現代語訳『源氏物語』

19槿

 加茂の斎院は式部の卿の親王の喪に服して賀茂神社を離れてました。

 

 源氏の大臣は例によって昔の恋を思い出したら止まらなくなる性癖なので、盛んに手紙をよこします。

 

 斎院としてはうざいだけで、返事もよそよそしくデレてくれません。

とにかく癪に障ります。

 

 九月になって斎院が前に住んでいた桃園宮(ももぞののみや)に移ったと聞いて、そこに伯母の女五の宮が一所に住んでいたから、その訪問にかこつけてのことでした。

 

 亡き院の兄弟たちの中でも特に大切にしていた妹でしたので、源氏の大臣も今でも親しく手紙のやり取りなどしてました。

 

 同じ寝殿の西の対と東の対に女五の宮と斎院が住んでました。

 

 式部の卿の親王の死からまだ日も経ていないのに、早くも屋敷が荒れ始めているような気がして、悲しい空気に包まれています。

 

 五の宮と対面し、いろいろ話を聞きました。

 

 すっかり年を取ってしまったような様子で、話しながらも時折咳をします。

 

 源氏の大臣の最初の妻の母で、先日亡くなられた太政大臣の妻だった三の宮の方が姉でしたが、まだ有り得ないくらい若々しいのに対し、五の宮はうってかわって声もたどたどしく、動作もぎこちないのは、元からそういう性格でした。

 

 「院の上の亡くなられた後、何もかも心細く思えて、年かさの積るがままに涙ながらに過ごしてきたというのに、式部卿の宮までもが私を置いて行ってしまいもうどうしていいのかわからないままだったのを、こうして訪ねて来てくださって、これまでのことも嘘のようですわ。」

 

 すっかり年取ってしまったなと思いましたが、すぐに姿勢を正して、

 

 「院の崩御以来、すっかり世の中が変わちゃったみたいで、無実の罪に問われて見知らぬ遠くの地で悶々としてたところ、たまたま朝廷に復帰することが許されて、いろいろごたごたして忙しく、これまでここに来て昔の話などを語り合うこともできなかったのが気になったままになってたんだ。」

 

 すると身を震わせながら言います。

 

 「それはそれは大変なことで、どこもかしこも先行きの分らない世の中を、同じような苦労しながら過ごさねばならない命の長さを恨んでばかりいましたが、こうして政界復帰なされた嬉しさに、あの時死んでしまわなくて良かったですわ。

 

 何てまあ立派に成長なさったことでしょうか。まだ子供だった頃を見た時にはこの世にこんな光り輝くものが現れたことにびっくりしてましたが、それが見るたびに輝きを増して恐ろしいくらいでしたわ。

 

 今の内裏にいる人がそれに本当にそっくりだとみんなが噂してますが、やはり若干劣っているものと思われますわ。」

 

 そんなふうに延々と、面と向かって褒められたりすると、何だかこそばゆいものです。

 

 「俺なんぞすっかり山奥の賤民になって失意の日々を送ったあとだから、すっかりふけこんでしまってたからね。

 

 内裏のあの方の容姿は歴代のどの御門とも比べ物にならなくて、とにかく尊いとしか言いようがないし、何かの思い違いではないかと。」

 

 「時々お会いするだけでもほんととにかく寿命が伸びる気がします。今日は年取ったのも忘れて憂鬱なこの世の苦しみをみんな忘れてしまったみたいですわ。」

 

 そう言うと又涙ぐむのでした。

 

 「三の宮がうらやましくて、娘をあなたの正妻にすることができていつでも会えて親しくできて、うらやましいですわ。

 

 このたび亡くなった式部の卿の宮も同じことを言って悔しがることもたびたびありましたか。」

 

というと、源氏の大臣の耳もぴくぴくっとなり、

 

 「そんなに親しくできてたら、今頃思いどうりになってたのに、みんなつれなかったからな。」

 

とむすっと恨めしそうに言うのでした。

 

 向こう側の部屋を見ると、今にも枯れてしまいそうな前庭のたたずまいもよく見渡せて、静かに物思いにふける仕草、顔かたちを思い浮かべては胸がキュンとなり、ためらうこともなく、

 

 「こうして訪ねて来た機会を逃しては、その気がないと思われちゃうからな。あっちの方にも顔をださなくちゃ。」

 

といって、簀子(すのこ)を通って渡って行きました。

 

 暗くなってきた頃ですが、にび色の御簾(みす)に黒い几帳(きちょう)の透ける影が奥ゆかしく、香の匂いを乗せた風も品良くていかにもという雰囲気ですね。

 

 簀子(すのこ)では気の毒と思ってか南の廂(ひさし)の方に案内されました。

 

 御簾の内から出てきた斎院の女官が対座して、斎院からの挨拶を伝えました。

 

 「何だか血気盛んな若者がやってきたかのような対応だね。長年にわたり翁のようにふるまってきたんだから、今日は御簾の内にも許されるかと思ってたけど。」

 

と、不平を言うと、女官が一旦御簾の内に入り、戻って来て、

 

 「亡き院の時代はみんな夢のことのようですわ。今さら醒めても空しいものですと思うようにしているのですがそれも難しく、これまでの御恩のことは落ち着いてからにして、今はまだ定め難いことのように思えます。」

 

 まあ確かに世間も恋も定め難い「世の中」だからなと、塩対応ももっともかと思います。

 

 「人知れず神の許しを待ってたのに

     ここまで冷たいよを過ごすんだな

 

 今は何の禁制があって斎宮に願も掛けられないようにしてるのか。須磨へ追いやられたりいろいろあったというのに、帰ってからもいろいろ悩み事が絶えないなんて。せめてほんの少しだけでも。」

 

と、勝手なことを言う下心なども、昔よりもなお少し若々しい感じさえします。

 

 それはまあ、もういい歳になったというのに、とても大臣という身分にふさわしいとは言いがたいですね。

 

 「世の仲の哀ればかりを言ってたら

     誓いは何だと神がいさめるでしょ」

 

という返歌に、

 

 「うわー、そりゃないよ。昔のいろんな罪はみんなお祓いの科戸(しなと)の風と一緒に飛んでったと言うのに。」

 

となおも口説こうとするスケベ心も大したものです。

 

 「もう恋なんてしないなんて禊は神も絶対承らない、という古歌はどうするんだ。」

 

などとしょうもないことを言っても、真面目に考えれば痛いだけです。

 

 男になびかない斎宮の独特な生き方は、年月が経っても確固としたものになるだけで、もはや返事すらないので、源氏も考え込んでしまいます。

 

 「ちょっと露骨に迫りすぎちゃったな。」

 

などと我に返ったようにそう呟くと立ち上りました。

 

 「人間年とると恥も外聞もなくなってしまうもんだな。

 

人知れず意気消沈して帰って行く愛しい人を、今だとばかりに呼び留めてくれてもばちは当たらないぞ。」

 

と言って出て行ったあと、女房達はここぞとばかりにあれこれうわさ話をしてました。

 

   *

 

 晩秋の夕暮れの残光も風情があって、風に吹かれる落葉の音を聞くにつけても、過ぎ去った昔の恋心を思い出しつつ、その頃の喜びや悲しみ、本当に真剣だった頃のことなど、思い出しては語り合ってました。

 もやもやした気分のまま帰って来たものの、寝るに寝れずに考え込んでました。

早めに格子を上げさせては外の朝霧を眺めました。

 枯れた花の中に朝顔の蔓があちこちにからまって、歩かないかわからないような花を付けて、匂いもそれまでにないものなので、折ってこさせて手紙に添えて斎宮に送りました。

 

 「きっぱりとした対応に周りの人はどう思ったかと、後ろ姿を一体どう見ていたのかと思うと残念です。

 

 そうはいっても、

 

 あの日見た朝顔つゆも忘れられず

     花の盛りは過ぎたのでしょうか

 

 長年のつのる思いを哀れだなんて、少しは思ったことはありますか。思ったのなら。」

 

などと書いてあります。

 

 すっかり若さを失ったような感じの手紙だし、返事をしないのも他人行儀かと女房達が硯などを用意したので、ならばと、

 

 「秋も終わり霧の垣根に絡みつく

     あるかなきかの朝顔なのね

 

 私にぴったりな喩えで、露の涙もこぼれます。」

 

とだけ書いた手紙は面白くも何ともなさそうですが、どういうわけか置くこともできずにいつまでも眺めてました。

 

 喪中の緑がかった灰色の紙に線の細い上品な筆使いもなかなかいいなと見入ってました。

 

 人というのは手紙を書く時には体裁を取り繕ろおうとするから、その時は何でもないことでも、周りを気にしてそれっぽく言ったりしてるうちに別の意味になったりして、それをまたこざかしくごまかしたりするから、真意が伝わらず曲解されることも多いものです。

 

 源氏の大臣の手紙もそうしたもので、だからといって今さら若造が書くようなストレートな求愛なんて分不相応なこととは思っても、昔から疎遠にしてたわけでもないのに虚しく時が過ぎていったのを思うとあきらめきれず、何度も手紙を書くようになりました。

 

   *

 

 二条院の東の対の離れた所に、例のあの女官を呼んで話し合いました。

 

 斎院に仕える人たちは下の方の身分の者まですっかり源氏の君に魅了されていて、間違いを起こしそうなくらいめろめろですが、斎宮は昔からまったく関心がなく、まして今はそういう年齢でもないことを自覚していて、深い意味のない草木のことを書いた手紙などでも、すぐ返事すると曲解されるかわからず、警戒心を緩める様子もないのですが、源氏の君はそうした人たちとは違って昔から変わってない斎院のことを愛しくも悔しくも思うのです。

 

 世間の噂では、

 

 源氏の君は斎院にぞっこんなようで、女五の宮もよろこんでいたし、お似合いなんじゃない」

なんて言われてるのが二条院の女君のいる対にも伝わり、「嘘でしょ、そんなことがあったらちゃんと言ってくれるとおもうわ」程度に思っていたものの、よくよく注意して見てると様子が何かいつもと違い、うわの空になってるのが心配になり、

 

 「まーた真剣に考えなくてはいけないことを、冷たく遊びか何かのように言っているんだわ。同じ皇族の血筋とはいえ、自分はその前の御門の血筋であっちは亡き院の血筋で格は向こうの方が上だし、これで心移りされたらその下の扱いになるというのに。

連れ添ってきた年月という点では自分が一番なのに、そんなことを通り越して圧倒されてしまうじゃない。」

 

などと人知れず思い悩んでました。

 

 「完全に捨てられて何も残らないなんてことはないとは思うけど、まだ物心つかない頃からずっと一緒にいたから当たり前になっていて、軽く見られてしまってるんだわ。」

 

などとあれもこれもどうすればいいのかわからず、いつものようなことなら嫉妬も可愛らしいですまされるものですが、悩みが深刻なだけにそれを表に出すこともできません。

 

 源氏の方はというと、ぼんやり外を眺めるばかりで、内裏に泊まることも多くなり、何かをするかと思えば手紙を書いていて、

 

 「どうやら噂は嘘ではないようね。何か少しでも話してくれればいいのに。」

と、面倒くさいなと思ってました。

 

   *

 

 夕暮れになっても喪中なので神事なども中止になって物寂しく、退屈を持て余していて、五の宮を日課のように訪ねていきました。

 

 雪がはらはらと舞って華やかさを添える黄昏時に、ちょっと形の崩れたいい感じに古びた御衣(おんぞ)に香を焚き込んで、念入りに身なりを整えた姿を見れば、心の軽い女房達はますますくらっときてしまいます。

 

 さすがに出て行く時には一応、

 

 「女五の宮の具合が良くないので見舞いに行ってくる。」

 

と一旦座ってそう告げると、振り向きもせず小さな姫君をあやしてごまかそうとして視線を逸らすあたりがただならないと思い、

 

 「何かこの頃不機嫌そうだな。俺は何もしてないぞ。長く一緒にいると汐焼き衣のようになれてしまって貧相にみえるというから、それで家を空けるようにしているんだけど、だめかなあ。」

 

 「汐焼き衣のようにこれが二人のなれの果てなんて、悲しいことばかりね。」

 

 それだけ言うと顔を背けて臥せってしまったので、見捨てて行くのも心が痛むものの、五の宮に手紙で約束してそまったので出発しました。

 

 「こんなことになるなんて思いもしないで今までやってきたのに」と煩悶しながらそのまま臥せってますと、喪中のにび色を基調として色を襲(かさ)ねた御衣(おんぞ)で、その色合いのセンスの良さが雪の光の中で華やいでいるのを見て、

 

 「本当に遠ざかってしまうのね。」

 

と涙をこらえきれません。

 

 源氏の方はこそこそするばかりで、

 

 「内裏以外の所に行くのは面倒くさいけどね。

 

 でも桃園宮様(五の宮)が先行き不安で、式部の卿が長年経済的に支援してたけど、今は俺が頼みの綱だと思うのも当然で、ほっておけないんだ。」

 

なんて直接言わずに女房などに言っていて、女房達も、

 

 「まあ、どうせまた昔からの女癖が治ってないだけで、残念。

 

 「またスキャンダルが起きそうで草。」

 

などと呟きあってました。

 

   *

 

 桃園宮の北側の門は人が多く、こんな所にうっかり入れないので、西側の厳重に閉ざされた門(寝殿造りの家は南に門がなくて東西の門が正門だった)へ行って、開けてくれるよう使いの者を走らせ五の宮の所へ行くと、「えっ今日も来たの?」と思いつつ、びっくりして門を開けさせました。

 

 門番は寒そうにしながらそそくさと出てきましたが、すぐには開けることができません。

他に男がいないようです。

 

 ガチャガチャ音を立てて戸を開けようとするものの、

 

 「錠帖がすっかり錆びちまって、駄目じゃん。」

 

と悪戦苦闘してるのを見て、時の哀れを感じ、

 

 「人生三十年なんてあっという間とよく聞くが、錠もやがては錆びてゆくというのに、人生というこのかりそめの宿は捨てることはできなくて、草木の花の色に迷うばかりだな」としみじみと思うのでした。

 

 ふと、歌を一首思いつきます。

 

 いつのまに蓬の家は閉ざされて

     雪ふる里の垣も荒れ果て

 

 時間はかかったものの、何とかこじ開けることができて入りました。

 

 五の宮の所でいつものように世間話をしているうちに、昔のことを何から何まで延々と話し始めたのですが、今はそれどころでないし眠くなってくると、五の宮も欠伸をして、

 

 「この頃はすぐに眠くなるものですから、最後まで話せなくて。」

 

と言ってる傍から鼾のような音が聞こえだして、これ幸いとばかりに立ち上がろうとすると、そこにまたいかにも年寄りというような咳払いをしながら来る人がいました。

 

 「恐れながら、覚えてらっしゃるかなと思ってたのですが、まだ生きてたのですよ。

 

 院様は祖母殿(おばおとど)と呼んで笑ってますけどね。」

 

などと名乗り出たので、若い頃の頭の中将との一件や賀茂祭の時のことなど思い出しました。

 

 源典侍(げんないしのすけ)はその後尼になって五の宮の弟子になったと聞いたことがあったが、まだ生きていたというのは聞いてなかったので、びっくりです。

 

 「あの頃のことはみんな昔話になってしまって、今さら思い出すのも空しいけど、その声がまた聞けて何か嬉しいな。

 

 親もなく腹をすかして倒れてる旅人と思って、どうか暖かい愛で包んでくれ。」

 

 「『あたしも年を取ったがそれはあなたも同じね』なんて言うあたりは相変わらず立派なものだな。

 

 まるで今急に年を取ったみたいに言うじゃないか。」などと思いながらもニヤニヤしてこれはこれで面白いとも思いました。

 

 源典侍の若かったころにライバルだった女御更衣の多くは既に亡くなっていて、存命でも女としての価値がなくなって、空しくどこかを彷徨ってたりしてるのだろう。

 

 それに引き換え、入道の宮は年齢はどうだったか。

 

 こんな情け容赦ない宮中にあって、年齢からすればいつ逝ってもおかしくなく、上臈としての才覚なども大したことなかった人が生き残り、こうして仏に仕えて長閑な日々を送っているんだから、ほんと人生というのは分らないもんだな、と思いつつ人生の悲哀をかんがみていると、典侍はまだ私のことを思っててくれてきっとドキドキしてるんだわと思って、急に若返ってしまったか。

 

 「年とってもこの契りだけは忘れない

     親の親だと言ってくれたから」

 

と歌を詠まれてもきしょいだけで、

 

 「転生をしたのち会おう今生の

     親を忘れる子なんていない

 

 楽しみな約束だな。話はいずれどこかでゆっくりと。」

 

と言って立ち去るのでした。

 

 西側の斎院の部屋の格子は閉まっていたが、あからさまに拒んでるように見えるのもいかがなものということで、一間二間ばかり開けてました。

 

 月の光が差し込んでうっすらと積った庭を照らし、なかなか眺めの良い夜でした。

さっきの老婆に言い寄られたのを反面教師にして、自分もそう見られないようにと反省してるのが笑えます。

 

 そういうわけで今夜はいかにも真面目そうに真顔で言い寄ります。

 

 「嫌いなら嫌いと一言でいいから、人づてでなく直接言ってくれ。その方が諦めもつくから。」

 

 斎院はというと、お互いに若かったあの頃だったら許されてたような罪でも、亡くなった父も嫁がせようとしてたけど、平行従弟だし血縁が近すぎて恥ずかしい、ありえないと思ってたのに、今になって盛りも過ぎて相応しくない年齢だというのに、そんな一言を言うのも畏れ多いことだと思って、黙っているので、ひどいよ、あんまりだと思ってました。

 

 さすがに冷淡に突き放すわけにもいかず、人づてにそれを伝えるのもためらわれます。

夜も刻々と更けて行き、風の様子も激しさを増し、本当にどうしていいかわからず弱気になり、源氏の君は体裁を取り繕って涙を押し殺し、

 

 「嫌われても未だに懲りないこの心

     あなたの辛さと二重に辛い

 

 自分ではどうしようもないんだ。」

 

 女房達は、

 

 「確かに。」

 

 「痛いわね。」

 

と言います。

 

 「どうすれば変われるのかしらこの心

     他の人ならわかりませんが

 

 今も昔も私は変わりません。」

 

 それが答えでした。

 

 けんもほろろで引きつったように顔をこわばらせて、ぶつぶつ恨みつらみを言いながら帰って行くあたりは、まだまだ若いなという感じで、

 

 「こんなんじゃ世間の笑い者になるだけだし、絶対に言うなよ。

 

 『いさや川』の歌の『わが名もらすな』はうまく行った時の話でまだましだ。」

 

と女房達に必死に釘を刺そうとしますが、何のことかとぽかんとしてます。

 

 その女房達も、

 

 「うわあ、もったいない。あんなきっぱりと突き放して帰してしまうなんて。

 

 「浮気心で無理難題吹っ掛けてるとは思えなかったし、可哀想。」

 

などと言ってます。

 

 斎院としても、源氏の人が良くて、気の毒な人を放っておけない性格なのを知らないわけではありません。

 

   *

 

 何となくそれは理解しているものの、世の女性たちのように賞賛しているというわけでもありません。

 

 一方、浮気者だということもわかっているから、下手に靡くと恥をかいてしまうだけだと思い、昔から好きだったなんて言われても空しいだけ。

 

 普通の手紙のやり取りは続けて、あまり疎遠にならないようにしないといけないけど、あの女官を介しての手紙は体面を害さない程度にやり過ごそう。

 

 長年神社に仕えていてできなかった仏道のお勤めも、これからはしてみようかと思い立ったけど、にわかにそんなことをしても、いかにも避けてるようであてつけがましいし、誤解を招きかねない。そう思うのでした。

 

 確かに世間の人があることないこと無責任に言い放つのはもう懲りていたのでしょう。

仕えてる女房達も信用できず、仏様に祈るようになってゆきました。

兄弟はたくさんいるものの、腹違いのものが多くてほとんど交流がないし、宮中とも疎遠になっているので、あのような大物が好意を示して求愛を迫って来れば、人は皆それに乗っかろうとするに決まってるから問題なのでした。

 

 源氏の大臣は別に一途に思い詰めたるする人ではないけど、ふられると癇癪を起こし、ここままでは終わらせまいとするところが残念で、

 

 確かに源氏の大臣は世間でも理想的な人とされ、思慮深くて、世間のいろんな人の立場にも耳を傾け、今では様々な経験を積んだ人だと思われているので、今さら女の問題で世間から非難を浴びるのもとは思いつつ、

 

 「それでいてふられたとなればそれこそいい笑い者だ。どうしたもんか。」

 

という焦りもあってか、二条院の夜を空けることが度重なり、女君は洒落にならないと悩みます。

 

 涙がこぼれるのを堪えられるはずもありません。

 

 「何だかいつもと違って変だぞ。理由がわからない。」

 

と言って髪をわしゃわしゃしながら可愛いと思っているあたり、一見すると絵に書いたような円満夫婦です。

 

 「入道の宮様が亡くなったあと、御門もとにかく寂しそうで世の中のことを歎いてるのも痛々しいし、太政大臣の職も空席のまま後継者が決まらなくて忙しいんだ。

ここのところ家に帰らなかったを普通じゃないと思うのもわかるし、可哀想だけど、今はとにかく気長に待っててくれ。

 

 大人のように見えても、まだまだ何もわかってないし人の気持ちを察することもできなくて、赤ちゃんだな。」

 

などぐしゃぐしゃになった前髪を元通りに直しはするけど、顔を背けるばかりで何も聞こうとはしません。

 

 「こんな子供じみた女に誰が育てたんだ。」

 

と言いつつ、儚いこの世に何でこんな煩悩が絶えないのか不条理なもんだと思いながらも、放ってはおけずに女君の方を見ます。

 

 「斎院に取るに足らない手紙を出してることを勘繰ってるのか。

 

 それは大きな勘違いだ。わかるだろっ。

 

 むかしからあいつは人を遠ざけていて、淋しがってるところに意味ありげな手紙を書いて困らせてしまったが、向こうも隙をもてあましてるのか、時折返事など来たけど、そんな本気でつきあってたわけでもなく、取るに足らないことなので、わざわざ説明する程の事でもないと思って‥

 

 後ろめたいことは何もないんだ、わかってくれよ。」

 

などと言いながら、その日一日慰めてあげたのでした。

 

   *

 

 折からの大雪になり、今もまだ降っていて、姿を変えぬ松としなだれた竹のコントラストの面白い夕暮れに、源氏と女君の姿もすっきりしたように光り輝いてます。

 

 その時々の季節でいうなら、俺は人を感動させる桜や紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄み切った月に、雪の反射する光が加わった明るい空が、不思議と色もないのに身に染みて、この世だけでなく浄土のことを思わせて、苦楽を忘れさせてくれる。

 

 これを殺風景だという人の気が知れない。」

 

と言って、香炉峯の雪を見るかのように御簾を巻き上げさせます。

 

 月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ。

可愛らしい姿や髪型なども月に映えて、発育のいい童女たちが宿直(とのい)姿の色々な色の衵(あこめ)を振り乱し、帯なども緩んでたりしてなまめかしく、結ってない髪の先が白い雪が散ることで黒さを引き立たせてます。

 

 小さい童女ははしゃいで走り回り、扇子なども落したりして屈託のない顔が可愛いですね。

もっと大きな雪玉をつくろうと欲張ると、雪がいくら押しても動かなくなります。

別の童女たちは東の妻に出て来ていて苦笑してます。

 

 「去年は入道の宮の庭前に雪の山を作ったな。古くからよくあることだけどそこにちょっとした面白い工夫をしてたな。

 

 これからこうした行事や遊びなどにあの人がいないのは残念で物足りない。

 

 俺をなるたけ近寄せないようにしてて、詳しい様子を目にすることはなかったけど、内裏にいる時は屈託のない人だった。

 

 信頼できる人で、何かあった時には何でも相談できたし、表向きはいかにも才気に富んでるふうではないけど、話は面白く物事に囚われずにちょっとした面白いことをしたりした。

 

 やさしくて癒される所もあれば、きりっとした気品もあって、またとない人だったけど、君はまた家系的にも藤壺にいた亡き入道の宮の藤の色、紫の縁があってそっくりだと思うんだけど、ちょっとばかり焼き餅焼きで、グサッとくるようなところがあって、それがちょっとね。

あの斎院はまた違ったキャラでね。

 

 大人しい人で、何となく手紙のやり取りをして、俺も意識はしてたんだけど、でも君だけがいつもずっと一緒に過ごしてくれた。」

 

 「尚侍(ないしのかみ)なんかは気品と風格に関しては誰にも負けないけど、忘れてない?

 

 遊んだりするようなことなどないと思ってた人なのに、なんであんなおかしなことになっちゃったのかな?」

 

 「まあな。美人で色っぽいタイプという意味で引き合いに出される人だ。

 

 そう思うと可哀想なことをしたと後悔するばかりだ。

 

 まして浮気なあの人も年を重ねて、今ではさぞ後悔してるんじゃないかな。

 

 誰よりも真面目な俺でもそうなんだから。」

 

 そういいながら、尚侍(ないしのかみ)のことでも涙を少し流しました。

 

 「あの山里の人は君はどうでもいいくらい下に見ているけど、身分の割にはなかなかの人で、ものごとをよくわかってるけど、受領クラスで我々とは身分の違う人だから、無理に上流の暮らしをさせないようにしてる。

 

 もっと下の階層の人はまだ付き合ったことない。なかなか目に留まるような人はいないもんだ。

 

 東の院で過ごしている人の気質というのは昔ながらのもので守ってあげたい。

 

 あれは貴重なもので、昔ながらの趣味趣向はお世話を始めた頃から変わらず、節度を持ってこれからも保護して行く。

 

 今さら離れ離れになる必要もないし、本当に良い人だと思う。」

 

 こうやってとりとめもなく話しているうちに夜も更けていきました。

 

 月はさらに澄んだ光を放ち、美しい静寂に包まれます。

 

 「凍りつく岩間の水はとどこおり

     空にすむ月が流れていくわ」

 

 外を見ようと身を少し乗り出すさまが、他に比べようもなく綺麗です。

 

 豊かな髪、顔の輪郭が今は亡き愛しい人のように見えてドキッとすれば、目移りしてた心もここに戻って来て重なり合うかのようです。

 

 オシドリが鳴いたので、

 

 「昔からの恋を搔き集めた雪のよに

     ひと時の愛添えるオシドリ」

 

 寝床に入っても亡き入道の宮のことを思いつつうとうとしてると、夢なのかほのかに見える人影は、深く恨んでいるかのような様子で、

 

 「秘密にしてと言っておきましたが、浮名は隠すことも出来なくて、恥ずかい苦しい目に合うばかりで辛いですわね。」

 

と告げました。

 

 か言おうとしたけど、襲ってくるような恐怖に感じ、女君の、

 

 「え?何?どうしたの?」

 

という声がして驚いて目が覚めると、ひどい自己嫌悪に陥り、心臓が激しい鼓動を打って騒ぐのを何とか抑えると、涙が溢れ出ました。

 

 泣き止むこともできずに袖を濡らし続けていると、女君は何が起こったかもわからぬまま、体を動かすこともなくまた寝てしまいました。

 

 「ゆっくりと寝れない冬の夜は淋しく

     心に凍る夢は短い」

 

 悲しみの止まらないまま早く起きて、誰のためとは言わずに方々の寺に御誦経(みずきょう)を頼みました。

 

 「『苦しい目に合うばかりで』と恨むのももっともなことだ。

 

 仏道に入って勤行に勤めて大方の罪は軽くなったにしても、この一つのことで五濁(ごじょく)のすべてを洗い流すことはできなかったんだろう。」

 

 深く考え、そう結論付けるととにかく悲しくて、

 

 「どんなことをしてでもあの人の魂の一人迷う世界に行って、罪を代わってあげたい。」

 

と心の底で願うのでした。

 

 「あの人のために特別な法要をしたんでは、噂は本当だったのかと非難囂々だろうな。

 

 御門も自分の出生のことで悩んでるのを、また蒸し返すことになる。」

 

 そう思いながら、阿弥陀仏にただ一心に祈りました。

 

 一蓮托生というように、ともに極楽浄土に行きたいものの、

 

 亡き人を追って行っても影すらも

     見えない三途の川に迷うか

 

 そう思うと、悩みは尽きないのでしょうね。