マラリアにかかったのでいろいろと加持祈祷をしたものの、効果もなく繰返し高熱になるので、ある人が言うには、
「北山のなんとか寺にすげー霊力のある修行僧がいてさあ、去年の夏も大流行したときに、多くの人が祈祷しても良くならなかったのにすぐに治ったという例がたくさんあるんだって。
こじらせては大変なことになるから急いで試した方がいいっすよ。」
ということで、呼びにやったところ、
「歳で腰が曲がって家の外にも出られないって。」
と言うので、
「しょうがないな。こっそり訪ねてみよう。」
と言って、ごく親しい四、五人引き連れて、まだ明け方の暗いうちに出発しました。
少々山深く入った所でした。
三月の下旬で京の桜の季節もすっかり終ってました。
山の方ではまだ桜の盛りで、奥へ行けば行くほど霞みのような花のたたずまいを奇麗だなと思ってみていると、源氏の君もいつもは二条院と御所を往復するだけの窮屈な身分だけに、こんな景色を未だに見たこともなく、珍しそうに眺めてました。
寺もなかなか風情があります。
峯の高い所の深い岩窟のなかに、その聖人が修行をしてました。
登って行き、誰とも知らせず、ひどく見るに耐えないほどみすぼらしい格好をしているものの、さすがにすぐにわかる顔立ちなので、
「これはこれは恐縮至極。
先日呼びに来られた方と見受けられる。
今は俗世を捨ててしまったゆえ、修法などのやり方も捨ててしまい忘れてしまったというのに、何ゆえこのような所にやってこられたのやら。」
と驚き慌てながらも、ふっと笑って源氏の君の方を見ました。
そこはやはりありがたい高僧でした。
しかるべき薬を作っては飲ませ、加持などを終えた頃には、既に日は高く登ってました。
少し外へ出てあたりを見渡せばそこは高い所で、見下ろせばあちこちに僧坊がはっきりと見て取れました。
「それにしても、このうねうねと曲がった坂の下の、他と同じような小柴垣なんだけど、やけに小奇麗に屋敷を囲い込んできちんと整えられているし、廊下を廻らして
、木立も何やら高貴な人のようだが、誰が住んでるんだ?」
と尋ねれば、お供していた人、
「あれは、僧都がこの二年ばかり籠っている坊っす。」
「さぞかし立派な人が住む所なんだろうな。
みすぼらしい格好をしすぎて失敗したな。
その僧都とやらに知られてしまうかもしれないのに。」
と源氏の君は言いました。
奇麗に着飾った女の童などがたくさん出てきて、閼伽水をお供えし、花を折って飾ったりするようすがはっきり見えました。
「あそこに女がいるな。」
「僧都はまさかこんなふうに女を囲ったりはしなよな。」
「どんな人が住んでるんだ?」
とお付きの者たちは口々に言います。
下に降りていって、垣根から覗く者もいて、
「わあ、奇麗な女がたくさん、若い人や小さな子もいるっすよ。」
という。
源氏の君は祈祷を受け続けて、日が高くなるにつけても一体どうなるのかと心配していると、
「とにかく深く考えず、気を紛らわすのが良かろう。」
と言うので、後ろの山に登って京の方を眺めます。
「はるか遠くまで霞みがかかっていて、三百六十度どの方向の木々も梢の先はほんのり霞みたなびき、まるで山水画のようだ。
こんな所に住んでいれば、何の悩みもないんだろうな。」
と言えば、
「こんなのは、大したことないっす。
もっと遠い国に行くといいっすよ。
海や山の景色などをご覧になれば、絵なんかも驚くほど上達しますよ。
富士山だとか何とか山だとか‥‥」
などと言う者もいます。
さらに、西国の風光明媚な海岸や磯の景色のことを付け加えて言う者もいて、いろいろと病気の苦しみを紛らわそうとします。
「近い所では、播磨や明石の浦がまじいいっすよ。
別に絶景というわけではないんだけど、ただ海を見渡すだけで、不思議と他にはない癒された気分になる所でしてね。
その播磨の国の前の国守は、仏道に入ったばかりなのですが、娘を大切に隠してる家があって、かなり痛かったっすね。
大臣の家の末裔で、出世しても良さそうだったんだけどね、世間の感覚とかなりずれていて、順応性がなく、近衛の中将の地位を捨てて、わざわざ国司にしてもらったんだけど、その国の人にもちょっとばかり馬鹿にされたら、
『こんなんで都に帰っても、面目が立たない。』
とか何とか言って出家しちゃったんだけど、そこそこの山奥にでも籠ればいいものを例の海辺に居坐って、何を考えてるかわからないようなんだよな。
実際は、播磨の国の中にもいくらでも隠棲できそうなところはあったんすけど、山深い里は気軽に尋ねていくわけにもいかず、若い妻子などわけわからなくなりそうというんで、出家はしても一方では妻子に気を遣って立てた住まいなんすよ。
やたらだだっ広い敷地にでーんと立ってるお屋敷は、腐っても元国司で相当貯えていたようで、余生を悠々と過ごすための準備もばっちりだったというわけっす。
来世へ向けた修行もしっかりやって、出家太りした人と言ってもいいのではないか。」
と言えば、源氏の君、
「でっ、その娘というのは?」
と尋ねます。
「悪くはないっすよ、見た目も性格も。
けど、代々国司となった者が、いろいろと趣向を凝らしたお膳立てをして、そうした意向を示しはすっけど、親父の方が一向に受け付けないんでね。
『俺だって国司だったのがこうして空しく野に埋もれてるというのに、たった一人の娘なんだぞ。
おまえに賭ける思いは特別なんだ。
もし俺が死んで立派な上流貴族との縁談が得られなくなり、俺の望まなかったような結婚をするくらいなら入水しろ。』
と日頃から遺言してたんだとさ。」
と聞くと、源氏の君も面白がってました。
周りにいた人たちも、
「そりゃ海龍王の妃にでもなるしかない聖女様だな。」
「プライドが高いのも困ったもんだな。」
と笑いました。
この話を切り出したのは播磨の守の息子で、今年になって蔵人から従五位に昇格したばかりです。
「おまえも結構エロいから、その入道の遺言を破ってやろうという気持ちもあるんだろうな。
それで覗きに行ったんだろっ。」
といって言い合いになります。
「まあ、そうは言っても田舎者なんだろ。
小さい頃からそんな所で育って、じじ臭い親にだけ従ってきたんだから。」
「母親の方の血筋はなかなかだよ。
それに、良い女房や童など、都の高貴な家で働いていた人間を、いろいろな伝手をたどって引き抜いてきて、破格な待遇をしているっていうし。」
「それでおまえのような情けない男の妻になったら、ただではすまないだろうな。」
などという者もいました。
源氏の君も、
「一体どういう意図で、海に沈めとまで深く思いつめているんだろう。
海の底の海松を見に行くにも、何か面倒だな。」
などと言って、ただならない関心を持ったようです。
こうした話でも、普通の人と違って何か一風変わったものを好む性格なので、気にならないはずはないと思われますね。
*
「もう日も暮れようとしてますが、急な発熱が起こることもなくなったようですし、早く帰りましょう。」
と言っていると、大徳は、
「物の怪の病といってな、それを併発しているように見えるので、今夜はまだ静かに加持祈祷を受けに来て、それから帰宅させると良い。」
と言います。
みんなも、
「それもそうだな。」
と言います。
源氏の君も、こういう旅寝は経験がないので、かえって喜んで、
「じゃあ、明け方に帰ろう。」
と言いました。
春で日も長く退屈なので、夕暮れの深い霞みに紛れて、昼間見たあの小柴垣のあたりに出かけていきました。
惟光だけをお伴につれて他の人は帰らせて覗いてみると、ただ僧都の坊の西の正面の部屋で念持仏を安置してお勤めをする尼僧がいました。
簾を少し上げて、花を捧げます。
中の柱に寄りかかって、脇息の上に経典を置いて疲れたような顔して読んでいる尼君は、ただ者ではないようです。
四十は過ぎているようですが、とても色白で上品で、痩せてはいても顔立ちはふっくらとしていて、強い眼差しに奇麗さっぱり尼削ぎに短くカットされた髪の毛も、かえって長く伸ばした俗形の髪型よりも新鮮に思えたか、見とれてしまってます。
奇麗ななりをした大人の女性が二人ばかりいて、さらには女の童が出入りして遊んでいる中に、十歳くらいになると思える、明るい山吹の合わせ色目だがかなりくたびれた服を着て走ってくる少女がいて、他にたくさんいる子供達とは比べ物にならないほど、成長したらさぞかし美人になりそうな、なかなか可愛らしいルックスをしてます。
髪の毛は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔を真っ赤にして手をこすりつけて立ってます。
「どうしたの?
お友達と喧嘩したんですか?」
と言って尼君が目を上げると、ちょっと似た所があるので親子なのだろうと思いました。
「雀の子を犬公が逃がしちゃったの。
伏せ籠の中に入れといたのに。」
と言って悔しそうです。
大人の女性の中の一人は、
「あの子はちょっと無神経なところあるからね、またこんなことで苛められると思うといい気持ちはしませんね。
どこへ行っちゃったの?
あんなに可愛くてやっとなついたというのに。
カラスに見つかっちゃいますよ。」
と言って立ち上がり、行ってしまいます。
長い髪ふわふわさせた落ち着いた感じの人です。
少納言の乳母と誰かが呼んでたのは、この子の世話役だったようです。
尼君は、
「あらあら、まだまだ子供ね。
あきれて物も言えません。
私がこんな今日明日の命かもしれないというのに、何とも思わないで雀ばかり可愛がって。
生類を閉じ込めたりするのは殺生の罪と同じだといつも言ってるのに、情けない。」
と言い、
「こっちへ来なさい。」
と言われて、ぺたんと座ります。
頬っぺたはほんのりと、眉毛の辺りはぽっと赤らみ、何気なく髪をかきあげた時の髪の生え際、髪質はとても奇麗でした。
「大人になった姿が楽しみだな。」
と釘付けになりました。
これはきっと、今までずっと思い続けてきた藤壺《ヤスコ》に瓜二つだから目を惹きつけて離さないのだと思うと、泪を流しました。
尼君は髪を撫でてやりながら、
「髪を梳くのを嫌がっているけど、そんな髪形じゃおかしいですよ。
ほんとだらしなくて、情けないやら心配で心配で。
同じ歳の子でも、もっとしっかりしている人がいるというのに。
亡くなられた姫君は、十二の時にお父様がお亡くなりになったけど、もっとちゃんと分別を持ってましたよ。
もし今あなたが一人取り残されたらどうやって生きてくのですか?」
と言ってボロボロ泪をこぼすのを見るのも、何とも悲しいものです。
幼心にもさすがにその姿をじっと見ていたかと思うと、目を伏せてうなだれて、髪が顔の前にこぼれると、つやつやと輝いて見えます。
「育ってく場所も知れない若草を
残して露はどこに消えよう」
居合わせた女房、「まったくです」と泣き出して、
「初草の育った姿見ないうちに
どうして露が消えるなどとは」
と歌を交わしている所に僧都が奥からやってきて、
「ここは外から丸見えではないですか。
今日に限ってこんな軒先の方にいらして。
この山の上の方に住んでいる修験者の所に、源氏の中将がマラリアにかかっていて祈祷を受けに来ていると、たった今聞いたところです。
みすぼらしい格好でこっそりやって来てたので、わからなかったのですが、ここに来ていながらお見舞いにも行かず‥‥」
と言うと、
「それは良くないですわね。
こんな見苦しいところを人に見られては。」
と、簾を下ろしました。
「あの世間で騒がれている光源氏とやらを、こういう機会だからついでに見ておかなくては。
世俗を捨てた坊主の心情としても、この世の憂いをふっとばし、寿命も延びるというほどの人のお姿ならな。
どれどれ、挨拶にでも行ってこようか。」
そう言って立ち上がる音がしたので、源氏の君はすぐに帰りました。
「可愛い子を見ちゃったな。
これだから、あのエロい奴らはこうしていつもあちこちほっつき歩いて、思いがけない人に出会ったりするんだな。
たまに出かけるだけでも、こんな思いもよらぬものを見るのだからな。」
とすっかり浮かれた気分で、
「それにしても美しい幼女だ。
どんな人なんだろう。
藤壺の代りにして、朝から晩まで眺めて楽しみたいな。」
といたく気に入ったようなご様子です。
*
部屋で横になっていると、僧都のお弟子さんが惟光のことを呼び出してます。
そう離れた所ではないので、源氏の君にもそのまま聞こえました。
「こちらに立ち寄られていることを、たった今人から聞いた所で、びっくりして参上した次第で。
それも僧都がこの寺に籠っていることをご存知でありながら、ここに来られたことを隠してらっしゃって、お見舞いに伺えなかったことを大変残念に思ってます。
旅の宿泊所も、こちらの坊に設けて然るべきでした。
本当にお役に立てなくて。」
と申し訳なさそうに言うと、源氏の君も出てきて、
「去る十日余りほど前から、マラリアにかかり、度重なる発熱に耐えられず、人から教えられるままに急にこちらにやって来たのだが、このような有名な修験者でも効果がないとなると面目をつぶすことにもなりかねず、普通の祈祷師と違って迷惑をかけることにもなるので遠慮して、こうやって隠していただけだ。
今にも、そちらに。」
と言いました。
すぐに僧都もやってきました。
お坊さんとはいえ、気後れするくらいの高貴な人柄だと世間からも慕われている人だけに、こんなラフな格好で来たことがみっともなく思えました。
僧都の隠遁生活のいろいろな話を聞かされて、
「同じ柴の庵ですが、少しは涼しい水の流れも見ることができますよ。」
とどうしてもと誘うので、さっき尼君やお付きの女房などに寿命が延びるなどと大げさなことを言ってたので、気が咎めるところもあるものの、あの可愛いお姿を見たくもあり、行くことにしました。
*
確かに、なかなかうまい具合に他とは違う趣向を凝らしていて、山にある草木も植えなおされていました。
月もない時期なので、鑓水にかがり火を灯し、燈篭にも火が灯ってました。
南の表庭はこざっぱりと整えられています。
どこかで焚いている香の匂いがそこはかとなく漂い、名のあるお香の匂いに満たされた中に、源氏の君の御衣に焚き込めた香りがまったく別のものなので、中にいる人もどんな人が来たのかと張り詰めた様子です。
僧都はこの世の無常についていろいろと語り、死後の世界のことなどを説いて聞かせます。
源氏の君は自分の犯した罪が恐くなり、どうにもならないことで心がいっぱいで、生きている限りこのことで思い悩まなくてはならないのか。
まして、死んだ後もとんでもないことになるんだとずっと思い続け、こんな山寺にでも住んだ方がいいのかと思うものの、昼に見た幼女の面影が気がかりで恋しくなり、
「ここに籠っている女は誰なんだ?
夢で見て、そこを訪れて聞いてみたかったんだ。
今それがここだと思い当たったんだ。」
と言えば僧都は笑い出して、
「それはまた唐突に夢の話なぞ。
聞いてみても、そんな期待するほどのものではありませんよ。
今は亡き按察使の大納言は、だいぶ前にお亡くなりになられたので、ご存じないかもしれません。
その妻は、この私めの妹なんです。
その按察使の亡くなられた後、世を捨てたのですが、このごろ病気がちになりまして、そのため京に登ることもなく、このお寺を頼って隠棲しているだけです。」
と言いました。
「その大納言に娘がいたと聞いたのだが。
別に変な意味ではなく、真面目に聞いているんだ。」
と当てずっぽうで言えば、
「女の子が一人いました。
お亡くなりになって既に十年ばかりになりますか。
今は亡き大納言、内裏に出仕させようとして、これ以上にないくらいに純粋培養して育てたのですが、なかなか思うとおりにならないうちに大納言がお亡くなりになり、ただこの尼君一人お世話していたのですが、一体誰が手引きしたのか兵部卿の宮がこっそり通ってきて懇ろの仲になったのですが、本来の妻である人がなかなか放っておけなかったようで、穏やかではないことも多くて、いつも思い悩んでばかりいて、ついには亡くなってしまいました。
病は気からというのを目の当たりにした思いです。」
などと答えました。
ならばその娘の子だと納得しました。
皇子の血を引く者だから、あの人に似通った所があるのだろうと、ますます愛しく思えて、生まれながらの品性も高くて引き寄せられるものがあり、無理に自分を高貴に見せようとするようなわざとらしさもなく、あんな子といい仲になって、思いのままにいろいろ教え込んで育成してやろうと、源氏の君はあれこれ妄想するのでした。
「それは何とも悲しいことになってしまいました。
せめて残された子供とかでもいれば。」
と、さっきの幼い子供が本当にその子なのか、もっとはっきりさせたくてそう問えば、
「亡くなった頃にできた子がいました。
それも女の子でした。
そのことで悩みの種になってまして、尼君もすっかり年をとってしまい、これからどうなるのか大変心配なさってます。」
という答えでした。
しめた、と思いました。
「不審に思われるかもしれないが、その幼い子供を引き取りたいということで、尼君に聞いてくれないか。
いろいろ思うこともあって‥‥、
通うところもあるにはあるんだが、夫婦仲がどうもしっくり行かなくて、一人暮らしなもんで。
まだそんな歳ではないので、まだ早すぎて失礼だと普通の人が思うみたいに思うわれちゃうかな。」
と言えば、
「それは本来なら願ってもないご用命なのですが、何分まだほんの子供でして、ご冗談にもお見せすることは難しいと思いますが。
そもそも女というものは人に大事に世話をされてやっと大人にもなれるというものでして、正式にはお取次ぎできません。
あの祖母にあたる奥方と相談した上でお答えしましょう。」
と、引きつった顔しながら淡々と言うので、源氏の若さではすっかり気後れして、それ以上うまく言えません。
「阿弥陀仏を祀ったお堂でのお勤めの時間になります。
夜の最初の行をまだやってません。
済ませてきます。」
と言ってお堂のほうへ行きました。
源氏の君は気分がすぐれない上に雨も少し俄かに降り出して、山から下りてくる風が冷ややかに吹き、滝つぼの水量も増えたのか大きな音をたててます。
やや眠たそうに聞こえる引声阿弥陀経が途切れ途切れに寒々しく聞こえてくると、信心の薄い人でもこういう場所だと悲しくなります。
ましていろいろ悩み事が多いとなると、目が冴えてしまいます。
夜の最初のお勤めとはいいながらも、夜は結構ふけてきてます。
尼君の寝所では起きている人の気配がはっきりとわかり、それとわからないようにしてはいるものの、数珠が脇息に当るたびに音を立てるのがかすかに聞こえてきて、妙に気になる時折衣がすれる音が奥ゆかしい感じがして、たいした距離もなくすぐそばなので、戸口の所に立ててある屏風の間を少しつまんで開くと、閉じた扇を手にぱちっと打ち付けて合図すれば、一瞬きょとんとした様子だったが無視するわけにもいかず、座ったまま膝で歩いてこちらに来る人がいるようです。
源氏の君がちょっと後に隠れ、
「変ねぇ、空耳かなぁ。」
と思案しているのを聞くと、源氏の君の、
「仏のお導きは闇をさまようとも決して間違うことのないものですね。」
と言う声がとても若くて高貴なので、それに答える声の調子もおそるおそるで、
「どなた様のお導きかは存じませんが‥‥。」
と答えます。
「確かに、ぶしつけだと思われるのもごもっともですが、
初草の若葉を見たら旅人の
私の袖の露乾きません
と伝えてくれませんか。」
「そうはいっても、このような言伝を受け取るべき人もいらっしゃらないのですが、一体誰にお伝えしたいのですか?」
「この状況を考えれば自ずとわかることだと思いますが。」
と言われて、奥へ入っていって伝えます。
「なによ、このちゃらい歌は‥‥。
この人はあの子が色気づいているとでも思ってるのかしら。
それに一体あの若草のことをどうして知ってるのよ。」
と怪しいことばかりで一瞬取り乱したものの、すぐに返歌をしなければ無風流だとも
いうので、
「枕濡らす一夜ばかりの露なども
深山の苔と比べ物には
簡単に乾くようなものではありません。」
と伝えさせました。
「こうした人づての和歌の贈答はしたことがなくて慣れてないんでね。
形は整わなくても、事のついでに真面目に相談しなくてはいけないと思ったんだか。」
と言えば、尼君は、
「何か勘違いをしてませんか。
こんな高貴なお方を前にして、私なんぞ恥ずかしくて返事などできるものではありません。」
と言うので、
「逢わないのも失礼では。」
と回りの声がします。
「確かに、若いあなた達では気が引けるわね。
真面目にとおっしゃるのなら勿体ない。」
と言って、座ったまま出てゆきます。
「泊めてもらったついでのことで、ぶしつけで軽はずみなことと思われるかもしれないけど、自分としてはそんなに気持ちではないので、仏様も自ずと‥‥。」
という具合で、源氏の君もいかにも大人って感じの尼君の気迫に圧倒されて、なかなかうまく言い出せません。
「確かに思いもかけないついでにこうまでおっしゃらせて、拝聴させていただくのも、何かの縁。」
と尼君は言います。
「皇子の血を引きながらも悲しい境遇にあられると聞きまして、私を亡き母親の代わりと思っていただけないでしょうか。
この私も生まれて物心もつかぬ年齢で母親に先立たれまして、人と違って心のよりどころないままに年月を重ねてきました。
同じ境遇でいらっしゃるので兄妹にならせていただきたく、心から申し上げたくて、こうした機会もそうそうないので、どう思われようとかまわずにこうして申し上げているのです。」
「大変嬉しく思わなくてはいけないお言葉ですが、何かお聞き違いになったことがあるのではないのかと憚られます。
出家しておぼつかないこの身一つを頼りにする人ではありますが、まだまったく年端もいかないもので、まだまだ一人前と認められるようなところもないので、とてもその申し出を承知して受け止めることはできません。」
「何もかも少なからずわかっていることなので、堅苦しくお考えにならないで、私の思う気持ちが並々ならないことをご理解いただきたい。」
とそう言ってはみるものの、見当違いのことを知らないで言っているのだと思って、色よい返事はありません。
僧都もやってきたので、
「それではこのように伝えるべきことは伝えましたので、後は良いお返事を期待してます。」
と言って、屏風を元通りの位置になおしました。
暁の頃になり、法華三昧堂の懺法(法華経の読経)の声が山降ろしに乗って聞こえてきて、いかにも有難く滝の音と響きあってました。
源氏、
「山おろし吹くあてもなく夢醒めて
滝の音にも涙催す」
僧都、
「唐突に袖を濡らした滝の水
澄んだ心を乱すでしょうか
いつも聞き慣れているものですから。」
明けてゆく空はもうもうと霞み、山の鳥たちはどこでとも知れず囀りあってます。
名も知らぬ草木の花々が色々散って混ざり合い、錦を敷いたように見え、鹿が同じ所をゆっくりと歩き回るのを珍しそうに眺め、病気で気分がわるかったのもすっかり紛れたようです。
聖人は部屋から一歩も出れないけど、何とかして護身法を行なってくれました。
しわがれた声が抜けた歯の間から漏れて不明瞭になっていても、なかなか味わい深い老練な調子で陀羅尼の呪文を唱えてました。
京よりお迎えに来た人たちもやってきて、病状が良くなったのを口々に喜び、内裏からの使いの者もいました。
僧都はあまり世間で知られていないような酒の肴を、あれこれと谷の底まで掘りに行って準備してくれました。
「千日籠りの誓いを立てていて、今年一年はまだここを離れられないため、送って行くことはできませんが、却って送って行かなかったことが煩悩になりそうです。」
などと言って、内裏に奉納する酒を持ってきました。
「山水の美しさにすっかり見せられてしまいましたが、内裏の方でも心配なされているのももったいないことなので‥‥。
今すぐにでも、この花の季節が終らないうちに来たいものです。
宮中に戻って話そう山桜
風吹く前に見に来るように」
と歌い上げる仕草も声音もいかにも美しく、
「優曇華の花ついに見た心地して
深山の桜目にも入らず
と歌を返すと、微笑んで、
「三千年に一度咲く優曇華じゃあ、もう一度咲いて見せるのは難しいなあ。」
と言いました。
聖人は盃を受け取って、
「奥山の松の扉をたまに開けて
まだ見ぬ花の顔をおがむか」
と涙をこぼして見つめます。
聖人はお守りに独鈷を源氏に渡しました。
それを見た僧都は、聖徳太子が百済より賜ったというクリスタルと翡翠の玉を輪にした数珠を、まさにその賜った当時の異国風の箱に入れて、それを中の透けて見える薄絹の袋に入れて五葉松の枝につけて、さらに紺瑠璃色のガラスの壺にそれぞれ薬を詰めて藤や桜などにつけて、こういった場所に相応しい贈り物を渡しました。
源氏の君》は、聖人はもとより、読経していた法師へのお布施、食料品など様々な物を都に使いを出して持ってこさせたため、その付近の林業従事者までもがそれなりのプレゼントを貰うこととなりました。
治療のための誦経をしてもらってから出発しようとしていると、僧都がやってきて、例の話を尼君にそのままするのですが、
「とにかくも、今の時点では何とも返事しかねます。
もし本気でおっしゃるのであれば、あと四、五年たってからならともかく‥‥。」
との返事で、
「そうですか。」
と同じ答えの繰返しなので、期待はずれに終りました。
手紙を僧都に使える小さい童に渡し、
《夕間暮れほのかに花の色を見て
今朝の霞みの発つも憂鬱》
尼君の返歌は、
《本当に花の辺りを去りがたいと
霞んだ空の景色見てるのね》
といかにも高貴な由緒正しい書体でさらさらっと書いてありました。
車に乗ろうとした時、左大臣家の方から、どこへ行くとも言わずにお出かけになったということで、お迎えの使用人だけでなく、立派なお公家さん達までたくさんやってきました。
頭の中将、左中弁をはじめ、そのほかの左大臣家の公達も追いかけてきて、
「こういうときのお供にはぜひとも呼んでほしかったのに、すっかり出遅れてしまった。」
と不満そうだし、
「こんなやばいくらい咲いている花の下で、少しも足を止めずに帰ってしまうのも物足りないし。」
とも言っています。
岩陰の苔の上に集って、盃を取り出します。
落ちてくる水の様子からして、この辺りの有名な滝の下です。
頭の中将は懐から竜笛を取り出して澄んだ音色を奏でます。
左中弁の君は扇をパーカッションの代わりにして、
♪豊浦の寺の 西なるや
と『葛城』という催馬楽を歌い始めます。
普通の人からすれば別世界の公達なのですが、源氏の君の、何だかひどく困ったことになったと、病気がぶり返したかのように岩に寄りかかる比類なき神々しいお姿を見るなら、何をやってもそっちに目がいきません。
いつも篳篥を吹いているお付きの者や、笙の笛を持った風流人などもいます。
僧都も自ら七弦琴を持ってきて、
「ならば、ぜひ一曲弾いていただいて、どうせなら山の鳥も驚かしてやりましょう。」
と懇願されて、
「病気なんだから勘弁してよ。」
と言ってはみるものの、結構気合の入った演奏をして、それを最後にみな出発しました。
まだ物足りなくて別れを惜しみ、その他大勢の法師、童女もみんな涙ぐんでいます。
まして家の中には年老いた尼君たちは、いまだかつてこのような姿の人を見たことがないので、
「この世のものとも思えない。」
と言い合ってました。
僧都も、
「嗚呼、一体何の縁であのようなお方が、こんなに騒がしく煩わしいこの日本の末法の世に生れてきたのかとおもうと、何だかとても悲しくて‥‥。」
と言って目をこすって涙を拭いました。
あの小さな姫君も、幼心に、
「奇麗な人だね。」
と思い、
「お父様よりもずーっと奇麗なんじゃないかな。」
などと言い出します。
「だったら、あの人の子供になっちゃえば。」
と女房の一人が言うと、すぐにうなずいて、それがいいなんて思いました。
雛人形を折っても絵を描いても、「源氏の君!」と言って作っては、奇麗な着物を着せて大切にしてました。
*
源氏の君はまず参内して、これまでのいきさつを御門に説明しました。
「こんなにやつれはてて」
と、御門は不吉に思ってました。
例の聖人の名医ぶりについていろいろと聞いてきます。
詳しく話せば、
「阿闍梨などになっても良さそうなものだ。
ひたすら修行を重ねるばかりで、朝廷の方ではあまり知られてなかったが‥‥。」
と感心したように言いました。
左大臣も参内して同席し、
「お迎えにもと思いましたが、内密のご旅行なのでいかがなものかと思いはばかりまして‥‥。
一日二日のんびりと休んで下さい。」
ということで、
「すぐに送っていきましょう。」
と言ってくれるので、さして気乗りはしないけど、言われるがままに退出しました。
左大臣は自分の車に源氏の君を乗せて、自分は遠慮して小さくなってました。
娘を大事に思うあまりにこんなことまでしてくれる左大臣の心遣いは立派なもんだと、さすがに源氏の君も心苦しく思いました。
左大臣邸でも源氏の君がやってくるということで、あらかじめ準備していて、しばらく見ないうちにますます玉のような御帳台に磨きをかけて、いろいろなものを取り揃えてました。
姫君は例によって、人目につかないように隠れていてなかなか出て来ないので、左大臣が何とか説得してやっとのことで源氏の所にやってきました。
ただ絵巻物に描かれたお姫様のようにちょこんと座り、身動き一つせず、形式ばって振る舞うばかりで何を言っていいかわからなくなり、北山へ行った話をしようにもちゃんとリアクションしてくれて、面白い受け答えでもしてくれればいいのですが、なんとも打ち解けぬままよそよそしく気まずい雰囲気になり、時が経るにつれてますます心も壁ができてゆくのが苦痛になります。
思わず、
「ちょっとくらいは自然な表情をしてみせてくれよ。
病気で苦しんでたというのに、大丈夫かとか尋ねてくれないのは今に始まったことではないけど、それでも何か嫌だな。」
と口走ると、ようやく、
「尋ねてくれないのはつらいもんでしょ。」
と伏し目がちに見る眼差しは見下したようで、冷ややかな美しさを放ってました。
「たまに口を開いたかと思えばずいぶんじゃないか。
その『尋ねる』とこの『尋ねる』はまったく別のことだろう。
嫌な問題のすり替えだな。
いつもいつもそんな馬鹿にしたような態度で、ひょったしたら機嫌を直すチャンスかとあれやこれや試せば試すほどかえって冷たくする。
分かり合うには永遠の命が必要だな。」
と言って、夜の御座所に入ってゆきました。
姫君はすぐに入ろうとはしないので、何か言おうと思うのですがうまく言えず、ふっとため息をついて横になったものの、何かもやもやしたままなのでしょう。
眠たそうなふりをしながらも、あれこれと夫婦仲のことで思い悩むのでした。
あの若草がどう育って行くのかなども思うと、気持ちがそっちに行ってしまい、
「なるほど釣り合わないと言われりゃあそれもそのはずで、これじゃ結婚の話を持ち出すのも難しいことだしな。
何かいい方法を考えて、気楽に預けてくれるような感じで京に迎え入れて、朝から晩まで眺めて楽しみたいんだが。
兵部卿の宮はいかにも高貴な感じでさりげない気品を具えていて、やや精彩を欠くもののどうして藤壺の一族にそっくりなんだろうか。
同じ后から生まれたからかな。」
などと思うとその血縁に並々ならぬ親しみを感じ、何とかしなきゃと深く決意するのでした。
次の日、北山の尼君に手紙を書きました。
内容は僧都にもそれとなく知らせておいたことなのでしょう。
尼君への手紙には、
《丁重に断られてしまい、あの時の空気でついつい気後れがして、思っていることもほとんど言えずじまいになってしまったのですが。
このように申し上げなくてはならないほど、並々ならぬ気持であることをわかって頂ければ、大変嬉しく‥‥。》
などと書いてあります。
中に、人に読まれないように小さい結び文が添えてあって、
《その面影忘れられない山桜
何とか置いて来たのだけれど
夜の間の風も心配でなりません。》
とあります。
筆使いの方もさすがなものですが、一見何でもないような事務的な立て文で包んで隠してあって、もう恋をする歳でもない年齢の人たちには、かなりの好印象を与える手紙でした。
尼君は、
「何でまたこんな痛い手紙を、どう返事すればいいものやら。」
と悩んでしまいました。
《旅先でのことはその場限りのことと思っていただきたいのですが、わざわざご心配いただいて、答えようもありません。
まだ子供が最初に習う難波津の歌すらも連綿体できちんと書くこともできなくて、なさけないものです。
それはそうと、
嵐吹く尾根の桜が散る時に
心留めても空しいだけです
なかなか先が思いやられます。》
僧都の返事も似たようなもので、がっくりときて、に三日後に惟光《コレミツ》を行かせました。
「少納言の乳母という人がいるはずだ。
尋ねていって詳しく話してくれ。」
と指示します。
「何かほんと尋常じゃない執念だな。
あんな年端も行かないような様子だったのに。」
と、はっきり見たわけではないけど、見た限りであれこれ妄想するのもおかしなことです。
わざわざ手紙を持ってきたことで、僧都も礼を尽くして話を聞きます。
少納言の乳母にもアポをとって会いました。
いろいろと詳しく源氏の熱望する様子や平素の人柄などを語ります。
あれやらこれやら、べらべらともっともらしくまくし立ててはみるものの、「いくらなんでも無理があるというのに何を考えているんだ」と、誰も皆危険なことのように思いました。
源氏の手紙にもいかにもなれなれしく書いてあって、
《例の連綿してない文字を見てみたい。》
とあり、例によって小さく結んだ隠し文の中には、
《浅香山思う気持ちは浅からず
なぜ山の井の書け(かげ)離れるか》
浅香山の歌は難波津の歌と一緒で、子供が一番最初に倣うもので、『古今和歌集』の序文にも記されている歌です。
返歌、
《汲み始め袖を濡らした山の井は
浅いとはいえ影はみえない》
惟光が聞いた少納言の乳母の返事も似たり寄ったりでした。
「尼君の病気がよくなったら、近いうちに京の亡き大納言の家に戻りますので、その時までに考えておきましょう。」
とのことで、源氏の君もふたたびがっくりきました。
*
藤壺の宮が体調を崩し、宮中から実家へ戻りました。
御門は不安になり、溜息をつく様子が大変気の毒に思えるものの、源氏の君としてはこれはチャンスだと気もそぞろで、どうしようか戸惑うばかりで、誰の所にも通うことなく、内裏でも自宅でも昼は気が抜けたようにぼーっとして過ごし、夜になれば王命婦にあれこれ問い詰めて回ってます。(藤壺の宮に仕える命婦は王家に仕える所から王命婦と呼ばれてました。)
どうやって手を回したのか、どうにもこうにも止まらない衝動のままに会うことがあって、現実とは思えないことが起きてしまい、情けないことです。
藤壺の宮も嫌なことを思い出しては、何かにつけて苦しい思いをするばかりで、そのためもう逢うのをやめようと深く決心していたところだったものですから、すっかり自己嫌悪に陥り辛そうな様子です。
親しげに可愛らしく振舞っても心を許すことはなく、すっかり及び腰になって対応するものの、それでも普通の人とはちがう高貴さを漂わせ、何でほんの少しの欠点もないのだろうかと源氏の君も心を痛めます。
これ以上のことは言うことはできません。あとは御想像に‥‥。
*
夜が明けるのが早く、どこか『暗ぶの山』のような所に宿を取りたい所ですが、結局どうしようもない中途半端な関係が続きます。
「たまに逢う夜も消えてく夢ならば
このまま俺も消えて行きたい」
と胸が苦しく息も止まるような様子を見て、藤壺の宮もさすがにやばいと思い、
「世間では噂しますよ辛い身を
醒めない夢に閉じ込めたとて」
そう言って取り乱している様子を見て、それも無理はない、とんでもないことをしてしまったと反省頻りでした。
茫然自失の源氏に君に、脱ぎ散らかされた直衣などを拾って持って来たのは命婦の君でした。
二条院に戻ると、もう逢えないと泣きじゃくり、夜まで寝床に臥せってました。
手紙なども、王命婦に見せることはできないといわれていたので、いつものことながらも辛く苦しく思い呆けているばかりで、内裏にも行かずに二、三日引き篭もっていると、御門もまた「物の怪がぶりかえしたか」と動揺しないはずもなく、ただただ恐ろしくなるばかりでした。
藤壺の宮も、それにしても本当に自分が嫌になると思うと溜息が出るばかりで、体調もますます悪くなって、すぐに参内するようにお使いのものが次々にやってくるのですが、そんな気力もありません。
そのうち本当に気分が例の「あれ」のような状態になってきたので、もしかしてと人知れず煩悶するし、もう嫌だ、どうなっちゃうのと狂わんばかりです。
暑くなる頃には、ついには起き上がることもできなくなりました。
三ヶ月になればその徴がはっきりしてくる頃で、周りの人たちもそれを見てあれこれ言うにつけても、あってはならなかった宿世の契りが恨めしくなります。
人はそんなこととも知らず、何ですぐに御門に報告しなかったの、とびっくりして言います。
はっきり思い当たることがあるのは、自分一人だけでした。
風呂に入るときも親しく仕えていて、いろいろな体の兆候もはっきり見て知っている乳母の子の弁や王命婦など、あやしいと思っても互いに口にすることもなく、どうしても逃れることのできなかったあの夜のことを、命婦は忌々しく思ってました。
宮中には、物の怪の病かと思ってなかなか気付くことができなかったというふうに報告したのでしょう。
みんなそれで納得してました。
御門の方はますます限りなく愛しく思うようになって、ひっきりなしに使いの者がやってくるのも空恐ろしくなり、心配事の種は尽きません。
源氏の中将の君もおどろおどろしい変な夢を見たので、夢占いをする者を呼んで聞いてみると、身分違いのまったく思いがけない血筋が見られるとのことです。
「その中に大過あって、慎むべきことになります。」
と言うので、面倒なことになっても困るので、
「俺の夢ではなく、他人の見た夢のことを聞いてみたんだ。
この夢占いのことだけは人に言うなよ。」
と言うものの、心の中では「どうなっちまうんだ」とあれこれ思ってるうちに、藤壺の宮の御懐妊のことを聞いて、もしかしたらと思い当たり、ますます困ったことを書いた手紙をしきりに送り付けるものの、命婦からすれば何とも気持ち悪く、面倒だという気持ちがまさって、取り付く島もありません。
最初はそっけない一行の返事がたまに返ってきたものの、それもなくなりました。
*
七月になって、藤壺の宮が内裏に戻ってきました。
久しぶりに逢って思いもひとしおで、ますます御門の寵愛も限りないほどのものとなります。
おなかは少し膨らみ、急にやつれて頬もこけてきているものの、それでも御門としてはこの上なくお目出度いことでした。
いつものように明けても暮れても自分の傍に侍らせて、管弦の宴にもちょうど良い季節となれば、源氏の君もしょっちゅう呼びつけては七弦琴、竜笛などの演奏を命じます。
必死に押し隠してはいても、源氏の君のこらえきれない気持ちが端々に出てしまうたびに、藤壺の宮もそれに反して嫌なことをいろいろと思い出してしまうのでした。
あの山寺の尼君は多少動けるようになり、都に出てきました。
源氏の君も京の棲み処に使いを出して、時々手紙などを差し上げてます。
相変わらず同じような返事ばかりなのは当然と言えば当然で、もう何ヶ月もかってないような憂鬱のうちに、これといったこともなく過ぎて行きます。
*
秋の末になっても、何となく心細く溜息をつく日が続いてます。
月の奇麗な夜、以前こっそり通ってた所にやっとのこと行ってみようと思い立ったのですが、時雨に打たれてしまいます。
ちょうどそこは六条京極のあたりで、内裏からはやや遠く感じられる所に荒れ果てた家の木立ちが鬱蒼として黒々としている所がありました。
いつもお供にくっついて歩いてる惟光が、
「今は亡き按察使の大納言の家ですね。
この前ちょっとしたついでに訪問してみたのですが、例の尼君、かなり痩せ衰えていて、すっかり人が変わったようになったなんて言ってました。」
と言うと、
「そりゃ大変じゃないか。
見舞いに行かなくちゃいけなかったのに、どうして言ってくれなかったんだよ。
言って挨拶して来い。」
と命じて、惟光を取り次ぎにやりました。
わざわざこうしてやって来たことにしろと言ったので、入って、
「この通りお見舞いに伺いました。」
と言うと、少納言の乳母はびっくりして、
「それは大変申し訳ないことをしました。
ここ数日、すっかり予断の許さぬ状態になってまして面会はご遠慮いただいております。」
とは言うものの、
「せっかくお出でいただいたのですから。」
と、南の廂を臨時の客間にして、中に入れてくれました。
「たいへんむさくるしい所で失礼します。
いきなりこんな辺鄙な所にとは思わなくて。」
とのことです。
確かにこんな所は源氏の君からすれば何か勝手が違う感じがします。
「つねづね来ようと思いたっていたけど、なかなかこちらの言うことを聞き入れてもらえないので、控えさせてもらったんだが。
すっかりやつれているというのに、こんなふうにその姿を見ることもできないのも残念でね。」
と源氏の君は言います。
すると、
「病状の方はいつどうなるかわかりません。
いよいよ最期という時になって、お立ち寄りくださったことは大変かたじけなくて、自分からは言えません。
おっしゃってることについて言えば、たまたま思いが変らないでいてくれたならば、こんないとけない年齢を過ぎてから、必ずその一人に加えてください。
あの子のことはひどく不安に見えてならなくて、成仏を願っても道の足枷になってしまいそうです。」
と、すぐ近くで、不安そうな声が弱々しく聞こえてきて、
「とにかく何とも恥ずかしい次第です。
あの子が自分からきちんとお話をお受けできるような歳だったなら‥‥。」
と続けます。
源氏の君はそれを悲しそうに聞いて、
「気が変らなかったらなんて、そんな軽い気持ちでここまでこんなに夢中になって頼んでるわけじゃないんだ。
どういう縁か、初めて見たときからこんなに愛しくてしょうがないのが本当に不思議なことで、現世だけのこととは思えないんだ。」
などと言って、
「つれない返事ばかりしないで、あの無邪気な子にせめて一声だけでも。」
と続ければ、少納言の乳母が、
「まあまあ、あの子はこんなことになっているとは知らずにお休みになってましてねえ。」
などと言っているちょうどその時、向こうから誰かが来る音がして、
「ねえお婆ちゃん、あの寺にいた源氏の君が来たんでしょ。
どうして逢わないの?」
という声を、周りの人たちは、ちょっとこれはまずいと思って、
「静かに!」
と注意しています。
「だって、逢えば気分が悪いのもやわらぐと言ってたじゃないの。」
と、それでもしたり顔で言います。
源氏の君は、これはもう最高に面白いなと思って聞いていたけど、周りの人たちの困り果てた様子を見ると、聞かなかったことにして真面目にお見舞いの言葉をかけておくだけにして退散しました。
「確かに子供すぎてどう言っていいのかわからないな。
しっかり教育しなきゃ。」
と思いました。
別の日にも、ごく真面目にお見舞い状を書きました。
例によって小さな隠し文つきで、
《あどけないつるのひとこえきいてから
あしがからまりふねはすすめず
いつまでもおなじ人にからまってしまってます。》
と、わざと子供っぽく書いたりしても、なかなか味のある面白い書体なので、これを姫君用の手本にしたらいいのではないかなどと、周りの人は密かに言ってます。
少納言の乳母からの返事がありました。
《お尋ねになった人は、今日をも過ごせるかどうかわからない状態で、山寺に帰りまして、せっかくのお見舞いに答えられないお詫びは、あの世の方からでもあると思います。》
それを読んで源氏の君はひどく悲しくなりました。
まして秋の夕べは、ただでさえ気持ちが静まる暇もなく、すっかり取り乱してしまっている藤壺の宮のことも気にかかれば、その姪の小さな姫君にも逢いたいという身勝手な気持ちも募るばかりなのでしょう。
「どこに消えよう」と尼君が詠んだあの春の夕暮れを思い出して、恋しくはあるものの、本当にただの子供だったらとさすがに心配になります。
「いつの日か摘んでみたいな紫(王族)の
根にも通じる野辺の若草」
*
十月に朱雀院の紅葉狩りが行なわれることになりました。
舞の担当は大臣クラスの子供、納言クラス、それ以下の殿上人の子供など、その方面に向いている人がみんな選ばれていて、皇子たちや大臣をはじめとするそれぞれ一芸持った人たちも練習に借り出されて、休む間もありません。
源氏の君も、あの山里の人たちにしばらく連絡を取ってなかったのを思い出して、お使いを出して手紙を届けさせれば、僧都からの返信のみがありました。
《先月の二十日のごろ死去しまして、生者必滅は世のことわりとはいえ、大変悲しく思っております。》
などと書いてあるのを見て、人生の儚さも悲しく、気になるあの人もどうなってしまうのか、幼心にも恋しがるだろうなと、自分もまた御息所(母)に先立たれたことをぼんやりと思い出して、深い弔意を伝えました。
少納言の乳母からも正式のお礼状が届きました。
三十日の服忌が終り、京の家に例の女の子が戻ってきたと聞いて、少ししてから自から静かな夜に出かけて行きました。
ものすごく荒れ果てたところで人もあまりいなくて、小さな子にはさぞかし怖い所だろうなと思いました。
前回同様、南の廂に通され、少納言から尼君の最期の様子など涙ながらに話すのを聞いていると、源氏の君の袖もついついそのままではすまなくなります。
「兵部卿の宮様に引き渡すにも、亡き姫君が宮様の奥さんのことを冷酷で嫌なやつだと思っていたとお聞きしました。
まったくの子供というほどの年齢でもないにしても、だからといって人の意向をてきぱきと汲み取れるほどでもなく、中途半端な年頃なので、あんなたくさん子供がいる中で、継子として差別を受けながら暮すということになると、亡き尼君がいつも心配してたのももっともだと思うこと多々あります。
あなた様のこんなありがたいお言葉も、後々どう気が変ってゆくかもわからないながら、大変嬉しく思わなくてはいけない状況なんです。
ですが、今はとてもそれにふさわしい状態ではなく、歳のわりには子供っぽくて傍目にも痛々しいのです。」
と少納言の乳母は言います。
「何かこう、何度も繰返し言ってきた私の気持ちの程を警戒しているようだね。
その取るに足らない様子が可愛く心を惹きつけられるのも前世の縁であろうと、自分にはそう思えてならないんだ。
だから直接話させてほしい。
わかの浦生えてる海松はかたくても
立っちゃった波は帰れやしない
馬鹿にしているな。」
と言えば、
「それはごもっともで、恐縮です。
寄る波の意図も知らずにわかの浦の
玉藻なびかすなんて不安よ
無茶です。」
と、すっかり慣れっこになった様子で歌を返すのを見て、怒る気にもなりません。
「何年も密かに通おうと急ぐのになぜ越えられない逢坂の関」と、ふいにそんな昔の歌を口ずさむと、若い女房達はしみじみとした気分になりました。
その姫君は尼君に会いたがって泣き伏してたところ、いつもの遊び相手の童たちが、
「直衣着た人がいるけど、兵部卿の宮が来たんじゃないの?」
と言うと、起き上がって、
「少納言ーーー。
直衣着た人ってだーれ?
兵部卿の宮がいるのーー?」
と、近づいてくる声が可愛らしい。
「兵部卿の宮ではないけど、そんな違う人間ではない。
こっちへ。」
と言ってはみるものの、あの凄い人だとさすがに理解したようで、まずいこと言ったと思って少納言の乳母の方に近づき、
「ねえ、あっちいこうよ、眠くってぇ。」
と言えば、
「今さら逃げ隠れすることもないだろっ。
この膝の上で眠りなよ。
もちょっとこっちへ来なよ。」
と言えば、少納言の乳母は、
「これこの通り。
まだ色気なんて全然ないでしょ。」
と言って源氏の君のほうに姫君を押しやれば、何を思うでもなく傍に座るので、上に羽織った絹に手を入れて探ってみると、柔らかな御衣に髪がばさっと掛かって、毛先の方までがふさふさしているのが手に感じられ、何と美しいと思いました。
手を掴むと、ますますいつもと違う人がこんなに近くにいるのが恐くなって、
「寝ようと言ってるのに。」
と言って、こっそり奥の母屋に入っていこうとすると、座ったまま膝ですべるようにして一緒に中に入り、
「今やあなたの恋人は私なのです。
どうか避けないで下さい。」
と言います。
少納言の乳母は、
「あらやだ。
あぶないことをして。
そんなふうに直接話してみても、何のことだかさっぱりわかってないじゃないの。」
と、すっかり困り果てていると、
「いくらなんでも、こんな歳の子をどうこうしようというのではない。
それでも、ただこの世の中の並々ではない愛の深さを見届けてくれ。」
と言います。
霰が降りしきり、寒々とした夜のことです。
「こんな少ない人数では心細くて、どうやって夜を明かせというんだ。」
と急に涙ぐみ、そのまま放って帰ることもできなくなり、
「格子を降ろせ。
何か恐ろしいものが出そうな夜なので、夜の相手役を務めよう。
みんな、近くに来るといい。」
と言って、いかにもこの家の人間みたいに御帳の中に姫君を抱えて入ってゆけば、誰も彼も思いもよらぬ怪しげなこの行動に呆気に取られてました。
少納言の乳母は、気が気でなくてどうしようもないのですが、声を荒げて騒ぐのもまずいので、溜息をつくばかりです。
小さな姫君は極度の恐怖に「どうなっちゃうの」と不安で震え上がって、きめ細かい肌に鳥肌が立つのも可愛らしいと思って、一重の絹でぎゅっとくるんで、一方ではこれもやむを得ぬ事と思いながらも、優しく話しかけ、
「さあ行こう。
面白い絵がたくさんあって、お雛様を飾って遊べるところに。」
と姫君の気を引くようなことをやけに馴れ馴れしく口にするあたりは、幼心とはいえそんなひどく恐がることでもないものの、うざったくて眠りにつくこともできず、落ち着かないままに横になりました。
その夜は一晩中風が吹き荒れていて、
「本当にこんなふうにいてくれなかったら、どんなに心細かったでしょうね。」
「まったくですわ、もうすこしいい歳だったらよかったのに。」
と女房達は囁き会っています。
少納言の乳母の方は気が気でなくて、すぐそばにくっついてます。
風が少し吹き止んたので、まだ夜が明けてない時分に帰って行くのですが、いかにも何かあったあとのような顔をしてます。
「こんな可哀想な姿を見てしまったのでは、これから先、年がら年中ぼーっとしていそうだ。
一日中見守っていられる所に連れて行こうと思う。
こんな所ではちょっとね。
いっしょにいても、そんなに恐がってもいなかったし。」
と言えば、
「兵部卿の宮が迎えに来ると言ってましたけど、四十九日が過ぎてからと思ってまして。」
という返事が返ってきたので、
「実の父だから頼りになるとはいっても、ずっと離れ離れで暮していたんだから、親しくないのは一緒だと思う。
今初めて見たとはいえ、深く愛する気持ちは負けたりはしない。」
と言うと、姫君の髪をわさわさ撫でると、後ろ髪引かれるように帰って行きました。
霧があやしげに立ちこめる空も尋常ではなく、地面もまた霜がびっしりと降りて、本当の逢瀬のきぬぎぬなら風情もあるところですが、一人寂しく去って行きました。
按察使の大納言の家が、六条の例のこっそり通ってた所へ行く通り道だったのを思い出して、お付きの者に門を叩かせてみたけど、反応はありません。
しょうがなく、お供の中の声の大きな人に自分の詠んだ歌を歌わせました。
「明け方の霧が立ちこめ迷っても
素通りできない君の住む家」
と二回ほど歌ったところ、上品ぶった下っ端の女房をよこして、
「立ち止まり霧の垣根は気にしても
閉じた草の戸触れもしないで」
と言うだけ言って中に入ってしまいました。
他に人が出てくることもなく、このまま帰るのも忍びないけど、無情にも空は明るくなってゆくばかりで、二条院へ帰りました。
可愛かったあの人にもう一度会いたいななどと思いながら、一人ニヤニヤして寝床に入りました。
日も高くなり寝殿で目を覚まし、手紙を書くのですが、書くべき言葉も子供相手ではいつもと違い、筆を置いては手でもてあそんでました。
結局、面白そうな絵などを書いて送りました。
そのおなじ日に、あちらには兵部卿の宮がやってきました。
年月を経てまた一段と荒れすさび、広く古ぼけた所にほとんど人の気配もなく寂しいので、辺りを見回して、
「こんな所では小さな子供が短い間であれどうやって暮せというんだ。
ならば、私の所に来させるといい。
何も遠慮することはない。
乳母殿は住み込みで働いてそばにいればいい。
若い兄弟達もいるので、姫君も一緒に遊んだりして、みんなで仲良く暮らせるのではないかな。」
などと言います。
姫君を近くに呼び寄せると、源氏の衣の移り香がやばいくらい艶やかに染み付いていたので、
「これは面白い香りだ。
御衣はすっかりくたびれているがな。」
と心苦しげに思いました。
「これまでも病気がちな盛りを過ぎた人と一緒に暮してるというので、時々あちらを訪れては私の妻にも馴染ませておこうと言ってはいたんだが、妙に近づけまいとしてたんで、あいつも気にしてたようなんだが、こういうことになって初めて家に連れてくることになるというのも心苦しいことではある。」
と言うので、
「今はまだ不安はあるけど、しばらくはこのままここに置いておきます。
少し物事に分別のつくようになってから、そちらの家に行かせた方が良いと思います。」
と答えます。
「夜となく昼となく亡きお婆さまのことを慕って、ほんのちょっとしたものすらお召し上がりになりません。」
と言うように、実際にひどく顔がやつれてはいるものの、それもかえって上品で美しく見えます。
「何でいつまでもくよくよしてるんだ。
もうこの世にはいない人のことを考えてもしょうがない。
俺がいるじゃないか。」
などと話しかけたりして、夕暮れには帰るというので、姫君も心細くなって泣き出せば、兵部卿の宮も涙が溢れてきて、
「そんなに深く思いつめるでない。
今日明日にも迎えに来る。」
などと繰返し繰返し姫君をなだめながら帰ってゆきました。
去っていった後も慰めようもないくらい泣いていました。
自分がこれからどうなるのかなんて知るすべもなく、ただこれまでずっと遠く離れることもなく、いつも一緒にいたのに、今は亡き人となったと思うのが耐え難く、幼心にも胸がぎゅっと塞がる思いで、いつものように遊ぶこともなく、昼は何とか気を紛らわすことができても日が暮れてくるとひどく塞ぎこんで、このままではこれからどうやって生きて行けばいいのかと慰める言葉も失い、少納言の乳母もただ泣くのみです。
源氏の君のもとから惟光が差し向けられてきました。
「本当は自分で来るべきところを、御門より招集がかかってまして。
姫君の様子を心苦しく拝見させていただいて、居ても立ってもいられなくて。」
と言って、代わりに泊り込みで面倒を見る人を差し向けたのでした。
「余計なことをしてくれる。
冗談でも、三日間は本人が通うのが礼儀だというのに、代わりをよこすなんて。
兵部卿の宮が聞きつけでもしたら、お仕えしている私達の落ち度にされて責められちゃうじゃない。
いいこと、絶対に何かのはずみで、つい口を滑らすなんてことしないでよ。」
などと姫君に言い聞かせても、何のことだかわからないのも困ったものです。
少納言の乳母は惟光に悲しい身の上などを語りながら、
「時間も経てば、そういう前世の宿縁というのも逃れられないものなのかもしれません。
ただ、今はあまりにも不釣合いなお話としか思えないので、思ってることも言っていることも怪しげだし、一体何を考えているのか理解のしようもなく、本当に困ります。
今日も兵部卿の宮が来て、
『もっと気を楽にして育てたらどうだ。
子ども扱いせずに。』
と言ってたことも、どうにもこうにも煩わしくて、ただでさえ昨日の夜のようなことを思い出すと。」
などと言って、何かあったのではないかと惟光に勘ぐられても困るので、そんな悩んでるふうにも言えません。
惟光大夫も「一体何の話なんだ」とさっぱりわからないふうでした。
二条院へ戻り、源氏の君にあったことを報告すると、少納言の乳母の立場も気の毒だなとは思うものの、三日続けて通って婚姻の形を取るのもさすがに何だかなという感じで、いかにも軽薄だの変態だの人に噂されたのでは恥だし、ただ単に二条院に引き取るだけにしたいと思いました。
*
何度となく手紙を送りました。
夕方になると、例の大夫を差し向けました。
《いろいろ事情があってお尋ねできないのを、愚かなことと思ってないでしょうか。》
などと書いてあります。
「兵部卿の宮が明日急に姫君を迎えにと言ってきたので、すっかり心もせかされてます。
長年暮した蓬の生い茂る家を離れるとなると、さすがに心細く、仕えている女房たちも動揺してます。」
と言葉少なに言って、なかなか惟光も相手にされません。
仕立屋がせわしく働いている気配がひしと伝わってくるので、戻りました。
源氏の君は左大臣の家にいるのですが、例の女君はまったく顔を合わせようともしません。
何かかったるくなって、東琴を清掻の奏法で掻き鳴らし、
♪常陸の国は米どころ、他になんにもありません。
だから野を越え山越えて、通うあなたを待ってます。
という民謡を、ぼそぼそとした声で気ままに歌いました。
惟光がやってきたので、呼び寄せて向こうの様子を聞きました。
そこで惟光がかくかくしかじか言うと、目の前が真っ暗になり、あの兵部卿の宮の家に行っちゃったあと、わざわざそっちに結婚を申し込みに行ったりしたらそれこそスキャンダルで、幼女と密かに出来ていたなんて非難されかねない。
なら、その前にちょっとの間あちらの女房達を口止めして二条院に連れてこようと思い、
「日が昇る前にあちらへ行こう。
車を出す準備をして、そのままここに置いておくように。
お付きの者の一人二人に命じておいてくれ。」
と言いました。
惟光も承知して出発しました。
源氏の君は、
「どうしよう、人に知られてスキャンダルになるにしても、相手が一人前の女として物事がわかっていて、女と情を交わしたと思われるなら、よくあることだ。
父親の宮様に探し出されたりしたら、ばつが悪くて徒労に終る。」
と思い悩んではみても、この機会を逃しては元も子もないので、まだ夜も深いうちに出発しました。
女君はいつものように、許せないという気持ちで渋々見送りました。
「二条院の方に急用があったのを思い出した。
すぐに戻る。」
ということにして出発したので、女君《トーコ》のお付きの女房たちもこのことを知りません。
自分の客室で直衣姿に着替えて、惟光を馬に乗せての出発です。
惟光が門を叩くと、何が起きているのかもわからずに誰かが門を開けたので、車を中に引き入れて、小さな方の姫君の寝所の妻戸をノックして咳払いをすれば、少納言の乳母が聞きつけて出てきました。
「源氏の君がここにおられます。」
と言えば、
「小さな子はお休みになってますから。
にしてもどうしたの、こんな夜ふけにやってきて。」
とどこかへ通ってきたついでかと思って言いました。
「兵部卿の宮の所へやるというのなら、そのまえにほんの一つだけ言っておきたいことがあって。」
と言えば、
「一体何なのよ。
どうやればあの子がきちんとした結婚の承諾をすると言うのですか。」
といいながら急に笑い出しました。
源氏の君が寝所の中に入ろうとすると、それは困るとばかりに、
「ちょっと人に見せられないような姿でくつろいでいる年齢の者いますから。」
と咎めます。
「まだ気付かないのかい。
さあさ、起きましょうね。
霧がかかって暗いだけで、もう朝だというのも知らずに寝ているのかい。」
と言って入って行けば、みんな「あっ」と声を上げることすらできません。
若君は何も知らずに寝ていたところ、源氏の君が驚かそうとして抱きしめたので、びっくりして、まだ眠気まなこで兵部卿の宮が迎えに来たのかと思いました。
源氏の君が若君の髪を手でざっと整えると、
「さあさあ。
兵部卿の宮の御使いに参ったぞ。」
と言うと、
「ちがうーーっ!」
と何が何だかわからず恐がっているので、
「いけませんね。
私も同じような者です。」
と言ってお姫様抱っこで出て来ると、惟光大夫や少納言の乳母などは、
「どうする気なんだ。」
と口々に言いました。
「ここにはしょっちゅう来ることが出来なくて不安だから、安心できる所にと言ったのに、その意に反して兵部卿の宮にやるというなんて、それこそ理解に苦しむのでね。
誰か一人来るといい。」
と言えば、すっかり慌てふためいて、
「今日というのはいくらなんでも都合が悪すぎます。
それに、兵部卿の宮の所に行かせるというのをどうして知ったのやら。
時とともに自然に落ち着くべき所に落ち着くのでしたらともかく、まだちゃんとした判断の出来ない子供のことなので、仕えている方としても困ります。」
と食い下がってはみるものの、
「そうか、だったら後から来ればいい。」
と言って車を近くに持ってこさせれば、呆然としてどうすりゃいいのかとみんな思うばかりでした。
若君も異常を感じて泣き出します。
少納言の乳母も、止めることができないならばと、昨日縫った御衣《おんぞ》や何かを引き下げて、自分もちゃんとした服に着替えて乗り込みました。
二条院までは近いので、まだ明るくならないうちに到着し、西の対に車を着けて降りました。
若君をいかにも軽々とお姫様抱っこし、車から降ろしました。
少納言の乳母は、
「まだ何か悪い夢を見ているようなんだけど、あたしはどうすればいいのかしら。」
と呆然としてれば、
「それはあなたのお心次第だ。
この子さえ引き渡してくれればいいんだ。
帰りたいなら送っていく。」
と言うので、仕方なく車から降りました。
急にむかむかしてきて、動悸が激しくなります。
兵部卿の宮に一体なんて言われるか、この子は一体どうなってしまうのか、それもこれも頼りにしてきた人たちがみんな死んでしまったのが不幸の元だと思うと、泪が止めどもなく溢れてくるのを、ここで取り乱すわけにも行かず、ぐっとこらえました。
*
西の対は誰も住んでなかったので、御帳などもありません。
惟光に命じて、御帳や屏風などをあっちにもこっちにも配列させました。
御几帳の帷子を引き降ろして、寝所を整えるだけ整えて、源氏の住む東の対にお泊り道具を取りに行かせ、眠りにつきました。
若君は、とにかくおぞましく、何をされるのかと恐怖に震えてましたが、あまりのことに声を立てて泣くことも出来ません。
「少納言の所で寝るぅ。」
と、いかにも子供の声で言います。
「もうこれからはそこで寝てはいけません。」
と告げられると、すっかり意気消沈して泣き伏しました。
少納言の乳母は眠ることも出来なければ何も考えることもできず、ただただ泣いてました。
夜が明けて行くままに漫然とあたりを見渡せば、屋敷のたたずまいやインテリアなどは言うまでもなく、庭の玉砂利もあたかもクリスタルを敷き詰めたようにきらきらと輝いて見えるのに、場違いな所に来たと思いつつも、ここには女房などは仕えていません。
折から珍しい客人が来ているというので、使用人の男達が御簾の外に控えています。
「ここに誰かを迎え入れたと聞いたけど、誰なんだい?」
「さあ、並大抵の人じゃないだろうな。」
と囁きあってます。
洗顔用の水やお粥がここに届けられます。
日が高くなって起き上がると、源氏の君がやってきて、
「女の人手がいなくて申し訳ないので、残りの人たちも夕がたには連れてくる。」
と言って、西の対に女童を連れてきました。
小さい子だけ特別選んで連れて来いと言うので、特に可愛らしいのが四人来ました。
若君は源氏の御衣をかぶせられて寝ていたのですが、それを揺すり起こして、
「そんなに心配するんでない。
いいかげんな人はこんなことをしたりしない。
女はほんわかしているのがいいんだ。」
などと、さっそく教育を開始しました。
見かけは遠くから見ていたよりもはるかに高貴な気品を漂わせ、親しげに話しかけながら、面白い絵や遊び道具を取りにやらせては見せて、なんとか気を引こうとします。
ようやく起き上がったので見ると、にび色のきめ細かい上物だがすっかり萎えてしまっている服を着て、無邪気に顔をほころばせてますが、その美しさに思わず源氏もにっこりします。
源氏の君が東の対の方に戻って行くと、若君は寝所の外に出て廂に立つと、庭の木立や池の方を御簾越しに覗いてみました。
霜枯れた草木の植え込みがまるで絵みたいに奇麗で、見たことのない黒い服を着た四位の男、赤い服を着た五位の男が入り混じり、ひっきりなしに出入りするのを、「なにこれ、超おもしろーい」と思いました。
いくつもある屏風の奇麗な絵を見ては、恐かったことをすっかり忘れているのもあっさりしたものです。
源氏の君は二、三日、内裏へも行かず、この人を手なずけようとあれこれ話しかけます。
さらには、書や絵の手本にといろいろ書いて見せたりしました。
何かとても楽しそうに書き溜めてゆきます。
若君は、「知らなくても武蔵野といえば恨まれるそれこそまさに紫のせい」と紫の紙に書かれた書の特別出来の良いのを手にとって見てました。
少し小さく、
根なくてもいとしくおもうむさしのの
つゆにまみれた草のルーツを
と書いてあります。
「さあ、書いてごらん。」
と言うと、
「まだ、そんな書けないよぅ。」
と言って見上げる目が、無邪気で可憐なので、ついつい口元が緩んで、
「下手でも書かないよりはずっと良い。
さあ、教えてやるから。」
と言えば、つんとした顔で書き始めるその手つきや筆の持ち方が子供っぽいのがただただ可愛く思えて、自分でもおかしく思うほどです。
「失敗しちゃった。」
と恥ずかしそうに隠してるのを強引に覗き込めば、
うらまれるわけがさっぱりわからない
どんなルーツが草にあるのよ
と、まだまだ若いけど、将来の上達を予感させるかのように、のびのびと元気よく書いてました。
今はなき尼君の字にも似ています。
ちゃんとした今の書体を習わせれば、きっと上手に書くに違いないと思いました。
源氏の君は、折り雛など作るにも、わざわざそのお家なんかもいろいろ作ったりして、若君と一緒に遊ぶことで日頃の憂さを晴らしていました。
とり残された人たちのところに兵部卿の宮がやってきて、何があったのか尋ねるのですが、説明のし様もなくて途方に暮れるばかりです。
「しばらくは誰にも言うな」と源氏の君にも言われていて、少納言の乳母もそう思ってたことなので、硬く口を閉ざして、
「少納言がどこかに連れてってしまって、どこへ行ったのかもさっぱりわかりません。」
とだけ言うと、兵部卿の宮も言ってもしょうがないと思ったのか、亡き尼君も自分の所に渡すのを渋っていたことを思えば、少納言の乳母もその気持ちを察するあまりに、すんなりと渡すのが嫌だとも言えず、勝手な判断で若君を連れ出して姿をくらましたと思い、泣く泣く帰ってゆきました。
「もし何かわかったら知らせてくれ。」
と言われても面倒なことです。
兵部卿の宮は僧都の所に何かわからないか聞きに行ったけど、これといった情報もなく、こんなボロ屋敷にはもったいないような端正な若君の姿を恋しくも悲しく思うのでした。
兵部卿の宮の奥方も、若君の母を憎む気持ちにもなれず、ただ自分の思い通りになると思っていたのが違ったのが、くやしがってしょうがありませんでした。
*
ようやくその仕えていた人たちも二条院にやってきました。
遊び相手の童女や稚児たちも、それこそ見たことのないような最先端の生活環境にびっくりし、思う存分遊びました。
若君は源氏の君が不在だったりして、することのない夕暮れだけは尼君のことを思い出しては泣き出したりもしますが、兵部卿の宮のことはすっかり忘れてます。
もともと滅多に会うこともなく、いないことに慣れていたので、今はただこの二人目の父親にすっかりなついて、いつもくっついて歩いてます。
帰ってきた時はすぐに出迎えて、楽しそうにおしゃべりをして、胸元におさまっても恥ずかしいなんて気持ちがまるでありません。
その趣味の人にはたまらなく可愛らしい仕草でした。
いろいろ計算するようになり、何やかんやと面倒くさい年頃になれば、自分の思い通りでないこともあるかと身構えたりし、相手に不満を感じることも多く、自然とぶつかり合うことも多くなるものなのですが、今はまだ心から楽しく遊べる相手なのです。
普通、娘というものはこのくらいの歳になれば、こんな気安く相手したり、分け隔てなく寝起きをともにしたりなんてありえないことなので、源氏の君も、これはまったく別個な親子関係なんだと受け止めているようです。