芭蕉発句集六

     ──再び江戸滞在期(第三次芭蕉庵)──

呟きバージョン


 芭蕉の句を芭蕉になり切った形でツイッターで呟いたものをまとめてみた。

 出典や参考文献などは省略しているので、歴史小説のような半分フィクションとして読んでほしい。

 芭蕉を小説に登場させる時の参考にでもしてもらえればいいと思う。

ふたたび江戸滞在期(第三次芭蕉庵)

 

 ともかくもならでや雪のかれお花

 

 元禄4年の11月、28か月ぶりに江戸の帰ってきた。

 沢山の門人達が出迎えてくれた。

 貞享元年に旅立つ時には野ざらしになるんじゃないかと思ったが、あれから旅を続けてきて、とにかく髑髏になって目からススキが生えて雪に埋もれるってことにはならなかった。

 

 

 葛の葉の(おもて)見せけり今朝の霜

 

 元禄4年の1029日、2年半ぶりに江戸に戻った。門人たちが迎えに来てくれて、しばらく彦右衛門の家に厄介になり、新しい芭蕉庵の話も出た。

 いない間に嵐雪が悪口を言ってただの噂はあったけど、会ってみるとしおらしく頭を下げてきた。

 風に裏返ってた葛の葉のも、冬の霜に枯て表を見せるものだ。

 

 

 (かり)さはぐ鳥羽(とば)の田づらや(かん)の雨

 

 元禄4年の冬、盤ちゃんを連れて江戸に戻った。

 帰って間もない頃「寒の雨」というお題を貰って句を作った。

 雪でもなく時雨のようなにわか雨でもないというのが珍しく、俳諧らしい。

 慈鎮和尚の、

 

 大江山かたぶく月の影さえて

    鳥羽田の面に落つる雁がね

 

 の歌に詠まれた鳥羽田の雁も、月を出すのではなく、あえて雨にしてみた。

 確か鳥羽田の雪の雁は正徹が既にやっていた。

 

 

 袖の色よごれて寒しこいねずみ

 

 元禄4年冬、久しぶりに江戸に帰ってきた頃だったが、以前蛙合興行の時に共に巻頭を飾ってくれた仙化の父が亡くなったというので、追善の句を書いた。

 さすがに袖の色が赤く染まるのは大袈裟だし、紫を濃くした濃鼠色にした。墨染め衣の袖が湿るとこんな色になる。

 

 

 人も見ぬ春や鏡のうらの梅

 

 元禄5年の歳旦吟。

 春というと庭の梅の花にみんな目が行くから、鏡の裏に梅が描かれていても忘れてたりする。

 買う時は裏に凝らされた意匠で選んだりするんだけど、意外に忘れているものってあるよね。

 まあ、普段鏡を見ない人だからそう思うのかも。

 

 

 鶯や餅に(ふん)する(えん)の先

 

 元禄5年の春、鶯が餅に糞するのを見て即座にできた句だった。

 句というのは何度も作り直して、時に何年か越しでやっと完成することもある。

 鶯という使い古されたテーマに俳諧らしい笑いを加えたこういう句が瞬時にできるというのは、長年の修行の成果と言えよう。

 早速盤ちゃんとの両吟の立句に使った

 

 

 鶯や柳のうしろ(やぶ)のまへ

 

 元禄5年の春だったか。

 鶯の鳴き声がするが姿が見えない。我が宿の柳には来てないから、それよりは後ろなのだろう。あの薮の前からだろうか。

 道綱母の、

 

 我が宿の柳の糸は細くとも

    くる鶯の絶えずもあらなむ

 

の歌では鶯は宿に来ることになっている。

 

 

 (この)こゝろ(すゐ)せよ花に五器一(ごきいち)()

 

 元禄5年の春、盤ちゃんがみちのくの旅に出るというので、江戸の門人たちをを集めて餞別句会をやった。これはその時の句。

 五器は携帯用の食器のセットで、花見にも旅にも役にたつ。

 同じ日、

 

 白河の関に見かへれいかのぼり 其角

 片方はわが眼なり春霞     桃隣

 年経ても味をわするな磐城海苔 露沾

 

の句があった。

 

 

 かぞへ来ぬ屋敷/\の梅やなぎ

 

 元禄5年春の句。

 江戸に戻って来ると、とにかく家々家々どこまでも続いてる。今更ながらに膳所とはえらい違いだ。

 それにみんな歩くのが早い。ゆっくり歩けば屋敷の庭々に梅や柳が春を告げているのに。

 杜甫の問柳尋花至野亭を知らないのか。

 

 

 猫の恋やむとき(ねや)(おぼろ)(づき)

 

 元禄4年の10月の終わりに江戸に戻ってきて、しばらく橘町に住まわしてもらっている。

 深川に新しい芭蕉庵を建ててくれるというが、まだ計画段階だ。

 盤ちゃんがいる間は外の猫が騒がしかったが、ちょうどみちのくの旅に送り出した頃から猫の声も静かになり、空には朧月だけが残っている。

 猫の恋はあれだけ騒がしく鳴いておいて、ある時からかたっと静かになる。

 猫もあの朧月に我が恋の朧に終わったことを思うのだろうか。

 

 

 花にねぬ(これ)もたぐいか鼠の巣

 

 元禄5年春の句、江戸に帰って来て橘町にいた時だったか、その家は夜になると天井裏の鼠がうるさかった。

 源氏の君が(おんな)三宮(さんのみや)に構わずに浮気してるのを、桜一つを塒にせずに飛び回る鳥だと言われたのを思い出し、鼠も花に寝ないのか、としてみた。

 

 

 両の手に桃とさくらや草の餅

 

 芭蕉庵に晋ちゃんと嵐雪ちゃんを呼んで三吟興行をした時の発句。

 とはいえ、二人ともすっかり頭が固くなって、なかなか今の軽みに馴染んでくれない。

 あまり句を添削しり、駄目出ししたりしたもんだから、余計険悪になっちゃったかな。

 

 

 むさし野やさはるものなき君が笠

 

 元禄2年の春に大垣から此筋と嗒山が仕事で江戸に来ていて、興行したりした。

 その後みちのくの旅や膳所滞在の時期があり、再び江戸に戻った頃、またひょっこりと嗒山がやってきた。

 此筋の一家も来てた頃だったが興行には参加せずに三か月いて帰って行った。

 今の俳諧についていけなくなったのかな。

 自分は年老いて杖もおぼつかないが、塔山はまだ元気だ。

 

 

 うらやましうき世の北の山桜

 

 元禄5年の春、金沢の句空が「北の山」という撰集を出すというのでこの句を作って送った。

 北の山は加賀白山のことで、白山を吉野の花に喩えた歌が俊成卿の歌にあった。

 この発句を立句にした句空と去来の両吟が北の山の巻頭を飾ってくれた。

 

 

 杜鵑(ほととぎす)鳴音(なくね)や古き硯ばこ

 

 不卜というと、貞享3年に蛙合をやった時に執筆を務めてくれて、最後に、

 

 継橋の案内顔也飛蛙

 

の句で締め括ってくれた人だった。

 今その一周忌にその時の硯箱を偲んで。

 形見の硯箱を見ていると、折りからのホトトギスの声が悲しげだ。

 不卜はひと回り上の歳の先輩で、延宝6年に不卜が編纂した俳諧江戸広小路にも句を採ってくれた恩人でもある。

 

 

 鎌倉を生て(いで)けむ初鰹

 

 初鰹は鎌倉に上がると鮮度が落ちないように馬で江戸まで運ばれてくる。

 さすがに江戸に着く頃には死んでるが、鎌倉を出た時はまだ生きてたんじゃないかと思うくらい新鮮だ。

 鎌倉といえば北条義時の時代に多くの御家人が粛清されて鎌倉右大臣も殺された。そんな鎌倉を「生きて」という所に意味がある。

 

 

 ほとゝぎす(なく)や五尺の(あやめ)(ぐさ)

 

 端午の節句には菖蒲の葉を屋根に葺くから、町の軒がみな青々として綺麗だ。

 その中でも五尺はあるかという長い葉っぱを飾ってる家があった。これはホトトギスの啼くくらい貴重だ。

 古今集の「ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさ」ちょっともじって。

 

 

 芭蕉葉を柱にかけん庵の月

 

 元禄2年にみちのくに旅立つ時に草庵は人に譲って、元禄4年の冬に江戸に帰り、しばらく日本橋橘町に家を借りてた。

 8月の名月の頃には新しい芭蕉庵の完成を祝うことになり、今はまだ5月だが、その時のための移芭蕉詞の草稿を書いた。

 

 

 破風(はふ)(ぐち)に日影やよはる夕涼(ゆふすずみ)

 

 元禄5年夏、素堂と俳諧に五言の漢詩の詩句を交える和漢俳諧両吟歌仙を試みた時の発句。

 夕涼みをした場所からちょうどお寺の唐破風の屋根が見えていた。

 素堂の脇は、

 

 煮茶蠅避烟

 

 煮茶は隠元禅師の淹茶法で、この頃急速に広まっていた。

 

 

 七株(ななかぶ)の萩の千本(ちもと)や星の秋

 

 素堂の母の喜寿の祝いを七十七にちなんで七夕にやった。

 7人に秋の七草を振り分けて、回って来たのが萩だった。

 七株の萩もやがて株を分けて、いつしか千本、八千本となれば、萩の露はさながら地上の星のようで、七株でも満天の星のようになり、拾遺集の、

 

 空の海に雲の波立ち月の舟

    星の林に漕ぎかくる見ゆ

          柿本人丸

 

の歌の心だ。

 七草を割り当てて一句づつということで、

 

 けふ星の賀にあふ花や女郎花 杉風

 星の夜よ花び紐とく藤ばかま 其角

 動きなき岩撫子やほしの床  曾良

 松江の鱸薄の露の星を釣   嵐蘭

 布に煮て余りぞさかふ葛の花 沾徳

 

などの句があった。

 

 

 (この)寺は庭一盃のばせを哉

 

 どこの寺だったか、元禄5年の名月の前に新しい芭蕉庵のための芭蕉の苗木を5本もらった、その時だったかもしれない。

 深川の最初の庵の泊船堂は李下から芭蕉を貰って植えたことで芭蕉庵になって、千春撰武蔵曲では芭蕉名義でクレジットされた。以後芭蕉の名が定着した。

 その芭蕉庵は天和の大火で焼失し、再建された芭蕉庵はみちのくに旅立つ時に人に譲った。

 元禄5年、また江戸に住むので或るお寺に芭蕉を貰いに行く。

 

 

 三日月や地は(おぼろ)なる蕎麦(そば)

 

 元禄5年秋の「芭蕉庵三ケ月日記」のために作った句。

 新しい芭蕉庵の完成を祝う意味もあった。

 昔の芭蕉庵ともそう遠くない所に建てた三つの部屋からなる茅葺きの家で、葦垣で周囲を囲い、前には池があって富士山も見える。月見にはもってこいだ。

 故郷の伊賀には蕎麦畑も多く、辺り一面に小さな白い花を咲かす。

 夕暮れになるとそれもはっきりとは見えなくなり、そのぼんやりとした地面の向こうに三日月が沈んで行くと、辺りはすっかり闇に包まれて行く。

 

 

 名月や(かど)にさしくる潮頭(しほがしら)

 

 元禄5年の名月は実は雨だった。江戸に来ていた大垣の人たちと半歌仙を巻いたが、その時の発句は、

 

 名月や(すず)(ふく)雨の晴を待て 濁子

 

だった。庵を再建したばかりで枕が足りなかったな。

 これは芭蕉庵三日月日記のために作った句。

 満月の時は大潮になり、いつもより潮が高くなる。

 門は大仏様のある高輪如来寺をイメージしても良いし、東に海があるという点では松島もいいかもしれない。瑞巌寺や雄島など、海の方から月が上る。

 

 

 なでしこの暑さわするゝ野菊かな

 

 元禄5年の秋、野菊の絵の画讃を頼まれた。

 まだ残暑の残る中だったので、早く野菊の季節にならないかと、後撰集よみ人知らずの、

 

 撫子の花ちりかたになりにけり

    我が待つ秋ぞ近くなるらし

 

の歌を思い出した。

 

 

 霧雨(きりさめ)の空を芙蓉(ふよう)の天気哉

 

 元禄58月に彦根藩の許六が入門した。六芸に通じていて、狩野安信に直々に学んだ絵の方はプロ級だ。

 芙蓉の絵に画賛を頼まれた。芙蓉は蓮を意味することもあるけど、絵の方では酔芙蓉で、白い八重咲きの花が酔ったように赤く色づく。

 霧雨に湿ったような良い色に位上がっている。

 桜もそうだし酔芙蓉を描く時もそうだが、白い花を描く時は白を引き立たせるために背景を薄墨で塗るのだが、それが霧雨のようだ。まあ、金地にすると豪華だか金がかかる。

 秋の霧雨は和歌にはない言葉なので俳言になる。

 

 

 川上とこの川しもや月の友

 

 元禄5年の中秋の名月は、完成したばかりの新しい芭蕉庵で迎え、記念に「芭蕉庵三ケ月日記」の句を集めて興行した。

そのあとだったと思ったが、庵の近くの小名木川に船を浮かべて大島の五本松の方まで行った。

 この川は行徳へ通じる運河なので、こっちが川下になる。

 

 

 青くても有るべき物を唐辛子

 

 元禄5年の秋も終わる頃の興行の発句。

 秋も深くなると唐辛子は赤く色付いて行く。

 赤くならなくても青いままでも十分辛いのに。

 まあ、寓意としては、お互い年は取りたくないなってこと。

 青い唐辛子は南蛮味噌にもなる。

 

 

 秋に(そう)(ゆか)ばや末は小松川

 

 元禄5年の9月は小の月で29日が九月尽だった。この日は洒堂を連れて桐奚の所に行き、小名木川に船を浮かべて大島の五本松の方まで行った。

 昔の荒川の名残の細い川と交わるところで、前にも鹿島に行く時に通った所だ。

 

 

 (ゆく)秋のなをたのもしや青蜜柑

 

 元禄5年の秋は許六も入門したし、膳所からは珍碵も来ている。其角の門だった野坡や利牛もいて、新しい俳諧を試みている。

 その一方で乙州は大津に帰る。

 元禄2年に大津にいた頃は古典の心を今の言葉でだったが、今は今の感覚で古典にないものを作ろうとしている。

 行秋は悲しいものなんだが、それをあえてこれから蜜柑が熟して甘くなるから頼もしいとするのは、古典の本意本情に囚われずに作ろうという実験でもある。

 ただ新しくはあっても、それが多くの人の心に刺さるかどうかは別問題。

 理屈で句は作れない。

 

 

 けふばかり人も年よれ初時雨

 

 元禄5103日、江戸勤番中の許六の彦根藩邸に呼ばれて興行した時の発句。

 時雨といえば宗祇法師の、

 

 世にふるもさらに時雨の宿り哉

 

の有名な発句もあることだし、初時雨の日くらいはしみじみとこれまでの人生を振り返ってくれ。

 この句の「も」は「ちからも」といって強調の言葉で、何かと比較してるわけではない。

 

 

 口切(くちきり)(さかい)の庭ぞなつかしき

 

 元禄5年の冬に深川の支梁の家で興行した時の発句で、茶の世界では10月は新茶の壺の口を切る日だった。

 見るとなかなか質素ながらも風情のある庭で、利休さんも懐かしがりそうな庭ですねと褒めておいた。

 

 

 ()(びらき)や左官(おい)(ゆく)(びん)の霜

 

 元禄5年の10月の初め、夏用の炉から冬用の炉に変える炉開きをやった。

 この時は左官が来て炉を作り直してくれるんだが、来るたびにこの左官は老け込んで、今では鬢の色が真っ白だ。

 李白の詩に何處得秋霜とあるが、今は冬の霜の季節だ。

 

 

 (うづみ)()や壁には客の影ぼうし

 

 元禄5年の冬、菅沼外記が江戸に来ていて、その藩邸に呼ばれた。

 広い家の埋み火の前で待たされてぽつんと一人というのも寂しい。

 月の映し出す自分の影に李白の月下独酌を思い出した。

 月と我が影と三人だけど酒は苦手。

 外記がやがて戻って来たけど、貰った酒一樽は土産に持ち帰ろう。

 李白の月下独酌は、本当は一人なんだけど、月、それに月の映し出す自分の影と対座する。

 目の前の火が燃え上がっていれば、影は背後にでき、向かいの影は薄くなる。だから埋み火というところが味噌。

 李白の月下独酌ネタは、伊賀にいた頃も付句で、

 

   秋に吉野の山の遁世

 在明の影法師のみ友として 宗房

 

とやったことがある。

 埋み火を出すことで、冬のもっと冷え寂びた感じにしてみた。

 

 

 塩鯛の歯ぐきも寒し(うを)(たな)

 

 元禄5年の冬、晋ちゃんが、

 

 声かれて猿の歯白し峰の月

 

の句を作ったもんだから、ついつい張り合っちゃったね。

 月に鳴く猿は漢詩の趣向で、水に映る月を取ろうとする猿は画題にもなってる。

 それを卑近なもので表現してみた。

 

 

 月花の()に針たてん(かん)(いり)

 

 元禄5年頃はいろいろ悩むこともあった。

 今に残る古典は昔も今も同じ情があることを教えてくれる。ただ、古典にない新しくて不易になるような情を発見したくて軽みを提唱した。

 でも自分の句はどうあがいても古典から抜け出せない。お灸では足りんな。

 

 

 初雪やかけかゝりたる橋の上

 

 元禄6年の冬、隅田川に新しい橋の建設が始まった。

 これができたら日本橋はすぐそばになるな。

 人口も増えてこの辺りも騒がしくなりそうだし、来年あたり、また旅に出ようかな。

 

 

 庭はきて雪をわするゝはゝきかな

 

 元禄5年の冬、寒山子(かんざんし)の絵を描いてそれに添えた自画賛の句。

 寒山(かんざん)拾得図(じっとくず)だと箒を持つのは拾得(じっとく)の方だが、寒山を単体で描いたので寒山に箒を持たせた。

 拾得が箒を忘れていったという設定にしておこう。雪が降る時は掃いたりせずに降るに任せるのが良い。

 

 

 (うち)よりて花入(はないれ)(さぐ)れ梅つばき

 

 元禄5年1220日の彫棠亭での興行の発句だった。

家の中に梅と椿が生けてあって、それがなかなか良い塩梅だったから、これは華道の達人か、なら花入れもとんでもない名品かもしれないぞって、勿論冗談だけど。

 彫棠は晋ちゃんの弟子だった。

 この日は、

 

 降こむままの初雪の宿 彫棠

 

の脇を付けてくれた。

 心は粗末な草庵で、雪の吹き込む家の中で探梅をしようと、なかなか洒落ている。

 

 

 中々(なかなか)に心おかしき(しは)()

 

 膳所藩家老の菅沼外記が江戸に来ていて酒一樽を貰った。上方の透き通った酒は貴重だ。

 これはそのお礼の手紙に書いた句で、撰集に載せるには何で心おかしいのか、言いおうせぬ句だね。

 ただ、一人では飲みきれないし、忘年会をやるしかないな。

 

 

 ()季候(きぞろ)を雀のわらふ出立かな

 

 元禄5年の江戸の素堂の家に行った時の句。

 師走になるとやって来る、笠に歯朶を挿して覆面をして竹を打ち鳴らす角付け芸集団節季候。

 お米を貰うと雀が寄って来るが、節季候のいでたちも雀に似てなくもない。

 年末の忙しい時期に来て人を笑わせてくれる門付け芸の節季候。俳諧師もかくありたいものだ。

 竹を鳴らして米を貰うあたりは雀みたいだ。みんなが笑ってる、雀も笑ってる。

 

 

 (うを)(とり)の心はしらず年わすれ

 

 元禄5年の暮、まあせっかく菅沼外記から上等な酒一樽貰ったし、周りにせっつかれて忘年会をやったけど、体調も相変わらずだし悩むことも多く、甥のことも心配だ。

 「魚は水に飽かず、魚にあらざれば其心を知らず。鳥は林を願ふ、鳥にあらざれば其心を知らず」

と長明先生は言ったが、誰が心の内を知る。

 まあみんな、それぞれ今年はいろんなことがあったと思うが、今はとにかく楽しもう

 

 

 (はまぐり)(いけ)るかいあれとしの暮

 

 元禄5年の暮、許六に刺激されて絵を二つばかり描いて自画賛を添えた。

 一つは箒を持った寒山子の絵で、もう一つが蛤だった

 貝は生きたまま売られてきて、塩抜きして食う。動いてる姿を見ると、捕まらずに生きてられたら良かったのにと思った。

 

 

 (とし)()()や猿に着せたる猿の(めん)

 

 元禄6年、深川での歳旦。

 何か新しい発想で古典を超えたいと思うんだけど、結局やってることは古典の情を少しずらしてみたりくらいで、あまり進歩がない。

 これでは猿が猿の面を被って新しがってるようなもんだ。

 若い者のような突飛な発想はもう無理なのかな。

 

 

 (こん)(にゃく)に今日は(うり)(かつ)若菜哉

 

 元禄61月、嵐雪との両吟の発句。

 嵐雪が軽みの新風について来れるかどうか試す意図もあったが、嵐雪の付句は昔のような調子で、満尾直前の三十四句、あと二句を残す所で打ち切った。不合格。

 蒟蒻(こんにゃく)は何にでも合う料理の名脇役で精進料理にも欠かせないが、正月の七草の日はみんな若菜を買う。

 

 

 春もやゝけしきとゝのふ月と梅

 

 元禄6年の1月、江戸の許六亭に滞在して、許六が描いた絵に画賛を付けた。

月と梅はそれ自体風情のあるものだから、これを壊さないように最低限の言葉で、それでいて「やや」という所で俳味を持たせてみた。

 

 

 白魚や黒き目を()(のり)の網

 

 元禄6年春、蜆子(しじみ)和尚図(おしょうず)への賛。

 蜆子和尚は坊さんなのにタモでエビやシジミを掬って食べ、殺生の罪を繰り返すが、禅の方では戒律よりも、物事に頓着しない生き方をよしとする。

 ただ気をつけないと、網にかかった白魚の目は仏様の目で、いつか自分も法の網にかかる。

 

 

 菎蒻(こんにゃく)のさしみもすこし梅の花

 

 この句は去来の身内に不幸があっての追悼句だった。

 梅の花というと古今集に、

 

   あるじ身まかりにける人の家の梅も花をみてよめる

 色も香も昔の濃さに匂へども

    植へけん人の影ぞこひしき

          紀貫之

 

の歌がある。

 この年は、

 

 蒟蒻に今日は売り勝つ若菜かな

 

を発句とする両吟を嵐雪と巻いた。

 蒟蒻は料理の中では名脇役という感じでなかなか主役にならないが、梅の花に故人を偲ぶ時くらいは刺身蒟蒻も主役になる。

 

 

 はつむまに狐のそりし頭哉

 

 晋ちゃんのところにいた是吉が医者になるというんで剃髪した。

 まあ、俳諧師もそうだが医者も身分を捨てる職業だからね。みんなさっぱり坊主頭。伊勢の 内宮には入れない。

 ただ、その日は稲荷明神鎮座の2月の最初の午の日で、お稲荷さんの縁日だったから、狐(晋ちゃん)に化かされて剃られちゃったかな。

 

 

 当帰(たうき)よりあはれは塚のすみれ草

 

 膳所からの手紙に羽黒山の佐吉の追善句の注文が来た。えっ、いつ?どうして?

 とにかく追善句ね。

 漢方薬の当帰は妻が夫に病気が治ったから当に帰るべしと言ったことでその名がある。もはや木曽塚の菫となったなら、駆けつけることもない。

 

 

 鶴の毛の黒き衣や花の雲

 

 元禄63月、専吟という僧への餞別句。

 入門した時に、既に旅は始まってるっていってたが、ついに伊勢熊野の巡礼の旅に出ることになった。

 和漢朗詠集に人被鶴氅立徘徊とあるが、鶴のように飛び立ってゆく専吟は鶴の羽で織った墨染衣を着てるのだろう。

 

 

 (ささ)の露(はかま)にかけししげり哉

 

 元禄64月、大垣藩主戸田采女正に付き従って、千川こと大垣藩士岡田治右衛門が日光へ行くことになった。

 夏の旅は笹の繁る中を通るもので袴も露に濡れてしまうことでしょう、お気をつけて、という意味で、露は別れの涙の含みもある。

 千川は、

 

 牡丹の花を拝む広庭

 

 牡丹を見に行ってきます、とのこと。

 

存疑395

 風月の財も(はなれ)(ふか)()(ぐさ)

 

 元禄6年の4月に許六の牡丹の絵の画賛を頼まれた。

 牡丹は和歌では深見草と呼ばれ、恋心や悲しみの「深い」に掛けて用いられる。

 牡丹は華やかで、その見せかけに心を奪われがちだけど、その深い色合いには深い心を読み取ってくれ、そう書き記すことにした。

 人の心、牡丹の心、金では買えない。

 

 

 郭公(ほととぎす)声横たふや水の上

 

 深川の辺りもホトトギスの声が聞こえる季節になって、杉風や曾良に促されて、水辺のホトトギスを詠んでみようかと思った。

 蘇軾があの三国志で有名な赤壁の古戦場に船を浮かべて遊んだ時の「赤壁賦」の「白露横江、水光接天」のイメージで作った句だが、

 

 一声の江に横たふや郭公

 

とどっちにしようか迷った。

 門人は「水の上に横たふ」の方が「江に横たふ」よりも具体的なイメージが湧くと言うし、「や」という切れ字が何を強調するのかはっきりせず、句がしっかりと切れてないからだ。

 

 

 旅人のこゝろにも似よ(しひ)の花

 

 参勤交代で中山道を通って彦根に帰る許六に、本当は笈を背負って詫びた旅人のような旅がしたかっただろうにと、見るも立派な椎の木にも花が咲くように、

 許六と言えばやはり、

 

 十団子も小粒になりぬ秋の風 許六

 

だね。これは衝撃的だった。完全に先を越されたね。

 昨今の米価高騰でステルス値上げが流行っていて、それに秋の風という季語をつけて発句にしちゃうなんて、藤原敏行もびっくりだ。

 

 

 うき人の旅にも習へ木曽の蠅

 

 元禄6年の夏、許六は大勢の従者とともに中山道を彦根へと帰ってゆく。

 木曽の大井宿の辺りは西行法師の旧跡もあるから、そこで何か学ぶものもあるだろう。

 まあ、今の季節は蝿が五月蝿いけどね。

 羈旅の心は本来都を追われた流刑人の乞食同然の身となり、都を懐かしむ心で、今の時代ではなかなかそういう気分にもなれないものだ。

 椎の花の志の高さも悪くはない。木曽の蝿の卑俗を学ぶのも悪くない。許六はどっちがいいかな?

 

 

 子ども等よ昼貌(ひるがほ)咲キぬ瓜むかん

 

 元禄63月に桃印を失い、この年の夏は寿貞が子供達を連れて頻繁に訪ねて来ていた。

 子供達の名は二郎兵衛、おまさ、おふう。

 ちなみに二人の女の子は二人合わせて「風雅」。

 

 

 夕顔や(よう)てかほ出す窓の穴

 

 元禄6年の夏の句。

 夕顔は源氏物語では卑賤の花とされていて、光の君は京の下町で初めてそれを見る。

 夕顔の咲く家には半蔀の窓があったが、今だったら遊郭の座敷の窓だろうな。酔った客が窓の外を見るとそこに夕顔の花が咲いてたりする。

 

 

 窓形(まどなり)に昼寝の(だい)(たかむしろ)

 

 立派な天に聳える臺に住まなくても、窓の風が当たる所に竹筵を敷けば、臺に住む王様の気分になれる。中国の隠士陶淵明のように気高くいたいものだ。

 ただ臺はわかりにくいので、後で「ござ(茣蓙・御座)」に直して、そのことを土芳に話した。

 

 

 高水(たかみづ)に星も旅寐や岩の上

 

 元禄6年の雨の七夕の夜に鯉屋杉風が訪ねてきた時の句。

小野小町と僧正遍照の後撰集の贈答歌、

 

岩の上に旅寝をすればいと寒し

   苔の衣を我に貸さなん

       小野小町

世をそむく苔の衣はただ一重

   貸さねば疎しいざ二人寝ん

       僧正遍照

 

を雨に増水した天の川にした。

 今夜は雨で天の川が増水してるから、河原に降りずに岩の上で旅寝した方が良さそうだ。

 

 

 白露もこぼさぬ萩のうねり哉

 

 鯉屋杉風の採荼庵を訪ねた時の句。

 庭には萩が咲いていたが、萩の露は古歌では涙や儚い命の散るに通じるもので縁起悪い。

 それで露の儚さを嫌ったというのもあるが、まあ風の強い日は露が降りないというのもある。

 萩の下露荻の上風という古典の趣向を意図的に外してみた。

 

 

 (あさがほ)や昼は(じゃう)おろす(もん)の垣

 

 元禄6年の7月、これまでもしばしば体調を崩していたが、この時はもうやばいと思った。

 死ぬかと思って、ならば成仏できるように家に籠って念仏を唱えようとしたんだけど、俳諧への執着はもとより、衰えないのはこれまでひたすら内に秘めていた恋心。

 芭蕉庵というと芭蕉の木で有名だが、朝顔も毎年楽しみにしている。

 朝顔に我は飯食う男だなんて自己紹介したこともあったっけ。大体夕方にはすぐ寝て朝早く目が覚める方だ。

 しばらく人に会わないつもりなので、朝顔のように昼は錠を下ろすことにする。

 

 

 (あさがほ)や是も又我が友ならず

 

 元禄6年の秋に体調不良で、暫く休養するということで「閉関之説」を書く時だった。

 朝起きられなくて朝顔の花も見れなくて、今までずっと早起きして朝顔は友達だと思ってたのに。

 朝顔も昼は友ではないという発想から作った句だが、ただ休養を充分に取ったおかげで一ヶ月後の816日には閉門を解いて活動を再開した。

 

 

 初茸(はつたけ)やまだ日数へぬ秋の露

 

 元禄67月に京の史邦が江戸に来た時の興行の発句。

 初茸というだけあって、秋の早い時期に採れる。

 京にはないものなので興行の席で振る舞い、

 延宝の頃の付句で、

 

   桐壺帚木しめぢ初茸

 鍋の露夕の煙すみやかに 桃青

 

とやったが、「つゆ」はやはり鍋が一番。

 

 

 夏かけて名月あつきすずみ哉

 

 元禄6年の夏は猛暑で、それに加えて秋分前に名月になったから、まだ残暑の残る中の月見だった。月見というよりも夏の夕涼みだ。

 7月に体調を崩して人にも会わず閉じ籠っていて、毎年恒例の月見会もやんなかったが、明日には閉店関を解いて十六夜の興行をする予定だ。

 

 

 十六夜(いざよひ)はわづかに闇の(はじめ)

 

 元禄6年の十六夜の興行の時の発句は「とりわけ闇の」だった。

 「続猿蓑」に載せるために、この形にした。

 興行では今日は特別な日だという思いを込めて「とりわけ」と強調したが、本で読む人はなんでとりわけなのかわからないと思っての句。

 

 

 秋風に(をれ)て悲しき桑の杖

 

 元禄6828日、嵐蘭の弟の文左衛門から嵐蘭の死を聞いた。

 最後に会ったのは7月の史邦が来た時の興行だった。

 そのあと自分は体調を崩して閉関しその間の13日に鎌倉へ月見に行ったっきり急病で帰らぬ人となった。

 七十の母と七歳の子を残して、とにかく悲しい。

 

 

 みしやその七日(なのか)は墓の三日の月

 

 嵐蘭は由比ヶ浜や金沢の月を見に行くと言って旅に出たまま、旅先で病気になって、ついに帰り着くことなく827日の夜に亡くなった。

 今宵はその初七日の93日。墓の上には三日月が出ている。

 延宝の頃からの古い友人だっただけに、とにかく悲しい。

 

 

 (いる)(つき)の跡は机の四隅(よすみ)

 

 元禄6829日、晋ちゃんの父さんの東順が亡くなった。72だった。

 堅田の生まれで膳所藩の江戸での侍医だったが、隠居してからは机に向かう生活だった。

 床の上で名月を眺め、それが朔月になる前に亡くなられて、最後の月の影がまだ机の上に残ってるかのようだ。

 

 

 月やその(はち)(のき)の日のした(おもて)

 

 元禄6年109日、この日は嵐蘭急死により一か月延期していた重陽の会が素堂の家であって、宝生流(ほうしょうりゅう)の左大夫も一緒だった。

 左大夫の父の宝生流八世古将監(こしょうげん)のことが話題になった。

 夕暮には月がやや丸く、あれは古将監の素顔のようだ。

 謡曲鉢木のシテは終始直面で演じる。

 

 

 (おい)の名の(あり)ともしらで四十雀(しじゅうから)

 

 宝生流の左大夫と一緒に素堂の家に行った時、左大夫の父の宝生流八世古将監のことがいろいろと話題になった。

 三十一になる左大夫が入門したいと言うので、どんな芸もそれなりになるのは四十の初老の声を聞いてからだ、自分もそうだったという話をした。

 このことは三十八になる許六にも聞かせたい。

 四十雀を「四十歳から」に掛けて用いるのは、貞享3年の俳諧の挙句に、

 

   みみづくの己が砧や鳴ぬらん

 四十雀こそ風も身にしめ 嵐雪

 

の句が先にあった。

 

 

 影待(かげまち)や菊の香のする豆腐(とうふ)(ぐし)

 

 元禄69月の吉日、(たい)(すい)の家で影待をした。みんなで徹夜して朝日の影の射すのを待った。

 今年は嵐蘭の急死と東順の死が重なり重陽の会が延期されたので、実質これが重陽のようなもんで、酒もなく精進の豆腐串に重陽の菊の香りを偲ぶのみだった。

 

 

 菊の花(さく)や石屋の石の(あひ)

 

 八丁堀にはお寺が多く、そのため石屋も沢山あった。

 最近はここに与力同心の組屋敷を作るというので、移転させられた寺も多く、そんな時代の変わり目で、石屋の間の荒れた寺の跡には今も菊の花が咲いている。

 

 

 (ゆく)秋のけしにせまりてかくれけり

 

 元禄6年秋の句。

 須弥山を罌粟の中に入れるという言葉があり、広大な宇宙も一人一人の心の中にあるということか。

 秋もあっという間に過ぎ去って、まるで芥子の花の散るみたいにあっけなかったが、そう思うのも結局人間の心なんだろう。

 

 

 菊の香や庭に(きり)たる(くつ)の底

 

 元禄6年の827日に嵐蘭が急死して、その2日後には晋ちゃんの父さんの東順先生が亡くなられた。

 そのため恒例になっていた素堂の家での重陽の宴も、一カ月遅れの109日に行った。

 庭の菊を切った靴の底の香や、という意味。

 つまり菊は切っちゃった後で、靴の底に微かにその名残がある。

 まるで故人の名残のよう。

 

 

 金屏(きんびゃう)の松の古さよ(ふゆ)(ごもり)

 

 以前伊賀の平仲の家で作った、

 

 屏風には山を絵書て冬籠

 

を、ただ山を描いただけの屏風ではイメージが湧きにくいので、その後作り直して温めておいたのを、元禄6年の江戸での興行の発句に用いた。

 

 

 難波津(なにはづ)田螺(たにし)(ふた)も冬ごもり

 

 元禄6年、膳所の洒堂が大阪に引っ越すという。

 大阪といえば之道がいて、大阪談林や伊丹の連中とも上手くやってるようだが、そんなとこにあいつが行って大丈夫か。

 才能はあるんだけど自己顕示欲が強い上に口が軽くて空気が読めないから、言わなくても良いようなことを言ってしまう奴だ。

 ただでさえ大阪談林の強いところで完全アウェー。

大阪へ行ったならお口にチャックな。

 

 

 初時雨(はつしぐれ)初の字を(わが)時雨哉

 

 宗祇法師は「世にふるもさらに時雨のやどり哉」の句で時雨のイメージが定着しちゃってるからな。

 「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」で有名になった自分は「初」の字の方をもらえたらな。

 他にも、

 

 旅人と我名呼ばれむ初時雨

 けふばかり人も年よれ初時雨

 

の句を詠んできた。

 こうなったら「旅人と呼ばれむ」ではなく初時雨と呼んでもらおうかな。

 お初にお目にかかります。初時雨の芭蕉です。

 死んだ時も初時雨忌とか言われるかな。

 初時雨は後撰集に、

 

 初時雨降れば山へぞ思ほゆる

    いづれの方かまつもみつらん

          よみ人知らず

 

の歌があって、結構古い言葉だ。

 和歌では時雨は秋にも詠むが、

 

 神無月ふりみふらずみ定なき

    時雨ぞ冬の初めなりける

          よみ人知らず

 

で冬に定まる。

 

 

 (ぞう)(すい)に琵琶きく軒の(あられ)

 

 謡曲蝉丸に逆髪が逢坂山で琵琶の音を聞きつけて訪ねて行く場面があったな。

 秋の村雨も哀れだが、冬の霰だったらもっと哀れだろう。

 俳諧だから卑近で具体的な描写も入れたいね。蝉丸が雑炊食ってたというの、ありそうだな。

哀れ世の中。

 

 

 (ひと)(つゆ)もこぼさぬ菊の氷かな

 

 重陽の菊は折って菊酒にする。

 せっかく咲いた菊は折るに忍びないと惜しんでいると、やがて菊は霜に氷って枯れ果ててゆく。

 躬恒も、

 

 心あてに折らばや折らん初霜の

    置きまどはせる白菊の花

 

と歌ってる。

 「心あてに折らばや折らん」は正解。

 

 

 振売(ふりうり)(がん)あはれ(なり)ゑびす講

 

 元禄6年の1020日に深川で野坡、孤屋、利牛を迎えての興行の発句だった。

 恵比寿講の日でどこもお祝いムードで、ご馳走の魚や鳥を売り歩く声があちこちから聞こえてくる。

 

 

 ゑびす講酢売(すうり)(はかま)着せにけり

 

 元禄61020日の恵比寿講の時に四吟興行があって、その時に二句用意したが、使わなかった方の句。

 恵比寿講の日には商人も正装するが、普段の姿を知ってると何だか笑える。

 

 

 ものゝふの大根(にが)きはなし哉

 

 元禄6年の冬、伊賀の玄庵が江戸にやって来て、いろいろ話を聞いた。

 武士も質素倹約に努めて大根を食うべしという話をしていた。確かに昔から富家喰肌肉、丈夫喫菜根という。

 千五百石取りとはいえ、武家の家計も厳しいんだな。この句を立句にして興行をした。

 

 

 (くら)(つぼ)に小坊主乗るや大根引

 

 元禄6年冬の句。

 今年もいろいろあって、桃印を亡くして、寿貞が頻繁に子供を連れて来るようになったな。

 二郎兵衛は料理人にでもなるのかな。自分も料理人だったからいろいろ教えてあげたけどね。

 そうだね、親子をテーマにした句って今までなかったかな。

 子連れのお百姓さんというのはどうかな。

 芥子坊主というあの髪型、みんな子供の頃はそうだった。

 農夫が大根の収穫をしていると、馬の鞍にちょこんと子供が座ってる。何か絵になるね。

 発句は取り合わせだというが、別に奇を衒う必要はなく、大根引きの百姓が馬と子供を連れているのはありふれて情景だ。

 それを「小坊主」とすれば、あの子供の独特な芥子坊主の髪型が浮かんでくるし、それが鞍壺に乗っていれば馬も思い浮かぶ。

 これがテクニック。

 

 

 寒菊や(あまざけ)造る窓の前

 

 寒菊は黄色い花をつける雑草だが、油に漬けると傷薬になるとも言う。

 重陽の菊は酒に浸すが、寒菊が咲く頃は甘酒が飲みたくなる。

 

 

 寒菊や粉糠のかゝる臼の端

 

 元禄6年の冬の句で、野坡との両吟の句の立句にした。

 前年に許六の詠んだ、

 

 寒菊の隣もありやいけ大根

 

の取り合せの妙に影響されて、寒菊にそこから見えそうな景色を詠んでみた。

 寒菊は精米の作業場なんかにも咲いていて、寒さだけでなく粉塵にも耐えて咲いている

 

 

 みな(いで)て橋をいたゞく(しも)()

 

 元禄6年の師走、隅田川に新しい橋が出来た。

 これで日本橋と深川は歩いて行き来できるようになる。

 早速出来たばかりの橋を渡ろうと大勢の人が押しかけている。

 これから芭蕉庵の辺りも騒がしくなるだろうな。

 

 

 けごろもにつゝみてぬくし鴨の足

 

 陸に上がってじっとしてる鴨は足がふかふかした羽毛に包まれているという、それだけのことだけどね。

 でも「毛衣に包みてぬくし」で何のことかと思わせて、最後に「鴨の足」で、鴨の姿が浮かんでくるようにする。

 句の聞かせ方って大事で、晋ちゃんの、

 

 斬られたる夢はまことか蚤の跡

 

は流石だと思う

 この句は元禄6年の冬の句だったが、翌年伊賀に帰った時、盤ちゃんに続猿蓑の編纂を手伝って貰って、こんなふうに取り合せがなくても鴨だけで十分発句になると説明した。

 発句は取り合せだと言ったからって、それは規則ではない。常識に囚われた句何て面白くない。底の見えた句ではなく底を抜けとね。

 

 

 (せり)(やき)やすそわの田井(たゐ)の初氷

 

 焼き石の上で芹を焼いて美味かったんで、何か句にしようと思って考えているうちに、どこか田舎の春の景色が浮かんで来て、行ったことないけど、

 

 仮初めと思ひし程に筑波嶺の

    縁輪の田居み住み慣れにけり

 

という新拾遺集の歌の趣向を借りた。

 

 

 (すす)はきは(おの)が棚つる大工かな

 

 大工さんは日頃人の家や家具などいろんなものを作っているが、煤払いの日には自分の家の棚を作る。大工さんあるある。

 まあ、自分のことは自分でする。

 大工さんだって自分の家の棚は自分で作るように、自分の家は普通自分で掃除する。

 旅の俳諧師は何をするのか。その掃除の句を詠めばいいのか。

 

 

 いきながら一つに(こほ)海鼠(なまこ)

 

 元禄6年の冬に岱水との両吟の発句。と言っても十二句で終わってしまい、残りは杉風に任せたが。

 江戸では獲れたての新鮮な海鼠売りに来るが、寒い日はそのまま凍ってしまって、これだと解凍しても食感が良くない。

 それに海鼠にしても生きながら凍るのは残酷なことだ。南無阿弥陀。

 海鼠といえば金華山のキンコは絶品だが、金華山は石巻から眺めるだけだった。

 延宝の頃杉風との両吟に、

 

   六根罪障うたかたの淡

 とろろ汁生死の海を湛たり 杉風

 

の句があった。それに、

 

 元小だたみは無面目にて 桃青

 

と付けたっけ。海鼠は小だたみが旨い。南無阿弥陀仏。

 

 

 分別の底たゝきけり年の(くれ)

 

 元禄6年の冬の句。

 深川もすっかり都会になって、借金の取り立ての声が聞こえてくる。

 暮も押し迫ってくると取り立てる方も取り立てられる方も分別がなくなってきて、なりふり構わず声を荒げている。

 

 

 有明(ありあけ)もみそかにちかし餅の音

 

 新大橋ができて深川も賑やかになった。明け方になると、隣に餅屋がやってきて正月の餅を搗いている。

 兼好法師が「ありとだに人に知られで」と詠んだ有明の月も今は餅の月。

 元禄6年の師走は小の月で29日で終わり。26日でも三日月のようだ。

 今年は餅つきも一日早くしないとな。

 

 

 蓬莱(ほうらい)(きか)ばや伊勢の初便(はつだより)

 

 元禄7年の歳旦。

 正月には蓬莱飾りを飾るが、蓬莱は元は東の洋上にあって。仙人が住むという蓬莱、瀛州、方丈という三神山の一つ。

 蓬莱からく来る宝船は、また再び伊勢へと旅に出るよう、呼んでいるかのようだ。

 この胸の疼き、道祖神の招き、それこそが何よりの初便り。

 

 

 一とせに一度つまるゝ()づなかな

 

 元禄7年の正月の句。

 ナズナは七草粥の時くらいしか食べないと思って作った句だけど所によっては普段も食べるようなので没にした。

 正月の若菜摘みは元は小松引きと一緒に最初の子の日の行事だったが、今は7日の七草粥の時に行う。

 小松引きの方は、今は小松を売るに来る。

 

 

 むめがゝにのつと日の出る山路かな

 

 元禄7年の春に野坡と両吟を巻いた時の発句。元禄4年の冬以来江戸にいて、旅をしてなかったけど、明け方に東へ向かって峠を越える時に急に太陽が現れるという経験は何度かあった。

 「のっと」というキャッチーな言葉を見つけて、ようやく句になった。

 

 

 前髪もまだ若草の匂ひかな

 

 正月の蔵開きの日に()(かく)の所に行ったら、扇子を持ってきて揮毫を頼まれた。

 

 虫ぼしのその日に似たり蔵開き 圃角

 

の句を次の集にと頂いた。

 そのあと扇子を持ってきて揮毫を頼まれた。

 若菜の香りはまだ月代を剃ってない美少年のイメージで作った。

 

 

 梅が香に昔の一字あはれ也

 

 大垣の梅丸さんの息子新八の一周忌のための句。

 新古今集の、

 

 梅が香に昔をとへば春の月

    こたへぬ影ぞ袖にうつれる

          藤原家隆

 

の昔を思うと、月が亡き人の面影のように聞こえる。

 

 

 はれ物に柳のさはるしなへかな

 

 元禄7年の春の句で「さはる柳」か「柳のさはる」かで迷っていて、後に上方へ行った時にもそこの門人に聞いてみた。

 「腫れ物に触るような」という慣用句をそのまま用いることで句の分かりやすさを取るか、あえて逆にすることで言葉の裏に隠された余情にするか、とにかく難しい。

 

 

 春雨や蜂の巣つたふ屋ねの(もり)

 

 軒に雨漏りがあると、軒端の蜂の巣も濡れる。

 春雨は三月の雨で、弱い雨が何日も続いたりする。

 一月二月の雨は「春の雨」と言って区別する場合もあるが、そんなに厳密ではないようだ。

 

 

 春雨や簑(ふき)かへす川柳

 

 春雨の中で蓑が風に膨らんだ姿はネコヤナギのようだ。

 川柳というと、

 

 かわづ鳴く六田の淀の川柳

    ねもころ見れど飽かぬ川かも

          柿本人丸

 

の歌が夫木抄にある。

 

 山本に雪は降りつつしかすがに

    この川柳萌えにけるかも

          山部赤人

 

の歌もあったっけ。

 

 

 八九間(はっくけん)空で雨ふる柳哉

 

 元禄7年春、江戸での興行の発句。

 奈良東大寺の近くにある、白壁の土蔵の間から道の上へと枝垂れる大きな柳の木のイメージで、そこを通るとハ九軒雨が降ってるかのようだという句だったが、沾圃は江戸っ子だから知らなかったようだ。

 

 春のからすの畠ほる声 沾圃

 

という田園風景になった。

 

註、支考編元禄十一年(一六九八年)刊『梟日記』には、

 

 「素行曰、八九軒空で雨降柳哉 といふ句は、そのよそほひはしりぬ。落所たしかならず。西華坊曰、この句に物語あり。去来曰、我も有。坊曰、吾まづあり。木曾塚の舊草にありて、ある人此句をとふ。曰、見難し。この柳は白壁の土蔵の間か、檜皮ぶきのそりより片枝うたれてさし出たるが、八九軒もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならんと申たれば、翁は障子のあなたよりこなたを見おこして、さりや大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたると申されしが、續猿蓑に、春の鳥の畠ほる聲 といふ脇にて、春雨の降ふらぬけしきとは、ましてさだめたる也。去來曰、我はその秌の事なるべし。我別墅におはして、此青柳の句みつあり、いづれかましたらんとありしを、八九軒の柳、さる風情はいづこにか見侍しかと申たれば、そよ大佛のあたりならずや、げにと申、翁もそこなりとてわらひ給へり。」

 

とある。

 

 

 (からかさ)(おし)わけみたる柳かな

 

 元禄7年の春、野坡、利牛、岱水といった炭俵のメンバーや鹿島に一緒に行った宗波に濁子や曾良も来て、賑やかに興行になった。

 発句は特に挨拶句ではなく、柳の枝が雨のようだというモチーフで、比喩にせずに唐傘という道具で雨を連想させてみた。

 

 

 青柳の泥にしだるゝ(しお)()かな

 

 元禄7年の上巳の句。桃の節句の潮干狩りに青柳の景を取り合わせ、泥に枝垂るると取り囃した。

 枝垂れた柳の姿は貝を取る腰を前に折り曲げた姿とシンクロする。

 青柳の姿が貝を掘る人に似ているとも、貝を取る人が柳みたいだとも取れる。

 

 

 古川にこびて目を(はる)柳かな

 

 小名木川と新川は江戸と行徳を結ぶ物流の要衝だが、それから外れた古川は長閑なもので、柳がこっちへ来てとばかりに芽を張り、流し目をするかのようだ。

 

 春雨に芽ぐむ柳の浅緑

    かつ見るうちも色ぞ添いゆく

        正親町公蔭

 

 こんな歌を見ると、なかなか古典の趣向から脱却できないな。

 相変わらず古いものに媚びている自分がいる。

 「目を張る」に「芽を張る」。

 こういうのは昔からある掛詞で、和歌は物の名や地名に掛けたりして、その本来持っている意味を深めてゆき、それによって一つ一つの言葉が深い意味を持つようになる。

 駄洒落なんて言って馬鹿にする奴はそこが分かってない。

 

 

 花見にとさす船遅し柳原

 

 神田川というと、隠居前は関口から小石川にかけての浚渫事業に関わったこともあった。

 あの川は仙台堀の所が山を切り開いた水路で、狭くて流れが早くなる。

 そこを抜けると柳原で流れも緩くなり、ちょうど上野浅草の花の雲が見えてくるから、船頭も気を利かせて速度を落としたのかなって思ってしまう。

 柳原は神田川の土手で、昌平橋よりも川下になる。

 

 

 四つ五器(ごき)のそろはぬ花見心哉

 

 上野山の花見は相変わらず賑やかなもので、立派な幕を張って仕切っては絨毯を敷いて、歌に三味線で賑やかなものだ。

 そんな賑わいをよそに隅っこの方で門人たちとささやかな花見をした。

 四つ一組のアウトドア用の御器も揃えることができなかったが、花見は心だ。

 

 

 あすの日をいかゞ(くら)さん花の山

 

 これはよく覚えていない。

 元禄7年の花見の時に誰かがそんなことを言ったかもしれない。まあ貧乏人ばかりだったからな。

 

 

 西行の(いほり)もあらん花の庭

 

 元禄6年の春は桃印のことで花見どころではなかったな。

 今年は上野の花見もしたし、前の磐城平藩の殿様の次男の露沾(ろせん)に呼ばれて、内藤家の屋敷で花見をした。

 露沾は六百番俳諧発句合をやった磐城平藩の殿様の次男で、内藤家の屋敷は桜田門に近かった。

 そこに呼ばれて花見をしたが。さすがに広くて桜の木も多く、吉野かと思った。

 磐城平藩の先代の殿様だったら、本当に屋敷の庭の隅に西行庵作っちゃってそうだな。

 

 

 (ちる)(はな)や鳥もおどろく琴の塵

 

 松山藩の家老の久松粛山さんに呼ばれて、狩野探雪さんが描いた琴、太鼓、笙の絵に句を添えるように依頼された。

 素堂が太鼓、晋ちゃんが笙を担当し、自分は琴にということで、杜甫の「鳥にも心を驚かす」陶淵明の弦のない琴を組み合わせて、

 

 

 灌仏(くわんぶつ)(しわ)()(あは)する珠数(じゅず)の音

 

 元禄7年の春、涅槃会(ねはんえ)の時にみんな一心に手を擦り合わせて数珠の音を立てているのを殊勝な気持ちで聞いて、

 

 涅槃会や皺手合する数珠の音

 

の句を作って続猿蓑の撰に加えた。

 あとで数珠の音は悲しい涅槃会よりも目出度い灌仏会の方がいいかなと思って伊賀に帰った時に土芳にそんな話をしたか。

 

 

 寒からぬ露や牡丹の花の蜜

 

 元禄7年の夏、桃隣が日本橋橘町に新しい家を建てた。

 町中の一等地の家で、深川の草庵で露をしのぐ自分とは違い、牡丹の花の蜜を吸うような家だ。

 句は詠んでも金にならないが、点者というのは儲かるものだ。

 

 

 烏賊売(いかうり)の声まぎらはし杜宇(ほととぎす)

 

 去年の暮に新大橋が出来たこともあってか、ここも朝になるといろんな物売りの声がするようになった。ホトトギスの声もよく聞こえない。

 最初に深川に来た時は周りは田んぼで、鯉屋の使わなくなった生簀の脇に庵を立ててもらったっけ。

 今じゃすっかり都会だ。

 

 

 ()がくれて茶摘も(きく)やほとゝぎす

 

 元禄7年の江戸を発つ前に素龍が餞別を持って泊まりに来た。

 ホトトギスが聞けないかと夜通し起きてたが朝になり、

 

 村雨やかかる蓬のまろ寝にも

    たへて待るる時鳥かな

 

と素龍が詠んだ歌を聞いて作ってみた。

 丸寝の貴人は和歌だが、見えない所で茶摘みの農夫もホトトギスも聞いているのが俳諧。

 

 

 (うの)(はな)やくらき柳の(および)ごし

 

 元禄7年に江戸を発つ前に、素龍が餞別を持ってやって来た。

 陸游の柳暗花明又一村の詩句のことが話題になった。

 旅の途中の夜明けで、まだ柳が黒々とした塊で、そこに仄かに花が見えてくる。

 これを俳諧にするとなると、柳に卯の花の取り合せだけだとそのままなので、柳を擬人化して取り囃してみた。

 素龍に字が上手くて、みちのくの旅を記したものを清書してもらった。タイトルは「おくの細みち」。

 

 

 紫陽花(あぢさゐ)や藪を小庭の別座鋪(べつざしき)

 

 元禄7年の5月の初め、深川の子珊の家で興行した時の発句。

 

 紫陽花は薮を小庭の別座敷にするや、という意味で、紫陽花が咲いているというだけで、繁りすぎた小庭もどこかに屋敷の奥にひっそり佇む特別な座敷のように思えてくる。