「日の春を」の巻、解説

貞享三丙寅年正月

初表

 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉   其角

   砌に高き去年の桐の実    文鱗

 雪村が柳見にゆく棹さして    枳風

   酒の幌に入あひの月     コ斎

 秋の山手束の弓の鳥売ん     芳重

   炭竃こねて冬のこしらへ   杉風

 里々の麦ほのかなるむら緑    仙花

   我のる駒に雨おほひせよ   李下

 

初裏

 朝まだき三嶋を拝む道なれば   挙白

   念仏にくるふ僧いづくより  朱絃

 あさましく連歌の興をさます覧  蚊足

   敵よせ来るむら松の声    ちり

 有明の梨打烏帽子着たりける   芭蕉

   うき世の露を宴の見おさめ  筆

 にくまれし宿の木槿の散たびに  文鱗

   後住む女きぬたうちうち   其角

 山ふかみ乳をのむ猿の声悲し   コ斎

   命を甲斐の筏ともみよ    枳風

 法の土我剃リ髪を埋ミ置ん    杉風

   はづかしの記をとづる草の戸 芳重

 さく日より車かぞゆる花の陰   李下

   橋は小雨をもゆるかげろふ  仙花

 

 

ニ表

 残る雪のこる案山子のめづらしく 朱絃

   しづかに酔て蝶をとる歌   挙白

 殿守がねぶたがりつるあさぼらけ ちり

   はげたる眉をかくすきぬぎぬ 芭蕉

 罌子咲て情に見ゆる宿なれや   枳風

   はわけの風よ矢箆切に入   コ斎

 かかれとて下手のかけたる狐わな 其角

   あられ月夜のくもる傘    文鱗

 石の戸樋鞍馬の坊に音すみて   挙白

   われ三代の刀うつ鍛冶    李下

 永禄は金乏しく松の風      仙花

   近江の田植美濃に耻らん   朱絃

 とく起て聞勝にせん時鳥     芳重

   船に茶の湯の浦あはれ也   其角

 

二裏

 つくしまで人の娘をめしつれて  李下

   弥勒の堂におもひうちふし  枳風

 待かひの鐘は墜たる草の上    はせを

   友よぶ蟾の物うきの声    仙花

 雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり コ斎

   門は魚ほす磯ぎはの寺    挙白

 理不尽に物くふ武者等六七騎   芳重

   あら野の牧の御召撰ミに   其角

 鵙の一声夕日を月にあらためて  文鱗

   糺の飴屋秋さむきなり    李下

 電の木の間を花のこころせば   挙白

   つれなきひじり野に笈をとく 枳風

 人あまた年とる物をかつぎ行   揚水

   さかもりいさむ金山がはら  朱絃

 

 

三表

 此国の武仙を名ある絵にかかせ  其角

   京に汲する醒井の水     コ斎

 玉川やをのをの六ツの所みて   芭蕉

   江湖江湖に年よりにけり   仙花

 卯花の皆精にもよめるかな    芳重

   竹うごかせば雀かたよる   揚水

 南むく葛屋の畑の霜消て     不卜

   親と碁をうつ昼のつれづれ  文鱗

 餅作る奈良の広葉を打合セ    枳風

   贅に買るる秋の心は     はせを

 鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ  朱絃

   にくき男の鼾すむ月     不卜

 苫の雨袂七里をぬらす覧     李下

   生駒河内の冬の川づら    揚水

 

三裏

 水車米つく音はあらしにて    其角

   梅はさかりの院々を閉    千春

 二月の蓬莱人もすさめずや    コ斎

   姉待牛のおそき日の影    芳重

 胸あはぬ越の縮をおりかねて   芭蕉

   おもひあらはに菅の刈さし  枳風

 菱のはをしがらみふせてたかべ嶋 文鱗

   木魚きこゆる山陰にしも   李下

 囚をやがて休むる朝月夜     コ斎

   萩さし出す長がつれあひ   不卜

 問し時露と禿に名を付て     千春

   心なからん世は蝉のから   朱絃

 三度ふむよし野の桜芳野山    仙化

   あるじは春か草の崩れ屋   李下

 

 

名表

 傾城を忘れぬきのふけふことし  文鱗

   経よみ習ふ声のうつくし   芳重

 竹深き笋折に駕籠かりて     挙白

   梅まだ苦キ匂ひなりけり   コ斎

 村雨に石の灯ふき消ぬ      峡水

   鮑とる夜の沖も静に     仙化

 伊勢を乗ル月に朝日の有がたき  不卜

   欅よりきて橋造る秋     李下

 信長の治れる代や聞ゆらん    揚水

   居士とよばるるから国の児  文鱗

 紅に牡丹十里の香を分て     千春

   雲すむ谷に出る湯をきく   峡水

 岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨    其角

   笑へや三井の若法師ども   コ斎

 

名裏

 逢ぬ恋よしなきやつに返歌して  仙化

   管弦をさます宵は泣るる   芳重

 足引の廬山に泊るさびしさよ   揚水

   千声となふる観音の御名   其角

 舟いくつ涼みながらの川伝い   枳風

   をなごにまじる松の白鷺   峡水

 寝筵の七府に契る花匂へ     不卜

   連衆くははる春ぞ久しき   挙白

      参考;『校本芭蕉全集』第三巻(小宮豐隆監修、1963、角川書店)

初表

発句

 

 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉   其角

 

 この百韻の前半五十句目までは芭蕉自身による『初懐紙評注』という評語が残っている。いわゆる蕉風確立期、古池の句が発表された頃の評風を知るうえで貴重な資料だ。

 その発句だが、『初懐紙評注』には、

 

 「元朝の日花やかにさし出て、長閑に幽玄なる気色を、鶴の歩にかけて云つらね侍る。祝言外に顕る。流石にといふ手には感多し。」

 

とある。

 「日の春」は「春の日」だが、ここでは春の初日のこと。元日の太陽がゆっくりと昇ってゆくさまを鶴の歩みに喩え、そこに長閑でいて厳かな、身の引き締まった気分にさせてくれる。

 日の春を鶴の歩みに喩えるだけなら連歌だが、そこに「さすがに」のひとことを加えることで、卑俗で日々喧騒の中に暮らす庶民である我々も「さすがに」鶴の歩みになる、ということで、鶴の歩みは元日の太陽だけでなく、人もまたゆったりとした気分になり鶴の歩みになるというのが言外に示されている。

 

季語は「春」で春、天象。「鶴」は鳥類。

 

 

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉

 砌に高き去年の桐の実      文鱗

 (日の春をさすがに鶴の歩ミ哉砌に高き去年の桐の実)

 

 文鱗は堺の人で芭蕉に釈迦像を贈ったという。貞享元年に、

 

   文鱗生、出山の御像を送りけるを安置して

 南無ほとけ草の台も涼しけれ   芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 『初懐紙評注』には、

 

 「貞徳老人の云。脇体四道ありと立られ侍れども、当時は古く成て、景気を言添たる宜とす。梧桐遠く立てしかもこがらしままにして、枯たる実の梢に残りたる気色、詞こまやかに桐の実といふは桐の木といはんも同じ事ながら、元朝に木末は冬めきて木枯の其ままなれども、ほのかに霞、朝日にほひ出て、うるはしく見え侍る体なるべし。但桐の実見付たる、新敷俳諧の本意かかる所に侍る。」

 

とある。

 松永貞徳の脇体四道はよくわからない。戦国時代の連歌師紹巴の『連歌教訓』には、

 

 「一、脇に於て五つの様あり、一には相対付、二には打添付、三には違付、四には心付、五には比留り也、(此等口伝、好士に尋らるべし)、大方打添て脇の句はなすべき也、

  年ひらけ梅はつぼめるかたえかな

   雪こそ花とかすむはるの日

  梅の薗に草木をなせる匂ひかな

   庭白妙のゆきのはる風

  ちらじ夢柳に青し秋のかぜ

   木の下草のはなをまつころ

 か様に打添て脇をする事本意成べし、脇の手本成べし、」

 (『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.263~264)

 

とある。

 打添は発句の趣向の寄り添うような付け方で、「年ひらけ」に「春の日」、「梅はつぼめる」に「雪こそ花」と付ける。二番目の例も「梅の薗」に「庭白妙」、「なせる匂ひ」に「春風」と打ち添える。三番目の例も「ちらじ夢」に「はなをまつころ」と打ち添える。

 土芳の『三冊子』には、

 

 「對付、違付、うち添、比留の類、むかしより云置所也。師云、第一ほ句をうけてつりあひ専に、うち添て付るよし。句中に作を好む事あるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.95~96)

 

とある。四の心付を欠いているが、打添の一種としたのだろう。

 貞門時代の芭蕉も参加した寛文五年の貞徳翁十三回忌追善俳諧の脇は、

 

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉

 鷹の餌ごひと音おばなき跡    季吟

 

で、これも「かるれどかれぬ紫苑(師恩)」に「音をばなき(亡き)跡」というふうに打ち添えている。

 延宝四年の芭蕉の発句に対する信章の脇も、

 

   此梅に牛も初音と鳴つべし

 ましてや蛙人間の作       信章

 

というふうに、「牛も初音」に「ましてや‥」と打ち添える。

 文鱗の脇に戻ってみると、

 

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉

 砌に高き去年の桐の実      文鱗

 

 初春の句に初春の情景として去年からなっている桐の実を付けているのがわかる。「桐の木」と言わずに「桐の実」というところで桐の実だけが残って葉の落ちた木を、子規流に言えばマイナーイメージで描いている。

 残った桐の実に新しい年の光が差して輝く様を「高き」という言葉を添えることで際立たせる。

 こういう脇の付け方を、「新敷俳諧の本意かかる所に侍る」と芭蕉は考えていた。

 この景気で受ける脇の付け方も基本的には打ち添えの中に含まれるのであろう。

 和及(貞門系)の元禄二年刊の『俳諧番匠童』にもこうある。

 

 「一 脇 古流は連歌のごとく、体さまざま習有れども、今は大概発句景気なれば、又景気にてあしらひてよし。」(『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71、岩波書店p.501)

 

季語は「去年」で春。「桐」は植物、木類。

 

第三

 

   砌に高き去年の桐の実

 雪村が柳見にゆく棹さして    枳風

 (雪村が柳見にゆく棹さして砌に高き去年の桐の実)

 

 枳風(きふう)は江戸の人で、これより後のことになるが、元禄五年、『奥の細道』の旅の後しばらく近江など関西で過ごした芭蕉が再び江戸に来た時、杉風と枳風が出資して第三次芭蕉庵を建てたという。

 『初懐紙評注』には、

 

 「第三の体、長高く風流に句を作り侍る。発句の景と少し替りめあり。柳見に行くとあれば、未景不対也。雪村は画の名筆也。柳を書べき時節、その柳を見て書んと自舟に棹さして出たる狂者の体、珍重也。桐の木立詠やう奇特に侍る。付やう大切也。」

 

とある。「長高く」は今の言葉ではうまく表現しにくいが、力強くと格調高くを合わせた感じか。「居丈高」という言葉に「たけたか」は生き残っているが、もとは背が高いことからきている。それが高い所から物を言うという意味になった。

 紹巴の『連歌教訓』には、

 

 「第三は、脇の句に能付候よりも長高きを本とせり、句柄賤しきは第三の本意なるべからず、」(『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.264)

 

とある。

 発句が新年の句だったのに対し、柳は仲春から晩春の景になる。「未景不対也」というのは、秋から残っている桐の実に春の柳を対比させる「相対付け」とするには、まだ「見にゆく」段階で柳そのものを出していないので成り立たない。

 雪村は室町後期から戦国時代にかけての絵師で、雪舟をリスペクトしていたが、雪舟の亡くなった頃に生まれているため、直接的なつながりはない。尾形光琳に影響を与えたが、尾形光琳が活躍するのはもう少し後のこと。

 雪村が自ら舟を漕いで柳を見に行くというあたりに風狂が感じられる。「砌(みぎり)」は発句に対しては「その時まさに」という意味で用いられていたが、ここでは「水際」の意味になり、そこから「棹さして」を導き出している。

 

季語は「柳」で春、植物、木類。「棹さして」は水辺。

 

四句目

 

   雪村が柳見にゆく棹さして

 酒の幌に入あひの月     コ斎

 (雪村が柳見にゆく棹さして酒の幌に入あひの月)

 

 コ斎はよくわからないが、其角の弟子のようだ。この頃の興行にはよく登場する。

 『初懐紙評注』には、

 

 「四句目なれば軽し。其道の様体、酒屋といつもの能出し侍る。幌は暖簾など言ん為也。尤夕の景色有べし。」

 

とある。

 四句目は軽く遣り句するのを良しとする。これは発句から第三までを引き立たせるためと、前半で句を滞らせないためと、いろいろ理由がある。

 前句の風狂の体から酒を導き出し、酒屋の暖簾を「酒の幌(とばり)」と言い表す。雪村が酒の酔いに任せて夕暮れの月に舟を出して柳を見に行ったとする。

 

季語は「月」は秋で秋、夜分、天象。

 

五句目

 

   酒の幌に入あひの月

 秋の山手束の弓の鳥売ん     芳重

 (秋の山手束の弓の鳥売ん酒の幌に入あひの月)

 

 月が出たところで季節は秋になる。芳重がどういう人かはよくわからない。

 『初懐紙評注』には、

 

 「狩の鳥を得て市に持出て売体さも有べし酒屋に便りたる珍重の付様也。手束の弓は短き弓也。」

 

とある。

 「手束(たつか)の弓」はコトバンクのデジタル大辞泉の解説によれば、

 

 「手に握り持つ弓。たつかの弓。

 「―手に取り持ちて朝狩(あさがり)に君は立たしぬ棚倉(たなくら)の野に」〈万・四二五七〉

 

とある。軍(いくさ)に用いる馬上で射るための長い弓ではなく、手に持って携帯でき、物陰に隠れて獲物を狙えるような短い弓と思われる。

 猟師が射た鳥を酒屋に酒の肴にと売りに来る。

 

季語は「秋」で秋。「山」は山類。「鳥」は鳥類。

 

六句目

 

   秋の山手束の弓の鳥売ん

 炭竃こねて冬のこしらへ   杉風

 (秋の山手束の弓の鳥売ん炭竃こねて冬のこしらへ)

 

 杉風は言わずと知れた人で、知らない人はぐぐってみよう。

 『初懐紙評注』には、

 

 「前句ともに山家の体に見なして付侍る。猟師は鳥を狩、山賤は炭竃を拵て冬を待体、別条なき句といへども炭竃の句作、終に人のせぬ所を見付たる新敷句也。」

 

とある。

 山奥では猟師は鳥を売りに行き、山賤は木炭を作って冬に備えるとなる。「炭竃」を出すあたりに、当時の芭蕉は新味を感じていた。

 

季語は「冬のこしらへ」で秋。

 

七句目

 

   炭竃こねて冬のこしらへ

 里々の麦ほのかなるむら緑    仙化

 (里々の麦ほのかなるむら緑炭竃こねて冬のこしらへ)

 

 仙化はちょうどこの頃芭蕉の古池の句を句合わせの形で発表する『蛙合』の編纂をしてたのではないかと思う。その第一番では、

 

  「左

 古池や蛙飛こむ水のおと     芭蕉

   右

 いたいけに蝦つくばふ浮葉哉   仙化

 

 此ふたかはづを何となく設たるに、四となり六と成て一巻にみちぬ。かみにたち下におくの品、をのをのあらそふ事なかるべし。」

 

と編者である仙化自身の句を芭蕉の古池の句と並べている。

 さて七句目の方だが、『初懐紙評注』には、

 

 「付やう別条なし。炭竃の句を初冬の末霜月頃抔の体に請て、冬畑の有様能言述侍る。その場也。」

 

とある。前句の炭竃に神無月の末から霜月にかけての景色を付けている。特に変わった趣向はないが、「麦ほのかなるむら緑」は冬の畑の様子をよく言い表している、というのが芭蕉の評価のようだ。

 

季語は「麦ほのか」で冬、植物、草類。「里々」は居所。

 

八句目

 

   里々の麦ほのかなるむら緑

 我のる駒に雨おほひせよ   李下

 (里々の麦ほのかなるむら緑我のる駒に雨おほひせよ)

 

 李下といえば天和元年の春、当時まだ桃青と名乗っていた芭蕉が深川に隠棲するというので、その新たな住居の庭に芭蕉を植えたことで知られている。ここから深川の新たな住居は「芭蕉庵」と呼ばれ、桃青もまた「芭蕉庵桃青」と名乗るようになった。ここに今日一般に知られている「芭蕉さん」の呼び名が誕生することになった。

 さてこの句は『初懐紙評注』には、

 

 「是等奇意也。何を付たるともなく、何を詠めたるともなし。里々の麦と言より旅体を言出し、むら緑などうるはしきより雨を催し侍る景色、弁口筆頭に不掛。」

 

と評されている。

 付き物に寄せて付けるのではなく、里々の景色に旅体、むら緑にそれを際立たせる雨を付け、馬に雨覆いをせよとしている。

 

無季。「我」は人倫。「駒」は獣類。

初裏

九句目

 

   我のる駒に雨おほひせよ

 朝まだき三嶋を拝む道なれば   挙白

 (朝まだき三嶋を拝む道なれば我のる駒に雨おほひせよ)

 

 挙白は『奥の細道』の旅立ちの際、芭蕉に餞別として、

 

 武隈の松みせ申せ遅桜      挙白

 

の句を贈っている。芭蕉は実際に武隈の松の所に辿り着いた時、

 

 桜より松は二木を三月越し     芭蕉

 

の句を詠む。

 さて、九句目の方は、『初懐紙評注』には、

 

 「是さしたる事なくて、作者の心に深く思ひこめたる成べし。尤旅体也。箱根前にせまりて雨を侘たる心。深切に侍る。」

 

とある。

 小田原を朝未明に出て、箱根八里を越えて三島に至る道なれば、雨は困ったものだ。箱根を越えたことのある人なら痛切に感じる所だろう。

 

無季。神祇。

 

十句目

 

   朝まだき三嶋を拝む道なれば

 念仏にくるふ僧いづくより  朱絃

 (朝まだき三嶋を拝む道なれば念仏にくるふ僧いづくより)

 

 朱絃についてはよくわからない。『蛙合』では、

 

 僧いづく入相のかはづ亦淋し   朱絃

 

の句を詠んでいる。

 『初懐紙評注』には、

 

 「此句、僅に興をあらはしたる迄也。神社には仏者を忌む物也。参詣の僧も神前には狂僧也。三嶋は町中に有社なれば、道通りの僧もよるべきか。」

 

とある。神社に似つかわしくない僧を登場させ、狂僧としている。

 舞台も三嶋に転じている。東海道は三嶋大社の前を通る。

 

無季。釈教。

 

十一句目

 

   念仏にくるふ僧いづくより

 あさましく連歌の興をさます覧  蚊足

 (あさましく連歌の興をさます覧念仏にくるふ僧いづくより)

 

 蚊足は京の談林系で江戸に移住し蕉門になったという。

 『初懐紙評注』には、

 

 「連歌の興をさます、付やう珍し。度々我人の上にもある事にて、一入珍重に侍る。」

 

とある。一心不乱に念仏を唱える声が聞こえてきて、連歌が一時中断されたりするのは、「度々我人の上にもある事にて」とあるように俳諧興行でもしばしば起こることで、俳諧興行あるあると言ってもいいのだろう。

 連歌も俳諧もお寺で興行することが多い。

 

無季。

 

十二句目

 

   あさましく連歌の興をさます覧

 敵よせ来るむら松の声    ちり

 (あさましく連歌の興をさます覧敵よせ来るむら松の声)

 

 ちりは千里とも書き、芭蕉の『野ざらし紀行』の旅に同行している。そこでは

 

 「何某ちりと云いけるは、このたびみちのたすけとなりて、万いたはり心を尽くし侍る。常に莫逆の交はり深く、朋友信有哉(ほうゆうしんある)かなこの人。

 

 深川や芭蕉を富士に預ゆく    ちり」

 

と紹介している。

 旅の途中、大和国竹内のちりの実家にも泊り、

 

 わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく 芭蕉

 

の句も詠んでいる。

 句の方は『初懐紙評注』には、

 

 「聞えたる通別意なし。連歌に軍場を思ひ寄せたるなり。」

 

とある。連歌は和歌同様「力を入れずして天地を動かす」道で、基本は平和主義だ。敵の軍勢が攻めてくる音が聞こえれば、それこそ連歌どころではない。

 ただ、戦国時代には紹巴のような大名にもてはやされた有名連歌師がいたし、戦国大名の中にも連歌を好むものはいくらもいた。明智光秀の備前・備中への出陣の際の戦勝祈願の天正十年愛宕百韻は特に有名で、

 

 ときは今天が下しる五月哉  光秀

 

を発句とし、紹巴が、

 

   水上まさる庭の夏山

 花落つる池の流れをせきとめて       紹巴

 

という第三を詠んでいる。

 

無季。「敵」は人倫。「むら松」は植物、木類。

 

十三句目

 

   敵よせ来るむら松の声

 有明の梨子打ゑぼし着たりける   芭蕉

 (有明の梨子打ゑぼし着たりける敵よせ来るむら松の声)

 

 さてようやく芭蕉さんの登場になる。敵が来るなんてあまり風雅でない前句にどう対処したか、自身の解説(初懐紙評注)を見てみよう。

 

 「付様別条なし。前句軍の噂にして、又一句さらに云立たり。軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる付やう軽くてよし。一句の姿、道具、眼を付て見るべし。」

 

 付け方としては特に変わったものではない。前句が軍(いくさ)だから、梨子打ゑぼしを登場させたという。

 ネットで梨打烏帽子を調べると、「中世歩兵研究所 戦のフォークロア」というサイトがあり、「萎烏帽子」というページにこうあった。

 

 「烏帽子の中でもっとも原初的で、もっともありふれた物が「萎烏帽子【なええぼし】」(もしくは「揉烏帽子【もみえぼし】」「梨打烏帽子【なしうちえぼし】」)である。

 烏帽子が平安後期から漆で塗り固められ、素材も紙などに変わって硬化していく中で、「萎烏帽子」は薄物の布帛を用いた柔らかいままの姿をとどめ、公家が「立烏帽子」、武家が「侍烏帽子」を着用する中で、「萎烏帽子」は広く一般の成人男子に、また戦陣における武家装束としても着用された。」

 

 これを読めば「軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる」の意味がわかる。

 「あしらう」というと今では「適当にあしらう」なんて慣用句があるが、和食では食材の組み合わせで彩を添えることをいい、連歌では付き物によって付けることをいう。

 特に本説などによる深い意味を持たせず、ここでは軽くあしらわれている。「軽い」というのは出典の持つ深い意味を引きずらずに、出典を知らなくても意味が通るように付けることをいう。

 芭蕉の「軽み」の風はこれよりまだ数年先のことだが、それ以前の蕉風確立期でも、付け句に関しては展開を楽にするために軽いあしらいを推奨していた。「一句の姿、道具、眼を付て見るべし」とは、これが付け句の手本だと言っているようなものだ。

 

季語は「有明」で秋、夜分、天象。「梨子打ゑぼし」は衣装。

 

十四句目

 

   有明の梨子打ゑぼし着たりける

 うき世の露を宴の見おさめ  筆

 (有明の梨子打ゑぼし着たりけるうき世の露を宴の見おさめ)

 

 筆は主筆(あるいは執筆)のことで、興行の際の審判兼記録係だが、慣例として一巻に一句詠むことが多い。挙句の場合が多いが、ここでは連衆が一巡した所で詠んでいる。

 『初懐紙評注』には、

 

 「前句を禁中にして付たる也。ゑぼしを着るといふにて、却て世を捨てるといふ心を儲たり。観相なり。」

 

とある。

 前句の梨子打ゑぼしを宮中の公式行事の際の烏帽子ではなく、退出する際の普段着の烏帽子としたか。

 江戸時代ではみんなちょん髷頭を晒しているが、中世まではちょん髷頭をさらすのは裸になるよりも恥とした。職人歌合の博徒のイラストには素っ裸のすってんてんになった博徒の頭に烏帽子だけが描かれている。

 禁裏を退出して出家するにも、髪を剃るまでは烏帽子をかぶっている。「うき世の露を宴の見おさめ」と出家をほのめかす言葉に「梨子打ゑぼし着たりける」とすることで、烏帽子を着るという行為が却って出家の心となる。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

十五句目

 

   うき世の露を宴の見おさめ

 にくまれし宿の木槿の散たびに  文鱗

 (にくまれし宿の木槿の散たびにうき世の露を宴の見おさめ)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「宴は只酒もりといふ心なれば、世のあぢきなきより、恋の句をおもひ儲たり。木槿のはかなくしほるるごとく、我が身のおもひしほるといふより、にくまれしと五文字置なり。恋の句作尤感情あり。」

 

とある。出家の情から恋に転じる。

 女の所を訪ねてみたけども速攻ふられてしまい、ちょうど槿の花が一日にして散るように、我が恋も一夜にして散った。一夜の浮かれた心も露のように儚く消え、この宿も見納めとなる。

 

季語は「木槿」で秋、植物、木類。「宿」は居所。

 

十六句目

 

   にくまれし宿の木槿の散たびに

 後住む女きぬたうちうち   其角

 (にくまれし宿の木槿の散たびに後住む女きぬたうちうち)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「後住女は後添の妻といはん為也。にくまれしといふにて後添えの物と和せざる味を籠めたり。砧打々と重たるにて、千万の物思ひするやうに聞え侍る。愁思ある心にて、前句をのせたる也。翫味浅からず。」

 

とある。

 「後住む女」は後妻のことで、夫に嫌われて毎日毎日槿の花が咲いては散ってゆくように、砧を打って儚い期待を胸に秘めながら夫の帰りを待つ。

 まあ、其角の句も芭蕉の評も、ちょっと男の女はかくあるべしという期待が入っているかなという感じはするが。

 

季語は「きぬた」で秋。「女」は人倫。

 

十七句目

 

   後住む女きぬたうちうち

 山ふかみ乳をのむ猿の声悲し   コ斎

 (山ふかみ乳をのむ猿の声悲し後住む女きぬたうちうち)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「砧は里水辺浜浦等に多くよみ侍る。尤姥捨更科吉野など山類にも読侍れば、砧を山類にてあしらひたる也。乳を呑猿と云にて、女といふ字をあしらひたる也。幽かなる意味、しかもよく通じたり。」

 

とある。

 砧の句の恋の情から逃げるには、その舞台となる場所を付けるというのが常套手段なのだろう。ここでは山類を付ける。

 砧打つ女に「乳をのむ猿」をあしらうことで、この女にも子供がいることをほのめかす。

 猿の声は本来中国の長江以南の地にかつて広く生息していたテナガザルのロングコールのことで、哀愁を帯びたその声を聞くと断腸の思いになるという。ただ、ここにいる連衆の人たちは漢籍を通じて知識として知っているだけで、本物は聞いたことがなかったにちがいない。

 所詮は頭の中だけの猿の声だから、その猿が「乳をのむ猿」だという空想を容易に膨らますことができる。ただ、こうした漢籍に依存した知識の中だけの趣向は、やがて芭蕉が「軽み」の体に向うと敬遠され、もっとリアルな日常の趣向を重視するようになる。

 元禄五年、其角が、

 

 声枯れて猿の歯白し峯の月   其角

 

の句を詠んだ時には、芭蕉は空想の猿ではなく、同じ情をもっと日乗卑近なもので言い換えようと試みる。それが、

 

 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店   芭蕉

 

だった。

 

無季。「山ふかみ」は山類。「猿」は獣類。

 

十八句目

 

   山ふかみ乳をのむ猿の声悲し

 命を甲斐の筏ともみよ    枳風

 (山ふかみ乳をのむ猿の声悲し命を甲斐の筏ともみよ)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「猿の声悲しきより、山川のはげしく冷敷体形容したる付やう。尤山類をあしらひたる也。」

 

 中国の六朝時代の無名詩に、

 

 巴東山峡巫峡長  猿鳴三声涙沾裳

 

 巴東の山峡の巫峡は長く、

 猿のたびたび鳴く声に涙は裳裾を濡らす。

 

という詩がある。今では三峡ダムという巨大なダムのある巴東山峡だが、それを日本に移せば甲斐の国の筏ということか。

 『江湖集鈔(こうこしゅうしょう)』には、「霊隠でさびしき猿声を聞きぬ鐘声を聞たことは忘れまじきそ。猿声や鐘声は無心の説法に譬るそ。無心の説法を聞て省悟したことは忘れまじきそとなり。」とあり、猿の声に悟りを開いた広聞和尚のことを思い起こし、猿の声の悲しさに人の命を甲斐の筏のように頼りなく儚いものだと思い知れ、ということか。

 

無季。「筏」は水辺。

 

 

十九句目

 

   命を甲斐の筏ともみよ

 法の土我剃リ髪を埋ミ置ん    杉風

 (法の土我剃リ髪を埋ミ置ん命を甲斐の筏ともみよ)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「筏のあやうく物冷じきを見て、身の無常を観じたる也。甲斐と云は、古人仏者の古跡等多く、自然に無常も思ひよりたれば也。剃髪埋み置作為、新敷哀をこめ侍る。」

 

とある。

 前句の川の流れの無常に出家僧を付ける。それだけでは展開に乏しいが、剃った髪を埋めるというところに芭蕉は新味を見ている。

 

無季。釈教。

 

二十句目

 

   法の土我剃リ髪を埋ミ置ん

 はづかしの記をとづる草の戸 芳重

 (法の土我剃リ髪を埋ミ置んはづかしの記をとづる草の戸)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「別意なし。草庵隠者の体也。さもあるべき風流なり。」

 

とある。

 剃った髪を埋めて草庵で生活する隠遁者のあるある(さもあるべき)といっていいだろう。まあ、鴨長明か兼好法師を気取ってちょっと文章を書いてみたりするが、なんか恥ずかしくなって人が来るとあわててしまったり、ありそうなことだ。

 

無季。「草の戸」は居所。

 

二十一句目

 

   はづかしの記をとづる草の戸

 さく日より車かぞゆる花の陰   李下

 (さく日より車かぞゆる花の陰はづかしの記をとづる草の戸)

 

 作者を杉風とする本もある。

 『初懐紙評注』には、

 

 「前句、隠者の体を断たる也。尤官禄を辞して、かくれ住人のいかめしき花見車を日々にかぞへて居る体也。只句毎に句作のやわらかにめづらしきに目を留むべし。」

 

とある。かなり褒めているので後の人が杉風の方がふさわしいとして変えてしまったか。

 車を使うのは平安時代の貴族で、当時の官道は道幅も広く簡易舗装がされていた。官を辞して田舎に籠れるも、花の季節となると都から花見の車がやって来る。今日は何台来たかなんてことも「はづかしの記」には記されているのだろうか。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

二十二句目

 

   さく日より車かぞゆる花の陰

 橋は小雨をもゆるかげろふ  仙花

 (さく日より車かぞゆる花の陰橋は小雨をもゆるかげろふ)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「春の景気也。季の遣ひ様、かろくやすらか成所を見るべし。花の閉目杯は、易々と軽く付るもの也。」

 

とある。花の定座の後は、それを引き立たせるためにも、軽く景色を付けて流すのがいい。

 花の定座は各懐紙の後ろから二番目で、懐紙を山折にして綴じた時には、定座の後の句が綴じ目に来る。

 陽炎というと今では夏の炎天下のめらめらを思い浮かべがちだが、かつてはおそらく野焼きの煙で、炎が燃え上がらずにくすぶった上に生じる陽炎を本意としていたのではないかと思われる。だから小雨に陽炎もありだったのだと思う。ここで初の懐紙が終わる。

 

季語は「かげろふ」で春。「橋」は水辺。「小雨」は降物。

二表

二十三句目

 

   橋は小雨をもゆるかげろふ

 残る雪のこる案山子のめづらしく 朱絃

 (残る雪のこる案山子のめづらしく橋は小雨をもゆるかげろふ)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「是又春の気色也。付やうさせる事なし。野辺田畑のあたり、残雪にやぶれたる案山子立たる姿哀也。景気を見付たる也。秋のもの冬こめて春迄残たるに、薄雪のかかりたる体、尤感情なるべし。」

 

とある。

 これも軽く景色であしらった句で、春のまだ残る雪も珍しければ秋の案山子がまだ残っているのはさらに珍しい、とした。

 

季語は「残る雪」で春。

 

二十四句目

 

   残る雪のこる案山子のめづらしく

 しづかに酔て蝶をとる歌   挙白

 (残る雪のこる案山子のめづらしくしづかに酔て蝶をとる歌)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「句作の工なるを興じて出せる句也。蝶をとるとる歌て酔に興じたる体、誠に面白し。」

 

とある。

 「蝶をとるとる」という歌がこの頃はあったのだろうか。よくわからない。酔っ払って歌うのだから子供が蝶を採るのとは違うだろう。

 

季語は「蝶」で春、虫類。

 

二十五句目

 

   しづかに酔て蝶をとる歌

 殿守がねぶたがりつるあさぼらけ ちり

 (殿守がねぶたがりつるあさぼらけしづかに酔て蝶をとる歌)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「此句、附所少シ骨を折たる句也。前句に蝶を現在にしたる句にあらず。蝶をとるとる歌といふを、諷物にして付たる也。殿守は禁中の下官の者也。蝶取歌と云ふ風流より、禁裏に思ひなして、夜すがら夜明し興ありて、殿守等があけて、猶ねぶたげに見ゆる体也。」

 

とある。「殿守」はweblio辞書の「三省堂大辞林」の「とのもりづかさ」の項に、

 

 「(「主殿署」と書く)律令制で、春宮とうぐう坊に置かれた役所。東宮の湯浴み・灯火・掃除などのことをつかさどった。とのもりつかさ。みこのみやのとのもりつかさ。しゅでんしょ。」

 

とある。皇太子のお世話をする雑用係だろうか。

 蝶を見て「蝶をとるとる」と歌ったのではなく、あくまで宮廷での風流の余興で、夜を徹した遊んだ朝、殿守は眠くてしょうがないといったところか。

 

無季。「殿守」は人倫。

 

二十六句目

 

   殿守がねぶたがりつるあさぼらけ

 はげたる眉をかくすきぬぎぬ 芭蕉

 (殿守がねぶたがりつるあさぼらけはげたる眉をかくすきぬぎぬ)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「朝ぼらけといふより、きぬぎぬ常の事なり。はげたる眉といふは寝過して、しどけなき体也。伊勢物語に夙に殿守づかさの見るになどいへるも、此句の余情ならん。」

 

とある。

 「朝ぼらけ」といえば後朝ということで、激しい夜を過ごした後はきっと書いた眉などハゲているだろうなと付ける。こういう目の付け所はさすが芭蕉さんだ。

 『伊勢物語』六十五段に、「つとめてとのもづかさの見るに、沓はとりて、奥に投げ入れてのぼりぬ。」とある。在原業平が大御息所の従妹に入れあげて、宮中に帰るときに靴を奥に投げ入れて外出してなかったように見せかけているのを殿守司に見られてしまい、そのうちこの事が評判になって帝の耳に入り流罪となる。

 『伊勢物語』のこの場面を知らなくても意味は通るから、本説ではなく俤と言ってもいいだろう。このころはまだ俤付けという言葉はなく、余情と言っている。

 

無季。恋。

 

二十七句目

 

   はげたる眉をかくすきぬぎぬ

 罌子咲て情に見ゆる宿なれや   枳風

 (罌子咲て情に見ゆる宿なれやはげたる眉をかくすきぬぎぬ)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「はげたる眉といへば老長がる人のおとろへて、賤の屋杯にひそかに住る体也。罌子は哀なるものにて、上ツ方の庭には稀也。爰に取出して句を飾侍る。是等の句にて植物草花のあしらひ、所々に分別有べきなり。」

 

とある。

 「罌子(けし)」は一日花で儚いが、朝顔や槿と違い秋の淋しさを伴わない。また、田舎に詠むことが多い。

 前句の眉のハゲを書いた眉のハゲではなく、年取って白髪になり抜けていった眉として、芥子畑のある片田舎に隠居する老人に取り成している。

 

季語は「罌子」で夏、植物、草類。「宿」は居所。

 

二十八句目

 

   罌子咲て情に見ゆる宿なれや

 はわけの風よ矢箆切に入   コ斎

 (罌子咲て情に見ゆる宿なれやはわけの風よ矢箆切に入)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「矢箆切といふ言葉先新し。前句民家にして武士の若者共、與風珍敷物かげなど見付たる体也。大形は物語などの体をやつしたる句也。或は中将なる人の鷹すへて小野に入、うき舟を見付たるなどのためし成ん。されども其故事をいふにはあらず。其余情のこもり侍るを意味と申べきか。」

 

 「矢箆切(やのきり)」は矢の棒の部分である矢箆(やの)を切ることをいう。矢箆(やの)は矢柄(やがら)、矢箆竹(やのちく)ともいう。

 矢箆切のために山に入ってゆくと風が木の葉を分けるように吹いて、そこからケシの花の咲く宿が一瞬目に入る。

 芭蕉は『源氏物語』の「手習」の俤としている。「されども其故事をいふにはあらず。其余情のこもり侍るを意味と申べきか。」というのは、まだこの頃は「本説」に対しての「俤」という言葉を見つけてなかったからだろう。

 

無季。

 

二十九句目

 

   はわけの風よ矢箆切に入

 かかれとて下手のかけたる狐わな 其角

 (かかれとて下手のかけたる狐わなはわけの風よ矢箆切に入)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「藪かげの有様ありありと見え侍る。しかも句作風情をぬきて、只ありのままに云捨たる句続き心を付べし。」

 

とある。

 下手に掛けた罠だから、葉分けの風が吹くと丸見えになってしまう。これだけでネタとして面白いので、余計な風情で飾ったりせずそのまま詠んでいる。このあたりの笑いの壺は其角はよく心得ている。

 

無季。

 

三十句目

 

   かかれとて下手のかけたる狐わな

 あられ月夜のくもる傘    文鱗

 (かかれとて下手のかけたる狐わなあられ月夜のくもる傘)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「冬の夜の寒さ深き体云のべ侍る。傘に霰ふる音いと興あり。然も月さへざへと見ゆる尤面白し。狐わなといふに、細に付侍るはわろし。」

 

 ここでは狐罠を単なる冬の景色の一場面として、あられ月夜の景を付ける。

 ここでいうい霰は氷霰で5ミリを越える大きなものは雹という。積乱雲が発生した時に降るので、夕立の空の片側が晴れていたりするように、霰雲も空全体を覆わずに月が照ってたりする。

 氷霰だから唐傘に当たるとバラバラと音がする。これを「くもる傘」と言い表している。

 月の光が射しているから下手な狐罠がはっきりと見える。その意味では「狐罠」と「あられ月夜」は付いている。隠れてない罠と隠れてない月という「隠れてない」つながりという意味では後の「響き付け」に近いが、この場合は原因結果の関係もあるので心付けといったほうがいいだろう。

 

季語は「あられ」で冬、降物。「月夜」は夜分、天象。

 

三十一句目

 

   あられ月夜のくもる傘

 石の戸樋鞍馬の坊に音すみて   挙白

 (石の戸樋鞍馬の坊に音すみてあられ月夜のくもる傘)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「霰は雪霜といふより、少し寒風冷じく聞ゆる物なるによりて、鞍馬と云所を思ひよせたり。昔は名所の出し様、碪に須磨の浦十市の里吉野の里玉川など付て、證歌に便て付る。霰は那須の篠原、雪に不二、月に更科と付侍るを、当時は句の形容によりて名所を思ひよする。尤心得ある事也。」

 

とある。

 「石の戸樋」は軒先などの雨樋ではなく、湧き水を引いてきて修行用の滝にしたり手水にしたりするための石を組んで作られた水路のことだろう。今日でも魔王の滝に石樋が見られる。「音すみて」は水の流れる音の澄んでいるということだろう。

 貞門や初期の談林俳諧では、雅語の用法として正しいかどうかを證歌をとって確認する作業があったため、名所を出すときでもその名所にふさわしいかどうかでいちいち證歌を引かなくてはならなかったのだろう。

 蕉門では基本的に俗語の俳諧なので、雅語としての用法を確認する必要はない。霰月夜から寒い所というだけの理由で鞍馬を出しても差し支えない。

 鞍馬は和歌では雲珠桜、郭公を詠むことが多く、月を詠んだ歌も、

 

 すみなるる都の月のさやけきに

     なにか鞍馬の山は恋しき

            齋院中将(後拾遺集)

 鞍馬山秋の月夜にみればあかし

     峰に紅葉やいとど照るらむ

            曽禰好忠(夫木抄)

 

などがある。

 

無季。「鞍馬」は名所。「坊」は居所。

 

三十二句目

 

   石の戸樋鞍馬の坊に音すみて

 われ三代の刀うつ鍛冶    李下

 (石の戸樋鞍馬の坊に音すみてわれ三代の刀うつ鍛冶)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「此句詠様奇特也。鞍馬尤人々の云伝て、僧正が谷抔打ものに便る事也。石の戸樋などいふに鍛冶、近頃遠く思ひ寄たる、珍重也。浄き地、清き水をゑらみ、名剣を打べきとおもひしより、一句感情不少。三代といふて猶粉骨鍛冶名人といはん為なり。」

 

とある。

 鞍馬の僧正が谷は牛若丸が剣術の修行をしたという伝説もあり、その剣の師匠が天狗だったというあたりから、のちの鞍馬天狗の物語が生じることとなった。また、鞍馬寺には坂上田村麻呂が奉納したと伝えられている黒漆剣があり、現在は京都国立博物館に保管されている。

 実際に鞍馬に刀鍛冶がいたかどうかはわからないが、そこは俳諧だから創作でいい。

 前句の「音すみて」を刀を鍛える音とする。

 

無季。「鍛冶」は人倫。

 

三十三句目

 

   われ三代の刀うつ鍛冶

 永禄は金乏しく松の風      仙花

 (われ三代の刀うつ鍛冶永禄は金乏しく松の風)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「永禄は其時代を云はんため也。鍛冶名人多くは貧なるもの也。仍て金乏しといへる也。前句の噂のやうにて、一句しかも明らかに聞え侍る。是等よく心を付翫味すべし。」

 

とある。

 永禄は戦国時代のさなかで、川中島の戦い、桶狭間の戦い、永禄の変などが起きている。刀鍛冶から合戦、永禄の頃という連想で展開している。

 「金(こがね)乏しく」は、名人であるが故に良い刀を作ること以外は眼中になく、金銭感覚に乏しいがため、結局は貧乏暮らしをしているということか。「松の風」という景色を添えて逃げ句にする。

 

無季。「松」は植物、木類。

 

三十四句目

 

   永禄は金乏しく松の風

 近江の田植美濃に恥らん   朱絃

 (永禄は金乏しく松の風近江の田植美濃に恥らん)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「只上代の体の句也。金乏しきといふより昔をいふ句也。昔は物毎簡略にて、金も乏しき事人々云伝へ侍る。美濃近江は都近き所にて、田植えなどの風流も、遠き夷とはちがふ成べし。」

 

とある。

 前句の「永禄」を捨てて、ただ昔のことぐらいの意味とし、「金乏しく」も今みたいに経済が発達してなかった頃」ぐらいの意味とする。昔の田植えはお祭で、笛を吹き鼓を打ち、田植え歌の風流を楽しんだ。

 芭蕉の時代よりは後になるが、彭城百川の『田植図』に昔の田植えの様子が伺われる。おそらく元禄二年に芭蕉が『奥の細道』の旅で見た「奥の田植え歌」もこんなだっただろう。

 芭蕉の時代でも田植えの風流は廃れていなかったのなら、永禄の昔の近江の国の田植えはさぞかし盛大だったに違いない。

 「遠き夷とはちがふ成べし」という言葉には、『笈の小文』の「しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。」という思想が込められている。田植えを単なる労働ではなく、村をあげてのお祭とし、風流を楽しむ所に人間らしさがあり、禽獣夷狄とは違うんだという誇りがある。 逆に言えば、今日の我々の近代的労働は禽獣夷狄に堕していると言っていいのかもしれない。禽獣夷狄とは言わないまでも「歯車」や「ロボット」だのに成り下がっているのは確かだろう。

 松に近江は、

 

 さざなみや志賀の濱松古りにけり

     たが世に引ける子の日なるらむ

              藤原俊成(新古今集)

 

などの歌の縁がある。

 

季語は「田植」で夏。

 

三十五句目

 

   近江の田植美濃に恥らん

 とく起て聞勝にせん時鳥     芳重

 (とく起て聞勝にせん時鳥近江の田植美濃に恥らん)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「時節を云合せたる句也。美濃近江と二所いふにて、郭公をあらそふ心持有て、とく起て聞勝にせんとは申侍る也。」

 

とある。

 田植えといえば初夏でホトトギスの季節になる。早起きしていち早く今年最初のホトトギスの声を聞き、美濃のホトトギスに勝ちたい、と。

 

季語は「時鳥」で夏、鳥類。

 

三十六句目

 

   とく起て聞勝にせん時鳥

 船に茶の湯の浦あはれ也   其角

 (とく起て聞勝にせん時鳥船に茶の湯の浦あはれ也)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「時鳥、水辺川浦などにいふ事勿論也。船中にて茶の湯などしたる風流奇特也。思ひがけぬ所にて茶の湯出す。茶道の好士也。思ひよらぬ物を前句に思ひ寄たる、又俳諧の逸士也。」

 

とある。

 船中で茶の湯というのは揺れてやりにくそうだが、あえてそれを楽しむというのはなかなかお目にかかれないような飛び切りの数奇物ということか。船中で酒ならありきたり。

 時鳥を聞くために早起きする奇特さと、船中での茶の湯の奇特さ、奇特つながりといい、そこに浮かび上がる数奇物の像といい、後の匂い付けに繋がるものを感じさせる。

 「時鳥、水辺川浦などにいふ事勿論也。」という言葉は、『去来抄』にいう、

 

 面梶よ明石のとまり時鳥    野水

 

の句が芭蕉の「野を横に」に似ているということで、『猿蓑』に入集させるべきかどうか去来が芭蕉に相談した時、芭蕉が「明石の時鳥といへるもよし」と言ったことを思い起こさせる。

 明石のホトトギスは、

 

 二声と聞かずば出でじ時鳥

     幾夜あかしのとまりなりとも

             藤原公通(新古今集)

 

の歌がある。

 

無季。「船」「浦」は水辺。

二裏

三十七句目

 

   船に茶の湯の浦あはれ也

 つくしまで人の娘をめしつれて  李下

 (つくしまで人の娘をめしつれて船に茶の湯の浦あはれ也)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「此句趣向句作付所各具足せり。舟中に風流人の娘など盗て、茶の湯などさせたる作意、恋に新し。感味すべし。松浦が御息女をうばひ、或は飛鳥井の君などを盗取がる心ばへも、おのづからつくし人の粧ひに便りて、余情かぎりなし。」

 

とある。

 「娘など盗て」というのは当時のリアルな誘拐事件ではなく、あくまで王朝時代の物語の趣向と思われる。

 「飛鳥井の君」は『狭衣物語』、「松浦が御息女」はよくわからないが『源氏物語』の玉鬘か。

 

無季。「人の娘」は人倫。

 

三十八句目

 

   つくしまで人の娘をめしつれて

 弥勒の堂におもひうちふし  枳風

 (つくしまで人の娘をめしつれて弥勒の堂におもひうちふし)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「此句、尤やり句にて侍れども、辺土の哀をよく云捨たり。句々段々其理つまりたる時を見て、一句宜しく付捨らる逸句不労。」

 

 中世の連歌では恋は三句から五句続けるのが普通だったが、蕉門では一句で捨てていいことになっていた。ここでも釈教に展開して恋を捨てる。

 誘拐された娘はその身を嘆き、出家して仏道に入る。「おもひうちふし」に「辺土の哀」が感じられる。

 

無季。恋。釈教。

 

三十九句目

 

   弥勒の堂におもひうちふし

 待かひの鐘は墜たる草の上    芭蕉

 (待かひの鐘は墜たる草の上弥勒の堂におもひうちふし)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「弥勒の堂といふ時は、観音堂釈迦堂など云様に、参詣繁昌にも聞えず。物淋しき体を心に懸て、鐘の地に落て葎の中に埋れ、龍頭纔に見えたる体、見る心地せらる。五文字にて一句の味を付たり。注釈に及ばず。よくよく味ひ聞べし。」

 

とある。

 確かに観音堂や釈迦堂はよく聞くが、弥勒堂はあまり見ないような気がする。ためしにググってみたが、「弥勒堂」だと仏壇屋が出てきてしまう。「弥勒堂 古寺」だと室生寺や慈尊院の弥勒堂がようやく出てくる。どちらもかなり地味な建物だ。

 弥勒信仰はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 

 「弥勒菩薩を本尊とする信仰。死後、弥勒の住む兜率天とそつてんへ往生しようとする上生思想と、仏滅後五六億七千万年ののち、再び弥勒がこの世に現れ、釈迦の説法にもれた衆生を救うという下生思想の二種の信仰から成る。インドに始まり、日本には推古朝に伝来し、奈良・平安時代には貴族の間で上生思想が、戦国末期の東国では下生思想が特に栄えた。」

 

とある。

 芭蕉の時代は弥勒信仰の流行期から外れていたので、戦国末期の流行期に建てられた弥勒堂がそのまま放置され、野に埋もれている情景がしばしば見られたのだろう。「鐘の地に落て葎の中に埋れ、龍頭纔(わずか)に見えたる体」は当時のあるあるだったか。「龍頭」は釣鐘の上部にある吊るための縄をかける部分をいう。

 「待かひ」は弥勒の再来を待つということか。その思いも今では落ちた釣鐘のように打ち臥している。

 

無季。釈教。

 

四十句目

 

   待かひの鐘は墜たる草の上

 友よぶ蟾の物うきの声    仙花

 (待かひの鐘は墜たる草の上友よぶ蟾の物うきの声)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「友呼蟾 ちか頃珍重に侍る。草むらの体、物すごき有様、前句に云残したる所を能請たり。うき声といふにて、待便りなき恋をあひしらひたり。」

 

とある。前句の「待かひ」に「友呼ぶ蟾(ひき)」が付く。前句の言い残した景色を追加した体。

 ヒキガエルというと、『蛙合』に、

 

 うき時は蟇(ひき)の遠音も雨夜哉  曾良

 

の句がある。ヒキガエルの声は物憂く聞こえる。

 

季語は「蟾」で夏。

 

四十一句目

 

   友よぶ蟾の物うきの声

 雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり コ斎

 (雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり友よぶ蟾の物うきの声)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「蟾の声といふより田舎の体を云のべたる也。雨と付る事珍しからずといへども、ひなぐもり珍し。しかも秋に云言葉にあらず。古き歌によみ侍る。惣じて句々、折々古歌古詩等の言葉、所々にありといへども、しゐて名句にすがりたるにもあらず侍れば、さのみことごとしく不記。」

 

とある。

 曾良の句にもあったように、蛙に雨は付き物で、蟾に雨も別に珍しくはない。

 「ひなぐもり」は岩波古語辞典には、枕詞で「日の曇る薄日の意から同音の地名「碓氷」にかかる。」とある。例として挙げられているのは、

 

 ひなぐもり碓日の坂を越えしだに

     妹が恋しく忘らえぬかも

              防人(巻二十、四四〇七)

 

 たしかに滅多に用いられない言葉で、古歌にあるといってもそんなに有名な歌ではないし、本歌とも思えない。

 雨というほどひどく憂鬱ではないが薄曇で鬱陶しいということか。蟾の鳴く田舎の景色に天候を添えている。

 

無季。「雨」は降物。

 

四十二句目

 

   雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり

 門は魚ほす磯ぎはの寺    挙白

 (雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり門は魚ほす磯ぎはの寺)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「鄙の体あらは也。濱寺などの門前に、魚干網など打かけたる体多し。曇と云に干スと附たる、都て、作者の器量おもひよるべし。」

 

とある。濱寺は山寺に対しての言葉か。漁村にあるお寺の門前で干物が干してある事は珍しくないということで、これはあるあるネタといっていいだろう。

 せっかく干しているのに雨とはいわないまでも薄曇りなのは残念。

 

無季。釈教。「磯ぎは」は水辺。

 

四十三句目

 

   門は魚ほす磯ぎはの寺

 理不尽に物くふ武者等六七騎   芳重

 (理不尽に物くふ武者等六七騎門は魚ほす磯ぎはの寺)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「此句秀逸也。海辺軍乱たる体也。民屋寺中へ押込て狼藉したる有様、乱国のさま誠にかく有べし。世の中おだやかに、安楽の心ばへ、難有思ひ合せて句を見るべし。」

 

とある。

 芭蕉はこうした武士の横暴や武家社会の堅苦しさなどの風刺を好む所がある。その意味では芭蕉好みの句といえよう。

 国が乱れれば軍のモラルも下がり、民間人に対する略奪などが横行する。やはり平和がいい。

 

無季。「武者」は人倫。

 

四十四句目

 

   理不尽に物くふ武者等六七騎

 あら野の牧の御召撰ミに   其角

 (理不尽に物くふ武者等六七騎あら野の牧の御召撰ミに)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「前句の勢よく替りたり。野馬とりに出立たる武士の体、尤面白し。三句のはなれ、句の替り様、句の新しき事、よく眼を止むべし。」

 

とある。

 これは略奪から一転して道草の句に。荒野の牧場にお殿様の乗る馬を選びにきたものの、そんな簡単なことではない。むちゃ振りというか、理不尽な命令にすねた武者等が道草食う。

 江戸後期になると「三句の渡り」なんてことが言われるが、本来連歌も俳諧も三句に渡ってはいけないもので、「三句のはなれ」が正しい。「句の替り様」こそ連句の醍醐味といっていい。

 

無季。

 

四十五句目

 

   あら野の牧の御召撰ミに

 鵙の一声夕日を月にあらためて  文鱗

 (鵙の一声夕日を月にあらためてあら野の牧の御召撰ミに)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「段々附やう、文句きびしく続きたる故に、よく云ひなし侍る。かやうの所巧者の心可附義也。夕日さびしき鵙の一声と長嘯のよめるに、西行の柴の戸に入日の影を改めて、とよめる月をとり合せて一句を仕立たる也。長嘯のうたを、本歌に用ゆるにはあらず侍れども、俳諧は童子の語をもよろしきは、借用侍れば、何にても当るを幸に、句の余情に用る事先矩也。」

 

とある。

 長嘯は戦国武将の木下勝俊で、歌人としては長嘯あるいは長嘯子と呼ばれていた。

 

 鉢叩あかつき方の一こゑは

     冬の夜さへもなくほととぎす

                 長嘯子

 

の歌から、芭蕉は、

 

 長嘯の墓もめぐるか鉢叩き    芭蕉

 

の句を元禄二年に詠んでいる。「夕日さびしき鵙の一声」は『芭蕉の人情句: 付句の世界』(宮脇真彦、二〇一四、角川選書)によれば、

 

 野辺見れば尾花が末にうち靡く

     夕日も薄し鵙の一声

                長嘯子

 

だという。

 「西行の柴の戸に入日の影を改めて」も同書によれば、

 

 射し来つる窓の入日を改めて

     光を変ふる夕月夜かな

                西行法師

 

だそうだ。

 「鵙の一声夕日を月にあらためて」の句は確かにこの二つの歌を合わせた句だ。「鵙の一声」に「夕日も薄し」と「入日を改めて」「夕月夜」を合わせれば、この句になる。

 紺屋に馬を探しに来て日も暮れるというだけの句だが、二つの和歌を引

 

いてきてここまで作るというのは巧者としか言いようがない。

 貞門談林では俗語を一語入れなくてはならないのだが、蕉門ではそうした制約を撤廃したから和歌の言葉だけで構成してもかまわない。「俳諧は童子の語をもよろしきは、借用侍れば、何にても当るを幸に、句の余情に用る事先矩也。」と、使える言葉は何でも使えということだ。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「鵙」は鳥類。「夕日」も天象。

 

四十六句目

 

   鵙の一声夕日を月にあらためて

 糺の飴屋秋さむきなり    李下

 (鵙の一声夕日を月にあらためて糺の飴屋秋さむきなり)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「洛外の景気、尤やり句也。月夕日に其地を思ひはかりて見ゆ。

 

とある。

 前句が時候なので、それにふさわしい場所として京都の賀茂川と高野川の合流点付近に思いをはせる。下鴨神社があるので飴屋もあったのだろう。夕暮れともなれば店じまいか。

 

季語は「秋さむき」で秋。「糺」は名所。

 

四十七句目

 

   糺の飴屋秋さむきなり

 電の木の間を花のこころせば   挙白

 (電の木の間を花のこころせば糺の飴屋秋さむきなり)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「秋といふ字を不捨に付侍る。巧者の(秋以下十五文字一本によりて補ふ)働言語にのべがたし。糺あたりの道すがら森の木の間勿論也。木の間に稲妻尤面白し、真に秋の夜の花ともいふべし。」

 

とある。

 「評注」の「秋以下十五文字一本によりて補ふ」というのは、「秋働言語にのべがたし」と十五文字抜けていたのを、別の本によって補ったということか。

 秋という字を捨てずというのは、大方こういう場面では「糺の飴屋」から展開するということだろうか。この句は確かに飴屋の方を捨てて、秋を生かして付けている。

 電(いなづま:稲妻)は以前『ももすもも』の「冬木だち」の巻を読んだとき、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』を引用した。ここでふたたび。

 

 「[和漢三才図会]秋の夜晴て電あるは常也。俗伝ていふ、此時稲実る故に、稲妻、稲交(いなつるみ)の名あり。」

 

 このとき「実際には見たことがない」と書いたが、子供の頃の記憶で、夜の空の地平線近くが薄っすらと光っては消え光っては消えて、何だろうと思ったことはある。それが稲妻なのか人工的なライトが雲に反射しているだけなのかはよくわからない。

 おそらく今の夜空が明るすぎることが原因なのだろう。町の灯りのない、天の川が見えるくらいの山奥とかだったら稲妻も常なのかもしれない。

 加茂の糺の森は、昔は夜ともなると真っ暗闇で、その木の間から稲妻の光が漏れると、そこだけはっと明るくなり、花が咲いたように見えたのだろう。

 

季語は「電」で秋。「木の間」は植物、木類。

 

四十八句目

 

   電の木の間を花のこころせば

 つれなきひじり野に笈をとく 枳風

 (電の木の間を花のこころせばつれなきひじり野に笈をとく)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「此句の付やう一句又秀逸也。物すごき闇の夜、稲妻ぴかぴかとする時節、聖、野に伏侘る体、ちか頃新し。俳諧の眼是等にとどまり侍らん。」

 

とある。

 「ひじり(聖)」は諸国を遊行する一所不住の僧で、「笈」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、「修験者(しゅげんじゃ)などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱。」だという。聖は笈を背負い、しばしば野宿をした。

 あたりは真っ暗闇で稲妻がピカピカ光っていれば、普通の人なら恐怖を感じる所だが、そこは意に介さない(つれない)僧のこと、木の間の稲妻もこれぞ花とばかりに背負ってた笈を下ろし、そこで野宿する。

 

 稲妻に悟らぬ人の貴さよ   芭蕉

 

の句はこれより後の元禄三年の句。あるいはこの枳風の句が頭にあったのかもしれない。

 芭蕉の紀行文に『笈の小文』とあるが、これは芭蕉自身が付けたタイトルではなく、芭蕉の死後に近江の弟子の乙州(おとくに)がつけたものとされている。

 芭蕉も旅するときは僧形だったし、遊行する「ひじり」になぞらえてこういうタイトルをつけたのだろう。「俳聖」というのもそういう点では二重の意味があったのだろう。同時代の本因坊道策を「棋聖」と呼ぶように、芭蕉の俳句があまりに神だから(一昨年の流行語で言うなら「神ってる」から)「聖」の名を冠しているのと、遊行する聖(ひじり)のようだからというのと、両方の意味で「俳聖」だったのだろう。

 日本は多神教の国で、もとより全知全能の神なんて概念はない。「神」というのは易経の「陰陽不測、是を神という」の神で、要するに説明のつかないことは「神」なのである。

 

無季。釈教。旅体。

 

四十九句目

 

   つれなきひじり野に笈をとく

 人あまた年とる物をかつぎ行   揚水

 (人あまた年とる物をかつぎ行つれなきひじり野に笈をとく)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「此句又秀逸也。聖の宿かりかねたる夜を大晦日の夜におもひつけたる也。先珍重。聖は野に侘伏たるに、世にある人は年取物かつぎはこぶ体、近頃骨折也。前句の心を替る所、猶々玩味すべし。」

 

とある。

 前句の聖の野宿を大晦日のこととする。芭蕉にも『野ざらし紀行』の旅の句に、

 

 年暮れぬ笠きて草鞋はきながら  芭蕉

 

というのがある。実際は故郷の伊賀で年を越したようだが。故郷に帰っても心は旅の中だ、という意味か。

 昔は数え年だったので、正月が来ると一歳年を取る。今みたいに誕生日で年を取るのではなかった。大晦日は決算日でもあり、商人は忙しく駆け回る。それを「年を取るものを」と「物をかつぐ」とを掛けて「年とる物をかつぎ行」と表現する。聖はかついだ物を降ろし、世俗の人は年を背負い込む。

 まあ、だからといって聖が年取らないわけではないが、ただ年を取るのも忘れていつでも気持ちを若く保つというのは大事なことだ。

 

季語は「年とる物」で冬。「人」は人倫。

 

五十句目

 

   人あまた年とる物をかつぎ行

 さかもりいさむ金山がほら  朱絃

 (人あまた年とる物をかつぎ行さかもりいさむ金山がほら)

 

 『初懐紙評注』には、

 

 「金山は我朝の大盗也。前句よく請たり。註に不及、附やう明也。」

 

とある。

 「金山」は御伽草子の「あきみち」に出てくる金山八郎左衛門のこと。とはいえ、このあだ討ち物語とは関係なく、単に大泥棒として掻っ攫った物をアジトに運び込んでは酒盛りする情景を付ける。

 このあと、この評注について短い説明がある。

 

 「当時の俳道意味心得がたし、願は句解したまはらんやと侍りければ、即興に加筆し給じ。終日の席、はせを翁の持病心よからず五十韻にして筆をたち給ふ。」

 

 これでいくと、この評注は芭蕉の晩年の病の中で書かれたもののようだ。確かに十年近くたってしまうと、貞享のころの俳諧は既にわかりにくくなっていたのだろう。支考が古池の句をよく理解できてなかったように。

 ただ、この詞書が本当かどうかはわからない。晩年の軽みの頃の用語が使われてない点では、実際は貞享三年春からそう遠くない時期に書かれたのではないかと思う。ただ、草稿としてしまってあったものを晩年に弟子の誰かに託したのかもしれない。

 いずれにせよ残念ながらあとの五十句は注釈がない。自力で読まなくてはならない。

 

無季。

三表

五十一句目

 

   さかもりいさむ金山がほら

 此国の武仙を名ある絵にかかせ  其角

 (此国の武仙を名ある絵にかかせさかもりいさむ金山がほら)

 

 武仙は歌仙からの発想だろう。三十六歌仙屏風は戦国時代からしばしば製作されているし、三十六歌仙絵巻は鎌倉時代まで遡れる。

 盗賊の頭領の金山八郎左衛門なら、三十六歌仙ならぬ三十六人の武将を描いた三十六武仙なんかを描かせて飾りそうだなということで、この句になったのだろう。天和的な発想の名残を感じさせる。

 

無季。「武仙」は人倫。

 

五十二句目

 

   此国の武仙を名ある絵にかかせ

 京に汲する醒井の水     コ斎

 (此国の武仙を名ある絵にかかせ京に汲する醒井の水)

 

 「醒井(さめがい)の水」は洛中三銘水の一つ。同じ名前の水が滋賀県米原市にもあり醒井宿という中山道の宿場になっている。こちらの方は日本武尊の伝説がある。

 おそらく武仙から日本武尊を連想し、武仙の絵を飾りながら京の醒井の水でお茶でも立てようというのだろう。醒井の水は千利休にも好まれたし、戦国武将も多くこの水を好んだ。

 

無季。「醒井」は名所。

 

五十三句目

 

   京に汲する醒井の水

 玉川やをのをの六ツの所みて   芭蕉

 (玉川やをのをの六ツの所みて京に汲する醒井の水)

 

 井手の玉川は宇治の南にあり、平成の名水百選にも選ばれている。

 

 かはづ鳴く井手の山吹散りにけり

     花の盛りにあはましものを

               よみ人知らず(古今集)

 

の歌にも詠まれている。

 ただ、玉川は京都(山城)だけでなく、近江の野路の玉川、摂津の三嶋の多摩川、武蔵の調布の玉川、陸奥の野田の玉川、紀伊の高野の玉川と合わせて「六玉川」と呼ばれていた。

 六つの玉川の水をそれぞれ見て歩いたが、やはり京の醒井の水が一番ということか。

 

無季。「玉川」は名所、水辺。

 

五十四句目

 

   玉川やをのをの六ツの所みて

 江湖江湖に年よりにけり   仙花

 (玉川やをのをの六ツの所みて江湖江湖に年よりにけり)

 

 江湖は長江と洞庭湖に限らず広く五胡四海の広い世界を表していたという。風光明媚な川や湖の景色を訪ね歩き、六つの玉川も見て、旅をしているうちに年取ってしまった。水辺が続く。

 

無季。「江湖」は水辺。

 

五十五句目

 

   江湖江湖に年よりにけり

 卯花の皆精にもよめるかな    芳重

 (卯花の皆精にもよめるかな江湖江湖に年よりにけり)

 

 『校本芭蕉全集第三巻』によれば「精」は「しらげ」と読む。精白米、つまり銀シャリのこと。

 この本の注釈には、

 

 卯の花のみな白髪とも見ゆるかな

     賤が垣根は年よりにけり

 

という無名抄の歌を引用している。卯の花に白髪というと元禄二年の『奥の細道』で芭蕉に同行した曾良が、

 

 卯の花に兼房見ゆる白毛かな   曾良

 

と詠んでいる。

 卯の花を白髪に喩えるのは、わりとありきたりなことだったのだろう。ここでは白髪ならぬ精げに喩える。言い間違いの面白さを狙ったか。

 

季語は「卯の花」は夏、植物、木類。

 

五十六句目

 

   卯花の皆精にもよめるかな

 竹うごかせば雀かたよる   揚水

 (卯花の皆精にもよめるかな竹うごかせば雀かたよる)

 

 これは諺のような句だ。文和千句第一百韻の「植ゑずはきかじ荻の上風 長綱」を思わせる。

 竹を動かせば雀が動いてない竹の方に集まるように、卯の花が銀シャリに似ていると誰かが言えば、みんな「そうだそうだ」となる、ということか。雀は米に集まる。

 

無季。「竹」は植物、木類での草類でもない。「雀」は鳥類。

 

五十七句目

 

   竹うごかせば雀かたよる

 南むく葛屋の畑の霜消て     不卜

 (南むく葛屋の畑の霜消て竹うごかせば雀かたよる)

 

 「葛屋」は草葺の家のことだという。農家の畑の霜も日が射すとともに消えて行き、雀も眼が醒めて竹を動かせば出てくる。

 

季語は「霜」で冬、降物。

 

五十八句目

 

   南むく葛屋の畑の霜消て

 親と碁をうつ昼のつれづれ  文鱗

 (南むく葛屋の畑の霜消て親と碁をうつ昼のつれづれ)

 

 農家の縁側、霜も消えて暖かくなれば親子でむつまじく碁を打つ。

 

無季。「親」は人倫。

 

五十九句目

 

   親と碁をうつ昼のつれづれ

 餅作る奈良の広葉を打合セ    枳風

 (餅作る奈良の広葉を打合セ親と碁をうつ昼のつれづれ)

 

 「奈良」とあるが「楢」であろう。「楢の広葉」は古歌に用例がある。

 

 朝戸あけて見るぞさびしき片岡の

     楢のひろ葉にふれる白雪

              源経信(千載集)

 

 ただ、ここでは餅に巻く楢の葉のことで、柏餅を楢柏で代用することもあったようだ。「木花-World」というサイトには、「奈良県内にはカシワは少なく、ナラガシワで柏餅を作るそうです。」とある。

 カシワの葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、子孫繁栄を表わすといわれていて、前句の「親と碁をうつ」という親子仲睦ましい雰囲気を受けている。

 柏餅はもとは葉を食器代わりに用いていた時代に、強飯や餅を木の葉の上に乗せたところからきたと思われる。Mengryというサイトによれば、

 

 「江戸時代に俳人として有名だった齋藤徳元がまとめた書物「拝諧初学抄」において、1641年のものには5月の季語として「柏餅」が記載されていませんでした。

 ところが、1661年から1673年にかけて成立した「酒餅論(しゅべいろん)」では、5月の季語として柏餅が紹介されていたからです。

 そのため、柏餅が端午の節句の食物として定着したのは、1641年以降だと考えられます。」

 

だそうで、これだと芭蕉の時代には既に端午の節句の柏餅が定着していたことになる。あるいは「柏餅」という季語を避けるために「楢の葉」としたのかもしれない。

 齋藤徳元は貞門の俳人で、あの斎藤道三の曾孫で、織田信長、織田秀信に仕え、徳川の世になって江戸の市井の人となり和歌の教師をやっていた。

 

無季。「奈良」は植物、木類。

 

六十句目

 

   餅作る奈良の広葉を打合セ

 贅に買るる秋の心は     芭蕉

 (餅作る奈良の広葉を打合セ贅に買るる秋の心は)

 

 「贅(にへ)」は古語辞典によれば「古く、新穀を神などに供え、感謝の意をあらわした行事」とあり、「新穀(にひ)」と同根だという。それが拡張されて朝廷への捧げものや贈り物にもなっていった。

 前句の「餅作る」を端午の節句の柏餅ではなく神に供える新穀とし、「奈良」を楢ではなく文字通りに奈良の都とする。「広葉を打合セ」を捨てて、奈良で餅を作り新穀として献上するために買われてゆくのを「秋の心」だなあ、と結ぶ。

 

季語は「秋」で秋。

 

六十一句目

 

   贅に買るる秋の心は

 鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ  朱絃

 (鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ贅に買るる秋の心は)

 

 秋の心といえば鹿の声。わかりやすい。

 

 鹿の音を聞くにつけても住む人の

     心しらるる小野の山里

              西行法師(新後撰集)

 

の歌がある。

 

季語は「鹿の音」で秋、獣類。「人」は人倫。

 

六十二句目

 

   鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ

 にくき男の鼾すむ月     不卜

 (鹿の音を物いはぬ人も聞つらめにくき男の鼾すむ月)

 

 鹿の妻問う声の切なさをアンタにも聞いてもらいたいものだ。鼾かいて寝やがって、と恋に転じる。

 鹿の音に月は、

 

 山颪に鹿の音高く聞ゆなり

     尾上の月にさ夜や更けぬる

              藤原実房(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。「にくき男」は人倫。

 

六十三句目

 

   にくき男の鼾すむ月

 苫の雨袂七里をぬらす覧     李下

 (苫の雨袂七里をぬらす覧にくき男の鼾すむ月)

 

 「苫」は古語辞典によれば「スゲ・カヤなどの草を編んだ薦(こも)。小屋の屋根・周囲や船の上部などを覆うのに使う。」とある。

 「苫」に「ぬらす」とくれば、百人一首でもおなじみの、

 

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ

     わが衣手は露にぬれつつ

               天智天皇

 

の歌が思い浮かぶ。「苫は雨」本当の雨ではなく苫から漏れ落ちる露のことで、涙を象徴する。

 にくき男が月のある夜に鼾をかいて寝ていても、我が袖は袂七里を濡らすかのようだと、白髪三千丈的な大げさな表現をする。七里を旅する男の句で、「にくき男」はこの場合恋敵か。

 

無季。恋。「袂」は衣裳。「苫の雨」は降物。

 

六十四句目

 

   苫の雨袂七里をぬらす覧

 生駒河内の冬の川づら    揚水

 (苫の雨袂七里をぬらす覧生駒河内の冬の川づら)

 

 生駒山の西側は河内の国、そこを流れる川というと恩智川だろうか。恩智川は小さな川だが、生駒山のほうからたくさんの水が流れ込むため、しばしば氾濫を起こした。

 この句は生駒の袂にある河内の冬の川は、雨が降ると七里に渡って氾濫を起こす、という意味か。

 

季語は「冬」で冬。「生駒」は名所。「川づら」は水辺。

三裏

六十五句目

 

   生駒河内の冬の川づら

 水車米つく音はあらしにて  其角

 (水車米つく音はあらしにて生駒河内の冬の川づら)

 

 このあたりは米屋が多かったのだろうか。川の水で水車を廻し一斉に精米作業を行う。その音はまるで嵐のようだ、と。

 

無季。「水車」は水辺。

 

六十六句目

 

   水車米つく音はあらしにて

 梅はさかりの院々を閉    千春

 (水車米つく音はあらしにて梅はさかりの院々を閉)

 

 「院」はこの場合僧の住居を兼ねた小寺院のことか。水車の音がうるさくて、せっかく梅の咲いた寺院も閉じて静かな所に行ってしまった、ということか。

 

季語は「梅」で春、植物、木類。

 

六十七句目

 

   梅はさかりの院々を閉

 二月の蓬莱人もすさめずや  コ斎

 (二月の蓬莱人もすさめずや梅はさかりの院々を閉)

 

 蓬莱山は東の海にある神仙郷で、正月には米を山のように盛り、裏白やユズリハや乾物などを乗せた掛蓬莱を飾った。

 二月に入っても掛蓬莱を飾ることがあったのかどうかはよくわからない。

 ここでは前句の梅を二月(きさらぎ)の蓬莱と呼んだのかもしれない。梅の枝は蓬莱の玉の枝のようでもあり、それを愛でずにお寺の門を閉ざしているのを見て、二月にも蓬莱があるのに心を寄せることがないのだろうか、となる。

 「すさぶ」「すさむ」は心の趣くままにという意味で、「すさめ」はその他動詞形。

 

季語は「二月」で春。「人」は人倫。

 

六十八句目

 

   二月の蓬莱人もすさめずや

 姉待牛のおそき日の影    芳重

 (二月の蓬莱人もすさめずや姉待牛のおそき日の影)

 

 蓬莱から来る正月様は牛に乗ってやってくる。

 

 誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年  芭蕉

 

は貞享二年、『野ざらし紀行』の旅の途中、故郷の伊賀で正月を迎えたときの句だ。

 二月の牛はそんな正月の牛のように心引かれることもなく、ただ待っている姉の元へゆっくりと歩いて行く。それはまるで遅日の歩みのようだ。

 

季語は「おそき日」で春。「姉」は人倫。「牛」は獣類。

 

六十九句目

 

   姉待牛のおそき日の影

 胸あはぬ越の縮をおりかねて 芭蕉

 (胸あはぬ越の縮をおりかねて姉待牛のおそき日の影)

 

 「胸あはぬ」は、

 

 錦木は立てながらこそ朽ちにけれ

     けふの細布胸合はじとや

               能因法師

 みちのくのけふの細布程せばめ

     胸あひがたき恋もするかな

               源俊頼

 

などの用例がある。「狭布(けふ)の細布」は幅が細いため、着物にしようとすると胸が合わないところから、逢うことのできない恋に掛けて用いられた。

 「越後縮(えちごちぢみ)」はウィキペディアの「越後上布」の項に、

 

 「現在では新潟県南魚沼市、小千谷市を中心に生産される、平織の麻織物。古くは魚沼から頚城、古志の地域で広く作られていた。縮織のものは小千谷縮、越後縮と言う。」

 

とある。「縮織(ちぢみおり)」はコトバンクの「大辞林第三版の解説」によれば、

 

 「布面に細かい皺(しぼ)を表した織物の総称。特に、緯よこ糸に強撚糸を用いて織り上げたのち、湯に浸してもみ、皺を表したもの。綿・麻・絹などを材料とする。夏用。越後縮・明石縮など。」

 

だという。

 前句の「牛」から牽牛・織姫の縁で、狭布(けふ)の細布ならぬ越後縮みを折る女性を登場させたのだろう。

 ただ、ここでは胸が合わないのは元々細い布だからではなく、多分皺をつけるときに縮みすぎたのだろう。なかなか思うような幅に織れなくて、牽牛は延々と待たされている。

 

無季。恋。

 

七十句目

 

   胸あはぬ越の縮をおりかねて

 おもひあらはに菅の刈さし  枳風

 (胸あはぬ越の縮をおりかねておもひあらはに菅の刈さし)

 

 菅(スゲ)は笠や蓑を作るのに用いられる。「刈さし」は刈ろうとしてやめる。女は逢うことのできない恋に縮みを折りかね、男は菅を刈ろうにも手につかづ、思いをあらわにする。相対付け。

 

季語は「菅の刈」で夏、植物、草類。恋。

 

七十一句目

 

   おもひあらはに菅の刈さし

 菱のはをしがらみふせてたかべ嶋 文鱗

 (菱のはをしがらみふせてたかべ嶋おもひあらはに菅の刈さし)

 

 本歌は、

 

 秋萩をしがらみふせて鳴く鹿の

     目には見えずて音のさやけさ

             よみ人知らず(古今集)

 

で、萩を菱に、鹿を高部に変えている。

 高部はコトバンクの「動植物名よみかた辞典 普及版の解説」に「動物。ガンカモ科の鳥。コガモの別称」とある。

 菱の葉の上に伏せる水鳥の哀れさに、菅を刈るのを途中でやめ、邪魔しないようにする。

 

季語は「菱」で夏、植物、草類。「たかべ」は鳥類。

 

七十二句目

 

   菱のはをしがらみふせてたかべ嶋

 木魚きこゆる山陰にしも   李下

 (菱のはをしがらみふせてたかべ嶋木魚きこゆる山陰にしも)

 

 舞台を山の影にある寺のあたりとする。「たかべ」に「山陰」は、

 

 吉野なる夏実の河の川淀に

     鴨ぞ鳴くなる山かげにして

               湯原王(万葉集)

 

の縁。

 

無季。釈教。「山陰」は山類。

 

七十三句目

 

   木魚きこゆる山陰にしも

 囚をやがて休むる朝月夜   コ斎

 (囚をやがて休むる朝月夜木魚きこゆる山陰にしも)

 

 「めしうと(囚)」は元の意味は召された人で、古くは舞楽をする人や貴族の私宅にかこってる女などを言ったが、やがて囚人の意味になった。ここでは、捕らえた盗賊の一味を山陰の岩屋か何かに閉じ込めていたのだろうか。朝になり、月は傾き、どこからか朝のお勤めの声が聞こえてくると、盗賊も脱走をあきらめ眠りに落ちる。

 

季語は「朝月夜」は秋、天象。「囚」は人倫。

 

七十四句目

 

   囚をやがて休むる朝月夜

 萩さし出す長がつれあひ   不卜

 (萩さし出す長がつれあひ囚をやがて休むる朝月夜)

 

 囚人と言ってもそんなに悪い人ではないか、無実の罪で捕らえられたか、村長の妻が少しばかり情けをかける。「月」に「萩」は付き物。

 

季語は「萩」で秋、植物、草類。「長がつれあひ」は人倫。

 

七十五句目

 

   萩さし出す長がつれあひ

 問し時露と禿に名を付て   千春

 (問し時露と禿に名を付て萩さし出す長がつれあひ)

 

 「禿(かむろ)」はウィキペディアに、

 

 「禿(かむろ、かぶろ)は遊女見習いの幼女をさす普通名詞。

 本来はおかっぱの髪型からつけられた名であるが、時代と共に髪を結うようになってからも、遊郭に住み込む幼女のことをかむろと呼んだ。7 - 8歳頃に遊郭に売られてきた女子や、遊女の産んだ娘が該当する。最上級の太夫や、または花魁と呼ばれた高級女郎の下について、身のまわりの世話をしながら、遊女としてのあり方などを学んだ。」

 

とある。

 前句の長を遊女のこととし、その連れ合いのかむろの名前を聞かれた時、咄嗟に「露」と答えて、その場の名前とした。まあ、「露(仮)」といったところか。『伊勢物語』の、

 

 白玉か何ぞと人の問ひしとき

     露と答へて消えなましものを

               在原業平

 

の歌を踏まえて遊女が洒落てみたもので、元歌の意味と何の関係もないので、本歌や本説ではない。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

七十六句目

 

   問し時露と禿に名を付て

 心なからん世は蝉のから   朱絃

 (問し時露と禿に名を付て心なからん世は蝉のから)

 

 この付け句だと、前句と合わせて『伊勢物語』の本説となる。

 本説をとる場合、元ネタと少し変えなくてはならない。変えなければただのパクリだ。

 遊女はかむろを連れて逃げたもののかむろは連れ戻されてしまう。そこでなんと心無い世の中だ、まるで蝉の抜け殻のようだ、と結ぶ。

 「蝉のから」は空蝉ともいう。

 

季語は「蝉のから」で夏、虫類。

 

七十七句目

 

   心なからん世は蝉のから

 三度ふむよし野の桜芳野山  仙化

 (三度ふむよし野の桜芳野山心なからん世は蝉のから)

 

 花の定座なので、前句の心に違えて心ある芳野山を出す。ただ、通常は「花」という文字を入れなくてはいけない。

 これより後の元禄三年の秋、『猿蓑』にも収録された「灰汁桶の」の巻の興行の時、去来は芭蕉に、この花の定座は桜に変えようかと提案する。このときのことは『去来抄』に記されている。

 

 「卯七曰、猿みのに、花を桜にかへらるるはいかに。

 去来曰、此時予花を桜にかへんといふ。先師曰、故はいかに。去来曰、凡花は桜にあらずといへる、一通りはする事にて、花婿茶の出はな抔も、はなやかなるによる。はなやかなりと云ふも據(よるところ)有り。必竟花はさく節をのがるまじと思ひ侍る也。先師曰、さればよ、古は四本の内一本は桜也。汝がいふ所もゆひなきにあらず。兎もかくも作すべし。されど尋常の桜に替たるは詮なし。糸桜一はひと句主我まま也と笑ひ給ひけり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,54~55)

 

 「四本の内一本は桜」という規則はいつ頃の何によるのかはよくわからない。連歌の式目『応安新式』では花は一座三句で、似せ物の花(比喩としての花)を入れて四句になっている。宗祇の時代の『新式今案』では、花は一座四句になる。ただ、ここでは三の懐紙の花を桜にしているから、「四本の内一本は桜」という芭蕉の知っているルールに従っているのであろう。

 ちなみの芭蕉の貞門時代の貞徳翁十三回忌追善俳諧「野は雪に」百韻の七十七句目は「一門に逢や病後の花心 一以」で、似せ物の花になっている。談林時代の延宝三年、宗因が江戸に来たときの「いと涼しき」百韻も、九十九句目が「そも是は大師以来の法の花 似春」で、やはり似せ物の花になっている。

 「花」は昔は一座三句だったし、一座四句になったといっても四句詠まなくてはいけないというものではない。だから、別に似せ物の花の句を入れなくても違反にはならない。百韻一巻に四花八月というのは式目にはないし、そもそも「定座」自体が式目にはない。戦国時代末期に習慣として定着したものだろう。

 三度(みたび)来てもやはり吉野の桜はすばらしく、人を圧倒するものがある。「よしの」を重複させることで、「よしの」が「良し」にかけて用いられることを意識させる。

 

季語は「桜」で春、植物、木類。「吉野」は名所、山類。

 

七十八句目

 

   三度ふむよし野の桜芳野山

 あるじは春か草の崩れ屋   李下

 (三度ふむよし野の桜芳野山あるじは春か草の崩れ屋)

 

 三度目の吉野来訪で、以前尋ねた草庵に行ってみたら空き屋になっていた。高齢でお亡くなりになったのか、あるじはなく、春だけがあるじか、と在原業平の「月やあらぬ」の心を感じさせる。

 

季語は「春」で春。「草」は植物、草類。

名残表

七十九句目

 

   あるじは春か草の崩れ屋

 傾城を忘れぬきのふけふことし 文鱗

 (傾城を忘れぬきのふけふことしあるじは春か草の崩れ屋)

 

 前句の崩れ屋を遊女に入れ込んだ挙句の果てとした。春を三句続けなくてはいけないので、「けふことし」で無理矢理歳旦の言葉を入れて春にしている。

 

無季。恋。

 

八十句目

 

   傾城を忘れぬきのふけふことし

 経よみ習ふ声のうつくし   芳重

 (傾城を忘れぬきのふけふことし経よみ習ふ声のうつくし)

 

 傾城の遊女もいろいろなことがあったのか、今は出家してお経を読んで日々を過ごすが、そこはかつての傾城の美女。その声はやはり美しい。

 

無季。釈教。

 

八十一句目

 

   経よみ習ふ声のうつくし

 竹深き笋折に駕籠かりて   挙白

 (竹深き笋折に駕籠かりて経よみ習ふ声のうつくし)

 

 竹林の奥深く、筍を掘りに行くとどこからか経を読む美しい声が聞こえてくる。

 『竹取物語』の最初の場面を踏まえているのだろう。「駕籠かりて」は「妻の嫗に預けて養はす。美しきことかぎりなし。いと幼ければ籠に入れて養ふ。」からの発想か。ただ、ここではただ読経の声が聞こえただけで、駕籠には筍を載せて持ち帰ったのだろう。

 

季語は「笋」で夏で植物、木類でも草類でもない。

 

八十二句目

 

   竹深き笋折に駕籠かりて

 梅まだ苦キ匂ひなりけり   コ斎

 (梅まだ苦キ匂ひなりけり竹深き笋折に駕籠かりて)

 

 筍を掘る頃は梅もまだ熟してなくて苦い匂いがする。

 

季語は「梅(の実)」で夏で植物、木類。

 

八十三句目

 

   梅まだ苦キ匂ひなりけり

 村雨に石の灯ふき消ぬ    峡水

 (村雨に石の灯ふき消ぬ梅まだ苦キ匂ひなりけり)

 

 前句の「苦き」を捨てて梅の花の匂いとする。石灯籠の火が消えて庭が真っ暗になると雨の匂いの中にかすかに梅の匂いが混じって、それが苦く感じられるということか。

 

無季。「村雨」は降物。「石の灯」は夜分。

 

八十四句目

 

   村雨に石の灯ふき消ぬ

 鮑とる夜の沖も静に     仙化

 (村雨に石の灯ふき消ぬ鮑とる夜の沖も静に)

 

 「石の灯」を灯台にして、火が消えたから鮑取る海女も帰ってしまい静かになる。

 

無季。「鮑」「沖」は水辺。「夜」は夜分。

 

八十五句目

 

   鮑とる夜の沖も静に

 伊勢を乗ル月に朝日の有がたき 不卜

 (伊勢を乗ル月に朝日の有がたき鮑とる夜の沖も静に)

 

 鮑といえば伊勢。

 

 伊勢の海女の朝な夕なにかづくちふ

     鮑の貝の片思ひにして

              よみ人知らず(万葉集)

 

の歌もある。

 前句を静かに進む船として、月と朝日に照らされて無事伊勢に辿り着いたことを有り難いという。

 

季語は「月」で秋、天象。「朝日」も天象。「伊勢」は名所、水辺。

 

八十六句目

 

   伊勢を乗ル月に朝日の有がたき

 欅よりきて橋造る秋    李下

 (伊勢を乗ル月に朝日の有がたき欅よりきて橋造る秋)

 

 切り出した欅の木を筏にして伊勢まで運び、伊勢神宮に橋を架ける。「秋」は放り込み。

 

季語は「秋」で秋。「橋」は水辺。

 

八十七句目

 

   欅よりきて橋造る秋

 信長の治れる代や聞ゆらん  揚水

 (信長の治れる代や聞ゆらん欅よりきて橋造る秋)

 

 織田信長は言うまでもなく戦国時代の人で始終戦争に明け暮れ、徳川の太平の世なんて想像もしなかったにちがいない。「らん」はこの場合反語に取った方がいいだろう。今は太平の世で、欅の木を集めて橋を作る。

 

無季。

 

八十八句目

 

   信長の治れる代や聞ゆらん

 居士とよばるるから国の児  文鱗

 (信長の治れる代や聞ゆらん居士とよばるるから国の児)

 

 信長というと森蘭丸との関係が有名で、バイセクシャルだったとされている。それに信長は中国かぶれで、朝鮮半島から中国全土を征服して中華皇帝になろうとした人だったから、「丸」ではなく「居士」と呼ばれる中国のお稚児さんを囲っていそうだな、ということか。

 前句を信長の治めていた時代にこんな噂が聞こえなかっただろうか、と取り成し、中国の稚児を囲っていたという噂を付ける。

 今では「居士」というと戒名くらいにしか使われないが、中国の文人などが仏教に傾倒しながらも在家にとどまるものを居士というようになり、コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 

「中国では,唐・宋時代,禅がさかんになるとともに居士と称する人が漸増。龐居士,韓愈,白居易などがよく知られ,明代の《居士分灯録》,清の《居士伝》などの居士伝も選述されている。宋代の字書《祖庭事苑(そていじえん)》は,(1)仕官を求めず,(2)寡欲にして徳を積み,(3)富裕で,(4)道を守りみずから悟ることの4点をあげて,居士の定義としている。」

 

とある。信長が中華皇帝になっていたら、こうした人たちを稚児として侍らしていたとしてもおかしくない。

 

無季。「児」は人倫。

 

八十九句目

 

   居士とよばるるから国の児

 紅に牡丹十里の香を分て   千春

 (紅に牡丹十里の香を分て居士とよばるるから国の児)

 

 中国の「居士」と呼ばれる文人なら牡丹を十里に渡って植えるようなこともしそうだ。まあ、「白髪三千丈」の国だから実際に十里なくても誇張してそういう詩を書きそうだ。

 

季語は「牡丹」で夏で植物、草類。

 

九十句目

 

   紅に牡丹十里の香を分て

 雲すむ谷に出る湯をきく   峡水

 (紅に牡丹十里の香を分て雲すむ谷に出る湯をきく)

 

 十里の牡丹を花の雲に喩え、そこに湧き出る温泉があるとなれば、まさに極楽極楽。

 

無季。「雲」は聳物。「谷」は山類。

 

九十一句目

 

   雲すむ谷に出る湯をきく

 岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨  其角

 (岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨雲すむ谷に出る湯をきく)

 

 岩山を地蔵を背負って運んでいたものの、その重さに耐えかねて地蔵は地面に落ちる。すると霊験あらたかにそこから温泉が湧き出てくる。ありがたやありがたや。

 

無季。釈教。「岩ね」は山類。

 

九十二句目

 

   岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨

 笑へや三井の若法師ども   コ斎

 (岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨笑へや三井の若法師ども)

 

 これは「弁慶の引き摺り鐘」を本説にしたものだろうか。

 弁慶はその怪力でもって三井寺の鐘を背負って比叡山に持ってゆくが、そこで鐘を撞いてみると「いのー、いのー」と音がし、「いのー」は「去のう」で帰ろうという意味。そこで、「そんなに三井寺へ帰りたいのか」と谷底へ投げ捨てたという伝説が残されている。

 本説をとる場合は必ず少し変えなくてはいけないので、ここでは釣鐘ではなく地蔵にする。

 

無季。釈教。「三井」は名所。

名残裏

九十三句目

 

   笑へや三井の若法師ども

 逢ぬ恋よしなきやつに返歌して 仙化

 (逢ぬ恋よしなきやつに返歌して笑へや三井の若法師ども)

 

 女っけのない武家や寺院での男色は半ば公認のものだったが、これもその稚児ネタになる。

 とはいえこれはからかわれたのだろうか。いかにも脈の有りそうの和歌を送ってきて、それに返歌して逢いに行っても姿を見せてもくれない。三井寺の若法師たちのせせら笑う声が聞こえてくるようで切ない。

 

無季。恋。

 

九十四句目

 

   逢ぬ恋よしなきやつに返歌して

 管弦をさます宵は泣るる    芳重

 (逢ぬ恋よしなきやつに返歌して管弦をさます宵は泣るる)

 

 舞台を王朝時代に変え、管弦のあそびも失恋の痛みから少しも楽しむ気分にはなれない。恨みがましい返歌を曲に乗せて歌い上げ、側近などもともに泪したのであろう。『源氏物語』などにあってもよさそうな場面だ。

 

無季。恋。

 

九十五句目

 

   管弦をさます宵は泣るる

 足引の廬山に泊るさびしさよ  揚水

 (足引の廬山に泊るさびしさよ管弦をさます宵は泣るる)

 

 これは白楽天が廬山尋陽で作詞した『琵琶行』を本説としている。

 

   琵琶行     白楽天

 今夜聞君琵琶語  如聴仙楽耳暫明

 莫辞更坐弾一曲  為君翻作琵琶行

 感我此言良久立  却坐促絃絃転急

 凄凄不似向前声  満座重聞皆掩泣

 座中泣下誰最多  江州司馬青衫濕

 

 今夜は君が琵琶を弾きながらする物語を聞くとしよう。

 仙楽を聴いているようで、耳は少しづつさえてくる。

 遠慮しないで坐ってもう一曲弾いてくれ。

 君のために「琵琶行」という詩に作り直してあげよう。

 私がそういうとしばらく立っていたが、

 再び坐り直すと絃を促し、激しくかき鳴らす。

 凄凄として今まで聞いたのと違う声となり、

 満座は重ねて聞いて、皆涙をおおう。

 座中で最もたくさんの涙を滴らせたのは、

 江州の司馬であった白楽天自身で、その青衫(せいさん)を濡らした。

 

 元ネタでは琵琶の演奏で盛り上がることになるが、「管弦をさます」というところで若干元ネタと変えていることになる。

 

無季。「廬山」は山類、名所。

 

九十六句目

 

   足引の廬山に泊るさびしさよ

 千声となふる観音の御名    其角

 (足引の廬山に泊るさびしさよ千声となふる観音の御名)

 

 これは京都の廬山寺のことか。洛陽三十三所観音霊場の三十二番目の霊場となっている。巡礼者の唱える「南無観世音菩薩」の御名が聞こえてきたとしてもおかしくない。

 想像上の中国からいきなり京都の街中の現実に引き戻すあたり、さすが其角さんといった展開だ。

 

無季。釈教。

 

九十七句目

 

   千声となふる観音の御名

 舟いくつ涼みながらの川伝い  枳風

 (舟いくつ涼みながらの川伝い千声となふる観音の御名)

 

 熊野詣は本宮と新宮の間を船で行き来する。巡礼者は船の上で観音の御名を唱える。

 

季語は「涼み」で夏。「舟」「川伝い」は水辺。

 

九十八句目

 

   舟いくつ涼みながらの川伝い

 をなごにまじる松の白鷺    峡水

 (舟いくつ涼みながらの川伝いをなごにまじる松の白鷺)

 

 納涼船を連ねて川を行くと、岸辺には水汲みや洗濯などの女たちの姿がちらほら見え、それに混じって白鷺の姿も見える。

 

無季。「をなご」は人倫。「松」は植物、木類。「白鷺」は鳥類。

 

九十九句目

 

   をなごにまじる松の白鷺

 寝筵の七府に契る花匂へ    不卜

 (寝筵の七府に契る花匂へをなごにまじる松の白鷺)

 

 『夫木抄』の、

 

 みちのくの十符の菅薦七符には

     君を寝させて三符に我が寝む

             よみ人知らず

 

を本歌とする。

 『奥の細道』の多賀城へ向う所に「かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十苻(とふ)の菅有。今も年々十苻の管菰(すがごも)を調て国守に献ずと云り」とある。十苻の菅は良質で、十苻の菅で編んだ御座はかつて都でも評判だったし、芭蕉の時代でもまだ作られていた。

 十符という数字に掛けて七符は君で三符は私と遠慮がちに分け合って添い寝する夫婦を詠んだ歌で、前句の「松の白鷺」を白髪の比喩と見たか、末永く寄り添う夫婦に桜の花よ匂えと祝福する。

 

季語は「花」で春で植物、木類。恋。

 

挙句

 

   寝筵の七府に契る花匂へ

 連衆くははる春ぞ久しき   挙白

 (寝筵の七府に契る花匂へ連衆くははる春ぞ久しき)

 

 前句の「寝筵」は捨てて、「寝筵の七府に契る」という花も匂ってくれ、こうしてたくさんの連衆が集まって俳諧百韻興行を成し遂げたその春をいつまでも、と締めくくる。

 

季語は「春」で春。「連衆」は人倫。