─やり直しバージョン─
鈴呂屋書庫の前身である「ゆきゆき亭」に「狂句こがらし」の巻の解説を書いた頃は、まだ他の俳諧はほとんど読んでなくて、当時の解説書などを参考にしたため、そのため正岡子規の貞門の洒落、談林の滑稽から写生説の発見で蕉風を開いたという当時主流の歴史観からどう逃れるかが課題だった。
ただ、その時はまだ芭蕉は当時の俳壇の中での群を抜く天才で、自らの発想で新風を次々と開いていったというバイアスがかかっていて、名古屋の連衆のレベルを過小評価していた。
このバイアスは結局は芭蕉が写生説を発明したが、それがあまりに近代的過ぎて、他の門人たちにはほとんど受け入れなかったという、古い歴史観の残滓によるものだった。修正しなくてはならないのはそこだ。
また式目の解説も、これを書いた頃は連歌の『応安新式』くらいしか知らなかったが、俳諧には統一されたルールはなく、慣習によるものが多い。細かい部分はまだ研究の余地があるので、今は大雑把に記している。
初表
笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまり
のあらしにもめたり、侘つくしたるわび人
我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才
士、此国にたどりし事を不図おもひ出て申侍
る
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉
たそやとばしるかさの山茶花 野水
有明の主水に酒屋つくらせて 荷兮
かしらの露をふるふあかむま 重五
朝鮮のほそりすすきのにほひなき 杜国
ひのちりちりに野に米を刈 正平
初裏
わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水
髪はやすまをしのぶ身のほど 芭蕉
いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五
きえぬそとばにすごすごとなく 荷兮
影法のあかつきさむく火を燒て 芭蕉
あるじはひんにたえし虚家 杜国
田中なるこまんが柳落るころ 荷兮
霧にふね引人はちんばか 野水
たそがれを横にながむる月ほそし 杜国
となりさかしき町に下り居る 重五
二の尼に近衛の花のさかりきく 野水
蝶はむぐらにとばかり鼻かむ 芭蕉
二表
のり物に簾透顔おぼろなる 重五
いまぞ恨の矢をはなつ声 荷兮
ぬす人の記念の松の吹おれて 芭蕉
しばし宗祇の名を付し水 杜国
笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨 荷兮
冬がれわけてひとり唐苣 野水
しらじらと砕けしは人の骨か何 杜国
烏賊はゑびすの国のうらかた 重五
あはれさの謎にもとけし郭公 野水
秋水一斗もりつくす夜ぞ 芭蕉
日東の李白が坊に月を見て 重五
巾に木槿をはさむ琵琶打 荷兮
二裏
うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに 芭蕉
箕に鮗の魚をいただき 杜国
わがいのりあけがたの星孕むべく 荷兮
けふはいもとのまゆかきにゆき 野水
綾ひとへ居湯に志賀の花漉て 杜国
廊下は藤のかげつたふ也 重五
参考;『芭蕉七部集』中村俊定校注、1966、岩波文庫
『古典講読シリーズ 芭蕉七部集』上野洋三、1992、岩波書店
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)
発句
狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉 芭蕉
この句の破調に関して言えば、当時としてはもはや新しいものではなかった。名古屋の連衆も千春の『武蔵曲』や其角の『虚栗』は読んでいただろうし、上方の伊丹流長発句の流行も知っていたであろう。
その意味で、この発句は多少名古屋の連衆を見くびった、これが江戸の発句だみたいな気負いがあったのではなかったか。
竹斎は江戸時代の初期に流行した仮名草子のキャラクターで、天和に再版された『竹斎』は、絵本のように紙面いっぱいに絵が刷られていて、その上の余白に文字が書き込まれているというもので、今日で言えば漫画のようなものだ。
元禄七年の名古屋での「世は旅に」の巻三十三句目に、
四五畳まけてあたまぬらさず
一冊も絵の有本はなかりけり 傘下
の句があるように、この時代はこうした絵のある本が氾濫していた。こうした中で菱川師宣のような優れた絵師が現れ、後の浮世絵の元となっていった。
竹齋はかつて名医の誉れ高かった養父薬師(やぶくすし)の似せもので、狂歌を詠みながら、磁石山の石で作った吸い膏薬のような妖しげなアイテムを使い、時には人助けもするが、たいていは失敗し、ほうほうの体で逃げ出す。
自分はその竹齋のような者です、という自己紹介の句になる。
季語は「木枯し」で冬。「身」は人倫。
脇
狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉
たそやとばしるかさの山茶花 野水
(狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉たそやとばしるかさの山茶花)
野水はこの発句をどう思ったかは知らない。この挑発をさらっと流す。
どうりで笠の上に山茶花が飛び散っているかと思ったら、狂句木枯らしの竹齋さんでしたか、と答える。
季語は「山茶花」で冬、植物、木類。「誰」は人倫。
第三
たそやとばしるかさの山茶花
有明の主水に酒屋つくらせて 荷兮
(有明の主水に酒屋つくらせてたそやとばしるかさの山茶花)
有明の主水という何となくありそうな人名を出して、前句の山茶花を笠に飛び散らせている人を、酒屋を作らせるような架空の偉い人とする。
主水は本来は水を管理する役人の官職名だが、当時の人名は官職名から来ているものが多く、特別なことではなかった。ただ、主水という名前から、明け方の有明の頃に草葉は清らかな露を結ぶから、さぞかし旨い酒が造れそうだ、とする。
季語は「有明」で秋、夜分、天象。連歌では光物だが、江戸時代の俳諧では天象と呼ばれることが多い。ただし、ここでは人名だから、厳密に言えば秋にはならない。ただ、談林俳諧ではこうしたものも形式的に秋としていた。「主水」も官職の名前としては人倫になり、人倫が三句続き、式目に反することになる。しかし、この場合は人名として用いられている。人名が人倫かどうかは、連歌の式目では特に何も記されず、漢詩を交えた和漢連歌の式目には「人名 可為人倫、姓は不可為人倫、但可依事也。(人名は人倫に為すべし。姓は人倫に為すべからず。ただし、事によるべき也。)」とある。これからすると、名前は人倫だが名字は人倫ではなく、それも時と場合に依ると、かなり曖昧だ。問題なのは、名字でも本名でもなく、「有明の主水」のような呼び名・あだ名の場合だ。本人固有のものは人倫としても、よくある呼び名は名字と同様、個人を特定できないから、人倫ではないとしてもいい様に思える。和歌・連歌では普通人名を詠むことはなく、漢詩では故事などを引くときに、歴史上の人物を詠み込んだりすることがよくあるので、それでこうした式目が作られたのだろう。こうした式目は、何でも有りの俳諧には対応していない。人倫は「倫」という文字が付くように、特定の人を指す言葉ではなく、人間の種類を表す言葉なので、俳諧では必ずしも人名を人倫とする必要はない。
四句目
有明の主水に酒屋つくらせて
かしらの露をふるふあかむま 重五
(有明の主水に酒屋つくらせてかしらの露をふるふあかむま)
馬がぶるぶるっと震えて露を掃う光景だろう。「あかうま」はどこにでもいる平凡な馬、駄馬という含みがある。酒屋など、商店には馬に乗った人も盛んに訪れる。
四句目にふさわしい穏やかな展開でありながら、リアルの世界を描き出す、『俳諧次韻』の「世に有て」の巻で見せた展開に近いものが感じられる。
季語は「露」で秋、降物。「馬」は獣類。
五句目
かしらの露をふるふあかむま
朝鮮のほそりすすきのにほひなき 杜国
(朝鮮のほそりすすきのにほひなきかしらの露をふるふあかむま)
異国趣味というのは延宝・天和の頃に盛んに見られたパターンだが、「ほそりすすき」は今となっては意味不明。天和二年の朝鮮通信使行列に関係しているのか。行列なら、露を払う馬もいるだろう。
季語は「すすき」で秋、植物、草類。二句目に山茶花があり、同じ植物ではあるが、山茶花は植物でも木類になるため、異植物ということで、二句去りでもいいことになっている。「朝鮮」は名所ではない。名所というのは歌枕など、古来、古典などで名高い場所をいう。
六句目
朝鮮のほそりすすきのにほひなき
ひのちりちりに野に米を刈 正平
(朝鮮のほそりすすきのにほひなきひのちりちりに野に米を刈)
前句の朝鮮に応じた架空の風景であろう。「野に米を刈」は陸稲だろうか。
和歌では稲は小野に詠む。
里人は小野の山田に今よりや
色こき稲の早苗とるらむ
鷹司院帥(夫木抄)
秋ふくる小野の山田に小男鹿の
涙色こき稲ぞのこれる
正徹(草根集)
などの歌がある。
季語は「米を刈る」で秋。「稲」なら植物だが米は食品で非植物。「日」は天象。天象は当時一般的には二句去りだったので、第三の「有明」から二句隔てていて問題はない。
七句目
ひのちりちりに野に米を刈
わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水
(わがいほは鷺にやどかすあたりにてひのちりちりに野に米を刈)
隠棲している人の風情で、鷺に宿を貸すようなところだから、川べりだろう。川原乞食などという言葉もあるように、川原は公界くがいで、特に誰の所有ということもなく、自由に棲むことができただけに、ホームレスの溜まり場にもなる。
そんな川原に庵を構え、米を作っているという、侘びた風狂物の句とする。
談林的な都会的リアリティーとは違った、後の蕉門のリアリティーの先駆のようなものを感じさせる。
無季。「いほ」は居所。「鷺」は鳥類。
八句目
わがいほは鷺にやどかすあたりにて
髪はやすまをしのぶ身のほど 芭蕉
(わがいほは鷺にやどかすあたりにて髪はやすまをしのぶ身のほど)
河原の住人ということで、こういうわけありの一時的な隠遁僧がいるというのは、当時のあるあるだっと思われる。
何か不始末でもしでかして、一時的に坊主になって反省した振りをして、ほとぼりが醒めたらすぐに還俗する気でいるわけだ。「しのぶ」というのが、俳諧では恋の言葉だから、女のことで不始末を犯した男かもしれない。当時不倫は重罪だった。
無季。恋。初の懐紙の裏の二句目に恋を出すのを「待かねの恋」といって嫌うという説もあるが、それは百韻のような長い形式のもので、始めにあまり盛り上げすぎてしまうと後が続かなくなることを戒めたものだ。歌仙のような短い形式のものでは、初裏の二句目あたりから積極的に仕掛けていかないと、すぐに一巻は終ってしまう。八句目の恋は他にも多くの例がある。「身」は人倫。
九句目
髪はやすまをしのぶ身のほど
いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五
(いつはりのつらしと乳をしぼりすて髪はやすまをしのぶ身のほど)
打越の河原の設定が解除されるので、ここは駆け込み寺に駆け込んだ尼になった女とし、子を失ってもなお出て来る母乳を絞り捨てる。
無季。恋。恋は五句まで続けてよく、連歌の式目には特に何句以上とは規定されてないから、一句で捨ててもかまわないのだが、当時は慣例として二句は続けなくてはならないとされていた。春秋の三句以上というのも式目にはない。
十句目
いつはりのつらしと乳をしぼりすて
きえぬそとばにすごすごとなく 荷兮
(いつはりのつらしと乳をしぼりすてきえぬそとばにすごすごとなく)
死んだ赤子の卒塔婆の前で泣き伏す女とする。
無季。釈教。
十一句目
きえぬそとばにすごすごとなく
影法のあかつきさむく火を焼て 芭蕉
(影法のあかつきさむく火を焼てきえぬそとばにすごすごとなく)
前句や打越のリアルでいて人情味あふれる句に、芭蕉も何か談林の流行の中で忘れていたものを思い出したのだろう。
この付け句は、寛文の頃の貞徳翁十三回忌追善俳諧三十一句目の、
秋によしのの山のとんせい
在明の影法師のみ友として 宗房
の句に似ている。最近使ってなかったこの貞門時代のこのパターンが、今の時代には生かせると思ったのかもしれない。
消えぬ卒塔婆を涙ながらに供養する人物の影が、寒さをしのぐための焚火の炎に映し出される。
無季。
十二句目
影法のあかつきさむく火を焼て
あるじはひんにたえし虚家 杜国
(影法のあかつきさむく火を焼てあるじはひんにたえし虚家)
虚家(からいゑ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「空家・虚家」の解説」に、
〘名〙 人の住んでいない家。あきや。また、家財道具もない、あきや同然の家。
※日葡辞書(1603‐04)「Cara(カラ) iye(イエ)」
※俳諧・冬の日(1685)「影法の暁寒く火を焼(た)きて〈芭蕉〉 あるじは貧に絶えし虚家(カライヱ)〈杜国〉」
とある。
この場合は家財道具もすべて失って空き家同然になった家という意味であろう。何もないところで火だけを焚いて暖を取っている。
無季。「虚家」は居所。「あるじ」は人倫。『応安新式』に「人 我 身 友 父 母 誰 関守 主(如此類人倫也)」とある。
十三句目
あるじはひんにたえし虚家
田中なるこまんが柳落るころ 荷兮
(田中なるこまんが柳落るころあるじはひんにたえし虚家)
「こまん」は「関のこまん」で丹波与作との恋物語が寛文の頃から俗謡に歌われ、浄瑠璃や歌舞伎にも脚色されてゆくことになった。貞享二年六月二日の「涼しさの」の巻七十句目にも、
はつ雪の石凸凹に凸凹に
小女郎小まんが大根引ころ 才丸
の句がある。
前句の貧しい暮らしに悲恋の柳を添える。
散る柳は、
庭深き柳の枯葉散りみちて
垣ほ荒れたる秋風の宿
伏見院(風雅集)
など、和歌に詠まれている。
季語は「柳落る」で秋、植物、木類。
十四句目
田中なるこまんが柳落るころ
霧にふね引人はちんばか 野水
(田中なるこまんが柳落るころ霧にふね引人はちんばか)
柳というのは川べりに植えられていることが多い。その意味では柳に船は付き物と言えよう。単に霧に船を引く人では連歌の趣向になってしまうが、そこを「ちんばか」とすることで俳諧にしている。人の身体の障害を笑うというのではなく、足が悪いながら一生懸命船を引く姿には、何か壮絶なその人間の生き様が感じられる。
この場合の「か」は「かな」と同じ。
季語は「霧」で秋、聳物。「ふね」は水辺。「人」は人倫。打越に「あるじ」があり、これはルール違反になるが、これは連歌の『応安新式』に基づいた場合で、俳諧では緩和されている可能性がある。
十五句目
霧にふね引人はちんばか
たそがれを横にながむる月ほそし 杜国
(たそがれを横にながむる月ほそし霧にふね引人はちんばか)
秋三句目で、この辺で月の欲しいところだ。船をゆっくりと引きながら次第に日が暮れていくと、地平線近くに細い月が見える。
「横にながむる」は見上げるような高さでなく、横を向くだけで見える、という意味。
季語は「月」で秋、夜分、天象。
十六句目
たそがれを横にながむる月ほそし
となりさかしき町に下り居る 重五
(たそがれを横にながむる月ほそしとなりさかしき町に下り居る)
前句の「横にながむる」を横になって眺める、とする。
「さかし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「賢」の解説」に、
「[二] なまいきな才知、分別があって、すきがない。
① 才知、分別だけあって、人間味が欠けている。かしこぶって、さしでがましい。こざかしい。
※落窪(10C後)一「まさにさかしき事せんや」
※枕(10C終)二五九「さかしきもの、今様の三歳児(みとせご)。〈略〉下衆の家の女あるじ」
② 他人のことについて、あれこれと口ぎたなくいうさまである。小うるさいさまである。
※俳諧・冬の日(1685)「たそがれを横にながむる月ほそし〈杜国〉 となりさかしき町に下り居る〈重五〉」
とある。
隣にうるさい奴がいる街に下りてきて、横になって細い月を眺める。細い月に何か世知辛さのようなものが感じられる。
無季。「となり」「町」は居所。
十七句目
となりさかしき町に下り居る
二の尼の近衛の花のさかりきく 野水
(二の尼の近衛の花のさかりきくとなりさかしき町に下り居る)
前句の「下り居る」を牛車から降りるの意味に取り成す。
天皇が崩御した時には、その妻達は尼となり、「二の尼」というのは二番目の尼、つまり本妻ではなく、かつての側室ということだろう。
「近衛の桜」というのは、謡曲『西行桜』に、
シテ「然るに花の名高きは。」
地「まづ初花を急ぐなる。近衛殿の糸桜。」
とある。西行法師が、
花見にと群れつつ人の来るのみぞ
あたら桜のとがにはありける
という歌を詠んだことで、花の精が現れて、桜には罪はないとばかりに、様々な桜の徳を並べる話だが、その中でも近衛の糸桜は有名だったようだ。
二の尼が近衛の桜が今盛りだと聞き、京の都の下町に牛車から降り立つ。
季語は「花」で春、植物、木類。釈教。「尼」は人倫。
十八句目
二の尼の近衛の花のさかりきく
蝶はむぐらにとばかり鼻かむ 芭蕉
(二の尼の近衛の花のさかりきく蝶はむぐらにとばかり鼻かむ)
前句の王朝ネタはこの時代によくあるものだったので、芭蕉としてもややほっとした感じがしたのではないか。
かつての宮廷で蝶のように華やかに舞っていた身も、今や近衛の糸桜どころか、こんな雑草にとまる蝶になってしまったと涙ぐむ。「鼻かむ」というのは泣くことを間接的に言う言いまわして、『源氏物語』でも須磨巻に「はなを忍びやかにかみわたす」というのが涙する意味で用いられている。風雅なようだが、何か鼻水でぐしゅぐしゅになった顔が浮かんできそうで、俳味がある。
花に蝶は、
花に蝶ここにて常にむつれなむ
長閑けからねば見る人もなし
(柿本集)
の歌がある。
季語は「蝶」で春、虫類。「むぐら」は植物、草類。
十九句目
蝶はむぐらにとばかり鼻かむ
のり物に簾透顔おぼろなる 重五
(のり物に簾透顔おぼろなる蝶はむぐらにとばかり鼻かむ)
舞台を現代に戻して、駕籠の簾の向こうに鼻をかむ人が朧に見える、とする。愛しき人の姿を見て、蝶のような浮気なあの人は野卑なむぐらの所に行ってしまったと涙する。
季語は「おぼろ」で春。恋。
二十句目
のり物に簾透顔おぼろなる
いまぞ恨の矢をはなつ声 荷兮
(のり物に簾透顔おぼろなるいまぞ恨の矢をはなつ声)
一転して仇討の句となる。
顔もおぼろなのに大丈夫だろうか。人違いでないだろうか。
無季。
二十一句目
いまぞ恨の矢をはなつ声
ぬす人の記念の松の吹おれて 芭蕉
(ぬす人の記念の松の吹おれていまぞ恨の矢をはなつ声)
熊坂長範(くまさかちょうはん)は謡曲『熊坂』でもって多くの人に知られるようになり、江戸時代の歌舞伎、浄瑠璃などの題材にもなっている。十二世紀の大盗賊ということで、義経伝説に結び付けられ、謡曲のほうも、綾戸古墳の松の木の下で、熊坂の十三人の手下をばったばったと切り捨てた牛若丸に、ついに熊坂が薙刀で切りかかり、一騎打ちとなるが、そこで牛若丸は今日の五条での弁慶のときのように、ひらりひらりとあの八艘飛びを見せ、ついには熊坂もこの松の木の下で息絶える。
この形見の松は謡曲『熊坂』に、
「あれに見えたる一木の松の、茂りて小高き茅原こそ、唯今申しし者の古墳なれ。往復ならねば申すなり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.85623-85626). Yamatouta e books. Kindle 版. )
とある。
その熊坂の形見の松も、やがて年月を経て、老木となり、今では吹き折れている。しかし、その木の下にたたずむと、今でも熊坂の霊が現れて、恨みの矢の声が聞こえてくるようだ。本説付になる。
謡曲では熊坂の武器は薙刀で、弓ではなが、出典で付ける時は、そのものではなく多少変えるのが普通なので、熊坂が弓で牛若丸を狙ったとしても悪いことはではない。
無季。「盗人」は人倫。「松」は植物、木類。
二十二句目
ぬす人の記念の松の吹おれて
しばし宗祇の名を付し水 杜国
(ぬす人の記念の松の吹おれてしばし宗祇の名を付し水)
岐阜県の郡上八幡は、かつって連歌師の宗祇が古今伝授を受けた東常縁の支配下にあり、ここでも古今伝授を受けるために宗祇が滞在したという伝承がある。
その宗祇の庵は長良川に流れ込む吉田川のほとりにあったと言われ、そこにある泉が、やがて「宗祇水」と呼ばれるようになった。(参考;『宗祇』奥田勲、1998、吉川弘文館)
ともに美濃国の名所で相対付けになる。
無季。
二十三句目
しばし宗祇の名を付し水
笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨 荷兮
(笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨しばし宗祇の名を付し水)
宗祇というと、
世にふるもさらに時雨の宿り哉 宗祇
の発句が有名で、前句の「宗祇の名を付し水」を宗祇水ではなく、時雨にも宗祇の名があるという意味に取り成す。
宗祇ゆかりの時雨であれば、無理にでも濡れて宗祇法師の「世にふるも」の気持ちになって見たいものだ。
なお、宗祇には、
今朝も降れ都は月の北時雨 宗祇
の発句もある。
北時雨は和歌にも、
窓あけてむかふ嵐の北時雨
はれゆくみれば雪の山のは
正徹(草根集)
の用例がある。
季語は「時雨」で冬、降物。
二十四句目
笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨
冬がれわけてひとり唐苣 野水
(笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨冬がれわけてひとり唐苣)
唐苣(たうちさ)はフダンソウとも言い、葉を食用とするビーツの仲間で、江戸時代の初め頃に中国から入ってきて、よく栽培されていたらしい。レタスのような味だという。今ではスイスチャードとも呼ばれる。冬でも収穫できないことはない。
ウィキペディアに
「ホウレンソウに似ているが比較的季節に関係なく利用できるので「不断草」とよばれる。「恭菜」という表記もある。 葉はホウレンソウとおなじように、おひたしや和物に利用される。太い葉柄は煮たり炒めたりして食べられる。 茎は色彩鮮やかで、赤、オレンジ、白などの種類があり、これらはポリフェノールの一種であるベタレイン色素によるもの。
欧米ではレッドチャードの若葉がラムズレタスなどといっしょにサラダとしてよく使われる。
沖縄県では「ンスナバー」と呼ばれ、「スーネー」または「ウサチ」という和え物や「ンブシー」という味噌煮に仕立てる。沖縄では冬野菜として利用される。他にも様々な地域名があり、岡山県ではアマナ、長野県ではトキシラズやキシャナ、兵庫県ではシロナ、京都府ではタウヂサ、大阪府ではウマイナ、島根県ではオホバコヂサと呼ばれる。」
とある。
時雨に濡れてでも収穫したいものだ。
季語は「冬枯れ」で冬。
二十五句目
冬がれわけてひとり唐苣
しらじらと砕けしは人の骨か何 杜国
(しらじらと砕けしは人の骨か何冬がれわけてひとり唐苣)
江戸時代前期には、まだ火葬や土葬などの習慣が徹底せず、死体を川原などに投げ捨てたりするので、いわゆる「野ざらし」と呼ばれる髑髏が草むらにごろごろしていても、それほど珍しいことではなかった。それらはやがて風化し、自然に砕け散ってゆき、土に帰ってゆく。
冬枯れの中で一人唐苣を摘んでいると、白く砕けた人骨のようなもを見つける。
無季。「人」は人倫。
二十六句目
しらじらと砕けしは人の骨か何
烏賊はゑびすの国のうらかた 重五
(しらじらと砕けしは人の骨か何烏賊はゑびすの国のうらかた)
「人の骨か何」を、砂浜に散らばる白いものと取り成す。イカの甲羅が白いので、それはイカだろう、という付けなのだが、それだけでは面白くないので、そのイカはどこか見知らぬ夷(えびす)の国の占いに用いられたものだろう、と付け加えている。(「うらかた」は占い方であって、裏方ではない。)
「ゑびす」と聞いて誰しもすぐに思い浮かべるのは、七福神の恵比寿様だろう。七福神は東の海上にある三神山の一つ、蓬莱山から、宝船に乗ってやって来ると言われている。だから、「ゑびすの国」とは蓬莱の国のことだろう。蓬莱山ではすべての生き物が白いと言われているから、そこにイカがいてもおかしくない。
ゑびすは一方で「えみし」と同様、「夷」という字を当て異民族の意味でも用いる。中国では東夷・南蛮・西戎・北狄と呼ばれ、「夷」は我々日本人の祖先である倭人を初めとして、越人、韓人などもひっくるめてそう呼んでいた。恵比寿様が漁師の姿なのも、中国人の側からみた東夷に漁撈民族のイメージがあったからだろう。東夷はかつての長江文明の末裔ということもあってか、他の蛮族に比べて一目置く所もあって、孔子も東方礼儀の国と言い、海の向こうの島国への憧れは、いつしか蓬莱山伝説を生んだのだろう。
秦の徐福も不老不死の仙薬を求めて日本に来たというし、鑑真和尚(がんじんわじょう)の日本布教への情熱も、おそらく日本に何かエキゾチックな魅せられるものがあったからだろう。マルコ・ポーロの黄金の島ジパングも、蓬莱山伝説がごっちゃになったものだろう。
無季。神祇。
二十七句目
烏賊はゑびすの国のうらかた
あはれさの謎にもとけし郭公 野水
(あはれさの謎にもとけし郭公烏賊はゑびすの国のうらかた)
「し」は「じ」で否定の言葉。
恵比寿の国の占方が占っても解けないのは、ホトトギスがなぜ哀れなのかだった。
永遠の命を持つ神仙郷の住民には、死後にホトトギスとなって血を吐きながら鳴くというのが、何のことだか理解できない。
季語は「郭公」で夏、鳥類。
二十八句目
あはれさの謎にもとけし郭公
秋水一斗もりつくす夜ぞ 芭蕉
(あはれさの謎にもとけし郭公秋水一斗もりつくす夜ぞ)
「秋水」は本来は秋に黄河の水かさが増すことで、『荘子』の秋水編はそこから来ている。それとは別に秋の清らかな水を意味することもあるが、この場合は秋の新酒のことだろう。酒は一升も飲めば立派な酒豪だが、その十倍の一斗(十八リットル)となると、なかなか豪勢だ。
酒豪が何人もそろって、今日は派手に飲み明かそうぜ、というわけでホトトギスにまつわる悲しい伝説など知ったことではない。
新酒の季節とホトトギスの鳴く季節とが合わないので、前句に関しては、単なるあしらいと見た方が良い。
季語は「秋水」で秋。「夜」は夜分。
二十九句目
秋水一斗もりつくす夜ぞ
日東の李白が坊に月を見て 重五
(日東の李白が坊に月を見て秋水一斗もりつくす夜ぞ)
酒といえば李白の酒好きは有名だが、ここでは李白ではなく、あえて「日東の李白」としている。基本的には架空の人物と見ていい。李白のような漢詩を得意としながらも、酒が好きで、李白の『月下独酌』の詩のように、月を見ながら月と壁に映る自分の影と三人?で酒を一斗飲み干したというから、豪勢だ。
「日東の李白」ではないが、「日東の李杜」と呼ばれた人は、これより十二年前の寛文十二年(一六七二年)に没したが、石川丈山という人がいた。三河の出身ということで、名古屋の連衆もよく知っていただろう。藤原惺窩に師事したという点では、松永貞徳とも交流があったと思われる。ただ、丈山は貞徳よりは歳が十二ほど下で、むしろ貞徳の息子の昌三と親しかった。
丈山は寛永十四年(一六三七年)に朝鮮使節が来日した際、権侙(クォンチョク?)という韓国人と筆談の際に、「日東の李杜」と褒められたという。当時の日本人は、漢文に関しては相当劣等感があったのだろう。韓国人も別に漢文に関しては母国語ではないのだが、それでも漢文に関しては韓国の方が上だという意識があり、本人はどうか知らないが、回りがすっかり有頂天になってしまったのではなかったか。寛文十一年(1671年)に刊行された『覆醤集(ふしょうしゅう)』の序文にもそのことが記された。
実際の丈山の詩を一つ紹介しておこう。
驟雨
冥色分高漢 雷聲過遠山
晩涼殘雨外 月潔斷雲間
暗い色が銀河を分かち
遠山をよぎるかみなり
夕暮は涼しく残雨の外
破れた雲に月は清らに
季語は「月」で秋、夜分、天象。「坊」は居所。
三十句目
日東の李白が坊に月を見て
巾に木槿をはさむ琵琶打 荷兮
(日東の李白が坊に月を見て巾に木槿をはさむ琵琶打)
『太平広記』巻第二百五、楽三に、玄宗皇帝が愛した羯鼓の名手璡(しん)が、頭に絹の帽子を載せ、その上に槿の花を置き、『舞山香』という曲を一曲演奏し、滑り落ちることがなかった、それだけ体を微動だにさせずに演奏したという話が収録されている。
李白も玄宗皇帝の時代の人ということで、この物語を本説として、日東の李白の月見の宴に琵琶の名手が頭巾の上に槿をはさみ、それを落とさずに演奏した、と付ける。
季語は「木槿」で秋、植物、草類。「巾」は衣装。「琵琶打」は人倫。
三十一句目
巾に木槿をはさむ琵琶打
うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに 芭蕉
牛や馬は死ぬとすぐに専門の処理業者がやってきて解体し、使える部分は持ち帰り、使えない部分もそれ専用の処理場に集められる。いわゆる穢多と呼ばれる人たちの仕事だ。
飼い主はこの時何もすることはない。馬の場合は江戸後期だと馬頭観音塔を建てて弔うが、この時代はよくわからない。
まして牛の場合はどうだったのか。後世には残らなくても、何らかの形で祭壇を設けて弔っていたのではないかと思う。
前句の琵琶法師がその現場を訪れて、そっと槿の花を添える。
槿というと白楽天の「放言五首」の五番目の詩に、
泰山不要欺毫末 顔子無心羡老彭
松樹千年終是朽 槿花一日自爲榮
何須戀世常憂死 亦莫嫌身漫厭生
生去死來都是幻 幻人哀樂繁何情
泰山府君の禄命簿には寸毫の偽りもなく、
夭折した顔回は八百年生きたという彭祖を羨まない。
松の樹は千年にして終に朽ちて、
木槿の花は一日を自らの栄誉とする。
何でこの世が恋しくていつも死を憂いたるするんだろう。
だからといって自分を嫌ったりして厭世的にはなるな。
生まれて死ぬのは所詮幻、
その幻がむやみに人を喜ばせたり悲しませたりする。
とある。
無季。「牛」は獣類。「草」は植物、草類。
三十二句目
うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに
箕に鮗の魚をいただき 杜国
(うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに箕に鮗の魚をいただき)
鮗(このしろ)というと、『奥の細道』の室の八島の所に、「このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨むね世に伝ふ事も侍はべりし。」とある。
ウィキペディアには、
「『慈元抄』では、コノシロの名称は戦国期ごろ「ツナシ」に代わり広まったという。大量に獲れたために下魚扱いされ、「飯の代わりにする魚」の意から「飯代魚(このしろ)」と呼ばれたと伝わる。これは、古くは「飯」のことを「コ」や「コオ」といい、また、雑炊に入れる煮付けや鮓(すし)の上にのせる魚肉なども「コ」や「コオ」といったところから。また『慈元抄』や『物類称呼』には、出産児の健康を祈って地中に埋める風習から「児(こ)の代(しろ)」と云うとある。当て字でコノシロを幼子の代役の意味で「児の代」、娘の代役の意味で「娘の代」と書くことがある。出産時などに子供の健康を祈って、コノシロを地中に埋める習慣があった。また焼くと臭いがきついために、以下のような伝承も伝わっている。
むかし下野国の長者に美しい一人娘がいた。常陸国の国司がこれを見初めて結婚を申し出た。しかし娘には恋人がいた。そこで娘思いの親は、「娘は病死した」と国司に偽り、代わりに魚を棺に入れ、使者の前で火葬してみせた。その時棺に入れたのが、焼くと人体が焦げるような匂いがするといわれたツナシで、使者たちは娘が本当に死んだと納得し国へ帰り去った。それから後、子どもの身代わりとなったツナシはコノシロ(子の代)と呼ばれるようになった。
富士山の山頂には「このしろ池」と呼ばれる夏でも涸れない池があり、山頂にある富士山本宮浅間大社奥社の祭神木花咲耶姫の眷属である「このしろ」という魚が棲んでいるとされ、風神からの求婚を断るために女神がやはりコノシロを焼いて欺いたという同様の話が伝わっている。
また『塵塚談』には、「武士は決して食せざりしものなり、コノシロは『この城』を食うというひびきを忌(いみ)てなり」とあり、また料理する際に腹側から切り開くため、「腹切魚」と呼ばれ、武家には忌み嫌われた。そのため、江戸時代には幕府によって武士がコノシロを食べることは禁止されていたが、酢締めにして寿司にすると旨いため、庶民はコハダと称して食した。その一方で、日本の正月には膳(おせち)に「コハダの粟漬け」が残っており、縁起の良い魚としても扱われている。」
と謂れの多い魚ではある。
箕(み)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「箕」の解説」に、
「〘名〙 穀類をあおりふるって、殻やごみをよりわける農具。また、年中行事などで供具としても使う。
※播磨風土記(715頃)餝磨「箕(み)落ちし処は、仍て箕形丘(みかたをか)と号け」
とある。
この場合は、牛の弔いにコノシロを供えるということだと思う。
無季。
三十三句目
箕に鮗の魚をいただき
わがいのりあけがたの星孕むべく 荷兮
(わがいのりあけがたの星孕むべく箕に鮗の魚をいただき)
ネット上の中谷征充さんの『空海漢詩文研究 「故贈僧正勤操大徳影讚并序」考』で、弘法大師の『故贈僧正勤操大徳影讚并序』を読むことができる。
そこには、
初母氏無嗣、中心憂之、數詣駕龍寺
玉像前 香花表誠 精勤祈息
夜夢明星入懐、遂乃有娠
初め母氏に嗣無く、中心之を憂う。數々駕龍寺に詣で、
玉像の前にて、香花をもて誠を表わし、精勤して息を祈る。
夜 明星の懐に入るを夢み、遂に乃ち娠有り。
とある。
弘法大師の懐妊にあやかって明けの明星に懐妊を祈ったが、得たのはコノシロだった。
なお、李白にも、生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊し、それで字が太白になったという伝説がある。それの本説で「子の白」を得た、と読んだ方が良いかもしれないが、ただ、二十九句目に既に「日東の李白」があるので被ってしまうが。
無季。恋。「わが」は人倫。「星」は夜分、天象。
三十四句目
わがいのりあけがたの星孕むべく
けふはいもとのまゆかきにゆき 野水
(わがいのりあけがたの星孕むべくけふはいもとのまゆかきにゆき)
「まゆかき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「眉描・黛」の解説」に、
〘名〙 まゆずみで眉をかくこと。また、まゆずみで眉をかくのに用いる筆。まよがき。
※白氏文集天永四年点(1113)三「青き黛(マユカキ)(〈別訓〉まゆすみ)眉を画いて眉細く長し」
とある。既婚女性は眉毛を抜いて、眉を描いていた。
結婚した妹の眉を描きに行き、妹の懐妊を祈る。
無季。恋。「いもと」は人倫。
三十五句目
けふはいもとのまゆかきにゆき
綾ひとへ居湯に志賀の花漉て 杜国
(綾ひとへ居湯に志賀の花漉てけふはいもとのまゆかきにゆき)
居湯(をりゆ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「居湯」の解説」に、
「〘名〙 直接釜を連結していない風呂。別にわかした湯を移し入れた風呂。湯船は流し場より低いところに作りつけにされていた。江戸時代、寛文(一六六一‐七三)末頃には、水風呂、据風呂(すえぶろ)に混同されたという。〔日葡辞書(1603‐04)〕」
とある。
ここでは当時お寺などを中心に広まりつつあった水風呂、つまり今日のような湯船にお湯に浸かる風呂であろう。
風呂に使う水に浮いた桜の花びらを、綾布で濾し取り、一風呂浴びさせてから妹の眉を描く。
志賀はさざなみの志賀で、琵琶湖に落ちた花のことになる。
明日よりは志賀の花園稀にだに
誰かはとはむ春の古里
藤原良経(新古今集)
の心であろう。
季語は「花」で春、植物、木類。「綾」は衣装。「志賀」は名所。
挙句
綾ひとへ居湯に志賀の花漉て
廊下は藤のかげつたふ也 重五
(綾ひとへ居湯に志賀の花漉て廊下は藤のかげつたふ也)
お寺か立派な屋敷の風呂として、廊下の障子には藤の影が映る。春爛漫をもって一巻は目出度く終わる。
季語は「藤」で春、植物、草類。蔓性の植物は草類として扱う。「廊下」は居所。