現代語訳『源氏物語』

16 絵合

 先の斎宮の宮廷入りのことは、中宮が熱心に準備を進めているということです。

 

 こまごまとした訪問や進物まで、これといった援助をする人がいない状態でしたが、源氏の君は朱雀院に知られないようにいろいろ配慮ながら、二条院に呼ぶことも思いとどまり、表向きは他人を装っていても大抵のことは源氏が取り仕切って、親のようにふるまっていたようです。

 

 朱雀院はそのことに不満はあるものの、体裁を気にして手紙などもしてませんでしたが、入内の当日に並々ならない立派な装束や櫛の箱、化粧道具の箱、香壺の箱などは世に二つとないようなもので、様々な薫物、(くぬ)()(こう)も大変レアな上、二百メートル先でも匂うほどで、すべて特別扱いで用意しました。

 

 源の大臣に見せつけてやろうと、だいぶ前から用意していたようで、対抗心が見え見えですね。

 

 源氏の君も来ていた時だったので、前に斎宮の「国津神」の歌を書き留めた女別当が「この通りです」とそれを見せます。

 

 櫛の箱を片方を見ると、これでもかと精巧で品もあり、素晴らしいものでした。

 

 髪飾りにする櫛の箱の紐に括りつけられた葉のようなものに、

 

 斎宮になる日の小櫛そのせいで

    遥かな仲と神が決めたか

 

 源の大臣はこれを見てあれこれ思い返すと何だか申し訳なく気の毒で、自分の浮気癖のせいでまたとんでもないことになってしまったと身に染み、

 「あの伊勢へ下る時に既に恋心を抱いていて、こうして何年もたって帰って来たもんだから、いよいよその願いが叶うと思っていたのに、こんな運命のいたずらが待っていたなんて、どんな気持ちなんだか。

 退位しちゃって、おとなしくしているしかないわけだから、何もかも嫌になっちゃうだろうな。

 俺だったら頭がおかしくなっちゃうかもな。」

とつらつら考えていると、可哀想になり、

 「何でこんな我がままなことを言いだして、罪の意識に悩むことになってしまったか。

 辛い目に逢ったのも確かだけど、それでも院も俺のことを気遣って辛かったんだろうな。」

などとあれこれ考えながら、ぼんやりとその品々を眺めていました。

 

 「この歌にどんな返しをするのかな。

 それに手紙にも返事を書かなくてはいけないし。」

など言ってはみたが、傍目にも困った顔をしていて手紙の方は見せてもらえません。

 

 斎宮は病人みたいに塞ぎ込んで、返歌するのもいかにも面倒くさそうにしていたけど、

 「返事をしないなんて、そりゃあまりに失礼だし恥でしょ。」

と回りから急き立て、気を揉んでいるのを見て、

 「ここで返歌をしないなんてありえないね。形だけでも何とかしないと。」

と言っても恥ずかしがるばかりですが、昔のことを思い出すと、あの上品で美しい皇子が大泣きしていた姿を、幼心に何となく可哀想に思っていたことがありありと蘇って来て、亡き母のことなども次々と思い出されて、唯このように、

 

 別れ際遥か昔の一言も

     かえって今は悲しいものです

 

とだけ書いたようです。

 

 お使いの人たちはそれぞれ御祝儀を賜わりました。

 

 源氏の大臣は返歌に興味津々でしたが、特に聞きませんでした。

 

 「院はルックス的には女にしたいような色男だし、斎宮とも年齢的にも釣り合っていて、相手をするにはちょうどいいけど、今の御門はまだまだ子供で不釣り合いだからな。表には出さないけどやっぱ不満なんだろうな。」

などと、やはり自分の所に置いとけばなんて魔が差すと、胸が締め付けられる思いでしたが、今更入内を止めるわけにもいかず、それ相応に取り繕ったことを言っておいて、仲の良い修理(すりの)宰相(さいしょう)に細かく仕事の指示をしながら内裏に向かいました。

 

 父親づらして出しゃばっていると思われてもなと、院の前では遠慮してちょっと見に来ただけというふりをしました。

 

 宮中には当然ながら良い女房達がたくさんいて、そこに御息所の所に引き籠っていたこれまでの女房達も合流し、なかなかこの上ないような良い雰囲気になってます。

 

 「そうだな、生きていたら、一番先頭を切ってお世話しただろうな」と今は亡き人の遺志を思い出し、

 「世間的に見てももっと世に出てもいいような勿体ない人だったな。

 なかなかあんな人はいなかった。

 風流の方ではもっと優れていたし。」

とこういう儀式のあるたびに思い出すのでした。

 

 中宮も内裏に居ました。

 

 御門(みかど)は新しい妃が来ると聞いて、周りを気にしながらも立派にふるまってます。

 

 年齢の割にはたいそう大人びた様子です。

 

 中宮も、

 「こんな勿体ないような人が来るのですから、しっかりと心遣いしてお会いになることよ。」

と言い聞かせます。

 

 心の中で「大人の女は勿体ないということか」と思っていたところ、すっかり夜も更ける頃にやってきました。

 

 大変慎ましく物腰も柔らかく、縮こまっていて弱々しい感じがなかなか良いなと思いました。

 

 先に入内していた権中納言の娘の弘徽殿女御は元からよく知っている人だったので、すぐに打ち解けて仲良しになれたのですが、今度の子はいかにも控えめで恥ずかしがり屋で、源氏の大臣の取り計らいとなると特別扱いの装いがされていて、軽く扱うこともできないし、共に夜を過ごすのも平等にとは思ってはいても、昼などの子供っぽい遊びに呼び出すときは弘徽殿女御の方が多くなりがちです。

 

 父の権中納言も計略があって入内させたのに、急にもう一人やって来て競わす形になってしまったことで、内心穏やかではありません。

 

 院はあの櫛の箱の返歌を見ても、あきらめきれないようです。

 

 そんなときに、源氏の大臣がやって来て、いろいろ雑談を重ねます。

 

 そのついでに斎宮が伊勢に下った時のことをこれまでもいろいろ話していたので、聞いてはみたものの、斎宮を思う気持ちがあるなんてことは決して表に出しません。

 

 源氏の大臣も、ばればれなんだぞなんて言えるわけもなく、ただ「どう思ってらっしゃるのか」と聞き出そうとあれこれ鎌掛けてみるのですが、悲しそうな顔をした院の姿が半端ないので、これ以上聞くのも可哀そうになってしまいます。

 

 そんなに凄いと思わせるような容姿っていったいどんなけなんだと、興味津々ではあるけど、まだ仄かにしか見たことのないのが妬ましくもあります。

 

 もうちょっとお転婆なら自ずとその姿を見る機会もあるところを、いつも控えめで、とにかくどこまでも奥ゆかしく振舞おうという様子なので、ただ御簾の向こうの気配だけで理想的な女性だと思ってました。

 

 今はほとんど隣り合わせの二つの部屋でお仕えしているので、兵部卿宮はもやもやした気分のまま、御門が大人になったら自分の娘も到底放ってはおかないだろうと、気長に待ってます。

 

 この二つの部屋は御門にに気に入られようと、あの手この手を尽くしています。

 

   *

 

 御門はいろいろなものがある中でも、特に絵に興味がありました。

 

 とにかく好きなものですから、描く方でも並ぶ人はいません。

 

 女御となった斎宮もなかなか面白い絵を描くので、それで心変わりしたのか、部屋へ行き、一緒にお絵かきをするようになりました。

 

 宮廷の他の若い人たちも、絵を学ぶ者には興味を持って、遊び相手に呼んだりしてたのですが、まして面白いだけでなく風流の情もあり、型通りではない大胆な筆遣いで、ちょっと色っぽく几帳に寄りかかって筆を止めているところなど、すっかりその可愛さに胸ずっきゅんで、何度も頻繁に通うようになり、ますます親密度を上げているのを権中納言が聞いて、乗り遅れてはなるまいと対抗心を燃やして、負けてはいられないと一念発起して、優秀な絵師を呼び集めて、極秘のうちにどこにもないような素晴らしい絵を沢山、最上級の紙を選んで描かせました。

 

 「絵物語なら趣向の良さもわかりやすくアピールもしやすい。」

ということで、面白く感動的な物語を選んで描かせました。

 

 毎月恒例の季節の絵でも、見たことのないような、言葉書きを沢山つけた絵を御門に見せました。

 

 特別な趣向を凝らしたとなれば、持ち帰ってじっくり見たいと思っても、出し惜しみしていて、簡単には見せないようにしていて、特に斎宮女御の方へ持っていかれることを警戒して、門外不出にしているというのを源の大臣が聞いて、

 「まったく権中納言は幾つになっても若いなあ、どうしようもない。」

と言って苦笑しました。

 

 「そんなひた隠しにして簡単に見せてくれないのは困ったもんだし、そりゃ不愉快だよな。

 昔の絵だったらあるけど、どうですか?」

 

 そう言って、家にある古いのや新しいのやらいろいろな絵の入った戸棚を開けさせて、二条院の女君と一緒に「今風なのはこれとこれ」と選り分けました。

 

 『長恨歌』『王昭君』を描いたものは面白いけど、美人が悲しいことになる話はこの場には合わないなと、まずは除外しました。

 

 あの旅の絵日記の箱も出すように言いましたが、このついでに女君にも見せてあげました。

 

 事情を知らない人が見ても、多少なりとも辛い体験のある人なら、涙を惜しまないくらい悲し気なものです。

 

 まして、今でもトラウマになっていて忘れることのできない御当人たちは、改めてまざまざと悲しく思い出されます。

 

 今まで見せてくれなかったことが不満に思えてきて、

 

 「取残され悲しんでたのにあまの住む

     (かた)を見るなどうらやましいわ

 

 あのかたを見たいときは、これを見て慰めてたのね。」

と、ぽつり‥‥。

 

 ますます悲しくなってきて、

 

 「辛い目にあった日よりも今日はまた

     過去のあのかたにまた泣かされる」

 

 中宮にだけ見せておけばよかったですね。

 

 文句のつけようのないものを一帖づつ、とにかく浦の様子がまざまざと浮かんでくるようなものを選び出す時も、あの入道の家が気になり、どうしようかと思わない時はありません。

 

 このように源氏の大臣も絵を集めていると聞くと、権中納言もますます必死になって、軸や表装や紐の飾りなど、念入りに整えます。

 

 三月も十日頃になれば空も麗らかで、人の心も穏やかになり、心もうきうきしてくるもので、内裏の辺りも節会(せちえ)のない時期で、どちらの方面も絵集めに熱中しながら過ごしていたので、どうせ御門にお見せするなら最高の舞台を用意したいと思い立って、双方一挙公開に踏み切りました。

 

   *

 

 あっちにもこっちにも、いろいろなものがあります。

 

 絵物語は繊細で、より人を引き付ける力があり、梅壺の方のには古い物語の有名で由緒のあるものばかりで、弘徽殿は今の時代の目新しく面白いものばかりを選んだ書かせたので、見て回る側としては今風の華やかなものの方に、どうしても目が行ってしまいます。

 

 内裏の女房なども、絵の趣味のある人は「これは‥‥、あれは‥‥」など論じるが、近頃の日課になっているようです。

 

 中宮がやってくるようになると、どれもこれも見飽きることなく、お勤めの方もおろそかになっています。

 

 こうした人たちがいろいろ論じているのを聞いて、東と西に分けました。

 

 東は源氏の推す梅壺の斎宮の女御の側で左方になり、西は権中納言の推す弘徽殿女御の側で右方になります。

 紫宸殿には左近の桜、右近の橘がありますね。東側が左近の桜です。念のために。

 

 梅壺の方からは(へい)(ないし)(のすけ)、侍従の内侍(ないし)、少将の命婦。

 

 弘徽殿の方には、大弐の(ないし)(のすけ)、中将の命婦、兵衛の命婦。

 

 どちらも皆今の時代の感性を代表するような有識者で、それぞれ自分の思うがままに言い争う様子が面白くて、まず物語の元祖とも言われる『竹取の翁』に『宇津保の俊蔭』の絵巻を持ってきて競わせます。

 

 まず左方から『竹取の翁』。

 

 「細くてしなやかな竹が時代とともに古くなって、面白いと思えるような節もないけど、かぐや姫がこの汚い世の中でも穢れることなく、そのプライドにふさわしい遥かなる高みに昇って行く宿命の妙、神代のことということもあって、今どきの軽薄な女にはわからないかもしれませんね。」

 

 そう言うと、右方の人は、

 

 「かぐや姫の昇って行った雲の上の世界のことは、確かに我々には及ばないことで、誰も知り得ないことですね。

 

 でも、この世界での宿命が竹の中で生まれたということでしたら、落ちて来ちゃった人のことなんでしょ。

 

 竹取の翁の家は栄えたかもしれませんが、広大な天下における御門の御威光のようなこの国の繁栄にはつながりません。

 

 阿部(あべの)御主人(みうし)が財産を投げ打ったのに、火鼠の皮とともにその恋心も消えてしまったのは、まったくもって『あえなし』ですわね。

 

 車持ちの親王(みこ)は当然蓬莱山が不老不死の仙境だというのを知ってたはずなのに、似せ物の玉の枝を作らせるような過ちをする人物に設定して、これが本当の玉に疵ですわ。」

 

 絵は巨勢相覧(こせのおうみ)、書は紀貫之(きのつらゆき)が書いたものです。

 

 京の紙屋院で作られた官製紙を「()」という中国製の薄手の錦の紐で束ねた画巻で、赤紫の表紙、ローズウッドの軸も特に目新しいものではありません。

 

 次は右方から『宇津保の俊蔭』。

 

 「遣唐使の清原俊蔭は激しい波風に飲み込まれて知らない国に流れ着いたけど、外国の文化を学ぶという当初の目的を果たし、最終的に他所の朝廷にも日本の朝廷にも秘琴の技の類稀な才能を知らしめ、名を残すという昔の言い伝えで、画風も中国と日本とを合わせたような面白さがあって、他に並ぶものはありません。」

と言います。

 

 白い色紙(正方形の厚紙)を繋ぎ合わせたものに、青い表紙、黄色い玉の軸でした。

 

 絵は飛鳥部常則、書は小野道風なので、現代的な面白さもあり、圧倒されるような存在感があります。左方はだんまりです。

 

 次に『伊勢物語』と『(しょう)三位(さんみ)』の組み合わせになりましたが、これもいい勝負です。

 

 これも右の『正三位』はエレガントにしてゴージャスで、宮中の話を始めとして今の世の様子が描かれていて、ウィットに富んだ傑作です。

 

 梅壺(左方)の平の内侍は、

 

 「伊勢の海の深い心を受け継がず

     オールドウェーブで葬るつもり?

 

 世間の凡庸な取るに足らないことを大袈裟に飾り立てただけのものに押しやられて、業平の名を汚していいものなの?」

 

と言い淀んでいると、右方の大弐の(ないし)(のすけ)は、

 

 「雲上に昇るくらいの心なら

     千尋の底も見渡せるもの

 

 『正三位』の兵衛の大君の気高さは誠に捨てがたいものですが、在原中将の名前を腐らせるつもりはありません。」

 

と応じます。

 

  そこで中宮が、

 

 「()()()の方がうらぶれてれば年取った

    伊勢の漁師の名も廃るわね」

 

 こうした女の言い争いは歯にきぬ着せぬものがあり、一つの巻を取って見ても埒が開きません。

 

 ただ、浮ついた若い人たちは死ぬほど夢中になっているのはわかるのですが、御門や中宮の所持している絵巻の方はまだその片鱗も見せず、まだまだ隠し玉にしています。

 

 源の大臣がやって来て、このように各々言い争って賑やかにやっている様子が面白くて、

 「同じように御門の御前でこの勝負も決めましょう。」

と皆に言いました。

 

   *

 

 こういうのも良いなとかねがね思ってたので、持っている絵の中でも特別なものをまだ出してませんでしたが、あの『須磨』『明石』の二巻をこの時だと思い、梅壺の方に集められた絵の中に加えました。 

 

 権中納言も負けてはいられません。

 

 この頃宮中では、ただこうした面白い紙に描いた絵を集めることにみんな夢中になってました。

 

 「今さら新たに何かを書かせようなんて思ってはいない。ただ持てるだけのもので勝負する。」

とは言うものの、権中納言は誰にも見せずに、極秘のうちに書かせた絵があって、院にもこのことを示し合わせていて、ライバルの梅壺の斎宮女御に捧げました。

 

 毎年行われている節会などの面白くて話題になったものを、昔の名人たちが様々な角度から描いたものに、延喜の頃の御門が自ら頌を添えたものや、また、朱雀院の時代のことを描かせた巻には、あの斎宮が伊勢に下った時の太極殿での儀式が院の心に焼き付いているので、それを描くようにと詳細を聞き出して、(きん)(もち)という当代きっての絵師に依頼して、とにかくこれでもかと院を立てようとしています。

 

 沈香の薫りの染み込んだ優雅な透かし彫りの箱に、同じような意匠の金属製の花の枝を飾るところなど、流行の最先端です。朱雀院の殿上に使えている左近中将に運ばせ、手紙は特になく、言葉で明細を伝えるだけです。

 

 あの太極殿に斎宮の御輿を寄せた場面が神々しくて、

 

 「聖域の外にはいてもそのかみの

     心の内は忘れはしない」

 

と院の歌が添えられています。

 

 返歌をしないのも申し訳ないので、嫌だなとは思うものの昔の簪の端を少し折って、

 

 「聖域の中はすっかり変わってて

     神代のことも今は恋しい」

 

とまあ、中国製の空色の紙に包んで届けました。

 

 お使いの者への褒美なども大変立派なものでした。

 

 朱雀院の御門がその返歌を見て、限りなく心に染みるものがあって、あの頃に戻れたらなと思います。

 

 源の大臣のことを、ひどい仕打ちをしやがると思ったことでしょう。

 

 まあ、因果応報かもしれませんね。

 

 朱雀院の所持する絵は昔の弘徽殿女御遺品で、その多くは弘徽殿女御の方に行ってしまいました。

 

 (ないし)(のかみ)の君も絵に関してはなかなかうるさくて、なかなか良い絵を描かせては弘徽殿の方に集めました。

 

 

 日にちを定めて、急ごしらえではありますが臨時の飾り立てたステージを用意し、左右の絵を公開しました。

 

 清涼殿の西の台盤所(女房の詰め所)に御門の玉座を置いて、北に左方、南に右方と分かれて座ります。

 

 清涼殿は東側に縁側があり、そこから見ると、まず東孫庇があり、次に昼の御座があり、ここが絵合わせの会場になります。

 

 その奥に台盤所があり、ここに臨時の玉座が置かれ御門が座ると、御門から見て左が北になり、右が南になります。

 

 殿上人は後涼殿の簀子に、各自好きなように座ります。

 

 後涼殿は清涼殿の西側に隣接していて、その間に西簀子があり、そこが台盤所の後になって、ここに三位以上の者および四位、五位のうちで昇殿を許された者が座ります。

 

 左の梅壺方はローズウッドの箱に赤の黒ずんだような蘇芳(すお)()の花足(台)、敷物には紫地の唐錦、打ち敷(裾に垂らす飾りの敷物)は葡萄(えび)(ぞめ)の中国製の綺という薄手の浮かせ織りの薄布を用いています。

 

 (わらわ)が六人、赤に桜色を重ねた汗衫(かざみ)の女の子、紅に藤色を重ねた(あこめ)の男の子。容姿といい立ち振る舞いといい、並大抵のものではありません。

 

 右の弘徽殿方は沈香の箱に浅香(せんこう)の下机、打敷は青地に高麗錦、足元の裾を結うのに使う組紐を絡ませた花足の趣向など今風です。

 

 童は青に柳色を重ねた花柳(はなやなぎ)汗衫(かざみ)、山吹を重ねた(あこめ)を着てます。

 

 双方の童たちが御門の前に運び込みます。御門の女房も右左に分かれてそれぞれの装束を着ていました。

 

 やがて呼び出されて源氏内大臣と権中納言が入場します。

 

 この日は大宰府の(そち)をしている親王も呼ばれています。

 

 皇族の者でいて絵を好むとあれば、源の大臣の側に加わるように院に進められたのでしょう。

 

 正式な要請ではなく、殿上にたまたま来た時にそうした話があって、この会場にやってきました。

 

 今回の審判を務めます。

 

 それにしても非の打ちどころのない絵ばかりです。

 

 とても判定などできません。

 

 例の権中納言の持ち込んだ四季の絵も、昔の有名な絵師たちの好んだ画題を選んで、一気呵成に描き上げたような筆致は形容しがたいものがあるのですが、絵巻として小さな紙面にまとめたため、山水の身の引き締まるような人を圧倒する迫力が再現できず、ただ卓越した技巧とセンスの良さだけが目につきます。

 

 昨今の表面をなぞったようなものであっても、その点では昔の絵に恥じるようなものではなく、きらびやかで「うわ、やばっ」と言わせる力は十分で、他の多くの絵の勝負も、この日は双方とも考えさせられることが沢山ありました。

 

 台盤所の北にある朝餉(あさがれい)の間の障子を開け放った所に中宮もいます。

 

 いろいろ事情をよく知っている人だと思えば、源氏の大臣も気持ちも優雅に落ち着いて、あれこれ批評する声の言い淀んでいるような時などに、時々補足する余裕なども見せました。

 

 決着つかずに夜になりました。

 

 左(梅壺)方の沢山あった絵の取りとして須磨の画巻が公開されると、権中納言は動揺を隠せません。

 

 右(弘徽殿)方でも細心を払い、最後の絵は特に優れたものを選んだつもりだったのですが、こんな馬鹿みたいに絵がうまい人があの時の溢れ出る思いを何の邪心もなく描いた絵なんて、突っ込みようがありません。

 

 親王をはじめとして、皆涙を止めることができません。

 

 あの当時お気の毒で悲しいと思ってた人でも、源氏の君がどのような思いでどのようにしていたかが今さらながらに眼前に見るかのようです。

 

 須磨の景色、霞むような浦々、磯の様子など余すところなく描かれていました。

 

 草書の漢文に所々仮名を交えて書いていて、公式な日記のスタイルではなく、悲し気な和歌なども交えていて、とにかく引き込まれてしまい言葉もありません。

 

 今まで見てきた沢山の絵の魅力も、全部これに持ってかれた感じで、感動に浸ってました。

 

 結局みんなこの絵に譲った形で、左(梅壺)方の勝利となりました。

 

   *

 

 夜も明方近くなると、何となく祭の後のような物悲しい雰囲気に、酒を酌み交わしながら昔話が始まりました。

 

 「まだ物心もつかぬ頃から学問に興味を持って、少し何か分かってきた頃だったか、亡き院がそれを見て言ったんだ。

 『学才というのは世間でも大変重んじられているが、学問に専念した者に長生きして幸せになったものなどそうはいない。

 最高の身分に生まれ、それだけで誰よりも有利に生きられるのだから、あまりそっちの道に深入りしない方が良いぞ。』

って。

 そう諫められて、儀式に必要な音楽、舞、和歌、書などを学ぶようになったんだけど、下手ではないけど名人というほどにもなれなかったな。

 絵だけはどうにも稚拙で見劣りするものばかりで、どうやったら満足するような絵が描けるのかといつも思ってたんだ。

 そしたらいきなり田舎暮らしになって、海辺の物悲しい風景にすっかり心を奪われ、しかも思いもよらなかったほど絵を描く時間もたくさんあって、まあ筆力には限界があって思うようには描けなかったけど、人に見せる機会もなかったので、こういう所に出してしまったのはやはり軽率だったか、後々何と言われることか。」

 

(そち)親王(みこ)に言うと、

 「どんな芸事でもしっかりとそれに集中できないなら身に付くものではないが、どんな道でも師匠がいて、いろいろ学ばなくてはならないものがあるから、その極意に至るかどうかは別としても、それなりに身には着くものだ。

 絵だとか囲碁だとかは、不思議と天性のものがあるのか、まともな修行もしなかったような異端児でも、当たり前のように凄い絵を描いたり、とんでもない碁を打ったりするのもいるが、それなりの家の子弟にはやはり抜きんでた人がいて、何をやって上手かったりする。

 亡き院の時には親王たちも内親王もみんな、いろいろな芸事をやらされたものです。

 その中でもそなたは特別なご贔屓を受けて伝授されたその甲斐あって、

 『文才もさることながら、特に七弦琴を弾かせたら一番で、横笛、琵琶、箏なども次々習得していった』

と、亡き院も言ってたもんだ。

 このことは宮中ではみんな知ったけど、絵の方は書を習うついでの遊びくらいに思っていて、それがまあ常軌を逸していたというか、昔の絵の名人たちもどこかへすっ飛んでいくような絵を描くなんて、いくら何でもけしからんぞ。」

とだんだん酔いが回って興奮してくると、周りも酒に酔ったせいなのか、亡き院の話が出て来るとみんな涙ぐんでました。

 

   *

 

 三月も二十日過ぎのことです。夜も遅く月が昇りはじめ、近くはまだ真っ暗だけど空の色は明るくなってきたので、書司(ふんのつかさ)が琴を運び込んできました。

 

 権中納言は和琴です。

 

 この人もまた、誰にも負けないくらいの演奏を聞かせてくれます。

 

 (そち)親王(みこ)は箏、源氏の大臣は七弦琴、それに少将の命婦が琵琶を添えます。

 

 殿上人の中の上手な人を呼んで(しゃく)拍子を打たせます。

 

 これはもう、やばいなんてもんではありません。

 

 夜が明けてくると、花の色も人の姿も仄かに見えてきて、鳥が囀り出すと心も晴れ晴れの最高の朝を迎えます。

 

 絵合わせ褒美の方は中宮より下賜されます。

 

 判者の親王はさらに御衣(おんぞ)を賜りました。

 

 この頃のことですが、あの画巻をどうするか話し合いました。

 

 「あの須磨明石の画巻は中宮に持っていてほしいな。」

と言うと、この前の物や後のいくつかの巻も心惹かれていたようで、

 「あとは、追々。」

と言いました。

 

 御門も興味を示されたのをの嬉しそうに見てました。

 

 些細なことだとはいっても、源氏の君がここまでもてはやされているのを、権中納言は「どこまで圧迫するつもりなんだ」と内心穏やかではありません。

 

 御門の気持ちは最初から自分の娘の方にすっかり馴染んでいて、こまやかな気遣いをしてることを密かに気付いているだけに、それを頼りに「まあ大丈夫だろう」と思いました。

 

 宮中恒例の節会でも、あの天皇の御代から始まったと後の人が言うような前例を作っていこうとしている時代だけに、今回の非公式な一回限りの遊びもいろいろと新しい趣向を取り入れ、繁栄の絶頂を迎えていました。

 

 源氏の内大臣はそれでもこの世に永遠なんてないと思い、御門が大人になったなら引退して、仏道にでも入ろうかと思い始めているようです。

 

 「昔の例を見聞きするにつけても、若くして高い官位を得て並外れた栄華を得た人って、長続きしないものだ。

 今のご時世では実力以上に持ち上げられすぎている。

 途中一度宮中に居られなくなって田舎に沈んでいたけど、その分だけ今はまだ長らえているだけだ。

 これから先も栄華が続いても、寿命が持つかどうかわからない。

 静かに隠居して来世のためのお勤めをしていた方が長生きもできる。」

 

と思って、山里の長閑な所の土地を得て御堂を造らせ、仏像やお経を安置させるようにしたのはいいが、幼い子供たちを思い通りに育てようと思うあたり、まだまだ世を捨てるのは難しそうです。

 

 

 何を考えているのか、本当わかりませんね。