光源氏というと名前だけを見るといかにも偉大な人物のようですが、おおっぴらに言えないようなことも多く、数々のスキャンダルが後世にまで残ってしまい、いかにも軽い人間であるかのように言い伝えられ、秘密にしていたはずの黒歴史までをも語り継いでしまうのですから、人の噂というのは意地悪なものですね。
だからといって、世間体ばかりを気にしてたり糞真面目に生きていても、味も素っ気もないというもので、あの有名な小説の主人公、交野の少将にも笑われてしまうことでしょう。
まだ源氏の君が中将とかをやってた頃には、内裏の中で過ごすことがほとんどで、妻のいる左大臣の家にはたまに通うだけした。
「人目をしのぶのもぢ摺の乱れ」ではないかと疑う声もありましたが、そのような浮ついた世間によくあるような一時の行きずりの恋などは好まない性格で、たまに、あまりにも一途に思い、心の中で思いつめてしまう癖が災いして、とんでもない絶対やってはいけないような事件もなくはありませんでした。
*
梅雨の長雨の晴れることもない頃、内裏では五月の物忌みが続いて、そうでなくてもいつも内裏に入り浸っている源氏の君なだけに、左大臣の家の方ではどうしようもなくじっと我慢のしどころといったところで、左大臣もいろいろと源氏の君の装束や何かをまたとないものに新調してやりつつ、自分の息子の公達に源氏の君の宿直室である桐壺でのお世話をさせてました。
そのなかでも左大臣と三の宮様との間にできた少将は、いまは中将となり、源氏の君の無二の親友でもあり、遊んだりふざけたり誰よりも心を許し、分け隔てなく振舞いました。
ただ、右大臣がうやうやしく頭を下げていろいろ世話を焼いたりする中将の家は、中将自身にとってもマジにうざい様子で、その実けっこうエロいナンパなやつでした。
中将の実家である左大臣の家でも、自分の部屋をごてごてと飾り立てて、源氏の君が通って来るといつも一緒にくっついて、夜も昼も一緒に漢籍を語り合ったり楽器を演奏したりしては、負けじと張り合い、どこへ行くにもつるんで歩くので、自然と遠慮なく心のうちに思うことをさらけ出しては、打ち解けていきました。
相変わらず雨は降り続けて、じめじめした夕暮れの雨に、殿上にもあまり人はいず、源氏の君の桐壺の部屋もいつもよりはのんびりとした雰囲気で、大殿油という背の高い油に燈芯を挿して燃やす灯台の近くで書類を読んでました。
近くの戸棚から色とりどりの紙に書かれた恋文と思われる手紙類が出てきたので、中将が好奇心をそそられるのも無理もないことですが、
「見せてもよさそうなものがあれば、ほんのちょっと見せてやるさ。
まずいものもあるだろうからな。」
と言っては見せようとしないので、
「そういった、感情を赤裸々に綴ったような、はたから見ても痛いようなものがいいんじゃん。
どこにでもある普通の手紙なら、俺なんかでもそれなりにもらったりして、見てるんだけどさー。
互いに恨みつらみをぶつけ合ったり、いかにも『日が暮れたから早く来てぇ待ってますぅ』というふうな手紙だからこそ、見て面白いんじゃん。」
と不満そうです。
本当に大事で隠しておかなくてはならないような手紙が、こんな普通の棚に置きっぱなしにするはずもなく、そういうのは奥にしまっておくはずのもので、ここにあるのはそんな重要ではないどうでもいいようなものなのだろうと思い、片っ端から見て、
「すげー、いろんなのあるじゃん。」
と言っては、あてずっぽうで、
「これはこれじゃん、これはあれじゃん。」
などと言うなかに、当っているものもあれば、的外れな推理をくりひろげているものもあって、源氏の君も面白いなと思いはするけど、言葉少なにはぐらかしては、結局取り上げて隠してしまいました。
「おまえの方こそ、こういうのたくさん沢山集めてんだろうに。
ちょっくら覗いてみようか。
そうすりゃ、この棚も気持ちよくご開帳だ。」
「そんな、見せるほどのものなんて絶対にないよ。」
そう言ったついでに、
「だいたい女で、これなら妻にピッタリという非の打ち所がない人なんて、まずいないってのがやっとわかったよ。
ただうわべだけ人が良さそうにして、達筆でその時その時の返歌などいかにも慣れた感じで軽くこなすところなど、それ相応にうまくやっている女は沢山いるけど、書をとっても歌をとっても本当に優れた人を選び出そうとした時に、必ず選ばれる人なんてのはまずいないと言っていい。
自分の理解できる範囲のことだけはやたら自慢して、人の悪口ばかり言ってるのって、側で見ていて痛いのばっかだ。
親とかが後にくっついて大事にされてて、まだ箱入りで行く末が見えない年頃だと、ただ良い所だけを噂に聞いて、気をそそられることもあるだろうけどな。
その親も欠点など言わずに、良いことばかりを誇張してそれっぽく話を作るもんだから、実際はそうではないなんて夢にも思わないさ。
いざ結婚してみると、こんなはずじゃなかったと思わないわけがない。」
と、愚痴に変わってゆく様子が照れくさそうです。
全部ではないけど自分にも思い当たることがあるとばかりにニヤッと笑います。
「その良いところすらもない人もいるんじゃないの?」
「良いところが最初から何もないなら、騙されたりする奴なんていないよ。
だいたい、取り得のない残念な女と、これが最高と思うようないい女とは、同じくらい数が少ない。
上の身分に生まれた人は、人からも大事にされ、欠点も目に着かず、自然とその立ち居振る舞いも優雅になる。
中くらいの身分の人は、それぞれ我がままにしようとする気持ちが出ちゃうんで、いろんな点について差がついてしまうことが多い。
下の身分の者のことなどは、耳に入ってくることもない。」
そのように単純明快に説明するのに興味を持って、
「その上中下の身分というのはどうなんだ。
本当に三つの身分に分けられるのかい?
本来高い身分なのに、没落して官位も低くて、まともな殿上人として扱われずにいじめられるのもいれば、また一方で三位以上の上達部にやっとのことで成り上がって、我が物顔に家のなかを飾り立て、誰にも劣らないと思うのもいる、その境界はどこに引きゃいいんだ?」
と問い返していたところ、左馬頭と藤式部の丞が、物忌みのため、ここでお籠りしたいと言ってやってきました。
なかなかの遊び人だが一本筋の通った人たちで、中将は喜んで二人を迎え入れ、この上品中品下品の身分の分け方について討論会となりました。いわるゆ「品定め」ですね。
お聞き苦しいことも多いと思いますが、どうかご勘弁を。
*
左馬頭が言うには、
「成り上がりってのは、もともとそれ相応の家柄じゃないんだから、宮中の人も、その地位よりは下に見る。
逆に、元は親王・大臣クラスの娘でも、生活の手段に乏しく、時勢も変わって忘れられてしまえば、昔ながらの宮仕えの高い志があっても実行できないし、見た目からしてみすぼらしくなってくるので、成り上がりも没落貴族も『中品』ということにすべきところだな。
受領というのは、国守など諸国を治める仕事で収入があり、一つの身分として認識されてるし、玉石混淆でも、中品には違いないから、この辺りの身分の女は選ぶには手ごろだ。
半端な三位以上の上達部よりも参議予備軍の四位の方が世間の評価も悪くはなく、根っこにある家柄が低くないから、何の心配もないし、立ち居振る舞いも堂々としていて、見ていて気持ちがいい。
こうした家柄というのは何不自由もないし、金に糸目を付けずにこれでもかとばかりに大事にされて育った娘なんぞ、非の打ちどころのないようなのが沢山出てきている。
更衣として宮廷に出仕しても、思いがけない幸運を手にする例が多いんだよなこれが。」
「なんだ、結局経済力できまるのかよ。」
と源氏の君が吹いたので、
「そんな他人事みたいに言うなよ。」
と中将が不機嫌に言いました。
「元の階級も高く、時流にも乗っていて、親王大臣クラスにひそかに面倒見てもらってるのに、人間的に未熟だとしたら、言うまでもなく、どんな育て方されたんだというもんで、批評する気にもなれんな。
両方兼ね備えて当然だし、こういうもんなんだくらいに思えば、別に珍しいものでもないし、そういう女は何とも思わない。
俺なんぞの手の届くものではないので、上の上はとりあえず置いておく。
それより、宮中ではほとんど知られていないけど、寂しく荒れ果てた葎の茂るような門に、思いもよらず可愛い感じの人がひそかに暮しているのは、それこそ最高に珍しいことだろっ。
どうしてこんなことになったのか、思いもよらぬことがあるのではと、妙に深く心に止まったりするな。
年とった父がデブでうざかったり、憎ったらしい顔をした兄がいたり、外見からは考えられないような家の奥の部屋で気位を高くしていれば、他愛もない歌やお琴も何か本当は凄いように見えて、ちょっとした良い所でも思った以上に面白いと思ってしまうだろっ。
素晴らしい完全な女の人を選ぼうなんて、俺の身分では及ばぬことだが、そういうちょっと捨てがたい物でも持っていればな。」
と言って藤式部の丞の方を見れば、自分の妹達がそこそこ評判になっているのを指して言ってるのかなと思ったようで、何も言いませんでした。
「いやそれでも、上品と思ってはいても、それでも難しい夫婦仲なのに‥。」
と源氏の君は思ったのでしょうか。
やわらかな白い単衣に直衣だけをラフに着こなして、腰の辺りを留める紐も結ばずにそのままで、物に寄りかかった姿が灯火に浮かび上がるのが何とも美しく、女だと思って眺めてたいところです。
このお方のためでしたら、どんな上の上を選び出しても、釣り合わないのではないかと思えますね。
*
いろいろな人の噂を語り合っては、
「おおかた普通に接する分にはこれといって欠点のない女でも、自分の妻にしようといろいろ期待して選ぼうとすれば、女は沢山いるのになかなか決めきれないものだな。
男だって朝廷に仕えて、しっかりと国政に携わらなくてはならないところで、本当にすぐれた器を持ったものを選び出そうとすれば、難しいんでないかな。
だけど、どんなに賢くても、一人二人で世の中を動かすことなんてできないんだから、上に立つものは下のものに助けられ、下のものは上のものに従い、大概のことは妥協によって成立っているだろっ。
狭い家の中で主人とすべき人のことだけを考えるんでも、失敗の赦されないような大事なこともいろいろあるしな。
まあ宮廷での社交はもとより、所領や使用人を管理したり、子供をしっかりと官僚や女官に育て上げたり、息子娘の結婚も重要な出世戦略だしな。
そういうこととなると、ハローグッバイじゃないが行き違いばかり多くなるし、うまくいかなくなった時、我慢できるなんて人も少いし‥。
別に理想を追い求めてばかりで、好きこのんで他の女といろいろ見比べてるわけじゃないんだろうけどな。
それでも熟考の末に選んだ人で信頼しきってたりすると、行き違った時に一度上げた拳をひっこめてやり直そうなんて思わずに、またひたすら思い通りになるような別の人を探そうとするから、いつまでたっても相手が決まらないんだ。
思い通りになるなんてことはなかなかないんで、そういう時結婚した時の約束をして思いとどまれる人は、根っから誠実な人だ。
ならばずっと我慢していてくれている女のためにもと、心の奥に何か底知れぬものを秘めている人だと思うようになるんだな。
だけど何だな、実際にこの世の有様をつぶさに見るにつけても、そんな期待するほどのものもないし、心惹かれるようなこともないんだなこれが。
君達のような上の方の妻選びには、一体どれだけの人が釣り合うというのか。俺の見方が狭いのかもしれないがな。
悪くもないルックスで若々しくて、自分では天真爛漫に振る舞っているようにみせて、手紙を書いても曖昧な言い回しを選び、かすれたような文字でほっとけないように思わせといて、そんなふうに会ってその姿を見てみたいと気を持たせておいて、か細い声を出して御簾のそばまで引き入れてもほとんど喋らないなんてのは、間違いない、ぼろを出さないようにしているだけだ。
おしとやかで女らしいと思って、ついつい情に流されて付き合ってみると、二股かけてたりする。これが一番の難というべきものだな。
いろいろ事で放っておけなくてお世話をしている人の中には、物の風情に精通しすぎているあまりに、花鳥風月などの情があるのはわかるが、その面白さをそんなに強く勧めなくてもいいのにと思うこともあるけどな。
その逆で、いろいろ細かい理屈を言っては、髪の毛を無造作に耳に挟んだりして化粧っ気のない主婦が、家庭内の雑事ばかりしてというのもな。
朝夕通ってきては帰ってゆく男だって、宮廷の人や身内家族の様子など、良いこと悪いこと見たり聞いたりしたこと、わからない人にはわざわざ聞かせたりはしないだろっ。
発見したことや身にしみてわかったことを身近な人とわかり合って、笑ったり、涙したりしたいなと男が思っていても、それとか理不尽な政治のことで腹が立ったり、自分ひとりではどうしようもないことが多いのを誰かに言いたいなと思っていても、言ってもしょうがないなとばかりにそっぽ向かれて、誰にもわからないようにふっと笑ったり、『あーあっ』なんて独り言を耳にしたときに、『どうしたの?』と何も考えずに見上げたりするのは、こりゃあ残念というほかないな。
ただ単に根っから子供っぽくてふわふわした女というのは、何とか細かくいろいろ教えてやって妻にできないかなんてこと、男はついつい思っちゃうんだな。
じれったいとは思っても、直しどころがあると思っちゃうんだ。
だが、実際、面と向って会っている時は、いかにも可愛らしいので失敗してもすぐに許しちゃうんだけど、遠く離れて何か物を頼んだり、季節ごとに生じる行事のちょっとした事や大事なことを頼んだりしても、自分のことと思わずに心が行き届かないあたりはまじ残念で、頼りがいがないという欠点はやっぱ苦しいな。
いつもは少々つんつんしていて可愛げがない女でも、こういう季節の行事で人前に出るとめちゃ可愛いってのもいるしな。」
といった、左馬頭の開けっぴろげな話しっぷりをもってしても、源氏の君と中将はすっきりしない様子で深くため息をついてました。
「今はただ、品で決めるのでもない。
まして外見のことも言わない。
本当に駄目な、言うこととやることとがまったく違っているようなことさえなければ、ただひたすら身持ちが固く、落ち着いた性格の妻を、生涯の伴侶と決めておくべきだったな。
あとは、育ちの良さそうな機知を見せてくれることを感謝の心で受け止め、鈍いところがあっても決して高望みはしない。
心に表裏なく何事にも動じない所だけでも芯にあればな。
うわべだけの風流なんてその場しのぎの取って付けたようなものではないかな。
たとえば、華やかな世界には気後れし、不満を言うべきことでも気が付かなかったかのように心に秘め、表面的には何事もなく平静を装い、それでも心に秘めておくことができなくなれば、いいようのないほど寒々とした言葉で悲しい歌を詠み残して、いかにも故人を偲んでくださいとばかりの形見の品を残し、山奥の村や人の寄り付かぬような海辺などにこっそりと隠れていたりなんて話。
子供の頃に女房などが物語を読んでいたのを聞いて、凄く哀れで悲しく、心に並々ならぬものがあったのだと涙さえ流したもんだったな。
今思えばいかにも安っぽいわざとらしい話だな。
だいたい、それなりにちゃんと愛してくれている男をほっといて、目の前につらいことがあったにしても、男が自分の心を理解してないみたいに逃げ隠れして、男の心をもてあそんで試そうとすればするほど、いつまでもそのことで悩み続けなくてはいけなくなるから、全然意味ないじゃないか。
『心に並々ならぬものがあったんだ。』
などと褒めたてられて、その方向へ進んで行ったら、すぐにでも出家して尼さんになっちゃうんじゃないかな。
発心した時は心からすっきりしたような気になり、ふたたび俗世に帰ろうなんて思ってなくても、
『何で、悲しいじゃないの。
そんな悩んでたなんて。』
なんてふうに知り合いが出家を惜しんで来てくれたり、ただひたすら悲しみにくれながらも忘れられないという例の男が聞きつけて涙を落としたり、使用人や年長の女房とかに、
『あのお方のお心は悲嘆にくれて、すっかり御身をやつしになってもったいないことです。』
などと言い出したりしてね。
そうなってから、自分で額にあったはずの髪を掻き上げようとしてもどうしようもなく不安になって、今にも泣きそうな顔になったりしてな。
隠してた涙がこぼれはじめれば、ことあるごとにもうどうしようもなく我慢できなくなり、後悔ばかりを繰り返してれば、いくら仏様でも必ずや心が汚れているとご覧になることになるだろうな。
俗世の濁りに染まるよりも中途半端に仏道に入る方が、かえって往生できずに地獄をさ迷うことになるんじゃないかな。
永遠《とわ》の契りが半端ないなら、尼になることもなく、尼になる前に探し出して連れ戻されたとしても、その後何かあるたびにすぐにその記憶がよみがえり、相手への根の深い不信感の元にならないだろうか。
良いときも悪いときもお互い寄り添って、たとえ逃げ出して連れ戻されたとして、あとでそれを思い出して信じられなくなった時でもなかったことに出来る仲こそ、固い絆で結ばれた愛といえるのではないかな。
そうなれば、その女も相手の男もうしろめたいこともなく、いつまたああなるか恐れる心配もないだろっ。
不満を言えずに突然逃げ出す女も困るが、ふらふらと他の女に気持ちに移っていく男に不満で、あからさまに態度に出して反発するのもみっともないな。
心が別の女に移ってったとしても、女がまだ出会った頃の愛情そのままに思って心を痛めているとわかれば、まだ男もよりを戻そうかという気持ちにもなるというのに、そうせずに憎しみを露わにして相手の気持ちが醒めてしまったのでは、そこで終ってしまう。
逃げるのでもなく怒り狂うのでもなく、あくまで万事穏便に、恨みごともそれとなくほのめかす程度にして、当然不満に思うことでもちょっと可愛らしくぼやかしておけば、それでもって自然と心を動かされるってもんじゃないかな。
ほとんどの場合、男の浮気心もそれを見る女によってはおさまるものだ。
あまり簡単に許しちゃって放ったらかしにするのも、いかにも友だちみたいでそれはそれで可愛いけど、そうやってると逆に女の方も勝手気ままにやっていると思われる可能性があるな。
繋いでない船は流されるの喩えもあるように、あまり利口じゃないな。
そう思わないか?」
中将はうなずきました。
「とりあえず、愛だの恋だの、とにかく好きな人に何か不安になるような疑わしい
ことがあったなら、そりゃあ大ごとだ。
自分の心にやましいことがないからといって、放っておけば元通りになるんじゃないかと思ったけど、そりゃ違うよ。
とにかく、お互いの違いを大目に見て我慢するより他にいい方法はない。」
そう言って、自分の妹である源氏の妻は左馬頭の結論の通り立派だと納得しのですが、当の源氏の君はというと居眠りしてて何も言わないので、すっかり肩透かしを食らっていらっとしました。
左馬頭はすっかり恋愛鑑定士になって、ヒヒーンといなないてました。
中将は、この御説を最後まで聞こうと、熱心に相槌を打ってました。
「いろんなものに例えて考えてみればいい。
大工さんがいろんなものを意のままに作り出すにも、その場の遊び心で作った物は、一つの決まった形で受け継がれてゆくこともなく、ちょっと見には洒落ているものの、こうした方がもっといいんじゃないかと時代によって形が変わってゆき、中には現代的にアレンジされて面白いものもある。
大切なのは、本当に立派な人の家具の装飾とするのに、決まった様式があるものを難なく作り上げることができるかどうかで、プロの職人というのはその点では一目瞭然ってもんだな。
また、宮中の絵所には絵が上手い人はたくさんいるけど、彩色する前にまず墨で輪郭を描く際のその担当に選ばれて、そうした人の中からさらに誰がすぐれていて誰が劣っているか序列をつけようとしても、なかなか見分けがつかないな。
なかでも、誰もどうやっても見ることのできないような伝説の蓬莱山や、牙を向くような荒海の下にいる魚の姿や、中国の獰猛な猛獣の姿、想像上の鬼の顔などのおどろおどろしく作ったものというのは、想像力の趣くままにとにかく人をびっくりさせてやろうというもので、実際に何かを見て描いたわけではないけど、本当にあるみたいだ。
だが、どこにでもあるような山のたたずまい、水の流れ、いつも目にするような人が住んでいる様子など、誰もがあるあると思うような、なじみのあるほっとするような形のものを、落ち着いた感じに配置して、そんなに険しくない木の鬱蒼と茂った山の幾重にも重なった景色は俗世を離れたようでもあり、身近な垣根の中を細かく気配りの行き届いた様などを描かせると、上手い人は勢いが違っていて、下手なものだと力及ばぬところが多い。
仮名を書くときでも、特に理由もなくあちこちに散らして書いてみたり、点を長く引っ張って連綿させたりして、何となくそれっぽく書いているものは、ちょっと目には才気にあふれているようだが、それよりも正しい筆法で丁寧に書かれたものの方が、表面的には拙いように見えても、実際に比べてみればしっかりした字だというのがわかる。
卑近なことをとってみても、この通りだな。
ましてや人の心、今風のそれっぽい見せかけの愛を、決して当てにしてはいけないなと、そう心得ていただきたい。
そう思うに至った最初のことを、少々エロいとはいえ、申し上げましょう。」
そう言って、近くへにじり寄ったので、源氏の君も目を覚ましました。
中将はというと、すっかり信者になって、頬杖をついて左馬頭の方を見つめています。
仏法を説く僧がこの世の道理を聞かせようとしているような気にもなり、確かに面白いのですけど、結局こういうときにはそれぞれ自分の言いたいことを我慢しておくことができないものなのですね。
*
「昔、俺がまだ駆け出しで官位も低かった頃、好きだった人がいたんだ。
前にも話したように、見た目もそんなにたいしたことないんだけど、若い頃の好奇心で付き合い始めた人がいて、別にこの人を本妻にしようと決めていたわけでもないんだけどね。
一応心の拠り所とはしていたんだけど、その頃俺は一人身でとにかく他の女に目移りすることも多くて、そのことにひどく焼き餅を焼かれちゃってね。
だんだん気持ちも離れ、こんなのではなくもっとおおらかだったらなと思っていて、それでもあまりにも人を縛りつけようとして疑うもんだからうるさくて、どうしてこんな俺なんかを見放さずにこんなふうに思ってくれるのかと心苦しく思うこともあって、何となく浮気をする気もなくなっていったんだ。
この女の性格というのが、自分の考えの行き渡らないことでも何とかしてこの人のためにはと、できないことでもしようとし、苦手な方面のことでもがっかりさせないようにと思って一生懸命やるし、とにかく何でもかんでもこと細かく世話をし、どんな些細なことでも思い通りにならなければ気がすまないと思っているから、やりすぎだなと思ってはみてもとにかく従順で人当たりが柔らかく、ぶっ細工な顔もこの人に嫌われるのではないかと何とかして化粧でごまかそうとし、他人に見られれば恥ずかしそうに伏せ目がちに人目を憚り、変に思われないように取り繕った態度を取り、誰とも隔てなく睦まじくするあたりは性格は悪くないのだけど、ただこのしゃくにさわることが一つ腹に据えかねていたんだ。
その時俺は思ったんだが、こうも一途に服従し人を恐がっている人ならば、何とかして懲りるようなことをして脅かせば、そいつも少しまともになり嫉妬してむやみに人を疑うことをやめるんじゃないかと思ったんだ。
本当に悩んでいてもう別れるというような様子を見せれば、そこまで俺に従う気持ちがあるなら懲りるだろうと思って、ことさら醒めた態度を見せて、例の嫉妬に怒り狂った時に、
『そんな独占欲が強いなら、どんな前世の因縁が深くても、もう耐えられない。
そんな理由もなく人を疑うようなことをしてるんなら、これで最後になるぞ。
これから先も長くいっしょにいようと思うのなら、つらいことがあっても、我慢して適当に見逃してくれよ。
こういう焼き餅さえなければほんと可愛いと思うんだけどな。
俺がいつか世間並みに出世して一人前になれれば、正妻にでもするというのに。』
なんてうまいこと諭すことができたと思って、びしっと言ってやったんだけど、そいつは少し笑って、
『何をやっても才能がなく半人前のあんたを大目に見て、そんな期待もしてないような出世を待つにしても、別に慌てるようなことでもないし、別に気になんてしていませんよ。
あんたの浮気も我慢して、しっかりと身を固めてくれる機会をうかがって、長い年月無駄な期待をしてる身のほうが本当に苦しいんで、お互いに別れるべき時期が来たのかもしれませんね。』
と憎ったらしそうに言うので、すっかり腹立てていろいろひどいことを言って感情を刺激してしまい、そいつの方も気が収まらないふうで小指を一本つかんでは引き寄せて噛み付いたので、俺はわざと大げさに騒ぎ立て、
『こんな指を詰めたような傷がついてたんでは、それこそ宮廷に顔出すことなんかできなくなるだろっ。
ただでさえ恥ずかしいと思ってるような官位で、どうやって殿上人になれというんだ。
出家でもしようか。』
と言って脅かして、
『それじゃあな、もうこれで今日限りだな。』
と、噛まれた小指を折り曲げて、出て行ったんだ。
『指を折り過ごした日々を数えれば
小指一つが辛い思い出
恨みっこなしだ。』
なんて言ったら、さすがに泣き出して、
『辛いことたった一人で数え来て
これが君との手を分かつ折』
なんて互いに言いあったけど、本当はこんなことになるとは思わなかったので、何日も何日も連絡も取らずに、ただ呆然とあちこちほっつき歩いたもので、旧暦十一月の賀茂神社の臨時祭のための舞楽のリハーサルを宮廷でやっている頃に、夜も更け霙が冷たく打ちつけるなか、これからどこへ行ったらいいものかと考えてみても、自分の帰る家なんてどこにも見あたらなかったな。
内裏で眠らせてもらうのも何だし、多少当てのある女の所も何か落ち着かないし、なんて思ってるうちに、あの女どうしてるかななんて様子でも見に行こうかと雪を払いながら、体裁悪くて気恥ずかしいことだけど、ひょっとしたら今夜あたりならあの時の恨みも許してもらえるのではないかと思って行ってみたんだ。
火がほのかに壁を背にして灯り、綿の入った普段俺が部屋で着るような糊の入ってない衣が火鉢の上にかぶさった大きな籠の上に乗せて乾かしてあり、いつも開けてある部屋を仕切る几帳の布もちゃんと上げてあって、今夜俺が来るのを待ってたかのような様子だったんだ。
そうだったのかと心が一瞬舞い上がったものの、もぬけのからだった。
仕えている女房が泊まっていただけで、
『今夜はこのとおり親の家に出かけてます。』
という答だった。
気の利いた歌を詠むでもなく、まだ俺のことを思っているふうな手紙や言づてをするでもなく、ただひたすら家に籠っていながら俺が来るとそっけなく出て行ってしまったのにはがっくりきたし、意地悪して俺を許してくれなかったのも、私のことは放っといてよ、と思ってのことだったのかと、そんなこととは思ってもみなかったことだが、うしろめたい気持ちでそう思うしかなく、なのに着るものもいつもより丁寧に用意してあって、色合いも仕立ても理想的で、追いかけるなとはいっても俺を見捨てたあとでさえこうして気遣って世話をしてくれていたんだな。
こんなふうに、俺を見放すようなことはないと思えて、よりを戻したいというようなことを言っても否定はしないんだけど、尋ねて行っても別にどっかへ行方をくらませて探させようというわけでもなく、行き先を恥ずかしがって隠すふうでもなくて、むしろ適当にあしらっているようで、ただ、
『今までの調子でいるなら許せない。
心を入れ替えて波風立てるようなことをやめるなら、会ってもいいよ。』
などと言って、これはまだ脈はあると思ったから、もう少し懲らしめてやろうかと思って、『ああ、心を入れ替えるさ』とは言わずに何日もあれこれ駆け引きしているうちに、そいつの方がひどく悩んで鬱になったのか、死んじゃったんで、バカな駆け引きをやってはいけないってわかったんだ。
本当にこの人一すじにと信頼できるような人はこの人だけだったなと、今でもはっきり覚えているよ。
他愛のない無駄話でも本当に大事な話でも、話していて分けわからなくなることもなく、龍田姫といっていいくらい染物が上手で、七夕姫にも劣らないくらい機織もできて、そういうことにはうるさいやつだった。」
というふうに、本当に悲しそうに思い出してました。
中将は、
「その七夕姫の悲恋の部分は置いとくとして、永遠の愛なんてのはあやかりたいもんだ。
それにマジその龍田姫の錦は真似ねできないな。
はかなく散る花や紅葉なんてのも、季節季節の色合いが尽きなくても、露のようにむなしく消えちゃうから情けない。
これだから、なかなかお目にかかれない相手というのは、選び出すことができないんだ。」
と囃し立てました。
*
「さてまた、同じ頃通ってたもう一人の女は、もっと身分も才能も上の人で、気品からして由緒あるとわかるような女で、詠んだ歌も、さらさらと書いた仮名も、爪弾く箏の音も、手つきも口調もみな流暢で、前々から噂になっていたくらいだった。
見た目もまあまあで、例の嫉妬深いやつを一応本命としながらも、時々こっそりと会いにいってた頃から、気にはなってたんだ。
あいつが死んだあと、どうしていいものか、悲しみにくれながら時を過ごすのもなんだしというところで、何度も通って親しくなり、ちょっとけばいくらいに華やかでファッショナブルなあたりはそんなに好みではなかったので、さして当てにすることもなく、ときおり会いにいくくらいにとどめておいたところ、他にこっそり付き合っている人がいたようだ。
十月の頃だったか、月の奇麗な夜、内裏を出ようとすると、とある殿上人やってきて、俺の車に便乗してきたので、大納言の家に行って泊まろうかと思っていたけど、この殿上人が言うに、
『今夜待っている人がいる家なんだ』
と言って車を止めさせた家が例の女の家で、回り道もできない所だったので、築地の荒れて崩れたところから池の水が光っているのが見え、このように月さえもが宿る棲み処を通りすぎるのもなんだということで、一緒に降りたんだな。
最初から何か示し合わせていたことがあったのだろうか、この男はすっかりそわそわして、門の近くの廊の簀子に腰掛けてしばし月を見る。
菊が霜に打たれて色が変わっているのが面白く、風が吹くと我先に競うかのように散ってゆく紅葉の乱れ飛ぶ様が悲しげなのは、俺でもわかった。
その男は懐から龍笛を取り出しては吹き鳴らし、催馬楽の、
♪飛鳥井に泊まってゆくのも良い
水面に宿る月も良い
といった歌を笛の合間合間に朗々と歌い上げてゆくと、良い音のする和琴(大きさは筝と同じくらいの六弦琴で撥で演奏する楽器)が、あらかじめきちんとチューニングされていたのか、なかなかしっかりとしたセッションで悪くはなかったな。
長二度長三度の音程を基調とした中国の『律』のメロディーは、女のソフトなピッキングで御簾の向こう側から聞こえてきて、今様の音色なので清く澄んだ月に霞んだりもしないし。
その男はいかにも気に入ったようで、御簾の元に歩み寄って、
『庭の紅葉には誰が来たあともないな。』
なんて、自慢げに言ったりしてね。
菊を一本折って、
『琴の音も月もありえないような家
つれない人を留められるのか
あんましいい歌じゃなかったかな。』
などと言って、
『今、もう一曲、それに合わせてセッションしたいという人がいるこんな時なんで、これで終わりじゃもったいない。』
とくだけた調子で話しかければ、女もやけに作ったような声で、
『木枯しに調子合わせた笛の音を
引き留めるにもコトのはがない』
と何気に好意があるようにほのめかした歌を詠み、俺がここにいてむかついてきているのも知らず、今度は十三弦の筝をBの音を基調とした盤渉調にダウンチューニングし、今はやりの調子で掻き鳴らす爪音は、そんなに下手ではないけど、ただ気恥ずかしくて聞いてられなかったな。
単に時々本音をぶつけて語り合ったりしながら、あくまで遊びで付き合う宮廷人としては面白いと思うよ。
でも時々会うにしても、あの家を生涯忘れるところなく通う所とするには、なんか信用置けないし派手すぎてこれは引くといったところで、あの夜のことを口実にして通うのをやめたんだな。
この二人の女のことを考えるなら、若かった頃とはいえ、今こんなふうに暴露したようなことでわかるように、そんなに惹かれもしないし信用も置けないし、これから先だってそう思うだろうよ。
中将殿が『なかなかお目にかかれない相手』とおっしゃったまんまで、折れば落ちてしまう萩の露、拾えば消えてしまうような笹の葉の上の霰のような、はかなき美しさの風流だけが、面白く思われることでしょう。
今はわからなくても、あと七年もすればそう思うと思う。
まあ、俺なんかの取るに足らない忠告だけど、好きそうな思わせぶりな女にはお気をつけなされ。
スキャンダルを起こせば、そのお相手だってあることないこと噂されたりするもんだ。」
と戒める。
中将は例によってうなずく。
源氏の君は一応御もっともとは思ったのでしょう。少しばかりニヤッとし、
「でも、どっちにしても不様で、かっこ悪い話だね。」
とおっしゃると、一同大笑いでした。
*
中将は、
「なら自分はもっとバカな話をしようか」
といって話し始めました。
「マジこっそり垣間見て知った人なんだけど、そんで、もっともっと会いたそうな気配だったから、別に長く付き合うつもりはなかったんだけど、お互いわかってくるにつれて可愛いなと思ったから、時々しか通わなかったけど忘れらることができなくなっていって、そうなってくると向こうもちょっとばかり期待しているふうにも見えてきたんだ。
そんなふうに期待されちゃうと、たまにしか来ないのを不満に思うこともあるんじゃないかと、自分としてもそう思っていたのに、関心ないかのように、しばらく通ってなくてもたまに会う人というふうに思っている様子もなく、朝も夜もいつも気に掛けているような感じで心苦しくて、長く気を持たせるようなこともしたかもな。
親もなく、マジ心細いようで、それでいろいろ何かあるたびに俺のことを親代わりに思っているような、そんな感じがするので、守ってやりたい気もした。
こんなもんで何事もないものだから安心したんだけど、長いこと通わなかった時に、本来通わなくてはならない人の周辺からその女の所に、あからさまではないにせよかなり情け容赦なくひどいことを言ってたことを、後になってから聞いたんだ。
そんな大変なことがあったとも知らずに、忘れたわけではなかったんだけど、ろくに連絡もせずに長く間を開けてしまったため、ひどく塞ぎこんで心細くなっていて、小さな子供もいることで悩んでいたようで、撫子の花を折って送ってきたんだ。」
と言って泣き出すのでした。
「で、何て書いてあったんだよ?」
と問うと、
「いやそんな大した事書いてなかったよ。
『田舎者の垣根荒れても時々は
愛を注いで、撫でし子の露』
それで何となく思い出して通ってみたら、いつもの屈託のない調子ではなく、マジに悩んでる様子で、荒れ果てた家が露に湿っているのを見て、たくさんの虫が競うように鳴いているのが、『伊勢物語』のような古い物語の世界みたいだった。
撫子というと撫でた子で子供の意味になるけど、撫子の別名の『常夏』だと床になじむという意味があるので、
『雑草に紛れた花はどこだろか
でも常夏にしくものはない』
小さな大和撫子のことよりも、まず躬恒の『塵一つ付けたくないよ咲いてから妹と俺が寝る床なずむ花』などを踏まえて、親の方の気を惹こうとしたんだ。そしたら、
『打ち払う袖も露けき常夏に
嵐が吹いてくる秋も来ました』
と何ごともないように取り繕って、真顔で恨む様子もなかったんだ。
その女というのも、つい涙をこぼしてしまった時でも、マジ恥ずかしくて遠慮するようにごまかして隠すし、会えなかったつらさが身にしみているようにも見えなくて、苦しいのもしょうがないことだと思っていたと思って、安心してまたしばらく通わないでいたら、跡形もなく消えちまってたんだ。
まだ生きているなら、当てもなくこの世のどこかを転々としているかもしれないな。
可愛い女だと思っていたけど、面倒臭くなるくらい引き止めてくれるようなそぶりでもあったなら、こんなふうにふらふらしたりはしなかったのに。
そんなに間を空けたりせず、妻としてのそれなりの地位を与えて、長く面倒を見てやることもしてやれただろうに。
あの撫子の方も守ってやりたかったし、どこへ行ったか会いに行きたいと思っていても、未だに消息がわからないんだ。
こういうのが、おっしゃる通りの、みじめで空しい話の見本とも言うべきものだ。
俺のつれない態度を辛いと思ってるのも知らずに、今でも愛し続けている俺は、まったく役立たずの片思いだよ。
今になってようやく忘れようとしていた所だけど、あの女の方も俺のことが頭から離れずに、時々他の誰のせいでもなく胸が焦がれるような夕暮れを迎えてたりするのかな、なんて思ったりするよ。」
「結局こういうのは、待ち続けることのできない、安心してまかせられない女ということだな。」
「だったら、あの意地悪な女も、思い出となってみれば忘れがたいけど、実際に会っているときは面倒くさい、うまくいかなければ嫌気がさすこともあるんじゃないかい?
箏の音で誘いかけるような才能をひけらかす女も、浮気の罪は重いはずだし。」
「おまえの言うはっきりしない女も、疑いながら一緒にいても、結局いつになってもちゃんとした妻にすることもできない、それが男と女というものだろっ。」
中将と左馬頭が言い争っていると、源氏の君が、
「どっちも、それぞれ自分の女と他人の女を比べて罵り合って、みっともねーなー。
そんないろいろな女のよいところだけを取り揃え、欠点を隠し持たない人間なんてどこにいると言うんだ。
吉祥天女に惚れたって説法臭くてついていけなくて、それもつまらないだろうな。」
と言ったので、一同爆笑。
*
「式部の方こそ面白い話があるだろっ。ちょっとは話したらどうだ。」
と迫られて、
「下の下の身分では何ちゅうか、お話しするようなこともございません。」
と言ったところ、中将が真顔で「早くしろよ」と催促するので、何を言おうかと考え込んで、ようやく、
「まだ大学寮の文章生だったころ、頭のいい女の例を見てきました。
左馬頭も申し上げましたとおり、仕事のことを相談したり、私生活での世渡りのことなんかでも本当に用意周到な配慮ができる人で、その学識もなまな博士なら恥じ入るほどで、私なんぞに口を挟むことなんてできませんでした。
あれは博士のもとに学問をしに通った時のこと、その家の主人に娘がたくさんいると聞いて、その中の娘にほんのちょっとしたついでに口説いてみたところ、親父がそれを聞きつけて杯を持って出て来て、白氏文集の『我が二つの道を歌うのを聞け』を引き合いに出して、金持ちの娘と貧乏人の娘を比べて貧乏人の妻の良さをとうとうと説かれてしまいまして、きちんと結婚しようと思って通ってたわけでもなく、あの親父の意向には遠慮しつつも、その後も交際を続けてまして、女の方にはすっかり気に入られていろいろ世話をしてもらって、夜の床の中でも、自身の学風や宮廷に仕える際の心得るべき物の道理などを教えてくれるし、本当に見事に報告書なんかも仮名を交えたりせずに、きちんとした書式に則った言い回しで書いたりするので、そのまま通い続けて、その女を師としながら、ほんのちょっとだけ下手な漢詩文を作ることを習ったりしたもので、今もその恩は忘れてはいないけど、ただ妻としていつも傍にいてほしいかというと、何かいかにも無学な人のなまな行為に見られてるようで、恥ずかしくなります。
かとゆうて、あなた達からすれば、こんなてきぱきとした至れり尽くせりの世話をしてもらう必要などないことでしょうけど。
頼りないだとか、残念だとか、そんなふうに見ていても、ただ私の心に留まり、前世の縁に引かれた人であれば、男でもそうならば、まして女ならなおさら問題ないのではないかと思います。」
そう言うと、中将が続きを喋らせようとして、
「うんうん、面白い女じゃないか、でっ?」
と催促するので、その気になって鼻の辺りをひくひくさせて話し始めました。
「それで、ずいぶん長いこと通わないでいたのですが、たまたま何かのついでに立ち寄ってみたところ、いつもの打ち解けた雰囲気ではなく、うしろめたそうに物越しに会うだけでした。
やきもち焼いてふくれているのかなと、をこがましくも、これが別れるチャンスかななんて思ったのですが、こういう頭のいい女は軽々しく恨みごとを言ったりするはずもなく、世の常識ぶっていて不満を漏らすこともしません。
きっぱりとした口調で、
『ここ数ヶ月の間ひどい熱病で、高熱への耐性をつけるための滋養強壮剤を服用していて大変臭いため、対面することはできません。
直接お目にかかれなくてもかまわないような用事でしたら、何なりと承ります。』
と、何とも悲しそうな様子でもっともらしいことを言うのです。
すっかり返事に困って、ただ、
『わかった。』
と言って立ち去ろうとしたところ、その返事が物足りなかったのか、
『この匂いが消えたときに立ち寄ってください。』
と上ずった調子で言うので、聞かなかったことにするのも気の毒になり、ちょっとの間、名残惜しんでいようかと思ってましたが、本当にその生薬の大蒜の匂いが華やかに香り立つので、そうも言ってられなくて逃げ腰になりまして、
『くもの巣が人を呼ぶという夕暮れに
昼(蒜)に来いとは何のことだか
一体何が言いたいのかな。』
と言い終わらないうちに走り出しますと、追っかけてきて、
『夜ごとに愛し合ってる仲ならば
昼(蒜)でも何ら恥ずかしくない』
さすがに歌を返すのも早かった。」
そうぼそぼそと話すと、源氏の君、中将などはすっかり醒めたような顔で、
「嘘だーーー。」
と言って笑いました。
「一体どこのどの女なんだよ。普通に鬼と一緒にいるほうがまし。きもい。」
と、中将はあっちへ行けというような指で弾く仕草をし、
「あきれて物も言えないなー。」
と源氏も小バカにしたような調子で言うと、中将がさらに、
「もうちょっとマシなことを言えよ。」
と責め立てるのですが、藤式部の丞は、
「これより面白いことはございませんでして。」
と言って腰を深く下しました。
すると左馬頭がおもむろに、
「大体男でも女でも駄目なやつというのは、ほんのちょっと知っていることをこれ見よがしにアピールしようとするから困ったものだな。
歴史や儒学のそうそうたる学問を明快に解き明かそうなんて、色気も何もない。
そんじょそこらの女でも、公私にわたって世間のことを何も知らないというわけではないだろうに。
だって、別に特別な勉強をしなくても、ちょっと才能のある人を見たり聞いたりすれば、自然と学ぶことは多いはずだろっ。
そんなにまで勉強して漢文を草書で書けるようになったりすると、本来漢文を用いることのない女同士の手紙のやり取りにも半分くらい漢文を交えたりして、そりゃないよ、もう少し平たく物を言ってくれよと思うんだがね。
気持ち的にはそんな固いことを言うつもりはないにしても、自然と堅苦しい調子に聞こえてしまうため、気取っているように見えちゃうんだな。
身分の高い女の中にも、結構いるんだなこれが。
歌人だと自認する人が歌に囚われて、何か面白い古事なんかを最初から意図して詠み込もうとして、全然場違いな時に歌を送ってきたするのも困ったものだな。
返歌しなければ無風流と思われるし、返歌をしない人なんて駄目なやつだろっ。
歌を詠むに相応しい節句の行事であっても、五月の端午の節句の朝といえば、武徳殿での騎射や競馬の準備で左馬寮は大忙しで、あやめの鬘どころか何の分目も考えている暇もないときに、いきなり菖蒲の根を引き合いに出したありえないような歌を贈ったり、九月九日の重陽の宴に、難しい漢詩の趣向を思いめぐらして、他のことを考えてる暇などないというのに、菊の露の興で歌を贈っては頭がこんがらがらせたりして、そんな時に贈らなくても後になってじっくり味わはせてくれれば、面白かったり哀れだったりするというのに、歌をじっくり味わっているときでないというのに空気を読まずに詠むものだから、何とも間抜けに見えてしまうんだな。
どんなことでも、『え、何で?』『どうして今?』と思えるような時があるんで、どの時がそういう時か区別がつかないようでは、下手に上品ぶって趣のある歌などを詠んだりしないほうが無難だろっ。
どんなことでも、心の中ではわかっていることでも知らないかのようにふるまい、言いたいことがあっても一つ二つ間をおくくらいでちょうどいい。」
そう言うけど、源氏の君は一人の女のことを心のうちにずっと思い描いているのです。
「ああ、あの人はやること為すこと足りないところもなければ過ぎたところもないなー」
と、どうしようもなく胸がきゅっと塞がるのです。
女性談義の方はというと、何一つ結論の出ぬまま結局はお聞き苦しいことになりまして、夜も明けてゆきました。
*
かろうじて今日は天気の方も回復しました。
源氏の君も、こうして物忌みでお籠りばかりしていても、義父の左大臣の気持ちを考えると気の毒に思えて御所を退出しました。
妻の家に通い、辺りを見回すと、家も人も何もかも整然としていて品があり、乱れたようなところが一つもなく、それこそ昨夜のメンバーの言っていたような、なかなかいないような、探し出してでも手に入れたい頼りになる真面目な女なのかと思うものの、あまりにも端麗すぎるその様子がよそよそしく、気恥ずかしくなるほどに取り澄ましているのが退屈で、中納言の君、中務といった並々ならぬ出の若い女房達に冗談などを言うと、その女房達も源氏の君の暑さに乱れた様子を見ることができて嬉しそうでした。
左大臣もやってきて、源氏の君が着物を着くずしていたので、几帳を隔てて直接見ないようにして世間話などをするものの、源氏が「暑いなぁ」と苦々しい顔をすると女房達が笑い出しました。
「あー、うざっ。」
と言って脇息にもたれかかる源氏の君は、とてもくつろいだ様子でした。
薄暗くなってきた頃、
「今夜は天一神が内裏の方からするとこの屋敷のほうにいて、塞《ふたがり》になってるっすよ。」
と知らせてくる人がいました。
源氏の君は、
「もちろん。いつもなら避けて通る方角だ。
だからといって二条院も同じ方角で、どこに方違えすればいいんだよ、疲れてへとへとだというのに。」
と言って寝床に横になりました。
その男は、
「そりゃマジまずいっすよ。」
とあれこれ説明するうちに、
「親しくお仕えしている紀伊の守の京極川の辺りの家なんか、最近水を引っ張ってきて涼しそうな感じになってまして‥。」
と言い出すのでした。
「そりゃまあ、いいかもな。
でも疲れてるから、牛車に乗って入れる所にしてくれ。」
と源氏の君は言います。
こっそりと通うような女の所などはいくらでもありそうなものですが、久しぶりに正妻のところに通いに来たというのに、塞守だの方違えだの言って他の女のところへ行ったと思わせたりするのは、何とも困ったことです。
さっそく紀伊の守に命じたところ、承知はしたものの部屋を出て、
「父上の伊予の守の朝臣の家に物忌みがあって、女房などがちょうど来ているときだし、何分狭いところなので、失礼にならないだろうか。」
と、影でぼやいているのを耳にして、
「そういう人のぬくもりがいいんじゃないか。
女のいない外泊なんてぞっとするね。
その女房の几帳の後ろにいたいもんだ。」
と言えば、
「良い一夜になるといいですね。」
と使いの者を走らせました。
こっそりと、できるだけ目立たないところを通って急いで出発したので、左大臣にも黙って、ごく親しい者だけをお伴に引きつれての出発でした。
紀伊の守が「そんな急に」と頭を垂れても、誰も聞く人もいません。
とりあえず寝殿の東側の正面の部屋を開放して、臨時の客間をしつらえさせました。
水が流れる風情など、この時期に合わせて趣向を凝らして作られてました。
田舎の隠れ家のように柴垣で囲い、庭の植え込みも細心の注意を払って植えられてました。
風も涼しくて、何かは知らないが虫の声もいろいろと聞こえてきて、無数の螢が飛び交って吸い込まれそうになるくらいです。
お供のみんなは、渡殿の下を流れ出てくる泉を眺めながら酒を飲んでます。
主人紀伊の守も肴を求めて、こゆるぎの大いそぎで歩き回り、源氏の君はすっかりくつろいで辺りを眺め、左馬頭の言っていた諸国の守のような受領に没落組と成り上がり組がいるという話をふと思い出してました。
成り上がりで思いあがっている感じだと噂にも聞いていた、そういう女ということもあって、興味津々で耳をそばだてていると、この寝殿の西側の正面の部屋に人の気配がします。
捻り襲の衣の絹の音がはらはらとして、若い可愛らしい話し声が聞こえてきます。
さすがに大笑いなどはせずに、小声で笑う声はいかにも気取った感じでした。
格子を上げてよく見ようとしたが、紀伊の守が不快そうに、
「失礼ですよ。」
と言って降ろしてしまったものの、格子の向こうの閉ざされた襖の中から火を灯した明かりが漏れているのを見て、一気に近づいてそこから覗いてやろうと思ったけど、その隙も与えられずしばらく聞き耳を立てていると、襖の向こうの母屋に女達が集っているようでした。
そのひそひそ話を聞いていると、どうも自分のことを噂しているようでした。
「ほんと、マジ真面目そうに、元服早々に大臣の娘を貰って身を固めちゃったからさー、退屈しちゃってるのよねー。
んなもんだから、奥様の目を盗んではしょっちゅうどこか隠れ歩いてるんだってさー。」
などと言っていたので、源氏の君も思いあたることがあるのか、ぎくっとして、胸の潰れるような思いで、誰かそのことをぽろっと口にでもしたらどうしようかと気になってしょうがありませんでした。
だが、それ以上のこともなかったので、聞くのをやめました。
式部卿の宮の娘に朝顔の花を捧げた時の歌などを、少々話を作って語っているのが聞こえてきます。
すっかりくつろいでしまっていて、歌などを軽く節をつけて口ずさんだりしているようです。
何か評判ほどでもないなと思いました。
紀伊の守が出てきて燈篭の数を追加し、火を明るくするために燈芯を掻き立てたりして、酒のつまみのナッツ類ばかりいろいろと持ってきました。
「帳は一体どうするんだ。
催馬楽の『我が家』という唄にもあるじゃないか。
♪我が家はとばり垂れていて
大君いらっしゃい婿にしよう
肴は何かなアワビにサザエ
ウニも良いかなウニが良い』
あなたが気を利かさなければ、失礼な主人だと思われるよ。」
そう源氏の君が言っても、
「何がお望みなのでしょうか、理解に苦しみます。」
と恐縮するだけです。
端っこの寝床に仮眠を取るような形でお休みになれば、従者たちも静かになりました。
この家の主人の子供は、何気に可愛い。
中には殿上で見かけたことのある童もいる。
伊予の介の子供もいる。
たくさんいる子供の中には、いかにも品の良さそうな十二、三歳くらいのもいる。
源氏の君が、
「一体これは誰の子なんだ」
と訪ねると、
「これは今はなき衛門の督の末っ子でして、大変可愛がられていたのですが、幼い頃に父に先立たれて、姉のところに身を寄せてこの通りでございます。
漢学なども身につけていてそんなに悪くはないのですが、殿上に出仕させようとも思うのですが、どうも社交の方がすんなりとは行かないようで‥。」
と言うので、
「可哀想なことだ。その姉さんと伊予の介がってことは、おまえの義母ということになるのか。」
「その通りです。」
と言います。
「ずいぶん似つかわしくもない若い母親を手に入れたもんだな。
御門は、『父の衛門の督が娘を宮廷に出仕させたいともらしていたと聞いていたのに、一体どうしたことなのか』、といつぞや言ってた。そういうことだったのか。
人の世というのははかないものだな。」
などと源氏の君は大人ぶったようなことを口にします。
「いきなり何をおっしゃいます。
世の中というのはこのように今も昔もはかないものでございますよ。
とりわけ女の運命というのは浮き沈みあるもので、哀れなものです」
などと申します。
「伊予の介は、大事にお世話しているのかな。
夫というよりは父親のように思うだろうな。」
「そんなことは。
私を舅だと思っているというならいざ知らず、あたかも私が目を付けているかのような邪推をするなんて、もとより承服できません。」
と紀伊の守は答えます。
「でも、おまえ等のようないかにもって感じで派手に振舞っている者が、あの女房と交わることを望むかな。あの介が事情を知ったなら、見て見ぬふりをしてくれるかな。」
など雑談を交わした上で、
「で、どこにいるんだ?」
と問い詰めると、
「皆、寝殿の裏手の下の屋に下がっておりますので、もう誰も残ってはいないと思います。」
と答えました。
すっかり酔っぱらった従者たちは、皆簀子の上に寝転がって静かになりました。
源氏の君はくつろいではみるものの眠れなくて、期待はずれの一人寝になってしまったと思うとすっかり目が冴えてしまい、この北側の障子の向こうに人の気配がするのを、こっちの方に例のあの女がいるのかと思うと、高鳴る胸を圧し留めながら、むっくり起きて立ち聞きをしていると、さっきの弟君の声がして、
「ちょっと御免。どこにいるんだい。」
と、可愛らしい囁き声で言えば、
「ここで寝てるよ。
お客さんは寝たの?
近すぎると思っていたけど、そうでもなかったね。」
と言う。
今にも寝そうな声の無防備な感じがさっきの声と良く似ていたので、これが姉君《キギコ》だとわかりました。
「寝殿の東の庇でお休みになってる。
噂どおりのイケメンを見ちゃったよ。
リアルにかっこよかった。」
と小声で言いました。
「昼だったら、ちょっと覗いてみるところだったのにね。」
と眠たそうに言って、夜着に顔を潜らす音がしました。
源氏の君は「ちっ、何とか気をひいて訪ねていきたいな」とくやしそうでした。
「俺は隅っこに寝る。窮屈だけどね。」
と弟君は言って、燈芯を掻き立てたりしました。
あの女房の君は、ただこの障子口の斜め向かいで寝ているはずだ‥。
すると声がして、
「中将の君はどこなの?
人の気配がないので、何か恐い。」
と言えば、母屋を仕切っている長押の下手に人が何人か横になっていて、答えます。
「湯浴みしに下屋に下りてますが、すぐに参ります。」
みんな静かになったようなので、試しに掛け金を引き開けてみると向こう側からはかかってない。
障子口には几帳が立ててあって、灯りはほの暗く、見れば唐櫃のようなものが置いてあり散らかった中を奥へと進んで行くと、人の気配のするところがあって、たった一人だけでちんまりと臥せってました。
何か気分の悶々とするままに上に掛けてある夜着を押しやるまで、その女はさっき呼んでいた中将の君だと思ってたようでした。
「中将の君を呼んだんでしょ。人知れず私のことを思っていてくれたのですね。」
と源氏の「中将」の君が言うと、女はとにかくわけがわからず、何か恐ろしいものに襲われる気がして「やっ」と恐怖の声を上げるのですが、源氏の衣が顔をふさぎ、音も立てられません。
「急なことで遊びだとお思いでしょう。
それもわかりますが、以前からずっとあなたのことを思っていたその心のうちを、いつか知らせようとこれまで待っていたのですよ。」
と甘く囁いて、鬼神をも黙らせるような穏やかでありながらも威厳のある態度に出られると、相手の身分もあるので「変な人がいるーーー!!!」と言って大声出すのもためらわれます。
とにかく気色悪く、あってはいけないことだと思うのですが、
「みっ、見苦しい‥‥、ひっ、ひっ、人違いです‥‥。」
と言うのも息絶え絶えです。
死ぬほど心が乱される様子が身悶えするくらい弱々しいのを、可愛いなと眺めては、
「見間違うはずのない心の道しるべを、知らずにあなたは迷ってらっしゃるのですか。
変なことは一切いたしません。
私の思うことを少し聞いて下さい。」
そう言うと、ごく華奢な体を抱え上げ、お姫様抱っこで障子の外に出ると、さっき呼ばれていた中将の君と思われる女房とかち合いました。
「あっ‥‥」
と声を上げて、不審に思い調べようとして近づくと、ひどく良い香りに満ちて、顔にその匂いがもわっとかかるような感じなので、誰だかわかりました。
「ひどいっ、一体どうなってんのっ。」
とどうしていいのかわからなくなるけど、知るすべもありません。
普通の人であれば力づくでも引き離すところなのだが、それにしても多くの人に知られるとかえって混乱して、何が起きたかわからなくなりそうでもあります。
心穏やかでなく、後を追ってはみたもののどうにもできず、二人は奥の部屋に入っていきました。
障子をパタンと閉めて、
「朝未明には迎えをよこしてくれ。」
と言うけど、一つ部屋に閉じ込められた身には源氏の君が何を考えているかもわからず、死ぬほど心配になり、汗がだらだらと流れ、頭もくらくらして、とても辛そうです。
(この後二人に起こった出来事は憚り多くて記されていないが、大体ご想像の通りと思っていただければ。
ことが終りまして‥‥)
例によってどこから引っ張り出してきた言葉なのか、いかにも愛情を込めているふうなうわべだけの心遣いで、聞いてる方としてはあきれるほかなく、
「正気とは思えません。
取るに足らないような者ですが、このような見下したような態度を取られたからには、浅い気持ちで済むはずがありませんよ。
大変な身分あるお方でしたら、身分に相応しいことをしてください。」
と言って突っぱねるものの、女の嫌悪感にかられた深く思い悩み、塞ぎ込む姿がいかにも辛そうで、源氏の君も気後れしたふうで、
「その身分に相応しいことなんて、まだわからない。
これが初めてなんだ。
まさか、そんな遊び慣れた人たちのように思われるなんて心外だ。
たまたま知っていることはあっても、身勝手な遊びだけの恋なんて誰からも教わってはいないし、こんな真剣な気持ちだというのに、まったくこんなに軽く見られてしまうなんて‥‥。
気が動転するのも当然だし自分でも不思議なくらいなんだ。」
などと、必死にいろいろと言っては見るけれど、女の方としても、そんな偉そうな態度を取られたのではますます打ち解けて話し合えるような空気ではなくなり、頑なで可愛いげのない女なんだと思われようとも、この人にとっての取るに足らぬ女のように振舞ってやり過ごそうと、つれない態度を取り続けました。
人柄がしなやかで、いくら暴力的に我が物にしようとしても、なよなよした竹のようで、さすがの源氏の君の力でも折れる様子はありません。
本当に打ちひしがれた気分で、身勝手な感情に何を言っても駄目だと思って泣く様子など、本当に気の毒です。
源氏の君もまた、心苦しいとは思っても、自分へ靡いてくるところを見ないまでは悔しくてこのまま引き下がれないと思ったのでしょうか。
気持ちをやわらげてやることもできずに、つれない女だと思ったのか、
「何で私のことをそんなにも疎ましく思うのですか。
思いがけなくこうして出会えたのは、前世の契りがあったからこそだと思ってください。
男と女の情をまったく知らないかのようにとぼけられてしまうのは大変辛いことです。」
と未練がましく言われても、
「まだまったくどこに行けばいいのかわからなかったかつての私でしたら、こんなお心遣いを受けるのも願ってもないことだったかもしれません。
前世の縁があったのでしたら、今でなくても後世にでもと思ってどうかお心を静めて下さい。
ただこんな現世のはかない一夜のことすら私には似つかわしくないものと思うと、ただ困ってしまうだけです。
どうか今夜のことはなかったことにしてください。」
と言って思い悩む様子は、まったく当然ともいえます。
一応の約束をし、慰める言葉もさぞたくさんあったことでしょう。
*
鶏が鳴きました。
みんな起きてきて、
「マジ、すっかり寝込んじゃったな。」
「車の用意をしろ。」
などと声がします。
紀伊の守も出てきて、
「方違えで来た女連中には、夜も明けぬうちに急いで帰ってもらいなさい。」
などと言います。
源氏の君は、またこのようなついでにここを訪れることもありそうにもないし、わざわざ行くのもいかなるものか、理由もないのに手紙を送ったりするわけにもいかないし、と思うと胸が締め付けられるようです。
奥からあの中将の君も出てきて、どうにも心の痛みに耐えかねない様子で女を迎えに来たので、一度は女の退出を許したもののまた引き留めて、あえて何もなかったかのように中将の君に聞こえるように言いました。
「何と言えばいいのか。
いまだかつてないようなあなたの冷たい仕打ちや、悲しみを深く刻み込んだ一夜の思い出は、お互いにまったく思いもよらなかったことだった。」
と言って涙までこぼす様子は、何かを仕切に仄めかそうとしているようでもありました。
鶏が盛んに鳴き立てて、心もあわただしく、
「つれなさの恨みも尽きず夜も白み
とりもなおさず目を覚ますのか」
女は自分の立場を思っては、どうにもなすすべもなく目も背けたい気分で、源氏の君のなかなかのうまい嘘をついてくれたことも何の感慨もなく、いつもは糞真面目で嫌な感じなのでバカにしていた伊予の介のことが気がかりで、夢に出てくるのではないかと空恐ろしくて気が咎めるのでした。
「身を嘆けば飽きることなく明ける夜は
とりかさなるように声あげて泣く」
すっかり明るくなったので、源氏の君は女を障子口まで送って行きました。
部屋の内も外も人の声が騒がしいので、障子を閉めて別れることほど心細いこともなく、まるで関所のようでした。
直衣を着て部屋を出ると、寝殿の南側の階段の欄干のところに佇み、しばしその女の出て行くのを眺めてました。
西側の廂の間の格子の所にざわざわと人が集っては格子を引き上げ、覗いてます。
簀子の中ほどに立てられた小型の衝立の上にほのかに見える源氏の君の姿を、好奇の目でしみじみと見つめているのでしょう。
有明の月の光も薄くなり、辺りの景色がはっきりと見えて、なかなかいい感じの明け方です。
何でもない空の景色も、見る人によっては美しくもなれば荒涼としたものにもなるものです。
源氏の君の人の知らない心中は、それこそ胸が張り裂けるようで、手紙を託すような縁者もなく、何度も後ろを振り返ってはこの屋敷を退出なされました。
左大臣の家に戻っても、すっかり目が冴えてしまって眠れません。
もう一度会う方法も思いつかず、ましてあの女が心の中で思っていることを、どんなだろうかと切なくて狂いそうな気持ちで妄想をめぐらしてました。
「たいした女ではないのだけど、安心してお世話を任せられそうな中品の女なのかな。
やっぱ隅々まで知り尽くした人の言うことは本当だな。」
と左馬の頭の言ってたことを思い出しては一人で納得してました。
*
しばらくは左大臣の家にいて、外出はしませんでした。
あれ以来音信不通で、あの人が何を思っているのか、あんな爺さんの女になっていることが気の毒で気になってしょうがなく、悩む気力もなくなるほど悩みに悩んで、ついには紀伊の守を招待しました。
「あの、今はなき中納言兼衛門の督の子をこちらにくれないか?
なかなか可愛らしいし、付き人にでもしようかと思う。
御門にも私のほうから頼んでみようと思う。」
とおっしゃれば、
「何とも勿体ないお言葉と存じます。
姉にあたる人にも申し上げておきます。」
と言ったので、胸がズキュンとするような気分になったのですが、そこは抑えて、
「そのお姉さんというのは、あなた様の弟に当たるお子さんをもうけてるのか?」
「そんなことはありません。
この二年ばかり、このような状態になってますが、今はなき衛門の督の意向に背いたと思い悩んでまして、その気にはならないのだとお聞きしております。」
「気の毒なことだ。
なかなかの美人だと聞いているぞ。
本当なのか?」
と尋ねれば、
「悪くはありませんよ。
年が離れていて話も合わないので、世間でもよくあるとおり、ほとんど一緒になることはありませんが。」
という答が返ってきました。
*
さて、五、六日たってからその少年がやってきました。
線の細い美少年というわけではないけど、そこはかとなく高貴な血筋が感じられます。
迎え入れて、やけにぴたっと密着して話しかけたりします。
そこは子供なので、すっかり喜んで嬉しそうです。
もちろん姉さんのこともあれこれ詳しく聞きだします。
だが、そういったことは適当な返事をして、恥ずかしそうに言葉を濁すので、なかなか本題を切り出すことができません。
それでも何とか言い聞かせて手紙を持たせました。
こういうことも多少はわかっている年頃ではあっても、まさかとは思って幼心に深く考えもせず手紙を持ち帰ったので、姉君は恐怖の記憶が蘇り涙がこぼれ出てきました。
弟が何て思うかと思うとみっともない所も見せられず、やっとのことで顔を隠すようにして手紙をひろげました。
結構長い手紙で、
《あの日見た夢よもう一度と思う間に
め合わせもなく時は過ぎ行く
君のことを思わずに寝る夜もなければ‥。》
などという「目を合わす」と「妻合わせ」を掛けたご立派な歌や筆跡も、すっかり涙の霧に目が霞み、何とも不条理な自分の人生に思い悩み、寝込んでしまいました。
次に弟君が源氏に召されたとき、行ってくるから持ってく返事はあるかと聞くから、
「あんな手紙は読む人もいません、と言っておいて。」
と言えば、にっこり笑って、
「人違いだなんて聞いてないよ。どうやってそう言えばいいの。」
と言うので、そんなことを頼むのも無理かと気が咎めるのですが、源氏の君がみんな喋っちゃったと思うと、ひどい仕打ちに堪えることができません。
「ならば、大人の話はしない方がいいね。
そうね、それなら、源氏の所へは行ってはいけません。」
と不機嫌に言い放ちました。
「招かれてるのに、しょうがないよ。」
と言って、弟君は源氏の所へと出かけていきました。
紀伊の守はこの若い継母に興味があるのか、立派な振る舞いだと賞賛し、ご機嫌を取っては気を引こうとしては、そばに引き連れてお世話をしています。
源氏の君は弟君を招いて、
「昨日は一日中待ってたというのに、その気持ちをわかってくれなかったのか。」
と不満そうに言うので、弟君は顔をパッと赤くしました。
「で、どうだ?」
と言われて、いろいろ説明するのですが、
「言ってもしょうがないか。
ったく使えねー。」
と言って、またも手紙を預けました。
「君は知らないんだな。
伊予の爺さんよりも俺の方が先に付き合ってたんだ。
だけど、貧相で頼りないからなんて言って、でっぷりとした後見を選んで、こんなふうに俺のことをバカにしてるようなんだ。
それでも、君は俺の弟でいてくれ。
姉さんが頼りにしている人は、先行き短かそうだし。」
と適当なことを言えば、「そんな触れてはいけない過去があったのか」と思うのを源氏の君は「やったっ!」とひそかにほくそ笑みました。
この弟君を従えて内裏にも連れて登ったりしました。
御匣殿に頼んで装束なども調えさせました。
まったく親代わりであるかのようでした。
手紙はしょっちゅう託されてました。
それでも女にしてみれば、弟はまだ子供で、他のことに気が散って、手紙を落としたりどこかでぽろっと喋っちゃったりしたら、すぐにでも噂になって叩かれかねない自分の立場を思うと、こんな所で遊ぶわけにもいきません。
幸せもまず背丈に合ったものでなければと思うと、そうそう気軽に返事をするわけにもいきません。
微かに思い出す源氏の匂いや容貌も、いつもの源氏の君らしくなかったと思えばわからないでもないけど、今の愛情あふれる様子を見たところで一体どうなることもないと思いなおすのでした。
源氏の君は一時も休むことなく、切なく苦しくそれでも恋しく思うばかりでした。
「今夜のことはなかったことにしてください」と言った時の思い悩む様子など思い出しては、気持ちを晴らす方法もないまま悶々日々を過ごすのでした。
軽々しく、こっそりと隠れるようにして立ち寄るようなことをしても、人目の多い所では挙動不審に見られるし、あの人にも迷惑がかかると思い煩うのです。
源氏の君は、例によって内裏で何日も過ごしながらも、同じような天一神が左大臣《イエカネ》邸や二条院の方角になる時を待ってました。
あの時を真似て、急に方違えに気付いたふりをして、左大臣邸へと向う道の途中から紀伊の守の家に向かいました。
弟君には昼のうちにこの計画のことを話し、約束しました。
日頃から朝に夕にお供させ、すっかり手なずけたので、今夜も真っ先にお呼びになったのでした。
女も今日の訪問のことを弟君を介して伝えられていて、さすがに急に来て騙そうとしないあたりはそんなに軽い気持ちで来るのではないとは思っても、だからといって歓迎して見苦しい様を見せるのも不愉快だし、悪い夢だと思ってこれまで過ごしてきた苦しみをまた味わうのかと思うと気も狂いそうで、だからといってこの機会に何とか説明するのも気がひけるとなれば、弟君が内裏へ行ってていないときに、
「弟は源氏にあまりに親しくしすぎているので、はたから見ても心苦しい。
気分がすぐれないので、密かに肩や腰などを叩いてもらいたいので、ちょっと離れた所を用意して。」
と言って、渡殿(南の釣殿に向う渡り廊下)に中将の君が建具で囲ってこしらえてくれた隠れ場所に移りました。
源氏の君は例の女の所へ行こうとして、みんなを早く寝静まらせて、弟君に伝言を託すのですが、見つかりません。
あちこち片っ端から調べて歩き、渡殿もくまなく探しやっとのことでたどり着きました。
ひどい自己嫌悪に陥って情けないと思っているのか、
「これじゃあ、とことん使えないやつだと思われちゃうよ」
と泣きそうな顔で言うので、
「こんなまともでない言い付けに従っては駄目でしょ!
まだ子供なのに大人の関係の仲立ちをさせようなんて、忌むべき上にも忌むべきことです。」
と叱りつけて、
「『気分がすぐれないので、女房達を下がらせずに指圧などをさせてます』とでも
言っておいて。
誰も怪しいなんて思わないはずよ。」
と言い放って、心の中では、
「まったく、こんな伊予の介なんてジジイの所に囲われている身分でなくて、死んだ親の面影の残ってる実家にいて思いがけない出会いを待っていたなら、大歓迎するところなのだが。
こうやって無理にでも知らん顔して無視していると、いかにも身の程知らずと思われるだろうな。」
と思うと胸は痛み、さすがに心も乱れてきます。
そして、
「何がどうなろうとも、今は何を言ってもしょうがないこういう運命なんだから、そのうち頭の悪い食えない女だと思ってあきらめてくれるだろう。」
と結論付けました。
源氏の君は、どうやって姉君を説得してくれるのかと思ってはみるものの、弟君はまだ幼いので気が気でなくじっと寝転がって待っていたところ、うまくいかなかったということを聞いて、すっかりあきれて、思いもよらないような女の心のほどに、自分もその程度だったのかと恥ずかしく思い、困り果てた様子でした。
しばらく何も言わず深くうめき声を上げて、すっかり嫌気が刺したようでした。
「帚木の心見えずに原っぱを
ただ分けもなく迷うばかりだ
わかってくれるとは思いませんが。」
と歌を贈りました。
女もさすがに眠れなくて、
「私など生まれ貧しく帚木の
名前も嫌で消えるだけです」
という返事でした。
弟君はとても困ったように、目を爛々とさせてうろうろしているのを、人が見たら怪しいやつだと思うと、とても心配そうでした。
例によって他の人たちは爆睡状態で、一箇所だけ源氏の君が起きていて、放心したように漫然と物思いに耽って、まして他にないようなあの女のキャラクターが未だに忘れようとしても浮かんでくるのが癪で、こういうところがまたいいのだと一方では思いながらも、馬鹿にされたようでむかついてくるので、なるようになれと思ってはみるもののそうも思い切れず、
「その隠れている部屋に案内しろ」
と命じてみるものの、
「閉じこもって外からの人を寄せ付けないようにしているし、中にはお付きの人がたくさんいて、近寄りがたいですよ。」
と答えるのですが、困ったことになったと思ってます。
「そうか、だがおまえだけは俺を見捨てないでくれよ。」
と言っては、弟君の横に添い寝しました。
若くて自分にべったりくっついてくる源氏の君がうれしくてしょうがない様子で、あのつれない女よりもかえって可愛いらしくお思いになりました。