「旅人と」の巻、解説

貞享四年十月十一日餞別會

初表

   十月十一日餞別會

 旅人と我名よばれん初霽     芭蕉

   亦さざん花を宿々にして   由之

 鶺鴒の心ほど世のたのしきに   其角

   粮を分たる山陰の鶴     枳風

 かけありく芝生の露の浅緑    文麟

   新シ_舞-台月にまはばや   仙化

 中の秋画工一つれかへるなり   魚児

   鱸てうじておくる漢舟    観水

 

初裏

 神垣や次第にひくき波のひま   全峰

   齢とをしれ君が若松     嵐雪

 酒のみにさをとめ達の並ビ居て  執筆

   卯月の雪を握るつくばね   芭蕉

 鰥つる袖つくばかり早瀬川    由之

   蘿一面にのこる橋杭     其角

 道しらぬ里に砧をかりに行    枳風

   月にや啼ん泊瀬の篭人    文麟

 葛篭とく匂ひも都なつかしく   仙化

   おもはぬ事を諷ふ傀儡    全峰

 途中にたてる車の簾を巻て    芭蕉

   沖こぐ舟にめされしは誰ゾ  由之

 花ゆへに名の付ク波ぞめづらしき 嵐雪

   別るる雁をかへす琴の手   挙白

 

 

二表

 順の峯しばしうき世の外に入   観水

   萱のぬけめの雪を焼家    仙化

 老の身の縄なふ程にほそりける  由之

   君流されし跡の関守     芭蕉

 明暮は干潟の松をかぞへつつ   挙白

   命をおもへ船に這フ蟹    其角

 起出て手水つかはん海のはた   嵐雪

   しらぬ御寺を頼む有明    観水

 蕣や石ふむ坂の日にしほれ    金峰

   小畑さびしき案山子作らん  枳風

 草の戸の馬を酒債におさへられ  芭蕉

   つねみる星を妹におしゆる  挙白

 薫のしめり面白き夕涼み     仙化

   幟かざして氏の天王     其角

 

二裏

 御牧野の笛吹習ふ童声      全峰

   僧くるはしく腰にさす杖   枳風

 見ぐるしと文字の子昻ヲ哢て   其角

   堺の錦蜀をあらへる     嵐雪

 隠家や寄虫の友に交リなん    観水

   筏に出て海苔すくふ比    芭蕉

 谷深き日うらは花の木目のみ   挙白

   声しだれたる春の山鳥    由之

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

   十月十一日餞別會

 旅人と我名よばれん初霽     芭蕉

 

 有名な句で説明するまでもあるまいとは思うが、

 

 世にふるも更に時雨のやどりかな 宗祇

 

をふまえている。

 人生は旅。その旅の途中の時雨の宿りのように、つらいけど軒を貸してくれる人もいる。ここでは人生という旅と実際の旅とを重ね合わせて、旅人になるんだという決意をする。

 「霽」は「はれる」という字だが、ここでは「しぐれ」と読む。雨がやんで晴れるという意味の字で、日本では時雨の意味で用いられている。

 時雨が晴れれば月も出る。こういうと何か「水戸黄門」の唄ではないが、「人生楽ありゃ苦もあるさ/泪の後には虹も出る」みたいに聞こえる。

 

季語は「初霽」で冬、降物。旅体。「旅人」「我」は人倫。

 

 

   旅人と我名よばれん初霽

 亦さざん花を宿々にして     由之

 (旅人と我名よばれん初霽亦さざん花を宿々にして)

 

 『野ざらし紀行』は秋に旅立って、山茶花の季節に名古屋で『冬の日』の興行を行った。それを思い起こしてのことであろう。

 

   狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉

 たそやとばしるかさの山茶花   野水

 

の句によって、旅の笠の山茶花を旅の宿とする。

 由之(ゆうし)は其角の門人で、『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信著、二〇〇〇、新典社)には、

 

 「由之は磐城平藩内藤家の家人の井出長太郎という人物で、この句会の主催者である。観水の素性は不明だが、由之・観水の二人は其角派の新人である。彼らはこの時芭蕉と初対面であったと思うが、彼らばかりではなく魚児や全峰もこの時が芭蕉と初対面であったと思う。芭蕉送別の句会は其角派の新人を芭蕉に紹介する場でもあったわけである。」

 

とある。

 磐城平藩三代藩主の内藤左京大夫義泰(風虎)の次男内藤政栄(露沾)が今回の『笈の小文』のスポンサーで、『笈の小文』本文でも、

 

 「時は冬よしのをこめん旅のつと

 

此の句は露沾(ろせん)公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初(はじめ)として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪(とぶら)ひ、或は草鞋の料を包みて志を見す。かの三月の糧(かて)を集るに力を入れず、紙布(かみこ)・綿小(わたこ)などいふもの、帽子(まうす)・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛(ゆくへ)を祝し、名残をおしみなどするこそ、故ある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。」

 

と紹介されている。

 今回由之が脇を務めているのは、露沾の代理人の意味もあるからであろう。

 磐城平藩内藤家というと桃隣の「舞都遲登理」の旅でもわざわざ小名浜を経由している。領内にみちのくの有名な歌枕になぞらえた名所をたくさん作って混乱させた犯人は風虎だったか。小名浜は宗因も訪れていて、俳諧の盛んな土地だった。

 由之は其角撰『続虚栗』に、

 

 つゆつゆと焼野にはやき蕨かな  由之

 何事に人走るらん花ざかり    同

 七夕にかされぬ旅のね巻哉    同

 月満て欄干うごく今宵哉     同

 

などの句が入集している。

 

季語は「さざん花」で冬、植物、木類。旅体。

 

第三

 

   亦さざん花を宿々にして

 鶺鴒の心ほど世のたのしきに   其角

 (鶺鴒の心ほど世のたのしきに亦さざん花を宿々にして)

 

 「鷦鴒」は「かやぐき」と読む。『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、

 

 「荘子・逍遥遊に、小さい斥鷃(カヤグキ)が我が身に相応して鵬の飛ぶを笑った話あり。『斥鷃』は注に『かやぐきと訓ず、俗ニ云フみそさざい』(毛利貞斎荘子俚諺抄)とある。」

 

とある。

 前句の「山茶花を宿々に」に応じて、木の小さな茂みに暮らすミソサザイが山茶花を宿にしているように、世の中を楽しもう、とする。

 ここには『荘子』の寓意である鵬との比較での小物という意味はない。日本は一君万民の一億総臣下の国、天皇一人を君として万民はみな臣民ということで、だれも鵬になろうともしないし、なりたくもない。まあ、希に道鏡や平将門や織田信長のような例外はいるが、みんな失敗した。そんなおおそれた望みを持たず、人生を旅として山茶花の宿々を楽しむのが日本人だ。

 永遠の命を望まない、この世の王となることを望まない、それが日本人だ。

 

無季。「鶺鴒」は鳥類。

 

四句目

 

   鶺鴒の心ほど世のたのしきに

 粮を分たる山陰の鶴       枳風

 (鶺鴒の心ほど世のたのしきに粮を分たる山陰の鶴)

 

 鶴は鶴氅衣を着た中国の隠者のことか。鶴氅衣というと江戸中期には浦上玉堂が着ていた。前句を村人として、隠者に食料を提供し、学や遊びの手ほどきを受ける。

 枳風も其角門で、其角撰『虚栗』に、

 

 初礼や富士をかさねて扇持    枳風

 匂ふらんけふ去人と山ざくら   同

 君火燵うき身時雨の小袖哉    同

 

などの句がある。

 

無季。「山陰」は山類。「鶴」は鳥類。

 

五句目

 

   粮を分たる山陰の鶴

 かけありく芝生の露の浅緑    文麟

 (かけありく芝生の露の浅緑粮を分たる山陰の鶴)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「鶴が芝生をあちこち駆け回るさま」とあるが、鶴って水辺にいるもんで、芝生の上を走ったりするんだろうか、よくわからない。芝生を駆け歩くというと馬が連想されるが。

 文麟は『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信著、二〇〇〇、新典社)に、

 

 「文麟が何を生業としていたか不明だが、『隋斎諧話』(文政2)に紹介する「芭蕉庵再建勧化簿」によって、彼の姓が鳥居であったことが分かる。『新山家』(貞享3)に「虚無斎 鳥文麟校」と記されているから、一時虚無斎と号していたのであろう。曰人の『蕉門諸生全伝』(文政頃成か)に「文麟 ヨホドヨキ家柄、堺の庭の主ナリト云フトモ、外ニアリトゾ」と記されており、また「文麟 泉州サカイ人」とも記されている。これが江戸時代における文麟についての唯一の文献であろう。」

 

と記されている。

 また、「貞享二年五月、其角は病後の保養をかねて箱根木賀温泉に出掛けたが」とあるが、この時「彼は枳風と同行して江戸を出立し、木賀温泉でまず文麟の旅宿を訪ねているから、文麟が湯治のためにここに滞在していたことが分かる。多分其角は文麟に呼び寄せられたのであろう。」とも記している。

 文麟は其角撰『続虚栗』に、

 

 うばそくが隣をきかん四方拝   文麟

 日ざかりやおとなしく見ゆ山桜  同

 商人も見るものとてや舟の月   同

 歌をよむ身のたうとさよ年のくれ 同

 

他多数入集している。

 

季語は「露」で秋、降物。「芝生」は植物、草類。

 

六句目

 

   かけありく芝生の露の浅緑

 新シ_舞-台月にまはばや     仙化

 (かけありく芝生の露の浅緑新シ_舞-台月にまはばや)

 

 芝生といえば芝居。昔の芝居の客席は文字通り芝生だった。月が照らす夜の舞台に浮かれて駆け回り舞い出す風狂者といったところか。

 仙化は蕉門で、桃隣撰『陸奥衛』の巻頭の俳諧百韻でも桃隣、其角、嵐雪らと名前を連ねている。

 

 月一ッ影は八百八嶋哉      仙化

 山寺や人這かゝる蔦かつら    同

 

の句も「舞都遲登理」にある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

七句目

 

   新シ_舞-台月にまはばや

 中の秋画工一つれかへるなり   魚児

 (中の秋画工一つれかへるなり新シ_舞-台月にまはばや)

 

 中の秋(仲秋)は放り込の季語で、画工の集団が能舞台の背景の松の木の絵を描いて帰ってゆく。やがて月夜に能の興行が行われるのであろう。

 昔の画工は一種のプロダクション方式で、絵師とその弟子たちとの共同作業で描く。

 魚児も其角門で、其角撰『続虚栗』に、

 

 抱付て梢をのぞくさくら哉    魚児

 つかまれてまた放さるるほたる哉 同

 我顔の黒くなるまで月はみん   同

 灯の影に顔すすびたる火燵哉   同

 

などの句がある。

 

季語は「中の秋」で秋。「画工」は人倫。

 

八句目

 

   中の秋画工一つれかへるなり

 鱸てうじておくる漢舟      観水

 (中の秋画工一つれかへるなり鱸てうじておくる漢舟)

 

 「てうじて」は「釣じて」であろう。漢文書き下し文風の言い回しだ。前句の画工から瀟湘八景図などに描かれる中国の漁船をイメージしたのだろう。

 中国の画工の一行が漁船に乗って移動する姿を想像したか。

 鱸(スズキ)と言うと、

 

 荒栲(あらたへ)の藤江の浦に鱸釣る

     白水郎(あま)とか見らむ旅行くわれを

                  柿本人麻呂(万葉集)

 

の歌もある。

 観水は前に述べたように、其角門の新人。其角撰『続虚栗』に、

 

   詠唯一心

 花に来て人のなきこそ夕なれ   観水

   旅寐

 木槿垣花見ながらに寐入けり   同

 

などの句がある。

 

季語は「鱸」で秋、水辺。「漢舟」も水辺。

初裏

九句目

 

   鱸てうじておくる漢舟

 神垣や次第にひくき波のひま   全峰

 (神垣や次第にひくき波のひま鱸てうじておくる漢舟)

 

 「鱸釣じて」から藤江の浦、明石の連想で、『源氏物語』の明石巻の住吉の神によって海の静まる様を付ける。

 全峰も其角門で、其角撰『続虚栗』に、

 

 一すじに芝ふみからすさくら哉  全峰

 芥子の花ともにうつむく泪かな  同

 旅人に村とことはるきぬた哉   同

 雪の日や柴が日比の道近し    同

 

などの句がある。

 

無季。神祇。「波」は水辺。

 

十句目

 

   神垣や次第にひくき波のひま

 齢とをしれ君が若松       嵐雪

 (神垣や次第にひくき波のひま齢とをしれ君が若松)

 

 年を重ねても若松のような若々しい君(主君、天皇どちらとも)に、神も天下の浪を鎮めて下さると、賀歌の体になる。

 嵐雪は言わずと知れた芭蕉の門人。

 

無季。賀。「君」は人倫。「若松」は植物、木類。

 

十一句目

 

   齢とをしれ君が若松

 酒のみにさをとめ達の並ビ居て  執筆

 (酒のみにさをとめ達の並ビ居て齢とをしれ君が若松)

 

 五月女達はたくさんいる孫たちだろうか。爺さんは酒を飲み、子孫繁栄して花笠音頭ではないが目出度目出度の若松様だ。花笠音頭はそんなに古いもんではなく昭和の歌だが。

 

季語は「さをとめ」で夏、人倫。

 

十二句目

 

   酒のみにさをとめ達の並ビ居て

 卯月の雪を握るつくばね     芭蕉

 (酒のみにさをとめ達の並ビ居て卯月の雪を握るつくばね)

 

 いくら江戸時代が寒冷期だといっても、さすがに旧暦四月の標高八七七メートルの筑波山に雪はなかっただろう。これは、

 

 花は皆散りはてぬらし筑波嶺の

     木のもとごとにつもる白雪

              法眼兼譽(続千載集)

 

だったのではないか。

 あるいは卯月の雪は卯の花の花びらだったのかもしれない。筑波山の見える所で田植をしていると、苗と一緒に卯の花の花びらをつかむことになる。打越に松があるので卯の花は出せないため、あえて卯の花を抜いたのであろう。

 

季語は「卯月」で夏。「雪」は降物。

 

十三句目

 

   卯月の雪を握るつくばね

 鰥つる袖つくばかり早瀬川    由之

 (卯月の雪を握るつくばね鰥つる袖つくばかり早瀬川)

 

 「鰥」は本来は魴鰥(ホウカン)のように大魚の名だったが、やもお(男やもめ)の意味もある。それを「やまめ」と読ませている。「鱸釣じて」から五句去り。

 「袖つくばかり」は、

 

 逢瀬川袖つくばかり浅けれど

     君許さねばえこそ渡らね

               源重之

 

の歌がある。逢瀬川は福島郡山の歌枕だが、早瀬川は、

 

 早瀬川みを溯る鵜飼舟

     まづこの世にもいかがくるしき

               崇徳院(千載集)

 

の歌があるが、どこの川なのかわからない。王朝時代に鵜飼いというと大井川(嵐山を流れる今の桂川)が歌に詠まれていた。

 ヤマメ釣る早瀬川は袖の付くほど浅いけど、卯月だというのに雪を握る、となる。

 

無季。「鰥」「早瀬川」は水辺。

 

十四句目

 

   鰥つる袖つくばかり早瀬川

 蘿一面にのこる橋杭       其角

 (鰥つる袖つくばかり早瀬川蘿一面にのこる橋杭)

 

 「蘿」は「つた」と読む。普段は浅い早瀬でも、台風で増水すれば橋を流してしまい、橋杭だけが蔦の絡まった状態で残っている。

 

季語は「蘿」で秋、植物、草類。「橋杭」は水辺。

 

十五句目

 

   蘿一面にのこる橋杭

 道しらぬ里に砧をかりに行    枳風

 (道しらぬ里に砧をかりに行蘿一面にのこる橋杭)

 

 砧というと砧を打つ音が漢詩や和歌に詠まれ、俳諧でたいてい音を詠むのだが、「碪をかりに行」というのは珍しい。この場合は砧の道具、木づちと石の台のことになる。

 橋は落ちて道も分からぬ里でわざわざ砧の道具を借りに行くのは、一体どういう人だったのか。

 

季語は「砧」で秋。「里」は居所。

 

十六句目

 

   道しらぬ里に砧をかりに行

 月にや啼ん泊瀬の篭人      文麟

 (道しらぬ里に砧をかりに行月にや啼ん泊瀬の篭人)

 

 長谷寺に籠る人を泣かせるために借りに行くのか。

 

 砧打ちて我にきかせよや坊が妻  芭蕉

 

という『野ざらし紀行』の旅で吉野の宿坊で詠んだ句があるが、ここでは長谷寺に籠る人に聞かせよということか。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。釈教。「泊瀬」は名所。「篭人」は人倫。

 

十七句目

 

   月にや啼ん泊瀬の篭人

 葛篭とく匂ひも都なつかしく   仙化

 (葛篭とく匂ひも都なつかしく月にや啼ん泊瀬の篭人)

 

 これは『源氏物語』の玉鬘で、夕顔の娘で肥後に預けられていた玉鬘が京の都に帰ろうとするとき、途中で初瀬に籠り、夕顔の侍女だった右近と再会する。その時に都で嗅いだ記憶のある匂いがあれば、懐かしくなる。

 

無季。旅体。

 

十八句目

 

   葛篭とく匂ひも都なつかしく

 おもはぬ事を諷ふ傀儡      全峰

 (葛篭とく匂ひも都なつかしくおもはぬ事を諷ふ傀儡)

 

 「傀儡(かいらい)」はここでは人形ではなく傀儡女(くぐつめ)のことであろう。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「傀儡師とも書き,〈くぐつまわし〉また〈かいらいし〉などともいう。操り人形を指してもいう。平安末期,大江匡房(おおえのまさふさ)の《傀儡子記》によると,彼らは集団で各地を漂泊し,男は狩猟をし,人形回しや曲芸,幻術などを演じ,女は歌をうたい,売春も行った。のち寺社に帰属して各地で人形回しをするものもでき,摂津西宮を根拠に夷(えびす)人形を回し歩く芸団なども現れた。これら人形回しの流れは,人形浄瑠璃の成立を促したが,一方,胸にかけた箱から人形を出して回す首かけ芝居の形で,江戸時代まで大道芸として存続した。」

 

とある。

 都から流れてきた傀儡女だったのか、箱から人形を取り出すと都の懐かしいお香の匂いがして、思いもよらぬ都の歌を聴くことができて懐かしくなる。

 一巡目の順番通りだと魚児の番だが、ここからは出がちになったか。

 

無季。「傀儡」は人倫。

 

十九句目

 

   おもはぬ事を諷ふ傀儡

 途中にたてる車の簾を巻て    芭蕉

 (途中にたてる車の簾を巻ておもはぬ事を諷ふ傀儡)

 

 途中は「みちなか」と読む。傀儡子は情報伝達の役目もあったのか、思わぬ情報に牛車に乗った貴族も思わず簾を開けて聞き入る。

 

無季。

 

二十句目

 

   途中にたてる車の簾を巻て

 沖こぐ舟にめされしは誰ゾ    由之

 (途中にたてる車の簾を巻て沖こぐ舟にめされしは誰ゾ)

 

 道の車に沖の船と違え付けになる。沖こぐ舟には、

 

 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと

     人には告げよ海人の釣り舟

              小野篁(古今集)

 

のような配流になった同僚が暗示される。

 

無季。「沖こぐ舟」は水辺。「誰」は人倫。

 

二十一句目

 

   沖こぐ舟にめされしは誰ゾ

 花ゆへに名の付ク波ぞめづらしき 嵐雪

 (花ゆへに名の付ク波ぞめづらしき沖こぐ舟にめされしは誰ゾ)

 

 浪花(なにわ)のことか。「波の花」は波の白さが花のようだという比喩だが、「花の波」は花が波のようだという意味になる。「花ゆへに名の付ク波」が波に花の名前がついているという意味なら波の花になる。沖に船もある。波の花、浪花という名前は珍しい。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「波」は水辺。

 

二十二句目

 

   花ゆへに名の付ク波ぞめづらしき

 別るる雁をかへす琴の手     挙白

 (花ゆへに名の付ク波ぞめづらしき別るる雁をかへす琴の手)

 

 これは「雁の琴柱(ことじ)」であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「雁が群をなして飛んで行くさまを、琴柱が並んでいるさまにたとえていうことば。連なって飛び行く雁。かりがねの琴柱。《季・秋》

  ※老若五十首歌合(1201)「たまづさのかきあはせたるしらべかなかりの琴ちに過る松風〈慈円〉」

 

とある。春の帰る雁を琴柱に見立て、琴を掻き鳴らす手があたかも雁を帰らせているように見える。

 挙白は初登場になる。其角門。其角撰『虚栗』に、

 

 雛若は桃壺の腹にやどりてか   挙白

 香ヲ折ルの坐頭や杜若あやめ   同

 落葉見にたが蹄せし霜馬峯    同

 鰤ばかり霙にそばへたる重し   同

 

などの句がある。

 

季語は「別るる雁」で春、鳥類。

二表

二十三句目

 

   別るる雁をかへす琴の手

 順の峯しばしうき世の外に入   観水

 (順の峯しばしうき世の外に入別るる雁をかへす琴の手)

 

 「順の峯入り」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「天台系の本山派の修験者が、役行者(えんのぎょうじゃ)の入山を慕って、熊野から葛城(かつらぎ)・大峰を経て吉野へ出る行事。真言系の当山派の逆の峰入りに対する語。順の峰。《季・春》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

 

とある。当山派の逆の峰入りは秋になる。春に北に向かう本山派は帰る雁、秋に南に向かう当山派は来る雁ということになる。

 

季語は「順の峯」で春。旅体。

 

二十四句目

 

   順の峯しばしうき世の外に入

 萱のぬけめの雪を焼家      仙化

 (順の峯しばしうき世の外に入萱のぬけめの雪を焼家)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「茅葺の屋根の損じた所。雪積る屋根のくずれから炊煙のもれるのを、『雪を焼家』と言った。」とある。

 「抜目(ぬけめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 抜け落ちた所。欠けた部分。もれた箇所。もれ。おち。

 ※夫木(1310頃)三〇「山かつのいほりはかやのぬけめよりわりなくもるる春の雨哉〈源仲正〉」

 

とある。この夫木の歌が本歌か。これだと抜目から漏れ落ちる雪が囲炉裏の火で溶けるのを「雪を焼く」と言ったのかもしれない。

 

季語は「雪」で冬、降物。「家」は居所。

 

二十五句目

 

   萱のぬけめの雪を焼家

 老の身の縄なふ程にほそりける  由之

 (老の身の縄なふ程にほそりける萱のぬけめの雪を焼家)

 

 縄をなうと縄は太くなるが身は衰えて細くなる。雪を焼く囲炉裏端での作業であろう。

 

無季。「老の身」は人倫。

 

二十六句目

 

   老の身の縄なふ程にほそりける

 君流されし跡の関守       芭蕉

 (老の身の縄なふ程にほそりける君流されし跡の関守)

 

 ウィキペディアによると、承久の乱で「後鳥羽上首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流された。」

 世は乱れ、関屋も破れ、関守は内職をして暮らす。

 

無季。「君」「関守」は人倫。

 

二十七句目

 

   君流されし跡の関守

 明暮は干潟の松をかぞへつつ   挙白

 (明暮は干潟の松をかぞへつつ君流されし跡の関守)

 

 清見潟のある清見関のことか。古代東海道の関所で、興津の清見寺の近くにあった。当時は薩埵峠を越える道がなく、海沿いの細い道を通ったため、波が高いと越えられず、関所の関守とは別に波の関守がいたとも言われた。

 

 さらぬだにかわかぬ袖を清見がた

     しばしなかけそ浪の関もり

              源俊頼(散木奇歌集)

 

の歌もある。前句の「君流されし」はこの場合波にさらわれたのであろう。

 清見関の前の海はかつては干潟で対岸には三保の松原があった。今は清水港になっている。

 

 清見潟波路の霧は晴れにけり

     夕日に残る三保の浦松

              北条宗宣(玉葉集)

 

の歌がある。

 

無季。「干潟」は水辺。「松」は植物、木類。

 

二十八句目

 

   明暮は干潟の松をかぞへつつ

 命をおもへ船に這フ蟹      其角

 (明暮は干潟の松をかぞへつつ命をおもへ船に這フ蟹)

 

 船の上の蟹は逃げる所がない。干潟で穴を掘って暮らしていれば良かったのに何だこんなところに来てしまったか。食べられちゃうぞ。命を大事思うならここには来ちゃだめだ。そういったところか。

 日本人は昔から蟹を食べてきたと思うのだが、蟹の和歌はあまり聞かない。『万葉集』に蟹を詠んだ乞食者の長歌はあるが、これも蟹そのものを詠んだというよりは、自らを蟹に喩えて食べられてしまうからと仕官の話を断る歌だ。

 

無季。「船」「蟹」は水辺。

 

二十九句目

 

   命をおもへ船に這フ蟹

 起出て手水つかはん海のはた   嵐雪

 (起出て手水つかはん海のはた命をおもへ船に這フ蟹)

 

 「海のはた」は「海の端」で海岸のことか。ただ、打越に干潟があり、水辺が三句続くし、干潟は体、船と蟹が用、と体用と来てまた体にに戻ってしまっている。

 海に近いところだと、朝に手水で手を清めようとするとき、手水場に蟹がいたりしたのだろう。

 前句の「船」を手水船、つまり手水のための水を溜める鉢のこととする。

 

無季。神祇。「海のはた」は水辺。

 

三十句目

 

   起出て手水つかはん海のはた

 しらぬ御寺を頼む有明      観水

 (起出て手水つかはん海のはたしらぬ御寺を頼む有明)

 

 手水場がある所というので御寺へと展開する。「起出て」は暁起きの勤行であろう。有明の月がまだ残っている。四手付けといえよう。

 

季語は「有明」で秋、夜分、天象。釈教。

 

三十一句目

 

   しらぬ御寺を頼む有明

 蕣や石ふむ坂の日にしほれ    金峰

 (蕣や石ふむ坂の日にしほれしらぬ御寺を頼む有明)

 

 石ふむ坂は石畳の街道の坂道のことか。前句の有明の御寺の早朝の景に、蕣(あさがほ)は石ふむ坂の日にしほれるや、と今咲いている朝顔も街道の坂を上ってゆくうちに日も高くなり萎れてしまうのだろうか、と付く。

 

季語は「蕣」で秋、植物、草類。「日」は天象。

 

三十二句目

 

   蕣や石ふむ坂の日にしほれ

 小畑さびしき案山子作らん    枳風

 (蕣や石ふむ坂の日にしほれ小畑さびしき案山子作らん)

 

 前句の「や」はここでは「しほれ」ではなく「作らん」に掛かる。「蕣は石ふむ坂の日にしほれ小畑さびしき案山子作らんや」の倒置となる。

 朝顔は萎れ、街道わきに小さな畑がポツンとあるのも寂しいので、案山子でも作ればにぎやかになるか。

 

季語は「案山子」で秋。

 

三十三句目

 

   小畑さびしき案山子作らん

 草の戸の馬を酒債におさへられ  芭蕉

 (草の戸の馬を酒債におさへられ小畑さびしき案山子作らん)

 

 粗末な藁葺きの家で飼っていた馬も酒の借金が払えなくて差し押さえられてしまい、馬のいなくなった畑は寂しいので案山子でも作って立てておく。

 

無季。「草の戸」は居所。「馬」は獣類。

 

三十四句目

 

   草の戸の馬を酒債におさへられ

 つねみる星を妹におしゆる    挙白

 (草の戸の馬を酒債におさへられつねみる星を妹におしゆる)

 

 「つねみる星」、常に変わらずに見える星は北極星のことか。家は没落して草の戸になり馬もいなくなってしまったが、変わらないもののあることを教えようというのだろう。それは愛。

 

無季。恋。「星」は天象。「妹」は人倫。

 

三十五句目

 

   つねみる星を妹におしゆる

 薫のしめり面白き夕涼み     仙化

 (薫のしめり面白き夕涼みつねみる星を妹におしゆる)

 

 夕涼みで星を眺める光景に転じる。着物は薫物(たきもの)の香をしみこませて、打越のような侘し気な空気を断ち切る。

 

季語は「夕涼み」で夏。

 

三十六句目

 

   薫のしめり面白き夕涼み

 幟かざして氏の天王       其角

 (薫のしめり面白き夕涼み幟かざして氏の天王)

 

 「天王」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「氏神の天王様の祭の情景」とある。

 天王祭(てんのうさい)はウィキペディアに、

 

 「天王祭(てんのうさい)は、牛頭天王(ごずてんのう)を祀る天王社の祭である。牛頭天王は日本の素戔嗚尊と習合し、日本各所にその伝説などが点在しており、その地方で行われていることが多い。」

 

とある。京都の祇園祭(祇園御霊会)も牛頭天王の祭りで天王祭になる。旧暦六月に行われていた。江戸では千住の素盞雄神社も元は天王様と呼ばれていて、ここでも天王祭が行われていた。明治になって素盞雄神社に改められたが、今でも天王祭は行われている。時期的にも夕涼みに着飾って訪れるのにちょうど良かったのだろう。

 

季語は「天王」で夏。神祇。

二裏

三十七句目

 

   幟かざして氏の天王

 御牧野の笛吹習ふ童声      全峰

 (御牧野の笛吹習ふ童声幟かざして氏の天王)

 

 牧童であろう。北枝の兄ではなく、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「[1] 牛などの世話をする子ども。牧場で家畜の世話をする者。

 ※菅家文草(900頃)三・舟行五事「荷レ鍤慙二農父一、駈レ羊愧二牧童一」 〔杜牧‐清明詩〕

 

の方の牧童で、ちなみに「[2] ⇒たちばなぼくどう(立花牧童)」となっている。その立花牧童の支考との共編で『草刈笛』という集があるが、それくらい牧童と草笛は付き物といっていいだろう。

 愛知県の津島神社の「津島神社のしるべ」というホームページには、津島祭の由来として、

 

 「天王 尾張国、姥か懐(津島市 姥か森)という所に来り給い、其後、居を津島にしたもう。その頃、今の天王嶋(津島神社の所在地、二百年以前は独立の島で、嶋・天王嶋・向島などと呼ばれた)は草野であったが黒宮修理という市江嶋在居の武士の下人が、草刈船に乗って天王嶋に渡り、草刈りをしていたが塩満ち来り、皆々船に乗ろうとした時、下人の一人が、「吾は牛頭天王なり。今疫癘盛んにして万民悩む事少なからず、彼の真要を学び、船の上に種々の荘り物をし、神意をすすめし祭事をなすべし。疫癘静まるべし」と云ったので、草刈船の帆柱に衣類をかけ鎌をならし、舷をたゝき、口笛をふき、神祭を勧めたので、即時に疫癘鎮まり、万民安堵の思いをした。」

 「天王(牛頭天王)西洋(にしのうみ)より光臨され、市腋島の草のに御船がついた折、草刈の牧童が集まっていて、簀を積重ね、枴に手巾ようの物をかけ、笛を吹き、鎌をうち鳴らし、余念なく遊び戯れている姿を愛で給い、児舞・笛(津島笛)の譜を製し、教えられた。」

 

とある。牧童の笛は牛頭天王とも縁がある。

 

無季。神祇。

 

三十八句目

 

   御牧野の笛吹習ふ童声

 僧くるはしく腰にさす杖     枳風

 (御牧野の笛吹習ふ童声僧くるはしく腰にさす杖)

 

 「くるはす」は「くるほす」か。僧が持つ杖というと錫杖のことだろう。頭部の遊環(ゆかん)が音を立てる所から、旅の際のクマ除けにもなるし、祭文を詠む際の楽器にもなる。また、武器としても用いられたという。

 ただ、錫杖を刀のように腰に差すというのはあまり聞かないことなので、狂ってるということなのだろう。牧童の笛に浮かれたか、稚児趣味か。

 

無季。「僧」は人倫。

 

三十九句目

 

   僧くるはしく腰にさす杖

 見ぐるしと文字の子昻ヲ哢て   其角

 (見ぐるしと文字の子昻ヲ哢て僧くるはしく腰にさす杖)

 

 趙子昂はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「中国、元代の儒者、書画家。名は孟頫(もうふ)。号は松雪道人。浙江呉興の人。王羲之の書の正統を守り、画は山水画を得意とし、院画風を排して唐・北宋に復帰することを主張実践した。書に「蘭亭帖十三跋」、著に「松雪斎文集」など。(一二五四‐一三二二)」

 

とある。

 書に関してウィキペディアには、

 

 「王羲之の書風を学び、宋代の奔放な書風と一線を画し、後代に典型を提供した。書は王羲之を越え、中国史上でも第一人者ともされている。」

 

とある。

 「哢て」は「あざけりて」と読む。まあ、腰に杖を差すような狂った坊主だから、王羲之の正統を守る趙子昂の書を嘲ることもありそうだ。

 

無季。

 

四十句目

 

   見ぐるしと文字の子昻ヲ哢て

 堺の錦蜀をあらへる       嵐雪

 (見ぐるしと文字の子昻ヲ哢て堺の錦蜀をあらへる)

 

 堺緞通(だんつう)は江戸後期なので、この時代にはまだない。よって堺の錦はよくわからない。

 ここでは堺産の錦ではなく、堺の商人の持っている錦と読んだ方がいいのかもしれない。

 蜀の錦は蜀江の錦で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「① 上代錦の一つ。緯(よこいと)に色糸を用いて文様を表わした錦で、赤地に連珠文をめぐらした円文の中に花文・獣文・鳥文などを織り出したもの。奈良時代、中国から渡来したもので、現在法隆寺に伝えられる。蜀江で糸をさらしたと伝えるところからこの名がある。

  ※法性寺関白御集(1145か)浮水落花多「巴峡紅粧流不レ尽。蜀江錦彩濯彌新」

  ② 中国明代を中心にして織られた錦。日本には多く室町時代に渡来。八角形の四方に正方形を連ね、中に花文、龍文などを配した文様を織り出したもの。この文様を蜀江型といい、種々の変形がある。

  ※源平盛衰記(14C前)二八「蜀江(ショッカウ)の錦(ニシキ)の鎧直垂(よろひひたたれ)に、金銀の金物、色々に打くくみたる鎧著て」

  ③ 京都の西陣などで、蜀江型を模して織り出した錦。

  ※浮世草子・新可笑記(1688)一「蜀江(ショクコウ)のにしきの掛幕ひかりうつりて銀燭ほしのはやしのごとく」

  [補注]平安朝の漢詩文では花や紅葉を「錦」にたとえる際に、この蜀江(錦江)の錦でもってすることが、しばしば行なわれた。」

 

とある。時代的にこの場合は③か。

 「蜀江の錦は洗うに従い色を増す」という言葉はいつ頃どこからきた言葉かはわからないが、蜀江の錦は蜀江の水で洗って作るという。

 前句を趙子昂の書を堅苦しいといって笑うような、不易より流行を重視する人としたのだろう。京西陣の蜀江錦のきらびやかなものを好む。

 

無季。

 

四十一句目

 

   堺の錦蜀をあらへる

 隠家や寄虫の友に交リなん    観水

 (隠家や寄虫の友に交リなん堺の錦蜀をあらへる)

 

 「寄虫」は寄居虫とも書き、「がうな(ごうな)」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「かみな」の変化したもの) 動物「やどかり(宿借)」の古名。《季・春》

  ※枕(10C終)三一四「侍る所の焼け侍りにければ、がうなのやうに、人の家に尻をさし入れてのみさぶらふ」

  [補注]寄居虫は古くから食膳に供されたようで、「延喜式‐三九」にも「年料〈略〉蠏蜷」とある。また「大和本草‐一四」には「海人多くひろひて一所に集め、泥水をにごらせば殻を出づ。是を取集めてしほからにす」と記されている。」

 

とある。

 例文にある『枕草子』は「僧都の君の御乳母のままと」を冒頭とする段で、本によっては二九三段になっているものや二九四段になっているものもある。

 僧都の御乳母が御匣殿(みぐしでん:中宮の妹)にいたとき、下男が来てひどい目にあったというので話を聞けば、火事で住んでたところが焼けたので、しかたなくヤドカリみたいによその人の家で暮らしているという。秣(まぐさ)から出火して夜殿が全焼し、焼け死にそうになり着の身着のまま何も持ち出せなかったという話をすると、御匣殿は、

 

 みまくさをもやすばかりの春のひに

     よどのさへなど殘らざるらん

 

という歌を詠んで、「燃やす」を「萌やす」に掛けて「夜殿」を「淀野」に掛けた洒落た歌に女房達は大笑いした。世間知らずの御貴族さんには家を焼かれたものの苦しみなどどこ吹く風、というわけだ。

 この話が本説だとすればこの句は、蜀江錦を持っているような堺の大商人には、焼け出されて隠れ家でヤドカリ暮らしをしている友のことなどわかるまい、ということになる。

 

無季。「隠家」は居所。「寄虫」は水辺。「友」は人倫。

 

四十二句目

 

   隠家や寄虫の友に交リなん

 筏に出て海苔すくふ比      芭蕉

 (隠家や寄虫の友に交リなん筏に出て海苔すくふ比)

 

 子昻やら蜀江錦やら『枕草子』のマイナーな本説やら、いかにも其角流の好みそうな流れから、芭蕉は何とか蕉風に戻したいところだ。

 ここでは寄虫を本来の動物のヤドカリとして水辺で展開する。海苔の収穫期は冬の終わりから夏の初めまでで、筏で海苔を掬う比というのは春になる。海苔を掬う海士ならヤドカリとも友達だろう。春に転じることで花呼び出しになる。

 

季語は「海苔すくふ」で春、水辺。「筏」も水辺。

 

四十三句目

 

   筏に出て海苔すくふ比

 谷深き日うらは花の木目のみ   挙白

 (谷深き日うらは花の木目のみ筏に出て海苔すくふ比)

 

 前句の海の情景に谷深き山の日の当たらぬ影とたがえて付ける。日陰では桜の開花も遅く、まだ木の芽のみ。これから咲くであろう花を余情とする。

 

季語は「花の木目」で春、植物、木類。「谷」は山類。

 

挙句

 

   谷深き日うらは花の木目のみ

 声しだれたる春の山鳥      由之

 (谷深き日うらは花の木目のみ声しだれたる春の山鳥)

 

 最後は脇を務めた、スポンサーの磐城平藩の関係者である由之が締めくくる。

 

 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の

     ながながし夜をひとりかも寝む

              柿本人麻呂(拾遺集)

 

の「しだり尾」を枝垂桜に掛けて、山鳥の尾ではなく声がしだれている、とする。「声しだれたる」は「しゃくり」と反対に高い音から低く下げるということであろう。

 

季語は「春」で春。「山鳥」は鳥類。