「洗足に」の巻、解説

元禄五年十二月上旬、許六亭にて興行

初表

   二日とまりし宗鑑が客、煎茶一斗米五升、下戸は亭

   主の仕合なるべし。

 洗足に客と名の付寒さかな    洒堂

   綿舘双ぶ冬むきの里     許六

 鷦鷯階子の鎰を伝ひ来て     芭蕉

   春は其ままななくさも立ツ  嵐蘭

 月の色氷ものこる小鮒売     許六

   築地のどかに典薬の駕    洒堂

 

初裏

 相国寺牡丹の花のさかりにて   嵐蘭

   椀の蓋とる蕗に竹の子    芭蕉

 西衆の若堂つるる草まくら    洒堂

   むかし咄に野郎泣する    許六

 きぬぎぬは宵の踊の箔を着て   芭蕉

   東追手の月ぞ澄きる     嵐蘭

 青鷺の榎に宿す露の音      許六

   ふたりの柱杖あと先につく  洒堂

 乗掛の挑灯しめす朝下風     嵐蘭

   汐さしかかる星川の橋    芭蕉

 村は花田づらの草の青みたち   許六

   塚のわらびのもゆる石原   洒堂

 

 

二表

 薦僧の師に廻りあふ春の末    芭蕉

   今は敗れし今川の家     嵐蘭

 うつり行後撰の風を読興し    許六

   又まねかるる四国ゆかしき  洒堂

 朝露に濡わたりたる藍の花    嵐蘭

   よごれしむねにかかる麦の粉 芭蕉

 馬方を待恋つらき井戸の端    洒堂

   月夜に髪をあらふ揉出し   許六

 火とぼして砧あてがふ子供達   芭蕉

   先積かくるとしの物成    嵐蘭

 うつすりと門の瓦に雪降て    許六

   高観音にから崎を見る    洒堂

 

二裏

 今はやる単羽織を着つれ立チ   嵐蘭

   奉行の鑓に誰もかくるる   芭蕉

 葭垣に木やり聞ゆる塀の内    洒堂

   日はあかう出る二月朔日   許六

 初花に伊勢の鮑のとれそめて   芭蕉

   釣樟若やぐ宮川の上ミ    嵐蘭

      参考;『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)

初表

発句

 

   二日とまりし宗鑑が客、煎茶一斗米五升、下戸は亭

   主の仕合なるべし。

 洗足に客と名の付寒さかな    洒堂

 

 この前書きは宗鑑が庵の入口に掛けていた狂歌、

 

 上は来ず中は日がへり下はとまり

     二日とまりは下下の下の客

               宗鑑

 

を踏まえている。

 なお、『阿羅野』には、

 

 下々の下の客といはれん花の宿  越人

 

の句がある。

 洒堂も許六亭に二泊したのか、あるいはこの興行の後に二泊目をする予定だったのか、煎茶一斗米五升を手土産にする。隠元法師が日本にもたらした煎茶は唐茶とも呼ばれた。「茶を煮る」というのも、この唐茶をいう。今日の日本の煎茶はこれの改良型。

 許六は、

 

 餅つきや下戸三代の譲臼     許六

 

の句があるように、下戸だったと言われている。

 「仕合」は「しあひ」ではなく、この場合は「しあはせ」で、もとは廻り合わせという意味だった。運命のいたずら、というようなニュアンスか。それが転じて、良い廻り合せを「幸せ」と言うようになった。

 さて発句だが、そんな下下の下の客の亭主への挨拶で、冷えた足を洗って暖めるためのお湯まで用意してくれて、きちんと客として扱ってくれていることに感謝するとともに、恐縮して己が寒く感じます、という意味だ。

 

季語は「寒さ」で冬。「客」は人倫。

 

 

   洗足に客と名の付寒さかな

 綿舘双ぶ冬むきの里       許六

 (洗足に客と名の付寒さかな綿舘双ぶ冬むきの里)

 

 「綿舘」は『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註には、「綿の干し場」とある。どのようなものかはよくわからない。

 まあ、とにかく綿がたくさんあるから冬にはちょうど良い里ですということで、洗足盥についても当たり前のことをしているだけですというふうに受ける。

 

季語は「冬むき」で冬。「里」は居所。

 

第三

 

   綿舘双ぶ冬むきの里

 鷦鷯階子の鎰を伝ひ来て     芭蕉

 (鷦鷯階子の鎰を伝ひ来て綿舘双ぶ冬むきの里)

 

 鷦鷯(みそさざい)はウィキペディアに、

 

 「日本の野鳥の中でも、キクイタダキと共に最小種のひとつ。常に短い尾羽を立てて、上下左右に小刻みに震わせている。属名、種小名troglodytesは「岩の割れ目に住むもの」を意味する。

 茂った薄暗い森林の中に生息し、特に渓流の近辺に多い。単独か番いで生活し、群れを形成することはない。繁殖期以外は単独で生活する。

 早春の2月くらいから囀り始める習性があり、平地や里山などでも2月頃にその美しい囀りを耳にすることができる。」

 

とある。早春二月は旧暦で師走の終わりから正月の初めになる。囀りの声を本意としてか、冬の季語とされている。

 『荘子』には、「鷦鷯深林に巣くうも一枝に過ぎず」という言葉があり、分相応に満足する者をいう。

 「階子(はしご)の鎰(かぎ)」は階段の段鼻のことか、よくわからない。

 森の中の一枝で用の足りるミソサザイも、冬になれば人里に降りてきて囀る。そこが冬向きの場所だからだ。

 

季語は「鷦鷯」で冬。鳥類。

 

四句目

 

   鷦鷯階子の鎰を伝ひ来て

 春は其ままななくさも立ツ    嵐蘭

 (鷦鷯階子の鎰を伝ひ来て春は其ままななくさも立ツ)

 

 ミソサザイは正月の頃も囀る。

 「其まま」は「すぐに」という意味もある。春が来たと思ったらあっという間に七草で、正月もあっという間に過ぎてゆく。

 まさに四句目は軽くさっと流すという見本のような句だ。

 

季語は「春」「七草」で春。

 

五句目

 

   春は其ままななくさも立ツ

 月の色氷ものこる小鮒売     許六

 (月の色氷ものこる小鮒売春は其ままななくさも立ツ)

 

 「のこる」という言葉は季語と結びつくと、次の季節になったけどまだ残っているという意味になる。

 凍月という言葉もあるが、春になってもまだ完全な朧月にならず、どこかまだ凍月の俤を残している、という意味だろう。

 「のこる」はまた小鮒売りにも掛かる。今でも一部の地方ではおせち料理に小鮒を食べるようだ。七草の頃、日も暮れるというのに売れ残った小鮒を売り歩く。

 この辺の「あるある」の見つけ方は許六の得意とするところだ。「氷も残る」から序詞のように言い興すあたりもさすがに上手い。

 

季語は「氷ものこる」で春。「月」は夜分、天象。

 

六句目

 

   月の色氷ものこる小鮒売

 築地のどかに典薬の駕      洒堂

 (月の色氷ものこる小鮒売築地のどかに典薬の駕)

 

 「典薬(てんやく)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 

 「①  「典薬寮」の略。

  ②  律令制で、後宮十二司の薬司の次官。くすりのすけ。」

 

とあるが、律令時代の雰囲気ではない。

 同じコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「⑤ 近世、幕府や大名のおかかえの医師。御殿医(ごてんい)。

※俳諧・犬子集(1633)一五『藪のうちへぞ人のあつまる 典薬の其礼物はおびたたし〈重頼〉』

  ⑥ 多く、医師をいう。」

 

とあり、むしろこっちの方だろう。

 築地のある立派な家の前にはどこぞのお抱え医師の駕籠が留まっている。夕暮れの哀れな小鮒売りに対する向え付けと言っていいだろう。

 

季語は「のどか」で春。「典薬」は人倫。

初裏

七句目

 

   築地のどかに典薬の駕

 相国寺牡丹の花のさかりにて   嵐蘭

 (相国寺牡丹の花のさかりにて築地のどかに典薬の駕)

 

 ここは逆らわずに築地を立派なお寺の塀とし、京都五山の一つ、相国寺の牡丹を付ける。相国寺といえば、中世には同時期に若い頃の宗祇法師と雪舟が修行していた。面識はあったのだろうか。

 

季語は「牡丹」で夏、植物。

 

八句目

 

   相国寺牡丹の花のさかりにて

 椀の蓋とる蕗に竹の子      芭蕉

 (相国寺牡丹の花のさかりにて椀の蓋とる蕗に竹の子)

 

 お寺だから精進料理で、汁の椀も蕗(ふき)に竹の子とシンプルなものだ。単に汁の椀を出すのではなく「蓋とる」という動作を出すあたりで、その人間がどういう人なのか想像力を掻き立て、それが次ぎの句の展開のヒントになる。

 一見何でもないような句でも、次の展開を見据えるのが芭蕉の上手さだ。

 

季語は「竹の子」で夏。

 

九句目

 

   椀の蓋とる蕗に竹の子

 西衆の若堂つるる草まくら    洒堂

 (西衆の若堂つるる草まくら椀の蓋とる蕗に竹の子)

 

 ここは芭蕉の意を汲んで、西国から来た旅の若侍を登場させる。

 「西の衆」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「室町幕府の柳営(りゅうえい)内で将軍に謁見するとき、西向きの縁から出仕することに決まっていた門跡・摂家・清華の人々。→東の衆」

 

とあり、同じコトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 

 「〔西向きの縁を通って拝謁したことから〕室町将軍家と外様とざま関係にある者。 → 東の衆」

 

とある。ここでいう「西衆」はこれとは関係なさそうだが、六句目の「典薬」といい、わざわざこういう言葉を出して教養ある所を見せようとするのが洒堂のキャラなのだろう。

 

無季。「西衆」は人倫。「草まくら」は旅体。

 

十句目

 

   西衆の若堂つるる草まくら

 むかし咄に野郎泣する      許六

 (西衆の若堂つるる草まくらむかし咄に野郎泣する)

 

 「野郎」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「①  男性をののしっていう語。 ⇔ 女郎めろう 「この-」 「馬鹿-」

  ②  月代さかやきを剃そった若者。 「十二、三の-に紙子の広袖/浮世草子・懐硯 1」

  ③  「野郎頭」の略。

  ④  野郎頭の歌舞伎役者。若衆歌舞伎が禁止されたために、若衆の前髪を剃って野郎頭としたことからの呼び名。

  ⑤  男色を売る者。かげま。 「一日は-もよしや/浮世草子・一代男 5」

 

とあり、若侍が登場したところでこの場合は期待にこたえてというか、④や⑤の意味であろう。

 「泣(なか)する」は悲しませるという意味ではなく、別の意味もある。大方若侍の自慢話であろう。

 

無季。「泣する」は恋。「野郎」は人倫。

 

十一句目

 

   むかし咄に野郎泣する

 きぬぎぬは宵の踊の箔を着て   芭蕉

 (きぬぎぬは宵の踊の箔を着てむかし咄に野郎泣する)

 

 さてホモネタと来れば芭蕉さんも黙ってない。もっとも、この四吟は順番が決まっている。堂六蕉蘭六堂蘭蕉の順番で、一の懐紙の花の定座だけ許六に花を持たせるために洒堂と許六の順番が逆になっている。

 若衆は朝の別れの時には宵に着ていた踊りの衣装姿に戻る。「箔」は「摺箔(すりはく)」のことか。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「裂地(きれじ)へ金銀箔を接着させて模様を表すこと。金銀粉を接着剤に混ぜて筆書きする金泥絵や、金銀箔を細く切ったものを貼(は)り付ける切金(きりかね)などに対して摺箔という。その技法は、紙に文様を切り透かした型紙を用い、これに接着用の媒剤(通常姫糊(ひめのり))を施し、これの乾かぬうちに箔をのせて柔らかい綿などで軽く押さえ、そのまま乾燥させたのち、刷毛(はけ)で余分の箔を払い落とす。ただ一般に摺箔は、これだけ単独に用いることは少なく、刺しゅう、友禅染めなどと併用して部分的に使われることが多い。縫箔などという名称のあるのはそのためである。

 箔だけで模様を置いたものに能装束の摺箔がある。これは能の女役が着付に用いる装束で、このために能では摺箔ということばがこの装束の名称になっている。とくに『道成寺(どうじょうじ)』や『葵上(あおいのうえ)』などに用いられる三角つなぎを摺った鱗(うろこ)箔は、女の執念が蛇体(じゃたい)の鬼と化した姿を象徴する装束として知られる。[山辺知行]」

 

とある。

 前句は野郎を泣かせた昔話をするのではなく、昔話をして野郎を泣かせるの意味に取り成されている。

 

季語は「踊」で秋。「きぬぎぬ」は恋。「箔」は衣装。

 

十二句目

 

   きぬぎぬは宵の踊の箔を着て

 東追手の月ぞ澄きる       嵐蘭

 (きぬぎぬは宵の踊の箔を着て東追手の月ぞ澄きる)

 

 「追手(おふて)」は『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註には「大手。城郭の前面。」とある。江戸城には大手門があり、大手町があるが、ウィキペディアによると、

 

 「元は追手門(おうてもん)と書かれ、高知城など、城によっては現在も追手門と表記しているところもある。これに対して背面の門は搦手門(からめてもん)と呼ばれる。

 防御のために厳重な築造がされ、大規模な櫓門を開いたり石塁などにより枡形をしていることが多い。見た目も大きく、目立つように造られる。また、橋は土橋であることが多い。」

 

とある。

 江戸城大手門の東にはかつて酒井雅楽頭家上屋敷跡があったが、「踊の箔」からの連想か。元禄五年には既になかった。

 このあたりは大名屋敷が多いので、大名屋敷を出入りする能役者かもしれない。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

十三句目

 

   東追手の月ぞ澄きる

 青鷺の榎に宿す露の音      許六

 (青鷺の榎に宿す露の音東追手の月ぞ澄きる)

 

 大手門の前のお堀には青鷺もいる。

 月の句に逆らわずに榎に休む青鷺の景を添える。

 なお、許六のいた彦根藩の中屋敷は赤坂門の方にあったという。

 

季語は「露」で秋、降物。「青鷺」は鳥類。「榎」は植物、木類。

 

十四句目

 

   青鷺の榎に宿す露の音

 ふたりの柱杖あと先につく    洒堂

 (青鷺の榎に宿す露の音ふたりの柱杖あと先につく)

 

 「柱杖(しゅじょう)」は『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註に、「禅僧の用うる杖、行脚僧の体」とある。雲水行脚には欠かせない。

 『無門関』に「芭蕉柱杖」というのがあるが、それに関係あるのかないのかわからないが、そういう連想を誘うと何か深いものがあるのかと思わせる。これは洒堂のはったりであろう。

 

無季。「柱杖」は旅体、釈教。

 

十五句目

 

   ふたりの柱杖あと先につく

 乗掛の挑灯しめす朝下風     嵐蘭

 (乗掛の挑灯しめす朝下風ふたりの柱杖あと先につく)

 

 「乗掛(のりかけ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 近世の宿駅で、道中馬の両側に明荷(あけに)という葛籠(つづら)を2個わたし、さらに旅客を乗せて運ぶこと。「通し駕籠(かご)か―で参らすに」〈浮・五人女・二〉

  2 「乗り掛け馬」の略。」

 

とある。

 「下風(おろし)」は颪という字も書く。山から吹き降ろす風で、乾燥した空っ風であることが多い。特に冬の季語にはなっていない。

 朝もまだ薄暗い頃、山から吹き降ろす風が冷たくて、さしもの雲水行脚の僧もついつい乗り掛け馬の提灯に誘われてしまう。

 

無季。「乗掛」は旅体。

 

十六句目

 

   乗掛の挑灯しめす朝下風

 汐さしかかる星川の橋      芭蕉

 (乗掛の挑灯しめす朝下風汐さしかかる星川の橋)

 

 星川は桑名の星川で、濃州道(員弁街道)が通っていた。不破の関があった関が原から桑名に抜けるのには便利な道だったようだ。

 『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註は、

 

 桑名よりくはで来ぬれば星川の

     あさけになりぬ日永なりけり

 

の歌を引用している。『笈の小文』の杖突坂のところに「『桑名よりくはで来ぬれば』と云ふ日永(なが)の里より、馬かりて杖つき坂上るほど」とあり、伝西行の歌だと思っていたが、この註には宗祇とある。

 あさけは「朝明」という字を書き、今日では桑名の南を流れる朝明川の名前に残っている。

 桑名・朝明・日永は近世の東海道とも一致するが、星川だけは東海道からは離れている。あるいは員弁川(いなべがわ)下流の町屋川のことを星川と呼んでたのかもしれない。それならば「星川の橋」は町屋川にかかる町屋橋ということになる。

 町屋橋は桑名宿を出てすぐのところで、桑名宿の乗り掛け馬の提灯が見えたのだろう。また、このあたりは鈴鹿颪が吹く。

 

無季。「星川」は名所。

 

十七句目

 

   汐さしかかる星川の橋

 村は花田づらの草の青みたち   許六

 (村は花田づらの草の青みたち汐さしかかる星川の橋)

 

 先にも述べたように、ここは本来洒堂の順番だが、亭主である許六に花を持たせている。

 星川はここでは特にどこということでもなく、ただ河原の景色を付ける。

 近くの村には花が咲き、田植前のまだ水の入らない田んぼには草が芽吹いて青々としている。

 『去来抄』先師評の、

 

   につと朝日に迎ふよこ雲

 青みたる松より花の咲こぼれ   去来

 

の句のところで、最初「すっぺりと花見の客をしまいけり」という句を付けたが、芭蕉の顔色が曇っているのを見て付け直したという。どうして付け直したか聞かれると、

 

 「朝雲の長閑に機嫌よかりしを見て、初に付侍れど、能見るに此朝雲のきれいなる景色いふばかりなし。此をのがしてハ詮なかるべしとおもひかへし、つけ直し侍る。」

 

と答えたという。

 許六のこの句も、ただ川べりのきれいなる景色いふばかりなしという所か。

 

季語は「花」で春、植物、木類。榎から三句隔てる。「草」も植物、草類。「村」は居所。

 

十八句目

 

   村は花田づらの草の青みたち

 塚のわらびのもゆる石原     洒堂

 (村は花田づらの草の青みたち塚のわらびのもゆる石原)

 

 ここも奇をてらわずに景色をつけて流すが、田んぼに石原と違えて付ける所で変化をもたせている。

 「石原」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、「小石が多くある平地。」とある。

 「わらびのもゆる石原」は

 

 石走る垂水の上の早蕨の

     萌え出づる春になりにけるかも

                志貴皇子

 

を本歌とする。

 ただ、「塚」は墓を連想させる。近代の梶井基次郎ではないが、花の下には死体が埋まっているというところか。

 

季語は「わらび」で春、植物、草類。「塚」は無常。

二表

十九句目

 

   塚のわらびのもゆる石原

 薦僧の師に廻りあふ春の末    芭蕉

 (薦僧の師に廻りあふ春の末塚のわらびのもゆる石原)

 

 「薦僧」は虚無僧に同じ。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 

 「菰僧(こもそう),薦僧(こもそう),梵論字(ぼろんじ),梵字(ぼろんじ),暮露(ぼろ),また普化僧(ふけそう)ともいう。禅宗の一派である普化宗の僧の別称で,普化宗を虚無宗とも称する(イラスト)。吉田兼好の《徒然草(つれづれぐさ)》に,〈ぼろぼろ〉〈ぼろんじ〉と見え,我執深く闘争を事にする卑徒としている。《三十二番職人歌合》は,尺八を吹いて門戸にたち托鉢(たくはつ)することをもっぱらの業としたとする。」

 

とある。

 weblio辞書の「三省堂 大辞林」には、

 

 「普化(ふけ)宗に属する有髪の托鉢(たくはつ)僧。天蓋と称する深編み笠をかぶり、首に袈裟(けさ)をかけ、尺八を吹いて諸国を行脚(あんぎや)修行した。江戸時代には武士のみに許され、浪人者がほとんどであった。普化僧。薦僧(こもそう)。梵論(ぼろ)。梵論子(ぼろんじ)。」

 

とある。

 前句の「塚」から舞台を墓所として、そこで虚無僧が師に廻り合う。といっても、師はすでにこの塚の中だったのだろう。「塚も動け」と言ったかどうか。

 

季語は「春の末」で春。「薦僧」は釈教。

 

二十句目

 

   薦僧の師に廻りあふ春の末

 今は敗れし今川の家       嵐蘭

 (薦僧の師に廻りあふ春の末今は敗れし今川の家)

 

 虚無僧は牢人がほとんどだったということで、桶狭間で織田信長に破れた今川家の末裔とした。

 今川義元というと、時代劇ではバカ殿のように描かれがちだが決してそんなことはない。 誇張や創作の多い小瀬甫庵の「信長記」の影響によるものだ。

 今川義元は桶狭間で戦死し、嫡子の今川氏真はウィキペディアによれば、

 

 「同盟者でもあり妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した徳川家康(松平元康)と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった、氏真以後の今川家の子孫は、徳川家と関係を持ち続け、家康の江戸幕府(徳川幕府)で代々の将軍に仕えて存続した。」

 

とある。今川氏は高家旗本であり、牢人に身を落としたり虚無僧になったりすることはなかった。

 嵐蘭も小瀬甫庵の「信長記」の影響を受けていたのだろう。

 忠臣蔵の敵役で有名になる吉良上野介も今川氏の子孫だが、松の廊下事件はこの巻の興行の九年後の元禄十四年のこと。

 

無季。

 

二十一句目

 

   今は敗れし今川の家

 うつり行後撰の風を読興し    許六

 (うつり行後撰の風を読興し今は敗れし今川の家)

 

 「後撰」は「後撰和歌集」のこと。「古今和歌集」に続く二番目の勅撰集。

 『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註には、前句の今川を今川貞世(今川了俊)のこととする。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、

 

 「南北朝時代の守護。法名は了俊(りょうしゅん)。幕府の要職にあったが1370年九州探題となり,以後20余年間九州の南朝勢力を制圧し,倭寇(わこう)の取締りにも努力。和歌・連歌・故実にもすぐれ,晩年盛んに文筆をふるって《二言抄(にごんしょう)》《難太平記》《了俊書札礼》等を書いた。」

 

とある。和歌は冷泉為秀に学び、連歌は二条良基に学んだ。今川義元は貞世の兄の範氏の子孫になる。

 

無季。

 

二十二句目

 

   うつり行後撰の風を読興し

 又まねかるる四国ゆかしき    洒堂

 (うつり行後撰の風を読興し又まねかるる四国ゆかしき)

 

 これは『土佐日記』を書いた紀貫之の俤か。

 紀貫之の『古今和歌集』の編纂は延喜五年(九〇五)、土佐赴任から京に戻るのは承平四年(九三四)、亡くなったのが天慶八年(九四五)、『後撰和歌集』の編纂は天暦五年(九五一)以降のこと。

 『後撰和歌集』の編纂の時代までは生きてないが、その少し前までは生きていたから「後撰の風を読興し」と言えなくもないし、実際に八十一首が入集している。

 

無季。

 

二十三句目

 

   又まねかるる四国ゆかしき

 朝露に濡わたりたる藍の花    嵐蘭

 (朝露に濡わたりたる藍の花又まねかるる四国ゆかしき)

 

 ウィキペディアの「藍」のところに、

 

 「日本には6世紀頃中国から伝わり、藍色の染料を採る為に広く栽培された。特に江戸時代に阿波で発達し、19世紀初めには藍玉の年産額15万-20万俵を誇った。」

 

とある。前句の「四国」から阿波名産の藍を出したと言って良いだろう。

 「藍の花」は本物の花ではない。これもウィキペディアに、

 

 「染色には、藍玉(すくも)を水甕で醗酵させてから行う(醗酵すると水面にできる藍色の泡を「藍の華」と呼び、これが染色可能な合図になる)ので、夏の暑い時期が最適である。」

 

とある。

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏之部の六月の所に「藍苅る」という季語がある。

 

 「[和漢三才図会]四月、苗を植て凡七十日ばかりに、いまだ穂をなさざる時、晴旦に露に乗じて抜採り、曝し乾す、云々。按ずるに、抜採るもの穂にして、苅とる者多し。」

 

とあるように、藍の収穫は花の咲く前に行われる。ただ、馬琴の時代には秋の穂の出る頃に三番刈りすることも多かったようだ。

 その一方で『増補 俳諧歳時記栞草』の秋之部に「藍の花」の項目がある。

 

 「葉、蓼に似て、七八月淡紅花をひらく。」

 

 これは収穫後の藍を種を取るために残しておくと秋に赤い花が咲く、その本物の方の花を指すからだ。近代でも「藍の花」仲秋になっている。

 

季語は「藍の花」で夏。「朝露」は降物。

 

二十四句目

 

   朝露に濡わたりたる藍の花

 よごれしむねにかかる麦の粉   芭蕉

 (朝露に濡わたりたる藍の花よごれしむねにかかる麦の粉)

 

 「武庫川女子大学 牛田研究室」のサイトに、

 

 「日本の伝統的な藍染めでは、写真のように、土の中に埋め込んだカメ(瓶)の中に、すくも・小麦ふすま(発酵の栄養源)・灰汁(アルカリ)を入れ、1週間ほど発酵させ、すくも中のインジゴを還元して水溶性にして行う。この発酵は、熟練を要する作業である。液面に泡(これを藍の花と称する)が立つと染めることができるようになる。」

 

とある。

 この場合の「麦の粉」ははったい粉ではなく小麦ふすまのことか

 

季語は「麦の粉」で夏。

 

二十五句目

 

   よごれしむねにかかる麦の粉

 馬方を待恋つらき井戸の端    洒堂

 (よごれしむねにかかる麦の粉馬方を待恋つらき井戸の端)

 

 この場合は前句の「麦の粉」をはったい粉として、井戸端で愛しき馬方を待つ粉屋の娘としたか。はったい粉は「麦焦がし」とも言い、物が「麦焦がし」だけに恋に胸が焦がれるとする。

 

無季。「待恋」は恋。「馬方」は人倫。

 

二十六句目

 

   馬方を待恋つらき井戸の端

 月夜に髪をあらふ揉出し     許六

 (馬方を待恋つらき井戸の端月夜に髪をあらふ揉出し)

 

 「揉出し」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「揉み洗いをして汚れなどを取り除くこと。揉み出すこと。

 ※俳諧・深川(1693)「馬方を待恋つらき井戸の端〈洒堂〉 月夜に髪をあらふ揉(モミ)出し〈許六〉」

 

とある。

 馬方の帰りが遅くなったのか、月夜の井戸端で髪を洗って待っている。「あらふ」だけで止めずに、「揉出し」というやや散文的な作業を持ち出すことで俳諧になっている。

 

季語は「月夜」で秋、夜分、天象。

 

二十七句目

 

   月夜に髪をあらふ揉出し

 火とぼして砧あてがふ子供達   芭蕉

 (火とぼして砧あてがふ子供達月夜に髪をあらふ揉出し)

 

 「あてがふ」は割り当てるということ。母が髪を洗っている間は砧打つのも子供の仕事になる。多分よくあることだったのだろう。

 砧は杵(きね)で衣類を叩き、艶を出す作業で、かつては東アジアで広く行われていた。ウィキペディアによると、「日本の家庭では、炭を使うアイロンが普及した明治時代には廃れたが、朝鮮では1970年代まで使われていた。現在では完全に廃れている。」という。

 明治二十七年(一九八四)に「二六新報」に掲載された本間九介の『朝鮮雑記』にも、日本で廃れた砧が朝鮮半島に残っていることを、

 

 「お仕舞は一声高し小夜きぬた

 月の出る山を真向や小夜きぬた

 長安一片月、万戸擣衣情

 秋の哀を捲きこめて打てばや音の身にはしらむらん。

 まったくもって、無限の旅情を駆りたてるものは、この擣衣(衣を打つ)

 

の声にこそあるのではないか。」

 

と記している。

 句は誰のものかよくわからない。この翌年、正岡子規が日清戦争の従軍記者として朝鮮半島に渡っている。

 

季語は「砧」で秋。「火とぼし」は夜分。「子供達」は人倫。

 

二十八句目

 

   火とぼして砧あてがふ子供達

 先積かくるとしの物成      嵐蘭

 (火とぼして砧あてがふ子供達先積かくるとしの物成)

 

 「物成(ものなり)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「江戸時代の年貢。取箇 (とりか) ,成箇 (なりか) と同義。田畑の本租の意味で本途物成ともいう。これに対し諸種の雑税を小物成という。」

 

とある。

 年貢として差し出すことしの収穫物が部屋の中にうずたかく積まれ、その影で子供達が砧を打っている。

 

季語は「物成」で秋。

 

二十九句目

 

   先積かくるとしの物成

 うつすりと門の瓦に雪降て    許六

 (うつすりと門の瓦に雪降て先積かくるとしの物成)

 

 年貢米の積まれた屋敷には立派な瓦葺の門があり、季節がらそこに薄っすらと雪が降り積もる。

 この歌仙もそろそろ終盤となり、景色を付けて軽く流してゆく。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

三十句目

 

   うつすりと門の瓦に雪降て

 高観音にから崎を見る      洒堂

 (うつすりと門の瓦に雪降て高観音にから崎を見る)

 

 「高観音」は滋賀大津の高観音近松寺で、三井寺(園城寺)の別所の一つ。前句の門を高観音近松寺の門として、そこから滋賀唐崎が見える。

 

無季。「から崎」は名所、水辺。「高観音」は釈教。

二裏

三十一句目

 

   高観音にから崎を見る

 今はやる単羽織を着つれ立チ   嵐蘭

 (今はやる単羽織を着つれ立チ高観音にから崎を見る)

 

 「単羽織」は夏用の裏地のない羽織を言う。「猿蓑に」の巻の十二句目にも、

 

   朔日の日はどこへやら振舞れ

 一重羽織が失てたづぬる       支考

 

の句がある。「柳小折」の巻の七句目に、

 

   小鰯かれて砂に照り付

 上を着てそこらを誘ふ墓参      洒堂

 

とあるのも、一重羽織であろう。一応上着を着ているということで略式の礼装になる。

 高観音に参拝するということで、一応きちんとした格好をしてきたのだろう。

 「はやりの」というのは京都大阪から来た都会っ子の集団か。

 

無季。「単羽織」は衣装。

 

三十二句目

 

   今はやる単羽織を着つれ立チ

 奉行の鑓に誰もかくるる     芭蕉

 (今はやる単羽織を着つれ立チ奉行の鑓に誰もかくるる)

 

 江戸には南北の町奉行が置かれていた。奉行の下に与力・同心がいて、実際に槍を持ってパトロールしてたのは同心であろう。

 同心はなかなか粋な人が多く、人気があったという。そこいらの粋がっているチンピラはそれを見てこそこそと隠れる。「やべっ、奉行だっ」ってとこか。

 芭蕉らしい面白い展開ではあるが、『俳諧問答』には、

 

 「此巻出来て師の云ク、此誰の字、全ク前句の事也。是仕損じ也といへり。今此句に寄て見る時、右両句前句ニむづかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.134)

 

とある。「誰も」の誰は「今はやる単羽織を着つれ立チ」たむろしていた衆そのもので、重複になるというわけだ。「さっとかくるる」くらいでも良かったということか。

 細かいことのようだが、「誰も」だと登場人物が複数いなくてはいけないが、なければ一人でもいいことになり次の句の展開の幅が広がる。

 『山中三吟評語』に、「馬かりて」の巻の四句目、

 

   月よしと角力に袴踏ぬぎて

 鞘ばしりしをやがてとめけり   北枝

 

の句の時、

 

  鞘ばしりしを友のとめけり   北枝

 「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る

 

と言ったのと同じであろう。この場合も相撲を取る場面では人が何人か集まっているさまが想像できるから、「友」と言わなくても意味は伝わる。

 友の字がなければ次の句の登場人物は単体でもよくなり、

 

   鞘ばしりしをやがてとめけり

 青淵に獺の飛こむ水の音     曾良

 

という展開が可能になる。

 

無季。「奉行」「誰」は人倫。

 

三十三句目

 

   奉行の鑓に誰もかくるる

 葭垣に木やり聞ゆる塀の内    洒堂

 (葭垣に木やり聞ゆる塀の内奉行の鑓に誰もかくるる)

 

 「葭垣(よしがき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 杉丸太を立て、胴縁(どうぶち)の上に葦簀(よしず)を張り、竹の押し縁を縄で結び固めた垣。あしがき。」

 

とある。

 「木やり」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「日本民謡の一種。〈木遣歌〉の略。本来は神社造営の神木などの建築用木材をおおぜいで運ぶときの労作歌だが,その他の建築資材を運ぶとき,土突きなどの建築工事や祭の山車(だし)を引くときなどの歌も含まれる。音頭取りの独唱とおおぜいの人の斉唱が掛合いで入る音頭形式で,テンポがおそい。仕事歌としてより祝儀歌として歌われることもあり,三味線歌にもなっている。」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註に「前句を普請奉行の見廻りと見た付。」とある。ただ、隠れたのは木遣り歌を歌ってる職人さんではなく、大きな材木が通るというので沿道の人々が隠れたのではないかと思う。

 塀の内からは木やり歌が聞こえて来て、塀の外の町人は通りを空ける。

 やはり「誰」の字が重かったのか、展開が苦しいところを上手く乗り切ったという感じだ。

 

無季。

 

三十四句目

 

   葭垣に木やり聞ゆる塀の内

 日はあかう出る二月朔日     許六

 (葭垣に木やり聞ゆる塀の内日はあかう出る二月朔日)

 

 「二月朔日」が何の日付なのかよくわからないが、多分当時の人なら思い当たるものがあったのだろう。

 花の定座の前に桜の開花にまだ早い二月一日という日付を出すと、普通の花が出しづらい。

 

季語は「二月」で春。「日」は天象。

 

三十五句目

 

   日はあかう出る二月朔日

 初花に伊勢の鮑のとれそめて   芭蕉

 (初花に伊勢の鮑のとれそめて日はあかう出る二月朔日)

 

 現在では伊勢の鮑は九月十五日から十二月三十一日まで禁漁になっているが、江戸時代でも似たようなものがあったのか。

 二月一日なので咲き始めの桜、「初花」を出す。

 

季語は「初花」で春、植物、木類。「伊勢」は名所、水辺。

 

挙句

 

   初花に伊勢の鮑のとれそめて

 釣樟若やぐ宮川の上ミ      嵐蘭

 (初花に伊勢の鮑のとれそめて釣樟若やぐ宮川の上ミ)

 

 「釣樟(くのぎ)」はクロモジのことで、「なみくぬぎ」とも言う。

 クロモジはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 クスノキ科の落葉低木。山地に多く、樹皮は黒斑のある緑色、葉は楕円形で両端がとがる。雌雄異株。春、淡黄色の小花が多数咲く。材からようじを作る。《季 花=春》

  2 《1の木で作るところから》茶道で、菓子に添えて出すようじ。また一般に、つまようじのこと。」

 

とある。

 ここでは字数の関係からクノギと読むようだ。『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)にはクノギと仮名が振ってある。

 伊勢の鮑をご馳走になって、締めくくりは爪楊枝というところか。折から宮川(五十鈴川)の上流のクヌギの木も春めいてくる。

 

季語は「釣樟若やぐ」で春、植物、木類。「宮川」は水辺。