元禄十一年、支考は九州の旅に出る。
芭蕉の行かなかった明石から西へ。
九州は朱拙や卯七などによって既に蕉門も広まっていて、支考もこうした人たちを訪ね歩き、自らの風雅に誠があるかどうかを問い続ける。
桃隣の『舞都遲登理』については許六が『俳諧問答』の中で、
「風雅もかくのごとしとおもへるに寄て、算用十露盤の上にて損益を考へ、長崎の行脚よりハ、松島の方に徳ありとおもへるに似たり。」
などと言っているが、江戸に住んでいれば長崎は遠いし、そんなにお金もないなら松島の方に旅立つのは自然なことで、どこぞの御家老様にとやかく言われることではないと思う。
支考の『梟日記』の旅はその『舞都遲登理』の二年後の元禄十一年になる。こちらの方はの長崎を含む九州行脚の記録になる。
芭蕉の『笈の小文』の旅は明石までで、そこから西の地方は芭蕉の見残しとなった。元禄七年の芭蕉最後の旅でも、西国へ行ってみたいという思いはあったが、既に歩く力も衰え、駕籠での旅になっていた。最後の最後で大阪に入る時、くらがり峠で駕籠を下りてそこから歩いたということが土芳の『三冊子』に記されている。これも相当無理したのであろう。この後病状が悪化し、そのまま大阪で果てることとなった。
その芭蕉の見果てぬ夢を、支考が引き継いだとも言える。
まず、序文を読んでみよう。テキストは『普及版俳書大系5 蕉門俳諧後集上巻』(一九二八、春秋社)による。
「梟日記之序
洛陽花ひらけてあらたに、武城鳥啼て静なる春も、きさらぎのはじめなるべし。いせの國に住なる法師、筑紫のたびねおもひたち侍りけるに、あまてるや此御神の御まへに詣して、この時の風雅のまことをぞ祈りたてまつりける。されば瘦藤に月をかゝげ、破笠に雲をつゝむといふ、むかしのひとのあとをまねびたるにはあらで、風雅は風雅のさびしかるべき、この法師の旅姿なりけり。
月華の梟と申道心者
むかし魯の孔丘は、麒麟を得て春秌をしるし給へりしに、をのづから世の人のためしともなれりけり。今又梟の一字に筆をはじむるに、褒貶はしばらくなきにしもあらず、一字の妙處にいたる事は誠に難からん。さるを此記の名になし侍らば、岸のからすの魚をうかゞひたるにやあらむ。西華坊みづから此一稿をなして、是を序のこゝろとはおもへるかし。」
「洛陽」は京都、「武城」は江戸のことであろう。これは如月を導き出す序詞のようなもので、本題は如月の初めに伊勢の国の法師西華坊支考が筑紫の旅を思い立つところにある。伊勢なので伊勢神宮の天照大神に詣で、旅の風雅の誠を祈る。これは単に旅の無事というだけでなく、旅での俳諧の成功を祈る物であろう。
「瘦藤に月をかゝげ、破笠に雲をつゝむ」は「自笑十年行脚事 痩藤破笠扣禅扉」という愚堂国師の投機偈によるものであろう。愚堂国師は愚堂東寔といい、ウィキペディアに、
「愚堂東寔(ぐどうとうしょく、天正5年4月8日(1577年4月25日)- 寛文元年10月1日(1661年11月22日))は、禅宗の臨済宗の高僧。大本山妙心寺第百三十七世住持。父は伊藤紀内、母は斎藤氏家臣の娘とされる。諡号は大円宝鑑国師。」
とある。また、
「後水尾天皇や徳川家光、保科正之、中院通村、春日局など多くの公家・武家から帰依を受けている。また、宮本武蔵も青年時に妙心寺にいた愚堂の元へ参禅している。弟子に至道無難がいる。」
とある。
ただ、支考の旅はこの禅師の修行の旅をまねたものではなく、あくまで風雅の旅に出る。
ここで一句。
月華の梟と申道心者 支考
月華を友として旅立つ「梟(ふくろう)」という道心者、だという自己紹介の句だ。
梟は僧の頭巾に蓑笠着て着膨れた姿を自嘲して言ったもので、似たような句に、
けうがる我が旅すがた
木兎の独わらひや秋の暮 其角(いつを昔)
旅思 二句
みゝつくの独笑ひや秋の昏 其角(五元集)
みゝつくの頭巾は人にぬはせけり 同
の句がある。こちらはミミズクだが。
元禄十二年刊朱拙編の『けふの昔』にも、
家奴の老たるを剃髪さするとて
木兎の頭巾はやすし帋子きれ 朱拙
の句がある。蓑笠着た旅姿の僧の、笠を取って頭巾姿になった時が梟・木兎に似ていると言った方が良いのか。
「むかし魯の孔丘は」の話はウィキペディアに「獲麟」という見出しで載っている。それによると、
「魯の国の西方にある大野沢(だいやたく)というところで狩りが行われた際、魯の重臣である叔孫氏に仕える御者の鉏商(しょしょう)という人物が、見たことのない気味の悪い生物を捕えた。人々はそれを狩場の管理人に押しつけ、自分たちは先に帰ったのである。
たまたまその気味の悪い生物を見る機会があった孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったのである。したがって、『春秋』はこの記事をもって終わるとされている。」
とのこと。
梟もまた「福来郎」や「不苦労」に通じる吉兆であり、麒麟のような聖獣ではなくありふれた鳥だが、この憂き世の中に梟の一字からこの旅行記を書くことで、何かしらこの世を和ませ、より良いものにしたいという願いが込められている。
「褒貶はしばらくなきにしもあらず」と賛否両論あるだろうけど、考えた末に選んだ一字で、「岸のからすの魚をうかゞひたる」ことのないようにと釘を刺して、この旅が始まることになる。
「元祿戊寅之夏四月廿日、津の國や此難波津に首途して、人もしらぬひの名にし逢ふ筑紫のかたにおもむく。道遠く山はるかにして、たゞ雲水に身をまかせたれば、世にいふ山姥にはあらねど、みづからくるしび、みづからたのしむ。さるは世の人のありさまにぞ有ける。
卯の華に難波を出たる無分別
今宵は西の宮に宿す。難波の舍羅、此處におくり來る。このおのこは、かねてこの行脚にくみすべかりしが、さる事侍りてならずなりぬるを、ことにほゐなき事におもひて、一夜の名殘をおしむべきと也。
みじか世の名ごりや鼾十ばかり」
四月二十日に支考は難波津を出発する。だたしこの頃は古代の港だった「難波津」は既になかった。安土桃山時代には淀川左岸の渡辺津が用いられていた。
江戸時代に入るとどうやら特定の港はなかったようだ。ウィキペディアによると、
「茅渟の海と呼ばれていた大阪湾から大坂市街へは、淀川水系の河川を数km遡上する必要があり、北前船や菱垣廻船といった大型船は市内まで入らず淀川や木津川などの下流部や河口に停泊し、そこから小型船で貨物を運搬していた。船が市内へ上れるよう、また洪水を防ぐため、河川の改修や浚渫は江戸時代を通じて行われた。1683年(天和3年)には河村瑞賢が、曲がりくねって浅い淀川の水運と治水のため、九条島を二つに割いて安治川を開削。次いで1699年(元禄12年)には木津川の流路も難波島を二つに割いて航行をスムーズにさせ、安治川と木津川は二大水路として繁栄した。」
とのことで、大阪の運河沿いがどこでも港だったようだ。
芭蕉は貞享五年夏の『笈の小文』の旅で明石に行った時は、尼崎から船に乗って兵庫に夜泊したことが記されている。支考が西宮まで陸路を行ったのか海路を行ったのかは記されてない。西宮は山陽道の起点になるから、陸路を行ったのかもしれない。尼崎よりも先になるが兵庫よりは手前になる。
大阪から西宮までは一日の行程としてはかなり短いし、歩いてもそれほどかからない。「難波津」は形の上だけの出発点で、もう少し手前から歩いてきたのかもしれない。
山姥の喩えは謡曲『山姥』に、
「よし足引の山姥が、山めぐりすると作られたり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89714-89716). Yamatouta e books. Kindle 版. )
とあるように、山廻りするものとされていた。また、
「よし足引の山姥が、よし足引の山姥が・山廻りするぞ・苦しき。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89858-89860). Yamatouta e books. Kindle 版.)
と山廻りは「苦しき」ものでもあり、最後には、
地 春は梢に咲くかと待ちし、
シテ「花を尋ねて、山廻り。
地 秋はさやけき影を尋ねて、
シテ「月見る方にと山廻り。
地 冬は冴え行く時雨の雲の、
シテ「雪を誘ひて山廻り。
(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89949-89955). Yamatouta e books. Kindle 版. )
と、この旅はどこか風流の旅にも通じる。
ここで一句。
卯の華に難波を出たる無分別 支考
「無分別」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「無分別」の解説」に、
「① 仏語。誤って、自己にとらわれ、ものを対立的・相対的に見る分別・妄想を離れること。物事の平等性をさとった状態。
※梵舜本沙石集(1283)四「正智は必ず無念無分別也。是の故に大智無分別とも云ひ」
② 分別のないこと。あとさきを考えないこと。思慮のないこと。また、そのさま。
※日葡辞書(1603‐04)「チカゴロ mufũbetno(ムフンベツノ) ヒトヂャ」
とある。無分別にはいい意味も悪い意味も両方ある。
舎羅はウィキペディアに、
「大坂生まれ。後に剃髪した。空草庵、桃々坊、百々斎、その他の号がある。俳諧は之道諷竹の手引きによる。貧困と風雅とに名を得たと言われた。妻と娘と暮らしていた。ある日、盗賊に入られ、しかし盗むべき物さえなく、盃をひとつ盗まれた時の句に、
ぬす人も酒がなるやら朧月
松尾芭蕉が、大坂で最期の床に就いた時、看護師代わりになって汚れ物の始末までした。」
とある。芭蕉の最期の床だが、支考も門人らが住吉詣でに行った時に舎羅の句がなく、支考の句も、
起さるる声も嬉しき湯婆哉 支考
という住吉で詠んだ祈願の句ではないところから、支考もこの住吉詣でには参加せず、舎羅とともに芭蕉の介護のために残ったのではないかと思われる。
また、芭蕉の最期の俳諧興行となった園女亭での「白菊の」の巻では支考とともに参加して、
改まる秤に銀をためて見る
袖ふさぐより親の名代 舎羅
の句を付けている。
この旅に同行する予定だった舎羅だが、ここ西宮までの同行となった。そこで一句。
みじか世の名ごりや鼾十ばかり 支考
ともに一夜を過ごした鼾だけが名残となる。鼾というと芭蕉の「万菊丸いびきの図」が思い出される。
「廿一日
兵庫の湊川を過て楠が古墳を見る。されば此士は文にあはれに武にたけかれしが、一子正行が櫻井の宿のわかれまでおもひ出られて、
鎧にも泣たもとあり百合の露
かの須磨の浦を過るほどは、此里の新茶ほすころにて、それもあはれに淋しとはおぼえられし。
關守もねさせぬ須磨の新茶哉
からす崎にいたりて頭をめぐらせば、須磨・あかしの眺望又こよなし。
山懸て卯の花咲ぬ須磨明石」
舎羅とは別れたとはいえ、当時の常識から言って一人旅ということはなく、誰か同行者はいたと思う。まずは芭蕉も行ったことのある須磨明石へ向かう。
湊川は神戸駅の近くでかつては湊川という川がこの辺りを流れていたという。今の湊川神社の場所にはかつては楠木正成公の塚があった。詳しくはネット上の 嶋津尚志さんの『楠木正成の墓からみる、英雄顕彰の一様相』にまとめられている。それによると貝原益軒の「楠公墓記」には、
「墓は平田の中に在り。榛莽蕪穢。挺隧無く。墓封無く。又、碑碣無し。塋上唯松梅二袾有り。悲
風蕭々。春風青々。」
とあるという。元禄四年には水戸光圀公によってる「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑が立てられたので、支考は見ているだろう。
「一子正行が櫻井の宿のわかれ」はウィキペディアに、
「桜井の別れ(さくらいのわかれ)は、西国街道の桜井駅(桜井の駅、さくらいのえき)で、楠木正成・正行父子が訣別する逸話である。桜井駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった。桜井の駅の別れ、桜井の訣別ともいう。」
とある。
桜井駅は今のJR京都線の島本駅の近くにあったという。その訣別の場面はウィキペディアに、
「桜井駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。なお、訣別に際して桜井村の坂口八幡宮に菊水の旗と上差しの矢一交が納められ、矢納神社の通称で呼ばれた。」
とある。そんな話を思い起して一句。
鎧にも泣たもとあり百合の露 支考
ここから須磨はそう遠くない。古代のような藻塩焼く風景は芭蕉が来た時にもとっくに過去のものになっていた。あるのは茶畑で新茶を干す風景だった。そこで一句。
關守もねさせぬ須磨の新茶哉 支考
この句は言わずと知れた『小倉百人一首』でも知られている、
淡路島通ふ千鳥の鳴く声に
幾夜ねざめぬ須磨の関守
源兼昌(金葉集)
の歌を踏まえたもので、千鳥の鳴く声ではなくお茶のせいで眠れないとする。
からす崎はどこなのかわからない。あるいは芭蕉の『笈の小文』の、
「きすごといふをを網して、真砂の上にほしちらしけるを、からすの飛来(とびきた)りてつかみ去ル。是をにくみて弓をもてをどすぞ、海士のわざとも見えず。」
という鴉のいた浜のことかもしれない。
眺めが良い所なら鉄拐山から鉢伏山にかけてのどこかなのか。芭蕉も鉄拐山に登っている。支考も芭蕉の足跡を慕い、登った可能性はある。
山懸て卯の花咲ぬ須磨明石 支考
『猿蓑』の、
かたつぶり角振り分けよ須磨明石 芭蕉
の句も思い起こされる。
「廿二日
播磨國
明石
詣人丸廟
おのへの松原は、この道より一里ばかり南にあり。高砂の松は江をへだてゝ、是より又十余町ばかりに見渡さる。いづれも見すつまじき風雅の地なり。
ほとゝぎす高砂おのへ二所帶
石ノ寶殿
曾禰ノ松」
さて、ここから先は芭蕉の見残しになる。
「詣人丸廟」は今の明石氏人丸町にある月照寺と柿本神社のあたりであろう。かつては人丸神社と呼ばれていた。ウィキペディアに、
「平安時代初期、弘仁2年(811年)に空海が現在の明石城本丸付近に当たる場所に楊柳寺と建てた事に始まる。楊柳寺は後に月照寺となる。仁和の頃(885年~889年)、住職の覚証が夢のお告げに従って柿本人麻呂を祀り、人丸社ができる。現在でも明石公園城跡に建つ西の隅櫓の前に円形の人丸塚が残っている。こうした神社と共存する月照寺のような寺院を宮寺または別当寺・神宮寺などと呼んだ。本来、神は仏が姿を変えて日本に来たという本地垂迹説があり、神と仏は一体であるという神仏習合の思想によるもので、神社の運営も神官と僧侶が共同で当たっていた。過去、月照寺に隣接している柿本神社と月照寺は一体であったが、明治維新後、明治政府は神社と寺院を分離する神仏分離令を出した。以後、月照寺と柿本神社は別の宗教法人となる。」
とある。
月照寺は元禄五年に才丸(才麿)も行っていて『椎の葉』に記している。そこには、
「松原をつゞきにあゆむに、日ははや海にかくれて山のはも見えぬあかしのとまりに入ぬ。先人麿の尊像を崇め置たる一宇をたづね登り、とし月の望みたりて今此岡にまうでける事よと後生の俳心をこらすに、感涙しきり也。
ほのぼのと御粧(おんよそほひ)や草の香」(『新日本古典文学大系71 元禄俳諧集』一九九四、岩波書店)
とある。月照寺・柿本神社は山陽電鉄人丸前駅の北の低い丘の上にある。
「おのへの松原は、この道より一里ばかり南にあり」というのは月照寺からではなく、山陽道を二里あまり北西の加古川宿まで行って、そこから南、正確には南西へ一里という意味であろう。
「高砂の松は江をへだてゝ、是より又十余町ばかりに見渡さる。」とあるように、ここからだと高砂の松は加古川の対岸になる。今は高砂神社になっていて、八代目の尾上の松があるという。
高砂の松と言えば謡曲『高砂』で、高砂の松を妻とし、大阪住吉の松を夫とする祝言で、
「高砂や、この浦船に帆をあげて、この浦船に帆をあげて、月もろともに出汐の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて早や住の江に・着きにけり早や住の江に着きにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.1887-1890). Yamatouta e books. Kindle 版. )
の謡いはかつての結婚式の定番だった。
ここで支考が一句。
ほとゝぎす高砂おのへ二所帶 支考
松の夫婦とホトトギスの夫婦で二所帯ということか。ホトトギスの夫婦は托卵するから鶯の夫婦もいそうだが。
「石ノ寶殿」は山陽道の加古川を渡った先の生石神社(おうしこじんじゃ)にある。今はJR宝殿駅があり、そこを西へ行った高砂市総合運動公園の先にある。ウィキペディアに、
「生石神社(おうしこじんじゃ)は、兵庫県高砂市・宝殿山山腹にある神社である。石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている。
石の宝殿は、国の史跡で横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの巨大な石造物。水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれる。誰が何の目的でどのように作ったかはわかっていない。」
とある。
「曾禰ノ松」はその先の今の山陽電鉄山陽曽根駅に近い曽根天満宮にある。ウィキペディアに、
「道真が手植えしたとされる松は霊松「曽根の松」と称された。初代は寛政10年(1798年)に枯死したとされる。1700年代初期に地元の庄屋が作らせた約10分の1の模型が保存されており、往時の様子を知ることができる。天明年間に手植えの松から実生した二代目の松は、大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されたが、昭和27年(1952年)に枯死した。現在は五代目である。枯死した松の幹が霊松殿に保存されている。」
とある。支考が行った時はまだ初代の松が健在だったようだ。
「廿三日
姫路
此地に千山・元灌などいへる人は、かねて風雅の名つたへ申されしが、今宵は何となき旅店にかりねして、かくいふ事を人々のかたに申つかはしける。
晩鐘や卯の華の雪に宿からふ」
姫路の千山はこの四年後に惟然が訪ねて行き、『二葉集』(惟然編、元禄十六年刊)で超軽みの風を打ち出すことになるが、それはまだ先のことだった。元灌もその時の『二葉集』に名を連ねていて、
散か散か咲あり花の花の奥 元灌
なんぞそれぞそれぞれ蚊屋に月はそれ 同
と言った句がある。
千山は元禄五年刊才麿編の『椎の葉』に、「勿謂今日不学而」に、
秋の夜や明日の用をくり仕廻 千山
の句を発句とした表六句が収められている他、「秋興」の歌仙にも参加している。また、支考の行く一年前元禄十年刊風国編の『菊の香』に、
上京や絵行器をうる足ほこり 千山
書写山に登りて
秋の日の入やおり坂十八町 同
といった句がある。同じ集に、
賤が家の苦熱をみて
いさかひのあとくれかかる蚊遣かな 元灌
の句が見られる。
ただ、支考は「今宵は何となき旅店にかりねして」とあり、
晩鐘や卯の華の雪に宿からふ 支考
の句を贈ったが、この日実際に会ったかどうかは書かれていない。ただ、これから姫路にしばらく滞在することになる。
「廿五日
厚風亭にいたりて、その父了意老人の閑居を見るに、老父は此ほどいづこへか渡り給ひて、庭には牡丹の花の咲のこりてありしを、
我袖は牡丹をぬすむ風雅なし
春亭
風爐かけて淋しき松の雫かな
臨川亭
うの華やちぎれちぎれに雲の照」
厚風も後の惟然編元禄十六年刊の『二葉集』に、
ぬけるやら着ぬでもなしに秋の空 厚風
あたらしき卒塔婆も垣にほうせん花 同
の句があり、
おさだまりぞないてや鳫の渡るらん 厚風
を発句とする表六句も収録されている。
厚風の父の了意老人についてはよくわからない。支考も会えなくて、一句残す。
我袖は牡丹をぬすむ風雅なし 支考
「春亭」は春亭という号のようだ。
風爐かけて淋しき松の雫かな 支考
風炉はウィキペディアに、
「風炉 (茶道) - 茶道で、茶釜を火に掛けて湯をわかすための炉。唐銅製、鉄製、土製、木製などがある。夏を中心に5月初めごろから10月末ごろまで用いる。」
とある。松の雫は抹茶であろう。侘び茶の心を感じる。
臨川は元禄五年刊才麿編の『椎の葉』にその名が見える。
身にしむは桜咲日の念仏かな 臨川
手にとればつくらぬ菊の花かろし 同
といった発句がある。ここで支考も一句。
うの華やちぎれちぎれに雲の照 支考
「廿七日
此日書寫山にまうづ。道のほど二里ばかりも侍らむ。けふは全夷のなにがしにあるじせられて、いざなふ人々あまたなる中に、老たるあり。わかきあり、若きは何がし小三郎とかや、誰が家の白面の郎ぞ。老たるは藥師六兵衛、是もたゞうきたる佛なるべし。たばこは酒にかえむ、さけはたばこにかへむといひあへる、をのれをのれが道すがらの物ずき、いづれにか定侍るらん。山は半里ばかりにそびえて、翠微に頭をめぐらせば、あはぢしま眼の中に落つ。須磨・あかしの浦浪、おのへの鐘は、名のみぞおもひやらる。山のたゝずまゐ、よのつねにはあらで、風聲水音の清浄も人の肌をかゆるばかりにぞありける。いたゞきの僧房あまた、所がら竹藪のくまぐまにかくれて、しばらく思ひかけぬ山のありさま成けり。
ほとゝぎす鳴山藪や雲つたひ
笋の露あかつきの山寒し
それより奥の院にわたりて、性空上人の影堂を拜す。かたはらに池あり。是ハ辨慶がむかし、晝寐のかほを水かゞみけるよりこの名ありとぞいへる。我もその池の邊にたちよりて、
旅寐せしかほや茄子のむさし坊
是は夏季の茄子のくるしきこそおかしけれとて、たはぶれに申侍りき。されば夕陽の影も木の間にのこりて、その程もやゝ日暮にけるか、麓のさとにたどりて、明松といふ事をおもひ出して、あと先にふりあげたれば、世にいかめしき葬禮にこそありけれ。さらば孟嘗君がともがらならば、泣まねの上手もあらんといふに、まこと太泣もしつべし。その夜は元灌亭にかへりて、殊さらにくたびれふしぬ。」
書写山は姫路の北にある山で、甲子園で流れる東洋大姫路の「書写を仰げば」の校歌でも知られている。ウィキペディアには、
「書写山・書寫山(しょしゃざん)は、兵庫県姫路市にある山。山上には西国三十三所の圓教寺がある。西播丘陵県立自然公園に含まれており、兵庫県の鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されているほか、ひょうごの森百選、ふるさと兵庫50山に選定されている。書写山の一部には原生林が残る。
室町時代に玄棟によって成立した説話集の三国伝記には三湖伝説の元になったと思われる説話が記載されていて、そこでは書写山周辺の釈難蔵という法華の持者が十和田湖の主になった物語の起源が語られている。」
とある。書写山圓教寺がある。
姫路宿から北へ二里、全夷のなにがし、何がし小三郎、藥師六兵衛とともに行くことになる。
「白面の郎」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「白面郎」の解説」に、
「〘名〙 年少で未熟な男。また、色白の若い男子、貴公子。
※田氏家集(892頃)中・継和渤海裴使頭見酬菅侍郎紀典客行字詩「多才実是丹心使、少壮猶為二白面郎一」 〔杜甫‐少年行〕」
とある。酒とたばことどっちがいいかなんて他愛のない話をしながら登って行く。
翠微(すいび)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「翠微」の解説」に、
「① 山頂を少し降りたところ。山の中腹。
※菅家文草(900頃)五・徐公酔臥詩「無レ情湖水誰遺跡憶昔長山臥二翠微一」
※俳諧・幻住菴記(1690頃)「麓に細き流を渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして」 〔爾雅‐釈山〕
② うすみどり色の山気。また、遠方に青くかすむ山。または、単に山をいう。
※本朝無題詩(1162‐64頃)六・別墅秋望〈釈蓮禅〉「木葉声声黄落雨、峡煙処々翠微山」 〔左思‐蜀都賦〕」
とある。山頂までは行かないが眺めのいい場所があり、淡路島や須磨明石の海を見渡せ、心が洗われるような気分になる。山頂には僧坊が並ぶ。ここで二句。
ほとゝぎす鳴山藪や雲つたひ 支考
笋の露あかつきの山寒し 同
笋(たけのこ)はちょうどこの時が旬だったのだろう。
書写山圓教寺の奥の院、性空上人の影堂は今の開山堂だろうか。
池というのは鏡井戸で大講堂と食堂の辺りにあるという。弁慶が若い頃ここで修行していて、酒盛りに誘われて酔いつぶれて寝ていると、仲の悪かった信濃坊戒円等が弁慶の顔に「足駄」と落書きし、目を覚ますと戒円等が笑っているものだから鏡井戸で自分の顔を見てその落書きを知る。あとは大喧嘩というか弁慶無双になって大暴れ、終にはお寺が炎上する騒ぎになったという。
そこで支考も鏡井戸を覗き込んで一句。
旅寐せしかほや茄子のむさし坊 支考
夏の暑さでばてたような顔が茄子のようだ、ということだろう。googleブックスに老鼠堂永機・其角堂機一校訂の『支考全集』(東京博文館蔵版、明治三十一年)があるが、その最初の方に載っている小川破笠筆『支考画像』を見ると、茄子というのが納得できる。
書写山を下りるころには日も暮れ、明松ということを思い出すという。明松は「かがり」「たいまつ」という読み方がある。歩く時は篝火ではなく松明(たいまつ)だろう。真っ暗になったので松明を灯して歩くのだが、子供っぽく振り回して遊んだり、やがて何だか葬列みたいだということになって、泣き真似したりする。まあ、俳諧師というのはこういう連中なんだな、というところか。
孟嘗君は「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」という故事があって、函谷関を越えて脱出する時に鶏の鳴き真似をして騙したという。
淡路島通ふ千鳥の鳴く声に
幾夜ねざめぬ須磨の関守
源兼昌(金葉集)
の歌もこの故事を踏まえたと言われている。
まあ、そういうわけでいろいろあってとりあえずこの日は元灌亭に帰る。「殊さらにくたびれふしぬ」と遊び過ぎた子供みたいだ。
なお、元禄十五年刊千山編『花の雲』に、
辨けい水鏡
この井戸に辨慶が顔てうどかや ヒメジ少年 さぶ
とあるが、ひょっとして小三郎か。
「五月五日
備前國
此日岡山の城下にいたる。殊にあやめふきわたして、行かふ人のけしきはなやかなるを見るにも、泉石の放情はさらにわすれがたくて、
松風ときけば浮世の幟かな」
姫路から岡山までは歩いて二日ぐらいの距離だろうか。日付も五月に変わり、五日から始まる。
「あやめふきわたして」というのは軒菖蒲(のきのあやめ)のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「菖蒲葺く」の解説」に、
「端午の節句の行事として、五月四日の夜、軒にショウブをさす。邪気を払い火災を防ぐという。古く宮中で行なわれたが、後、武家、民間にも伝わった。《季・夏》
※山家集(12C後)上「空はれて沼の水嵩(みかさ)を落さずはあやめもふかぬ五月(さつき)なるべし」
とある。
「泉石の放情」は『旧唐書』隠逸伝序の「放情肆志、逍遙泉石」から来たものであろう。情を放ち志を欲しいままにし、泉や石を自在にさまよい歩くことをいう。隠士の境地をいう。
こういう端午の節句の華やかな風景を見るにつけても、自由気ままに旅をしていてよかったと思う。そこで一句。
松風ときけば浮世の幟かな 支考
松風は本来はシューシュー言う悲し気な響きのものだが、浮を世を離れて旅をすれば、浮世の端午の節句の幟を吹く楽しいものになる。
「六日
此日吉備津宮にまうづ。此朝はくもりみはれみ、おもひさだめがたき空のけしきなるを、かりそめに思ひ出ぬる道のことさらに照りわたりて、そのあつさたえざらんとす。各かぶり物もとめ出るに舊白はあやまたず、雲鹿は笠の緒のなまめきたる、いかなる人にかかり出らん。ひとつ緒の俄あみ笠は、梅林のぬしの名にこそにほへ、晩翠はよのつねの法師がらにもあらぬに、供笠とかいふなるからかさに、柄のなきものをうちかぶりたれば、夕影のかほもかゞやくばかり、かの祇園の火とぼしなめりと、眞先におしたてらるゝに、雨放しの風に風まけして、果はたゞきずなりぬ。三門柴山のほとりも過行ほどに、夕陽の影は山をひたして、笹が迫とかや、かんこ鳥の聲もきこゆなり。
俳諧師見かけて啼や諫皷鳥
されば鶯・ほとゝぎすの世にしられたる、鴈の聲のまたれてわたる空、ちどりのあかつきはさら也。さるは哥にもよみ詩にもいふなる、諫皷鳥の淋しさのみ誰にかよらん。かくて八坂といふ所の橋をわたりて、きびつ山にむかふ。そもそも此神は一神二應とかや。備前・備中の兩國におはして、吉備の中山なかにへだゝりぬ。
みじか夜やどなたの月に郭公
備前の御神はちかき比御修覆ありて、朱橡あらたに應化の影をかゞやかす。誠にありがたき御世のありさまなるべし。大藤内屋敷はいづこにかと尋侍りけるに、門戸たかく石垣よもにめぐりて、子孫猶めでたし。
浄留理にいへば夏野ゝ草まくら
今宵はなにがしの社家に宿して哥仙半におよぶ。七日又岡山に歸る。
梅林亭
窻に寐て雲をたのしむ螢哉」
吉備津宮は岡山の城下通り抜けてすぐの所にある。ウィキペディアには、
「岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備中山(標高175メートル)の北西麓に北面して鎮座する。吉備中山は古来神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。」
とある。
この日は朝から晴れたり曇ったりの天気で、晴れれば日が照ってかなり厚くなると思われたので、まずは笠を用意することになる。
舊白は「あやまたず」とあるから、普通に旅人が被っているような笠を持っていたようだ。
雲鹿の笠は緒がやけにきらびやかで、一体誰に借りたんだという感じだった。「ひとつ緒の俄あみ笠」は梅林の主人が被るような笠だった。ひょっとして女性用?
晩翠も多分かなり身分の高い僧だったのだろう。「供笠」という唐傘の柄がなくて直に被るようなものを被って現われた。多分真っ赤な傘で、光が透けて顔が赤く見えたのだろう。「夕影のかほもかゞやくばかり、かの祇園の火とぼしなめり」と言う。
ただ、紙の笠なので弱くて、風が吹いたらすぐ壊れてしまったようだ。
どの辺に泊まってたかはわからないが、吉備津宮に着く頃にはすっかり日も傾いていた。
「笹が迫(せまり)」は笹ヶ瀬川のこと。この辺りまで来るとカッコウの声が聞こえる。昔は閑古鳥(諫皷鳥)と言った。ここで一句。
俳諧師見かけて啼や諫皷鳥 支考
鶯、ホトトギス、雁、千鳥などは和歌にも漢詩にも俳諧にも頻繁に詠まれるが、閑古鳥の淋しさ一体誰が呼んだだろうか、とそれは芭蕉さんでした。
憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉
「八坂といふ所の橋」は今の矢坂大橋の辺りであろう。ここから笹ヶ瀬川を渡る。ここから吉備津宮はそう遠くない。吉備津宮のある辺りを吉備津山と言ったのだろう。
吉備津宮はもともと古代の吉備の国一之宮だったが、吉備の国が備前備中備後美作に分割されたため、この四国の一之宮になるわけだが、実際には備前と備中との境界線近くにあるため、備前備中の神として「一神二應」と呼ばれたのだろう。ウィキペディアには「吉備津神社は『吉備総鎮守』『三備一宮』を名乗る」とある。
まあそういうわけで、どこの国の神様ですかということで一句、
みじか夜やどなたの月に郭公 支考
最近御修覆があったというのは本殿のことで、ウィキペディアに、
「本殿 - 元禄10年(1697年)に岡山藩主の池田綱政による再建時のもの。桁行三間、梁間二間の流造で檜皮葺。岡山県指定文化財に指定されている。」
とある。支考が訪れた時は建てたばかりだった。鮮やかの朱色は「應化の影」という。「応化」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「応化」の解説」に、
「おう‐げ【応化】
〘名〙 仏語。仏、菩薩が世の人を救うために、時機に応じて、いろいろなものに姿を変えて現われること。応現。
※霊異記(810‐824)上「舟より道に下れば老公見えず。其舟忽に失せぬ。乃ち疑はくは、観音の応化なることを」
とある。神仏習合の時代ならではの発想だ。
「大藤内屋敷」は代々神職を務めてきた大藤内(「王藤内」とも書く:おうとうない)家の屋敷で、「門戸たかく石垣よもにめぐりて、子孫猶めでたし。」とこの頃は健在だった。支考が見たのは慶長年間に建てられた屋敷であろう。今は駐車場になっていて家宅跡の碑だけが建っている。
浄留理にいへば夏野ゝ草まくら 支考
浄瑠璃姫の屋敷をイメージしたのだろう。自分はここには泊まれず、旅の牛若丸を気取るか。
とはいえ、別の社家にこの日は泊まる。梅林亭という風流人の屋敷だったのだろう。
梅林亭
窻に寐て雲をたのしむ螢哉 支考
を発句として半歌仙興行を行う。翌日岡山に帰る。
なお、雲鹿は元禄十五年刊の千山編『花の雲』に、
象眼の鍔やぴかつく釣灯籠 雲鹿
鯉鮒の空や見かへす秋日より 同
の句がある。
舊白は支考編『西華集』に、
宵闇や梅に先たつ猫の恋 舊白
猪のわるさやまぬよ春の雪 同
などの句がある。
「八日
備中國
此日雲鹿・舊白をいざなひて倉敷におもむく。鵙がはなといふ處は山城の六地蔵に似て侍りといふに、げにもくらしきは、みやこのたつみともながむべかり。
宇治に似て山なつかしき新茶哉
狂客三人除風庵にこみ入、あるじの僧は外にありておどろき歸る。そのよろこび面にあらはれて、心ざし又他なし。茶漬の冷飯は露堂のぬし、行水の湯は誰かれといふより、とうふ・蒟蒻の施主も有て、わかき人老たる人さまざまに行かひさゝやきて、あるじの僧はいきもつきあへず、その事この事漸に暮はてゝ、しばらく灯前夜雨の閑を得たり。されば此あるじの除風は、松島・白川の風月にもやつれ、武城の嵐雪が黑白の論にあづかりて、はじめて風雅に此事ありといふことをしれり。本より眞言のながれに身をおきて、生涯もよくつとめたりといふべし。
先いのる甲斐こそ見ゆれ瓜なすび
五月雨に袖おもしろき小夜着哉
此里の東南に山あり。この山に小堀遠州の汲捨給へる井ありて、今なをしたゝり絶る事なしと。露堂曰、この水又酒によろし。一荷汲ときは底をつくせども、たちかはるほどありて又一荷と。まさに清浄の水にこそありけれ。西華坊かつて姫路を過し時。難の藤三郎とかやいへる少年の、我に初白の茶一ふくろおくりて、たびねの風情をくはえられしが、此里に來てこの茶ある事風流やむ事なし。水汲は雲鈴法師、茶挽は除風とさだまりて、客は尚雪・青楮の二老人、あるじは露堂にもあらず我にもあらず、たゞのみてなむやみぬ。是又一時の風雅なるべし
茶にやつすたもとも淺し山清水」
七日に一度岡山に戻った支考は翌日八日に倉敷まで行った。距離としてはそれほど長くない。岡山の雲鹿・舊白が一緒だった。
百舌ヶ鼻は今の倉敷市中庄の辺りだという。今の倉敷市立北中学校のあるあたりに百舌鳥ヶ鼻バス停がある。ここは山城国の六地蔵という所に似ているという。六地蔵は伏見桃山の東で、JRと京阪宇治線に六地蔵駅がある。ウィキペディアには、
「小野篁が852年(仁寿2年)に一本の桜の木から6体の地蔵菩薩像を作り、それをこの地(紀伊郡木幡の里、現在は京都市伏見区)にある大善寺に祀った。それにより、大善寺のある付近一帯の広域をさして「六地蔵(ろくじぞう)」と呼んだ。」
とある。
宇治に似て山なつかしき新茶哉 支考
この句にもあるように茶畑の広がる光景が宇治六地蔵に似ていたのだろう。
わが庵は都のたつみしかぞ住む
世を宇治山と人はいふなり
喜撰法師(古今集)
の歌を思い浮かべる。
除風庵はこのあたりにあったのか、支考、雲鹿、舊白の三人がやってくると主の僧が慌てて戻ってくる。露堂からもてなされた茶漬の冷飯を食い、お寺にはよくある水風呂(当時主流のサウナではない、湯舟につかる風呂)に入る。さらに豆腐、蒟蒻などもお寺らしいおもてなしだ。
若者や老人がいろいろと出入りする中でこの庵の主は忙しそうだったが、やがて夜になり灯前夜雨の閑に話を聞くと、この除風という僧は松島・白川をも旅し、嵐雪に俳諧を学んだという。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「除風」の解説」には、
「1666/67-1746 江戸時代前期-中期の俳人。
寛文6/7年生まれ。真言宗の僧。服部嵐雪(らんせつ)にまなび,各地を吟遊。備中(びっちゅう)(岡山県)倉敷に南瓜庵をむすび,松尾芭蕉(ばしょう)をしたって千句塚をきずく。のち讃岐(さぬき)(香川県)観音寺の山崎宗鑑(そうかん)の旧跡一夜庵を再興した。延享3年1月13日死去。80/81歳。備中出身。別号に南瓜庵,生田堂,百花坊。編著に「青莚(あおむしろ)」「千句塚」「夢の枯野」など。」
とある。この南瓜庵の跡は中庄ではなくもう少し東の下庄にある。ここに南瓜庵を結ぶのは支考の旅よりももう少し後のことか。
支考が寛文五年の生まれなので、除風は年下になる。
先いのる甲斐こそ見ゆれ瓜なすび 支考
五月雨に袖おもしろき小夜着哉 同
書写山では自分を茄子に喩えたが、ともに瓜と茄子でこれからの俳諧を盛り立てていこう、という決意か。
この庵の南西の山に小堀遠州が汲んだという井戸がある。小堀遠州はウィキペディアに、
「小堀政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。2代備中国代官で備中松山城主、のち近江国小室藩初代藩主。官位は従五位下遠江守。遠州流の祖。
一般には小堀遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られるが、「遠州」は武家官位の受領名の遠江守に由来する通称で後年の名乗り。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。」
とある。この井戸は教善寺であろう。倉敷美観地区の南、向山公園のある山の西側の麓にある。百舌ヶ鼻除風庵の南西になる。境内に遠州井と呼ばれる井戸がある。
さきほど茶漬をご馳走してくれた露堂が、この水は酒に良いという。支考は姫路で難の藤三郎から貰ったという茶をここで立てて飲む。難の藤三郎はあるいは姫路の春亭で茶のもてなしを受けた時の主のことか。ともに書写山に登った若きは何がし小三郎という貴公子もいたが。
水汲の雲鈴法師は 元禄十七年に『摩詰庵入日記』を記した雲鈴法師であろう。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「雲鈴(1)」の解説」に、
「?-1717 江戸時代前期-中期の俳人。
陸奥(むつ)盛岡藩士だったが,僧となり,俳諧(はいかい)を森川許六(きょりく),各務(かがみ)支考にまなぶ。元禄(げんろく)13年大坂から北上して,佐渡に滞在,のち南下して京都にいたるまでの紀行「入日記(いりにっき)」を16年に刊行した。享保(きょうほう)2年2月2日死去。別号に摩詰庵(まきつあん)。」
とある。
ネット上の堀切実さんの『「支考年譜考証」補遺』に、
「口蓮二房の「雲鈴法師行状記」(『淡雪』巻頭・『和漢文操』巻七所収)に「春はやよひの末なりとや。備の倉敷といふ所にて東華先師に行あひたり」とみえる。「春はやよひ」は記憶違いか。」
とあるが、西宮から岡山までの支考の旅の同行者が記されてなく、当時は基本的に一人旅はしなかったので、むしろ伊勢を出た時から同行していた可能性がある。芭蕉の『奥の細道』でも桃隣の『舞都遲登理』でも、同行者は途中で明かされている。
茶挽は除風、客は尚雪・青楮の二老人。この二人も倉敷の人なのか。あるじは露堂にもあらず我にもあらず、ともに風雅のひと時を過ごす。
茶にやつすたもとも淺し山清水 支考
「十日
此日人々に催されて藤戸の浦見にゆきけるが、今はむかしにはあらで、田にもなり畑にもなりて、浦の男があはれのみ、その夜いかにとおもひやるばかり也。
生てゐて何せむ浦の田植時
簑里號
笠縫の里は古哥の名所なるに、
簑といふものは、野夫のたもと
をかさねて、俳諧のたよりある
もの也。若き人といへどこのみ
ちのさびなからんや
秌ならで五月もさむし鷺の簑」
藤戸の浦は教善寺の南東の倉敷川を下った所にある。藤戸合戦のあったところで、ウィキペディアに、
「藤戸の戦い(ふじとのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/元暦元年12月7日(ユリウス暦:1185年1月10日)[1]に備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸)で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で行われた戦い。治承・寿永の乱における戦いの一つ。藤戸合戦、児島合戦とも言う。」
とある。かつては児島半島は島で、本土との間は広大な干潟だった。藤戸の戦いはこの干潟を渡っての戦いだった。
この合戦で源氏方の佐々木盛綱が漁夫に浅瀬の場所を教えてもらって勝利するものの、その時他の者にも教えるのではないかと疑い、先陣を取りたいがためにその漁夫を切り殺したことが謡曲『藤戸』の物語となっていた。
その哀れな漁夫を偲ぼうにも、今やその浦すらなく、干拓されて田畑になっていた。
生てゐて何せむ浦の田植時 支考
殺された漁夫も哀れだが、田畑ができて棲家を奪われた漁夫もどうやって生きていけばいいのか。今日を生きる我々も諫早湾干拓事業を思い起こすと哀れだ。
ただ、農民は農民で少しでも田畑は欲しいし、国の多くの人も穀物がたくさん獲れることを望んでいるとすると、難しい問題ではある。謝霊運は干拓推進派だったが、漁民の怒りを買って殺された。
倉敷市藤戸町は今日の地図では海から一里は離れている。児島湾干拓は近代に入っても継続され今は湾すらなく、わずかに児島湖が残っている。
「簑里號」とあるのは倉敷の大島重右衛門のことか。「ごさんべえ」というホームページに倉敷の大島家の系図があり、
「寛文8年に亡くなった次郎右衛門の前に2代あるとも云われますがよく判っていません。季雅の長男重右衛門は蓑里という名の俳号をもっていて、家督を継いでいません。」
とある。これは「簑里と号す」で「若き人といへどこのみちのさびなからんや」と言って支考が名付け親になり、
秌ならで五月もさむし鷺の簑 支考
の句を贈ったのではないかと思う。
簑里は元禄十五年刊の千山編『花の雲』に、
虫の聲あれ聞わけよこりや何ンと 簑里
享保九年刊朱拙・有隣編の『ばせをだらひ』には、
くつさめの行衛や風の花すすき 蓑里
の句がある。
「十三日
此日倉敷を出て矢懸におもむく。道のほど五里ばかりなるべし。除風・雲鈴ノ二法師をいざなひて觀音寺に宿す。今宵の空のおぼづかなきに、曉の夢さめて鐘の聲をきく。
夏の夜の夢や管家の詩のこゝろ」
倉敷から山陽道に戻り矢掛へ行く。山陽道は吉備津宮の辺りから直線的に清音から真備を経て三谷へ抜ける。古代に作られた直線道路をある程度踏襲しているものと思われる。
今の地図を見ると矢掛町矢掛の小田川に沿ったところに観音寺というお寺がある。寛永七年の創建だという。支考、除風、雲鈴の一行の泊まったのは多分ここでいいのだろう。
夏の夜の夢や管家の詩のこゝろ 支考
菅家(菅原道真)の詩というのは、
自詠
離家三四月 落涙百千行
萬事皆如夢 時時仰彼蒼
の詩のことだろうか。
雲鈴は元禄十五年刊の千山編『花の雲』に、
しら菊や二ツならべて後の秋 雲鈴
の句がある。
除風は『花の雲』に、
咄しきく中に鼾や朧月 除風
宝永四年刊の露川編『庵の記』に、
けふあるとうかがふ雲のしぐれ哉 除風
の句がある。
「十五日
此日矢懸をたちて尾道におもむく。その道のかたはらにあやしき小屋の侍リ。雲鈴曰、我かつて此家に一夜をあかしつるが、能因法師のかくてもへけりとよまれし哥を、よもすがら思ひあはせ侍るといふに、げにもあさましき草のやどりなりけり。
笹の葉に何と寐たるぞ蝸牛」
尾道への近世山陽道も引き続き古代山陽道を踏襲するかのように、井原、神辺へと直線的に進む。
「かくてもへけり」の歌は、
世の中はかくても経けり象潟の
海士の苫屋をわが宿にして
能因法師(後拾遺集)
の歌で、随分と寂れたところに泊まったようだ。尾道とは言うけど、次の竹原へ行く道中を見ても今の尾道駅の付近ではなく、一つ手前の今津宿かその少し先の松永か今の東尾道駅の辺りに泊まったのではないかと思う。
支考もまた一句。
笹の葉に何と寐たるぞ蝸牛 支考
瀬戸内海は古くから海上交通が発達していたため、山陽道は寂れていたのかもしれない。ただ、それにしても寂れすぎている。
「十六日
備後國
宿福善寺
此日尾道より小舟に棹して、安藝の竹原といふ處にわたる。道のほど八里ばかり也。青巒の影左右につらなりて江上の望遠からず。淨土寺の塔は松の木間にかくれて、千光寺の塔はこなたの雲にそびゆ。西湖の風月・煙雨の樓臺すべてこのまのあたりをさらず。舟は静にして座せるがごとく、かたはしに苫屋形ふきよせたれば、東坡が赤壁の繪を見るやうにぞ侍る。をりふし酒もあり肴もありて、このふねとぼしからず。殊に年老たる船頭の物いはぬ顔のおかしければとて、たゞ醉によひふしね。かくて楓橋の夢もさめて、夕陽のかけみねにかゝれば、三原の城は松の麓にかゞやきて、鳥の聲もきこゆばかり也。されば此あたりあしか泻ともいひ、能地の浦とかや浮鯛の名所なるよし、かねて人のかたり申されしが、世に櫻鯛の名はありながら、この魚のいろのみよく照りて、風味又よのつねならずと。かの松江のすゞきは、あたまにては侍らざらん。
浮鯛の名やさくら散三四月」
尾道から船で竹原へ向かう。八里という道のりは今の地図上を見ても大体あっていると思う。「巒」は峰のことで、青い木木の鬱蒼と茂った山が海の左右に連なって、遠くの方は見えにくい。右側は山陽の山が連なり、左側は向島、岩子島、因島、佐木島、高根島などが並ぶ。
今の尾道駅の辺りから船に乗ったのなら、転法輪山浄土寺は岡山側に逆戻りすることになる。船から浄土寺が見えたのなら、船はやはり今津宿か、その辺りかから出てたのだろう。これだと海に出て、やがて向島との間の狭い水路を進み、すぐに右側に浄土寺が見えてくる。ウィキペディアには、
「浄土寺(じょうどじ)は、広島県尾道市東久保町にある真言宗泉涌寺派大本山の寺院。山号は転法輪山(てんぽうりんざん)。院号は大乗院。本尊は十一面観音で、中国三十三観音霊場第九番札所である。」
「推古天皇24年(616年)、聖徳太子が開いたとも伝えられる。」
とある。浄土寺の多宝塔は、ウィキペディアに、
「 嘉暦3年(1328年)建立の和様の多宝塔。中国地方における古塔の一つとして、また鎌倉時代末期にさかのぼる建立年代の明らかな多宝塔として貴重。」
とある。松の木間からちらっと見えるだけだったか。
千光寺は浄土寺の少し先の大宝山の中腹にある。ウィキペディアに、
「千光寺(せんこうじ)は広島県尾道市東土堂町の千光寺公園内にある真言宗系の単立寺院。山号は大宝山(たいほうざん)。本尊は千手観音。中国三十三観音第十番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十番札所である。
境内からは尾道の市街地と瀬戸内海の尾道水道、向島等が一望でき、ここから取られた写真がよく観光案内などに使用されている。」
とある。大同元年(八〇六年)の創建になる。
「千光寺の塔」は天寧寺の塔であろう。ウィキペディアに、
「天寧寺三重塔:1388年(嘉慶2年)に足利義詮が五重塔として建立。元禄5年(1692年)老朽化したため上部の2層(四重目・五重目)を取り除き、現在の三重塔(高さ約20m)の姿になった。」
とある。支考の来た時には既に三重塔になっていたが、「こなたの雲にそびゆ」ように見えた。
「西湖の風月」は中国の杭州にあり、白楽天の「銭塘江春行」の詩でも知られている。「煙雨の樓臺」は杜牧の、
江南春望 杜牧
千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中
千里鶯鳴いて木の芽に赤い花が映え
水辺の村山村の壁酒の旗に風
南朝には四百八十の寺
沢山の楼台をけぶらせる雨
であろう。
さて、支考、除風、雲鈴の三人の乗っている船だが、「舟は静にして座せるがごとく」とあるからそんなに小さな船ではないだろう。「かたはしに苫屋形ふきよせ」とあり、小さなキャビンがある。
「東坡が赤壁の繪を見るやうに」は蘇軾の『前赤壁賦』であろう。
「壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒蜀客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。白露横江、水光接天。縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。」
(壬戌の年の秋、七月の十六夜、蘇子は客と船を浮かべ、赤壁のもとに遊ぶ。涼しい風が静かに吹くだけで波もない。酒を取り出して客に振る舞い、明月の詩を軽く節をつけて読み上げ、詩経關雎の詩を歌う。やがて東の山の上に月が出て射手座山羊座の辺りをさまよう。白い靄が長江の上に横たわり、水面の光は天へと続く。小船は一本の芦のように漂い、どこまでも広がる荒涼たる景色の中を行く。)
の情景は芭蕉が、
ほととぎす声横たふや水の上 芭蕉
の句を詠んだ時にイメージに合ったもので、元禄六年四月二十九日付の荊口宛書簡に、「水光接天、白露横江の字、横、句眼なるべしや。」とある。支考もこの句を思い出したのではないかと思う。
「をりふし酒もあり肴もありて」とあるから、昼間っから酒盛りが始まったのだろう。そして、今の慰安旅行でもよくあるパターンだが、午前中に酒飲んで盛り上がると、大体午後にはみんな寝てしまう。
「楓橋の夢」は、
過楓橋寺 孫覿
白首重來一夢中 靑山不改舊時容
烏啼月落橋邊寺 欹枕猶聞半夜鐘
白髪になってもずっと見続けている同じ夢
青々とした山は変わず昔のままさ
鳥が鳴いて月が落ちて橋の傍の寺
眠るともなく床の中で聞こえる鐘はもう夜中
の詩で、まあいつまでも若いと思ってたら時はあっという間に過ぎ去り、ということになる。酔っ払って寝ていたら、いつの間にか三原を過ぎていた。ただまだ竹原までの半分くらいしか進んでいない。「夕陽のかけみねにかゝれば」はかなり盛ってるのではないか。三原城が見えたのなら、まだせいぜい須波の辺りだろう。
ここから左側に佐木島、高根島を見て過ぎる辺りが「能地の浦」になる。今でも「三原市幸崎町能地」という地名が残っている。浮鯛神社があり、海流の関係で深海にいる鯛が浮かび上がってくるという。浮き鯛はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「浮鯛」の解説」に、
「〘名〙 桜の花の咲く頃に海面に群がり浮き上がってくる鯛。鯛類は比較的深い所にいるが、潮流などの影響で急に水圧が減少し、浮き袋の調節ができないで水面に浮いてくる鯛をいう。《季・春》
※俳諧・毛吹草(1638)四「安芸〈略〉野路(のぢの)浮鯛(ウキタイ)」
とある。残念ながら浮鯛の季節はもう終わっていたが、ここで一句。
浮鯛の名やさくら散三四月 支考
「この魚のいろのみよく照りて、風味又よのつねならず」は松江のスズキにも喩えられる。松江のスズキは上海松江で獲れるという松江鱸魚で、日本ではヤマノカミと呼ばれる魚だという。
この少し先に大久野島があるが、当時は何の変哲もないただの島だった。太平洋戦争の時ここに毒ガス製造施設がつくられ、そこで実験用に飼育されていた外来種のアナウサギが戦後野生化し、つい最近になってウサギの島としてバズることになった。
「十七日
安藝國
この竹原といふ所は、山を箕の手におひて、前に汐濱あり。何かゆふべのといへるたびねの心にもかよひて、あはれむべき住どころなりしが、むかしのおとゞはうつしてだに見給へるに、さなく見る事のめづらしければ、なにがし一雨亭にこのほどのやどりもとめ侍る。
五月雨の汐屋にちかき燒火かな」
「箕の手におひて」は箕の手形(てなり)のことで、コトバンクの「デジタル大辞泉「箕の手形」の解説」に、「左右に出っ張った形。」とある。ここでは左右山が迫った谷間で、前は浜という竹原の地形をいう。
「何かゆふべの」はよくわからないが、
夕されば何か急がむもみぢ葉の
したてる山は夜もこえなむ
大江匡房(詞花集)
の歌か。あるいは、
なにゆゑと思ひもいれぬ夕べだに
待ち出でしものを山の端の月
藤原良経(新古今集)
か。「むかしのおとゞ」とあるから、摂政太政大臣藤原良経の方か。
十七日だから日が沈んだ後に竹原の濱に着けば真っ暗闇になっている。月が登るのを待ってようやく一雨亭にたどり着いたということか。ここで一句。
五月雨の汐屋にちかき燒火かな 支考
「十八日
此日梅睡亭にまねかる。是も汐濱の中にありて、千山も万水ものぞみたふまじき別墅なり。今日はことに片照片降とかいふ空のけしきなれば、よのつねにはあらでいとよし。
夏菊に濱松風のたよりかな」
竹原の梅睡亭も一雨亭と同様、浜辺にある。裏には千山、正面には万水と、これ以上望むことのできない場所だった。
「片照片降」は一方で雨が降って一方で日が照っているという安定しない天気とはいえ、雨上がりの光の射す時にはこの上なく美しい世界を映し出す。ここで一句。
夏菊に濱松風のたよりかな 支考
ネット上の佐野由美子さんの「竹原地方における蕉風俳諧の伝播」には、支考編『西華集』に収録された竹原での俳諧(表八句)とその支考の注が記されている。
蓮池は吹ぬに風の薫かな 一雨
箸も一度に切麦の音 時習
あたまはるまねに座頭のにつとして 支考
雨の降日は淋しかりける 孤舟
磯ちかき野飼の牛の十五六 雲鈴
宿かりかねし旅の御僧 梅睡
あらし立今宵の月は細々と 一故
粟苅れても鶉啼なり 如柳
発句、
蓮池は吹ぬに風の薫かな 一雨
の句は、蓮の咲いている池に風が吹いてないのに風の薫りがする、という意味で、風がなくても自ずと蓮の香が漂ってくるという所に、支考は天下泰平の風だと解釈する。注に、
第一 不易の真也吹ぬに風のと轉倒したる所よりミれは
かならず蓮池の薫のミならんやかの琴上の南風な
るべし
とある。
琴上の南風は『十八史略』に、
舜彈五絃之琴、歌南風之詩、而天下治。詩曰、
南風之薫兮 可以解吾民之慍兮
南風之時兮 可以阜吾民之財兮
とあるという。
まあ、風流の基本は天下の太平をよろこび、笑い合うことにあるわけで、そうした和を感じさせる挨拶は基本的に風雅の誠に適うもので「不易の真」ということになる。
ある意味「不易」は流行しない凡句を褒めて言う言い方なのかもしれない。
脇。
蓮池は吹ぬに風の薫かな
箸も一度に切麦の音 時習
切り麦はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切麦」の解説」に、
「〘名〙 (「麦」は麺(めん)の意) 小麦粉を練り、うどんより細く切った食品。多くは、夏季、ゆでて水に冷やして食べる。ひやむぎ。切麺。《季・夏》
※多聞院日記‐永正三年(1506)五月二六日「今日順次沙二汰之一了〈略〉後段〈うとん・きりむき・山のいも・松茸〉」
とある。
夏の暑い時に風もないということで、一気に冷や麦をすする。支考の注に、
第二 其場也箸も一度にといひよセて切麦の凉しき音を
あつめたる廣き寺かたのありさまなるべし。
とある。
切麦や切蕎麦は寺で出すことが多い。一斉に冷や麦をすする音に寺の広さというのは、実際の興行の場のことを言っているのだろう。
第三。
箸も一度に切麦の音
あたまはるまねに座頭のにつとして 支考
まあ、楽しく会食していると、誰かがボケてそれにパシッと突っ込みを入れるふりをしたりって昔からあったのだろう。
座頭はこの突込みの頭を張る場面が見えてはいないが、研ぎ澄まされた聴覚で何が起きているかはわかっていて、にっと笑う。
「につと」は今日の「にやっと」のニュアンスではなく「にこっと笑う」の意味。元禄七年の「鶯に」の巻三十二句目に、
参宮といへば盗みもゆるしけり
にっと朝日に迎ふよこ雲 芭蕉
の句がある。
この句は支考の自注に、
第三 其人の一轉也給仕の者の手もとちかく末座はかな
らず按摩の座頭ならんされは此下の五もしにいた
りて一朝一夕の工夫にあらす百錬の後こゝにいた
る句に雑話をはなるゝ事誠にかたしとうけたまハ
りしか
お寺での会食に按摩の座頭がいるのはあるあるだったのかもしれない。切麦の場に按摩を取り合わせたところに、ふざけて頭を張る真似をしたところで座頭がにっと笑うという取り囃しというか、今でいうネタを即座に持って来れるのは、俳諧師としての修行の賜物であろう。日頃から日常の何か面白いことを探し求め、それをたくさん頭の中にストックしているからできる。
四句目。
あたまはるまねに座頭のにつとして
雨の降日は淋しかりける 孤舟
雨に降る日は淋しすぎるから、なんとか紛らわそうと笑わせようとする、ということだろう。四句目はこのようにさっと流すのは悪くない。支考の注は第三までしかない。
五句目。
雨の降日は淋しかりける
磯ちかき野飼の牛の十五六 雲鈴
雨の日の野飼いの牛は、たくさんいても淋しそうに見える。「磯ちかき」で水辺に転じる。
六句目。
磯ちかき野飼の牛の十五六
宿かりかねし旅の御僧 梅睡
磯の傍で家もなく雨宿りする所もない。前句をその旅の風景として旅体に転じる。
七句目。
宿かりかねし旅の御僧
あらし立今宵の月は細々と 一故
あらし立(たつ)は「風立ちぬ」と同様に嵐が吹いてくること。三日頃の月で細い月が心細くて吹き散りそうだ。宿のない旅僧の心境にに重なる。
八句目。
あらし立今宵の月は細々と
粟苅れても鶉啼なり 如柳
粟と鶉は和歌にも詠まれていて、
うづらなく粟つのはらのしのすすき
すきそやられぬ秋の夕ベは
藤原俊成(夫木抄)
などの歌がある。それを粟すらなくて鶉が鳴くからもっと淋しい、とする。
惟然の『二葉集』でも面六句がいくつも収められているように、この頃の中国地方には、一晩で歌仙一巻を満尾できるほどの者が揃わなかったのかもしれない。一句付けるのにうんうん唸りながら時間を食ってしまうと、興行そのものが退屈になるし、こうした難しさがじわじわと俳諧そのものの衰退につながっていったのだろう。
佐野由美子さんの「竹原地方における蕉風俳諧の伝播」には、メンバーの違うもう一つの面八句が収められている。
山陰は哥の遠のく田植哉 春草
昼寐そろハぬ庵の凉風 釣舟
から笠に皆俳諧の名をかきて 支考
三日四日の月の宵の間 流水
雁啼て湖水を渡る鐘の声 似水
早稲も晩稲もあるゝ軍場 樗散
今の世は子共も酒をよく呑て 雲鈴
もたれかゝれはこかすから紙 高吹
「十九日
例のさみだれにふられて竹原を旅だち出るに、流水のおのこ、心ありて林光庵の辻といふ所におくり來る。道のほど二里ばかりもあらん。是に留別の句かきて、つかはしける。
我影や田植の笠にまぎれゆく
今宵は四日市といふ所に宿し侍るが、蚊屋釣よすがもなきいぶせきやどりなりけり。このあたりは西條とかいへる柿の名所なり。此里に我名しりたるおのこあるて、來りて風雅の事いひていにける。あとに宿のあるじのいかに聞とりてか、我に物かきて得させよといふ。あなかしこ我をたふときものと思ふにこそと、こゝろのほどおかしければ、かくいふ事をかきてとらせける。
弘法を狸にしたる蚊遣かな
次の日は廣島にいたる。里洞・柳江を尋るにあはず。是より後、下の關を過て柳江に逢ふ。心ざしのおのこ也。」
西条四日市宿は内陸部にあるので再び陸路で山陽道に戻ったのだろう。山陽道は尾道から本郷(三原市)から竹原市新庄町を経て、山陽新幹線に近い田万里を通り、三永から松子山大池の西の松子山峠を越えて西条四日市宿に出る。
林光庵の辻はこの山陽道のルートからすると竹原市新庄町の辺りであろう。流水は竹原での二つ目の表八句で四句目の、
から笠に皆俳諧の名をかきて
三日四日の月の宵の間 流水
の句を付けている。別れ際に、
我影や田植の笠にまぎれゆく 支考
の句を竹原の人たちに書き、流水に托す。
笠を被った旅姿の自分ではあるが、この季節は田植で笠を被っている人がたくさんいるので、その中に紛れるように去って行きます。田植は神事なので簑笠を着た。
松子山とうげを越えて歌謡坂(うたうたひざか)を下ると西条四日市宿がある。名産の西條柿がある。渋柿だが糖度が高く、干柿にすれば最高の甘い柿になるという。
四日市に宿泊すると支考の名を知っている人がいて、「風雅の事」つまり俳諧のことをいろいろ言って去って行く。あとで宿の主に言われたが、揮毫を頼まれる。こういうとき芭蕉だったら「時鳥の所に案内しろ」だとか「代わりに庭を掃いておいてくれ」だとかいう所だが、支考は有名になったなって喜んだか、
弘法を狸にしたる蚊遣かな 支考
の句を書き記す。これは「串に鯨を」の用法で、狸で弘法にする、つまり狸が弘法に化けるという意味になる。こんな狸を弘法だと思って揮毫せよということか。蚊遣の煙たい宿だった。
翌二十日は広島まで行く。西條四日市から大山峠を越えて行く、今の国道二号線に並行した道だ。
峠を越えると海田市の辺りから天神川の方へ行き、広島宿に入る。
里洞・柳江には会えなかった。後に柳江には下関で逢うことになる。
この二人は元禄四年刊の賀子編『蓮実』に、
弟さへ世を遁レけり網代守 里洞
梟の寒き夢うつ霰かな 柳江
の句がある。
「廿二日
宮嶋
神前奉納
燈籠やいつくしま山波の華
三とせの先ならん。ある夜の夢に何ともな
き山里に行けるが、宇金の布衣かけたるお
のこの我にむかひて、是は安藝の宮嶋とい
ふ所なりといへるに、ほとゝぎすの聲の山
影にきこえたれば〽郭公是を山路の小春か
なとおもひよりて小春の山路とやせん、山
路の小春とやせんと思ふほどに、夢の行衛
もしらずなりぬ。されば今宵は廿二日、神
前の廻廊も百八の灯籠かけわたして、冥感
と肝にそむばかりにたふとかりしが、眼前
の境に催されて、たゞ今の句をぞ得侍る。
當季さだめがたければ、過し夢の事まで思
ひあはせけるなり。
華表額 表 嚴嶋大明神 弘法大師筆也
裏 伊都岐島大明神 小野道風筆也
御殿の反橋の際に、尊圓親王の落書あり。長谷千松とあり。兒の時なるべし。
彌山
彌山とは芥子のつぼみに朝日哉
尚政亭
鹿の子のあそびたらでや磯の月」
日本三景というのは林羅山の息子の林鵞峰が言い出したことで、ウィキペディアによると『日本国事跡考』に、
「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立・安藝嚴嶋爲三處奇觀」
によると言われている。
それをいうと、芭蕉は松島には行ったが、後の二つは見残していることになる。
その見残しの一つ、秋の宮嶋に支考は参拝する。そこで一句。
神前奉納
燈籠やいつくしま山波の華 支考
芭蕉も神社を詠んだ句はあるが「神前奉納」という形を取ってはいなかった。まあ、詠む句すべてが神仏に奉納するものだったのかもしれない。桃隣も「舞都遲登理」で鹿島に行った時に、
奉納 額にて掃くや三笠の花の塵
と記しているが、芭蕉のように自然な形で神仏に接するのではなく、どこか形式主義化した感じがする。
竹原での表八句の発句に、あえて「不易」との注を添えねばならなかったような、芭蕉の死後に俳諧のアンチが勢いづくようなことがあって、俳諧を擁護するためのいろいろな名目を述べなければいけないような状況が生じていたのかもしれない。
支考の句の方だが、眼前に厳島神社の燈籠が並び、背後には厳島の山があり、正面には瀬戸内海の波の花が咲いている。
土芳の『三冊子』「くろさうし」に、
「師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて不叶、物を見て取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし。うばはれぬ心得もある事也。そのおもふ所しきりにして、猶かなはざる時は書うつす也。あぐむべからずと也。師、松島にて句なし。大切の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142~143)
とある。「物を見て取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし。」を基本通りに実行したような句だ。安芸の宮嶋を見まわして燈籠がある、厳島の山がある、前に海がある、それをそのまま書き写し、特に面白おかしく取り囃したりもせずに静かに詠んだ句だ。
このあと支考は三年前の夢のことを書き記している。三年前というと元禄八年だから、芭蕉が去った後のことだ。
見知らぬ山里で宇金の布衣を掛ける人がいた。宇金の布衣はウコンで染めた黄色い衣だろう。タイのお坊さんが思い浮かぶが、当時の日本では高僧の着るものだった。そしてここは安芸の宮嶋だという。
折からホトトギスが鳴いたので、支考は、
郭公是を山路の小春かな
と詠もうとしたが「小春の山路かな」の方が良いか、どちらが良いか迷った。「小春」は旧暦十月のことで、それにホトトギスは変だが、そこは夢だからということだろう。夢の中で思いつくことってそういうことが多く、たまたま目覚めて覚えていて書き留めてみても、読んでみると何だこりゃ、使えん、ということがよくある。支考もこの夢のことを忘れていて、この時ふっと思い出したのだろう。
そして「今宵は廿二日、神前の廻廊も百八の灯籠かけわたして」と「眼前の境に催され」るがままに、「燈籠や」の句を詠んだ。ただ、夏の季がうまく乗っからないので、夢で詠んだ句のようにおかしなものになってしまった、と自嘲する。ただ、名所の句は無季でもいいと、
歩行ならば杖突坂を落馬哉 芭蕉
の前例もある。
「波の華」は貞徳の『俳諧御傘』に、
「花の波 正花也。水辺に三句也。但、可依句体。波の花は非正花、白浪のはなに似たるをいふなり、植物にあらず。」
とある。
この後に厳島神社の扁額のことが記されている。今の物は有栖川宮熾仁親王の書だという。明治の廃仏毀釈の時に掛け替えられたのであろう。
支考の見た古い額は厳島神社宝物館にあるという。ただ、これは一五四七年(天文十六年)に大内義隆によって再建され四代目の大鳥居のもので、初代大鳥居に掲げられていた小野道風と弘法大師の額ではないという。
御殿の反橋も一五五七年に再建されたもので、そうなると「長谷千松」の落書きも怪しい。
彌山
彌山とは芥子のつぼみに朝日哉 支考
弥山(みせん)は宮嶋の最高峰で標高約535メートル。今ではロープウェイで登れる。
句の方は芥子のつぼみが下を向いているということで、ひたすら拝み、こうべを垂れているところに御来光の朝日が射す、という意味だろう。
尚政亭
鹿の子のあそびたらでや磯の月 支考
尚政亭は支考の宿泊地であろう。関西大学図書館のサイトの鬼洞文庫に、
「承応二年九月二十五日興行、「賦御何」連歌百韻の巻物一巻がある。発句「世を照す神のめくみや秋の月 仙甫」。連中は仙甫、正音、尚政、昌句、以春、種定、宗因、西順、等二、玖也、盛次、友貞。宗因が出座するもので注目されるが、尾崎千佳氏「西山宗因年譜稿」(『ビブリア』111)にも未収のようである。」
とあり、四十五年前の承応二年(一六五三年)の尚政と同一人物だとしたら、かなりの高齢になる。
支考編『西華集』には尚政の発句による表八句が収められている。もう少し長く逗留して、俳諧興行をたくさんやりたかったという思いが「あそびたらでや」に込められているのだろう。
宮島
松かけや烏のとまる早苗船 尚政
日は焦たる黴の夕晴 雲鈴
やれ客と座敷の子共掃出して 支考
隣もちかき籔のくくり戸 林角
馬の血のこぼれて水の濁り行 祖扇
時雨に笠も持ぬ境界 尚政
達磨忌の夜は片岡の月を見て 林角
名はさまざまに紅葉ちりけり 祖扇
「廿五日
周防國
この日岩國の續橋を見て、柱野といふ所に宿す。此處を旅立出るに、雨もそぼふりてこゝろぼそき山中なりしが、田舍座頭の琵琶負ふたるさまをはじめて見侍りて、
ほとゝぎすむかしなつかし琵琶法師」
ふたたび山陽道の陸路を岩国に向かう。宮島を出て玖波宿から苦の坂の峠を越えると小瀬川に沿って進む。ここをさらに直線的に進み小瀬峠を越えると岩国城のあった所に出る。ただ岩国城は元和元年(一六一五年)に廃城になり、陣屋があるのみだった。
その南東の錦川に架かる続橋は錦帯橋の名前で今でも有名だ。延宝元年に最初のものが建造され、以後約二十年ごとに掛け替えが行われているという。最初の架け替えが元禄十二年(一六九九年)なので、支考が見たのは初代の橋になる。
続橋を見てふたたび山陽道に戻り、岩国城址の西側で錦川を渡り、御庄川に沿って行くと柱野に着く。山の中の間宿であろう。
ここで座頭の琵琶法師に出会う。おそらく古浄瑠璃を語る琵琶法師は延宝の頃にはまだ多少は残っていたのだろう。その頃でも琵琶ではなく三味線を持つようになってたようだが、その後急速に琵琶法師は廃れていったため、寛文生まれの支考には初めて見るものだったのだろう。
芭蕉は元禄二年の『奥の細道』の旅の時、末の松山で奥浄瑠璃を語る琵琶法師に遭遇している。それからも九年後のことだ。
支考が竹原で詠んだ、
箸も一度に切麦の音
あたまはるまねに座頭のにつとして 支考
の第三も、古い世代の人だったら按摩ではなく琵琶法師の方を想像したかもしれない。
ここで一句。
ほとゝぎすむかしなつかし琵琶法師 支考
今どきの琵琶法師はホトトギスの一声のように貴重だ。
「廿六日
德山
雲鈴曰、今宵此所發句ありや。予曰、なからん。德山とは夏の名にあらず。先師むかし出羽の國を過たまひて、
あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
此句は吹浦の二字うれしければかく申され侍しを、此ごろなにがしが集には、福浦かけてと出し侍り。是俳諧をしらぬのみにあらず。先師をあやまるにちかし。鈴曰、しからば福浦・德山の類は發句あるまじきや。予曰、季節の相應あるべし。福浦は正月とおもひよせて、万歳・鳥追の類にあるべく、德山は冬きたりて炭賣・柴賣の類にあるべし。このごろの俳諧の撰集に、先師のこゝろにもあらぬ發句を書ならべ、天地にたがひたる句意を集の題號にとりつけたるなど、その場しらぬ人のあやまりたる也。むかしある人、さのゝ渡にほとゝぎすの哥よまれしを、さる事あるまじと人の難じ給ひしとかや。げにさのゝわたりといへば、空晴て寒きやうにおもはるゝかし。いにしへより哥の名所に、そこに是はいはず、こゝにそれはよませじなどいへば、あら氣づまりの哥道や、たゞ俳諧せむといふ人あり。さるは俳諧の仲間にも得あるまじき人なり。かゝる事はその道々の宗匠の格式をたてゝ、無理を云やうにおもふらめど、その場その場の物のかなへる本情は、何の俳諧に無法あらん。富士參に雪隱を案じ、芳野ゝ奥に鰒汁の相談をして、是はめづらしき名所のよせ物などいへるは、世の雜談俚語といふべし。それは鴫たつ澤の夕おかしく、田子の浦のあさ日はなやかならんといふ、その場をしらぬ人なるべし。されば珍しき事あたらしき事をこのむは、人の世の中に何かおもしろからんと、たくみありく遊人のたぐひなるべし。面白事に面白事をかさぬれば、それもおもしろからず、是もおもしろからず。はては金殿樓閣にもあきて、その果は世の中も飽ぬるかし。是風雅の淋しきより、にぎはしき方を見やるべき世にある人の心なるが、まして行脚漂流の身のその場といふをしらねば、たゞ放言の遊人なりと先師も遺誠申されしが、俳諧ならでもたふとむべき事也。先師又いへる、名所に對して當季をむすび、その場を案ずるには、文字の數たらひがたからん。名所などは雜の句などは殊さら名人の手段なるべし。
佐野礒田
またぐらに山見る礒の田植かな
黒髪山
早乙女や黒髪やまを笠のかせ」
山陽道の柱野を出て高森宿を過ぎると、次は徳山宿になる。ほぼ新幹線に沿うような道筋になる。
その徳山だが、徳山市は今はない。平成の大合併で新南陽市、熊毛町、鹿野町と合わせて周南市になった。
徳山は特に歌枕があるわけでもないし、源平合戦の史跡もない。こういう所での発句は難しい。これはたとえば戦後の歌謡曲でご当地ソングというのがあるが、徳山はそういう意味でも作りにくい場所だろう。徳山周辺の観光スポットをネットで調べても、出てくるのは錦帯橋や岩国城になってしまう。町おこしをするにもきっと苦労しているに違いない。周南市を「しゅうニャン市」にして猫の街にしようとかいうのがあるみたいだが。
歌枕を読むときにわりかしよくあるのは、地名に掛けて詠むやりかたで、芭蕉が今の山形県の酒田に来た時にも、酒田も特に歌枕ではないし、夏に詠むのにちょうどいい名物もなかったが、たまたま「あつみ山」と「吹浦」という地名を見つけ、
あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ 芭蕉
の句を作った。単独では何の変哲もない地名でも、二つ組み合わせると暑い所に風が吹いて、「夕涼み」という季題で結ぶことができる。
芭蕉の吹浦は風が吹くに掛けて吹浦だから意味があるので、これを福浦と表記してしまったのでは何の意味もない。
徳山でも何かそういうのができればいいが、支考は何も思い浮かばなかったようだ。
「福浦は正月とおもひよせて」というのは、「福」に掛けてのことで、「德山は冬きたりて炭賣・柴賣の類にあるべし」というから、当時は炭や薪のイメージがあったのか。まあ、この支考の予言は当たってなくもない。近代に入って一時期練炭の町になった。
歌枕の句はその場にふさわしいものを詠むもので、「富士參に雪隱を案じ」は付け句であれば問題はないが、発句のネタではない。シモの発句が許されるのは尿前の関くらいだろう。
付け句の場合はたとえば『ひさご』の「鐵砲の」の巻二十八句目に、
から風の大岡寺繩手吹透し
蟲のこはるに用叶へたき 乙州
の句がある。「太岡寺畷(だいこうじなわて)」は東海道の亀山宿と関宿の間にある鈴鹿川に沿った十八丁(約3.5キロ)にわたる土手の道で、風の通りも良い。それに、腹の虫のせいで腹がこわばって痛むので用を足したい。ただ見通しの良い縄手道では野グソというわけにもいかない。十八丁の道を我慢しなくては、と付ける。これなどは伊勢参りに雪隠を案じの例になる。
「芳野ゝ奥に鰒汁」もまあ、何しにそんなところまで河豚汁をで、要するに必然性がない。下関の河豚なら普通だが。
こういうのを窮屈と思うかもしれないが、たとえば「吉野慕情」みたいな吉野のご当地ソングを作る時に「河豚汁が旨い」なんてやるだろうか。ネタにしてもそれを面白く聞かせるのは難しいと思う。同人誌で細々とやっている文学者ならともかく、業界の人のやる事ではない。
名所の句といっても一番良い時期に旅をできるとは限らないので、芭蕉も松島では満足のいく句は詠めなかった。
島々や千々に砕きて夏の海 芭蕉
の句があるが、死後に発見されたということは、名所の句として発表するだけのレベルではないと思っていたのだろう。『奥の細道』に掲載された、
松島や鶴に身をかれほととぎす 曾良
の句は、本来松島にふさわしい「鶴」を「鶴に身をかれ」ということで夏に登場させることに成功している。こちらの句の方が勝っていると判断したのだろう。
ただ、支考の論がちょっとずれているとすれば、こうした紋切り型の定番を求めるのはむしろ世俗の方で、「世の雜談俚語」の方がそれを求めているということだ。それにうまく合った句を詠むことで良く流行することになる。
たとえば、木更津でドラマを作ろうとしたら、まずみんなが思い浮かべるのは高校野球だろう。それに潮干狩り、證誠寺の狸、中の島大橋であろう。
逆をいえばわざとそれを外そうとするのは、人とは違うんだという我の強い、アンチな人間であろう。芭蕉亡き後の俳諧は、そういう人が集まってしまったのかもしれない。
「鴫たつ澤の夕おかしく、田子の浦のあさ日はなやかならん」というのも、行ったことのない人は和歌のイメージで鴫たつ澤は何だか知らないけど哀れなところで、田子の浦は富士山が見えるくらいに思う所だろう。わざと違うことを言う人間というのは、少なからず、俺は人とは違うんだ、という人間だろう。
この辺りは支考自身がちょっと世間からずれてしまっているのではないかと気になる。
まあ、世間も様々だから、いわゆる成金趣味の人というのもいる。「はては金殿樓閣にもあきて、その果は世の中も飽ぬるかし。是風雅の淋しきより、にぎはしき方を見やるべき世にある人の心なるが」というのは、元禄期にはそういう成金が多かったというのもあるのだろう。鴫立沢を埋め立ててリゾートホテルを立てようだとか、今でもいそうな感じはするが。
まあ、実際勘違いする人は今でも多く、下町のうらぶれた風情が外人の間で人気になっているのに、そこにセーヌ川のようなこじゃれたカフェテラスを作れば外人大喜びで、インバウンドわんさか来てがっぽがっぽなんて開発計画が持ち上がったりもする。
まあ、名所というのは基本的にブランドだから、そのブランドを壊すようなやり方は得策ではない。それと同じで名所の句というのも、世間が求めている名所のイメージというのを大事にしなくてはならない。
佐野礒田
またぐらに山見る礒の田植かな 支考
黒髪山
早乙女や黒髪やまを笠のかせ 同
佐野礒田はどこらへんなのかよくわからない。地名の通りに磯の近くに田んぼがあるのだろう。田植をしている人の視点に立てば、股座から山が見える。
黒髪山は瀬戸内海に浮かぶ黒髪島のことか。田植をしている早乙女の背後に黒髪島が見えれば、黒髪島があたかも巨大な笠のようだ。早乙女の黒髪に掛けて詠む所はお約束といったところか。
「廿七日
宮市
此地に天滿宮おはして、鏡の御影ときこへさせ給ふは、さすらひのむかし、旅姿を水かゞみ給ひしよりかく申傳へしと、宿のあるじのかたり申されしに、
五月雨ににごらぬ梅の疎影哉
次の日此山中を通るに、めの童共の伊勢詣するに逢ふ。首途も此あたりちかきほどならん。髪かたちもいまだつやつやしきが、みな月の土さへわるゝ、といへるあつき日には、我だにたふまじきたびねの頃なるを、いかに道芝のかりそめにはおもひたちぬらん。百里のあなたははるけき我いせのくにぞよ。道のほとりなる家によび入て何がしがかたに文つかはす。その奥に此童ア共もに茶漬喰せ給へ、柹本のひじりもあはれと見たまへるものをとかきて、
姬百合の情は露の一字かな
我がいせにある時は、虱の異名をぬけまいりなどいひならはせたるに、かゝるまことのぬけまいりならば、うしろ影も見やりつべし。さればこのあたりは中山宿とかや。馬にのりて行けるが、馬の上に我が吟聲をきゝて、口につきたるおのこの、我かほを見あげて、いせの人々におはさば守武・望一のながれをしり給んといふにおどろきて、おのれ俳諧をしりて侍るやとあやしむるに、おさおさしりてぞありける。あらたふと、かの姬百合の露の神にも通じけんと、夢のこゝちにおもはれしが、さしも今の風雅のいたらぬ世もあらじと、たのもしき事にぞおぼえ侍る。」
徳山を出て、防府へ向かう。赤坂峠と椿峠を越えると富海に出る。そこから橘坂を登り浮野峠を越えれば防府に出る。その名の通り周防国の国府や国分寺のあった所だ。ここには今は防府天満宮と呼ばれている宮市天満宮があった。
宮市天満宮はウィキペディアに、
「道真が亡くなった翌年である延喜2年(904年)に創建され、「日本最初に創建された天神様」を名乗る。かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたが1873年に近代社格制度のもとで県社に列格し、松崎神社と改称。戦後の1953年には防府天満宮と再び改称した。道真が宮中での権力争いで失脚し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされており、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで、日本三大天神と言われている。」
とある。
「鏡の御影」はよくわからない。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鏡の御影」の解説」には、
「[一] 絵画上の用語。円窓を描き、その中に表わした神仏の影像。
[二] 京都西本願寺に伝わる親鸞上人の肖像画の一つ。専阿彌陀仏(生没年未詳)によって上人の存命中に描かれたものといわれる。鎌倉似絵の貴重な遺品。紙本墨画。国宝。縦七一・八センチメートル、横三二・九センチメートル。」
とある。[二]ではないと思う。
福岡に道真が大宰府に左遷される途中で自身の姿を写した「水鏡」の伝説を伝える水鏡天満宮があり、博多天神の名の由来にもなっているというが、宮市天満宮にもこの水鏡伝説を伝える「鏡の御影」なるものがあったのかもしれない。
水鏡伝説はウィキペディアの「水鏡天満宮」の所に、
「菅原道真公は京より大宰府に左遷される道中で博多に上陸した際、今泉にある四十川(現在の薬院新川)の水面に自分の姿を映し、水面に映る自身のやつれた姿をみて嘆き悲しんだとされ、これにちなんで庄村(現在の中央区今泉)に社殿が建造され「水鏡天神(すいきょうてんじん)」「容見天神(すがたみてんじん)」と呼ばれた。」
とある。
とにかく、その「鏡の御影」の話を宿の主に聞いて一句。
五月雨ににごらぬ梅の疎影哉 支考
疎影(そえい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「疎影・疏影」の解説」に、
「〘名〙 まばらなかげ。特に、葉をつけていない梅の枝のまばらなさまにいうことが多い。
※竹居清事(1455頃)戯寄規月卿「雪後諸山白未レ消、暗香疎影度二梅橋一」
※俳諧・本朝文選(1706)四・説類・愛梅説〈万子〉「孤山のたそがれに、疎影横斜をうつす」 〔林逋‐山園小梅詩〕」
とある。ここでは夏の梅なので、木と木の間隔がまばらという意味だろう。梅林はだいたい間隔を取って植えるものだ。
花の季節は終り、実のなる季節になった梅だが、五月雨に綺麗に洗われて濁ることなく、境内にまばらに植えられているその姿を見せている。
防府宮市を出ると佐野峠があり、そこから今の新山口の方へ向かう。この辺りの道は国道二号線に沿っている。新山口を過ぎて小郡バイパス嘉川インターや山陽新幹線の線路を越えて登ってゆくと割小松峠が宇部市との境になる。ここはかつての周防国と長門国の境界だった。ここを過ぎて下ったところが山中になる。
この山中で伊勢参りに行くという少女たちに逢う。この話どこかでと思ったら、そう、『奥の細道』の市振の遊女の話に似ている。ただ、支考は道筋のこれまで通ってきた知っている宿に手紙を書く。お茶漬けを食わせてやってくれだとか、柿本人麻呂(当時は神とされていた)も「あはれと見たまへるものを」と書いて、結構いい人になっている。そこで一句。
姬百合の情は露の一字かな 支考
少女たちを姫百合に喩えるが、今でいう「百合」の意味はない。
支考はこの時伊勢にいて、この『梟日記』の旅も伊勢から始まっている。だから伊勢へ行くといえば、今まで来た道の逆コースをたどることになる。
伊勢では虱のことを「ぬけまいり」と呼んでたようだが、夏の長い旅には虱は付き物だったのだろう。芭蕉も『野ざらし紀行』の旅から帰った時に、
夏衣いまだ虱をとりつくさず 芭蕉
の句を詠んでいる。
中山宿とあるのは山中宿の間違いだろう。馬に乗って俳諧の句を口ずさんでいると馬子がそれを聞いて、多分「俳諧が好きなんですか」とでも言ってきたのだろう。伊勢から来たと言うと守武や望一を知っているというので、恐る恐る「なら支考は知っているか」とエゴサーチをしたのだろう。「おさおさしりてぞありける」ということですっかり上機嫌になる支考さんでした。
「廿八日
船木
呼坂
ほとゝぎす・かんこ鳥の名所といふべし。猿
などは山のあさきやうにも侍らん
化粧坂
百合の華酒に醉てやけはひ坂」
山中から甲山川沿いに下ってゆくと厚東(ことう)川に合流し、今のJRの厚東駅の方へ行く。そこから船木峠を越えると船木宿になる。「呼坂」というのがこの辺りにあったのか、あるいは句にある「化粧坂」があったのか、よくわからない。「呼坂」で検索すると山口県周南市呼坂が出てくるが、これは徳山の手前になる。
ホトトギスやカッコウがたくさん鳴いていたのだろう。猿もいたのか。
街道は馬に乗れるので、馬に揺られながら昼間から酒を飲んでいたのだろう。幸い杖つき坂のように落馬することもなく、まったりとしながら一句。
百合の華酒に醉てやけはひ坂
「廿九日
長門國
今宵は下の關につきて流枝亭に宿す。欄干に風わたりて雲臥衣裳さむし。されば文字・赤間の二關は、筑紫・中國のさかひにして、海のおもて十余里にさしむかふ。壇の浦といふも此ほどなるべし。
關の灯のあなたこなたを夕凉」
船木を出ると厚狭(あさ)、吉田、小月(おづき)、長府を経て下関に至る。流枝亭で広島で逢えなかった柳江にも会えたのだろうか。ここで記述がないところ見ると帰る時に逢えたのだろう。
欄干とあるからお寺だったのだろう。「雲臥衣裳」は、
遊竜門奉先寺 杜甫
已従招提遊 更宿招提境
陰壑生虚籟 月林散清影
天闕象緯逼 雲臥衣裳冷
欲覚聞晨鐘 令人発深省
寺での催しに招待され、そのまま寺に泊まることになる。
背後の谷では風が音を立て、月はさやかな光を散らす。
聳える峯は天体に迫り、雲の布団で寝ているみたいに夜着を冷やす。
明け方の鐘が待ち遠しくて、人は深い悟りに至る。
の詩がある。海峡を見おろす所にお寺の欄干があって、風が強かったのだろう。一句。
關の灯のあなたこなたを夕凉 支考
門司関(もじのせき)はコトバンクの「百科事典マイペディア「門司関」の解説」に、
「古代から中世にかけて豊前国企救(きく)郡(現福岡県北九州市門司区)に置かれた関。関門(かんもん)海峡を隔て赤間(あかま)関(現山口県下関市)と向き合う。8世紀以降,大宰府(だざいふ)管内から海路瀬戸内を経て畿内に向かう際,過書(通行許可証)の勘検(かんけん)を行った。私船は勘過料(通行税)を支払った。関の管理は豊前国があたり,関司・関別当が置かれた。平安時代には関の維持のため門司関領田が設けられたという。源平争乱では平氏の拠点となった。鎌倉時代は幕府の支配下にあり,14世紀初頭には北条氏被官下総(しもうさ)氏が管理した。鎌倉幕府滅亡後も下総氏は関を掌握し,門司を名字とするようになった。南北朝後期,同氏は大内氏の被官となり,同氏滅亡後は毛利氏被官として大友氏の進出に対抗した。」
とあり、赤間関(あかまがせき)は「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「赤間関」の解説」に、
「山口県下関市の旧名。「赤馬関」「馬関」ともいう。下関海峡の北岸に位置し,九州および大陸との交通の要地。平安時代,外国船接待のため臨海館がおかれ,鎌倉時代は元寇に備え長門探題がおかれた。江戸時代,西廻り廻船 (→北前船 ) が寄港し,上方と北国との中継商業地として繁栄した。 1889年市制施行。 1902年下関市と改称。赤間関は現在の下関市の中心部。安徳天皇を祀る赤間宮の先帝祭は古来有名。壇ノ浦古戦場,豊浦宮跡の忌宮神社,安徳天皇阿弥陀寺御陵,平家一門の墓,壇ノ浦砲台跡,長門鋳銭司跡,住吉神社,高杉晋作の墓など史跡も多い。」
とある。本州と九州の境で、壇の浦もこの近くにある。
「三十日
此日下の關を出て小倉にわたる。此地の人々のとゞめ給へるを、行さきもくらきやうに侍れば、歸るさにはかならずとゞめられん。まして此ところ古戰場にして、秌のあはれをこそ見るべけれとて、是よりこゝろつくしにぞおもむきける。」
海も穏やかだったのだろう。翌日には九州小倉に渡ることができた。
もう少しとどまるように言われたけど、九州は知らない土地で時間に余裕を持ちたいし、壇の浦の古戦場は秋にゆっくり見たいということで、いざ九州へ。
ここから先は支考の九州の旅の記録になる。
「元禄の今年六月一日豐前の小倉にいたる。その夜は有觜亭に宿す。是より九國の道、東西にわかれて、行脚の心ざしさだめがたし。
笠に帆をあげてどちらへ夕凉」
「乾」の末尾では「三十日」とあった。多分実際にたどり着いたのは五月三十日だったのだろう。ただ六月一日から九州の旅が始まるとしたほうが切がいい。細かいことは気にすんなという所だろう。
有觜は小倉の人なのだろう。『西華集』に、
ちらちらと桜散込入湯かな 有觜
雲の峰今朝は時雨の寒哉 同
などの句がある。
九州の道はここから長崎方面へ行く長崎街道と大分方面へ行く中津街道とに分かれている。さてどっちへ行こうかということで、まずは一句。
笠に帆をあげてどちらへ夕凉 支考
笠を帆に見立ててしゅらしゅしゅしゅ。
「二日
大橋
この日元翠亭にいたる。此おのこは、おかしきおのこにて、人に面をかざらねば心又物にかゝはらず。その夜いねたりけるまくらのあなたにて、明日さらば何をかもてなさむといへるに、何もかまへたる事侍らずと、こたふる聲のひきいりてきこえたるは、げにこの人の妻なるべし。我さらに美好の味はもとめねども、竹の子は已に過て瓜・茄子はいまだきたらず、今ぞ心ぼそき世なりける。
竹の子や茄子はいまだ痩法師」
結局はまずは大分方面へ行く。大橋は中津街道の宿場で今の行橋になる。中津街道はほぼ今の国道10号線と並行している。
元翠は他人行儀なところが全くなく気さくな人柄で、夜寝る時に「明日は何をもてなそうか」という声が聞こえてきて、それに「そんな気にすることもない」とその妻の声が聞こえてくる。
元翠は享保九年刊朱拙・有隣編の『ばせをだらひ』に、
梶原が朝起憎し蠅の聲 元翠
この季節は竹の子には遅く瓜や茄子には早いというので、一句。
竹の子や茄子はいまだ痩法師 支考
とにかく腹の足しになれば何でもいいですよ、というところか。
「三日
柳浦亭にまねかれて、手作の瓜畠など見あるきけるに、古里の眞桑もいまや盛ならんとおもへば、なにがしの僧正の哥のこゝろまでおもひやられて、
美濃を出てしる人まれや瓜の華
此日このところを出むといふに、人々袖にすがりとゞめられしを、是も歸るさの道しるべなどさまざまにいひなぞらへて、
又越む菊の長坂秌ちかし
あまの河によみたる菊の高濱も、此あたり
なるべし。」
大橋宿での二日目は柳浦亭に行く。瓜畑があり見て歩く。甜瓜(マクワウリ)は美濃の真桑村で古代から作られていたもので。近代に西洋メロンが普及するまでは夏の味覚を代表するものだった。真桑村は現在の本巣市の南部で樽見鉄道に北方真桑という駅がある。支考の出身地も美濃国山県郡北野村西山でそう遠くない。
その甜瓜の「いまや盛」というのは花盛りということだろう。
なにがしの僧正は、
もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし
前大僧正行尊(金葉集)
であろう。ここでは山桜を瓜の花に代えて、
美濃を出てしる人まれや瓜の華 支考
この日のうちに発とうかと思ったが、大橋の人たちに引き留められて、帰る時の道標になぞらえて、
又越む菊の長坂秌ちかし 支考
「菊の長坂」はよくわからない。
「菊の高濱」は「企救の長浜」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「企救浜」の解説」に、
「豊前国企救郡長浜浦(福岡県北九州市小倉北区長浜)の海岸。現在は埋め立てられて、昔の面影はない。高浜。聞浜。」
とある。企救の長浜とも企救の高浜ともいう。このあたりに企救の長坂もあったのだろう。確かに小倉駅の東側に長浜町という地名がある。
「あまの河によみたる菊の高濱」は、
これよりや天の川瀬に続くらむ
星かと見ゆる菊の高浜
法印公誉(夫木抄)
の歌であろう。
『西華集』には柳浦の発句、元翠の脇、支考の第三による表八句が記されている。この日のものか。
大橋
かりの世の住ゐや蚊屋に顔ばかり 柳浦
うそのやうなる夏の明ぼの 元翠
かの君か五條あたりの月を見て 支考
俄さむさの露ぞしぐるる 一袋
ささ栗に猿鳴わたる山つたひ 雲鈴
此ごろ出來た村になもなし 不帯
物知の京から居る西方寺 桐水
たばこと酒に十兩の金 野吹
「四日
この日大橋の人々におくられて濱の宮にまうづ。此神のむかしこの浦に一夜の夢をむすび給ひしを、世に綱敷の天神とはあがめたる也。さるたびねは神だにあはれとおぼしたらんに、おろかなる人はましてぞや。
晝がほよ今宵はこゝにはまの宮
今宵はこゝに社僧の情ありて通夜申侍るに、元翠・柳浦・桐水などこゝにありて名殘をおしむ。日暮て一袋きたる。このあたりちかき椎田の人々も、きゝをひ來りて、奉納の歌仙半におよぶ。夜更て朱拙・怒風など名のりて戸をたゝき來る。此人々は黒崎のかたにありて、きゝおひ來れるにぞありける。朱拙のぬし續さるみのを懐にしきたる。さりや此集は先師命終の名殘なりしが、さる事の侍て武洛の間をたゞよひありきて、今こゝに見る事のめづらしうも、かなしうもおもはれて、泪のさと浮たるが、人にかたるべき事にあらずかし。そも今宵は田舍芝ゐのやうにつどひあつまりて、その朝は又はらはらにわかれ行に、僧の怒風はみのゝ國にかへるときけば、古さとのかたも戀しうぞ侍る。此僧は我舊識の人なりしが、この春のころより筑紫の方にありて、彼は歸り我は行、そは又誰がためにか行たれがためにか歸るならむ。いとまなき世のありさまかな。
夏旅の馬ならばよきくろみかな」
濱の宮は今の綱敷天満宮で椎田宿に近い城井川の河口にあり、浜の宮海岸がある。築上町のホームページに、
「綱敷天満宮は菅原道真公ゆかりの天満宮である。「左遷された道真公が大宰府に赴任する途中、嵐に遭遇し、この浜にたどり着いたとされている。
この時、漁船の網の綱を敷いて休んでいただいた。道真公はここでしばらく休養され筑紫に向かわれた。」という故事」により「綱敷天満宮」と称されたとされている。
道真公はここでしばらく休養され筑紫に向かわれた。後に、豊後国主木下延俊両公によって現在の社殿が造営されたという。」
とある。
「一夜の夢」は菅原道真公の旅寝のことであろう。
晝がほよ今宵はこゝにはまの宮 支考
この夜はこの神社の通夜ということで、大橋の元翠・柳浦・桐水とはここで別れ、椎田の人たちと歌仙興行を行う。
その歌仙も半ば、夜も更けてきた頃、朱拙と怒風がやってくる。黒崎は北九州市八幡西区の黒崎で長崎街道の黒崎宿がある。椎田までは一日がかりの行程であろう。この日の朝発ったか。
朱拙は日田の人で、元禄十年刊風国編の『菊の香』に、
山の井や猿もあぐらを星むかえ 朱拙
春雨や手ちかうなりし山のはな 同
などの句がある。元禄十五年刊の千山編『花の雲』にも、
みそさざいみそさざいとて渡りがち 朱拙
の句がある。
支考の来た翌年の元禄十二年には『けふの昔』を編纂し、享保九年には有隣とともに『ばせをだらひ』を編纂している。
朱拙は『続猿蓑』を持ってきた。沾圃編で芭蕉もその編纂に係わっているとされている。未定稿として伊賀松尾家に残されていて、元禄十一年、つまりこの年井筒屋庄兵衛によって刊行された。奥書には五月吉日とある。朱拙はそれをいち早く手に入れたか。
最後に芭蕉が伊賀に帰った時にはこの未定稿を持っていたのだろう。この時支考も伊賀にいたので、支考がこの編纂に関与したと言われているが、「此集は先師命終の名殘なりしが、さる事の侍て武洛の間をたゞよひありきて、今こゝに見る事のめづらしうも、かなしうもおもはれて、泪のさと浮たるが、人にかたるべき事にあらずかし。」と支考が関与したとしてもその時だけだったようだ。少なくともその後は支考のあずかり知らぬ所で出版の話が進んでいたようだ。
この日の夜はこうやって田舎芝居のようにどこからともなく集まって、翌朝には解散した。
怒風は美濃の人で、元禄二年、芭蕉の『奥の細道』の旅で大垣に来た時、「野あらしに」の巻に参加している。『炭俵』に、
團賣侍町のあつさかな 怒風
の句がある。支考とも旧知の仲だが、これから美濃に帰るというので、離れ離れになる。
ここで一句。
夏旅の馬ならばよきくろみかな 支考
旅ですっかり日焼けして、これが馬だったらいい馬なのだが。理由はよくわからないが「赤馬」は駄馬のことをいう。名馬は黒くなくてはいけなかったのか。
「五日
仲津
此日竿水亭にいたる。あるじはゐ給ざりしが、なにがしのむす子もたりければ、親がかくいひをけるなど、こゝろやすきほどにもてなされて、おとなしき子はほしきものかなとおもはるゝよ。今日はことにあつき日なるに、夕だちをまつといふ題のこゝろにて、
みな月の雲一寸のにしきかな」
仲津は今の中津で中津街道の名の由来でもある。宇佐の少し手前になる。椎田宿からだと間に松江、八尾の二つの宿がある。竿水亭に着く。主人は留守で息子が応対する。
暑い日で夕立を待つ。
みな月の雲一寸のにしきかな 支考
水無月の暑い日はほんのちょっとの雲でも錦のように思えてくる。
「六日
この日寶蓮坊にまねかる。あるじの僧はいまだ見え給はぬほどなるが、屏風のかたはらに、すまふの土俵などいふべきまくらを二つまでかさねをかれたり。このぬしのいかに寐給ふらんとおもふに、げに法師がらもよのつねにはあらで、としもよきほどに德やゝたかし。師は獨行稿に稱せられ、文は名公文集に名をならべて、さるはこの枕に吟胸をさだめ給りと、朱拙のぬしかたり申されし。
ろくがつの峯に雪見る枕かな
此句は枕を高ふして、前山の雪に對すとも見るべし。高き事つねならねば枕を殘雪の山とも見るべし。又西行の腰かけまくらともいふべし。みつのものいづれにか侍らん。
題庭前瓠
炭とりとしらで瓢のつぼみかな
泥蓮主人
和瓠字 道香
弓來吾寂寥 投合樂昭々
雅曲長良種 要求五石瓢」
寶蓮坊というお寺は今も中津市内にある。検索すればすぐに出てくる。観光用の説明板に、
「慶長五年(一六〇〇年)細川細川忠興が中津城に入封の際、名僧の誉れ高かった行橋浄喜寺の村上良慶を伴って、中津浄喜寺を開基させた。これが後 宝蓮坊と改称されたものである。宝蓮坊はその後代々名僧が続いたが、特に第三世村上良道(この良道より村上家は代々中津藩の御典医を勤めた)は学問に秀で、勅命により聖徳太子の経典を進講し、天皇から非常なお褒めを戴き、大阪四天王寺の奥の院にまつられていた太子の尊像を拝領した。この太子像は室町時代初期の傑作と言われている。
良道は帰国後堂を建て、多くの信者に講義を続けていたが、永年の風雨により堂は崩壊し、尊像は現在本堂に安置され、楼門のみが当時の面影を残している。」
とある。
この寶蓮坊の主の僧はいなくて、屏風の傍らに相撲の土俵のような枕が二つ重ねてあった。一体どうやって寝ているのか。
会って見るとなるほど徳の高い僧だとわかったようだ。
「この枕に吟胸をさだめ給り」という朱拙の言葉は、白楽天の『香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁』の詩に感銘して、ということか。
清少納言の『枕草子』でも有名な詩だ。
香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁 白楽天
日高睡足猶慵起 小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聴 香炉峰雪撥簾看
匡廬便是逃名地 司馬仍為送老官
心泰身寧是帰処 故郷何独在長安
日は高くあんなに寝たのにまだ起きるのがおっくう。
小さな御殿で布団を重ねて凍えることはない。
遺愛寺の鐘は枕をかたむけて聴き、
香爐峰の雪は簾を撥ね上げて看る。
廬山は出世争いを遁れるのにふさわしい地で、
地方の補佐官は老いた身にこそふさわしい。
心身ともにやすらかでこれこそが帰るべき所、
故郷は長安だけではなかった。
「香炉峰雪撥簾看(香炉峰の雪は簾を撥ね上げて看る)」のフレーズはあまりに有名だが、ここではその前の「遺愛寺鐘欹枕聴(遺愛寺の鐘は枕をかたむけて聴く)」の方だろう。この「枕を欹(かたむけ)る」がどういう意味なのか未だに諸説あるが、その一つの解釈で体を傾かせて外を眺めることのできるような巨大な枕として、わざわざ作らせたのであろう。なかなかお茶目なお坊さんだった。
そこで一句。
ろくがつの峯に雪見る枕かな 支考
六月にこの辺りに雪のある山があるとは思えない。ならば枕を残説の山に見立てろということか。西行の腰掛枕はよくわからない。腰掛石の伝説はあちこちにあるみたいだが。
もう一句。
題庭前瓠
炭とりとしらで瓢のつぼみかな
庭に瓢箪のつぼみがついていたのだろう。
「炭とり」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「炭斗」の解説」に、
「木炭を小出しにしておく入れ物。火鉢や炉に炭を継ぎ足すための道具で、炭火を運ぶ十能もその一種といわれる。蓋(ふた)付きの木箱形のもの、内張りをした籠(かご)、ひさご(瓢)を細工したものなどがあり、形も箱形、丸形、瓢形などと種類が多く、炭箱、炭籠、炭瓢などともいわれ、茶道では中国風に烏府(うふ)とよばれる。炭斗の称は、ひさごでつくった炭取りの形が長柄の杓子(しゃくし)のようで、北斗星に似ているからだといわれ、近世には京都東郊の浄土寺村(現京都市左京区)のひさごでつくったものが名品とされて、もっぱら茶人の間で愛用された。今日この種のものとしては栃木県産の干瓢(かんぴょう)でつくったものが名高い。[宇田敏彦]」
とある。瓢箪が何で植えてあるのかと思ったら、茶道具の炭斗(すみとり)を作るためだったか、納得、といったところか。
それに対し泥蓮主人が詩を作って和す。泥蓮主人は寶蓮坊の主人で、寶蓮をへりくだって泥蓮としたのだろう。まあ、泥の中でも清浄な花を付けるという意味だから、高貴な名前には違いない。道香は泥蓮主人の號であろう。
和瓠字 道香
弔來吾寂寥 投合樂昭々
雅曲長良種 要求五石瓢
瓠(ひさご)の字に和す
我が寂寥を弔いに来て
意気投合すれば楽の音もきらきら
優雅な曲は良い種を蒔いてくれる
これで五石の瓢箪が生れば
「五石瓢」は『荘子』「逍遥遊編」の五石の巨大な瓢箪のこと。物を入れるのは重すぎて、柄杓を作ろうにも平らにしかならない。ならば船でも作って浮かべれば、という話。
中津での竿水の発句による表八句が『西華集』に収められている。
中津
蚊遣火の影ほの白し嫁の顔 竿水
祭の宵に笠のせむさく 萬草
お屋敷は門ンの出入に鎰さけて 支考
今は鱸のとれる最中 吐雲
明月に扨おもしろい土手の松 萬草
萩さきかかるかりの雪隠 竿水
梅の木の藥を買に一はしり 吐雲
ほろりと人をだます雨粒 雲鈴
「七日
此日宇佐の宮にまうづ。神前に眼をとぢて、そのかみをおもひ奉るに、感情まづむねにふさがる。
鎧きぬ身もあはれなり蟬の聲
今宵は小山田のなにがしに宿す。さるを芦惠のあるじにまねかれて、風雅の物語などしけるが、捨がたき事にいそがれて、宵のほどに歸るとて、
短夜のうさとよむべし月の宿」
宇佐の宮は今は宇佐神宮と呼ばれている八幡神社で、応神天皇を祀った八幡神社は今では日本で一番多い神社だという。これは一つには今の皇統の成立に関係してたことと、武の神として武士の間で信仰されてきたことによる。そのため、
鎧きぬ身もあはれなり蟬の聲 支考
ということになる。
小山田は宇佐神宮のある辺り一帯を指す地名で、宿坊がたくさんあったのではないかと思う。
芦惠のあるじはどういう人かよくわからないが、風雅の話で盛り上がり、宵になって後ろ髪を引かれる思いで宿に戻る。そこで一句。
短夜のうさとよむべし月の宿 支考
「宇佐」と「憂さ」を掛けている。地名を詠むときの基本と言えよう。
「八日
この日仲津に歸る。その夜源七のなにがし、我に初眞瓜おくられければ、
源の字はわすれじ今宵初眞瓜 支考」
中津に戻ると源七という者が真桑瓜をわざわざ持ってきてくれた。
大橋から来たのだろう。六里半はあるのではないか。
この前は真桑瓜の花盛りだったが、ようやく一つ実ったか。
そこで感謝を込めて一句。
源の字はわすれじ今宵初眞瓜 支考
「九日
此日は仲津を旅だち、豐後の日田におもむく。たち野といふ處を過るほど夕だちに逢ふ。空やゝ晴て凉し。羅漢寺の麓に駒とめて、
蟬の音をこぼす梢のあらし哉
山頭によぢのぼりて五百尊を拜す。誠に飛花の春におどろき、落葉の秌をかなしめるならひ、是も無風雅の佛達にはおはさゞらむ。山は萬重にけはしく、嚴は千丈にそばたちて、清淨やゝ人の膚をあらふ。ありがたき佛場也。
葛の葉の秌まちがほや羅漢達
この夜は仲津の寶蓮坊にたよりせられて、岐の西淨寺といふ寺に宿す。さればきのふけふ馬の口に付たる久作とかいへる、おのこのひるゐ喰ふごとに、五郎四郎五郎四郎といふを見れば、我が國の小麥の餅なり。是を尋ね侍るに、筑紫人はすべていひならはせたるよし、この名のうれしければ、今宵是が傳つくりて、なにがしがかたにつかはす。」
中津から天領日田へ行く道は日田往還と呼ばれている。途中の耶馬溪は岩の切り立った山水画のように風景で知られている。その耶馬溪の断崖の上に羅漢寺がある。
たち野はどの辺かよくわからないが、そこで夕立にあい、涼しくなった頃、日田往還から左にそれて、羅漢寺へ向かう。折から蝉がないている。ちょっと『奥の細道』の山寺を思わせる。
蟬の音をこぼす梢のあらし哉 支考
そこから岩山の中の道を登って行くと、岩窟の中に五百羅漢がある。「山は萬重にけはしく、嚴は千丈にそばたちて」、まさに心が洗われるような思いになる。
葛の葉の秌まちがほや羅漢達 支考
日田往還に戻り、川沿いに上って行くと平田というところに今でも西浄寺がある。近くに平田城址がある。
日田往還は主要な街道から外れるため、馬のいる宿場もなく、久作という馬子をチャーターしたのだろう。その久作が食う時に「五郎四郎五郎四郎」と言うから何かと思ったら、小麦で作った餅の名前だった。筑紫地方ではみんな知っているという。
その五郎四郎の伝を作って何某方に使わすとあるが、許六編宝永四年(一七〇七年)刊の『風俗文選』に収録されているから、その方面に送ったか。
「五郎四郎傳
筑紫に五郎四郎といふものあり。その性は小麥の餅なり。明暮是に馴たる人はたゞ五郎四ともいふ也。此もの野畠の間に生じて、肌おろそかにいろくろし。しかれども菓工の手にわたりて百錬千鍛すれば、あるいは饅頭の肌やはらかに、かすてらの味ありて、ほとんど僧を落さむとす。むかし志賀寺法師のかたちこそ瘦たれ、こゝろは花の都人を戀そめて、玉の緒の歌はよみ給へり。ましてその名も三輪の山本に住て、かづらきの神の晝のかたちにもはづる事なし。さればこゝろくだり姿いやしきだに、色はすつまじき世なりけり。五郎四何にかわびしからんよ。あるつらの人は衣食のあたひをむさぼらず、酒肆媱房の眼高しと、世の人にもてはやされて、こゝろのほかに見ぐるしうやつれ、座上にありて虱をひねる。さばかりすてはてたる世ならば、石上樹下の住ゐこそあるべけれ。しのぶ山の關路も越る人のあればこそあれ。戀せじ酒のまじとは、誰にかかためたるぞや。先師曰、色を思ふ事溫飩のことくせよと、汝をよろこぶもの日夜に愛せず。汝をにくむもの絕てきらふ事なし。しらかば物のほどをいへるなるべし。汝が本性はいやしからねど、おほくは賤の女の杓子にかゝりて、ありがたき生涯をあやまる。されど世をてらひ人にこびて、身をかざらんとする人には、をのづからまさりもすべし。このさかひは汝五郎四がしる處にもあるまじ。何晏がおしろいせぬ顔も、一世のねがひにはあらず。兵部卿の宮のかりのにほひもまたあだなりとしるべし。世はたゞ世にしたがひて、眼前のたのしびをたのしむべき事なり。
夕かほに鏡見せばや五郎四郎」
五郎四郎餅は今では廃れてしまったか、詳しいことはわからない。和歌山ではサルトリイバラの葉で包んだ餅を五郎四郎餅と言うようだが、餅自体は普通に米で作っていて柏餅に近い。九州で作られていたなら、長崎からパンやカステラの技術を取り入れたものだったのかもしれない。
酒が禁じられている僧には、スイーツは僧殺しといってもいい。
志賀寺法師は太平記巻第三十七の「身子声聞、一角仙人、志賀寺上人事」に記された法師のことで、その部分をWIKISOURCEから引用しておこう。
「又我朝には志賀寺の上人とて、行学勲修の聖才をはしけり。速に彼三界の火宅を出て、永く九品の浄刹に生んと願しかば、富貴の人を見ても、夢中の快楽と笑ひ、容色の妙なるに合ても、迷の前の著相を哀む。雲を隣の柴の庵、旦しばかりと住程に、手づから栽し庭の松も、秋風高く成にけり。或時上人草庵の中を立出て、手に一尋の杖を支へ、眉に八字の霜を垂れつゝ、湖水波閑なるに向て、水想観を成て、心を澄して只一人立給たる処に、京極の御息所、志賀の花園の春の気色を御覧じて、御帰ありけるが、御車の物見をあけられたるに、此上人御目を見合せ進せて、不覚心迷て魂うかれにけり。遥に御車の跡を見送て立たれ共、我思ひはや遣方も無りければ、柴の庵に立帰て、本尊に向奉りたれ共、観念の床の上には、妄想の化のみ立副て、称名の声の中には、たへかねたる大息のみぞつかれける。さても若慰むやと暮山の雲を詠ればいとど心もうき迷ひ、閑窓の月に嘯けば、忘ぬ思猶深し。今生の妄念遂に不離は、後生の障と成ぬべければ、我思の深き色を御息所に一端申て、心安く臨終をもせばやと思て、上人狐裘に鳩の杖をつき、泣々京極の御息所の御所へ参て、鞠のつぼの懸の本に、一日一夜ぞ立たりける。余の人は皆いかなる修行者乞食人やらんと、怪む事もなかりけるに、御息所御簾の内より遥に御覧ぜられて、是は如何様志賀の花見の帰るさに、目を見合せたりし聖にてやをはすらん。我故に迷はば、後世の罪誰が身の上にか可留。よそながら露許の言の葉に情をかけば、慰む心もこそあれと思召て、「上人是へ。」と被召ければ、はなはなとふるひて、中門の御簾の前に跪て、申出たる事もなく、さめざめとぞ泣給ひける。御息所は偽りならぬ気色の程、哀にも又恐ろしくも思食ければ、雪の如くなる御手を、御簾の内より少し指出させ給ひたるに、上人御手に取付て、初春の初ねの今日の玉箒手に取からにゆらぐ玉の緒と読れければ、軈て御息所取あへず、極楽の玉の台の蓮葉に我をいざなへゆらぐ玉の緒とあそばされて、聖の心をぞ慰め給ひける。かゝる道心堅固の聖人、久修練業の尊宿だにも、遂がたき発心修行の道なるに、家富若き人の浮世の紲を離れて、永く隠遁の身と成にける、左衛門佐入道の心の程こそ難有けれ。」
堅物が急に恋すると、いきなりストーカーになったりする。玉の緒の歌は、
初春の初ねの今日の玉箒
手に取からにゆらぐ玉の緒
大伴家持
の歌だった。五郎四郎はこれほどまでに僧を虜にするに違いない。ここで言う僧はもちろん支考自身のことだろう。
この左衛門佐入道は斯波氏頼のことだという。ウィキペディアに、
「足利一門の御曹司として、早くから左近将監、左衛門佐と官職に就き、若狭守護に任じられるなど重用され、幕府の実力者である佐々木道誉の婿にもなった。長兄家長は早くに戦死し、次兄氏経も九州探題に任命されたが九州攻略に失敗して失脚していたため、後に室町幕府執事(管領)が空席となった際、周囲よりその座に推されるなど斯波氏の後継者として目されていたようであるが、父高経は氏頼の弟である義将や義種を偏愛して氏頼を疎んじていたためこれを退けた。こうした父の仕打ちに世を儚んだ氏頼はまもなく出家し、近江に遁世したとされる。」
とある。
五郎四郎はお菓子の名とは思えない立派な名前なので、「三輪の山本に住て、葛城の神の昼のかたちにも恥づる事なし。」時代は下り、姿卑しくても堂々と恋のできる時代となって、五郎四郎が大衆を虜にしても胸を張っていられる。恋せず酒飲まずなんて時代でもない。
先師も「色を思ふ事溫飩のことくせよ」と言った。人間の三大欲求は自然のもので、色を求めるのは食い物を求めるようなものだ。饂飩は美味しいが、寝ても覚めてもそればかりを思うようなものでもないし、だからと言って頑なに断たねばならないようなものでもない。ほどほどが一番良い。
四郎五郎の名は卑しいものではないが、女中のしゃもじでよそわれて食べられてしまう。それでも人に媚びたり見栄を張ったりする者よりは立派ではないか。
魏の何晏は曹操の養子で、ウィキペディアに、
「相当なナルシストであったとされる。顔には常に白粉を粉飾し(本当に真っ白な肌だったとも)、手鏡を携帯し、自分の顔を見る度にそれに「うっとり」としていたという。歩く際にも、己の影の形を気にしつつ歩んだと伝えられている。また、夏侯玄や司馬師と親しくし、優れた評価を与える一方で、自分自身のことは神に等しい存在だと準えていたという(『魏氏春秋』)
とある。その何晏に白粉をしない顔を願うのでもなく、『源氏物語』の藤壺の兄で紫の上の父でもある兵部卿の宮の美貌も源氏の君にとっては無駄なもので、見栄を張らず、自分らしく、分相応に楽しむのがいい。
夕かほに鏡見せばや五郎四郎 支考
『源氏物語』の夕顔も分相応の恋をしていれば、六条御息所の呪いを受けることもなかっただろう。自然体が一番だということを教えてくれるのが五郎四郎だ。
「十日
此日西浄寺を出るに、此道八里ばかり、七瀬の川をやせわたるとかやいへる、ものうき山間のみちすがらなりしが、夏山の鶯の今も盛のやうに鳴たるが、慰むかたもありて、
夏山や鶯啼て小六ふし」
平田の西浄寺を出ると道は山の中をうねうねと進み、日田まで八里。一里行くのに一時間として一日がかりということだ。「七瀬の川」はたくさんの渓流を渡りということか。
鶯は夏の山の中でも盛んに鳴く。
夏山や鶯啼て小六ふし 支考
小六節はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小六節」の解説」に、
「江戸初期に流行した小唄の曲名。慶長(一五九六‐一六一五)ごろの馬追いで小唄の名人だった関東小六の持っていた竹の杖を歌ったもの。踊り歌などに用いられた。歌詞と楽譜が「糸竹初心集」にある。
※糸竹初心集(1664)中「ころくぶし。ころくついたる竹のおをつゑころく。もとは尺八、なかはああ笛ころく」
とある。『ひさご』所収の「いろいろの」の巻十句目に、
うつり香の羽織を首にひきまきて
小六うたひし市のかへるさ 珍碩
の句がある。歌詞と楽譜が出版されていて家で練習できるため、元禄期には田舎の方で広く唄われていたのだろう。
「十一日
此日日田につきて、その夜は西光寺に宿す。寺はから竹藪よもにめぐりて、山川のながれ左右にわかる。今宵このこゝろ夏をわすれたりといふべし。
宵月や寺はちどりの巢のあたり」
西光寺は日田城址に近い花月川沿いに今でもある。文明元年(一四六九年)に天海が創建したという。当時は竹藪に囲まれていたようだ。
川風が涼しく、
宵月や寺はちどりの巢のあたり 支考
と、すぐ横の花月川には千鳥の巣があるに違いない、とする。
「十二日
風吹ク
ちり込て晝寐を埋む笹葉哉
鶯をいなせて竹の落葉かな
里仙亭
きり麥や嵐のわたる膳の上
香爐庵記
里仙亭あり。亭の南に一草堂ありて、方一丈ばかりならん。此内にみだ佛を安置し、かたはらに父母の尊靈をまつる。是をこなたよりのぞめば、そのかたち汐屋香爐といふものに似たれば、かく名づけて侍る也。亭のあるじ里仙は年やゝ五十年を過て、佛はつとむべく世はたのしむべしといふ事をしりて、かならずつとめ、かならずたのしまんとにもあらず。その身を風雅にをきて、わかき人にまじはれば、わかき人亦老をわする。西華坊とし此亭にたびねして、はじめて此名を得たる事は、亭の前に簾を巻てこの香爐庵を見ば、をのづから我かたみともならんとなるべし。
月雪や夏は晝寐の香爐庵
此夜玖珠といふ所よりたよりせらる。その地は是より八里ばかりあなたにて、投錐・曲風などいへる風雅の友達なるよし、その文のしるしに、よしの葛おくり申されしが、そのこゝろざしのたよりに感ぜられて、
葛水に玖珠といふ名の面白し」
里仙亭ではきり麦(ひやむぎであろう)をご馳走になる。膳の上に嵐が吹くかのように涼しい。
竹落葉は夏の季語になる。「ちり込て」の句も意味の上で竹落葉の句になる。昼寝しているところに笹の葉が散ってきて埋もれそうだ。
「鶯を」の句も竹落葉の句で、「いなす」は行かせるということ。竹に留まっていた鶯を追払うかのような竹落葉だ。
この二句は「竹藪よもにめぐりて」という西光寺での句であろう。
里仙は日田の人で、元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、
年頭は紙子の上の花紋紗 里仙
さびしさの猶秋ふかし枯ぼたん 同
の句がある。その里仙は香爐庵に住んでいる。そこで支考は「香爐庵記」を記す。
里仙亭の南に三メートル四方(柱の寸法を入れて四畳半というところか)の草堂があって、ここに阿弥陀仏を安置しその横に祖霊を祀っている。汐屋香爐がどういう香爐かはよくわからない。それに草堂の形が似ているという。それで「香爐庵」と名付けたという。
里仙は五十を過ぎて仏様には熱心に祈りつつ、人生はしっかり楽しまなくてはいけないと悟り、仏道と風流を両立させている。若い人に混じって俳諧に興じれば、年を感じさせないような新味のある句を詠む。
西華坊支考が里仙亭の方に泊まってあれが「香爐庵」だと聞いたときには、簾を上げて見たくなった。これはもちろん白楽天の「香爐峰雪撥簾看(香爐峰の雪は簾を撥ね上げて看る)」のフレーズが浮かんできたからだ。このことはいい思い出(かたみ)になるだろうということで一句。
月雪や夏は晝寐の香爐庵 支考
月の香爐峰や雪の香爐峰は有名だが、今は夏で昼寝の枕を傾けて見る香爐庵だった。
玖珠(くす)は日田の西、別府との間にある。そこの投錐・曲風という俳諧の友から手紙が来る。一緒に吉野葛が送られてきた。そこで一句。
葛水に玖珠といふ名の面白し 支考
「葛水(くずみづ)」は葛湯の冷やしたもの。玖珠(くす)から葛(くず)を送ってきたというので超受けてます。
投錐は 元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、
誰が笠ぞぼくぼく夏の葉の梢 投錐
の句があり、曲風は同じく『けふの昔』に、
びいどろの盃いざや衣かへ 曲風
の句がある。
「十四日
野紅亭にあそぶ。亭のうしろに蓮池ありて、一二輪を移しきたりて、此日の床の見ものにそなふ。あたかあるじの紅の字添るに似たり。連衆十六人をのをのこの筋のにほひふかく、吾門の風流この地に樂むべし。
廬山にはかへる橋あり蓮の華
此曉ならん。野紅のぬし、夢もおもひかけぬ事に、おさなき娘の子うしなひ申されし。その妻も風雅のこゝろざしありて世のあはれもしれりける。ふたりの中のかなしさ、露も置所なからん。かゝる瘦法師の身にだに、子といふものもちなば、いかに侍らんとおもひやるばかりはかなし。
世の露にかたぶきやすし百合の花 支考
晝がほもちいさき墓のあたり哉 雲鈴
子をおもふ道にといへる人の言葉
も、今の身のうへにおもひつまさ
れて
十四日の月に闇ありほとゝぎす 野紅
面かげも籠りて蓮のつぼみかな 倫女」
野紅は元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、
牛馬によらしよらしとくれの市 野紅
鶯はふくれてばかり蕗のたう 同
の句がある。野紅亭の後には蓮池があった。その蓮の紅が野紅の紅の字かと思った。連衆も十六人集まって賑やかだった。『西華集』には表八句二巻が収められている。
日田
大名に笠きらひある暑さかな 朱拙
草に百合さく山際の道 獨有
我こころちいさい庵に目の付て 支考
淋しい時は世の中に飽 芝角
秋の來て牛房大根の月の影 愚信
濱の鳥井に鶉をりをり 幽泉
若衆の念者まつこそ袖の露 釣壺
躍の聲を余所のおもひ寐 雲鈴
仝
秋ちかき杉のあちらや雲の峰 里仙
露うちわたす膳のなでしこ 野紅
傾城の所帯綺麗に持なして 支考
朝観音にまいる朔日 紫道
うす雪にむかひ近江のむら烏 雲鈴
役者の旅の武士にまぎるる 沙遊
宵月の包をはしる肴うり 呼丁
早稲の穂なみの吹そろふ風 若芝
最初の巻には朱拙が発句を詠んでいる。朱拙は綱敷天満宮にも来ていたが、日田のみならず九州の蕉門の中心を担っていた。日田と言うと今は「進撃の巨人」の町だが、この地域の文化的な基礎は元禄時代に朱拙によって作られたと言ってもいいかもしれない。
廬山にはかへる橋あり蓮の華 支考
廬山は香爐庵のことか。そこへ帰る橋の所に蓮池があったのだろう。白楽天の「香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」の詩の最後には、「心泰身寧是帰処 故郷何独在長安(心身ともにやすらかでこれこそが帰るべき所、故郷は長安だけではなかった。)」とある。廬山は帰るべき所だ。この日田の地も帰る所という意味を込めてのものか。
明け方になって野紅から幼い娘子を失った話を聞いた。妻の倫(りん)もともに俳諧をやる仲間だった。支考には子はいなかったが、ともに悲しんで一句、
世の露にかたぶきやすし百合の花 支考
そしてともに旅をしてきた雲鈴も一句、
晝がほもちいさき墓のあたり哉 雲鈴
それに野紅・倫夫妻も和す。
十四日の月に闇ありほとゝぎす 野紅
面かげも籠りて蓮のつぼみかな 倫女
倫は元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、
いなつまやいたり来たりて夜を明す りん
縫ものをさせたきもあり雛の顔 同
の句がある。
「十五日
呼丁亭
祭客我ほどくろき顔もなし」
ここでも大勢の連衆が集まったのか。夏でみんな真っ黒だけど、旅をしてきた自分が一番黒い、と日焼け自慢の句。
呼丁は元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、
はつ月の片われ落す柳かな 呼丁
零髪や墨にすらるる菊畑 同
の句がある。
「十六日
獨有亭
さかづきや百日紅にかほの照
此亭に先師はせを庵の手跡あり。是は湖南の正秀がたへ、難波の旅館よりおくり申されし文なり。
文詞に
何とやらかとやら、行先行先の日つもりちが
ひ、秌も名残のやうやう紙子もらふ時節にな
りて、紙子はいまだもらはず、たゞ時雨のみ
催したるなど、その終に發句三あり。
重陽の朝奈良を出て難波にいたる
菊に出て奈良と難波は宵月夜
又洒堂が、予が枕もとにて鼾をか
きしを
床に來て鼾に入るやきりぎりす
又十三日住よしの市に詣て、壹合
升一つ買申候てかく申捨候
枡買うて分別替る月見哉
九月廿五日
主曰、此宵月夜の句は何とうけ給り候半、予曰、是は影略互見の句法也。此格をしらざれば見る事かたし。主曰、月見の句又如何。予曰、分別かはるといふ中の七文字見がたし。發句は殊更その人の身にあてゝ見るべし。升といふ物は世帶の道具なるに、此升かふて後は鍋もほしく桶もほしゝ。世の中の隱者此筋よりあやまる事を人の鏡には申されし也。
さりやこのふみを見るに、師翁の書殘し給へるもの都あたりにはあまたありながら、筑紫の果に相見たる面かげの殊に、此文は命終の日數も廿日にたらぬほどなり。その日の筆とり鼻もうちかみなど申されしありさまの今なを、忘れぬなみだこそはてしなけれ。
菊もありて人なし夏の宵月夜」
獨有についてはよくわからない。元禄十五年知方編『はつだより』に、
岩角にそれてや立る女郎花 獨優
の句があるが、獨有のことか。
さかづきや百日紅にかほの照 支考
の句は、庭の百日紅を見ながら杯で酒を飲んで、ほんのり顔が照って自分もあの百日紅のようだ、ということか。
ここになぜか芭蕉の手紙があった。それも難波の花屋という旅館で支考が死に瀕した芭蕉を介護していた頃の手紙だった。あて名はなかったが支考がここで正秀宛だと証言していることで、今日でも正秀宛書簡ということになっていると、『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫)にある。
ここに記されているのはその一部なので、全文を『芭蕉書簡集』から引用しておく。
「遊刀被帰候間致啓上候。御無事に、いまほど御隙之由、珍重不過之候。伊賀へ素牛便之節、御狀幷月の御句感心、飛入客、則續猿蓑に入集申候。
何とやらかとやら行先々日づもりちがひ候而、当年秋も名殘に罷成、漸々かみこもらふ時節に成候へ共、いまだかみこはもらはず時雨は催し候。
当年之内何五七日之内なり共、得御意候樣にと存候へ共、例不定に候。霜月之内には何とぞ心がけ可申候。若名月前後は伊賀へ探芝か昌房など御誘、御尋にも預り可申哉と、同名半左衛門も相待申候。若其元へ得不参候はゞ、御左右可申候間、いがへ御出候樣に御覚被成可被下候。爰元衆俳諧もあらあら承候。之道・酒堂兩門の連衆打込之會相勤候。是より外に拙者働とても無御座候。重陽之朝、奈良を出て大坂に至候故、
○菊に出て奈良と難波は宵月夜
又、酒堂が予が枕もとにていびきをかき候を
床に来て鼾に入るやきりぎりす
十三日は住よしの市に詣でゝ
枡かふて分別替る月見哉
壱合斗一つ買申候間かく申候。
少々取込候間、早筆御免、
九月廿五日 芭蕉」(『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、一九七六、岩波文p.309~310)
獨有に「宵月夜」の句の事を聞かれて、支考はこれは「影略互見の句法」だという。影略互見はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「影略互見」の解説」に、
「① =ようりゃく(影略)①
※中華若木詩抄(1520頃)下「第四の句、影略して見るべき也。影略とは、詩を見るときに云いつけたることば也。字面には、秋月が夜雨の時にかかりたるとあるを、又をしかへして、夜雨の時に秋月もあるべきと見る処を影略と云也。詩の抄なんどに影略互見すると云へる、此心ぞ」
② =ようりゃく(影略)②
※応永本論語抄(1420)学而第一「君には〈略〉吾身不惜、命を可レ致。但親の難あらん時に、身を致さず君の為に力を尽まじきに非ず。影略互見(ヤウリャクコけん)して可見也」
とあり、「精選版 日本国語大辞典「影略」の解説」には、
「① 漢詩文を鑑賞するときに使う語。ある表現をとった語句を、その順序を逆にして味わってみること。えいりゃく。影略互見。
※土井本周易抄(1477)四「言有レ物有レ恒ぞ。行有レ恒有レ物ぞ。影略してみたがよいぞ」
② 書かれた部分によって、暗示される語句を省略すること。えいりゃく。影略互見。
※史記抄(1477)一九「奉生送死之具也とは、〈略〉生れてから死るまで受用する物なりと云心を、其間をば影略したぞ」
とある。
菊に出て奈良と難波は宵月夜 芭蕉
の句は「菊に奈良を出て、難波は宵月夜」とひっくり返せばわかりやすい。①の意味でも影略になる。元禄七年九月九日、奈良で菊の節句である重陽を迎え、この日奈良を発って大阪高津の宮の洒堂亭に行く。 途中、くらがり峠で駕籠を下りてそこから先を歩いたことが土芳の『三冊子』「くろさうし」に記されている。これが最後の旅になった。
続いて獨有は、
枡かふて分別替る月見哉 芭蕉
の句のことを尋ねる。
この句は九月十三日に、住吉神社に詣でて升を買ったことを詠んだもので、十四日の畦止亭での興行の 立句として用いられた。住吉神社の宝之市は升の市とも呼ばれていたという。この辺のいきさつは支考の元禄八年刊の『笈日記』に、
今宵は十三夜の月をかけてすみよしの市に
詣けるに昼のほどより雨ふりて吟行しづ
かならず。殊に暮々は悪寒になやみ申
されしがその日もわづらはしとてかい
くれ帰りける也。次の夜はいと心地よし
とて畦止亭に行て前夜の月の名残
をつぐなふ。住吉の市に立てといへる
前書ありて
枡買て分別かはる月見哉 翁
とある。住吉詣でに行って雨に降られてしまったため、せっかく良くなりかけた病状がまた悪化し、それで十三夜の興行が飛んでしまったことを詫びての句だった。
升を買ったことで、病気なんだから無理をしてはいけないという分別を一緒に買ってきたことで、十三夜の月見が十四夜の月見に「替った」という「かはる」は二重の意味に掛けて用いられている。
支考はこの仕掛けがわからなかったか、「分別かはるといふ中の七文字見がたし」とし、隠者はともすると升を買ったことで他の鍋や桶も欲しくなるということを戒めた句と解釈している。
この手紙を見て支考は、まさか芭蕉の最後の手紙にこんなところで巡り合えるとはと、その手紙を書いたときのことがまざまざと思い出され、涙するのだった。
そして一句。
菊もありて人なし夏の宵月夜 支考
菊はこの手紙のことであろう。手紙には巡り合えたが書いた人はもういない夏の宵月夜であった。芭蕉の「菊に出て」の句を踏まえた句だ。
「十七日
今宵の月の凉しきに夜道かけんとて、玖珠のかたにたびだつ。みちすがらいとねぶたし。行さきもいさやしら月夜の果は、風さへ身にしみて、谷をわたり山を越るほどに、藪村とかいふ所にて、には鳥の聲を聞。
竹あれば鶴あり里は夏月 支考
朱拙曰、このあたり人里ありとは、かねてしれるだに、今宵はおぼろげにたづきなきこゝろもせられて、藪村の鷄の聲も人をおどろかすばかりにぞありける。
白雲の下に家あり夏の月 朱拙
道のかたはらに柴折しきて、例の食固をひらくに、鷄
ははらはらと啼て心ぼそし。
盗人の夜食やなつのみだれ鷄 雲鈴
代太郎とかいふなる麓のさとにいたりて、夜ははやほ
のしらみたるが、殘月のかげに郭公の二三聲ばかり啼
過たるを、たゞ有明の月ぞ殘れるとおのひあはせたる
哀ふかし。
都をばいつ六月のほとゝぎす」
十七日、夕暮れに玖珠に向けて旅立つ。月夜とはいえ夜の旅は異例のことのようにも思える。
籔村はよくわからない。日田市月出山地区に藪不動尊があるが、ウィキペディアに元禄十五年開眼とあるから、この頃にはまだなかった。この付近にかつて籔村があって、その名前を取って造られたか。
鶏の声がしたというが、夜明けが近かったのか。「たづきなき」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「たづき-な・し 【方便無し】
形容詞ク活用
活用{(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ}
頼りとするものがない。頼り所がない。「たづかなし」とも。
出典源氏物語 夕顔
「この人の、たづきなしと思ひたるを」
[訳] この人(=右近)が、(夕顔の死後)頼りとするものがないと思っていたのを。」
とある。人里があるのは知ってたけど、おぼろな記憶でおぼつかなかったところで鶏の声がしたので、朱拙はびっくりしたようだ。そこで一句。
白雲の下に家あり夏の月 朱拙
白雲は月の光の照らす雲のことだろう。
このあと道の傍らで食固(コリ)を開く。コリは行李のことか。柳や竹や藤で編んだ箱で、
柳小折片荷は涼し初真瓜 芭蕉
の「小折」と同じ。ここでは弁当行李であろう。
弁当を食う間も鶏がしきりに鳴いて心細くなる。そこで一句。
盗人の夜食やなつのみだれ鷄 雲鈴
まるで泥棒にでもなったかのような心細さだ。まあ村の人から見てもいかにも怪しい人たちだが。
代太郎という地名は今も玖珠町戸畑代太郎という地名が残っている。大分自動車道の天瀬高塚インターの辺りだ。日田バスの日田-森町線だと代太郎バス停だけでなく籔の不動入口というバス停も通る。このルートに近かったのだろう。
この辺りで夜は白んできて、残月にホトトギスの声がする。
ほととぎす鳴きつるかたを眺むれば
ただ有明の月ぞ残れる
藤原実定(千載集)
の歌を思い浮かべながら一句。
都をばいつ六月のほとゝぎす 支考
伊勢から来たけど、ここでいう都は昔でいう畿内のことか。
「十八日
此朝投錐亭に落つきて、ゆあびして臥す。殊のほかに草臥侍りて、二日ばかりは物も覺侍らず。」
夜通し歩いて、朝には無事に玖珠の投錐亭に到着する。「ゆあび」というから水風呂(湯舟のある風呂)があったのだろう。お寺には多かったようだが。すっかり疲れてしまって十八日と十九日は何もせずに過ごしたようだ。
「二十日
此日曲風にまねかる。このあるじはよのつね立華にあそび申されければ、此日のもうけもたゞにはあらで、
生華やなつの枯葉を軒まはり
此日箱人形といふものをまはし來りけるに、かゝる艶姿綺語のたぐひは、いたらぬくまもなき世のならはせかな。さるはみやこの戀しさも、たゞまのあたりなるかし。
人形のかほにたもとや葛の花」
曲風は華道の方もやっていて、なかなかのものだったようだ。立華はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「立華」の解説」に、
「生け花の一様式名。桃山時代に佗びの精神が強調された一方で,新興武士たちの豪華希求があり,佗び精神の衰退に乗じて,16世紀末に池坊初代専好が先駆となり,江戸時代初頭,17世紀に,2代専好によって大成された古典的様式の生け花。形式には立華,砂の物,胴束 (どうつか) の3類型があり,形態は球 (卵) 型の完全性が追究された。現在伝承される形態は半月 (半球) 型で 17世紀末の生花 (せいか) 追究の影響を受けたもの。2代専好の立華作品図は曼殊院,陽明文庫などに多数残っており,門下も大住院以信,安立坊周玉,河井道玄など多彩である。」
とある。
生華やなつの枯葉を軒まはり 支考
どのような生け花だったのかはよくわからない。夏の枯葉を用いたものもあったのか。
箱人形は箱回しのことか。コトバンクの「デジタル大辞泉「箱回し」の解説」に、
「2 操り人形の一種で、首に箱をつるし、その上で小さな人形を操るもの。また、その人。傀儡師(かいらいし)。」
とあり、「デジタル大辞泉「傀儡師」の解説」には、
「1 人形を使って諸国を回った漂泊芸人。特に江戸時代、首に人形の箱を掛け、その上で人形を操った門付け芸人をいう。傀儡(くぐつ)回し。人形つかい。《季 新年》」
とある。「箱人形といふものをまはし來りける」とあるから、傀儡子が回ってきたのだろう。猿の芸を「猿回し」と呼ぶように、箱の上で人形を使った芸をするから箱回しなのだろう。
こういう芸を見るにつけ、都会の様々な面白いことが思い出されて悲しくなる。
人形のかほにたもとや葛の花 支考
葛の花は玖珠の花に掛けているのだろう。葛(くず)は秋だが葛の花は夏になる。桃隣が「舞都遲登理」の旅で尿前の関の付近で詠んだ、
おそろしき谷を隠すか葛の花 桃隣
の句も夏だった。
「廿一日
可庭亭 對前山
前置におのへの松やくものみね
此日雷に逢ふ。おどろくもの五人、おどろかぬもの二人ばかり。朱拙まづおどろく。亭のあるじいねたり。西華坊その第五指にあたるものなり。晴て後是を論ずるに、おどろかぬ人の曰、我々も是が好にはあらずと、おどろく人の曰、好不好といふは、芝居の太鼓などにあるべし。世に誰か好物あらん。
青雲を見れば此世の夕すずみ 作者しらず
此日なにがし女の風雅の心ざしあるをよみして、紫那といふ名をつけ侍りて、
旅人の名はよくしりぬ夏の草」
可庭は玖珠の人だと思うがよくわからない。前山は切株山のことか。標高686メートルで玖珠町のシンボルと言われている。その後ろには万年山標高1140メートルがある。多分その辺を見ての一句だと思う。
前置におのへの松やくものみね 支考
切株山の向こうの万年山の方から雲が涌いてきて雲の峰になり、そのあと雷が鳴る。
「おどろくもの」は怖がる者と言った方がいいだろう。怖がるのは五人、怖がらないのが二人。朱拙は怖がり、亭主の可庭は布団を被って寝てしまったか。支考も雷が怖い方の一人だった。
怖くないという人に聞くと、別に雷が好きなわけではないと言う。好き嫌いは芝居の太鼓などで言うことで、雷は好きとか嫌いとかの問題ではないと「おどろく人の曰」と、これは支考自身であろう。
青雲を見れば此世の夕すずみ 作者しらず
雷が去って夕暮れの紺色の空が見えてくればまさにこの世の夕涼みだ。生きていてよかったと、これは雷を怖がる人の句だろう。
俳諧をやってみたいという女性がいたので支考が紫那という号を付けてあげた。紫の字は既に日田に紫道がいて、『西華集』の日田での表八句の中にもその名前がある。また惟然編の『二葉集』にも肥前園部の紫貞がいる。また『ばせをだらひ』には漆生の紫來や日前田代女の紫白がいるところから、九州では何か「紫」の字を使う流れがあるのかもしれない。
旅人の名はよくしりぬ夏の草 支考
旅人はその土地の風流の徒の名を知っているから、ということで紫の字を付けたということか。紫は植物の名前としては夏の草でもある。
『西華集』玖珠での表八句。
玖珠
跡むいて腰のす坂の早百合哉 投錐
日をくるはする夕立の雲 曲風
黄檗の掃除に鶴の出あるきて 支考
八百屋たよりに渋紙が來る 女鶴
分限者の面白さうに年の暮 雲鈴
今度の家は誰にあるやら 可庭
さらさらと月照わたす門の川 長洲
うれしき空になりし初秋 繁貞
「廿二日
肥後国
此日小國といふ處にいたる。その夜は怒留湯氏の家に宿す。是は風雅のよすがにはあらず。なにがし西田といふおのこのゆかりの人にておはせば、獨有のぬしのたよりせられけるにぞありける。今宵の物語にあるじ曰、俳諧はたゞありのまゝなりや。予曰、食喰へば腹のふくるゝといふはたゞ言也。ねむしとか、あつしとかいふは俳諧也。たとへば今宵この亭にかくのごときはしゐして、眼前の俳諧をいはむろならば、
翠簾越にむかひの人を夕すゞみ
此朝この亭をわかれて、熊本の方におもむく。うちのまきの道知寺にひるゐして、是より怒留湯氏に文つかはす。
夜前者種々御馳走淺からず存候。我等此度俳
諧せず。さらば坐敷をもかはず。殊今朝馬に
ておくられ候段、上方而は薩摩守と申候。定而
たゞのりと申事にて可有候。此言葉のおかし
ければ、かきて馬かたにとらせ申候。
たゞのりの馬も木賃や百合の影
今日は天氣も曇がちに、馬も能あゆみ候て、道
すがら殊外面白御ざ候。かさねて書通可申
謝候 以上
六月廿三日 西華坊
怒留湯惣左衛門樣參る
過阿蘇麓
高砂のゆかりや松の下すゞみ」
小国は玖珠の南西になる。熊本へ行く道の途中になる。
怒留湯は「ぬるゆ」と読むようだ。「名字由来net」というサイトには、
「現大分県中南部である豊後の著姓、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流大友氏族。近年、熊本県北部に多数みられる。」
とある。獨有の紹介でここに泊まったようだ。
怒留湯惣左衛門というのがここの主人の名前だろう。「俳諧はたゞありのまゝなりや」と聞いてくる。支考は答える。「食喰へば腹のふくるゝといふはたゞ言也。ねむしとか、あつしとかいふは俳諧也。」
ありのままといっても飯を食えば腹が膨れるでは当たり前すぎて俳諧にはならない。飯を食って眠くなっただとか、飯を食ったがこれが熱くてだったら俳諧になる。あたりまえではないが、そういうことよくあるなと多くの人がうなづけるものなら俳諧になる。
その一つの例として一句詠む。
翠簾越にむかひの人を夕すゞみ 支考
簾の向こうに主人がいるが、下座に座る支考の場所の方が外に近くて風がよく来る。客だけど自分ばかり涼んじゃって良いのかなという所で俳諧になる。俳諧師は日常生活で常にこういったネタを探しているといってもいいのだろう。
あるあるネタというのは当たり前すぎてもいけないし、だからといって「だから何なんだ」「そりゃお前だけだろ」になってもいけない。『去来抄』「修行教」にも、
「牡年曰、発句の善悪はいかに。去来曰、発句は人の尤(もっとも)と感ずるがよし。さも有べしといふは其次也。さも有べきやといふは又其次也。さはあらじといふは下也。(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.77)
とある。
次の朝怒留湯亭を出て熊本に向かうが、途中「うちのまきの道知寺」に寄る。熊本県阿蘇市内牧には今でも道智寺というお寺がある。小国から南へ行き、この辺りで豊後街道に合流したのだろう。
ここで怒留湯惣左衛門に手紙を出す。馬で送ってもらって金もとらずに「薩摩守忠度(さつまのかみただのり)」になってしまったという。
最近は聞かないが、昭和の頃は無賃乗車のことを隠語で「さつまのかみ」と言っていた。
たゞのりの馬も木賃や百合の影 支考
今日は曇っていて暑くないので、馬もよく歩いて、と馬もことも気遣って手紙を終える。
阿蘇の麓に来たということで一句。
過阿蘇麓
高砂のゆかりや松の下すゞみ 支考
謡曲『高砂』は、
「抑もこれは九州肥後の国、阿蘇の宮の神主友成とはわが事なり。われ未だ都を見ず候ほどに、この度思ひ立ち都に上り候。又よきついでなれば、播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.1732-1737). Yamatouta e books. Kindle 版.)
というワキの名乗りから始まる。
阿蘇神社にはこの友成ゆかりの松と言われているものが今でもあるが、小国から内牧に出たとすると、そこから豊後街道を逆方向に行かなくてはならない。ただ往復二里程度なので、馬で行く分には問題はなかっただろう。
「廿四日
熊本
此日順正寺にいたる。是は近江の李由より便し給へるにぞありける。この寺の小僧達のものかきて得させよといふに、國の産なれば水前寺の事を尋ね侍るに、江津の河上半里ばかりにあるよし。さるは水苔にてぞありける。
苔の名の月先凉し水前寺
此地に長水のなにがしを尋ね侍るに、この春身まかり申されけるよし。ありし友達の僧使帆とかや、そのほかの人々もきたりて物かたりせられけるに、あはれはかなの人や。蕉門の風雅にこゝろざしをよせて、桃舐とかいへる撰集もありしが、さるは西王母が桃の實にやあらん、先師の名にふれたる桃にやあらん。それもなく是もなくなりて、姓名一夜の秌といへる詩の心にやあらん。
桃の實のねぶりもたらぬ雫かな」
熊本の順正寺は熊本市中央区河原町に今もある。近江の李由が手配してくれたようだ。李由は許六とともに『韻塞』(元禄九年刊)を編纂している。
寺の小僧に水前寺のことを尋ねると、江津湖の川上半里の所にあるという。また、水前寺という名の海苔があるということも聞く。
そこで一句。
苔の名の月先凉し水前寺 支考
実は水前寺海苔は『猿蓑』の「鳶の羽も」十三句目に、
芙蓉のはなのはらはらとちる
吸物は先出来されしすいぜんじ 芭蕉
の句に詠まれていた。支考も読んでいるはずだ。
水前寺海苔はウィキペディアに、
「スイゼンジノリ(水前寺海苔)は九州の一部だけに自生する食用の淡水産藍藻類。茶褐色で不定形。単細胞の個体が寒天質の基質の中で群体を形成する。群体は成長すると川底から離れて水中を漂う。朝倉市甘木地区の黄金川に生息する。熊本市の水前寺成趣園の池で発見され、明治5年(1872年)にオランダのスリンガー(Willem Frederik Reinier Suringar)によって世界に紹介された。」
とあり、
「宝暦13年(1763年)遠藤幸左衛門が筑前の領地の川(現朝倉市屋永)に生育している藻に気づき「川苔」と名付け、この頃から食用とされるようになった。1781年 - 1789年頃には、遠藤喜三衛門が乾燥して板状にする加工法を開発した。寛政5年(1792年)に商品化され、弾力があり珍味として喜ばれ「水前寺苔」、「寿泉苔」、「紫金苔」、「川茸」などの名前で、地方特産の珍味として将軍家への献上品とされていた。現在も比較的高級な日本料理の材料として使用される。」
とある。ただ地元ではすでに知られていたし、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の水前寺海苔ところには、西鶴の元禄二年の『一目玉鉾』の「熊本の城主 細川越中守殿 名物うねもめん すいせんしのり」を引用しているから、遠藤金川堂によって商品化される前から食べられていたことは間違いないだろう。西鶴が知っていたなら芭蕉が知っていてもおかしくない。
水前寺は今は水前寺公園になっているが、水前寺という寺は平安末期に焼失したという。この頃はというと、ウィキペディアに、
「熊本藩細川氏の初代藩主・細川忠利が1636年(寛永13年)頃から築いた「水前寺御茶屋」が始まり。細川綱利のときに泉水・築山などが作られ、現在見るような形となった。」
とあるから、支考が来た時には既に水前寺成趣園は今のような形になっていたと思われる。
長水は二年前の元禄九年に路通編『桃舐集(ももねぶりしふ)』の序、
「勸進子路通、一箇の桃の實を拾ひて、壽城萬歳の風味をたのしむ。夫よりしてあまさがる常陸の海、しらぬひのつくしの果まで、誹仙の月花にあふれ、今已に洛中に遊ぶ。予も此こゝろざしに因む事としあるのみ。
肥陽 白河長水述」
を書き記している。
路通長水両吟も収められているし、また、
面白の花のみやこや青葉まで 長水
星の橋くづれ落るやあさがらす 同
などの発句もある。
残念ながらこの春に亡くなったという。使帆やそのほかの人も集まっていろいろと故人の話を聞くことになる。
使帆も『桃舐集』に、
幸のあせのごひ也すみごろも 使帆
このあつさ女もあるに坊主哉 同
の句があり、他にも肥後の作者の句が見られる。
「さるは西王母が桃の實にやあらん、先師の名にふれたる桃にやあらん」は『桃舐集』の路通の序に、
「集をもゝねぶりとなづくる事は、九千歳をたもちしそのゝ桃、もろもろの仙人望て舐れども、東方朔が齡にひとしきをきかず。爰に俳仙桃青翁、又一顆の桃を得て生涯の賞翫とす。」
とある。
「姓名一夜の秌といへる詩」は見つからなかった。
桃の實のねぶりもたらぬ雫かな 支考
桃の実の舐めたらぬことで涙の雫となる。
「廿六日
宇土
圓應寺
闇に來る秌をや門で夕凉み」
宇土は熊本市の南、緑川を渡った所にある。円応寺は宇土市本町に今もある。ここから佐敷までは薩摩街道を行くことになる。
闇に來る秌をや門で夕凉み 支考
二十六日の夜で月はない。もうすぐ秋が来る。春に万物を生じ、秋には止むとおいうことで、秋は生命の衰退と死の始まりでもある。闇夜に秋の近いのを感じつつ、お寺で夕涼みをする。
「廿七日
八代
理曲亭
みな月や蜜柑の秌も今三日
露亭
蟬の聲けふは晝寐の仕舞かな」
薩摩街道をさらに南に下り、八代に行く。
理曲と露亭は支考『西華集』の八代での表八句で発句と脇を詠んでいる。
みな月や蜜柑の秌も今三日 支考
蜜柑というと今は冬のものというイメージがあるが、当時は水無月を「蜜柑の秋」と言うこともあったのか。575筆まか勢を見ると、
兀として海と蜜柑と真夏哉 百里
の句がある。
元禄十一年の六月は二十九日までなので、三日は二十七日を入れて二十八、二十九で三日になる。
蟬の聲けふは晝寐の仕舞かな 支考
これは二十九日の句か。夏も終わるので今日で昼寝も終わり。ただ、まだ夏なので「蝉の声」の季語を放り込む。
八代での『西華集』の表八句は以下の通り。
八代
烏子の踏ならひてや桐の花 理曲
瓜で出來たる新田の家 露亭
鉢坊に洗濯物を盗まれて 支考
今朝から風のただ吹にふく 谷莿
方々を聞合たる江戸だより 柳水
舟こぎよする河岸はたの蔵 山卜
明月に座頭はどこへ袴着て 棟祇
日は暮かかるとんぼうの影 林木
「七月朔日
この曉やつしろをたちて、佐敷の方におもむく。棟祇・理曲など殊に名殘をおしまる。熊川のわたし越るほどに、夜もはや明しらみて、海山のけしきもたゞならぬに、けふの馬方のわかやかに湯衣きなして、伊勢に降ゆき朝日にとける君が黒髪は何とやらと、いふ哥をうたひあげたるに、われは起わかれたるうき人もなけれど、をりにふれたる朝日の礒山にさしかゝりたれば、もろこしにわたりたる人のやうに、いせの方も戀しかりしを、
早稻の香やいせの朝日は二見より
是より一里ばかり行て、二見といふ村の有しが、殊さらなつかしき事にぞ侍る。此道八里ばかり山の腰をめぐり、礒の松風も浪の音にまがひて、初秌の風情一夜に眼をかゆるばかり也。
早稻の香や蟹蹈わくる礒の道」
佐敷は今の芦北町で佐敷はJRの駅の名前に残っている。途中に肥後二見駅があるが、そこがこの二見であろう。
棟祇は『西華集』の表八句の七句目を付けている。
熊川は球磨川で、八代を出るとまずこの川を渡ることになる。「熊川のわたし」とあるから渡し舟があったのだろう。渡し舟は馬と一緒に渡ったか、今日の馬方は「伊勢に降ゆき朝日にとける君が黒髪は何とやら」と唄っていた。伊勢から来た支考を乗せたからか。知っている伊勢の唄を唄ったのだろう。
支考はお坊さんで、別に分かれた人がいるわけでないけど、伊勢を思い出し、あたかも阿倍仲麻呂の「三笠の山にいでし月かも」のような心境になる。
早稻の香やいせの朝日は二見より 支考
早稲の香というと、
早稲の香や分け入る右は有磯海 芭蕉
の句が思い浮かぶ。これは富山での句だった。
当時の早稲は東南アジアにあるような香米に近く、実際に匂いがあったという。人によっては臭いという人もいたようだが。
『笈の小文』の旅の時の「箱根越す」の巻の八句目に、
帷子に袷羽織も秋めきて
食早稲くさき田舎なりけり 芭蕉
の句があり、芭蕉は臭いと思ってたようだ。『奥の細道』の旅の直江津での曾良の脇には、
星今宵師に駒引いてとどめたし
色香ばしき初刈の米 曾良
とある。
支考は伊勢を思い出すが、伊勢の海は東にあって、二見ヶ浦の夫婦岩から朝日が昇るが、ここでは海は西にある。
やがて二見という所に来る。
早稻の香や蟹蹈わくる礒の道 支考
磯に近い田んぼだと、田んぼの中を蟹が這ってたりしたのだろう。見たまんまの句でも「あるある」あるいは「さもあらん」と思えれば発句になる。
「二日
佐敷
此日要阿亭にまねかる。亭の前に江ながれて、万里の清秋一望の中にあつむるともいふべく、山もよきほどにへだゝりて、松の南は晴るゝしら雲 ともよまれたり。
秋もまだ二日月夜や峯の松
さればむかしより詩歌の余情といふ事は、言外の風光を見得たらん、見るものゝ手柄なるべし。南朝四百八十寺多少の樓臺煙雨の中といふ詩も、をのづから江をへだてたりと見て、杜牧がたましゐ此筋に浮たらん。
専明寺
桐のはにたらでも今宵秌の風
龍千新宅
砧にはまだあたらしき家居かな
此里にきぬたの歌のよみて侍れば、かく申つ
る也。古さとさむくと古人のよまれしも、こ
の心のさびなるべし。」
要阿はよくわからない。亭の前の川は佐敷川か。「松の南は晴るるしら雲」は付け句と思われる。
秋もまだ二日月夜や峯の松 支考
七月二日の月を見たまんまに詠む。
漢詩でも和歌でも余情というのは、そこに書き尽くせないような風景を読者が各自思い浮かべる所に発生するもので、それは作者の手柄ではなく読者の手柄とでもいうべきであろう。
「南朝四百八十寺」の詩は尾道から船に乗った時に引用したが、ここでふたたび。
江南春望 杜牧
千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中
千里鶯鳴いて木の芽に赤い花が映え
水辺の村山村の壁酒の旗に風
南朝には四百八十の寺
沢山の楼台をけぶらせる雨
雨にけぶる遠景ははっきりと記されてはいないが、タイトルの「江南」と「水村山郭」から川を隔てた風景だということが言外に示されている。そして、実際に川を隔てた美しい景色を他のどこかで
読者が目にした時、この詩句が頭の中でかちっとはまってくる。シチュエーションを細かく限定していないからこそできることだろう。
余情というのは作者の手柄というよりは、読者に手柄を立てさせるように仕向けることと言っていいだろう。芭蕉の古池の句も、芭蕉が見た古池の句がどこにあってどんな池なのか知らなくても、誰もが自分の見たことのある古池のイメージを持っていて、それを思い起こすのは読者の手柄と言ってもいい。
景色を説明しすぎないということは、余情を残し、読者に想像させるために必要とされる。その最低限にとどめるというところに作者の魂があり、粉骨があるのだろう。枝葉末節をそぎ落としたところに魂だけが残る。
専明寺
桐のはにたらでも今宵秌の風 支考
専明寺はよくわからない。宇土にはあるが佐敷にあるのは専妙寺だ。佐敷川の北岸にある。
桐の葉を落とす程ではないが、今宵は秋の風が吹いている。
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」は豊臣家の家臣の片桐且元の言葉だと言われているが、出典がよくわからない。近代の坪内逍遥の舞台で有名になったようだ。
龍千新宅
砧にはまだあたらしき家居かな 支考
龍千は『西華集』の佐敷での表八句の六句目にその名が見られる。家を新築したばかりだったのだろう。
砧は、
子夜呉歌 李白
長安一片月 萬戸擣衣声
秋風吹不尽 総是玉関情
何日平胡虜 良人罷遠征
長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。
の詩や、
み吉野の山の秋風さ夜ふけて
ふるさと寒く衣うつなり
飛鳥井雅経(新古今集)
の歌で知られている。来ぬ人を待つ悲し気な音を本意とする。「さび」は時間の経過とともに衰え、死に向かう感覚と結びついたもので、新築の家にはまだふさわしくない。
「四日
今宵全睡亭に會して、おのおの餞別の句あり。さればこの一里は山かこみ江ながれて、住む人の心さへ我人のたがひもあらで、かの桃源といふ處もかくや侍らんとおもひやらる。殊に風雅の友達もあまたなれば、行先たのもしき處なるべし。
一里は皆俳諧ぞくさの華
留別
長崎の秌や是より江の月夜」
全睡は『西華集』の佐敷での表八句では七句目を付けている。
佐敷
槇の戸や我にはあまる月の照 幻遊
朴の廣葉の風あれて飛 谷吹
村雨の笠着て渡る鳥もなし 支考
けふも山道明日も山みち 魏吽
いつかたもただ佛法の世となりて 露葉
生て居るほど人はめでたき 龍千
酒もあり肴はやがて海ちかく 全睡
あそぶ心のかはる五節供 随吟
仝
桐の葉の跡先に置く扇かな 攬夷
酒に寐ころぶ宵の間の月 洞翠
若衆もはやらぬ城下秋暮て 支考
今年の稲も風に吹るる 野風
砂川に取ひいけたる日のひかり 路角
藥師の奉加旅フ人につく 雲鈴
饅頭も名所となりて花の春 成也
雁啼帰る残雪の山 水流
長崎へ旅立つというので、佐敷の俳諧の人たちが集まり、餞別の句をもらった。佐敷は山に囲まれた別天地のようなところで、陶淵明の桃花源を思わせる平和な町だった。ここにたくさんの俳諧の好きな人たちがいるのを心強く思い、ここで一句。
一里は皆俳諧ぞくさの華 支考
「くさの華」は秋の花野のことで、様々な種類の花の咲き乱れる様をいう。
そして出発ということで一句。
留別
長崎の秌や是より江の月夜 支考
長崎へは船で向かう。「江の月夜」だから佐敷川の河口付近からの出発になったのだろう。
「五日
此日艤して長崎におもむく。海上三十里ばかり、こなたにおもひやる心こそはるかなれ。一里ばかりは礒の松風に吹おくれられて、船もなからましかばと珍しき心もすなり。秤石とかやいふ所の礒の木陰より、扇あまたひらめかしたるが、挽夷・谷吹の二法師、洞翠がともがらのはなむけの酒のまむと、ぬけがけきられるにぞありける。をのをの船中餞別の句あり。この人この人にわかれて後は、此川口に風まちくらし、蓬もる月の波まくらにわびて、心ほそき事のはじめにぞ侍る。曉の風もやうやうに漕はなれ行に、たらあしろとかやいふ浦にて、帆をさけ碇をおろし侍る。この浦のあまたも見えわたらぬに、人のこころの情ありて、茶にいり物など舟におくりたる、しばしなぐさむかたともなりぬ。
黍の葉もそよぎて浦の朝茶哉
是より三里ばかり行て、この風よからずなどいひて、礒山かげに又舟をかけたり。あら心うの事や。ゆられたる舟の中になにと此日を送らん。すべて舟の事よくしらねば、百年の苦樂は他人によるといへる婦人の詩の心なるべし。
このふねに類船の侍りした、是もあなたの山かげにかゝりて、礒の岩間に物しかせて、物うげにながめたゐたるが、浮世の北の撰者可吟のぬしにありさまの以て侍り。その傍に廿ばかりなるおのこのこそら見まはして、何氣もなうありしが、その友吏明にこそまがはね。さるは古郷のこひしさにかゝる事侍りといふ、人の人に似たるはおかしからねど、あざむかれてなさけなの船頭やとおもはれて、腹もたつべかりしが、そはそれかゐ餅を萩の花といふにはあらじといひたるが、時によきいらへなりとおぼえ侍る。世の人の風雅にあそぶといへば、所帶とりをきて風雅一偏とおもへる。しらぬ人のまどへるなり。人にむかひて物語すれば、物がたりやめて俳諧せんといへる、物がたりのほかに俳諧の侍るや。士農工商のうへ、起臥茶飯の間、何か俳諧にあらざらむ。それも不通の人のはやり言葉にならひ、秀句ことさがのまじはりならば、咄の外の風雅もあるべし。
人が人に似タとて餅を萩のはな
かくいひ侍れば、その姿たくみにして、武の晋が風流には似たれど、發句にてはさぶらふかし。此日この事になぐさみて、やゝ暮方になりぬ。
此夜風少たゆみたるに三里ばかり押渡て、本土の瀬戸とかや、天草の地なるべし。何のたつきもしらぬ礒山かげに、かの碇藤をざぶと入たる音の、いかにわびしきものとかはしる。」
艤は「ふなよそほひ」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「船装・艤」の解説」に、
「① 出船の準備。ふなもよい。ふなごしらえ。ふなよそおい。ふねよそい。〔十巻本和名抄(934頃)〕
② 船を飾りたて、舟遊びの準備をすること。ふねよそい。」
とある。長崎まで三十里の長い船旅になる。小さな船で海岸伝いに行くため、この距離なのだろう。直線距離ではない。
船出して最初の一里は松風を受けて順風で、すぐに秤石という所に着く。今の計石でまだ野坂の浦の湾から出ていない。
秤石では挽夷・谷吹の二人の法師が扇子を振って合図していて、洞翠の仲間のはなむけの酒を飲もうとこっそりとやってきたみたいだ。
挽夷は『西華集』の佐敷での二つ目の表八句の発句を詠んでいる攬夷か。洞翠が脇を付けている。谷吹は最初の表八句の脇を付けている。
この二人の餞別の句があって、再び船を出し湾の入り口のところで風待ちになる。夜の山から吹き下ろす風と昼の吹き上げる風の入れ替る、朝凪の時間になったのだろう。
「蓬もる月の波まくらにわびて」は、
蓬わけて荒れたる庭の月見れば
昔すみけん人ぞ戀しき
西行法師(山家集)
波枕いかにうき寢をさだむらん
こほります田の池の鴛鳥
前齋宮内侍(金葉集)
などの歌の趣向を借りている。
暁の風がようやく吹く頃に帆だけでなく櫂も交えてようやく「たらあしろ」で帆を下ろし、碇を降ろす。「たらあしろ」は田浦(たのうら)の網代か。「あまたも見えわたらぬ」というから入り江の中に入ったのであろう。茶を淹れてもらってふたたび風を待つことになる。
黍の葉もそよぎて浦の朝茶哉 支考
弱いそよ風しか吹かなかったので、ここで朝茶となる。
九州では黍が多いのか、以前鹿児島で薩摩料理の店に入った時にも黄色い黍飯だった。
この後風が吹き始めたか三里ばかり進むが、ふたたび風が良くないということで磯山かげで船を留めることになる。ここには他の船も泊まっていて、そこに元禄九年に『浮世の北』を編纂した可吟によく似た人を見つける。その隣の人も吏明によく似ている。美濃の俳諧仲間が何でこんなところに、というところだが人違いだったようだ。
「かゐ餅を萩の花」は『徒然草』の「かいもちひ」で、有名な神殿狛犬の向きが逆になっていたという二三六段に登場する。ネット上の久保田一弘さんの「「かいもちひ」の研究─『徒然草』を中心に─」によると、「かいもちひ」には近世に「ぼたもち」とする説がひろまったという。それによると、『徒然草句解』(一六六一年刊)で「俗に萩ノ花ト云物也」と、初めて「かいもちひ」を萩の花とする注釈が付けられたという。これに対して「そばがき」説は近代のものだという。
かいもちひは宗鑑の『犬筑波集』に「かいもちもえつかぬ宿はへのこかな」とあり亥の子餅を「かいもちひ」と言っていて、そこからぼた餅との混同が生じたという。ちなみに「ぼた餅」はぼたっとした餅で「牡丹餅」は後世の古事付けだという。
支考が人違いの後にこのことを持ち出すのは、「かいもちひ」を「萩の花」とすることに当時の人も疑問を持っていたからなのだろう。本当は違うものなんだけど、世間では一緒くたにされているという例として引き合いに出されたと思われる。
この頃世間の人の間だと、「風雅に遊ぶ」というと家族を捨てて旅にでも出なければいけないようなイメージがあったのだろう。俳諧は本来は生活の中で生じるもので、日常の物語(世間話、談笑)が俳諧で、それをやめて俳諧をするというようなものではなかった。
まあ、秀句を得ようとして旅に出ちゃう人も確かにいるから、自分もそうだし芭蕉さんもそうだったからということで、あながち間違っているわけでもないが。
人が人に似タとて餅を萩のはな 支考
かいもちひが萩の花ではないように、風雅に遊ぶことが旅に出るということとイコールではないにせよ、まあ、人違いでも故郷の懐かしさが込み上げてくるように、あながち悪いことでもない。
この句は何かちょっと技巧的にこねくり回した感じで、武州の晋(其角)みたいになってしまったなと自嘲する。
夕方になると向かい風がようやく収まって三里ほど先へ進む。瀬戸は島の沢山ある所で天草五橋のある辺りのことだろう。ここを通っておそらく今の天草市の中心部の辺りに着いたのではないかと思う。
「たつきもしらぬ」は
をちこちのたづきもしらぬ山なかに
おぼつかなくもよぶこどりかな
よみ人しらず(古今集)
の歌があり、どこにいるのか右も左もわからないことをいう。
「七日
今宵はそも年にまれなる二星の夜なり。然に風はげしう吹て、雲のたゝずまゐあめを催す。かゝるあはれも船頭はしらずなりて、鼾の音に更行こそ、たゞものすごき夜なりけれ。
牽牛の傘すぼめてやはしの上」
翌日も天候のせいか天草のどこかの浦に停泊したまま過ごしたようだ。「風はげしう吹て、雲のたゝずまゐあめを催す」とあるから、おそらく台風が接近していて海が荒れていたのだろう。
七夕の夜は嵐となったが、船頭は慣れたものなのか鼾をかいて寝ている。
牽牛の傘すぼめてやはしの上 支考
牽牛はこの天気でも橋の上で唐傘をすぼめて、びしょ濡れになって渡って行ったのだろうか。
新暦の七夕は梅雨の季節でなかなか晴れないが、旧暦の七夕もちょっと早い秋の長雨に掛かったり、台風が接近したりしてそれほど晴れていたわけでもなかったようだ。元禄十二年刊等躬編の『伊達衣』に、
名月はいかならん、はかりがたし
七夕は降と思ふが浮世哉 嵐雪
の句もある。
「八日
この朝大かたに晴わたりて、又漕出たる船のすゑは、しら波の早崎とかやいへる。世に鳴門の汐にも似侍るときけば、渡りくらべて今ぞしるべき所なる。此日もわづかに四五理ばかり行て、通㕝の浦とかいふ處にいたる。是より長崎は七里ばかりにさしむかへり。此汐よからずなどいひて、又碇入たるが、かはく間もなき袂かなといふいかりの歌よみぬべし。されば今宵は空あらたにして、宵月の影に濱の松原もほの見得わたりて、是ぞすてがたき旅寐のなかだちなりける。
松むしに人なつかしや磯の家
こなたも苫ふきよせたる下に、燒火の影いとさむげにさしむかひて、茶などのみ居たるが、をのづから世にあるこゝちには侍る
船に火をたけば蔦這ふ家のさま」
翌日は台風一過だったか、ようやく晴れ渡った。漕ぎ出した船は「しら波の早崎」に向かう。雲仙のある島原半島の突端に今でも早崎という地名がある。瀬戸内海の鳴門のように潮の流れが速く、この海峡は早崎瀬戸と呼ばれている。ウィキペディアに、
「島原半島南部沿岸は起伏の激しい岩礁底が広がり、南端の瀬詰崎から対岸の天草下島まで 4.4 km ほどで、有明海の入口に位置することから、全国的に見ても潮流が早く日本三大潮流のひとつに数えられている。水深最大150m、潮流は最大8ノットと云われ、プランクトンの発生が活発で魚の餌の宝庫であることから、多くの魚種が集まる絶好の漁場が形成されている。」
とある。
通㕝の浦はよくわからないが加津佐(かづさ)の辺りか。差し向かいが長崎になる。
「かはく間もなき袂かな」という碇の歌は、
かはくまもなき墨染の袂かな
朽ちなば何を形見にもせん
藤原顕綱(千載集)
をもじったものか。船は止まってばかりで碇も乾くことがない。
とはいえようやく晴れて半月の見える夕べで、旅の景色としては悪くはない。
松むしに人なつかしや磯の家 支考
在原行平の俤も感じさせる。あれは松風・村雨の姉妹だったが。
まあ、この時代だと藻塩焼くわけではないが、それでも焚き火をしてお茶を飲めば、昔のことも偲ばれる。
船に火をたけば蔦這ふ家のさま 支考
これは見たまんまの句であろう。
「九日
肥前国
長崎
此日十里亭にいたる。このあるじは洛の去來にゆかりせられて、文通の風雅に眼をさらして、長崎にも卯七もちたりと翁にいはせたるおのこ也。予この地に來りて、酒にあそばず、肴にほこらず、門下の風流誰がためにか語らん。
錦襴も緞子もいはず月夜かな」
翌九日、ようやく長崎に到着する。十里亭は卯七のこと。蕪村が夜半亭というようなもの。
去来・卯七編の寶永元年刊『渡鳥集』には、この文章を若干変えて前書きにした三つ物が収録されている。
元禄十一の秋七月九日、長崎にい
たり十里亭に宿す。此主は洛の去
來にゆかりせられて、文通の風雅
に眼をさらし、長崎に卯七持たり
と、翁にいはせたる男也。予此地
に來たり、酒にあさばず、肴にも
ほこらず、門下の風流たれが爲に
語らん。
錦襴も純子もいはず月よ哉 支考
磯まで浪の音ばかり秋 卯七
唐黍の穂づらも高く吹あげて 素行
「錦襴も緞子もいはず」はまあ、贅沢は言わないということか。そういうわけで月夜だけど特に何もなく、浪の音ばかりの秋です、と卯七が答える。
素行もここに来ていたか、波の音に唐黍の実りをあしらう。唐黍はこの時代はトウモロコシではなくコウリャンのことか。高さが三メートルにもなる。『春の日』に、
待恋
こぬ殿を唐黍高し見おろさん 荷兮
の句がある。
素行というと、元禄十二年朱拙編の『けふの昔』に、
粟ちぎる空は蜜柑の曇かな 素行
の句がある。秋の句で他の粟の句と並んでいるから、蜜柑の収穫の季節ではない。支考の「蜜柑の秋」と同様、何か意味があるのだろう。
「十日
久米のなにがし素行にいざなはれて、此清水寺に詣けるに、今日は二万五千日の功徳とかや。殊に女ごゝろのたのみをける日なるべし。此津の遊女どもの人も見、人にも見られむとよそほひ立たるに、往來のをひ風に心ときめきせられて、花すゝきのなびき合たる野邊は、男山もあだにたてりと見ゆらんかし。さるは浮草の世にうかれて身をあだなりと見る人は、浦のみるめもいかにあだならん。今さしあたりたる物おもひはなけれど、左右の翠簾越にのぞかれて、顏のをき處なからんこそうたておもはるれ。禿といふものゝ何ごゝろなくて、茶漬喰ひたしてとおもへる、雀の花見がほにもたとへ侍らん。をひさきいかなるあだ人にか馴て、物おもふ事もならひてむと、是さへあはれにおぼえられける。
草花の名にたびねせんかぶろども」
長崎の清水寺はウィキペディアに、
「清水寺(きよみずでら)は長崎県長崎市鍛冶屋町にある真言宗霊雲寺派の寺院である。山名は長崎山(ちょうきさん)。本尊は千手観音。」
「当寺は、京都・清水寺の僧・慶順により、元和9年(1623年)に創建された。現存する本堂は寛文8年(1668年)、唐商人の何高材(がこうざい)とその子供兆晋・兆有らの寄進によって建立されたものである。」
とある。
「二万五千日の功徳」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「二万五千日」の解説」に、
「〘名〙 仏語。京都や長崎などの清水寺の観音の縁日である七月一〇日に参詣すること。この日に参詣すると、二万五千日参詣したのと同じ功徳(くどく)があるという。→四万六千日。
※俳諧・本朝文選(1706)二〈支考〉「七月十日。けふは二万五千日の功徳とかや」
とある。縁日だというので素行も「是非この日に」と誘ったのだろう。
「此津の遊女」は丸山花街の遊女か。ウィキペディアに、
「元禄ころの状況を伝えるケンペルの紀行には「長崎の丸山は京の嶋原以外では、他に見られぬ艶麗を表現している」とあり、花月楼の鶴の枕は、唐の玄宗皇帝の楊貴妃の遺物であると伝わり、遊女の服装が華やかだったことは、小唄「京の女郎に長崎衣裳、江戸の意気地にはればれと、大坂の揚屋で遊びたい」とあるほどで、井原西鶴の「日本永代蔵」には「長崎に丸山と云ふ所なくば、上方の金銭無事に帰宅すべし」とさえ評された。」
とある。華やかな衣装が人目を引いていた。
遊女の見習いの禿(かぶろ)は花見に来て花よりも茶漬けを食うのがたのしみであるかのような、まだ無邪気で雀みたいに姦しいその姿を見ると、これから先オヤジの慰みものになり、苦しい人生が待っていると思うと哀れでならない。
草花の名にたびねせんかぶろども 支考
草花は秋の花野を彩る小さな可憐な花々で、それを俤にして旅寐しようかと、艶やかな遊女よりも禿って、支考さん‥‥。
「十一日
此日洛の去來きたる。人々おどろく。この人は父母の墓ありて、此秌の玉祭せむとおもへるなるべし。此日こゝに會しておもひがけぬ事のいとめづらしければ、
萩咲て便あたらしみやこ人
牡念・魯町は骨肉の間にして、卯七・素行はそのゆかりの人にてぞおはしける。この外の人も入つどひて、丈草はいかに髪や長からん。正秀はいかにたちつけ着る秌やきぬらん。野明はいかに、野童はいかに、爲有が梅ぼしの花は野夫にして野ならず。落柿舎の秋は腰張へげて、月影いるゝ槇の戸にやあらんと、是をとひ、かれをいぶかしむほどに、
そくさいの數にとはれむ嵯峨の柿 去來
返し
柿ぬしの野分かゝえて旅ねかな 支考」
去来は長崎の生まれで八歳のときに父、儒医元升とともに京に移住した。そのため去来は祖先の墓が長崎にあるため、お盆には長崎に帰省していた。支考と去来はともに芭蕉の死に立ち会い、追悼なども共に行ってきたが、ここで思いもかけず会うことになる。
萩咲て便あたらしみやこ人 支考
去来は長崎の生まれとはいえ長く京で暮らしていたので、一応「都人」といえよう。江戸っ子は三代住んで江戸っ子だというが。支考は美濃の真桑瓜の産地で生まれ、今は伊勢にいる。
牡念と魯町は去来の弟でこの頃の言葉だと「骨肉の間」ということになる。卯七と素行は去来の長崎の門人。この外というのは卯七や素行の門人であろう。
丈草の髪の長さや正秀の裁着(たっつけ)のことなど芭蕉の門人の噂話や、京にいる去来の弟子の野明や野童はどうしているかだとか、為有の「梅ぼしの花」は元禄十二年刊朱拙編の『けふの昔』に収録されることになる、
梅干の花とて惜む小僧かな 為有
の句のことか。
大人が梅の花を大事にしていると、子供は「ヘっ、梅干しの花じゃねえか」と悪態ついたりする。
元禄十一年刊浪化編の『続有磯海』には、
梅を見に行とはいふな藪の中 為有
の句もある。
藪の中に住んでいると、何か自分だけ風流をしってるんだぞ、みたいな自慢に聞こえてしまうから、他の用事を言って梅を見に行くというのだろう。
『続有磯海』には名前の所に「さが田夫 為有」とある。嵯峨野を京と言わずに「さが」と言って区別している上、わざわざ「田夫」としている。
その他にも、元禄十五年知方編の『はつだより』に、
どん栗の落て耳うつ兎かな 為有
元禄十一年刊諷竹編の『淡路嶋』に、
肩熊に猿をのするや春の旅 為有
のようなほのぼのとした句がある。肩熊は肩車のこと。
「野夫にして野ならず」とは野夫だけど野暮ではないということか。
丈草は僧だと思ってたが、髪を剃ってなかったのか。正秀の「裁着」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「裁着・立付」の解説」に、
「〘名〙 (「たちつけ(裁着)」の変化した語) 裾(すそ)を紐で膝の下にくくりつけ、下部が脚絆(きゃはん)仕立てになっているはかまの一種。たちつけばかま。たっつけばかま。野袴。《季・冬》」
とある。正秀がいつも履いていたのか。このあたりは俳諧師同士の日常の話題が垣間見れる。
落柿舎の「腰張」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「腰張」の解説」に、
「① 壁や襖(ふすま)の下半部に紙や布を張ること。また、その場所やそこに張ったもの。
※茶伝集‐一一(古事類苑・遊戯九)「一腰張の事、湊紙ふつくり、其長にて張も吉、〈略〉狭き座敷は腰張高きが能也」
とある。下の方にだけ張る壁紙みたいのもので、これがあると狭い茶室でも引き締まって見えるが、これがはがれると下の板がむき出しになるが、それを板だからというので「槇の戸」だと気取っているのだろう。まあ、一種の貧乏自慢か。
まあ、そんな他愛のない話をしながら、一句。
そくさいの數にとはれむ嵯峨の柿 去來
嵯峨の柿が去年も落ちたかどうかも話題になったのだろうか。落柿舎は無事だが。
これに対して支考も返す。
柿ぬしの野分かゝえて旅ねかな 支考
落柿舎の主もやはりあの台風の中を旅してきたのかな。支考は天草を渡るのにかなり難儀したが。
『西華集』の表八句二巻は長崎滞在中のいつ頃なのかはわからないが、去来は参加していない。
長崎
秋たつや朔日汐の星ししみ 卯七
はらりとしたる松に早稲の香 素行
姥捨の哥には誰も袖ぬれて 支考
白髪ばかりの庵の酒盛 雲鈴
見違る隣の亀か嫁入前 一介
櫻の花で持った開帳 野青
鶯の日和になりて味をやる 楓里
米斗出す庭の春風 千流
仝
燈籠や此松はよき釣所 鞍風
野つらの月に虫は鳴ぬか 逸雲
清酒の門も杉葉の秋は来て 支考
そこらの者の味噌つきによる 望郷
昼過はとろりと曇る天気相 盤谷
又手をかへてあそぶ兀山 北溟
鐘つきの鐘楼にのぼる鎰の音 雲鈴
洗あけたる膳の清ふき 六出
「十二日
牡年亭夜話
卯七曰、今宵は先師の忌日にして、此會此こゝろさらにもとめがたからん。たかく蕉門の筋骨を論じ、風雅の褒貶をきかむ。そもそも先師一生の名句といふはいかに。荅曰、さだめがたし。時にあひをりにふれては、いづれかよろしく、いづれかあしからん。世に名人と上手とのふたつあるべし。名句は無念無想の間より浮て、先師も我もあり。人々も又あるべし。名句のなきは有念相の人なればならし。たとへ俳諧をしらぬ人もいはゞ名句はあるべし。上手というふは、切屑をとりあつめて料理せむに、よきとあしきとのさかひありて、はじめて上手・下手の名をわくるならん。吾ともがら先師のむねをさだめねば名句の事はしらず。」
芭蕉の亡くなったのは元禄七年十月十二日で、十二日は月命日になる。それで芭蕉の俳諧について今日は話を聞きたいと卯七が持ちかける。
卯七曰。芭蕉一生の名句とは。
支考答。名句は「無念無想」。いわば意図して作れるものではない。最近の言い方だと「天から降りてくる」というべきものだ。それゆえに「神」という。
「有念相」は日常的にどういう意味で用いられていたのかはわからない。「有相」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「有想」の解説」に、
「〘名〙 仏語。知覚、表象作用のあること。また、そのもの。⇔無想。
※幸若・笛巻(室町末‐近世初)「有想といへる心は、万の物を有と見る。是は有想のまよひとて地獄におつるはじめなり」 〔金剛経〕」
とある。これは別に万物が有か無かという存在論ではなく、物事をすべて理屈で理解できると思っている人、という感じなのではないかと思う。今でいえば科学万能主義だが、要するに「無知の知」を知らない、自分にはわからないことがたくさんあるんだという謙虚な気持ちを欠いている、ということではないかと思う。
こういう人は、句を詠むときでもいちいち理屈で作ろうとする。でもそういう計算されたものは「上手」ではあっても「名句」ではない。これはどこか天才と秀才の境界線にも似ているかもしれない。天才は世界が分からないから、分かろうとして偉大な発見をする。秀才は世界が分かっているから、決められた答えしか出せない。天才はテストで八十点でも、百年後には百点になっていたりする。秀才は今は百点でも後の世から見ると落第点ということになる。
俳諧を知らない人でも名句はある、具体的にはどの句がと言われると困るかもしれない。当時の撰集に入集するレベルなら、撰集の中に「少年」とか「遊女」とか書かれている句の類であろう。
雪の朝二の字二の字の下駄の跡 捨女
の句は幼少の頃の作だという伝説にはなっているが、後世の本にしか見られず無名作者の句が仮託された可能性もないではない。
桐一葉落ちて天下の秋を知る
の句は戦国武将の片桐且元だと言われているが、はっきりしているのは近代の坪内逍遥の芝居で用いられたということで、坪内逍遥の作かもしれない。
松島やああ松島や松島や
の句も時折芭蕉の作だという人がいるが、
松島やさて松島や松島や 田原坊
という江戸後期の狂歌師の句だという。
まあ、この辺はいわゆる俳諧師の句ではない。
なら支考の名句は何かというと、ごめんなさい、
馬の耳すぼめて寒し梨の花 支考
くらいしか思いつかない。多分この「梨の花」の下五は何も考えずに天から降りてきた言葉ではないかと思う。
これに対し「上手」というのは、「切屑をとりあつめて料理せむに、よきとあしきとのさかひありて」とある。いわば残り物を集めただけでも旨い料理が作れるのは料理上手ということだ。まあ、これはあくまで例え話で料理の良し悪しを論じているのではない。
俳諧の上手というのは、特に心を突き動かす強力な初期衝動を持たなくても、適当に言葉を並べ替えてそれなりの句が作れる、そういう小手先のテクニックが上手というものなのだろう。いわば、締め切りに迫られても、何とかそれなりのものを作れるということか。
芭蕉の名句はというと、自分はといわず「吾ともがら」という。芭蕉の門人はみんなそう思っているが、というところで、結局先師に聞いてみないとわからないということだ。多分芭蕉に聞いてもどれが一番というのはないと思う。個人的に一番好きな句ならあるかもしれないが。
作品の評価というのは最終的には大衆が決めるものだ。その意味では古池の句と猿に小蓑の句が双璧だったと思う。近代の評価はまた違う。西洋から来た全く別の文学理論で評価されているからだ。
「卯七曰、公等自讃の句ありや。曰、自讃の句はしらず。自性の句あるべし。
應々といへどたゝくや雪の門 去来
有明にふりむきがたき寒さかな 同
評曰、始の雪の門は、應とこたへて起ぬも、荅をきゝてたゝくも、推敲の二字ふたゝび世にありて、夜の雪の情つきたりといふべし。次の有明はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。」
これは去来も同席していて去来自身が答えたのだろう。卯七も「公等(きんら)」つまり君達と言っている。
自性(じしゃう)というのはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「自性」の解説」に、
「〘名〙 仏語。物それ自体の独自の本性。本来の性質。本性。
※即身成仏義(823‐824頃)「又金剛頂経云。諸法本不生。自性離二言説一。清浄無二垢染一」
※謡曲・山姥(1430頃)「仮に自性を変化して、一念化生の鬼女となって」 〔金剛頂経‐上〕」
とある。自讃というよりは自分で気に入っている、自分の性にあっている、というニュアンスだろう。
應々といへどたゝくや雪の門 去来
この句は『去来抄』では他の門人からそれほど高い評価は得ていなかった。まあ、言ってみればただの「あるある」で終わっている。
雪の日は火燵から出たくないもので、門を叩く音が聞こえても、「おう」と生返事をするだけで、火燵から離れたくない。早く開けてくれと、戸を叩き続ける。そこに「推敲」の元になった「僧推(おす)月下門」「僧敲(たたく)月下の門」の詩句にもつながるし、
嘆きつつひとりぬる夜のあくる間は
いかにひさしきものとかは知る
右大将道綱母(拾遺集)
の歌にも通じるというが、句自体には隠士の風情も恋の情もない。まあ、「優秀な読者」なら、そこにたぐい稀な想像力を駆使して、勝手に物語を作ってくれるかもしれないが。名句は読者が作る物だ。
有明にふりむきがたき寒さかな 去来
これは、
ほととぎす鳴きつる方を眺むれば
ただ有明の月ぞ残れる
藤原実定(千載集)
であろう。夏だから振り向く余裕もあるが、冬なら有明の月が見えていても振り向く余裕もない。冬の明け方の寒さをうまく表してはいる。ただ、「その姿をばいふべからず」というよりも最初から冬の有明という以外に姿のない句で、後は勝手に想像してくれ、ということになる。
「應々と」は姿は良く出来ていて、門を叩く者の焦った顔や、火燵にしがみつく者のかったるそうな姿が目に浮かんでくるようだが、特に深い情はない。「有明に」の句は寒さは伝わってくるが浮かんでくる姿がない。
去来の弱点は読者依存症ではないかと思う。これで十分読者はわかってくれると思っているところが、どうも伝わっていない。『去来抄』の、
手をはなつ中におちけり朧月 去来
兄弟のかほ見るやミや時鳥 同
の所で芭蕉からも指摘されていた弱点だ。
筆者は去来の一番はやはり、
何事ぞ花みる人の長刀 去来
だと思う。
「膓に秌のしみたる熟柿かな 支考
梢まで來てゐる秋のあつさかな 同
評曰、始の熟柿は西瓜に似て、西瓜にあらず。西瓜は物を染て薄く、熟柿は物をそめて濃ならん。漸寒の情つきたりといふべし。次の殘暑はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。
されば秋ふたつ冬ふたつ、そのさま眞草の變化に似れば、ならべてかく論じたる也。自讃の句は吾しらず。是を自性の句といふべし。先師生前の句はおゝくその光におほはれて、あれどもあるにはあらざらん。筋骨褒貶は沒後の論なるべし。」
大体去来の言ったことを繰り返して、自讃ではなく自性の句だと言い、「その情幽遠にして、その姿をばいふべからず」はそのままパクっている。まあ、それだけ去来をリスペクトしてのことだろうけど。
ただ、温度差があるとすれば、支考は去来ほど自性の句に思い入れがないのではないかと思う。最後の「筋骨褒貶は沒後の論なるべし」は自分の句に関してもそうだと思っていると思う。それはおそらく遅れてきたため、芭蕉の俳諧の全盛期の華やかな成功体験に恵まれてないからではないかと思う。自分の句が後世に残るかどうかはかなり不安だったのではないかと思う。
支考が選んだ二句は支考自身が言う「不易の眞」の句であろう。「膓(はらわた)に」の句は、熟した柿の実が視覚的にも味覚的にも秋を感じさせる、というもので、子供のころから柿をよく食べてきた世代には、かなりノスタルジックな感傷もあるのではないかと思う。
秋の果物の身にしむは、
片枝さす麻生の浦梨初秋に
なりもならずも風ぞ身にしむ
宮内卿(新古今集)
の歌がある。この歌は夏に分類されているが、秋になるまえに吹いた秋風の身にしむことを詠んでいる。その秋風が積もり積もるとやがて熟した柿に秋風が腸にまで染み入ることになる。熟した柿の甘い味の虚と秋風の身にしむとが微妙なバランスを取っている。
「梢まで」の句は残暑の厳しさが夏の内に根から吸い上げ幹に行き渡り、残暑の頃には梢にまでたどり着く。これを比喩として、長く続く厚さに夏の疲労が残暑の頃に限界に達することをいう。これも「梢まで」という虚に残暑の実が具わっている。
去来の句が「雪の門」「寒さ」というテーマからそれにふさわしい景を探って行くのに対し、支考は柿に秋の身にしむ、梢に暑さという最初に虚実を結ぶテーマを思いついて、それを両方向に発展させている感じがする。去来の思考が直線的なのに対し、支考は最初から並列的に思考しているかのようだ。
支考に弱点があるとすれば、芭蕉のようなキャッチーなフレーズが作れないところだろう。「膓に秌のしみたる」はやや冗長で、芭蕉の「腸氷る」には勝てない。
「素行曰、八九軒空で雨降柳哉 といふ句は、そのよそほひはしりぬ。落所たしかならず。西華坊曰、この句に物語あり。去来曰、我も有。坊曰、吾まづあり。木曾塚の舊草にありて、ある人此句をとふ。曰、見難し。この柳は白壁の土蔵の間か、檜皮ぶきのそりより片枝うたれてさし出たるが、八九軒もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならんと申たれば、翁は障子のあなたよりこなたを見おこして、さりや大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたると申されしが、續猿蓑に、春の鳥の畠ほる聲 といふ脇にて、春雨の降ふらぬけしきとは、ましてさだめたる也。去來曰、我はその秌の事なるべし。我別墅におはして、此青柳の句みつあり、いづれかましたらんとありしを、八九軒の柳、さる風情はいづこにか見侍しかと申たれば、そよ大佛のあたりならずや、げにと申、翁もそこなりとてわらひ給へり。」
これは元禄七年春の興行で、芭蕉、沾圃、馬莧、里圃による四吟歌仙は『続猿蓑』に収録された。沾圃編でそこ原稿を伊賀で支考も見ていたがその後の消息が分からず、この元禄十一年に刊行されてこの旅の途中椎田で支考も目にすることになった。
支考がこの発句を知ったのも、元禄七年の伊賀でのことだろう。その後支考は芭蕉に付き従い、閏五月十六日に大津へ向かう。この時は乙州亭、曲水亭などあちこち泊まり歩いていて、膳所の無名庵に戻ったかどうかは定かではない。五月二十二日には京に上り落柿舎に行き、「柳小折」の歌仙を巻くことになる。この時のメンバーは芭蕉、洒堂、去来、支考、丈草、惟然の六人だった。
再び大津へ行くのは六月十五日で、この後しばらく無名庵に滞在する。支考がここでする話もこの時のものであろう。
八九間空で雨降る柳かな 芭蕉
この句を卯七は「よそほひ」はわかるが「落所」がわからないという。まあ、言っている意味は分かるが、なにが面白いのかよくわからない、ということか。それでこの句に何か裏話があるのか、と尋ねる。すると去来も支考もあると答える。
まず支考の話だが、無名庵に滞在した時に、或人が「この柳は白壁の土蔵の間か、檜皮ぶきのそりより片枝うたれてさし出たるが、八九軒もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならん」という。句だけで出てくるイメージではなく、あたかもこの柳を見たことがあるかのような感じで言う。
おそらく関西方面の門人には八九軒の柳と聞いてすぐに思い浮かぶ共通認識があったのだろう。それは奈良東大寺の近くにある柳で、おそらく壁の間から街道にせり出した柳だったのだろう。
この門人の疑問に答えるかのように、芭蕉は隣の部屋から「さりや大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたる」と言う。あの大仏の辺りにある柳を見たんだろう、と芭蕉もこの柳は知っていた。
おそらく問題はこの句に、
八九間空で雨降る柳かな
春のからすの畠ほる声 沾圃
と脇が付いていたからだろう。
発句だけ見れば、その奈良の大仏殿の近くの柳で、この柳の下を通り過ぎる八九軒(約十五メートル)の間は雨が降っている柳の糸が雨なのかどっちともつかない「降ふらぬけしき」の句だと、というふうに解する。
ところが脇が付くと、カラスが畑を掘って鳴いている様子から、実は雨は降ってないというのがはっきりして、八九軒の巨大な柳の枝の糸があたかも雨が降っているかのように見える、という句になる。
沾圃は江戸の人なので、奈良の柳のことは全く思い浮かばなくて、この脇を付けたのだろう。そして次の撰集が全国で発売されるなら、関西人だけの共通認識ではなく、奈良の柳を知らない全国の人に向けたものでなくてはならないから、芭蕉もこの脇で良しとしたのだろう。そして発句はこの脇のせいで雨はあくまで比喩ということに治定されることになった。
卯七は長崎の人だから沾圃同様この柳のことは知らない。ただ、都から来る人がこの柳の句のことを話すのを聞いて、何か違和感を感じていたのだろう。
去来の話は秋というから、このあとまた七月五日に京へ上った時のことだろう。「我別墅」というから場所は落柿舎で、芭蕉は去来に柳の句三句を見せどれが一番良いかと聞く。これは芭蕉が弟子に対してよくやる事で、弟子の力量を試しているとも取れるし、自分の句を他人が見た場合どう映るかを知りたいというのもあったのだろう。
その中の一つにこの「八九軒」の句があり、去来が、これってどこかで見たことのあるような景色で、奈良の大仏の辺りだったか、というと芭蕉は「そこなり」と言って笑ったという。
俳諧は「あるある」で、多くの人の共通認識に訴えるともに、その共通認識を生み出し、そこに一定の情を与えることで人々の相互理解を助けるものではある。ただ、その共通認識も地域差があり、「八九軒」の柳で通じる人と通じない人がいるのはやむをえないことだ。芭蕉は通じない人の感性を理解することも大事だとわかっていた。
俤付けというのも同じで、従来の本説付けではその元ネタを知っている人しか意味が分からない。それを出典を知らなくても意味が通るように、元ネタからある程度独立させて付けることで、元ネタを知らなくてもそれなりにわかるが、知っていればもっと面白いという句になる。
「八九軒」の句も、大仏の柳を知らなくても面白く、知っていればもっと面白い、という所で落ち着くことになった。それがこの句の「落所」といえよう。
俳諧は内輪だけで分かり合えればそれでいいというものではない。もっと大きな世界を見なくてはいけない。それを教えてくれる句でもある。
「されば人の俳諧を見る事、その人の胸中を草鞋はきて二三べんもかけめぐりたらんに、などか見あやまり侍らん。名家高達の人といへど、よきはよくあしきはあしからん。人を見てその人にまどふ事は、世に尻馬にのる人と云べし。西華坊かつて尾城にありし時、そこの人々の物うたがひありて〽金くるゝ小町が手より花の春 〽蓬萊にきかばや伊勢のはつだより 此歳旦ふたつ出して、句ぬししらぬ先の評をきかむといふ。西華坊曰、花の春の句は、二十年骨をりて俳諧をまぎらかしたる句也。初便の句の好惡はいふべからず。蓬萊の五もじ、よのつねならずといふに、人々なをあざむきて、歳旦に蓬萊といふ五文字何かかたからん。西華坊曰人は元日とをくべし。蓬萊にあらざればこの句に形容なしとおもへる。是非との及まじき工夫なり。かゝる風情と風姿をしらんに、俳諧にわたくしなき事さる事なるべし。」
人の俳諧を見る時は、その句がどうやってできたか胸中を探る必要があるが、えてして人は権威に騙されて、名のある人の句は全部良い句で、その良さがわからないのは自分の至らなさだと思い、さらには作者の思いもよらないような名解釈を思いついたりもする。
権威のある人の無謬性を信じ、そういう人にも良い句もあれば悪い句もあるのを見ようとしない、そういうのを今でも世間は「尻馬に乗る」という。偉い人が何か言うたびに「そーおーでーすーよー」なんて言っている輩、あなたの身の回りにもいるんじゃないかな。
そういうわけで、支考がかつて尾張にいた頃、つまり伊勢に来る前ということか、自分の力量を試そうとしてか、
金くるゝ小町が手より花の春
蓬萊にきかばや伊勢のはつだより
の歳旦二句を作者名を伏せて評せよという。
「金くるる」の句は何となく雰囲気でわかるが、歳旦の厳かな感じがなく、金だとか小町だとか世俗の好きそうなきらびやかなものが並んでいる。
だが、もしこれが芭蕉の句だと言われたら、ここに何か深遠な意味を見出そうと頑張るのではないかと思う。たとえば「金くるる」は「鐘暮る」で入相の鐘に日が暮れて、小町は謡曲『卒塔婆小町』の年老いた小町で、既に死の淵に立った往年の美女に、夕暮れの鐘のわびしさのなか、今年もかろうじて新しい一年を頂ける、そんな目出度さをこの句は言おうとしている、と。こういうのを「故事付け」という。
まあ、支考は普通に「二十年骨をりて俳諧をまぎらかしたる句」と評する。これはまず素人の句ではない。かなり熟練している。小町が遊女かなんかとすれば、遊郭に入り浸っていて、遊女からも点賃をもらってそうな粋人ということか。
ネット上の中森康之さん、永田英理さんの「美濃派道統系の『俳諧十論』注釈書・『俳諧十論弁秘抄』〈翻刻と解題〉(一)」には其角の句とある。
これに対し「蓬莱に」の句はまず、頭の「蓬莱」からして尋常ではない。この言葉を持って来れるだけで凄い、と絶賛する。
尾張の人は歳旦に蓬莱って普通じゃないと何とか騙そうとするが、試しに「元日にきかばや伊勢のはつだより」と置いてみればわかるという。つまり普通に正月の目出度いものをここに置いても「伊勢」が生きてこない。伊勢の二見ヶ浦の初日は富士山の方から上り、富士山が東の海上にある伝説の神仙郷、蓬莱山に見立てられていたということを考えれば、ここでいう「蓬莱」が単なる蓬莱飾りのことではないというのがわかる。
たとえ家の蓬莱飾りを見ながら伊勢の初便りを読んだとはいっても、こころは遥か神仙郷に飛んで行く。句の頭からこれほど強いインパクトのある言葉で、しかも伊勢と来れば、もうこれ以外の言葉は考えられない言葉を持ってくる。この作者はただものではない。というかこれができるのは一人しかいないと確信したのだろう。
もちろんこれは元禄七年の芭蕉の歳旦だ。
「去來曰、春もなをむかしなるが、先師湖南におはして〽行春を近江の人とおしみける、といおふを、大津の白が評に、行年をあふみの人といはんも、行春を丹波の人といはむも、おなじ事に侍れば、一句くりたるとおぼえ侍と申き。去來、汝はいかにと仰られしを、曰、尚白が言よからず。近江の人とおしみ給ふは、湖水朦朧たるをりふしのすみかなればならし。暮春もし丹波におはさば、本よりこの趣向うかぶまじ。歳暮又近江におはさば、此感なかるべし。風流はをのづからその場にあるものをと申たれば、去來汝は共に風雅をかたるもの也と、殊に感賞にあへりけるが、その場といふ事をしるべき事なり。」
この話は『去来抄』先師評にもある。ただ、出版されたのは『梟日記』の方が先。
この話は徳山の所での支考が言っていたことにも通じる。吉野で河豚汁では何でわざわざ吉野へになってしまうように、その土地のイメージというものがある。もちろん吉野で何で河豚汁かというところに、なにか面白い物語とか謂れとかあればいいのだが、それがないならただ読者は首をひねるだけで終わる。
近江の春というと、『平家物語』の平忠度の場面でも有名な、
さざなみや志賀の都はあれにしを
昔ながらの山桜かな
よみ人しらず(千載集)
の歌もある。
「問曰、門下の俳諧に下手の名ありや。答曰、なきにしもあらず。先師死後五年にしてはじめてしるべし。そのほどは、そのにほひ殘りて、好悪の名を定がたからん。さしもよき人は見給らめど、吾ともがらはしらず。
卯七曰、さいふ人の俳諧はいかに。曰、難し。不易有流行あり。不易にくはしきものは、流行に手をはなつ事あやうく、流行にとりひろげたるものは、不易のたへなり處をしらず。誰は流行をしり、彼は不易をしる。おほくはかたつかたつなり。その役者あつまりて、しかして俳諧一芝居といふべし。しからば我が翁の風雅にをける、ふたつのものをつばさにして、天下に獨歩せる人ならんか。吾ともがらいかにしてこの夜光を失へるやと、又かなしみ、又かなしみて夜あけぬ。」
蕉門に下手な奴はいるかといえば、それはいなくもない。蕉門も裾野が広がれば末端の劣化はしょうがないことだが、今は芭蕉の看板があり、それで何とか持っているが、死後五年、つまりそろそろ芭蕉の威光も薄れて、世間も、こいつ蕉門なんて言ってるけどたいしたことなくないって感じになってくる。
そういう人の俳諧はどうなるのかというと、支考は不易と流行に二極化すると予測していたようだ。両方合わせて「俳諧一芝居」というが、芭蕉のようにこの両方を兼ね備る人があられないのは厳しい。支考、去来、卯七といった面々もなかなか希望の持てぬまま夜が明けてったようだ。
許六は去来の不易と流行に分離した俳諧を批判して、もう一度俳諧の流行を取り戻そうとしたが、それほどの広がりもなく、優れた作者も現れなかった。結局俳諧全体が時代遅れになってしまうと、芭蕉の風体の「保存」に走って、不易に偏らざるを得なかったのだ灯。
惟然は独特な超軽みとでもいう風体で、一度は備前や近江の人たちを巻き込んだが、長くは続かなかった。
不易化した蕉門の末裔に対し、点取り俳諧の方からの一つのアプローチが川柳点だった。ここに今日まで続く俳句と川柳との分離が確定していった。
蕪村に関しても、本人は蕉風回帰のつもりだったのかもしれないが、実際は談林から蕉門に至る俳諧の最盛期への回帰といった方が良く、蕪村の句はむしろ大阪談林の方に近かったのではないかと思う。だから子規が蕪村に接近しながら近代俳句を確立していったときに、蕉風はむしろ否定されることとなった。
ただ、おそらく本当に根本的な問題は、歌舞伎や文楽、様々な草紙本、それに江戸中期になると浮世絵も大衆に人気を博し、娯楽が多様化した中で、才能ある人間が他のジャンルに取られてしまったということではなかったかと思う。
それは今でも同じだ。俳句や短歌が振るわないのは漫画やアニメやラノベ、漫才、コント、それにゲームやユーチューブなど楽しいことがたくさんあるのに、なんで俳句?になってしまっているわけだ。ある意味、そういう流行についていけないのがマイナーな文芸に流れてしまっているから、俳諧は復活しないわけだ。
今勢いのある芸人たちが本気で俳諧に取り組んだなら、芭蕉の時代のような俳諧を再現できるかもしれないが、まあ、誰もそれを望んではいないだろうし、その必要もあるまい。今の日本の大衆文化全体が間違いなく芭蕉が切り開いた笑いの世界の上に成り立っているからだ。
五七五だけが俳諧ではない、俳諧は生き方だというのであれば、今の日本の文化はどれもこれも俳諧なので、筆者は現状に不満はない。ただ、その原点を思い出してほしいだけだ。もし将来日本が消滅し、その文化がことごとく弾圧され葬り去れれることがあった時のために、タイムカプセルだけでも残すことができたらと思う。
「後賦
西華坊が禿賦に續て是を後賦と題す。ともに素行が家
の記念にはのこし侍る。前後赤壁の賦に習うふと也
十日・八日はたふときちかひありて、ちかき山寺に佛おがまむとて、こゝの遊女どもの月まうでする也。もろこしぶねも入つどふみなとなれば、浦人のけしきさへうちさはぎて、秌風のおりにふれては、葛のはのうらみがほに、いそべの鴈の大ぞらに吹はなされて、そゞろに人をおもひおどろくならん。それがなかにもはかなき世をちぎりわびて、もろともに苔の下になどゝいのりおもへるらん人も有べしと、あらぬこゝろさへ取そへられてかなし。見渡したる人々のをのが國ひゐきに物くらべしあそばんにも、なにはの浦のあしざまにはいかでいひ落し侍らん。ひたすらにあまの子のあさましとのみおもひあなづりて、上がたの商人の手袋ひきたるためしもおほしとかや。かゝる事などはいひわたるべき年のほどにはあらぬを、西華坊にこのながめの賦つくりたりとほのめかされて、終に後の賦のぬしとはなり侍りけり。
いなづまやどの傾城とかりまくら」
これは十日の清水寺へ行った時の文章をそのまま「禿賦」とし、それと対になるものとして書かれたもので、蘇東坡の『前赤壁賦』『後赤壁賦』に倣ったものとする。後に許六編『風俗文選』に、「前麿山賦」「後麿山賦」というタイトルで収録されている。「麿山」は「丸山」に同じ。
「前麿山賦」の方は出だしの部分の「久米のなにがし素行にいざなはれて」が「七月十日」になっただけで、あとはほぼ同じ。「後麿山賦」の方も出だしが「十月八日は」になっている。
支考の「前麿山賦」と比べて、去来の「後麿山賦」にはいかにも今見てきたというようなリアルな描写がなく、噂話を元に無難にまとめたという感じがする。
いなづまやどの傾城とかりまくら 去来
の句も、「傾城と仮枕」というテーマから何か取り合わせになるものを探って、「いなづま」と妻を掛ける所からこの季語が選ばれたという感じだ。いなづまは『阿羅野』に、
いなずまやきのふは東けふは西 其角
の句があり、旅人の昨日は東今日は西の連想を誘う。「興を催し景をさぐる」という去来の得意パターンだ。
「望江亭
朝寐にはよしあさがほの北座敷
北溟亭 病後
燈籠にならでめでたし生身魂」
望江・北溟はともに去来の長崎の門人と思われるが、去来・卯七編寶永元年刊『渡鳥集』の「渡鳥集作者」の所に名前がない。北溟は『西華集』の長崎での二つ目の表八句にその名がある。
望江亭の句はまだ残暑厳しい中、朝寝するには北の座敷が一番いい、という句。
北溟亭は病後で、長崎のお盆の精霊流しの燈籠にならなくて良かったというものだが、
ともかくもならでや雪の枯尾花 芭蕉
の句の同竃という感じがしなくもない。
「十五日
一介亭
仲麿は誰が家にきて玉まつり
今宵は法性院の欄干に月を賞す。この流にさしむかへる山は、この地の墓所とかや。松の木の間にかけわたしたる燈籠百千の數をしらず。世にあはれなるものゝおもしろきは、去ものは日々にうとしと、いへる人ごゝろなるべし。
咲みだす山路の菊をとうろかな」
一介は元禄十二年刊朱拙編の『けふの昔』に、
はえ糸の篗も裸に冬至かな 一介
蜀黍にゆり立られてかかしかな 同
の句がある。「篗(わく)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「わく」の解説」に、
「① (籰・) 綛糸(かせいと)を巻きかえす道具。二本または四本の木を対にして、横木にうちつけ、中央部に軸を設けて回転するようにしたもの。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕」
とある。「蜀黍」はコウリャン。
まずは一句。
仲麿は誰が家にきて玉まつり 支考
仲麿は阿倍仲麻呂のことだろう。唐に渡った阿倍仲麻呂は一体誰の家でお盆を迎え、先祖の玉を祀ったのだろうか。
盂蘭盆会は中国から来た習慣で、ウィキペディアには、
「盂蘭盆の行事は中国の民俗信仰と祖先祭祀を背景に仏教的な追福の思想が加わって成立した儀礼・習俗である。旧暦7月15日は、仏教では安居が開ける日である「解夏」にあたり、道教では三元の中元にあたる。仏教僧の夏安居の終わる旧暦7月15日に僧侶を癒すために施食を行うとともに、父母や七世の父母の供養を行うことで延命長寿や餓鬼の苦しみから逃れるといった功徳が得られると説く。一方、道教の中元節とは、宇宙を主るとされる天地水の三官のうち、地官を祀って、遊魂などの魂を救済し災厄を除くというもので、仏教の盂蘭盆とほぼ同時期に中元節の原型が形作られた。」
とある。そして日本では、
「日本では、この「盂蘭盆会」を「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などとよんで、今日も広く行なわれている。この時に祖霊に供物を捧げる習俗が、いわゆる現代に伝わる「お中元」である。
古くは推古天皇14年(606年)4月に、毎年4月8日と7月15日に斎を設けるとあるが、これが盂蘭盆会を指すものかは確証がない。
斉明天皇3年(657年)には、須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記され、同5年7月15日(659年8月8日)には京内諸寺で『盂蘭盆経』を講じ七世の父母を報謝させたと記録されている。後に聖武天皇の天平5年(733年)7月には、大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中の恒例の仏事となって毎年7月14日に開催し、盂蘭盆供養、盂蘭盆供とよんだ。」
とある。阿倍仲麻呂は中国で本場の盂蘭盆会を見ていたのだろう。
支考もこの遠い長崎の地でお盆を迎え、美濃や伊勢とは違う、多分に中国の影響の強い行事を見て、阿倍仲麻呂のことに思いを馳せたのだろう。
法性院はどこにあるのかよくわからない。このお寺の欄干で月を見るのだから、浦上川の西側になるのか。川の向こう側に「墓所とかや」というから墓所かどうかはわからないが、松の木に数えきれないほどの燈籠が掛けられているのが見える。
支考の故郷の方では各家で切子灯籠や折掛け灯籠を立てていたから、この光景はひときわ目を引くものだっただろう。
咲みだす山路の菊をとうろかな 支考
山路の菊のように燈籠が咲き乱れている。
「十六日
今宵又なにがし鞍風にいざなはれて、いざよひのかげに小船を浮たれば、かの數千の燈籠、そのひかり水面につらなる。
いさり火にかよひて峯のとうろかな
影照院
蕎麥に又そめかはりけん山畠」
鞍風は元禄十二年刊朱拙編の『けふの昔』に、
松蔭もさらえあけたり冬の月 くら風
の句がある。『西華集』でも二番目の表八句の発句、
燈籠や此松はよき釣所 鞍風
を詠んでいる。前日にあるように、燈籠は松の木の間に掛け渡す。
この日はその数千の燈籠を小船に浮かべて流す、いわゆる精霊流しが行われ、その光が水面に連なる。
いさり火にかよひて峯のとうろかな 支考
昨日の峯の燈籠が、今日は漁火のようだ。
影照院
蕎麥に又そめかはりけん山畠 支考
影照院というと大音字に旧影照院アーチ門があるが、かつてここに影照院があったのか。山には蕎麦畑があるが、まだ収穫期ではない。そのうち蕎麦に染替るのだろうか、と詠む。
「十七日
明日はわかれむといふ今宵、人々につれだちて諏訪の神にまうづ。此みやしろは山の翠徴におはして、石欄三段にして百歩ばかり、宵闇の月かげほのわたりて、宮前の吟望いふばかりなし。
一は闇二は月かけの華表かな 支考
山の端を替て月見ん諏訪の馬場 卯七
山の端を門にうつすや諏訪の月 素行
木曾ならば蕎麥切ころやすわの月 雲鈴
たふとさを京でかたるもすわの月 去来」
長崎の諏訪神社は鎮西大社諏訪神社とも呼ばれている。ウィキペディアに「正保4年(1641年)に幕府より現在地に社地を寄進され、慶安4年(1651年)に遷座した。」とあるから、支考が来た時は既に現在の位置にあった。
長崎でともに過ごした人たちとみんなで最後にここを訪れ、参拝した。
日が沈み、宵闇になり、やがて月が登る。十七夜は立待月ともいうが、みんなで月明かりが射すのを立って待ってたのだろうか。
名残を惜しみつつ、それぞれ一句。
一は闇二は月かけの華表かな 支考
華表は「とりゐ(鳥居)」と読む。
それはそのまんまで、日が沈んで先ずは闇、次にやや欠けた月が鳥居の方から登る、と詠む。支考ら一行がいた場所は長い石壇の上の大門の前だったのだろう。下に見おろす鳥居の向こうから月が登る。
山の端を替て月見ん諏訪の馬場 卯七
諏訪の馬場に場所を変えてもう一度月を見よう。長い石壇を下りて馬場に行けば、もう一度月の昇るのが見える。
山の端を門にうつすや諏訪の月 素行
これは門の上の方から徐々に月の光が射し、上からゆっくりと宵闇の中に門が浮かび上がってくるということだろう。
木曾ならば蕎麥切ころやすわの月 雲鈴
旅人の雲鈴だから、信州の諏訪大社だったら新蕎麦の頃だろうな、と思いを馳せる。
たふとさを京でかたるもすわの月 去来
今日のこの月を見たことは京でも語ることにしよう。去来もまた支考とは別ルートで京へ帰ることになる。
「十八日
筑後国
柳川」
これだけの記述しかないが、陸路で長崎街道を行ったとすると大村、嬉野、武雄を通って佐賀へ抜けるので柳川は通らない。おそらく海路を使ったのだろう。薩摩街道も瀬高から羽犬塚へと柳川からは一里ほど東側を通る。柳川に門人がいたなら、道をそれて訪ねてくることもあるが、ここには門人を尋ねたことも記されてない。
「廿日
久留米
此日西与亭にいたる。亭のまへに川あり。さるは古歌にも詠じたる一夜川にて侍るよし、あるじのかたり申されしを、
名月はふたつこそあれ一よ川」
柳川から久留米までは柳川街道だろう。田中道とも呼ばれる。今の西鉄の線路はこの道に沿って走っている。
西与は元禄十二年刊朱拙編の『けふの昔』に、
湖に行水すつる月夜哉 西與
の句がある。また元禄九年刊路通編の『桃舐集』に、
海の上にはるばる来ぬる胡蝶哉 西与
の句がある。
亭の前の川は筑後川か。
そのままに後の世もしらず一夜川
渡るや何の夢路なるらむ
藤原家良(夫木抄)
たのましななれし名残の一夜川
枕にさわく湊ありとも
藤原基家(夫木抄)
など古くは「ひとよ川」の名で歌に詠まれている。
そこで一句。
名月はふたつこそあれ一よ川 支考
まだ名月には早い文月の二十日だが、今夜の一夜川には二十日の月が照らしている。「一夜」というけど名月は八月の十五夜と九月の十三夜の二つあってほしい。
久留米には二泊する。その意味でも一夜川が二夜になった。
「廿二日
筑前国
この日宰府にいたる。久留米にありし時、日田の里仙きたる。是も此地にいざなひ、この天満宮に詣しこの時の風雅のまことをぞいのり奉りける。かくて連歌堂に宿してわがこゝろ猶あかず。曉の月に又詣し侍りて、俳諧の腸をかたむけ侍るに、機感たゞ胸にあつまりて、終に奉納の句なし。」
日田の里仙が久留米にやってきて、その案内で大宰府まで行く。里仙というと、里仙亭の南に香爐庵があり、香爐庵記を書いたのは、六月十二日のことだった。
薩摩街道で山家(やまえ)宿に出て、日田街道で大宰府へというルートであろう。山家宿は長崎から門司へゆく長崎街道も通っている。
大宰府に詣で連歌堂に宿す。大宰府も今は受験生の来るところだが、かつては連歌師にとっても俳諧師にとっても聖地で、そのため宿泊のできる連歌堂があったのだろう。当時は本地垂迹で安楽寺が大宰府天満宮に併設されていた。
古くは宗祇が『筑紫道記』の旅でここを訪れているし、宗因も寛文三年(一六六四年)にここを訪れている。
芭蕉も訪れることのできなかったこの聖地に立てたことに感極まったのか、奉納の句は終にできなかった。
「廿四日
博多
此地に甫扇をとぶらふ。この庵は箱崎につゞきて、世の柱ところもつねにはあらぬに、かくてもあるべき所かなと、余所ながらまづおもひやられし。
松原の葛とよまれし住ゐかな」
甫扇は「晡扇」という字で『西華集』にある。表八句の発句、
秋風の渡る葉かけや瓜の皺 晡扇
や、また、
目一はい正月したる野梅かな 晡扇
菅笠の推も簸習ふ山路かな 同
の句がある。前年の元禄十年には『染川集』を編纂している。甫扇、晡扇、哺扇、哺川は同一人物で、昔の人がいかに漢字に頓着しなかったかが分かる。
『梟日記』でも『西華集』でも博多と福岡は区別されている。この二つの区別はあいまいなところも多いが、少なくとも支考が来た時にははっきりした区別があったものと思われる。ウィキペディアの博多の所には、
「狭義として、戦国時代には自治都市、江戸時代には町人の町として扱われた領域を限定して博多と呼ぶことがある。地理的には博多区北西部の那珂川と御笠川に挟まれた区域である。」
とあり、
「博多部に対して、那珂川以西の旧城下町を福岡部(ふくおかぶ)とし、この両者を総称して福博(ふくはく)と呼ぶことにより、博多部の独自性に配慮して福岡市中心部を表現することがある。」
とあるところから、支考も那珂川以東を博多、那珂川以西を福岡と認識していたのではないかと思う。
甫扇の庵がこの地区にあったとすれば御笠川のむこうはすぐ筥崎宮になる。
松原の葛とよまれし住ゐかな 支考
箱崎の筥崎宮周辺には箱崎松原という地名も残っていて、かつて筥崎宮は松原に囲まれていたのだろう。三笠川の西側も松原が続いていて甫扇の庵の所まで広がり、甫扇の庵はその箱崎の松原にかかる葛のようなものだと晡扇が自称していたのだろう。
「廿五日
此日一知亭にまねかる。むかし大貳ノ高遠この地にきたりて菊の歌よみけん錬酒は、今の俳諧なるを。
ねり酒にやぶ入せばや菊の宿」
一知は『西華集』に、
河骨の花に夕日や水の泡 一知
落栗に追付かたし下り坂 同
の句がある。
大貳ノ高遠は藤原高遠でウィキペディアに、
「藤原 高遠(ふじわら の たかとお)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家小野宮流、参議・藤原斉敏の子。官位は正三位・大宰大弐。中古三十六歌仙の一人。」
「寛弘元年(1004年)大宰大弐に任ぜられ九州に下り、翌寛弘2年(1005年)には任国へ下向した労により正三位に叙せられる。寛弘6年(1009年)筑前守・藤原文信に訴えられ、大宰大弐の職を停められて帰洛。」
とある。「菊の歌よみけん錬酒」は不明。今の博多練酒は室町中期のものだといい、特に太宰大貳高遠に結び付けられているものではない。日文研のデータベースの作者検索でも太宰大貳高遠の名前がなかった。
ねり酒にやぶ入せばや菊の宿 支考
今となっては意味不明の句となってしまった。
「廿六日
此日昌尚亭にまねかる。此あるじは落柿舎の去來いとこになむおはせば、そのこゝろをおもひ出侍りて、
さびしさの嵯峨より出たる熟柿哉」
昌尚は去来・卯七編の寶永元年刊『渡鳥集』に、
乗懸の見廻し寒しつるの聲 昌尚
の句がある。
さびしさの嵯峨より出たる熟柿哉 支考
嵯峨の落柿舎去来の従弟でありながら、長崎の卯七や素行の周辺のにぎわににくらべて、博多の昌尚はさびしげだ。
この間のものと思われる『西華集』の表八句二つ。晡扇、一知、昌尚の名前もある。
博多
朝顔に留守をさせてや鉢ひらき 舎鷗
夜雨に月の残る深草 昌尚
鶉にも何にもならぬ恋をして 支考
うきを身につむ奉公の金 雲鈴
菖蒲湯に明日の節句をささめかし 正風
約束したる物とりに来る 一知
じだらくに人の傘指まはり 一風
團子であそぶ庚申の宵 和水
仝
秋風の渡る葉かけや瓜の皺 晡扇
雀ちらはふ里の粟稗 舎六
朝月に愛宕のお札くばらせて 支考
降なともいふ照なともいふ 自笑
板に挽く堤の松を伐たをし 東有
旅せぬ人の村でとし寄 自來
此夏を暮しかねたる身のふとり 萬袋
夜のふくるほどはてぬさかもり 雲鈴
「廿七日
福岡
この日片雲堂にいたる。堂上に眸をさけば、箱崎の松原は東につらなりて、唐泊野古の浦浪もこゝもとちかくうちよせて、もみぢやまの玉がき西にかゞやきたり。さればこのところ、むかしはもろこしぶねも入つどひたりときけば、今の長崎のやうにや侍るけん。五里の濱といふ名は、此あたりすべて一觀の中なるべし。
もろこしの菊の花さく五里の濱
城外の鐘きこゆらんもみぢやま
今宵は一日の俳諧に草臥て、宵寐の宿からんといふに、梅川のあるじぞ心ありける。その夜は殊に雨晴て風もひやゝかに、浪の音も障子のあなたなれば、早秋の苦熱も一夜にわすれぬべし。
夜着の香もうれしき秌の宵寐哉」
那珂川を渡れば福岡になる。片雲堂はどういうお堂なのか、ここに登れば東に箱崎の松原が連なり、博多港が見える。かつては中国との貿易で栄えた港も、この時代は海外との貿易はなくなり、国内の廻船が立ち寄る場所になっていた。
「もみぢやまの玉がき」は紅葉八幡宮で、ウィキペディアに、
「江戸時代には、橋本村で生まれ育った福岡3代藩主・黒田光之の産土神として橋本の八幡宮は藩より格別の崇敬を受けた。寛文6年(1666年)8月、橋本村より西新百松原の地へ遷宮し社殿の造営し藩内有数の大社となった。」
とある。
五里の浜は今は埋め立てでなくなったのだろうか。
もろこしの菊の花さく五里の濱 支考
菊は「キク」が音読みで訓読みがないように、元々外来の花だった。栽培種の菊は唐の時代に盛んになったもので、もともと菊は唐(もろこし)のものだったといえよう。皇室の菊の紋章も鎌倉時代の後鳥羽上皇の頃からだという。
城外の鐘きこゆらんもみぢやま 支考
福岡には黒田藩の福岡城があったが天守閣はなかった。片雲堂から眺めた時も、福岡城よりもきらびやかな紅葉八幡宮の方が目に留まったのだろう。
この日は俳諧興行があったのか、『西華集』には表八句が二つ記されている。
福岡
一寐入して面白し秋の蚊帳 東背
南に月のさし廻る窓 酉水
竹伐によし野の嵐吹あれて 支考
さびしき人の見えわたりけり 桂舟
膳組はひしほの煎物柿鱠 稱求
いつの用にか手鑓かけ置 雲鈴
照あかる里ははたはた麥ほこり 野芋
ちいさい宮の松二三本 元水
仝
三日月もとぼしたらずや道一里 素計
風吹すかす早稲の畔刈 連山
盆に出る村の乞食か綾をりて 支考
果ては泣あふ子どもいさかひ 雲鈴
鶏の追あけらるる屋根のうへ 江立
道具に雪のかかる煤はき 梅川
何時かしれぬ日和の終暮て 不及
鹽した魚に猫の気づかひ 唐春
梅川の主の句は二番目の六句目にある。博多のメンバーと被ってないところを見ると、近いけどやはり博多と福岡は別だったのだろう。
梅川亭は海に近かったか、夜は海から涼しい風が吹いてきて、しばし残暑を忘れることとなった。
夜着の香もうれしき秌の宵寐哉 支考
「廿八日
此前日洛の助叟きたる。共に和風のぬしにまねかれて市中の別墅にいたる。この日の殘暑たえがたきに暮に歸る。道すがらの江村の暮色よのつねならぬに、礒山に夕日のかゝりたるけしきを、
山は秌夕日の雲ややすあふき 助叟
鮠釣
はぜ釣や角前髪の上手がほ 支考
この前髪はあな一の時はにくけれど、一藝
に名あれば世に又捨がたし。
今宵菊虎亭にまねかる。亭前に手燭をかゝぐるに、蘇鐵ありて、白妙をしきわたしたる庭ひろし。
爐次下駄に雪の音あり萩の露」
助叟は『西華集』に「長崎文通」とあって、
五月雨の雲の一重や宵の星 助叟
山畑の崩て寒し松の秋 同
の二句が載っている。長崎にいた頃から連絡を取っていて、福岡で落ち合ったのだろう。
助叟というと元禄九年には桃隣の「舞都遲登理」の旅にフルで同行している旅人だ。
和風はよくわからないが、市中の別墅に行き、片雲堂に帰ったのだろうか。途中海辺を通り、瀟湘八景の「漁村夕照」や「遠浦帰帆」を思わせるような風景を見ている。
山は秌夕日の雲ややすあふき 助叟
雲に放射状の光が射し、扇のように見えたのだろう。今でいう旭日旗、いや夕日だから落日旗(連合軍の旗)か。
鮠釣
はぜ釣や角前髪の上手がほ 支考
この前髪はあな一の時はにくけれど、一藝
に名あれば世に又捨がたし。
「鮠」は今は「ハヤ」だが、昔はこれで「ハゼ」と読んだか。
「角前髪(すみまえがみ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「角前髪」の解説」に、
「① 江戸時代、一四歳になった少年が前髪を立てておきながら、額のはえぎわ通りに髪を剃り、額を角ばらせた髪がた。また、そのような髪がたをした少年。すんま。半元服(はんげんぷく)。すみがみ。
※浮世草子・本朝二十不孝(1686)四「万太郎も十六に成て角前髪(スミマヘカミ)の采体(とりなり)も是をうらやみぬ」
とある。「角入髪(すみいれがみ)」ともいう。貞享三年の「冬景や」の巻二十五句目に、
水仙ひらけ納豆きる音
片里の庄屋のむすこ角入て 濁子
の句がある。
この前髪の「あな一」の時は憎いというのは「穴一」という遊びの時のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「穴一」の解説」に、
「〘名〙 子供の遊びの一種。直径一〇センチメートルくらいの穴を掘り、その前一メートルほどの所に一線を引き、そこに立ってムクロジ、ゼゼガイ、小石、木の実などを投げる。穴に入った方が勝ちとなるが、一つでも入らないのがあったら、他のムクロジ、ゼゼガイなどをぶつけて、当てたほうが勝ちとなる。銭、穴一銭を用いるようになって、大人のばくちに近くなった。後には、地面に一メートル程の間を置いて二線を引き、一線上にゼゼガイなどをいくつか置いて他の一線の外からゼゼガイなど一つを投げて当たったほうを勝ちとする遊びをいうようになった(随筆・守貞漫稿(1837‐53))。あなうち。
※俳諧・天満千句(1676)二「高札書て入捨にして〈利方〉 穴一の一文勝負なりとても〈直成〉」
とある。きっと支考はこれが苦手で年長の角前髪にそうとう巻き上げられたのではないか。ハゼを釣り上げたときの角前髪のドヤ顔に、そんなことも思い出したのだろう。
宵には菊虎亭に招かれた。白砂を敷き詰めた綺麗な庭に一句。
爐次下駄に雪の音あり萩の露 支考
「廿九日
この日極樂寺にいたる。このほどは世情の捨がたき中にたゞよひて、風月の高情も身をくるしむるわざとやなりなむ。さるを野芋の何がしにたすけられて、人間半日の閑を得るに似たり。極樂の二字何かうたがひ侍らん。
寺は我古巢なりけり椶櫚の秌」
極楽寺は「お寺めぐりの友」というサイトによれば、
「当時(元禄元年1688~宝永6年1709)は「鍛治町の東」にあり、このためこの町は「極楽寺町ごくらくじのちょう」と言われていた。」
とある。今の天神四丁目の辺りだという。今は南区若久にある。
寺は我古巢なりけり椶櫚の秌 支考
支考はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「支考」の解説」に、「幼時、郷里の禅寺に入ったが、19歳で下山して遊歴」とある。お寺育ちなのでお寺は故郷のようなものだったのだろう。椶櫚(しゅろ)は初夏に黄色い大きな花が咲き、秋には実をつける。漢方薬に用いる。
「八月朔日
此日何となく病つき侍りて、その夜はおそろしきねちにくるしむ。この寺の和尚もその外の人々もおどろきあへりけるに、助叟・里仙などまして雲鈴はいねずありける。さらでも心ほそきたびねなるを、かく物もおぼえずなり行らむ、世のさまこそあやしき物なれ。生の松原もこのあたりちかければ、生ては歸らんなど人のいへるをきけば、
秌風の枕にちかしいきの松
身の秌を何たのむらん生の松
二日・三日もかくわづらひて侍るが、藥のしるしだにあらぬを、おなじかたにまもられたらんは、人にあかるゝならひもやあらんと、うきが中のこゝろづかひせらるゝも、捨がたき世のさま成べし。明日は黒崎のかたにおもむかむといへば、此ほどよりゐたる人々も、わかれわかれになりて、今宵は物にも似ぬ名殘にぞありける。」
元禄十一年の七月は二十九日までなので、これは極楽寺での二日目になる。旅の疲れからか暑さが続いたせいもあって、支考は病気になる。「おそろしきねち」は「恐ろしき熱」。極楽寺の和尚や居合わせた助叟・里仙、それにともに旅をしてきた雲鈴に見守られながら心細い日々を送ることになる。
「生(いき)の松原」はコトバンクの「デジタル大辞泉プラス「生の松原」の解説」に、
「福岡県福岡市西区、十郎川河口部から西へ延びる博多湾に面した海岸沿いに面積約40ヘクタールにわたって広がるクロマツを主体とした松林。神功皇后が三韓出兵の際に植えた松が起源と伝わる。「日本の白砂青松100選」にも選定された景勝地。」
とある。
今日までは生の松原生きたれど
わが身の憂さに嘆きてぞ経る
藤原後生が女(拾遺集)
昔見し生の松原こと問とはば
忘れぬ人も有りと答へよ
橘倚平(拾遺集)
などの歌にも詠まれている。生の松原というくらいだから何としてでも生きて帰らねばと思い、
秌風の枕にちかしいきの松 支考
身の秌を何たのむらん生の松 同
二三日極楽寺に留まり、同じ人に見守られて同じ薬を飲み続けても効いている風もなく、明日は黒崎へ向かうことにして、雲鈴以外とは別れることになる。
「四日
福岡を出て黒崎におもむく。道のほど十四五里もあるべし。箱崎の松原を過るほどは、かの松風も身にしむばかり、波のたちゐもいとくるしきに、心つくしのたびねとは、此時ぞ思ひあはせられける。その夜すがらにぞ有ける。」
黒崎は北九州市にあり、今は干拓で小さくなってしまったが、かつての洞海湾は大きな内海だったと思われる。ここでようやく長崎街道に合流する。長崎街道は山家(やまえ)宿から飯塚を通って黒崎へと抜ける。福岡から黒崎に出る場合は唐津街道になる。
福岡の生の松原から那珂川を渡って博多に入り、御笠川を渡ると箱崎の松原で筥崎宮がある。参拝したのかどうかはわからない。病の穢れをはばかって通り過ぎたのかもしれない。松原と海は心に留め、途中一泊することになる。
「五日
黒崎、沙明亭にいたる。けふは殊さらに雨に降れ、駕籠にゆられて、人こゝちもあらずまどひふして、あるじだにしらぬやどりなりしが、次の朝は心地つきて侍り。されもはかるまじき世や。三とせばかりまちかけたる人のかくわづらひていりき給へるを、かほだに見ずやあらんと、我友水颯などいひていにけるといふをきけば、あるじの沙明と雲鈴にぞありける。さりや吾旅だちし日より、この所に此人々のありとたのみたるは、かゝるあはれを見られんと云物のおしえにや侍らん。一保・帆柱などいへる人もおはして、年のほどもやゝたのむべくぞ思はれける。そのほども七日ばかりありてよからず。」
翌日は雨で、駕籠に乗ってようやく黒崎の沙明亭に到着する。この日は病状が悪化し、あまり記憶がないようだ。
翌日には多少良くなり、黒崎の水颯、一保、帆柱などが集まってきたが、水颯は三年待ってようやく会えたのにと残念がって帰って行った。
主の沙明は元禄十二年刊朱拙編の『けふの昔』に、
早物に残るあつさやてらてら穂 沙明
雪雲のとり放したる月夜かな 同
などの句がある。水颯は、
草あつし蚓のおよぐ馬の尿 水颯
早起や花またくらき雉子の聲 同
帆柱は、
朝鷹の挑燈で出るたんぼかな 帆柱
の句がある。
一保は去来・卯七編の寶永元年刊『渡鳥集』に、
一日の息つきながす青田哉 一保
の句がある。
ここで十日まで過ごすことになる。到着日と旅立つ日を合わせればちょうど七日になる。
「十一日
黒崎の人々にいたはられて、小倉の旅店に病床をうつす。この地に醫師を求むるに、西鷗老人ありて名望やゝ高し。その術は扁倉がきねの人を見るに殊ならずといへば、さしも此國のたのもし人にぞおはしける。藥を用る事日あらねど、さみだれの笹葉に日のさしたるやうに心地はれて覺ゆ。旅店のあるじは、なにがし徳左とかや、その妻もいとあはれがりて、ともに親のやうに侍るが、たびねに鬼もなき世のなさけなるべし。」
黒崎から小倉はそう遠くない。黒崎の人たちも小倉まで送ってきてくれたのだろう、黒崎で一週間休養したにしても病気が長引いている。
小倉で西鷗という医者に診てもらう。扁倉は『史記』の「扁鵲倉公列伝」に登場する扁鵲と倉公という二人の医者のことであろう。この二人に仕えた人と異ならずと言われれば頼もしい。薬もすぐに効いてきて「五月雨の笹葉に日の射したるように」回復する。旅店の人にもいろいろ親身になってくれて、まさに渡る世間に鬼はなしという所だった。
「十五日
今宵は名月の殊に名にし逢ふ菊の長濱も、此あたりちかければ、いかにさゞめき渡らんに、枕だにはなれがたく、死生もしるまじき身のほどおもひやらば泪も落ぬべし。されば福岡にやみつき侍りて、生の松原の發句おもひよせたるに、秌風の枕にちかしとやせん、何たのむらん生の松とやさだむべき。いづれも俳諧の趣向にてはあるまじき物をと、その夜その次の夜はおもひけるが、そのゝちははてしもあらで、このほどなしおきたる句ども、其外のことば書までも、それを思ひ是をおもふほどに、心しづみて水をわたり、夢あれては山にのぼる。たゞに一糸一草をたづねあるきて、魂くだけんとして胸をいたましむ。我はなどかくあさましきや。花を見、鳥を聞も世にある耳目のなぐさみならんに、さるは身をくるしむるかぜにぞ侍れ。いざや我こゝろ俳諧を思ふまじとおもへば、おもふ心なをあらがひて、十日ばかりはとにくるしみ、かくにくるしむ。今はたゞわすれもしつべし。是は人のおそるべきをのれ執念なるぞや。
今宵はそも人ごゝろづきて、此世の月も見ばやと、障子明たるかたを、けしきばかり見やりたれば、空は薄ぎりたちて月のいろもあかく、紅さしたるやうにおぼえられしは、わがねちのはなはだしきたがひにやあらん。」
「菊の長浜」は六月三日の大橋柳浦亭での、
又越む菊の長坂秌ちかし
あまの河によみたる菊の高濱も、此あたり
なるべし。
の「菊の高濱」のことで、
豊国の企救の長浜行き暮らし
日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ
よみ人しらず(夫木抄)
よそにのみきくの長浜ながらへて
心つくしにこひやわたらむ
藤原為家(夫木抄)
などの歌がある。菊の高浜は、
長月のきくの高浜月影に
うつろふ波をはなかとそ見る
藤原行家(夫木抄)
の歌がある。
福岡で病気になり、死の恐怖と戦ってきた後だけに、菊の高浜が三途の川のように見えたのだろう。「秌風の枕にちかし」の句は死の風の枕に近いというもので、そこから「何たのむらん生の松」と、何とか生き延びたいという気持ちにつながるものだった。
病気で死にかけているのに発句を案じている自分に、自らの煩悩と執念を感じるが、おそらくこれを書いたときに芭蕉が最後まで「清瀧や浪にちりなき夏の月」の「白菊」の句との類似が気になって、
清瀧や波にちり込靑松葉 芭蕉
の句に直したことを思い起こしたのではないかと思う。病気になって、あの時の芭蕉の気持ちが多少なりともわかったのかもしれない。
生の松の句を案じた後、しばらく句を案じるのをやめようとして、黒崎では門人をがっかりさせてしまったのだろう。
そんなことを思いながら月を見上げると、月は薄霧が掛かり赤く見える。熱があるからではあるまいが、そう思えてしまう。
「十六日
黒崎・大橋の人々、ましてこの所もあまた行かひつどひて、世にもにぎはしきやみどころなりけり。此日殊さら伊勢のたよりなど人の傳へきたりけるに、さる事のうれしき文にてぞ侍る。」
黒崎は二里くらいだが、大橋(行橋)はその三倍くらいの距離があるのではないかと思う。それでも支考が小倉に来て病気だというので見舞いに来てくれた。椎田で朱拙と怒風が黒崎から駆けつけてくれたことも思い起こされる。
伊勢の頼りを持ってきてくれた人もいて、俳諧師のネットワークは尊いものだった。
「十八日 雨天
西鷗老人、藥園の百詠をよび、唐賢稱美の詩集などたづさえきたる。さるは病床に目をよろこばしむる成べし。」
西鷗は漢詩を得意としていたようで、これまで自分の詠んだ薬園の百詠と、唐の詩人も称美するような詩集を携えてやってきた。病床の暇つぶしにはなる。
「廿一日 晴天
今日は夜着もほし枕もかたづけて、坐敷はきたるなど心地殊更によし。此暮日田の人々よりたよりせらる。」
ようやく治ったか、寝床をかたづける。
「廿五日
此日駕籠にたすけられて、ふたゝび黒崎に歸る。是は水颯・沙明など枕がみになげき申されし、はじめの心ざしをつぐはんとなり。
駕籠の戸に山まづうれし鵙の聲
沙明亭
生て世に菜汁菊の香目に月よ
水颯亭
脇息に木兎一羽秌さむし
一保庵
何とやら心も髭に老の秌
右三句は
病後の吟也。
帆柱亭
ひだるさを兒の言の夜さむかな」
前来た時は病気で寝込んでしまって何もできなかったということで、一度黒崎に戻る。病み上がりで無理をせず、駕籠に乗ったようだ。
駕籠の戸に山まづうれし鵙の聲 支考
駕籠に乗ったとはいえ外に出れたのがうれしかったのだろう。黒崎では三十日までのゆっくりとした滞在になる。
沙明亭
生て世に菜汁菊の香目に月よ 支考
とりあえず生きてて良かった。まだ病み上がりで朝飯は菜汁しか食えないが、菊の香に有明の月も見ることができる。
水颯亭
脇息に木兎一羽秌さむし 支考
脇息(けふそく)は肘を置いて寄りかかるための台で、まだ本調子ではないか。庭に一羽のミミズクがやってくる。梟の支考にミミズクが。
一保庵
何とやら心も髭に老の秌 支考
寝込んでる間に無精髭が伸び放題になっていたか。体だけでなく心にも髭が生えたみたいに老いを感じる。支考は寛文五年(一六六五年)生まれで、四十三。当時はとっくに初老と呼ばれる年だった。
この三句は病後というから、次の一句は前回来た時の病中の吟か。
帆柱亭
ひだるさを兒の言の夜さむかな 支考
「ひだるさ」は空腹のこと。言は「ことは」と読む。
『西華集』の黒崎での表八句は以下の通り。
黒崎
松虫の啼夜は松のにほひ哉 沙明
何やら稲の白き月影 琴吹
此秋を良暹法師こまられて 支考
机の上に状の書さし 雲鈴
風さはぐ日和あがりの小鳥ども 帆柱
夜着見せかけるはたご屋の春 水颯
石部ほど兀た所も華盛り 一保
どちらむきても青麦の中 柳生
「三十日
この日黒崎をわかれて、小倉におもむく。人のわかれ・世の名残は行脚のおどろくべきにはあらねど、今の別のかなしきは、病後のたづきなきこゝろにや侍らん。
菊𦵒にいつ習ひてや袖の露」
旅はその場所その場所で別れがあるが、黒崎は長く病に伏せり、小倉の医者も紹介してもらい、その間多くの人が見舞いに来て世話をしてくれた。それだけに別れも辛いものがある。
菊𦵒にいつ習ひてや袖の露 支考
「𦵒」は「萩」に同じ。
「九月朔日
有觜亭にいたる。この亭はみな月のはじめならん、一夜のかりねにわかれ侍しが、行めぐりたる九國のさまもおもひやられて、
琵琶形にあるきて秌も九月哉
此家の後に閑居あり。一枝とかいへる額をうちて、こなたには棚つり、へつゐもふたつばかりありて、窻外に山を見わたせば、松の嵐もつとふばかり、中々おかしき住ゐなりしが、病後なを藥をやめがたく、雲鈴にこの所帶をわたして、餅もやき茶も煮つべし。
藥鍋相手にとるやきりぎりす 雲鈴
元翠・柳浦など水颯・沙明も又つどひ來て、夜をせめ日をつくす。このあそび三四日ばかりなるべし。
虎もゐぬ和田酒盛やあきのくれ
唐辛といふ
題にあたりて
鑓持の秌や更行唐がらし」
有觜亭は六月一日、九州に入った日に一泊し、翌日には大橋(行橋)の元翠亭に向かっている。
支考の九州での軌跡は、小倉から中津街道で南下し、日田や阿蘇の通って熊本へ至る。ここまでが楽器の琵琶のボディの下の部分で、そこから佐敷までが琵琶のネックの部分になる。そこから長崎は琵琶のマシンヘッドの部分の直角に折れ曲がった部分で、そこから海路で熊本に近い柳川に戻り、北へ行って博多・福岡に出て最後に唐津街道で小倉に戻ってきたから、おおむね楽器の琵琶の形になる。
琵琶形にあるきて秌も九月哉 支考
六月一日に始まった旅は九月一日、三か月かけて出発点に戻ってきた。
有觜亭の裏に閑居のための離れがあって「一枝」という額が掛かっている。ここには棚と厨房用の竈が二つあり、そこの窓から山も見えれば松の嵐の音も聞こえてくる。
まだ薬を飲み続けていた支考は、雲鈴をそちらに詰めさせて薬だけでなく餅も焼き、唐茶も煮出してもらった。
藥鍋相手にとるやきりぎりす 雲鈴
薬を煎じていると、コオロギの声がする。
大橋からは元翠・柳浦が、黒崎からは水颯・沙明もやってきて、九州での最後の日々を楽しむことになる。
虎もゐぬ和田酒盛やあきのくれ 支考
「和田酒盛」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「和田酒盛」の解説」に、
「幸若舞曲の曲名。作者・成立未詳。上演記録の初見は《言継卿記》天文15年(1546)の条。和田義盛は,相模国山下宿河原(現,神奈川県平塚市山下付近)の長者のもとで,3昼夜に及ぶ酒宴を張った。曾我十郎祐成を想う遊君虎御前は,義盛の再三の招きにも応じない。祐成の諫言もあり,しぶしぶ宴席に出た虎御前は,義盛に招かれて座に連なっていた祐成に思差し(おもいざし)(特に相手をきめて,盃のやりとりをすること)をし,義盛の不興を買い,その場が険悪になった。」
とある。虎御前もいず、秋の暮のようにどこか寂し気な宴ではあるが、精いっぱい楽しもうということか。
唐辛といふ
題にあたりて
鑓持の秌や更行唐がらし 支考
黒田節にも謡われた日本号という名槍を思い起こしてのものだろう。この時代黒田節があったかどうかはわからないが、貝原益軒の『黒田家臣伝』の逸話が元になっているので、この時代にも広く知られていたと思われる。
唐辛子の実る姿は天に向かって槍を振り上げる姿にも似ていて天井守(てんじょうまもり)とも呼ばれている。
酒宴も盛り上がったようだが、表八句もここで巻かれている。
小倉
松笠や背中にひとつ菊の花 有觜
ススキに月のそよぐ雪隠 松深
野屋敷に米つく秋の夜は更て 支考
金で寐られぬ僧の下帯 雲鈴
洗濯に淀の男のいにたがり 不繋
蕗にかりきをうりありく朝 玉龍
卯の花にほの字もきかす郭公 松深
いつもさびしき猿丸のかほ 有觜
「五日
玄全亭にいたる。是は西鷗老人の高弟になむおはしけるが、師老をまねぎて我病後をも賀せんとなるべし。鷗老人かねて送行の詩を給りしを、此日藥園百詠の感をのべて、かつはこの度の恩をむくひ奉るとや。
藥園の花にかりねや秌の蝶」
五日には長いことお世話になった命の恩人でもある西鷗にお礼をということで、高弟の玄全の亭に行く。ここに西鷗をまねくと、西鷗から送行の詩を頂くことになる。十八日に貰った藥園百詠の感想を述べ、支考もまた一句、
藥園の花にかりねや秌の蝶 支考
藥園の花は様々な花が咲き乱れる花野で、楽園をも連想させる。そこに仮寝して、これでお別れします。それは初老の秋の蝶のようなものです。
「七日
此日下の關にわたる。流枝亭に會して、おのおの病床つゝがなき事を賀せらる。
しなでこそ都のあきも山づゞき
泊船津
船頭も米つく磯のもみぢかな
壇浦
此浦は平家の古戰場にして、歌人詩僧もむなしく過べからず。さればやよひの花ちりぢりに、金帶玉冠もいたづらに、千尋の底にしづめられしむかしのありさま、今なを見るばかり、あはれふかし。
鳥邊野はのがれずやこの浦の秌
世につたふ、この浦の蟹は、平家の人々の魂魄なりと。誠にその面人にことならず。をのをの甲冑を帶して、あるいは眉尻さかしく髭生ひのぼりていかれる姿、さらに修羅のくるしみをはなるゝ時なし。
秌の野の花ともさかで平家蟹
阿彌陀寺といふ寺は、天皇・二位どのゝ御影より一門の畵像をかきつらねて、次の一間は西海漂泊のありさま、入水の名殘に筆をとゞめたりと、この寺の僧の繪とき申されしが、折ふし秌の夕の物がなしきに、人はづかしき泪も落ぬべき也。
屏風にも見しか此繪は秌のくれ
この寺の庭に老木の松ありて、薄墨の名を得たる事は、文字が關を此松の木間より見わたしたるゆへなりと、柳江・流江などかたり申されしに、
薄墨のやつれや松の秌時雨
重陽
簑笠にそむきもはてず今日の菊」
七日に関門海峡を渡り下関に戻る。五月の終わりには「まして此ところ古戰場にして、秌のあはれをこそ見るべけれとて」と後回しにした所を見て回ることになる。
流枝亭は行きにも泊っている。支考編『西華集』には、
身を捨る薮もなければ秋の暮 流枝
大雪は松に音なき寝覚哉 同
の句がある。
支考の病気の噂は下関にも届いていた。行けば回復祝いになる。
しなでこそ都のあきも山づゞき 支考
九州は海を隔てていたが、下関に来た今は畿内とも陸続きになる。
船津はどこだかよくわからない。あるいは舟島(巌流島)のことか。船頭が米を搗くのにこの場所を使っていたようだ。
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘が有名になったのは近代の吉川英治の小説によってだし、この決闘の出典となった『武公伝』や『二天記』も支考の時代よりも後に書かれたものなので、当時の人の話題にはなってなかったと思う。
武蔵というと、延宝の頃の「時節嘸」の巻三十一句目に
うけて流いた太刀風の末
吉岡の松にかかれる雲晴て
という吉岡憲法と宮本武蔵との果し合を詠んだと思われる句がある。
泊船津
船頭も米つく磯のもみぢかな 支考
壇の浦の戦いは当然ながら『平家物語』であまりにも有名な話で、「歌人詩僧もむなしく過べからず」と、ここに来たなら必ず見ていかなくてはならない。
壇の浦の戦いが行われたのは関門海峡から三韓征伐でも知られた干珠満珠の島までの間の海域をいう。支考もこの辺りを船で見て回り、その途中で船津に泊まったのだろう。
沢山の人や宝が沈んだことに思いを馳せ、
鳥邊野はのがれずやこの浦の秌 支考
鳥邊野は京の東側、清水寺の方にあった葬送の地だが、ここでは死は逃れられないという意味で引き合いに出されている。ここで生き残って無事に京に帰った人も、早かれ遅かれ鳥野辺に葬られることになる。死んでも生き残っても結局最後は悲しい浦の秋だ。
支考も病気になって、無事に京に帰ったとしてもいつかはやはり死ぬんだという、そんなこの世の無常を感じていたのだろう。
平家蟹はその甲羅の模様が人の怒った顔ににているというので、海に沈んだ平家の亡霊が乗り移ったと言われてきた。
秌の野の花ともさかで平家蟹 支考
前の鳥野辺の句のイメージと連続していて、無事都に帰って鳥野辺の野の花となって花野を飾ることのできなかった平氏の霊が、ここで平家蟹となったのは無念のことだ、とする。
阿弥陀寺は今の赤間神宮で、元は安徳天皇を祀ったお寺だったが、明治の廃仏毀釈によって神社になった。赤間神宮のホームページの宝物殿の所には、重要文化財土佐光信筆『安徳天皇縁起絵図八幅』、重要美術品『平家一門肖像画十幅』が記されている。東京大学史料編纂所のホームページには、
「江戸時代には、床下に五輪塔がある天皇殿に安徳天皇・平家一門の影が安置され、その隣室の襖絵として『安徳天皇縁起絵』があったようである。阿弥陀寺は明治の廃仏毀釈に際して廃寺となり、御影堂は解体されて安徳天皇陵・安徳天皇社となって、のちに赤間宮(あかまのみや)、さらに赤間神宮となった。御影堂・御陵の位置は、画中の阿弥陀寺境内でいうと、向って左手の樹木が描かれている辺りに相当しようか。御影堂の解体時に、障子絵は現在の掛幅装に改められたといい、第二次世界大戦の戦火を免れて今日まで伝わっている。」
とある。
屏風にも見しか此繪は秌のくれ 支考
支考が見たのはおそらく、今日掛幅装で残っている『安徳天皇縁起絵』ではないかと思う。
寺の庭にあった「薄墨の松」は「日本全国名所巡りの旅」というサイトによると、昭和二十年に戦災で焼失し、今は二代目の松があるという。文和五年(一三五六年)足利尊氏が安徳天皇御廟に参拝し、
いづくより名をあらはさむ薄墨の
松もる月の門司の夕暮
と詠んだと言われている。支考の時代は特に足利尊氏には結びつけられていなかったようだ。
薄墨の松の名の由来が門司関をこの松の木間より見渡したからだと教えてくれた人の名の中に、柳江の名前がある。行きに広島に来た時に尋ねたが会えなかった柳江に、ここに来てやっと会えたようだ。
薄墨のやつれや松の秌時雨 支考
松が薄墨のようにかすれているのを秋の時雨のためだとする。
下関での『西華集』の表八句は以下の通り。流枝が発句で、柳江が脇を付けている。
下関
新敷笠は案山子の参宮哉 流枝
松に日のさす磯の朝月 柳江
此秋の名残を下の關に居て 支考
抱て通れば余所の子を見る 蘆畦
そよめかす菖蒲の風の一しきり 龍水
畳かへにてさつと吸物 嘯雲
うつすりと鷹場の雲に成にけり 琴口
遠寺の鐘に帰る市人 捨砂
壇の浦を一通り見て回り、少なくとも九月九日の重陽までは下関に滞在していた。
重陽
簑笠にそむきもはてず今日の菊
簑笠を着て俗世の習慣にそむいてはみても、重陽の節句は世俗の人と同様に祝う。
芭蕉も最後の重陽は奈良で迎え、重陽に背くかのようにその日大阪へと旅立ったが、それが最後の旅になった。その時の句が日田で獨有に語った、
菊に出て奈良と難波は宵月夜 芭蕉
の句だった。そんなことも思い出したのであろう。
「世情の物に逢て物に感ずる事は、いにしへ猶今にたがふ事なし。我かつ都を出し日より、世の好悪にすゝめられて、その是非にある事二百余日ならん。さるは誰がためにしたしく、誰がためにうとましきや、是を抖擻の鏡とおもはゞ、あだに破草鞋の名はとるまじきに、褒貶一情といふところには、いかで我ちからを得侍らん。菊の隱逸に對して、この心をなげくばかり也。吁此時の風雅のまことあれや。この時の風雅のまことあらざらんや
元祿戊寅之秋九月九日」
世間の人が物に対して感じ取ることというのは昔も今も変わりはしない。まあ、これは今の時代でもいえることだが、どんなに時代が変わろうとも世界中どこへ行こうとも、人間は結局人間なんだということだ。
笑ったり泣いたり繰り返しながら、みんな一生懸命厳しい生存競争の中を生きていて、そこに意味を感じる時もあれば空しさを覚える時もある。
そして、その苦しみを和らげ、遊ぶことに喜びを見出す。結局人の心は「不易」だということだ。
人類の進化の過程でも、クロマニヨン人とネアンデルタール人の違いはクロマニヨン人の方がほんの少し後頭葉の退化が見られ、脳の容積が小さいというところにあったという。これによってクロマニヨン人は警戒心が緩み、遊ぶことで仲間との結束を高め、ネアンデルタール人に勝利したという説もある。
ほんの少し真剣に生きることをやめて遊びを覚えたことで、今の人類は飛躍的な進歩を遂げた。同じような後頭葉の退化はリビアヤマネコが家猫に進化するときのも起きているという。
如月の初めに今回の旅を思い立ってから七か月、二百余日の間旅を続けてきていろいろな人のお世話になってきた。この旅の記に記されているのは概ね良い人ばかりだが、実際は嫌な目にあうことも多々あったのだろう。
「さるは誰がためにしたしく、誰がためにうとましきや」と問うに、それは「抖擻(とそう)」、つまり雑念を払うための鏡であり、雑念を払えば親しきも疎きも結局自分の心次第なんだ。
無駄に草鞋を何足も潰してきたわけではない。毀誉褒貶も結局は同じ人の情から生まれてくるものだ。
菊の花は「隠逸の花」とも呼ばれる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「隠逸の花」の解説」に、
「菊の花。他の草花がしぼんだ頃に咲くさまが、俗世を離れて隠れ住む人のさまに似ているところからいう。
[補注]「周敦頤‐愛蓮説」に「予謂、菊、花之隠逸者也、牡丹、花之富貴者也、蓮、花之君子者也」とある。」
とある。
自分が隠逸をせずに旅を続けているのは、旅をすることで様々な人間の感情に触れることで、結局その根底にある情は一つ、風雅の眞(まこと)あるのみだと知ることができるからだ。
そして最後に読者に問いかける。この『梟日記』に風雅の眞はあっただろうか、風雅の眞はなかったのだろうか。