「ひさご」越人の序を読む

 江南の珍碩我にひさごを送レり。これは是水漿をもり酒をたしなむ器にもあらず、或は大樽に造りて江湖をわたれといへるふくべにも異なり。吾また後の惠子にして用ることをしらず、つらつらそのほとりに睡り、あやまりて此うちに陥る。醒てみるに、日月陽秋きらゝかにして、雪のあけぼの闇の郭公もかけたることなく、なを吾知人ども見えきたりて、皆風雅の藻思をいへり。しらず、是はいづれのところにして、乾坤の外なることを。出てそのことを云て、毎日此内にをどり入。

  元禄三六月

                     越智越人

 前半部分は『荘子』逍遥遊編を踏まえたもので、恵子(惠子)が荘子に言う。

 

 「魏王に大きなひさご(大瓠)の種を貰ったんで、植えて育てたんだが、その実が五石にもなった。」

 

 一石はウィキペディアによると質量の単位で、

 

 「『孔叢子』に「鈞四謂之石」(4鈞を石という)、『淮南子』に「四鈞為一石」(4鈞で1石を為す)とあり、1鈞は30斤なので1石は120斤となる。例えば、漢代の斤は約258グラムであったので、1石は約31キログラムとなる。(林甘泉氏の『中国経済通史--秦漢経済巻』では、1石は約13.5キログラムと書かれている)」

 

とある。百五十キロはさすがに大きすぎる。林甘泉氏の説だと67.5キロくらいか。

 ネットで大きな瓢箪を探すと、「飛騨経済新聞」の2014.09.26の記事に「飛騨国府・大林さんの大ヒョウタン、収穫迫る-重さ95キロ超、胴回り記録更新」とあり、「胴回り1メートル83センチ、高さ1メートル21センチ」とある。これだと林甘泉氏の説よりも大きくなる。

 1石は約31キロだとすると百五十キロくらいだから、この倍の大きさはない。高さ1メートル50センチくらいか。

 恵子は、

 

「それに水漿(飲み物)を入れても持ち上げることができないし、小さく切って柄杓にしても何も容れられない。」

 

という。

 それを聞いた荘子は「ならば大樽にして江湖に浮かべることでも考えたらどうだ」という。1メートル50センチくらいだと微妙な大きさだが、昔の中国人が今の中国人よりもかなり背が低かったとすれば人一人くらいは乗れるか。樽というからいわゆるヒョウタン型ではなく、丸い瓢箪で、盥舟のようなイメージなのかもしれない。

 まあそういうわけで、越人が珍碩から貰った「ひさご」は水漿(飲み物:ここでは酒)を入れるでもなければ大樽の舟を作るのでもない。恵子のようにどうしていいかわからず、ひさごの横でうとうとしていたら、誤って中に入ってしまった。これは「壺中の天地」への展開だ。

 「壺中の天地」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「(後漢の費長房が市の役人をしていたとき、店先に壺を掛けて商売をしていた薬売りの老人が売り終わると壺の中にはいったのを見、頼んで壺の中に入れてもらったところ、りっぱな建物があり、美酒、嘉肴(かこう)が並んでいたので共に飲んで出てきたという「後漢書‐方術伝下・費長房」の故事から) 俗世界とはかけ離れた別天地。酒を飲んで俗世間のことを忘れる楽しみ。仙境。壺中の仙。壺中の天。壺中。

  ※和漢朗詠(1018頃)下「壺中天地は乾坤(けんこん)の外 夢の裏(うち)の身名は旦暮の間〈元稹〉」

 

とある。

 「日月陽秋きらゝか」の「陽秋」は春秋のこと。最初の「木のもとに」の桜の発句に、

 

   木のもとに汁も膾も櫻かな

 西日のどかによき天気なり    珍碩

 

とあり、三十一句目には、

 

   月夜つきよに明渡る月

 花薄あまりまねけばうら枯て   芭蕉

 

と月夜の花薄が手招きしている。

 「雪のあけぼの闇の郭公もかけたることなく」は「疇道や」の巻二十五句目に、

 

   薄雪たはむすゝき痩たり

 藤垣の窓に紙燭を挟をき     珍碩

 

の句があり、ホトトギスと明記された句はないが、「亀の甲」の巻十四句目の、

 

   御簾の香に吹そこなひし笛の役

 寐ごとに起て聞ば鳥啼      昌房

 

の句にはホトトギスの俤がある。

 「なを吾知人ども見えきたりて皆風雅の藻思をいへり。」は「疇道や」の巻の二の懐紙の越人・荷兮両吟を巻いて、さらにこの序文を依頼されたということか。

 壺中の天地で乾坤の外だと思っていたら、いつの間にかその境界もなくこの「ひさご」に巻き込まれていて、「毎日此内にをどり入」と締めくくる。

 『荘子』ネタから入り、壺中の天地に行ってしまったかと思ったらいつのまにかその境界もなくなり、実は自分も一枚噛んでいたという所で落ちをつける。見事にしてなかなかに俳諧らしい序文だ。