹諧は、庶民の風俗や人情などを巧みに描いたが、芭蕉の俳諧は菩薩が博打(ばくち)()ちになって金儲けしていたり、雲助が空から来たのを文字どおり幽霊と取りなし、この世に舞い戻っても盗みを働いていたり、突飛な空想を楽しむ方向に向かっていった。また、伏せ字を使って当時としては危ない話題に触れたりもしていた。伏せ字部分を補うと、

 

    よしなき謀反笑止千万

 夢なれや由井正雪夢なれや

 

 となる。

 そんな芭蕉に延宝八(一六八〇)年、突然転機が訪れた。芭蕉は急にそれまでの仕事をすべて投げ捨てて深川に隠棲し、仏頂和尚のもとを尋ね、仏道に傾倒していった。芭蕉の身に何が起こったのか、芭蕉自身も芭蕉の弟子たちも黙して語らない。作品も、それまでの都会的で華やかなものから、急に貧乏臭くなる。

 この時本当に何が起こったのかは、ほとんど何もわかっていない。たいていの研究者は無常感に駆られての発心という精神的な問題として捉えている。

 しかし、田中善信は、ここに一つの大胆な仮定をしている。それによると、芭蕉には寿貞という妻がいた。もちろん正式の妻ではない。正式の妻ということになると、家同士の関係が生じ、また身分が釣り合わないやら何やらで問題が起こりやすい。そこで実質的には妻であっても、表向き奉公人の形態をとる、いわば愛人契約にする場合がしばしばあったという。こうして寿貞と仲睦まじく暮らしていた芭蕉が、たまたま余裕もできたということで、甥の桃印を伊賀から呼び寄せたところ、桃印が寿貞と駆け落ちしてしまい、いわば芭蕉が寝取られた形になってしまった。当時不倫は死罪だったが、血縁のものということで殺すにもしのびず、芭蕉は一計を案じた。延宝八年に起きた火災は芭蕉の棲んでいる日本橋小田原町のすぐそばにまで迫り、もう少しでという所のものだった。そこで芭蕉はこの火事で桃印が死んだことにし、伊賀藤堂藩に死亡届けを出し、桃印はこれで戸籍を失ったものの命は助かるということになった。さらに、桃印のことで噂が広まることを恐れ、芭蕉は深川隠棲を余儀なくされた、というものだ。

 この説は週刊誌の三面記事のようで面白いのだが、面白すぎるのがむしろ欠点といえよう。当代きっての俳諧師が三角関係ということになれば、いくら抑えても噂にならないはずはない。それこそ後々まで芝居のネタにできそうな話だ。しかも、寿貞が芭蕉の妻だったという話は百年たった後に多賀庵風律が老いた野坡から昔に聞いたことを書いたもので、信憑性に乏しい。芭蕉に妻がいたということでさえ、当時の人々の好奇心を刺激しただろうから、それについて百年間誰も語らなかったというのは不自然だ。

 もっとも、延宝九年の『俳諧次韻』に、

 

   嬉しきや女房のせいて泣付を

 恋あぶれたる弟手討に      揚水

 

の句があって、この時は弟を手打ちにして、貞享四年秋には、

 

   楢の葉に(わが)文集を書終り

 弟にゆるす妻のさかづき     露荷

 

の句があって弟が許されたとあるから、ひょっとしたらこれが芭蕉の甥の桃印のことだったのかもしれない。

 当時は一般に結婚の年齢も早く、元服したらすぐに嫁を取ることも多く、子供ができるのも早かった。だから、たとえ二十歳でやっと最初の子が生れたとしても、四十になる頃にはもはや孫がいてもおかしくなかった。世代の交代が今よりはるかに早かった。そのため、当時は四十過ぎれば「初老」と呼ばれ、家督を息子に譲って隠居することも珍しくはなかった。芭蕉の深川隠棲も三十七歳とやや早いがそういう年齢だったと言えばそれまでだ。

 元禄七年になるが、名古屋の『冬の日』をともに過ごした野水が三十七歳で隠居所を建てているというので贈った、

 

 涼しさを飛騨のたくみが指図哉  芭蕉

 

の句がある。

 しかし、芭蕉にとってこの隠棲は新たな一つのチャンスにもなった。この頃既に一世を風靡した談林俳諧も衰退ムードにあり、芭蕉の隠棲はそういう時期だけに、むしろ世間の目にはいさぎよく映っただろう。そして、仏頂禅師の下で参禅して、坊主になるつもりかと世間の人もうわさしただろう。さらに、天和の新風を小出しにすることで、芭蕉は何か次の俳諧をたくらんでる、と期待を集めることもできた。芭蕉庵の焼失も不運な出来事ではあったが、そうした事件があったからこそ、『野ざらし紀行』の旅を数々の苦難を乗り越えてのドラマチックなものとして世間に印象づけ、翌貞享三年春の『蛙合(かはづあはせ)』興行で古池の句を発表し、蕉風確立を不動のものとした。

 ところで、寿貞が妻でないとすると、一体芭蕉は若き日の性の欲望をどのように発散させていたのだろうか。そのあたりの疑問から、芭蕉には昔からホモ説が絶えない。この場合、芭蕉がまだ伊賀にいた頃に書いた『貝おほひ』に「われもむかしは衆道ずきの」とあるのが、最も有力な証拠とされている。衆道というのは男色のことだからだ。そこから、芭蕉と蝉吟との関係が疑われるし、この『野ざらし紀行』で出会う杜国との関係もいろいろ噂された。しかし、『貝おほひ』の文は単に句合わせを盛り上げるための冗談と取れないこともない。確かにホモ説でもないことには、芭蕉という人間はあまりに色気がなさすぎる。だから、ホモ説をむきになって否定するのではなく、むしろ灰色のままにしておいたほうが、芭蕉への世間の興味をつなぐという意味で必要なことかもしれない。

 私としては、むしろ芭蕉は病弱だったのではないか、と考えている。芭蕉というと忍者説まであるように、旅での健脚ぶりが強調されてきた。しかし、その旅の大半は馬に乗っていたとすれば、果たして健脚だったかどうか疑ってみる価値はある。馬といっても、武士のように愛馬にまたがって颯爽とというわけではない。街道で営業している馬子の馬に乗って、歩く早さでゆっくりボクボク歩いていただけだ。ちょうど遊園地のポニーに乗るような状態を、延々何時間も過ごすようなものだ。しかも、許六の描く『芭蕉行脚図』を見ればわかるように、芭蕉は笠だけを手にし、旅の荷物は全部曾良が背負っている。これは従来、「当時の師弟関係はこのような厳格なものだった」と説明されているが、芭蕉の体が弱かったとしたら、これは当然だろう。芭蕉が一人旅に旅の理想を求めているにもかかわらず、実際の旅は常に門人が同行していた。これも芭蕉の体が弱かったとしたら当然だ。
 
 芭蕉には持病があった。延宝九年七月二十五日付けの木因宛の手紙に、すでに「拙者夜前は大に持病指発(さしおこ)り、昨昼之気のつかれ、夜中ふせり申さず候う間」とあり、この頃すでに「持病」だったのだから、この病はこの時が初めてではない。つまり、芭蕉は延宝期、働き盛りのときから既にしばしば病に苦しめられていたのだ。そして、破笠の語るところによると、貞享期に初めて会った芭蕉は四十一、二歳なのに「六十有余の老人」に見えたという。これを、深川移住以降の貧しさや仏道の影響による質素な食生活のせいと見る人もいるが、もっと前から、延宝期から病気がちだったせいではないか。そうなると、深川移住の動機の一つにも、あるいは仏道に心を寄せるようになった動機の一つにも、健康状態の悪化があったのかもしれない。

 病弱ということになると、この『野ざらし紀行』の読み方も多少違ってくる。たとえば、「野ざらしを心に風のしむ身かな」の旅に死ぬのではないかという不安はもっと現実的なものだったのかもしれないし、「芋洗う女‥‥」の句も、西行のように健康だったなら、というニュアンスなのかもしれない。

 芭蕉の病弱が疑われるもう一つの根拠は、やはり五十一歳の若さで死んだことであろう。当時「人生五十年」と言われていたとはいえ、みんながみんな五十くらいで死んでいたわけではない。中世でも西行は七十三、定家は八十、中世の連歌師宗祇は八十二、肖柏は八十五、宗長も八十五、俳諧の祖の宗鑑(そうかん)は八十九、荒木田守武は七十七、貞門を開いた松永貞徳は八十三、そのほか世阿弥も八十一、一休宗純も八十八、雪舟も八十七で、みんな長生きている。芭蕉の周辺でも、宗因は七十七、曾良は六十一、任口は八十一、季吟は八十二、素堂は七十五、杉風は八十五まで生きた。もっとも、其角は四十七、嵐雪は五十四、去来五十四、丈草四十五といった若くして死んでいる人も少なくない。其角、嵐雪は大酒飲みで遊廓に入り浸たる不健康な生活をしていたし、丈草ははっきりと病弱で、そのため仏道に入っていた。

 西行については、文覚という武士の出で武芸に長けた法師が、西行は頓世の身なのに歌など詠んで遊んでいてけしからん、「いづくにても見合ひたらば、かしらを打ちわるべきよし、つねのあらましにて、有けり」と言っていたが、実際に会ってみると、これなら頭をかち割るどころか逆にやられてしまうと思ったという話が『井蛙抄(せいあしょう)』に記されている。それほど屈強な男だったからこそ、あの乱世の世を長生きできた。もし芭蕉が西行なみの肉体の持ち主だったなら、蝦夷や琉球はもとよりオランダまでも旅をし、行く先々で恋をし、夢はチューリップ畑を駆け巡っていたかもしれない。

十一、春なれや‥‥

 故郷伊賀で正月を過ごした後、芭蕉は再び奈良へと向かう。

 

   「奈良に(いづ)る道のほど

 春なれや名もなき山の薄霞」

 

 奈良には春日山、三輪山、生駒山、葛城山、など数々の名山があり、中でも天の香具山の霞は、

 

  ほのぼのと春こそ空に来にけらし

     天の香具山霞たなびく

             後鳥羽院

 

 の歌で有名だ。

 そんな美しい、まさに日本武尊(やまとたけるのみこと)が「国のまほろば」といった、青垣山隠(あおがきやまこも)れる奈良盆地を思い浮かべながら、芭蕉は伊賀を後にしたのだろう。

 心が天の香具山にあれば、道筋の名もなき山の霞でも、どことなく神々しく思えてくる。名山名所はそれだけで高貴なものであるが、名もなきものに春が来ないというわけではない。春は貴賤を問わず天下あまねくやってくる。香具山の霞は連歌の世界、そして、名もなき山の霞の風雅それこそが俳諧なのである。

 宗祇法師は『筑紫(つくし)道記(みちのき)』のなかで、海辺の景色に目を止めながらも「名所ならねばしひて心とまらず」と言った。宗祇の真意は金子金次郎によれば、その後の「やまと言の葉の道も、その家の人、又は大家などにあらずば甲斐なかるべし」とあわせて、自分も歌を詠んではみたものの、勅撰集入集など夢の夢だろうという嘆きにあり、それを名もない景色の美しさに例えたのだという。いわば、歌が身分によって評価される現実を逆説的に述べたものらしい。題材に貴賤をとやかく言うのは、芭蕉の時代にも普通のことだった。

 写生は西洋の絵画であれ、近代俳句であれ、少なからず貴族趣味からの脱却の中で起こってきた。近代の市民が自分たちの身近な世界を解放し、独自の美を発見しようとする中で、何でもない風景の美しさが描かれてきた。しかし、こうした卑俗なものの美を解放する試みも、古い権威との拮抗の中でこそ輝くのであり、ひとたび写生が体制の側のものとなってしまうと、あとは平凡な風景の羅列となる。それこそ何でも作者が美しいと言えば美しいことになってしまうし、およそこの世にあるもの、明日は死んでもう見られなくなると思えば何だって美しいものなのだ。こうして写生句は際限なく増殖して行く。すべての景色が平等であり、等価であるなら、結局、あとはただ描写の奇抜さや題材の珍しさの勝負となる。

 

 談林の俳諧は既にその傾向をもっていた。風俗の描写は確かに庶民の生き生きとした世界を解放した。しかし、芭蕉はそこにとどまらず、普遍的な価値とリアルな描写の両立を目指す。名もなき山の霞も、結局は香具山の霞を心においてこそ特別な意味を持つのだ。

十二、氷りの僧?

  「二月堂に(こも)りて

 水とりや氷の僧の(くつ)の音」

 

 この句はよほど難解だったのか、蝶夢(ちょうむ)編の『芭蕉翁発句集』(安永三年刊)では「水とりやこもりの僧の沓の音」とあり、また、『芭蕉句選』(元文四年刊)では「水鳥や氷の僧の沓の音」誤って書かれていたという。「氷の僧」というのが何のことか分からなかったのだろう。

 「こもりの僧」なら確かに分かりやすい。お水取りで二月堂に籠っていた僧が姿を表わし、その沓の音が聞こえるという、そのままの意味だ。しかし、これだとあまりに平凡すぎる。かといって「水鳥や‥‥」だと意味が通らない。

 近世の人が首をひねったこの句も、近代人はほとんど悩むことがなかった。「氷の僧」面白いレトリックじゃないか、それですんでいた。近代になり、西洋から象徴詩の手法が入ってくると、しばしば隠喩の省略的な言い方が行われるようになる。たとえば『海潮音』の、カール・ブッセ作上田敏訳の、

 

  山のあなたの空遠く

 「(さいはひ)」住むと人のいふ

 

 は、

 山のあなたの空遠く行くが如く

 「幸」住むと人は言う

 

の略なのだが、俳諧の伝統的な語法だとこれは、

 

 幸や山のあなたの空遠く

 

で済む。つまり、「幸住すむ」という断定を避けて、「や」や「かな」のような疑問を含みつつ主観的に言い切る「治定(じじょう)」の言葉を用い、体言止め、連用形などで後に何か省略されていることを匂わす言い回しをする。隠喩をぼかさずに断定的に語るというのは、その点では近代詩特有の言い回しなのである。たとえば、

 

  水枕がばりと寒い海がある   三鬼

 

の句は「海がある」と断定するところが近代的なのであり、

 

 水枕がばりと海の寒さかな

 

であれば俳諧になる。

 氷の如き僧を「氷の僧」とすることは、現代詩であれば別に問題はない。しかし、芭蕉の時代にこの言い回しが成立したかどうか。弟子たちの混乱ぶりからすると、かなり無理があったのではなかったか。

 「水とりや‥‥」の句にはもっと簡単な解釈が可能なのではないか。氷の僧が「こもりの僧」の間違いでないとすれば、むしろ私は「氷の」の「の」がどこに掛かるのかを見直すべきだったと思う。「氷の僧」というのは、言い回しとして不自然だし、最初からありえなかったのではなかったか。それなら「氷の沓」はというと、これもありそうにない。残るのは「氷の音」だ。この句は、氷の、僧の沓の、音、というふうに掛かっていたもので、本来なら「僧沓の氷の音」となるところを五七五のリズムになるように並びかえただけではなかったか。

 旧暦の二月といえば今日で言う三月だが、深夜のお水取りともなればまだ寒く、氷の張ることもあったのだろう。その氷を僧が沓で踏み割っている姿に芭蕉は目を止めたのではなかったか。氷の割れる音は、

 

 袖ひちてむすびし水のこほれるを

     春立つけふの風やとくらん

                 紀貫之

 谷風にとくる氷のひまごとに

     打ち出づるなみや春のはつ花

                 (みなもとの)当純(まさずみ)

 

 

といった古歌を連想させ、春の訪れのめでたさを表わしている。それが芭蕉の本来の狙いではなかったか。この句は頭の文字をたどってゆけば、「水」「氷」「沓」と水のつく字が並んでいる。ここにもさりげなく、水が一度凍り、日が昇るとともに溶けて水に戻るかのような、細かい演出がなされている。

十三、三井秋風の花林園にて

 奈良から京に登り、(なる)(たき)三井(みつい)秋風(しゅうふう)別墅(べっしょ)、花林園を尋ねる。

 

 「京にのぼりて、三井秋風が鳴瀧の山家(やまが)をとふ。

 

    梅林

 梅白し昨日(きの)ふや鶴を(ぬすま)れし

 樫の木の花にかまはぬ姿かな」

 

  三井といえば「現金掛け値なし」という新商法で繁盛した越後屋呉服店のあの三井の一族で、初代三井の三井(みつい)高利(たかとし)(その名のとおり金貸しだった)の甥に当たるという。越後屋の江戸進出は延宝元(一六七三)年で、芭蕉が江戸に登る三年前のことだった。その後天和二(一六八二)年の八百屋お七の大火で焼け出されたりしながらも苦労して勝ち取った栄光は、業種が違うとはいえ、芭蕉の姿にも重なるものがある。越後屋の発展を見ながら、俺も頑張ろう、と思った地方出身者もたくさんいたことだろう。

 三井秋風も当然金持ちで、鳴瀧の花林園もさぞかし立派で、広い庭園には今を盛りと梅が咲き誇っていたのだろう。三井秋風があまりに有名な金持ちだったため、芭蕉のこの句を追従(ついしょう)の句だと揶揄する人がいたようで、去来が『去来抄』の中で、

 

「秋風ハ洛陽の富家に生れ、市中を去り、山家に閑居して詩歌を楽しみ、騒人(さうじん)を愛するとききて、かれにむかへられ、実に主を風騒隠逸の人とおもひ給へる上の作有」

 

と弁護している。「騒人」というのは別に騒がしい人ではない。騒といのは(くつ)(げん)の『離騒(りそう)』という詩から来たもので、騒には憂いとか悲哀という意味がある。そこから屈原のような隠逸の詩人を騒人と呼んでいた。三井秋風は金持ちでも心は隠士だから尋ねたのであって、金に媚びたのではない。

 しかし、このような金持ちでも、何の悩みもないかといえばそうでもない。はじめ北村季吟に師事し、貞門の俳諧師だった秋風は、後に西山宗因や田中常矩(たなかつねのり)とともに談林俳諧の一翼を担うこととなった。

 

 柳短ク梅一輪竹門(たけもん)誰がために青き    秋風

 歌よまず詩作らず自然と夜着に雪を聴ク 同

 

 といった破調の句がある。

 しかし、天和二年に宗因、常矩と相次いで失い、談林の俳諧も急速に衰退してゆくこととなった。

 宗因の死は芭蕉にとっても大きなショックで、この『野ざらし紀行』の旅もまた、宗因の面影を追い求めて旅に出たようなものだった。まして宗因、常矩と親しかった秋風にとっては、ぽっかり穴のあいたようなもので、どうも三年たった今でも、まだショックから立ち直ってなかったようだ。この句はそんな芭蕉からの秋風へのなぐさめの言葉だった。

 

 梅白し昨日(きの)ふや鶴を(ぬすま)れし    芭蕉

 

 梅には赤いのも白いのもあるが、「白」を強調したのは弔意を込めてのことだろう。鶴は渡り鳥だから春には北へ帰っていくもので、それは自然の摂理、運命だから仕方がない。それを「盗まれた」と表現することで、何とか秋風から笑顔を引き出したかったのであろう。秋風はこう答える。

 

    梅白し昨日や鶴を盗れし
 杉菜に身擦(みす)る牛二ツ馬一ツ    秋風

 

 杉菜とは、過ぎし菜のことだろうか、それとも風流を好むという意味の「数寄(すき)」の菜のことだろうか。庭園には似つかわしくない雑草に身をすり付けている牛の様なものですよ、という謙虚な答えだ。牛二ツとは、かって梅翁(宗因の別名)が江戸に来た時芭蕉の詠んだ、

 

 この梅に牛も初音と鳴きつべし  芭蕉(当時は桃青)

 

の句を思い起こしたものか。となると、牛二ツは芭蕉と秋風のことだろうか。ならば馬一ツは誰だろう。いや、脇句はあくまで挨拶だから、自らは謙遜して牛といっても、やはり馬は芭蕉のことなのだろう。旅人という意味も込めて。そうなるともう一人の牛は誰だろうか、このあと尋ねる(にん)(こう)上人(しょうにん)だろうか。

 素堂は、

 

 「洛陽に至り、三井氏秋風子の梅林をたづね、きのふや鶴をぬすまれしと、西湖にすむ人の鶴を子とし、梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたたんことかたかるべし。」

 

と言い、「道のべの(むく)槿()」や「山路来て何やらゆかし」の句にも匹敵する名吟として評価している。

 鶴を宗因・常矩と思い、偲ぶ心と、「盗まれし」で見せるユーモアとの微妙なバランス、古池や木槿を詠むだけが芭蕉じゃない、といったところか。

 「西湖にすむ人」とは林逋(りんぽ)(九六七~一〇二八)のことで、生涯独身で「梅妻鶴子(梅は妻、鶴は子)」と呼ばれた。林和(りんな)(せい)とも呼ばれている。代表作は「山園小梅」。

 

    山園小梅

 衆芳揺落独嬋妍 占尽風情向小園

 疎影横斜水清浅 暗香浮動月黄昏

 霜禽欲下先偸眼 粉蝶如知合断魂

 幸有微吟可相狎 不須檀板共金樽

 

 多くの芳しき花ははらはらと散るも一人研ぎ澄まされたように美しく、

 小さな庭はその趣ですっかり満たされ、

 まばらな影が斜めに横たわる水は清く浅く、

 ひそかな匂いが水面に漂い月は黄昏。

 霜を得た鳥が降りようとしてはまず人目を盗み、

 春の紋白蝶がそれを知ったなら悔しさに魂も引きちぎられ、

 それでも幸い小声で吟じる暮らしに慣れているから、

 拍子木や黄金の酒樽なんてどっちも要らねー。

 

  政治のライバルたちがみんな政争に明け暮れ散ってゆく中で、俺は一人凛としていて、狡猾な鳥が仲間に誘おうとやってこようが、あとで聖人君子が現われ俺のことを惜しもうが、そんなのは知ったことじゃない。俺は一人静かに吟じるだけで、太鼓持ちはいらないし、接待の酒なんて飲みたくもない。そんな寓意のある詩だ。

 花林園でのもう一つの句、

 

 樫の木の花にかまはぬ姿かな

 

 の花は、前の句とのつながりで見れば、梅の花を詠んだものだろう。無理に桜に結びつける必要はない。「花」とだけあれば当然桜でなければばらぬというのは理屈だが、そのへんの規則の細かい所にいちいちこだわらないのが談林の作風だ。樫の木は文字通り「堅い」木で、周囲が花で浮かれていても、頑として動じない。あなたも我路を行けばいいじゃないですか、というメッセージを込めたものだろう。

 京都はまだ北村季吟が健在で、貞門の古風が生きている。季吟は、芭蕉がまだ伊賀にいた頃俳諧の手ほどきを受けた蝉吟(せんぎん)の師匠でもあるし、延宝二年には季吟から『(うもれ)()』の写本を授与され相伝を受けたという。その意味では、一時期談林の方に行ってた西手も、俳統という意味では芭蕉は季吟門だといってもいい。

 

 ただ、今回の旅で芭蕉が季吟の所へ行ってないし、その後も季吟との交流はなかったようだ。まあ、季吟の古風は、今の芭蕉の求めるものでないのも確かだし、季吟自身もこの時期には俳諧よりも古典の注釈の方に心血を注いでいた。芭蕉が会うのは、むしろ宗因とともに貞門を離れた談林の俳諧師だった

十四、伏見の桃

 伏見西岸寺の住職、(にん)(こう)もまた、宗因と親交があったし、芭蕉が参加した延宝五年の内藤(ふう)()主催の『六百番俳諧発句(あわせ)』の時には季吟、重頼とともに点者を務めていた縁もあった。

 

   「伏見西岸寺(さいがんじ)(にん)(こう)上人(しゃうにん)(あふ)

 我がきぬにふしみの桃の(しづく)せよ」

 

 久しぶりに会うこの八十歳の老僧は、任口と名乗るだけあって、口に任せてよく喋る、剽軽な人柄だったのだろう(これはあくまで推測)。伏見は桃の名産地。桃で作った酒は不老長寿の仙薬にもなる。元気で濶達なこの老人を見て、私にもその長生きの薬を分けてください、と言ったのだろう。この老人も翌年には世を去ることになる。

 伏見といえば、豊臣秀吉が桃山城を立てて一度は栄えたが、徳川の世では秀吉は悪者。かつての繁栄も虚しく、荒れ果てていった。井原西鶴の『日本永代蔵』巻三「世は抜取り観音の眼」に、当時の伏見の様子が描かれている。

 「その時の繁盛に変り、屋形の跡は芋畠となり、見るに寂しき桃林に、花咲く春は人も住むかと思はれける。常は昼も蝙蝠(かうふり)飛んで、螢も出づべき風情なり。京街道は昔残りて、()()の付きたる家もあり。片脇は崩れ次第に、人倫絶えて、一町に三所(みところ)ばかり、かすかなる朝夕の煙、蚊屋なしの夏の夜、蒲団持たずの冬を(やうや)うに送りぬ。」

 

 江戸中期になると伏見も酒の町として甦ることになる。

 

十五、何やらゆかし

 奈良で名もなき山に目を止め、二月堂で僧の靴の音の響に風流を見い出し、京都の秋風の別墅で主人をなぐさめた芭蕉は、奈良から大津に向かう道で、あの有名な句を詠むことになる。

 

   「大津にでる道、山路を越えて、

  山路来て何やらゆかしすみれ草」

 

 「ゆかしい」というと、今日では品のある、控えめなという意味が強いが、本来は「行く」から来た言葉で、行ってみたくなる、惹きつけられる、という意味だった。

 山奥にひっそりと咲く蘭の花は君子の心だが、すみれは野にもどこにもありふれている。それでも何だかわからないが引き寄せられる。すみれは澄んでいるとでもいうのか、それとも墨染めの僧の衣を連想させるからだろうか。深く考えるほどのこともあるまい。理由もなく惹きつけられるそんなこともある。和歌ではすみれは野に咲くすみれを詠むべきものだったが、そんな言葉の縁とも関係なくこの花に引き寄せられ、しばし旅の足を止める。

 芭蕉は『笈の小文』で、

 

 「(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし、心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化(ぞうくわ)にしたがひ、造化にかへれとなり」

 

つまり、人間らしさを月や花を愛で四季の移り変わりを愛するところに求めている。馬からすれば木槿は単なる食物にすぎないが、人間は木槿の花に様々な心を求める。花が美しいのは、それが単なる物理現象ではなく、花を見る人の心があるからなのである。

 しかし、人間だっていつも「心」を求めているわけにはいかず、食うに困っては捨て子をしたり、人も殺せば戦争も起こす。生きてゆくために生存競争を逃れることはできない。しかし、それを悲しいと思い、そこからの解放を、いわば解脱を求めるところに人間らしさがある。それは理屈ではない。捨て子を見れば惻隠(そくいん)の心が生じるように、山路のすみれに理屈抜きに引き寄せられる。

 山路のすみれはともするとお構いなしにふんづけて歩いてしまう。人通りの多い東海道の逢坂山であればなおさらであろう。それでもそれに目を止め、ふときれいだと思う時、人はしばし食うか食われるかの天の掟を忘れ、自由と幸福を感じることができる。

 山口素堂は、

 

 「山路きてのすみれ、道ばたのむくげこそ、この吟行の秀逸なるべけれ」

 

と、この句を「道のべの木槿」の句と並べて評価している。この二句はともに「道」の句だ。一つは悲しみ、一つは喜びを見い出す。花の咲くのを喜び、散るのを悲しむ。それが「造化」に従うということなのだろう。

 もちろん今日では「夷狄」という表現はふさわしくない。地球上どこでも花を愛さぬ民族など存在しない。しかし、ここで芭蕉が「夷狄」をどう捉えていたか、振り返ってみるのも無駄ではあるまい。「夷狄」とは元来「中華」に対しての夷狄であり、「中華思想」と密接に結びついた言葉だ。中華思想というと、どうしてもユダヤの選民思想のようなものと誤解されやすいが、実際はそうではない。中華というのはむしろ文明のある所という意味で、文明の中心の地に対して、そこから隔たった辺縁が夷狄となる。それを担うのは必ずしも漢民族でなくてもいい。

 だから中国がモンゴル人(元のように)や満州人(清のように)に支配されたとしても、中国文明の継承者であれば中華だった。実際、近世の東アジアの()()秩序は、中国、朝鮮(ちょそん)、日本、ベトナムなどがそれぞれ自らの国を中心にして、朝貢や()()関係を結び、維持されてきた。

 中華は文明の中心地であり、日本には日本の中華があり、日本にとっての夷狄が可能なのであり、こうして各国がそれぞれミニ中華を形成(けいせい)していくことによってお互いに相対化されてゆく性格を持っていた。そして、こうした()()秩序は国境によって国と国が明確に区切られるというよりは、むしろ文明の及ぶ度合によって徐々に辺縁部に移行し、どちらの文明からも等距離になるようなボーダレスな空間、たとえば対馬(つしま)や琉球のような交易の中心地を生み出す。

 国境というのは西洋の列強がアジアに侵略してきたさいに大慌てで定められたもので、それ以前には北方領土だの、竹島だの、尖閣諸島だのといった領有権問題は生じなかった。(竹島、尖閣は先に近代化した日本が、先に領有権を宣言しただけのものであり、武力によって侵略したのではない。)

 

 

 芭蕉にとって、中華とはまさに「花(華)」を意味するものだった。花が咲くのを喜び花が散るのを悲しむ、それが文明であり、花の心を知らぬというのが「夷狄」だった。心に花があれば、そこはいつでも「中華」であり、花がない時は「夷狄」なのである。花はまた同時に失われ、記憶の中で理想化された花への思いでもある。時間的には先王の治世、失われた王朝への思い、空間的には花の都を追われた旅人の都への思いでもある。花の心はまさに「みやび」であり、みやこの心で、たとえ遠いひなの長路を歩む流刑人であっても、花の心を失わないなら心は夷狄にあらず、なのである。

十六、松の朧

 生あるものは死に、栄えるものは滅ぶ。それは仏教の(ことわり)だ。春に万物を生じ、秋には死に向かい、生死は永遠に反復される。それは朱子学が教える所だ。春の花の盛りもはかなく散っていくのだが、それは個人にとっては一回限りのことでも、人は延々とそれを反復してゆく。我身のはかなさを嘆くのか、はかなさの中で力強くそれを反復しようと決意するのか、そのあたりの揺れ動きが芭蕉の作品に幅をもたせているのだが、それでも芭蕉はやや前者に傾く傾向がある。

 芭蕉の恋句のつまらなさも、今の恋愛感情に対する真剣さが欠落し、恋も結局終わりがあり、若い日もあっという間に過ぎ去り、みんな歳をとってしまうのだ、というあきらめが先に来てしまうせいだろう。人生の果てることのない争いをはかないと看做すのも解脱なら、はかなさを自覚しながらもその運命と戦い力強く生きるのも解脱なのだが‥‥芭蕉に花の朧は似あわない。

 

  「湖水の眺望

 辛崎(からさき)の松は花より(おぼろ)にて」

 

 滋賀(しが)辛崎(からさき)といえば柿本人麿の「近江荒都歌」以来、天智天皇によって造営された大津京の跡形もなく消え去った、その恨みの地となっている。

 

 さざなみの志賀の辛崎さきくあれど

     大宮人の船待ちかねつ
                柿本人麿

 さざなみの国つ御神のうらさびて

   荒れたる(みやこ)見れば悲しも

              高市(たけちの)古人(ふるひと)

 

 それは壬申の乱で敗北した天智天皇の御霊(ごりょう)を鎮める歌だったのだろう。後々、このはかなく消えた幻の都は、ぱっと咲いてぱっと散る桜のイメージと重なり、桜の名所として歌に詠まれるようになった。

 『千載集』の、

 

 さざなみや志賀の都は荒れにしを

     昔ながらの山桜かな

               よみ人知らず

 

の歌は、『平家物語』で(たいらの)忠度(ただのり)が都落ちする際に(しゅん)(ぜい)(きょう)に託したエピソードでも有名で、消えた志賀の都のイメージは、平家の滅亡のイメージにも重なる。

 芭蕉の句は一種の謎かけだ。花が朧なのはわかる。桜の花は美しいが、それはほんの一瞬の夢のような光景で、手にいれることなく消えていってしまう。しかし、松が朧とはこれ如何に。そういう問いかけが「にて」という語尾になっている。

 答は少し考えればわかることだ。松の常緑は永遠の命のように見えるが、万葉の頃からの長い歴史の中で見れば桜の花のようにはかない。したがって松は花より朧なのである。

 もちろん、春の琵琶湖の湖水の上にたなびく霞が、松の姿をぼんやりとおぼろげなものにしている、そうした景色に掛けての「花より朧」だ。「松」はもちろん伝統的に「待つ」に掛けて用いられる。大宮人の船を待っている「まつ」も、今では跡形もない、すべてこの世の出来事、この世での思いははかなく消えてゆく。

 辛崎の松は三井寺(みいでら)にあった一本松で、芭蕉の『甲子吟行画巻』にも琵琶湖にかかる一本の松の木が描かれている。三井寺は能の『三井寺』でかつては有名で、物語では愛児と生き別れた母親が、夢に三井寺に来れば我が子に逢えるというお告げを聞いてやってくる。その時にも、「志賀辛崎のひとつ松、緑子の(たぐ)ひならば、松風に(こと)()はむ」と、別れた我が子を待つ姿と松の木のイメージが重ねられている。

 能では無事我が子との再開を果たしたこの母親は、故郷に帰りお金持ちになり、めでたしめでたしで終わる。

 しかし現実には、そんな幸福も一時で、最後は誰にでも同じように死が訪れる。子を探し、狂った女の一人三井寺の松の木に立つ姿も、やはり花より朧なものなのだろうか。 この句の初案は、

 

   辛崎の松は小町が身の朧

 

だったららしく、『鎌倉海道』(千梅編、享保十年刊)にそのことが書かれている。小町といってもここでいう小町は若くて美しい小町ではない。謡曲『卒塔婆小町』に出てくるような、老いて落ちぶれ果てた小町の姿だ。美貌と才能を兼ね備えた小町も、老いは避けられない。そんな老婆の姿を辛崎の松に重ねたのであろう。小町といえば、むしろ『(さる)(みの)』に収められている、

 

   さまざまに品かはりたる恋をして

 浮世の果ては皆小町なり     芭蕉

 

の句がかつては有名だったようだ。

 確かにすべては終わってゆくのだろう。今日では宇宙がビッグバンで始まり、加速度的に膨張し続けることを知っている。地球環境をいくら守っても生物をいくら絶滅から救っても、やがて長い年月の間には太陽に飲み込まれ、地球そのものが消滅する運命にある。そんな中でわれわれの存在なんてものは、ある詩人の言葉を借りれば「スナアメ」にすぎないのかもしれない。だからと言って、今のこの生活が、心のときめきが、変るということはない。今為すべきことを為すのみなのである。美しい女性や、身も悶えるような恋も、やがて老いぼれていって、墓を残すのみとなる。だが、そういったことを想起できたからといって、今の眼前の景色は変ることはない。

 人間の欲望は争いを生み出し、時には悲惨な歴史の結果となる。だから、欲望のはかなさを知り、自ら抑制することは大事なことではある。限界を知ることは大事だ。しかし、その内側で「生きていかなくてはいけない」ことも確かだ。松は春の霞に朦朧として見える。湖水の向こう岸は見えず、水は永遠に続くかのように見える。先のことは誰もわからない。常緑の松がたとえ花のようにはかないとしても、それでいい。ただ行くしかない。旅はまだ続く。

 なお、「て」留めの発句は既に前の年の名古屋での『冬の日』風吟の時、荷兮(かけい)が、

 

 霜月や(かう)彳々(つくつく)ならびゐて    荷兮

 

という発句を詠んでいる。辛崎の句の「にて」留めも、これにヒントを得たものだろう。

 ただ、芭蕉の方の句はいわゆる切れ字がはいってない。もっともこれも目新らしいことではない。一句完結し、中途半端に文が切れているような違和感さえなければ、切れ字は使わなくてもいい。そういう考え方は連歌の時代からあったことだ。中世の(ぼん)(とう)による連歌論書『長短抄』によると、「大廻し」「三体発句」など、切れ字がなくても切れてる句の例が掲げられている。

 

 もっとも、芭蕉としてもこれはあくまで実験的な作例だったのではないかと思われる。その後の芭蕉の句にも、芭蕉の門人の句でも、「にて」留めの発句が乱発されるようなことはなかった。

十七、我ら桜の民

 「やまと」とは「やまびと」のことであり、山人は「仙」に通じる。東の海の向こうにある蓬莱(ほうらい)瀛州(えいしゅう)方丈(ほうじょう)の三神山、黄金の島、不老不死の玉の枝のある神仙郷、それが「やまと」だ。「やまと」は「大和」と書き、そこは道教の理想である「太和(たいわ)」の国でもあった。その「大和」の国に住む我々は、中国の古い言葉で言う「倭人(わじん)」であり、かっては長江下流域の会稽山(かいけいさん)の麓に住んでいたという。彼らこそおそらく最古の稲作遺跡を残す江西省の万年県の仙人洞遺跡と(ちょう)桶環(とうかん)遺跡の担い手で、その後長江流域に一大文明を築いた民族ではなかったか。

 しかし、漢の南下政策によってこの倭人は四散し、その一部は南へ逃れ、混血してベトナム人の元となり、西へ逃れた一部は、雲南省からラオス、タイ、ビルマ北部の少数民族(ワ族、ラワー族など「倭」の名称を残す民族もいる)に紛れ込み、本来の倭族の言語は消滅した。そして、一部は伝説の蓬莱の島を目指して船で漕ぎ出て、津島海流に乗り、北九州から百済にかけての地域に漂着し、日本に弥生文化をもたらした。この倭人は、やがてアイヌ・琉球と同系だった縄文人と混血し、今の日本人となった。その縄文人も、古くから江南方面の長江文明の影響を受け、土器や漆の使用、焼畑稲作農業など、当時としては高度な文明を誇っていた。

 倭人の起源ははっきりしないが、おそらく照葉樹林帯に適応した農耕民族で、緋寒桜とともに生きてきたのであろう。入れ墨をし、貫頭衣を着、自然を神と崇め、宇宙は男女のセックスから生まれたと信じ、酒と恋を好むこの好色の民は、明らかに中国人や韓国人などと気質を異にする。

 古くから長江文明を身に付け、半ば職人化したこの民は、血縁よりも師弟関係のような擬制の血縁を重視し、理屈や議論を嫌い直接情を動かすものに身を任せる傾向を持ち、良いにつけ悪いにつけ日本人を特異なものにしている。それは、一つの技術を徹底的に極める過程で、極端に技術を身体化し、技術の伝達を困難にした結果だった。

 今日でも我々は高度の技術力を持ちながら、技術を理論化したり伝達したりということを苦手とし、相互に交流のない「縦割り社会」に陥っている。もっと伝達に気を配れば、世界からの日本に対する誤解も減らせるだろうし、もっと技術力を最大限に生かしきることもできるようになるだろう。

 芭蕉が水口(みなくち)で出会った()(ほう)は後に『(さん)冊子(ぞうし)』を書き表し、去来、(きょ)(りく)、支考とともに、芭蕉の俳諧の理論を伝える貴重な門人の一人となった。その同じ伊賀の藤堂藩士だった土芳は、この頃芭蕉に傾倒し、俳諧師への道を決意する。この句はそうした土芳への餞別だったのだろう。

 

   「水口にて二十年を経て、故人に逢ふ

 命二つの中に(いき)たる桜哉」

 

 二十年前というと、芭蕉がまだ宗房(むねふさ)の名で伊賀藤堂藩の料理人をしてた頃で、それ以来の再会ということだろう。土芳がまだ七つの頃だから、仕事の合間に一緒に遊んであげたりしてたか。それでもここで逢ったのは一つの縁だ。ともにこの桜の花咲く国に生まれてきたことを喜ぼうというのだった。

 桜の花の命は短く、ほんの一週間かそこらのうちに一斉に咲いて一斉に散ってゆく。まさに宗長法師の句にあるように、

 

   咲く花もおもはざらめや春の夢

 さくらといへば山風ぞふく    宗長

 

のことわりの通りだ。しかし、このはかない桜も、また春がめぐってくれば花をつける。

 桜の花は単に命のはかなさだけを表すのではなかった。花は若い頃の夢のようにはかなく消えてゆくが、その思いの中にある真実は決して消えやしない。花はなくても木は生きているように、人間の「若さ」という表面上の花は消えても心の花は散ることがない。花の心は子々孫々受け継がれ、脈々と生き続けるのである。

 日本の桜の文化は、韓国の木槿、中国の桃の文化と比較することもできよう。木槿の花もまたはかない。しかし木槿は一つの花は散っても下から上へ次々と花をつけてゆき、容易に根だやしにできないしぶとさを持っている。桜や木槿のはかなさに比べ、中国の桃は、むしろ永遠の春、永遠の生命への憧れを含んでいる。ただ、これも現実の花のはかなさの裏返しともいえよう。

 いずれにせよ花の命は短い。しかし花は繰り返し咲き続けることによって永遠の命となる。ただ、日本ではそれが、一斉に盛り上がっては沈んでゆく情念のうねりとして捉えられ、韓国では次々に連続してゆく血脈として捉えられ、中国では永遠の天地万物の理として捉えられていく傾向にあったのであろう。

十八、芭蕉の『甲子吟行画巻』

 この『野ざらし紀行』は他の芭蕉の紀行文と比べても全般的に文章が短く断片的な印象を与える。実はそれには理由がある。芭蕉は『野ざらし紀行』を決して純粋なテキストだけで表現しようとしたのではなく、絵巻の形で発表しようとしていたからだ。

 『甲子吟行画巻』と呼ばれている絵巻は芭蕉自身が『野ざらし紀行』の全文に自筆の絵を添えた形で描かれている。おそらくこの方が本当の『野ざらし紀行』なのだろう。

 芭蕉というと、古文の教科書に載っている文字だけの作品のイメージがあるが、実際は『奥の細道』も蕪村によってイラストが挿入されたり、蝶夢の編纂によって『芭蕉(ばしょう)(おう)絵詞(えことば)(でん)』にまとめられたり、何度となくビジュアル化されてきたし、『野ざらし紀行』に至っては、芭蕉自身が挿絵を描いて絵巻物にした『甲子(かっし)吟行画巻(ぎんこうがかん)』が残されている。

 芭蕉のみならず、芭蕉の弟子の杉風、許六なども絵が達者で、むしろ、句と文と絵と書を融合してトータルな作品を生み出すところに「蕉門」の俳諧の大きな特色がある。ひところの言葉でいえばマルチメディア感覚というべきか。

 かって東洋の絵は、絵の横に辞や賛や詩や語を書き添えたりすることが多かった。文字を書けば、そこにテキストの意味だけでなく、字そのものの美しさも問題になる。しかし、近代化の中で、特に「純粋芸術」を追及するあまりに、この伝統は否定され、絵は純粋に絵だけ、文章は純粋なテキストだけ、書は独立した書道として分離していった。

 芭蕉の紀行文は、確かにテキストだけを取り出して、純粋な文学として鑑賞することもできる。ただ、当時の人は決してそうした鑑賞法にこだわってはいなかった。俳諧は「風雅に遊ぶ」もので、もっと気楽に遊び感覚で眺められてもよかったはずだ。そうした遊び心から、蕪村も芭蕉の作品に絵を書き加え、後に俳画と呼ばれる独自なジャンルを生み出している。そして、ある意味でそれは、中世絵巻と近代の漫画とをつなぐミッシングリングなのかもしれない。

 芭蕉の絵は英一蝶(はなぶさいっちょう)に学んだものとされている。英一蝶は承応元(一六五二)年に京都で生まれ、十五の時に江戸に下り、狩野安(かのうやす)(のぶ)に絵を学んだ。

 狩野安信は幕府の御用絵師として不動の地位を築いた狩野探幽の末弟で、元和九(一六二三)年に狩野家の宗家後目を相続していた。当時の狩野派は既に寛永期の完成された画風の時代を終り、急速に大和絵化しゆく寛文様式といわれる吉祥画中心の時代にあった。

 その後、延宝年間(一六七三~八一)に入ると、二つのものが英一蝶の絵を大きく変えてゆくことになった。ちょうど折しも江戸上方で町人文化が花開ことしていたとき、江戸でも大流行した西山宗因を軸とする談林の俳諧、それに挿絵画家から浮世絵を確立していった菱川師宣(ひしかわもろのぶ)との出合いだった。こによって英一蝶は古典の心を通俗的な題材を通して表現する風俗画へと向かうこととなった。これは、古典の風雅の心を雅語ではなく俗語で表現しようとした俳諧の精神にも通じるものだった。

 談林の俳諧に傾倒し、自らも暁雲の名で句を詠んでいた英一蝶は、当時まだ談林の俳諧師の一人だった芭蕉とも知り合うことになった。

 芭蕉の絵は英一蝶と出会ったところから始まったといってもいい。現存する最も古い芭蕉の絵は『枯れ枝からす、笠やどり』自画賛で、天和元(一六八一)年の冬のものとされている。絵は左右に分かれ、右には「枯枝にからすのとまりたるや秋の暮」の発句とともに赤い蔦の葉の絡まった枯れ木と二十七羽の烏が描かれている。たくさんの烏が群れ飛ぶ姿はあたかも死の臭いを嗅ぎつけたかのようで、象徴的な中に写生にも近いリアリティーがある。単に烏を死の象徴として扱うなら、烏は一羽でもよかっただろう。群れ飛ぶ烏は向きもそれぞれ異なり、枝に止まっている烏もそれぞれの仕草をしている。このリアリティーこそ宗因から学んだ談林の精神ではなかったか。

 しかし、その後芭蕉の絵はこのようなリアリティーの追及には向かわない。むしろ省略や絵とテキストとの巧みな配置で独自な表現を生み出してゆく方向に向かう。蕉風確立と平行して芭蕉の絵が写生から離れてゆくのは、決して奇妙な現象ではない。それは芭蕉の「俳句」が「写生」と結び付けて語られるようになったのが正岡子規以降のことで、芭蕉の蕉風確立は本来「写生」とは無関係なものだったからだ。

 芭蕉の『甲子吟行画巻』は、たとえば後に蕪村が描いた『野ざらし紀行屏風』がもっぱら人物に焦点を当てて描いているのに対し、山河の描写が中心となっているところに特徴がある。むしろ文字を近景として、絵は背景を添えるだけであるかのようにすら見える。蕪村は絵の部分と字の部分をはっきり分けて書くが、芭蕉の場合、文字はしばしば絵に重ねて書かれ、文字も絵の一部になっている。芭蕉にとって、主人公や登場人物は句と文によって構成され、その背景となる旅の景色を、時間とともに変化する連続したものとして、絵でもって描き出そうとしている。ここに芭蕉の絵巻に対する独自な考え方が現われている。

 芭蕉が英一蝶から受けた影響は、朝日や夕日の書き方にも表われている。芭蕉の『甲子吟行画巻』の桑名の「地蔵浜の日の出」と英一蝶の『朝瞰曳(ちょうとんえい)馬図(ばず)』の朝日の描き方はよく似ている。半円形で海から登る朝日が表現されているが、水平線にしてはかなり画面の高い位置に描かれている。

 元来、東洋の伝統絵画で水平線が描かれることはまずない。それは「斜投(しゃとう)(しょう)」という空間構成法によるためだ。

 西洋絵画を中心に考える人は、しばしば斜投象で描かれた絵を遠近法の狂った稚拙な描き方とみなすことがあるが、そうではない。斜投象はキャビネット図とも呼ばれ、設計図にも使われる空間表現の方法で、本来三次元のものの形を正確に表現するのに適した描き方だ。

 しかも、西洋の遠近法は一箇所に視点を固定して描くため、描ける範囲が限られるし、ものの正確な形を再現するには見る位置も正面の一点に絞られる。斜め横から見た遠近法の絵は、どうしようもないくらい歪んでしまう。これに対し、斜投象は紙面が許す限り無限の空間を描き出すことができる。

 こうしたメリットがあるのに加え、運動視差に基づく遠近感の表現は生理的にも無理がない。「運動視差」は自分が移動して行く際に、近くのものは早く動き、遠くのものがゆっくり動いて見える所から距離を判断する仕方で、ジェームス・ギブソンによれば、世界の三次元認識のほとんどはこの運動視差によるものだという。片目の見えない人でも日常生活にほとんど支障がないのはこのためだ。斜投象は遠くにあるものの持つ運動視差的な「遅れ」を表現する立派な「遠近法」の一つだ。そのため、ルネッサンス期以降の西洋を別にすれば、世界中あらゆる所に斜投象による空間表現は普遍的に見られる。

 ちなみに英一蝶の『朝瞰曳馬図』での水面に写る人と馬の影が若干後方に描かれているのも、運動視差によって遠くの影が遅れて見えることを表現するもので、十分合理的な描き方なのである。

 斜投象は無限の空間を表示できる。そのため消失点が存在しない。そのため水平線は生じない。画面は上に行けば上に行くほど距離が無限に後退してゆく。そのため水平線の朝日を表現するには、画面の上のほうに描くということでその距離感を表現するしかない。

 英一蝶は背景としてそれを描いたが、芭蕉は「あけぼのや白魚しろきこと一寸」の句を表現するために、近景の浜辺と遠景の朝日を左右に引きはなし、その間に文を挟み込むことで、そこに浜辺と朝日との心理的な距離を生じさせている。これによって、朝日が実際の紙面の位置以上に上のほうにあるように感じられる。

 岡田利兵衛もこの「地蔵浜の日の出」をこの画巻の「もっともすぐれた画面」と評価している。芭蕉が水平線をこのような紙面の高い位置に描くというのは、斜投象の性質をよく理解している印だ。そして、文を間に挿入することでさらに心理的な距離感を加えるのは、俳画ならではのやり方だ。

 絵に限らず、芸術には大ざっぱにいって二つの効果がある。一つは見たことのないものを見せる効果、もう一つは見たことのある記憶を引き戻す効果。前者の方向に進む芸術は、作者が見せたいと思うものをいかに正確に描写するかという技術が要求される。後者であれば、むしろ簡単な刺激を与えれば用を足す場合がある。人々が心の奥にしまっている大切な思い出、それを引き出すキーワードを探し出せばいい。俳諧という短い言葉の文芸においては、常にこの描写かキーワードかという問題に直面することになる。

 近代俳句は「写生」を説き、描写を重視しているかのように見えるが、実際のところ、写生句の代表として高く評価されている高浜虚子の「遠山に日のあたりたる枯野かな」の句にしても、それが喚起するノスタルジーと切り離して評価することは難しい。

 むしろ、こうしたノスタルジーの喚起は単純で曖昧な表現だからこそ大きな効果を上げる。というのも、遠山がどこどこの山でどれぐらいの高さで、どんな形でという所まで詳しく描写してしまうと、かえって「それは俺の故郷とはちがう」ということになってしまうだろう。一人一人がそれぞれ自分の故郷を懐かしく思い出すには、「遠山」という単純な表現が必要になる。

 芭蕉の俳画もまた、記憶を喚起できる最低限の絵という方向に進んでいった。初期の天和期の画風はまだ狩野派の緻密さを残していた。枯れ枝の烏を二十七羽も書き込むというのは、確かに芭蕉にとって一つの心象風景だったのだろう。

 記憶というのは見たもの聞いたものをそのままの形で保存するのではない。それはいくつもの構成要素に分解され、モジュールとして保管される。そして、記憶を再生するときにはそれを再びプログラムに沿って組み立て直し、イメージとして現前させる。それゆえ、記憶は常に単純化される。心理学で行われる実験で、バケツに顔の書いてある図形を見せて、あとから思い出させるという実験があるが、「これはバケツだ」という暗示を与えられた人はバケツに書かれていた顔のパーツを忘れて単純なバケツだけを再生し、「これは顔だ」という暗示を与えられた人は顔の部分だけを再生してバケツについていた取っ手などを忘れる。それゆえ、記憶を引き出すには単純な刺激でいい。何十年ぶりの同窓会で、みんなすっかり大人になり、年をとってしまっても、昔のクラスメイトの顔を同定することができるのは、顔そのものを覚えているのではなく、ある単純な特徴だけで覚えているからだ。山藤章二の似顔絵塾の作品で、時折極度に抽象化された作品が読者の笑いを誘うのも、そのためだ。

 そのため、記憶を引き出す装置として絵を描く場合、決して精密に描き出す必要はない。むしろ、記憶の中で構造化されるさいの、その単純な図形に近いものを与えてやればいい。俳画の単純さはそうした中で生まれたのではなかったか。芭蕉は俳諧師という職業柄、人々の記憶を呼び覚ますにはくだくだとした描写は必要なく、単純なキーワードだけでいいということを知っていた。それを絵に応用するところから俳画が誕生したのではなかったか。

 芭蕉の俳画論は一言で言えばこういうことだろう。

 

 朝顔は下手のかくさへ哀也(あはれなり)    芭蕉

 

 朝顔の哀れさを描くのに朝顔を緻密な描写で再現する必要はない。朝に咲き昼には萎む朝顔そのものが哀れなのであり、絵はそのことを思い出させることができればいいのである。

 芭蕉と狩野派の関わりは思いのほか深い。談林時代からの芭蕉のパトロン的存在といわれている鯉屋杉風を始めとして、百里、不角といった門人も、狩野安信の弟子の狩野昌運に絵を習っている。また、芭蕉が晩年(元禄五年頃)に絵を習ったという彦根藩士森川許六も、狩野安信に絵を習っている。これは単に当時いかに狩野派の勢力が強かったかというだけの問題ではなく、むしろ蕉門の俳諧と狩野派の絵画との位相の近さを物語るものだろう。

 同時代、大和絵の画系から菱川師宣が浮世絵への道を切り開いていたが、芭蕉の俳諧はその方向に行くものではなかった。浮世絵-歌舞伎-点取り俳諧という江戸時代を代表する町人文化の流れとは一線を画したところに、むしろ狩野派-謡曲(能)-蕉門俳諧というラインが形成されていたといってもいいのではないか。

 確かに狩野派というのは近代の美術評論家の間では、評判がよくない。徳川家の権力と結び付いていただとか、粉本主義に陥り絵を形骸化させた、という批判は何度となく繰り返されてきた。確かに、絵が画家の自由な自己表現であるべきだから表現を拘束する一切のものは悪だという種の、この手の批判は一見もっともらしい。

 しかし、絵は自己表現であると同時に、見る人に理解できるものでなくてはならない。ちょうど文章でいえば、日常の話し言葉で、一部の世代にしかわからないような俗語や一部の地域の人しかわからない方言を交えて書いたなら、その伝達範囲は極めて限られたものになる。それよりは標準語で書いた方がより多くの人に伝達できるし、英語で書けばもっと多くの国の人に伝達可能になる。しかし、普遍的な言葉になればなるほど、自分自身の生の肉声からは遠のいてゆく。より自分自身を忠実に表現しようとしたら、世代や地域へのアイデンティティーを主張しようとしたら、俗語・方言を使わざるをえなくなる。文学はその両者のバランスの中にしかない。絵にしても同じバランスが存在する。自己表現か普遍的な伝達か、すべての芸術はその二つの狭間に立たされている。

 絵をわかりやすくするには、絵が共通の記号として認識されなくてはならない。絵は見るものであると同時に読まれるべきものでもある。ある画像は何らかの意味を持ったものとして読み取られ、その意味を読み取るための一種の文法を生じる。いわば絵を描いたり読んだりする際の共通の約束ごとだ。そして、こうした意味や文法の体系、つまり記号の体系を共有する所に一つの文化圏が生まれる。

 たとえば、ルネッサンス期の西洋絵画は人物や建物など写実的に丹念に描かれてはいるものの、均整のとれた肉体の描写はいくぶん理想化されているし、理想化された人物像は聖書の物語の中に組み込まれ、単なる視覚映像には還元できない意味論的な世界を持っている。

 今日我々が雪舟の絵や狩野派の絵を見ても、その良さがダイレクトに伝わってこないとしたら、それは絵が悪いのではなく、我々がその絵の持つ記号を共有できない、たとえば山水や瀟湘(しょうしょう)八景(はっけい)李白観瀑(りはくかんばく)寒山(かんざん)拾得(じっとく)、四君子といった画題の持つ意味空間や信仰、精神文化を共有していない、ということだ。

 それはあるいは今日のお年寄りが若者の読む漫画を見て、どこがいいのかわからないのにも似ている。おそらく、漫画を読む習慣のないものにとって、漫画の絵の暗黙のうちに了解されている規則、文法を理解することはかなり困難で、見ているだけで疲れてしまうだろう。少年漫画で育った私が初めて少女漫画を読んだ時にも、それは経験できた。絵が単にある種の視覚映像の再現であれば、確かにこうしたギャップは存在しないだろう。しかし、絵に何らかの意味を求める限り、そこに暗黙の規則が生じることは避けられない。

 芭蕉の絵は、その意味では狩野派の絵画の持つ記号性を共有する範囲内にある。それは芭蕉の俳諧が西行、宗祇の中世文学の規則の中で作られているのと同様である。その上で、絵の簡略化は絵の記号性をより際立たせてゆく。狩野派の絵は中国絵画の影響を受けた緻密なもので、緻密な中に記号性を持ち、完成された様式を生み出していった。それに対し、狩野派の絵の具象性を捨て去り、記号的な要素だけを抽出するところに芭蕉の俳画が生まれたといってもいいかもしれない。

 

 とにかく、せっかく芭蕉自ら絵を描いているのだから、特に『野ざらし紀行』については絵と文章を合わせた鑑賞というのをもっと広めてもいいのではないか。

十九、大顛和尚の訃報

 さて、苦しいけど楽しい、数々の貴重な出会いのあったこの旅も、いつまでも続くわけではなかった。ここに訃報が一つ届いた。円覚寺の大顛(だいてん)和尚(おしょう)だった。

 ことのいきさつは、旅の途中に出会った一人の行脚の僧(後に弟子の一人となる路通)との出会いで、

 

 「伊豆の国(ひる)が小嶋の桑門(さうもん)、これも去年(こぞ)の秋より行脚(あんぎゃ)しけるに我が名を(きき)て草の枕の道づれにもと、尾張の国まで跡をしたひ来りければ、

 

 いざともに穂麦喰(ほむぎくら)はん草枕」

 

というものだった。

 旅の良き道連れとして、一緒に粗末な麦飯を食べながら旅をしようといったまではよかったが、話を聞いていくうちに、榎本其角が『詩経』や漢文学を学び、芭蕉もお世話になった大顛法師の死を知らされたのだった。

 

 「(この)僧予に(つげ)ていはく、(えん)覚寺(がくじ)大顛(だいてん)和尚今年睦月の(はじめ)、せん()し給ふよし。まことや夢の心地せらるるに、(まづ)道より()(かく)(もと)申遣(まうしつかは)しける。

 

 梅こひて(うの)(はな)拝むなみだ哉」

 

  この時の書簡は今日でも伝えられている。

 

 「草枕月をかさねて、露命(ろめい)(つつが)もなく、今ほど帰庵に趣き、()(よう)熱田(あつた)に足を休る間、ある人我に告て、円覚寺大巓和尚、ことし睦月のはじめ、月もまだほのぐらきほど、梅のにほひに和して遷化したまふよし、こまやかにきこえ待る。旅といひ、無常といひ、かなしさいふかぎりなく、折節のたよりにまかせ、先一翰投(まづいっかん)机右而已(きゆうにとうずるのみ)

 

 梅恋て卯花拝ムなみだかな   はせを

 

四月五日

 其角雅生」

 

 卯の花はちょうど花祭の頃に咲き、お釈迦様の花とされていた。大顛和尚もまた高僧にふさわしく、梅の香に誘われて、白い卯の花へと転生したのであろう。

 輪廻を絶ち、解脱し、仏様となることも、やはりこの世を去ると思えば悲しい。一月の死を四月に知ったためこのような哀傷の句となった。季重なりなどと野暮なことは言うなかれ。

二十、別れ

 大顛和尚の死が直接の原因ではないにせよ、旅の疲れ、無常への思いが、芭蕉に暫しの休息を必要とさせたのであろう。芭蕉は楽しかった名古屋の門人との交友を終わりにし、江戸への帰路につくことになる。既にすっかりうち解け合った杜国とも、暫しの別れとなる。

 

    「()(こく)におくる

 (しら)げしにはねもぐ蝶の形見哉」

 

  蝶が自分の羽をもいで形見にするというのはどこからきた発想か。とにかく悲痛な気持が伝わってくる。

 そしてもう一人、名古屋での宿を提供してくれた桐葉とも別れなくてはならない。

 

 「(ふた)たび(とう)葉子(えふし)がもとに(あり)て、今や(あづま)(くだ)らんとするに、

 

 牡丹(ぼたん)(しべ)深く(わけ)(いづ)る蜂の名残(なごり)哉」

 

 大きな牡丹の花の中で蜜を吸っていた蜂のように、至れり尽せりのもてなしをしてくれた桐葉のもとを離れるのは名残惜しい。これに対し桐葉は答える。

 

 憂きは(あかざ)の葉を摘みし跡の独りかな 桐葉

 

 (あかざ)は野草だが、昔は食用としても重要だったのだろう。牡丹の蜜どころか、粗末なあかざの味噌汁程度のものしかもてなしできませんでしたが、それでも明日から独りと思うと淋しい限りです、といったところだろう。そんなやり取りをしたあと、後ろ髪を引かれるような思いで、芭蕉は江戸へと向かった。帰り道については多くのことは語らない。ただ、途中で甲斐の国に寄っている。

 

   「甲斐(かひ)の山中に立よりて、

 (ゆく)(こま)の麦に(なぐさ)むやどり哉」

 

 天和二年の大火のときに焼け出された時に世話になった人へ、もう一度挨拶に立ち寄ったのだろう。

二十一、虱とともに

 さて、八ヵ月に及ぶ芭蕉の旅もいよいよエンディングとなる。エンディングといっても、当時の芝居の一般的な考え方に「序・破・急」というのがあり、エンディングは未練を残さずにあっさりと終わらせるのを良しとした。

 

 「卯月(うづき)の末、(いほり)に帰りて旅のつかれをはらすほどに、

 

 (なつ)(ごろも)いまだ(しらみ)をとりつくさず」

 

  いそがしい旅の最中といえば、なかなか虱を潰している暇もない。ようやくわが家に帰り、見つけ次第親の仇のように「しらみつぶし」にしていたのだろうが、それでも虱はあとからあとから湧いてくる。

 いつのまにか我々はそのような経験をしなくなってしまった。自然は現代の生活の中では、もはや失われた過去の追憶の中で、果てしなく美化されてゆく。ラッセンの絵のように、生臭さのない、整然とした予定調和の世界に。でも何かが違うのでは。

 かって人間の体というのは、様々な虫や寄生虫や細菌の共存する一つの生態系だった。その中には確かに人間を病気にする恐ろしいものもいただろう。しかし、こうした生態系全体からすると、病気というのは明らかに生態系そのものの危機だ。人間が死ねば人間に寄生していたすべての生命もまた死滅することになるからだ。だから、病原菌というのは実のところ「適応」に失敗した生物だともいえるだろう。その他の無数の生物は、人間を殺さぬ程度に人間の余剰の養分を吸い続け、生活していた。もちろん、その人間もまた、自然界の動植物を亡ぼさぬ程度に、その余剰の生産物を手にして生活していた。

人間と自然との「共生」ということが言われて久しいが、「共生」は決してきれいごとではない。人間が蚤や虱と心を通わせ、愛しあって共存することができないように、人間が他の野性生物と平和共存などできることではない。せいぜいイルカやゴリラのような人間に近いものだけを特例として「準人間」として扱うことができる程度だ。我々にできるのは、ただ自らの存亡のために、地球全体を病気にし生態系そのものを死滅させないように努力するだけだ。取りすぎぬよう、汚しすぎぬよう、何事も節度というのが大事だ。それができないなら、人間も地球にとっては病原体であり、虱にも劣ることになる。

 「持続可能(サステナブル)」が今やキーワードとなっている。虱にとって人間を殺さぬ程度に血を吸うことが「持続可能」の条件であるように、人間もまた地球を破壊せぬ程度に有限な資源を利用しなくてはならない。虱にできて、人間に解決できない問題はない。

 無限の命を求めるなかれ。すべては限度があるのだ。物事にはすべて境界線があり、ただその中で精一杯生きればよい。旅人はその境界線を守るために境界線をさまよい歩く、境界線の番人だったのだ。(完)

あとがき

 本書は平成十二(二〇〇〇)年に東京図書出版会から共同出版した『野ざらし紀行異界への旅』を一部加筆修正したもので、あれから十二年たったとはいえ、句の解釈などの基本的な部分はほとんど変えてはいない。ただ、社会情勢などは随分変ったので、書き改めた部分のほとんどはそれに関わる部分だった。

 「俳句を解説した本はこれまでも数多くあるが、その大半は俳句の作者、いわゆる『俳人』によって書かれたものだ。」と以前に前書きで書いたが、その状況は今でも何も変ってないと思う。大学の研究者とはいえ、やはり何らかの形で俳人と交流し、俳句の指導を受けたり、結社に所属したりしていて、実質的には「俳人」と何ら変わりない。彼らのにとって大事なのは、今の自分達の俳句をいかに正当化するかであり、そのための研究だけが粛々と進められている。

 作者と研究者と結社、それにその結社の背後となる政治団体、それは「俳句村」といってもいい。古典俳諧にしても近代俳句にしても、自由な研究はこうした俳句村の外から行なわれなくてはならない。また、従来の結社の論理にとらわれない新しい古典の読解こそが、むしろ俳句の創作の方でも新たな可能性を切り開くのではないかと思う。

 今日では俳句の世界は高齢化が進み、その権威も世間に与える影響力もかなり弱まっている。芭蕉に関しても、一見研究され尽くされたかのように見えるが、むしろ本当の研究はこれから始まるのではないかと思っている。本書もそのきっかけになれば幸である。

 

 

 と、このあとがきを書いてからさらに十一年が経過し、再び大幅に修正することとなったが、状況は未だに何一つ変わってないのには驚きというよりもすでにあきらめの境地に入っている。願わくばこのまま俳句が永遠に日本から消え去るなんてことのないことを祈るのみだ。

参考文献

芭蕉関係

 『芭蕉紀行文集』中村俊定校注、1971、岩波文庫

 『おくのほそ道』萩原恭男校注、1979、岩波文庫

 『芭蕉七部集』中村俊定校注、1966、岩波文庫

 『芭蕉俳句集』中村俊定校注、1970、岩波文庫

 『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、1976、岩波文庫

 『蕉門名家句選』(上下)堀切実編注、1989、岩波文庫

 『去来抄・三冊子・旅寝論』穎原退蔵校訂、1939、岩波文庫

 『芭蕉俳諧論集』小宮豊隆、横沢三郎編、1939、岩波文庫

 『風俗文選』伊藤松宇校訂、1928、岩波文庫

 『俳諧問答』横澤三郎校注、1954、岩波文庫

 『松尾芭蕉』尾形仂、1989、ちくま文庫

 『歌仙の世界』尾形仂、1989、講談社学術文庫

 『芭蕉百五十句』安東次男、1989、文春文庫

 『芭蕉三百句』山本健吉、1988、河出文庫

 『奥の細道ノート』荻原井泉水、1956、新潮文庫

 『文芸読本、松尾芭蕉』1978、河出書房新社

 『芭蕉の書と画』岡田利兵衛著作集Ⅰ、1997、八木書店

 『芭蕉年譜大成』今栄蔵、1994、角川書店

 『芭蕉庵桃青の生涯』高橋庄次、1993、春秋社

 『松尾芭蕉』宮本三郎、今栄蔵、1967、桜風社

 『芭蕉論』上野洋三、1986、筑摩書房

 『芭蕉二つの顔』田中善信、1998、講談社

 『芭蕉とその方法』井本農一、1993、角川書店

 『芭蕉の狂』玉城徹、1989、角川書店

 『芭蕉の世界』山下一海、1985、角川書店

 『芭蕉のうちなる西行』目崎徳衛、1991、角川書店

 『笑いと謎』復本一郎、1984、角川書店

 『芭蕉古池伝説』復本一郎、1988、大修館書店

 『俳句を楽しむ』復本一郎、1990、雄山閣

 『芭蕉歳時記』乾裕幸、1991、富士見書房

 『芭蕉句々』清水杏芽、1988、洋々社

 『芭蕉俳諧における詩的表現形態の研究』四戸宗城、1980、桜楓社

 『芭蕉の俳諧』(上下)暉峻康隆、1981、中公新書

 『芭蕉さんの俳諧』中尾青宵、1996、編集工房ノア

 『奥の細道』山本健吉、1989、講談社

 『旅人曾良と芭蕉』岡田喜秋、1991、河出書房新社

 『芭蕉』白石悌三、1988、花神社

 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71、大内初夫校注、1994、岩波書店

 『芭蕉の門人』堀切実、1991、岩波新書


俳諧関係

 『談林叢談』野間光辰、1989、岩波書店

 『俳諧の系譜』鈴木棠三、1989、中公新書

 『宗因独吟俳諧百韻評釈』中村幸彦、1989、富士見書房

 『俳諧史の研究』穎原退蔵、1948、星野書店

 『近世俳句俳文集』日本古典文学大系、阿部貴三男、麻生磯次校注1964、岩波書店

 『連歌俳諧集』日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館

 『俳家奇人談、続俳家奇人談』竹内玄玄一、1987、岩波文庫

 『西鶴と元禄メディア』中島隆、1994、日本放送出版協会


連歌関係

 『連歌文学の研究』福井久蔵、1948、喜久屋書店

 『連歌論集』(上下)伊地知鉄男編、1956、岩波文庫

 『宗祇』奥田勲、1998、吉川弘文館

 『宗祇の生活と作品』金子金治郎、1983、桜風社

 『宗祇と箱根』金子金治郎、1993、神奈川新聞社

 『連歌師宗祇』島津忠夫、1991、岩波書店

 『宗祇』荒木良雄、1941、創元社

 『宗祇』小西甚一、1971、筑摩書房

 『心敬』篠田一士、1987、筑摩書房


その他

 『元禄時代』日本の歴史16、児玉幸多、1984、中央公論社

 『元禄文化-遊芸・悪所・芝居』守屋毅、1987、弘文堂

 『的と胞衣』横井清、1998、平凡社

 『無縁・公界・楽』網野善彦、1978、平凡社

 『異形の王権』網野善彦、1986、平凡社

 『日本論の視座』網野善彦、1990、小学館

 『竹斎』守随憲治校訂、1942、岩波文庫

 『万葉集と漢文学』和漢比較文学叢書9、1993、汲古書院

 『道教と古代日本』福永光司、1987、人文書院

 『日本史を彩る道教の謎』高橋徹、千田稔、1991、日本文芸者

 『日本の道教遺跡』福永光司、千田稔、高橋徹、1987、朝日新聞社

 『近代日本と東アジア』加藤祐三編、1995、筑摩書房

 『倭族から日本人へ』鳥越憲三郎、1985、弘文堂

 『日本の古代1-倭人の登場』森浩一編、1985、中央公論社

 『韓国の古典短歌-古時調のいぶき-』裴成煥、1986、国書刊行会

 『朝鮮の詩ごころ』尹学準、1992、講談社学術文庫

 『江戸の少年』氏家幹人、1989、平凡社