「木のもとに」の巻③、解説

元禄三年三月下旬、膳所にて

初表

   花見

 木のもとに汁も膾も桜かな     芭蕉

   西日のどかによき天気なり   珍碩

 旅人の虱かき行春暮て       曲水

   はきも習はぬ太刀のひきはだ  芭蕉

 月待て假の内裏の司召       珍碩

   籾臼つくる杣がはやわざ    曲水

 

初裏

 鞍置る三歳駒に秋の来て      芭蕉

   名はさまざまに降替る雨    珍碩

 入込に諏訪の涌湯の夕ま暮     曲水

   中にもせいの高き山伏     芭蕉

 いふ事を唯一方へ落しけり     珍碩

   ほそき筋より恋つのりつつ   曲水

 物おもふ身にもの喰へとせつかれて 芭蕉

   月見る顔の袖おもき露     珍碩

 秋風の船をこはがる波の音     曲水

   雁ゆくかたや白子若松     芭蕉

 千部読花の盛の一身田       珍碩

   巡礼死ぬる道のかげろう    曲水

 

 

二表

 何よりも蝶の現ぞあはれなる    芭蕉

   文書ほどの力さへなき     珍碩

 羅に日をいとはるる御かたち    曲水

   熊野みたきと泣給ひけり    芭蕉

 手束弓紀の関守が頑に       珍碩

   酒ではげたるあたま成覧    曲水

 双六の目をのぞくまで暮かかり   芭蕉

   假の持仏にむかふ念仏     珍碩

 中々に土間に居れば蚤もなし    曲水

   我名は里のなぶりもの也    芭蕉

 憎まれていらぬ躍の肝を煎     珍碩

   月夜月夜に明渡る月      曲水

 

二裏

 花薄あまりまねけばうら枯て    芭蕉

   唯四方なる草庵の露      珍碩

 一貫の銭むつかしと返しけり    曲水

   医者のくすりは飲ぬ分別    芭蕉

 花咲けば芳野あたりを欠廻     曲水

   虻にささるる春の山中     珍碩

     参考;『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)

        『日本古典文学全集32 連歌俳諧集』(暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)

初表

発句

 

 木のもとに汁も膾も桜かな     芭蕉

 

 発句は二重の意味があり、一方では比喩としてメインディッシュではない汁や膾も桜の木の下では花見のご馳走であるように、金持ちも貧乏人も武士も町人も花の下では見た身分わけ隔てなく平等になる、という理想が込められている。

 これはいわば「花見」の本意本情でもあり、芭蕉の花見の句ではほぼ一貫したテーマだといっていい。

 貞門時代の、

 

 京は九万九千くんじゅの花見哉  宗房

 

から、天和の頃の、

 

 花に酔へり羽織着て刀さす女   芭蕉

 

そして、年次不明の、

 

 景清も花見の座には七兵衛    芭蕉

 

の句にしても、テーマは一貫している。花見の座の無礼講に、身分の差を越えた花の下でみんなの心が一つになる、そんな公界の理想を表している。

 その一方でそのまんまの意味としては、花の下では散った桜の花が汁にも膾にも落ちてきてみんな桜混じりになってしまう、という花見あるあるの句になる。虚実で言えば、身分の差なく一切合財が桜だというのが「実」になり、汁や膾に桜の花びらが散っている情景が「虚」になる。

 土芳の『三冊子』「あかさうし」にはこうある。

 

 「木のもとに汁も鱠(なます)もさくら哉  芭蕉

この句の時、師のいはく、花見の句のかかりを少し得て、かるみをしたりと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,114)

 

 「かかり」は岩波古語辞典によれば、「歌などの語句の掛かりかた。また、詞のすわり。風体。」とある。語句の繋がり方、前後との関係での詞の収まりのよさ、といった所か。

 「花見の句のかかりを少し得て」というのは、桜と汁・鱠という取り合わせの面白さにふと気づいてというような意味で、出典のある言葉をはずして「軽み」の句にした、というのが、師の言いたかったことであろう。

 ならば、その直前の花見の句はどうだったか見てみよう。

 この句の詠まれた元禄三年の前年、芭蕉は深川にいて『奥の細道』に旅立つ直前で、この年には花見の句はない。

 その前年の貞享五年は『笈の小文』の旅の途中で、伊賀では、

 

 さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 この句は今(平成二十九年春)ちょうどJCBのCMに用いられていて「皆さんは春に何を思いますか?」と視聴者に問いかけている。

 この句は旧主家藤堂探丸邸の花見の際の発句で、

 

   さまざまの事おもひ出す桜かな

 春の日はやく筆に暮れ行く     探丸

 

の脇がある。

 当座の意味としては、芭蕉伊賀藤堂藩に仕えていた頃、主君藤堂良精の息子藤堂蝉吟の俳席に招かれたことが俳諧師としての道を歩むきっかけとなり、そのほかにも様々な形で蝉吟にはお世話になって、たくさんの思い出があり、今こうしてその今はなき蝉吟の息子である探丸にこうして招かれ、さまざまなことを思い出します、という挨拶だったと思われる。

 それに対し、探丸の脇は春の日は長いとは言いながらも、こうして俳諧を楽しんでいるうちにあっという間に暮れて行きます、と返す。裏には「時の流れというのは本当に早いものです」という感慨が込められていたと思われる。

 この芭蕉の発句は特に取り合わせというものはない。ただ、桜が古来様々な形で歌われたり物語りになったりしたことを思い起こし、それをそのまんま述べたにすぎない。

 探丸邸での興行のことを知らない読者に対しては、この句はあのCMの通り、私は様々なことを思い出しますが、あなたもそうでしょう、と問いかける句になる。基本的に「桜」は様々な古典に登場することを踏まえながら、読者にそれぞれの桜の思い出を思い起こさせる展開になっている。

 このあと芭蕉は吉野へと旅立つ。その途中薬師寺での句、

 

 初桜折しも今日はよき日なり   芭蕉

 

 この句も特に取り合わせはない。

 

 花を宿に始め終りや二十日ほど  芭蕉

 

 この句も単に瓢竹庵を訪れた時にちょうど二十日頃だったことを詠んだ挨拶句。

 

 このほどを花に礼いふ別れ哉   芭蕉

 

 これは瓢竹庵を出るときの挨拶。

 

 吉野にて桜見せうぞ檜木笠    芭蕉

 

 これは、万菊丸(杜国)と一緒に吉野へ行こうという句。

 こうした句も桜や花がもつ長い伝統を踏まえた上で、それを慣用的に挨拶の中に織り込んだだけのものだ。

 

   龍門

 龍門の花や上戸の土産(つと)にせん 芭蕉

 酒飲みに語らんかかる滝の花     同

 

 花見に酒は付き物ということでの取り合わせの句。李白の

 

   山中与幽人対酌    李白

 両人対酌山花開 一杯一杯復一杯

 我酔欲眠卿且去 明朝有意抱琴来

 

 二人向かい合って酒を酌めば山の花も開き、

 一杯一杯また一杯。

 俺は酔って眠たくなったので卿よ一先ず帰ってくれ。

 もし良かったら明日の朝琴を抱いて来んさい。

 

の連想を誘うが、古典に密着した作り方で、「汁も鱠も」といったリアルな情景にかかることはない。「滝」もまた李白観瀑図として、何度となく画題にされてきたものだ。こういう出典との密着した関係を、『奥の細道』から帰った頃から「重い」と感じるようになり、出典をはずした「軽み」へと向かうことになる。

 ある農夫の家での句。

 

 花の陰謡(うたひ)に似たる旅寝哉  芭蕉

 扇にて酒くむ陰や散る桜       同

 声よくば謡(うた)はうものを桜散る 同

 

 これも「花」に「謡(うたひ)」「花」に「酒」という古典に根ざして慣用句化した付け合いによる言葉のかかりにすぎない。

 

 六里七里日ごとに替える花見哉    芭蕉

 桜狩り奇特や日々に五里六里     同

 

 これも花を求めての旅の風狂の句で、「花」のイメージ自体は古典に立脚している。

 

 日は花に暮てさびしやあすならう   芭蕉

 

 これも、花を見ながらその日を終えると、「あすなろう」という植物に掛けて花見を明日に明日にと先送りしている忙しそうな人を戒めた句。

 

   芳野

 花盛り山は日ごろの朝ぼらけ

 

 これは芳野で呼んだ句だが『笈の小文』には載せなかった句で、自分でもこの句の凡庸さに嫌気が差したのだろう。

 このように芭蕉は花(桜)の句で、中々古典的な趣向から脱却できずに悩んでいたのだろう。

 元禄三年、ようやく「汁も鱠も」というリアルな花見の情景の掛かりを見出した時、さぞかし長いトンネルを抜けたような気分だったに違いない。

 

季題は「桜」で春。植物、木類。

 

 

   木のもとに汁も鱠も桜かな

 西日のどかによき天気なり   珍碩

 (木のもとに汁も鱠も桜かな西日のどかによき天気なり)

 

 発句に対してあまり自己主張せずに穏やかに和した所は、脇句の見本なのだろう。

 

 ひさかたのひかりのどけき春の日に

     しづ心なく花の散るらむ

                紀友則

 

の心か。前句の「汁も鱠も桜かな」に花の散る様を読み取って、本歌で付けたと言っていいだろう。

 「西日」は近代では夏の季語になっているが、江戸時代では無季。

 

季題は「のどか」で春。「西日」は天象。

 

第三

 

   西日のどかによき天気なり

 旅人の虱かき行春暮て    曲水

 (旅人の虱かき行春暮て西日のどかによき天気なり)

 

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』を見ても「虱」は春にも夏にも秋にもないところを見ると、「虱」は無季と言っていいのだろう。

 

 蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと  芭蕉

 

の句は「蚤」が夏になる。

 

 夏衣いまだ虱をとりつくさず   芭蕉

 

も「夏衣」という季語を別に入れている。

 前句の西日長閑な天気を花見から旅体に転じている。晩春は虱の活動の活発になる頃でもあった。ひさかたのひかりのどけき春の日も虱が出てくると思うと手放しに喜べない。今だったら花粉症のようなものか。

 

季題は「春暮て」で春。「虱」は虫類。「旅人」は旅体、人倫。

 

四句目

 

   旅人の虱かき行春暮て

 はきも習はぬ太刀のひきはだ  芭蕉

 (旅人の虱かき行春暮てはきも習はぬ太刀のひきはだ)

 

 「ひきはだ」は革偏に背と書くが、フォントが見つからなかった。「蟇肌」とも書く。

 「ひきはだ」は山刀などを収める皮の鞘のこと。旅人が護身用に持ち歩く。「はきも習はぬ」は身に着けるのに慣れていないという意味。護身用とはいえ刀の類は物騒なので、使い慣れているよりは慣れてないほうが風流といえよう。

 芭蕉は『野ざらし紀行』の伊勢の所で「腰間(ようかん)に寸鐵(すんてつ)をおびず。」と言っているから、山刀は携帯してなかった。

 『奥の細道』で山刀伐(なたぎり)峠を越える時には、「さらばと云(いふ)て人を頼待(たのみはべ)れば、究竟(くっきゃう)の若者反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫(かし)の杖を携たづさへて、我々が先に立(たち)て行(ゆく)。」と護衛をつけている。

 

無季。

 

五句目

 

   はきも習はぬ太刀のひきはだ

 月待て假の内裏の司召(つかさめし) 珍碩

 (月待て假の内裏の司召はきも習はぬ太刀のひきはだ)

 

 太刀を身につけるのに慣れてない人を平安貴族とした。

 司召除目は秋除目とも呼ばれ、ネットで検索するいろいろ出てくるので、そちら方を参照。

 

季題は「月待ち」で秋。夜分、天象。脇の「西日」から二句隔てている。

 

六句目

 

   月待て假の内裏の司召

 籾臼つくる杣がはやわざ    曲水

 (月待て假の内裏の司召籾臼つくる杣がはやわざ)

 

 仮の内裏というところから田舎の舞台設定として、林業に従事する杣人がいて、籾摺る臼を簡単にさくっと作ってくれる。

 前句と言いこの句と言い、過去の王朝時代を想像して作った句でリアリティーには欠ける。まだ「軽み」の風には遠い。

 

季題は「籾臼」で秋。「杣」は人倫。

初裏

七句目

 

   籾臼つくる杣がはやわざ

 鞍置る三歳駒に秋の来て    芭蕉

 (鞍置る三歳駒に秋の来て籾臼つくる杣がはやわざ)

 

 馬は数え三歳で大人になる。三歳馬は若い盛り。

 前句の「はやわざ」を臼を作る早業ではなく、籾臼で精米する早業と取り成し、精米した米を運び出す三歳駒を付けたのだろう。

 小学館『日本古典文学全集32 連歌俳諧集』(暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)の解説に「『秘註』に三歳駒の勢いと前句の早業とは響きであるという」とある。『秘註』は『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)。

 絵空事に流れがちな俳諧を現実に引き戻すのは、蕉門確立期の芭蕉の仕事でもある。

 「木のもとに」の巻②の三十三句目に、

 

   能見にゆかん日よりよければ

 乗いるる二歳の駒をなでさすり  三園

 

の句があるが、どちらが先かは不明。あるいはこの句の影響があったか。

 

季題は「秋の来て」で秋。「三歳駒」は獣類。

 

八句目

 

   鞍置る三歳駒に秋の来て

 名はさまざまに降替る雨     珍碩

 (鞍置る三歳駒に秋の来て名はさまざまに降替る雨)

 

 雨にはいろいろな呼び方があるか、そこは工夫したのだろうけど、ただ秋が来て雨が降るという内容しかない。遣り句と見ていいだろう。

 小学館『日本古典文学全集32 連歌俳諧集』暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)の註にも、「『通旨』は、この付句を「天相」(天候)で付けた逃句だとしている。」とある。『通旨』は『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)。

 

無季。「雨」は降物。

 

九句目

 

   名はさまざまに降替る雨

 入込(いりごみ)に諏訪の涌湯(いでゆ)の夕ま暮 曲水

 (入込に諏訪の涌湯の夕ま暮名はさまざまに降替る雨)

 

 「入込」は雑多なものが入り混じることを言う。「混浴」という註もあるが、芭蕉の時代は混浴が普通だったから、ここでは身分や職種に関係なくいろいろな人が利用する山の中の温泉というような意味だろう。

 いろいろな地方から人が集まれば、雨の呼び方も様々だ。

 

無季。「諏訪」は名所。

 

十句目

 

   入込に諏訪の涌湯の夕ま暮

 中にもせいの高き山伏     芭蕉

 (入込に諏訪の涌湯の夕ま暮中にもせいの高き山伏)

 

 これは芭蕉の得意とするあるあるネタ。こういう山の中の温泉にいくと必ずいそうな人をすかさず出してくるあたりは流石だ。

 土芳の『三冊子』「あかさうし」には、「前句にはまりて付たる句也。其中の事を目に立ていひたる句なり。」とある。

 

無季。「山伏」は人倫。

 

十一句目

 

   中にもせいの高き山伏

 いふ事を唯一方へ落しけり   珍碩

 (いふ事を唯一方へ落しけり中にもせいの高き山伏)

 

 「中にもせいの高き」を「中にも勢の高き」に取り成したか。「居丈高」なんて言葉もあるように、上から目線で高飛車に物を言う人間はいつの時代にもいた。

 あるあるネタだが皮肉が利いていて面白い。

 

無季。

 

十二句目

 

   いふ事を唯一方へ落しけり

 ほそき筋より恋つのりつつ   曲水

 (いふ事を唯一方へ落しけりほそき筋より恋つのりつつ)

 

 ここで恋に転じる。

 ほんのちょっとしたことから妄想を膨らまし「もしかしてだけどー、もしかしてだけどー」なんてどぶろっくのネタではないが、自分に気があると勘違いして、相手の言うことをことごとくそういう意味にゆがめてしまう。

 一時的な麻疹みたいなので済めばいいが、こじらすとストーカーへと一直線。あぶないあぶない。

 

無季。「恋つのる」は恋。

 

十三句目

 

   ほそき筋より恋つのりつつ

 物おもふ身にもの喰へとせつかれて 芭蕉

 (物おもふ身にもの喰へとせつかれてほそき筋より恋つのりつつ)

 

 ストーカーから一転して拒食症。「ほそき」を痩せ細ると掛けているあたりも芸が細かい。前句の男の体を女の体の取り成すのは定石。

 こうした盛り上がりは「木のもとに」の前の二つの巻にはなかったから、やはり名作とされている一巻は違う。

 

無季。「物おもふ」は恋。

 

十四句目

 

   物おもふ身にもの喰へとせつかれて

 月見る顔の袖おもき露    珍碩

 (物おもふ身にもの喰へとせつかれて月見る顔の袖おもき露)

 

 これは恋離れの逃げ句だが、

 

 嘆けとて月やはものを思はする

     かこち顔なるわが涙かな

              西行法師

 

の歌あたりをイメージしたもの。本歌とまでは密接に寄っているわけではなく、西行の俤と言っていいだろう。「涙」と言わずに「袖おもき露」に留めた所で、次の展開が楽になる。

 

季題は「月」で秋。夜分、天象。「顔」は人倫。「袖」は衣装。「露」は降物。

 

十五句目

 

   月見る顔の袖おもき露

 秋風の船をこはがる波の音   曲水

 (秋風の船をこはがる波の音月見る顔の袖おもき露)

 

 これは「秋風の波の音に船をこはがる」の倒置。上句下句合わせると、「秋風の波の音に船をこはがる月見る顔の袖おもき露」となる。

 これは『源氏物語』「須磨」の俤か。

 

 「すまには、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、せきふきこゆるといひけむうらなみ、よるよるはげにいとちかくきこえて、又なくあはれなる物は、かかる所の秋なりけり。

 御前にいと人すくなにて、うちやすみわたれるに、ひとりめをさまして、枕をそばだててよものあらしをきき給ふに、なみただここもとに立ちくる心ちして、なみだおつともおぼえぬに、まくらうくばかりになりにけり。」

 

 須磨では今まで以上に気を滅入らすような秋風が吹き、海は少し遠いものの在原行平中納言の「関吹き越ゆる」と詠んだ浦に寄る波は夜ともなるとすぐそばのように聞こえて、これ以上悲しくない所はないような秋となりました。

 お側で待機する人もまばらな部屋で早々に寝入ったものの一人目が醒めてしまい、枕を縦にして身をやや起こして周囲で吹きすさぶ嵐の音を聞くと波があたかもここまで押し寄せてくるような錯覚にとらわれ、涙がこぼれたと思うか思わないかのうちに、枕が涙の海に浮かんでいるような心地にになりました。

 

 このあと沖を船が通る場面がある。

 

 「おきより舟どものうたひののしりてこぎ行くなどもきこゆ。」

 

 沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます。

 

 そして光が差し込み十五夜だったと知る場面が来る。

 

 「月のいとはなやかにさし出でたるに、こよひは十五夜なりけりとおぼし出でて、殿上の御あそびこひしく、所所ながめ給ふらんかしとおもひやり給ふにつけても、月のかほのみまもられ給ふ。」

 

 月の光が煌々と差し込んでくると、「今夜は十五夜だったな」とふと思い出して、宮廷にいた頃の楽器の演奏に耽ったのが恋しく、みんなじっとあの月を見ているのかなと思うと、みんなの顔が月になって見守っているかのようです。

 

 源氏の君の御一行は岸にいるが、それを船で旅する趣向に変えれば、何となくこんな感じの句になる。

 

季題は「秋風」で秋。「船」「波の音」は水辺。

 

十六句目

 

   秋風の船をこはがる波の音

 雁ゆくかたや白子若松     芭蕉

 (秋風の船をこはがる波の音雁ゆくかたや白子若松)

 

 次は花の定座ということで、春の帰る雁にも取り成せるように配慮された「花呼び出し」の一句。

 白子若松は東海道四日市宿から鈴鹿の方へ行かずに南へ行ったところにある伊勢若松とその先の白子のこと。昔は伊勢街道が通っていた。今は近鉄名古屋線が通っている。

 ここでは東海道七里の渡しのこととしたか。帰る雁は北へ行くが、秋の雁は南へ向かう。ちょうどその方向に伊勢若松や白子がある。芭蕉も何度となく通っている道だ。芭蕉の「杖つき坂詞書」、

 

 「さやよりおそろしき髭など生たる飛脚めきたるおのこ同船しけるに、折々舟人をねめいかるに興さめて、山々のけしきうしなふ心地し侍る。

 漸々桑名に付て、処々籠に乗、馬にておふ程、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。ひとりたびのわびしさも哀増て、やや起あがれば、『まさなの乗てや』と、まごにはしかられて、

 

 かちならば杖つき坂を落馬哉

 

終に季の言葉いらず。」

 

にある、飛脚がガン飛ばして怒ってたのもこの七里の渡しか。別の意味で恐い。

 『三冊子』「あかさうし」には、「前句の心の余りを取て、気色に顕し付たる也、」とある。船を恐がる人を旅慣れてないお伊勢参りの人と見て、その不安を直接述べずに、雁行く遥か彼方の伊勢街道に具現化したといっていいだろう。

 

季題は「雁」で秋。鳥類。「白子若松」は名所。

 

十七句目

 

   雁ゆくかたや白子若松

 千部読(よむ)花の盛の一身田(いしんでん) 珍碩

 (千部読花の盛の一身田雁ゆくかたや白子若松)

 

 一身田は伊勢街道を更に南へ向かい、志登茂川にかかる江戸橋を渡ったあたりの田園地帯で、本山専修寺がある。春になると桜が咲き、千部読経の声が聞こえてきたのだろう。

 白子若松の南になるから、春の帰る雁は北にある白子若松へ向かう。

 

季題は「花」で春。植物、木類。「千部読」は釈教。

 

十八句目

 

   千部読花の盛の一身田

 巡礼死ぬる道のかげろう    曲水

 (千部読花の盛の一身田巡礼死ぬる道のかげろう)

 

 前句を定例の千部会ではなく千部供養に取り成したか。死者を弔うのに千部読経を行うのは、『源氏物語』「御法」の紫の上の葬儀でも見られる。

 「かげろう」はしばしば死者の霊に喩えられる。おそらく火葬と結びついてのことだと思う。

 今では陽炎というと夏の暑い時にアスファルト上にゆらゆらゆれて見えるあれのことだが、本来は焚き火や野焼きなどをした際の炎が上がらず燻った状態の時に現れるゆらゆら(シュリーレン現象)のことを言ったのであろう。春の野焼きに結び付けられていたために春の季語になったと思われる。

 

季題は「かげろう」で春。「巡礼死ぬる」は哀傷。

二表

十九句目

 

   巡礼死ぬる道のかげろう

 何よりも蝶の現(うつつ)ぞあはれなる 芭蕉

 (何よりも蝶の現ぞあはれなる巡礼死ぬる道のかげろう)

 

 『荘子』の「胡蝶の夢」は有名だが、胡蝶の現(うつつ)とは如何に。

 「胡蝶の夢」というのは荘周が夢で胡蝶となった飛んでた所で目が覚めて、はたしてどっちが夢やらという話だが、まあ、普通に考えれば、いくらリアルな夢を見ていても夢と現実の区別くらいはつく。蝶になってたのが本当の姿で、今ここにいる人間としての自分は夢なんだなんて、哲学的な仮定としては可能だが普通の人からすればどうでもいいことだ。

 巡礼者の死はまぎれもなく現実であり、決して彼が蝶になったわけではない。そんな話は慰めにもならない。死は現実で蝶が飛んでるのもあくまで現実だ。現実だから哀れで悲しい。

 『荘子』には老聃(老子)が死んだ時、弟子たちが悲しんでるのを見て、師が悲しいものでないことを教えられなかったんだから老聃もたいしたことはない、という話がある。

 人が蝶になったり蝶が人になったりという単なる形而上学上の仮説を現実と同等に扱い、人の死を死とも思わない冷淡さは危険だし、それこそ焚書坑儒の大量虐殺に繋がる発想だ。死が悲しくないなら殺したっていいじゃないかって、さすがにそれを認めることはできない。

 胡蝶の夢なんてのは単なる遊びであって哀れではない。本当に哀れなのは現実だ。そんな皮肉が込められているが、でもこの句はあくまで俳諧の常としての、句を付けるために拵えた嘘ぴょーんというわけだ。虚において実を行う、それが俳諧だ。

 巡礼者の死も作り話だし、現の蝶も作り話だ。それでも哀れなのは、現実を思い出すからだ。

 「蝶の現」は「胡蝶の夢」の逆説でなかなか面白い。さすが芭蕉さんだ。

 

季題は「蝶」で春。虫類。

 

二十句目

 

   何よりも蝶の現ぞあはれなる

 文(ふみ)書ほどの力さへなき  珍碩

 (何よりも蝶の現ぞあはれなる文書ほどの力さへなき)

 

 「あはれ」を良い方の意味で「あはれ」に取り成すのも一つの付け筋で、筆者のような凡庸な作者ならそうしたかもしれない。珍碩さんの答は違っていた。

 「蝶の現」という言葉が「胡蝶の夢」に対しての言葉であるところから、これに「蝶の夢うつつ」という意味を見つけ出す。夢うつつ、英語で言えばデイ・ドリーム・ビリーバー?そんで彼女はクイーンというわけで、恋に転じることになる。

 こうして、文を書くほどの気力もないまま、ただ夢うつつのぼーとした毎日を過ごす片思いの句が出来上がる。なるほど、その手があったか。

 

無季。「文書」は恋。

 

二十一句目

 

   文書ほどの力さへなき

 羅(うすもの)に日をいとはるる御(おん)かたち 曲水

 (羅に日をいとはるる御かたち文書ほどの力さへなき)

 

 前句の手紙を書く気力もない理由を身分違いのせいにした。

 ここで相手は高貴な女性とそのまま詠むのではなく、薄絹を纏って日焼けを防いでる姿を描くことで、それとなく高貴な相手を匂わせる。これが匂い付けだ。

 これを「向え付け」とする説もあるが、前句が高貴な女性に惚れる賤しい人の様だというのは句が付いてから発生する意味で、前句そのものに身分を示す手懸りはない。これが、

 

   賤しき身には文さえもなし

 羅に日をいとはるる御かたち

 

だったら向え付けだ。

 また、前句を薄物を纏った高貴な女性だから文書く力さへなき、とする説もある。解釈としては可能だが、意味がよくわからないし、それって面白いかなあ?

 また、三句の渡りを持ち出す説に関しては論外。芭蕉の時代に「三句の渡り」という発想はない。打越は去るのみ。

 

季題は「羅(うすもの)」で夏。衣装。「日」は天象。

 

二十二句目

 

   羅に日をいとはるる御かたち

 熊野みたきと泣給ひけり    芭蕉

 (羅に日をいとはるる御かたち熊野みたきと泣給ひけり)

 

 前句を特に高貴な男性、つまり天皇か上皇の位として花山天皇(花山院)の俤を付けている。

 花山天皇は歴代天皇の中でもとりわけ破天荒な人で、即位の日に儀式の始まる直前、大極殿の高座の上で馬内侍とセックスしていたという。

 その花山天皇は怟子という女御を溺愛し死なせてしまったあたりは『源氏物語』の桐壺帝のモデルとも思われる。その一方では『拾遺和歌集』を編纂し、風流の心をもった天皇でもあった。このあたりも桐壺帝と重なる。

 その花山天皇が怟子を失ったあと突如失踪し、出家してしまう。十数年後に京に帰ってくるのだが、その間のことは謎が多く、このことから様々な伝説が生じることとなる。それこそ諸国を漫遊しただとか、西国三十三所を巡礼しただとか、那智の滝で千日滝籠行をしただとか、熊野にまつわる話も多い。

 悲しみに暮れた花山天皇が出家への思いを募らせていた時なら、熊野が見たいと泣き叫んだなんてこともいかにもありそうだ。

 

無季。「熊野」は名所。

 

二十三句目

 

   熊野みたきと泣給ひけり

 手束弓紀の関守が頑(かたくな)に  珍碩

 (手束弓紀の関守が頑に熊野みたきと泣給ひけり)

 

 「紀の関」は万葉集に登場するが、どこにあったのかははっきりしない。後の時代でも、所在がはっきりしないまま手束弓(小型の弓)を持った紀の関守は一人歩きして、一種の架空の関として多くの古歌に詠まれている。

 弓を持った関守が頑なに通行を拒んで熊野詣の人を困らせているとはいえ、当時としてもそんなリアリティーがあったとは思えないし、これは遣り句と考えていいと思う。

 

無季。

 

二十四句目

 

   手束弓紀の関守が頑に

 酒ではげたるあたま成覧    曲水

 (手束弓紀の関守が頑に酒ではげたるあたま成覧)

 

 禿げネタというのはいつの時代にもあるもので、今は「斉藤さんだぞ」だが、この手のギャグは昔からあった。

 いかにも居丈高に威張り散らしている関守を見て、それよりそのハゲ頭何とかしろと言いたくなる気持ちはわかるが、あまりレベルの高い笑いではない。ちょっと息切れしてきたか。

 

無季。

 

二十五句目

 

   酒ではげたるあたま成覧

 双六の目をのぞくまで暮かかり  芭蕉

 (双六の目をのぞくまで暮かかり酒ではげたるあたま成覧)

 

 まあ、禿げネタに芭蕉さんもどう展開していいか悩んだのではなかったか。

 「双六」は今で言うバックギャモンの遠い親戚のようなもので、昔は主に賭け事に用いられた。鳥獣人物戯画でも双六盤を担ぐ猿の姿が描かれている。

 前句の酒ばかり飲んでる禿げ爺さんを博徒と見ての付け。

 『三冊子』「あかさうし」には、「気味の句也。終日双六に長ずる情以て、酒にはげぬべき人の気味を付たる也。」とある。「気味」は「匂い」とほぼ同じ。頭がはげるまで飲み続けるような人は、日が暮れるまで双六を続けるような人でもある。響き付けといっていいだろう。

 

無季。

 

二十六句目

 

   双六の目をのぞくまで暮かかり

 假の持仏にむかふ念仏     珍碩

 (双六の目をのぞくまで暮かかり假の持仏にむかふ念仏)

 

 持仏というのはいわばマイ仏陀で、お寺の仏や道端の石仏のような公共のものではなく、自分専用の仏を言う。手のひらサイズの小型の仏像は旅の際に持ち歩いた。

 博徒というのはサイコロの目が思い通りにならないように、何か超自然的な力を信じてたりするものだ。人知の限界を知る、己の無知を知るというのは全ての信仰の根底にあるのではないかと思う。そういう意味では博徒はそれを知っている。

 

無季。「持仏」「念仏」は釈教。

 

二十七句目

 

   假の持仏にむかふ念仏

 中々に土間に居(すわ)れば蚤もなし 曲水

 (中々に土間に居れば蚤もなし假の持仏にむかふ念仏)

 

 蚤は茣蓙や蒲団を介してうつることが多いので、土間にじかに座るとかえって蚤の心配がなかったのだろう。

 みすぼらしい乞食僧となれば、家に上げてもらえずに土間で過ごすことも多くて、それを「蚤もなし」と割り切るのも一つの知恵か。

 

季題は「蚤」で夏。虫類。「土間」は居所。

 

二十八句目

 

   中々に土間に居れば蚤もなし

 我名は里のなぶりもの也    芭蕉

 (中々に土間に居れば蚤もなし我名は里のなぶりもの也)

 

 まあ要するにハブられている(村八分にされている)わけだが、それで平然と開き直れるのは、やはり一本筋の通った人物だろう。なかなか力強い一句だ。

 『三冊子』「あかさうし」にはこうある。

 

  「能登の七尾の冬は住うき

 魚の骨しはぶる迄の老を見て

 前句の所に位を見込、さもあるべきと思ひなして人の体を付たる也。

   中々に土間にすはれバ蚤もなし

 わが名は里のなぶり物也

 同じ付様也。

   抱込て松山広き有明に

 あふ人毎に魚くさきなり

 同じ付也。漁村あるべき地と見込、その所をいはず、人の体に思ひなして付顕す也。」

 

   能登の七尾の冬は住うき

 魚の骨しはぶる迄の老を見て  芭蕉

 

の句は元禄三年六月、つまり「木のもとに」の巻の二ヵ月後、京都の凡兆宅で巻いた「市中は」の巻の十一句目で、『猿蓑』に収録されている。前句の能登の七尾からいかにもそこにいそうな老人を付けている。

 

   抱込て松山広き有明に

 あふ人毎に魚くさきなり

 

の句は元禄七年閏五月、京で巻いた「牛流す」の巻の十二句目。同じく漁村の風景にその場にいそうな魚臭い人を登場させる。漁師と言わずに「魚くさき」というだけで漁師を文字通り匂わせている。

 「我名は里の」の句はいつも土間にいる人からハブられている匂いを嗅ぎ取り、そういう人の言いそうな言葉を付けている。

 この巻の十句目の

 

   入込に諏訪の涌湯の夕ま暮

 中にもせいの高き山伏     芭蕉

 

も、いかにもその場にいそうな人の付けだが、これを山伏と言わずして山伏を匂わせる表現ができたなら匂い付けということになるのだろう。

 

無季。「我」は人倫。「里」は居所。

 

二十九句目

 

   我名は里のなぶりもの也

 憎まれていらぬ躍(をどり)の肝を煎(いり) 珍碩

 (憎まれていらぬ躍の肝を煎我名は里のなぶりもの也)

 

 月の定座だが。この前句ではちょっと難しかったか。

 「肝を煎る」というと「いらつく、やきもきする」という意味だが、「肝煎り」だと「世話を焼く」という意味になる。江戸時代では「肝煎」は役職名にもなっている。

 句の意味は、日ごろから憎まれているため、やらなくてもいいような踊りに腐心しなくてはならない、といったところだろう。普段の仕事ではどんくさくて人の足を引っ張ってばかりだから、せめて宴会では主役になり存在感をアピールするというわけか。

 

無季。

 

三十句目

 

   憎まれていらぬ躍の肝を煎

 月夜月夜に明渡る月   曲水

 (憎まれていらぬ躍の肝を煎月夜月夜に明渡る月)

 

 何だかこれでもかというくらい月を出してきた感じだ。何日にも渡って夜明けまで月、月、月。月もいいけど芸人は楽ではない。

 前句の村の憎まれっ子からプロ芸人、いわゆる「芸能」の人に取り成したのだろう。「芸能」は士農工商外の非人の身分だった。月の季節は連日の興行で大忙しだ。

 

季題は「月」で秋。夜分、天象。

二裏

三十一句目

 

   月夜月夜に明渡る月

 花薄あまりまねけばうら枯て  芭蕉

 (花薄あまりまねけばうら枯て月夜月夜に明渡る月)

 

 月にススキは付き物で、今でも十五夜にはススキが欠かせない。

 風にそよぐススキの穂が手招きしているように見えることは、

 

 秋の野の草の袂か花薄

    穂に出でて招く袖と見ゆらむ

              在原棟梁『古今和歌集』

 我が心ゆくとはなくて花すすき

    招くを見れば目こそとどまれ

              和泉式部

 ゆく人を招くか野辺の花すすき

    こよひもここに旅寝せよとや

              平忠盛『金葉和歌集』

 

などの古歌に歌われている。

 

   毒海長老、我が草の戸にして身まかり侍るを葬りて

 何ごとも招き果てたる薄哉  芭蕉『続深川集』

 

は貞享の頃の句とされている。招きすぎて招き果ててしまうと、あとは枯れて逝くのみ。月夜が続き月に夜を明かしているうちにも死は忍び寄ってくる。まあ、人生短いから精一杯楽しもう。

 

季題は「花薄」で秋。植物、草類。

 

三十二句目

 

   花薄あまりまねけばうら枯て

 唯四方なる草庵の露     珍碩

 (花薄あまりまねけばうら枯て唯四方なる草庵の露)

 

 「四方」という言葉は「方丈」という言葉を連想させる。おそらく「方丈」というとあまりに鴨長明の『方丈記』に結びついてしまうため、似た言葉に言い換えて俤にしたのであろう。「方丈」なら本説、「四方」なら俤といったところか。

 元禄三年の八月から九月頃の興行で『猿蓑』に収録された「灰汁桶の」の巻の十七句目の、

 

    何を見るにも露ばかり也

 花とちる身は西念が衣着て   芭蕉

 

もまた、西行を西念に変えることで俤にしている。

 ただ、平安時代後期に西念という僧が実在したらしい。ウィキペディアによると、「明治39年(1906年)11月、京都の松原通(現在の京都市東山区小松町)において、仏事供養目録および極楽往生にまつわる和歌(極楽願往生歌)が発見され、その内容から元は彼の所有物であったと考えられている。」とのこと。また、埼玉県吉川市に西念法師塔というのがあり、鎌倉時代の親鸞の弟子だという。江戸初期に奥州伊達之郡にも西念という僧がいたという。

 芭蕉の句はそれとは関係なく、西行に似ていていかにもありそうな名前として用いただけと思われる。

 ちなみに方丈は約3メートル四方で、四畳半よりは少し大きい。

 

季題は「露」で秋。降物。「草庵」は居所。

 

三十三句目

 

   唯四方なる草庵の露

 一貫の銭むつかしと返しけり  曲水

 (一貫の銭むつかしと返しけり唯四方なる草庵の露)

 

 一貫は銭一千文。江戸時代は金銀銭がそれぞれ変動相場で動く三貨制度が取られていた。芭蕉の時代の銭一貫は五分の一両くらいだったと思われる。元禄後期になると四分の一両くらいになり、銭高金安になったらしい。

 それほどの大金ではないから、ただ細かくて面倒(むつかし)なので一分金にしてくれという所か。

 まあ、別に草庵の住人に限らず、銭一貫はかさばるし重いし「むつかし(面倒な、うざい)」という感覚はあったのだろう。ただ、凡人はやはり貰えるものは貰っておこうとなりがちだ。それを面倒だからときっぱり断る所はやはり物に執着しない風流人なのだろう。

 古註に兼好法師と頓阿法師との借金のエピソードによるとする説があるが、それだと二裏に入ってからの展開がやや重い感じになる。

 

無季。

 

三十四句目

 

   一貫の銭むつかしと返しけり

 医者のくすりは飲ぬ分別    芭蕉

 (一貫の銭むつかしと返しけり医者のくすりは飲ぬ分別)

 

 前句の「返しけり」をお金ではなく薬のこととする。

 薬の値段が一貫だったため、ちょっと高いなと思い、それなら薬に頼らなくても自然に治るんじゃないかと思い、一貫はちょっと面倒だなとばかりに薬を返したのだろう。

 江戸後期の文政期だと大工さんの年収なんかがわかっているようだが、元禄期の一般的な庶民の収入はよくわからない。多分銭一貫は今の感覚だと数万円といったところで、ちょっと二の足を踏む値段ではなかったかと思う。芭蕉の句はそのあたりの機微を感じさせる。

 芭蕉さんの得意な経済ネタだ。

 

無季。「医者」は人倫。

 

三十五句目

 

   医者のくすりは飲ぬ分別

 花咲けば芳野あたりを欠廻(かけまはり) 曲水

 (花咲けば芳野あたりを欠廻医者のくすりは飲ぬ分別)

 

 さて、花の定座で順番がかわり珍碩ではなく曲水になる。一の懐紙の花を珍碩が詠んだから、二の懐紙は曲水に一句づつという配慮だろう。

 芭蕉も持病を抱えながら『笈の小文』の旅では芳野あたりを駆け回ったし、みちのくも旅してきた。

 薬といっても当時の薬は科学的な根拠にも乏しく、ほとんど気休めのようなもので、だったらやりたいことをやって人生を楽しむ方がよっぽど薬になるというもの。

 最近でも薬漬けの末期医療は間違いというところから緩和治療が重視されるようになってきている。まだ元気があるなら登山をしたりして、人生の最後を楽しく締めくくるという考え方が見直されている。

 芭蕉はこの四年後におそらく末期癌(大腸癌説に従うなら)と思われる状態で江戸を出て伊賀、近江、京都などの門人たちの所を尋ねて廻り、最後は大阪で息を引き取った。この最後の大阪の旅が珍碩改め酒堂と大阪の之道との喧嘩の仲裁のためだったのも何かの縁か。このときに曲水(曲翠)に宛てた手紙が残っている。その中に、

 

 「さて洒堂一家衆、其元御衆、達而御すすめ候に付き、わりなく杖を曳き候。おもしろからぬ旅寝の躰、無益の歩行、悔み申すばかりに御座候。先伊州にて山気にあたり、到着の明る日よりさむき熱晩々におそひ、漸頃日、常の持病ばかりに罷り成り候。」

 

とある。芭蕉は曲水と大和路を旅する約束をしていたが、それも果たせなかった。その悔しさをこう綴っている。

 

 「伊賀より大坂まで十七八里、所々あゆみ候ひて、貴様行脚の心だめしにと奉り候へ共、中々二里とはつづきかね、あはれなる物にくづほれ候間、御同心必ず御無用に思召すべく候。」

 

 曲水も珍碩も、こうなるなんてこの時は夢にも思ってなかっただろう。

 

季題は「花」で春。植物、木類。「芳野」は名所。「欠廻」は旅体。

 

挙句

 

   花咲けば芳野あたりを欠廻

 虻にささるる春の山中       珍碩

 (花咲けば芳野あたりを欠廻虻にささるる春の山中)

 

 病気をおしての旅の句でちょっとしんみりした所で、最後は笑いに持っていって落ちをつける。この句は解説する必要はないだろう。

 

季題は「春」で春。「虻」も春。は虫類。「山中」は山類。