土芳『三冊子』を読む

しろさうし


1、俳諧の起源

 「俳諧は哥也。哥は天地開闢の時より有。陰神陽神(めがみをがみ)磤馭慮島に天下りて、まづめがみ、喜哉遇可美少年との給ふ。陽神は喜哉遇可美少女ととなへ給へり。是は哥としもなけれども、心に思ふ事詞に出る所則哥也。故に是を哥の始とすると也。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.83)

 

 連歌書では連歌の起源を日本武尊に求めるものはあるが、このように歌の起源を記紀神話に即して語ることはありそうでなかった。もっとも神話はいわゆる「信仰」ではない。世界の起源なんて誰も見たものがいないのだから、基本的には「噂」と言っていいだろう。

 俳諧は「噂」を基礎とする。噂と言っても流言飛語のことではない。人と人との間に和をもたらすための共通認識の形成であり、多様なものを相互に理解し合い、正すべきものを正す。それが俳諧における「噂」だ。

 記紀神話は噂であり、仏教や儒教や道家などの様々な世界観と共存できる一つ「故実」にすぎなかった。故実は原理主義者の言うような信じるべきたった一つの説ではない。様々な故実を照らし合わせる中から整合性を見出して部立てしてゆく素材だった。そして部立てされた故実はそこで終わるのではなく、日々変わりゆく現実の中で柔軟に適用する機知に至る所で学問は完成する。これが平安末期から江戸中期までの日本のエピステーメだった。

 こういう柔軟性が神仏習合の世界の基礎になっていて、同じ基礎の上で儒教や道家も共存していた。日本神話を他のものと切り離して排他的な物としたのは本居宣長の非だった。

 「俳諧は哥也」というのも特に目新しいものではない。二条良基の『連理秘抄』に「連歌は歌の雑体也」とあり、宗砌の『初心求詠集』には「夫謌道は、花になく鶯、水にすむ蛙にいたるまでもその器と申侍れば、人の心じゃらむ如何でか是を翫事なからむ哉、殊連歌は三十字あまりの言の葉を上下にわけて、是に深き心あり」とある。

 宗祇の『長六文』にも、

 

 「抑連歌と申事は只歌より出来事候、又貫之が詞に人の心を種としてよろづ言葉とぞなれりけると侍れば、連歌も心の外を尋べき事にも侍らず、然共歌と連歌との替目少侍るべきにや、歌には五句を云くだして終に其理を述べ、連歌には上句と云ひ下句といひ別々に取分侍れば、分々に其理なくては不叶事也」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.22)

 

とある。

 宗長の『連謌比况集』にも「夫連歌は歌より出て其感情歌より深し」とある。

 俳諧は「俳諧の連歌」であり、歌を上句下句に分けたものを更に俗語を交えて行うものをいう。

 

 「哥は天地開闢の時より有」以下は記紀神話に見られる和歌の起源を述べる。記紀神話の国生み神話に関しては、ここでくだくだ述べることでもないので、手っ取り早くウィキペディアを引用しておこう。

 

 「『古事記』によれば、大八島は次のように生まれた。

 伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の二神は、漂っていた大地を完成させるよう、別天津神(ことあまつがみ)たちに命じられる。別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えた。伊邪那岐、伊邪那美は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした地上を掻き混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。

 二神は淤能碁呂島に降り、結婚する。」

 

 「二神は男女として交わることになる。伊邪那岐は左回りに伊邪那美は右回りに天の御柱の周囲を巡り、そうして出逢った所で、伊邪那美が先に「阿那迩夜志愛袁登古袁(あなにやし、えをとこを。意:ああ、なんという愛男〈愛おしい男、素晴らしい男〉だろう)」と伊邪那岐を褒め、次に伊耶那岐が「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやし、えをとめを。意:ああ、なんという愛女〈愛おしい乙女、素晴らしい乙女〉だろう)」と伊邪那美を褒めてから、二神は目合った(性交した)。しかし、女性である伊邪那美のほうから誘ったため、正しい交わりでなかったということで、まともな子供が生まれなかった。」

 

 「悩んだ二神は別天津神の下へと赴き、まともな子が生まれない理由を尋ねたところ、占いにより、女から誘うのがよくなかったとされた。そのため、二神は淤能碁呂島に戻り、今度は男性である伊邪那岐のほうから誘って再び目合った。」

 

 この時の「阿那迩夜志愛袁登古袁」「阿那邇夜志愛袁登売袁」が歌の初めとなる。

 『古今和歌集』の仮名序にも

 

 「このうた、あめつちのひらけはじまりける時より、いできにけり。あまのうきはしのしたにて、め神を神となりたまへる事をいへるうたなり。」

 

とある。やまとうたが色好みの道と言われるのもそこから来ている。

 若干民俗学的なことを言うなら、歌の起源は江南系の民族に広く見られる、男女が結婚相手を探すために催される「歌垣(うたがき、かがい)」の際に交わされる歌にあったといえよう。

 

 「神代には文字定まらず、人の世と成て、すさのをの尊よりぞ三十一字となれる。

  八雲たつ出雲八重垣つまごめに

   やへがきつくるその八重垣を

 此歌より定れると也。和國の風なれば和哥と云。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.83)

 

 「人の世と成て」は『古今和歌集』の仮名序の、

 

 「ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。」

 

をそのまま受け継いでいる。

 神代と人の世は、今日では「中つ巻」の神武天皇の登場で区切り、それ以前の「上つ巻」を神話と見なす。神武天皇の東征は歴史とは言えないまでも何らかの実在した過去にかかわる伝承として扱われるが、スサノヲ神話を実在した過去の伝承とすることはない。もっとも、ひところ六十年代くらいだったか、天孫降臨神話を騎馬民族征服説に結び付ける人たちはいたが、今となってはすっかり過去のものとなっている。

 もっとも、アマテラス・スサノヲ神話以降を「人の世」とすることに根拠がないわけではない。伊弉諾尊の黄泉の国から帰る所で伊弉冉尊が「ここをもちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり」と言っている。この人数が神でないなら、生み出されたばかりの島々に人が住むようになったと解釈できる。そのあとの五穀の起源の神話も、神が食べるものでなく、人の食べるものが生じたと考えられる。

 そして出雲の国に須賀の宮を作った時、

 

 八雲立つ出雲八重垣妻籠みに

     八重垣作るその八重垣を

 

と五七五七七の和歌を詠む。この宮は神様だけの世界にあったのではなく、人の住む世界にあったはずである。

 古今集でいう神代は天地開闢までをいい、その後神と人とが共存する時代があり、神武天皇の時代になって人だけの世界になった。

 

 「和哥には連歌あり。俳諧あり。連歌は白川の法皇の御代に連歌の名有。此號の先は繼哥と云。其句の數もさだまらず。日本武尊、東夷せいばつの下向、吾妻の筑波にて、

  新はりつくばをこへて幾夜かへぬる

と仰られければ、

  かゞなべて夜には九夜日には十日よ

と火燈しの童の次侍る。是連歌の起とすといへり。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.83~84)

 

 日本武尊を連歌の起源とする説は以前にもあり、「宗牧」の『四道九品』にも「夫連歌は熱田大明神新治筑波の言葉より始まりて」とある。

 なお、『古事記』には、「火燈しの童」ではなく「御火焼之老人」とあり、場所も甲斐の酒折宮になっている。今の甲府市酒折では連歌発祥の地ということで、酒折連歌賞を開催しているが、五七七の片歌のお題に五七七の片歌を返すだけのいわゆるネタ物で、中世に隆盛を極めたいわゆる「連歌」には関心がないようだ。

 この後日本武尊は科野(信濃)を経て尾張に行き、美夜受比売に草薙剣を預けたのが熱田神宮の起源とされている。

 

 「業平、いせの國かりの使の時に、齋宮、歩行人のわたれどぬれぬえにしあらば、と云上に、又逢坂の關は越なん、その盃の皿のついまつのすみして、哥の末を書付とあり。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)

 

 これは『伊勢物語』第六九段で、

 

   歩行人のわたれどぬれぬえにしあらば

 又逢坂の關は越なん     業平

 

となる。

 和歌の上句と下句を分けた古い例となる。「ついまつのすみして」は「続松の炭」で、松明(たいまつ)を燃やした炭という意味。「続松(ついまつ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「つぎまつ(継松)」の変化した語)

  ① 松明(たいまつ)のこと。

  ※伊勢物語(10C前)六九「その杯の皿に、ついまつの炭して歌の末をかきつぐ」

  ② (斎宮が杯に歌の上(かみ)の句を書いて出したのに対して、在原業平が、続松(ついまつ)の炭を用いて下の句を続けて書いたという「伊勢物語」の故事から) 歌ガルタ、歌貝などの、和歌の上の句と下の句とをとり合わせる遊戯。特に歌ガルタの場合が多い。続松草(ついまつぐさ)。

  ※評判記・色道大鏡(1678)七「続松(ツイマツ)うたがるたの事也」

  ※浄瑠璃・本朝二十四孝(1766)一「お慰みに琴の組でも続松(ツイマツ)でも始め」

 

とある。

 ただ、これが和歌の上句と下句を分けた最古の例というわけではなく、二条良基の『連理秘抄』には、

 

 「万葉が尼が

  さほ河の水をせきあげてうへし田を

といふに、家持卿

  かるはついねはひとりなるべし

と付けける」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.24)

 

の短連歌を記している。

 

 「後鳥羽の院時、禪阿彌法師小林と云、連哥差合其外の句法式の書作れり。是本式なり。聯句法立也。是より新式あり。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)

 

 これも二条良基の『連理秘抄』には、

 

 「建保の比より、後鳥羽院殊にこの道を好ましめ給て、定家、家隆卿など細々に申行はれけるにや、懸物百種を句に随ひて給はせけるなど、この人この人も多く記しをかれたり、八雲の御抄にも末代殊に存知すべしとて、式目など少々記さるるにや、為家為氏卿みな相続して賞玩せられける故に、この道いよいよ盛にして、家々の式など多く流布せり」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.25)

 

とある。禪阿彌法師小林については不明。

 『連歌の世界』(伊地知鐵男、一九六七、吉川弘文館)によれば、「後鳥羽院のころにはほぼ五十韻・百韻に定着して、その後は百韻が一応の基準にさだまった」(p.13)とある。

 

 「俳諧と云は黄門定家卿の云、利口也。物をあざむきたる心なるべし。心なきものに心を付、物いはぬものに物いはせ、利口したる體也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)

 

 「利口」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①上手に口をきくこと。話し上手。

  ②こっけいなことを言うこと。冗談。

  ③賢明であること。利発。」

 

とある。今日では③の意味だけが残っているが、ここでは①と②の意味を合わせたような意味であろう。

 ①の意味だと物語のいわゆるフィクションの才能に近くなる。物語というのは言ってみれば作り話であり、上手に嘘をつくことだ。たとえ歴史小説や社会は小説でも、そこで語られていることは事実そのものではなく、資料や搔き集めた情報に基づきながら、作者の想像力で作り上げられた虚構の世界で、要するに「見てきたような嘘」だ。ただ、それを否定すると文学というのは成立しなくなる。ノンフィクションだって作者の解釈が込められているだけでなく、作品をどう読むかも読者の想像力にゆだねられている。つまり①は俳諧に限らず、すべての文学の根底だといってもいい。

 ②の方は俳諧に特に重要な要素と言ってもいいが、もちろん他の文学でも笑いの要素は欠かすことができない。シリアスな話でも読者が興味を持って読んでもらうには②の要素は欠かせない。

 和歌でも王朝時代の宮廷で歌合せが行われ、題詠で詠む際には、作者の想像力でもってその場にない景色や状況、恋物語などを想像し、歌を詠まねばならない。その意味で和歌でも上手に嘘をつくことと、それを面白くすることは絶対といってもいい。

 

 「韻學大成に、鄭綮詩語多俳諧。俳は戯也、諧は和也、唐にたはむれて作れる詩を俳諧と云。又滑稽と云有。滑稽は菅仲楚人答る也。本朝に一休和尚あり。是等は人に相當る答の辨の上にありて、いはゆる利口也。古今集にざれ哥と定む。是になぞらへて連哥のたヾごとを世に俳諧の連歌という。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)

 

 「韻學大成」は濮陽淶の『元聲韻學大成』のことか。鄭綮(ていけい)は唐末期の人で「维基百科」に「他以作歇后语诗讽刺政局打动唐昭宗闻名(唐昭宗を感動させる政治情勢を風刺した寓話詩で有名であり)」とある。

 「俳は戯也」というのは俳という文字の意味で、藤堂明保編の『学研漢和大字典』には、

 

 「①《名》右と左と並んでかけあいの芸をして見せる人、おもしろい姿をして見せる道化役、のち広く役者のこと。「俳優」

  ②《名》戯れ。ざれごと。

  ③《動》ひと筋に歩かず、右に左にとコースを踏みはずしてさまよう。ぶらつく。」

 

とある。①の意味だと、中国にも漫才のようなものがあったのか。③は徘徊の「徘」と同じ。

 同じく「諧」は藤堂明保編の『学研漢和大字典』に、

 

 「①《動》やわらぐ・やわらげる 調子をあわせてうち解ける。また、穏やかにする。

    ‥‥略‥‥

  ④《名》たわむれ 調子のよいことば。じょうだん。また、こっけいなおもしろさ。」

 

とある。

 俳諧というのはまさに変化球で、右に左に揺さぶって婉曲に物事を言いながら人の心を和らげることだと言っていいだろう。

 「滑稽」もまた、コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「古代中国,戦国から秦・漢時代にかけての宮廷には,機転の利いたユーモアと迫真の演技力をまじえながら,流れるように滑脱な弁舌をもって,君主の気晴しの相手となり,また風刺によって君主をいさめる人々が仕えていた。滑稽の原義はそのような人々,またはそのような能力を意味する。幇間(たいこもち),道化,あるいは言葉の原義での〈俳優〉の一種であるが,そのなかには漢の武帝に仕えて〈滑稽の雄〉といわれた東方朔のように教養ゆたかな文士もいた。」

 

とあるように、俳諧とほぼ同義と言っていい。「菅仲楚人答る」は不明。斉の菅仲の故事か。一休和尚は頓智一休で有名だが、いずれも弁説のうえでの「利口」であって、詩歌の利口ではない。

 詩歌の方では『古今和歌集』の俳諧歌があり、連歌の「ただごと」、つまり雅語ではない言葉で作ったものを俳諧という。俳諧は俗語の連歌というのは当時の共通認識だった。

 なお、『俳諧無言抄』(宗因著、延宝二年刊)の「京」の「俳諧」の項に、

 

 「韻學大成に、鄭綮詩語多俳諧俳と見え侍。俳は戯也、諧は和也。唐にもたはむれてつくる詩を俳諧と云より、古今集にされうたを俳諧哥と定給し也。」(信大・医短・紀要Vol.8,No.1,1982『俳諧無言抄 翻刻と解説その一、翻刻』より)

 

とある。今ならコピペ疑惑というところか。

2、風雅の誠

 「夫俳諧といふ事はじまりて、代々利口のみにたはむれ、先達終に誠を知らず。中頃難波の梅翁、自由をふるひて世上に廣しといへども、中分いかにしていまだ詞を以てかしこき名也。しかるに亡師芭蕉翁、此道に出て三十余年、俳諧初て實を得たり。師の俳諧は名むかしの名にしてむかしの俳諧に非ず。誠の俳諧也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84~85)

 

 さて、これまでは俳諧という言葉の説明で、ここからが蕉門の俳論となる。

 俳諧は中世の連歌の盛んな時代に既に始まり、宗鑑・守武により連歌から独立し、松永貞徳によって多くの門弟を得て一つの大衆文化として確立された。

 ただ、そこまでは巧みに話を作り、笑わすというところに留まっていて「誠」を知らなかった。

 談林の祖宗因もまた、貞門の基本的に雅語で俗語は一句一語といった窮屈な制限を破り、謡曲や物語、その他様々な言葉を取り入れて、季語を本意本情と切り離して形式的に用いたり、字数においても破調を認めたりして、絵空事の古典風雅だけでなく、庶民のリアルな世界を自由に描き出す道を開いたが、風雅の「誠」には至らなかった。

 芭蕉翁だけが初めて俳諧に「誠」を得た。芭蕉の俳諧は名前は従来通りの「俳諧」の名称を用いてはいるが、中身の違う「誠の俳諧」として区別されねばならない、という。

 ならばその「誠」とは何かということになる。これは朱子学の概念で、人の感情の喜怒哀楽その場限りに移ろいゆく情に対して、その根底にある情、孟子のいう四端に属するものを「誠」という。

 これは朱子学の理と気に二元論から李退渓の四端七情説を通じて日本の朱子学に持ち込まれた考え方だった。芭蕉は『奥の細道』の旅の際に曾良こと岩波庄右衛門を経由してこれを学んだと思われる。

 これによって『猿蓑』の頃の芭蕉の俳諧は古典に通じる不易の情と流行の現象とを区別し、流行の現象を以て不易の情、風雅の誠を表現するものとなった。

 土芳の『三冊子』は『去来抄』とともにこの『猿蓑』の頃の不易流行説を記した貴重な書となった。これ以降の「軽み」の頃の芭蕉の説を知るには、許六の『俳諧問答』や支考の『俳諧十論』の方が重要になる。

 

 「されば俳諧の名有て、其物に誠無が如く代々むなしく押移る事いかにぞや。師も此道に古人なしと云り。又、故人の筋を見れば、求るにやすし。今おもふ處の境も此後何もの出て是を見ん。我是たヾ来者を恐ると、返々詞有。むかしより詩哥に名ある人多し、皆その誠より出て誠をたどるなり。我師は誠なきものに誠を備へ、永く世の先達となる。誠に代々久しく過て、此時俳諧に誠を得る事、天正に此人の腹を得る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.85)

 

 笑いやもっと広い意味での娯楽、あるいはエンターテイメントといったものは誰もが求めるものだしどこの国にもある。そして、それが多くの人の心を満たし、平和な暮らしに貢献していることは理解できるだろう。

 ただ、こうしたもののしばしば政治的に利用されたりするし、反政府的なもの、それも戦争をやろうとしている国家が非戦的という理由で弾圧したりするのもまたよくあることだ。弾圧まではされなくても、低俗だとか子供向けだとか言って蔑まれ、教育制度から排除しようとするのは今でも続いている。サブカルチャーという言葉も左翼が革命に利用できるという観点から与えた名称だ。

 近代の芭蕉研究も低俗な大衆芸能から西洋文学にも劣らぬ立派な芸術に高めたという視点で行われている。そして西洋文学に比する理由として「写生説」が今でも芭蕉研究の主流となっている。写生説に反対するなら象徴詩として扱うかという二択になっている。

 「俳諧の名有て、其物に誠無が如く代々むなしく押移る事」というのはそうした脆弱さを嘆いて言っているのではないかと思う。「無が如く」は無かったのではなく、有るのに自覚されてなかった、と見た方がいい。

 芭蕉が「此道に古人なし」というのは俳諧にまだ「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。」という『笈の小文』の言葉に対して、俳諧にそれに匹敵する人物があらわれてないという意味で言ったのだと思われる。貞徳・宗因も傑出した人物ではあるが、彼らと並べるには不足だった。それはこうした芸能の根底にある何かが自覚されてなかった、ということだろう。

 それは不易に通じる何かだから、「又、故人の筋を見れば、求るにやすし。今おもふ處の境も此後何もの出て是を見ん。我是たヾ来者を恐る」と、一時の流行で終わって何も残らないことを恐れていた。

 「むかしより詩哥に名ある人多し、皆その誠より出て誠をたどるなり」と芭蕉が見つけたのは「誠」だった。それは西洋哲学でいう「理性」とも似ているが、東アジアの誠はよりメンタルな方に重点が置かれている。

 西洋哲学が人間だけが動物的な肉体に霊魂が宿り、それが人間らしさを与えているとするが、その霊はロゴス(言葉を意味すると同時に論理を意味する)という言葉に封じ込められている。それは肉体を制御する理論であり、理性を持つものが真の文学とされた。カントは理性を理論理性、実践理性、判断力に分け、芸術における理性を判断力として論じた。

 ただ、西洋のこの霊肉二元論だと、人間の感情は肉体の方に押しやられ、その結果「感動は芸術ではない」という理論になってしまった。大衆芸術がいくら世界中の人を感動させても、芸術はそういうものではなく、一部のマニアックな人間に支持された作品が賞をもらうようにできている。そこでは哲学(形而上学)を学んだ批評家が大きな権威を持っている。そして芭蕉研究もそのやり方を踏襲して行われている。

 西洋の伝統的な形而上学は一方に機械的な欲望があり、一方にそれをコントロールする理性があるというだけで、その中間にある恋愛や友情や日常の喜怒哀楽がそっくり欠落してしまう。そのため大衆芸術が世界を席巻していても、芸術評論家は誰も知らないような無味乾燥な作品を賛美し続けている。(人権問題にしても、人間の肉体は差別する機械であり、理性による立法とそれを行使する警察力だけが抑止できると考えている。)

 ただナチズムや共産圏で起きた数々の虐殺の前に、理性による非情な殺人に対してのカント的な実践理性の無力さを見せつけられ、カミュの不条理哲学をはじめ、実存主義、構造主義、ポストモダンなどの新しい哲学が起こり、西洋理性の伝統そのものが反省されるようになった。ただ、それ喉もと過ぎれば熱さ忘れるで、若い世代の中からマルクス・ガブリエルのようなのが現れている。

 風雅の誠は朱子学のいう「理」ではあるけど、西洋の理性のようなロゴスとして解釈されるようなものではない。朱子学には経緯という考え方がある。理は経であり経糸であり、気は緯であり横糸になる。横糸は空間であり、経糸は時間を意味する。空間は様々なものが並置されている場所でお互いを認識しないが、経糸はそれら全体を見通すことができる。経糸は意識であり、理はこの世界の経糸になる。

 現代の物理学で言うなら横糸は時間を含んだ多次元の時空であり、経糸はその中で生じた特殊な量子的な場ということになるだろう。今はそれ以上のことは言えない。ただ、そこには西洋的なロゴス以上のものが含まれている。

 李退渓の四端七情説は人間の感情の根底に四端に通じる性理を見出す。風雅の誠はその場所に存在する。感情は性理の発露であり、西洋的に言うなら理性から生じる。感情は理性が肉体化されたものであり、機械的な欲望ではない。そのため、感情は理性によってコントロールされるべきものではなく、むしろ理性は感情そのものなのである。ただ、それが発露するときに現実の世界の様々な状況にさらされ、不完全で間違ったことをしているにすぎない。

 西洋哲学も基本的にはこの性理から生み出されたもので、純粋に論理的なものではなく、実際にはこの世界の現実の前で様々な感情や衝動に突き動かされている。思想家は時としてヒステリックに見えるのもそのせいだし、理性の名のもとに虐殺が行われるのもそのせいだ。

 たとえどんな善意思で生み出された思想であろうとも、それがこの現実の世界に直面した時には凶器に変わる。それを防ぐには常にそれが発せられた場所に立ち返るしかない。

 善意思で生じたはずの思想や感情が現実の世界で裏切られ、それが終わりのない争いのなかで朽ち果ててゆくとき、そこに恨みと後悔が起こる。芸能もまた一時の游興騒動を離れて最初の衝動に立ち返った時、風雅の誠はそこにある(Es ist Da)。

 芭蕉はこの不易流行説を説いた時点では、この反省は古典の心を学ぶことによって達せられると考えていた。だが、後に「軽み」を説く頃には、直接自身の初期衝動に求めるようになった。

 余談だが韓国の「恨(한)」も七情から四端へ立ち返る時に生じる恨みであり、単なる怨恨と区別されねばならない。

 「我師は誠なきものに誠を備へ、永く世の先達となる。」とあるように、この芭蕉の行きついた風雅の誠を近代的に翻訳するなら、現代の世界を席巻する大衆芸術のうねりもここに基礎づけることが可能だろう。

3、俳言と俳諧

 「師はいかなる人ぞ、連俳直一也。心詞共に連歌有。俳諧有。心は連俳に渡れども、詞は連俳別て、むかしより沙汰仕をける事共有。俳無言と云書に、聲に云詞都而俳言也。連歌に出る聲のものあれども、俳言の方也。屏風、拍子、律の調子、例ならぬ、胡蝶など云類也。千句連哥に出る鬼女、龍、虎その外千句のものゝ詞俳言也。連歌に嫌ふ詞の櫻木、飛梅、雲の峯、霧雨、小雨、門出、浦人、賎女などの詞、無言抄にも紹巴の聞書等にも數多みへ侍る。か様みな俳言也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.85~86)

 

 風雅の誠に至った時、すべてが語りつくされた感もある。ここからは、俳諧に限定された議論になる。まずは俳諧で用いられる言葉に関するもので、雅語と俳言の問題へと進む。

 連歌と俳諧は共に風雅の誠から生じるものとして、その根は一つとなる。ただ、心は連歌俳諧共通していても、用いる言葉は違っている。

 当時の基本的な通念からすれば、連歌は雅語で作るもので、俳諧はそれに俗語を交えたものだった。俳諧に用いられる俗語は俳言とも呼ばれた。

 「俳無言」は『俳諧無言抄』(宗因著、延宝二年刊)のことであろう。先に「京」の「俳諧」の項に触れたが、同書の「京」の「俳言」の項に、

 

 「こゑの字なへて俳也。屏風、几帳、拍子、律の調子、例ならぬ胡蝶、かやうの物は連哥に出れと、こゑの字は俳言になると云にならひて俳言をもつ也。又千九連哥に出ぬる鬼女、龍、虎、その外千句の詞、俳言也。又連哥嫌詞の分、桜木、飛梅、雲峯、霧雨、小雨、門出、浦人、賤の女なとの詞、無言抄にも紹巴の聞書等にもあまた見え侍也。かやうの物、皆俳言也と知へし。」(信大・医短・紀要Vol.8,No.1,1982『俳諧無言抄 翻刻と解説その一、翻刻』より)

 

とある。

 「聲に云詞都而俳言也」の「都而」は「すべて」と読む。「なへて」と同じ。「聲に云詞」「こゑの字」は口語と見ていいだろう。声に出して用いられている言葉という意味だ。八代集の和歌の言葉である雅語と対比して用いられているのだろう。

 

  「名にめでゝおれるばかりぞ女郎花

    我落にきと人にかたるな

 此句僧正遍照さが野の落馬の時よめる也。俳諧の手本なり。詞いやしからず、心ざれたるを上句とし、詞いやしう、心のざれざるを下の句とする也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.86)

 

 上句は俗語は入らないが女郎花に女とを掛けた部分は戯れている。下句は「落ちにき」が落馬という和歌に用いぬ題材とそれに俗語の「女の許に落ちる」に掛かっているので「詞いやしう」になる。この歌は古今集の秋の所にある。

 

 「先師のいはく、いにしへの俳諧哥雜躰あまたなれども、まめやかに思ひ入たる躰、

  おもふてふ人の心のくまごとに

   立かくれつゝ見るよしもがな

  冬ながらはるの隣のちかければ

   なか垣よりぞ花は咲ける」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.86)

 

 「おもふてふ」の歌は古今集の「誹謡歌」でよみ人しらず。民謡のような伝承歌なのだろう。「くま」は「こもる」と同系の詞で、隠されている、暗がりにある、ということで、熊野も隠れ里という意味があったのだろう。今日でも目の周りが黒くなることを「目にくまができる」という。

 好きだと言ってくれる人に何か隠し事があると思うたびに、それを物陰からこっそり覗いてみたいものだ、という歌だ。

 「冬ながら」の歌も「誹謡歌」だが、

 

   明日春立たむとしける日、

   隣の家の方より、

   風の雪を吹き越しけるを見て、

   その隣へよみて遣はしける

 冬ながら春の隣の近ければ

     中垣よりぞ花は散りける

               清原深養父

 

と前書きと作者名が記されている。「春の隣」は春が近いと隣の家とを掛けていて、おそらく「中垣」は雅語というよりは「ただごと」に近いのだろう。

 雪を花にたとえるのは、古今集の春に、

 

   雪の木に降りかかれるをよめる

 春たてば花とや見らむ白雪の

     かかれる枝にうぐひすの鳴く

               素性法師

 

の歌がある。雪に鶯は和歌だが、隣の中垣の花は卑俗な事象に落とすということで俳諧になる。

 

 「又いはく、春雨の柳は全躰連歌也。田にし取鳥は全く俳諧也。五月雨に鳰の浮巣を見に行くといふ句は詞にはいかいなし。浮巣を見にゆかんと云所俳也。又、霜月や鴻のつくづく双居て、と云發句に、冬の朝日のあはれ也けり、といふ脇は心詞ともに俳なし。ほ句をうけて一首のごとく仕なしたる處俳諧なり。詞に有んに有。其他この句の類作意に有。信所一筋に思ふべからずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.86~87)

 

 春雨に柳は和歌にも詠まれている。

 

   延喜の御時屏風に

 春雨の降りそめしより青柳の

     絲の緑ぞ色まさりける

              凡河内躬恆(新古今和歌集)

 

 これが連歌発句だと、

 

 春雨をあはをによれる柳哉     宗祇

 

となる、「あはを」は淡緒で細い糸のことだが、「あは」は「淡雪」の「あは」で、「を」は「玉の緒」の「を」で八代集に用例がある。

 これが俳諧発句になると、

 

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉

 

になる。「八九間」は俳言になる。また、雨降るが実際の春雨ではなく、柳の糸を雨に喩えた、「雨」を虚とするところに俳諧がある。

 これに対し「田にし取鳥」は和歌でも連歌でも題材とされることはなかったという点で俳諧となる。田螺を詠んだ発句はあるが田螺に鳥はさすがにありきたりなのか、

 

 古郷を思ひ出るや田にしぬた    言雀(東日記)

 賤の子の泥干遊びや田にし潟    立吟(同)

 

    贈洒堂

   湖水の礒を這出たる田螺一疋、芦間の蟹のは

   さみをおそれよ。牛にも馬にも踏まるゝ事な

   かれ

 難波津や田螺の蓋も冬ごもり    芭蕉

 

のような句はある。付け句では、

 

   編笠しきて蛙聴居る

 田螺わる賤の童のあたたかに    桐葉

 

の句がある。

 「五月雨に鳰の浮巣を見に行くといふ句は詞にはいかいなし。浮巣を見にゆかんと云所俳也。」は貞享四年の、

 

   露沾公に申し侍る

 五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん   芭蕉

 

の句を指す。江戸にいた時の句で、『鹿島詣』の旅はまだ三か月先なので、どこの鳰の浮巣を見に行くのかはわからない。何かしら寓意があって「見にゆかん」だったのだろう。

 「又、霜月や鴻のつくづく双居て、と云發句に、冬の朝日のあはれ也けり、といふ脇は心詞ともに俳なし。」

とあるのは、『冬の日』の、

 

   田家眺望

   霜月や鸛の彳々ならびゐて   荷兮

 冬の朝日のあはれなりけり     芭蕉

 

で、発句は「霜月」も「鸛」も「彳々」も雅語ではないし、最後の「て」留にも俳諧がある。これに対してあえて「て」留を生かして、和歌のような続きで無俳言で応じる所に逆説的な意味で俳諧がある。

 「朝日」は、

 

 朝日さす峰のつづきは芽ぐめども

     まだ霜深し谷の陰草

              崇徳院御歌(新古今集)

 

の歌がある。

4、俳諧の誠

 「詩歌連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もそのその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月もおかしきこの比を見とめ、又、水に住む蛙も、古池にとび込む水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり、見るに有。聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.87)

 

 「詩歌連俳」の詩は漢詩、歌は和歌、連は連歌、俳は俳諧で、いずれも風雅に属する。

 風雅は『詩経』大序の「変風変雅」からきた言葉で、

 

 「上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。」

 (為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。)

 

とあり、

 

 「故正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。」

 (故に政治の得失を正し、天地を動かし、鬼神を感応させること詩にまさるものはない。)

 

という考え方は『古今和歌集』仮名序の、

 

 「力をもいれずして、あめつちを動かし、目に見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなの仲をもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、歌なり。」

 

に受け継がれている。「力をもいれずして、あめつちを動かし」「たけきもののふの心をもなぐさむる」は大序で述べられた政治的な側面で、「をとこをむなの仲をもやはらげ」は小序「關雎」の詩に関する部分を引き継いでいる。

 風雅の政治的側面では古代には山上憶良の「貧窮問答歌」のようなものもあったが、八代集以降の和歌ではそれほど前面に出ることはなかった。連歌では、

 

   罪をもしらで勇むもののふ

 後の世につるぎの山のあるものを  良阿

   はかなきものはもののふの道

 たが為の名なれば身より惜しむらん 宗祇

 

のような反戦的な句や、

 

   身を安くかくし置くべき方もなし

 治れとのみいのる君が代      心敬

   唐土も天の下とやつらからん

 すめば長閑き日の本もなし     宗祇

   山川も君による世をいつか見む

 危き国や民もくるしき       宗祇

 

などの応仁の乱に荒れた国を憂う句が詠まれてきた。

 俳諧では特に宗因法師によって庶民の生の声が解放されて以来、庶民の本音を読む句も増えてきた。為政者の間でも民の心を知るための手段として、積極的に俳諧に参加するものもいた。特に宗因の時代から俳諧を好んだ磐城平藩の風虎、露沾などの名も挙げられる。

 「詩歌連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もそのその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。」というのは、ともすると形骸化した漢詩、和歌、連歌の変風変雅の精神が、俳諧では余すところなく行われているという自負を込めているのではないかと思う。

 花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月もおかしきこの比を見とめ」は、元禄五年の、

 

 鶯や餅に糞する縁の先       芭蕉

 

の句、「水に住む蛙も、古池にとび込む水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり」は言わずと知れが貞享三年の、

 

 古池や蛙飛び込む水の音      芭蕉

 

の句をいう。

 ここには神聖な鏡餅に糞をするとは不謹慎ななんて制約もない。暗に世俗の権威何ぞ糞くらわせてやれといった反抗心も匂わせている。だが、それを露骨に言うことなく、正月の「あるある」の中に隠し込んでいる。

 古池の句も時代の変化によって没落した家の古池などが放置されているところに、水音に驚き、在原業平の「月やあらぬ」や杜甫の「鳥にも心を驚かす」の心を表している。

 単なるあるあるネタで人を笑わす俳諧師はいくらもいるが、そこに変風変雅の心を隠し込む所までできたのは芭蕉をおいて他にいなかったといってもいい。『去来抄』で論じられた、

 

 応々といへどたたくや雪のかど   去来

 

に欠けてたのは、まさにそこだった。

 その境地に達してこそ、「見るに有。聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」になる。

5、俳諧の式目

 「俳諧の式の事は、連哥の式より習て、先達の沙汰しける也。連哥に新式有。追加ともに二條良基摂政作之。今案は一條禪閤の作、この三ッを一部としたるは肖柏の作と也。連に三と數ある物は、四とし、七句去ものは五句となし、万俳諧なれば事をやすく沙汰しけると也。今案の追加に、漢和の法有。是を大様俳諧の法とむかしよりする也。貞徳の差合の書、その外その書、世に多し。その事をとへば、師信用しがたしと云り。その中に俳無言といふ有。大様よろしと云り。差合の事もなくては調がたし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.87)

 

 「式」は連歌のルールで、連歌が本来多くの連衆が即興で機知に富んだ句を付けるのを競うゲームであり、賞品が出たりした。機知は中世から近世前半においては科学的な論理の未発達と不確かな情報を補う重要な能力で、硬直した論理で対応できない現実に的確に対応するには、機知が最高の能力とされた。

 与えられた前句により的確に面白く句を付ける能力は、政治においても領主的経営においても、宗教界においても有能さの証となるものだった。

 近代であれば科学知識と正確な情報に基づいた判断が要求される。しかし、それが得られなかった時代は何に基づいて判断しなくてはならなかったかというと、ひたすら状況判断あるのみだった。それもいかに素早く時流に合った判断をするかが大事だった。そのため宮廷でも武家でも寺社でも機知を養うことだ必要だった。

 (余談だが今日のコロナに関しては未知のウイルスだったため、従来のコロナウイルスに関する科学的な知識では対応できず、情報も中国側の隠蔽などがあって不十分だったため、各国政府が機知によって対処せざるを得なかった。こうしたことは中世の政治であれば日常だったのだろう。)

 ゲームということになると、より面白く長く遊ぶためには適度な難易度が要求される。難易度が低くて誰でもできるものだと、実力を見せることができない。難易度が高くて誰もできないようなものだと、ゲームとして成立しない。スポーツなどでもしばしばルールの細かい部分が修正され、いかにゲームを面白くするかに注意を払っている。野球のストライクゾーンが変わったりするのも、ストライクゾーンが広すぎると誰も打てなくてゲームが動かなくなるし、ストライクゾーンが狭すぎると簡単に打ててしまってゲームが荒れてしまう。

 連歌の式目も後鳥羽院の頃に五十韻百韻などの長連歌が生まれて以来、ルールが建てられては何度となく修正されてきた。そして、その一つの成果として生まれたルールが二條良基による『応安新式』(応安五年、西暦一三七二年成立)だった。ルールの主なところは去り嫌いであり、似たような趣向の句が連続することを避け、より素早く発想の転換を行うかが重視されていた。

 それから八十年後、一条兼良によって一部修正がなされたのが『新式今案』(享徳元年、西暦一四五二年)だった。その後肖柏によって和漢連歌(漢詩句を交えた連歌)のルールが追加されたのが『連歌新式追加並新式今案等』(文亀元年、西暦一五〇一年)だった。

 俳諧の連歌も基本的には連歌の式目を受け継ぐが、去り嫌いの規則はかなり緩和されている。「貞徳の差合の書」は『俳諧御傘』などであろう。たとえば『応安新式』では同季(春と春、夏と夏など)は七句去り(七句間に別の季か無季の句を挟まなくてはならない)だったがそれを五句去りにしている。蕉門の俳諧もおおむねこれに基づくが、新しい季語を追加したりしているし、俳言が一句に一語という制限も撤廃して俗語だけでも俳言なしでも良しとしている。

 細かい部分は絶えず修正されるため、実際に芭蕉同席の俳諧に参加して直に学ぶことも大事だった。

 

 「師の門にその一書あれかしといへば、甚つゝむ所也。法を置と云事は重き所也。されども花のもとなどいはるゝ名あれば、其法たてずしては、其名の詮なし。代々あまた出侍れど、人用ひざれば何ンが為ぞや。法を出して私に是を守れとは恥かしき所也。差合の事は時宜にもよるべし。先は大かたにして宜と也。たヾこゝろざしある門弟は、直に談じて信用して書留るもの、蜜にわが門の法ともなさずばなすべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.87~88)

 

 蕉門に式目の書はないのかと言われれば「甚(はなはだ)つつむ(慎む)」となる。スポーツでもローカルルールはあるが、公式ルールとなるとしかるべき統括する競技団体が十分議論して行わなくてはならない。俳諧の場合も全国に様々な師匠がいて、大まかにいうと貞門、談林、蕉門ということになるが、それぞれが勝手にルールを作ったのでは収拾がつかなくなる。蕉門といえども全国を統括できるだけの勢力はない。特に大阪は最後まで取りこぼし、大阪談林が主流を占めていた。

 連歌の式目にしても二條良基は摂政、一条兼良は関白、肖柏も内大臣中院通秀の弟で皆立派な官位を持つ貴族で、式目はいわば皇室の権威に於いて基礎づけられていた。芭蕉はもとより松永貞徳ですらこうした権威に匹敵するものではない。残念ながら俳諧は大名クラスまでは広まっても皇族を巻き込むには至らず、今日に至るまで俳諧の公式ルールともいうべき式目は存在しない。現代連句もそれぞれ勝手にルールを立てて行われている。

 「差合の事は時宜にもよるべし」とあるように、特に俳諧に権威のあるルールがない以上、ルールはその場の状況に応じて臨機応変に適用しなくてはいけない。まあ、国の法律だって杓子定規になってはいけないし、スポーツのルールでも特にサッカーなどの接触プレーの判定は線引きが難しく、審判の勘によるところも多い。今ではVARも導入されているが、その判断も結局は複数審判の協議によるもので、むしろ些細な判定で試合が頻繁に止まることを懸念する声もある。俳諧の差合はそこまでの厳密さもなく、むしろプロレスの判定に近いかもしれない。

6、恋

 「戀の事を先師云ク、むかしより二句結ざれば不用也。むかしの句は、戀の詞を兼而集メ置、その詞をつヾり句となして、心の戀の誠を思はざる也。 いま思ふ所は戀別而大切の事也。なすにやすからず。そのかみ宗砌、宗祇の比迄、一句にて止事例なきにもあらず。此後所々門人とも談じて、一句にても置べき事もあらんかと也。又ある時云ク、前句戀とも戀ならずとも片付がたき句ある時は、必戀の句を付て前句ともに戀になすべしと也。是には此句のみにて、つヾいて戀にも及べからず。新式にも此沙汰あるよし也。しかれども、戀の事は分て其座の宗匠に任すべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.88)

 

 恋は『応安新式』にはただ五句としか規定されてない。五句まで続けることができるというだけで二句続けなくてはいけないというルールはない。それは春秋についても同じで春秋は三句以上続けなくてはいけないというのも式目で定められているわけではない。ただ、連歌の時代からこれは暗黙のルールになっていた。

 『連歌新式永禄十二年注』には、句数のところに、

 

 「春 秋 恋(以上五句、春・秋句、不至三句ば不用之。恋句、只一句而止事無念云々)」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.123)

 

とある。

 月花の定座というのも四花八月というのも式目にはない。これは連歌でも紹巴の頃から慣習化したもので、定座はその場の臨機応変で繰り上げたり繰り下げたりするのは普通に行われていた。

 「むかしの句は、戀の詞を兼而集メ置、その詞をつヾり句となして、心の戀の誠を思はざる也。」というのは、特に談林時代に式目を形式的に守ることで実質的には自由に詠めるようにしたというのがあった。中世の連歌では特に恋の詞というのもなく、内容で判断していた。また、中世の場合、恋は和歌の恋歌のように、自分の気持ちとして恋心を述べるもので、他人の恋を客観的に描くようなことはしなかった。まあ、今でもラブソングというのは恋心を歌うのが普通だが。

 江戸時代の俳諧では恋心を歌うということは少なくなり、むしろ恋愛あるあるのようなネタ物が多くなった。この時点で既に恋というテーマは形骸化していた。

 たとえば「水無瀬三吟」の十九句目、

 

   わが草枕月ややつさむ

 いたずらに明す夜多く秋ふけて   宗祇

 

の場合、明確に恋の詞が入っているわけではないが、前句と合わせて。

 

 いたずらに明す夜多おほく秋ふけて

     わが草枕月ややつさむ

 

と和歌にしたとき、業平や西行のように身分違いの恋に破れて旅に出た男が、無駄に夜を明かしては月も涙で霞んで見えるという歌になる。恋の詞がなくても実質的に恋の歌だし、また他人の恋ではなくあたかも自分が恋をしてるかのように詠んでいる。

 それに続く二十句目、

 

   いたずらに明かす夜多く秋ふけて

 夢に恨むる荻の上風        肖柏

 

にしても、夢にあの人が来てくれたのに、目覚めれば荻の上風の音がアレンジされただけだったと分かって、荻の上風を恨むという歌になり、自分が女の人の身に成り代わって詠んでいる。

 これに対し、俳諧の恋句というのは、宗因の「花で候」の巻の五句目を例にするならば、

 

   手と手まくらをかはすとはなし

 しのばれぬ昼のやうなる月の夜に  宗因

 

この句は、

 

 しのばれぬ昼のやうなる月の夜に

     手と手まくらをかはすとはなし

 

と和歌の形にしても、恋歌の体裁にはなっていない。昼のような月の明るい夜だから枕を交わすこともできないというネタであって、情を述べてはいない。和歌なら、

 

 しのばれぬ昼のやうなる月の夜に

     手まくらすらもなきぞかなしき

 

のように、自分の思いとして語らなくてはならない。

 まだ芭蕉庵に移る前の談林時代の桃青の俳諧「あら何共なや」の巻でも、

 

   から尻沈む淵はありけり

 小蒲団に大蛇のうらみ鱗形     桃青

 

は「うらみ」が恋の詞ということになるが、内容はから尻馬の鞍に敷く座布団の柄が鱗形で、大蛇の恨みで淵に沈むという内容に何ら恋の要素はない。

 ただ、「うらみ」という恋の言葉が出た以上は、次の句は恋にしろというのが、「前句戀とも戀ならずとも片付がたき句ある時は、必戀の句を付て前句ともに戀になすべし」だ。

 

   小蒲団に大蛇のうらみ鱗形

 かねの食つぎ湯となりし中     信章

 

 大蛇の恨みを謡曲『道成寺』の、安珍に裏切られた少女清姫の蛇になって道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺す場面を下敷きにして、金属製の飯櫃も溶けて湯になるような仲と展開している。この「中(仲)」という言葉が恋の詞になる。もちろんこの恋の激情が自分のものとして表現されることはなく、あくまでネタにすぎない。中世連歌的に作るなら、

 

   小蒲団に大蛇のうらみ鱗形

 かねの食つぎ湯ともなさなむ

 

であろう。恋の言葉がなくても連歌では内容的に恋となる。

7、旅体

 「旅の事、ある俳書に師の曰、連哥に旅の句三句つヾき、二句にてするよし。多くゆるすは神祇、尺教、戀、無常の句、旅にてはなるゝ所多し。今、旅、戀、難所にして、又一ふし此所にある。旅躰の句は、たとひ田舎にてするとも、心を都にして、相坂を越へ、淀の川舟にのる心持、都の便求る心など本意とすべし、とは連(歌)の教也とあり。又、旅、東海道の一筋もしらぬ人、風雅に覺束なしとも云りと有。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.88~89)

 

 恋の時と同様、羇旅も三句までは連ねることができるとあるだけで、式目上は一句でもいいことになっている。春秋も五句までとはあるけど何句以上ということは書かれていないが、春秋の三句以上だけは慣習的に守られている。なお、『応安新式』では「旅行」と書かれているが、これも習慣で連歌では「羇旅」、俳諧では「旅体」という言葉が用いられることが多い。

 「神祇、尺教、戀、無常の句、旅にてはなるゝ所多し」というのは、旅体は逃げ句に便利だということで、恋の情は容易に旅の情に転じることができるし、神祇、釈教はそこへの巡礼の道筋を付ければ旅体になる。

 俳諧の場合は

 

   文書てたのむ便りの鏡とぎ

 旅からたびへおもひ立ぬる     白之

   あやの寝巻に匂ふ日の影

 なくなくもちいさき草鞋求かね   去来

 

は恋から旅体、

 

   門跡の顔見る人はなかりけり

 笈に雨もる峯の稲妻        芭蕉

   朝露の夢に仏を孕らん

 笠の下端に結ぶ御祓        古益

 

は釈教から旅体になる。

 「旅躰の句は、たとひ田舎にてするとも、心を都にして、相坂を越へ、淀の川舟にのる心持、都の便求る心など本意とすべし」は連歌だと恋と同様に自分が旅をしている立場に立って、旅人に成り代わって詠むのが本意だが、俳諧では旅行あるあるになる場合が多い。そういうネタを仕入れる意味でも「東海道の一筋もしらぬ人、風雅に覺束なし」ということになる。ただこれは女性作者には厳しい。

 

 夏の月御油より出でて赤坂や    桃青

 

の句は延宝四年の句だが、これも東海道の御油と赤坂が半里しかないことを知らないと意味が分からない。

 貞享三年春の「日の春を」の巻九句目、

 

   我のる駒に雨おほひせよ

 朝まだき三嶋を拝む道なれば    挙白

 

の句にしても、これが箱根越えのことだとすぐにわからなくては句を詠むことも、それを聞いて「あるある」と笑うこともできない。

 これは東海道を行く旅人ではあるが、連歌のような都を追われた人の情ではない。江戸時代の帰省や商用や参宮で行き来する人の句だ。

8、本歌

 「本歌を用いる事、新式に云ク、新古今已来の作者を用べからずと也。八代集は古今、後撰、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今、是也。後土御門依勅、新勅撰、續後撰二代を加へて、十代集を本哥に取る。又堀川兩度の作者迄の哥は、十代の外の集たりとも、たとひ集にいらぬ哥也とも、作者の吟味有之かと云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.89)

 

 『応安新式』には、

 

 「本歌付合事は至新古今集用之、堀川院両度百首作者までは、假雖入近代集、猶可為本歌之例、但人のあまねく、しらざる歌をば、付合に不可好用之、彼百首以後作者、近代歌までも、依事證歌には可引用也」

 

とある。「至新古今集用之」は古今から新古今までの八代集で、万葉集は含まれない。

 「堀川院両度百首」は「堀河百首」と「永久百首」のことで、「堀河百首」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「平安後期の歌集。長治2年(1105)ごろ成立か。堀河天皇の時、藤原公実(きんざね)・源俊頼・源国信らを中心に、当時の代表的歌人の大江匡房(まさふさ)・藤原基俊ら16人が詠んだ百題による百首歌の集成。後代の組題百首の規範とされ、重んじられた。堀河院御時(おんとき)百首和歌。」

 

とあり、「永久百首」は、

 

 「平安後期の歌集。2巻。永久4年(1116)鳥羽天皇の勅命で藤原仲実ほか6人が編集。百首の和歌を収録。永久四年百首。堀河院後度百首。堀河院次郎百首。」

 

とある。この時代までの作者の歌であれば、八代集以降の集にある歌でも用いることができる。但し、有名な哥以外は推奨しない。

 誰も知らないようなマニアックな歌を引いてきてどや顔するのはいかにもありそうなことだが、本来連歌は機知を競うもので、知識を競うものではない。俳諧でも其角流はこの方向に陥りがちだった。

 本歌は歌の趣向を借りるもので、単に使用する語句が雅語であることを証明するために用いられる證歌であれば、それ以降の和歌でもいいとされている。俳諧では特に『夫木和歌抄』(鎌倉時代後期に成立)が多く用いられる。

 

 「又、新式にいはく、人のあまねくしらざる歌をば、付合に是を好むべからず。事により證哥には引用ゆべしと也。

 本哥と證哥と差別あり。本哥取といふは、古哥の詞を取合て付るをいふ。證哥とは聊違有。或は一句餘情、又名所續合たる物を付るをいふ也。證哥はいづれの集にても可有事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.89)

 

 本歌の場合はその元歌を知らないと意味がよくわからないものが多い。

 

   蛤もふんでは惜む花の浪

 さつとかざしの篭の山吹      宗因

 

の句なども、なんで篭の山吹が何を意味するかというと、『散木奇歌集』の藤原家綱と源俊頼との歌のやり取りを知らないとよくわからない。

 

  「家綱がもとよりはまぐりをおこすとて、

   やまぶきを上にさして書付けて侍りける

 やまぶきをかざしにさせばはまぐりを

     ゐでのわたりの物と見るかな

                 家綱

   返し

 心ざしやへの山ぶきと思ふよりは

     はまくりかへしあはれとぞ思ふ

                 俊頼」

 

 山吹は元は手紙に添えるかざしで、それを蛤を詰めた籠を贈るのに用いたということだと分かる。

 ただ紹巴の時代の連歌では付合の根拠となるものを本歌と言ってたようなところもある。『連歌新式永禄十二年注』には、

 

 「たとへば、朝霧と云句に明石の浦と付て、又嶋がくれ行舟と付れば、三句になるなり。

 前の朝霧の一句に雖無本歌心、明石の浦を付れば、ほのぼのと明石の浦の朝霧にといふ歌の心に、朝霧の句もなる也。

 其ゆへは、彼本歌なくは、朝霧に明石の浦付くべきゆへなけらば也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.18)

 

 これに対して逃げ歌は、

 

 「逃歌とは、我舟に乗て漕行に、嶋のみえたる体の句はくるしからず。別の歌の心になれば也。

 天ざかるひなの長路を漕くれば明石のとより大和嶋みゆ」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.18)

 

とある。『三冊子』の「本哥取といふは、古哥の詞を取合て付るをいふ。」も本歌をこういう意味で用いていると思われる。それに対し情をとるのを證歌としている。

 『連歌新式永禄十二年注』には、

 

 「本歌と証歌との分別の事。本歌と云は、前句の付合也。証歌と云は、詞づかひ・一句のしたて也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.20)

 

とある。ただし付合であっても、

 

 「本歌といふにも猶心え有べし。たとへば、梅に鶯を付、柳に鶯を付、雪に桜、款冬に蛙、又、卯花・橘、五月雨等に時鳥を付、紅葉・萩等に鹿・鴈を付、萩・薄・女郎花等に虫を付事をば本歌とはいはず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.20~21)

 

とあり、特定の歌に限定される付合は本歌だが、多くの歌に見られる組み合わせは本歌とは言わない。

 「証歌と云は、詞づかひ・一句のしたて也。」とあるのは、文字通り言葉の使い方一句の文章の続き方で、言葉の意味や文法の正しさを証明する歌のことと思われる。

 證歌は貞門や初期談林などまだ雅語を中心にして俗語は一語までというルールでやってた頃はかなり厳しく言われたようだが、それ以降、特に蕉門ではほとんど問題にされなかったのではないかと思う。

 この辺りは連歌書を書き写したような感じで芭蕉の時代の実際の差し合いとはかけ離れているように思える。

9、輪廻

 「輪廻の事、新式に薫といふ句に、こがるゝと付て、また紅葉を付べからず。舟にて付べし。こがるゝといふ字かはる故也。夢といふ句に、面影と付て、月花を付る事、面影ものと云て、近代不付之、更無其理、曾以不嫌之。又たとへば、花といふ句に、風とも霞とも付て又不可付也。 數句をへだつといふとも、一座に可嫌之、他准之。又、竹と云句に世と付て、又、竹出る時、夜の字不付也。如此の類、遠輪廻也。あらしと云に、山と付、次に富士など付ば、取なして打越へ歸るなり。是を嫌。他准之。一巻の内似たる句嫌之なり。是遠輪廻也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.89~90)

 

 輪廻は『応安新式』に、

 

 「薫物と云句に、こがると付て、又紅葉をつくべからず、船にては是を付べし。こがるといふ字、かはる故也、煙と云句に里とつきて、又柴たくなど薪の類を不可付、他准之」

 

とある。「新式に薫」以下「かはる故也」まではほぼそのまま書き写している。

 これは同じ「こがる」でも違う意味に取り成してつける分にはかまわないということを言う。

 「薫物のこがる」「紅葉のこがる」はどちらも火によって焦げるという意味で、紅葉の場合も葉が赤くなるのを比喩として焦がると言っているから、同じ意味の「こがる」となる。これに対し「船のこがる」は漕ぐという別の単語への取り成しになるから良しとする。

 煙に里と付けてまた柴たくや薪を付けるのは、「煙りたなびく里」「柴焚く里」「薪こる里」と趣向が似てしまうからで、これも輪廻になる。

 『応安新式』の遠輪廻事には、

 

 「仮令花と云句に、風とも霞とも付て又付加付之、数句を隔といふとも、一座に可嫌之、他准之。」

 

とある。「又たとへば、花と」以下「一座に可嫌之」まではほぼこれを書き写している。

 また『新式今案』の遠輪廻事には、

 

 「花に付、風霞之類、近来不及沙汰、若猶可守新式歟、又竹と云句に世と付て、又夜字不可付之、如此類又遠輪廻也」

 

とある。「又、竹出る時」以下「遠輪廻也」まではこの後半部分をほぼそのまま書き写している。

 なら残る「夢といふ句に、面影と付て、月花を付る事、面影ものと云て、近代不付之、更無其理、曾以不嫌之。」はというと、「連歌新式永禄十二年注」には、

 

 「夢と云句に面影と付て、月花を付事、面影物といひて、近代不付之、更無其理、曽以不嫌之。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.15)

 

とあり、ほぼ一致する。なおこの一文は『連歌新式心前注』にも同じものがあり、古い書に元の文があるのかもしれない。

 「あらしと云に、山と付、次に富士など付ば、取なして打越へ歸るなり。是を嫌。他准之。一巻の内似たる句嫌之なり。是遠輪廻也。」の部分は宗因の『俳諧無言抄』に、

 

 「又嵐と云に山と付て、次に冨士なと付は取なして打越へかへる也。是等を嫌也。他准之。」

 

とある。

 「一巻の内似たる句嫌之なり。是遠輪廻也。」も宗因の『俳諧無言抄』に「一巻の内、似たる句嫌也」とある。 この辺りもまた古い書物からの書き写しで蕉門独自の論ではない。

10、等類

 「等類の事おろそかにすべからず。師のいはく、他の句より先我が句に我が句、等類する事をしらぬもの也。よく思ひ別て味べし。若、わが句に障る他の句ある時は、必わが句を引べし。趣向に表と裏の事あり。句にもよるべしと云ながら、大様のがして等類になさず取べし。ふるき連歌に、思はぬ方にちらす玉章、と云前句に、山風や枝なき花を送るらん、と有。この句、山風の枝なき花を送るこそ、全ちりたる躰、前句同意の連歌と沙汰しけるよし有。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.90)

 

 当時はいわゆる著作権という概念はなかったが、一定の暗黙のルールは存在していた。盗作はもとより、たとえその意図のない偶然の一致でも、似た作品があれば大衆はパクリではないかと疑い、その噂が広まれば作者としての信用を失うことになる。それは今と変わらないと思っていい。著作権はこうした自然権に基礎を持っているといった方がいい。(対立する民族からパクるのは良いという愛国無罪の論理が働くと、この自然権が機能しなくなることもあるが。)

 『去来抄』には、

 

 「月雪や鉢たたき名は甚之亟

 去来曰、猿ミの撰ノ比伊丹の句に、弥兵衛とハしれど憐あはれや鉢扣と云有。越が句入集いかが侍らん。先師曰、月雪といへるあたり一句働見へて、しかも風姿有。ただしれど憐やといひくだせるとハ各別也。されど共に鉢扣の俗体を以もつて趣向を立たて、俗名を以て句をかざり侍れば、尤も遠慮有なんと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.16)

 

とあるように、パクリではなくても先行する似た句があると発表を控えるくらいに用心していた。今なら裁判で無関係だと争うこともできるかもしれないが、当時は風説抗す手段もなかった。

 それゆえ「等類の事おろそかにすべからず」は当たり前のことで、むしろ今よりも神経質になっていたと思われる。ただ、それは作品に関してで、知識に関しては共有物という意識が強く、引用された文章に出典を明記する習慣はなかった。今でも学問に関しては引用を明記する必要があるだけで、使用料を払う必要はない。

 むしろ芭蕉が強調したのは、自分の作品であっても過去の作品に類似するものは控えるということだった。

 たとえば芭蕉が死の直前の話で、支考が『前後日記』に記した、

 

 「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて

 

 大井川浪に塵なし夏の月

 

と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて

 

 清滝や浪にちり込青松葉     翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)

 

ということにも現れている。

 この改作が有名な「旅に病んで」の句より一日あとということから、「清滝や」の句が芭蕉の絶筆だという人もいる。まあ、ここまで来ると絶筆の定義の問題になってしまう。両方とも絶筆でいいと思う。

 そして「若、わが句に障る他の句ある時は、必わが句を引べし」とするのは、自分に厳しければ、当然他人の句との類似にも厳しくなるという意味だろう。

 「趣向に表と裏の事あり。句にもよるべしと云ながら、大様のがして等類になさず取べし」というのは、表面的に似ていても実際の意味が違う場合の事であろう。『去来抄』にも、

 

 桐の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆

 樫の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

 

 蕣の裏を見せけり秋の風

 くずの葉の面見せけり今朝の露   芭蕉

 

 野を横に馬牽むけよほとゝぎす   芭蕉

 面梶よ明石のとまり時鳥      野水

 

といった類似が問題になっている。

 「樫の木」の句は『野ざらし紀行』の旅で三井秋風を訪ねた時に、談林の主要人物が次々と亡くなったことを悲しんでた時にそれを慰めるために詠んだ句で、表向きの言葉通りの意味ではない。

 「くずの葉」の句も反目していた嵐雪が戻ってきた時の句で、これも言葉通りの意味ではない。

 「野を横に」の句も『奥の細道』の旅で馬引きに発句をねだられて、ならばホトトギスの所に案内してくれという裏の意味のある句で、発句にはこうした表裏のある句が多く、表面的な言葉の類似だけで等類にはできない。

 「ふるき連歌」の例は、

 

   思はぬ方にちらす玉章

 山風や枝なき花を送るらん

 

という付け句が、「枝なき花」は散った枝で同語反復に近いという指摘で、等類の問題からは外れるように思える。打越の句がわからないから何とも言えないが、打越が恋の句で手紙を書き散らすの意味だったとしたら、「枝なき花」は「ちらす」を別の意味に取り成しているから問題ない。『応安新式』には「玉章にこと葉 歌にことのは 敷島の道に歌」などの同語は「如此類不可付之」とある。それの拡大解釈であろう。

 

 「又いはく、

  都をバ霞とともに出しかど

   秋風ぞふく白河のせき

  都にはまだ青葉にて見せしかども

   もみぢちりしく白河の關

 此哥の叓、師のいはく、いにしへより色をわかちたる作意によりて、等類のがれたると云来る也。さもあるべし。今師の思ふ所、後のうた、卯月此都を出て、十月に及び白川に至り、紅葉のちり敷たるを見て、前の能因法師の哥を思ひだし、彌その哥の妙所を感德したりと、云心より詠る哥なるべし。是にて等類よくのがるゝと云り。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.90~91)

 

 この、

 

 都をば霞とともに立ちしかど

     秋風ぞ吹く白河の関

             能因法師

 都にはまだ青葉にて見しかども

     紅葉散り敷く白河の関

             源頼政

 

のことは昔からよく似ていることで有名で、頼政の歌は歌合せの歌として青葉、紅葉、白河の色彩の華やかさを取り柄として、オリジナルと認められていた。能因法師の歌の方は「みちのくにゝまかり下りけるに白川の關にてよみ侍りける」という前書が付いていることから、本当に旅で詠んだとされていた。もっとも、『十訓抄』や『古今著聞集』には旅をしたように装って発表したとされているが。

 芭蕉は両方とも旅で詠んだと思っていたのだろうか。これだと能因をリスペクトしていて、そのオマージュだという論理に近い。まあ、

 

 世にふるもさらに時雨の宿りかな  宗祇

 世にふるもさらに宗祇の宿りかな  芭蕉

 

の類似に関してはそうなのだろう。

11、切れ字

 「切字の事、師のいはく、むかしより用ひ來る文字ども用べし。連俳の書に委くある事也。切字なくてなほ句の姿にあらず、付句の躰也。切字を加ハへても、付句の姿ある句あり。誠に切たる句にあらず。又切字なくても切る句有。其分別切字の第一也。その位は自然としらざればしりがたし。猶、口傳あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.91)

 

 何が切れ字かは習慣的に用いられているもので、「や」「かな」などの代表的な文字は多くの書に共通しているが、厳密な決まりはない。

 というのも切れ字が入っていても切れてない句もあれば、切れ字がなくても切れている句があるからだ。大事なのは句を切るということで、切れ字はそのための便宜的なものと思った方がいい。

 切れ字に関して古いところでは梵灯庵主の『長短抄』に、「かな、けり、そ、か、し、や、ぬ、む(ハネ字) セイバイの字、す、よ は、けれ」が挙げられている。ハネ字というのは撥音で「ん」と発音される。セイバイの字は状況で判断される字ということであろう。

 『長短抄』には、大廻(まわし)と三体発句という切れ字なしで切れる句の例を挙げて切れない句と比較して説明している。

 

 「発句大廻ト云 在口伝、

   山ハ只岩木ノシヅク春ノ雨

   松風ハ常葉ノシグレ秋ノ雨

   五月雨ハ嶺ノ松カゼ谷ノ水

  三体発句

   アナタウト春日ノミガク玉津嶋

  此等ハ切タル句也、

   庭ニミテ尋ヌ花ノサカリ哉

   山近シサレドモヲソキ時鳥

   花ハ今朝雲ヤ霞ノ山桜

 此三句キルル詞ハアレドモ不切、」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.180)

 

 「山ハ只」の句は「山は只岩木のしづくが春の雨や」という意味で、この末尾の治定の「や」が省略されているとみていい。

 「松風ハ」の句も「松風(の音)は常葉の時雨や、秋の雨や」という意味で、治定の「や」が省略されている。

 「五月雨ハ」の句も「五月雨は嶺の松かぜ(に)谷の水(をそえる)や」で、いずれも治定の言葉が省略されている。それを補えば「〇〇は〇〇や」という主語述語整った形になる。

 

 蚤虱馬の尿する枕もと       芭蕉

 目には青葉山ホトトギス初鰹    素堂

 

もこの類といえよう。「蚤虱や馬の尿する枕もと」「目には青葉山(には)ホトトギス(口には)初鰹や」となる。

 これに対し三体発句は形容詞の活用語尾の省略で、「春日のみがく玉津嶋はあなとうと(し)」になる。この「し」があれば、それが切れ字ということになる。

 

 あらたうと青葉若葉の日の光    芭蕉

 

もこれにあたる。

 形容詞の活用語尾の省略は今日でも口語では頻繁に見られる。ださいを「ださっ」、近いを「近っ」という類で、『源氏物語』にも「あなかしまし」というところを「あなかま」という例がある。

 切れ字なくても切れている句は、基本的に何らかの切れ字が省略されているだけと見ればいいのかもしれない。

 これに対し切れ字があっても切れてない句というのは、切れ字が形だけで機能していない場合ではないかと思う。

 

 庭にみて尋ぬ花のさかり哉

 

の句は「尋ねぬ」が実質的な切れ字で最後の「哉」は付け足しにすぎない。「庭に見て尋ぬる花のさかり哉」なら切れる。

 

 山近しされどもをそき時鳥

 

の句は「されどもをそき」の方が句のメインになっていて、「山近し」は付け足しにすぎない。「時鳥のされども遅し山の脇」ならわかる。

 

 花は今朝雲や霞の山桜

 

の句も、「花や今朝雲に霞の山桜」ならわかる。

 芭蕉が二句どちらがいいか沾徳に判を求めたという

 

 ほととぎす声横たふや水の上

 一声の江に横たふや時鳥

 

の句で「一声の」の句の切れが悪いのも、この「や」が十分機能してないからなのかもしれない。この句は「時鳥の一声の江に横たふや」の倒置だが、これだと「時鳥」「一声」「江」「横たふ」のどれを治定しようとしているのかわからない。

 もう一句の方だと「水の上」を強調しているのがはっきりとわかる。「一声の」の句の場合も強調したいのは「江」であろう。それが十分機能していない。

 切れ字のことは多くの連歌師俳諧師が感覚的に理解していることではあったが、なかなか論理的に説明するのは難しく、それで「猶、口傳あり。」ということになってしまったのだろう。『去来抄』「故実」の切れ字について述べた個所でも、

 

 「此事あながち先師の秘し給ふべき事にもあらず。只先師の伝授の時かく有し故なるべし。予も秘せよと有けるは書せず、ただあたるを記して人も推せよと思ひ侍るなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.53)

 

とある所を見ると、去来にも口伝があったようだ。

 

 「師常に道を大切にして示されし也。あこくその心はしらず梅の花、と云句をして、切字を入る事を案じられし傍にありて、此句は切字なくて切るやうに侍ると云ば、切る也。されば切字はたしかに入たるよし、初心の人の道のまどひに成てあしゝ。つねにつゝしむべし。ましてさせる事もなき句は、句を思ひやむとも常にたしなむべし、と示されし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.91~92)

 

 「あこくそ」の句は貞享五年の春、伊賀滞在中に詠んだ句で、

 

   風麦子にて兼日の会に句を乞はれし時

 あこくその心はしらず梅の花    芭蕉

 

という前書きがついている。「兼日」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「かねてのひ」の「兼日」の音読)

  ① かねての日。また、あらかじめ。日頃。

  ※左経記‐長和五年(1016)四月一五日「又兼日或仰二陰陽寮神祇官等一、可レ令候」

  ※葉隠(1716頃)一「是は折節の仕形・物言にて顕るるもの也。〈略〉兼日にて人が知るものなり」 〔論衡‐感虚〕

  ② 歌会の行なわれる前にあらかじめ題が出され、歌会以前に歌をよみ用意しておくこと。また、その歌会。⇔当座(とうざ)。

  ※無名抄(1211頃)「兼日の会には、皆歌を懐中にして」

 

とある。②の意味であろう。

 伊賀滞在中だったから、この句ができた時に土芳に語ったのだろう。

 「あこくそ」は紀貫之の幼名と言われている、ウィキペディアに、

 

 「幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。」

 

 古い時代には本名を隠すことが多く、たいていは職名で呼ぶ。紫式部だとか清少納言とかも本名ではないように、本名を隠す習慣があったのだろう。「新古今集」でも「摂政太政大臣」だとか「京極前關白太政大臣」だとか「入道前關白太政大臣」とかあって、一体誰なんだというのが多い。

 「阿古久曽」もおそらくは「吾子糞」で意図的に悪い名前を付けたのではないかと思う。麿(まろ)も汚物を意味する言葉で、便器を意味する「おまる」という言葉にそれが残っているという。ウィキペディアの注釈にも、

 

 「 荒俣宏は、くそは不浄であり、悪鬼の類ですらこれを嫌うものであるため、鬼魔の害を避ける方法として幼児に「マル」(不浄をいれる容器)や「クソ」(不浄そのもの)の名をつける親が現れたと論じている。荒俣(1994)」

 

とある。

 そういうわけで芭蕉も「梅」を題として詠むように依頼されたのだろう。兼日だから当座の興で詠むのと違って、いつどこでどんな天気のどんな時刻でもいいように、場所や時間や天候を特定せず、貫之の心は知らないけど梅の花と、とても紀貫之には及ばないという謙虚な句に作り、貫之を幼名にすることで俳味を持たせたのだろう。

 切れ字は入ってないけど終止形の「ず」が事実上の切れ字になっている。

12、文章

 「文章の事、師のいはく、惣名を文章といふ也。序に、由-序、來-序、丙-序といふ三體あり。由は起るよしを書、來は是より先の事を書、内はその書の内の事書也。此三體を一つにして序一ツにも書る也。跋は序を猶委しく云たる物也。ふみとまりて委しくするの心也。序跋ともに年號月を書。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.92)

 

 これは俳書に記す序と跋の書き方になる。

 序の三体に何か出典があるのかどうかはよくわからない。由は由来を書く。来は抱負といっていいのか。内は内容の解説になる。

 芭蕉の『阿羅野』ノ序を例に取るなら、

 

 「尾陽蓬左、橿木堂主人荷兮子、集を編て名をあらのといふ。」

 

までが由、

 

 「何故に此名有事をしらず。予はるかにおもひやるに、ひとゝせ、此郷に旅寐せしおりおりの云捨、あつめて冬の日といふ。其日かげ相續て、春の日また世にかゝやかす。げにや衣更着、やよひの空のけしき、柳櫻の錦を争ひ、てふ鳥のをのがさまざまなる風情につきて、いさゝか實をそこなふものもあればにや。」

 

までが丙、残りの、

 

 「いといふのいとかすかなる心のはしの、有かなきかにたどりて、姫ゆりのなにゝもつかず、雲雀の大空にはなれて、無景のきはまりなき、道芝のみちしるべせむと、此野の原の野守とはなれるべらし。」

 

の部分が来になるのだろう。そして「序跋ともに年號月を書」とあるように、最後に、

 

 「元禄二年弥生」

 

と記す。

 ただ、俳書の序文がどれもこのような構成を持っているわけではない。

 其角の『猿蓑』の序は、

 

 「俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起べき時なれや。幻術の第一として、その句に魂の入ざれば、ゆめにゆめみるに似たるべし。久しく世にとゞまり、長く人にうつりて、不變の變をしらしむ。五徳はいふに及ばず、心をこらすべきたしなみなり。彼西行上人の、骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を吹やうになん侍ると申されける。人に成て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法のをろそかに侍にや。さればたましゐの入たらば、アイウエヲよくひゞきて、いかならん吟聲も出ぬべし。」

 

までが来、

 

 「只俳諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。これを元として此集をつくりたて、猿みのとは名付申されける。是が序もその心をとり魂を合せて、去来凡兆のほしげなるにまかせて書。」

 

が由になる。

 

 「五字七字書は長哥の格也。七五三などゝ地の詞亂に書。あるひは對ある時は必對を置く。古事を置時は古事の對、野山、水邊、生類等おのおの對、同前也。詞書その書様和にならひなし。漢には其綾もある事と也。記は其物を記すの心。格は序跋に同じ。意の違のみ。銘は前に同じ。意の違のみ。賛はほむるの心也。卽山吹に句をする時は、山吹をほめて賛也。山吹を褒美の義理也。惣而文章に書時、四五字四五字に書、大かたの格也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.92)

 

 「五字七字書は長哥の格也。七五三などゝ地の詞亂に書」は字数のことだろう。奇数律が軽く聞こえるのは二拍で刻んだ時に一拍分の余白が生じるからで、偶数率だと余白がなくなるので言葉が詰まって重く聞こえる。まら、七五を基調としてフレーズに時折八六の字余りがあると、そこで三連符が刻まれ、独特なフローを生み出す。

 実際の俳文を見ると、七五調というのはあまりない。

 『阿羅野』の序でいうなら、最初の「尾陽蓬左、橿木堂主人荷兮子、集を編て名をあらのといふ。」は偶数が多く重々しく始まる。続く「何故に此名有事をしらず。予はるかにおもひやるに」も五八三、五六と奇数偶数を交互に挟み、適度な重さを保っている。

 対を置くといのは『阿羅野』の序だと「柳櫻の錦を争ひ、てふ鳥のをのがさまざまなる風情につきて」「姫ゆりのなにゝもつかず、雲雀の大空にはなれて」がそれになる。

 「詞書その書様和にならひなし。漢には其綾もある事と也。」は句の前に添える文章で、

 

    贈洒堂

   湖水の礒を這出たる田螺一疋、芦間の蟹のは

   さみをおそれよ。牛にも馬にも踏まるゝ事な

   かれ

 難波津や田螺の蓋も冬ごもり    芭蕉

 

は和、

 

   題去来之嵯峨落柿舎二句

 豆植る畑も木べ屋も名処哉     凡兆

 

は漢になる。

 「記は其物を記すの心。」の記はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」が詳しい。

 

 「文章の一体。本来、記には記録、記述などの意味があり、筋道たてた記述に重点を置く文体で、この名目の源流としては古く『周礼(しゅらい)』の「考工記」、『礼記(らいき)』の「学記」「楽記」などがあり、その後、漢(かん)代の司馬遷(しばせん)の『史記』、楊雄(ようゆう)の『蜀記(しょくき)』、六朝(りくちょう)時代に下って陶淵明(とうえんめい)の『桃花源記(とうかげんき)』などが有名である。『文選(もんぜん)』は古代から6世紀までの詩文を集めて、39種の文体に類別しているが、まだ文体としての「記」はない。唐代の中ごろ、8~9世紀に、韓愈(かんゆ)、柳宗元(りゅうそうげん)らの古文家によって盛んに書かれるようになり、意識的にこの文体が確立された。

 記の題材のおもなものは、(1)建造物 たとえば韓愈の「新たに滕王閣(とうおうかく)を修むる記」、曽鞏(そうきょう)の「宜黄県学の記」など、(2)山水遊覧 たとえば柳宗元の「黄渓に遊ぶ記」、蘇軾(そしょく)の「桓山(かんざん)に遊ぶ記」など、(3)書画・器物 たとえば韓愈の「画記」、欧陽修の「仁宗御飛白の記」など、であるが、こうした客観的な事柄の記述のなかに、作者の思想、感情が寓(ぐう)されているのはいうまでもない。(4)人間記録 たとえば王勔(おうべん)の『古鏡記』、元稹(げんしん)の『会真記(かいしんき)』など、この類の文語小説群も、本来は虚構としてでなく、事実の報道であるかのように意識されていたという。元(げん)代、明(みん)代に下ると、(5)小説・戯曲 たとえば『西遊記(さいゆうき)』『西廂記(せいしょうき)』『琵琶記(びわき)』などの題名へと拡大され、明代の戯曲を集めた『六十種曲』にも全部「記」が付けられている。[杉森正弥]」

 

 芭蕉の『幻住庵ノ記』『十八楼ノ記』や去来の『落柿舎ノ記』は(1)になる。「格は序跋に同じ。意の違のみ。」は文章の書き方は序跋と同じだが内容が違うということか。

 「銘は前に同じ。意の違のみ。」の銘はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「中国の韻文の文体の一種。本来は鼎など日用の器物に彫りつけて,行動の戒めとすることばであった。《大学》に見える殷の湯王の〈盤銘〉などがそれである。多くの場合4字句から成り,偶数句で押韻する。のち石に刻んで人の功績を賞賛し記念する碑や,墓誌の韻文部分を指してまた〈銘〉と称するようになった。この種の銘は頌や賛に共通する性質を持つ。散文で述べられた意をうけて韻文で簡約にまとめるのである。銘文【興膳 宏】」

 

とある。日本ではコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の、

 

 「① 金石、器物などに事物の功績をたたえ、来歴などをしるしたもの。漢文体のものは、各句の字数を同じにし、韻を踏んだもの。また、一般に、物に刻みしるした文。」

 

のことで、許六編の『風俗文選』に「銘類」があり、芭蕉の『机ノ銘』、嵐雪の『茶碗ノ銘』などがある。また、ここには、

 

   「座右ノ銘  芭蕉

 〇人の短をいふ事なかれ

  己が長をとく事なかれ

        銘に云ク

    〽ものいへばくちびるさむしあきのかぜ」

 

も収録されている。「座右の銘」という言葉は「@DIME」2020.09.10に「座右の銘は、古代中国の詩人であった崔瑗(さいえん)が記した、『座右銘』という文章が由来であるとされています。」とある。

 「賛はほむるの心也。卽山吹に句をする時は、山吹をほめて賛也。山吹を褒美の義理也。」の賛はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「讃とも書く。漢文の文体の一種。人または事物を称揚する意味で,元来は神明に捧げる辞。絵画では画面の中に書かれた詩,歌,文をさす。中国画で書画一致の思想が発展するにつれて宋時代に完成し,これが日本に伝えられ,特に室町時代の頂相 (ちんぞう) や水墨画に盛んに行われた。画家自身が書くのを自賛,賛文を書くことを着賛,賛を求めることを請賛という。」

 

とある。『風俗文選』には「讃賛類」としてまとめられている。そのなかに、

 

   「西行上人ノ像讃  芭蕉

 〇すてはてゝ。身はなきものとおもへども。雪のふる日は。

     さふくこそあれ。花のふる日は。

     うかれこそすれ。」

 

の文がある。

 「惣而文章に書時、四五字四五字に書、大かたの格也。」というのはおそらく漢文で書く場合をいうのであろう。銘の所に「多くの場合4字句から成り」とあり、賛も中国のものは四字句から構成された。ただ、日本では漢文の字数には特にこだわってないようで、去来の兄、向井元端の『題芭蕉翁國分山幻住庵記之後』は、

 

 何世無陰士。以心隠為賢也。何處無山川。風景因人美也。

 間讀芭蕉翁幻住庵記。乃識其賢且知山川得其人而益美矣。

 可謂人与山川共相得焉。廼作鄙章一篇歌之曰。

 

といった文体になっている。

13、句合

 「句合判の事、衆義判と云は、連中の打寄詮儀批判するを云也。蛙合は衆義判の格也。故に判者もしかとなし。ほん判といふ時は、判者奥に跋にても又序にて書なり。句引までも付る也。哥に哥合有、卽座の判、兼而の判もあり。卽座の判は左右に文臺を立て判者あり。難陳あつて判者是を聞、それにもかゝはらず判を書也。巻頭は多くは持のもの也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.92~93)

 

 仙化撰『蛙合』(貞享三年刊)は芭蕉の古池の句を発表するために企画されたような句合で、二十番四十一人が参加している。その跋に、

 

 「頃日會深川芭蕉菴而群蛙鳴句以衆議判而馳禿筆青蟾堂仙化子撰焉乎」

 

と「衆議判(しゅぎはん)」が明記されている。

 これに対し宗房撰『貝おほひ』(寛文十三年刊)は宗房(後の芭蕉)判、不卜撰『續濃原』(貞享五年刊)は「判者四人、春素堂、夏調和、秋湖春、冬桃青」とある。

 「ほん判」は本にしたときということで跋に記すとあるが、『續濃原』では巻頭に記されているから必ずしもこの限りではない。

 即座の判はその場にみんなで集まっての判で『蛙合』は即座の判と思われる。『續濃原』は芭蕉の跋に、

 

 「猶其しげき林に入て、左右にわかちて積て四節となす。判士よたりに乞て我其一にしたかふ」

 

とあるので、兼而(かねて)の判だったと思われる。

 「巻頭は多くは持のもの也。」というのは確かに『蛙合』『續濃原』、それに嵐蘭撰『罌粟合』もそうなっている。

 衆議判が今日の俳句で行われる互選と違うのは、敗者の句も発表されるという点で、これは重要だと思う。勝ち負けはあくまでゲームであり、句の発表権とは何ら関係ない。この点は今日の近代俳句も見習うべきで、互選で句の勝ち負けを決めるのは別に悪いことではないが、落選句も公開しないと選考が公正かどうか第三者がチェックすることができない。

14、懐紙

 「懐紙の事は、 百韵本式也。五十韵哥仙みな略の物也。連歌の古式は、表十句、名残の裏六句、月七句去、花裏表に一本宛、表の内名所必一有。今も清水連哥此如しとなり。師のいはく、古法表十句の例を守て、八句の後二句過る迄、表に嫌ふものゝ類、連歌に今にせず。俳にはくるしからず。連哥に龍虎鬼女さし出たる類、表の内嫌。俳諧にも鬼女はなりがたし。龍虎はくるしからず。その外人を殺す、切る、しばるなどの類は用捨すべし。百韵一所に過べからず、と師の云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.93)

 

 連歌の古式はよくわからない。二条良基の時代には表八句、名残の裏八句になっていたと思う。

 早稲田大学図書館所蔵の伊地知鉄男文庫『明応二年三月九日於清水寺本式何人』は確かに初表十句、名残裏六句になっている。

 コトバンクの「連歌本式」の「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 連歌の式目で、「連歌新式」以前に定められた式目をいう。制定者に関しては、藤原為氏あるいは善阿(ぜんな)、道生を当てる説がある。現存の最古のものは一五世紀末に猪苗代兼載の定めたもの。」

 

とある。

 猪苗代兼載の定めたものについて金子金次郎著『連歌師兼載伝考』(一九七七、桜風社)には、「明応元年十二月 兼載作之云々」と奥に記した全部で十三項という簡単な連歌本式を制定しているとある。ただ、その制定の理由はわからないという。

 

 「すでに今日的意味を持たないはずの本式を、なんの必要があって制定したのかがわからないのである。もっとも、翌明応二年三月に、清水寺において、宗祇等と本式連歌の興行をしているから、そのためとも考えられるが、それでは充分な説明にならない。その本式連歌興行をも含めて、懐古的関心の所産といえば、説明は一応ついてしまうが、はたしてそれだけか、あるいはより積極的理由がありはしなかったか。たとえば、新式連歌のマンネリズムを打破するためとか、そこまでいわないにしても、なんらかの新味を求めたためとか、そういった理由がなかったかということであるが、今のところ不明という外はない。」(『連歌師兼載伝考』金子金次郎著、一九七七、桜風社p.99)

 

 上野白浜子著の『猪苗代兼載伝』(二〇〇七、歴史春秋社)には、「兼載は連歌本式の終りに『右の外応安新式の如し』と断り書を添えているから」(p.97)と書いているから、本式とはいっても新式に十三項目の本式要素を復活させただけのものだったのだろう。

 それで一つ謎が解けたのは貞享二年六月二日東武小石川ニおゐて興行の「賦花何俳諧之連歌」で、出羽尾花沢の清風をゲストに迎え、其角、嵐雪、素堂、才丸、コ齋といったこの頃の江戸を代表する豪華なメンバーをそろえての興行だったのだが、花の定座の位置が二句後ろにずれているのが気になっていた。この百韻に限って何らかの理由で「本式」を採用してたなら理解できる。ここでは「花裏表に一本宛」が裏表両方に花と解されている。

 『三冊子』に「今も清水連哥此如し」とあり、芭蕉も一度はこの方式を取り入れたとするなら、本式は兼載の時代に突発的に復活したのではなく、新式制定後もローカルルールとして清水寺をはじめとしてあちこちに残っていて、清水寺で興行する際に新式との妥協案として、兼載が新式に付け加えるような形の本式を作ったのかもしれない。

 『応安新式』には月は七句可隔物だが、花は一座三句で似せ物の花このほかに一句で懐紙をかふべしとある。表裏一本というのは表裏合わせて一本の意味なら「懐紙かふべし」と一致するが、小石川での「賦花何俳諧之連歌」を見る限りでは表に一句裏に一句になっている。

 紹巴の『連歌初学抄』には式目篇とは別に「一、近代一懐紙、引返之第二句マデハ恋・述懐・名所等猶如面不可付之」とある。新式にはこのルールはないが、本式があちこちでローカルルールとして残ってたとすれば、それを取り入れたとも思われる。春秋を三句以上、恋を二句以上続けるというルールも、新式に取り入れられなかったものの、本式の名残で守られていたのかもしれない。

 「連哥に龍虎鬼女さし出たる類、表の内嫌。俳諧にも鬼女はなりがたし。龍虎はくるしからず。」とあるのは、前にも述べた雅語ではない言葉だからで、古代の物語類には登場するし、「女」は八代集の詞書には頻繁に登場する言葉だが歌には用いられていない。恋を表十句まで避けるのと同様、こうした言葉を避けているが、俳諧では龍と虎はよしとする。とはいえ、俳諧は俗語のものだから発句にこうした言葉が使われることも多い。

 「人を殺す、切る、しばるなどの類は用捨すべし。百韵一所に過べからず」というのは一種の暴力シーン規制のようなものと考えた方がいい。発句では、

 

 切られたる夢は誠か蚤の跡     其角

 

のように用いられることもある。この場合は夢落ちで救われる。

 「殺す」は延宝六年の「塩にしても」の巻の三十二句目の、

 

   去男かねにほれたる秋更て

 鶉の床にしめころし鳴ク      春澄

 

があり、「切る」は元禄五年の「青くても」の巻二十五句目の、

 

   我が跡からも鉦鞁うち来る

 山伏を切ッてかけたる関の前    芭蕉

 

の例がある。前者は本当に殺すのではなく「絞め落とし」のこととも取れる。後者は謡曲『安宅』による。

 鬼に関しては天和二年の「詩あきんど」の巻四句目に、

 

   干鈍き夷に関をゆるすらん

 三線○人の鬼を泣しむ       其角

 

の例がある。

 

 「又、戀の詞、述懐の類、祝言に云たる句は、表の内いかヾ侍らん、とたづねる時、師のいはく、句によるべし。文字はくるしからず。祝言にいひなすとても、人のうえに云ばいよいよ述懐也。花のさびしきの類はくるしからず。崩し壁に下る夕貌などゝ全の貧家を移す句は用捨すべし。他人の句はとがむまじと也。又、戀無常其外嫌ふ古事、本祝を下心にして、表にあらはさず。又、他物のうへにかり用ひたるなどの句の類、いかヾ侍らんと云ば、師のいはく、大形は表に嫌ふべし、事にもよるべき事ながら、いづれとても心嫌也。詞に出さずして、心の下に嫌ふ事を持たるは作者清からず。心きたなし。一向にうち出て云たるかた然るべし。されども表の躰にあらざれば、常にくるしからず、うち出せというふにはあらずと云り。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.93~94)

 

 この辺りは初表に嫌う句について述べている。裏二句にまでは及んでいない。恋、述懐、祝言は言葉だけで実質的にその意味の句になってなければい良しとする。

 談林時代には延宝六年の「わすれ草」の巻の七句目に、

 

   紙燭けしては鶉啼く也

 ああ誰じや下女が枕の初尾花    桃青

 

八句目に、

 

   ああ誰じや下女が枕の初尾花

 百にぎらせてたはぶれの秋     千春

 

と恋を連ねている例はある。

 『冬の日』「狂句こがらし」の巻の八句目は、

 

   わがいほは鷺にやどかすあたりにて

 髪はやすまをしのぶ身のほど    芭蕉

 

は「しのぶ」という恋の詞はあるが、前句と合わせると恋の意味ではない。次の句で、

 

   髪はやすまをしのぶ身のほど

 いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五

 

と恋に展開する。

 貞享二年の「何とはなしに」の巻も同様、七句目に、

 

   酒飲む姨のいかに淋しき

 双六のうらみを文に書尽し     芭蕉

 

と恋の詞を出し、八句目で、

 

   双六のうらみを文に書尽し

 琴爪をしむ袖の移リ香       叩端

 

と恋に展開する。

 貞享四年の「ためつけて」の巻も、七句目に、

 

   もう山の端に月の一ひろ

 きぬぎぬや烏帽子置床忘れけり   越人

 

と恋に展開する。

 こうした例は他にもあり、恋は初表だけ控えれば良かった。

 「崩し壁に下る夕貌」のような句は貧家というより廃墟を連想させるが、極端な貧を表す句は表六句には見当たらない。「狂句こがらし」の巻十二句目の、

 

   影法のあかつきさむく火を燒て

 あるじはひんにたえし虚家     杜国

 

のような句は表六句にはふさわしくないということか。

 また、表六句に嫌うテーマを言葉の裏に隠して表に出さなければいいのかという問いに、芭蕉は「大形は表に嫌ふべし、事にもよるべき事ながら、いづれとても心嫌也。詞に出さずして、心の下に嫌ふ事を持たるは作者清からず。心きたなし。一向にうち出て云たるかた然るべし。」と答える。ただし、表六句以外なら良しとする。

 

 「又古今の人の名、表に出す事いかヾ侍らんとたづねしに、師の云、今の人の名はつゝしむべし、古人の名は物によりてくるしかるまじ。されども、好がたし。心嫌也と云り。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.94)

 

 たとえば「狂句こがらし」の巻第三の、

 

   たそやとばしるかさの山茶花

 有明の主水に酒屋つくらせて    荷兮

 

のような架空の人物なら問題ない。二十二句目の、

 

   ぬす人の記念の松の吹おれて

 しばし宗祇の名を付し水      杜国

 

の句は古人の名ということになる。

 延宝五年の「あら何共なや」の巻の十句目、

 

   きき耳や余所にあやしき荻の声

 難波の芦は伊勢のよもいち     桃青

 

の「よもいち」は当時の有名な占い師だったという。

 延宝六年「わすれ草」の巻の十一句目、

 

   あるひはでつち十六羅漢

 又男が姿かたちはかはらねど    千春

 

の「又男」も当時有名な物真似芸人だったという。

 貞享四年の「箱根越す」の巻の三十三句目、

 

   ねぶたき昼はまろび転びて

 旅衣尾張の国の十蔵か       芭蕉

 

の十蔵は越人のこと。

 有名な古人や武将、物語の登場人物を読むことは多いが、当代の人物を詠むことは少ない。俳諧は笑いを取るものだけに、人を名指しでネタにすることには遠慮があったのだろう。

 

 「懐紙に戀をなくていかヾしく、むかしより沙汰し來る。なくてかなはざる事か。好む心はいかヾにと云ば、此事は知て大切の事也。懐紙に戀を目立る事、神代より日本はじまるの例也。戀なくては詮なき事也。つゝしむべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.94)

 

 これは『去来抄』「故実」に「又また五十員百員といへども恋の句なければ一巻とは云はずしてはしたものとす。」とあるのと同じ。

 和歌の道はイザナギ・イザナミの「阿那迩夜志愛袁登古袁」「阿那邇夜志愛袁登売袁」始まるように、江南系の民族に広く見られる結婚相手を決めるための歌垣に起源がある以上、一貫して色好みの道であり、連歌俳諧も恋を欠かすことはできない。黄河文明が盤古のような造物主がいて宇宙を作り、詩も風化・風刺を旨とするに対し、長江文明は宇宙が男女の交わりから生まれたものとし、恋をすべての中心に据える。

15、発句

 「師のいはく、たとへば哥仙は三十六歩也。一歩もあとに歸る心なし。行にしたがひ、こころの改めはたゞ先へ行心なれば也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.94)

 

 歌仙に限らず長連歌は後戻りをしない。歌仙は三十六歩、五十韻は五十歩、百韻は百歩也。

 打越の情や趣向を引きずらない。本歌も本説も三句に渡らない。一句一句新しい句を付けて行く。決して振り返ることはない。それが長連歌の歩みだ。

 連歌で「輪廻」と呼ぶのは、付け句は一句一句が解脱だということだ。前句の人生を引きずることなく、前句を捨て去り成仏してゆく歩みだ。今生に未練を残すなかれ。

 

 「發句事は一座、巻の頭なれば初心の遠慮すべし。八雲御抄にも其沙汰有。句姿も高く位よろしきをすべしと、むかしより云侍る。先師は懐紙のほ句かろきを好れし也。時代にもよるべき事にや侍らん。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.94~95)

 

 『八雲御抄』の沙汰というのは、「新古今和歌集の部屋」というブログにある「八雲抄巻第一 正義部」のテキストに、「發句は、猶當座可然人得之。無何人すべからず。」とある。

 「句姿も高く位よろしきをすべし」の出典はわからないが、紹巴の『至寶抄』には「発句は百韻の初に候へば、如何にも長高く幽玄に打ひらめきに無きやうに」とある。『去来抄』「先師評」には「ほ句長高く意味すくなからずと也。」とある。ここでは、

 

 赤人の名ハつかれたりはつ霞    史邦

 

の句を例に挙げている。

 「長高(たけたか)く」は声高ということで、力強く言い切る、テンションが高いというニュアンスがあり、紹巴の「打ひらめきに無き」も気持ちがぶれていないということだろう。

 「懐紙のほ句かろき」は興行の際の発句は当座の景、その日の気候、連衆の顔ぶれなどを見て軽い挨拶とすべきということで、古い池の句、閑かさやの句のような興行と関係なく何年も練りに練った句というのもあるが、興行の即興で読んだ立句でも良い句はいくらでもある。

 二条良基の『連理秘抄』には、

 

 「只あさあさと中々当座の体などを見るやうにするも一の体也。しかあれども如何にも発句は力入て一かど、その詮のあるがよき也、又当座の景気もげにと覚ゆるやうにすべし、いかにも心を廻してすべき也」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.37)

 

とある。

 宗祇の『宗祇初心抄』には、

 

 「発句などの事、当座にてさす事ままあり、さ様の時は力及ず、発句をする事にて候、それは其處の当座の体、又天気の風情など見つくろひ、安々とすべし、さ様に候へば当座出来たる発句と聞えておもしろく候」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.44)

 

とある。

 芭蕉の発句でも、

 

 風流の初めや奥の田植歌      芭蕉

 

の句は須賀川でこの俳諧興行(「風流」はしばしば俳諧と同義で用いられる)をご当地の奥の田植歌の興で始めましょうというだけの句だったが、後世芭蕉の名句の一つに数えられている。

 

 文月や六日も常の夜には似ず    芭蕉

 

もまた文月六日の直江津での興行で、そのまま日付を詠み、七夕の前日ということと合わせて今夜の興行が常のものではないと賛辞を贈るものだった。

 

 「又、古來より新宅の會に焼など火の噂、追悼にくらき、道迷ふ、罪、とが、船中に歸る、しづむ、浪風等の類いむき心遣ひと也。五躰不具の噂、一座に差合事思ひめぐらすべし。ほ句のみに不限、其心得あるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.95)

 

 まあ、これは基本的に挨拶だから、相手が不快に思うような言葉は避けるというのは社会生活の基本だ。ただ、あまり神経質になっても行けない。笑える範囲なら良しとすべきであろう。

 五体不具の噂に関しては、

 

 座頭かと人に見られて月見哉    芭蕉

 

の句がある。この句は興行で用いられたかどうかはわからない。

 「ほ句のみに不限」とあるが、付け句では『冬の日』の「狂句こがらし」の巻十四句目に、

 

   田中なるこまんが柳落るころ

 霧にふね引人はちんばか      野水

 

の句がある。こうした句も千句に一句というところか。

16、脇

 「脇は亭主のなす事むかしより云。しかれども首尾にもよるべし。客は句とて、むかしは必、客より挨拶第一にほ句をなす。脇も答るごろくにうけて挨拶を付侍る也。師のいはく、脇、亭主の句を云る所、則挨拶なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.95)

 

 脇は亭主、つまり会場の提供者、ホストが付け、発句は客、つまりゲストが詠むというのが興行での基本になるが、もちろん必ずというわけではない。「首尾」というのはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 始めと終わり。始めから終わりまで。終始。「首尾を整える」

  2 物事の成り行きや結果。「事の首尾を説明する」「首尾は上々」

  3 物事がうまくまとまるように処理すること。「会えるようにうまく首尾してやる」

 

とある。その場の成り行きでは、ということであろう。

 たとえば貞享四年、『笈の小文』の旅で尾張鳴海の菐言亭で行われた興行は、

 

 京まではまだなかぞらや雪の雲   芭蕉

   千鳥しばらく此海の月     菐言

 小蛤ふめどたまらず袖ひぢて    知足

 

とゲストの芭蕉が発句を詠み、亭主の菐言が脇を付ける。

 その翌日如意寺如風亭で興行は、

 

 めづらしや落葉のころの翁草    如風

   衛士の薪と手折冬梅      芭蕉

 御車のしばらくとまる雪かきて   安信

 

と亭主が発句を詠み、ゲストの芭蕉が脇を付けている。これは知足亭で如風が詠んだ発句があったため、それを立句としての興行だった。

 この後の名古屋荷兮亭での興行は、

 

 凩のさむさかさねよ稲葉山     落梧

   よき家続く雪の見どころ    芭蕉

 鵙の居る里の垣根に餌をさして   荷兮

 

だったが、これは芭蕉が名古屋に来ていると聞いて岐阜から落梧がわざわざ訪ねて来たため、落梧を発句とし、芭蕉を脇とし、亭主の荷兮が第三を付けている。

 旅立ちの時の餞別の場合は餞別句が発句となり、旅立つ人が脇になる。『笈の小文』の旅立つ芭蕉への送別として露沾邸で興行された時は、

 

 時は秋吉野をこめし旅のつと    露沾

   鳫をともねに雲風の月     芭蕉

 

となる。

 『奥の細道』の旅の山中温泉で曾良が先に伊勢長島へ向かうときには、

 

 馬かりて燕追行別れかな      北枝

   花野みだるる山のまがりめ   曾良

 月よしと角力に袴踏ぬぎて     芭蕉

 

と北枝が餞別句を詠み、曾良がそれに答えている。

 

 「雪月花の事のみ云たる句にても、あいさつの心也との教也。ほ句に三月に渡る景物出る時は、わきにて當季を定むべし。是は連歌の習也。俳にも其心遣ひ也。師のいはく、ほ句に、神祇、尺教其他一事ある時は應じて脇すべし。たとへ詞に出さずとも心にはあるべし。但水祝などの季一通りにして云句は、脇に戀なくてもあるべし。たゞほ句に依べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.95)

 

 これは例えば『炭俵』の「雪の松」の巻は、

 

 雪の松おれ口みれば尚寒し     杉風

   日の出るまへの赤き冬空    孤屋

 

で、発句は雪の松の寒々とした景を詠んだだけで挨拶の寓意を欠いているが、脇は発句を「寒いね」という挨拶として捉え、寒いけど赤い空に雪も止んで暖かくなるといいですねという気持ちを込める。実際に日の出る前に興行をしたわけではないだろう。景に景を付ける中にも挨拶の心は忘れない。

 元禄四年堅田での興行は、

 

   堅田既望

 安々と出でていさよふ月の雲    芭蕉

   舟をならべて置わたす露    成秀

 

で、発句はちょうど折から十六夜の月がそれほど待たずに出てきたものの、すぐに雲に隠れてしまいましたね、という見たものそのまんまの特に寓意のない発句に、「舟をならべて」とみんなここに集まって芭蕉さんを待ってたのですよと、挨拶で応じている。

 『ひさご』の「木の本に」の歌仙も、

 

   花見

 木のもとに汁も膾も桜かな     芭蕉

   西日のどかによき天気なり   珍碩

 

というメインの料理だけでなく脇役の汁も膾もみんなここでは桜のように輝いているということで、花を見る心に貴賤の差はなく、花のもとではすべての人が等しくなるという発句に対し、本当に長閑で良い天気ですねと挨拶の心で応じている。

 「ほ句に三月に渡る景物出る時は、わきにて當季を定むべし」というのは実際にはそんなに守られていない。三月に渡る景物で応じることも多い。

 

 何の木の花とは知らず匂ひ哉    芭蕉

   こゑに朝日をふくむ鶯     益光

 

も「鶯」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では「兼三春物」とされている。

 無季の句も無季で応じるように、三期の句は三期の句で応じないと、発句の季の不備を咎めているようでかえって失礼なのではないかと思う。

 無季に無季で応じる例は、

 

 何となふ柴ふく風もあはれなり   杉風

   あめのはればを牛捨にゆく   芭蕉

 

 かちならば杖つき坂を落馬哉    芭蕉

   角のとがらぬ牛もあるもの   土芳

 

などがある。

 「ほ句に、神祇、尺教其他一事ある時は應じて脇すべし」の神祇の例としては、『笈の小文』の旅の途中、熱田での、

 

   ふたたび御修覆なりし熱田の社にまうでて

 磨なをす鏡も清し雪の花      芭蕉

   石敷庭のさゆるあかつき    桐葉

 

の句がある。玉砂利を敷き詰めた境内の身が引き締まるような寒さで、発句の厳粛な雰囲気を受ける。

 また、元禄元年の暮、

 

 皆拝め二見の七五三をとしの暮   芭蕉

   篠竹はこぶすすはきの風    岱水

 

の句も、すす払いで清める様で伊勢の神風の清さに重ねている。

 釈教は談林の句だけど、

 

 いと凉しき大徳也けり法の水    宗因

   軒を宗と因む蓮池       磫畫

 

の例がある。発句の「法の水」に「蓮」で応じる。

 「水祝」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 婚姻習俗の一つ。婚礼の時、または翌年の正月に、親戚・友人などが集まって、新郎に水を浴びせて祝福するもの。転じて、新郎・新婦に対して若者が水をかけて囃し、騒ぐこと。水浴びせ。水浴ぶせ。水かけ。水かけのことぶき。水かけ祝。水の賀。《季・新年》

 ※俳諧・時勢粧(1672)一「かごと計かけしや聟の水祝〈風虎〉」

 

とある。風虎は内藤風虎で陸奥国磐城平藩三代藩主内藤義概で宗因に俳諧を学んだ。露沾の父になる。

 其角の『五元集』にも、

 

 こなたにも女房もたせん水祝    其角

 

の句があるが、脇は不明。

17、脇の付け方

 「對付、違付、うち添、比留の類、むかしより云置所也。師云、第一ほ句をうけてつりあひ専に、うち添て付るよし。句中に作を好む事あるべし。留りは文字すはり宜すべし。かな留メ自然にある。心得口決あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.95~96)

 

 「むかしより云置所」というのは紹巴の『連歌教訓』に、

 

 「一、脇に於て五つの様あり、一には相対付、二には打添付、三には違付、四には心付、五には比留り也、(此等口伝、好士に尋らるべし)、大方打添て脇の句はなすべき也」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.203)

 

とある。

 そのあとうち添の手本として、

 

 年ひらけ梅はつぼめるかたえかな

   雪こそ花とかすむはるの日

 梅の薗に草木をなせる匂ひかな

   庭白妙のゆきのはる風

 ちらじ夢柳に青し秋のかぜ

   木の下草のはなをまつころ

 

が挙げられている。

 四に心付けがあるところから、これは物付けで受けることをいうと思われる。

 「年ひらけ」の句は新春の句で、梅に雪を添える。花は咲いてないが、梅に添う雪が花となる。

 「梅の薗」もまた「梅」に「ゆき」、「薗」に「庭」と四手に受ける。

 「ちらじ夢」の句は「柳」に「木」、「秋のかぜ」に「はなをまつ」と受ける。

 連歌の頃にはこうした発句を四手に受けることが多かった。『応仁二年冬心敬等何人百韻』も、

 

 雪のをる萱が末葉は道もなし    心敬

   ゆふ暮さむみ行く袖もみず   宗祇

 

のように、雪に夕暮れの寒さ、道に行く人もないと四手にしっかりと付けている。

 これに対し、紹巴の同席した『天正十年愛宕百韻賦何人連歌』の場合は、

 

 ときは今天が下しる五月哉     光秀

   水上まさる庭の夏山      行祐

 

のように、「天(雨)が下しる」に「水上まさる」と原因結果の関係で意味(心)で付けている。

 相対付けは対句のように反対のものを付けること。違え付けは反対のものを出しながらも場面転換や季節の移りなどで一つの意味を持たせるつけ方をいう。脇ではあまり用いられない。通常の付け句では、連歌では、

 

   唐土も天の下とやつらからん

 すめば長閑き日の本もなし     宗祇

 

のように唐土も日本も大変だという対句になっている。

 俳諧では、貞享二年の鳴海知足亭での「杜若」の巻、二十句目、

 

   燕に短冊つけて放チやり

 亀盞を背負さざなみ        芭蕉

 

山中三吟の二十四句目、

 

   つぎ小袖薫うりの古風也

 非蔵人なるひとのきく畠      芭蕉

 

などがある。特徴としては「唐土・日の本」「燕・亀」「薫うり・非蔵人」のような対になる言葉がある。

 俳諧の脇の相対付けの数少ない例としては、『冬の日』の「炭売の」の巻、

 

 炭売のをのがつまこそ黒からめ   重五

   ひとの粧ひを鏡磨寒      荷兮

 

が挙げられる。

 これに対し違え付けは、たとえば梵灯の『長短抄』の「救済、周阿一句付」と呼ばれる、前句付け的な遊びに、

 

   春夏秋に風ぞかわれる

 雪のときさていかならむ峯の松   侍公

 花の後青葉なりしが紅葉して    周阿

 

とある侍公(二条良基)の句は「春夏秋」に「冬」といわず、風が変わっていかならむと心で付けているので違え付けになる。

 周阿の方は「春」に「花」、「夏」に「青葉」、「秋」に「紅葉」と四手(六手ともいうべきか)に付けている。

 俳諧では、『去来抄』にある芭蕉の、

 

   ぽんとぬけたる池の蓮の実

 咲花にかき出す橡のかたぶきて   はせを

   くろみて高き樫木の森

 咲花に小き門を出つ入つ      はせを

 

はいずれも違え付けになる。いずれも強引に花の定座に持っていきたい時の句といえよう。

 脇だと『文安月千句』(『千句連歌集 二』古典文庫 405)の、第七百韻、

 

 光をも天に満たる月夜哉      生阿

   初夕霜に野分たつ頃      良珍

 

は天に満ちる月夜に野分と違えて付けている。『顕証院会千句』の第四百韻、

 

 朝もよひきなる桜のは月哉     時述

   いくもとあらの萩の上露    俊喬

 

は「桜の葉月」に「萩の上露」と対句になり、相対付けになる。千句興行だと変化を付けるためにこういう付け方もあるのだろう。

 これで打添付心付相対付違付はわかった。あとは「五には比留り」だが、ネット上の「日本女子大学日本文学科蔵『連歌秘袖抄』の翻刻・紹介 白石美鈴」の紹巴『連歌秘袖抄』に、

 

 「一 比留の事 比そやとや余て聞也」」

 

とある、その前に、

 

 「一 こそ留の事

     田面の蛙つふつふとこそ

 こそ鳴とあまして聞句なり」

 

とある所から、「‥‥の比ぞや」の意味の句を「比」と省略した留め方と見ていいのだろう。

 最初のうち添えの例にあった、

 

 ちらじ夢柳に青し秋のかぜ

   木の下草のはなをまつころ

 

は「まつころぞや」と「ぞや」を補う必要がないので比留ではなく「うち添え」になるのだろうか。

 発句ではないが「応仁二年冬心敬等何人百韻」の九十二句目は、

 

   木がらしの空にうかるる秋の雲

 かりもうちわび暮れわたる比    満助

 

 「かりもうちわび暮れわたる比ぞや、木がらしの空にうかるる」と意味が通るので、こういうことなのか。単純に時候を添える比ではなく、原因となるような比ということか。

 「句中に作を好む事あるべし。」はあまりさらっと流しすぎず、機知に富んだ受け答えを良しとするということで、「留りは文字すはり宜すべし。かな留メ自然にある。」は文字止め(体言止め)の場合は発句脇を合わせた時きちんとそこで収まりがつくようにするということで、かな留メ(用言止め)も自然にそこで終わるようにする。

 たとえば、

 

 木の本に汁も膾も桜哉       はせを

   明日来る人はくやしがる春   風麦

 

は体言止めで、発句の花の散る情景に「明日来る人はくやしがる」と機知を利かせ、「春」の放り込みできれいに終わるように形を整えている。これに対し、

 

 木のもとに汁も膾も桜かな     芭蕉

   西日のどかによき天気なり   珍碩

 

は「しづこころなく花の散るらむ」の心で、「のどかに」という言葉にひと工夫があり、「天気なり」と力強く言い切ってきちんと収めている。

 

 「第一應對合體の心とおもふべし。作者心得べきは、先ほ句出ると、よく聞しめ、させる事見へずとも、作者より句意をあらはすやうに挨拶してよく聞ふせて脇すべし。心とゞかざれば無禮にして無下成事也。たとへば連哥のほ句は聯句の唱句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.96)

 

 「応対」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 相手になって受けこたえすること。客をもてなすこと。応接。

  ※懐風藻(751)釈智蔵「論雖二蜂起一、応対如レ流、皆屈服莫レ不二驚駭一」

  ※暗夜行路(1921‐37)〈志賀直哉〉三「一人で茶をつぎ客の応対をしてゐる二代木仙は」 〔春秋左伝‐襄公三一年〕」

 

とある。おもてなしの心をいう。

 「合体」もコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「② 心を一つに合わせること。

  ※本朝文粋(1060頃)一二・詰眼文〈三善清行〉「昔与レ卿同胞而生育、今与レ卿合体而行蔵、相共周施、漸六十余歳」

  ※保元(1220頃か)上「君臣合体するときは、四海太平にして、凶賊おこる事なし」

 

とある。

 脇は基本的に発句の主をもてなし、心を一つにすることを旨とする。発句を聞いたらその意味をよく考え、発句の裏に隠した意味が句の表に表れてなくても、脇はその意味に答えるように挨拶して、句の裏に隠し込んで脇とする。

 

 梅若菜まりこの宿のとろろ汁    芭蕉

 

という発句なら、単に東海道丸子宿の名物を言っているだけの句だけど、そこにはこれから江戸までの旅の間に至る所で梅を見るだろうし、芽生えたばかりの若菜も見ることだろう、そして宿では新鮮な若菜を食べることだろうし、そうそう丸子宿のとろろ汁も美味い頃だ、と江戸への旅路を羨んでみせて、乙州を喜ばそうという心遣いを読み取らなくてはいけない。そこで、

 

   梅若菜まりこの宿のとろろ汁

 かさあたらしき春の曙       乙州

 

と旅に必要な笠も新調し、江戸下向を楽しんできます、と発句の心に答える。

 句の裏を読むときには基本的に善意で受け取る。

 

 松茸やしらぬ木の葉のへばりつき  芭蕉

 

 この発句は元禄四年の句で、松茸を貰うと何だかよくわからない葉っぱがへばりついていることってあるよね、というあるあるネタの句で、元禄七年に支考が弟子の文代を連れてきた時にこの旧作を立句にしたが、そこに文代がへばりついたしらぬ木の葉だみたいな勘繰りはすべきでない。

 

   松茸やしらぬ木の葉のへばりつき

 秋の日和は霜でかたまる      文代

 

 前句を松茸に落葉の降りかかる晩秋の景として、秋の日和にも霜の降りる季節になってしまいました、と応じる。「かたまる」には芭蕉さんの前で緊張してますという意味もあるのだろう。芭蕉も文代のスキルの高さに納得したことだろう。

18、第三

 「第三は師の曰、大付にても轉じて長高くすべしとなり。或書に、留りの事、むかし沙汰なし。宗祇よりの格式也。常用る通りなり。疑の切字のほ句は、第三はね字にとめずと古來云り。うたがひの句二句去故也。覧はうたがひのはね字なり。句中に押へ字あり。〽や〽か〽いつ〽何などの類也。又句によりて押字なくてはねるあり。一字はね也。をらん、ちらんの類也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.96)

 

 「大付(おおつけ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「② 俳諧でおおまかな付け句の仕方。

  ※俳諧・三冊子(1702)白双紙「第三は、師の云く『大付にても、転じて長(たけ)高くすべし』と也」

 

とある。

 興行の際、発句は事前に主人に渡されていて、脇までは興行開始時に既に用意されている場合も多い。第三からは即興で付けるとなると、最初にあまり時間を費やしたくないのであまり細かく趣向を凝らしたりせず、大付けでもかまわないとされていた。ただ、発句の情を去り、「転ずる」ということは大事だった。

 第三というと、「て」留か「らん」留になることが多いが、式目で決まっているわけではない。ただ、て留らん留は宗祇の時代より古くから習慣化していた。脇の時にも引用した宗砌の時代の『千句連歌集 二』(古典文庫 405、一九八〇)の三千句を見ても、

 

 文安月千句 第一 発句「哉」脇「秋風」第三「て」

       第二 発句「哉」脇「雲井路」第三「て」

       第三 発句「月」脇「露」第三「て」

       第四 発句「かな」脇「明仄」第三「にて」

       第五 発句「清し」脇「漣」第三「て」

       第六 発句「都鳥」脇「友」第三「て」

       第七 発句「哉」脇「頃」第三「て」

       第八 発句「顔」脇「枕香」第三「て」

       第九 発句「秋」脇「大空」第三「て」

       第十 発句「哉」脇「て」第三「らん」

 文安雪千句 第一 発句「深雪」脇「ころ」第三「て」

       第二 発句「かせ」脇「こほれる」第三「て」

       第三 発句「雪」脇「ころ」第三「らん」

       第四 発句「かな」脇「て」第三「らん」

       第五 発句「雪」脇「空」第三「にて」

       第六 発句「雪」脇「らん」第三「て」

       第七 発句「山」脇「たふる」第三「て」

       第八 発句「はな」脇「竹」第三「て」

       第九 発句「なし」脇「しく」第三「て」

       第十 発句「哉」脇「かさなる」第三「にて」

 顕証院会千句第一 発句「柏」脇「声」第三「て」

       第二 発句「松」脇「葉かくれ」第三「て」

       第三 発句「枝」脇「霧」第三「て」

       第四 発句「哉」脇「露」第三「て」

       第五 発句「薄」脇「来る」第三「て」

       第六 発句「かな」脇「ころ」第三「らん」

       第七 発句「草」脇「秋風」第三「て」

       第八 発句「朝ねかみ」脇「秋」第三「に」

       第九 発句「秋」脇「覧」第三「て」

       第十 発句「哉」脇「本」第三「て」

 

 三十句中二十五句が「て」四句が「らん」一句が「に」で留まっている。

 ちなみに宗因判『大阪独吟集』十百韻は「らん、て、らん、て、て、て、らん、て、て、て」松意編『談林十百韻』は「て、て、し、らん、らん、に、らん、て、て、て」で「らん」が三割を占めている。

 本来第三はあまり迷わずに付けた方がいいので、判で押したようにて留にする傾向にあったのだろう。それ以外のはあえて変化を求めた結果ではないかと思う。

 「うたがひの句二句去」も式目ではない。確かに『千句連歌集 二』のて留四句は皆発句に治定の「かな」が用いられている。ただ、宗因判『大阪独吟集』の最初の幾音の独吟は、

 

 去年といはんこといとやいはん丑のとし

   庄屋のそののうぐひすの聲

 青柳も殿にやこしをかがむらん

 

で発句に疑いの言葉がある。

 

 「哉留りのほ句の第三にて留メせずとむかしより云り。是治定の哉にせずと也。花のさかり哉、月の光哉の類也。盛リにて、ひかりにてといふにかよふ也。先師のいはく、にてになるに留メくるしからず。にて留は嫌ふべしとなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.96)

 

 これのいう昔は宗砌や宗祇の昔ではなく紹巴の時代の昔ではないかと思う。紹巴の『連理秘曲抄』に、

 

 「一 発句かな留、にて かよひらる句の事

     梅遠く香を遣る水の流れかな

     水浅く根深芹の野沢哉

  右の発句、ながれ哉、野沢哉、治

  定したる句也。か様の句の類にては、

  第三にて留せぬ物也。又、発句

  のがらにより、たぐひ哉とも御入候はゞ、

  にて御座候故也。能々吟味して、第

  三の事肝要也。」

 

とある。『千句連歌集 二』のて留のうち三句が「にて」だが、そのうち二句の発句が「哉」で留まっている。跡一句は「か」という切れ字が用いられているが「か」は「哉」に適う。

 芭蕉は「にて」になるところを「に」迄で留めるのはいいが、「にて」で留めるのを嫌うという。

 芭蕉同座でにて留の第三は、貞享二年の、

 

 おもひ立木曾や四月のさくら狩   はせを

   京の杖つく岨の夏麦      東藤

 牛の子の乳をのむ日かげ閑にて   桂楫

 

 元禄三年「木の本に」の巻の、

 

 木の本に汁も膾も桜哉       はせを

   明日来る人はくやしがる春   風麦

 蝶蜂を愛する程の情にて      良品

 

 同じく元禄三年冬の、

 

 ひき起す霜の薄や朝の門      丈草

   柿の落葉をさがす焚付     支考

 月にまつ狸の糞をしるしにて    芭蕉

 

 元禄七年正月の、

 

 年たつや家中の礼は星月夜     其角

   筆紅梅をたたむ国紙      介我

 春も雪茶通の手前ゆたかにて    岩翁

 

 同五月の、

 

 世は旅に代かく小田の行戻リ    芭蕉

   水鶏の道にわたすこば板    荷兮

 草むしろ煙草を廻す斗にて     巴丈

 

の五例がある。このうち「木の本に」の巻が「哉・にて」で、あとは「や・にて」が三例、最後のは「に」で切れている。「にて」留自体の頻度が低く、避ける傾向にはあったのだろう。とはいえ厳密なものではなかったと思われる。

 

 「文字留、手爾葉留、自然にあり。古法口傳有事也。一説、古書にあるは、脇の句韵字留リゆへ、懐紙に文字留リならばざるやうに留也。若、脇、手爾葉にて留メば第三文字留にて留るとも云り。かくの事は達人に有。常の留をよしとす。是此道の習也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.96~97)

 

 韵字のことは、

 

 「一、韻字事

 物の名と(朝夕の字同之、他准之)詞の字と是を不可嫌、物の名と物の名打越を可嫌、詞の字つつ、けり、かな、らん、して如此類、打越可嫌之、他准之。」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.298)

 

と式目にあるが、『連歌新式古注集』(木藤才蔵編、一九八八、古典文庫)の「連歌新式永禄十二年注」に、

 

 「韻の字といふは、上句下句のとまりの字也。詩にはすこしかはりたり。連歌には、手尓於葉の字をも、韻の字といへり。又、歌に韻をふみてよめる時は詩におなじ。定家卿の歌に、繊の字にてよめる、

 面影のひかふる方にかへりみる都の山は月ほそくして

 してといふは、てにをはなればなり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.10)

 

とある。

 たとえば、水無瀬三吟の表八句、

 

 雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇

   行く水遠く梅匂う里      肖柏

 川風にひとむら柳春みえて     宗長

   船さす音もしるき明け方    宗祇

 月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏

   霜置く野原秋は暮れけり    宗長

 鳴く虫の心ともなく草枯れて    宗祇

   垣根をとへばあらはなる道   肖柏

 

の場合だと、「かな」「里」「て」「方」「らん」「けり」「て」「道」が韻字になる。打越、つまり「かな」「て」、「里」「方」、「て」「らん」、「方」「けり」、「らん」「道」など、同じ音の重複がなければ良しとする。

 「若、脇、手爾葉にて留メば第三文字留にて留るとも云り」というのも、第三の体言止めは見たことがない。「常の留をよしとす。是此道の習也。」つまり普通にみんながやっているように留めればいいと、これに尽きる。

 

 「第三は轉ずるを事とすれども、脇の句によるべし。違付取なし付等の句の時は、第三にて轉ずるにおよばざる事なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.97)

 

 これも違付取なし付等の脇は滅多にないので、あまり意味はない。

 

 「ほ句、戀、神祇等のものにて、脇是に應ずる時、第三に至り必是を轉じ、はなれてすべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.97)

 

 これも第三は転じるものと覚えておけば、自然にそうなる。

19、四句目

 「四句めはむかしより四句めぶりなど云て、やすくかるきをよしとす。師のいはく、重きは四句目の体にあらず、脇にひとし。句中に作をせずと也。古事、本説など嫌ふ事也。春秋の季のつゝき、四句目にて花月の句をする事必あるまじとの師説也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.97)

 

 四句目というと、

 

 一順の四句めぶり也一しぐれ    宗因

 

の句もあるように、さっと軽く付けるのが良しとされてきた。第三同様、基本的に序盤に時間を取りたくないという事情もあったからだろう。俳諧の笑いという意味で言えば、最初はくすぐりを入れて場を温めてからどかんどかんと笑わせに行くという、漫才の展開にも似ているのではないかと思う。

 四句目に月を出した例は天和三年夏の甲斐滞在中に見られる。

 

 胡草垣穂に木瓜もむ屋かな     麋塒

   笠おもしろや卯の実むらさめ  一晶

 ちるほたる沓にさくらを拂ふらん  芭蕉

   市に小言をになふあさ月    麋塒

 

 発句以下夏が三句続いた上、第三に「蛍」と夜分が出てしまったため、その流れで秋の月に転じることになった。夜分二句去りなので、ここで出さなければ六句目になる。五句目の定座を守ろうとすると夜分にならない朝の月、昼の月になる。好んで四句目に月を出すことはないが、流れで出すことはある。

 『冬の日』の「炭売の」の巻も四句目に月がある。

 

 炭売のをのがつまこそ黒からめ   重五

   ひとの粧ひを鏡磨寒      荷兮

 花棘馬骨の霜に咲かへり      杜国

   鶴見るまどの月かすかなり   野水

 

 これも発句から三句冬が続いた後で、式目上の制約はないが、花棘の返り咲きの景に月を出さないのは勿体ないというところだろう。

 貞享二年三月熱田での興行も、

 

 つくづくと榎の花の袖にちる    桐葉

   独り茶をつむ薮の一家     芭蕉

 日陰山雉子の雛をおはへ来て    叩端

   清水をすくふ馬柄杓に月    閑水

 

とある。これは第三に「日」の文字があり、月と打越を嫌うため、四句目か六句目かの選択になる。

 貞享三年の「日の春を」の百韻も、

 

 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉    其角

   砌に高き去年の桐の実     文鱗

 雪村が柳見にゆく棹さして     枳風

   酒の幌に入あひの月      コ斎

 

とあり、これには芭蕉自身による『初懐紙評注』があり、そこでは、

 

 「四句目なれば軽し。其道の様体、酒屋といつもの能出し侍る。幌は暖簾など言ん為也。尤夕の景色有べし。」

 

とあり、特に月を出したことを咎めてはいない。

 こういうわけで、四句目の月はかなりの頻度でみられるもので、杓子定規にならない方がいい。ただ、さすがに四句目の花はない。

 宗牧の『四道九品』には、

 

 「四句目は脇句を吟じて輪廻なきやうにすべし、如何によく付たる句なりとも、同体の句三句続きては以の外わろき事也、ふるき口伝の内にも無油断可心事と侍り、句毎に心を改めて行様にすべき也、」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.207)

 

とある。細かいことは考えずに、輪廻にならないようにすればいい。

 思うに戦国の世が終わる辺りから連歌は形式主義に陥り、式目以外のローカルルールがこと細かくなっていって難易度が上がってしまったため、連歌は急速に衰退したのではないかと思う。おそらく野卑な戦国武将が連歌に多く参加するようになって、風雅の心を競うのではなく、規則をいかに守れるかの方にゲームの重点がずれていったのではないかと思う。

 そして、芭蕉の死後の俳諧もまたその傾向があったのではないかと思う。土芳が古説と呼んでいるのは、おおむねこの頃の連歌の説であって、連歌の最盛期の説ではない。

 いわば土芳を含めて蕉門の保守派が連歌へ回帰してゆき、規則だらけの窮屈な俳諧にしてしまった可能性はある。

20、五句目以下

 「五句め、七句めの事、三て五覧などと古説あり。七句めも同じ心得也。第三の後一順、上の句を賞とす。中にも月の座は名ある所也。老分に當べし。同字を表に嫌ふも懐紙をたしなむ所也。て留はね字留は句の一体表道具と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.97)

 

 「五句め、七句めの事、三て五覧などと古説」もそういう意味では疑わしい。三句目がて留なら五句目はらん留なんて説も流布していたのだろう。て留にて留は式目の「韻字事」にあるが、別の手爾葉か文字留なら問題ない。「らん」に限る必要はない。実際に『校本芭蕉全集』第三巻~第五巻、連句篇を見れば、蕉門にこのような規則がなかったことは明白だ。

 同じように「上の句を賞とす。中にも月の座は名ある所也。老分に當べし。」も根拠はない。定座は「花」に関しては主賓に譲ることはあったが。それは当座の機転であって規則ではない。

 「同字を表に嫌ふ」も同字三句去りを守るなら、六句しかない歌仙ではそんなに気にすることでもない。五句目と六句目だけ気をつければいいだけなので、表六句に同字の例はほとんどない。式目通りの同時五句去りなら要らない規則になる。

 「て留はね字留は句の一体表道具と也。」の「表道具」が許六の『俳諧問答』に出てきた「発句道具」「脇道具」のような初表にふさわしい言葉というなら、それも実際にどれくらい意識されてたかは怪しい。らん留は俳諧では元から使用頻度が少ないが、て留は一巻の中にかなり頻繁に登場する。

 

 「裏に成て四春八木と連歌に古説あり。四句目春をせず、八句めに高うへ物せず、花につかゆる遠慮也。俳諧も其心得也。他の句を返すには不及。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.97)

 

 これは百韻だと裏は十四句で十三句目が花の定座になるため、逆算して四句目に春を出して六句目まで三句連ねると、同季七句去りなので十三句目に花を出せなくなるという意味だろう。ただ、貞門以降の俳諧では同季五句去りに引き下げられている。

 八句目に木類を避けるのも、植物三句去りだが草類と草類、木類と木類は五句去りなので、八句目に木類を出すと十三句目に花を出せなくなる。

 俳諧の場合は同季五句去り、木類と木類三句去りなので「六春十木」でもよさそうだ。

 ただこれも厳密な規則ではない。六句目に春を出しても九句目に花を繰り上げる手はあるし、花火など春にならない正花で逃れることもできる。十句目に木を出しても十一句目に花を繰り上げれば済むし、非植物の正花もある。むしろ九句目十句目に秋を出す方が困るが、そこは言うまでもないというところなのだろう。

 熟練した俳諧師なら、むしろ縛りが多いほど腕の見せ所なので、それほど遠慮する必要もないが、素人で主賓で花を持たせたい時には要注意というところだろう。

 

 「春出ば花を付べし。是呼出しの花となり。花の前句に秋の字用捨すべし。戀の花はむつかしきわざと連哥に秘して、前句よりつゝしむと也。俳其沙汰なし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.97~98)

 

 花呼び出しも慣れてない人に花を勧める時に必要な技で、熟練者にはかえって失礼だろう。「花の前句に秋の字用捨」というのは秋から急に春に転じるには違え付け、相対付けなどの技がいるからで、趣向も限られてしまう。

 「恋」も連歌では式目にはないが習慣的に二句以上とされていたから、花の恋を付けなくてはならなくなる。俳諧では恋の句といってもあくまで恋の噂で情を述べる必要がないので難易度も下がるし、恋を一句で捨ててもいいなら問題にはならない。

21、月の定座

 「月の定座をこぼす事、師のいはく、五十句より内にはあるべからず。奥に至つては少の興にも成るものなり。哥仙はくるしかるまじ、略の物故也。月の座、月の字有時も差合たる時は、異名にてすべし。異名の仕かた人々の作意にあるべしと、師の詞也。又、師のいはく、月は上句勝たるべし。落月、無月の句つゝしむべし。時によるべし、法にはあらずと也。星月夜は秋にて賞の月にはあらず。もし、ほ句に出る時はす秋にし、他季にて有明などする也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.98)

 

 月の定座は百韻の場合は一句ぐらい落としてもいいということだろう。ただ、初表の場合は発句の季節のこともあるので、除外であろう。二表十三句目、三表十三句目、名残表十三句目のうち二つは守る。「奥に至つては少の興にも成るものなり」は終盤に変化をもたらす分にはいいということか。

 歌仙では定座をあまり厳密に守ってしまうと窮屈で身動きが取れなくなるし、もともと略式なので厳密さは要求されない。

 月の定座に月の字が出せない場合はいくつか考えられる。日付などの日の字が打越にある場合、天象の日の字から三句去ってない場合。日付などの月の字から三句去ってない場合などがそれにあたる。「有明」も月に準じて同様に去り嫌いがある。その時は月の異名を用いるというが、どうやるかは不明。

 「月は上句勝たるべし」は定座以外の各懐紙の裏の月は七七の下句でもいいが、五七五の上句の方が勝るということ。

 「落月、無月の句つゝしむべし。時によるべし、法にはあらずと也。」例外は元禄五年の「けふばかり」の巻で、十三句目に芭蕉自身が、

 

   船追のけて蛸の喰飽キ

 宵闇はあらぶる神の宮遷し     はせを

 

の句を付けている。これは月の出る前の闇で月の字もない。このあと十五句目で、

 

   北より荻の風そよぎたつ

 八月は旅面白き小服綿       洒堂

 

で字だけの「月」を出してバランスをとったという。これは「底を抜いた」ということか。

 「星月夜」の句は、元禄二年春の「衣装して」の巻二十九句目に、

 

   打れて帰る中の戸の御簾

 柊木に目をさす程の星月夜     曾良

 

の句があり、柊の句で冬になっている。また、同じ春「かげろふの」の巻二十三句目に、

 

   おきて火を吹かねつきがつま

 行かへりまよひごよばる星月夜   嵐蘭

 

の句がある。ここでは秋の扱いになっている。二十九句目の定座に月の句があり、賞の月としては扱われていない。

 星月夜は付け句でも発句でも稀で、この例外的な二句を見ても闇の恐ろしさの方がまさり、近代のような星空の美しさを詠むことはなかった。星空は昔はあまりに当たり前のことで、失われて初めてその美しさが見直されたのではないかと思う。昔の人からすれば月のない闇は恐怖であり、落月無月を嫌うのもそのためだったと思う。

 

 みそか月なし千とせの杉を抱あらし 芭蕉

 

 『野ざらし紀行』伊勢でのこの句も、闇と嵐の中で伊勢の神木にすがる句で、

 

  何事のおはしますをば知らねども

     かたじけなさの涙こぼれて

              西行法師

 

の歌の心だった。

 

 「月といふ字に五句隔と新式にあり。師の曰、表に月二ッ稀に有。此時は月數八ッ也。名の裏はまれにも月なしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.98)

 

 『応安新式』には七句可隔物のところに同季とともに「月与月」とある。他に松と松、竹と竹、夢と夢、涙と涙、船と船、田と田、衣と衣が七句隔になっている。俳諧では五句隔で貞徳の『俳諧御傘』に、

 

 「月と月 五句去也。声に読てもおなじ。但、月次の月には三句去べし。」

 

とある。

 「師の曰、表に月二ッ稀に有」というのは紹巴より前の時代には定座がなく、七句去りで何回でも出しても良かったからで、明応八年(一四九九年)の『宗祇独吟何人百韻』では三句目、十一句目、十九句目、三十一句目、四十四句目、五十二句目、六十句目、六十九句目、八十四句目、九十二句目と月が十句ある。月が八つに定まったのは紹巴の頃からであろう。それ以前は上限もなければ下限もなく、各懐紙の表裏に一句という決まりもなかった。

 定座は連歌の形骸化の一つで、本来連歌は花の下で誰もが平等に機知を競い合うことで盛り上がったのだが、やがて戦国時代の武家社会の厳しい上下関係から花や月は偉い人の詠むもので、下々のものは遠慮するようになっていって、ちょうど宴会などでお皿に最後の一個だけ誰も手を付けずに残るみたいに、懐紙の終わりまで誰も花を付けずに残ってしまったために、懐紙の最後の長句(上句)が定座になっていった。

 こうした新しい時代の連歌の習慣が江戸時代になって町人の俳諧にも残ってしまったことから、やがて俳諧は堅苦しいといって敬遠されていったのではないかと思う。芭蕉亡き後は誰もこうした習慣を変えようだとか底を抜こうだとかいう人がいなくなり、急速に形骸化していったことは十分想像できる。惟然の超軽みの風が最後の抵抗だったのだろう。

22、花の定座

 「花の事は花四本の内、下の句は一句ばかり、定座まれにもこぼす事なしと也。賞花の句、前句への付心か。又その一句の心か。賞は梅、菊、牡丹など下心にして仕立、正花になしたる句、その木草にしたがひ、季を持たすべきか。或は正月に花を見る、また九月に花咲など云いかゞと云ば、師の曰、九月に花咲などいふ句は、非言也。なき事也。たとへ名木を隠して花と計云とも正花也。花といふは櫻の事ながら都而春花をいふ。是等を正花にせずしては花の句多く出る。賞輕しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.98~99)

 

 定座というルール自体が連歌の歴史の中では新しいので、定座の規則も戦国の末期から江戸時代初期に確立されたもので、古説とあっても、大体その頃の説と見ていい。貞徳や宗因もこうした新しい時代の連歌のルールに基づいて俳諧のルールを模索してきたといっていい。

 そこでは初裏、二裏、三裏、名残裏の花の定座の内、一つだけなら七七の下の句にしてもいいという慣例もあったのだろう。

 賞花という言葉は月の所で「賞の月」とあったのに対応する言葉だろう。「賞は梅、菊、牡丹など下心にして仕立、正花になしたる句」とあるから音は一緒でも正花とはまた別の物と思われる。一般に「梅の花」「菊の花」「牡丹花」とあっても正花とはカウントされず、秋の「花野」も同様に正花にはならない。定座とは関係なく使用できる。

 「か」という語尾で書かれている「賞花の句、前句への」から「花咲など云いかゞ」までは土芳が芭蕉に問うた言葉で、実際にこれらをたとえ「賞花」と呼んだにせよ「正花」になることはない。芭蕉ははっきり答えている。「九月に花咲などいふ句は、非言也。なき事也。」つまり、桜以外の花を心は花だと言って正花にするなんてことはありえない。

 それで気になるのが先にも述べた、貞享二年六月二日東武小石川ニおゐて興行の「賦花何俳諧之連歌」という古式による俳諧百韻の一巻で、「清風涼しさの凝くだくるか水車 清風」を発句とする。

 この巻では初表に、

 

   みちの記も今は其侭に霞こめ

 氈を花なれいやよひの雛      清風

 

 二表に、

 

   いかなればつくしの人のさはがしや

 古梵のせがき花皿を花       清風

 

 三表に、

 

   一陽を襲正月はやり来て

 汝さくらよかへり咲ずや      芭蕉

 

 名残表に、

 

   定家かづらの撓む冬ざれ

 低く咲花を八ッ手と見るばかり   素堂

 

の句があることだ。初表は春の正花、二表の花皿は貞徳の『俳諧御傘』では春で正花になるが、ここでは無季として扱われている。三表は『去来抄』「故実」に、「先師曰、さればよ、古は四本の内一本は桜也。」とある。そして名残表はヤツデの花になっている。ただ、「花を八ッ手」という微妙な言い回しは賞花をここではヤツデと見る、というふうに取れる。土芳の「賞花の句、前句への付心か。又その一句の心か。」というのはこのことを言ったとも考えられる。

 元はといえば古式を「花裏表に一本宛」の誤解だったのかもしれない。さすがに八本の花は無理があって、ヤツデを賞花にするという苦肉の策もあったのかもしれない。

 「花といふは櫻の事ながら都而春花をいふ」の「都而」は「すべて」と読む。ただ、元は春の桜の花でありながら、比喩として春にならない正花もある。貞徳の『俳諧御傘』には、

 

 餅花 正花也、冬也・植物に二句也。

 花よめ・花婿 恋也、雑也、正花を持也。人倫也。植物に非ず、春に非ず。

 花かいらき 正花を持也。春にはあらず、植物にあらず。

 花うつぼ 雑也。正花にもする也。うへものにあらず。

 ともしびの花 正花を持也。春にあらず、植物にあらず、夜分也。

 花火 正花を持也。春に非ず、秋の由也。夜分也。植物にきらはず。

 花がつを 正花を持也。春にあらず。生類にあらず。うへものに嫌べからず。

 作り花 正花也。雑也。植物に二句去べし。

 花ぬり 漆の事也。雑也。正花をば持也。植物にあらず。

 花がた 小鼓にあり。正花にはなれども季はもたず、植物にならず。

 

などがある。ただ、確かに蕉門ではあまり用いられていない。

 また、松意編の『談林十百韻』の「されば爰に」の巻では二裏に、

 

   童子が好む秋なすの皮

 花娵(嫁)を中につかんてかせ所帯 雪柴

 

の句があるが、そのあとの句が「春風」「雪消て」と続き、春として扱われている。似せ物の花に関してはその場の判断にゆだねられることが多かったのかもしれない。

 「革足袋の」の巻の三裏には、

 

   一夏はすてに秋いたる也

 法の花火江湖の波の夕景色     正友

 

の句は「花火」を定座に用いている。「露」「虫の声」「秋いたる」ときて花火だから秋扱いと思われる。次の句に「彼岸」とあるが、その次が「かやるとはおもはさりしをなかし者」なので、彼岸を無季扱いしたか、それとも「花火」を春として春二句で捨てたかということになる。

 宗因編『大阪独吟集』の「素玄独吟の二裏に、

 

   七つさがれば門をさす月

 花の火もあだにちらすな城の内   素玄

 

は、「冷し」「秋淋し」「月」ときて、この後に「鑓梅」「雪とけて」とそのあと「角田がはらの浪のわれふね」と無季になるので、「花の火」は春として扱われている。

 まあ、基本的には俳諧の捌きは杓子定規にならず、臨機応変にということなのだろう。サッカーの審判も軽微な違反でむやみにゲームを止めずに、スムーズな試合進行を優先させるようなもので、俳諧師匠には句だけでなく捌きにおいても機知が求められたのだろう。

 

 「宗祇の時代迄、百韵花三本也、雨一ッ也。宗長の時にいたり、匂ひの花一本、雨一ッ、勅許を蒙り度旨奏聞せられて花四本雨二ッには究り侍る。連哥の式と師の詞也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.99)

 

 『応安新式』には花三本、似せ物一、雨は一座一句物。ここは間違いない。雨の一座一句とは別に、「急雨(にはかあめ)」は一座一句、五月雨一座二句だった。

 これに対し宗祇より前の宗砌の時代の享徳元年(一四五二年)に作られた『新式今案』で、花は「近年或為四本之物、然而余花は可在其中」ということで、四本目の花は似せ物でなくてもいいということになった。雨に関しては「春さめ」「秋さめ」「小さめ」を「急雨」の代わりに一句、「あまそそぎ」「雨夜」をその他に一句使えるようになった。

 これを見ても、芭蕉の時代には連歌の式目についての正確な情報がなく、戦国末から江戸時代の連歌のルールが元になってたというのが想像できる。そして、それを適度に緩めて臨機応変に捌くのが俳諧だったといっていいだろう。適度の難易度で俳諧が一番面白くなるようにするのが宗匠の役目だった。

23、挙句

 「裏一順の事も初のごとくかろがろとあるべし。句なみを追ふにも不及と也。揚句は付ざるよしと古説有。今一句に成て一座興覺る故也。また兼て案じ置とも云り。ほ句主並に亭主のする所にあらず。初の一順に執筆の句なくば揚句を筆にすべし、ほ句にある文字をつゝしむと也。にほひの花にて春季五句に至るとも揚句に季をはなすべからず。たとへ季六句に及てもすべしと也。いづれの季、戀にても揚句此心得なり。句ぶり心得あるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.99)

 

 もちろん裏一順に限らず、運座は滞ることなく最後までスムーズにいくのがベストだ。ただ、面白い句、味わい深い句、悲しい句などのあとはなかなかうまく展開できなくなることもある。だからといってつまらない句ばかり連ねてもしょうがないので、一巻の山場とでもいう中盤から後半にかけては多少悩むような句があってもいい。俳諧好きならその悩むというのも楽しいはずだ。ただやはりそれも程度がある。

 談林の頃までの百韻が主流だった時代は、付け方も軽く、あっという間に一巻を巻くことができたのだろう。天和のあたりから蕉門に限らず句が重くなりだした。それは多分書物にしたときに読んで面白いものにしようとしだしたからではないかと思う。読者にとって面白いものは、連衆にとっては苦痛を伴うものになる。このジレンマに俳諧全体が直面し、結局答えを見出せぬまま俳諧連歌は衰退し、発句と川柳点が残っていったのだろう。

 挙句は付かなくてもいいというのは、最後の最後で悩んでほしくないからで、多分に会が終わってから酒や料理がふるまわれる手はずになっていたりすると、なおさら勘弁してくれよということになる。

 ただ、蕉門の俳諧で事前に挙句を用意することがあったかどうかはわからない。少なくとも芭蕉同座の俳諧はそれなりのレベルの連衆が集まっているので、その必要はなかっただろう。挙句が付けられないくらいなら、とっくに途中で詰まっているところだ。

 発句や脇と違って挙句を事前に用意するというのはいろいろ難しい問題が生じるのではないかと思う。特に制の詞に関してで、用意していた挙句に打越に同じ言葉が使われてたらどうするのだろうか。それともあらかじめ挙句を公開しておいて、名残裏に入るとみんなで気を使ってその言葉とかぶらないようにしなくてはいけないのか。かなり無理なように思える。

 挙句は本来客や亭主のするものではなく、執筆(主筆ともいう)がすることが多かった。ただ、歌仙などで少人数の興行では執筆のいない場合も多く、両吟三吟四吟など出勝ちでない興行では順番で回ってきた人が挙句を詠むことになる。

 執筆は連衆が最初に一句づつ付けて行ってその最後に一句詠むこともある。またひょっとしたら途中で詰まった時に代打で参加することもあったのかもしれない。その辺もその会の雰囲気で臨機応変に行われたと思う。

 最後を春にするというのも決まりはない。貞享四年十二月一日桐葉亭での「旅人と我見はやさん笠の雪 如行」を発句とする半歌仙では、十三句目に春の句が出て十五句目に花の定座を繰り上げたあと、

 

 鵜を入る初川いそぐ花の蔭     桐葉

   美濃侍のしたり顔なる     如行

 御即位によき白髪と撰出され    芭蕉

   植て常盤の百本の竹      桐葉

 

と無季の句を三句連ねて「御即位」「常盤」と目出度い言葉を重ねて終わっている。わざわざ春を六句にするようなことはしていない。

 また『炭俵』の「むめがかに」の巻も、二十九句目に花を出して、三十三句目と三十四句目が冬になり、そのあと恋を含む無季二句、

 

 隣へも知らせず嫁をつれて来て   野坡

   屏風の陰にみゆるくハし盆   芭蕉

 

で終わらせている。そのほかにも元禄七年閏五月の「柳小折」の巻も無季で終わっている。

 春を四句連ねた例としては、元禄七年二月に去来と浪化の両吟で始めた十八句に芭蕉が加わって歌仙を完成させた巻で、浪化編の『となみ山』に収録された「鶯に」の巻で、

 

 参宮といへば盗もゆるしけり    浪化

   にっと朝日に迎ふよこ雲    芭蕉

 蒼みたる松より花の咲こぼれ    去来

   四五人とほる僧長閑なり    浪化

 薪過町の子供の稽古能       芭蕉

   いつつも春にしたきよの中   去来

 

というのがある。挙句にもう一句春の句が欲しいと言って終わっている。

 「いづれの季、戀にても揚句此心得なり。句ぶり心得あるべし。」は、挙句は他の季節になることもあれば恋で終わることもあるが、春であるかのように作るということだろう。

 恋で終わる挙句は『冬の日』の四番目の歌仙「炭売の」の巻で、

 

 北のかたなくなく簾おしやりて   羽笠

   ねられぬ夢を責るむら雨    杜国

 

で終わる。村雨に春の情を匂わす。

 冬で終わる例も同じく『冬の日』の五番目の歌仙「霜月や」の巻にある。

 

 水干を秀句の聖わかやかに     野水

   山茶花匂ふ笠のこがらし    羽笠

 

 これは『冬の日』の第一歌仙の脇、

 

 狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉 芭蕉

   たそやとばしるかさの山茶花  野水

 

を受けたもので、凩の中に山茶花の匂いをそえて春が来たかのような雰囲気を添えて終わる。

 発句の詞は使わないというが、脇の言葉を使う分には問題ない。同じ巻であっても、『虚栗(みなしぐり)』の天和二年の「詩あきんど」の巻は、発句と脇の組み合わせをほとんど反復する形で終わっている。

 

 詩あきんど年を貪ル酒債哉     其角

   冬-湖日暮て駕馬鯉       芭蕉

 

という発句と脇に、

 

 詩あきんど花を貪ル酒債哉     其角

   春-湖日暮て駕興吟       芭蕉

 

で締めくくる。

 というわけで、挙句も基本的には春で終わるが、春の心を持たせるなら神祇でも恋でも冬でもかまわない。

 連歌の時代には

 

   雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に

 わが影なれや更くる灯       宗祇

 

のような夢から覚めてどこか成仏を暗示するような終わり方もあった。

 挙句も杓子定規にならず、いろいろな可能性を試すのもいい。「底を抜く」というのも蕉風の特徴だからだ。