この現代語訳はただ訳すだけでなく、佐々木鏡石さんの小説「じょっぱれアオモリの星 おらこんな都会いやだ」で、アオモリ弁のセリフとその標準語訳をルビを使って両方同時に読めるようにしてたのにヒントを得て、古文でも応用できないかと試したものだった。
そのため、現代語訳ではあるが、ルビの方を読むと原文が読めるようになっている。
例えば、
月日は永遠の旅客にして、行きかう年もまた旅人だ。
という文章のルビを読むと、
月日ははくたいのくわかくにして、行きかう年もまたたびびとなり。
となる。
月日は永遠の旅客にして、行きかう年もまた旅人だ。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いを迎える者は、日々旅にして旅を棲家にする。古人も多く旅に死んだもんだ。
俺もいづれの年からか、片雲の風に誘われて、漂泊の思いに駆られ、海浜をさすらい、去年の秋、深川のボロ屋の蜘の古巣を払って、やがて年も暮れ、春になったら霞の空に白川の関をこえようと、何だか分らない神の頭に憑りついて心をくるわせ、道祖神のまねきにあって取るもの手につかず、もも引きの破れを直し笠の緒を新しくして、三里の壺に灸を据えて、松嶋の月がとにかく気にかかって、住んでた家は人に譲り杉風の別邸に移った。
草の戸も住み替わる時代だひなの家
表八句を庵の柱に掛けておく。
* * *
三月も二十七日、明け方の空は朦朧として、月は有明に光も失われてゆき、富士山はかすかに見えて、上野・谷中の花の梢も、またいつかはと心細い。
仲の良い人たちは昨晩から集まって、船に乗って見送る。千住という所で船を降りれば、前途三千里の思いに胸がいっぱいで、幻の都会に別れの泪が溢れる。
行く春に鳥は鳴き魚の目は泪 芭蕉
これを最初の旅の記述として行こうとするが歩き出せず、人々は途中まで立ち並んで、後ろ姿の見えるまではと、見送っていた。
* * *
ことし元禄二年にと、東北への長い旅に出ることを何となく思い立って、笠に積る呉天の雪のような白髪の頭といえども、耳に触れていまだ目に見ぬ所を、何とか生きて帰れたらと、駄目かもしれない望みをかけながら、その日何とか草加という宿場にたどり着いた。痩せた肩に背負った荷物にまず苦しむ。
ただ体一つでと旅立とうとしたけど、紙子一枚は夜のために、ゆかた・雨具・墨筆のたぐい、断れなかった餞で貰ったものは、さすがに捨てるわけにもいかず旅路の煩となるのは困ったものだ。
* * *
室の八嶋に参拝する。
一緒にいる曾良が言うに、
「この神はコノハナサクヤヒメの神といって富士山と一体だという。無戸室に入って実子の証明のために火を放ち、ホホデミノミコトが生まれたことにより室の八嶋という。また煙を読む習わしがあるのもこのためらしい。」
また、コノシロといふ魚を禁ず。その理由は諸説あるという。
* * *
三十日、日光山の麓に泊る。宿の主人が言うには、
「私は仏五左衛門と申します。万事正直を旨とする故に、人はそうおっしゃるだけですが、この度の御宿泊どうぞ楽にお過ごしください」
とのこと。
何とまあ仏様が濁った世界に現れて、こんな出家の乞食順礼みたいな人を救ってくれるんだと、あるじのする事を気を付けて見てみると、頭はそんな良くなさそうで馬鹿正直なだけのようだ。よくある純粋素朴ないい人の類で、天性の潔癖さは立派なもんだ。
四月一日、東照宮に参拝する。
その昔この山を二荒山と呼んでたのを、空海大師開基の時日光と改めたという。
千年先までを見据えていたのか、今その光は空全体に輝いて、この国全体を豊かにして、誰もが安心して暮らせる世の中になった。なお、畏れ多いことなのでこれ以上は止めておく
ああ尊い青葉若葉の日の光
黒髪山は霞がかかって、雪で未だに白い。
剃り捨てて黒髪山に衣替え 曾良
曾良は河合氏の者で惣五郎という。
芭蕉庵の葉の下に軒を並べて、炊飯などの仕事をしてくれている。このたび松島・象潟を一緒に見れることを喜び、加えて旅行の面倒な仕事を引き受けて、旅立つ直前に髪を剃って墨染の衣を着て、惣五を法名っぽく宗悟とする。
そのため墨髪山の句となる。衣替えの文字力強く響く。
二キロ余り山を登ると滝があった。岩の洞穴のてっぺんから飛び出す水が三十メートル下の、岩の多い滝つぼへと落ちる。
岩窟の中に入ると滝を裏から見れるので、うらみの滝と呼ばれている。
しばらくは瀧に籠ろうか夏の初め
* * *
那須の黒羽という所に知りあいがいたので、これから野を越えて真っすぐそこへ向かおうとした。
やっと集落を見かけて行くと雨が降って日が暮れた。農夫の家に一晩泊めてもらい、翌朝また野中を行く。
そこに野飼いの馬がいた。草刈してた人に相談すると、農夫といってもさすがに情のわからないわけではない。
「どうしたもんか、なにしろこの野はあちこちに別れ路があって、初めて来た旅人は道を間違える恐れがあるから、この馬の止まった所で馬を返してくれ」
と貸してくれた。
小さな子供二人馬の後を追いかけ走る。一人は少女で名をかさねという。聞きなれない名が可愛らしくて、
かさねとは八重撫子の名に違いない 曾良
やがて人里に出れば、幾らか鞍壺に結び付けて馬を返した。
* * *
黒羽の館代浄坊寺何がしの方を尋ねた。思いがけず主人は喜び、日夜語り続けて、その弟桃翠という者は朝夕世話をしてくれて、自らの家にも案内し、親族の方にも招かれ日のたつままに、一日郊外を散策して犬追物の跡を見たり、那須の篠原を掻き分け玉藻の前の古墳を尋ねた。
それから八幡宮に参拝した。那須与一の扇の的を射た時『別しては我が国氏神正八幡』と誓ったのも、この神社だったと聞けば、有難さが心に深く感じられる。日が暮れて桃翠の家に帰る。
修験光明寺というのがあって。そこに招かれて行者堂を拝んだ。
夏山に足駄を拝み出発しよう
下野国の雲巌寺の奥に仏頂和尚の山居跡があった。
「縦横の五尺足らずの草の庵
むすぶも悔しい雨がないなら
と松明の灰で岩に書き付けられた」
と、いつぞや聞いたことがある。その跡を見ようと雲巌寺に杖を手にすれば、人々率先してお供にと集まり、若い衆も沢山いて途中騒いだりしながら、いつの間に寺の麓に着いた。山はどこまでも奥深く、谷道遥かに黒々とした松杉に苔が鮮やかで、初夏の空は今なお寒い。雲巌寺十景と言われる所、橋を渡って山門に入る。
さて、例の旧跡はどこにあるのかと、後の山のよじ登れば、岩の上に小さな岩窟の庵が結んであった。原妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るかのようだ。
啄木鳥も庵はやぶらず夏木立
と、取り合えず一句を柱に残しておいた。
* * *
そのあと殺生石に行った。館代が馬を用意して送ってくれた。
その時の馬子が「短冊が欲しい」という。そんな急に照れるなと思いながらも、
野の横に馬引いてくれほととぎす
殺生石は温泉の出る山陰にあった。石の毒気がまだ残ってて、蜂・蝶の類、下の石が見えなくなるほど重なって死んでた。
* * *
また、「清水ながるる」の柳は芦野の里にあって田の畔に残る。この土地の郡守戸部何がしの、「この柳見せてあげたい」など折々におっしゃってたのを、どこか遠くの話だと思ってたら、今日この柳の陰についに立つことができた。
田一枚植えて立ち去る柳だろうか
* * *
心もとない日数を重ねるままに、白河の関まで来て旅にも慣れて来た。兼盛が「いかで都へ」と便りしようと思ったのも納得だ。中でもこの関は三関の一つで、風流人の関心を引くものだ。
秋風を耳に残し、紅葉を面影にして、青葉の梢は哀れだ。卯の花が真っ白く、茨の花もそれに添えて、雪の中を越えるような気分だ。昔の人は冠を正し衣裳をあらためたことなど、清輔の筆にも記されているとか。
卯の花のかざしは関の晴着だろうか 曾良
とにかくまあ、越えたらそのまま阿武隈川を渡る。左に会津の峰高く、右に磐城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地を南端に山連なる。影沼という所を通ったが、今日は空が曇っていてなにも映っていない。
* * *
須賀川の駅に等窮という者を尋ねたら、四五日泊っていけと言う。まず、
「白河の関を越えてどうだったか」
と聞く。
「長旅の苦しみ、心身の疲れ、それに風景に心奪われ、思い出すのも断腸の思いで、なかなかいい言葉も浮かばず。
俳諧を始めよう奥の田植歌で
何もせずに越えてもなんだし。」
と語れば、脇、第三と続けて、歌仙三巻となった。
この宿の傍らに、大きな栗の木陰にまもられ世を厭う僧がいた。西行が橡拾う深山もかくやと心静かに思えてきて、物に書き付けてみた。その言葉、
栗という文字は西の木と書いて
西方浄土に縁がありと、行基菩薩
は一生杖にも柱にもこの木を用い
られたという。
世の人の気付かぬ花だな軒の栗
* * *
等窮の家を出てニ十キロほど、日和田の宿を出ると安積山があった。
街道から近い。この辺りは沼が多い。カツミ刈る頃ももうこの頃だと思うと「どの草を花カツミと言うのかい?」と、人々に聞いて回っても知ってる人はいない。
沼を聞き、人に問い、カツミカツミと聞いて歩いて、日は山の端にかかっていった。二本松より右に切れて、黒塚の岩屋を見て、福島に宿を取った。
翌朝、信夫文字摺りの石を尋ねて信夫の里に行く。はるか山影の小里に、石は半ば土に埋もれていた。
里の少年が来たので聞いてみると、
「昔はこの山の上にあったんだけど、往来の人が麦の葉をちぎって擦り付けて人の顔が出るかどうか試すのに手を焼き(注)、この谷に突き落としたら石の表が下になった。」
という。ありそうなことだ。
早苗とる手元に昔を偲ぶ信夫摺
注:文字摺り石は、そこに草花などを擦りつけて不規則な乱模様が出た所で、そのまま布を押し付けてプリントするためのもので、それが信夫文字摺の乱れ染めと言われていたが、源融の恋の伝説から、いつからかここに麦の葉を擦りつけると融の顔が浮かぶという噂が広まって、近所の麦畑の麦の葉を勝手に取ってゆくようになったという。
* * *
月の輪の渡しを越えると、瀬の上という宿に出た。佐藤庄司の旧跡は左の山の方に六キロほどの所にある。飯塚の里、鯖野と聞いて尋ね尋ね行くと、丸山という所にそれがあった。これが佐藤庄司の館の跡だという。
麓の大手門の跡など人に教えてもらっては泪を落とし、また近くの古寺に一家の石碑が残っていた。中でも二人の嫁の石塔はとにかく悲しい。女ながらに勇ましい名の世に知られてるのにも涙が出る。堕涙の石碑も中国だけではない。
寺に上がり茶を貰えば、ここに義経の太刀・弁慶が笈が宝物として保管されてた。
笈も太刀も五月にかざれ紙幟
五月一日のことだった。
* * *
その夜飯塚に泊る。温泉があったので湯に入り宿を借りたが、土間に筵を敷いた怪しげな貧家だった。行灯もなくて囲炉裏の火の傍に寝所を設けて寝た。
夜に入ると雷が鳴り土砂降りの雨で、寝ている上に漏るし、蚤や蚊にも馬鹿にされて眠れやしない。持病が出てしまい生きた心もしなかった。
短夜の空もようやく明けたので、また旅立った。
なお、夜の余波で気乗りしないまま馬を借りて桑折の駅に出た。まだまだ先が長いと思うと、今度の病気は思いやられるけど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死のうともこれも天命と何とか気を取り直し、六方踏む勢いで伊達の大木戸を越えた。
* * *
鐙摺・白石の城を過ぎ、笠島の郡に入ったので。藤中将実方の塚はどこにあるのか人に問えば、
「ここから遥か右に見える山際の里を箕輪・笠島といい、道祖神の社、形見の薄が今もある」
という。この頃の五月雨で道がぐちゃぐちゃで、疲れているのもあってついつい通り過ぎてしまい、箕輪・笠島も五月雨に縁があるだけに、
笠島はどこだ五月のぬかり道
岩沼に泊る。
* * *
武隈の松には目が覚めるような心地だった。根は地面から二本に分かれて、昔の姿を失っていないという。
まず能因法師が思い浮かぶ。その昔陸奥の守に赴任された人が、この木を切って名取川の橋杭にしたということがあって、「松は今では跡形もない」と詠んだという。
代々切る者がいれば植え直しなどをして、今まさに千年前の形そのままに、目出度き松の景色になっている。
「武隈の松見せてやろう遅桜」と挙白と
いう者の餞別の句があったので、
桜から松の二木を三月越しに
* * *
名取川を渡って仙台に入る。屋根に菖蒲を葺く日だった。泊る所を探して四五日逗留する。
そこに画工加右衛門という人がいた。いささか心ある者と言われている人だった。この人は、
「年月が経って分かりにくくなった名所を調べておいたので」
といって一日案内してくれた。
宮城野の萩茂るのを見ると、秋の景色が想像できる。玉田・横野・つつじが岡はアセビ咲く頃だった。
日の射さない松の林に入って、ここが「木の下」だという。昔もこんな露深かったからこそ「みさぶらひ御傘」と詠まれた。
薬師堂・天神の御社など拝んで、その日は暮れた。
その上、松島・塩釜などの場所を絵に書いてもらった。さらに、紺の染め緒をつけた草鞋二足、餞に貰った。全くもって風流で知られる者はここに至って本物だとわかる。
あやめ草足に結ぼうか草鞋の緒
* * *
書いてもらった絵の通りに辿って行けば、奥の細道の山際に十符の菅があった。今も毎年十符の菅菰を揃えて国守に献じるという。
壺の碑 市川村多賀城にあり。
壺の碑は高さ百八十センチ余り、幅九十センチ程度か。苔むしてかろうじて文字が読める。東西南北の国の距離が記されていて、
「此城、神亀元年按察使鎮守符将軍、大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣獦修造而、十二月朔日」
とある。聖武天皇の時代に当る。
昔から詠まれてきた歌枕、多く語り伝えられていても、山崩れ川流れて道も変わり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に変わったり、時は流れ時代は変り、その跡もはっきりしない事が多いのに、ここに至っては疑いのない千年前の記念物、今目の前に古人の心を見るようだ。
行脚の成果、存命の喜び、長旅の疲れも忘れて涙も落ちるばかりだ。
* * *
そのあと野田の玉川・沖の石へ行った。末の松山は寺を建てて末松山という。松の間は皆墓地で、羽根を交わし枝を連ねる契りの末も、ついにはこうなるのかと悲しさが込み上げ、塩竃の浦に入相の鐘を聞く。五月雨の空わずかに晴れて、夕月夜幽かに、籬が島もすぐ近くだ。海人の小船が次々入港して魚を水揚げする声々に、『綱手悲しも』と詠んだ心も知られて、ますます悲しくなった。
その夜、盲目の法師の琵琶を鳴らして奥浄瑠璃というものを語る。平家でもなく幸若舞でもなく、鄙びた調子で掻き鳴らして枕元で騒がしいけど、さすがに辺境に残る芸能を忘れられることもできず、良いものを聞いたと思った。
早朝、塩釜明神に詣でた。国守が再興して宮柱を太くして彩色きらびやかに、石の階段二百段に及び、朝の光が玉垣を輝かす。こんな北の端のこの世の果てまで神霊あらたかなるこそ、我が国の風俗だと思うととにかく尊い。
神前に古い宝燈があり、鉄の扉の表に『文冶三年和泉三郎寄進』とある。五百年来の面影も今目の前に浮んで、とにかく有り難い。彼は勇義忠孝の士だった。名声は今もなお薄れることはない。まこと、『人はよく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれに従う』という通りだ。
* * *
正午近くなった頃、船を借りて松島に渡る。その間四キロ余りで、雄島の磯に着く。
そもそも昔から言われるように、松島は扶桑第一の絶景にして、およそ洞庭・西湖にもも恥じない。東南は海に面して、その入江は十二キロ、浙江のように潮を湛える。島々は数えきれないほどで、そばだつものは天を指さし、臥すものは波に腹這う。あるものは二重に重なり、三重に積み重なって、左には分れても、右には連なる。負ぶさったり抱かれたり、子や孫を愛するが如し。松の緑こまやかに、枝葉は潮風に吹かれてたわみ、屈曲は自然に捻れたかのようだ。その景色は遠い目をした美人の顔のようだ。ちはやぶる神の昔、オオヤマツミのなせる技だろうか。造化の天工は誰が文章に表すことができるだろうか。
雄島の磯は地続きで、海に突き出た島だ。雲居禅師の別室の跡、座禅石などがある。また、松の木陰に世を厭う人も稀にやって来ては、落穂・松笠など煙の洩れる草の庵に静かに住んで、どんな人かは知らないながら、とにかく惹き付けられて立ち寄れば、月は海に映って、昼の眺めともまた異なる。外の海岸に戻って宿を求めれば、窓を開けて二階から眺めれば、風雲の中に旅寝するのが、不思議なまでに高揚した気分にさせられる。
松島では鶴に変身せよほととぎす 曾良
俺は口を閉じて眠ろうとしたけど眠れず。芭蕉庵を出る時、素堂の松島の詩や、原安適の松が浦島の和歌を貰ってたので、袋を解いて今宵の友とする。他に杉風・濁子の発句もあった。
十一日、瑞巌寺に詣でる。この寺の三十二世の昔、真壁の平四郎出家して、入唐帰朝の後開山した。そのあと雲居禅師の徳化によって七堂を再建し、壁を金で荘厳な光輝くものとし、仏土もかくやの大伽藍となったという。あの見仏上人も『寺はどこなんだ』と慕って来たという。
* * *
十二日、平泉へ向かおうと、姉歯の松・緒絶えの橋など話に聞き、人跡稀な雉兎蒭蕘の行き交う道をどこかもわからず、結局道を間違えたのか、石巻という港に出た。『こがね花咲く』と歌にも詠まれた金華山海上を見渡すと、数百の廻船入り江に集まり、人家は競うかのように竈の煙を立て続けていた。思いもよらずこのような所に来てしまったかと宿を借りようとしても宿貸す人もない。やっとのことで貧しい小家に一夜を明かして、明ければまた知らない道に迷い行く。袖の渡り・牧山・真野萱原など余所目に見て、遙かなる堤を行く。心細き長沼に沿って登米という所に一泊して平泉に至る。その間八十キロ以上あったと思う。
* * *
奥州三代の栄華も一睡の内のことで、大門の跡は四キロ手前にあった。秀衡の館跡は田野になって、金鶏山だけが残っている。まず高館に登れば、北上川南部地方より流れる大河だった。衣川は和泉が城をめぐって高館の下で大河に合流する。泰衡らの旧跡は衣が関を隔てて南部口を閉ざして固め、蝦夷を防ぐ所と思えた。それにしても義臣を選んでこの城に籠り、功名も一時で草むらとなる。『国破れて山河あり、城春にして草木深たり』と笠をうち敷いて時の移るまで涙を落とすこととなった。
夏草はつわものどもの夢の跡なるや
卯の花に兼房の白髪を見るようだ
かねてより驚くべきものと聞いてた二堂が開帳した。経堂は三将の像が残されてて、光堂は三代の棺を納めて三尊の仏を安置していた。本来なら七宝も散り失せて玉の扉は風に破れ、金の柱も霜や雪に朽ちて、とっくに頽廃空虚の草むらになっていたものを、四方を新たに囲い、甍で覆って風雨を凌いできた。一時のはずのものが千年も残る記念物となった。
五月雨も降り残したか光堂
* * *
南部道を遥かに見ながら岩手の里に泊る。小黒崎・美豆の小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関を通って出羽の国へと越えようとした。この道は旅人も稀な所で、関守も怪しんでか、やっとのことで関を越す。大山を登って日は既に暮れてたので、関の役人の家を見かけて泊めてくれと頼む。三日雨風吹き荒れて、仕方なく山中に逗留した。
ノミ・シラミ馬のバリする枕もと
* * *
主人が言うに、ここから出羽の国は大山を隔てて道が分かりにくいから、道案内の人に付いてもらって越えた方が良いと言った。それならばと言って人を頼んだら、屈強の若者が反り脇指を腰に差し、樫の杖を携えて、『俺たちが露払いをする。今日は危ない目に逢ってもおかしくない日だ』というからびくびくしながら後をついて行く。主人の言った通り、山は木が鬱蒼として鳥の声も聞こえず、木の下闇は草が茂って夜歩いてるみたいだ。雲の巻き上げた土が降って来るんじゃないかと、笹の中を掻き分けて、沢を渡る時には岩につまずいて、肌に冷や汗をかきながら最上の庄に出た。かの案内の男がいうに『この道は必ず何かが起こる。無事に送ることができて良かった』と喜んで帰って行った。そう言われてもやはり動悸が止まらない。
* * *
尾花沢では清風という者を尋ねた。彼は裕福だけど、心は卑しくない。都にも何度も通って、さすがに旅の情けも知っているので、何日も泊めてくれて、長旅を気遣い、様々にもてなしてくれた。
涼しさに我が宿のようにくつろいだ
這出でよ蚕小屋の下のヒキガエルの声
眉掃きの面影になる紅の花
蚕飼いする人は古代の姿だろうか 曾良
* * *
山形領に立石寺という山寺があった。慈覚大師の開基でとにかく清閑な所だという。一度は見た方が良いと人から勧められるまま、尾花沢より横道にそれ、その間三十キロ程だ。
日は未だ暮れず、麓の宿坊を借りておいて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松柏年を経て、土石風化して苔滑らかに、岩の上の建物は皆扉を閉じて物音一つない。崖をめぐり岩を這って仏閣を拝み、佳景寂寞として心が澄んでゆくようだ。
蝉の声の岩に染み入る静かさよ
* * *
最上川の船に乗ろうと大石田という所に天気の回復を待つ。ここに古い俳諧の種がこぼれて昔の花やかなりしころを慕い、芦笛角笛の音のように心穏やかで、新古二つの道に迷っていてどう指導して良いやらということで、理屈抜きの一巻を残した。今度の旅の俳諧はここに極まる。
最上川はみちのくの川で山形を上流とする。碁点・隼などいう恐ろしき難所がある。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山に覆われ、茂みの中を船が下る。これに稲を積んだことから稲舟と呼ばれている。白糸の滝は青葉の隙間から落ちて、仙人堂は岸に面して立つ。水量も多く船も危ぶなっかしい。
五月雨を集めて早い最上川
* * *
六月三日、羽黒山に登る。図司佐吉という者を尋ねて別当代会覚阿闍利に拝謁した。南谷の別院に泊り、主人の心遣いこまやかに感じられる。
四日、本坊において俳諧興行。
有り難い雪を薫らす南谷
五日、権現に詣でる。当山開闢能除大師はいつの時代の人かは分らない。延喜式に羽州里山の神社とある。書き写す時、黒の字を里にしてしまったか。出羽というのは鳥の羽毛をこの国の貢物に献上したからだと風土記にあるという。月山・湯殿山を合わせて三山とする。この寺は武江東叡山に属して、天台止観の月も明るく照らし、円頓融通の法の灯火を掲げて添い、僧坊棟を並べ、修験行法に励み、霊山霊地の験効を人は尊び、また恐れる。変わることなく繁栄してる目出度い山だというべきだろう。
八日、月山に登る。木綿を絞めて身に引き掛け、宝冠で頭を包み、剛力という者に導かれて、雲霧の立ち込める中、雪渓を踏んで登ること十六キロ、さらに日月の通り道の天の門をくぐるかと恐れながらも、息絶え絶えに身も凍えて頂上に達すれば、日は沈み月が現れる。笹を敷き篠を枕として眠り夜明けを待つ。日が昇り雲が消えたので湯殿山へと下る。
谷の傍らに鍛冶小屋というのがあった。この国の鍛冶、霊水を選んでここに潔斎して刀を打ち、ついに月山と銘を切って世に賞賛されている。あの竜泉の水で剣を鍛えたようなものか。干将・莫耶の昔に憧れ、道を究めようという執念浅からぬことが分かる。岩に腰かけてしばし休憩すると、一メートルほどの桜のつぼみ半ば開いてるのがあった。降り積もる雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花の心は何ともけなげだ。炎天下の梅花ここに香るかのようだ。行尊僧正のもろともにの歌の哀れもここに思い出されて、それ以上にすら思える。
総じてこの山中の子細は行者の法式として他言することを禁じる。よってこれ以上のことは記さない。坊に帰れば阿闍梨の求めによって、三山順礼の句を短冊に書いた。
涼しさにほの三日月の羽黒山
雲の峰幾つ崩れて月の山
語られぬ湯殿に袂をぬらすか
湯殿山銭踏む道に涙する 曾良
* * *
羽黒を発って鶴岡の城下、長山氏重行という武士の家に迎えられて、俳諧一巻あった。佐吉もここまで送ってくれた。川舟に乗って酒田の湊に下る。淵庵不玉という医師のもとに泊る。
あつみ山から吹浦かけて夕涼み
暑き日を海に入れたり最上川
* * *
山川海陸の絶景を数多く見たが、今象潟に来て視野の狭さを実感した。酒田の港から東北の方へ、山を越え磯を伝い砂浜を歩きその距離四十キロ、陽もやや傾く頃、潮風は真砂を吹き上げ、雨は朦朧として鳥海山を隠す。瀟湘夜雨のような幽かに見える景色も面白いが、雨上がりの光もまた期待して、海人の苫屋に身を置いて雨の晴れるのを待つ。
翌朝、天気よく晴れて朝日華やかに差し込んできたので、象潟に船を浮かべた。まず能因島に船を寄せて、三年幽居の跡を訪ね、向こうの岸で船を降りれば、『花の上漕ぐ』と詠まれた桜の老木、西行法師の史跡を残す。湖の中に御陵があり、神功皇后の御墓だという。寺を干満珠寺という。この地に御幸したことは聞いたことがない。どういうことなのか。この寺のお堂に座って簾を上げれば、風景を一望することができて、南に鳥海天を支え、その陰が湖に映る。西はむやむやの関が道を区切り、東に提を築いて秋田に通う道遥かに、海は北に待ち受けて、波が打ち入る所を汐越という。湖は縦横四キロばかり、面影松島に似ていてまた異なる。松島は笑うが如く、象潟は恨むが如し。淋しさに悲しみを加えて地形は魂を悩ますかのようだ。
象潟は雨に西施の眠る合歓の花
塩越しで鶴脛濡れて海は涼しい
祭礼
象潟で料理何食う神祭り 曾良
海人の家で戸板を敷いて夕涼み 美濃の国の商人 低耳
岩の上にミサゴの巣を見る
波越さぬ契りがあるのかミサゴの巣 曾良
* * *
酒田をあとに日を重ねて、北陸道の雲を眺め、遥か彼方への思いに胸が痛むまま、加賀の中心まで五百キロと聞く。鼠の関を越えれば越後の地へと新たな歩みが始まり、越中の国市振の関に来た。この九日間、暑さと湿気で調子を崩して病気になり、記すこともない。
六月の六日もいつもの夜ではない
荒海は佐渡の前に横たう天の川
* * *
今日は親不知・子不知・犬もどり・駒返しなどという北国一の難所を越えて疲れ果てて、枕引き寄せて寝たら、ひと間隔てて表の方に若い女の声二人ばかり聞こえてくる。年老いた男の声も混じって話してるのを聞けば、越後の国新潟という所の遊女だった。伊勢参りのため、この関まで老人が送って来て、明日故郷に持ち帰る手紙をしたためて、些細な近況など知らせるという。白波の寄せる渚に身を放り出す海女のように、この世の底辺に落されて、その場限りの契り、日々の暮らしがとにかく劣悪だと話してるのを聞きながら眠りに落ち、翌朝旅立つ時に我々に向かって、
『どうなるかわからない旅路は憂鬱で、とにかく心細くて悲しいもので、見え隠れする程度の距離で着いていかせてください。僧としてのお情けで大慈の恵みをお与え、成仏の縁とさせて下さい。』
と涙を落とす。
『大変申し訳ないことですが、我々はいろいろ寄って行く所が多くて。ただ、人の流れに任せて行った方が良いです。』
と断って出たものの、悲しみはしばらく止まらなかった。
一つ家に遊女も寝てた萩と月
曾良に語って書き留めてもらった。
* * *
黒部四十八が瀬とかいう数知れぬ川を渡って、那古という浦に出た。田子の藤波は春だけでなく、初秋も哀れだと言われてたが、人に尋ねれば、
『ここから二十キロ磯を通り抜けて向こうの山陰に入り、漁師の小屋がわずかにあるだけで、芦の一夜の宿屋もないだろう。』
と止められて加賀の国に入る。
早稲の匂いを右に分け入れば有磯海
* * *
卯の花山・倶利伽羅峠を越えて、金沢は七月十五日に着いた。ここで大阪から通う何処という商人と会った。一緒に泊って行った。
一笑という者は俳諧の道に少しばかり名を聞いて、世間でも知る人もいたのに、去年の冬老いを待たずに亡くなり、その兄追善を催して、
塚も動け俺の泣く声は秋の風
ある草庵に招待されて
秋は涼しい瓜や茄子を手毎にむけ
途中吟
あかあかと日はつれないな秋の風
* * *
小松という所にて
(松風というには)しおらしい名だな小松吹く萩すすき
この土地の多田の神社に詣でた。実盛の兜や錦の布があった。その昔源氏の側にいた時、源義朝より賜ったといわれている。確かにただの侍のものではない。目庇から吹返まで、菊や唐草の彫り物は黄金をちりばめ、竜頭に鍬形が打ってある。実盛討ち死にの後、木曾義仲願状に添えてこの社に奉納されたことを、樋口の二郎が使いをしたことなどの縁起が目の当たりに見えた。
無残だな兜の下のコオロギは
* * *
山中の温泉に行く道は、白根が岳をせにしてゆくことになる。
左の山際に観音堂がある。花山法皇が三十三箇所の順礼を遂げた後、大慈大悲の像を安置して那谷と名付けたという。那智・谷汲の二字の頭を取ったとされている。様々な奇石に松の古木が並び、茅葺きの小さな堂が岩の上に建てられていて、素晴らしい風景だ。
石山の石より白いか秋の風
* * *
温泉に入った。効能は有馬に匹敵するという。
山中では菊は折らなくていい湯の匂い
宿の主人は久米之介といってまだ少年だった。彼の父は俳諧を好み、京の貞室が若輩だった頃ここに来ていて、俳諧でディスられて、京に帰って貞徳の門人となって有名になった。名を成したのち、この村では授業料無料で教えたという。今となっては昔話となっている。
* * *
曾良は腹の病気で伊勢の国長島という所が故郷のようなものなので、先にそっちへ行くと、
行き行きて倒れ伏したとしても萩の原なら 曾良
と書き残していった。行く者の悲しみ、残るものの恨み、つがいの鳥が別れて雲に迷うかのようだ。
俺もまた
今日よりは書き付け消そう笠の露で
* * *
大聖寺の町の外の全昌寺という寺に泊る。まだ加賀国内だ。曾良も前の夜、この寺に泊って、
よもすがら裏山の秋風を聞くことになった
と残す。
一夜の隔たりは千里のようだ。
俺も秋風を聞いて衆寮に寝れば、夜明け前の空に近くの読経の声の澄むままに、鐘板がなり食堂に入る。
今日は越前の国へと気もそぞろにしてお堂の下に向かうと、若き僧たちが紙硯を抱え、石段の下まで追いかけて来た。折節庭の中に柳が散ってたので、
庭掃いて出ようか寺に柳が散ってるが
とりあえず草鞋を履いたまま書き捨てた。
* * *
越前との境、吉崎の入江へは船に乗って汐越しの松を訪ねた。
夜もすがら嵐に波をはこばせて
月をたれたる汐越の松
西行法師
この一首で全部言い尽くされている。もし一言でも付け加えるなら、五本指を六本にするようなものだ。
丸岡天竜寺の長老は、江戸にいた頃の縁で訪ねた。また、金沢の北枝という者は短い間だが見送るため、福井まで一緒に来てくれた。所々の風景も見逃さず記憶にとどめ、何かの機会に句にしようとしてたようだ。
それも既に別れの時になり、
物書いて扇引き裂き名残惜しむ
五キロほど山に入って永平寺を参拝する。道元禅師のお寺だ。畿内一万六千キロ平米を避けて、こんな山の中に跡を残すのも尊むべき理由があるのか。
* * *
福井は十二キロ程の所で、夕食を食べてから出発すると、黄昏の道はわかりにくい。
ここに洞哉という古くからいる隠士がいた。だいぶ前だが江戸に来て訪ねて来た。もう十年以上前のことか。すっかり年取ってしまったことだろう。もしや亡くなってしまったかと人に尋ねれば、いまだ存命ということが何とかわかった。
町中の奥まったわかりにくい小さな家に夕顔・へちまを軒に這わせて、鶏頭・コキアが扉を隠す。さてはこの家かと門を叩けば、侘し気な女が出てきて、
『どちらからいらしたお坊さんでしょうか。主人はこの辺り何とかという者の方に行ってます。もし用があるなら、そちらへどうぞ。』
という。
洞哉の妻だということがわかる。昔の話に出てくるような雰囲気があったが、このあとそこで会ってその家に二晩泊って、名月は敦賀の湊でと旅立つ。洞哉も一緒に行こうと裾を帯に挟んで旅の道案内をと浮かれてた。
* * *
ようやく白山も見えなくなって日永嶽が見えて来た。浅水の橋を渡って玉江の芦は穂にが立ってた。鶯の関を過ぎて湯尾峠を越えれば燧が城・帰山に初雁を聞いて、十四日の夕暮れに敦賀の津に宿を求めた。
その夜月もよく晴れた。明日の夜もこうだったらなと言えば、
『越路あるあるで、明日が晴れるかどうかは分らない。』
と主人に酒を勧められて気比の明神に夜参した。仲哀天皇の御廟だ。社殿は歳を重ね松の木の間から月が漏れ入り、参道の白砂は霜をしいたかのようだ。
『その昔遊行二世の上人大願発起することあって、自ら草を刈り、土石を運んで、ぬかるみを乾かして、足を汚さずに参拝できるようにした。その前例に今も倣い、神前に真砂を運び込んでいる。これを遊行の砂持ちと呼んでいる。』
と亭主が言っていた。
月清し遊行の運んだ砂の上は
十五日、亭主の言葉どおり雨が降る。
名月にも北国日和は変わりやすい
* * *
十六日、空が晴れたのでますほの小貝をひろおうと色の浜へ舟を出してもらった。海上二十八キロの所だ。天屋なんとかという人が割子・竹筒などいろいろ準備してくれて、雑用を何人も船に同乗し、追風ですぐに着いた。浜はわずかな海士の小屋があるのと、侘しげな法華寺のみ。ここで茶を飲み酒を温めて夕暮れの淋しさが心にじーんとくる。
淋しさでは須磨に勝ったな浜の秋
浪の間の小貝にまじるのは萩の塵か
その日のあったことを洞哉に筆を取らせて寺に残す。
路通もこの湊まで出迎えて、美濃の国へ共に行く。馬に助けを借りて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢よりやって来て、越人も馬で急遽来て、如行の家にみんな集まった。
前川子、荊口親子、その他親しい人たちが日夜やってきて、蘇生した者に会ったかのように喜んだり、いたわったりする。
旅の物憂さも未だ止まないうちに、旧暦九月六日になれば、伊勢の式年遷宮を拝むためにまた船に乗って、
蛤の「ふたみ」に別れ行秋になる