朱雀院の行幸は十月の十日過ぎでした。
今回の催しは例年になく面白くなりそうだということで、禁中を離れられない後宮の女たちは、それが見られないことを悔しがってました。
御門も藤壺がそれを見られないことをご不満に思って、禁中でそのリハーサルをさせました。
源氏の中将『青海波』を舞いました。
『青海波』は二人舞なので、もう一人左大臣家から頭の中将が舞うのでしたが、ルックスといい仕草といい並外れているものの、源氏と一緒では桜の脇の樫の木のようなものでした。
夕暮れの傾く陽射しが鮮やかに射し込む中、楽の音も澄み切って最高潮に達する頃には、二人のぴったりとそろったステップ、表情など、この世のものとは思えません。
舞が止み、台詞の部分になると、浄土から聞こえてくる仏のカラビンカの声もかくやと思えました。
御門はすっかり感極まって涙を落としました。
上達部や親王たちも、皆泣きました。
台詞が終って衣装を変えると、ふたたび待ってましたとばかりに音楽が盛大に始まり、ふたたび舞い始める顔はさらに晴れやかになり、いつもよりさらに光る源氏となりました。
皇太子の母君である春宮の女御は、これほどの素晴らしい舞を見るにつけても穏やかではなく、
「神様が空に連れてって手元に置いておくといいような美貌ね。
マジ危ないわ。」
と漏らすのを、若い女房たちは「うわー、やな奴」と思って聞き耳を立てました。
藤壺は、あんな大それたことさえなければ素直に素晴らしいと思えるものを、心ここにあらずです。
その夜、藤壺は御門に呼ばれました。
「今日のリハは『青海波』に尽きるな。
どう思うか?」
と聞かれ、一瞬どう答えていいかわからなくなり、
「殊更でございます。」
と言うだけでした。
「もう一人のほうも悪くなかったな。
舞の仕草といい手の遣い方といい、さすが左大臣家の子だ。
世間でもてはやされている舞の師匠達も確かに上手いが、ああいう若々しい初々しさは無理だな。
リハの段階で全部見てしまうと、本番の紅葉の下で見るときの感動がなくなるとは思ったが、君に見せてあげたくて準備したんだ。」
とのお言葉です。
翌朝、源氏の君から手紙が届きました。
《どのようにご覧になられたことでしょうか、密かに心乱してまして、
苦しくて舞ってられない俺なのに
袖を振ってる気持ちわかりますか
ご無礼を。》
とあり、今も目に焼きつくあの光景を見なかったことにもできなかったのか、その返事に、
《中国人が袖を振っても遠いこと
ただ振る舞いは奇麗でしたよ
一般論として。》
とあるのを、とてもびっくりして、女といっても『青海波』の舞をきちんと理解していて、中国の皇帝のことを気遣うお后様のお言葉を今から拝見できるとはとほくそえみ、経本を紐解くかのようにありがたそうに広げては眺めるのでした。
*
行幸には、親王たちをはじめとして、宮廷に残る人もほとんどなくお供しました。
当然皇太子様も出席します。
例によって、船首を龍などで飾った二艘の船の上にステージを組んだ楽団の乗る双胴船が漕ぎ廻り、唐楽、高麗楽などありとあらゆる舞が舞われ、その種類も豊富でした。
管弦の声、鼓の音、辺り一帯に響き渡ります。
先日の源氏の夕暮れに舞う姿に、神様に召されては大変ということで御門が人を呼んでお経を唱えさせて、皆もっともなことだと感銘に耽っている中で、春宮の女御は
「いい気なものね」と憎まれ口を叩いてました。
垣代という、舞手を垣根のように取り囲む楽団員などは、殿上人からも地下の者からも、世間で高く評価されている名人ばかりを集めてきています。
左衛門督、右衛門督の二人の宰相が、それぞれ左方の唐楽と右方の高麗楽を担当しました。
舞の指導者も非凡な人材を集めて、それぞれ缶詰になって練習しました。
背の高い紅葉の陰に四十人の垣代を揃えて吹きたてる名状しがたい楽の音色は、折から吹く松風か深山颪であるかのように聞こえ、あたかも楽の音が色鮮やかな木の葉を散らしていくかと見まがうばかりで、そこに現われ出でた『青海波』の舞の光り輝く様はまさに鳥肌物です。
髪に刺した紅葉が散ってしまって、夕陽に赤く照った顔に圧倒されたような感じがするので、左大将が前にあった菊を折って紅葉の枝と差し替えました。
日が暮れかかる頃、天気までもが俄かに時雨れて、あたかも空までもが空気が読めるかのように、最高の舞姿にさらに菊の色までが雨に濡れたところに夕陽の輝きを添えてこの上ない髪飾りとなり、リハの時にはなかったような二度とないような持てるすべてを出し尽くしたようなフィナーレには全身に震えが走り、この世のものとも思えません。
本来参加を許されてない下々の人間も、木の下や岩の陰や山の木の葉に埋もれながら、ちょっとでも美を解するものなら涙を流してました。
承香殿の女御から生まれた四番目の皇子はまだ子供で、『秋風楽』を舞ったのが、それに継ぐ今回の目玉でした。
この二つの面白さに眼を奪われてしまったのか、他の出し物は目に止まらず、むしろせっかくの感動を台無しにしたかもしれません。
その夜、源氏の中将は従三位から正三位に昇格しました。
頭の中将も、従四位上から正四位下に官位を上げました。
上達部はみな相応の昇進を果して喜びましたが、源氏の君の昇進に伴うものだったので、ただ舞を見せてびっくりさせただけでなく、出世願望も満たしたわけです。
一体どんな前世の徳があったのか見てみたいものですね。
*
藤壺の宮はそのころ宮中を退出したので、源氏の君も例によって隙をうかがって歩きまわるばかりで、奥方の方もすっかり取り乱して大変なことになってます。
その上、あの若草を奪ってきたことで、「二条院に女を連れ込んだ」という噂を耳にすれば、不愉快なことこの上ありません。
「自分が内心何を考えているかはわからないだろうけど、まあ、そう思うのもしょうがないんで、もっと可愛げがあって普通の女のように不満をぶちまけてくれれば、俺だって心開いて話し合って、なだめてあげようという気にはなる。
それが自分でも思ってなかったようなことを勘ぐられたりして不愉快になるから、本当はしたくもない浮気心も出てきてしまうんだ。
別に見た目といい才能といいこれといった欠点もなければ、不満に思うようなこともない。
誰よりも早くから好きだった人だし、心惹かれいつだって大切に思っているというのに、それが伝わらなくてもいつかはわかってくれると、本当はどこかに落ち着きたくて、好きで軽々しくしているのではないことも、いつかは自ずとわかってくれる」
と期待するのもおかしなことです。
幼い方の人は、いつ見ても性格容貌とも不足なく、無邪気にまとわりついてきて離れません。
しばらくは二条院の中の人にも誰なのか知らせないようにして、西の離れた方の対にこの上なく調度などを飾り立てて、源氏自身も朝から晩まで入り浸って、いろいろなことを教え、字などもお手本を書いて練習させたりして、外で作った娘を引き取ったかのような感じです。
家財の管理をする政所家司という管理人などを、新たに別に人を選んで、不足のないように仕えさせてます。
惟光以外の人は、ぼんやりとしかそのことを知りません。
実の父もあずかり知らぬことです。
若草の姫君は、今でも時々尼君のことを思い出しては恋しがることが度々あります。
源氏の君が在宅の時は気持ちも紛れているものの、夜などはいつも家にいるわけではなく、あちこち出かけて行ったりして忙しく、日が暮れるとどこかへ行こうとするのを追いかけたりするようなこともあって、それが可愛くてしょうがないようです。
二、三日参内したり左大臣の所に行ったりする時は、すっかりしょげ返っているので、心苦しく、母のない子を育てているような気分で、落ち着いて外出もできません。
僧都はこういったことを聞くと、疑惑は残るものの、これで良かったんだと思いました。
尼君の法事をする時も、盛大に執り行いました。
藤壺が宮中から実家へもどったというので、その三条の宮にどんな様子なのか気になって尋ねて行けば、王命婦、中納言の君、中務といった人たちが出てきました。
「会わせないようにするつもりだな」と不愉快に思うもののそこは抑えて、ごく普通に世間話をしていると、兵部卿の宮がやってきました。
源氏の君が来ていると聞いて、会うことになりました。
なかなかの美形でなよなよとして色っぽく、女だったら美人だろうなと密かに思いつつ、お互いに親しみを感じるのか、いろいろこまごまとした話をしました。
兵部卿の宮の方も、源氏の容姿をいつになく間近で親しげにしながら見るにつけ、「すげー美人」と思い、自分の娘の婿になっているのも知らずに、女にして愛してみたいなどと思ってました。
日が暮れて兵部の卿が藤壺の宮の御簾の内に入っていくのを、源氏の君がうらやましく、昔は御門に仲良くするように言われて、本当にすぐ近くで人を介すこともなく話ができたことを思えば、こんなふうに遠ざけられているのが辛く思えるのもしょうがないことなのでしょう。
「本当はもっとちょくちょく参上すべきなのだけど、大した用もないので何となくサボっていただけで、用があるときは遠慮なく言ってくれれば嬉しいのだけど。」
などと形ばかりの挨拶をして帰りました。
王命部も会わせる手筈をつけようもなく、藤壺の宮の様子も前よりいっそう悲しみに沈みがちで心を閉ざした状態なので、ちょっと気がひけるし見るのも辛いので、その後何をするともなく時は過ぎていきました。
短い間の恋だったと苦しく思い悩むのは、源氏の方だけではありません。
*
少納言の乳母は、
「思いもよらなかった良縁に恵まれたもんだ。
これも亡き尼君の若君のことを心配して、お勤めを欠かさなかったからこそ、仏様に祈りが届いたからに違いない。」
と思いました。
とはいえ、
「本妻は本当に高貴な家の出だし、あちこちにたくさんの女と関係しているから、本当に若君が大人になったときには苦労するんではないか。」
とも思います。
だけど、こんなに特別に大事にされていることを思えば、十分期待が持てそうです。
裳の期間は母方の祖母なので三ヶ月間ということで、大晦日には喪服を脱がせたものの、実の親に育てられてこなかったので、あまり派手な色ではなく、薄紅、紫、山吹の無地の小袿などを着た姿が、結構今風でおしゃれな感じです。
男君は元旦の宮廷の朝拝の儀に参加する前に若君の所を覗き、
「今日からはちゃんと大人らしくしてくれるのかな。」
と言ってにっこり笑うさまは、なかなか愛らしくて好感がもてます。
と、言ってるそばからせわしく紙人形を並べて雛遊びを始めてます。
一メートル近い戸棚などの一揃いにいろいろなものが入れてあって、小さなドールハウスのようなものを作りそこに並べ立てて、所狭しと広げて遊びます。
「昨日大晦日の鬼やらいだといって、犬公が壊しちゃったので、修理してるの。」
と、真剣な顔で言います。
「そりゃひどいことする奴だな。
今から元通りにするように言うから。
今日は正月なんだから悪いことを口にするのはやめにして、泣いたりもするんじゃないぞ。」
と言って出発しようとする様子を、所狭しとみんな端のほうに出てきて見ているので、若草の姫君も出てきて見送ったあと、雛遊びセットの中の源氏の君の紙人形を正装させて、参内ごっこをしてました。
「今年こそ少しは大人になりなさい。
十歳を過ぎて雛遊びなんてするものではありません。
ましてこのように結婚なさったのですから、女らしくおしとやかにしてみせなさい。
櫛で髪を梳くのも面倒くさがって。」
などと、少納言の乳母は言いました。
雛遊びにばかり夢中になっているのを少しは恥ずかしいと思わせようとしていったのですが、若草の方はというと、心のなかで、
「そういえば私には夫がいたんだ。
少納言や他の女房も結婚しているけどみんなぶっ細工。
私にはこんなに若くてイケメンの人がいるんだった。」
と今さらながら気付くのでした。
こんなことでも、一つ年を重ね、また一つ大人になった証拠なのでしょうか。
こんな幼い様子がことにふれて知られてくると、二条院に仕える人たちも、変だなとは思っているものの、ここまで色気のかけらもないと、夫婦関係だとは思いませんでした。
源氏の方は、内裏から左大臣邸に行きました。
奥方は例によってつんと取り澄ました様子で、それでいてこれといった感情を表すわけでもなく、息が詰まるので、
「今年こそは少しは夫婦らしくしようと心を入れかえてくれればどんなに嬉しいことか。」
などと言っては見るものの、わざわざ女を呼んできて傍にはべらせていると聞いて以来、本妻の地位を脅かすのではないかと戦々恐々で、ますます接することをためらいがちになっているようです。
それでもまったくバレてないかのようになれなれしく振舞われると、頑なに口を閉ざすわけにもいかず、ついつい返事してしまうあたり、あの姫君とはまったくちがいます。
四つほど年上なので、大人びて、まぶしいくらいに成熟し完成された女に見えます。
「本当に非の打ち所のないいい女なんだな。
完璧すぎるからついついそこから逃れて勝手気まましたくなって、こんなふうに恨まれちゃうんだろうな。」
と納得しました。
同じ大臣の中でも常に高い評価を得て止まないあの左大臣と皇女との間にできた一人娘で、大事にされてきた箱入り娘だからプライドの方も並大抵でなく、ちょっと軽く見られただけでも癪に障るというのに、夫からは「なんでそんなことで」と繰返し言われるので、それが心の中のしこりになっているのでしょう。
左大臣も源氏の君のこんな頼りない状態を情けないと思いながらも、源氏の君と会う時は日頃の不満もどこぞとせっせとお世話をするのでした。
翌朝出て行くところにも顔を見せ、着替えを手伝う時に、由緒ある宝玉を用いた玉帯を自分で持ってきて後で締めてあげるなど、靴まで履かせてあげかねない様子で、哀愁すら漂います。
「こういうものは内宴のような華やかな席で身に着けるもので、その時にしてほしい。」
などと源氏の君が言ってはみるものの、
「そのときはもっと凄いものを用意します。
これはただ、あまり知られてないものなので。」
と言って、無理やり着けてしまいました。
まさに万事において世話を焼くことが生きがいで、思いがけなくもこれだけの人を婿として迎え入れることができたことで、これ以上のことはないと思っているのでしょう。
新年の参賀といっても、そんなにいろいろな所に行くわけではなくて、御門の所、春宮の所、法皇の一院くらいで、それに加えて藤壺の三条の宮にも行きました。
「今日はまたわざわざおいでなさって。」
「また一つ大人になられて、恐ろしいくらい美しさに磨きがかかってまして。」
と女房達の嬉しそうな声が聞こえてくるので、藤壺の宮様も几帳の隙間から覗き見るにつけても思いは複雑です。
このたびの御出産に関して、師走が終ってもその兆候がなく、今月こそはと藤壺に仕える人たちも心待ちにし、御門にもいろいろ期待していることがあるものの、つれなく時は過ぎました。
物の怪の病だと、世間がそういって騒いでいるのが藤壺の宮にはとても辛くて、このまま身のいたづらになってしまうのかと思うと溜息がこぼれ、気分も塞がりがちで悩むばかりです。
源氏の中将の君もますます、やはりあの時のと確信し、密かに方々のお寺で験者に祈祷をさせたりしました。
この世の無常を思うと、こんなにも儚く終ってしまうのかと、何もかもひっくるめて悲嘆にくれているうちに、二月の十日過ぎについに男の子が生まれたので、御門も三条の宮の人たちもそれまでの不安から一気に解放され、惜しげなくそれを喜びました。
「このまま生きていても」と自己嫌悪になるものの、弘徽殿女御が呪いの言葉を口にしていると聞くと、これで空しく死んだとわかればいい笑いものになるだけだと思うようになって、それ以来、少しづつ病状も回復しました。
御門は早く我が子を見たくてしょうがありません。
源氏の君も、とても人にはいえない秘密からか、どうにも気が気でなく、人がいない時を見計らって、
「御門が早く見てみたくてそわそわしているというので、その前に確かめてからお見せしましょう。」
と藤壺の宮に話すのですが、
「それはちょっと難しい。」
と言って見せようとしないのにも理由があります。
というのも、本当にびっくりするほどこんなことがあるかというくらい源氏の君に瓜二つで、ごまかしようがありません。
藤壺も、こんな誰が見てもおかしいと思うようなことを人が気付いて非難しないはずもないし、ちょっとしたことでも何かとあら探しする人の多い世の中で一体何を言われることかと、自分自身を鬼のように責め立て、一人煩悶するばかりです。
源氏は王命婦にたまたま会ったので、何とか藤壺に会わせてくれと、とても言えないようなことをあれこれ言っては見るのですが、どうすることもできません。
特に、赤ちゃんのことを異様に不安そうに尋ねるので、
「何でそんなに焦ってるんでしょうか。
もう少ししたら自然に見るときも来るでしょうに。」
と言いながらも何か考え込むあたり、いづれもただならぬ様子を察しているのでしょう。
傍目にも痛々しいので、正面きっても言えず、
「もう二度と直接会うことはできないのかよぉおおおおっ。」
と泣き出してしまう様子には胸が締め付けられます。
「何があって前世で結んだ約束が
今こんなにも引き裂かれるんだ
もう本当にわけがわかんないよ。」
と泣き叫びます。
王命婦も、藤壺の宮が悩んでいる様子をよく知っているので、中途半端に放って置くわけにもいきません。
「見なくても見ても苦しむばかりです
これは誰もが迷う暗闇
悲しいけど心得ておかなくてはいけないことです。」
と小声で言いました。
これ以上何ともいいようがなく源氏の君は帰っていきました。
藤壺の宮は人から何を言われるかと思うとやっかいなので、理不尽だなとは思いつつも、命婦に告げて昔のように親しくすることをやめました。
命婦も人目を気にして何ごともないふうにお世話を続けるものの、随分冷たいなと思う時があってすっかり落ち込んで、まさかこんなことになるとはと思うのでした。
*
その赤ちゃんは四月に内裏へやってきました。
三ヶ月にしては大きく育っていて、ようやく首も据わり、肘を突いて頭を起こしたりできるようになりました。
驚くほどのごまかしようのない顔つきも、御門からすればあずかり知らぬことで、高貴な人間というのはどこか似通った顔になるんだなと思いました。
それはもう、これ以上ないくらいの猫かわいがりです。
源氏の君を本当に大事に思っていながらも、世間が許さなくて春宮の坊に置くことができなかったことが不満で心残りで、臣下となって申し訳ないような姿に成長したのを見るにつけても心苦しくて、今このように王家の血筋からよく似た光輝く皇子を差し出されれば、疵のない玉のように大事にするのも当然で、藤壺の宮は何かにつけて胸の痛まない日はなく、心安らぐことはありません。
例によって源氏の中将の君が内裏で楽器を演奏していると、御門がこの新しい若宮様を抱いて登場し、
「皇子はたくさんいるけど、おまえのことだけはこんな小さな頃から毎日見てきた。
だからこんなことを思うのだろうか、本当によく似ているんだ。
赤ちゃんの時というのはみんなこんなふうなものなのだろうか。」
と、大変な美形だと思っていました。
源氏の中将、顔から火が出るような思いで、恐ろしく、申し訳なく、嬉しく、悲しく、様々に心が揺れ動いて、涙が流れ落ちました。
クーイングをして笑ったりする様子がひどく妖しいまでに美しく、これに似ていたと言うなら、我ながらどうにも放ってはおけないなと思うのも無理もないなと思うのでした。
藤壺の宮は罪の意識に耐えかねて冷や汗たらたらです。
源氏の中将は、いろいろな気持ちがごちゃごちゃになってすっかり混乱したのか、退出しました。
二条院に戻って横になるものの、心のもやもやを晴らすことができずに、しばらくしてから左大臣の所へと思いました。
正面の植え込みが至って普通に青々としている中に、ナデシコが華やかに咲いているのを折らせて、王命婦のもとに手紙を結んで、本当は言いたいことがたくさんあったのでしょうけど‥‥。
《我が身だと思えば心静まらず
露ににじんだ撫でし子の花
我が庭の花として咲いてほしいと思ってはみても、この世ではどうしようもないことですが。》
と書いてあります。
誰もいないときを見計らって藤壺の君に見せ、「ほんの砂粒ほどでもこの花びらにお返事を」と言うと、自分のことのように魂が引きちぎれるほど悲しくなって、
《袖濡らす露の理由がわかるから
そっとしておいて大和撫子》
とだけ、署名もなく書き記してあるのを、王命婦は喜んで源氏のもとに送りました。
いつものように何の返事もないだろうと思って、力なくぼんやりと寝そべっていた所にこの手紙で胸がいっぱいになり、あまりの嬉しさに涙を流しました。
うだうだとふて寝してもどうしようもないので、例によって癒しを求めて西の対《たい》に行きました。
ラフな袿姿で、耳の上の辺りの結い上げた毛は寝癖が付いてふくらんだまま、笛を切なそうに吹きながら覗いてみると、若草の君のナデシコの露に色の映えたかのように 寄りかかるように寝そべっている様が、奇麗で可愛らしく思えました。
嬉しさの隠しようもないのに、帰ってきたというのになかなか来なかったことがやや不満だったのか、今日に限ってぷいっと背を向けます。
部屋の端の方に膝を着いて座り、
「こっちへ。」
と言っても反応がなく、
♪潮満ちて海に隠れる海草の
逢うは少なく恋しさ多く
と坂上郎女の歌を今風に口ずさんでは、口を手で押さえる仕草が、なかなか悪戯っぽくて可愛いものです。
「むかつくなー。
どこでそんなこと覚えたんだ。
よみ人しらずの歌の、伊勢の海人の朝夕潜って採るという海松《みる》ことあれば飽きるくらいに、と思っても、うまくいかないもんだな。」
と言って人を呼んで琴を持って来させて弾かせました。
「筝の琴は一番細い巾の弦が切れやすくて扱いにくい。」
と言って壱越調から平調にダウンチューニングしました。
ざっと掻き鳴らして弦が合っているのを確認してから若草の君の方に差し出すと、ふくれてばかりもいられず、奇麗な音色を奏でます。
小さい体なので、押し手をして音を半音上げる時に身を乗り出して、手を目一杯伸ばす様子がとても可愛らしいので、もっと弾かせてみたくて笛を吹き鳴らして曲を教えました。
なかなか筋がよく、難しいフレーズも一度聞いただけで耳コピします。
なにをやらせても器用にこなすなかなかの才能に、夢がかなったような心地です。
『保曾呂惧世利』というわけのわからないタイトルの曲ですが、透き通るような奇麗な音色で吹くと、それに合わせて未熟ながらもリズムが完璧なので上手に聞こえます。
大殿油を灯してやり、絵やなんかも見ていると「出発の時間だ」というので、お付の人たちが改まった声で、
「雨が降りそうですから早く。」
と言うと、姫君はいつものように不安になります。
絵を見るのをやめてうつぶせになってすねるのも可愛らしく、髪の毛がまばゆいばかりにふわっと広がるので、掻き撫でてやりながら、
「外に行っちゃうと寂しいかい?」
と言えば、コクンとうなづきます。
「俺だって、一日でも逢えない日があれば気が狂いそうだ。
だけど、おまえはまだ子供だから安心してられるけど、物事をいろいろ捻じ曲げて文句ばかり言う人の機嫌を損ねないようにと思って、面倒くさいけどしばらく行ってくる。
おまえが大人だと思えるようになったなら、もう他へは行かない。
人の恨みをかいたくないのも、長生きして心行くまでおまえと一緒にいたいからだ。」
などと長々と説明すると、さすがに圧倒されたのか何も言いません。
すぐに膝に寄りかかって寝てしまったので、何か心苦しくて、
「今夜は行かないよ。」
と言えば女房たちは皆立ち上がり、料理などを運んできました。
姫君を起こして、
「行かないことにしたよ。」
と言うと安心して起き上がりました。
一緒に食事をしました。
ほんのちょっとしか食べず、
「じゃあ、ちゃんと寝てね。」
とまだ出かけるんじゃないかと不安げなので、どんな大事な用でもこんな子を見捨てて行くのは難しいなと思いました。
こんなふうに足止めされることが度重なると、自然と噂が漏れて、それを聞きつけた人が左大臣家にちくったので、
「一体誰なの、失礼しちゃうわね。」
「今だかつて聞いたことのないような人だし、それでそんなふうに付きまとっていちゃいちゃしているなんて、品性も節操もない人だわ。」
「内裏の下っ端の女を、それっぽく仕立て上げたものの、世間の非難を恐れて隠しているんだわ。
がさつで子供っぽいというし。」
などと、仕えている女房たちも噂しあってました。
内裏にもこの謎の妻の噂が流れ、御門も、
「気の毒に。
左大臣の落胆ぶりももっともなことだ。
元服の前から多大な恩を受けておきながら、それくらいのことがわからない年でもないだろうに、どうしてそんなあだで返すようなことをするんだ。」
と諌めるので、源氏の君は恐縮して言葉もなく、
「すっきりしないな。」
と哀れむような目で見ます。
そして、
「それにしても、宮中の女房はもとより、そこいらの屋敷にいる女たちですら、そんな特別スケベったらしく口説いて回ったりするようなことを見たことも聞いたこともないのに、一体どこの陰に隠れ歩いて、こんなにも人に恨まれているのやら。」
とも言います。
御門もすっかりお歳を召されているものの、この方面では抜け目なく、采女、女蔵人などの直属の女官なども美女才女をことのほかもてはやし、目をかけていたので、この頃は二流の血筋でも才気あふれる人がたくさんいました。
それは源氏の君にとって、他愛のない話をする分には遠慮会釈のない間柄でも、単にいつも見慣れているせいなのでしょうか、
「本当に変な気を起こすことがないようね。」
と冗談にも鎌かけてきたりすることがあっても、適当に相槌打って、本気で心を動かすことはなく、
「真面目すぎてつまらなーい。」
なんてこぼす人もいました。
*
年のかなりいった典侍は、なかなか人間的にもできていて機転も利き、高貴な家柄で世間の評価も高いのですが、これがとんでもなく多情で、その方面ではチャラいところがあるのを、何でこう五十過ぎてまでスキャンダルが絶えないのかと興味を持ったのか、試しに冗談に口説いてみた所、特に意外とも思わずに乗ってきました。
我ながらあさましいなとは思いながらも、結構熟女にも興味があって、ついつい関係を作ってしまったけれど、あまりに年がいってるため、人に知られたくなかったのか、それっきりで放っておいたので、典侍は辛い思いをしてました。
御門の整髪を典侍が担当し、終ったあと着替えのための人を呼び、着替えのために退出している間、源氏の君は典侍と二人っきりになり、典侍はいつもより着飾っていて、体型も顔かたちも何となく色っぽく、着ているものも華やかで男心をそそるようなもので、
「随分若作りだね。」
と今一つな感じに見るものの、
「何を考えているのか。」
と無視することもできず、裳の裾を引っ張って気を惹こうとすると、ありえないような絵の描いてある蝙蝠扇で顔を半分隠して振り返る眼差しは遠くを見ているものの、瞼はひどく黒ずんで落ち窪み、外に垂れ下がって皺々です。
「それにしてもこの扇、似合ってないなあ。」
と言って自分の持っている扇と取り替えると、赤い紙は反射して自分の顔までが赤くなりそうなくらいどぎつい色で、森の木の茂る様子が金泥で描かれてます。
裏側には、書体はすっかり時代遅れだけど見事な筆致で、『古今集』詠み人知らずの「大荒木の森の下草老いたので馬も食わない人も刈らない」などとさらさらっと書いてあって、
「わざわざこんなことを、自虐ネタか。」
と笑いながら、
「びっしりと茂り茂った大荒木
夏はやっぱり森の影だね。」
と古歌を引用して答えるものの、こんならしからぬ会話をしていて人に見つかるとまずいなと思うものの、女の方はどこ吹く風で、
「あなたなら飼い馬にして食わせたい
盛りを過ぎた草叢だけど」
という様子がやけに色っぽい。
「割り込めば叱られちゃうよいつだって
馬のいちゃつく森の茂みは
やっかいごとは勘弁してよ。」
と言って立ち上がろうとすると、それを引き止めて、
「こんな苦しい思いは初めてなの。
この歳になって恥をかかさないで‥‥。」
と泣き出すあたり、まじにやばそうです。
「わかったけど今はちょっと‥‥。
愛していながらも、なかなか。」
と言いながらも振り切って出て行くと、何とかすがり付こうと身を伸ばし、
「『ながらながら』って、長柄の橋柱じゃあるまいし、このまま朽ち果てろと言うのおおおお!」
と哀願すると、御門の着替えが終り、障子の影からそれを見ていました。
「とてもお似合いとはいえぬカップルだな。」
と結構面白がっていて、
「女っけがないもんだから、常々どうすればいいか悩んでたけど、だからといって見過ごすわけにはいかないな。」
と言いながらも笑ってたので、典侍は何だか気恥ずかしくて御門のことを直視できません。
それでも好きな人とだったら濡れ衣でも着てみたいというところもあって、特に反論もしません。
周りの女房たちも、「うそっ、思っても見なかったー!」と噂し合っているのを頭の中将が聞きつけて、
「おれもこの道にかけてはすべてに精通しているつもりだったが、熟女とは思いもよらなかったな。」
と思い、年取っても衰えぬ典侍のスケベ心を見てみたくなり、言い寄ってみました。
この君も人並みはずれた好色漢で、あのつれない人の代わりに慰めてやろうと思ったものの、「逢えれば誰でもいいってもんじゃないわよ」とのこと。
何て贅沢な。
*
頭の中将もこっそりと逢っていたので、源氏の君はこのことを知りません。
宮中で典侍の姿を見つけても、愚痴を聞かされるだけなので、相手の年齢からして気の毒なことをしたから慰めてやろうとは思っても、なかなか思うように時間も作れず面倒になって、また何日も時が経過してしまったそんなある日のことでした。
夕立が来て、そのあとの涼しくなった宵の暗がりに紛れて、内侍所のある温明殿の辺りをうろうろとしていると、あの典侍の琵琶がなかなか面白い音を立ててました。
御門の御前でも男方の演奏に混じったりして、琵琶に関しては右に出るものもないくらい上手いうえに、苦しい恋の思いが込められているせいか、とても悲しげに聞こえます。
ただ、『山城』という催馬楽の
♪瓜作りが嫁にほしいという、
どうしよう、
瓜作りなったなら、
瓜が育つまでに
と楽しそうに歌っているのが、ちょっとがっかりです。
鄂州でとなりの船から聞こえてくる女の歌う声に涙した白楽天も、実際に歌の主を覗いてみて十七八の若い女性でなかったなら面白いだろうなと、しばし聞きほれてました。
弾き止むと、ひどく悩んで苦しそうな様子でした。
源氏の君は
♪東屋の真屋の軒先、
雨だれで、
びしょぬれになった、
戸をあけてくれ
という催馬楽『東屋』をひそひそ声で歌いながら部屋に近づいてゆくと、
♪押し開けてきて
と続きを歌うあたり、いつもと様子が違う気がします。
「外で濡れる人も見えない東屋に
どうしようもなく雨だればかり」
と深く溜息をつくのを聞いたことのあるのは、自分一人ではないだろうなとわかってはいても、それにしてもうざい、何でこんなことまでと思います。
「人妻は面倒くさい東屋の
真屋の隅にも居場所がなくて」
と言って通りすぎようとしたけど、それではあまりに冷たすぎるかなと思い返して、相手に合わせて軽い調子で冗談を言い合い、こういうのもなかなかないことだなと思いました。
頭の中将は源氏の君がやけに真面目ぶった顔して、いつもおまえとは違うんだという顔をしているのが癪で、自分に黙ってこっそりとあちこちに通っているのをいつか暴いてやろうと思っていたので、これを見つけてにんまりしました。
このチャンスにちょっと脅かしてやって、うろたえてるところで「懲りたか」とでも言ってやろうと思って、泳がせてました。
俄かに風が冷ややかに吹いてきて、夜もやや更けゆく頃、ちょっとばかりうとうとしてるかなという状態なので、静かに部屋に入ると、源氏の君はとてもおちおち寝てられない気分で誰か入って来た物音を聞きつけて、まさか頭の中将とは思わず、典侍に未練を抱いた修理大夫に違いないと思って、あんないいオヤジにこんならしくもないことをしているのを見られるのは恥ずかしいので、
「どうぞお構いなく。
今出てゆくから。
蜘蛛が巣を作ると夫が帰ってくるというのは本当だったんだ。
これはまいった、はめられた。」
と言って直衣を引っつかむと、屏風の後に入ってゆきました。
頭の中将は笑いをこらえて、源氏の退散していった屏風の方に近づき、ばたばたと屏風を畳んで大げさに物音を立てると、典侍は歳はとっても品があり、頑なな所がなく、以前にもこんな幾多の修羅場をかいくぐってきたので慣れているのか、ひどく急であわただしいこの状況にも、源氏の君をどうしようというのか心配で、震えながらもしっかりと頭の中将の袖を掴んで引き止めました。
源氏の君は、正体がばれる前に出て行こうと思うものの、着の身着のままで冠も曲がったまま走って行く後姿を想像すると、いかにも間抜けなので躊躇しました。
頭の中将は、何とか自分だということを悟られないように思って言葉を発せず、ただ、いかにも怒り狂ってるふうに太刀を引き抜けば、典侍が、
「やめてぇ!あなたぁ!あなたぁ!」
と立ちふさがって手を擦るので、ついつい吹き出しそうになります。
うわべでは男の好みに合わせて若々しく取り繕ってはいるものの、五十七八にもなる人が着ているものも乱れて不安そうな顔をして、それこそありえないような二十歳そこそこの男たちの間でびくびくしているのは、何か変な感じです。
結局、こんなふうに柄にもない演技で恐そうに見せても、かえってバレバレで、俺だとわかってわざとやってるのだなと思うと馬鹿らしくなります。
典侍も誰だかわかるとひどく可笑しくなって、太刀を握っている腕を掴まえると、ぎゅっと抓り上げたので、頭の中将は悔しいけど笑ってしまいました。
「実は芝居だったって落ちかよ。
冗談きついな。
さあ、この直衣を着ないと。」
と言っては見たものの、まだまだ腹の虫は収まらず、いきなり頭の中将のことをひっ捕まえて、
「だったらおまえも同罪だろっ。」
と、帯を引き解いて脱がせようとし、頭の中将の方も脱がされまいぞと抵抗して引っ張り合ってるうちに縫い目がほつれて、はらはらと下に落ちました。
頭の中将、
隠しても名は出てしまう掴み合い
破れてしまったなかの衣に
この破れた中衣を直衣の上に羽織っておけば一目瞭然だ。」
と言うと、源氏の君、
「隠せないことと知りつつ夏衣
着るのは情が薄い証拠だ」
と言い返して、どっちもどっちの無残な姿に成り果てて、一同退出しました。
源氏の君は頭の中将に見つけられてしまったのが悔しくて、床に臥しました。
典侍は一部始終を浅ましく思って、落っこちていた指貫や帯止めなどを早朝に届けさせました。
《浦見ても言う櫂もない鉢合わせ
怒涛のように去ったそのあと
海の底まであらわになってました。》
つれないことを言ってくるなと思うと癪だけど、さすがに仕方ないなと思って、
《荒れ狂う波はどうでもいいけれど
招いた磯はどうしたものか》
とだけ手紙に書きました。
帯は頭の中将のでした。
直衣と同じ布を使うのに、自分の直衣よりは色が濃いと思ったら、その袖がなくなってました。
「何を言われてもしょうがないな。
色事にのめりこんでしまうと、結局何かと馬鹿をさらけ出すことになるんだな。」
と反省しきりです。
頭の中将が宿直所から、
「これをすぐに付けてください。」
といって、取れた袖の入った包みをよこしたのを見て、いつどうやって袖を取ったんだと思うと、やられたなという感じでした。
「この帯を他の人に見つけられてたら大変なことになっていた。」
と思いました。
帯と同じ色の紙に包んで、
《恋仲を裂いたと恨まれても困る
はなだの帯は見なかったことに》
と、手紙を送りました。
その返事に、
《君にこんな引き裂かれちゃった帯だから
仲が裂かれたのもそのせいにしよう
逃げられると思うなよ。》
とありました。
日が高くなってから、それぞれ宮中に上がりました。
源氏の君が何ごともなかったかのように神妙にしているのが頭の中将には可笑しかったけど、様々な案件が奏上されたり下されたりした多忙な一日だったので、妙に堅苦しくしゃちこばっている互いの様子を見ては笑い(草)です。
人のいないときを見計らって、
「隠し事は懲りたろう。」
と言って、いかにも不遜な感じに睥睨してみせます。
「なぜっ。
何のことかな。
それより来て何もせずに帰っちゃった人の方が可哀想だな。
男と女というのは本当に悲しいものだな。」
と言い返し、
「淡海路の鳥籠の山にある川の名は?」
「不知哉川。」
そういって互いに口をつぐみました。
さてその後、ともすればことのついでのあるたびに頭の中将がこのことをネタにしてからんでくるもんだから、ますます面倒な女に関わってしまったなと身にしみることになりました。
その典侍はというと、何かと未練ありげに恨みごとを言うので、悩みは尽きません。
頭の中将は、妹である源氏の正妻には内緒にしておけば、何かのときには「ばらすぞ」と脅しの材料になると思いました。
皇族の血を引く皇子たちさえ、御門の源氏の君への並々ならない思い入れはやっかいで、遠慮がちにしか物を言わないというのに、この中将だけは負けず嫌いで、ささいなことでも張り合おうとします。
頭の中将だけが源氏の正妻の本当の兄弟でした。
そのため、
「源氏は御門の子というだけで、自分もまた同じ大臣の中でも格別な父を持ち、御門の妹との間の子として殊更大事に育てられたのだから、何一つ引けをとらないはずなのに。」
と思うのでした。
品性という才能といい完璧で、何に関しても理想的にすべてを兼ね備えているという自負がありました。
それで、色事まで張り合っているのもおかしなものです。
それにしても騒々しいこと。
*
七月には藤壺の宮が皇后になるとのことです。
源氏の君も参議となり、宰相として国政に携わることになりました。
御門が譲位のことを考えるべき時が近づいていて、藤壺の宮の若君を春宮坊にと思ってみても、後見人がいません。
母方は皆皇族で、源氏のような臣籍に降下して国政に携わることのできる血筋ではないので、母宮をとりあえず不動の地位に付けておいて、布石にしようというものでした。
弘徽殿の女御がますます不安になるのも理由のあることでした。
それでも、
「我が息子の御代が来るのはもうじきのことで、そうなれば皇太后の座はゆるぎない。
うろたえるな。」
と言ってました。
「確かに、二十年以上も皇太子の母として過ごしてきた女御を差し置いて、それを飛び越えて行くのは難しいことだ。」
と、例によって宮中の間でも疑問視する声がありました。
藤壺の宮が入内するときの夜のお供に、源氏の宰相の君も参列しました。
同じ后とはいっても皇后の娘とあれば、その七光りに光り輝き、さらには帝の類なきご寵愛となれば、人々も別格扱いしました。
まして、源氏の宰相の切ない心の内には、御輿の中にいるその人のことを思えば、ますます手の届かない所に行ってしまったような気持ちになり、心ここにあらずです。
この気持ちつきない闇が包むのか
あの娘は雲の上と思うと
とだけ独り呟くのが、何だかとても悲しそうです。
皇子様が成長するにつれ、ますます源氏の君と瓜二つになってくるのを、藤壺の宮《様は大変苦しく思うのですが、それを知る人もありません。
確かに、どこをどう作りかえれば源氏の君に劣らない姿形で生まれてくることができるというのでしょうか。
太陽と月のように、世間の人も同じ光だと思ってました。