「笠寺や」の巻、解説

貞享四年十一月十七日知足宅にて

初表

   奉納

 笠寺やもらぬ窟も春の雨     芭蕉

   旅寝を起こすはなの鐘撞   知足

 月の弓消ゆくかたに雉子啼て   如風

   秀句ならひに高瀬さしけり  重辰

 茶を出す時雨に急ぐ笹の蓑    安信

   売残したる庭の錦木     自笑

 

初裏

 ゑのころのかさなり伏て四ツ五ツ 菐言

   むらむら土の焦し市原    執筆

 旗竿に藪はほられて風の音    知足

   下部の祖父と女すむ家    如風

 きぬぎぬのまた振袖に烏帽子着て 自笑

   恨みを笛に吹残しける    安信

 曇るやと夷に見せたる秋の月   重辰

   露さぶげなり義経の像    菐言

 白絹に萩としのぶを織こめて   如風

   院の曹子に薫を乞      知足

 廊を双六うちにしのびより    安信

   火を消す顔の憎き唇     重信

 

 

二表

 盞をあらそひ負てかり枕     菐言

   一二の船を汐にまかする   自笑

 乗捨し真砂の馬の哀なり     重辰

   刀をぬきてたぶさおし切   如風

 大年の夜のともし火影薄く    知足

   居眠りながらくける綿入   安信

 藁の戸に乳を呑ほどの子を守て  自笑

   もぎつくしたる午時の花   菐言

 山路来て何やら床し郭公     如風

   笈おもげなる宮の休らひ   重辰

 姉妹窓の細めに月を見て     安信

   名を待宵と付し白菊     知足

 

二裏

 おもひ草水無瀬の水に投入ん   重辰

   秋くれぬとて扇引さく    自笑

 初雪のかかる箙をうち払ひ    知足

   鳥居を覗く八重の松ばら   如風

 花盛尾張の国に札うちて     菐言

   暖になるすぐの明ぼの    安信

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

   奉納

 笠寺やもらぬ窟も春の雨     芭蕉

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によると、

 

 「『知足齋日日記抄』貞享四年十一月の冬に、「十七日、笠寺奉納はいかい今日私宅ニて桃青翁と共連衆七人ニてスル」とある。但し、芭蕉は発句のみ。発句は貞享四年春(三年春説もある)の寂照(知足)宛書簡に出で、この年の春、予め送っていた。」

 

とある。この書簡は短く、

 

   「この御寺の縁記(起)、人のかたるを聞侍て

 かさ寺やもらぬ岩屋もはるのあめ

             武城江東散人芭蕉桃青

 

 笠寺の発句度々被仰下候故、此度進覧申候。よきやうに清書被成、奉納可レ被レ成候。委曲夏中可得御意候。 以上

   寂照叟」

 

とある。

 笠寺は天林山笠覆寺で笠寺観音と呼ばれている。名鉄線本笠寺駅の近くにある。ウィキペディアには、

 

 「寺伝によれば、天平5年(733年、一部文書には天平8年 - 736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。

 その後1世紀以上を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年 - 935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。」

 

とある。笠地蔵の原型のような話だ。

 なお、この寺にある芭蕉句碑はなぜか笠寺の句ではなく星崎の句になっているという。

 芭蕉が『笈の小文』の旅で訪れたということで、知足宅でこの発句を立句として歌仙興行が行われるが、芭蕉は同席しただけで発句のみの参加となっている。

 笠寺の辺りは平地なので岩屋(窟)がありそうなところではない。この句は「笠寺の春の雨(に)もらぬ窟もや」の倒置で、つまり観音様に被せた笠を岩屋に見立てたものだろう。娘のしたことは岩屋を掘ったに匹敵する、という意味になる。「も」は力もで並列のもではない。

 

季語は「春の雨」で春、降物。釈教。

 

 

   笠寺やもらぬ窟も春の雨

 旅寝を起こすはなの鐘撞     知足

 (笠寺やもらぬ窟も春の雨旅寝を起こすはなの鐘撞)

 

 「旅寝を起こす」というのは、わざわざ旅の途中に立ち寄ってもらったことへの労いであろう。春のなので「花」、お寺なので「鐘」と四手に付ける。

 

季語は「はな」で春、植物、木類。旅体。

 

第三

 

   旅寝を起こすはなの鐘撞

 月の弓消ゆくかたに雉子啼て   如風

 (月の弓消ゆくかたに雉子啼て旅寝を起こすはなの鐘撞)

 

 朝の景に雉子の声も添えて下弦過ぎの「末の三日月」を付ける。

 

季語は「雉子」で春、鳥類。「月の弓」は夜分、天象。

 

四句目

 

   月の弓消ゆくかたに雉子啼て

 秀句ならひに高瀬さしけり    重辰

 (月の弓消ゆくかたに雉子啼て秀句ならひに高瀬さしけり)

 

 高瀬舟は江戸時代の河川での物流を担ってきた船。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「近世以後、川船の代表として各地の河川で貨客の輸送に従事した船。小は十石積級から大は二、三百石積に至るまであり、就航河川の状況に応じた船型、構造をもつが、吃水の浅い細長い船型という点は共通する。京・伏見間の高瀬川就航のものは箱造りの十五石積で小型を代表し、利根川水系の二百石積前後のものはきわめて長大で平田舟(ひらだぶね)に類似し、大型を代表する。」

 

とある。下流の川幅が広いところでは平田舟が用いられた。

 高名な俳諧師が来るとなれば、高瀬舟に乗って駆け付ける。その方が歩くよりも早いからだ。

 芭蕉の『奥の細道』の旅での日光から大渡(おおわたり)への近道も高瀬舟だったのかもしれない。

 

無季。「高瀬」は水辺。

 

五句目

 

   秀句ならひに高瀬さしけり

 茶を出す時雨に急ぐ笹の蓑    安信

 (茶を出す時雨に急ぐ笹の蓑秀句ならひに高瀬さしけり)

 

 蓑は通常藁で作るが笹の蓑もあったのか。高瀬舟の船頭が着ていたのだろう。

 前句を京都の高瀬川の舟として宇治茶の出荷の場面を付ける。高瀬川はウィキペディアに、

 

 「江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。 開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。」

 

とある。

 宇治の抹茶は甜茶にしたあと熟成させるため、秋に封切りをした。時雨の頃が抹茶の出荷時期になる。京の町に秀句を習いに行く人も、この船に同乗する。

 

季語は「時雨」で冬、降物。「蓑」は衣裳。

 

六句目

 

   茶を出す時雨に急ぐ笹の蓑

 売残したる庭の錦木       自笑

 (茶を出す時雨に急ぐ笹の蓑売残したる庭の錦木)

 

 錦木(ニシキギ)はウィキペディアに、

 

 「日本の北海道・本州・四国・九州のほか、国外では中国、アジア北東部に分布し、山野に自生する。秋の紅葉を楽しむため、庭木としてもよく植えられる。紅葉が見事で、ニッサ・スズランノキと共に世界三大紅葉樹に数えられる。」

 

とある。

 前句の笹の蓑を冬構えの木に被せる覆いと取り成したか。

 売れ残って紅葉の葉も散ってしまったニシキギに、時雨にやられないように笹の覆いをする。

 

無季。「錦木」は植物、木類。

初裏

七句目

 

   売残したる庭の錦木

 ゑのころのかさなり伏て四ツ五ツ 菐言

 (ゑのころのかさなり伏て四ツ五ツ売残したる庭の錦木)

 

 エノコログサは猫じゃらしのこと。売れ残った空き家にエノコログサが枯れて伏せり、ニシキギが四五本残っている。

 

無季。「ゑのころ」は植物、草類。

 

八句目

 

   ゑのころのかさなり伏て四ツ五ツ

 むらむら土の焦し市原      執筆

 (ゑのころのかさなり伏て四ツ五ツむらむら土の焦し市原)

 

 市原は京都の北側、鞍馬や貴船への入口になる。元禄七年春の「五人ぶち」の巻二十七句目に、

 

   むかしの栄耀今は苦にやむ

 市原にそこはかとなく行々子   芭蕉

 

の句がある。京都の五山送り火では過去に市原で「い(かながしら)」の字の送り火が行われていたらしい。原田淑人さんの「生物学者はこんなことを考えている」というサイトに書いてあった。

 その送り火が貞享の頃にあったかどうかはわからないが、「むらむら土の焦し」は野焼きの情景だろう。

 

無季。

 

九句目

 

   むらむら土の焦し市原

 旗竿に藪はほられて風の音    知足

 (旗竿に藪はほられて風の音むらむら土の焦し市原)

 

 市原合戦であろう。ウィキペディアに、

 

 「市原合戦(いちはらかっせん)は、治承4年(1180年)9月7日に信濃国で起きた合戦。「善光寺裏合戦」とも呼ばれる治承・寿永の乱の中で起きた合戦の一つ。史料上に初めて現れる源義仲が関与した戦いである。」

 

とある。木曽義仲が大軍を率いてやってきたため笠原平五頼直の軍は逃げ出し、残ったのは風の音ということか。

 

無季。

 

十句目

 

   旗竿に藪はほられて風の音

 下部の祖父と女すむ家      如風

 (旗竿に藪はほられて風の音下部の祖父と女すむ家)

 

 下部(しもべ)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 雑用に使われる者。召使い。「神の―」

  2 身分の低い者。

  「この魚…頭は―も食はず」〈徒然・一一九〉

  3 官に仕えて、雑役を勤めた下級の役人。

  「―ども参ってさがし奉れ」〈平家・四〉」

 

とある。武家に周りの藪が切り払われてしまい、風が直に家に吹き込むようになった。「女すむ家」というところで恋呼び出しになる。

 

無季。「下部」「祖父」「女」は人倫。「家」は居所。

 

十一句目

 

   下部の祖父と女すむ家

 きぬぎぬのまた振袖に烏帽子着て 自笑

 (きぬぎぬのまた振袖に烏帽子着て下部の祖父と女すむ家)

 

 振袖は「ふるそで」であろう。「袖振る」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 合図として、または別れを惜しんだり、愛情を示したりして、着物の袖を振る。

  ※万葉(8C後)一・二〇「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖(そで)布流(フル)」

 

とある。

 後朝に別れを惜しんで袖を振るが、そこに烏帽子の祖父さんが必ず現れて、二人っきりにしてくれない。

 

無季。恋。「烏帽子」は衣裳。

 

十二句目

 

   きぬぎぬのまた振袖に烏帽子着て

 恨みを笛に吹残しける      安信

 (きぬぎぬのまた振袖に烏帽子着て恨みを笛に吹残しける)

 

 通ってきたのは烏帽子を着て笛を吹く貴公子だった。

 

無季。恋。

 

十三句目

 

   恨みを笛に吹残しける

 曇るやと夷に見せたる秋の月   重辰

 (曇るやと夷に見せたる秋の月恨みを笛に吹残しける)

 

 本歌は、

 

 あやなくも雲らぬ宵をいとふかな

     信夫の里の秋の夜の月

             橘為仲(新古今集)

 

だろうか。前句の「恨み」が陸奥に流された人の情になる。

 

季語は「秋の月」で秋、夜分、天象。「夷」は人倫。

 

十四句目

 

   曇るやと夷に見せたる秋の月

 露さぶげなり義経の像      菐言

 (曇るやと夷に見せたる秋の月露さぶげなり義経の像)

 

 元禄九年の桃隣の「舞都遲登理」の旅の平泉の所に「義經像・堂一宇。辨慶櫻、中尊寺入口ニ有。」とある。それ以前の尾張の方でも噂に聞いていたか。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

十五句目

 

   露さぶげなり義経の像

 白絹に萩としのぶを織こめて   如風

 (白絹に萩としのぶを織こめて露さぶげなり義経の像)

 

 これは想像だろう。義経の像といえば白装束に宮城野の萩と「みちのくのしのぶ文知摺」に掛けてシノブの葉を織り込んでというのが似合いそうだ。

 

季語は「萩」で秋、植物、木類。

 

十六句目

 

   白絹に萩としのぶを織こめて

 院の曹子に薫を乞        知足

 (白絹に萩としのぶを織こめて院の曹子に薫を乞)

 

 「曹子(ざうし)」は御曹司のこと。院は上皇や女院にも用いられるが、この場合は単に貴人の邸宅のことであろう。そこの白絹に萩としのぶを織こめた着物を着ている御曹司に薫物をもらいにゆく。

 

無季。「曹子」は人倫。

 

十七句目

 

   院の曹子に薫を乞

 廊を双六うちにしのびより    安信

 (廊を双六うちにしのびより院の曹子に薫を乞)

 

 「廊」は「わたどの」と読む。屋根のある渡り廊下で前句の院を寺院としたか。『冬の日』の「つゝみかねて月とり落す霽かな 杜国」を発句とする巻の十一句目に、

 

   蕎麦さへ青し滋賀楽の坊

 朝月夜双六うちの旅ねして    杜國

 

の句がある。寺に双六うちは付き物なのだろう。

 双六はバックギャモンのことで、ギャンブルに用いられていた。ここでは双六の負けの借金の代わりに高価な薫物を要求するということか。

 

無季。

 

十八句目

 

   廊を双六うちにしのびより

 火を消す顔の憎き唇       重信

 (廊を双六うちにしのびより火を消す顔の憎き唇)

 

 双六うちとの密会。

 

無季。恋。

二表

十九句目

 

   火を消す顔の憎き唇

 盞をあらそひ負てかり枕     菐言

 (盞をあらそひ負てかり枕火を消す顔の憎き唇)

 

 「かり枕」は仮寝と同じ。旅寝の意味と仮眠の意味がある。

 この場合は飲み比べに負けて寝てしまったところに、勝者がどや顔で火を吹き消す。

 

無季。旅体。

 

二十句目

 

   盞をあらそひ負てかり枕

 一二の船を汐にまかする     自笑

 (盞をあらそひ負てかり枕一二の船を汐にまかする)

 

 前句の「かり枕」を旅寝にする。汐まかせの船の上で寝る。

 

無季。旅体。「船」「汐」は水辺。

 

二十一句目

 

   一二の船を汐にまかする

 乗捨し真砂の馬の哀なり     重辰

 (乗捨し真砂の馬の哀なり一二の船を汐にまかする)

 

 いくさでの敗走であろう。馬を捨ててたまたま置いてあった舟で漕ぎ出す。どこへ行くとも決めてなく、あとは汐まかせ。

 

無季。「馬」は獣類。

 

二十二句目

 

   乗捨し真砂の馬の哀なり

 刀をぬきてたぶさおし切     如風

 (乗捨し真砂の馬の哀なり刀をぬきてたぶさおし切)

 

 「たぶさ」は髻(もとどり)のこと。出家するつもりか、ただ僧に成りすますだけか。

 

無季。釈教。

 

二十三句目

 

   刀をぬきてたぶさおし切

 大年の夜のともし火影薄く    知足

 (大年の夜のともし火影薄く刀をぬきてたぶさおし切)

 

 武家だが借金のかたに家屋敷も取られ、もはや火の消えるように出家するしかない。

 

季語は「大年」で冬。「夜」は夜分。

 

二十四句目

 

   大年の夜のともし火影薄く

 居眠りながらくける綿入     安信

 (大年の夜のともし火影薄く居眠りながらくける綿入)

 

 「くける」は「絎ける」で「国語辞典オンライン」には「布の端を縫い目が目立たないように縫うこと。また、そのような縫い方。」とある。

 大晦日の夜に破れた綿入れ半纏をつくろっている。正月はやはりきちんとした格好をしなくては、というところだが、忙しかったのか泥縄になってしまった。

 

季語は「綿入」で冬、衣裳。

 

二十五句目

 

   居眠りながらくける綿入

 藁の戸に乳を呑ほどの子を守て  自笑

 (藁の戸に乳を呑ほどの子を守て居眠りながらくける綿入)

 

 綿入れをねんねこ半纏のこととする。

 

無季。「藁の戸」は居所。「子」は人倫。

 

二十六句目

 

   藁の戸に乳を呑ほどの子を守て

 もぎつくしたる午時の花     菐言

 (藁の戸に乳を呑ほどの子を守てもぎつくしたる午時の花)

 

 「午時(ひるどき)の花」は午時花(ゴジカ)という植物もあるが、ここではヒルガオのことか。花は可憐だが畑の雑草で、葉は食用になるから、片っ端から捥ぐ。

 

季語は「午時の花」で夏、植物、草類。

 

二十七句目

 

   もぎつくしたる午時の花

 山路来て何やら床し郭公     如風

 (山路来て何やら床し郭公もぎつくしたる午時の花)

 

 言わずと知れた『野ざらし紀行』の時の、

 

 山路来て何やらゆかしすみれ草  芭蕉

 

の句の下五を変えただけの句だ。貞享二年三月二十七日の芭蕉・叩端・桐葉の三吟興行の時の発句は、

 

 何とはなしに何やら床し菫草   芭蕉

 

だったが、貞享二年五月十二日付の千那宛書簡に「山路来て」と改められた句形が見られる。

 雑草をむしりとる山の百姓はスミレに魅了されることはなくても、さすがにホトトギスの声ならわかる。

 

季語は「郭公」で夏、鳥類。「山路」は山類。

 

二十八句目

 

   山路来て何やら床し郭公

 笈おもげなる宮の休らひ     重辰

 (山路来て何やら床し郭公笈おもげなる宮の休らひ)

 

 山路を行くのを旅人とする。神社で一休みしているのだろう。

 「笈」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「行脚僧や修験者などが仏像,仏具,経巻,衣類などを入れて背負う道具。箱笈と板笈の2種がある。箱笈は内部が上下2段に仕切られ,上段に五仏を安置し,下段に念珠,香合,法具を納めている。扉には鍍金した金具を打ったり,木彫で花や鳥を表わし,彩漆 (いろうるし) で彩色した鎌倉彫の装飾を施したものもある。」

 

とある。

 

無季。旅体。

 

二十九句目

 

   笈おもげなる宮の休らひ

 姉妹窓の細めに月を見て     安信

 (姉妹窓の細めに月を見て笈おもげなる宮の休らひ)

 

 前句の「宮」を熱田の宮宿として、遊郭の姉妹を付ける。笈を背負った旅人もここで安らう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「姉妹」は人倫。

 

三十句目

 

   姉妹窓の細めに月を見て

 名を待宵と付し白菊       知足

 (姉妹窓の細めに月を見て名を待宵と付し白菊)

 

 白菊のように清楚な美しさを持つ遊女の別名は「宵待」。

 ちなみに宵待ち草(待宵草、月見草)は幕末に観賞用に輸入されたものが雑草化したもので、この時代にはまだない。

 

季語は「白菊」で秋、植物、草類。

二裏

三十一句目

 

   名を待宵と付し白菊

 おもひ草水無瀬の水に投入ん   重辰

 (おもひ草水無瀬の水に投入ん名を待宵と付し白菊)

 

 思草はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙

  ① 植物「なんばんギセル(南蛮煙管)」の異名。《季・秋》

  ※万葉(8C後)一〇・二二七〇「道辺の尾花が下の思草(おもひぐさ)今さらになに物か思はむ」

  ② 植物「おみなえし(女郎花)」の異名。

  ※行宗集(1140頃)「女郎花おなじ野べなるおもひ草いま手枕にひき結びてむ」

  ③ タバコの異称。

  ※浄瑠璃・曾根崎心中(1703)「煙管にくゆる火も、〈略〉吹きて乱るる薄煙、空に消えては是もまた、行方も知らぬ相おもひぐさ」

  [補注]どの植物を指すのかについては古来諸説がある。和歌で「尾花が下の思草」と詠まれることが多いところから、ススキなどの根に寄生する南蛮煙管と推定されている。「思ふ」を導いたり、「思ひ種」にかけたりして用いられるが、下向きに花をつける形が思案する人の姿を連想させることによるものか。」

 

とある。他にもリンドウだという説やツユクサだという説もある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は前句の「宵待」を宵待の小侍従として同時代の後鳥羽院の水無瀬宮で応じたとしている。これだと付け合い的な発想で物付けで付けたことになる。

 水無瀬川は伏流水で表に水が見えないから水無瀬川で、そこに思い草を投げ込むというのは何かの逆説だろうか。

 もう一つ後鳥羽院が白菊を好んだという縁もある。後鳥羽院が隠岐に流されたとき、息子の順徳院が詠んだ歌に、

 

 いかにして契りおきけむ白菊を

     都忘れと名づくるも憂し

              順徳院

 

というのがある。

 順徳院の立場に立って、後鳥羽院の帰りを願い宵待という別名の白菊を水無瀬川に投げ入れたい、と読む方が良いのかもしれない。

 

季語は「おもひ草」で秋、植物、草類。「水無瀬の水」は名所、水辺。

 

三十二句目

 

   おもひ草水無瀬の水に投入ん

 秋くれぬとて扇引さく      自笑

 (おもひ草水無瀬の水に投入ん秋くれぬとて扇引さく)

 

 「草」には「草ぐさ」というように品物のことも意味する。前句の「おもひ草」を思いを書き綴った品物として、扇に物を書きつけて引き裂いて投げ入れたとしたのだろう。

 後に『奥の細道』の旅で北枝と別れる時に芭蕉は、

 

 物書て扇引さく余波哉      芭蕉

 

と詠んでいる。

 

季語は「秋くれぬ」で秋。

 

三十三句目

 

   秋くれぬとて扇引さく

 初雪のかかる箙をうち払ひ    知足

 (初雪のかかる箙をうち払ひ秋くれぬとて扇引さく)

 

 箙(えびら)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具。矢をもたせる細長い背板の下に方立(ほうだて)と呼ぶ箱をつけ、箱の内側に筬(おさ)と呼ぶ簀子(すのこ)を入れ、これに鏃(やじり)をさしこむ。背板を板にせずに枠にしたものを端手(はたて)といい、中を防己(つづらふじ)でかがって中縫苧(なかぬいそ)という。端手の肩に矢を束ねて結ぶ緒をつけ、矢把(やたばね)の緒とする。葛箙、逆頬箙、竹箙、角箙、革箙、柳箙などの種類がある。

  ※平家(13C前)四「二十四刺したる矢を、〈略〉射る、矢庭に敵十二人射殺し、十一人に手負うせたれば、箙に一つぞ残りたる」

  ② 能楽用の小道具。数本の矢を紐で束ね、箙に擬したもの。

  ③ 連句の形式の一つ。箙にさす矢の数にかたどり、一巻二四句から成るもので、初折の表六句と裏六句、名残の表六句と裏六句、合わせて二四句を一連とした。〔俳諧・独稽古(1828)〕」

 

とある。また、

 

 「[語誌](1)「箙」の字は「十巻本和名抄‐五」「色葉字類抄」などでは「やなぐひ」の訓が付けられている。「やなぐひ」は、平安時代には朝廷で儀仗用などに用いられていた。平安時代末頃から衛府の随身や武士の使用していたものを指して「えびら」と呼ぶようになったものと思われる。

  (2)「今昔‐二八」の記述より矢と容器とを含めて「やなぐひ」、矢を入れる容器だけを「えびら」と区別していたものと思われる。しかし、後には混同されることもあったようで、易林本節用集では、「胡簶」「箙」ともに「えびら」と読まれている。」

 

とあり、やなぐひであれば矢がきれいに扇形に並ぶ。

 前句の「扇引さく」をやなぐひのきれいに扇方に並んだ矢が、雪を払おうとしたために乱れて、扇を引き裂いたようになってしまったという意味かもしれない。

 

季語は「初雪」で冬、降物。

 

三十四句目

 

   初雪のかかる箙をうち払ひ

 鳥居を覗く八重の松ばら     如風

 (初雪のかかる箙をうち払ひ鳥居を覗く八重の松ばら)

 

 これも「やなぐひ」であれば神事であろう。八重の松原はお目出度い感じがする。

 

無季。神祇。

 

三十五句目

 

   鳥居を覗く八重の松ばら

 花盛尾張の国に札うちて     菐言

 (花盛尾張の国に札うちて鳥居を覗く八重の松ばら)

 

 これは天林山笠覆寺への奉納俳諧ということで、花の盛にこのお寺にお参りしてと盛り上げる。お参りすることを「札打つ」という。

 

季語は「花盛」で春、植物、木類。神祇。

 

挙句

 

   花盛尾張の国に札うちて

 暖になるすぐの明ぼの      安信

 (花盛尾張の国に札うちて暖になるすぐの明ぼの)

 

 「すぐ」は真っすぐのこと。朝の暖かな陽ざしは真っすぐに差し込んでくる。

 

季語は「暖になる」で春。