「あら何共なや」の巻、解説

延宝五年冬 二字返音之百韻三吟

初表

 あら何共なやきのふは過て河豚汁  桃青

   寒さしさつて足の先迄     信章

 居あひぬき霰の玉やみだすらん   信徳

   拙者名字は風の篠原      桃青

 相応の御用もあらば池のほとり   信章

   海老ざこまじりに折節は鮒   信徳

 醤油の後は湯水に月すみて     桃青

   ふけてしばしば小便の露    信章

 

初裏

 きき耳や余所にあやしき荻の声   信徳

   難波の芦は伊勢のよもいち   桃青

 屋敷がたあなたへざらりこなたへも 信章

   替せ小判や袖にこぼるる    信徳

 物際よことはりしらぬ我涙     桃青

   干鱈四五枚是式恋を      信章

 寺のぼり思ひそめたる衆道とて   信徳

   みじかき心錐で肩つく     桃青

 ぬか釘のわづかのことをいひつのり 信章

   露がつもつて鐘鋳の功徳    信徳

 うそつきの坊主も秋やかなしむ覧  桃青

   その一休に見せばやの月    信章

 花の色朱鞘をのこす夕まぐれ    信徳

   いつ焼つけの岸の欵冬     桃青

 

 

二表

 よし野川春もながるる水茶碗    信章

   紙袋より粉雪とけ行      信徳

 風青く楊枝百本けづるらん     桃青

   野郎ぞろへの紋のうつり香   信章

 双六の菩薩も爰に伊達姿      信徳

   衆生の銭をすくひとらるる   桃青

 目の前に嶋田金谷の三瀬川     信章

   から尻沈む淵はありけり    信徳

 小蒲団に大蛇のうらみ鱗形     桃青

   かねの食つぎ湯となりし中   信章

 一二献跡はさびしく暮過て     信徳

   月はむかしの親仁友達     桃青

 蛬無筆な侘ぞきりぎりす      信章

   胸算用の薄みだるる      信徳

 

二裏

 勝負もなかばの秋の浜風に     桃青

   われになりたる波の関守    信章

 顕れて石魂たちまち飛衛      信徳

   ふるい地蔵の茅原更行     桃青

 塩売の人通ひけり跡見えて     信章

   文正が子を恋路ならなん    信徳

 今日より新狂言と書くどき     桃青

   物にならずにものおもへとや  信章

 或時は蔵の二階に追込て      信徳

   何ぞととへば猫の目の露    桃青

 月影や似せの琥珀にくもるらん   信章

   隠元ごろもうつつか夢か    信徳

 法の声即身即非花散て       桃青

   余波の鳫も一くだり行     信章

 

 

三表

 上下の越の白山薄霞        信徳

   百万石の梅にほふなり     桃青

 昔棹今の帝の御時に        信章

   守随極めの哥の撰集      信徳

 掛乞も小町がかたへと急候     桃青

   これなる朽木の横にねさうな  信章

 小夜嵐扉落ては堂の月       信徳

   ふる入道は失にけり露     桃青

 海尊やちかい比まで山の秋     信章

   さる柴人がことの葉の色    信徳

 縄帯のそのさまいやしとかかれたり 桃青

   これぞ雨夜のかち合羽なる   信章

 飛乗の馬からふとや子規      信徳

   森の朝影狐ではないか     桃青

 

三裏

 二柱弥右衛門と見えて立かくれ   信章

   三笠の山をひつかぶりつつ   信徳

 萬代の古着かはうとよばふなる   桃青

   質のながれの天の羽衣     信章

 田子の浦浪打よせて負博奕     信徳

   不首尾でかへる蜑の釣舟    桃青

 前は海入日をあらふうしろ疵    信章

   松が根まくら石の綿とる    信徳

 つづれとや仙女の夜なべ散紅葉   桃青

   瓦灯の煙に俤の月       信章

 我恋を鼠のひきしあしたの秋    信徳

   涙じみたるつぎ切の露     桃青

 衣装絵の姿うごかす花の風     信章

   匂ひをかくる願主しら藤    信徳

 

 

名残表

 鈴の音一貫二百春くれて      桃青

   かた荷はさいふめてはかぐ山  信章

 雲助のたな引空に来にけらし    信徳

   幽霊と成て娑婆の小盗     桃青

 無縁寺の橋の上より落さるる    信章

   都合その勢万日まいり     信徳

 祖父祖母早うつたてや者共とて   桃青

   鼓をいだき草鞋しめはく    信章

 米袋口をむすんで肩にかけ     信徳

   木賃の夕部風の三郎      桃青

 韋達天もしばしやすらふ早飛脚   信章

   出せや出せと責る川舟     信徳

 走り込追手㒵なる波の月      桃青

   すは請人か芦の穂の声     信章

 

名残裏

 物の賭振舞にする天津雁      信徳

   木鑵子の尻山の端の雲     桃青

 人形の鍬の下より行嵐       信章

   畠にかはる芝居さびしき    信徳

 この翁茶屋をする事七度迄     桃青

   住吉諸白砂ごしの海      信章

 淡路潟かよひに花の香をとめて   信徳

   神代このかたお出入の春    主筆

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

   

 あら何共なやきのふは過て河豚汁 桃青

 

 延宝五年(一六七七年)の冬、芭蕉がまだなく桃青と呼ばれていた頃の、談林流行の真っただ中の百韻興行。

 昨日は河豚汁(ふぐとじる)を食ったけど、毒にあたることもなく今日はこうしてぴんぴんして興行ができますよ、という挨拶になる。

 鰒は縄文時代から食べていたというし、鰒の毒に対する知識もそれなりに経験的に蓄積されていたにちがいない。

 鰒の毒を避けるには、基本的には毒のある腸と皮を取り除かなくてはならない。もちろん鰒の種類によっては肉にも毒がある場合があるから、完全ではない。ただ、腸と皮を取り除き身欠きを作る時点で水でよく洗えば、鰒の危険はかなり減らすことができる。

 

 河魨洗ふ水のにごりや下河原  其角(有磯海)

 

の句は、鰒を水で洗う知恵が当時あったことを示している。

 もう少し後の時代だが、

 

 人ごころ幾度河豚を洗ひけむ  太祇

 

の句がある。

 鰒のことを鉄砲ともいうが、其角の句が起源か。

 

 鉄炮のそれとひびくやふぐと汁 其角

 

 鉄砲といっても今日の自動小銃とは違い、撃つまでに時間がかかる上、命中精度も悪かった昔の銃のことだから、当たったらよほど運が悪いくらいのものだったのかもしれない。

 河豚を詠んだ句が多いのも、河豚が実際はそれほど危険でなかった証拠であろう。

 確かに死ぬことはあるが、かなりの率で死ぬならそれこそ「洒落にならない」わけで、俳諧の洒落になるのは安全だからだ。

 今日安心してふぐ料理が食べられるのは、必ずしも河豚の調理を免許制にして管理されているからだけではない。その免許を取るのに必要な知識や技術は決して一朝一夕に生じたものではなく、それこそ縄文時代からの長い河豚食の歴史によるものに他ならない。

 それに加え、衛生状態が今よりも明治の頃よりも更に悪かった江戸時代にあって、危険は何も河豚だけに限らない。夏に食中毒で死ぬ確率は鰒で死ぬよりも高かったかもしれない。

 また、生活の中でも野草や茸の採集を日常的に行っていた時代には、誤って毒草や毒茸を食べる危険もあった。

 食中毒や毒草・毒茸の危険に較べると、鰒の危険は計算できる危険であり、選択できる危険だった。

 いつ突然変なものを喰って死ぬかもしれない時代にあって、予測できてそれでいてそれほど確率の高くない危険であれば、年末に無事正月が迎えるかどうか占う意味でも、河豚というのは運試しをするのにちょうどよかったのかもしれない。

 そこで、死ぬかもしれない、でも死ななかった、その喜びが河豚の句に溢れているのではないかと思う。

 この「あら何共(なんとも)なや」は謡曲『芦刈』の一節を拝借している。芦刈は離縁された妻が夫を探しに大阪へ行くと、難波の葦の、という話だ。

 賦し物の「二字返音」は二文字をひっくりかせということだから、ここでは「ふぐ」をひっくり返して「ぐふ」、つまり愚夫に賦すということだろう。

 

季語は「河豚汁」で冬。

 

 

   あら何共なやきのふは過て河豚汁

 寒さしさつて足の先迄      信章

 (あら何共なやきのふは過て河豚汁寒さしさつて足の先迄)

 

 信章は後の素堂。

 「しさつて」の「しさる」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「後ずさりする。「しざる」とも。

  出典平家物語 一二・泊瀬六代

  「蔵人(くらんど)うしろなる塗籠(ぬりごめ)の内へ、しざりいらんとしたまへば」

  [訳] 蔵人が後ろにある塗籠(=周囲を壁で塗りこめた部屋)の中へ、後ずさりして入ろうとなさるので。」

 

とある。河豚汁で体も暖まって、足の先までぽかぽかする。

 

季語は「寒さ」で冬。

 

第三

 

   寒さしさつて足の先迄

 居あひぬき霰の玉やみだすらん  信徳

 (居あひぬき霰の玉やみだすらん寒さしさつて足の先迄)

 

 信徳は京の人。

 大道芸の居合い抜きだろう。抜いた刀が降ってくる霰にあたって音を立てると、霰の玉が乱れ飛ぶ。

 この描写は後の曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の名刀村雨の描写で「抜けば玉散る」という言葉にも通じ、近代の「抜けば玉散る氷の刃」の原型だったのかもしれない。

 居あい抜きの気迫に寒さも後ずさりするかのようだ。

 信徳はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「江戸前期の俳人。伊藤氏。本姓は山田氏か。通称助左衛門。別号梨柿園(りしえん)、竹犬子。京都の人。裕福な商家の出身で、初め貞門(ていもん)の高瀬梅盛(ばいせい)に師事したが、延宝(えんぽう)(1673~81)初年から談林(だんりん)派の高政(たかまさ)や常矩(つねのり)らに接して、談林風に傾倒。1677年(延宝5)には江戸へ下って芭蕉(ばしょう)らと交流し『江戸三吟』を刊行し、また81年(天和1)には『七百五十韻』など新風体を模索する注目すべき撰集(せんしゅう)を刊行するなど、芭蕉らと歩調をあわせて蕉風俳諧(しょうふうはいかい)胎動の契機をなした。以後も芭蕉らとの交流を続け、元禄(げんろく)期(1688~1704)には言水(ごんすい)、如泉(じょせん)、和及(わぎゅう)、我黒(がこく)らとともに京俳壇で重きをなすが、のちには蕉門との間は疎遠になった。編著『京三吟』『誹諧五(はいかいいつつ)の戯言(たわごと)』『胡蝶(こちょう)判官』『雛形(ひながた)』など。[雲英末雄]

  雨の日や門提(かどさげ)て行(ゆく)かきつばた

『荻野清編『元禄名家句集』(1954・創元社)』」

 

とある。

 霰の玉は、

 

 かきくらし霰ふりしけ白玉を

     しける庭とも人のみるべく

              よみ人しらず(後撰集)

 

など、多くの和歌で霰は玉に喩えられている。

 

季語は「霰」で冬、降物。

 

四句目

 

   居あひぬき霰の玉やみだすらん

 拙者名字は風の篠原       桃青

 (居あひぬき霰の玉やみだすらん拙者名字は風の篠原)

 

 霰と言えば、

 

 もののふの矢並つくろふ籠手のうへに

     霰たばしる那須の篠原

              源実朝(金槐和歌集)

 

の歌がある。霰の玉を飛び散らすというので、名字は篠原、人呼んで風の篠原、となる。抜刀術の名手のようだ。

 ウィキペディアには篠原という名字にはいくつか系統があるという。近江国野洲郡篠原郷の篠原、源師房(村上源氏)を祖とする公家の篠原家、上野国新田郡篠原郷(現在の群馬県太田市)の起源の氏族、尾張国の篠原氏、安房国に進出した篠原氏など。

 

無季。

 

五句目

 

   拙者名字は風の篠原

 相応の御用もあらば池のほとり  信章

(相応の御用もあらば池のほとり拙者名字は風の篠原)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『実盛』の、

 

 「行くかと見れば篠原の池のほとりにて姿は幻となりて失せにけり幻となりて失せ にけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.18066-18067). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

の言葉を引いている。

 謡曲『実盛』は加賀篠原を舞台とした斎藤別当実盛の最期をその霊を通じて語らせるもので、中でも「あな無残やな。斎藤別当にて候いけるぞや。」の台詞は後に芭蕉が『奥の細道』の旅で、

 

 あなむざんやな冑の下のきりぎりす 芭蕉

 

の句を詠むことになる。加賀篠原は今の加賀市の海岸に近いところで、篠原古戦場跡には首洗池がある。これが「池のほとり」になるわけだが、風の篠原、もう死んでいるのか。

 

無季。「池」は水辺。

 

六句目

 

   相応の御用もあらば池のほとり

 海老ざこまじりに折節は鮒    信徳

 (相応の御用もあらば池のほとり海老ざこまじりに折節は鮒)

 

 魚介料理の御用聞きとする。

 

無季。

 

七句目

 

   海老ざこまじりに折節は鮒

 醤油の後は湯水に月すみて    桃青

 (醤油の後は湯水に月すみて海老ざこまじりに折節は鮒)

 

 塩味の強い醤油味の魚介料理の後はさ湯ですっきり。

 「水に月すみて」は、

 

 種まきし心の水に月すみて

     ひらけやすらむむねのはちすも

              藤原俊成(続千載集)

 

の歌がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

八句目

 

   醤油の後は湯水に月すみて

 ふけてしばしば小便の露     信章

 (醤油の後は湯水に月すみてふけてしばしば小便の露)

 

 月に露は付け合いだからこの展開。まあ、下ネタですね。食後の用足し。

 

季語は「露」で秋、降物。

初裏

九句目

 

   ふけてしばしば小便の露

 きき耳や余所にあやしき荻の声  信徳

 (きき耳や余所にあやしき荻の声ふけてしばしば小便の露)

 

 荻の上風は古くから和歌連歌に詠まれてきたが、これは荻の中で誰かがしょんべんしているというだけ。

 

季語は「荻」で秋、植物、草類。

 

十句目

 

   きき耳や余所にあやしき荻の声

 難波の芦は伊勢のよもいち    桃青

 (きき耳や余所にあやしき荻の声難波の芦は伊勢のよもいち)

 

 『菟玖波集』に、

 

   草の名も所によりてかはるなり

 難波の葦は伊勢の浜荻      救済

 

とあるが、それのもじり。

 「伊勢のよもいち」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「伊勢の人で百人の卜占師。耳がさとく五音によって卜ったことで有名」

 

とある。

 

無季。「難波」「伊勢」は名所、水辺。「葦」「浜荻」は植物、草類、水辺。

 

十一句目

 

   難波の葦は伊勢のよもいち

 屋敷がたあなたへざらりこなたへも 信章

 (屋敷がたあなたへざらりこなたへも難波の芦は伊勢のよもいち)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に発句の時にも出てきた謡曲『芦刈』の一節が引用されている。

 

 「難波女の、難波女の、かづく袖笠肘笠の、雨の蘆辺も、乱るるかたを波あなたへ ざらりこなたへざらり、ざらりざらりざらざらざつと、風の上げたる、古簾、つれづれもなき心おもしろや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.44255-44261). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

 この謡曲にも、

 

 ワキ「さては物の名も所によりて変るよのう。」

 シテ「なかなかの事この蘆を、伊勢人は浜荻といひ」

 ワキ「難波人は」

 シテ「蘆といふ。」

 (野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.44177-44184). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

という場面がある。

 芦の揺れる様子を表す言葉だが、ここでは伊勢のよもいちが引っ張りだこで、あっちの屋敷へざらり、こっちの屋敷はざらりとなる。

 

無季。「屋敷」は居所。

 

十二句目

 

   屋敷がたあなたへざらりこなたへも

 替せ小判や袖にこぼるる     信徳

 (屋敷がたあなたへざらりこなたへも替せ小判や袖にこぼるる)

 

 ウィキペディアによると、日本の為替の歴史は古く、

 

 「日本の『かわせ』の語は中世、『交わす』(交換する)の連用形『かわし』と呼ばれていたものが変化したものである。日本で「為替」という言葉が生まれたのは、鎌倉時代である。この時代、鎌倉で俸給をもらう下級役人が現れており、俸給として鎌倉に入って来る年貢を先取りする権利が与えられた。その際に権利証書として「為替」が発行されたのである。あるいは、鎌倉番役や京都大番役を勤める中小の御家人が、地元の所領からそれぞれが金銭や米を持ち込まなくとも、大口の荘園や有力御家人の年貢の運送に便乗する形で、鎌倉や京都で金銭や米を受け取るシステムとして、為替の仕組みが生まれている。つまりこの時代の為替は、金銭のみならず米その他の物品の授受にも用いられていたのである。

 いわゆる金銭のみの授受としての、日本で最古の為替の仕組みは室町時代の大和国吉野で多額の金銭を持って山道を行くリスクを避けるために考えられ、寛永年間に江戸幕府の公認を受けた制度であるとされている。吉野には大坂などの周辺地域の商人も出入しており、大坂商人の為替はこれを参照したとする説もある。また、鎌倉時代以来存在した割符との関係も指摘されている。

 江戸時代の日本では、政治・消費都市である江戸と経済的中心である大坂(更に商工業が発展した都・京都を加える場合もある)の間で商品の流通が盛んになった。それは多額かつ恒常的な貨幣流通の需要を生じさせるとともに、支払手段としての貨幣機能の発展、信用取引の発展を促して、両替商あるいは大都市それぞれに店舗を持つ大商人を仲介とした為替取引を発達させた。」

 

とある。

 金持ちの屋敷から屋敷へ為替や小判は移動するが、なかなか庶民の所には回ってこない。

 

無季。「袖」は衣裳。

 

十三句目

 

   替せ小判や袖にこぼるる

 物際よことはりしらぬ我涙    桃青

 (物際よことはりしらぬ我涙替せ小判や袖にこぼるる)

 

 物際(ものきは)はこの場合盆と正月の前の決算のことで、なけなしの為替や小判も袖から出て行ってしまう。

 涙に袖は、

 

 ひとしれぬわか物思ひの涙をは

     袖につけてぞ見すへかりける

              よみ人しらず(後撰集)

 

など、和歌にはよく用いられる。

 

無季。「我」は人倫。

 

十四句目

 

   物際よことはりしらぬ我涙

 干鱈四五枚是式恋を       信章

 (物際よことはりしらぬ我涙干鱈四五枚是式恋を)

 

 まえくの物際を瀬戸際の意味にする。

 貞享二年に芭蕉は。

 

 躑躅生けてその陰に干鱈割く女  芭蕉

 

の句を詠むが、干鱈は棒鱈とちがって柔らかく、水で戻さなくてもそのままかじることができる。干鱈を咲いている様子が女が悲しみに文を引き裂いている様子と似ているというのが俳諧のネタになる。

 干鱈四五枚は本当は手紙四五枚だったのだろう。

 

無季。恋。

 

十五句目

 

   干鱈四五枚是式恋を

 寺のぼり思ひそめたる衆道とて  信徳

 (寺のぼり思ひそめたる衆道とて干鱈四五枚是式恋を)

 

 衆道の多くは環境依存で同性愛になるだけで、寺を出ればノンケに戻ることも多い。今の男子校や女子高のようなもの。本物のLGBTは少数。これしきの恋。

 

無季。恋。

 

十六句目

 

   寺のぼり思ひそめたる衆道とて

 みじかき心錐で肩つく      桃青

 (寺のぼり思ひそめたる衆道とてみじかき心錐で肩つく)

 

 お寺の閉鎖された環境では衆道もすぐに思い詰めて、喧嘩や心中沙汰も起こりやすい。

 

無季。恋。

 

十七句目

 

   みじかき心錐で肩つく

 ぬか釘のわづかのことをいひつのり 信章

 (ぬか釘のわづかのことをいひつのりみじかき心錐で肩つく)

 

 「ぬかに釘」という諺がある。「柳に風」と同じ。聞き流せば済むことでもいちいちケチをつけたがる。

 

無季。

 

十八句目

 

   ぬか釘のわづかのことをいひつのり

 露がつもつて鐘鋳の功徳     信徳

 (ぬか釘のわづかのことをいひつのり露がつもつて鐘鋳の功徳)

 

 前句の「ぬか釘」をただの釘として、塵も積もれば山となるように、釘もたくさん集めればお寺の釣り鐘になる。

 

季語は「露」で秋、降物。釈教。

 

十九句目

 

   露がつもつて鐘鋳の功徳

 うそつきの坊主も秋やかなしむ覧 桃青

 (うそつきの坊主も秋やかなしむ覧露がつもつて鐘鋳の功徳)

 

 仏教には「方便」という考え方があり、布教の為なら作り話をしてもいいことになっている。「嘘も方便」は諺にもなっている。

 布教のために根も葉もない物語を語っては涙の露を誘い、それが積もり積もって立派な釣り鐘になる。

 

季語は「秋」で秋。「坊主」は人倫。

 

二十句目

 

   うそつきの坊主も秋やかなしむ覧

 その一休に見せばやの月     信章

 (うそつきの坊主も秋やかなしむ覧その一休に見せばやの月)

 

 今では一休さんというとテレビアニメの影響が強いが、実際はとんでもない破戒坊主だったようだ。その一休さん、

 

 嘘をつき地獄へおつるものならば

     なきことつくる釈迦いかにせん

 

という狂歌も残しているという。やはり嘘つきだったようだ。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

二十一句目

 

   その一休に見せばやの月

 花の色朱鞘をのこす夕まぐれ   信徳

 (花の色朱鞘をのこす夕まぐれその一休に見せばやの月)

 

 一休さんはウィキペディアに、

 

 「木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものであったとされる。」

 

とある。昔から有名なエピソードだったのだろう。

 夕日が満開の桜を朱に染めてゆき、やがて満月が登る。一休さんに見せてやりたい。

 月に花の色は、

 

 花の色にひかりさしそふ春夜ぞ

     木のまの月はみるべかりける

              上西門院兵衛(千載集)

 

の歌がある。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

二十二句目

 

   花の色朱鞘をのこす夕まぐれ

 いつ焼つけの岸の欵冬      桃青

 (花の色朱鞘をのこす夕まぐれいつ焼つけの岸の欵冬)

 

 「欵冬」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 植物「ふき(蕗)」の古名。また「つわぶき(橐吾)」の古名ともいう。〔本草和名(918頃)〕」

 

とある。「款冬」のところを見ると「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「③ 植物「やまぶき(山吹)」の異名。

  ※和漢朗詠(1018頃)上「雌黄を著して天に意(なさけ)あり 款冬(くゎんどう)誤って暮春の風に綻ぶ〈作者未詳〉」

 

とある。郭公をホトトギスと読むようなもので、欵冬はヤマブキと読む。

 「焼(やき)つけ」はweblio辞書の「デジタル大辞泉」に、

 

 「1 写真で、印画紙の上に原板を重ね、光を当てて露光させ、陽画を作ること。プリント。「べたで焼き付けする」

 2 陶磁器の上絵付けのこと。

 3 金属に塗料を塗ったのち加熱し、塗膜を乾燥・硬化させること。

 4 めっきをすること。」

 

とある。この場合は4の意味で、黄金色の山吹の花はいつ金メッキをしたのかという意味になる。前句の花の色の朱鞘に応じたもの。

 なお、めっきの技術についてはウィキペディアに、

 

 「日本へは仏教とともに技術が伝来したといわれている。1871年に偶然発見された仁徳天皇陵の埋葬品である甲冑(4~5世紀頃)が日本最古である可能性(埋葬者は仁徳天皇と確定していない)があるが、甲冑は埋め直しが行なわれたため現存していない。」

 

とある。また、エキサイト辞書には「平凡社 世界大百科事典」の「鍍金」の項目が載っていて、

 

 「アマルガム鍍金は江戸時代に書かれた《装剣奇賞》によると,その一つは,器物の表面をよく磨き,梅酢で洗浄し,砥粉(とのこ)と水銀を合わせてすりつけた上に金箔を置き,火であぶることを2,3度くりかえす箔鍍金法である。もう一つは,灰汁でよく器物を煮,その上を枝炭や砂で磨き,梅酢で洗ったのち,金粉と水銀をよく混合したアマルガムを塗布し,熱を加えると水銀が蒸発し金だけが表面に残る。これを2度ほどくりかえし,鉄針を横にしてこすり,刷毛で磨き,緑青で色上げする方法である。上代では後者に近い方法がとられたものと推定される。アマルガム鍍金は水銀を蒸発させるときに生ずるガスが有害で,人畜の皮膚や呼吸を冒すばかりでなく生命も危険である。平安時代以降には,素地の表面に水銀を塗り,金箔をはって箔を焼きつける技法もあらわれた。また水銀有毒ガスの危険を免れるため,そして鍍金と同様の効果をあげるため,漆で金箔を付着させる漆箔法が塗金法として開発されている。」

 

とある。

 岸の山吹は、

 

 よし野川岸の山吹咲きぬれば

     そこにぞふかき色はみえける

              藤原範綱(千載集)

 

など和歌に多く詠まれている。

 

季語は「款冬」で春、植物、草類。「岸」は水辺。

二表

二十三句目

 

   いつ焼つけの岸の欵冬

 よし野川春もながるる水茶碗   信章

 (よし野川春もながるる水茶碗いつ焼つけの岸の欵冬)

 

 岸の山吹は前述の歌だけでなく、

 

 吉野河岸の山吹ふくかぜに

     そこの影さへうつろひにけり

              紀貫之(古今集)

 吉野川岸の山吹咲きにけり

     嶺の桜は散りはてぬらん

              藤原家隆(新古今集)

 

など、吉野に縁がある。

 水茶碗はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 水などを飲む茶碗のことか。

  ※俳諧・信徳十百韻(1675)「涼しさは錫の色なり水茶碗 湯帷かたしく庭の夏陰」

 

とある。どうもよくわからないようだ。錫の色とあるから金属製だったのだろう。お湯を入れると熱くて持てないから水専用ということか。

 曲水の宴なら盃が流れてくるが、酒は入ってなくて水茶碗だった。

 

季語は「春」で春。「よし野川」は名所、水辺。

 

二十四句目

 

   よし野川春もながるる水茶碗

 紙袋より粉雪とけ行       信徳

 (よし野川春もながるる水茶碗紙袋より粉雪とけ行)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「薬袋」とした、とある。

 紙袋から出した粉薬を粉雪に見立て、水茶碗の水に溶け行く、とする。

 吉野に雪は、

 

 吉野山峯の白雪いつきえて

     けさは霞の立ちかはるらん

              源重之(拾遺集)

 

の歌がある。

 

季語は「粉雪とけ行」で春、降物。

 

二十五句目

 

   紙袋より粉雪とけ行

 風青く楊枝百本けづるらん    桃青

 (風青く楊枝百本けづるらん紙袋より粉雪とけ行)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は『和漢朗詠集』の、

 

 気霽風梳新柳髪 氷消波洗旧苔鬚

 気霽(はれ)ては風新柳の髪を梳(くしけづ)り、

 氷消ては波旧苔の鬚を洗ふ。

 

から来ているとする。

 楊枝は字面通りだと楊の枝だ。楊と柳は違うが同じ「やなぎ」だし、それ百本をくしけづる(櫛で梳かす)ではなく単に「けづる」とする。和漢朗詠集の詩句を意図的に誤読したところにシュールな面白さが生まれる。最後が「らん」で断定せずに推量とするところも大事。

 「風青く」は青柳が風に靡いて、風が吹いているのが目に見える所から来た造語か。今は「青嵐」と同様の意味として夏の季語になっている。

 

季語は「風青く」で春。

 

二十六句目

 

   風青く楊枝百本けづるらん

 野郎ぞろへの紋のうつり香    信章

 (風青く楊枝百本けづるらん野郎ぞろへの紋のうつり香)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に紋楊枝のことだとある。紋楊枝はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 江戸時代、歌舞伎役者などの定紋をつけた楊枝。

  ※俳諧・大矢数千八百韻(1678)一二「紋楊枝十双倍にうりぬらん 人をぬいたる猿屋か眼」

 

とある。どういう形状の楊枝かはよくわからない。

 西鶴の大矢数の句は役者の紋の入った楊枝が二十倍で売れるというのだから、この頃にも転売ヤーがいたのか。そこで「猿屋」が登場している。日本橋さるやは宝永の創業なのでこの頃はまだなかったが、元禄の頃に書かれた『人倫訓蒙図彙』に「猿は歯白き故に楊枝の看板たり」とあるらしく(ウィキペディアによる)、猿屋を名乗る楊枝屋はそれ以前にもあったのだろう。

 信章の句に「うつり香」とあるから、香りを染み込ませた楊枝だったのだろう。歌舞伎だからまあ、野郎ばかりだが。

 

無季。「野郎」は人倫。

 

二十七句目

 

   野郎ぞろへの紋のうつり香

 双六の菩薩も爰に伊達姿     信徳

 (双六の菩薩も爰に伊達姿野郎ぞろへの紋のうつり香)

 

 双六は古い形のバックギャモンで、日本では古くから博打に用いられてきた。

 一方それとは別に絵双六という今でいう双六に近いものもあって、ウィキペディアには、

 

 「絵双六(えすごろく、繪雙六)というのは、上記の盤双六の影響を受けて発達した遊戯で、紙に絵を描いてさいころを振って絵の上のマスの中にある駒を進めて上がりを目指すものである。ただし、かなり早い段階で(賭博の道具でもあった)盤双六とは別箇の発展を遂げていった。

 ただし、最古のものとされる浄土双六には絵の代わりに仏教の用語や教訓が書かれており、室町時代後期(15世紀後半)には浄土双六が遊ばれていたとされる。なお、その名称や内容から元は浄土宗系統の僧侶によって作られたとも言われ、江戸時代の井原西鶴の作品(『好色一代男』など)には浄土双六がしばしば登場する。」

 

とある。

 この句にある「双六の菩薩」は絵双六の方であろう。

 

無季。釈教。

 

二十八句目

 

   双六の菩薩も爰に伊達姿

 衆生の銭をすくひとらるる    桃青

 (双六の菩薩も爰に伊達姿衆生の銭をすくひとらるる)

 

 前句の双六を浄土双六ではなくギャンブルに用いる盤双六に転じる。菩薩が伊達姿で賭場を開いて、衆生救済ではなく、衆生の銭を掬い取る。桃青ならではなシュール展開になる。

 

無季。釈教。

 

二十九句目

 

   衆生の銭をすくひとらるる

 目の前に嶋田金谷の三瀬川    信章

 (目の前に嶋田金谷の三瀬川衆生の銭をすくひとらるる)

 

 三瀬川(みつせがわ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 仏語。亡者が冥土(めいど)に行く時に渡るという川。渡る所が三か所あり、生前の罪の有無軽重によってどこを渡るかを決定するとされる。みつのせがわ。三途の川。

  ※蜻蛉(974頃)付載家集「みつせがはあささのほどもしらはしと思ひしわれやまづ渡りなん」

 

とある。三途の川のこと。

 嶋田金谷の三瀬川は越すに越されぬ大井川のこと。渡るのに銭を取られる。

 

無季。「嶋田金谷の三瀬川」は水辺。

 

三十句目

 

   目の前に嶋田金谷の三瀬川

 から尻沈む淵はありけり     信徳

 (目の前に嶋田金谷の三瀬川から尻沈む淵はありけり)

 

 「から尻」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 江戸時代の宿駅制度で本馬(ほんま)、乗掛(のりかけ)に対する駄賃馬。一駄は本馬の積荷量(三六~四〇貫)の半分と定められ、駄賃も本馬の半額(ただし夜間は本馬なみ)を普通としたが、人を乗せる場合は、蒲団、中敷(なかじき)、小附(こづけ)のほかに、五貫目までの荷物をうわのせすることができた。からじりうま。かるじり。

  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)一「歩(かち)にてゆく人のため、からしりの馬・籠のり物」

  ② 江戸時代、荷物をつけないで、旅人だけ馬に乗り道中すること。また、その馬。その場合、手荷物五貫目までは乗せることが許されていた。からじりうま。かるじり。

  ※浮世草子・西鶴諸国はなし(1685)五「追分よりから尻(シリ)をいそがせぬれど」

  ※滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)四「このからしりにのりたるは、〈略〉ぶっさきばおりをきたるお侍」

  ③ 馬に積むべき荷のないこと。また、その馬。空荷(からに)の馬。からじりうま。かるじり。

  ※雑兵物語(1683頃)下「げに小荷駄が二疋あいて、から尻になった」

  ④ 誰も乗っていないこと。からであること。

  ※洒落本・禁現大福帳(1755)五「兄分(ねんしゃ)の憐(あはれみ)にて軽尻(カラシリ)の罾駕(よつで)に取乗られ」

 

とある。どれのことかはよくわからないが、とにかく大井川には馬の沈む淵もある。

 

無季。「淵」は水辺。

 

三十一句目

 

   から尻沈む淵はありけり

 小蒲団に大蛇のうらみ鱗形    桃青

 (小蒲団に大蛇のうらみ鱗形から尻沈む淵はありけり)

 

 から尻の①のところに「人を乗せる場合は、蒲団、中敷(なかじき)、小附(こづけ)のほかに」とあるように、小蒲団を尻の下に敷いて乗った。

 鱗形はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 模様や形の名。三角形を一つまたは三つ以上その頂点をあうように組み合わせて配列したもの。歌舞伎では狂言娘道成寺に清姫が蛇体になることを表わした衣装に用い、能楽では鬼女などの衣装に用いる。つなぎうろこ。うろこ。いろこがた。

  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)「小蒲団に大虵のうらみ鱗形(ウロコガタ)〈芭蕉〉 かねの食つぎ湯となりし中〈信章〉」

 

とある。

 から尻の馬が沈むのは鱗形模様の座布団を敷いたりしたから、大蛇の怒りに触れたからだとする。

 

無季。

 

三十二句目

 

   小蒲団に大蛇のうらみ鱗形

 かねの食つぎ湯となりし中    信章

 (小蒲団に大蛇のうらみ鱗形かねの食つぎ湯となりし中)

 

 「食(めし)つぎ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 飯櫃(めしびつ)。おはち。

  2 懐石に用いる道具の一。飯を入れる器。」

 

とある。金属製の飯櫃も溶けて湯になるような恋。

 前句を「思いを寄せた僧の安珍に裏切られた少女の清姫が激怒のあまり蛇に変化し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺す」(ウィキペディアより)として、「安珍・清姫伝説(あんちんきよひめでんせつ)」とし、お寺の釣り鐘ではなく「かねの食つぎ」と矮小化することで俳諧にする。

 

無季。恋。

 

三十三句目

 

   かねの食つぎ湯となりし中

 一二献跡はさびしく暮過て    信徳

 (一二献跡はさびしく暮過てかねの食つぎ湯となりし中)

 

 式三献のことであろう。ウィキペディアの「世界大百科事典内の式三献の言及」に、

 

 「室町時代以後,武家社会の礼法の固定化が進むに伴って整えられた饗膳(きようぜん)形式であるが,年代や料理の流派の差によって内容にはかなりの異同がある。一例を挙げると《宗五大草紙(そうごおおぞうし)》(1528)には,初献(しよこん)に雑煮,二献に饅頭(まんじゆう),三献に吸物といった肴(さかな)で,いわゆる式三献(しきさんこん)の杯事(さかずきごと)を行い,そのあと食事になって,まず〈本膳に御まはり七,くごすはる〉とあり,一の膳には飯と7種のおかず,以下二の膳にはおかず4種に汁2種,三の膳と四の膳(与(よ)の膳)にはおかず3種に汁2種,五・六・七の膳にはそれぞれおかず3種に汁1種を供するとしている。また,〈五の膳まで参り候時も,御汁御まはりの数同前〉とも記されている。」

 

とある。この後半にある「一の膳には飯と7種のおかず」に食(めし)つぎだけが出てきて、「二の膳にはおかず4種に汁2種」がさ湯だけになって、後はなし。寂しく一日を終わる。釜のお焦げを湯で溶いて飲むなら韓国式だが。

 

無季。

 

三十四句目

 

   一二献跡はさびしく暮過て

 月はむかしの親仁友達      桃青

 (一二献跡はさびしく暮過て月はむかしの親仁友達)

 

 「親仁」は「おやじ」のこと。

 

 もろともに見し人いかになりにけん

     月はむかしにかはらざりけり

              登蓮法師(千載集)

 

の歌のように、今は亡き親仁も月を友としていたが、今は自分一人で月を見る。前句を草庵の質素な夕食とする。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「親仁友達」は人倫。

 

三十五句目

 

   月はむかしの親仁友達

 蛬無筆な侘ぞきりぎりす     信章

 (蛬無筆な侘ぞきりぎりす月はむかしの親仁友達)

 

 蛬は「きりぎりす」と読む。コオロギのこと。「無筆」は読み書きができない、「侘」は侘び人のこと。コオロギは読み書きができないが月を友とする。

 月夜のキリギリスは、

 

 秋更けぬ鳴けや霜夜のきりぎりす

     やや影寒し蓬生の月

              後鳥羽院(新古今集)

 

などの歌に詠まれている。

 

季語は「きりぎりす」で秋、虫類。

 

三十六句目

 

   蛬無筆な侘ぞきりぎりす

 胸算用の薄みだるる       信徳

 (蛬無筆な侘ぞきりぎりす胸算用の薄みだるる)

 

 薄(すすき)の影に潜んでいれば寒くなっても大丈夫だと胸算用していたコオロギも、その頼みの薄もやがて枯れてしまう。無学ゆえの悲劇。

 

 すすき散る秋の野風のいかならむ

     夜なく虫の声ぞ寒けき

              土御門院(夫木抄)

 

の心か。『水無瀬三吟』にも、

 

   霜置く野原秋は暮れけり

 鳴く虫の心ともなく草枯れて   宗祇

 

の句がある。

 

季語は「薄」で秋、植物、草類。

二裏

三十七句目

 

   胸算用の薄みだるる

 勝負もなかばの秋の浜風に    桃青

 (勝負もなかばの秋の浜風に胸算用の薄みだるる)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「勝負半ばと半ばの秋とを言い掛けた。碁のあげ石をハマと言う。」とある。

 中盤で大石が死んでしまいアゲハマに大きな差ができたということか。大きな読み違えをしたのだろう。心の中に秋風が吹く。

 浜風の薄は、

 

 庵さす野島が崎の浜風に

     薄おしなみ雪はふりきぬ

              藤原家隆(夫木抄)

 

の用例がある。

 

季語は「秋」で秋。「浜風」は水辺。

 

三十八句目

 

   勝負もなかばの秋の浜風に

 われになりたる波の関守     信章

 (勝負もなかばの秋の浜風にわれになりたる波の関守)

 

 「われ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「『勝負なしの相撲をいふ』(俚言集覧)とある。今の相撲では使われてない。引き分けがないせいか。

 「波の関守」は古代東海道の清見が関で、薩埵峠の道がなかった時代には海岸沿いの波が高いと閉鎖される危険な道を通ったために、波の関守と呼ばれた。

 

 さらぬだにかはらぬそでを清見潟

     しばしなかけそなみのせきもり

              源俊頼(続詞花集)

 

の歌がある。

 浜辺で相撲を取っていたら波が来て引き分けになる。

 

無季。「波の関守」は水辺。

 

三十九句目

 

   われになりたる波の関守

 顕れて石魂たちまち飛衛     信徳

 (顕れて石魂たちまち飛衛われになりたる波の関守)

 

 「石魂」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「謡曲・殺生石『形は今ぞ現す石の二つに割るれば石魂忽ち現れ出でたり』。」とある。石になった玉藻前のことをいう。その玉藻前の霊を成仏させる話で、そのときに石魂が割れる。

 波の関守は須磨にもいる。

 

 いととしく都こひしき夕くれに

     波のせきもるすまのうらかぜ

              源俊頼(堀河百首)

 

 千鳥を出すことで舞台を須磨に転じているのかもしれない。

 千鳥と石は何らかの縁があったのだろう。

 

 鳴く千鳥浪のあけおく浜の石の

     こまかに聞くも声ぞかなしき

              正徹(草根集)

 風さゆる河原の千鳥おりわびて

     鳴くや有明の霜の白石

              正徹(草根集)

 

のような歌は、千鳥が石のあるところにいるということなのだろう。作者が分からなかったが、

 

 利根川の河原を行けば小夜千鳥

     石踏む道にをちかへり鳴く

              (夫木抄)

 

の歌もある。

 

無季。

 

四十句目

 

   顕れて石魂たちまち飛衛

 ふるい地蔵の茅原更行      桃青

 (顕れて石魂たちまち飛衛ふるい地蔵の茅原更行)

 

 前句の石魂をお地蔵さんの霊験によるものとした。それっぽい霊験譚として別の展開を図る。

 

無季。釈教。

 

四十一句目

 

   ふるい地蔵の茅原更行

 塩売の人通ひけり跡見えて    信章

 (塩売の人通ひけり跡見えてふるい地蔵の茅原更行)

 

 塩売はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「塩の取引商人。日本では塩は海岸地方でのみ生産されるといった自然的・地理的制約があるので,山間・内陸地方の需要を満たすため,製塩地と山間・内陸地方との間に古くから塩の交易路,すなわち塩の道が開かれ,そこを塩商人が往来し,各地に塩屋・塩宿が生まれた。塩の取引には,古代から現代に至るまで製塩地の販女(ひさぎめ)・販夫が塩・塩合物をたずさえて,山間・内陸地方産の穀物・加工品との物々交換を行ってきた。とくに中世に入って瀬戸内海沿岸地方荘園から京都・奈良に送られていた年貢塩が途中の淀魚市などで販売されるようになると,大量の塩が商品として出回るようになり,その取引をめぐって各種の塩売商人が登場した。」

 

とある。江戸時代に関しては「世界大百科事典内の塩売の言及」に、

 

 「江戸時代にはいると,寛文年間(1661‐73)には全国海上交通網の整備によって,瀬戸内塩が全国市場に流通し,全流通量の90%を占めるようになり,恒常的に塩廻船が需要地に直送した。生産地からの出荷は,貢租を納めたあと自由搬出される型と,藩専売制によるものとがあった。」

 

 塩はどんな山奥で暮らしていても必要なもので、古くから塩売のための道ができていた。前句の茅原のなかの古い地蔵も、そうした塩売の通う道とした。

 

無季。「人」は人倫。

 

四十二句目

 

   塩売の人通ひけり跡見えて

 文正が子を恋路ならなん     信徳

 (塩売の人通ひけり跡見えて文正が子を恋路ならなん)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「文正草子」とある。ウィキペディアに、

 

 「室町時代に成立した御伽草子の1つ。塩売文正・塩焼文正・ぶん太物語などの異名がある。」

 

とあり、

 

 「常陸国の鹿島大明神の大宮司に仕えていた雑色の文太はある日突然大宮司に勘当され、その後塩焼として財産をなして『文正つねおか』と名乗る長者となる。後に鹿島大明神の加護で2人の美しい娘を授かるが、ある日姉は旅の商人と結ばれてしまう。だが、その商人は姉妹の美しさを伝え聞いた関白の息子である二位中将の変装であった。姉は中将に伴われて上洛すると、今度はその評判を聞いた帝によって文正夫妻と妹が召し出された。妹は中宮となり、姉も夫の関白昇進で北政所となってそれぞれ子供に恵まれ、宰相に任ぜられた文正とその妻も長寿を保ったという。」

 

という物語だという。まあ、塩売って大儲けし、娘は宮中へ玉の輿という庶民願望の物語のようだ。

 

無季。恋。「子」は人倫。

 

四十三句目

 

   文正が子を恋路ならなん

 今日より新狂言と書くどき    桃青

 (今日より新狂言と書くどき文正が子を恋路ならなん)

 

 「新狂言」は歌舞伎の「狂言尽」のことであろう。歌舞伎が半ば売春に走っていた時代から野郎歌舞伎として真面目なお芝居へと変わっていったときに、幕府からも「物真似狂言尽」として許可されるようになった。

 前句を新狂言の演目とし、役人を納得させる。ウィキペディアに、

 

 「歌舞伎研究では寛文・延宝頃を最盛期とする歌舞伎を『野郎歌舞伎』と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。」

 

とある。二十六句目の役者の紋のついた楊枝といい、延宝五年は野郎歌舞伎の全盛期だった。

 

無季。恋。

 

四十四句目

 

   今日より新狂言と書くどき

 物にならずにものおもへとや   信章

 (今日より新狂言と書くどき物にならずにものおもへとや)

 

 新狂言の言葉を使って手紙を書いて口説いたがものにはできなかった。ものになってないのに、もの思ふとはこれいかに。

 

無季。恋。

 

四十五句目

 

   物にならずにものおもへとや

 或時は蔵の二階に追込て     信徳

 (或時は蔵の二階に追込て物にならずにものおもへとや)

 

 今でも「ものにならない」は仕事のできない、使えないという意味で用いられる。蔵の二階で反省しろということか。

 

無季。「蔵の二階」は居所。

 

四十六句目

 

   或時は蔵の二階に追込て

 何ぞととへば猫の目の露     桃青

 (或時は蔵の二階に追込て何ぞととへば猫の目の露)

 

 二階に追い込まれたのは猫だった。

 

季語は「露」で秋、降物。「猫」は獣類。

 

四十七句目

 

   何ぞととへば猫の目の露

 月影や似せの琥珀にくもるらん  信章

 (月影や似せの琥珀にくもるらん何ぞととへば猫の目の露)

 

 猫の目は琥珀色。月に薄い雲のかかったような色をしている。

 

季語は「月影」で秋、夜分、天象。

 

四十八句目

 

   月影や似せの琥珀にくもるらん

 隠元ごろもうつつか夢か     信徳

 (月影や似せの琥珀にくもるらん隠元ごろもうつつか夢か)

 

 偉いお坊さんが黄色い衣をきているところから隠元禅師の登場となる。隠元の衣から衣打つに掛けてさらに打つを「うつつ」に掛けて「うつつか夢か」になる。

 「夢かうつつか」なら、

 

 世中は夢かうつつかうつつとも

     夢ともしらず有りてなけれは

              よみ人しらず(古今集)

 

の古歌にある。

 

季語や「ころもうつ」で秋。

 

四十九句目

 

   隠元ごろもうつつか夢か

 法の声即身即非花散て      桃青

 (法の声即身即非花散て隠元ごろもうつつか夢か)

 

 「即非」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「[生]万暦44 (1616).5.14. 福建

  [没]寛文11 (1671).5.20. 長崎

  江戸時代前期に来朝した中国,明の黄檗僧,書家。俗姓は林,法名は如一。師の隠元隆琦の招きに応じて明暦3(1657)年に来朝。長崎の崇福寺,宇治の萬福寺,豊前の福聚寺などを拠点に黄檗宗の教化に努めた。かたわら書をもって世に聞こえ,隠元,木庵性瑫とともに「黄檗の三筆」と称され,江戸時代の唐様書道界に貢献した。絵も巧みで,崇福寺蔵『牧牛図』,萬福寺塔頭萬寿院蔵『羅漢図』などの作品があり,また著述に『語録』25巻,『仏祖道影賛』1冊がある。」

 

とある。隠元の弟子。

 ともに寛文の時代に亡くなったので、「花散りて」になる。

 

 桜花夢かうつつか白雲の

     たえて常なき峰の春風

              藤原家隆(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「花散て」で春、植物、木類。

 

五十句目

 

   法の声即身即非花散て

 余波の鳫も一くだり行      信章

 (法の声即身即非花散て余波の鳫も一くだり行)

 

 「余波」は「なごり」と読む。「黄檗の三筆」と称された見事な筆跡に帰って行く雁の一行も一行の文のようだ。

 名残の雁は、

 

 帰る雁朧月夜の名残とや

     声さへ霞む曙の空

              後鳥羽院(夫木抄)

 難波潟霞に消えて行く雁の

     名残を残す海人の釣舟

              慈円(夫木抄)

 

などの歌に詠まれている。

 

季語は「余波の鳫」で春、鳥類。

三表

五十一句目

 

   余波の鳫も一くだり行

 上下の越の白山薄霞       信徳

 (上下の越の白山薄霞余波の鳫も一くだり行)

 

 雁が「こしのしらやま」を越えて行く。今は加賀白山(かがはくさん)と呼ばれている。

 

 君がゆく越の白山知らねども

     雪のまにまにあとはたづねむ

              藤原兼輔(古今集)

 

の歌に詠まれている。

 謡曲『白髭』に、「天つ雁、帰る越路の山までも」とあり、和歌でも、

 

 はるし又こしのしら山いかならん

     帰へる帰へるも雁はなくなり

              弁内侍(宝治百首)

 

と、帰る雁の通り道として越の白山が詠まれている。

 「上下(かみしも)」は裃のことだが、ここでは「かみしもの腰」と掛けて枕詞のように用いられている。

 

季語は「薄霞」で春、聳物。「越の白山」は名所、山類。

 

五十二句目

 

   上下の越の白山薄霞

 百万石の梅にほふなり      桃青

 (上下の越の白山薄霞百万石の梅にほふなり)

 

 白山は加賀国にあるので加賀百万石の梅が匂う。

 

季語は「梅」で春、植物、木類。

 

五十三句目

 

   百万石の梅にほふなり

 昔棹今の帝の御時に       信章

 (昔棹今の帝の御時に百万石の梅にほふなり)

 

 「棹」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「ここでは検地のこと。『昔棹』は文禄の検地のことか」とある。いわゆる太閤検地。

 ちなみに延宝五年の時の帝は霊元天皇で寛文三年即位、貞享四年に退位した。

 

無季。「帝」は人倫。

 

五十四句目

 

   昔棹今の帝の御時に

 守随極めの哥の撰集       信徳

 (昔棹今の帝の御時に守随極めの哥の撰集)

 

 ウィキペディアによれば霊元天皇は、

 

 「霊元天皇は、兄後西天皇より古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王や有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である新類題和歌集の編纂を臣下に命じた。」

 

とある。

 後水尾天皇は文禄五年(一五九六年)の生まれで、慶長十六年(一六一一年)から寛永六年(一六二九年)まで在位したあと、延宝八年(一六八〇年)まで長生きした。

 天皇の方はその後明正天皇、後光明天皇、後西天皇を経て霊元天皇の御代となった。この四人は皆後水尾天皇を父とする兄弟だった。

 この間後水尾法皇による類題和歌集の編纂が行われ、完成したのは崩御の後の元祿一六年(一七〇三年)だった。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「類題和歌集」の解説」に、

 

 「[2] 江戸中期の類題私撰集。三一巻。後水尾天皇勅撰。元祿一六年(一七〇三)刊。二十一代集をはじめとしてさまざまの私家集・歌合・百首歌などから約二万九千四百余首を集め、約一万九百の題ごとに四季・恋・雑・公事などに部類したもの。題だけで歌のないものもあり、加藤古風が「類題和歌補闕」六巻を編んで、欠陥を補った。」

 

とある。

 守随(しゅずい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「江戸時代、幕府の許しにより、東三三か国における秤のこと一切をつかさどる特権をもった、江戸秤座(はかりざ)守随彦太郎家。または、守随家によって製作、検定された秤。転じて、一般に秤をいう。なお西三三か国は、神善四郎家が、京秤座としてつかさどった。

  ※御触書寛保集成‐三四・承応二年(1653)閏六月「一 守随、善四郎二人之秤目無二相違一被二仰付一候上ハ、六拾六箇国ニて用レ之、遣可レ申事」

 

とある。前句の「棹」と縁がある。

 霊元天皇は守随を召して秤を極め、もう一方では哥の撰集も行った、という意味だろう。

 

無季。

 

五十五句目

 

   守随極めの哥の撰集

 掛乞も小町がかたへと急候    桃青

 (掛乞も小町がかたへと急候守随極めの哥の撰集)

 

 前句の「守随」を商人の持つ天秤として、「哥の撰集」だから小野小町の所へ年末決算の掛売りの代金を取りに行く。これも時代を無視したシュールギャグ。

 

無季。

 

五十六句目

 

   掛乞も小町がかたへと急候

 これなる朽木の横にねさうな   信章

 (掛乞も小町がかたへと急候これなる朽木の横にねさうな)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもある通り、謡曲『卒塔婆小町』に、

 

 「あまりに苦しう候ほどに、これなる朽木に腰をかけ休まばやと思ひ候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.43187-43189). Yamatouta e books. Kindle 版.)

 

とある。掛乞いの取り立て先は小野小町のことだから「これなる朽木」の横だろう。

 

無季。

 

五十七句目

 

   これなる朽木の横にねさうな

 小夜嵐扉落ては堂の月      信徳

 (小夜嵐扉落ては堂の月これなる朽木の横にねさうな)

 

 堂に泊まろうと思ってたら嵐で扉が壊れていたので朽木の横に寝る。

 小夜嵐は宗祇の時代の、

 

 荻原やとたえをおきて小夜嵐

     月をすゑはの有明のこゑ

              肖柏(春夢草)

 誰がためのとこはらふらむ小夜嵐

     こころならひの浅茅生の霜

              肖柏(春夢草)

 

の用例がある。江戸時代の連歌では正徹や肖柏の時代の和歌の言葉を用いられることが多かったのだろう。俳諧でもこうした室町時代も後期の雅語が用いられることが多い。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「小夜」も夜分。

 

五十八句目

 

   小夜嵐扉落ては堂の月

 ふる入道は失にけり露      桃青

 (小夜嵐扉落ては堂の月ふる入道は失にけり露)

 

 昔ここにいた老いた入道はいなくなっていた。涙の露。こうした露の放り込みはこれ以降の俳諧にしばしば見られる。ほぼ涙の意味で用いられる。「ふる入道は失にけり(TдT)」といったところか。

 

季語は「露」で秋、降物。「入道」は人倫。

 

五十九句目

 

   ふる入道は失にけり露

 海尊やちかい比まで山の秋    信章

 (海尊やちかい比まで山の秋ふる入道は失にけり露)

 

 前句の「ふる入道」を常陸坊海尊とする。

 常陸坊海尊はウィキペディアに、

 

 「源義経の家来となった後、武蔵坊弁慶らとともに義経一行と都落ちに同行し、義経の最後の場所である奥州平泉の藤原泰衡の軍勢と戦った衣川の戦いでは、源義経の家来数名と共に山寺を拝みに出ていた為に生き延びたと言われている。」

 

とある。

 また、

 

 「江戸時代初期に残夢という老人が源平合戦を語っていたのを人々が海尊だと信じていた、と『本朝神社考』に林羅山が書いている。」

 

とあるので、「ちかい比まで」生存説があったようだ。

 

季語は「秋」で秋。「山」は山類。

 

六十句目

 

   海尊やちかい比まで山の秋

 さる柴人がことの葉の色     信徳

 (海尊やちかい比まで山の秋さる柴人がことの葉の色)

 

 山の秋だから葉の色は赤。つまり赤嘘(あかうそ)。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「あか」は全くの意の接頭語) 全くのうそ。まっかなうそ。

  ※俳諧・毛吹草(1638)六「赤うそといはん木葉(このは)の時雨哉〈由氏〉」

 

とある。海尊は遠い昔に死んでいる。

 

季語は「葉の色」で秋。「柴人」は人倫。

 

六十一句目

 

   さる柴人がことの葉の色

 縄帯のそのさまいやしとかかれたり 桃青

 (縄帯のそのさまいやしとかかれたりさる柴人がことの葉の色)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、謡曲『志賀』の、

 

 「さりながらかの黒主が歌の如く、その様賤しき山賤の薪を負ひて花の蔭に、休む 姿はげにも又、その身に応ぜぬふるまひなり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.2725-2729). Yamatouta e books. Kindle 版.)

 「浜の真砂より、数多き言の葉の、心の花の色香までも、妙なれや敷島の道ある御代の翫び。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.2779-2782). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引用している。これは古今集仮名序の、

 

 「おほとものくろぬしは、そのさま、いやし。いはば、たきぎおへる山人の、花のかげにやすめるがごとし。」

 

による。

 前句の柴人を大友黒主とする。

 

無季。「縄帯」は衣裳。

 

六十二句目

 

   縄帯のそのさまいやしとかかれたり

 これぞ雨夜のかち合羽なる     信章

 (縄帯のそのさまいやしとかかれたりこれぞ雨夜のかち合羽なる)

 

 「かち合羽」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「合羽の両袖があって裾の短いものをいう。歩行者用。」とある。「雨夜」はここでは品定めではなく、

 

 弥陀頼む人は雨夜の月なれや

     雲晴れねども西へこそゆけ

             西行法師(玉葉集)

 

という謡曲『百万』に引用されている歌で、前句の卑しい様を巡礼者としたのではないかと思う。

 

無季。「雨夜」は夜分、降物。「合羽」は衣裳。

 

六十三句目

 

   これぞ雨夜のかち合羽なる

 飛乗の馬からふとや子規      信徳

 (飛乗の馬からふとや子規これぞ雨夜のかち合羽なる)

 

 通りすがりの馬に乗せてもらったがホトトギスの声がしたので、よく聞こうとして馬を降りてしまった。これぞ徒歩合羽。

 

   みちゆく人きのもとにゐてほととぎすの

   なきてゆくをおよびさしていふことあるべし

 たまほこの道もゆかれずほととぎす

     なきわたるなるこゑをききつつ

               紀貫之(古今集)

の歌のも通じる。

 雨のホトトギスは、

 

 五月雨に物思ひをれば郭公

     夜ふかく鳴きていづちゆくらむ

               紀友則(古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「子規」で夏、鳥類。「馬」は獣類。

 

六十四句目

 

   飛乗の馬からふとや子規

 森の朝影狐ではないか       桃青

 (飛乗の馬からふとや子規森の朝影狐ではないか)

 

 「狐を馬に乗せたよう」という諺はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「ぐらぐらと動いて落ち着きのないこと。また、あいまいでつかみどころのないこと。言うことに信用がおけないこと。きつねうま。

  ※俳諧・毛吹草(1638)二「きつねむまにのせたるごとし」

 

とある。

 ホトトギスの一声は、

 

 ほととぎす鳴きつる方を眺むれば

     ただ有明の月ぞ残れる

              後徳大寺左大臣(千載集)

 

のように明け方に詠まれることも多い。

 馬に何かが飛び乗ってきたと思ったらホトトギスだった。きっと狐が化けたのだろう。

 

無季。「狐」は獣類。

三裏

六十五句目

 

   森の朝影狐ではないか

 二柱弥右衛門と見えて立かくれ   信章

 (二柱弥右衛門と見えて立かくれ森の朝影狐ではないか)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『野宮(ののみや)』の、

 

 「夕暮の秋の風、森の木の間の夕月夜、影かすかなる木の下の、黒木の、鳥居の二 柱に立ち隠れて失せにけり跡立ち隠れ失せにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.25198-25202). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引用している。伊勢斎宮の精進屋とされた野の宮に『源氏物語』の六条御息所の霊の現れる物語だ。

 句の方は言葉だけ用いて朝の神社に弥右衛門が現れたのを狐ではないかとする。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には大蔵弥右衛門のこととする。狂言の大蔵流はウィキペディアに、

 

 「大藏流の歴史は、流祖玄恵法印(1269-1350)。二世日吉彌兵衛から二十五世大藏彌右衛門虎久まで700年余続く。

 猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える能楽狂言最古の流派で、代々金春座で狂言を務めた。大藏彌右衛門家が室町後期に創流した。

 江戸時代には鷺流とともに幕府御用を務めたが、狂言方としての序列は2位と、鷺流の後塵を拝した。宗家は大藏彌右衛門家。分家に大藏八右衛門家(分家筆頭。幕府序列3位)、大藏彌太夫家、大藏彌惣右衛門家があった。」

 

とある。

 

無季。

 

六十六句目

 

   二柱弥右衛門と見えて立かくれ

 三笠の山をひつかぶりつつ     信徳

 (二柱弥右衛門と見えて立かくれ三笠の山をひつかぶりつつ)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、謡曲『春日龍神』の、

 

 「(下歌)月に立つ影も鳥居の二柱。

 「(上歌)御社の、誓ひもさぞな四所の、誓ひもさぞな四所の、神の代よりの末うけて、澄める水屋の御影まで塵に交はる神心、三笠の森の松風も、枝を鳴らさぬ・気色かな枝を鳴らさぬ気色かな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.80711-80720). Yamatouta e books. Kindle 版.)

 

を引いている。三笠山は春日神社だから鳥居はあってもおかしくはない。

 春日神社には拝殿がなく、三笠山自体が御神体だという。鳥居をくぐる弥右衛門の上に三笠山が見えれば、あたかも三笠山を被ったかのように見えるが、句自体は巨大な山を頭に被るというシュールな印象を与える。

 

無季。「三笠の山」は名所、山類。

 

六十七句目

 

   三笠の山をひつかぶりつつ

 萬代の古着かはうとよばふなる   桃青

 (萬代の古着かはうとよばふなる三笠の山をひつかぶりつつ)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、『和漢朗詠集』の、

 

 萬代と三笠の山ぞよばふなる

     あめがしたこそたのしかるらむ

               仲算

 

の歌を引用している。当時新品の着物はオーダーメイドで高価だったため、庶民は古着屋を利用するのが普通だったっという。

 

無季。「古着」は衣裳。

 

六十八句目

 

   萬代の古着かはうとよばふなる

 質のながれの天の羽衣       信章

 (萬代の古着かはうとよばふなる質のながれの天の羽衣)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『呉服(くれは)』とある。応神天皇の時代に摂津住吉で御衣を織ったという呉織(くれはとり)漢織(あやはとり)を尋ねてゆく話で、そこで

 

 「君が代は天の羽衣稀にきて、撫づとも尽きぬ巌ならなん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.13531-13533). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。この歌は『拾遺集』の詠み人しらずの和歌でもある。。

 神代にも近い時代ということで「萬代の古着」を「天の羽衣」とする。

 

無季。「羽衣」は衣裳。

 

六十九句目

 

   質のながれの天の羽衣

 田子の浦浪打よせて負博奕     信徳

 (田子の浦浪打よせて負博奕質のながれの天の羽衣)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『富士山』を引く。謡曲『羽衣』でもいい。

 三保の松原の有名な羽衣伝説で、天の羽衣を拾った漁師が田子の裏で博奕に負けて、それが後に質に流れたとする。

 謡曲でも白竜という漁師は家の宝にしようと持ち帰ろうとする。天女の羽衣だといわれても、今度は国の宝にと持ち帰ろうとする。それがなければ天に帰れないといわれても、かえって増長して隠して持ち帰る。

 

無季。「田子の浦」は名所、水辺。「浪」も水辺。

 

七十句目

 

   田子の浦浪打よせて負博奕

 不首尾でかへる蜑の釣舟      桃青

 (田子の浦浪打よせて負博奕不首尾でかへる蜑の釣舟)

 

 博奕に負けて海人は帰って行く。『校本芭蕉全集 第三巻』の注が引用する、

 

 さして行く方は湊の浪高み

     うらみて帰る蜑の釣舟

               よみ人しらず(新古今集)

 

は證歌になる。

 

無季「蜑の釣舟」は水辺。

 

七十一句目

 

   不首尾でかへる蜑の釣舟

 前は海入日をあらふうしろ疵    信章

 (前は海入日をあらふうしろ疵不首尾でかへる蜑の釣舟)

 

 「入日をあらふ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 なごの海のかすみのまよりながむれば

     入日をあらふ沖つ白波

               藤原実定(新古今集)

 

を引く。ここでは入日(の頃)にうしろ疵を洗う、になる。

 「うしろ疵」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 身の後部に受けた傷。特に、逃げるときに後ろから切られた逃げ傷。これを恥とした武士の倫理感を受け継いで、一般に卑怯(ひきょう)な、不名誉なものとされた。⇔向こう傷。

  ※浄瑠璃・曾我扇八景(1711頃)十番斬「手おひぶりはあっぱれ見事、見ごとなれ共うしろきづ、にげきづなりとぞ」

 

とある。仇を討とうとして返り討ちにあったのだろう。沈む夕日が哀愁を誘う。

 

無季。「海」は水辺。「入日」は天象。

 

七十二句目

 

   前は海入日をあらふうしろ疵

 松が根まくら石の綿とる      信徳

 (前は海入日をあらふうしろ疵松が根まくら石の綿とる)

 

 石綿はここではアスベストではなく「ほこりたけ(埃茸)」の異名だという。ウィキペディアに、

 

 「漢方では「馬勃(ばぼつ)」の名で呼ばれ、完熟して内部組織が粉状となったものを採取し、付着している土砂や落ち葉などを除去し、よく乾燥したものを用いる。咽頭炎、扁桃腺炎、鼻血、消化管の出血、咳などに薬効があるとされ、また抗癌作用もあるといわれる[6]。西洋でも、民間薬として止血に用いられたという。

 ホコリタケ(および、いくつかの類似種)は、江戸時代の日本でも薬用として用いられたが、生薬名としては漢名の「馬勃」がそのまま当てられており、薬用としての用途も中国から伝えられたものではないかと推察される。ただし、日本国内の多くの地方で、中国から伝来した知識としてではなく独自の経験則に基づいて、止血用などに用いられていたのも確かであろうと考えられている。」

 

とある。松の根を枕にして休み、怪我したからホコリタケで血を止める。

 謡曲『葛城』に、

 

 「篠懸の袖の朝霜起臥の、袖の朝霜起臥の、岩根の枕松が根の」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.29944-29945). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 岩根の枕は、

 

 住吉の松の岩根を枕にて

     敷津の浦の月を見るかな

               藤原実定(新後撰集)

 

の歌にも詠まれている。

 

無季。「松が根」は植物、木類。

 

七十三句目

 

   松が根まくら石の綿とる

 つづれとや仙女の夜なべ散紅葉   桃青

 (つづれとや仙女の夜なべ散紅葉松が根まくら石の綿とる)

 

 「つづる」は縫い合わせること。

 前句を「松が根枕」という枕の種類として、綿の代わりに石が入っていて、仙女が夜なべして紅葉を縫い合わせて作る。

 紅葉の錦は織るもので、

 

 こころざし深く染めてし龍田姫

     織るや錦の山のもみぢ葉

               藤原家隆(壬二集)

 

など歌に詠まれている。

 

季語は「散紅葉」で冬、植物、木類。「夜なべ」は夜分。

 

七十四句目

 

   つづれとや仙女の夜なべ散紅葉

 瓦灯の煙に俤の月         信章

 (つづれとや仙女の夜なべ散紅葉瓦灯の煙に俤の月)

 

 「瓦灯(かとう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「がとう」とも)

  ① 灯火をともす陶製の道具。方形で上がせまく下が広がっている。〔文明本節用集(室町中)〕

  ※俳諧・毛吹草(1638)五「川岸の洞は蛍の瓦燈(クハトウ)哉〈重頼〉」

  ② 「かとうぐち(火灯口)①」の略。

  ※歌舞伎・韓人漢文手管始(唐人殺し)(1789)四「見附の鏡戸くゎとう赤壁残らず毀(こぼ)ち、込入たる体にて」

  ③ 「かとうびたい(火灯額)」の略。

  ※浮世草子・好色一代女(1686)四「額際を火塔(クハタウ)に取て置墨こく、きどく頭巾より目斗あらはし」

  ④ 「かとうまど(火灯窓)」の略。

  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「つづれとや仙女の夜なべ散紅葉〈芭蕉〉 瓦灯(クハトウ)の煙に俤の月〈信章〉」

 

とある。

 ④だとするのは『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「漢の武帝が反魂香を焚いて」とあり、、ウィキペディアに、

 

 「もとは中国の故事にあるもので、中唐の詩人・白居易の『李夫人詩』によれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという。」

 

とある。白居易の『李夫人詩』には

 

 又令方土合霊薬 玉釜煎錬金爐焚

 九華帳深夜悄悄 反魂香反夫人魂

 夫人之魂在何許 香煙引到焚香処

 

とあるから、この故事を付けたというのだろう。

 ただ、これだと前句との関連がよくわからない。①の意味だと紅葉散る季節に仙女が夜なべして繕い物をし、瓦灯が煙に霞んで月のように見える、となる。

 

季語は「月」で秋、夜分。天象。

 

七十五句目

 

   瓦灯の煙に俤の月

 我恋を鼠のひきしあしたの秋    信徳

 (我恋を鼠のひきしあしたの秋瓦灯の煙に俤の月)

 

 「あしたの秋」は秋の朝。後朝(きぬぎぬ)だけど鼠も逃げてゆく貧しさで、瓦灯の煙に去っていった人の俤の月を見る。

 

季語は「秋」で秋。恋。「我」は人倫。「鼠」は獣類。

 

七十六句目

 

   我恋を鼠のひきしあしたの秋

 涙じみたるつぎ切の露       桃青

 (我恋を鼠のひきしあしたの秋涙じみたるつぎ切の露)

 

 「つぎ切(ぎれ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「つぎきれ」とも) 着物などのつぎに使う小ぎれ。〔日葡辞書(1603‐04)〕

  ※浄瑠璃・心中天の網島(1720)中「有りたけこたけ引出しても、つぎぎれ一尺あらばこそ」

 

 つぎ切で涙の露をぬぐう。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。

 

七十七句目

 

   涙じみたるつぎ切の露

 衣装絵の姿うごかす花の風     信章

 (衣装絵の姿うごかす花の風涙じみたるつぎ切の露)

 

 「衣装絵」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「押絵のこと」とある。エキサイト辞書には、

 

 「押絵. 布細工の一種で,人物や花鳥の形を厚紙でつくり,裂(きれ)を押しつけて張り,その間に綿を入れて高低を ... そのほか手箱のふたや壁かけ,絵馬などにも用いられ,江戸時代には家庭婦人の手芸の一つとしておこなわれた。 ... 諸(もろもろ)の織物をもて,ゑを切抜(きりぬき),これをつくる〉とあり,衣装人形とか衣装絵とも呼ばれていたが,江戸時代中期には押絵と呼ばれるようになった。」

 

とある。

 衣装絵を縫うときの情景。風が花を散らし、それに何か悲しいことを重ね合わせたかつぎ切で涙をぬぐう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

七十八句目

 

   衣装絵の姿うごかす花の風

 匂ひをかくる願主しら藤      信徳

 (衣装絵の姿うごかす花の風匂ひをかくる願主しら藤)

 

 前句の衣装絵を願掛けの絵馬とする。願主は「しら藤」、源氏名だろうか。

 

季語は「藤」で春、植物、木類。

名残表

七十九句目

 

   匂ひをかくる願主しら藤

 鈴の音一貫二百春くれて      桃青

 (鈴の音一貫二百春くれて匂ひをかくる願主しら藤)

 

 願掛の儀式を行ってもらったが、神主さんが鈴を一振りするたびに一貫二百文の金が出て行く。

 

季語は「春くれて」で春。

 

八十句目

 

   鈴の音一貫二百春くれて

 かた荷はさいふめてはかぐ山    信章

 (鈴の音一貫二百春くれてかた荷はさいふめてはかぐ山)

 

 「さいふめる」は「細布+めく」だろう。細布のようなもの。バールのようなものは古語だと「バールめくもの」になるのだろうか。

 細布はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 奈良・平安時代、細い糸で織った布。原料は麻、紵など。上質の布。一般の調布よりも幅が狭く、一端の長さが長く軽い。

  ※続日本紀‐和銅七年(714)二月庚寅「去レ京遙遠、貢調極重。請代二細布一、頗省二負担一。其長六丈」

  ② 綿織物の一種。経(たていと)緯(よこいと)とも二〇番ないし二四番ぐらいの細い単糸を、細かく平織にしたもの。」

 

とある。

 天秤の片方には鈴、片方には細布で春の暮に香具山の方へと運ぶ。

 「春くれて」「かぐ山」の縁は、

 

 春過ぎて夏来にけらし白妙の

     衣ほすてふ天の香具山

               持統天皇(新古今集)

 

による。

 

無季。「かぐ山」は名所、山類。

 

八十一句目

 

   かた荷はさいふめてはかぐ山

 雲助のたな引空に来にけらし    信徳

 (雲助のたな引空に来にけらしかた荷はさいふめてはかぐ山)

 

 雲助はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 江戸時代、住所不定の道中人足。宿駅で交通労働に専従する人足を確保するために、無宿の無頼漢を抱えておき、必要に応じて助郷(すけごう)役の代わりに使用したもの。くも。

  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「雲助のたな引空に来にけらし〈信徳〉 幽灵(ゆうれい)と成て娑婆の小盗〈芭蕉〉」

  ② 下品な者や、相手をおどして暴利をむさぼる者などをののしっていう。

  ※甘い土(1953)〈高見順〉「気の弱そうなこの男が、一時は『雲助』とまで言われた流しの運転手を、よくやれたものだ」

 

とある。近代ではタクシーやトラックの運転手への蔑称としても「雲助」という言葉が用いられていた。

 細布を運ぶのは雲助で、雲と名がつくだけあってたなびく空から香具山に降りてくると、これはシュールネタ。

 

 ほのぼのと春こそ空に来にけらし

     天の香具山霞たなびく

               後鳥羽上皇(新古今集)

 

をふまえる。

 

無季。「雲助」は人倫。

 

八十二句目

 

   雲助のたな引空に来にけらし

 幽霊と成て娑婆の小盗       桃青

 (雲助のたな引空に来にけらし幽霊と成て娑婆の小盗)

 

 空中に漂っているということで前句の雲助を幽霊とした。ただ、雲助はこの頃からいかにも小盗みをしそうなならず者というイメージだったようだ。

 

無季。

 

八十三句目

 

   幽霊と成て娑婆の小盗

 無縁寺の橋の上より落さるる    信章

 (無縁寺の橋の上より落さるる幽霊と成て娑婆の小盗)

 

 「無縁寺」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「[1] 弔う縁者がなかったり、身元の知れなかったりする死者を葬る寺。無縁仏を回向(えこう)するための寺。むえんでら。

  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「幽霊と成て娑婆の小盗〈芭蕉〉 無縁寺の橋の上より落さるる〈信章〉」

  [2] 東京都墨田区両国にある浄土宗の寺、回向院の寺号。山号は諸宗山。明暦三年(一六五七)の大火で焼死した十万八千余の無縁仏をこの地に埋葬し、その菩提を弔うために建立。開基は遵誉。開山は自心。以後、江戸の無縁仏はすべてこの寺に葬られた。」

 

とある。回向院が両国橋の所にあったので、大火などで大勢の身元不明の死体が生じた時は、それこそ「橋の上より落さるる」といった情景もあったのかもしれない。

 

無季。釈教。「橋」は水辺。

 

八十四句目

 

   無縁寺の橋の上より落さるる

 都合その勢万日まいり       信徳

 (無縁寺の橋の上より落さるる都合その勢万日まいり)

 

 「都合その勢」と軍記物のように思わせて、一万の兵ではなく万日参りの賑わいだった。

 千日参りだと、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 祈願のため千日の間、毎日、神社・仏閣に参詣すること。千日。千日詣。

  ※多聞院日記‐永祿九年(1566)正月二三日「愚身千日参・七月精進・七夜待以下の行をするを」

  ② 特に、江戸時代、一日参詣すると千日分の功徳に値するとされた特定の日。また、その日に参詣すること。江戸の浅草寺では陰暦七月一〇日、京都の愛宕神社では陰暦六月二四日。千日詣。四万六千日。〔日次紀事(1685)〕」

 

とあるが、万日参りはないところを見ると信徳さんが少々盛ったか。

 

無季。

 

八十五句目

 

   都合その勢万日まいり

 祖父祖母早うつたてや者共とて   桃青

 (祖父祖母早うつたてや者共とて都合その勢万日まいり)

 

 「うつたつ」は「うっ発つ」で出発のことで、爺さん婆さんが「はよ行ってこいや」っという感じか。「ものども」というところで何か合戦に行くみたいなイメージになり、前句につながる。

 

無季。「祖父祖母」は人倫。

 

八十六句目

 

   祖父祖母早うつたってや者共とて

 鼓をいだき草鞋しめはく      信章

 (祖父祖母早うつたってや者共とて鼓をいだき草鞋しめはく)

 

 前句の「うつたてや」を鼓を「打ったてや」と両方の意味にする。「うっ発てや」の意味もあるので草鞋を履く。

 

無季。

 

八十七句目

 

   鼓をいだき草鞋しめはく

 米袋口をむすんで肩にかけ     信徳

 (米袋口をむすんで肩にかけ鼓をいだき草鞋しめはく)

 

 昔の人は60キロの米俵を誰もが担いでいたという。ネット上に五俵300キロを担いでいる写真があるが、あれはやらせで、いくらなんでも無理だ。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『百万』の、「親子のちぎり麻衣、肩に結んで裾にさげ、裾を結びて肩にかくる、筵ぎれ」を引用している。これは嵯峨の大念仏に向かう場面。

 

無季。

 

八十八句目

 

   米袋口をむすんで肩にかけ

 木賃の夕部風の三郎        桃青

 (米袋口をむすんで肩にかけ木賃の夕部風の三郎)

 

 木賃宿はウィキペディアに、

 

 「本来の意味は、江戸時代以前の街道筋で、燃料代程度もしくは相応の宿賃で旅人を宿泊させた最下層の旅籠の意味である。宿泊者は大部屋で、寝具も自己負担が珍しくなく、棒鼻と呼ばれた宿場町の外縁部に位置した。食事は宿泊客が米など食材を持ち込み、薪代相当分を払って料理してもらうのが原則であった。木賃の「木」とはこの「薪」すなわち木の代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれた。」

 

とある。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「木銭宿ともいう。宿泊代金が薪水の費用のみであった頃の旅宿の呼称。慶長 19 (1614) 年の令には,「旅人駅家に投じてその柴薪を用うれば,木賃鐚銭三文を出し…」というのがある。野宿から旅籠 (はたご) に移る過渡期の宿泊所で,鎌倉時代に生れた。近世以降はきわめて宿泊料の安い宿泊所をいうようになった。」

 

とある。

 米持ち込みだが、旅ともなるとさすがに米俵ではなく、何日分かの米を入れる米袋があったのだろう。

 風の神のことを昔は「風の三郎」といったらしく、宮沢賢治の『風の又三郎』もそこから来ているという。何で風の三郎というかについてはよくわからない。

 ウィキペディアの「風神」の所には、

 

 「第3義には、江戸時代の日本にいた乞食の一種で、風邪が流行った時に風邪の疫病神を追い払うと称して門口に立ち、面をかぶり鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らして金品をねだる者、すなわち「風神払/風の神払い(かぜのかみはらい)」を指す。」

 

とあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」にも、

 

 「③ こじきの一種。江戸時代、風邪がはやった時、風の神を追い払うといって、仮面をかぶり、太鼓を打って、金品をもらい歩いた者。風の神払い。」

 

とある。木賃宿に泊まるのはこの風神か。

 

無季。

 

八十九句目

 

   木賃の夕部風の三郎

 韋達天もしばしやすらふ早飛脚   信章

 (韋達天もしばしやすらふ早飛脚木賃の夕部風の三郎)

 

 前句の風神風の三郎を早飛脚とする。足の早い韋駄天もその速さにしばし立ち止まってしまうほど早い。

 

無季。「早飛脚」は人倫。

 

九十句目

 

   韋達天もしばしやすらふ早飛脚

 出せや出せと責る川舟       信徳

 (韋達天もしばしやすらふ早飛脚出せや出せと責る川舟)

 

 いくら足の早い飛脚も川止めにあってはどうしようもない。早く舟を出せと急かす。

 『笈の小文』の旅の時の杖つき坂の句には別バージョンの真蹟の詞書があって、

 

 「さやよりおそろしき髭など生たる飛脚めきたるおのこ同船しけるに、折々舟人をねめいかるに興さめて、山々のけしきうしなふ心地し侍る。

 漸々桑名に付て、処々籠に乗、馬にておふ程、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。ひとりたびのわびしさも哀増て、やや起あがれば、『まさなの乗てや』と、まごにはしかられて、

 

 かちならば杖つき坂を落馬哉

 

終に季の言葉いらず。」

 

とある。飛脚が船頭をどつくのはよくあることだったのか。

 

無季。「川舟」は水辺。

 

九十一句目

 

   出せや出せと責る川舟

 走り込追手㒵なる波の月      桃青

 (走り込追手㒵なる波の月出せや出せと責る川舟)

 

 舟を出せと何をそんなに急いでいるのか。波に映る月が追手に見えるのか。月が沈むまでに渡りたいということか。

 波の月影になるが、和歌では、

 

 虫明のまつとしらせよ袖の上に

     しをりしままの波の月影

               藤原定家(仙洞句題五十首)

 虫明の瀬戸のしほひの明け方に

     波の月影遠ざかるなり

               藤原良経(秋篠月清集)

 

などのように詠まれている。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「浪」は水辺。

 

九十二句目

 

   走り込追手㒵なる波の月

 すは請人か芦の穂の声       信章

 (走り込追手㒵なる波の月すは請人か芦の穂の声)

 

 請人は連帯保証人のこと。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「鎌倉,室町時代の荘園において,地頭,荘官らが一定額の年貢納入を荘園領主に対して請負う場合 (→請所 ) ,請負う側のものを請人といった。また,中世,近世における保証人を請人と称した。中世における請人は,債務者の逃亡,死亡の場合に弁償の義務を負い,債務者の債務不履行の場合にも,請人に弁償させるためには保証文書にその旨を記載する必要があった。近世における請人は,人請,地請,店請,金請などの場合が主であったが,金請の場合中世とは異なり,債務者の債務不履行の場合当然に弁償の義務を負い,債務者の死失 (死亡) の際に請人に弁償させるためには債務証書にその旨を記載する必要があった。しかし,宝永1 (1704) 年以降,死失文言の有無にかかわらず,債務者死失のときも請人が弁償すべきものとされた。」

 

とある。近代でも「連帯保証人」という名前で民法に規定されてきた。基本的に無限責任だったため、他人の拵えた借金で破産・一家心中など悲惨なことになっていた。去年2020年にようやく補償すべき債務の限度額を契約書に明記しなければならなくなった。

 ある意味近代のような法治国家の方が過酷だったかもしれない。江戸時代であれば請人が借金をした張本人を自力救済で締め上げることもできただろう。

 請人につかまったらどうなるか分かったもんではない。芦の穂の向こうから物音が聞こえてくると請人が追ってきたのかとびくっとする。実際は波の音だった。

 芦の穂というと、

 

 難波潟芦の穂末に風ふけば

     たちよる波のはなかとそみる

               京極関白家肥後(堀河百首)

 入り江漕ぐをふねに靡く芦の穂は

     わかるとみれどたちかへりけり

               藤原俊成(玉葉集)

 

の歌がある。穂の立つに掛けて「たちよる」「たちかへり」と繋がる。

 

季語は「芦の穂」で秋、植物、草類、水辺。「請人」は人倫。

名残裏

九十三句目

 

   すは請人か芦の穂の声

 物の賭振舞にする天津雁      信徳

 (物の賭振舞にする天津雁すは請人か芦の穂の声)

 

 芦に雁は「刈」と掛けることで縁語になる。

 振舞(ふるまい)はサイコロを振るに掛けていて、サイコロの目に恩恵を施す天津神となるところを前句の芦との縁で天津雁とする。恩恵を施してくれるのは天津神ならぬ天津雁が請人で、さっさと稼いで借金返せということなのか。天津雁は、天津「借り」でもある。

 

季語は「雁」で秋、鳥類。

 

九十四句目

 

   物の賭振舞にする天津雁

 木鑵子の尻山の端の雲       桃青

 (物の賭振舞にする天津雁木鑵子の尻山の端の雲)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「『百物語』(万治二年刊)にある笑話。『やける』と言うと負けになる賭で、伽羅木の鑵子を炉にかけるという話をして」

 

とある。木でできた薬缶は火にかければ焼ける。山の端の雲の朝焼け夕焼けで焼ける。夕焼け空と天津雁は縁になる。

 この『百物語』についてはコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「仮名草子(咄本(はなしぼん))。二巻二冊。編者未詳。1659年(万治2)刊。「百物語をすればかならずこはき物あらはれ出る」と聞いて百物語をしてみたが、太平の御代(みよ)に恐いものなどは現れぬと大笑いした、という序のもとに、100の笑話を集録した作品。宗鑑や一休、策彦(さくげん)、紹巴(じょうは)、宗祇(そうぎ)、貞徳などの著名人を登場させて読者の興をひく話、狂歌や付句(つけく)のおかしみをねらった話、落ちのおもしろさをねらった話などが雑纂(ざっさん)的に並列されているが、中世末から近世初頭の時代風潮を反映した話も少なくない。『きのふはけふの物語』や『醒睡笑(せいすいしょう)』ほどの影響力はもたないにしても、それらとともに、近世を通じて流行する笑話本の先駆けをなしたものとして注目される作品の一つである。[谷脇理史]

『武藤禎夫・岡雅彦編『噺本大系1』(1975・東京堂出版)』」

 

とある。

 本来の百物語は怪談だが、この『百物語』だけは違うようだ。

 山の端の雁は、

 

 行末のおぼつかなきは山の端の

     暮れぬる空に帰る雁金

               嘉陽門院越前(正治後度百首)

 

の歌がある。

 

無季。「山の端」は山類。「雲」は聳物。

 

九十五句目

 

   木鑵子の尻山の端の雲

 人形の鍬の下より行嵐       信章

 (人形の鍬の下より行嵐木鑵子の尻山の端の雲)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「祇園祭の郭巨山」とある。郭巨山(かっきょやま)は「京都 祇園祭 郭巨山公式ホームページ」に詳しく書かれている。後漢の郭巨は捨て子をしようとして鍬で穴を掘ったら黄金の釜が出てきたという。

 人形の持ち物だから本物の金の釜ではなく木で作られたまがい物。「山の端の雲」の縁で「行嵐」とする。

 

 今行くか秋も嵐の横雲に

     いづれは白む山の端の月

               藤原定家(拾遺愚草、夫木抄)

 

の歌がある。

 

無季。

 

九十六句目

 

   人形の鍬の下より行嵐

 畠にかはる芝居さびしき      信徳

 (人形の鍬の下より行嵐畠にかはる芝居さびしき)

 

 仮説の芝居小屋は去って行って元の畠に戻る。人形劇は嵐のように去っていった。

 

無季。

 

九十七句目

 

   畠にかはる芝居さびしき

 この翁茶屋をする事七度迄     桃青

 (この翁茶屋をする事七度迄畠にかはる芝居さびしき)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『白髭』の、

 

 「翁答へて申すやう、われ人寿、六十歳の初めより、この山の主として、この湖の七度まで、蘆原になりしをも、正に見たりし翁なり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.9255-9259). Yamatouta e books. Kindle 版.より)

 

の一節を引いている。

 本地垂迹に基づいた近江白髭神社の起源をテーマにした能で、蘆原中つ国に住む翁を描いた部分になる。仏法に帰依し白髭の神となる。

 句の方は翁を芝居が来るたびに芝居茶屋を七度やって、今は畠になったとする。

 

無季。「翁」は人倫。

 

九十八句目

 

   この翁茶屋をする事七度迄

 住吉諸白砂ごしの海        信章

 (この翁茶屋をする事七度迄住吉諸白砂ごしの海)

 

 諸白(もろはく)はウィキペディアに、

 

 「日本酒の醸造において、麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名。または、その製法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のこと。」

 

とある。住吉に寄せる白波を酒の諸白にして、高砂の翁が茶屋をする。

 

無季。「住吉」は名所、水辺。「海」も水辺。

 

九十九句目

 

   住吉諸白砂ごしの海

 淡路潟かよひに花の香をとめて   信徳

 (淡路潟かよひに花の香をとめて住吉諸白砂ごしの海)

 

 淡路島は住吉からすると大阪湾の向かい側にある。謡曲『淡路』にも、

 

 「われ宿願の仔細あるにより、住吉玉津島に参詣仕りて候。又よきついでにて候へ ば、これより淡路の国に渡り、神代の古跡をも一見せばやと存じ候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.3958-3964). Yamatouta e books. Kindle 版.より)

 

とある。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「淡路島」は名所、水辺。

 

挙句

 

    淡路潟かよひに花の香をとめて

 神代このかたお出入の春      主筆

 (淡路潟かよひに花の香をとめて神代このかたお出入の春)

 

 前句の「かよひ」を通い帳のこととして、金銭の出入り盛んな春とする。神代より栄えるこの国を言祝いで一巻は目出度く終了する。

 

季語は「春」で春。神祇。