「むめがかに」の巻、解説

元禄七年春(『炭俵』)

初表

 むめがかにのつと日の出る山路かな 芭蕉

   処々に雉子の啼たつ      野坡

 家普請を春のてすきにとり付て   野坡

   上のたよりにあがる米の値   芭蕉

 宵の内ばらばらとせし月の雲    芭蕉

   藪越はなすあきのさびしき   野坡

 

初裏

 御頭へ菊もらはるるめいわくさ   野坡

   娘を堅う人にあはせぬ     芭蕉

 奈良がよひおなじつらなる細基手  野坡

   ことしは雨のふらぬ六月    芭蕉

 預けたるみそとりにやる向河岸   野坡

   ひたといひ出すお袋の事    芭蕉

 終宵尼の持病を押へける      野坡

   こんにゃくばかりのこる名月  芭蕉

 はつ雁に乗懸下地敷て見る     野坡

   露を相手に居合ひとぬき    芭蕉

 町衆のつらりと酔て花の陰     野坡

   門で押るる壬生の念仏     芭蕉

 

 

二表

 東風々に糞のいきれを吹まはし   芭蕉

   ただ居るままに肱わづらふ   野坡

 江戸の左右むかひの亭主登られて  芭蕉

   こちにもいれどから臼をかす  野坡

 方々に十夜の内のかねの音     芭蕉

   桐の木高く月さゆる也     野坡

 門しめてだまつてねたる面白さ   芭蕉

   ひらふた金で表がへする    野坡

 はつ午に女房のおやこ振舞て    芭蕉

   又このはるも済ぬ牢人     野坡

 法印の湯治を送る花ざかり     芭蕉

   なハ手を下りて青麦の出来   野坡

 

二裏

 どの家も東の方に窓をあけ     野坡

   魚に食あくはまの雑水     芭蕉

 千どり啼一夜一夜に寒うなり    野坡

   未進の高のはてぬ算用     芭蕉

 隣へも知らせず嫁をつれて来て   野坡

   屏風の陰にみゆるくハし盆   芭蕉

 

     参考;『芭蕉七部集』中村俊定校注、1966、岩波文庫

        『「炭俵」連句古註集』竹内千代子編、1995、和泉書院

        『連歌俳諧集』日本古典文学全集32、1974、小学館

        『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

 むめがかにのつと日の出る山路かな 芭蕉

 

 学校でも習う有名な句なので、ほとんど解説の必要はないだろう。

 あえて言うなら、苦しい旅の中も、一瞬漂うほんのりとした梅の香と一気に昇る朝日の姿にしばし癒やされる。それを「のっと」という俗語を巧みに使って表現しているといったところか。

 「のっと」は「ぬっと」と同じで、oとuの交替は古語ではしばしば見られる。「こがね(黄金)」「くがね」、「まろ(麿)」「まる(丸)」、「しろし(白し)」「しるし」、「そぞろ」「すずろ」、「かろみ」「かるみ」など。

 『俳諧古集之弁』には、

 

 「かの檜木笠着そらしつつ、細脛に余寒の凍(こほり)ふミしだきて、によひ出給ひけん。」

 

とあり、『俳諧鳶羽集』には、

 

 「如月のはじめつかた、いまだ夜深きに旅立、数里にしてほのぼのと明はなれ、右左の小家(こいへ)ありありと見えわたるに、栗柿の林は霜さえ、小笠の藪は赤ばみて今に冬のままながら梅ひとり咲出でて、ほのかに其香をはこび来る中より、朝日の隈もなくぬくぬくとさしのぼりたる味はひいはん方なし。風騒の人、神(たましひ)を奪るる処也。」

 

とある。

  『俳諧古集之弁』は遅日庵杜哉(ちじつあんとさい)の著で寛政四(一七九ニ)年三月刊。『俳諧鳶羽集』は幻窓湖中(げんそうこちゅう)の著で、文政九(一八二六)年九月稿、近代に勝峰晋風(かつみねしんぷう)によって翻刻されたもの。

 

季語は「梅」で春、植物、木類。旅体。「日」は天象。「山路」は山類。

 

 

   むめがかにのつと日の出る山路かな

 処々に雉子の啼たつ        野坡(やは)

 (むめがかにのつと日の出る山路かな処々に雉子の啼たつ)

 

 厳かな春の朝の情景にあちこちで雉が鳴き始める情景を、特に凝った意図はなく、さらっと付けている。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「句作に巧ミを用へず。立の字ちからあり。」

 

とあり、『俳諧鳶羽集』には、

 

 「脇は発句のいひ残しをいふこと勿論ながら、我力をぬきて少しも滞(とどこ)ほる方(かた)有べからず。いささかも節くれたる所あれば、発句にそふ事なし。雉子の啼立の詞、発句に覆ひかぶさりたるがごとく聞ゆる也。後世の亀鑑(きかん)ともいふなるべし。」

 

とある。

 脇は体言止めというのを規則だと思っている人もいると思うが、あくまでそれは習慣的なもので、そのような規則はない。あえて体言止めにこだわらず「啼きたつ」と力強く言い切ったあたりが、この句の芯とも言えよう。発句に「かな」という、主観性の強い、完全に断定しない曖昧な切れ字で結ばれている場合、それに答えるような断定が効果的になる。「~だろうか、そうだ‥‥だ」と覆いかぶさるような構成になる。これが、古註の指摘している点であろう。

  

季語は「雉子」で春、鳥類。

 

第三

 

   処々に雉子の啼たつ

 家普請を春のてすきにとり付て   野坡

 (家普請を春のてすきにとり付て処々に雉子の啼たつ)

 

 春のまだ農作業に取り掛かる前の暇な時期に家を改築しているのか修理しているか、工事を入れている。

 雉の声と金槌で{鑿|のみ}を打つ音とが似ていて、響き合う。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「脇の風調のおのづから鑿彫(さくてう)の音賑ひ初る村里の春色にひびきあり。」

とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、

 

 「第三は転の場也。処々といふをたしなく啼しさまと思ひよせて、正月末二月はじめ頃と転じたり。取つけてよむべからず。取つき(い)てなり。」

 

とある。

 『俳諧鳶羽集』は発句の初春の情を正月末から二月初めの情に転じたとしている。「たしなく」というのは「他事なく」で、一つのことに専念している様を言い、雉のあちこちで啼く声に、忙がしげに普請に取り掛かる様が響くもとのしている。「取付て」は「とりつきて」あるいは「とりついて」と読よみ、取り掛かる、始めるの意味。「とりつけて」と読むと、すがりつくという意味になり、意味が通らない。

 

季語は「春」で春。「家普請」は居所。

 

四句目

 

   家普請を春のてすきにとり付て

 上のたよりにあがる米の値     芭蕉

 (家普請を春のてすきにとり付て上のたよりにあがる米の値)

 

 上方の方面の情報で米の値が上がっているので、春の農閑期に家の改築に着手する。

 米の値上がりは消費者にとっては困ったものだが、農家にとっても、また年貢米で生活している武家にとっても喜ばしいことだった。

 『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には、

 

 「これハ炭俵の一体なり。家普請を春の手すきにとり付たる人ハ、米商人(こめあきむど)の仕合よくて買こむだる米も次第に値上りするさま也。」

 

とある。米問屋だという見方もある。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「さがるとせバ死句ならん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「上るといふに意味あり。さがるとせバ死句ならん。」、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「上ルト言ニ普請ノ意味有。下ルトセバ死句ナラン。」とある。米が値下がりしたなら家普請どころではない。

 

無季。

 

五句目

 

   上のたよりにあがる米の値

 宵の内ばらばらとせし月の雲    芭蕉

 (宵の内ばらばらとせし月の雲上のたよりにあがる米の値)

 

 前句の米の値上りを、春になって順調に米相場が上昇するという意味ではなく、収穫直前であれば、ちょっとした天候の変化に敏感に米相場が変動する、という意味に取り成す。

 秋の収穫期に天候が悪化すれば、米相場も敏感に反応する。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に、

 

 「根のなきあげと見てあしらハれけん。抑揚自在といふべし。」

 

とあるが、「根のなきあげ」はそうした心理的な相場の変動のことか。

『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)にも、

 

 「稲の花ざかり頃は、鬢の毛三本動く風吹ても相場の狂ふ事、夜と日とたがふ其おもむきを月の雲にてあしらひたる也。」

 

とある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「雲」は聳物。

 

六句目

 

   宵の内ばらばらとせし月の雲

 藪越はなすあきのさびしき     野坡

 (宵の内ばらばらとせし月の雲藪越はなすあきのさびしき)

 

 「藪」は森でも林でもなく、手入れのされていない木や草の茂る場所をいう。農民ではなく、その他の職業の人の貧しい集落を連想させる。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「在所の気やすきさまならん。夜も又静かになりけらし。」

 

とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「秋の寂寞、農家の気安きさま成べし。但し、世にいふ二百十日の前後無難にあれかしの話しならん。」とある。「在所」はここでは郷里のことで、特に被差別部落ということでもなさそうだ。

 月の雲に藪越の顔を合わすこともない会話は、響くものがある。どちらも隠れていて見えないという共通点があり、響付けといえよう。『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、

 

 「月の雲といふさびしびの余韻をうけて、藪ごしに噺すとあしらひたり。言外の味あじはひなり。」

 

とある。

 

季語は「あき」で秋。「藪」は植物。

初裏

七句目

 

   藪越はなすあきのさびしき

 御頭へ菊もらはるるめいわくさ   野坡

 (御頭へ菊もらはるるめいわくさ藪越はなすあきのさびしき)

 

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)という江戸時代後期に書かれた注釈書によると、「御頭へ 前句の藪越はなすを押て、組屋敷などの附なり。」とある。

 「組屋敷」は江戸時代の与力・同心などの組の者にまとめて与えられていた屋敷で、与力・同心は町の治安を守る今でいう警察のような仕事だった。

 与力・同心は直接罪人に触れる「不浄役人」で、その下で働く岡っ引きは被差別民がその職務に当たっていました。

 まあ、アニメの『PSYCHO-PASS サイコパス』に喩えるなら、与力・同心は監視官で岡っ引きは執行官のようなものになる。

 こうした不浄の人たちの住んでいた組屋敷は、いわば被差別民の部落で、そのため貧しくて庭なども手入れが行き届かず、薮になっている。

 これだとここでいう御頭おかしらは与力で、同心たちが組屋敷の藪越しに「御頭に丹精込めて育てた菊を取られてしまって、まったく迷惑な話だ」とか話している場面になる。

 いずれにせよ上下関係の厳しい世界で、御頭の言うことは絶対で、菊を見て「くれないか」と言われて断れるもんではなかったのだろう。

 

季語は「菊」で秋、植物、草類。「御頭」は人倫。

 

八句目

 

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ

 娘を堅う人にあはせぬ       芭蕉

 (御頭へ菊もらはるるめいわくさ娘を堅う人にあはせぬ)

 

 前句の「菊」を植物の菊ではなく、ここでは娘の名前に取り成す。つまり「お菊さん」。

 我儘で横暴な御頭が、どうも娘に目を付けているようで、親としては気が気でなり、傷物にされたらと思うと、娘を隠して、できるだけ人に会わせないようにする。

 御頭はここでは足軽屋敷の御頭か何かであろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)の三つは大体内容が似ているので、『俳諧古集之弁』系と言っておこう。『俳諧古集之弁』系は前句の「菊」を娘の名に取り成しての付けだとしている。これだと、御頭が嫁を探していてうちのお菊に白羽の矢が立ったら迷惑とばかりに、娘を御頭に合わせないように隠している、という意味になる。

 その他の系統のものは、菊を趣味としている御頭をいかにも堅物な人物と見立てて、そういう親父は娘に虫が付いてはいけないとばかりに人に合わせないようにしていると解釈する。これだと位付けになる。

 たとえば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は、

 

 「菊もらはるる迷惑と云やぶさかなる情より起し来て、六十前後の老と思ひよせたり。おもての色飽まで黒く、半白の髪の終にそそけたる事なくうるみ鞘の大小に葛布の古袴着て、極ていふ今の若きものは不人品也。容易に娘など出すべからずと、小家をつつまやかにおさめたるさまを余情に見せたり。」

 

とある。

 この句は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)に、

 

 「ことに人のよくおぼえたる俳諧也」

 

とあるように、かつては一般によく知られた芭蕉のヒット作の一つだったようだ。それだけに、いろいろ解釈するものがあり、そうした巷での論議を呼ぶというのも、人気の秘密といえるかもしれない。

 私は前者の「菊」を「お菊さん」のことと取り成したとする説を採りたい。というのも、頑固親父の描写という説も確かに面白いが、それだと単純な「あるあるネタ」だけに終おわってしまうし、展開にも乏しい。

 

無季。恋。「娘」「人」は人倫。

 

九句目

 

   娘を堅う人にあはせぬ

 奈良がよひおなじつらなる細基手  野坡

 (奈良がよひおなじつらなる細基手娘を堅う人にあはせぬ)

 

 「細基手」は今でいう小資本のこと。というわけで舞台は組屋敷や足軽屋敷から商人の家に変わる。娘を嫁にくれという商人が何人も足しげく通ってくるが、みんな似たり寄ったりの小資本の連中で、我が家の格には合わないとばかりに娘を隠しておく。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「娘をあハせぬを豪家と見て、乏しき商人の趣向を設け、うらやむ情を含めたらん。尤自他の変なり。○奈良がよひの語ハ、伊勢が艶詞の面影ありて、松をしぐれの染かねし恋をかくせり。さハ二句の間の余情といハん句作妙なり。」

 

とある。

 「松をしぐれの染かねし恋」は『伊勢物語』ではなく『新古今和歌集』の、

 

 我が恋は松を時雨の染めかねて

   真葛が原に風さわぐなり

               慈円(新古今集)

 

ではないかと思う。『伊勢物語』で奈良と言えば、冒頭の「昔、男初冠して、平城の京、春日の里に、しるよしして、狩りに往にけり。 その里に、いとなまめいたる女はらから住けり。‥‥」のことか。

 いにしえの身分違いの恋の情を、奈良の豪家のところに通う小資本の商人の情に、いわば今風に翻刻したということか。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「奈良がよひ 奈良ニ遊女町アリ、木辻ト云」とあり、『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)には「奈良ノ木辻遊郭ニ通フ若者共ノ俤ナリ。」とある。奈良の木辻遊郭はウィキペディアによると西鶴の『好色一代男』にも「木辻」の名が出てくるというから、芭蕉の時代にもあったのは確かだろう。ただ、句の内容からすると直接は関係なさそうだ。

 

無季。恋。「奈良」は名所。

 

十句目

 

   奈良がよひおなじつらなる細基手

 ことしは雨のふらぬ六月      芭蕉

 (奈良がよひおなじつらなる細基手ことしは雨のふらぬ六月)

 

 奈良へ出入りする商人たちの世間話で、「今年の六月は雨が降らへんな」ということにする。

 『俳諧古集之弁』系の註釈は「さらし買出しの商人」としている。晒し布は奈良の名産品で、商人たちが買出しに集まってきていたようだ。

 

季語は「六月」で夏。「雨」は降物。

 

十一句目

 

   ことしは雨のふらぬ六月

 預けたるみそとりにやる向河岸   野坡

 (預けたるみそとりにやる向河岸ことしは雨のふらぬ六月)

 

 旧暦六月は今のほぼ七月に相当し、前半はまだ梅雨が続くが、後半には梅雨が明け、かんかん照りの日が続く。あまり早く梅雨が明けると、日照りによる旱魃の恐れが生じるため、水無月には雨乞を行う。

 そんな農家の心配を他所に、商人にとっては川の増水の心配もなく船を走らせて、商売にいそしむ。味噌がよく売れれば、奉公人が川の反対にある河岸(かし、市場)に預けた味噌を取りに行ったりもする。 

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「水涸(みづがれ)の自由をいへり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「水涸になりたるゆへ、運ぶ自在をいへり。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「水涸ニナリタル故ニ、自在ナル体ヲ言リ。」とある。

 

無季。「河岸」は水辺。

 

十二句目

 

   預けたるみそとりにやる向河岸

 ひたといひ出すお袋の事      芭蕉

 (預けたるみそとりにやる向河岸ひたといひ出すお袋の事)

 

 「ひた」は「ひとつ」から来た言葉で「ひとすじ」ということ。今でも「ひたすら」という言葉に名残をとどめている。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には、

 

 「ひたといひ出す ヒタハ一向也。一筋ニ也。孝心ノスガタ也。」

 

とある。

 お袋のことを一途に思って味噌を取りにいくところを、昔の人は既に亡きお袋の法事のために味噌が必要だと解した。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「ミその用あるを年回と見て、いひ出すとハ作り給ひけん。」

 

とある。「年回」は年回忌のこと。

 『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には、

 

 「此句につけて人にききける事あり。此前に御頭へといふ事ありて、又御袋といふ事いかがならむと翁にたづねけるに、翁のいハく、御袋より猶よき事あらバかへよ、もしかへがたくバ此巻の見落しにしておけ、といハれしよし。尊むべし、あふぐべし。翁の俳諧をさバける河海の細流を択(えら)バずといハむか、さし合(あひ)くりといハれむより上手といハれよといふも、俳諧の金言也。此事をしらざるものハ、たださし合のミにかかりて、俳諧の去嫌(さりきらひ)にあらざる事をしらず。翁のこのことバを紳(しむ)に記すべし。」

 

とある。

 なお、江戸後期の俳諧師夏目成美(せいび)の『七部集纂考』(年次不詳)、『標註七部集稿本』(文化十三年以前成立)に、室町時代十五世紀前半の外記局官人を務めた中原康富の日記『康冨記(やすとみき)』の、

 

 「亨禄四年正月九日今暁、室町殿姫君誕生也。御袋大館兵庫頭妹也云々。」

 

を引用していることから、いくつかの注釈書もこれに習っている。「お袋」という言葉は室町時代からあった古い由緒のある言葉だということか。

 『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年十二月刊)もこれを引用して、

 

 「愚考、後宮名目云、母を袋になぞらへる事ハ、腹中にその子籠れる時、袋の中にものの在如くに侍れバ、めでたき事にことぶきて申侍る也。山崎闇斎云、俗称人はハ袋と云、蓋胞胎之義を取矣。」

 

と、お袋の語源についての薀蓄を披露している。

 

無季。「お袋」は人倫。

 

十三句目

 

   ひたといひ出すお袋の事

 終宵尼の持病を押へける      野坡

 (終宵尼の持病を押へけるひたといひ出すお袋の事)

 

 夜通し尼の持病の看病をしていると、ふとお袋を看病した時のことを思い出す、とする。

 持病というと代表的なのか「癪(しゃく)」で、原因のよくわからない腹などの内臓の痛みをひっくるめて癪と呼んでいた。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「旅などに寝て慕ふさまならん。哀ふかし。但し、存命の人にかえたり。」

 

とあり、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には、

 

 「よもすがら 看病ヲシナガラ、我母ノ持病ノコトヲ云出ス也。」

 

とある。

 持病というと代表的なのか「癪」で、ウィキペディアによれば「近代以前の日本において、原因が分からない疼痛を伴う内臓疾患を一括した俗称。」だという。江戸時代の読者も明治の人も大体持病というと癪のことだと思ったのだろう。『月居註炭俵集』(年次不詳、文政七年江森月居没す)に、

 

 「尼の持病を押える人、五十余の女にてもあらん。お前の母親も癪持で有た、或ハお前の事のミ案じてござつた抔(など)いふなり。」

 

とあり、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)にも「私がお袋も癪持で」とあり、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも癪とある。

 

無季。釈教。「終宵」は夜分。「尼」は人倫。

 

十四句目

 

   終宵尼の持病を押へける

 こんにゃくばかりのこる名月    芭蕉

 (終宵尼の持病を押へけるこんにゃくばかりのこる名月)

 

 終宵(よもすがら)という夜分の言葉が出たことと、そろそろ月を出さねばという所で、すかさず月を付ける。夜分三句去りなので、ここで出さないと花の上座の十七句目まで出さないか、夜分にならない明るいうちの月を出すことになる。

 名月の宴のさなか尼が癪をもよおし、看病して戻ってきたらコンニャクだけが残っていて、他の御馳走はみんな食べられていたという一種のあるあるネタで、前句の看病の重苦しい雰囲気を笑いで振り払おうというものだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「暁ちかく酒盛を覗きたらん。執中紳に銘ずべし。」

 

とある。『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)も、

 

 「名月ハ人々酒のミものくひして、夜すがら月をながめあそびしに、ひとり尼の持病を押えゐて、月も見ざりしとの附合ならむや。」

 

とある。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)にも、

 

 「其看病人夜フケ空腹ニナレバ、物クハントテ食物ヲ尋ルニ、イササカコンニャクノコリテアル暁方ノサマ也。」

 

とある。こうした解釈でいいと思う。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には、

 

 「尼ヲ老人トミテ、歯ニ合ヌ蒟蒻ヲ附玉へり。」

とある。看病してたら御馳走がなくなっていて蒟蒻だけ残っていたというだけでなく、その蒟蒻がまた老いた尼には噛めないと二段落ちになるというのだが、そこまで考えなくてもいいだろう。

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)には、

 

 「こんにゃく斗 月見の夜の硯ふたやうのもの也。」

 

とある。「硯ふたやう」というのは目出度い席などで硯の蓋に料理を盛り付けることで、最初は本物の硯の蓋を使っていたが、やがて専用の硯蓋状の容器を用いるようになったようだ。硯蓋には何種類もの料理を彩り良く盛ることが多い。

 

季語は「名月」で秋、夜分、天象。

 

十五句目

 

   こんにゃくばかりのこる名月

 はつ雁に乗懸下地敷て見る     野坡

 (はつ雁に乗懸下地敷て見るこんにゃくばかりのこる名月)

 

 街道で一般の旅人が利用する馬のことを乗懸馬(のりかけうま)といい、単に「乗懸」とも言う。

 これを利用する時には、まず馬に荷物を載せ、その上に人が乗るため、そこに薄い座布団のようなものを乗せます。これが乗懸下地(のりかけしたじ)になる。前句を宴席から旅体に転じる。

 マガンは冬鳥で名月の頃から日本に渡ってくるもので、その年の秋の初めて飛来した雁を初雁という。そのため名月に初雁は付き物ということになる。渡り鳥を出すことも旅の情につながる。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「残酒に朝出を祝ふならん。前句と時日を異にしたるの作略あり。」

 

とある。

 

季語は「初雁」で秋、鳥類。旅体。

 

十六句目

 

   はつ雁に乗懸下地敷て見る

 露を相手に居合ひとぬき      芭蕉

 (はつ雁に乗懸下地敷て見る露を相手に居合ひとぬき)

 

 ここでは、前句の「見る」は試みるの意味になり、居合い抜きを試みるとつながる。 山賊に備えてのことか。『奥の細道』の山刀伐(なたぎり)峠の所には「道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと云ふて人を頼み待れば、究竟(くっきゃう)の若者反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携たづさへて、我々が先に立ちて行く。」とあるが、そのときのイメージかもしれない。

 「はつ雁に乗懸下地敷て露を相手に居合ひとぬきを見る」の倒置。

 「露払い」という言葉もありますが、ここでは何か物を斬るのではなく、着物が濡れないように草の露だけを払う。

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)にも、

 

 「心がけのある武士と見て附たり。」

 

とある。

 『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年四月跋)には、

 

 「風雅弁に、玉散るの詞を俗語の姿に強て仕立たる句也といふ。」

 

とある。「抜けば玉散る氷の刃」は曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の村雨という刀を形容した言葉で、これに類する言葉が芭蕉の時代にあったかどうかは良くわからない。

 なお、『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)には、

 

 「此句此集出板の頃、翁旅立事序に見ゆ。其時島田の駅より杉風方への書簡に、予が居合い一抜の句、露を相手にと御直し可給候。くれぐれ野坡へ御伝頼入候とあり。」

 

とある。一応『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫)を調べてみたが、それらしきものはなく、「杉風宛(元禄七年閏五月二十一日─推定─付)の中に、

 

 「嶋田より一通、書状頼置候。相届候哉。」

 

とあるから、それのことか。「曾良宛(元禄七年五月十六日付)」には、

 

 「十五日嶋田へ雨に降られながら着申候。」

 

とあり、この書簡については「曾良宛(元禄七年閏五月二十一日付)」に、

 

 「嶋田より一通頼遣し候。相届申候哉。」

 

とある。このことからすると、五月十六日頃に曾良宛と同様、杉風宛の手紙を書いていたと思われる。ただ、引用された文があったかどうかは今のところ定かではない。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

十七句目

 

   露を相手に居合ひとぬき

 町衆のつらりと酔て花の陰     野坡

 (町衆のつらりと酔て花の陰露を相手に居合ひとぬき)

 

 花見はもっぱら町人のものだったが、お忍びでやってくる武士も多く、中には刀を持ったまま堂々と来る者もいたようで、

 

 何事ぞ花みる人の長刀       去来

 

の句もある。

 大勢の酔っ払った町人の前で、これも酔った勢いで居合い抜きなど披露して、決まれば拍手喝采だが刀は無残にも空を切ってという落ちではないかと思う。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「歯ミがき売りの芸と転じて、見る方のさまをいへり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)なども大体同じことが書いてある。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも「花の頃賑合場所へ出て、居合を抜き人よせをして歯磨楊枝等を売ニ」とある。江戸後期や幕末の人には居合い抜きを見せながら歯磨きを売る姿はお馴染みのものだったかもしれない。ただ、芭蕉の時代にあったかどうかは不明。

 「つらり」は今の「ずらり」で、あちこちに人ひとが分散している状態ではなく、ひとところに勢ぞろいして、というニュアンスで、見物人の人垣を連想させる。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「町衆」は人倫。

 

十八句目

 

   町衆のつらりと酔て花の陰

 門で押るる壬生の念仏       芭蕉

 (町衆のつらりと酔て花の陰門で押るる壬生の念仏)

 

 「壬生(みぶ)念仏」は壬生大念仏狂言のことで、壬生狂言とも呼ばれる。

 円覚上人が正安二(一三○○)年に壬生寺で大念佛会を行ったとき、集まった群衆にわかりやすく、無言劇を行なったのが起こりとされている。

 専門の役者ではなく地元の百姓が演じるもので、江戸時代にはその名が広く知れ渡り、境内の桟敷は京都・大阪から繰り出してきた金持ちに占領され、地元の町衆は門のところで押しあいへしあいしながら見物してたという。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「在所のものゝ桟敷をうらやむ以為を含め給へれど、人倫の異乱なき句作のちらしを見るべし。但、此会式を猿の狂言ともいふ。里人の鉦うちて、おかしき物真似をするなり。」

 

とある。押し合いへし合いしながらも、さしたる混乱もなく行儀良く芝居をみている様子は、まさに「人倫の異乱なき」でこの国の誇りであろう。

 「酔て」もここでは酒ではなく芝居に酔いしれていると見た方がいいだろう。

 

季語は「壬生の念仏」で春。釈教。

二表

十九句目

 

   門で押るる壬生の念仏

 東風々に糞のいきれを吹まはし   芭蕉

 (東風々に糞のいきれを吹まはし門で押るる壬生の念仏)

 

 ここでまた壬生念仏の様子を付けると輪廻になって展開しないので、背景を付けて流したと言っていいだろう。

 壬生寺が畑の中にあるところから、まわりの畑の景色に転じる。それも畑とは直接言わず、肥臭い匂いを付けるだけにとどめる。文字通り「匂い付け」。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「壬生寺ハ畠中なり。○此附二句がらミに似たれど、全く前句の用といハん。」

 

とある。

 二句がらみというのは壬生念仏のつらりと酔うた町衆の情景に声の匂いを加えて三句連続のイメージではないかというものだが、そうではなく壬生念仏の群衆の押し寄せる様を体として、それに付随するものとして肥えの匂いを付けただけで、打越の酔った聴衆とは離れているというものだという。三句にまたがっていけないのは本来連歌俳諧の基本なのだが、江戸後期ともなるとかなりそれが忘れられている。だから、これを「二句がらみ」という人も結構いたのだろう。

 前句の用というのは、たとえば川に橋を付けるようなもので、一つの趣向をこらした情景に対し、それに従属するような言葉を添えることを言う。壬生念仏に酔った町衆は体に体を付けているが、壬生念仏に春風は体に用を付けるということになる。

 『去来抄』「先師評」に糞尿の句は嫌う必要はないが、

 

 「百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん」

 

と、むやみに多用することを戒めている。ここでは、ただ春風だけでは発展性がないので、一つの趣向を立て、句の俳味を出すためにも、意味のある「糞(こえ)」の使い方だと言ってもいいだろう。

 

季語は「東風々(こちかぜ)」で春。

 

二十句目

 

   東風々に糞のいきれを吹まはし

 ただ居るままに肱わづらふ     野坡

 (東風々に糞のいきれを吹まはしただ居るままに肱わづらふ)

 

 春風が肥えの匂いを吹きまわす頃はまだ農閑期で、農家の人はやることのないまま体がなまって肘などを痛めたりする。これはわかりやすい展開だ。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「田家の正月などミゆ。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、

 

 「糞のいきれといふより転じ来て、百姓の此時節農隙(のうげき)ありて、ぶらぶら遊び居る体と思ひよせたり。日に日にはたらき馴れし身をあまり隙に居る故に、却て肱などいたしといふさま折々見聞処也なり。」

 

とある。

 「折々見聞処」つまりあるあるネタ。

 

無季。

 

二十一句目

 

   ただ居るままに肱わづらふ

 江戸の左右むかひの亭主登られて  芭蕉

 (江戸の左右むかひの亭主登られてただ居るままに肱わづらふ)

 

 「左右(さう)」というのは古語辞典によれば「かたわら」「あれこれ」「結果」といった意味があり、なかなか多義な言葉だったようだ。単にみぎひだりを言うのではなさそうだ。

 この句は「向いの亭主登られて江戸の左右(聞く)」の倒置で、左右はあれこれという意味になる。「ただ居るままに肱わづらふに、むかひの亭主登られて江戸の左右を聞く」というのが二句通した意味。

 『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)に、

 

 「前句の人、立病ミのぶらぶらして、向ひの亭主に江戸の左右抔(など)を聞也。」

とある。

 前句は農閑期の百姓のことだったが、ここでは京に住む店の奉公人に取り成されている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「店奉公の楽過たる趣をおかしくいへる按排に、前句を換骨し給へり。妙々。」

 

とある。

 

無季。「亭主」は人倫。十八句目の「町衆」から三句隔てている。

 

二十二句目

 

   江戸の左右むかひの亭主登られて

 こちにもいれどから臼をかす    野坡

 (江戸の左右むかひの亭主登られてこちにもいれどから臼をかす)

 

 前句はやはり、「向いの亭主の江戸より登られて、江戸の左右聞くに」と読む。江戸の話を聞きに近所の人が集まり、忙しくなるので、唐臼を貸してあげるという、隣近所の人情味ある句だ。

 「こちにもいれど」はの「いる」は要るという意味で、「こちらでも臼は必要だけど、先に使ってくれ」という意味。

  唐臼はシーソーのように梃子の原理を応用して杵を上下させる臼で、米の精米に用いられていた。

 今だと都会では自分で精米するということはあまりないが、田舎の方に行くとコイン精米機が置いてあったする。昔は玄米で保存して、自分の家で精米するのが普通だった。

 ただ、固定された大きな道具なのでどこの家にもあるものではなく、唐臼を借りに行く人の方が多かったのだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「世情を尽せり。二句一章なり。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「二句一章ニシテ、有ソウナコトヲ附タリ。向ヒト言ニ、コチニト言ニテ一章ナリ。」とある。

 「二句一章」というのは「二句一体」と同様、付け筋によって付けるのではなく、最初から和歌を詠むかのようにストレートに言い下すことを言っていると思われる。ただ、この場合は、「向かいの亭主」に「こちにも」という「向付け」にもなっている。

 『秘註俳諧七部集』では、八句目の、

 

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ

 娘を堅う人にあはせぬ       芭蕉

 

の句にも、「二句一章」の言葉がある。

 

無季。

 

二十三句目

 

   こちにもいれどから臼をかす

 方々に十夜の内のかねの音     芭蕉

 (方々に十夜の内のかねの音こちにもいれどから臼をかす)

 

 「十夜」というのは十夜念仏(じゅうやねんぶつ)のこと。京都の真如堂(真正極楽寺)をはじめ、浄土宗の寺で十日間に渡って行なわれる念仏会(ねんぶつえ)で、旧暦十月五日から十五日の朝にかけて行なわれた。明治以降、旧暦の行事は禁止されたため、今日では新暦の十一月六日から十五日に行なわれている。念仏の時に鳴らされる鐘の音は、初冬の風物でもあった。

  十夜念仏の頃には、ちょうど稲の収穫も終わり、籾摺の作業に入る。唐臼は精米だけでなく、その前段階の籾摺の作業にも用いられた。

 収穫期はそこらかしこ唐臼がフル稼働することになり、唐臼のない家では、ある家に借りに来ることになったのだろうす。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「臼のいそがハしき用をいへり。前底の体なることを見得すべし。」

 

とある。臼を貸すという用に十夜の鐘という体を付ける。

 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、

 

 「こちにも入る碓(うす)といふより転じ来て、初冬稲をこきあげて米にする時節と思ひよせたり。十月と作りてはひらめになる故、一つぬきて十夜とあしらひたる也。」

とある。

 ただ十月の時候を付けるだけではひらめ(平目:平板というような意味)になるので、十夜念仏の風景にして、一つの独立した体としている。

  「壬生の念仏」から四句しか隔てていないので、「念仏」という言葉は同字五句去りなので出せない。そこで「十夜」というだけで十夜念仏のこととしている。

  談林俳諧では、こうした制にかかわる言葉を抜いて式目をかいくぐる手法が多用されたため、「抜け風」と呼ばれたが、本来こうした式目の抜け方は中世連歌の時代からあったもので、『水無瀬三吟』の六十九句目の、

 

   うす花薄ちらまくもをし

 鶉なくかた山くれて寒き日に    宗祇

 

の句に、「風とはいはずして風あり此風にてすすきちり給はん」という古註がある。

 

季語は「十夜」で冬。「十夜」はここでは単なる十日の夜ではなく、十夜念仏のことなので冬になる。釈教。

 

二十四句目

 

   方々に十夜の内のかねの音

 桐の木高く月さゆる也       野坡

 (方々に十夜の内のかねの音桐の木高く月さゆる也)

 

 夜分ではないにせよ「夜」の文字が出たのですかさず月を出す。季節は冬なので「さゆる」という冬の季語を用いることで冬の月、寒月のこととする。

 葉を落とした桐の木に寒月がかかる様は冷えさびていて、鐘の音はマイナーイメージで却って静寂を感じさせる。

 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には、

 

 「鐘を聞居る寂莫の風情、桐の木をあしらへる所妙也。味ふべし。」

 

とある。

 

季語は「月さゆる」で冬、夜分、天象。「桐の木」は植物、木類。

 

二十五句目

 

   桐の木高く月さゆる也

 門しめてだまつてねたる面白さ   芭蕉

 (門しめてだまつてねたる面白さ桐の木高く月さゆる也)

 

 冬の寒い季節の月だから酒宴を開くわけでもないし、管弦のあそびに興じるわけでもない。門を閉めてただ一人黙って寝るのもまた一興かと床につくものの、それでも眠れず夜中になってしまう。

 「高く」は桐の木だけでなく「月」にも掛かるとすれば、天心にある月は真夜中の月だ。本当に寝てしまったんなら月を見ることもない。

 前句の「高く」「さゆる」の詞から、高い志を持ちながらも世に受け入れられず、冷えさびた心を持つ隠士の匂いを読み取り、その隠士の位で、「門をしめて黙って寝る」と付く。

 門を閉めて、一人涙する隠士に、冬枯れの桐の木も高ければ、月はそれよりはるかに高く、冷え冷えとしている。高き理想を持ちながら、決してそれを手にすることの出来なかった我が身に涙するのである。

 前句の語句をそのものの景色の意味にではなく、それに実景でもありながら同時に比喩でもあるようなニュアンスを読み取り、そこから浮かび上がる人物の位で、そうした人物のいかにもありそうなことを付ける。匂い付けの一つの高度な形であり、匂い付けの手法の一つの完成であり、到達点といってもいいかもしれない。

 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、

 

 「桐の木高く月冴ると云より転じ来て、晋人などの気韻をうつし取て、世を我儘に玩びたる隠者のおもむき也。無隣氏の民か、葛天氏の民かと云し淵明の俤も見みえて、余情あふるゝばかり也。だまつて寝たるとあしらひて、ちつとも寝ぬさまをおもしろさの詞にて見みせたり。翁曰、炭俵の一巻は、門しめての一句に腹をすゑたりと或書に見みえたり。」

 

とある。

 この「或書」とは土芳の『三冊子』のことであり、そのなかの「赤冊子」に、

 

 「この事、先師のいはく、すみ俵は門しめての一句に腹をすへたり。試に方々門人にとへば皆、泣事のひそかに出来しあさ茅生といふ句によれり。老師の思おもふ所に非ずとなり。」

 

とある。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「窓影愛すべき夕べならん。隠逸の人ひとなどミゆ。高くといひ冴るといえるを、心の高明なるにとりて趣向せられけん。妙境妙境。○臼と十夜の二句を昼と見みさだめ、与奪して、夜分をつらね給へるなるべし。」

 

とある。 打越の「十夜」が夜分なら夜分三句続いて式目に反することになるが、。「十夜念仏」が昼夜に渡って行なわれるもので、夜に限定されるものでないというところから、十夜の鐘に臼を貸すという二句を昼のこととして、あえて「寝たる」という夜分の言葉を付けている。

 

無季。「門」は居所。「ねたる」は夜分。

 

二十六句目

 

   門しめてだまつてねたる面白さ

 ひらふた金で表がへする      野坡

 (門しめてだまつてねたる面白さひらふた金で表がへする)

 

 芭蕉の高雅な趣向の句の後に同じように高雅なもので張り合おうというのは却って野暮というもの。ここは卑俗に落として笑いに転じるのが正解。

 大金を拾ったりすると、あぶく銭ということで、何かと周りからたかられたりして、酒でも振舞って奢ったりしなくてはならなくなる。それが嫌で、金を拾ったことは人に黙っていて、さっさと自分の部屋の畳替えに使ったら、ばれないように早々に門を閉めて、狸寝入りを決め込む。

 けち臭いけど、気持ちはわかる。前句の「だまって」に「拾う」が付く。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「いやしき面白ミに転ず。拾ふにだまるの語にらミあり。」

 

とある。

 こうしたあえて卑俗に落とした例としては、芭蕉の最後の興行となった「白菊の」の三十二句目に、

 

   野がらすのそれにも袖のぬらされて

 老の力に娘ほしがる        一有

 

の句がある。前句は、

 

   杖一本を道の腋ざし

 野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉

 

で、前句の杖を脇差にする人の姿を、既に死の淵に近い老人の姿と取り成した句で、このときの芭蕉の姿にも重なる。

 好句が生れた時には、それに張り合うようなことをせず、あえて卑俗な句で謙虚さを示すのも、礼儀のうち。俳諧はあくまで談笑であり、全体にあまり深刻になりすぎないようにするバランス感覚も重要だ。

 

無季。

 

二十七句目

 

   ひらふた金で表がへする

 はつ午に女房のおやこ振舞て    芭蕉

 (はつ午に女房のおやこ振舞てひらふた金で表がへする)

 

 初午(はつうま)は旧暦二月の最初の午(うま)の日のことで、京都伏見稲荷を初めとする稲荷神社で初午大祭が催される。

 ここでは前句の「ひらうた」を文字通り道で拾ったのではなく、初午の日に女房の親子にご馳走を振舞ったところ、そのご利益か臨時の収入があり、その「拾ったような」金で畳の表替えをする、という意味になる。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「与奪なり。」とだけある。与奪は前句の情を一度殺して新たな生命を吹き込むとでも言えばいいのか。換骨奪胎に近い。

 『七部集纂考』(夏目成美著、年次不詳)には、

 

 「おやこハすべて親属の事をいふ。中国の俗語也。」

 

とあるが、一般になじみのない中国の俚言をいかにも教養あるふうに持ち出すのはこの頃の芭蕉の軽みの風とは思えない。

 

季語は「はつ午」で春。神祇。「女房」「おやこ」は人倫。

 

二十八句目

 

   はつ午に女房のおやこ振舞て

 又このはるも済ぬ牢人       野坡

 (はつ午に女房のおやこ振舞て又このはるも済ぬ牢人)

 

 芭蕉の時代には大名の取り潰しや改易が相次ぎ、二十万とも四十万ともいわれる浪人が街にあふれていたという。笠張りなどの内職で細々と食いつないで日ごろから女房子供に迷惑をかけているそんな負い目からか、初午の日に女房の親や兄弟などに振舞って願を掛けにいくのも、多分毎年のことなのだろう。

 そして毎年願を掛けていても今年もまた仕官が決まらずに、というところか。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「賑ふ頃ハゑならぬ者も入こミなん。ねだる塩梅など来客に余情あり。○又の字去年をふくめり。」

 

とある。

 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、

 

 「親子振舞てと云より転じ来て、主家没落したる人の意地を立て二君につかへず、昔を忘れぬこゝろより稲荷祭りにかこつけて、旧友又はゆかりの人などを招き、一盃すゝめたる志のめでたさを余情よせいに見みせたり。」

 

とある。

 そんな意固地になって浪人を貫かれたら、女房もその親もたまったもんではない。これは違うだろう。

 ウィキペディアによれば、「牢人」は「主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者」のことで、それが改易などによって牢人が急増したため、浮浪者などを意味する「浪人」といっしょこたになって、「江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった」という。

 『七部婆心録』(曲斎著、万延元年奥)には、「牢人ト書損じたり。」とあるが、書き損じではない。ただ、幕末ともなると「牢人」にこの字を当てることはほとんどなかったのだろう。

 

季語は「春」で春。「牢人」は人倫。

 

二十九句目

 

   又このはるも済ぬ牢人

 法印の湯治を送る花ざかり     芭蕉

 (法印の湯治を送る花ざかり又このはるも済ぬ牢人)

 

 湯治というと今は観光旅行だが、昔は修験(しゅげん)の場になっている所が多く、ここで言う法印もそういう修験道の寺院の偉い人と思われる。

 前句の牢人はこの法印に世話になっていたが、その法印も湯治場の方に行ってしまい、かといって仕官の口もなく困ったというところでしょう。

 春だというのに就職も決まらずという悲哀は、今の世にも通じるものがある。

 春の三句目なので、花の定座が六句もくり上げられているが、両吟ではそれほど定座の位置にこだわる必要はない。ここで花のない春三句連ねて、三十五句目に五句去りでもう一度春にするというのも、形式に振り回された感じて収まりが悪い。

 

季語は「花ざかり」で春、植物、木類。釈教。

 

三十句目

 

   法印の湯治を送る花ざかり

 なハ手を下りて青麦の出来     野坡

 (法印の湯治を送る花ざかりなハ手を下りて青麦の出来)

 

 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、

 

 「湯治を送ると云より転じて、法印の除地を作り居る百姓どもの見送りに出たるが、誰の苗代かれの菜種などいひて、とりどり評議したるさまに思ひよせたり。前句香の花なれば、揚句の心にて作りたるが故に軽し。」

 

とある。

 寺社の所領は、幕府や藩からの租税を免除され、「徐地(よけち)」と呼ばれた。「なハ手て」はあぜ道のこと。法印の旅立ちを見送りながら、領内の百姓が集まって、農産物の噂をしている様子を付つけたもので、花の後だけに軽くさらっと付けている。

 

季語は「青麦」で春、植物、草類。

二裏

三十一句目

 

   なハ手を下りて青麦の出来

 どの家も東の方に窓をあけ     野坡

 (どの家も東の方に窓をあけなハ手を下りて青麦の出来)

 

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に、

 

 「加茂堤のほとりなる乞食村のもやうにも似たり。」

 

とあり、『俳諧七部集弁解』(著者・年次不詳)にも同様の記述がある。

 日本の家屋は南向きに作ることが多く、東向きの家が並ぶというと南北川が流れて、その川に添って集落が形成されたというような、何らかの特殊な事情があったのだろう。そのため、この句から加茂堤の乞食村が浮かんだのだと思う。

 江戸時代には白米の文化が広がり、都市の人間はいわゆる「銀シャリ」を食うようになったが、田舎では麦や粟・稗など、雑穀を混ぜて食うのが普通だった。前句の「青麦」から、米よりも雑穀を多く食う貧しい村を連想したのだろう。

 

無季。「家」は居所。

 

三十二句目

 

   どの家も東の方に窓をあけ

 魚に食あくはまの雑水       芭蕉

 (どの家も東の方に窓をあけ魚に食あくはまの雑水)

 

 家を東向きに建てるというのは、もう一つの可能性として、西側に海があり、潮風の害を防ぐために家を東向きにしたということが考えられる。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「前句を漁村と見ることハやすく、附句のほそミを得ることハ難し。」

 

とあり、『月居註炭俵集』(著者・年次不詳)には、

 

 「西風をいとふ海辺なるべし。」

 

とある。

 曲斎著の『七部婆心録』(曲斎著、万延元年奥)によれば、「食ひあく」というのは、飽きるまで食うという意味で、

 

 「船中にて活間(いけす)の魚死(あが)り売場なき時ハ、切懸干しにして置、常の雑炊用とす。又直にならぬ雑魚多き時ハ、肉醤に作て雑炊にも用る也。」

 

とある。漁村では生簀で死んで売り物にならなくなった魚を干物にして、雑炊の具とし、雑魚で作る肉醤(しょっつるやナンプラーのようなものか)で味付けし、明け方の漁の前に腹いっぱい食うのだという。

 「ほそミ」というのは『去来抄』によれば、

 

 「去来曰く、句のしほりは憐れなる句にあらず。細みは便りなき句に非ず。そのしほりは句の姿に有り。細みは句意に有り。是又證句をあげて弁ず。

 

 鳥どもも寐入って居るか余吾の海  路通

 

 先師曰く、此句細み有りと評し給ひし也。」

 

とあるように、句の意味の中にある。

 鳥が寝ているところを見ているわけではないのに、それを気遣う心の中に細みがあるように、この付け句にも貧しい漁村の人たちの心を思いやる細みが感じられるということか。

 

無季。「魚」と「はま」は水辺。

 

三十三句目

 

   魚に食あくはまの雑水

 千どり啼一夜一夜に寒うなり    野坡

 (千どり啼一夜一夜に寒うなり魚に食あくはまの雑水)

 

 漁村の食生活を詠んだ前句に冬の季節を付けて軽く流したという感じだ。

 雑炊は寒い時には暖まる。

 『月居註炭俵集』(著者・年次不詳)には、

 

 「海辺の雑炊に付て、一夜一夜に寒うなりといへり。」

 

とある。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「客中の趣ありと見て、衣の薄き意をふくミいへるや。郷愁かぎりなし。」

 

とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には、

 

 「流浪ノ人ト為テ、夜ノ物ノ薄キナドモ寒ウノ語ニ聞ヘタリ。」

 

とあり、漁村を渡り歩く旅人の俤を読み取っている。

 

季語は「千どり」で冬、鳥類、水辺。「一夜一夜に」は夜分。

 

三十四句目

 

   千どり啼一夜一夜に寒うなり

 未進の高のはてぬ算用       芭蕉

 (千どり啼一夜一夜に寒うなり未進の高のはてぬ算用)

 

 千鳥の鳴く冬の寒い時期は、農村では収穫も終わり、村長は年末までに納める年貢の計算に追われる季節でもある。

 不作が続いたのか年貢を払いきれず、未進となった金額が膨れ上がって、外も寒いが懐も寒くなる。

 『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)には、

 

 「寒うなるといふに、貧き人の未進と附たり。」

 

とある。「寒い」にダブルミーニングを読み取ってのことだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)にも「貢税の事なり。○はてぬの語、前句を結べり」とある。前句の一夜一夜期限が迫っていることに対し「未進の高のはてぬ」と結んだというわけだ。千鳥に「鷹」を掛けて縁語にしていたとすれば更に芸が細かい。

 芭蕉さんは伊賀藤堂藩に仕えていたときも料理人として調理場のお金の管理などもやっていたのだろう。江戸に出てきてからは日本橋本船町(ほんふなちょう)の名主、小沢太郎兵衛得入(とくにゅう)の家の帳簿付けをやったというから、お金のことにはかなり詳しい。この歌仙の四句目の、

 

   家普請を春のてすきにとり付て

 上のたよりにあがる米の値     芭蕉

 

もそうだし、

 

   灰うちたたくうるめ一枚

 此筋は銀も見しらず不自由さよ   芭蕉

 

   今のまに雪の厚さを指てみる

 年貢すんだとほめられにけり    芭蕉

 

   名月のもやう互ひにかくしあひ

 一阝でもなき梨子の切物      芭蕉

 

   吸物で座敷の客を立せたる

 肥後の相場を又聞てこい      芭蕉

 

など、経済ネタも得意としていた。

 

無季。

 

三十五句目

 

   未進の高のはてぬ算用

 隣へも知らせず嫁をつれて来て   野坡

 (隣へも知らせず嫁をつれて来て未進の高のはてぬ算用)

 

 忙しいということもあるし、未進の年貢が膨れ上がっていて祝言を挙げる余裕もないということで、隣近所にも知らせずにこっそりと嫁を呼び寄せたということか。

 通常は花の定座になるところだが、花を二十九句目に引き上げたため、ここに「花嫁」を匂わす「嫁」を出したとも言われている。「花嫁」「花火」等、桜の花ではなくても正花と扱われる言葉がいくつかあった。

 中世連歌の式目「応安新式」では、「花」は一座三句物で、それとは別に一句「似せ物の花」という、いわば比喩としての花を出すことができた。『文和千句第一百韻』には、

 

   門は柳の奥の古寺

 これをこそ開くとおもへ法の花   良基

 

の句がある。

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の雑の部にも正花となる言葉の一覧があり、植物でないものとしては、花火、花相撲、花燈籠、作花、花塗、花かいらぎ、茶の花香、花形、花子の狂言、燈火の花、花がつをといった言葉が見られる。

 「けうばかり」の巻(「けふばかり人も年よれ初時雨」を発句とする歌仙)では、十三句目に、芭蕉が「宵闇はあらぶる神の宮遷し」という月の字のない秋の夜分の句を出したために、月の定座に月を出せなくなり、十五句目の「八月は旅面白き小服綿 酒堂」を月の句の代用とした例がある。こういうちょっと苦し紛れな展開も、「機知」ということで連句の面白さの一つでもある。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「せつろしき時節を憚れるや。○花の座なれバ、花嫁の響をもていへりといふ説あり。さもあれ一座の説といふべし。」

 

とある。「せつろしき」は忙しいということ。京都では今でも「せつろしい」という言葉を使うらしい。

 

無季。恋。「嫁」は人倫。

 

挙句

 

   隣へも知らせず嫁をつれて来て

 屏風の陰にみゆるくハし盆     芭蕉

 (隣へも知らせず嫁をつれて来て屏風の陰にみゆるくハし盆)

 

 「屏風」があるということで、前句を貧しい家ではなく、裕福な家に取り成す。挙句(あげく)ということで、どういう事情でとか重い話題は避け、ただ、菓子盆が隠して置いてあるのを見て嫁が来たのが知れるというだけの句で、あくまで軽く流しているが、花嫁に菓子盆とあくまで目出度く終わる。

 『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)に、

 

 「爰(ここ)にては貧き人にもあらず。唯ひつそりと嫁を迎へしを、近辺の人が来て、菓子盆の見ゆる故、嫁でも迎へたかと思ふなるべし。」

 

とある。『俳諧古集之弁』系の註には「富貴の変あり。」とある。

 無季の挙句は、花の定座が確立された江戸時代には珍しいが、定座のなかった中世にはそう珍しいことではない。宗祇・肖柏・宗長の三人による中世連歌の最高峰ともいえる『水無瀬三吟』は

 

   いやしきも身ををさむるは有つべし

 人ひとをおしなべ道ぞただしき   宗長

 

というふうに無季で終わっているし、『湯山三吟』は、

 

   露のまをうき古郷とおもふなよ

 一むらさめに月ぞいさよふ     肖柏

 

と、秋で終っている。

 かえって、花の定座が確立されたことで、挙句は判で押したように春の句になってしまい、変化に乏しい。この巻で花の句を引き上げたのも、そうした月並を打破しようという一つの試みだったのかもしれない。ただ、それでも目出度い言葉で収めるところは近世的。中世の連歌はもう少しメッセージ的な終わり方をした。

 

無季。