これは作り話ですから、まあ、何天皇の時代だなんて、わざわざ言わなくてもいいですね。
とにかくこの時の御門には女御や更衣がたくさん仕えていて、その中にそんなに高貴な家柄ではないけど、今を時めく一人の更衣がいました。
まあ、女御も更衣も御門の御世継を生むための沢山の後宮と女たちで、皇統を絶やさないため、結構こういうのって大事だったんですね。
格は女御の方が上で、更衣は下、今はそれくらいに思っておきましょう。
まあ、そんな更衣がいたもんですから、まあ、「私が一番よ」と思っているプライドの高い先輩の女御たちは、こんなうざくていらつく目障りな女がいたら嫉妬するのは当然で、当然のようにいじめてました。
同僚や後輩の更衣たちも、そんなもんだから穏やかでいれるわけありませんよね。
朝夕宮仕えするその一挙手一投足が同僚や後輩たちの心を板挟みにして、その不満もその更衣に向けられるもんですから、両方の不満の声を一身に背負うことになって、それが積もりに積もったのか、たびたび病欠するようになり、すっかり心身を病んでしまい、実家に帰ることも多くなりました。
すると御門の方は飽きるどころか、この更衣にすっかり同情し、未だかつてないほどのこれでもかと手厚くもてはやすようになりました。
三位以上の上達部と呼ばれる人たちも、それに次ぐ四位や六位などの昇殿を許された殿上人なども冷ややかに目をそらし、
「いくら御門の御威光とはいえ、中国にも妲己や褒姒のようなことがあって世が乱れとんでもないことになったじゃないか。」
と陰でささやく始末です。
やがて下々のあいだでも「しょうがねーな」って感じで悩みの種になって、誰もが知る楊貴妃の例なんかも引き合いに出されるようになり、かなり無礼な扱いをされることも多かったのだけど、御門のもったいないばかりの心遣いだけを頼りにして、何とかこうした人たちとの接する日々を送ってました。
父の大納言は既に亡くなってたものの、母は由緒ある血筋で、大納言の正妻であったため、両親ともに揃っている宮中でも評判の華やかな人たちにも引けを取らず、宮廷の様々な儀式もきちんとこなしていたのですが、やはり母親だけでしっかりした男の後見人がいなかったため、特別な晴れの式典ではどうしても見すぼらしい印象を与えてしまい、心細そうでした。
*
それでも御門との前世の契りが深かったか、この世にまたとないような美しい玉のような皇子様が生まれました。
御門もいつしか心臓をばくばくさせながら、待つに待てずに大急ぎでやってきて、その皇子様をご覧になると、それはそれは見たこともないようなお顔立ちでした。
最初の皇子様である一の皇子はれっきとした右大臣の娘の女御(弘徽殿女御)からお生まれになって、その右大臣の一族の権勢が強力だったので、誰もが認める皇位継承者として世間からも大事に育てられてました。
ところが、この皇子様の美しさの持つただならぬ雰囲気が、とにかく比類のないものなので、大抵の人はこれは放っては置けぬという気持ちから、この新しい皇子様をあたかも我が子のように思って、もうそれは際限ないくらいにもてはやしました。
この新しい皇子の母君となった更衣は、もともと普通は御門のお傍で世話をさせられたりするような身分ではありませんでした。
更衣は一般的には大変高貴なお姫様で、大臣クラスの娘が女御、その下の納言クラスの娘が更衣になるわけで、一般の使用人の女性とは別格なのですが、この更衣だけは御門が何が何でもそばに縛り付けておこうとするため、宴席遊覧などの際に、何かとお世話の必要になる時には欠かさず御門の御前へ登らせてました。
あるときには寝殿でともに過ごし、次の日もそのまま傍でお仕えさせるなど、御門の我がままで自分のそばから離さないようにして仕事をさせていたので、どう見ても下級の女房のようでした。
それが例の皇子が生まれたもんですから、御門も特別配慮をして職務をさせるようになったので、一の皇子の母君である弘徽殿女御などは、皇太子の御所である東宮坊にお仕えさせないのは、あの皇子を皇太子にしようとしているせいではないか、と疑うようになってました。
弘徽殿女御は誰よりも先に内裏に取り立てられていたので、御門の寵愛も並々ならず、一の皇子の他にも皇女達がいることもあって、御門はただ弘徽殿女御の嫉妬を何とかなだめようとしながら、とにかく気を使いながら心苦しそうに説得するのでした。
更衣もまた御門の並々ならないご威光を頼りにと思ってはいるものの、誹謗中傷したり、何かとあら探しをしたりする人も多く、自分の体は病弱で精神も衰弱している状態だったので、かえってそのご威光が重荷にもなってました。
更衣の所属する局は桐壺でした。
御門がたくさんの人の前を通って、しょっちゅう桐壺にお通いになるため、そのつど一の皇子の女御の鬱憤が積もり積もって行きました。
さらに、更衣の方から御門の所へ通う回数があまりに頻繁になりすぎるときには、廊下と廊下の間にかけられた小さな橋や渡り廊下などのあちこちに、汚物を撒いておくなどのトラップが仕掛けられて、送り迎えの人の衣の裾が耐え難いほどひどいことになることもありました。
建物と建物の間の渡り廊下には馬が庭を通るための馬道と呼ばれる取り外し式の橋があり、ここを通る時にこちら側とあちら側とで示し合わせて両側から封鎖して、おろおろさせては苦しめました。
何につけてもつらいことばかり多くて、悩む気力すら失せている更衣を、御門が大変気の毒に思って、後涼殿に元からいた更衣の部屋を他に移して控え室にしたもんですから、追い出された更衣たちにしてみれば、その憤懣やるかたなしでした。
この辺で内裏の中の部屋の配置を簡単に説明しておきましょう。御門の職務を行なう紫宸殿の西側に御門のお住まいになる清涼殿があり、後涼殿はそのさらに西隣にあります。
後涼殿の北へ行くと順に藤壺、梅壺、雷鳴壺があり、清涼殿の北には一の皇子の母君である女御のいる弘徽殿があり、そこから東のほうへ二、三の建物を隔てた向こうに桐壺がありました。
桐壺から清涼殿に通うには渡り廊下を歩き、小さな橋や馬道を渡ったり、一の皇子の女御のいる弘徽殿の前を通ったりしなくてはならなりませんでした。
そこを通るたびに、いろいろと陰湿ないじめにあったのを哀れんで、御門のすぐそばの後涼殿を更衣の控え室としたのだが、元からそこにいた別の更衣たちにしてみれば、降ってわいた災難だったのでした。
*
この桐壺の更衣の皇子が数えで三歳になったその年、着袴という初めて袴を身につける儀式が行なわれ、一の皇子のときにも劣らず、内蔵寮の宝物や納殿の調度品を惜しげもなく使って盛大に行なわれました。
皇位継承者と同じ待遇をしたということで、宮廷内でも非難の声が多かったのですが、この皇子の大人びたお顔立ちやご性格に、滅多やたらにお目にかかれない何かを見てしまうと、なかなか悪くは思えないものです。
仏道に造詣の深い人は、
「何とありがたいお人がこの末世にお生まれになるものだ。」
と、お釈迦様の生まれ変わりか弥勒菩薩が現われたかのようなとんでもないことが起きた、とばかりに驚愕の目で見ていました。
その年の夏、皇子を産んで御息所となった桐壺の更衣は何となく気分がすぐれなくなって、退職を申し出るも休職すら許されませんでした。
ここ何年となく常に病欠がちの状態が続いてきたので、御門もそれが慣れとなっていて、
「もう少し様子を見てみよう。」
などとのたまっているうちに、日一日病は重くなり、五日六日とたつほどに目に見えて衰弱していったので、ついには母親が泣いて御門に訴えて退職させました。
こうして更衣は、こんな時にあってはならないような屈辱的なことが起こらないためにもという配慮から、皇子は宮中に残し、秘密裏に内裏を去ることとなりました。
もはや一刻の猶予もない状態なので、御門といえども止めることはできないのですが、更衣に会うことも見送ることもできないなんて言われても居ても立ってもいられず、言いようのない思いでした。
大変華やかで美しかった更衣が今では顔がげっそりと痩せ細り、悲しみに打ちひしがれ思い悩んでいながらも、それを口するにも言葉にならず、居るか居ないかわからないほど消えてしまいそうに振舞うのをご覧になって、後のことも先のことも頭になくなり、
「望むことは何でもかなえてやるから。」
と言ってはみるものの、返事を聞くことはありませんでした。
目の色もどんよりと鈍く、ひどくよろよろと、意識も朦朧とした状態で床に突っ伏したので、御門もどうすればいいのかわからずおろおろなさってました。
ようやく輦車に乗せて退出させることを許可したかと思いきや、またすぐに更衣のところにやってきて、結局退出を許しません。
「いつか死んでくこの人生じゃないか。
生きるも死ぬも一緒だと約束したはずだろう。
この私を捨てて行くなんてことはできないはずだ。」
そんなことをおっしゃっても、
「ひどい‥‥」
と御門の方を見すえ、
「死んじゃって別れるなんて悲しいよ
いきたい!だってまだ生きている
本当にあなたが生きるも死ぬも一緒だと思っていただけるのなら‥‥」
と息も絶え絶えで、御門にもっと聞いてほしいことがあったのですが、大変苦しそうで力が抜けてゆくありさまでした。
それなのに御門はというと、とにかくどうなろうとも最期を見届けたいなどと思っていたので、今日始めなくてはならない御祈祷があって、そのための加持祈祷の人たちを呼んでいて、それが今夜からだと知らせ、退出を急がせたところ、仕方なさそうにしぶしぶ退出をお許しになりました。
御門の胸はどうしようもなく苦しくふさがれたまま、まどろむこともできずに夜明けを待っていました。
更衣の実家へ使いを行き来させはするものの、いつまでも愚痴ってるばかりで、使いの者が実家へ行くと、その家の者に、
「夜半を少しすぎた頃、お亡くなりになりました。」
と言って号泣され、がっくりと肩を落として帰ってきました。
それをお聞きになった御門の心は錯乱状態になり、何がなんだかわからないまま部屋に引き篭もってしまいました。
更衣の皇子は、このような場合でも御門のもとに置いておきたいところですが、こういう場合に宮中に留まるのは前例がないということで、母君の実家へと行くことになりました。
何が起きたかもわからずに、いる人たちの泣きくずれ、父上の御門も涙を止めどもなくお流しになってらっしゃるのを、何か変だなって感じで眺めている様子が、ただでさえこれ以上の悲しい別れはないという時には、よりいっそう悲しくさせるだけで、これ以上どうにも言い表しようがありません。
すみやかに葬式をしなければならないので、慣習通りに葬儀の方法を選定して執り行うのですが、母である北の方は、
「私も一緒に煙になって天に上りたい。」
と泣き焦がれたりして、棺を積んだ女房の牛車に後から乗りました。
愛宕という所では大変立派な葬儀の準備がなされていて、そこ到着した時のお気持なんて想像もつきません。
「もはや動かない亡がらを見て、まだ生きているように思ってしまうんではないかと思うととても無理です。
灰になってしまうのを見とどけて、もう今は亡き人なんだと前向きに考えるようにします。」
と冷静そうに話してはいたものの、いざ着いてみると転んで車から落ちそうになるくらい動揺していて、「そんなことだろうと思った」と周りのみんなも手を焼いている様子でした。
内裏より使いの者が来ました。
桐壺の更衣に三位の官位を贈るため、御門から勅使が使わされましたが、宣命を読み上げるのを聞くのも悲しくなります。
三位の位があれば女御となり、后になる権利が生じていたのに、それができなかったのが御門としても心残りで残念だったので、今さらではあるが一つ上の官位を、ということで贈られてきたのでありました。
このことについても憎まれ口を叩く人がたくさんいました。
分別のある人は容姿端麗なことや、気立てが優しく清純で憎めない性格だったことなど、今さらのように思い出してました。
下手に寵愛されたがゆえにそっけなくしたり妬んだりなさったのでしょう。
お人柄のよさと情に厚い所など、御門付きの女房なども懐かしそうに思い出を語りあってました。
「大切なことはいなくなってから知る」というのはこのことです。
*
何事もなく時は過ぎて、七日ごとの法要などもきちんと執り行われました。
御門もまた四十九日が過ぎてゆく中で、悲しみをどうすることもできずに、女御更衣などの所への通いもぱったりと途絶え、ただ涙に袖を濡らすだけで日々明け暮れて、見るからに露けき秋となりました。
「死んだ後まで、こう胸がむかむかするなんて、一体どういうつもりなの。」
と、弘徽殿の女御などは許しがたくおっしゃってました。
一の皇子様を見るにつけても、更衣との間の皇子の若宮様が恋しくなるばかりで、親しき女房や乳母などを更衣の実家に使わしては、様子を伺ってました。
台風の接近を告げる風が吹き、急に肌寒くなってきた夕暮れのことでした。
御門は普段より思うこと多くて、靫負の命婦という者を更衣の母の元へお遣わしになりました。
九日頃の夕暮れの月の美しい頃に出発させたまま、御門は月を眺めては物思いに耽ってました。
いつもの御門ならこんな夜は宴などを催すのですが、特別な趣向を凝らした楽器の演奏などをしようものなら、一見なんでもないように聞こえる歌も、人とは違って何となく更衣がいるような気配がして、姿かたちが面影となってそばにいるように思えてしまうのです。
それでも、いくら光り輝く夢も闇の現実の前では無力でした。
命婦が例の場所に到着し、車を門の中に入れるものの、辺りの様子は何とも悲しげです。
かつては寡婦暮らしとはいえ、更衣をきちんと育てるためにも、せめて見てくれだけでもときちんと庭なども手入れされていたのですが、今では更衣を失った悲しみにすっかり沈みこんでしまい、雑草も生い茂り、台風の風雨に荒れるがままになっていて、月の光だけが八重葎に遮られることもなく差し込んでいました。
屋敷の正面の庭に命婦を下車させたものの、この更衣の母君はしばらく何も言うことができませんでした。
やがて、
「今までこの世に留まってまいりましたが、とてもつらくて、こんな御門のお使いに蓬の生い茂る荒れ放題のところで露に汚してしまうことになりまして、何ともお恥ずかしくて‥‥」
と、耐え切れずに泣きだしてしまいました。
そして、命婦も、
「『私が伺ったのでは大変心苦しく、満足な思慮もできませんので』と内侍のすけが御門に申し上げになったのですが、私なんぞもどうしていいのかわからず、本当に悲しみに耐え難く思っております」
とやっとのことで涙をこらえながら伝言を伝えました。
「あれからしばらくの夢もうつつで迷ってばかりでして、ようやく気持ちも落ち着いてはきましたが、まだまだ辛い現実を現実を受け入れられる状態でもなく、どうすればいいのかと相談する人もないので、ぜひとも秘密裏に内裏に来ていただけないでしょうか。
我が子もまた、こんな手の届かないところで、露に濡れながら過ごしていることを気に病んでいて、どうか至急来てください。」
「実際はこのようにはっきりとものを言うことなどできずに、涙にむせ返りながら、一方では人に気弱に見られてもいけないと、思っていることをぐっと押し隠している様子が痛々しくて、だからそれをそのまま伝えるのではなく何とかうまく伝えようと、こうして伺いに参りました。」 と言って、勅書を手渡しました。
「目も見えないというのに、このような恐れ多いお言葉の光なんて‥‥」
と、その手紙を手に取ります。
「時がたてば少しは気持ちもまぎれることかと、その日を待ちながら月日を過ごしてきたが、年端もいかぬ我が子がどうしているかも気になっては、一緒に育てることのできないもやもやを抑えることができないのも無理のないことと思ってくれ。その子は今となってもなお亡き更衣の忘れ形見ということなので、どうか連れて来てくれ。」
というふうに、丁寧に書いてありました。
「宮城野に露結ぶ風の音がする
小さな萩を気遣ってくれ」
という歌があったのですが、更衣の母君は涙で最後まで見ることができません。
「長くいきているとそれだけ辛いことも多いとも言いますし、人に知られることのない高砂の松ですら年取ることは恥ずかしいと歌われてます。まして宮中に行き来することは、大変はばかりの多いことと思われます。
畏れ多いお言葉をたびたび承りながら、自分から宮中に行くなんてことは思いもしませんでした。
三歳になる若君がどのように思うでしょうか。ただ参内することばかりお考えをお急ぎになってらっしゃるようなので、悲しいけどそれが道理だとも思いますので、内々に御門にお伝えください。
喪に服している身でありますので、このように若宮様がいることすら忌むべきことなので、本当にもったいなく‥‥」
と更衣の母君はおっしゃりました。
命婦は、
「若宮様はお休みになっております。
ご様子をご覧になってその有様を詳しく報告したいところですが、御門がお待ちになっておりますので、夜がふける前に帰らなくてはなりません」
と急いでました。
「子を思っては暗闇の中を彷徨うその耐えがたい気持ちの、そのほんの少しでも晴らすためにも聞いていただきたいことがありますので、今度は個人的に気軽に尋ねてきてください。
昔は入内のお目出度い報告のために立ち寄って下さったものの、今回はこのような報告のためだなんて、本当に運命というのは冷酷なものです。
あの娘が生まれた時から、今は亡き大納言は宮仕えをさせようとなさり、いまわの際まで宮仕えの本来のあり方を必ず実行するように言い、ここで死んでしまうのかと悔しく思っては、くじけるでないぞと、繰り返しお諌めになりました。
ですから、これといった後見のない状態での宮仕えはなかなか難しいこととは思っていたのですが、ただ亡き大納言の遺言に背かぬようにと宮中にお出ししたところ、それこそ身に余るほどの御門のご寵愛のありがたさに、上達部の扱いを受けられない恥をごまかして宮仕えをしていたようなものです。
それなのに人からの妬みが積もり積もって、穏やかでないことも多くなりまして、非業とでもいうべき状態でこのようなことになったことを思えば、御門の畏れ多いご寵愛もかえって辛く思っております。
これもまたどうしようもない、子供を思う心の闇でして‥‥」
と言い終わらないうちに、息が詰まるほどむせび泣いているうちに、夜も更けてきます。
命婦もまた、
「上様も同じです。
『自分の感情とはいえ、どうしようもない衝動に駆られて、人が見ても驚くばかりに愛してしまったのも、今となっては長続することのできない本当に辛い前世からの宿命だったのだな。断じてこれっぽっちも人の心を捻じ曲げるようなことをしたつもりはないのだが、ただあの人せいでたくさんの恨まれなくてもいい人たちに恨まれ、挙句の果てには一人置き去りにされて、感情をコントロールできなくなってしまい、ますます体裁悪く偏屈者にされてしまったのも、どんな前世の因縁だったのか見てみたいものだ。』
と開き直ってはみるものの、ただ涙ながらに過ごしています。」
と、話せばきりがないふうでした。
ですが、すっかり夜も更けてしまったので、夜のうちに御門のもとへ帰って報告しなくてはならないと、泣く泣く命婦は急いで帰ろうとしました。
清く澄みわたった空に月は今にも沈もうとしていて、風も大変涼やかに吹けば、草むらの虫の声も涙を催促するかのようでした。
「鈴虫は声の限りを尽くしても
降りしく涙夜は明けない」
そう歌っては命婦は車に乗ることができません。母君は、
「ただでさえ虫の音絶えぬ{浅茅生|あさじう}に
露を添えてく雲上人よ
私の涙にかこつけてるようですね。」
と言いました。
名月の風流などの時とちがい、気の利いた贈り物などを持たせるような状況でもないので、ただ、今は亡き更衣の形見ということで、こういう時のためにとって置いた更衣の装束一式に御髪上のための簪類を持たせました。
若宮様に仕える若い女房たちが悲しいのは言うまでもありません。
内裏に朝夕惰性で過ごし、すっかり意気消沈してしまったような御門のご様子などを思い起こし申し上げては、すぐに御門のもとへ参内したほうがいいと急き立てたりしたけれど、
「このような穢れた身で若宮様に付き従って参内するのは外聞も悪く、かといって若宮さまだけを参内させるのも気がかり。」
ということで、簡単には参内させることはできそうもありません。
命婦は、まだ御門が寝殿にお入りになられないのを哀れに思いながら見ていました。
清涼殿の前の壺前栽(草木を植えた小さな庭)がいかにも面白くて見ているかのようなふりをして、目立たぬよう特にこれといった感じでもない女房を四、五人そばにおいて、物語を語らせてました。
最近になって一日中眺めている長恨歌の絵は亭子院が絵師に頼んで描かせたもので、伊勢や紀貫之の詠んだ和歌も白楽天の漢詩もただ妻に先立たれたストーリーのみを日々の会話の話題にしてました。
御門は命婦に、更衣の母君の様子がどうだったか細かく質問しました。
命婦はその哀れな様子を御門だけに聞こえるようにご報告しました。
ご返事の手紙を御門がごらんになれば、
「こんなにも畏れ多いお手紙に、身の置く所もございません。
このようなお言葉をいただくにつけても、心はかき乱されて憂鬱になります。
強風を防いでた木も枯れてから
小さな萩がただ気がかりに」
というふうな、いかにも心乱したようなぶしつけな手紙の書き方で、あちらも感情をコントロールできなくなるほどひどく憂鬱なのだと思って、大目に見たにちがいありません。
この時御門は、そんなに悲しそうにも見えないように感情を押し殺していてましたけど、隠し通せるものではありません。桐壺の更衣と最初に出会った時のことまで持ち出しては、あれもこれもみんな思い出し、
「ほんの一瞬も更衣のことを思わぬ時はなかったのに、更衣なしでこんなけの年月を過ごしたなんて」
と自嘲気味でした。
「今は亡き大納言の遺言通りに宮仕えのあるべき姿をきちんと実践した報いとして、后とまでは行かなくても女御に取り立てたいと思い続けていた、なんて言ってもしょうがないか。」
とふと口にしては、更衣の母君の身の上に共鳴し、大変悲しげでした。
そして、
「まあ、それでもそのうち若宮が成長すれば、皇太子に迎えるチャンスもあるかもしれない。
母君にも長生きしてほしいものだ。」
などとも言ってました。
例の贈り物もご覧になりました。
これがあの、楊貴妃が神仙郷に棲んでいるのをつきとめた玄宗皇帝の使者が、以前玄宗皇帝から賜った螺鈿の小箱と黄金の簪をその使者に持たせて存在の印としたというあの簪だったら、とお思いになるのも虚しいことです。
「探しに行く道士がほしい噂でも
魂のいる場所が知りたい」
そう御門は歌いました。
絵に描いた楊貴妃の姿はどんなものすごい絵師の筆であってもやはり限界があって、本物のような色つやはありません。
長恨歌に歌われた太液の芙蓉、未央の柳もまるで本物みたいで、中国風の衣装はとにかくきらびやかなのですが、御門が更衣のことで懐かしく愛しく思い出に浸るには、どんな花の色も鳥の声にも換えることはできません。
朝に夕にいつもいつも、
「比翼の鳥のようにいつも羽を並べて飛び、二つの枝の元が一つであるように結ばれよう」と約束してましたのに、かなわなかった運命の程が長き恨みとなってゆきます。
風の音や虫の音を聞くにつけても、魂の引きちぎれんばかりに悲しいのですが、弘徽殿の女御は、清涼殿内の自分の局|にも参上せず、月の明るい夜には夜更けまで管弦の宴をなさってました。
まったく意に介さずというふうに過ごしているようです。
最近の御門のご様子を知っている宮廷の人や女房たちは、見ているほうが気が気でない様子です。
廃朝でもないのだから管弦を控える理由などないといっては、こういうあてつけがましいことをする人で、更衣の死などどこ吹く風とばかりにふるまっているようです。
月も沈みました。
「雲の上も涙で翳る秋の月
どうやってすむ浅茅生の宿」
と更衣の母君のことを思い起こしながら、ともし火が燃え尽きるまで起きてました。
右近の司が交替で夜勤に入る声が聞こえ、午前一時になりました。
人の目もあるということで、夜御殿にお入りになっても、まどろむこともできません。
朝起きても、伊勢の「玉簾明くるも知らで寝しものを」よろしく、朝から紫宸殿で始まる執務も手に付かない様子です。
朝食すら手付かずで、日常の朝食である朝がれいは形だけ手をつけて、儀式の時などのご朝食である大床子の時にはまったく手付かずで、給仕する殿上人もそんな痛々しい様子を見ては溜息をついてました。
近くで仕えているということでは、殿上人も女房たちも皆、「もう、どうにもこうにもしようのないことだ」と言い合っては溜息をつくのでした。
一体どんな前世での運命があったのか、これほど多くの人の非難や恨みを情け容赦なく浴びることになり、更衣のことにふれればすっかり理性を失い、更衣が亡くなられた今となってはこの世のことすべてに無関心になってゆくのでは先行きが思いやられると、他所の国の皇帝の例まで引き合いに出して囁きあっては溜息をつくのでした。
*
三年の喪が明け、若宮様が宮中にやってきました。
およそ同じ人間とは思えないくらい美しく御成長なさったのを見て、御門も近寄りがたいものを感じてらっしゃいました。
更衣のお亡くなりになった翌年の春、すでに一の皇子が正式に皇太子として東宮坊に入っていたにもかかわらず、御門が若宮様をそれより上位にしようとお考えになったのですが、後押しする人もなく、世間からも受入れられないことでもあるので、実現性も薄いとの判断でご遠慮なさって、表立って主張することもなかったので、
「いくら若宮様をご贔屓にしていても、当然限界がある」
と、世間では囁かれ、弘徽殿女御もご安心なさってました。
桐壺更衣の母君は、このことで結局心が癒されることもないままひどく憂鬱になり、いつしか娘のいるところに早く行きたいと死を願うようになり、果たしてその通りにお亡くなりになりました。
御門もまたこのことを悲しんで悲しみが止まりませんでした。
若宮様も数えで六歳になっていたので、今度は死を理解して、更衣の母君を慕って泣きました。
母君もこれまでずっと分け隔てなく接し、我が子のように可愛がっていたというのに、それを残して行かねばならない悲しみを、何度も何度も口にしました。
そういうわけで、若宮様も今は内裏でのみ暮しています。
数えで七歳になった時に読書始めをさせたところ、世に例のないほど飲み込みが早く頭が良いので、御門も末恐ろしいと感じてました。
「今は誰一人として憎む人もいない。母親がいないというだけでも可愛がってくれ。」
と言っては、弘徽殿に行くときにも一緒に連れて行き、御簾の中にまで入れたりしました。
やばそうな武士や仇敵であっても、見ると顔がほころんでしまうような状態なので、弘徽殿女御といえども放って置くわけにはいきません。
弘徽殿の女御の生んだ二人いる皇女様も、若宮様には遠く及びませんでした。
この二人の皇女様も、逃げも隠れしないこの年齢とは思えないくらい美しく成熟していて、見てて恥ずかしくなるような若宮様の様子に、結構好意的に打ち解けてしまい、遊び相手にと誰もが思うようになりました。
学問はもちろんのこと、七弦琴や笛の音も宮中に響き渡り、こうしたことをすべて言い尽くそうとすれば、どれを取っても尋常ではないとでも言うべきありさまでした。
*
そのころ{渤海|ぼっかい}国から使者がやってきて、その中に霊感の強い人相占いの人がいると聞いたのですが、宮中にお通しすることに関しては宇多天皇の時代に禁止されていたので、極秘扱いでこの皇子様を鴻臚館に連れて行きました。
仮の後見人として仕えていた右大弁の子のように思わせて引き合わせたところ、人相見は驚いて、何度も首をかしげては不思議がり、
「国家の父となって帝王としてこの上なき位に登るべき相を持ってらっしゃる人だという点では、国は乱れ、憂うることがあるだろう。
だが、公僕として御門の下で補佐をする方だというのであれば、またそのかぎりではない。」
と言いました。
右大弁も有能で賢い学識者なので、渤海の使節と筆談を交わしたことなど、とても楽しいひと時でもありました。
漢詩などを詠み交わす際にも、今日明日にも帰国しようとしているところであれば、こんな滅多にお目にかかれないような人に会えたという喜びもかえって悲しくなるという心情を、使節の人が面白く詠み上げるのに応えて、皇子様もそれにとても哀れな句を繋いでみせたのをこの上なく賞賛し、とにかくすごい贈り物をもらうことになりました。
もちろん朝廷からもたくさんの贈り物をお返ししました。
誰が秘密を漏らしたというわけではないけど自然とこの噂が広まり、皇太子様の祖父の右大臣は、一体どうしたことかと御門の意図を疑いました。
御門は機転を利かせて、日本の人相占い師に命じて、渤海国の占い師の言ったことに沿うように、この占い師に今までこの皇子を正式な皇位継承者としなかったことを「大変賢い判断だ」と言うように示し合わせました。
そして、
「親王として皇位継承権を維持するにも母方の親族の後だてがなければ根無し草のようなもので、我が治世も先行き不安だ。
臣下の籍に降格させ朝廷の補佐を担当させれば、これから先も安泰だ」
とご決定なされ、ますます諸般の学芸を習わせるようにしました。
どれをとっても天性の才能があり、皇族から臣下に格下げするのは惜しいことではあるけれど、皇位継承権を保持したままだと世間がいろいろ疑いを持つことを考慮すれば仕方ないことで、占星術の大家に相談しても同じように言うので、源氏の姓を与え、臣下に降格させることに決定しました。
天皇の子にしてその代や二代でで臣下に下る者は「源」の姓を賜り、三代で下る者は「平」の姓を賜ることになっていました。
年月が流れてもあの御息所(桐壺更衣)のことが胸の中から消え去ることはありません。
御気持ちを慰めることができるかと、それなりの女御更衣たちを御門の下に送り込んだものの、とてもあの更衣になぞらえることなんてできないと、どれもこれも全員会いたくないとお思いになっていました。
そこで先代の御門の四の宮様がルックスも良く高い評価を得ていて、先代のお后様が他に例のないほど大事にお育てになったと聞いて、御門にお仕えする内侍のすけは先代の帝の時代を生きた人で、先代のお后様にも親しく分け隔てなくお仕えした仲でしたので、四の宮様のことも物心つく前から知っていて、今でも時折見ることがあったので、
「お亡くなりになった御息所によく似た方というのは、先々代の頃から宮中にお仕えしていても、一人たりともいませんでしたが、先代のお后様の娘さんだけは大変よく似ているのではないかと思います。
そうそういらっしゃらない美人では‥‥」
とご報告したところ、
「それは本当か。」
と、気になったのか、すぐに親密になりたいと打診してきました。
先代のお后様は、
「おお、こわっ。
あの東宮様(一の皇子)を生んだ女御は本当にたちが悪くて、桐壺更衣に露骨に冷酷な仕打ちをしていたことだけでも恐ろしいというのに‥‥」
とあからさまには言わなかったものの、清々しく快諾することもなく、そうこうしているうちにこのお后様もお亡くなりになりました。
心細くなっていた四の宮様に御門は、
「ただ単に、我の二人の女皇子様と同じように考え、理解することにする。」
と丁重にお話しました。
お付の人たちも後見人や兄の兵部卿の親王など、このように心細いままでいるよりは、宮中に入ることで気持ちもやわらぐのでは、と考えて入内
させました。
四の宮様は「藤壺」と呼ばれるようになりました。
確かに、見た目にも行動も異常なほどあの更衣を彷彿させるものでした。
ただ、今回は藤壺様が桐壺様よりも身分が高くて、最初から賞賛の目で見るものですから、誰も貶めるようなことを言う人はいず、賞賛の声ばかり誰はばかることなく絶えることがありません。
桐壺更衣の場合は周囲の公認を得ることがなかったため、御門のご寵愛も憎たらしいとうことになったのでしょう。
御門の心が紛らわされたというわけではないけど、自然と気持ちがそちらの方へと移ってゆき、気持ちが和らいでゆくようなのは、何とも喜ばしいことでした。
源氏の君はいつも御門にくっついて回っているので、頻繁に御門が通ってくる人は、源氏の君を見ても恥ずかしいなどと言ってはいられません。
どんな女御更衣も、自分が人より劣っているなどと思うことがあるでしょうか。 それぞれにみんな素晴らしい人なのですが、やや年上であるため、源氏の君のあまりの若さと可愛らしさに本当は隠れていたいのですが、自ずとどこかで源氏の君に見られてしまっているものです。
もちろん、母の御息所のことなど影すらも覚えてはいないのですが、大変よく似ていると内侍のすけが言ってたことを、幼心にも感じ入ることがあり、常に会いに行きたい、いつでもそばにいたいと思うようになりました。
御門もこの上なく思いを寄せる人同士なので、
「なんで避けようとしたりするのだ。
そなたと源氏の君とは不思議な縁があるかのような気がする。
無礼などとは思わずに、いたわってほしい。
そなたと源氏の君とはお顔立ちも眼差しも大変よく似ているので、ほとんど二重写しのように見えるし、お似合いだと思う。」
とお告げになれば、源氏の君もまだ幼い気持ちながらも、はかなき花や紅葉にも心があるように恋心が芽生え、こよなく好意を寄せるようになりました。
なので、ただでさえ弘徽殿女御も藤壺とはつんつんしていたところを、それにもましてもとからの憎しみも生じては、「とにかくむかつく」ようですね。
世に類を見ないと言われている名高い東宮様の立派な姿と比べても、なお何とも例えようもない雰囲気を持つ源氏の君の美しさに、宮中の人たちは「光る君」と呼ぶようになりました。
藤壺様もそれと並べて、同じように人から慕われては、「輝く日の宮」と呼ばれました。
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この君の童髪姿がとても可愛らしいので、お願いだから変えないでいてくれと思う気持ちもわかりますが、十二歳で元服して髪を結い上げることになりました。
御門は居ても立ってもいろいろ考えをめぐらしては忙しく動き回り、定まった儀式にもさらにいろいろなことを付け加え、一年前の東宮様の元服の儀は紫宸殿で行なわれ、その評判となった荘厳さにも負けないものとなりました。
宮中の各所で行なわれる酒宴も、内蔵寮や穀倉院などはお役所仕事で形だけになってもいけないというので、特別な勅命を出してありったけの贅を尽くして行なわれなした。
皇太子ではないので紫宸殿ではなく、御門が普段お住まいの清涼殿の東の庇に、東向きに椅子を置いて御門の席とし、その前に元服する冠者の席と大臣の席が設けられました。
午後三時、源氏の君の登場です。
髪を真ん中から左右に分けて束ね、あらわになった頬から顎にかけての輪郭がほの赤く、童姿ではなくってしまうのは、ちょっと惜しいところです。
蔵人頭の大蔵卿がお仕えし、とにかく美しい髪の毛の先をそぎ落とすと、胸の詰まる思いの御門は、あの子の母にも見せたかったと母のことを思い出しては、たまらない気持ちになるのを必死にこらえてました。
やがて髷が結われ冠をかぶると、屏風で隔てられた休息所に来て童子の赤い衣から無位の成人の黄色い衣に着替え、清涼殿の東庭に下りてくると、見ている人は皆涙を流しました。
もちろん御門もそれ以上に涙をこらえきれず、源氏の童子姿に一頃気持ちも紛れていたものを、また更衣がいた頃のことを思い出して悲しみにくれてました。
このような年少者はたいてい、元服すると大人の髪型が板に着かずにみすぼらしく見えるという「あげ劣り」になるものなのですが、源氏の君の場合はどうしようもないくらいにさらに美しくなってしまうのです。
冠をかぶせる役を務めた左大臣と御門の妹との間にできた、大切に育てられた一人の娘は、東宮様の方からも引きあいがあるものの、なかなか難しいことになってました。源氏の君のもとにやろうという意向があったからでした。
左大臣が内々に御門にお伺いを立てたところ、
「それなら、この元服の儀で、源氏の君のお世話をする役の人がいないことだし、元服の夜の添い寝役にでも。」
と促され、了承しました。
儀式を終えて、清涼殿南庇にある殿上の間に入ると、みんなに酒が振舞われ、源氏の君は皇子たちの控えているところの末席に座りました。
あなたはもう元服して正式に源氏の姓を賜り臣下となられたのですから、皇子たちと同席するのはおかしいですよ、というようなことを左大臣がそれとなくほのめかしたのですが、源氏の君は恐縮するばかりで、何も言いませんでした。
御前より内侍が御門のお言葉を承り伝え、左大臣が呼ばれて清涼殿の中に入っていきました。
今日のお礼の品を御門直属の命婦が持ってきました。白い{大袿|おおうちき}に{御衣|みそ}一式は先例どおりでした。
酒を酌み交わすついでに、
「元服の髪結う糸に末永く
契る心をともに結ぶか」
と歌うと、そこに込められた「末永く契る」の意味に左大臣はドキッとさせられました。
「髪を結う心も深い結い紐の
濃い紫が色あせぬなら」
と大声で歌い上げると、清涼殿から紫宸殿への廊下から庭に下りて{拝舞|はいぶ}をしました。
左馬寮の者が馬を引きつれ、蔵人所の者が鷹を手に据えてあらわれ、これも賜りました。
清涼殿の階段の下に皇子たちや上達部が並び、それぞれに禄が支給されました。
その日の御門への折櫃物、籠物といった献上品は、例の仮の後見人の右大弁が要請を受けてご用意なされました。
屯食という強飯を握り固めたものや禄を入れた唐櫃が所狭しと並べられ、東宮様の御元服の時よりも多いほどでした。それこそ限りなく盛大に行なわれました。
その夜、左大臣の家に源氏の君は呼ばれました。
婚礼の儀式は世にも稀なほど源氏に敬意を払って執り行われました。
源氏の君はまだ幼くて痛々しい感じでしたが、とても品格があって美しいと左大臣はおっしゃってました。
左大臣の娘さんの方は少し年長のため、まだ子供の源氏の君には似合わないわといっては恥ずかしがってました。
この左大臣は御門からの信頼も並々ならず、母君は先代の御門の后からお生まれになったため、どこに出してもはっきりと他の者と一線を画すもので、これにさらに姻族に源氏の君が加われば、東宮様の弟の義父になるため、ついに天下をほしいままにしていた右大臣の権勢も物の数でもなく蹴散らされてしまいました。
左大臣にはたくさんの側室がいて、たくさんの子供がいました。
同じ母君からは蔵人少将がいて、まだ子供のような可愛らしい方なのですが、右大臣も仲は良くないとはいえ無視することもできず、大事に育ててきた弘徽殿女御の妹の四の君を差し出しました。
蔵人少将の義父となって持ち上げているあたりは、それはそれで申し分のない関係というところでしょうか。
源氏の君はというと、心の中ではただ藤壺様のことをただ一人一途に思い続け、
「こういう人だったらずっと見ていたいな。
他には誰もいない。
左大臣に娘はとても大切に育てられたいい子だとは思うが、俺には合わないな。」
と思い、まだ未熟な心には一つの方向しか見ることができず、大変苦しい思いをなさってました。
元服してからは、かつてのように御簾の内に入れてはもらえず、管弦の宴の時に箏や笛の音を聞いては心ときめかせ、ほのかに聞こえてくる声に苦しい心をなだめたりして、内裏での宿直のみを好むようになりました。
五、六日内裏で過ごしては家で二日三日という具合に、頻繁に内裏に登られていたのですが、この年頃にはありがちなことで罪はないと思って、左大臣の家族もせっせとお世話をなさってました。
お付の人たちは、世間を広く見渡して、必要な人材を選りすぐって雇ったもので、源氏の君の望まれるがままに管弦の宴を催し、精一杯の労を惜しみませんでした。
内裏にお泊りになる時には、かつて母君のいらした淑景舎(桐壺)を宿直室としてお使いになり、宮中や実家で母君にお仕えしていた人たちを呼び寄せ、そのままお世話をさせました。
荒れていた母君の実家は、修理職や内匠寮に宣旨が下り、世に二つとないような立派なものに改築されました。
もとからあった庭木や築山も見事に整えられていたのですが、池の底をさらに深くしてさらに奇麗になったので、たちまち評判になりました。
源氏の君はというと、
「こんなところに本当に好きな人と一緒に住めたらなあ。」
と嘆き、ずっとそう思い続けることとなりました。
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一説には、「光君」という名は、かつての渤海の使節が最初に賞賛の意味でつけたとも言われてます。