宮中が病みきっていて、非礼がまかり通っていても何とか見て見ぬ振りしてやりすごそうとしていたものの、まさかこんなことになるとは思いませんでした。
「これから行く須磨って所は、昔は結構人もたくさん住んでたっすが、今ではすっかり忘れ去られてしまって、海人の家もまばらっすが‥‥。」
なんて話を聞いても、
「人の多いごみごみした所に住んでたんでは隠棲する意味がないし、だからといってあまり都を離れてしまっても京の様子がわからなくなる。」
と小さなことを気にしては悩むばかりです。
今までのことやこれからのことなど、すべてにつけ、考えれば考えるほど悲しいことばかりです。
すっかり嫌気がさして、出家して捨ててしまおうと思った世の中も、実際みんなとさよならして他所に移り住もうと思っても、どうにも捨てきれないことも多く、特に二条院の姫君が朝から晩まで付きまとっては引き止めようと哀願する姿には胸が痛むばかりで、もうこれ以上ないくらい悲しいし、
「どこをさすらおうとも、絶対また逢える」
と思おうとしても、姫君は一日二日家を空けただけでもすぐに心配になりくらいですから、不安でたまりません。
「地方赴任のような何年という期限の付いた旅でもないし、定めなき世の中だからいつ二度と逢えなくなるのかもわからないし、これが今生の別れになるかもしれない。」
と最悪のことを考え、
「こっそり連れて行こうか。」
と思ったりもしますが、その海辺がどんなに寂しい所かわかったものではないし、波風のほかに訪れる人もないと思うと、こんなか弱そうな姫君を連れて行っても退屈でしょうがないだろうし、自分としてもいろいろ揉め事の原因になるのではないかと思い直します。
姫君の方は、
「どんなに苦しい道でも一緒に行けるなら。」
と懇願しては恨めしそうな顔をします。
あの花散里の所にも尋ねて行くことはほとんどなく、不安で物悲しげなあの暮しぶりすらも源氏の援助があってのことだったので、今となってすっかり悲嘆に暮れているのも当然のことです。
気まぐれな浮気心で通ってた所はどこも、密かに落胆した人も多かったことでしょう。
入道となったあの中宮も、
「人が聞いたらまた何と思うかわかったものではないのに」
と自分自身のためにも慎まなくてはならないと思うのですが、こっそりと何度も源氏のところを尋ねてきます。
「もっと前からこんなふうに色良いところを見せてくれていたら。」
と源氏はふと思うのですが、ヤスコが既に出家の身とあれば、こうなったら悩んで悩んで悩み尽くせと言っているかのようもので、廻り合わせの意地悪に辛くなるばかりです。
三月下旬に都を発ちました。
出発する日取りを誰にも知らせず、ただごく親しい側近を七八人程お伴につけて、極秘の内に出発しました。
付き合っていた女の所には手紙だけをこっそり届けさせました。
別れを惜しむ気持ちをこれでもかと歌い上げた歌はそれは素晴らしいものであったのでしょうけど、ちょっとばかり忙しかったためついうっかり聞き逃してしまいまして、あしからず。
*
その二、三日前には、夜の闇に紛れて先の左大臣イエカネの所に行ってました。
みすぼらしく装った網代車で、お忍びの女のようにして乗り込むのも悲しげで、昔の栄華が夢のようです。
かつての妻のいた部屋も放置されたまま寂しげで、残された子の乳母達や、昔から仕えている人の中でもやめずに残った人達は、源氏の訪問を珍しがり、みんな奥から出て見に来るのですが、それほど関わりのなかった若い女房たちまでがこの世の無常を思い、泪に暮れてました。
その残された若君はとても美しく、走り回って遊んでました。
「しばらく会わなかったのに忘れてなかったのが救いだ。」
と言って膝の上に坐らせるにしても、涙をこらえられない様子です。
大臣もやってきて対座します。
「相変わらず家に籠ってばかりで、尋ねて行って他愛のない昔話でも話して聞かせようかと思ってたのだが、すっかり体調を崩して宮廷を去り、大臣の位もお返ししたというのに、身勝手に遊び歩いているなどと世間の人もいいかげんな噂をばら撒いてな。
今となっては世間に気兼ねする立場でもないが、何かとぴりぴりしている今の世の中は恐くてしょうがない。
こんな時代となってしまっては長生きするのも辛いもので、まさに世も末のようなことに心傷めることになるとはな。
たとえ天地がひっくり返ってもこんなことはないだろうというようなことを見てしまった以上は、もう何もかもが空しくて‥‥。」
と言っては、ボロボロと涙をこぼしました。
「あれもこれも前世に悪いことをした報いなので、まあいわばただ供養が足りなかったということなんだろうな。
官職と位階を剥奪されるまでではないにせよ、軽薄な行動で官を辞さねばならない人が知らん顔して宮中に留まるなんて、確かに他所の国では重罪だろうけどね。
ただ、それで流罪にすべきだなどということだと、大不敬か何かよっぽどの罪に問われているみたいだな。
身の潔白を主張してだらだら時を過ごしても周囲にいろいろ迷惑かけることになるし、これ以上の汚名を着せられる前にさっさと隠遁してしまおう思ったんだが。」
と事の詳細を語りました。
若かった時の話や院のことなど、いろいろ思い出を語って聞かせたい心もちがいたいほどわかるので、直衣の袖から手を離すことができず、源氏の君もこれ以上平静を装ってもいられません。
若君は無邪気にそこらじゅうを歩き回り、二人に向ってじゃれかかってくると、耐え切れないような気分になります。
「亡くなった娘のことは今でもそこにいるかのように一時も忘れることなく、今でも悲しくてしょうがないのだが、もし生きているうちにこんなことが起きていたらどんなに悲しんだことか。
それを思うと、早く世を去ってこんな悪夢を見ずにすんだと思って慰めるほかないな。
それより、まだこんな幼い子供が、老いぼれしかいないところに置いてきぼりにされ、父親に逢えない日が長いこと続くと思うのが、どんなことよりも悲しい。
昔の人だって、本当に罪があったにせよ、こんなことにはならなかったはずだ。
確かに中国の皇族など讒言で流刑になることも多いとは言う。
それでも何かしらもっともらしい罪過をでっちあげるものだ。
どう考えても思い当たる節がないから困ったものだ。」
と話は尽きません。
途中から三位の中将も加わって、酒の差し入れなどもあるうちに夜も更けたので、今夜はここに泊まっていくことにして、女房達を傍らにはべらせて物語などをさせました。
他の女房と違って以前から密かにつきあっていた中納言の君ヒサコが、言うに言えない悲しい思いを抱えているのを、源氏の君もおおっぴらには表には出せなかったけど気の毒に思ってました。
人が皆寝静まったあと、特別な「語らい」をしました。
今日の宿泊もこれがお目当てだったのでしょうね。
夜が明ければ、夜もまだ深いうちに登っていた有明の月が奇麗で、桜の木などもすっかり盛りを過ぎて、わずかに残った花が若葉に埋もれて、寂しさと瑞々しさの入り混じった庭にうっすらと霧がかかり、花の霞みと霧の霞がそこはかとなく混ざり合って、秋の夜にもまして悲しげな美しさをかもし出してました。
源氏の君は隅っこの部屋の高欄に寄りかかって、何ごともなかったかのように庭を眺めてます。
中納言の君は源氏の君を見送ろうと、座ったまま妻戸を押し開けていました。
「また逢える時があるかどうか、今は想像もつかない。
こんな時代になるなんて知らなくて、気軽に逢いに来れる時もあったというのに、どうしてもという気持ちもなくついつい寂しい思いをさせてしまって‥‥。」
と言うと、それ以上聞くに堪えずに泣き出しました。
若君の乳母である宰相の君に託された亡き妻の母からの言伝を聞きました。
「直接お伝えしたかったのですが、すっかり心を取り乱してしまいまして、こんな夜も深いうちに出発なさるなんてのも、すっかり以前と状況が変ってしまったのを感じます。
こんな時に目を覚まさないあの子のことが可哀想でならないというのに、少しも待つこともなく行ってしまわれるなんて‥‥。」
と聞くと源氏の君もわっと泣いて、
「鳥辺野の火葬の煙思わせる
海人の塩焼く浦見に行くよ」
返事をするともなくこんな歌を口ずさんで、
「夜も白む頃の別れは、こんなにも身を削るものなのか。
わかっていただければいいんだが。」
と言うと、
「どんな時でも『別れ』という文字は特別なものですが、今日の朝ほどのものは今後二度とないのではないかと思われます。」
と宰相の君も鼻声で、半端な悲しみではありません。
「伝えたいことはたくさんあって、何を言おうかいろいろ考えるのですが、考えれば考えるほどこんがらがるばかりで、その辺の気持ちを察してください。
眠っているあの子のことも、その寝顔を見たならきっと隠棲の決意も揺らいでしまうので、ここは心を鬼にしてでも急いで出発することにします。」
とだけ源氏の君は言いました。
出発する所を女房達は密かに見守っています。
沈みかけた月はとても明るく、思いつめたような源氏の表情をほんのりと美しく照らし出し、その姿には虎や狼も泪することでしょう。
まして、年端も行かぬ頃からずっと見守り続けてきた人たちなら、何にも例えようのないその姿はとても耐えられるものではありません。
それはそうと、この時の亡き妻の母の返歌は、
亡き人の別れも遠くなるばかり
都も煙になってしまって
それにつけても悲しみだけが尽きることなく、出発したあとも死ぬほどに皆で泣くばかりでした。
*
二条院に戻っても、東の対の女房たちは一睡もできなかった様子で、所々に固まってはひどいことになったと世の中を憂いている様子です。
側近の者たちでも親しく仕えていた人たちは、一緒に付いてゆく準備をした上で個人的な別れを惜しみに行ったのか、誰もいません。
そうでない者は、源氏の様子を伺いに行くだけでも重い処罰があるやもしれず、そんなリスクも負いたくないので、かつては所狭しと集っていた馬や車の影もなく寂しげで、「人の世というのははかないもんだ」と思い知るばかりです。
付き人の詰所も半分埃が溜まっていて、畳も所々ひっくり返ってました。
「今見てもこれなのだから、これからはどんなに荒れ果てて行くことか」と憂鬱になります。
西の対の方に行ってみると、格子が開けっ放しで、姫君の姿が丸見えで、簀子には小さな童女があちこちで寝ていてのですが、すぐに起きて騒ぎ出しました。
宿直姿が可愛らしくて、慌てて出てくるあたり頼りなげで、長く留守にすればこうした子供達もとても待ってられなくて、散り散りになってしまうのだろうなと、いつもなら考えないようなことも気になってしまいます。
「昨日の夜はこんなこんなで、帰りがこんな夜更けになってしまった。
何か良からぬことをしてたと思ったかな。
こうしている間さえ本当は一緒にいたいんだけど、長く世間から遠ざかる以上、いろいろ気を使わなくてはならないことも多いというのに、ずっと家に籠っているわけにも行かないだろっ。
人の心というのも変わりやすいだけに、ここで薄情者と嫌われてしまうのも嫌だしね。」
と言えば、
「こんな状況だというのに、まだ心配なことがあるなんて、一体どんなことなのでしょうね。」
とひどく悲しそうに塞ぎこむ様子は他の人以上で、それもそのはず、兵部卿の宮は何を考えているのか、元から自分の娘にさして興味がない上、世間体を気にして手紙もよこさなければ、まして二条院を尋ねてくることもなく、姫君にしてもそんな親が恥ずかしく、本当に音沙汰ないならそれはそれで気が楽なのですが、継母に当る兵部卿の奥さんが、
「せっかく幸運が舞い込んだと思っていたというのにこの変わりよう。
恐ろしい女だこと。
この子を愛した人はみんな不幸になるのよ。」
と言ってたと風の噂に聞くにつけても悲しくなるばかりで、わざわざこちらから手紙を書く気にもなれません。
他に頼れる人もなく、本当に気の毒なご様子です。
「このまま本当に何十年も復帰できないとわかっているなら、たとえ洞穴暮らしになろうとも君を迎えに行く。
だけど今のところまだ人の噂が絶える様子はない。
天の前に身を慎む人は太陽や月の明るい光を浴びてのうのうとしていてはいけないんだ。
何も悪いことはしてないが、前世の悪い因縁ならこんなことがあってもおかしくないと思うし、ましてこんな時に最愛の人を連れて行くということになると、ただでさえ人の心の狂った世の中、何が起こるかわかりゃしない。」
と言い聞かせました。
日が高くなるまで寝所で過ごしました。
帥宮や三位の中将などがやって来ました。
そのままで会うわけにもいかないので直衣を着ました。
「今は官位がないから」と言って昔よく着ていた紋のない直衣を着ましたが、身分のない人間の姿になっても、やはり美しいものです。
もみ上げのあたりの癖を直そうとして鏡を覗き込むと、頬のこけた姿が映るものの、自分で見てもそんな身分の低い野卑な姿が似合っていません。
「それにしても落ちぶれたもんだな。
本当にこんなに痩せてしまったのかい?
悲しいもんだな。」
と言えば、姫君は目に一杯の泪を浮かべて見つめてくるので我慢できるものでもなく、
「この体どこにいようとこの心
鏡のようにいつも一緒だ」
と詠みあげると、
「別れてもあなたが鏡に映るなら
それ見て心静めるものを」
柱の陰に隠れるように座って泪をごまかしている様子に、なお「女はたくさんいるけど、こんなのはいないな」と惚れ直す、源氏の君はそんな人です。
帥宮は悲しげな話をひと通りすると暮れには帰りました。
*
あの花散里でも源氏のことを心配して何度も手紙をよこすのも当然のことで、麗景殿の女御にもここで一度逢っておかなければ後悔するかもしれないと思い、いつか行こうと思いながらもその夜も何となく億劫になり、夜遅くなってからようやく尋ねて行ったところ、女御は「ものの数に入れてもらって立ち寄っていただけて‥‥」と大喜びしましたが、この様子を延々と書いた所で退屈でしょう。
とにかく不安でしょうがない様子で、長年にわたって源氏の君の力で何とか暮らしてきたものの、ますます貧窮することは容易に想像できることで、屋敷の中はひっそりとしていました。
月の朧の光に照らされて、大きな池は木の生い茂った山が心細く思えるものの、これから自分の行く洞穴のことを思うと先が思いやられます。
西の対の正面の部屋にいる三の君は、「今日も来ないの?」とふさぎ込んでいたところ、悲しげに照らす月の光の中に、しっとりと抑えられた香りながらもはっと漂ってくる薫物は間違えようもなく、人目を忍ぶように入ってくると、三の君も膝で歩いて出てきて一緒に月を見て過ごします。
仲睦まじいひと時を過ごすうちに夜明けも近くなりました。
「夜も短くなったな。
こんな短い逢瀬でも二度とないかもしれないと思うと、何もしないで無駄に過ごしてきた年月が悔やまれます。
過去にも未来にも物笑いの種となるようなこの俺には、心のやすまる時なんてないんだろうな。」
と過去のことばかり言っているうちに鶏も鳴き出したので、人目につかないように急いで立ち去ろうとします。
あの朧月も沈んでしまい、それが|源氏の君《ミツアキラ》のようで悲しげです。
三の君の濃い紫の御衣も袖の色を失い、月も泣いているかのようです。
「月光を含んだ袖は小さくても
閉じ込めてみますあなたの光」
ぐっと来るものはあっても、心苦しさからこんな慰めを言うだけです。
「朧でも季節が廻り月は澄む
曇った空も長くはないさ
悩んだところでしょうがないでしょう。
ただ、今はその時が見えないから泪して心を曇らすだけです。」
と言って、明け方まだ暗いうちに出て行きました。
*
不在の間のあらゆる手配を整えます。
親しく仕えていて今の世の流れを拒んでいる人たちの中から、二条院の留守を預かる責任者やそれに仕える者を決めました。
お供についていく人についても、また別に選定しました。
これから行く山里の棲み処に持っていくものは必要最低限の質素なものだけにして、それに『文選』などの書物を入れた箱、それに七弦琴を一張持たせました。
場所をとる家具や華やかな衣装などは特に持っていくことなく、まるで山奥に住む怪しげな樵になるようなつもりで準備をします。
仕えている人たちをはじめ、二条院の財産のことはすべて西の対の姫君《サキコ》にその権限を委譲します。
実際に所領としている荘園、馬の放牧場をはじめ、権利を持っている他の所領など、その管理をすべて任せることになります。
そればかりでなく、外部の倉庫街や邸内の蔵にある財産に至るまで、かつての乳母の少納言の実務の才能を見込んで、長年仕えてきた家司を補佐につけて、管理すべきすべてのものに関して引継ぎをしました。
自分に仕えていた中務や中将などの女房達も、これまでほとんど見向きもされなかったものの、傍に居れることで慰めていましたが、これからどうすればいいのかと思ってみても結局、
「いつか生きてまた帰ってくることもあるかもしれないし、待ち続けたいと思う人は姫君の元に仕えてくれ。」
と言うと、上の者も下の者もみな姫君の元に参上しました。
前大臣家の若君の乳母達や花散里などの所にも、気の利いたプレゼントはもとより実用品なども至れり尽くせりです。
*
尚侍のもとに無理を承知で手紙を出しました。
《お手紙も下さらないのはしょうがないこととは思いつつ、これでお別れかと、この世を見限りたくなるくらいの悲しい出来事もそれ以上に辛いことでして、
逢う瀬まで涙の川に沈んだか
時の流れは待ってくれない
と思ってはみるものの、罪は免れないのでしょう。》
ちゃんと届くかどうかもわからないので、これ以上詳しくは書きませんでした。
尚侍はひどく胸が痛むのをぐっと堪えるものの、袖からこぼれ落ちるものは半端ではありません。
「涙川浮かぶ泡さえ消えるだけ
流れた後の逢瀬待たずに」
泣きながら書いた乱れた文字が、独特な味を出しています。
もう二度と逢うことがないかもしれないと思うと心残りですが、気を取り直し、二人の仲を快く思わない親族がたくさんいることを思ってここはぐっと堪えて、これ以上手紙を書くこともありませんでした。
*
明日には出発という日の暮れには、院のお墓参りをしようと北山に行きました。
月が夜明け間際に昇る頃なので、まず入道となった中宮のところに行きました。
近くの御簾の前に座って中宮自らお話ししました。
春宮のことを大変気にしていた様子でした。
切っても切れぬ間柄同士の会話は、何を言ってもますます悲しくなるばかりでしょう。
あれほど恋焦がれていた美しい容貌は昔と変わっていないので、これまでの辛かったことをそれとなく伝えたいと思ったけど、今さら言ってもどうなるものでもないと思ったのか、自分の気持ちもこれ以上抑えきれなくなってしまいそうなので、思いなおしてただ、
「こんな思いもよらない濡れ衣を着せられてしまったのも、思い当たることが一つあるだけに、何か悪いことが起こらなければと思ってます。
自分の身はどうなってもかまわないが、春宮の皇位継承が何ごともなく行なわれれば‥‥。」
と伝えるだけに留めるのも無理もないことでしょう。
中宮もすべてわかっていることなので、胸が詰まるばかりで何も言えません。
源氏の大将がいろいろなことを思い出しては泣く様子も、この上なく絵になるところです。
「院の御陵にお参りに行くんだが、何か伝えたいことはあるか。」
と訊いてはみるものの、すぐに返事はできません。
言っていいものかどうか迷っているようです。
「主人はなくいる人も悲しい運命に
出家したけど涙絶えない」
忌まわしい出来事の多かっただけに、いろいろ思い出したところで次の句が継げません。
「悲しさはあの日の別れに尽きたのに
もっと悲しいことがあるとは」
明け方の月が昇るのを待ってから出発しました。
お供にはほんの五六人ほど、血縁のある下男下女だけにして、馬に乗っての出発です。
別に珍しいことではないのですが、かつての遊び歩いた時とはわけが違います。
みんな本当に悲嘆に暮れてましたが、その中に、あの禊の日に一時的な随身となった右近の蔵人の将監もまざっていて、本来なら得られたはずの官位も与えられないままついに殿上人からはずされ、仕事もなく宙ぶらりんになっていたので、お供の一人に加わってました。
加茂の下社が向こうに見えてくると、ふとその時のことを思い出しては自分の馬を降り、あの日のように源氏の乗っている馬の轡を握ります。
「導いて葵飾ったその髪を
思えば辛い加茂の玉垣」
と歌うと、源氏の君も、本当にどんな気持ちなんだろうな、誰よりもあんなに輝いていたからな、と思っては心苦しくなります。
源氏の君も馬から下りて神社の方に向って一礼すると、神に祈りました。
「辛い世を去っても残る俺の名を
糺の神なら正しておくれ」
そう歌い上げる様子は、何ごとにも素直に感動する年頃の人には、身にしみて悲しくもありがたいものです。
院の御陵に墓参りすると、生前の姿が目の前にいるかのように思い起こされます。
どんなけ力がある人であっても、既にこの世にいないのが残念でなりません。
これまでの一部始終を泣きながら院に訴えても、それに対して何の判断も仰ぐことができず、生前に残したあれほど事細かな遺言もどこに消えてしまったのかと言っても、どうしようもないことです。
墳墓は道に草が生い茂り、掻き分けて入っていくと露でびっしょりになり、月も雲に隠れて森の木立は鬱蒼として恐いくらいです。
もうここから出れないのではないかという気持ちで手を合わせると、生前の姿がはっきりと浮かびぞくっと背筋が寒くなります。
「亡き人にどう見えるかと想像し
月眺めても雲があるだけ」
すっかり夜が明けてから帰り、春宮への手紙を書きました。
王命婦に自分の代わりにお世話をさせているので、その部屋へと、
《今日都を離れます。
最後に会うことができなかったことが、どんな悩みよりもまして心残りです。
どうかそこのところを察して春宮にお伝え下さい。
いつかまた都の桜見れたなら
今は季節も知らぬ山人》
既に桜の散ったあとの枝にくくり付けました。
これこれこうですよと春宮に説明すると、幼いながらも真剣になってお聞きになります。
「お返事はどうしましょうか?」
とお伺いすると、
「しばらく会えないだけでも会いたくなるのに、遠く離れるとなればどんなだか、
と言っておいてくれ」
と言いました。
何のひねりもないお返事だなと、それはそれで可愛いものです。
どうにもならない恋の仲立ちをした昔のことや、いろんなことのあったその時そのときの二人の表情など次々と思い起こしてみても、本来なら自分も源氏や中宮も何の苦労もなく過ごせたというのに、こんなに悲しいことになってしまったのを悔いては、すべて自分一人のせいだったかのように思えてなりません。
春宮からのお返事には、
《これ以上どうにも言葉が見つかりません。
母上には伝えておきました。
心配そうに顔を曇らせた様子にもいたたまれなくなって‥‥。》
といった調子で、自分でも何を書いているかよくわからないくらい取り乱してたようです。
《咲いてすぐ散るは悲しいがゆくゆくの
春は花咲く都に帰って
きっとその時もありましょう。》
と添えて、源氏の帰った後もいろいろ悲しい思い出話をしながら、屋敷中みんな一緒になって忍び泣くばかりでした。
一目でも今の源氏の姿を見たなら、このような生気の失せたような様子に溜め息をつき、去って行くのを惜しまぬ人はいません。
まして長年お仕えしてよく知っている人たちは、源氏からすればほとんど気にかけたことのないような雑用係や便所掃除のおばちゃんたちまでも、なかなかないような待遇を得てただけに、ほんの少しの間でもお仕えできない時があるなんてと深く溜め息をつくのでした。
世間の人もおおむね誰もこうやって源氏が追いはらわれていくことを良いとは思ってません。
七つの頃からずっと御門の御前に夜昼なく傍でお仕えし、御門の期待にそむくことはなかったので、その功績にあずからなかった人はなく、その恩恵を喜ばぬ人があったでしょうか。
そうそうたる家柄の上達部や太政官の弁などの中にもそうした人たちはたくさんいます。
それより下のたくさんの人たちもまた、その恩恵を知らぬわけではないけど、取りあえずは恐ろしい世の中を思っては躊躇し、尋ねてくる人もいません。
世の中はこぞって源氏の隠棲を惜しみ、影では宮廷のやり方を批判し、不満を顕わにしたりはしても、我が身を犠牲にしてまで見送りに行った所で何か得することはあるのか、といった所でしょうか。
こういう時になると、人間というのは弱いもので不満はあってもどうすることもできない人ばかりで、とかくこの世はままならぬものだと、ただすべてそう思うだけです。
*
その日は姫君と「語らい」ながら長閑に夜を迎え、こういう時の常で夜遅く出発しました。
狩りの御衣など旅の衣装はひどくみすぼらしいもので、
「月も出たしな。
ちょっとでも出てきて見送ってくれよ。
後であれも言いたかったこれも言いたかったと思っても知らないからな。
たまたま一日二日逢えなかったときにだって異常なまでに塞ぎこむんだから。」
と言って御簾を巻き上げて部屋の端のほうに導くと、姫君は泣き崩れていたのをぐっと堪えて膝で歩いて出てきます。
座る姿は月の光にこの世のものとも思えず美しい。
自分が結局この仮初めの世を去ることとなったなら、一体誰の所を頼って生きて行くことになるのかと思うと心配で悲しくなるけれど、ただでさえ悩みが尽きないのにこれ以上悩ませてもと、
「生きながら離れ離れになるなんて
知らず命の限りと契った
空しいな。」
などと軽く流そうとすると、
「目の前の別れを待ってくれるなら
この命なんて惜しくもないわ」
本当にそんなにまで思っているのかと思うと見捨てていくに忍びないものの、完全に夜が明けてしまったなら、人目にも留まって恥をさらすことにもなるので出発を急ぎました。
*
淀津の船着場までの陸路もずっと姫君の面影が瞼を離れず、胸の締め付けられるような思いでそこから船に乗りました。
日の長い頃で追い風ということもあって、まだ日の残るうちに須磨の浦に着きました。
短い道中ではあるものの、こうした旅には慣れてない様子で、その心細さも楽しさも初めてのことでした。
途中通った難波の大江殿というところはすっかり荒れ果てていて、松だけが昔の面影をとどめています。
「中国の屈原以上にこの俺は
どことも知れぬ家に棲むのか」
渚に波の寄せては帰るのを見ながら、「うらやましくも帰る波かな」と口ずさむあたり、在原業平の古い歌ではあるものの、お供の人たちも身にしみて悲しく思いました。
ふと振り返ると、来た方の山は遥か彼方にに霞んで、気持ち的にはまさに三千里の彼方で、涙も櫂の雫となって堪えきれません。
「故郷は峯の霞みの向こうでも
空は雲居とつながっている」
どんなことでも辛く感じられるのでしょう。
これから暮らして行く所は、在原行平中納言の「藻塩たれつつ侘ぶ」と詠んだ家からそう遠くないところでした。
海岸からやや離れたうら寂びた何もない山の中でした。
垣根の形からして初めて目にするものです。
茅葺きの建物がいくつかあって、葦で吹いた回廊のような建物でつながっていて、なかなか小洒落た感じに調度が整えられています。
隠棲のために選ばれたこの家はいかにもみすぼらしいものの、別の機会に訪れたならなかなかこれも味があるなと、昔の遊び歩いてた頃に見た家とかを思い出します。
須磨からそう遠くないところに散在する荘園の管理者を呼び寄せて、家や庭の改装など必要なことを、気心の知れた家司の源良清の朝臣に命じて行なわせているのも、何とももったいないことです。
瞬く間になかなか見られるものに仕上げました。
池を深く掘り下げ周りに木を植えて、何とか終わらせて一息ついてみても、まだ何か夢の中にいるような気分です。
摂津の国守もよく知った人だったので、非公式に援助を申し出てきました。
隠棲するための宿とはいえやたら騒がしいものの、大事な相談をできそうな人もなく、見知らぬ異国にいるような感覚で、気持ちのやり場がなく、こんなのでこれから長くやっていけるのだろうかと先が思いやられます。
次第に落ち着きを取り戻す頃には梅雨時となり、京がどうなってるのかが気がかりで、会いたい人もたくさんいて、姫君の思いつめたような顔、春宮のこと、何も知らない若君の無邪気な姿などあれこれ気になります。
京へ人を行かせました。
二条院の姫君への手紙や、入道となった中宮への手紙は涙で目が見えなくてなかなか書けません。
入道の中宮には、
《まつ島のアマの苫屋はどんなかな
須磨の漁師はびしょ濡れだけど
別に雨の季節だからというわけではないけど、過去も未来もすっかり見えなくなった上、涙の水位までもが上昇しております。》
尚侍のもとには、例によって中納言の君への個人的な手紙を装い、その中に潜ませて、
《何もないまま過ぎてしまったあの頃を思い出すにつけても、
懲り須磨の浦の海松布も恋しいよ
塩焼く海女はどう思うかな》
あれやらこれやら思いつく限りの言葉を想像してみてください。
先の左大臣にも息子の乳母にも、息子の世話のことなどを書いて遣わしました。
京にはこの手紙のことがあちこちに知れ渡り、人々の心を動揺させるのでした。
二条院の姫君は手紙を手にしたまま起き上がることもできず、尽きぬ思いに胸は焼け焦がれ、お仕えする女房達も何とかご機嫌を取ろうとしてもどうにもならず、不安になるばかりです。
源氏の愛用していた調度やいつも弾いていた七弦琴、脱ぎ捨てた御衣の匂いなどどれもこれを取っても、まるで今はこの世にない人であるかのように嘆き悲しむので、これでは精神的にも危険なだということで、少納言は僧都に祈祷のことなどを依頼しました。
二つの方向で御修法などをさせました。
一つはこんなにも嘆き悲しんでいる姫君の心を静め慰めるためで、もう一つは源氏が元のように帰ってくるためのもので、断腸の思いで祈りました。
旅先での宿泊に必要なものなども取り揃えて源氏のところに送りました。
平絹の直衣、指貫の袴、今までと着るものも違ってひどく悲しく、「鏡のようにいつも一緒だ」と言ったあの源氏の面影がいつも身近にいるように感じるものの、それでどうなるものでもありません。
いつも出入りしていた戸口や寄っかかってた真木柱などを見ても胸が張り裂けるようで、物事に関して思慮深く世間のことに通暁した年齢の人さえ悲しんでいるくらいだから、まして夫婦関係にある上に親の代わりとなって世話してもらい、ここまで成長してきたとなれば、恋しく思うのも当然のことです。
ひとえに死んでしまったなら、もはやなすすべもないし、そのうち忘れ草も生えてくるところですが、そんな遠くに行ったわけでもないのにいつ帰るともわからない別れともなると、いつまでも思い続けるしかありません。
入道となった中宮の方も。春宮のことを思うと悩みは尽きません。
こうなってしまった前世の因縁を、どうして軽々しく考えることができるでしょうか。
今まではただ世間の風評に配慮して、ちょっとでも気のあるそぶりをすればそれにつけ込んであれこれ非難する人が出てくるのではないかと、それだけを思って愛を見てみぬふりし、形式ばった対応をしてきたので、人の噂は恐ろしいとはいえ何とか噂にはならずにすんでたものでした。
源氏の方としても思いつくがままに一方的に行動するのではなく、人目を気にしながらうまくごまかしてきてくれたんだと思うと、心の底から愛情が湧き出てこないはずもありません。
ご返事もやや気を遣って、
《この頃はますます、
塩水を焼くも仕事と松嶋の
この老いたアマ溜め息重ね》
尚侍からのご返事は、
《塩を焼く海女も憚る恋なので
くすぶる煙どこへも行けず
これ以上はとても。》
とだけ、中納言の手紙の中にわずかに書かれてました。
その手紙には悲嘆に暮れる様子が痛いくらいに書かれていました。
まだ愛情が残っていることがひしと感じられて、わっと悲しみがこみ上げてきました。
姫君からのお返事は特にこまやかな愛情の溢れ出たもので、
《塩水に濡れた漁師の袖なんて
海の彼方の夜着に較べれば》
一緒に送られてきた衣類などもなかなか垢抜けてます。
すべてに関して如才なくこうした配慮をしてくれていることにすっかり満足して、
「とりあえず今は特に心を掻き立てるような通う相手があるわけでもなく、おとなしくしておこう。」
と思うものの、このまま朽ち果てていくのかと思うと悔しくて、昼も夜も姫君の面影が浮かんできて耐え切れない気持ちになるので、ならばこっそり呼び寄せようかとも思いました。
そうはいうものの、
「いやそんなことよりこんな悲しい世の中に生まれてきて、前世の罪を拭わなくてはいけない」
とばかりに、すぐさま精進に励み、朝夕のお勤めを行なって暮らしました。
先の左大臣の所の若君のことなどが書かれた手紙もあって、どうにも悲しくなるけれど、そのうちまた会えるし、頼れる人たちに世話してもらっているのだから気にしてもしょうがないと思うあたり、どうやら子どものことで悩むようなことはないようです。
全くいろんなことがあったので書き忘れる所でした。
あの伊勢の斎宮の所にいる御息所へも使いを出していました。
向こうからもわざわざ使いをよこしてきました。
内容は至って真面目です。
文章も筆遣いも誰よりも渋く並々ならぬ境地を感じさせます。
《未だに現実とは思えないような隠居生活を余儀なくされたのも、明けることのない無明の闇に心が迷っているからだと存じます。
そうはいっても、そう長い年月を経るまでもないとご推察申し上げるにしても、私は罪深い身でして。
またお会いできる日もいつになるかわからない所です。
浮き芽刈る伊勢の海女さん忘れないで
藻塩の涙の須磨の浦でも
すべてにおいて憂慮すべき今のこの世の中の状態で、これから一体どうなってしまうものやら》
といろいろ書いてあります。
《干潮の伊勢で浅蜊を取ろうにも
何のカイなきこの私です》
いろいろと悲しいことが思い出されて、何度も途中で詰まりながらも書き終えた白い中国製の紙四五枚ほどを巻物にして、墨の濃淡などなかなか見事です。
愛していたあの六条の御息所を、あの一件からどこかボタンを掛け違ってしまい、結局悩んだ末に別れを決意させてしまったと思うと、今だに思い出すにも恥ずかしく自分が嫌になりなす。
こんな時の手紙だけに感慨もひとしおで、使いの者にも親近感を覚え、二三日引き止めてあちらの方の話をいろいろ聞かせてもらいました。
若々しくなかなか心惹かれる殿上人でした。
このような簡素な家なので、こうしたお使いの人でも自然と間近で接することとなり、わずかな間のご対面でしたがその姿や物腰を目にして、これ以上ない感激だと涙を流しました。
返事の手紙を書きましたが、その言葉、想像がつきますね。
《このように世間から遠ざからなくてはならない運命だと知っましたら、後を追ってついていきたかったところですがなどと、気も晴れず不安なもんですから‥‥。
伊勢の海女波の上漕ぐ小舟にも
乗りたいものだ浮海布は刈らず
海女が摘む投木のなかで袖濡らし
いつまで須磨の浦をながめる
また逢える日がいつとも知れないせいで、心が張り裂けそうです。》
といったようなことも書いてありました。
こんなふうに、どの方面にもしっかりと手紙を交わしてました。
花散る里でも悲しい思いをそのままそれぞれ書き綴った手紙をしみじみとご覧になり、他にない可愛らしさを感じ、どちらも手にとって眺めては癒される一方、心配の種でもあります。
《荒れて行く軒の忍を眺めては
びっしり露のかかる袖です》
という歌から、実際八重葎より他に寄り添うものもない状態なんだろうな、とその様子が浮かびますし、長雨に土塀が所々崩れてきてなんて書いてあると、京の家の管理人のところに使いの者を出し、京に近い荘園の者などを集めてお世話するように命じました。
尚侍は源氏の須磨行きの原因となっただけにすっかり物笑いの種にされてすっかり落ち込んでいて、父の大臣も心配で心配でしようのないこの娘のことを、皇太后にもいろいろ言ってみるし御門にも訴えたところ、女御や御息所の罪ならいざしらず、表向きは単なる女官のことだからということでの配慮を得ました。
また、あの憎っくき男のせいでこんな大変になことになったということで、何とかお咎めもなく参内を続けられることになったものの、それでも源氏のことを思っては悲しむばかりでした。
七月になって参内しました。
並々ならぬ御門のご寵愛もまだ健在で、世間の悪い噂なども知らぬげに、いつものように傍で仕えさせ、源氏とのことでいろいろ恨みごとを言いはするけど、その一方で尚侍のことを優しく愛するのでした。
服装といい容姿といい大人の魅力を漂わせた麗人なのですが、心の中では源氏のことばかり思い出していて醜いものです。
一緒に音楽を演奏して楽しむついでに、
「あの人がいないと何か気乗りもしないぞ。
そう思う人もたくさんいるのだろうよ。
何をしててもこう、ちと光が足りんな。」
とおっしゃって、
「院の遺言にそむくことになってしまったよの。
ばち当たりなことよのう。」
といって涙ぐむのを見ると、尚侍も涙をこらえることができません。
「人生というのはいくら生きていても結局空しいものだということが身にしみるだけに、長生きしたいだなんてもう思わないことにした。
長生きしたら、今度のことはどう思うものかのう。
その後のいろいろな別れと一緒になってしまったりしては嫌よの。
『生きているうちに』なんて大友百世の歌にあったけど、生きてるうちだけでなく後生のことも考えねばならんな。」
と親しげな様子で、人生の悲哀を本当に噛み締めたかのようにおっしゃるので、涙がぽろぽろ溢れ出てくると、
「そうよな。誰のために泣いているのやら。」
とさらにおっしゃいます。
「これまで子供ができなかったのも残念でな。
春宮を院の遺言どおりにとは思っていても、いろいろ良くないことも起こって困っているんだ。」
と、世の中を自分の意に反する方向に導こうとしている勢力があるにもかかわらず、若さゆえ毅然とした態度を取れず、苦虫を噛み潰している部分も多いのでしょう。
*
須磨では今まで以上に気を滅入らすような秋風が吹き、海は少し遠いものの在原行平中納言の「関吹き越ゆる」と詠んだ浦に寄る波は夜ともなるとすぐそばのように聞こえて、これ以上悲しくない所はないような秋となりました。
お側で待機する人もまばらな部屋で早々に寝入ったものの一人目が醒めてしまい、枕を縦にして身をやや起こして周囲で吹きすさぶ嵐の音を聞くと、波があたかもここまで押し寄せてくるような錯覚にとらわれ、涙がこぼれたと思うか思わないかのうちに、枕が涙の海に浮かんでいるような心地にになりました。
七弦琴をすこしばかりかき鳴らしてはみるものの、自分でもあまりに悲しげな音色なので曲を途中で止めて、
♪報われぬ恋に泣いてる浦波は
都から吹く風によるのか
と歌い上げると、お仕えしている者たちもその見事な演奏と歌に感動しつつも悲しみに堪えきれず、そのまま起きてはしばらくの間、涙に鼻をかんでいました。
「まじ、いろいろ思うこともあるんだろうな。
こんな俺のために親兄弟はもとより、彼らなりに大事に思うものもあって一時も離れ難い家を捨てて、こんな放浪の旅に付き合ってくれているんだ。」
と思うと、いたたまれなくて、
「こんな沈んだ所ばかり見せては先が思いやられるだろう。」
と思い、昼はあれこれ冗談を言っては紛らわし、することもないままいろいろな紙を継ぎ足しては書の練習をしました。
なかなか手に入らない中国製の綾織りの布に様々な絵を思いつくがままに描きまくった屏風の表など、本当に見事で一見の価値があります。
前に誰かが「海や山の景色などをご覧になれば、絵なんかも驚くほど上達しますよ」と言ってたように、今までは遥か遠くだと思っていた景色も今は間近に見ることができて、実物を見たことのなかった磯の景色などもここぞとばかりスケッチしまくりました。
「今時の名人とされている千枝や常則などに頼んで、精緻な彩色を施してもらえたらなあ。」
と皆残念がりました。
何の屈託もなく親しげにふるまう様子に周りの者も世間の憂さを忘れて、傍で御一緒できることを喜び、四五人ほど四六時中くっついてまわりました。
前庭には花が色々と咲き乱れ、晴れた気持ちのいい夕暮れには海を見渡せる廊下に出て佇んでいる姿が危険なくらい美しく、場所が場所だけにこの世のものとは思えません。
柔らかい白い綾に紫苑色を配した繊細な直衣に、無造作に着くずした帯といういでたちで、
「釈迦牟尼仏の弟子」
と名乗りを上げ、ゆるい感じでお経を読む様子もまた、いまだかつてこの世にあったでしょうかという感じです。
沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます。
小さな水鳥が浮かんでいるのがかすかに見えるのも今にも消え入りそうな中に、列をなした雁の鳴く声が梶の音と入り混じるのがにわかに聞こえてくると、こぼれてきた涙を拭う手に巻いた黒檀の数珠がきらりと光り、故郷に残してきた妻が恋しい従者たちは皆涙ぐみました。
♪初雁はいとしい人をつれてくる
旅の空飛ぶ声が悲しい
と源氏の君が口ずさむと、源良清、
♪過ぎ去った昔をみんな連れてくる
雁はその頃の友ではないが
民部大輔惟光、
♪楽園を捨てた旅路に鳴く雁を
雲の彼方と思っていたが
禊の日の仮随身だった右近の丞、
♪楽園を追われた旅の雁がねも
列に遅れなかったのが救い
そして、
「仲間とはぐれてしまったらそれこそ大変です。」
と言い添えました。
親が常陸に赴任されて下向しても一緒に行かずに、ここに来たのでした。
内心忸怩たるものがあるにせよ、それを億尾にも出さずに、元気いっぱいにふるまってました。
月の光が煌々と差し込んでくると、「今夜は十五夜だったな」とふと思い出して、宮廷にいた頃の楽器の演奏に耽ったのが恋しく、「みんなじっとあの月を見ているのかな」と思うと、みんなの顔が月になって見守っているかのようです。
♪三五十五夜さなかの月の色は鮮やか、
二千里彼方の古い友の心となる。
と白楽天の詩を口ずさむと、例の面々も涙をこらえきれません。
あの尼さんになった宮様が「九重は霧が深いのか雲の上の月の遠さを思うのみです」と詠んだ頃のことがどうしようもなく恋しくて、あれやこれやいろんな記憶が蘇り、わんわん泣きました。
「もう夜も遅いっすよ。」
と言われてもなお、部屋に入ろうとしません。
「見ていれば気が紛れるんだ帰りたい
月の都は遥か遠いが」
その夜は、今の御門と親しく昔話などしたときの様子が今は亡き院にそっくりだったことなどを懐かしく思い出して、話して聞かせると、
「恩賜の御衣は今でもここにあり」
と口ずさみながら部屋に入っていきました。
実際、御門から賜った御衣は肌身離さず寝床の横においてました。
「辛いことばかりと思うわけじゃない
涙の袖は左右両方」
*
その頃、大弐が都に戻る途中でした。
物々しく親類縁者をたくさん引き連れ、女もたくさんいて姦しいので、奥方達は船で都に向ってました。
海岸に沿ってゆっくり旅をしていたところ、須磨の辺りは他になく面白そうなところなので期待していた上に、源氏の大将が隠棲していると聞けば、その気はなくても好奇心いっぱいの若い娘達は、船の中でさえ恥ずかしさに固まってました。
まして五節の女君は、このまま船が曳航されていってしまうのが残念に思っていた所、七弦琴の音色が風に乗って遥か彼方から聞こえてきて、土地柄、弾いている人の身分、その調べの悲しさ、どれをとっても心を持たない人でない限り泣きました。
大弐の帥から源氏の所に手紙が届きました。
《大変遠くにいたものですから、京の都に戻った折には、まず真っ先に尋ねて都のことなどいろいろ聞こうと思っていたのですが、思いもかけずさる事情で暮らしている所を通り過ぎなくてはならず、誠に恥ずかしくもあり残念でもあります。
知り合いがしかるべき所まで出迎えに来ていて、それがかなりの人数なのでご迷惑をおかけすると思いまして、あえてここにはお顔出しできません。
また別の機会に御伺いします。》
とのことです。
持って来たのは大弐の帥の息子である筑前の守でした。
この人物は源氏が蔵人に引き立てた人だっただけに何とも悲しく悪いことをしたなと思うものの、大勢人が見ていることもあり、噂になるのを気にして、挨拶程度で立ち去ろうとしています。
「都を離れてからというものの、以前から親しかった人たちに逢うこともできなくなってしまってたので、こうしてわざわざ立ち寄ってくれて‥‥。」
と答えました。
大弐の帥への言付けもそんなものでした。
泣く泣く源氏のもとを後にして、その様子をみんなに語ると、帥《そち》はもとより、迎えに来た人たちまでもが思うようにできなかったことにいらだち、泣くばかりでした。
五節の手紙もどうにかこうにかして何とか届きました。
《琴の音に船引き止めるもやい綱
揺れる心をあなたは知らない
ふしだらな女に思われるかもしれませんが、お許しください。》
と書いてありました。
にんまりしてそれを読むのですが、今の自分が何とも恥ずかしくなります。
《意思あって引いてた綱がゆらぐなら
留まればいいのに須磨の浦波
こんな所で漁師こくとは思わなかったわな。》
菅原道真公は播磨国明石駅の長に一篇の詩を捧げたといいますが、源氏のこの返歌を聞いて五節もここに住み着きたく思ったことでしょう。
*
都では月日が過ぎて行くにつれ、御門を筆頭に源氏の君の復活を願う声も多くなってきました。
特に春宮などいつも源氏のことを思い出しては密かに泣いているのを、見守る乳母はもちろんのこと、王命婦の君もとても悲しそうに見守ってました。
出家した宮様はそんな春宮のことを危険な存在だと思うばかりで、源氏の大将までがこんなふうに遠くへ行ってしまったのをひどく気に病んでました。
源氏の兄弟の皇子たちやそれに家族同然に仕えてきた上達部など、最初の頃は手紙をよこすこともありました。
悲しげな漢詩のやり取りをしていたところ、それがまた宮中の評判になったため、皇太后がそれを知って憮然として言い放ちました。
「朝廷から処罰を受けた人間ってのは、自由に人生を楽しむなどもってのほかなのにね。
気取った家に住んで世間を批判し、そんな『史記秦始皇本紀』の趙高みたいなのに卑屈に追随して、皇帝に献上した鹿を『馬』だと言ったやからみたいなまねをして‥‥。」
など罵詈雑言を浴びせれば、「面倒事は御免」とばかりに手紙をよこす人もいなくなりました。
二条院の姫君はいつになっても悲しみが癒えることはありません。
東の対で源氏に仕えてきた女房達も、最初に姫君の側に来た時は、「何でこんな小娘が」と思っていたものの、傍で世話をしているうちに、人懐っこく冗談を言っては細やかな気配りを忘れない、なかなか人の気持のよくわかる立派な人柄とわかり、辞めていった人はいません。
身分の高い女房達はそのお顔もちら見したりします。
「たくさんいる源氏の女の中でも特別ご執心しているというのもわかるわ」と納得しました。
例の住まいに移って久しくなるにつれ、これ以上我慢ができないと思ってはみるものの、自分自身がまず、前世からの運命にしてもあんまりなこの家に、一体どうやって姫君を呼び寄せて住まわせようかと思うと、いくらなんでも無理がありすぎると思い直すのです。
こんな場所だけに何もかも今までとは勝手が違い、見知らぬ下人のと接する時などもどうしていいのかわからず、自分でも情けないやら恥ずかしいやら。
時々煙がすぐそばまで漂ってくるのを、これが海人の塩焼く煙なのかと思ってましたが、住んでいる所の後の山で柴を焼いている煙でした。
ついつい見入ってしまい、
「山人の庵で焼いてる芝しばも
尋ねてきてよ都の人よ」
*
冬になり雪の降りしきる頃、寒々とした空模様を眺めながら気ままに七弦琴を奏でては、良清に歌を歌わせ、惟光は横笛を吹いて遊びました。
一心不乱に悲しげな旋律をたたき出すうちに、他の者は歌と笛を止め涙を拭いあうのでした。
昔、毛延寿に賄賂を贈らなかったばかりに胡の国に嫁がされた王昭君のことを思い起こし、この世で最愛の人がそんなふうに遠くに行ってしまったらどんな気持ちになるのかななんて思っては見るものの、有り得ないことでもなく「あぶない、あぶない」と思い、
♪胡角一声霜の後の夢
と口ずさみました。
月の光が大変明るく差し込んできては、旅先のがらんとした寝室の隅々まで照らしました。
夜も深い空はすぐ床の上に見えます。
沈みかかった月が寒々しく思えて、「ただ西へ行くだけだな」と独り言を言い、
「この俺はどこの雲路に迷うのか
月が見ているようで恥ずかしい」
と独りつぶやいて、いつものように眠れないでいると、暁の空に千鳥が悲しげに鳴きます。
「友千鳥一緒に鳴いてくれるのか
一人起きてる俺を励まし」
まだ起きてくる人もいなくて、何度も独り言を言いながら横になりました。
深夜に手を清めてお経を唱えたりするのも今までになかったことなので、周りの人もなかなか殊勝なことだと思い、突き放すわけにも行かず、正面切って退出することなんてできません。
*
明石の浦は海伝いに行けばすぐなので、良清の朝臣はあの入道の娘を思い出して手紙を書いたりしましたが返事がありません。
父の入道は、
「言いたいことがある。
軽く会ってみたい。」
と書いてよこすものの、承諾は得られそうもないため、出向ていって空しく手ぶらで帰ってくるのも馬鹿らしいと、心も折れて行こうとしません。
世間ではなかなか理解されない高い志を持って、播磨の国では播磨の守の縁のものばかりが尊敬を集めているけど、心がねじけているのか長年にわたり一向に敬意を払うこともなく過ごしてきたところ、源氏の君がこうしてやって来ていると知って、妻を説得しようとして、
「先の御門と桐壺の更衣との間に生まれて源氏の姓を賜った光の君が、宮廷の中で慎むべきことがあって須磨の浦にこうしているというぞ。
思ってもみなかったことじゃが、これもあの子の前世からの宿命に違いない。
この機を逃さず源氏の君のところに嫁がせたいのじゃが。」
と言い出すのでした。
それを聞いて、
「あらまあ、はしたないったら。
都から来た人の話を聞けば、高貴な奥方をたくさんかこっていながら、それでも足りずにこっそりと御門の女にまで手を出して、こんな世間をお騒がせている人が一体こんな怪しげな田舎者に興味持つとでも思ってるのかえ。」
むっとして、
「知ったことか!
わしにも考えがあるんじゃ。
すぐに準備じゃ。
何かかにか理由をつけてでもここに連れて来い。」
と怒鳴り散らすあたり、いかにも頑固そうです。
見てて痛いくらい立派な調度を整え、可愛がって育ててきた娘です。
妻の方はというと、
「なんぼ高貴な人でも罪を犯して流された来た人を、最初の縁談にわざわざ望むもんかえ。
それに相手が気に入ってくれるならともかく、冗談にもそんなことはあるはずもないでしょうよ。」
と言うと、輪をかけてまたぶつぶつ言います。
「罪人になることは中国でも本朝でも、あまりに才能があって何をやっても人と違ってしまうような人間にはよくあることじゃ。
それをお前は一体なんだと思ってるんじゃ。
あれの母というのはな、わしの叔父にあたる按察使《あぜち》の大納言の娘なんじゃぞ。
並々ならぬ器量がたちまち評判となったので宮中に出仕させたところ、国王も大変な熱愛ぶりで他に類を見ないほどだったのじゃが、それを妬む女たちがたくさんいて死んでしまったがのう、あの光の君を残していった。何とも結構なことではないか。
こんなふうに、女というものは最高の男に仕えるべきものなのじゃ。
わしもこんな田舎者になってしもうが、その志を捨ててはいない。」
などと言うのでした。
この娘はそれほど美人ではないのですが、捨てがたい品の良さと機転の利くところなど、超一流の家系の娘にも全く劣る所がありません。
今の境遇をしみじみ落ちぶれ果てたものだと身にしみてまして、
「高貴なお方はわたしのことなど物の数にも思ってないわな。
だからいうて適当な所で妥協するのは嫌っ。
いつまでも生きていて父上や母上にも先立たれてしまうんなら、出家もええわな。
それとも海の底に沈んだろか。」
などと思っているのでした。
その父の入道はあれこれ干渉して窮屈で、年に二度住吉の神に詣でなくてはなりません。
神様が願いをかなえてくれることを密かに願うのみです。
須磨では年もあらたまり、日も長くなる中だらだらと時を過ごしていると、植えた若木の桜が少しづづ咲き始め、いい天気の日が続き、都でのいろいろなことを思い出しては涙がこぼれることもしばしばです。
*
二月の二十日も過ぎると、昨年京に別れを告げた時、別れを惜しんだ人たちの様子などがとにかく恋しく、南殿の桜は今が盛りだろうか、いつの年だったか神々しいまでの院の姿が殿上に眼前にいるかのように現れて、自分の作った詩句を詠みあげたことなどが思い出されます。
「いつになく大宮人が恋しいのは
桜の宴が今日だったからか」
とにかく退屈していた頃、前左大臣の息子である三位中将はいまや宰相になって、人柄も大変良いので、源氏のいない中で宮中の期待を一身に受けて大変なところでした。
それでもそんな世の中がとにかく嫌でどうしようもなく、行事があるたびに源氏のことが恋しくなるばかりで、世間でよからぬ噂を立てられ罪を問われてもかまわないという気持ちになり、急にやってきました。
再会を果たした瞬間はこれまでなかったような嬉しさに、涙がひとしずくこぼれ落ちました。
源氏の住居の様子は言いようがないくらい中国風になってました。
絵に描いたような風光明媚な土地に竹を編んだ垣を張り巡らし、石段や柱のように立つ松の木など、一見無造作なようでもなかなか有りそうにもない面白い住居です。
山奥の樵になったかのように、許し色の薄紅も黄ばみ、色あせた青の狩衣と指貫もくたくたになっていて、わざとらしく田舎者を装っている所もとにかく思わずにんまりしてしまうほどクールです。
使っている調度品もその場限りのもので、居間寝室などの居住空間も外から見えるので覗き込んでみました。
碁盤や双六の盤、調度、弾棊という中国のお弾きゲームの道具なども素朴な作りにして、数珠などの仏具はちゃんとお勤めを行なっているように見えました。
ふるまわれた食事もわざわざ地産品を用いて、いろいろ趣向を凝らしてました。
漁師が潜いて獲って来た貝などを持ってきたときには、わざわざ中に呼び入れて自らご覧になりました。
海辺で長年暮らすのがどんなものなのか聞くと、いろいろといつどうなるかもわからない生活の苦しさを語り出します。
よく聞き取れない方言で滔々と喋るのを聞いては、人の心というのはどこへ行っても同じなんだなとしみじみ思いました。
御衣などを与え、肩に被けてやり、「長年潜いて生きてきたカイがあったな」と、ふと思いました。
何頭もの馬を近くに並べて、遥か向こうに見える蔵のようなものから稲を取り出して食べさせている様子なども珍しそうに眺めてました。
三位中将が、
♪飛鳥井に宿を借りよう、影も良い、
水も冷たく馬草もよいな
と催馬楽の『飛鳥井』を少しばかり口ずさみ、ここ何ヶ月かのことを話しては泣いたり笑ったり、若君が世の中の変化など全く知らぬかのように過ごす悲しさを、先の左大臣が四六時中こぼしていることを聞かせると、源氏の君も耐え難く思っているようでした。
二人の会話は尽きることなく、到底全部ここでお聞かせすることはできません。
一晩中寝ず、朝まで漢詩を作ってました。
そうは言っても世間が何を言うか気になるので、急いで帰りました。
何とも不完全燃焼です。
盃を持ってきて、
♪酔いの悲しみに、
涙をそそぐ春の盃の内」
と白楽天の詩句を二人して口ずさみました。
お供の人たちもみんな涙を流します。
みんなそれぞれしばしの別れを惜しんでいるのでしょう。
朝ぼらけの空に雁が一列に飛んで行きます。
家の主人は、
「故郷にいつの春にか行きたいな
うらやましいのは帰る雁がね」
宰相もとても立ち去れる雰囲気ではなく、
「かりそめの楽園とても去りがたく
花の都も道に迷いそう」
持って来た都のお土産もそれなりのものでした。
家の主人はお返しにするほどのものもなくすまなそうに、黒い馬を持たせました。
「汚らわしいと思うかもしれないが、北風に吹かれた馬は故郷を思い出していななくとも言うので‥‥。」
と申し添えました。
なかなかそこいらにはいないような馬です。
「これを俺だと思って思い出してくれ。」
と言って、名高い名品の笛だけを贈りましたが、人から悪く勘ぐられそうなものはもちろん形見にはできません。
日がだんだん高くなり気持ちもせかされてきたので、こちらを振り返りながらも行ってしまうのを見送る様子は、どうにも未練たらたらのようです。
「またいつか逢える日もあるのだろうな。」
「まあ、こんな状況だからどうだか。」
との返事に家の主人は、
「雲の上を飛びかう鶴よ空を見ろ
私は春の曇りない身だ
いつか帰れるという期待は抱いていても、昔の偉い人でもひとたび都を追われて出て行ってしまうと、中央の政界に返り咲くことは難しかったので、いまさら都の景色をふたたび拝むなどとは思うべくもないがな。」
と言いました。
「雲上に手づるもなくて一人泣く
比翼の友のこと思っても
比翼の友なんて馴れ馴れしく言うのもお恥ずかしいことで、実際は何もできない自分を悔いてばかりなんだ。」
と何とかあまり湿っぽくならずに別れて帰って行った後、ますます悲しく塞ぎこんで日々を過ごすのでした。
*
三月の最初の巳の日のこと、
「運気の落ちている人は今日この日に禊をするといいっすよ。」
と知ったかぶりで言う人がいたのと、海も呼んでいるということで出かけました。
何とも大雑把にあたりを垂れ幕で囲い、この国に赴任していた陰陽師を呼んでお祓いをさせました。
船に仰々しい人形を乗せて流すのを見るにつけ、我が身のように思い、
「見も知らぬ大海原を流れ来て
人形とはいえ悲しいもんだ」
と座って歌う様子など、このような晴れの日には申し分のない眺めです。
海面は光りに溢れ波風もおだやかで、この先どこへ行くとも知れず、過去や未来をずっと思っては、
「やおよろずの神も哀れに思うはず
何一つ罪を犯してないので」
なんて言っていたら、急に風が吹き出して空も黒い雲に覆われました。
御祓いも中断して大騒ぎです。
「肘笠雨」とかいうにわか雨が降り出し、みんな大慌てになれば、帰ろうにも笠を被る暇もなく、これまでにない予想もしなかったような強風が吹き荒れました。
巨大な波が襲っては、人々の足が宙に浮かびます。
海面が衾を張ったような真っ白な光りに満たされたと思うと、雷鳴が轟きます。
いつ落ちてくるかと震えながら、どうにかこうにか家に戻り、
「こんな目にあったのは初めてっすよ。」
「こういう風が吹くときは、普通前兆とかがあるだろう。
こんなひどいのはいくらなんでもないよ。」
とすっかり取り乱すものの、それでも雷はそこかしこで鳴り続け、雨脚は屋根を突き破るかと思うほどバラバラと音を立てます。
「この世の終わりはこんなものか」と心細くなって途方に暮れていると、源氏の君は悠然とお経を唱えています。
日が暮れると雷は少し鳴り止んだものの、風は夜も吹き荒れました。
「あまり多くのことを願ったもんだから、そのせいっすよ。」
「もうちょっとあんな状態が続いてたら、波にさらわれて海にひきこまれていたところだったな。」
「高潮というものでしょうね。
急にやってきては多くの死者を出すと話には聞いてましたが、こんな何の前触れもなくというのは聞いたことがありません。」
暁の頃になって、みんなやっと寝入りました。
源氏の君もしばし眠りに落ちると、見たことのないような身なりの人が現れ、
「わが宮殿に招待したというのに何で来ないのだ。」
と言いながら何かを探し歩いているようなので、びっくりして、
「さては海底に住む竜王はたいそう美しいものが大好きで、この俺を引きずり込もうとしているな。」
と思うとどうにもうざくて、この家での暮らしにこれ以上我慢ができなくなりました。