「霜月や」の巻、解説

貞享元年霜月の興行

初表

   田家眺望

 霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮

   冬の朝日のあはれなりけり   芭蕉

 樫檜山家の体を木の葉降      重五

   ひきずるうしの塩こぼれつつ  杜国

 音もなき具足に月のうすうすと   羽笠

   酌とる童蘭切にいで      野水

 

初裏

 秋のころ旅の御連歌いとかりに   芭蕉

   漸々はれて富士みゆる寺    荷兮

 寂として椿の花の落る音      杜国

   茶に糸遊をそむる風の香    重五

 雉追に烏帽子の女五三十      野水

   庭に木曾作るこひの薄絹    羽笠

 なつふかき山橘にさくら見ん    荷兮

   麻かりといふ哥の集あむ    芭蕉

 江を近く独楽庵と世を捨て     重五

   我月出よ身はおぼろなる    杜国

 たび衣笛に落花を打払       羽笠

   篭輿ゆるす木瓜の山あい    野水

 

 

二表

 骨を見て坐に泪ぐみうちかへり   芭蕉

   乞食の蓑をもらふしののめ   荷兮

 泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て   杜国

   御幸に進む水のみくすり    重五

 ことにてる年の小角豆の花もろし  野水

   萱屋まばらに炭団つく臼    羽笠

 芥子あまの小坊交りに打むれて   荷兮

   おるるはすのみたてる蓮の実  芭蕉

 しづかさに飯台のぞく月の前    重五

   露をくきつね風やかなしき   杜国

 釣柿に屋根ふかれたる片庇     羽笠

   豆腐つくりて母の喪に入    野水

 

二裏

 元政の草の袂も破ぬべし      芭蕉

   伏見木幡の鐘はなをうつ    荷兮

 いろふかき男猫ひとつを捨かねて  杜国

   春のしらすの雪はきをよぶ   重五

 水干を秀句の聖わかやかに     野水

   山茶花匂ふ笠のこがらし    羽笠

      参考;『校本芭蕉全集』第三巻(小宮豐隆監修、1963、角川書店)

         『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、1974、小学館)

初表

発句

 

   田家眺望

 霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮

 

 前書きに「田家眺望」とあり、おそらく興行された場所から田んぼが見えたのであろう。広い濃尾平野の広大な水田には、ところどころにコウノトリの姿が見えたと思われる。

 「鸛の彳々」は「かうのつくつく」と読む。「彳」は漢音だと「てき」で、呉音だと「ちゃく」になる。

 コウノトリは冬鳥で、かつては日本の水田や河川の至る所に群れを成して飛来したというが、明治の頃に乱獲され、絶滅寸前になったという。芭蕉の頃だと田んぼにコウノトリがあちらこちらにたたずんでいる情景は、田舎のありふれた景色だったのだろう。

 もちろんこの句は興行開始の挨拶という意味で、列席した連衆をコウノトリに喩える意味もある。『連歌俳諧集』の註によると、『越人注』に「冬ノ日出来候時十月より十一月迄の間、連中寄合たる下心」とあるという。

 発句の「て」留めに関しては、芭蕉の、

 

 辛崎の松は花より朧にて   芭蕉

 

の句に先行するもので、式目に発句を「て」で止めてはいけないという規則はないので、長い字余りと同様、式目をかいくぐる面白さというのが当時の流行だったのだろう。まだ去来が『去来抄』の言う「基(もとゐ)」が重視されてなかった頃の風とも言える。

 

季語は「霜月」で冬。「鸛(かう)」は鳥類。

 

 

   霜月や鸛の彳々ならびゐて

 冬の朝日のあはれなりけり     芭蕉

 (霜月や鸛の彳々ならびゐて冬の朝日のあはれなりけり)

 

 軽く朝日を添えて流すが、そこにももちろんこの興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。上句下句合わせて、

 

 霜月や鸛の彳々ならびゐて冬の朝日のあはれなりけり

 

と和歌のように綺麗につながっている。

 

季語は「冬」で冬。「朝日」は天象。

 

第三

 

   冬の朝日のあはれなりけり

 樫檜山家の体を木の葉降      重五

 (樫檜山家の体を木の葉降冬の朝日のあはれなりけり)

 

 「山家(さんか)」は「やまが」ともいう。山の中にある家や山里のことをいう。

 山地を廻る漂白民のことを「サンカ」ということもあるが、ウィキペディアによると「江戸時代末期(幕末)の広島を中心とした中国地方の文書にあらわれるのが最初である」というから、この時代にサンカがいたかどうかは不明。「明治期には全国で約20万人、昭和に入っても終戦直後に約1万人ほどいたと推定されているが、実際にはサンカの人口が正確に調べられたことはなく、以上の数値は推計に過ぎない。」とウィキペディアにある。

 樫と檜は常緑樹で樫や檜に囲まれた山中の家は隠士の住まいなのかもしれない。

 

 樫の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

 

はこのあと芭蕉が三井秋風の別亭に行ったときに詠むことになる。

 季節に関係なく過ごしているようでも、どこからともなく風に乗って落ち葉が舞い、朝の景色に彩を添え、山家らしい風情になる。

 「降」は「ふり」と読む説と「ふる」と読む説がある。『連歌俳諧集』は「ふり」とし、『校本芭蕉全集 第三巻』は「ふる」とする。「ふる」の方が良いと思う。「木の葉降り冬の朝日のあはれなりけり」と続けると

「あはれ」の原因を説明しているようで理が強くなる。「木の葉降る冬の朝日」と受けた方が良いように思える。

 

季語は「木の葉降」で冬、植物、木類。「樫檜」も植物、木類。

 

四句目

 

   樫檜山家の体を木の葉降

 ひきずるうしの塩こぼれつつ    杜国

 (樫檜山家の体を木の葉降ひきずるうしの塩こぼれつつ)

 

 「ひきずる」については、『校本芭蕉全集 第三巻』は「牛の口をとる。牛が重荷を負って坂を登る体」とし、『連歌俳諧集』では「人が牛の口をとって引きずるようにしているさまと解するが、元来、牛は追うものであるゆえ、従いがたい」とする。

 牛は背中に荷物を乗せる場合が多く、荷物を引きずって運ぶというのは考えられない。車を引くなら分かるが、塩の入った袋や俵を引きずったら破れてこぼれるに決まっているから、そんなことはありそうにない。それに牛を思った方向に歩かせようとすれば、口を取って引っ張るのが普通だと思う。

 前句の「山家」を山村のこととし、山間の道の風景を付ける。長い山道では俵の隙間から少しずつ塩がこぼれてゆく。

 

無季。「牛」は獣類。

 

五句目

 

   ひきずるうしの塩こぼれつつ

 音もなき具足に月のうすうすと   羽笠

 (音もなき具足に月のうすうすとひきずるうしの塩こぼれつつ)

 

 「具足」はウィキペディアによれば、

 

 「日本の甲冑や鎧・兜の別称。頭胴手足各部を守る装備が「具足(十分に備わっている)」との言葉から。」

 

だという。

 夜中に具足を着た連中がこっそりと塩を運ぶというのは、「敵に塩を送る」ということか。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「具足」は衣装。

 

六句目

 

   音もなき具足に月のうすうすと

 酌とる童蘭切にいで        野水

 (音もなき具足に月のうすうすと酌とる童蘭切にいで)

 

 「蘭」は古代中国で言う「蘭草」つまりフジバカマのことか。乾燥させると良い香りがするという。

 前句の「音もなき」を酔いつぶれて寝静まった兵のこととし、その間に酌をしていた童は香にする蘭を切りに行く。

 いくさの場を離れるために、あえて蘭を出して、次の展開を図ったといえよう。

 

季語は「蘭」で秋、植物、草類。「童(わらは)」は人倫。

初裏

七句目

 

   酌とる童蘭切にいで

 秋のころ旅の御連歌いとかりに   芭蕉

 (秋のころ旅の御連歌いとかりに酌とる童蘭切にいで)

 

 「御連歌」は宮中で行われる連歌や将軍の主催するものなど、かなり格式の高いものを連想させるが、「旅の」となるとそれがミスマッチな感じがする。

 「いとかりに」というのも「かりそめに」というところをわざと拙い言い回しをしたみたいで、これは本物の貴人(あてびと)ではなく、単に貴人を気取っている人の連歌会なのかもしれない。

 

季語は「秋」で秋。「旅」は旅体。

 

八句目

 

   秋のころ旅の御連歌いとかりに

 漸々はれて富士みゆる寺      荷兮

 (秋のころ旅の御連歌いとかりに漸々はれて富士みゆる寺)

 

 字体が紛らわしく、「漸々(ようよう)」と読む説と「漸(ようや)く」と読む説とある。意味はそれほど変わらない。

 前句の貴人の連歌会の会場を富士の見える寺とした。連歌会はお寺で行われることが多かった。

 

無季。「富士」は名所、山類。「寺」は釈教。

 

九句目

 

   漸々はれて富士みゆる寺

 寂として椿の花の落る音      杜国

 (寂として椿の花の落る音漸々はれて富士みゆる寺)

 

 山茶花は一枚一枚ひらひらと散るが椿はぼとっと落ちる。その音が聞こえるくらい静かな寺という意味。

 

 散る花の音聞く程の深山かな    心敬

 

の連歌発句に似ているが、椿の方が本当に音が聞こえそうだ。

 

季語は「椿」で春、植物、木類。

 

十句目

 

   寂として椿の花の落る音

 茶に糸遊をそむる風の香      重五

 (寂として椿の花の落る音茶に糸遊をそむる風の香)

 

 「糸遊(いとゆう)」は結構厄介な題材で、陽炎(かげろう)のことだというが、今日知られている陽炎はかなり高温のときに発生するもので、春に見たことがない。野焼きなどの時なら分かる。

 

 曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』の「糸遊」の所には、

 

 「野馬塵埃也。生物以息吹者也。稀逸註云、野馬糸遊也。水気也。○杜詩、落花糸遊白日静。○かげろふ・糸遊一物にて、糸遊は異名也。」

 

とある。

 また、「陽炎」のところには、

 

 「陽炎・糸遊、同物二名也。春気、地より昇るを陽炎或はかげろふもゆるともいひ、空にちらつき、又降るをいとゆふといふなり。」

 

とある。

 古典に登場する時は、いくつかの現象が「糸遊・陽炎」という言葉で一緒くたにされている可能性もある。

 「落花糸遊白日静」の句は『杜律集解』巻六にあるらしいが、前句の「寂として」「花の落る」に「糸遊」を付けているところから、この句が意識されていた可能性はある。

 茶の湯気が糸遊を染めているかのような風の香がするというのが句の意味。

 糸遊は、

 

 大空をむなしと見れば糸遊の

     あるにもあらずなきににもなし

               後嵯峨院(続古今集)

 野辺見れば春の日暮れの大空に

     雲雀とともに遊ぶ糸遊

               (為忠家初度百首)

 

の歌からすると、夕暮れの空に現れるものだった。

 また、

 

 青柳の葛城山の長き日は

     空も緑に遊ぶ糸遊

               藤原定家(建保名所百首)

 浅緑空に波寄る糸遊に

     乱れてまがふ窓の青柳

               藤原定家(夫木抄)

 

のように、緑色で柳の枝だとまがうようなものだった。

 日本では見られないが、オーロラだとすると一番納得がゆく。

 

季語は「糸遊」で春。

 

十一句目

 

   茶に糸遊をそむる風の香

 雉追に烏帽子の女五三十      野水

 (雉追に烏帽子の女五三十茶に糸遊をそむる風の香)

 

 前句をお茶会の場面として女の集まりへと展開したのだろう。お茶会といっても茶道のようなあらたまった席ではなく、要するに茶飲み話をする会だろう。男ならすぐに酒盛りということになるが、お茶だから女という連想になる。

 「雉追(きじおい)」はよくわからないが「鳥追い」の一種だろうか。「鳥追い」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 

 「①  田畑に害を与える鳥獣を追い払うこと。また、そのしかけ。かかしなど。

 ②  田畑の害鳥を追おうとする小正月の行事。子供たちが鳥追い歌をうたって家々を回ったり、田畑の中に仮小屋を作り、鳥追い歌をうたいながら正月のお飾りを焼いたりする。鳥追い祭。」

 

とある。②に近いもので特に正月に関係のない行事を想定したものではないかと思う。

 女の烏帽子は白拍子と思われる。

 「五三十」は『連歌俳諧集』の注に「初め五人位とみたら三十人もいたとの意か」「あるいは五、六十の誤記かとも考えられる」とあるが、いくらなんでもそれじゃ多すぎるだろう。

 こどもが十を数える時に関東では「だるまさんがころんだ」(関西では「ぼうさんがへをこいた」)というが、それをずるして早く数える時に「みなと」を使った。三七十のこと。五三十もそのようなもので、ここに五人、あそこに三人、それにまだいるから全部で十人、というくらいの意味ではないかと思う。

 

季語は「雉」で春、鳥類。「烏帽子」は衣装。「女」は人倫。

 

十二句目

 

   雉追に烏帽子の女五三十

 庭に木曾作るこひの薄絹      羽笠

 (雉追に烏帽子の女五三十庭に木曾作るこひの薄絹)

 

 「木曾作る」は、

 

 架け作る木曽の三笠の橋よりも

     いへはあやふき世をわたるかな

               藤原基家(弘長百首)

 

で、掛け橋を作るということか。木曽の三笠は御坂の間違いか。木曽の御坂を詠んだ歌は数多い。

 庭に掛け橋を作って木曽に見立てて、白拍子たちの恋の薄絹を舞わせる。

 

無季。「こひ」は恋。「薄絹」は衣装。

 

十三句目

 

   庭に木曾作るこひの薄絹

 なつふかき山橘にさくら見ん    荷兮

 (なつふかき山橘にさくら見ん庭に木曾作るこひの薄絹)

 

 山橘はヤブコウジのことだという。旧暦だと水無月の頃に花を咲かすので「夏深き」頃になる。白い五弁の花なので、これを桜に見立てよう、ということであろう。

 山橘は、

 

 我が恋を忍びかねては足引きの

     山橘の色にいでぬべし

               紀友則(古今集)

 

の歌があり、恋の俤がある。

 

 吹き登る木曽の御坂の谷風に

     梢もしらぬ花をみるかな

               鴨長明(続古今集)

 

の歌もある。

 

季語は「夏ふかき」で夏。「山橘」は植物、木類。

 

十四句目

 

   なつふかき山橘にさくら見ん

 麻かりといふ哥の集あむ      芭蕉

 (なつふかき山橘にさくら見ん麻かりといふ哥の集あむ)

 

 歌集のタイトルとしては「〇〇集」のようなものが多く、大体は漢語で「あさかり」のような大和言葉のタイトルはあまりないように思える。

 ただ芭蕉の晩年の話になるが『去来抄』には「去来曰、浪化集(らふくゎしふ)の時上下を有磯海(ありそうみ)・砥波山(となみやま)と号す。先師曰、みな和歌の名所なれば紛し、浪化集と呼べし。」とある。雅語のタイトルは和歌のイメージがあったのかもしれない。

 ただ、雅語で「あさかり」というと「朝狩り」のことで、

 

 あさかりの道みすゑおくひまをなみ

     外山の原に鹿ぞ鳴くなる

              藤原家隆(夫木抄)

 手束弓手に取り持ちてあさかりに

     君はたちきぬたまくらの野に

              よみ人しらず(夫木抄)

 

などの歌がある。後者は、

 

 手束弓手に取り持ちて朝猟に

      君は立たしぬたなくらの野に

              大伴家持(万葉集)

 

の歌であろう。

 「朝狩り」の雅語を「麻刈り」と間違えて使っているというところで、なんちゃって歌人だという落ちになる。前句をその歌集の歌の一部とする。

 なお、寛政五年(一七九三)、芭蕉の百回忌に暁台の門人の士朗が『麻刈集』を編纂している。

 

季語は「麻刈り」で夏、植物、草類。

 

十五句目

 

   麻かりといふ哥の集あむ

 江を近く独楽庵と世を捨て     重五

 (江を近く独楽庵と世を捨て麻かりといふ哥の集あむ)

 

 歌集の主を出家して「独楽庵」を名乗る人物とする。「江を近く」は隅田川のほとりの深川に住む芭蕉庵にも通う。

 「独楽」は独り楽しむの意味だが、玩具のコマにもこの字を当てる。

 

無季。「江」は水辺。「庵」は居所。

 

十六句目

 

   江を近く独楽庵と世を捨て

 我月出よ身はおぼろなる      杜国

 (江を近く独楽庵と世を捨て我月出よ身はおぼろなる)

 

 我が月というと、

 

 今よりは我が月影と契りおかむ

     野原の庵の行末の秋

               藤原定家(拾遺愚草)

 遅く出づる我が月影を待つ人も

     山のあなたに身を惜しみけり

               藤原家隆(壬二集)

 

の歌がある。自分を月に喩え、世を捨てて有るか無いかわからないような朧な身だとする。

 

季語は「月」と「おぼろ」で春、夜分、天象。「身」は人倫。

 

十七句目

 

   我月出よ身はおぼろなる

 たび衣笛に落花を打払       羽笠

 (たび衣笛に落花を打払我月出よ身はおぼろなる)

 

 花の定座で、花の散る中を笛を吹く旅人を登場させる。身が朧なのは、もしかして敦盛の亡霊?

 

季語は「落花」で春、植物、木類。「たび衣」は旅体、衣装。

 

十八句目

 

   たび衣笛に落花を打払

 篭輿ゆるす木瓜の山あい      野水

 (たび衣笛に落花を打払篭輿ゆるす木瓜の山あい)

 

 「篭輿(ろうごし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 〘名〙 囚人を護送するために用いる輿。

※金刀比羅本保元(1220頃か)下「さしもきびしく打付たる籠輿(ロウゴシ)の」

 

とある。「ろうよ」と読むと、

 

 〘名〙 竹でこしらえた粗末なこし。かごこし。

※北条五代記(1641)二「両人の若君をいけとり奉りろうよにのせ申」

 

という意味になる。

 山間の道で木瓜の枝が道を塞ぎ、その花を笛で振り払いながら歩く旅衣の人物は囚人で、険しい道だから駕籠から降りて歩くことを許される。

 

季語は「木瓜」で春、植物、木類。「篭輿」は旅体。「山あい」は山類。

二表

十九句目

 

   篭輿ゆるす木瓜の山あい

 骨を見て坐に泪ぐみうちかへり   芭蕉

 (骨を見て坐に泪ぐみうちかへり篭輿ゆるす木瓜の山あい)

 

 「坐」は「そぞろ」で「漫」という字を書くことも多い。

 いわゆる「野ざらし」だろうか。行き倒れになった旅人の骨が落ちていて、思わず駕籠から降りて涙ぐむ。

 

無季。無常。

 

二十句目

 

   骨を見て坐に泪ぐみうちかへり

 乞食の蓑をもらふしののめ     荷兮

 (骨を見て坐に泪ぐみうちかへり乞食の蓑をもらふしののめ)

 

 遺体があると、河原にはそうした遺体を処理する被差別民が住んでいて、「河原乞食」とも呼ばれていた。処理してもらう代金にと新しい蓑を与えたのであろう。

 昔の火力では、火葬にも時間がかかったのだろう。明け方に火葬は終わり、瓦乞食は蓑を貰って帰って行く。

 

無季。無常。「乞食」は人倫。「蓑」は衣装。

 

二十一句目

 

   乞食の蓑をもらふしののめ

 泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て   杜国

 (泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て乞食の蓑をもらふしののめ)

 

 洪水の後だろうか。泥の上で思いがけず大きな鯉を拾ったが、どうやって持って帰ろうかと思っていると、親切な河原乞食の人が「これで包んでいけや」と蓑を貸してくれた。

 

無季。「鯉」は水辺。

 

二十二句目

 

   泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て

 御幸に進む水のみくすり      重五

 (泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て御幸に進む水のみくすり)

 

 鯉は龍の子ともいわれる吉祥で、御幸の献上品にふさわしいものの、何分生ものだから天子様に何かあっては一大事と、水飲み薬も添えて差し出す。

 鯉は淡水魚だからアニサキスはいないが、肝吸虫がいる場合がある。

 貞徳独吟「哥いづれ」の巻八十一句目に、

 

   祝言の夜ぞ酔ぐるひする

 生魚を夕食過て精進あげ      貞徳

 

の句があり、この生魚で「酔ぐるひ」というのはアニサキス中毒ではなかったかと思われる。

 

無季。「御幸」は旅体。

 

二十三句目

 

   御幸に進む水のみくすり

 ことにてる年の小角豆の花もろし  野水

 (ことにてる年の小角豆の花もろし御幸に進む水のみくすり)

 

 「小角豆」はササゲと読む。ウィキペディアには「日本では、平安時代に『大角豆』として記録が残されている」ともいう。赤飯にも用いられる。薄紫の豆の花を咲かせる。

 ただ、今年は特に旱魃がひどく、丈夫なササゲも元気なく花ももろく散ってしまう。

 そんな状況を視察に来たのだろうか。天子様に奉げるようなものもなく、水飲み薬を献上する。ササゲは「奉げる」に掛かる。

 

季語は「小角豆」で夏、植物、草類。

 

二十四句目

 

   ことにてる年の小角豆の花もろし

 萱屋まばらに炭団つく臼      羽笠

 (ことにてる年の小角豆の花もろし萱屋まばらに炭団つく臼)

 

 「炭団(たどん)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「木炭の粉末を主原料とする固形燃料の一つ。木炭粉にのこ屑炭,コークス,無煙炭などの粉末を混合し,布海苔,角叉,デンプンなどを粘結剤として球形に固めて乾燥させてつくる。一定温度を一定時間保つことができるのが特徴で,火鉢,こたつの燃料として愛用され,またとろ火で長時間煮炊きするのに重用された。」

 

とある。昔は墨の粉を集めて自分の家でそれを臼で搗いて作って、火燵や火鉢に使っていたようだ。

 

無季。「萱屋」は居所。

 

二十五句目

 

   萱屋まばらに炭団つく臼

 芥子あまの小坊交りに打むれて   荷兮

 (芥子あまの小坊交りに打むれて萱屋まばらに炭団つく臼)

 

 「芥子あま」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 頭髪を芥子坊主にした女児。

※俳諧・冬の日(1685)『萱屋まばらに炭団つく臼〈羽笠〉 芥子あまの小坊交りに打むれて〈荷兮〉』」

 

 「芥子坊主」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「頭髪をまん中だけ残して周囲を剃そり落とした乳幼児の髪形。けしぼん。芥子坊。おけし。けし。」

 

とある。芥子の実に似ているところからそう呼ばれる。

 芥子坊主は当時の子供の一般的な髪型で、

 

 鞍壺に小坊主乗るや大根引     芭蕉

 

は元禄六年の句。今でも子供のことを「坊主」と呼ぶのもその名残なのかもしれない。

 「芥子尼」が髪型を指すだけの言葉なら、舞台をお寺に限定する必要はない。「萱屋まばら」の農村に子供達が遊んでいる情景となる。男勝りの女の子が男子に混じって元気に遊ぶ姿はほほえましい。

 

無季。「芥子尼」「小坊」は人倫。

 

二十六句目

 

   芥子あまの小坊交りに打むれて

 おるるはすのみたてる蓮の実    芭蕉

 (芥子あまの小坊交りに打むれておるるはすのみたてる蓮の実)

 

 蓮の実は食べられるので、子供が取って食べる格好のおやつだったという。食べごろの蓮の実だけが折られている。

 「食べた」と言わずに折れた蓮の実とそうでない蓮の実があるという所で匂わす所がミソ。単なる景色に出来るから次の句の展開が楽になる。

 

季語は「蓮の実」で秋、植物、草類。

 

二十七句目

 

   おるるはすのみたてる蓮の実

 しづかさに飯台のぞく月の前    重五

 (しづかさに飯台のぞく月の前おるるはすのみたてる蓮の実)

 

 「蓮の実」で秋に転じたところで、すかさず定座を繰り上げて月を出す。基本といっていい。

 「飯台」は食事のためのテーブルで、古くはお寺など大勢で食事をする場所で用いられ、一般には一人用の膳で食事をしていた。

 江戸後期になると外食が発達して、店などに飯台が置かれるようになり、近代に入ると西洋式のテーブルに習って家庭に飯台が普及した。特に丸い「ちゃぶ台」は昭和の家庭で広く用いられ、ノスタルジーを誘うものとなっている。

 この場合は蓮の縁もあってお寺の情景か。あまりに静かなので飯台を覗いてみるが、おそらく空っぽだったのだろう。月に浮かれてみんな遊びに行ってしまったか。

 元禄七年の「空豆の花」の巻に、

 

   そっとのぞけば酒の最中

 寝処に誰もねて居ぬ宵の月     芭蕉

 

の句がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

二十八句目

 

   しづかさに飯台のぞく月の前

 露をくきつね風やかなしき     杜国

 (しづかさに飯台のぞく月の前露をくきつね風やかなしき)

 

 飯台を覗き込んでいるのは狐だった。

 狐も和歌に詠まれている。

 

 古里の軒の檜皮は草荒れて

     あはれ狐の臥し所かな

               藤原良経(夫木抄)

 塚古き狐のかれる色よりも

     深きまどひに染むる心よ

               藤原定家(夫木抄)

 

など。

 

季語は「露」で秋、降物。「きつね」は獣類。

 

二十九句目

 

   露をくきつね風やかなしき

 釣柿に屋根ふかれたる片庇     羽笠

 (釣柿に屋根ふかれたる片庇露をくきつね風やかなしき)

 

 前句の風に「屋根ふかれたる」と付く。連歌的な付け方だ。

 「片庇」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「①  片流れの屋根。

  ②  粗末なさしかけの屋根。」

 

とある。

 

 賤の屋はもとは蓬の片庇

     あやめばかりを今日は葺かなむ

               藤原忠通(夫木抄)

 山里の柴の片戸の片庇

     あだげに見ゆる仮の宿かな

               西園寺実氏(夫木抄)

 

などの歌がある。

 

季語は「釣柿」で秋。

 

三十句目

 

   釣柿に屋根ふかれたる片庇

 豆腐つくりて母の喪に入      野水

 (釣柿に屋根ふかれたる片庇豆腐つくりて母の喪に入)

 

 喪中なので肉や魚を絶ち、豆腐を作って食べる。

 

無季。「母」は人倫。

二裏

三十一句目

 

   豆腐つくりて母の喪に入

 元政の草の袂も破ぬべし      芭蕉

 (元政の草の袂も破ぬべし豆腐つくりて母の喪に入)

 

 元政は日政の通称で、ウィキペディアには、

 

 「日政(にっせい、通称:元政上人(げんせいしょうにん)元和9年2月23日(1623年3月23日)- 寛文8年2月18日(1668年3月30日))は、江戸時代前期の日蓮宗の僧・漢詩人。山城・深草瑞光寺 (京都市)を開山した。俗名は石井元政(もとまさ)。幼名は源八郎、俊平。号は妙子・泰堂・空子・幻子・不可思議など。」

 

とある。

 さらにウィキペディアには、

 

 「1667年(寛文7年)に母の妙種の喪を営み、摂津の高槻にいたり一月あまり留まるがその翌年正月に病を得て、自ら死期を悟って深草に帰る。日燈に後事を託して寂す。享年46。遺体は称心庵のそばに葬られ、竹三竿を植えて墓標に代えたという。」

 

とある。句はこの本説と言えよう。

 

無季。「袂」は衣装。

 

三十二句目

 

   元政の草の袂も破ぬべし

 伏見木幡の鐘はなをうつ      荷兮

 (元政の草の袂も破ぬべし伏見木幡の鐘はなをうつ)

 

 元政の開いた深草瑞光寺は伏見にある。木幡は隣の宇治市になる。今でもその鐘は鳴り響いている。

 「鐘はなをうつ」には「鐘は猶うつ」と「鐘、花を打つ」という両方の意味があり、掛詞になっている。「猶」は「なほ」だが、「なを」と「なほ」の句別はこの頃は曖昧になっていて、両方の意味に取った方がいい。

 「鐘花を打つ」だけの意味だったら「鐘に花散る」でも十分だったが、十七句目に「落花」があるので重複を避けた形にになる。鐘の音が方々からいくつも聞こえてきて、そのつど花がはらはらと散ってゆくと取った方がいい。

 あえて「はなをうつ」と仮名で表記しているのもそのためだろう。

 「狂句こがらし」の巻の脇、

 

   狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉

 たそやとばしるかさの山茶花    野水

 

の「とばしる」が「とは知る」に掛かるのと同じに考えていい。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「鐘」は釈教。

 

三十三句目

 

   伏見木幡の鐘はなをうつ

 いろふかき男猫ひとつを捨かねて  杜国

 (いろふかき男猫ひとつを捨かねて伏見木幡の鐘はなをうつ)

 

 伏見は遊郭のあったところで、遊女達が猫を飼っていたのか。盛りがついてうるさいから捨ててこいなんて言われても、捨てられるものではない。

 あるいは駄目な男と分かっていてもついつい腐れ縁になるという、比喩も含んでいるのか。

 

季語は「いろふかき男猫」は猫の恋で春、獣類。

 

三十四句目

 

   いろふかき男猫ひとつを捨かねて

 春のしらすの雪はきをよぶ     重五

 (いろふかき男猫ひとつを捨かねて春のしらすの雪はきをよぶ)

 

 自分では捨てられないので白州の庭の雪掻きをする人を呼んできて猫を追い払ってもらう。「白州」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、「庭先・玄関前などの、白い砂の敷いてある所。」とある。

 前句が「猫の恋」で春なので、「春の」という季語を放り込む。

 

季語は「春」で春。「雪はき」は人倫。

 

三十五句目

 

   春のしらすの雪はきをよぶ

 水干を秀句の聖わかやかに     野水

 (水干を秀句の聖わかやかに春のしらすの雪はきをよぶ)

 

 「秀句の聖わややかに水干を(着て)」の倒置。

 「水干」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 「1 のりを使わないで、水張りにして干した布。

  2 1で作った狩衣(かりぎぬ)の一種。盤領(まるえり)の懸け合わせを組紐(くみひも)で結び留めるのを特色とし、袖付けなどの縫い合わせ目がほころびないように組紐で結んで菊綴(きくとじ)とし、裾を袴(はかま)の内に着込める。古くは下級官人の公服であったが、のちには絹織物で製して公家(くげ)や上級武家の私服となり、また少年の式服として用いられた。」

 

とある。

 ウィキペディアには、

 

 「室町時代に入ると貴族にも直垂が広まり、武家も直垂を多用したので、童水干などを除いて着装機会は減少した。近世では新井白石像に水干着装図が見られるなどしばしば用いられたが、幕府の服飾制度からは脱落している。」

 

とあり、水干は正式な服装ではなく部屋着のようなくだけた場での服装だったのだろう。

 「秀句」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 

 ①  すぐれた句。秀逸な詩歌。

 ②  和歌・文章・物言いなどにおける巧みな言いかけ。掛け詞・縁語など。すく。 「 -も、自然に何となく読みいだせるはさてもありぬべし/毎月抄」

 ③  軽口(かるくち)・地口(じぐち)・洒落(しやれ)など。すく。 「 -よくいへる女あり/浮世草子・一代男 1」

 

とある。

 ①は元の意味であるとともに今の意味といってもいい。要するに「秀逸な詩歌」というのがどういうものであるかはその時代の価値観に左右されるもので、連歌や俳諧(特に貞門)で秀逸というのは基本的に②だった。それが江戸時代に大衆化したときに③の意味になったと思われる。

 近代では「傑作」という言葉が、一方では優れた芸術作品を表すのに用いられるが、一方ではギャグ漫画や笑い話の面白いネタに対しても「そいつは傑作だ」というふうに用いられる。それに似ている。

 「聖(ひじり)」は今日で「神」と称されるのと同様、その道の名人のことをいう。芭蕉は「俳聖」と呼ばれ、同時代の本因坊道策は「棋聖」と呼ばれた。この種の称号はピンからキリまであり、いつも面白い話をしてくれる人程度でも「秀句の聖」と呼ばれることもあったと思われる。

 「わかやか」は若々しいということ。水干姿の若々しい秀句の聖というのは、実は雪掃きの少年のもう一つの姿なのではないかと思う。

 

無季。「水干」は衣装。「聖」は人倫。

 

挙句

 

   水干を秀句の聖わかやかに

 山茶花匂ふ笠のこがらし      羽笠

 (水干を秀句の聖わかやかに山茶花匂ふ笠のこがらし)

 

 「狂句こがらし」の巻の脇、

 

   狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉

 たそやとばしるかさの山茶花    野水

 

を思い起こし、前句の「秀句の聖」を芭蕉さんのこととして、『冬の日』五歌仙の最後を締めくくる。

 

季語は「山茶花」で冬、植物、木類。「こがらし」も冬。「笠」は衣装。