初表
文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉
露をのせたる桐の一葉 左栗
朝霧に食焼烟立分て 曾良
蜑の小舟をはせ上る磯 眠鴎
烏啼むかふに山を見ざりけり 此竹
松の木間より続く供やり 布嚢
初裏
夕嵐庭吹払ふ石の塵 右雪
たらい取巻賤が行水 筆
思ひかけぬ筧をつたふ鳥一ツ 左栗
きぬぎぬの場に起もなをらず 曾良
数々に恨の品の指つぎて 義年
鏡に移す我がわらひがほ 芭蕉
あけはなれあさ気は月の色薄く 左栗
鹿引て来る犬のにくさよ 右雪
きぬたうつすべさへ知らぬ墨衣 眠鴎
たつた二人リの山本の庵 左栗
華の吟其まま暮て星かぞふ 義年
蝶の羽おしむ蝋燭の影 右雪
二表
春雨は髪剃児の泪にて 芭蕉
香は色々に人々の文 曾良
参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)
発句
文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉
七夕といえば芭蕉は『奥の細道』の旅で、
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河
の二句を詠んでいる。
この二句については、既に鈴呂屋書庫にある『奥の細道─道祖神の旅─』の第五章、一、七夕の二句でも触れているが、「荒海や」の句に関して、これを二物衝突の写生句とするのは近代的解釈で、本来は「荒海は佐渡によこたふ天河(なる)や」の倒置で、流刑の地である佐渡島の前に冷酷に横たわっているこの荒海を、織姫彦星の仲を引き裂いている天の川に喩えたものだ。
こう考えることで、この時期の天の川が佐渡の方に懸からないことも説明できる。
この文章で拉致被害者のことにも思いをはせて、「荒海は今も横たう天の川なのか」と書いたが、未だに歴史は動いてない。未だに二つの異なる体制の間で、多くの人が行き来を許されないままになっている。
さて、もう一句の、
文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉
だが、この発句は直江津で七月六日に詠まれたものだった。
この句も「文月の六日も常の夜には似ずや」の倒置で、七夕の前日のこの日には織姫彦星も明日の逢瀬の前にきっと特別な気分でいることであろう、と詠んでいる。
この日の曾良の『旅日記』には、
「聴信寺ヘ弥三状届。忌中ノ由ニテ強テ不止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不帰。及再三、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各来ル。発句有。」
とある。当初は聴信寺を予定していたが忌中のため変更になったようだ。持病で身動き取れない芭蕉のために曾良も大変だったようだ。
結局この日は古川市左衛門方に宿泊した。この宿は「上越タウンジャーナル」によれば、「古川屋」(有限会社古川屋旅館)として二〇一二年一月末まで営業してたという。
この日は「発句有」とあるだけで、実際の興行は翌七日の夜、右雪亭で行われたものと思われる。七日の曾良の『旅日記』に、
「雨不止故、見合中ニ、聴信寺へ被招。再三辞ス。強招クニ及暮。 昼、少之内、雨止。其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。夜中、風雨甚。」
とある。ここにははっきりと「俳有」と記されている。
季語は「文月」で秋。「夜」は夜分。
脇
文月や六日も常の夜には似ず
露をのせたる桐の一葉(ひとつば) 左栗
(文月や六日も常の夜には似ず露をのせたる桐の一葉)
左栗は曾良の『俳諧書留』には石塚喜衛門と記している。どういう人なのかはよくわからない。
桐の葉に夜露が降りて、六日の月の光にきらめいてますと、露は客人である芭蕉さんの比喩でもある。
季語は「露」で秋、降物。「桐」は植物(木類)。
第三
露をのせたる桐の一葉
朝霧に食焼(めしたく)烟立分て 曾良
(露をのせたる桐の一葉朝霧に食焼烟立分て)
朝の景色に転じる。「烟立分(けぶりたちわけ)て」は万葉集の国見の歌を髣髴させる。
高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
天皇登香具山望國之時御製歌
大和には群山あれど、とりよろふ天の香具山、登り立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ、海原は鴎かまめ立ち立つ、美(うま)し国ぞ 蜻蛉島、大和の国は(万葉集巻1-2)
季語は「霧」で秋、聳物。「烟」も聳物。
四句目
朝霧に食焼烟立分て
蜑(あま)の小舟をはせ上る磯 眠鴎
(朝霧に食焼烟立分て蜑の小舟をはせ上る磯)
眠鴎は曾良の『俳諧書留』に聴信寺とあるところから、そこのお坊さんであろう。
句の方は、やはり万葉時代のイメージで漁から帰って来た海人の小舟を海から担ぎ上げて陸に持ってゆく姿が描写されている。
無季。「蜑の小舟」「磯」は水辺。
五句目
蜑の小舟をはせ上る磯
烏啼むかふに山を見ざりけり 此竹
(烏啼むかふに山を見ざりけり蜑の小舟をはせ上る磯)
此竹は石塚善四郎とある。石塚喜衛門の一族であろう。
カラスは啼いても帰って行くような山は見えない。比喩として須磨明石に流された流人が帰る所を失ったのを嘆く趣向になる。
このあたりは、ある意味では近代の文士が付けそうな句でもある。古代の風雅に憧れて、特にひねりもなくそのまま景物で繋いでゆき、ある意味写生のようでもある。ネタに走る都会の俳諧に対し、田舎の俳諧はこういう調子のものが多かったのかもしれない。ただ、貞門や談林のような古い体ではなく、やはり蕉風確立期の体ではある。
無季。「烏」は鳥類。「山」は山類。
六句目
烏啼むかふに山を見ざりけり
松の木間(こま)より続く供やり 布嚢
(烏啼むかふに山を見ざりけり松の木間より続く供やり)
布嚢も「同源助」とある。石塚家の一族であろう。
「供やり」は「供槍」で、槍を担いだ従者で、大名行列の時には大勢の供槍が続く。「下にー、下にー」と言って飾りのついた長い槍を、時雨に雨にも負けず振り立てる槍持ちとはまた別物のようだ。
「松の木間」は街道の松並木の合い間に、ということか。
無季。「松」は植物(木類)。「供やり」は人倫。
七句目
松の木間より続く供やり
夕嵐庭吹払ふ石の塵 右雪
(夕嵐庭吹払ふ石の塵松の木間より続く供やり)
右雪は曾良の『俳諧書留』に佐藤元仙とある。いずれにしてもどういう人かはよくわからない。
曾良の『旅日記』の七月七日のところに、「其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。」とあり、『俳諧書留』には、
「同所
星今宵師に駒ひいてとどめたし 右雪
色香ばしき初苅の米 曾良
瀑水躍に急ぐ布つぎて 翁」
とある。同所は、その前の「文月や」の巻に「直江津にて」とあるので、同じ直江津でという意味で、六日の興行が佐藤元仙で行われたという意味ではないだろう。文化三年刊の『金蘭集』には表三句の後に「此間十句キレテシレス」とあり、十四句目から三十六句目の挙句までが記されている。
句の方は松に松風の縁から嵐を付け、夕暮れの嵐の景色に展開する。
無季。「庭」は居所。
八句目
夕嵐庭吹払ふ石の塵
たらい取巻賤が行水 筆
(夕嵐庭吹払ふ石の塵たらい取巻賤が行水)
「筆」は主筆。誰かはわからない。
ウィキペディアで「賤民」の所を見ると、
「穢多(えた・かわた)は、死牛馬(「屠殺」は禁止されていた)の皮革加工、履物職人、非人の管理などを主な生業とした。最下層ではないが、脱出の機会がなかった。職業は時代によって差があり、井戸掘りや造園業、湯屋、能役者(主役級)、歌舞伎役者、野鍛冶のように早期に脱賤化に成功した職業もある。」
という一文がある。ここで言う「賤(しづ)」は前句とのつながりで造園業者と見ることもできる。
仕事が終って、体についた泥を洗い流すために、大勢で盥を囲んで行水の順番を待っているのだろう。おそらくあるあるネタで、なかなかいい展開だ。この主筆は只者ではないと見た。
季語は「行水」で夏。「賤」は人倫。
九句目
たらい取巻賤が行水
思ひかけぬ筧をつたふ鳥一ツ 左栗
(思ひかけぬ筧をつたふ鳥一ツたらい取巻賤が行水)
盥に水を引いている樋に鳥が一羽歩いてゆく。行水に筧という展開。
無季。「鳥」は鳥類。
十句目
思ひかけぬ筧をつたふ鳥一ツ
きぬぎぬの場に起もなをらず 曾良
(思ひかけぬ筧をつたふ鳥一ツきぬぎぬの場に起もなをらず)
十句目くらいに恋を仕掛けるのは蕉風確立期では定石か。男が帰って行くというのに起きられず、去っていった後庭を見ると筧に鳥が、となる。
無季。恋。
十一句目
きぬぎぬの場に起もなをらず
数々に恨の品の指つぎて 義年
(数々に恨の品の指つぎてきぬぎぬの場に起もなをらず)
この人のこともよくわからない。主筆が詠んだので一巡したかと思ったが、思わぬ伏兵がいたか。
「指つぎ」はすぐ次にということ。句は倒置で「恨の品の数々に指つぎて」となる。
前句の「起もなをらず」を「置きもなおらず」と取り成して、仲のうまく行かない男の恨みの品を次々と並べたはいいが、片付ける気も起きない。急に出てきたわりにはなかなか上手く展開している。
この人は花の定座も詠むので、隠れた主役か。
無季。恋。
十二句目
数々に恨の品の指つぎて
鏡に移す我がわらひがほ 芭蕉
(数々に恨の品の指つぎて鏡に移す我がわらひがほ)
「移す」は「映す」であろう。恨みの品を眺めながら、何か吹っ切れたのだろう。「何これ、もう笑っちゃうね。」という感じか。
ここで泣いたりすると、それこそベタ(付き過ぎ)だ。
無季。恋。「我」は人倫。
十三句目
鏡に移す我がわらひがほ
あけはなれあさ気は月の色薄く 左栗
(あけはなれあさ気は月の色薄く鏡に移す我がわらひがほ)
月への展開だが、「あけはなれ」は夜が白むことで、それに「朝気の月の色薄く」と、「朝の月」といえばそれで済むところを十七文字にまで引っ張っている。
発句なら「言ひおほせて何かある」という所だろうが、付け句ではあまり余計な景物を付けてしまうと却って次が付けにくくなるので、特に定座の時はこれでいいのだろう。
明智光秀はあの「時は今」の興行(『天正十年愛宕百韻』)の時に、
ただよふ雲はいづちなるらん
つきは秋秋はもなかの夜はの月 光秀
と詠んでいる。
季語は「月」で秋、天象。
十四句目
あけはなれあさ気は月の色薄く
鹿引て来る犬のにくさよ 右雪
(あけはなれあさ気は月の色薄く鹿引て来る犬のにくさよ)
鹿といってもさすがに大きな鹿を犬が引きずってくるわけではあるまい。小鹿だろうか。田舎ならこういうこともあるのだろうか。
本当は農作物を荒らす鹿を追い払って欲しかったのだろう。逆に連れて来てしまうのは馬鹿犬だ。
季語は「鹿」で秋、獣類。「犬」も獣類。
十五句目
鹿引て来る犬のにくさよ
きぬたうつすべさへ知らぬ墨衣 眠鴎
(きぬたうつすべさへ知らぬ墨衣鹿引て来る犬のにくさよ)
砧を打つすべをしらないというのは、山寺に隠棲してはいても元は高貴な女性ということか。そりゃ、犬が鹿を連れてきたらびっくりするわな。
季語は「砧」で秋。「墨衣」は衣裳。
十六句目
きぬたうつすべさへ知らぬ墨衣
たつた二人リの山本の庵 左栗
(きぬたうつすべさへ知らぬ墨衣たつた二人リの山本の庵)
『校本芭蕉全集第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注釈に、「嵯峨の祇王・祇女姉妹の庵室などの俤とも見られよう。」とある。
ウィキペディアには、
「平家の家人・江部九郎時久の娘。近江国祇王村(現・滋賀県野洲市)に生まれる。生誕の地には妓王の菩提を弔うために建てられた妓王寺が現存する。
母の刀自、妹の妓女とともに、京都で有名な白拍子となり、平清盛に寵愛された。『平家物語』(第一巻 6「祗王」)に登場する。」
とある、しかし、その後、
「支給も止められた冷遇の末、仏御前の慰め役までやらされるという屈辱を味わわされ、自殺を考えるまでに至る。しかし、母の説得で思い止まり、母の刀自、妹の妓女とともに嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入る。当時21歳だったとされる。」
とある。実際はお寺に入ったのだから二人だけで暮らしたわけではないだろうけど、そこは本説を取る場合は必ず少し変えなくてはパクリになるからだ。
無季。「山本」は山類。「庵」は居所。
十七句目
たつた二人リの山本の庵
華の吟其まま暮て星かぞふ 義年
(華の吟其まま暮て星かぞふたつた二人リの山本の庵)
芭蕉さんに気に入られたか、花の定座を持たされた義年さん。期待に応えてくれます。
『校本芭蕉全集第四巻』の宮本三郎さんの注では、謡曲『関寺小町』だという。ただ、小町は二人で住んでたわけではないし、花の吟は比喩で老いた花の吟ということはできるが、ラストは明け方で、七夕祭ではあっても星を数えるわけではない。相違点が多いから本説とは言えない。
この場合は打越の尼のイメージは捨てて、寒山拾得のような二人暮らしの隠者とし、花を愛でては一日を終らせ、一番星、二番星を数えるそんな生活を描いたと見た方がいいのではないかと思う。
寒山詩に、
拍手摧花舞 支頤聽鳥哥
誰當來歎賞 樵客屢經過
舞い散る花に拍手を催し
鳥の歌は頬杖をついて聞く
誰が来て褒め称えるか
樵は度々通り過ぎる
とある。
季語は「華」で春、植物(木類)。「星」は夜分、天象。
十八句目
華の吟其まま暮て星かぞふ
蝶の羽おしむ蝋燭の影 右雪
(華の吟其まま暮て星かぞふ蝶の羽おしむ蝋燭の影)
胡蝶の夢と邯鄲の夢が合わさったような趣向か。夢から醒めれば星が出ていて蝋燭がゆれている。
季語は「蝶」で春、虫類。「蝋燭」は夜分。
十九句目
蝶の羽おしむ蝋燭の影
春雨は髪剃児(ちご)の泪にて 芭蕉
(春雨は髪剃児の泪にて蝶の羽おしむ蝋燭の影)
芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のときに杜国と別れる際に送った句に、
白げしにはねもぐ蝶の形見哉 芭蕉
の句がある。その時のことを思い出したか。
ここでは稚児の美しかった髪を蝶の羽に喩え、出家による別れを惜しんでいる。稚児の姿に杜国が重なるとなれば、やはり芭蕉さんは‥‥。
『校本芭蕉全集第四巻』の宮本三郎注に、古今集の、
春雨のふるは涙か桜花
ちるを惜しまぬ人しなければ
大伴黒主
を引いている。春雨の泪はこの歌による。
季語は「春雨」で春、降物。恋。「児」は人倫。
二十句目
春雨は髪剃児の泪にて
香は色々に人々の文 曾良
(春雨は髪剃児の泪にて香は色々に人々の文)
昔の宮廷では手紙に香を焚き込めたりした。『源氏物語』の「帚木」の雨夜の品定めの発端になる、手紙がごそっと見つかる場面が思い浮かぶ。春雨から「雨夜の品定め」の連想であろう。
この句も挙句という感じがしないから、ここから先まだ興行は続いたのであろう。曾良が書き残してくれなかったのが残念だ。あるいは芭蕉の病気のため、あとは主筆に任せて芭蕉と曾良は途中退席したか。
無季。恋。「人々」は人倫。