初表
けふばかり人も年よれ初時雨 はせを
野は仕付たる麦のあら土 許六
油実を売む小粒の吟味して 酒堂
汁の煮たつ秋の風はな 岱水
宿の月奥へ入るほど古畳 嵐蘭
先工夫する蚊屋の釣やう 主筆
初裏
才ばりの傍輩中に憎まれて 岱水
焼焦したる小妻もみ消ス はせを
粽つむ笹の葉色に明わたり 許六
輾磑をのぼるならの入口 酒堂
半分は鎧はぬ人もうち交り 嵐蘭
船追のけて蛸の喰飽キ 岱水
宵闇はあらぶる神の宮遷し はせを
北より荻の風そよぎたつ 許六
八月は旅面白き小服綿 酒堂
焼山ごえの雲の赤はげ 嵐蘭
打起す畠も花の木陰にて 岱水
つらも長閑に鶴の卵わる はせを
二表
春ふかく隠者の富貴なつかしや 許六
當摩の丞を酒に酔する 酒堂
さつぱりと鱈一本に年暮て 嵐蘭
夜着たたみ置長持の上 岱水
灯の影めづらしき甲待チ はせを
山ほととぎす山を出る声 許六
児達は鮎のしら焼ゆるされて 酒堂
尻目にかよふ翠簾の女房 嵐蘭
いかやうな恋もしつべきうす霙 岱水
琵琶をかかえて出る駕物 はせを
有明は毘舎門堂の小方丈 許六
舌のまはらぬ狐やや寒 酒堂
二裏
一すじも青き葉のなき薄原 嵐蘭
篠ふみ下る筥根路の坂 岱水
宗長のうき寸白も筆の跡 はせを
茶磨たしなむ百姓の家 許六
花の春まつべて廻る神楽米 酒堂
七十の賀の若菜茎立 嵐蘭
参考;『校本 芭蕉全集 第五巻』1988、富士見書房
けふばかり人も年よれ初時雨 はせを
この発句は、一般的には「も」という助詞を「又も」つまり何かと比較して何々もという用法と解し、今日ばかりは年寄りだけでなく若い人も年取ってくれ、年寄りの気分になってくれ、というふうに読まれている。
ただ、「も」には「力も」という単なる強調の用法もあり、この場合は「年よれ」という命令形を強調するための「も」で、他のものとの比較の意味はないと考えた方がいい。
「年よれ」は文字通りに読めば、「年よ、寄れ」であり、「年経よ」と同じような意味であり、「年寄り」という言葉は「年が寄る=年を経る」から派生した言葉にすぎない。ここでは「年よれ」は年寄りになれではなく、「年を経てゆくのを感じ取ってくれ」ぐらいの意味に考えた方がいい。
冬になると、朝夕の風の変わり目に雨雲ができやすく、晴れた日でも明け方と夕暮に約束のように雲があらわれ、雨が降ったりする。これを時雨といい、冬の最初の時雨を特に初時雨と言う。初時雨が降ると、今年も冬が訪れ、もう一年も終わりかという気分になるのだろう。時雨はかつては関西特有の現象だったが、最近では関東でも時雨れる時がある。これは温暖化のせいか。
発句は興行の際のゲストの挨拶であり、許六亭での芭蕉を迎えての興行だから、芭蕉が発句を詠み、許六が脇を詠むことになる。この日は旧暦の十月三日で、冬の初め。ちょうど初時雨の季節で、この興行の時だけでも人が年を経てゆくのを感じてくれ、と挨拶する。
「初時雨」は冬。降物。「人」は人倫。
けふばかり人も年よれ初時雨
野は仕付たる麦のあら土 許六
(けふばかり人も年よれ初時雨野は仕付たる麦のあら土)
発句がゲストの挨拶なのに対し、脇はそれを迎えるホストの返礼になる。
年を経てもいいように来年のための準備は整ってますという意味で、畑の麦蒔きも終わりましたと答える。「あら土」は土のこなれていないという意味だが、それは比喩であり、招待する側の「粗末な所ですが」という謙遜の意味にすぎない。
「仕付たる麦」は冬。草類。
野は仕付たる麦のあら土
油実を売む小粒の吟味して 酒堂
(油実を売む小粒の吟味して野は仕付たる麦のあら土)
「油実」というのは中国原産のアブラギリ(トウダイグサ科)の実のことで、2~2.5cmの扁球形の実をつける。アブラギリから取れる桐油には有毒な成分が含まれていて、行灯などの燃料に広く使用されていた。農家の現金収入を得る手段として、芭蕉の時代にはあちこちで栽培されるようになった。今日では木材保護油として使われている。
第三は「て」止めか「らん」止めにすることが多い。「て」止めの場合は下句の原因を付けて「‥‥して‥‥する」と読ませることもできれば、下句が原因となって「‥‥ならば、‥‥したりして」の倒置として「‥‥したりして、‥‥ならば」と読ませることもできる。「らん」の場合も疑問と反語の用法があり、疑問で付けた句を反語で取り成すようにすれば、容易に展開ができる。第三が「て」や「らん」で止めるのは、何ら規則ではなく、しょっぱなから句が詰まって進まなくなるのを防ぐための工夫と考えた方がいい。
「て」止めの場合、下句を原因とするより、下句を結果とした方が、すんなりと付けられる。そのため、後の人の付けやすさを考えるなら、下句を原因としてつける方がいい。ここでも、野には麦の準備し、さらに油実を売ろうと付く。
前句の麦畑の主を、田んぼだけではなく、冬場も麦を作るやり手の百姓と見て、位で付けたのだろう。周りの山も遊ばせてはおかずにアブラギリを栽培し、さらに収入アップを図る。大粒を小粒をより分けて、それぞれの相場を睨みながら、少しでも高く売ろうという算段か。
第三は挨拶句ではないので、発句と脇の情をできる限り離して付けるのを良しとする。季節も秋に転じる。
「油実」は秋。木類。
油実を売む小粒の吟味して
汁の煮たつ秋の風はな 岱水
(油実を売む小粒の吟味して汁の煮たつ秋の風はな)
アブラギリの実の選別作業は屋外で汁を煮炊きながら、大勢で行っていたのだろうか。
「風はな」は風に乗って小雪などの舞うことで、本来は冬のものだが、ここでは「秋の」とすることで、晩秋の山里の景色としている。
前句の「て」止めを受けて、前句を原因として「‥‥して‥‥する」と読み下す。油実の選別作業をする臨時雇いか何かの位で付けたのだろうか。雪のちらつく中での汁の煮炊きにさびが感じられる。
「秋」で秋。
汁の煮たつ秋の風はな
宿の月奥へ入ほど古畳 嵐蘭
(宿の月奥へ入ほど古畳汁の煮たつ秋の風はな)
五句目は月の定座ということで、「汁の煮たつ」を宿で芋を煮ている光景としたのだろう。月が出たので障子も開け放って月を観賞しようかという所で、そんなところに風にのって雪がちらちら舞い、それがあたかも桜が散っているかのように美しく、しばし寒さも忘れる。
ただ、この宿もどこかわびしげで、外からすぐ見える縁の辺りの畳は新しく替えてあるが、奥は古いままで、月が部屋の奥まで差し込むと、それがばれてしまう。前句の雪の汁のわびしさに、古畳が響きあう。
「月」は秋。夜分。天象(中世連歌でいう「光物」に相当する。太陽、月、星、銀河などの天体現象。)。「畳」は居所。
宿の月奥へ入ほど古畳
先工夫する蚊屋の釣やう 主筆
(宿の月奥へ入ほど古畳先工夫する蚊屋の釣やう)
前句の粗末な宿の風情からの匂いによる発想で、夏場に訪れる旅人はどこに蚊屋を釣ろうかと苦労する。
主筆(「執筆」とも書く)というのは連歌や俳諧興行の際に筆記役兼審判員を勤める人で、挙句を担当することが多いが、ここでは五人の連衆が一回りしたところでの登場となる。歌仙は全部で三十六句
だから、主筆が一句詠むと全員七句づつでバランスが取れる。
「蚊屋」は夏。
先工夫する蚊屋の釣やう
才ばりの傍輩中に憎まれて 岱水
(才ばりの傍輩中に憎まれて先工夫する蚊屋の釣やう)
これは蚊屋の工夫をしている人のイメージから想像した一種の位付けか。
この場合、「才ばりは傍輩中に憎まれて」の意味だろう。
「才ばり」というのは針のように尖ったような鋭い切れ者だが、人間としては小さいというスラングだろう。「傍輩中」は同僚というような意味だろうけど、硬い言い回しだ。どこかサラリーマン川柳めいてる。
才ばりは、頭は良いが小賢しいだけで、日頃威張っていて、人に命令するばかりで、蚊屋を釣るのも人任せで、それも人のやり方に一々チクチクと文句垂れていたのだろう。「ならば見本を」とか言われて、いざやってみると悪戦苦闘する。
無季。「傍輩」は人倫。
才ばりの傍輩中に憎まれて
焼焦したる小妻もみ消ス はせを
(才ばりの傍輩中に憎まれて焼焦したる小妻もみ消ス)
「才ばり」に「小妻」という移りで付けた句。前句は才ばりが傍輩中に憎まれての意味だったが、「の」の使い方で「才ばりである傍輩中」に憎まれてとも読める。
小姑のように、人の失敗をいちいちチクチク突付くのが趣味というか生きがいのような同僚に、袖の端っこが焦げたのを見つかればえらいことになると、文字通り火を手でもんで「もみ消す」。芭蕉も伊賀藤堂藩の料理人をやっていた時には、こんな経験もあったのかもしれない。
無季。「小妻」は衣装。
焼焦したる小妻もみ消ス
粽つむ笹の葉色に明わたり 許六
(粽つむ笹の葉色に明わたり焼焦したる小妻もみ消ス)
袖の黒く焦げた部分を取り除き、元の色が出てくる様子に、明け方の空が白む様子を連想したのだろう。それをさらに端午の節句に食べる粽の笹の葉から中のもち米が見えてくる様子に例えた、複雑な見立ての句で、わかりにくい。脇句もそうだったが、許六はここではやや疎句付けを狙いすぎている。
夜明けというと燃えるような朝焼けを連想する人も多いかもしれない。しかし、空が赤く染まるのは気流が不安定だったり、大気中に塵が多かったりするからであり、嵐の前などの天気が荒れ模様の時ほど空は毒々しく赤く染まる。これとは反対に、気流が安定しているときはむしろ緑がかかったような空になる。「笹の葉色に明わたり」というのは、そういう、大気の状態の安定したときの夜明けの空のことと思われる。
にっと朝日に迎ふよこ雲
蒼みたる松より花の咲こぼれ 去来
はこれより後の元禄7年の句だが、松と桜のコントラストのイメージに、青い空からほんの少し赤い朝日の色がこぼれてくるイメージとうまく重なっている。
端午の節句は今では子供の日だが、かつては時期的にむしろ夏至祭りに近く、龍船競争や石つぶて合戦などをした。日のもっとも長い時期だけに、夜が明けるのも早い。
「粽」は夏。
粽つむ笹の葉色に明わたり
輾磑をのぼるならの入口 酒堂
(粽つむ笹の葉色に明わたり輾磑をのぼるならの入口)
子供の頃読んだ教科書に、奈良坂から奈良に入ると、急に東大寺の屋根が見えてきて、それがいいという文章があった。この句は「笹の葉色に明わたり」のイメージに、登って行くにつれ東大寺の大伽藍の上に明け方の空が広がってゆく、奈良坂のイメージを重ねた響き付けの句だろう。
奈良坂は京都から奈良に入る古い街道で、この坂を下ると東大寺の転害門に出る。この転害門の元の名前が輾磑門で、輾磑というのは元は粉を挽くための回転式の(ペッパーミルを大きくしたような)石臼のことだという。中国に倣って、東大寺に製粉工場を敷設したのだが、日本の米飯文化には結局根を下ろせなかったという。
無季。「奈良」は名所。
輾磑をのぼるならの入口
半分は鎧はぬ人もうち交り 嵐蘭
(半分は鎧はぬ人もうち交り輾磑をのぼるならの入口)
東大寺は治承4(1180)年12月28日に平重衡に焼き討ちされ、このことは『平家物語』の「奈良炎上」に描かれている。興福寺が三井寺に味方し、平家の横暴に抵抗しようとしての、七千人の兵を集めての挙兵だったが、四万騎の重衡の軍にあっという間に鎮圧され、東大寺、興福寺は炎に包まれることになる。
この句は前句の東大寺転害門から、挙兵する僧兵たちの姿を、『平家物語』の面影で付けたもので、寄せ集めの軍だから、鎧の数も足りないというところで俳諧の味を出している。
僧兵というと弁慶の姿を思い浮かべればいいだろう。弁慶も熊野別当の家に生まれたとされ、熊野水軍の伝説もあり、比叡山延暦寺に居たとも言われている。
東大寺は永禄10(1567)年10月10日、三好松永の乱でも一度消失している。
無季。「人」は人倫。
半分は鎧はぬ人もうち交り
船追のけて蛸の喰飽キ 岱水
(半分は鎧はぬ人もうち交り船追のけて蛸の喰飽キ)
「鎧」のイメージだと、どうしても戦記物からは離れにくい。ここでも『平家物語』などの源平合戦のイメージが付きまとう。「蛸」が出てくるから、舞台は須磨・明石だろう。
鵯越からの奇襲作戦で、平家を追い払った後の戦勝祝いだろうか。そうなると、「鎧はぬ人」と言うのは、付近の漁師など、平家がいなくなったことを喜ぶ民衆だろう。
無季。「船」は水辺。
船追のけて蛸の喰飽キ
宵闇はあらぶる神の宮遷し 芭蕉
(宵闇はあらぶる神の宮遷し船追のけて蛸の喰飽キ)
「蛸の喰飽キ」に殺生の罪の匂いで付けた句。
宵闇に心の闇を見、闇にあらぶる神の宮を移したので船から上がり、蛸を飽きるほど食った、としたのだろう。
あえて、釈教にではなく神祇に展開している。
あらぶる神というのは御霊のような非業の死を遂げた魂で、蛸が須磨・明石の名物であることを考えれば、平氏の怨霊か。祟りを恐れて神社を他所へ移したから、もう祟りはないだろうと蛸を好きなだけ食う。そんな人間の勝手な心を宵闇が包んでいる。蛸というと、
蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉
の句もある。罠にはめられて食われてしまう蛸のはかなき夢のような命を、夏の短い夜の月に例えたものだが、その情は、蛸に喰い飽きる姿に人間の煩悩を思い、それを月のまだ出ていない闇に例えるこの句にも生かされている。
「宵闇」は今日では夕方の薄暗くなる頃をいうことが多いが、本来は満月より後の月の出が遅くて夕暮が暗いことをいう。思えば、60年代以降、道路には街灯が灯り、どんな田舎でも各家庭には電気が普及し、本当の闇というのがなくなってしまったのだろう。電気のなかった時代は、月の光の有る無しの違いは大きく、月のない夜は本当の闇だった。今では北朝鮮あたりまで行かないと、もう本当の闇はないだろう。
ところで、この句は一つ困った問題を引き起こしてしまった。というのも、「宵闇」は月の出る前の闇のことで、中秋旧暦八月は新月から三十日に至るまで月のことを気にかけるものとされているところから、三日月でも上弦でも十五夜でも中秋の句となる。十六夜は長月のいざよいのことになるが、こうした特別な月を除けば、基本的に月は中秋のものとなる。宵闇も遅い月を待つ闇という意味では、中秋の名月に関連した言葉ではある。「無月」もまた中秋の季語でもあるように、また、
三十日月なし千歳の杉を抱あらし 芭蕉
の句も、月の句となるように、月が出てなくても月の句にはなる。ただ、「無月」や「月なし」は字の上では「月」の字があるが、「宵闇」の場合は月の字はない。また、月の字はなくても「有明」などは月そのものをあらわすために月の定座でも用いられる。「宵闇」の場合、このどちらでもないのが問題だったのだろう。
「宵闇」は月ではないが、「秋」の句となる。秋は五句まで続けることができるし、「夜分」も三句去りだから、十七句目で月を出せないことはないが、同じ秋の句の連続に「宵闇」と「月」が共存するのはいくらなんでも拙い感じになる。つまり、宵闇を出したことで、初の懐紙の裏に定座の月を出すことが困難になってしまったのである。この問題は、結局、宵闇を心の月として、もう一つ、日次を表す形の月を出すことで、両方合わせて月の定座にするという妥協策を用いることになった。(参考;『去来抄』「故実」)
「宵闇」は秋。夜分。「神」「宮遷し」は神祇。
宵闇はあらぶる神の宮遷し
北より荻の風そよぎたつ 許六
(宵闇はあらぶる神の宮遷し北より荻の風そよぎたつ)
さて、そういうわけで、次の許六の句は日次の月を呼び出すための、変則的な「月呼び出し」の句になってしまった。まず、「宮遷し」の方角を「北」とし、「宵闇」に荻の風の音を付けた。荻の風は、
夢となりし骸骨踊る荻の声 其角
という天和調の発句があったように、悲しい響きがある。軽く流したような遣り句だが、なかなか良く出来ている。
「荻」は荻。草類。
北より荻の風そよぎたつ
八月は旅面白き小服綿 酒堂
(八月は旅面白き小服綿北より荻の風そよぎたつ)
荻の風のそよぎ立ち、露を散らす風情を旅路の風景とし、「八月は旅面白き」と付く。小服綿は僧の着るもので、僧の行脚の句となる。
日次の月を月の定座の代わりとするのは、実はこれが初めてではない。芭蕉が『奥の細道』の旅で、新潟の直江津で興行したときに、
文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉
の発句を詠んだ時のことだった。七夕の前日もまた明日の七夕を控え、織姫彦星の気持ちを思えばいつもの夜ではない。それは興行の開始の挨拶としては、今夜みんな集まっていただいて、今夜はいつもの夜ではありません、という意味でもある。
しかし、この句は秋の句で、「夜分」の句でもあり、しかも日次の「月」文字まである。これでは初の懐紙の表に月の句を出すことができない。この日の興行は曾良の『俳諧書留』では二十句目までしか載っていないが、結局初表には月の句はなく、初裏の七句目で通常通り月の句を出し、十一句目で花の句を出していて、形としては初表の月は発句の「文月」で代用された形になった。どちらにしても、月花の定座はあくまでも慣習の問題であり、式目上は何の問題もない。
「八月」は秋。「旅」は羇旅。「小服綿」は衣装。
八月は旅面白き小服綿
焼山ごえの雲の赤はげ 嵐蘭
(八月は旅面白き小服綿焼山ごえの雲の赤はげ)
前句も「荻の風」に「旅面白き」と付いたが、ここも「旅面白き」にまた「焼山ごえ」の面白い様を付けている響き付けの句。「荻の風」が平凡な遣り句だっただけに、それを超える趣向を出せればまずまずだ。
「焼山」は火山のことで、噴火やガスの噴出などで草木の生えない荒涼とした赤茶けた山肌が、雲の合間に覗いている。山水画のような世界とはまた違う、赤絵のような赤と白の色調が珍しい。
なお「雲」は次の句の花の定座を意識して、「花の雲」に取り成せるようにという配慮か。あまり露骨ではない、さりげない「花呼び出し」だ。
無季。「焼山」は山類。「雲」は聳物。
焼山ごえの雲の赤はげ
打起す畠も花の木陰にて 岱水
(打起す畠も花の木陰にて焼山ごえの雲の赤はげ)
酒堂の意を汲んで、「雲」を「花の雲」に取り成し、「赤はげ」を火山のせいではなく、打ち起こした畠のせいに取り成す。これによって、雲の間に見え隠れする荒れ果てた火山の景色から、耕された畠の奥に花の雲が広がる幻想的な光景へと転じる。
「畠打ち」も「花」も春。「花」は植物。
打起す畠も花の木陰にて
つらも長閑に鶴の卵わる はせを
(打起す畠も花の木陰にてつらも長閑に鶴の卵わる)
江戸時代ではしばしばツルとコウノトリは混同されていた。ツルは三月の桜が咲き、畠打つ頃になると、北へ帰ってゆくので、これはコウノトリの姿か。
コウノトリは肉食で、フナやドジョウなどの魚や蛙を食べる。稀によその鳥の卵を見つけて食べることもあったのか。畠を打つ農夫の姿と、卵をつつくコウノトリの姿の類似の面白さをねらった句と思われる。響き付けの一種といえよう。花に鶴の取り合わせはいかにも目出度い。
「長閑」は春。「鶴」は鳥類。
つらも長閑に鶴の卵わる
春ふかく隠者の富貴なつかしや 許六
(春ふかく隠者の富貴なつかしやつらも長閑に鶴の卵わる)
前句では「鶴が卵を割る」の意味だったが、ここでは「富貴の者が鶴の卵を割る」というふうに取り成す。今は隠棲の身となったが、かつては大金持ちで、庭で鶴を飼ってたりしたのだろう。ところで、鶴の卵って美味いのだろうか。
鶴は渡り鳥で、夏場にアムール川流域などで卵を産み子育てをするから、本当の鶴の卵というのは、誰も見たことのないような貴重なもので、せいぜい裕福な家で飼われていた鶴が産んだ卵があるだけだっただろう。ただ、江戸時代にはしばしば鶴とコウノトリが混同されていたため、民話などには松の木に登って鶴の卵を取りに行く話がある。いずれにしろ、鶴の卵は大変貴重なもので、それゆえにやがて鶴の卵を模した饅頭が作られるようになり、お祝いのときなどに食べるようにもなったのだろう。
「春」は春。「隠者」は人倫。
春ふかく隠者の富貴なつかしや
當摩の丞を酒に酔する 酒堂
(春ふかく隠者の富貴なつかしや當摩の丞を酒に酔する)
問題は當摩の丞が何者かだ。多分架空の人物なのだろう。丞というと地方官ではナンバーツーで、中央でもいわゆる次官クラスだ。「判官」ともいう。当麻寺には中将姫という、一夜で曼荼羅を織り上げた姫の伝説があるが、中将は長官クラスだから、当麻の丞はそれよりは落ちる。
判官というと、源九郎判官義経や小栗判官が有名だが、小栗判官には72人も妻を取り替えたという伝説があるので、そのイメージがあるのかもしれない。ただ、いずれにせよナンバーツーというのは、権力争いに敗れて悲惨な最期を遂げることが多い。
当麻の丞というのは、そうした落ちぶれて昔の富貴をかしむような、そういうイメージがあったのだろう。
おそらく当時は「當摩の丞」というだけで、すぐに浮かぶイメージがあったのだろう。もっとも、昔も今も江戸というのは新開地で、伝統の浅い分、常に新奇な物を好み、最先端の笑いを求める傾向がある。その意味では「當摩の丞」はわかる人にはわかるというネタだったのかもしれない。
酒堂は近江の膳所の人ではあるが、江戸の深川で巻かれたこの歌仙には、「灰汁桶の巻」とは違った雰囲気がある。この作風の違いは、単に「軽み」というだけではない、ふたたび江戸に戻った芭蕉の、江戸の新奇な物を求める空気の中で巻かれたということもあったのではないか。
なお、この時代の当麻寺というと、京都大雲院の性愚上人によって根本曼荼羅と文亀曼荼羅が修復され、後者は貞享2(1685)年に完成し翌貞享3(1686)年には霊元天皇が銘を入れ、貞享曼荼羅と呼ばれている。芭蕉が当麻寺を訪れたのは貞享元(1684)年の秋(『野ざらし紀行』の旅の途中)だから、果たしてこの曼荼羅を見たのかどうかは定かでない。曼荼羅の修復に合わせて、寺院全体に牡丹などの花を植えたりして、やがて多くの参詣人を集める花の名所となってゆくのもこの頃からだった。それと當摩の丞と何か関係あるのかは定かではない。
無季。「當摩」は名所。「丞」は人倫。
當摩の丞を酒に酔する
さつぱりと鱈一本に年暮て 嵐蘭
(さつぱりと鱈一本に年暮て當摩の丞を酒に酔する)
この場合の鱈は棒鱈のことだろう。身欠き鰊や干鮭とともに、正月のお節料理に用いられる。そのため、お歳暮として進物用に用いられた。冷蔵庫もなく、高速で運ぶ交通機関もなかった時代の干物は保存性が命で、たいていはカチンカチンに硬くなるまで干したもので、戻すには長時間だし汁で煮なくてはならなかった。
身欠き鰊や棒鱈は今日でもあるが、干鮭は、
から鮭も空也の痩も寒の内 芭蕉
という発句にも詠まれているものの、江戸時代後期には塩で固めた「塩引」に取って代わられていった。ただ、これも今日からすれば塩がきつすぎて、「ねこまたぎ」(猫がまたいで通るくらいまずい)と言われたようだ。新巻鮭が広まったのは明治以降のこと。
江戸時代にこうした干物が正月料理として広まったのは、松前藩を経由したアイヌとの交易によるもので、もちろんその裏側にはアイヌへの過酷な強制労働があり、シャクシャインの乱もまた芭蕉の生きている時代の出来事だった。
鱈というと貞享2(1865)年の『野ざらし紀行』の旅の途中で詠んだ句に、
つつじいけて其陰に干鱈さく女 芭蕉
という、字余りの天和調の句があるが(『野ざらし紀行』には出てこない)、この場合は普通の鱈の干物のことで、正月の棒鱈とはおそらく別物だろう。棒鱈は十分煮込んで戻せば柔らかい煮物になるが、裂いて食べる干鱈は普通に焼いて食べる干物のことだろう。
干鱈の方は安価で貧しい人の食い物だったようだが、棒鱈は正月料理に使うのだから、それなりに高級だったのではなかったか。そうでなくては當摩の丞の位に合わない。
「年暮て」は冬。
さつぱりと鱈一本に年暮て
夜着たたみ置長持の上 岱水
(さつぱりと鱈一本に年暮て夜着たたみ置長持の上)
これは遣り句だろう。花から鶴の卵、當摩の丞と盛り上がって、ここらで一休みだ。「さっぱり」のイメージで、きちんと長持ちの上にたたまれた夜着を匂いで付けたのだろう。
大晦日は夜中まで起きて、除夜の鐘を聞き、そのあと眠るための夜着が、長持ちの上にきちんとたたんで置かれている。夜着は袖のある着物型の布団で、冬のもの。正月の料理のメインは一本の棒鱈。質素な中にも目出度さがあり、しっかりと正月の準備は整っている。
「夜着」は冬。衣装。夜分。
夜着たたみ置長持の上
灯の影めづらしき甲待チ はせを
(灯の影めづらしき甲待チ夜着たたみ置長持の上)
土芳の『三冊子』に、
「前句の置の字の気味に、せばき寝所、漸一間の住居、もの取片付て掃清めたる所と見込、わびしき甲待の体を付たる也。珍の字ひかりあり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,127)
とある。芭蕉の名吟の一つといえよう。
長持ちの上に夜着をたたむところに家の狭さときちんと片付いた部屋の匂いがあり、そこからいわゆる「清貧」の人物を思い描き、その位で付けている。
「甲待ち」は十干十二支の最初の甲の日を、灯を灯し、夜中まで待つ風習で、60日ごとに訪れる大晦日のようなものといえるかもしれない。「珍し」は今の珍しいの意味ではなく、「愛づらし」、つまり、「愛でたくなる」という意味。「目出度い」に通じる。
無季。「灯」は夜分。「甲待ち」は神祇。
灯の影めづらしき甲待チ
山ほととぎす山を出る声 許六
(灯の影めづらしき甲待チ山ほととぎす山を出る声)
ホトトギスは漂鳥で、冬は南の暖かい平野で過ごし、夏になると北の山地へと渡ってゆく。だから、初夏の風物であるホトトギスの初音は、実際は山に向かってゆく時の声で、山を出る時ではない。
許六はおそらくこうしたホトトギスの生態とは無関係に、半年前の
鎌倉を生て出けむ初鰹 芭蕉
の句を連想したのではなかったか。ホトトギスと初鰹は、貞享5(1688)年初夏の、
目には青葉山ほととぎす初鰹 素堂
の句もあるように、夏の初めの二大風物で、初鰹も鎌倉の海から出てきたのだから、ホトトギスも山から出てきたと発想したのではなかったか。
前句の「めづらしき」は二句つなげた場合、ホトトギスの声に掛かる。灯火の甲待ちにめづらしきホトトギスの声、という句になる。
「ほととぎす」は夏。鳥類。「山」は山類。
山ほととぎす山を出る声
児達は鮎のしら焼ゆるされて 酒堂
(児達は鮎のしら焼ゆるされて山ほととぎす山を出る声)
前句をホトトギスが山を出るのではなく、ホトトギスの初音に稚児たちが山を出ると取り成して付けている。普段お寺では殺生を禁じ、魚は許されていないが、ホトトギスの鳴いたこの日はお目出度い日なので、稚児たちも鮎の白焼き食うことが許されたのだろう。鮎は特にタレをつけなくても塩焼きが旨いし、初夏の風物でもある。この粋な計らいをするホトトギスの好きなこのお寺の僧正は、
きくたびにめづらしければ郭公
いつも初音のここちこそすれ
権僧正永縁(『金葉集』夏)
の歌を詠んだ、「初音の僧正」こと永縁だろうか。
「鮎」は夏。「稚児」は人倫。釈教。
児達は鮎のしら焼ゆるされて
尻目にかよふ翠簾の女房 嵐蘭
(児達は鮎のしら焼ゆるされて尻目にかよふ翠簾の女房)
稚児といってもお寺に仕えるお稚児さんは、子供ではなく立派な少年。どこぞの坊さんとの間にホモの噂もあったりする。美少年のお稚児さんがいるとなれば、そこには当然恋の匂いもある。大きな有名なお寺であれば、たくさんのお稚児さんがいて、さながらジャニーズ・ジュニアか。宮廷の女房もお忍びでやってきては流し目を送る。
無季。「かよふ女房」は恋。人倫。
尻目にかよふ翠簾の女房
いかやうな恋もしつべきうす霙 岱水
(いかやうな恋もしつべきうす霙尻目にかよふ翠簾の女房)
霙を詠んだ歌はすくなく、まして、霙に恋というと、
みぞれには花たのたもとかへるとも
我がとほつまを見てこそゆかめ
源俊頼
があるくらいか。岱水がこの歌を知っていたかどうかは知らない。雨や雪はそれなりの風情があるが、霙降る中では流し目をする宮廷の女房もどのような恋をするのだろうか、と単純に疑問に思ったような句なのだろう。御簾から見え隠れする曖昧さに、雨とも雪ともつかぬ霙をイメージしたか。雪のような閑寂で冷えさびた境地でもなく、雨ほどしっとりとしたものでもなく、冷たくてどろどろとした厳しくつらい恋なのだろう。
「霙」は冬。降物。「恋」は恋。
いかやうな恋もしつべきうす霙
琵琶をかかえて出る駕物 はせを
(いかやうな恋もしつべきうす霙琵琶をかかえて出る駕物)
恋は二句で終わりということで、芭蕉は「しつべき」を物語をしつべきと取り成し、霙の降る寒い日に駕籠に乗ってやってき琵琶法師が、どんな恋の物語をするのだろうか、というふうに付ける。前句の心を振り切る鮮やかな展開である。
琵琶法師というと芭蕉が『奥の細道』の旅の途中、塩釜で聞いた奥浄瑠璃のことが思い出される。琵琶法師だからといって平家物語などの軍記物をやるとは限らず、恋物語などもしたのだろう。
無季。
琵琶をかかえて出る駕物
有明は毘舎門堂の小方丈 許六
(有明は毘舎門堂の小方丈琵琶をかかえて出る駕物)
方丈というのは住職の住むところのことで、毘沙門天を祭った小さな寺の小さな方丈から明け方に琵琶法師が出てきて、駕籠に乗って帰ってゆく様を付けている。『俳諧鳶羽集』によると、「琵琶をかかえてといふより転じ来て、通夜の果たる曙と思ひよせたり」とあり、かつては通夜の時に琵琶法師などを呼んでは夜通し物語を聞き、無常感に浸ったりしたのだろう。
「出る駕物」は「駕物を出る」とも「出てきて駕物に乗る」とも取れる。こうした所も逃さず取り成すのが、連歌・俳諧の面白さであり、最近の連句にはこうした機知が欠けているように思える。
「有明」は秋、夜分、天象。「毘舎門堂」「方丈」は釈教。釈教の三句去りは問題ない。
有明は毘舎門堂の小方丈
舌のまはらぬ狐やや寒 酒堂
(有明は毘舎門堂の小方丈舌のまはらぬ狐やや寒)
「舌のまはらぬ狐」を単に子狐のことだとしては面白くも何ともない。近代的に言えば、寒さで震えている子狐の姿が可愛らしく、「小動物への愛情が感じられる」とでも言うところかもしれない。それこそ
初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉
の句でもしばしばこのような解釈がなされるが、これは自然を片隅に残された保護すべきか弱いものにしてしまった現代人の感覚に他ならない。
当時は文字通り大自然で、神秘に満ち溢れ、そこには人間の想像を絶するような何かがあり、ひとたび牙をむけば大勢の人の命を奪ってゆく。だからこそ、人は自然を恐れ、自然を神として敬った。小蓑の猿も其角が『猿蓑』の序で言う「俳諧の神」であり、猿田彦大神の面影とすべきであろう。
狐はここでは人を化かすもののけの類と考えていいだろう。
妖ながら狐貧しき師走哉 其角
という元禄3(1690)年の冬の句もある。月の残る明け方に小さな毘舎門堂は元のまま、狐に化かされることもなくたたずんで、ただ、秋の寒さだけが身にしみる。舌がまわれば小さな方丈は大伽藍か竜宮城にでもなったのだろうか。
「やや寒」は秋。「狐」は近代では冬の季語となっているが、当時は無季。獣類。
舌のまはらぬ狐やや寒
一すじも青き葉のなき薄原 嵐蘭
(一すじも青き葉のなき薄原舌のまはらぬ狐やや寒)
狐は葉っぱをお金に変えたりするが、かつてはお札ではなく笹の葉を小判にしたりしたのだろうか。残念ながらここは一面のススキが原で、秋ともなると青い葉っぱは一枚もない。名残の裏なので、穏やかに、景色の句に転じる。
「薄」は秋。草類。
一すじも青き葉のなき薄原
篠ふみ下る筥根路の坂 岱水
(一すじも青き葉のなき薄原篠ふみ下る筥根路の坂)
名残の裏ということで、ここでも穏やかに景色の句を続ける。箱根といえば千石原という一面の薄が原が有名。 篠は笹のこと。笹の生い茂る山道を下ると、眼下には一面薄の千石原が広がる。
無季。「篠」は草類。草類が二句続く。ここから二句隔てて花の定座で花の句を出すことになるが、草類と木類というふうに違えた異植物は二句去りでも良い。「箱根路」は名所。
篠ふみ下る筥根路の坂
宗長のうき寸白も筆の跡 はせを
(宗長のうき寸白も筆の跡篠ふみ下る筥根路の坂)
寸白とは、本郷正豊の『鍼灸重寶記』(享保4年)に「三に寸白、虫長さ1寸、動くときは、腹痛、腫聚り、清水を吐き、上り下り、おこりざめあり、心を傷るときは死す。」とあり、条虫(サナダムシ)のこととされている。「宗長のうき寸白」というと宗長が寸白に悩んでいたようだが、実は宗祇のことだ。宗長の『宗祇終焉記』にはこうある。
「廿七日にじゅふしちにち、八日、此の両日はここに休息して、廿九日に駿河国へと出で立ち侍るに、その日の午刻斗に、道の空にして、寸白といふむしおこりあひて、いかにともやる方なく、薬をもちひけれど露しるしもなければ、いかゞはせん。
国府津といふ所に旅宿をもとめて、一夜をあかし侍りしに、駿河よりのむかひの馬・人・輿なども見え、素純馬をはせて来たりむかはれしかば、力をえて、あくれば箱根山のふもと、湯本と云ふ所につきしに、道のほどよりすこし心よげにて、湯づけなどくひ、物語[打ち]し、まどろまれぬ。」
そしてそのあとすぐ、
「ながむる月にたちぞうかるる
といふ句を沈吟して、我は付けがたし、みなみな付け侍れなど、たはぶれにいひつつ、ともし火の消ゆるやうにしていきも絶えぬ。」
となる。そのあと宗長は、
「あしがら山は、さらでだにこえうき山なり。輿にかき入れて、[ただ]ある人のやうにこしらへ、跡先につきて、駿河国のさかひ、桃園と云ふ所の山林に、会下あり、定輪寺と云ふ。」
と山を越え、その定輪寺に宗祇の亡骸を埋葬する。
前句の「篠ふみ下る筥根路の坂」を、宗長が宗祇の亡骸を輿に乗せながら、箱根山を下る様と取り成したのだろう。その時の様は、確かに宗長自身の『宗祇終焉記』という筆の後として後世に残ることになる。しかし、そのままでは重過ぎるテーマを「宗長のうき宗祇の亡骸」ではなく、「宗長のうき寸白」と言うところに俳諧がある。まあ、宗祇が死んだのなら、そこに寄生していたサナダムシも死んだのだろう。
無季。
宗長のうき寸白も筆の跡
茶磨たしなむ百姓の家 許六
(宗長のうき寸白も筆の跡茶磨たしなむ百姓の家)
茶臼は抹茶を挽くための道具で、江戸時代中期までは茶道に欠かせぬ道具だったが、やがて挽いた抹茶が市販されるようになり、廃れていった。茶臼に布をかけると富士山のような形になるところから、芭蕉の談林時代の句に、
山のすがた蚕が茶臼の覆いかな 桃青
というのがある。茶臼を富士山に見立てる面白さだけでなく、それが蚕にとっての富士山であるところに身分不相応な野心を持つという寓意が込められている。
茶道具の中でも高価なものなので、「茶磨たしなむ百姓」は、百姓といっても相当裕福な百姓なのだろう。
「宗長のうき寸白」はここでは宗長が嘆くようなサナダムシの這ったような書のことだろうか。宗長の筆だと誇らしげに飾ってあっても、そこは成り上がりの百姓のこと。目利きでもなく、とんでもない似せ物を掴まされたのだろう。今でも土地成金の家に行くと、この手のものがたくさんありそうだ。
無季。「百姓」は人倫。「家」は居所。
茶磨たしなむ百姓の家
花の春まつべて廻る神楽米 酒堂
(花の春まつべて廻る神楽米茶磨たしなむ百姓の家)
「花の春」は桜の咲く頃にこだわる必要はない。花は比喩であり、花のように目出度い春という意味。
「まつべて」は「集めて」という意味で、お神楽の費用を調達するために米を集めてまわるのは、村の有力者の仕事。
「茶磨たしなむ百姓」の位で付けた句。
「花の春」は春。比喩なので、植物とする必要はない。「神楽」は神祇。
花の春まつべて廻る神楽米
七十の賀の若菜茎立 嵐蘭
(花の春まつべて廻る神楽米七十の賀の若菜茎立)
「花の春」も出た所で、挙句はいかにも目出度く終わる。神楽は領主の七十歳の長寿を祝うためのもので、昔の数え歳では正月が来ると歳を取ったから、七十の賀もまだ春も浅い頃で、「花の春」はその意味でもここでは比喩であり、花のような目出度い春のこととなる。
今日でも七草粥の習慣が残っているように、春の若菜摘みは早春のもの。「茎立」はその中でも薹の立ったもので、「まつべて廻る」を米を集めるのではなく、文字通り花の春だから若菜の花を集めて回ると付く。
「若菜」は春。草類。篠からきっちり三句隔てている。